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ミャンマー決死行2014(8)ミョーテイ 酸っぱい夕飯と急病人

酸っぱい夕飯

村の集会場に戻り、ラペソーと緑茶を頂く。私はこの村を紅茶作りの村と勘違いしたため、お土産にスリランカとタイ産の紅茶を持ってきていた。それを渡すと、皆興味津々、さすがに茶作りの人々で、すぐにコップに入れて、茶葉と味、色を確認、色々と話合っていた。村では紅茶が作られているが、彼ら自身が作っている訳ではない。もしやすると『紅茶の方が売れる』と感じているのかもしれない。

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そして村人たちと記念写真を撮る。すっかり打ち解ける、というには2日間はあまりに短いが、少なくとも怪しい者ではない、お茶が好きだから来たのだ、という認知は得たのではないだろうか。そのまま村外れに歩いて行く。何となくパゴダが見えたので行ってみた。パラウン族は仏教徒なのである。何故仏教徒かと聞いてみてもよく分からない。少数民族で仏教徒、というのは多いのだろうか?ミャンマーに移住してから仏教に変えたのだろうか。

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とてもいい景色の場所にパゴダがいくつかあり、その向こうには廟がある。そこに神から茶樹を授けられた伝説が祭られていた。あとでネット検索すると12世紀頃とあったが、それはパラウン族全体の歴史なのだろう。同じ民族でもその足跡、歴史はかなり違ってくるはずだ。もしここのパラウンの人々がチベット近くから来たのなら、パラウン全体もその付近の出なのだろうか。雲南の山の中で何があり、茶とどのような関係を持ったのか、パゴダは何も教えてはくれない。

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夕暮れ時、子供たちが仲良く遊んでいた。よく見ると外に放置されたラペソーの袋の上に乗っている。彼らが漬物石の役割を果たしているのだろうか。そういえば鶏が乗っている袋も見たが、軽すぎるだろう?何とも微笑ましい。

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夕飯は宿泊先で提供されたのでそこの主人と食べた。食べてみて良く分かった。野菜炒めも、スープも勿論漬物も全てが酸っぱいのである。これがパラウン族の普通の食事ではないかと思う。山の中、保存食は当然発酵している。これはいい経験をした。村長たちと食べるとお客さん用に中華系の美味しい食事を出してくれるのだが、それでは村の暮らしは分からなかった。確かに外から来た者にはちょっと食べ難いとは言えるが。特に私は酸っぱい物がちょっと苦手。

 

あとで村長の息子がやって来た。『何でここで食べているんだ?』ということになってしまったらしい。どうも双方の意思疎通がかみ合っておらず、ここの主人の勘違いで食事が出てしまった。こんな偶然が喜ばしい。だが、この夜、事件が起こっていた。

 

11月3日(月)

急病人

昨晩に続き、夜中に一度起きたが、何も気が付かなかった。何となく微かに物音がしたような気はしたが、目が覚めると周囲は明るくなり、普通の朝を迎えていた。外で顔を洗いさっぱりして戻ってくると村長が来ていた。神妙な顔で『実はこの家の主人が昨晩発作を起こしたので、急遽チャウメイに搬送した。あんたらは気にしなくてよい』というではないか。

 

え、昨晩我々と普段通りにご飯を食べていた彼が、病気?下では奥さんと幼い子供が普段通り朝食の支度をしていたが、あれは我々に気を使わせないためだったのだろうか。それとも村ではどうにもならない、という諦めだったのだろうか。それにしても発作で搬送、と言っても、この山道、しかも車なしでどうやって運んだのだろうか。バイクの後ろにただ乗せても振り落とされてしまうはずだ。恐らくは更にもう一人が乗り、サンドイッチにして運んだのではないかと思う。

 

この村には医者はいない。このような急病には全く対応できない。酸茶などを飲んでおり、自然な暮らしをしているので『この村の寿命は長いでしょう』と昨日聞いたが、村長が『決してそんなことはない』と言い切ったのを思い出す。健康を保っても、緊急対応できずに命を落とすことがある。特に子供は大変だと聞いた。環境の良い村で暮らす、事の厳しさを思い知らされた。それにしても彼は大丈夫なのだろうか。心配だ。

 

ブランコを発見

今朝もカオソイを食べに行く。もうこれがあれば他は要らない。不思議なほどに美味いし、飽きない。私の先祖はビルマ系、とよく言われたが、実はビルマに住む山岳民族ではないか、と思うほど、ここにも馴染んできた。だが、それも今日でおしまい。もうすぐここを離れることになっている。

 

最後に村を一周した。お寺では相変わらず朝から大音響の経が聞こえてくる。仏教は昔こんなことはしていなかったと誰かから聞いた。イスラム教が朝から大音響を出すので対抗上、始めたと言われたが、それならこの静かな村には不要のはず。大声が聞こえると、それが仏教の危機感を表わしている、と聞こえてしまうのは私だけだろうか。

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そのお寺の横には大きなブランコのように見えるものがある。これはタイのメーサローンの祭りにもあったし、インドのダージリンの茶畑の脇にもあった。実に興味深いものである。山岳民族特有の、いやもしやすると、茶葉を伝承している民族特有の祭事ではないのだろうか。もしそうであれば、茶の伝承に一端を見ることができるのだが。これも検証できないかと思う。

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ミャンマー決死行2014(7)ミョーテイ 村の歴史は200年なのか

茶畑と茶摘み 村の歴史

茶工場の脇では子供たちが大縄跳びをしていた。何だか原風景?を感じる。村へ戻ると、道に牛がいた。先ほど見た牛は乳牛、または肉牛だったが、こちらは荷運びの牛。『昔は牛が坂を降りて茶葉を運んだ』と村長が言う。あの坂を牛が・・牛は凄い。馬やラクダの話は中国でよく聞いたが、茶葉が牛によって運ばれる、まだまだ世界は広いな。

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それから一軒の家に入ると、そこは茶工場。と言っても小規模で、家内工業だ。村で作られる緑茶を一番作っている家、ということで訪問となったようだ。古い製茶器具を使い、緑茶を作り、ラペソーにするため、階下に漬けていた。よく見ると下の庭にも茶が山積み。本当に手作業で茶が作られて良い。因みに緑茶として飲む茶葉は、すぐには出荷せず、数か月棚に仕舞っておく。その方が香りが出て、好みに合うというのだが、何だかプーアール茶の原料のようであり、微発酵しているので緑茶と呼ぶのかちょっと疑問。

 

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緑茶を頂いていると、長老が入って来た。皆が敬意を払っているので、単なるこの家の長老というだけではなく、村の長かもしれない。村長は現在の政府の任命のようだが、村には恐らく独特の長制度があるのだろう。長老は我々がお茶を飲んでいるのを黙って眺めていたが、すぐに帰ってしまった。私もちゃんと敬意を払う、挨拶をするべきだったと後悔した。

 

ランチもまた美味しく頂き、同時に先ほどの家からラペソーを干した酸茶と数か月置いた緑茶が届けられる。しかも緑茶には『4月、天日』とか『6月、乾燥機』などの表記がある。これで製造月と製造方法が分かる。ここではお茶を買う、ということは難しい。全て頂くことになってしまう。折角なので、この貴重な茶葉は持ち帰り、色々な人に紹介していこうと思う。それが恩返しだろう。そもそもこれだけ自然なお茶なんだから、興味のある人はいるだろうが。

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ランチ後、村を歩いていると、若いふっくらした女性が、赤ちゃんをおんぶしながら、茶葉を選り分けている姿が目に入った。思わずカメラを向けると、実にいい笑顔で応じてくれた。気持ちが温かくなった。この村の人々、特に女性の柔和さは少数民族特有のものであり、我々には和みとなるが、恐らくは外敵から身を守る1つの手段であるなど、マイノリティーの歴史と関係があるのではないか、と思っている。

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村長がバイクを持ち出した。またバイクに乗るのか、と思ったが拒否権はない。バイクの後ろに乗り、茶畑へ。とにかく山の急な坂道は怖い。いつになっても慣れない。特にスピードがゆっくりだと、ジェットコースターを思い出して心が縮む。10分ぐらいで茶畑に着きホッとした。ここは村長個人の畑らしい。

 

ここも本当に斜面の、茶樹がまばらに植えられた茶畑だった。茶摘みの男性が2人いたが、村以外の人を雇っていると言っていた。何故だろうか。村長は村の歴史を話す。『祖先は200年前にチベットに近い雲南省の山間から移動してきた。その時すでに茶作りはしていた』という。移動理由は不明だが、この地に納まったのは『土壌と気候』だと。祖先は神から茶樹を貰い受け、茶作りを始めたとの伝説があり、村でも祭っている。

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日差しが強くなり、結構暑い。朝晩の霧、日中の暑さ、この辺りが茶栽培には欠かせないのだろう。付近の家に入ると、そこにも製茶道具があった。基本的には個々の家々で昔から茶葉を摘み、そして製茶を行っている。茶葉の量も決して多く採れる訳でもなく、自分たちで作れるだけを作る。そんな環境は悪くはない。庭には野菜などを植え、茶はコメなどと引き換えてきたのだろう。

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学校と樹齢200年の茶樹

帰るのかと思い、バイクに乗ると、途中で停まる。結構大きな建物が見える。学校だった。『高校』とTさんは言ったが、この付近の子供のための小学校、中学校と周辺集落から来る生徒も吸収できる高校が併設されていた。その高校部分の校舎は日本政府の草の根支援で作られたという。Tさんはこれに関わったため、この村と出会った。

 

日本が作った校舎は結構立派だが、それほど大きい物ではない。ということは高校まで進学してくる生徒はそれほど多くはない。それでも昔は小学校にも行けない子供が多かったようだが、最近は小学校には殆ど行っているし、中にはマンダレーやタウンジーの大学に進学する者も出てきている。教育環境は少しずつ改善されている。大学を出た者が村に帰ってくれば大きな変化がありそうだが、残念ながら戻ってくる者はいないようだ。

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尚なぜこの村に学校を作ったのか、どんな繋がりがあったのかと聞いたところ、『これは公式ルートなので、ミャンマー政府が指定した』という。これは少数民族を懐柔したい政府の意向に沿い、日本が援助したというスタイル。そこにたまたま派遣されたTさんがこの村を気に入ってしまい、将来はここに住みたい、と思うほどになっていた。現在は携帯もネットも繋がらないが、そんな自然で静かな環境に身を置きたい気持ちは分かる。10年以上住むヤンゴンは急速な変貌を遂げ、昔の古き良き街が失われつつある。そんな変革の波はさすがにこの村までは来ないだろうとの思いもあるようだ。

 

今日は日曜日で校庭には誰もいなかった。敷地はかなり広く、数百人の子供たちがここで学ぶという。校長先生が敷地内に住んでいるというので挨拶に行く。女性でベテラン、最近転勤でこの学校に来たばかりだとか。突然の訪問にもかかわらず、色々と話してくれようとしたが、村人が遮り、外へ出た。『今度の校長はおしゃべりで、話し出すと止まらないから』という理由だったが、そうなのだろうか。

 

敷地内には茶樹が見えた。村長が『祖先がこの村に来た頃植えたと伝えられる茶樹、樹齢200年というところか』と言ったが、行ってみるとかなり大きい。私が以前見た100年の茶樹などはヒョロヒョロした感じだったから、これだけ立派で200年とは考えにくい。山間の生育の問題だろうか?でも茶葉は元気だ。いや、この村の歴史は紙にも残されておらず、言い伝えだけで語られているようだ。実は謎が多いのでは、と感じ興味を持つが、調べるすべはない。

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ミャンマー決死行2014(6)ミョーテイ 変革を望む村人たち

11月2日(日)

シャンカオスイ

夜はいい月が出ていた。この村には今年から電気が通ったといい、我々の部屋は一晩中、仏様の所に煌々と電気が点いていた。懸念していた携帯の充電もできた。ただ携帯のアンテナはTさんの全国ネットのシムカードでも全く反応しなかった。村でも通じる携帯のタイプがあるようで、村人の中にはそれを使っている人がいた。

 

私は適度の涼しさで実によく眠れた。そして夜中に一度トイレに起きた。これは少々面倒だったが、真っ暗な中、携帯の明かりを頼りに外へ出て用を足した。翌朝は明るくなると同時に目覚める。これが村の暮らしだろう。鶏がなく、周囲が何となくざわめく。階下からも物音がする。裏へ出て、顔を洗い、歯を磨くと、とても気持ちがよかった。少しすると村人が訪ねてくる。暑いお茶を飲む、そして帰って行く。また誰か来る。珍しい客、という位置づけだろうか。代わる代わるやってくる。

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村長がやって来て外へ出る。朝ごはんを食べるという。良い湯気が上がっているところへ入り、シャンヌードルを頼む。この辺ではシャンカオソイというらしい。カオソイといえばチェンマイあたりにあるが、あれとはちょっと違う。カオソイとはヌードル全般のことらしい。しかもここのヌードルにはトーフペーストがスープの代わりに入っている。これが美味い。思わず一気に食べるとお代わりまで頼んでくれた。トーフヌエカオソイ、というらしい。

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そのまま村を散策。天気が良いので茶葉が干されていた。だがよく見ると何となくごわごわした茶葉だ。聞けばなんとラペソーを干している。ラペソーとはミャンマー名物、茶葉の漬物。食後のお茶と一緒に食べたりしており、ティサラダなどとも訳される。そのラペソー、南シャンで見た時は室内で漬物石で漬けられていたが、ここでは何と、セメント袋のようなものに入れ、それを屋外に放置していた。これは凄い。しかも数か月も漬けておくらしい。その上でラペソーとして食べずに干す。ラペソーよりこの茶葉の方が儲けが多いということらしい。

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更にはワーウと地元の人が呼んでいたコンニャクイモも栽培されており、茶葉の横に干されていたのが印象的。ワーウの方が更に儲かるとの話があったというが、我々に聞かれてもよく分からない。今年電気の通ったこの村、テレビを買う、衛星放送に加入するなど、急速に現金が必要になってきているのかもしれない。小さな女の子が小さな手に包丁を持ち、ウーワを切っている健気な姿が忘れられない。

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村の外へ出ると見事な山の景色がそこにあった。最近では牛を飼っている。高原の輝く朝だ。雲海も見える。この村にやって来た外国人はこれまでごくわずか。トレッキングが好きな欧米人でもここまでくる人間は稀だ。これまでイスラエル人とオーストラリア人など何人かが、道に迷ってここまで来たらしい。まさに私は今秘境に立っているのだ。

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完全自然な茶畑

昨日Tさんを乗せたバイクの運転手のオジサンは村では野心家だった。彼はこの村の発展のため、また自らの生活向上のために、何とか収益を上げたいと考えていた。そこで新しい茶畑を山の斜面に開発し、そこに茶樹とワーウを植え始めた。そこを見に行ったが、我々の常識ではこんなところに畑?というほど、林の中にあり、また斜面もきつかった。

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そしてそこにぽつぽつと茶樹が植わっていた。と言ってもまだ小さく、茶葉は取れない。茶樹が育つ間に何とか他の作物で繋ぎたい、という考えかもしれない。それにしても生産効率は極めて悪い。だが『農薬とか化学肥料の存在は知っているが、一度も使ったことはない』という言葉は十分に魅力的だった。茶樹は茶の実からじっくり育てる。本当に伝統的な栽培方法、もうこんな茶畑は殆どの場所に存在しないのではないだろうか。

 

 

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村人たちは反対に『どうしたらもっと収入が得られるか』を考え始めている。この畑のオジサンなどはしきりと『ワーウは日本のNPOがミャンマーに持ち込んだと聞く。どうやったらうまく育つか知りたい』と言っていた。このままいくと、遅かれ早かれ、この地にも化学肥料などが持ち込まれそうだ。それを止める権利は全くないし、茶の収入向上を邪魔する必要もないのだが、ここまで200年続けてきた自然栽培、実に惜しい。

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村に出来た紅茶工場

そしてこの村の外れには茶工場の建屋があった。皆で見学に行く。ここは村人ではない華人が投資して数年前にできた紅茶工場、外国人はここまでやってきてはいないが、既に浸食は始まっている。中に入ると昨日摘まれた茶葉が一晩置かれている。それなりの中国製の製茶機械も揃っており、インドやスリランカで見たのと同じ方式で、本格的に紅茶の生産を行っているようだ。工場長も街からやって来た若者。村人には色々と気を使いながらやっている。

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この付近ではナムサンという大きな街が昔から紅茶生産で有名だった。TTMも先日『子供の頃、ナムサンの紅茶を飲んだことがある』と言っていた。ナムサンにも多くのパラウン族が住んでおり、茶作りに励んでいるようだ。ナムサン紅茶は基本的に苦味が強く、ミルクティ(ラペイエ)にすることが多い。ミャンマー紅茶の歴史については、イギリス植民地時代の影響を知りたかったが、この村には資料はなく、またイギリス人が来て紅茶栽培を奨励したとの話も出て来なかった。ナムサンに行けば何か分かるかもしれないが、ここからまたバイクで3時間、山道行かなければならないと聞き、すぐに取りやめた。

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村にはもう1軒、紅茶工場があるらしい。茶の需要が伸びれば、更に工場が作られる可能性もある。ミョーテイの茶葉は伝統的な栽培、紅茶にして砕いてしまうには惜しいことだし、工場が茶葉をかき集め、このままいけばいずれ、村人が茶葉をコントロールできなくなる日が来るかもしれないのは残念に思われる。

 

ミャンマー決死行(5)ミョーテイ 恐怖のバイク行で手が血みどろ

恐怖のバイクで手は血まみれに

そして午後1時過ぎ、ついにバイクの後ろに乗る。これまでもタイをはじめ、台湾などでもバイクの後ろに乗ったことは何度もあるのだが、今回は片道3時間と聞いており、しかもかなりの山道。果たして耐えられるのだろうか。かなり心配だった。まあそれでも何とかなるか、と出発した。

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平地は時速50㎞ぐらい出すので、それはそれでちょっと怖い。少し行くと、何と検問があった。運転する村人が一言いうと、すぐに進むことができた。そういえばミャンマーには昔は検問が多かったのを思い出す。特にシャン州など地方の少数民族が多い地域はそうだった。最近は通行の自由がかなり確保されたのだろうか。

 

最初のうちバイクは快調だった。なだらかな山道で、道も舗装されていた。それでもバイクになれずに足が痛くなってきた。そして時間が経つにつれ、段々環境が悪化、途中から舗装工事を行っている場所が登場し、その砂利道で振り落とされそうになる。両手で後ろのバーをしっかり掴み、何とか凌ぐ。

 

しかしそれにも限界がある。1時間半も行くと、休憩が欲しくなるが、一向に休む気配がない。どうなっているのだろうか。ついに足が悲鳴を上げた。つってしまったのだ。言葉は全く通じないが何とかバイクを停めてもらい、足をほぐす。ここで脱落する訳にはいかない。他の交通手段などないのだから。自分の手を見て驚いた。既に皮がむけ、血が滲んでいた。運転しているにいちゃんがそれを見て、『俺の腰にしがみ付け』というジェスチャーをしたが、血みどろの手で抱き着くわけにもいかない。これは苦しかった。

 

それから少しして、平らな所へ出た。きれいな水田が見える。この世の極楽のようだ。この辺で一番の街、マイゴーという場所だという。ようやく休憩が来た。正直ホッとした。あまいチャイを飲む。お菓子にも手が伸びた。甘いものを体が欲している。かなりの消耗度だ。運転している人はどうなんだろうか。慣れているとはいえ、後ろに人を乗せて、あの山道を行くとは。私は怖くてカメラすら出せなかった。写真を撮る余裕などどこにもなく、身を守るのが精一杯だった。

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そして再度出発。もう峠は越えただろう、と思ったのは甘かった。ここからが更なる山道。土の道ではタイヤが滑るようで、砂利が敷かれている坂道。この急な坂をブレーキなしで下ったりしている。特に私の運転手は下りの名手。何度目を瞑ったか知れないが、結果的には凄いスピードで下についてしまう。また登りも大変。道の石を避けながら、ルートを選び、慎重に進めていく。

 

スタートから3時間を過ぎて、ようやく村の入り口まで来た。ここまでよく耐えた。もう大丈夫。掘立小屋では茶葉を燻しており、今朝積んだ茶葉は天日干ししている。何となく馴染んだ光景に和む。ここで茶を一杯飲み、いざ村へ。しかし最後の道も険しかった。山は登れば登るほど、道が険しくなるのだ。村に着いた時にはほぼ脱力、手は血みどろだった。よくもまあ、生きて着いたものだ。

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村のミーティング

その村は標高1600m、実に眺めのよい場所だった。思ったよりも家が並んでおり、その内の一軒にお世話になることになった。何しろ村には宿などはない。その家の2階の居間に布団が置いてあった。チャウメイはそこそこ暑かったが、ミョーテイはさすがに涼しい。夜は結構冷えるかもしれない。掛け布団が有難い。

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まずは村の集会場に連れて行かれる。ここは5つの集落からなる村で、人口5000人、各集落の長が皆やって来ていた。2階の会場は人で埋まった。取り敢えず顔見世、といったところか。村長に『この村の歴史と茶の歴史を知りたい』と伝えると、『分かった』とだけ言われたが、どうなんだろうか。

 

そして『中国人が一人いるから中国語で話して』と突然言われ、戸惑う。中国人とはどういう意味だろうか。彼も戸惑っている。どうやら雲南省から来た漢族らしい。彼が話さないのでこちらも黙っていた。私には雲南語が分からないし、もし彼に恥でも掻かせては申し訳ないと思ったからだ。そう思っていると当然彼が標準語で話し掛けてきた。雲南から来た3代目、パラウン族ではないので、中国人と呼ばれているらしい。偶に中国人と交流することがあるので、中国語を勉強したらしい。これは助かる。彼もホッとしただろう。日本人と中国語が通じるか様子を見ていたようだ。

 

宿に戻って、顔を洗う。顔を洗うのも、トイレも全て屋外。まあ、このような地域では当然か。水浴びするかと言われたが、これだけ涼しいと風邪をひく可能性もあり、またロンジーに慣れていない私にはハードルがとても高い。屋外の水浴びは裸ではできないのである。

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急にあたりが暗くなる。山の夕暮れは早い。近くの家に連れて行かれ、夕飯となる。ここはレストランだったのだ。思ったより遥かに美味しい食事。いや、これはパラウン族の料理ではなく、中華ではないか。村長の息子、私をバイクに乗せてくれた彼が色々と気を使ってくれた。

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その後、村の中を散策。と言っても暗いのであまり良くは見えないが。少し小高くなった所に寺がある。そこからお経のテープが大音響で聞こえてくる。その横にある建物では何やらダンスの練習をしている人たちがいた。『来週村の祭りがある。そこで披露する』という。よかったら見て行って、と言われ、ちょっと拝見。パラウンの踊りなのか、ビルマの踊りなのか、私には区別が付かない。このパラウンの村、パラウン族らしいところがあまり見えない。私には気が付かないせいだけだろうか。

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ミャンマー決死行(4)チャウメイという名の茶葉集積地

3.メミョー

夕方メミョーに入った。マンダレーからは2時間弱、車は避暑地である高原を走っていた。先ほどまでの単調な高速道路が嘘のように、クラクションを鳴らして走り去るバイク、大量の荷物を積んだ大型ダンプ、などが行き交っていた。そして街はやはりそれほど変わってはいなかった。ここに来るのは2005年以来だろうか。何となくきれいなホテルが多くできている感じはするが。

 

我がホテルは静かな場所にある新しい物だった。部屋もきれいでネットも簡単に繋がっている。これで朝食付き30ドルなら文句はない。恐らくはホテルが沢山出来て競争が激しくなっているのだろう。フロントの愛想もとても良い。英語も通じる。やはりここは避暑地だ。

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夜は街へ行き、夕飯を食べる。懐かしいクロックタワー、1936年建造だ。以前同様、夜は暗い。観光地の割に、頃合いのレストランが意外に見つからない。Tさんが付近のゲストハウスの人に聞いた店へ行ってみる。ここはかなり繁盛していた。ビールを飲む、飲み屋らしい。男ばかりが席に着いている。経営者は如何にも華人、という感じで、勘定台に座り、ミャンマー人を上手く使っている。それにしてもかなり流行っている。よく見ると料理をテイクアウトする人々も多い。野菜炒めもスープも、料理は皆ウマかったから納得した。結果的にこの辺で一番美味しい店に入ったのだろう。満足。

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帰りは暗い夜道を歩いて行く。確か10年前は馬車に乗った。暗い中を馬車で行く、まるでイギリスのシャーロックホームズのテレビドラマを見ているような気分だったのをよく覚えている。今でもその暗さは変わらない。やはりミャンマーではヤンゴンだけが発展していて、明るい。

 

11月1日(土)

チャウメイまで

翌朝は天気が良く、気候の良いメミョーらしいさわやかな朝だった。早めに起きて、散歩する。街と反対の方に歩いて行く。この地はイギリス時代の避暑地、立派なお屋敷もあるし、馬車も走っている。昨晩の暗さとは別の場所のように、朝日を浴びて、お屋敷が映える。ホテルの近くに古びた教会があった。メミョーには教会も多い。洋風なのだ。

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1時間ほど、歩いてみたが、以前TTMやSSと泊まった場所は出て来ない。もっと山の上の方だったろうか。記憶がはっきりしない。そういえばここに大阪出身の建築士の日本人が住んでおられたが、今はどうしているだろうか。ご自身の家を建てたら、それがモデルハウスになり、何軒も設計依頼が来た、という話を思い出す。ホテルに戻り、パンと卵焼きの朝食を取る。

 

そして出発。今度は山道を下って行く。途中で鉄橋が見える。電車も走っている。10年前に見た風景だった。チャウメイまで1時間ちょっとかと思っていたが、2時間半ほどかかる。この辺の感覚も鈍っている。まあゆっくり行こう!

 

4.チャウメイ

チャウメイは10年前に一度やって来たところ。その時はラショーまで行き、メミョーに戻る途中に偶然立ち寄った。茶葉の集積地だと言われ、古い、立派な建屋のお茶屋さんを見学したことをよく覚えている。果たして今もあるのだろうかと探してみたが、見付からなかった。というか、恐らくこの場所だろうというところに、新しい建屋のお茶屋さんがあったので、そこに違いない。しかしあの風格のある家屋が失われたのであれば残念だ。勿論家の寿命だったのだろうが。確かこのお茶屋さんも『山奥から少数民族が作るお茶を運んできている』と言っていたのを覚えている。

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ミョーテイ村出身者が経営している茶問屋に寄る。ここがこれから行くミョーテイ村のチャウメイにおける拠点、いや外界との接点と思われる。入口を入ると麻袋に茶葉が詰まっており、それが高く積まれていた。Tさんは顔見知りらしく、どんどん中へ入って行く。ここの主人は病気でチェンマイの病院へ行った、ということで不在だった。ミャンマーの人がタイのチェンマイへ行く、簡単なことなのだろうか。どんなルートでチェンマイへ行けるのだろう。

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店の人々がお茶を出してくれ、飲む。雲南省にもあるプーアール茶の原料になりそうな緑茶だ。村から我々を迎えに来てくれたオジサンもいた。彼らが私たちをバイクの後ろに乗せて、村まで連れて行くらしい。まだ少し時間があったので、ランチを取りに外へ出る。チャウメイの街は大きくはない。歩けばすぐに尽きてしまう。10年前に新規オープンしたばかりだったゲストハウスも健在だった。その横の小さなレストランに入り、シャンヌードルを食べる。少し塩辛い。ここは華人経営のようだ。

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それから古い市場を通り、立派な昔造りの建屋を見て、更にはモスクもあった。10年前に寄った梅干しの甕はまだあるのだろうか。商人の街らしく、そこかしこに漢字が見られる。茶問屋の近くにはラショーに方に向かう鉄道の線路もあったが、単線だった。殆ど列車は来ないようだ。

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ミャンマー決死行(3)ヤンゴン 店長は23歳

店長は23歳

ホテルまで送ってもらい、しばし休息。夕方出掛けようと思っていると、何と大雨が降りだす。まだ雨季は終わっていなかったんだな。雷雨を伴う激しい雨に呆然。気を取り直して先ほどのHさんに電話すると繋がり、夜会うことになった。雨も何となく上がる。また外へ出た。

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もう一度スーレーパゴダの方向へ向かう。お互いが分かる待ち合わせ場所がさくらタワーだったので、ちょっと歩いて行く。先ほどの雨で道は一部洪水?となっていた。この辺は古い街で灌漑が出来ていないようだ。スーレーの先に行くと、凄く立派な植民地時代の建物が出てきた。この辺りはイギリスが溢れていた。これもまた新鮮。キョロキョロしていると時間が来てしまい、待ち合わせ場所へ。

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さくらタワーの外でH君は待っていてくれた。すぐにタクシーを捕まえ、彼の行きつけの店へ向かう。何と場所はチャイナタウン、そして私の停まっているホテルのすぐ横。驚いた、こんな所に夜は賑やかなエリアがあったのだ。外国人も沢山来ている。その内のもっとも流行っている1軒に入る。まだ6時前だが1階はすでに満員で2階へ。

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食事は多国籍、フレンチトーストにタコス、そしてハンバーグまである。意外だが、なかなか美味い。ハンバーガー屋のH君は早々にハンバーグを食べて、いい味出している、と評価する。とても研究熱心だ。

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H君は日本とマレーシア華人のハーフ、日本育ちで日本の大学在学中に台湾に2年留学した。中国語は堪能だと思うが、就職先は『初めからミャンマーで仕事をすること』が前提だったという。『他の国にもチャレンジしてみたくて』と若者らしい。同期入社の4人は全てミャンマーで違う事業に従事している。とてもユニークな会社なのだろう。

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いきなり初めての国、ミャンマーにやってくると、バーガー屋のビジネスの立ち上げが行われていたが、『もう一人いた日本人の先輩が突然会社を去りまして』ということで、開店したバーガー屋の店長になってしまった。人も採用し過ぎており、いきなり人員整理も行った。自分の右腕になる通訳も日本語の人から華人に替え、コミュニケーションを中国語で取っている。店にはシンガポールに留学した英語堪能なミャンマー人もおり、何とか回している、と笑う。

 

いや、しかしこれは大変なことだろう。私が38歳で日中合弁会社の日本側代表になった時、胃が痛くて仕方がなかった。『明日という日は来ないかもしれない』と思ったことも何度かあった。現地でビジネスを運営することは実に大変なのだが、一部割り切り、一部楽しみながらやっているように見えるところが只者ではない。華人の血が騒いでいるのかもしれない。

 

正直1号店は厳しい中でスタートしたが、既に2号店の計画があり、準備が進んでいるという。『店の立地が重要です。2号店は立地に自信があるので何とかやって行けるでしょう』と屈託がない。23歳で既にこのような経験を積む若者、将来が実に楽しみだ。思う存分、海外でやりたいことをやって欲しい、と願う。

 

10月31日(金)

高速道路で

翌朝は6時前に起きて、6時半から朝食時間より早く食堂へ行き、食事を取る。それから荷物を下ろしてチェックアウト。だが5階なのに、エレベーターは動いていなかった。これは困った、さすがに大きな荷物を持って階段を降りるのはしんどい。と思っていると、急に動き出した。中には従業員が乗っており、搬入作業をしていたらしい。

 

下ではTさんが既にスタンバイ、今日は彼の車でマンダレー経由、メミョーまで走る。今回の目的である北シャン州の山の中には一日では到着しないのである。ヤンゴン郊外、バゴーへ行く道を走る。まだ7時前だったのでラッシュに引っかからず、スムーズに進む。8月にやって来た郊外の学校を思い出す。

 

その辺りから高速道路ができていた。道はほぼ真っすぐで、車は殆ど走っていない。何とも快適な道路だが、運転する者としては、あまりに退屈ではないだろうか。何の障害物もなく、周囲に車もない。風景は畑が中心で民家もあまり見られない。聞く所によれば、突貫工事で作った道、ただまっすぐに空いていた土地を使ったようだ。時々川を通るが、その橋は補強工事がなく、トラックなどが通ると崩れる可能性があることから、ダンプ、トラックなど大型車の通行は禁止されているらしい。そこここで補強工事が行われているのは、出来たばかりの道路としては珍しい。

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高速道路ながら、人や牛も往来している。高速出口はそれほどたくさん無いようで、日本のように出口の表示は全く見られない。距離はマイル表示で、まさにマイルストーンが置かれているので、115マイル行くと、休憩所がある、という言い方になっていた。最初の休憩所で休む。予想外にきれいなレストランなどがある。私はチャイを飲む。Tさんが朝飯に麺を食べている。車はあまり走っていないのに、ここには意外に人がいる。どういうわけだろうか?まあ広々として駐車場に車がまばらなので、バスの乗客だろうか。

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それからひたすら、走る。途中真ん中付近でネピドーを通過した。ここには興味があったので、帰りに寄ってもらうことにした。しかし車にただ座っていると、結構つらい。何と足がつってしまった。歩く方が性に合っている。ランチは次の休憩所で取った。ミャンマー式におかずを選び、ご飯とスープ。まあこんなものか。

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ヤンゴンーマンダレーの高速道路全長約400マイルを8時間で走破した。そしてマンダレーからは懐かしいメミョー行きの山道を行く。この道は過去2回通っており、見覚えがあった。殆ど変っていない。ミャンマーの変化はごく一部なのだが、その一部が劇的に変わってしまったために、目を惹くのだろう。

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ミャンマー決死行(2)ヤンゴン チャイナタウンを歩き回る

夕飯

かなり遅くなってしまった。夕飯は近所の小さな日本食レストランへ。まあ考えてみれば日本人同士、それも男が2人で会えば、日本食、というのは海外の定番だ。だが私は前回8月の訪問で初めてヤンゴンの日本食レストランへ入った。これまでTTMは一度も連れて行ってくれなかった。いやよく考えてみれば代金の高い日本食に連れて行くのは悪い、と考えたのかもしれない。むしろこちらが誘わなければいけなかったのか、と今頃後悔する。

 

焼き魚定食を食べる。これで4500k、高いのだろうか?うーん、ちょっと侘しいが量的にはちょうどいいか。Tさんと明後日からのシャン州行きについて打ち合わせをしたが、いまだに良く分からないことだらけ。それでもそれが私の旅のスタイル。ただ『バイクの後ろに乗るの、大丈夫ですか?』と聞かれ、一抹の不安を覚える。

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帰りにTさんと別れて、ホテルまで歩く。沢山の屋台を眺めていたが、午後9時を回ると店仕舞いのところも出てきた。バナナでも買おうと近寄ったが、一房ごとしか売らないという。十何本はある。食べきれない。他を当たったが、全て半分に切ることさえ、拒否された。タイではあり得ないこと。いまだに大家族主義なのか、顧客志向に乏しいのか?そしてその夜、ホテルのネットは繋がらなかった。

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10月30日(木)

チャイナタウンを歩く

翌朝早く起き、ネットを繋ぐとスイスイ行った。やはり夜は使う人が多いらしい。これからは朝型だ。朝食も付いているので食堂へ行ってみると、お客は殆どがミャンマー人だった。食事は10種類ぐらいから選べたので、麺にしてみた。なかなか美味い。これにティミックスが付いてくる。これで十分な朝ごはんだ。

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チャイナタウンを歩いてみる。と言っても昨日のことを引き摺っており、まずはシム購入から。ところが昨日パスポートコピーがあれば売る、と言った店が『今日は売らない』と言ってみたり、違う店でコピーを出したら『A4サイズしか受け取れない(ホテルでコピーしてもらった時にパスポートサイズに切ってしまっていた)』と。もうこれは売りたくない、嫌がらせだった。

 

スーレーパゴダに向かって歩く。これが基本的なチャイナタウンの歩き方だろう。ホテルのすぐ近くに以前立ち寄った友寿司があった。東京で寿司職人をしていたミャンマー人が経営している店だ。こんな店が20軒もあると聞いたが、その後どうなっただろうか?お客はミャンマー人が多いとのことだったが、その後更に日本食ブーム、健康志向は続いているのだろうか。雑貨市場なども賑わっている。

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スーレーパゴダから進路を北に取る。さくらタワーへ向かう。私はこれまで何でもTTMの後ろをついて歩いていたため、ヤンゴンに関しては方向感覚さえなかった。今日初めて色々な位置関係を理解した。さくらタワー横のコンビニでコーラを買った。何故か同じ大きさなのに300kと800kの二種類あった。これがミャンマー産と外国産の違いらしい。両方売っているのが不思議だ。

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さくらタワーから旧トレーダーズ(今や立派なシャングリラホテル)を横目に見て、ヤンゴン初の本格的な百貨店、パークソン、そしてボージョーマーケットへ。ここも何度も来たのだが、今日は景色が違って見える。歩いて行くのと車で行くの、まるで違って見えるのが面白い。そこから横道へ入るとヒンズー寺院があったり、中国系のお寺があったり。そしてずっとひたすら歩いて行くと港まで突き抜けた。これぞチャイナタウンだな。

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帰り掛けにまた携帯屋を見つけたので何となく入ってみた。ここは最初から客への対応が明らかに違っていた。店員は笑顔で片言の英語を使い、そこに居た客は流暢な英語でフォローしてくれた。これまでの苦労は一体何だったのか、呆気ないほど簡単に最新型テレノールのシムが、1500kで手に入った。5000kのチャージを入れて、これで十分。あとで聞いた話だがタイ系のテレノールはシムカードを今週発売したばかり。ところが基地局が整っておらず、シムを入れても繋がらない事態が発生し、携帯屋に『シムをできるだけ売らないように』と圧力をかけたらしい。なるほど。

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フレッシュネスバーガー

実は前回ヤンゴンへ来た時、東京在住のライターNさんから『フレッシュネスバーガーへ行け』との指令?を受けていたのだが、それがどこにあるかも書いていなかった。こんな無茶ぶりが嫌いではないが、TTMに言っても知らない、と言われてしまい、行けずじまいだった。

 

今回はちゃんと場所を確認した上で、Tさんが連れて行ってくるというので出動した。場所は人民公園、となっていたが、表を見てもよく分からない。駐車場へ車を回すと、そこに入口が。2階へ上がるとバーガー屋が出てきた。え、裏口入学?この店の正面入り口はショッピングセンターの中なので分かり辛い。

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店は予想以上に広く、明るい。凄く広々とした空間がそこにあった。カウンターで紹介された店長のHさんを探すと『今日は休みです』と流ちょうな英語で言われてしまう。そりゃあ残念だ、ここまで来て。ということで携帯番号を聞き、先ほど買ったばかりのシムを使い早速かけてみたが、電波が悪く、上手く通じなかった。

 

まあいいや折角来たのだから、ハンバーガー食べようと、ということで、クラシックバーガーとコーラにポテトのセットを頼む。5500k。Tさんによれば、ロッテリアなどと比べても高くない、ということだ。私は日本でフレッシュネスバーガーに入ったことは殆どないが、確かセットで1000円近くするのではないか。高いというイメージがあり敬遠していたが、ここではかなり値段を押さえているように見える。

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帰り掛けにショッピングセンター内にティスタンドがあったので立ち寄る。台湾系だろうか?Matcha、などの文字が躍っている。何が凄いかというと『氷の量』や『砂糖の量』を細かく指定できること。こういうサービスが若者にウケるのだろうか。甘いフレーバーティを飲みながらしばし考える。

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ミャンマー決死行(1)ヤンゴン 携帯シムカードが買えない

《ミャンマー決死行2014》  2014年10月29日-11月6日

 

8月にヤンゴンへ行き、SSの大きなおなかを目にした。そして9月、待望の赤ちゃん、愛ちゃんが生まれた。愛ちゃんはとても大きな女の子だという。愛ちゃんに是非とも会いに行きたい。その気持ちがどんどん高まる。そして東京に戻っていた息子のヤンゴン行も決まる。彼を連れてヤンゴンへ行き、TTMに預けてみようと思った。

 

そしてもう一つ、先日ヤンゴンで会ったTさん。『とにかくシャン州の茶畑に一緒に行きましょう』という言葉がかなり引っかかっていた。それなら、これをワンセットとして、ミャンマー行きを決行しよう。そう決めて、連絡を取り合った。

 

10月29日(水)

1.ヤンゴンまで

結局息子のヤンゴン行は所々の事情で間に合わなかった。そこで私がヤンゴンから戻った後にバンコックへ来てもらい、送り出すことになった。まあ私が下見に行くようなことになってしまったが、それもよい。

 

今回は久しぶりにドムアン空港からエアアジアで行く。ドムアンへ行くにはBTSでモーチットまで行き、そこから空港バスに乗る。このバスは30バーツだが、20分以内に空港に着く優れもの。30分に一本しか出ていないのが玉に瑕だが、まあ時間がある者にとっては便利である。今回BTSを降りるとちょうどバスが停まっていた。ラッキー、と乗り込むと何と私しか乗客がいない。そしてそのまま発車し、最後まで一人だった。ちょっと心配だ。無くなってしまったら困る、この路線。

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ドムアン空港はいつものように混んでいたが、エアアジアの国際線はそれほどでもなく、簡単にチェックインできた。時間もあったので、空港内に出来た日本のトンカツ屋『さぼてん』に入ってみる。こんなところに日本があるのが嬉しい。テーブル席いくつかとカウンターの小さな店だった。メニューを見ると、市内よりちょっと高い。無理して高い物を食べる必要もなかったので、一番安そうなカツカレーにしてみた。270バーツ。カツは小さめだったが、ご飯とカレーの量はかなり多い。満腹になる。

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イミグレを抜けると、土産物屋は中国人だらけ。やたらに中国語が聞こえて怖い。確か中国人のビザ代を免除したらしいが、それでこんなに来るのだろうか?香港へ行けなくなった影響か?ビザ免除なら分かるのだが。消費税還付カウンターにも列が。搭乗を待つ間も大声が飛び交う。いまだにこんな状況か。もうちょっと中国も進歩していると思うのだが、この格安航空会社を利用した格安ツアー、なかなか。

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2.ヤンゴン

空港からチャイナタウンへ

フライトは僅か1時間、目を瞑ったら着いてしまった。夕暮れのヤンゴン空港、イミグレには結構人が並んでいたが、まあスムーズに通過した。荷物も簡単に出てきて、外へ。そこには今回シャン州に一緒に行くTさんが待っていてくれた。米ドルの新札を両替して、Tさんの車で市内へ。これまでは全てTTMの迎で過ごしてきたヤンゴン。今回のこの行動はちょっと新鮮。

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ホテルもTさんの便利な場所を予約してもらった。チャイナタウン、初めて泊まる。というか、何回も来ているがじっくり歩いたことがない。ちょっとワクワク。夕方の渋滞もあったが、40分ぐらいでホテルへ。しかし道の狭いチャイナタウン、駐車スペースを見つけるのが大変だった。ホテルは細長い6階建て、結構きれいで30ドル。英語は片言だが、十分だろう。ネットも繋がるとのことでパスワードを渡されたが、かなり重い状態。少し心配。

 

シムカード

Tさんと外へ出る。辺りは暗くなり、ホテルの前にも沢山の屋台が出ていて賑やかだった。最近ミャンマーでは市内でもシムカードが買えると聞いたので、まずはそれを探しに行く。すぐ近くの携帯ショップに入ったが、『ない』と言われる。隣に入ると『携帯端末とセットでないと売らない』と断られ、次では『パスポートのコピーがないと売れない』と言われる。一体どうなっているんだ、たかがシムカード1枚で。

 

違う通りへ行く。一軒の店へ入るとそこは華人の香りがプンプン。チャイナタウンだから当たり前だが、先ほどの携帯ショップにはその感じがない。勿論華人経営のはずだが。おばさんは『あるよ』と一言言ってどこかへ電話している。取り寄せるらしい。いよいよこれで夕飯に行けると思っていたら、やって来たシムがやたらに高い。テレノールなら1500kと聞いていたが、『15000kだよ』とすげなく言われ、ぼったくりか、と思う。

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しかしよく聞いてみればこれはミャンマーのNTTであるMPTがKDDIと開発した?全国網羅のシムだった。私には不要だったがTさんが代わりのこれを買った。『これがあればシャン州の山の中でも使えるだろう』というので、わずか数日の私は遠慮して彼が購入した。結局私はこの夜、シムをゲットすることはできなかった。何でだ?

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懐かしのミャンマーを行く2012(8)ヤンゴン この変化はミャンマーのためになるのか

6月26日(火)  5.ヤンゴン2  (1)散歩

ガローから車でヘーホー空港へ行き、お約束のシャンヌードルを食べ、何となくTAMと別れた。うーん、寂しいというか、何というか。また会えるだろうとの思いは強いが、TAMもガイド業を少し減らしているようで、ちょっと心配。ミャンマーが変化するということは、一般庶民もその影響を大きく受けるということだろう。

エアバガンに乗り、あっと言う間にヤンゴンへ戻る。ヤンゴンはかなり強い雨が降っており、旧国際空港ターミナルが煙る。タラップを降りると、何と航空会社職員が皆で傘を持って並んでいた。お客が濡れないように、傘を差しだす。この何とも原始的なサービスが嬉しい。

空港にはTTMが待っていてくれ、またWishホテルへ戻る。ホテルの部屋でインターネットをしようとしたが、何とここでもできなかった。あれ、数日前に宿泊した時は出来たのに。ホテルの従業員に伝えると、部屋を替わればよいと言われ、部屋を替わったが、やはり状況は変わらず。専門業者が呼ばれて、意味が分かる。ニャウンシュエのネットカフェでカフェの人が入力した番号が障害となり、繋がらなかったのだ。専門家が来ればすぐに分かる。久しぶりにゆっくりとメールした。

それからTTMのオフィスへ行く。SSが忙しそうに働いていた。もう一人、日本語の出来る女性も来ていた。結構忙しいなんだな、と分かる。やはりシャン州とは違う。空気が違う。ヤンゴンだけが突出した都市であり、ある意味でここはミャンマーではないと感じる。

散歩に出る。交差点に大きな化粧品の広告が出ている。良く見るとハングルがある。韓国系の化粧品だと分かる。ミャンマー人は特に意識しなくても、本当の金持ちは日本製、一般人は韓国製を買うとある人に言われた。そうだろうか、そうなのだろう。

ソニーのテレビの宣伝が見えた。日本製は圧倒的に人気があったのに、今ではどうなんだろうか。ちょうどサッカーのヨーロッパ選手権があり、サッカー好きのミャンマー人男性を惹きつけた様だが、テレビはどこの物が売れたのだろうか、何となく日本ではない気がする。


   

車も中古品はトヨタなど日本製が多い。だが、最近は現代など韓国製も伸びてきており、またインド製のタタも安さを武器に進出しようとしている。中国製も奇瑞のQQなどがタクシーとして使われて、一定の地位を保っている。

6月27日(水)   (2)ウラミットさんと

今日は午前中、ミャンマーの企業を訪問し、沢山の刺激を受け、情報を貰った。ミャンマーの変化の象徴を見た気がした。面談は全て英語、最先端の技術を駆使して、ミャンマーを変えていこうという意気込みが感じられた。

訪問終了後、ガローで会えなかったウラミットさんを訪ねることになった。これは望外の喜びだ。ウラミットさんの住まいは少し郊外の分かりに行く場所にあった。車はある塀の中へ入っていった。ここは別世界だった。豪華な戸建ての家がかなりの数存在していた。ここがヤンゴンの金持ちの住処であることがすぐに分かった。

ウラミットさんと8年ぶりに再会した。80歳になったウラミットさんは最近この家から出ることもなく、日本語を使うこともなかったようで、訪問をとても喜んでくれた。この家は息子さんの関係で留守番として住んでいるとのことだったが、ご本人はガローに戻りたい様子。

ミャンマーの変化も冷静に見つめており、大変参考になる話が多く出た。日本とミャンマーの友好関係については特に重視しており、今後の発展に期待している様子が分かった。でも、そんな簡単に事が進まないことも、この人生経験豊富な老人は良く理解しているように見えた。

「死ぬ前にもう一度日本に行きたいな」という言葉に、ウラミットさんが歩んできた日本との関係が表れていた。彼が戦後付き合って来た日本人、元兵士、遺族などは既に鬼籍に入った人も多く、知り合いがどんどん減って行くことに悲しみを覚えている。日本とミャンマーの関係は、新時代に入ろうとしているが、果たしてそれは良好な、好ましい関係になるだろうか。

帰りは車で送ってもらった。何とウラミットさん夫妻も車に乗り込み、ホテルまで同行してくれた。「最近表に出ていないから、ちょうどいい機会だ」と言ってくれたが、そこには表せないほどの日本への愛情が感じられた。

(3)ヤンゴンのカフェ

お昼はヤンゴンの老舗カフェでクラブサンドイッチを食べた。このお店、7年前にもあった。当時は珍しいといわれており、すぐ横で爆弾テロがあったような気がする。兎に角ヤンゴンの欧米人の間で有名なカフェ。

今では当然のようにWifiはフリー。お客は欧米人だけではなく、韓国人やミャンマー人の姿も見られた。相変わらず料金は高めだが、ロケーションが良いため、所得の高いミャンマー人、外国人と商売をするようなミャンマー人の出入りも多そうだ。

夜はSSとフィアンセと、庶民的なイタリアンへ行く。今回のミャンマー訪問で一体何回イタリアンレストランへ行っただろうか。私は自分から食事を指定することはなく、皆に付いて行くだけだから、これが今のトレンドということだろう。

このお店は住宅街にある一軒家。外国人が来るのではなく、ミャンマー人の中上流家庭が家族やカップル、友人同士で来る場所のようだ。ミャンマー人の若い女性4人が楽しそうに食事している様子が不思議な感じだが、それが今のヤンゴン。イタリアンながら何故かスパニッシュのパエイリャが登場。海鮮がふんだんで意外とおいしい。ピザもイケる。お茶飲みながらピザというのも何だが、まあまあ良い。

SSはいつ結婚するのだろうか。もうフィアンセと付き合って4年、TTMからは仕切りに早く結婚するように迫られているらしい。私もSSの結婚式には是非出席してみたい。相変わらずSSは「結婚式場はXXホテル、家はXX」などと我儘放題言っているが、最後の抵抗、甘えだろうか。そうは言っても実はSSは料理上手。昨日も私の為に自ら料理してくれた。いい奥さんになるだろう。

実はこのフィアンセ、国境貿易の仕事をしており、ヤンゴンに住んでいる訳ではない。態々私に会うために?いやSSに会うためにヤンゴンにやって来て、我々に付き合ってくれている。それだけでも日本では考えられないが、性格的にも穏やかなナイスガイ。タイから製品を輸入するのだが、コーヒーや家庭用品から、衛星放送の機材まで何でも扱うらしい。最近急増している輸入品がキャットフード、というのも今のミャンマー、いやヤンゴンを象徴している。

6月28日(木)  (4)ショッピングセンタ―の衝撃

今日はミャンマー滞在最終日。心残りは多いが、また来ればいい。最後に最新ショッピングモールに連れて行ってもらう。今年初めにオープンしたというこのモール、シネマコンプレックスも併設し、ここはヤンゴンか、と思うほど、新しい。

お客さん、特に若者はスマホやIPadを手に持ち、Wifiはフリー。まるでバンコックなどの他の東南アジアのモールではないか。勿論若い女性でロンジーを穿いている子はいない。どころか、ミニスカート、ショートパンツが多い。お金持ち風のオジサンだけがロンジーを穿いており、このコントラストが面白い。

化粧品コーナーは日本製も多いが、宣伝は韓国製が優っている。上の階にはダイソーの100金ショップもあり、ミャンマー人が好きそうな雑貨が売られている。この店はミャンマー人がミャンマーで売れそうな物だけをコンテナごと、ダイソーから買い取ったとも言われた。渋谷系の最新ファッションを売る店も出ていた。値段は相当に高いようだが、お金持ちのお嬢さんが買いに来るらしい。

更に上には食堂街もある。タイやシンガポールのレストランに混ざり、日本のラーメンショップも出ていた。Bred Talkのようなシンガポール系のパン屋もあり、結構高いと思うのだが、売れていた。一度美味しい物を食べてしまった人は後戻りできないということか。

銀行のATMも店内に設置され、普通にお金が引き出せるようだ。7年前には全く考えられないこの光景、ここだけを見れば、ミャンマーの将来は明るい、とも言える。

(5)変化はミャンマーの為?

最後のお昼はヌードル&カフェへ。この店のコンセプトは軽食としてミャンマー各地の麺を出すことと居心地の良いカフェであること。入り口から吹き抜けのロビー、ゆったりとした庭。恐らくは欧米人を意識した作りだろうが、お客さんはミャンマー人、それも若い男女が多い。お金持ちや政府高官の娘や息子ではないだろうか。ここでもダラッとした姿勢で座り、スマホをいじっている。

ヌードルはやはり屋台などで食べた方が美味しいような気がする。それでも雰囲気が良いので、気持ちはよい。ヤンゴンにはお金持ちやその子弟がかなりいる。彼ら向けにアメリカやヨーロッパで生活したミャンマー人がカフェを作る動きもあるようだ。日本への出稼ぎ者は寿司屋、欧米系はカフェ、面白い。

そしてついに空港へ。また綺麗な空港へやってきた。チェックインもスムーズ。昔のような緊張感はまるでない。SSと彼氏、あっと言う間に分かれた。TTMは仕事でいない。昔ならながのお別れをやったものだが、全てが近代化?している。イミグレに向かうと、透明の壁の向こうからSSが強く手を振っているのが見えた。そうでなくっちゃ??

空港内では何故か緑茶を売っていた。結構おしゃれなパッケージだが、ミャンマーで中国茶??うーん。やはりミャンマーは変わった、いや大きく変わったのはヤンゴンだけだが、私の知るあの懐かしのミャンマーは少しずつ消えて行っていることは確かだ。残念なようであり、それがミャンマーの人の為であるような。何とも複雑な気持ちで飛行機に乗り込んだ。





懐かしのミャンマーを行く2012(7)ガロー 無くなっていた茶畑

(5)ミャンマーの紅茶、そして納豆

山から下りてきた。少し疲れたな、と思うと、TAMがちゃんと休憩を取る。実にすばらしい。地元民が行く食堂に入る。男性しかいない。皆、昼間から衛星放送でサッカーを見ている。ここで紅茶を頼んでみる。ミャンマーの紅茶、どんなものだろうか。

TAM達はお茶を頼み、何やら皮に包まれた食べ物を食べる。少しドロッとした触感で、卵が入り、美味しい。でも何かはとうとう分からない。紅茶はかなり濃い。細かい茶葉のカスかな、と思われる。ミルクを入れて飲むが、うーん。

一度ホテルに戻り、直ぐにまた出掛ける。今日も又市場へやってきた。かなりローカルで小さい市場、小学校に近く、生徒がお菓子などを買っている。農村地区でも現金社会に突入か。

納豆があった。籠に入っていたが、完全に日本の納豆と同じ。筍と混ぜてご飯にかけて食べてみた。醤油が無いので、少し味が異なるが、実にうまい。茶を飲みながら食べるとかなり合う。豆腐もまた食べてしまう。市場で好きなものを好きなだけ食べる、いい暮らしだ。

子供達が店番をする店もあった。野菜を売っているが、彼らはこんなに小さくても商売は出来るのだろうか。恐らくは周囲の人々、お客とも、子供を大切にしているのだろう。日本にもこんな光景があるだろうか。

(2)ガローで再会かなわず

街のホテルに戻る。インターネットOKと言われたので、早速自分のPCを繋げてみたが、全く反応しない。もうメールチェックすら3日以上していない。仕方なく、そこにあったPCでネットを繋ぎ、メールチェックを試みる。確かに繋がっていたが、一向に動かない。1枚の画面が動くのに、20分は掛かった。結局約1時間後、無事メールを見ることが出来た。繋がるだけマシということか。

ガローまで来たら、どうしても会いたい人がいた。ウラミットさん、8年前に一度訪ねたミャンマー人で、地元で日本語学校をやっていた。流暢な日本語を話し、日本への思い入れも深い。既に80歳ぐらいだろう、元気であろうか。彼の自宅で見せられた第二次大戦中従軍看護師だった人の手紙は、今でも脳裏に焼き付いている。既にインパール作戦も歴史となり、その戦いを知る人も少ない。彼自身も日本軍に連れられて、インパール近くまで行ったという。少年兵というか、軍族というか。貴重な体験を日本語で語ってくれる極めて貴重な人である。

街の外れにあるウラミットさんの家へ向かう。街中にはフォトスタジオなるものがあり、ミニスカートの女の子の写真がでかでかと飾られる。こういう所を見るとミャンマーも変わってきている。今でも田舎ではロンジーが主流だが、若い子達はジーンズに変わってきている。

そして郊外へ出ると、何とゴルフの練習をしている人々がいた。確かにここガローはイギリス植民地時代の避暑地であり、ゴルフ場が存在している。それでも一般のミャンマー人がゴルフをする姿は想像できなかった。彼らは一般人なのだろうか、それとも軍人だろうか、それともプロを目指す人々なのだろうか。

ウラミットさんの家は変わっていなかったが、門は閉ざされていた。何度か呼ぶと女性が出て来て、ウラミットさんはヤンゴンに居ると、告げられる。この女性はお嬢さん、現在は留守番をしているという。日本語学校はウラミットさん不在で実質的に閉鎖されていた。病気をされた、との話も聞いていたが、元気だそうだ。会えなくて残念。

街に戻り、夕飯を。まだ5時半だが、最近は慣れてきた。今日はシャンヌードル、但しスープは別にもらい、何と豆腐ペーストを絡めて食べる。これも美味しい。少し酸っぱい漬物を頬張ると、どうしてもお替りしたくなる。今度はスープヌードルを頼む。でもなぜか量が少ない気がする。後で聞くと私の食べ過ぎを懸念したTAMが麺の量を半分にして頼んでいた。何とも気が付く人である。

腹が一杯になったがまだ明るいので、散歩へ。お決まりのお寺へ行く。このお寺、丘の上にあり、階段がきつい。いい運動になったが、息が上がる。お寺が見えるとホッとした。そして眼下を見下ろすと、いい景色が見えた。まさに腹ごなしにはいい。ヤンゴンでは一度もお寺に行かなかったことに気が付く。7年前は暇があると行っていたのに、みんな忙しくなり、携帯を振り回して働いていた。ミャンマーはやはりお寺が落ち着くのだが。

翌朝ホテルをチェックアウトし、車でガローホテルへ向かう。何となくもう一度見ておきたかった。100年以上前にイギリスが作ったこのホテル。相変わらずいい雰囲気を持っていたが、昨晩の宿泊客はゼロだったという。周辺には新しいホテル、ロッジなどが沢山出来、避暑地としては発展してきている。