「茶旅」カテゴリーアーカイブ

滇越鉄道で茶旅2023(2)突然ヤオ族村を訪ねて

少し離れた場所に古いお寺があるというので行ってみる。ここに祀られていたのは、あのフビライハンによる元寇で、モンゴル軍を撃退したチャン・フン・ダオ(陳興道)。彼はまさにベトナムの英雄であり、その名が付いた場所はいくつもある。またフビライが3回目の日本遠征に来なかった理由としてベトナムでの敗戦があったとも言われており、そうであれば、日本もチャン・フン・ダオには感謝すべきかもしれない。

また小高くなった場所には樹齢数百年という大木が枝を張り出している。ここにも精霊信仰があるようで、この地は元々この大樹を祭っており、そこにチャン・フン・ダオの廟が組み合わされた可能性もあるらしい。今や一大観光地として、ベトナム人が多くお参りに来ていた。

街中に戻り市場を訪ねる。勿論国境だから国を越えて持ち出される商品が並んでいるところもあるが、コロナ禍の今は往来も少なく、商売も低調に違いない。昔の国営市場かなと思える立派な建物が2つもあったが、お客は殆どいなかった。私は何となく地元の茶葉を探したが、売っていたのはタイグエンの緑茶ぐらい。地元の茶が欲しいなら家から持ってくるというおばさんもいたが、遠慮しておいた。

まだ朝なのにどこへ行けばよいのか。Nさんと運転手が会話を始めると驚くべきことが分かる。彼は24歳の若者だが、ヤオ族だというのだ。私がヤオに関心を持っている、近所に茶畑はないか、と聞くと『ある』といい、『折角だから昼ご飯は家で食べよう』と言い出す。そして決め手は『鶏を絞めよう』だった。これはもうこの話に乗るしかない。

彼はまず郊外の市場で野菜や豆腐を買った。ベトナムでは固い豆腐を『ドウフ』、柔らかい豆腐を『トーフ』ということに気づいてちょっと興奮する。市場で買い物について行くのは何とも楽しい。それから知り合いのところへ行き、既に絞められた新鮮な鶏を受け取り、準備が完了する。

突然ヤオ族村へ

車で30分ほど行った山の中。突然向こうからバイクに乗った女性がやってくる。何と彼の母親で食材を取りに来て、これから料理に取り掛かるらしい。我々はそこから山に入ると、本当にきれいな茶畑があって驚く。ここで作られている茶が烏龍茶だと聞き、ここは台湾系が植えたのかと思ったが、どうやらベトナム企業の持ち物らしい。そしてさっきのお母さんや彼のおばあちゃんは、昔からここで茶摘みをして、小遣いを稼いでいたようだ。だから彼も幼い頃から茶畑で遊んで育った。

そして運転手君の家に行った。山の斜面の狭い道を入っていくと、そこにあった。既に食材を持ち買ったお母さんが準備をほぼ終えていた。見ると、薪で火をおこし、スープが旨そうに煮えている。テーブルにはさっきの鶏をメインに、ご馳走が並んでいる。何とも旨そうな鶏だ。塩をつけて食べる。

運転手君のお婆さんという人が出てきた。私より4つ年下だが、何とひ孫がいるというから驚いた。それが横で遊んでいた運転手君の娘だった。運転手君の母親は、お姐さんにしか見えないが、40歳ぐらいということになる。お婆さんが『主人はもう亡くなったので、家の当主として、一献傾けたい』と言い出し、地酒をぐいぐいやりだした。Nさんが応戦するも、とても敵わない。

誰だか分からない人々が数人参加して、いつの間にか大宴会になっている。私はひたすら難を逃れながら、鶏肉を食いまくり、スープを飲み干していた。お婆さんは『私が若かったら日本に嫁に行きたかった』と言い出す。この山の中で一体どんな苦労があったのだろうか。私のような者には計り知れない歴史を持っている。

茶畑について聞いてみると、随分前に茶樹が植えられ、お婆さんもお母さんも茶摘みは何度もしていたという。お婆さんは『最近は足が痛くて辞めたが、いい小遣い稼ぎになった』と笑う。茶畑が村にやってきたことは、村人にとって良いことだったと分かり何となくホッとする。ただ彼ら自身に喫茶の習慣はないように見え、食後に出された茶も、茶葉ではなく、薬草のようなものだった。食後のミカンを頂き、周囲を散歩する。大きな池がある。水も大事だろう。

滇越鉄道で茶旅2023(1)夜行列車でラオカイへ

《滇越鉄道茶旅2023》  2023年3月1₋4日

ハノイ滞在から2日、今回のメインテーマである滇越鉄道に乗るため、ハノイ駅へ向かった。100年以上前フランスがレールを敷いたその意味はこの旅で分かるのだろうか。何となくワクワクする。

3月1日(水)夜行列車でラオカイへ

いよいよラオカイ行きの列車に乗る時間が来た。Nさんに迎えられ、隣のハノイ駅に入る。1階に改札があるように見えたが、そこは閉まっていた。中国のように15分前にならないと開かないのだろうと思い、駅舎内の見学を始める。多くの外国人がバックパックなどを担いで、エスカレーターで2階に上がっていくので、それについて行く。

するとそこからホームへ続く通路があり、階段を降りるといきなりホームまで来てしまった。そこには既に列車が停まっており、車内に人の気配さえある。自分の乗る車両まで来ると車掌がチケットを確認して、簡単に乗車できてしまった。まだ発車45分前である。車両内は全部コンパートメント、一等は2人部屋、我々普通は4人部屋だった。

その部屋は意外とおしゃれで、ランプなどもあり、寝るには十分だった。何しろこの旅は夜行(夜10時発、朝6時着)なので、車窓の景色もなく、途中下車することもない、何と寝るだけの旅なのだから、寝床は大事になる。Nさんが事前予約してくれたので、下の2つを抑え、ゆっくり寛げた。同室の白人とベトナム人は早々に上に上がり、思い思いに過ごしている。何だか中国の軟臥を思い出す。

けたたましい音が響き、アナウンスが繰り返される。この音が私の宿の部屋まで響いていたのだ。10時ちょうどに列車は動き出す。我々二人は歴史談義でかなり盛り上がり、12時前まで話し込む。トイレもきれいで、洗面台で顔だけ洗う。完璧な支度で寝に入る。夜は軽い揺れが続いたが、トイレに一度起きただけですぐに朝を迎えた。周囲は真っ暗で何も見えない。

3月2日(木)ラオカイの朝

午前6時、列車はラオカイ駅に入った。意外とよく眠れ、爽快感がある。気温は16度と少し涼しい。まだ陽は上っていない(というか、この日はずっと曇っていた)。ホーム脇の線路はかなり広めでゆったりとした駅であるが、駅舎は大きくはない。団体さんはガイドに伴われてバスに乗り、外国人などの個人客はサパ行バスの切符を買っている。

我々はNさんのアレンジで、運転手が迎えに来ており、取り敢えず車に乗り込み、朝飯を食いに行く。ちょっと郊外に出ると、道路脇に麺屋がある。バラック小屋のような店内には、いい感じの湯気が上がり、学校に行く前の小学生が親と一緒に麺を啜っている。ああ、こういう雰囲気の朝ごはんが食べたかったんだ。温かいブンボーに大満足。

それからラオカイに戻り、まずは中国国境を眺める。橋の向こうは河口(雲南省河口ヤオ族自治県)と書かれており、付近に建築中の高い建物が見える。さっき我々が乗ってきた鉄道は、100年以上前のフランス時代の産物で、橋を越え雲南側、昆明までに続いて行くようだが、戦後は分断され、現在中国側では貨物輸送しか行われていないと聞く。

国境付近にはかなり立派なお寺があったが、これは中国人観光客向けに造られたのだろうか?念のため国境の出入国管理ビルへ行き、『日本のパスポートで中国に入れるか』と聞いてみたが、『ビザを持っていなければダメ』と想定通りの答えだった。その付近のビザ代行業者に中国語で聞いてみても『ダメダメ』とはっきりした中国語で回答された。

ハノイ茶旅2023 その1(4)ハノイ初のメトロに乗る

どこの都市でも最初に鉄道が敷かれても、その駅まで行く交通手段に苦労する。私は歩いて行くことにしたが、宿から最寄り駅(始発駅)まで約3㎞の道のり。折角なのでふらふら散歩しながら行く。すぐ近くにその昔泊まったゲストハウスの場所を見つけた。勿論今はもうやっていないが、この付近は妙に懐かしい。

更に行くと孔子廟がある。今日は特別な日なのだろうか。卒業する幼稚園生?小学生などが記念写真を撮っている。中に入っても子供たちが多い。そこに紛れて外国人観光客も写真を撮っている。ここの展示を見ると、ベトナムの歴史の一端が分かってくるので、何とか頭に入れようとするが入らない。

途中メトロ路線の工事現場が出て来る。いくつもの路線が準備されているようだが、開通までにはかなりの時間が掛かっている。ようやく2A線の始発駅、カトリンまで辿り着く。この路線は2021年11月に開通したらしいが、周囲は雑然としており、乗客も多くはなかった。

駅のシステムなどはどこかの国と同じようであり、何となく機械で切符は買えてしまう。初乗りは8000ドンか。メトロだけれど、道路の上を走るのも、車両を見ても、近年のバンコクMRTとほぼ変わらない。これは中国が建設したらしい。小学生が社会科見学?で乗ってくる。出発すると道路沿いの建物がかなり近づく。モノレールを思い出す。

僅か2駅で降りた。そこからまた歩き出す。途中にHSBCの看板が見えたので、ここでタイの銀行カードを使ってドンを引き出してみる。ところがATM、最初は英語表示だったのに、なぜか途中からすべてタイ語になってしまう。タイ語が読めない私は困り果て、窓口の人にその旨伝えると、彼女もベトナム人だから首を傾げてしまう。ただ彼女は自分のスマホを持ってきて、Google翻訳を当てて、すぐに読み取り、作業は完了する。そして『外国に来るのだから翻訳アプリぐらい入れてね』と言われて、思わず恐縮した。確かに言うとおりだが、なぜタイ語になったのかは釈然としない。

ユニクロまではかなりの距離があり、しかもちょっと風情がある横道に入ると行き止まりが多く、なかなか進まない。立派なお寺などもあるが、漢字が書かれているのはどこか別の国の人が建てたのだろうか。何だかタイ語のような文字が見えたり、仏歴だけが読めたりする。

ユニクロの入っているビル前は道路工事中で、なかなか近づけないというおまけ付き。ようやくビルの中に入ったが、ユニクロ店舗にほぼお客はいなかった(平日の午前中だからだろうか)。そしてヒートテックは恐らくベトナム製なのだが、日本より高い。まあ凍え死ぬより良いと、先ほど引き出したドンで支払う。

そこから宿まで引き返したが、かなり疲れてしまい、また道に迷う。迷い込んだ道を抜けると、そこはさっき歩き始めた付近。確かこの辺にブンチャー屋があったはずと、探してみると、ちゃんとあるではないか。しかしお客が押し寄せており、席が見付からない。それでも店の人が何とか一席空けてくれ、ようやくブンチャーにありつく。この店、昔は外国人が多かったが、今やベトナム人が来るらしい。これが食べたかったんだ!美味しく頂き、大満足。

宿に帰って完全休息。普通チェックアウトは12時だが、Nさんが更に半日分を払ってくれており、『ここは鉄道ホテルだから、列車の出発までは居て大丈夫』というので、ゆっくり過ごす。何だか日本人の大家族(祖父母、父母、孫たち)が3部屋ほどを使っており、ドアを開けたまま、大声で話しているのはちょっと気になる。煩いのは中国人だけではない。

夜になるとやはり腹が減る。列車に乗ってもすぐに寝てしまうはずだから、腹ごしらえは必要だ。外に出て食堂を探すと、ちょうど総菜が出ている食堂があり、料理を手で指して注文する。何だかキャベツが柔らかくてうまい。見ているとスープを飲んでいる人もいたので、それを指さすと『大丈夫か?』という表情で提供された。これはちょっと酸っぱい、タイ北部にもありそうなスープ。美味しく全部平らげても、ブンチャーと同じ値段だった。

ハノイ茶旅2023 その1(3)ハイフォンを歩く

実はこの鉄道は、1902年にフランスが建設を始めたもので、昆明までの全線が開通したのは1910年らしい。滇越鉄道と呼ばれ、フランスの中国侵略、貿易などの目的をもって作られた植民地時代の産物だった。ただ残念ながら、現在はハノイで分断され、フランス時代の名残は、到着したハイフォン駅に僅かに見られるだけだった。

駅前から、タクシー運転手の勧誘を振り切って、街に歩き出す。まずは腹ごしらえとばかりに、名物の麺の店を目指す。「バインダークア」、さとうきびで色付けした茶色く平たい麺と海鮮風味のスープが特徴。もう一つの名物、大きくてカニ肉たっぷりな四角い揚げ春巻きを同時に食す。これは美味い。そして店は満席、超人気店だった。

ハイフォンには古い町並みが残り、その規模も歩くのにちょうどよい。フランス統治下時代に建てられたコロニアル建築、ハイフォン市民劇場は、何となくホーチミン廟の小型版のように見える。1912年建造。その前の広場では、反仏運動なども行われていただろう。そこから港までは1㎞ほど。古い建物がいくつも残っている。

だが案内された港の横には、螺旋状の新しい橋が架かっており、周囲を見ても古い港感はまるでない。川沿いに少し歩くと港湾管理局が見え、税関もあったが、フランス時代を想起させるものではなかった。その前には広場があり、市民の憩いの場となっていた。その向こうには近代的な高い建物も見えるが、近くにはフランス時代の建物が今も銀行などに利用されている。

歴史博物館にも寄ってみた。ここの展示は、ハイフォンの歴史が良く分かり、興味深い。ハイフォンの歴史的重要性が示され、今回私が興味を持っている滇越鉄道についても触れられ、100年以上前のハイフォン駅の写真も掲示されている。港町らしく、指導者らの往来も激しくあり、ベトナム現代史が身近に感じられた。入場無料は嬉しい。

どうやってハノイに戻るか。また鉄道に乗っても良いが夕方6時台しかない。ズンさんが『自宅まで送ってくれるバスサービスがある』というので、予約してもらった。料金は鉄道の2倍以上だが、ロンビエン駅から宿まで行く手間などを考えると存外安いのかもしれない。ピックアップの時間まで近所のカフェでマンゴージュースを飲んで待つ。

待ち合わせ場所に車が迎えてきた。その車でハイフォン郊外まで連れていかれ、そこでまた9人乗りのバンに乗る。このバンは車体がかなり良く、座席も快適だった。これで高速道路に乗ると1時間ちょっとでハノイ郊外まで来てしまう。車窓からは、旧市街地とは違い、高層ビルが建つハノイ郊外の発展ぶりが見られた。

高速を降りると、多くの車が停車している場所で停まる。ここに集められた乗客は、各自の家の方角により、また車を振り分けられていく。私とズンさんは同じ方向なので助かる。さすがにこのバスサービスを利用するにはベトナム語が必要だ。昔台湾の田舎へ行く時に乗った村人専用タクシーを思い出す。かなり効率の良いサービスだ。

午後6時台だが、ハノイは思いの外渋滞もなく、無事宿に着いた。一度宿に落ち着いたら、急に腹が減ったので近所で麺屋を探す。路地にひっそりと営業していた麺屋で、チキンフォーを食べる。ハノイの旧市街、どう見てもここを再開発することは難しいだろうから、この街はずっと私の思うハノイのまま残りそうだ。

3月1日(水)ハノイ初のメトロに乗る

本日はいよいよラオカイ行の列車に乗る日だが、その出発は夜の10時。それまでハノイの散策を続けることにした。そしてラオカイから山へ入るためには、ある程度の防寒装備がいるとNさんに言われたので、ヒートテックを買いにユニクロへ行くことにした。ただ歩いて行くのも詰らないので、ハノイ市内で初めてできた鉄道に乗ってみる。

ハノイ茶旅2023 その1(2)ハイフォンへ

すぐに外へ出た。宿を出たところに、おじさんたちが屯しており、皆で茶を飲んでいる。この光景、特に変わりはない。どうやら駅で客待ちしているタクシー運転手のようだ。そこから適当に歩いてみたが、そこかしこでお風呂椅子に座り、茶やコーヒーを飲んでいる人々に出会う。昔と変わらない風景が何だか嬉しく、そして懐かしい。

変わらないと言えば、交通事情。所々に信号はあるものの、道を渡るのは大変だ。横断歩道で待っていても、車が止まってくれることは稀であり、自力で車の間を縫って向こう側へ行かなければならないのは、安全に慣れた日本人には辛いだろう。だが中国で昔鍛えた私などは、返ってこの状況は好ましい。交通ルール無視で、自らの感覚を信じて、相手との呼吸を合わせて渡るのは、実は慣れていれば意外と爽快である。

ふらふら散歩していると、ホアンキエム湖までやってきた。このあたりの風景もさほど変わっていない。20年前家族旅行で来た時に見たパペットショー、今もやっているようだ。違うのは料金だろうな。観光客が多く歩く道に出ると、そこも昔とあまり変わった様子はない。古い町並みは残り、まるでコロナ禍などなかったかのようだが、どうなのだろうか。

一旦宿に帰る。午後6時に今回アレンジをお願いしたNさんが来てくれて、近くのレストランで食事をした。このレストランは結構凝っていて、そして新しい。今晩は冷えるので、鍋を頼んだ。昼間外へ出た時、私だけが半袖シャツを着ており、ハノイ人は皆、冬の装いだったのは、衝撃的だった。20度を越えていれば少なくとも冬ではないと思うのだが、ハノイは今、冬なのである。

切った生野菜を皿に入れ、ドレッシングをかけて手でかき混ぜたサラダ。鍋もスープが濃厚でなかなかのお味だった。内装なども凝っていて、料金も手ごろということで、ハノイの若者が多く出入りしている。Nさんとは歴史の話などで大いに盛り上がり、今後のラオカイ行がどんどん楽しみになってきた。帰りにコンビニを探したが見つからず、その辺の店でコーラを買って帰る。

2月28日(火)ハイフォンへ

朝4時、けたたましい音で起こされた。何と隣の駅で大音響のテープが繰り返し回り、うるさくて眠れない。まるでイスラム圏の朝、モスクから響くアザーンのような響きだ。鉄道オタクの人にはこれもまた一興かもしれないが、私は困る。そして断続的にホーチミンから列車が到着し、この騒音は6時のハイフォン行まで続く。少し眠い目をこすりながら、宿の朝食を食べる。粥と目玉焼きでよい。

ハイフォン行の列車は先ほど6時発がハノイ駅から出て行ってしまった。その次の列車は9時30分だが、何とこれはハノイ駅のお隣、ロンビエン駅から出るという。折角駅の隣の宿に泊まり、朝の騒音にも耐えたのに、とは思ったが、これもまた旅。面白がって歩いてロンビエン駅へ向かう。

ロンビエン駅までは3㎞以上あり、意外と歩く。途中には鉄道の線路があり、ハノイの写真スポットになっている。また葬儀の現場にも出くわし、立派な黒塗りの車の上に、観音様が立っているのにちょっと驚く。駅の周囲は城壁があり、少し高くなっている。フランス時代の小さな駅舎が見え、その先には紅河に有名なロンビエン橋が架かっている。

ここで旧知のズンさんと待ち合わせた。ズンさんは少し太ったようだが、元気そうだった。もう一人日本人女性が合流するというが姿を見せない。ズンさんに切符を買ってもらう。列車の車両はあるが、直前まで写真が撮れない。10分前にようやく乗車が許され、乗客がどんどん乗って行く。車両は思ったよりきれいで、広い。外国人も結構乗っている。一日4本しかないので通勤用ではない。

ほぼ満員の乗客を乗せて、定刻に出発。すぐに橋を渡る。車窓からは田舎の風景が続いて行く。時々駅で停車し、多少人の乗り降りがある。水が一本貰え、スマホの充電もできるので快適ではある。外気温は22度で暑くもなく、ちょうどよい。結局2時間半ほどで、目的地ハイフォンに到着する。

ハノイ茶旅2023 その1(1)閑散とするスワナンプームとノイバイ

《ハノイ茶旅2023 その1》  2023年2月27₋3月1日

昨年中国の習近平が3期目の政権運営を決めた。その後最初に習に会った外国要人はベトナム共産党のグエン・フー・チョン書記長だった。この会談の中で『滇越鉄道』という言葉が出たと聞き、非常に興味が沸く。フランスが100年以上前に建設したハイフォン‐昆明間の鉄道、どうしても乗ってみたくなり、ハノイへ行くことになった。

2月27日(月)ハノイ到着

そもそも今回のハノイ行は、昨年11月頃に一度計画した。ところがベトナム入国に際して、海外旅行保険加入が義務付けられているとの情報があり、断念した経緯がある。今年に入って、いつの間にか加入義務が緩和??(いや、昨年から規定上にはあったが、確認はされていなかったらしい)と分かり、計画を練り直す。

ところがチェンマイでバンコクーハノイ行の航空券をネットで購入しようとしたら、何故かクレジットカード決済が出来ずに困る。3日間、カードを変えてやってみても出来ないので、仕方なくバンコクのYさんにお願いして、購入してもらった。最近は決済できないと表示されて、実際は3回も同じ航空券を買わされ、しかも払い戻しされないケースもあると聞いている。私の場合は最悪のケースではなかった。PCの問題ではないかと思うのだが、原因ははっきりしない。

昼過ぎのハノイ行に乗るのに、朝8時台に宿を出たのは、最近乗客が異常に増えて空港が大混雑していると聞いたからだった。朝は道路も混んでいるためタクシーには乗らず、MRT+空港線を使うと簡単に着いてしまった。ベトナム航空のカウンターは3時間前しか開かないが、預け荷物無し、Webチェックイン済みだと、出国手続きに進めたのは何とも有難い。

覚悟して臨んだ出国手続きだったが、荷物検査がすんなり通り、イミグレにもそれほど人は並んでいなかった。何と合計20分ちょっとで出国完了。フライトの出発時間までまだ3時間以上あるという異常事態になってしまった。仕方なくトイレに行こうとしたら、かなりのトイレが閉まっており、トイレ探しで右往左往した。それから椅子に座ってじっとしていたが、午前中の空港は驚くほどに閑散としていた。

ようやく搭乗。何となく広東語が多く聞こえてくる。どうやら香港人がハノイ経由で帰国する便らしい。80%以上埋まっていたのは、そういう乗客を集めたからだろうか。2時間のフライトだが国際線なので、ちゃんと食事も出る。あのハノイの渋い緑茶が出てきて、更には機内誌に茶畑の写真を見るとテンションが上がる。

フライトは順調に到着。入国審査も混んではおらず、何も聞かれず、昔と同じ2週間の滞在が許された。両替所を探すと、10か所以上あり、近頃は目も悪いので、どこのレートが良いのかよく分からない。適当に選んで両替し、更にシムカードも購入しようとしたが、お姉さんの対応がとても悪くてびっくり。止めて他へ行くというと、途端に愛想よくなりまたビックリ。

空港は以前と変わっていない。6年前はタクシーを探したが、いまやGrabの時代だ。運転手らしい人々が次々に声を掛けて来るが、すべて無視してGrabの配車を待つ。30分、32万ドンが安いか高いかは分からないが、安心安全な雰囲気がよい。以前のベトナムでは、タクシートラブルが何度もあり、それがないだけでもあり難い。Kiaの小型車が来たのは、如何にもベトナムらしい。

ベトナムの経済成長という話が良く出ていたが、コロナ中は止まっていたのか、道路工事が各所で行われていた。旧市街地に入ると見慣れた光景が出てきてホッとする。宿はハノイ駅の横、何の問題もなく到着した。今回の旅は基本的に同窓のNさんにアレンジしてもらっており、このホテルもこれからラオカイまで列車に乗るのに好都合ということで選ばれた。部屋は広くて快適そうだが、さすがベトナム、外の騒音はかなりある。

静岡茶旅2022(3)磐田 赤松茶園を調べる

12月22日(木)掛川で

翌朝はゆっくり起きて、掛川城の周辺を散歩する。前回見付けていた石碑をもう一度確認する。山田治郎蔵とはどんな人物か。興味が更に沸く。そして報徳会に行ってみる。堂々とした門を入り、立派な木造建築を眺める。さて、見学しようかと踏み出すと、何と本日はイベントがあり、見学できないとある。

仕方なく、事務所へ行く。そこで『報徳会と茶』に関する資料などはないかと聞くと、親切にも冊子をくれた。更に昨日会ったMさんのことを思い出し、話に乗せてみると、更に色々と対応してくれる。実はここの社長は先日訪ねた鷲山医院の一族の方と聞いたが、あいにく不在で会えなかった。吉岡弥生と松本亀次郎について、尋ねられれば良かったが、何しろこちらが突然お邪魔したので、何ともし難い。

またお城は眺めるだけにして、駅へ向かう。前回同様コメダでモーニングでも食べて、お土産を買って、などと考えていたら、何と停電とのことで、駅の店は閉まっていた。復旧の目途も立たないという。やむを得ず、電車に乗り、磐田へ行く。前回は何と磐田駅に着いたものの、どこへ行くのかを忘れるという失態を演じた。今日はしっかり狙いが定まっている。

磐田で

駅前からバスに乗って図書館へ向かう。ところがこのバス、発車する前に運転手が威嚇的?な口調で『バスに乗り慣れていない人は早めに運賃を用意して。お釣りは出ないし、停車してからの両替は迷惑』といった感じでアナウンス。そこで出発前に『図書館まではいくらですか?』と確認したところ、『いや、それは?まあ、150円ぐらい用意しておいて』と情けない返事。勿論Suicaは使えず、不便この上ない。

15分ぐらい乗って図書館に到着する。ここには赤松則良ら赤松家の蔵書が寄贈された赤松文庫があると聞き、早々見に行ったが、蔵書を見ても、茶畑のことが分かるわけではない。そこで郷土史などの資料を探すと、かなり赤松家について調べられたものがあり、早々にコピーを取る。更に図書館の人に『赤松家の茶園の場所』などを聞いてみると、専門の方に問い合わせてくれ、何と午後その方がここへ来るので直接話が聞ける、というではないか。折角の機会なので午後まで待つことにした。

すると係の人が『この辺、ランチを食べる場所が無くて。一か所あるので聞いてみましょう』とわざわざ確認の電話をしてくれた。それではと、そこへ昼を食べに行く。結構しっかりしたお店でちょっとひるんだが、料亭と一般に分かれているようで、一般の方に入ってみた。中は天井が高い、木造で雰囲気が良い。しゃも鍋が美味しいというので、それを頼み、更に天ぷらまで注文してしまった。まあ、年の暮れ、一人忘年会だ。

しゃも鍋は赤みそ仕立ててで、非常に濃厚。そして何よりしゃも肉に歯ごたえがあり絶妙に美味い。更に揚げたての天ぷらを食えば最高だ。ふと見るとこの建物の外に何やら胸像が見える。何とここは赤松邸の敷地内に作られていたのだ。隣の旧赤松家の見学に移る。まずは門が立派。城の城壁のような煉瓦造りだ。

中に入ると先ほど見えた赤松則良の胸像がある。日本造船技術の先駆者と書かれているが、その説明書きの中にも、磐田原の茶園開拓について語られている。土蔵に入ると赤松家の詳細な家系図や資料が展示されていて興味深い。ここは戦後初代磐田市長になった則良の孫が市に寄贈したらしい。また記念館では係の方に案内して頂き、赤松茶園などの説明を見る。

そこから図書館に戻り、赤松家について研究されているKさんにお目に掛かり、赤松茶園の詳しい場所などをご教示頂いた。赤松がなぜここに茶園を作り、その後どうなったのかなど、郷土史ではかなり鮮明に調べられていてとても有難い。ただそれでも最近は磐田の方でも赤松を知る人は少なくなっているという。

磐田駅まで戻り、JRで掛川へ行く。ここから新幹線に乗って帰ろうと考えていたが、駅の停電が一部解消されており、土産物屋が1つ開いていたので、そこで買い物をする。ただ私が前回気に入った森町の蒸し栗羊羹が買えなかったのは、何とも心残りだった。それを引きずってしまったのか、新幹線に乗る所をまた在来線ホームへ行き、ちょうど来た興津行に乗ってしまった。

車内は混んでいたが、1席空いていたので座ってボーっとしていた。気が付くと日が暮れた興津駅。後続の熱海行まで、またボーっとしている。熱海まで来ると腹が減り、違うホームにある立ち食いそば屋へ駆け込む。かなり冷えてきたので、カレーうどんを食べると、何だかすっきりした。そして小田原で、急にロマンスカーに乗りたくなり、切符を購入する。だがなぜか町田までしか買わず、初の夢のロマンスカーは僅か40分で終了した。同時に今年の旅も終わりを告げた。

静岡茶旅2022(2)森町と台湾の繋がり

12月21日(水)森町へ

朝はゆっくり目覚め、静鉄で県立図書館へ向かう。先月も行ったばかりだが、やはりここで資料を漁るのが一番早いと感じる。今回は前回とは異なる資料を入手して満足。時間になり、宿へ戻り、荷物を取りだして駅へ。また腹が減ったので、ホームでそばを食べる。時間がない時、ちょっとお腹が空いた時、何とも便利な食べ物だ。

また掛川駅へ行く。先月のホテルがあんまりだったので、今回は馴染んだ宿を予約した。ただ駅から少し離れているので、荷物を持っていくのが大変。それでも掛川付近のよい散歩になり、古い建物などを見ながら楽しむ。山内一豊は掛川城主だった。チェンマイのコーヒーを出す店もあったが、今日は休みのようだった。

掛川駅に戻り、天竜浜名湖鉄道に乗って森町へ向かう。森町に行くのは2017年以来6年ぶりだろうか。前回は掛川からでなく、豊橋に近い新所原駅から乗って、1両列車にずっと揺られたのが懐かしい。ちょうどあの年は大河ドラマ『あんな城主直虎』で、沿線が盛り上がっていたように思う。今回は掛川から約30分のみ、料金480円。

相変わらず1両列車、1時間に一本程度運行されている。乗客も多くはない。遠州森という駅で降りず、次の森町病院前で下車。ここは前回も来た役場があるが、今回はその向こうにある立派な建物、森町文化会館を訪ねた。ここで館長のMさんと、お知り合いのYさんが待っていてくれた。

Mさんとは、藤江勝太郎のご縁で知り合った。今日もその後の藤江研究の成果をご披露頂き(Mさんは各所で藤江について講演している)、その進歩に感激した。台湾製茶試験場を作り、初代場長となった藤江は森町の名家出身。森町と台湾の繋がりは尋常ではなく、台湾製糖初代社長鈴木藤三郎もここの出であり、台湾の三大輸出品の内2つのトップは森町出身だから、これは驚くしかない。台湾製糖との交流は以前より行われていたが、最近は台湾茶業改良場などとの交流も始まっているようで、何とも嬉しい。

その後Mさんの車で歴史民俗資料館に案内してもらう。ここは以前も来ており、初めて藤江の顔写真と対面した場所でよく覚えている。見てみると展示品が増えている。何と藤江が森町に設立した日本烏龍紅茶株式会社で使われた製茶道具や蘭字まで揃えられており、驚く。Mさんたちの努力には敬意を表したい。また鈴木藤三郎と藤江の交わりも何となく見えてきて面白い。

更に車で案内されたのは、前回私を案内してくれたKさんの家。Kさんは当時役場職員であったが、郷土史研究家でもあり、かなり深く歴史を調査している。今回も地元の茶商などについて教えを乞う。Kさんとお別れし、最後に日本烏龍紅茶の茶工場があったと目される川沿いの場所まで連れて行ってもらった。今や何も痕跡はないが、ここまで分かってくるとワクワクしてくる。

文化館に戻り、Mさんとお別れした。Yさんが『もう少し案内しましょう』と言ってくれ、今度はYさんの車で庵山へ向かった。ここには村松吉平の碑がある。吉平は明治初期横浜の茶貿易で活躍した森町出身の茶商。地元に紅茶製造所をいち早く作ったほか、相良油田採掘事業に取り組むなど、興味深い人物である。

そしてもう一つ。浪曲『森の石松』と遠州森の茶の碑がある。これは昭和初期の不況下、森町の茶を売り込むために、『遠州森町良い茶の出処』と人気絶頂の浪曲師広沢虎造に謳わせた名曲を記念している。更にその横には形の良い観音様がある。何と鈴木藤三郎が作らせた4体の内の1体がここにある。そしてもう1体は台湾製糖にある(残り東京の鈴木邸及び鎌倉別邸の2体は所在不明)というからすごい。こんなところにも日本と台湾の交流がさりげなくある。因みに藤三郎も明治初期は茶貿易に従事したことがあるらしい。

誠にありがたいことにYさんが掛川まで車で送ってくるという。既に周囲も暗くなっていたので、どこかで夕食でもと思い、思いついたのが先月久しぶりに訪ねた、さわやか、だった。今回は前回と別の店に行く。ちょうどタイミングが良かったのか、今日はほぼ待たずに席に着いた。

ハンバーグを食べながらお茶談義に花が咲く。Yさんも中国留学組であり、中国、台湾事情なども話題となる。何だかとても楽しくて、ついついデザートも頼む。ミカンとほうじ茶プリンを食べ、コーヒーを飲みながら、話はどんどん弾んでいく。かなり長居してしまい、気が付くと周囲にお客さんがいなくなっていた。

静岡茶旅2022(1)聖一国師墓所へ

《静岡茶旅2022》  2022年12月19₋21日

ワールドカップの64試合目はPK戦までもつれ、アルゼンチンが勝った。その時点で夜中3時だった。そこから寝て、起き上がるともう午前9時。ゆっくりと静岡へ向かう。今年最後の旅が始まる。

12月19日(月) 静岡 聖一国師墓所へ

先月も行った静岡。ちょっとやり残したことがあったので行ってみる。ということで今回はゆっくり在来線で静岡入りする。到着したのは午後2時。今日の宿は静岡駅の真横、ちょっといいホテルらしい。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれる。

まずは荷物を預けて、すぐに横のバスターミナルへ。 蕨野というバス停へ行くバスを検索するが、乗り場が多過ぎて良く分からない。案内所があったのでそこで聞いて何とか辿り着く。しかし1つのバス停にも何台ものバスが次々来るので結局よく分からない。すると地元の方が親切に教えてくれる。こういうのがとても有り難い。

随分昔に梅ヶ島というところへバスに乗っていたことがある。今日のバスも恐らくはその路線を走っている。前回は土曜日だったが、今回は平日。途中から小学生が沢山乗ってきた。バス通学の子が結構いるようで、先生が見送りに出ていた。静岡市というのは市町村合併もあってか、何とも広い。今回は結局バスに1時間揺られて、ようやく目的地に着いた。

そのバス停の横には茶畑があり、説明書きが建っている。『本山茶の茶祖 聖一国師墓所』と書かれている。鎌倉初期に宋に渡り、多くの文物を持ち帰った国師は、ここの出身であり、伝承として持ち帰った茶の種をこの地に植えたとある。その真偽は別としても、この地が茶栽培に優れていたことは確かなようで、本山の名を付けている。

墓所は軽くスロープを上がったところにあった。ここにはお寺はなく、斜面にお墓がいくつも並んである。国師の墓を探したがよく分からない。手前に小さな石碑があり、その前に聖一国師と書かれているのがそうだろうか。付近に人の気配もなく、確認することもできない。安部川の向こうにも茶畑が見える。

帰りのバスにはかなり時間があるので、安部川沿いに少し歩いて戻ってみる。冬枯れなのか、川には水が少なく、すすきの穂がなびく夕暮れ、川岸では何やら工事が行われている。ここは雨量が一定を越えると、通行止めになるとも書かれている。更に行くと、川につり橋が掛かっている。ここを渡るとずっと遊歩道が続いているらしいが、私はつり橋が大の苦手で眺めるだけ。

結局バス停2つを数十分かけて戻り、そこでバスを待つ。ここから乗ったのは私以外に1人だけ。何とも寂しい。だがどんどん静岡駅が近づくと乗客が増え、いつの間にか立っている人が多数になる。最後は多少の渋滞もあり、行きより時間が掛かって、暗くなって駅に戻った。

そして宿にチェックインしようとしたら、結構な行列で驚く。時間帯が悪かったらしい。それにしてもフロント業務の効率が悪いと感じる。ようやく私の番が来たが、マスク越し(防御パネル越し)で会話が通じず?何度も同じことを確認され、嫌な思いをする。折角いいホテルに泊まったと思ったのに、部屋も狭いし、ちょっとガッカリ。

それでも旅行支援クーポンをアプリに入れ、いざ出陣!今晩はすぐ横の回転ずしに行く。まだ早い時間だったが、次々にお客がやってきて席が埋まっていく。私は食べたい物だけどんどん注文し、バクバク食べて引き上げる。酒を飲まない客は早く帰るのが良い。帰りにドラッグストアーで買い物しても、クーポンが使えるので何とも嬉しい。

静岡歴史茶旅2022(4)袋井 松下コレクションと可睡斎

袋井駅まで行き、バスに乗る。このバスは現金のみ。小銭の用意が何とも面倒だ。しかもあいにくの雨。何とか浅羽支所に着く。週末は脇から入りエレベーターで3階の松下コレクションへ。すぐに松下先生が登場され、30分ほど懇談。先生は92歳とは思えないお元気さ。私がこの1年で立てた仮説に対して、ダメ出し連発でかなり参ってしまった。やはり単に頭を捻っただけでは分からないことが多い。

そこへ突然IJさんが登場して驚いた。しかし考えてみれば、今日は松下先生の講演がある日だから、いてもおかしくない。彼女も交えて更に話が弾む。更に松下コレクションの貴重な展示品を少し見て写真に収める。そうこうしている内に、時間になり、セミナー会場へ移動。途中に小学生が書いた『税の習字』が目を惹く。小学生の納税洗脳教育か。すごいな、日本。

松下先生のセミナー、お題は番茶。2週後に番茶大会も開かれるらしい。日本の番茶、もう一度見直して、整理した方が良いと常々感じているが、そういうムードが出てきた、ということなのだろうか。セミナーには知り合いが数人参加しており、先日のエコ茶会であった人もいた。やはり知りたい人はここまでやってくるようだ。

セミナー終了後、IJさんが『李鴻章関連の場所へ行かないか』と誘ってくれた。静岡と李鴻章、全く結び付かないので気になって行ってみる。T議員のご案内で、INさんも同行した。その場所は可睡斎。李鴻章と佐藤進ゆかりの寺と聞き、思わず佐藤進に反応したところ、T議員に『佐藤進を知っているのか』と逆に驚かれた。佐藤進は順天堂の三代目で、陸軍軍医総監、天皇の命で、暴漢に襲われた李鴻章の手当てをした。そこに活人剣の逸話が生まれ、ここ可睡斎に記念のモニュメントが作られた(可睡斎の僧侶と佐藤にご縁があったらしい)。

可睡斎は思ったより大きいお寺。聞けば曹洞宗でも相当格式が高い。先ほどの李鴻章、活人剣の逸話の他、家康ゆかりの寺としても知られるなど、その歴史を十分に感じさせる風格がある。中を見学させて頂くと、すごく広い。『日本一の東司』というのもあり、また善光寺を思わせる地下道?もある。何とキューバ出身の坊さんがいて驚く。

帰りもT議員に車で送ってもらう。議員の家に寄り、李鴻章関連の資料を頂戴する。活人剣モニュメント復活のため、募金活動を行い、わざわざ李鴻章の故郷安徽省、佐藤進の佐倉まで出向いて、彼らについて学んだというからすごい。郷土の歴史というのは、このような熱心な方に支えられて続いて行く。そして我々もそれを利用させて頂く。有難いことだ。

3人で掛川まで行く。もう夜なので夕飯を食べようとなり、駅前の居酒屋へ入る。私は酒を飲まないし、一人で居酒屋へ入る機会などなかったが、偶然入ったその店の焼き鳥は大きくてうまい。パイナップルサワーは自ら搾るという面白さ。結構新鮮な驚き。居酒屋飯は意外と野菜も取れて、定食屋より、よいかもしれないと思う。今度は一人で入ってみようか。

食べて飲んでいる間も、お茶の歴史や製法、品種などのお茶談義が続き、午後8時になってしまった。名残惜しいが私はこだま号に乗って東京へ帰る。涼しい風が何となく心地よい駅のホームだった。暇なので車内を見学していたら、変なスペースがあった。見れば『廃止された喫煙ルーム』だった。新幹線って、去年まで喫煙できたのか、すごいな、日本。さあ、これからワールドカップの連戦だ。気合を入れよう!