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ミャンマー紀行2004(5)田舎の生活から学ぶ

車に乗っているとTTMが思い出したように『この近くに占いで有名な女性がいます』という。名前はティタ。国外にも出掛ける売れっ子だとか。ミャンマー人は1回5,000k、外国人はUS$50で占ってもらえるそうだ。未来が見えるとのことでTTMの娘ピョピョ(以降PP)の結婚相手の名前を当てたとか。彼女はかなり体が小さく、言葉も聞き取れないが親族が通訳するか、紙に書くのだという。

 

未来の結婚相手が分かるというのは、俄かには信じがたいがこの国では『未来が見えます』と言われれば、そうかなと思ってしまうから不思議である。でも自分の未来が見えてしまうのは面白くないもの。ミャンマー人は来世信仰であるから現世の未来が分かってしまっても怖くはないのだろう。

 

ミャンマー人の精神の安定はこの来世信仰にあると思う。たとえ貧しくとも、今が不幸せでも、未来を信じて生きて行く、これは極めて大事なことだ。人間の最大の敵は『不安』である。最大の不安は『死』である。この不安を完全になくすことは出来ないが、和らげることは出来る。ミャンマーにはその和らげる効果がある。それは信仰であり、死を恐れない心持である。

 

日本には今不安が蔓延している。養老孟司先生の『バカの壁』『死の壁』というベストセラーがある。何故ベストセラーになるか?それは日本人が忘れてしまったことをズバリと言ってのけたからだ。至極当たり前のことを。『人間は必ず死ぬのである。死を前提に生きなければならない』

 

  1. TTM実家訪問

そしてヤンゴンへの帰り道。TTMの実家を訪問した。昨年近くを通った時は『仕事中です』と言って、寄らなかったTTM。私の距離が相当に縮まったことを感じさせて、嬉しい。彼女の実家はヤンゴン郊外の村にあった。周りは近郊作物の野菜、果物などを栽培している。結構大きな村の道の真ん中辺りに家はあった。

 

TTMの両親が待っていてくれ、中に入れと促す。家はかなり大きくて、皆が座る長椅子、ベッド、テレビなどが見える。直ぐにお茶とラペトゥ(食べるお茶)が振舞われる。両親に加え、父親のおにいさん夫婦が別の村から遊びに来ていた。米を作っており、丁度刈入れを終わり、農閑期で久しぶりに来たという。裏に住むTTMの妹夫婦も来る。賑やかになる。庭も広く、井戸あり、ザボンのような果物の樹木も豊富でキュウリなどの野菜もそこここになっている。おかあさんがなっているキュウリや果物を取って持って行くようにTTMに渡している。この家は農家ではないが、田舎生活とはこのようなものであろう。自給できるものは自給である。

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そういえば家の門の所に椅子の上にお盆が置かれており、中に果物が入っていた。てっきり宗教的なものと思っていたが、何とそれはおかあさんの『お店』だったのだ。朝採った物で自分が食べない物を置いておく。買いたい人は声を掛けて買う。これで売れるのかと余計な心配をしていたが、我々の滞在中にも買いに来た人が居た。何だかほのぼのとした感じがよい。

ミャンマー 028m

 

この辺りは電気が2日に一度しか来ないという。ということはある日の午後2時から翌日の午後2時まで電気があれば、次の24時間は無いのである。行ったときは丁度電気が来ており、他の家ではテレビを見ていたが、明日は見られないのである。電気がなければ、確かに不便ではあるが、電気が無いなりの生活をすれば良い、それだけだと。考えさせられる。

 

昼は良いが夜はどうするのかと聞くと、事も無げに『寝る』との答え。そう、当たり前である。日の出とともに起き、日の入りとともに寝る、それが自然の生活である。原油価格高騰により今後更に停電が多くなるかもしれない。しかしそれは自然への回帰になるのでは??TTMは言う。『私が学生の頃は蝋燭の明かりで勉強しました。やはり電気は必要です』

TTMのおとうさんは軍人であった。42年間務めた。勲章を見せてもらった。多くの勲章を大事に保管している。キチンと勤め上げた人だけが貰える勲章を誇りにしており、その真面目さが伺える。

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勲章を見せてもらったのは家の2階。ここは内側から斜めに隙間が空いており涼しい。雨でも斜めに屋根を配して吹き込まないようになっており明るい。これも生活の知恵である。家は以前空港の近くにあったが、空港建設で立ち退き。その際に家屋をここに移築したのだとか。有無を言わせない政府の対応は中国と同じ。両親の年金も雀の涙という。物価が上がっても支給額は昔決められた通り。どこかの国のように約束した金額が払えないよりはよいのかもしれないが、老人の生活は家族が支えている。ミャンマーの厳しさを垣間見る。

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家族が支えられない、または支えてくれる家族がいない老人はお寺に行くそうだ。お寺では最低限の食事、寝床の面倒は見てくれる。セーフティネットはお寺なのである。ミャンマーは決して豊かではないが、老人の孤独死、老夫婦2人の餓死等はあまり無いのではないだろうか?家の居間の壁にはPPとSSの写真が貼られている。周りはアイドル歌手、女優のカレンダーばかり。この家ではPPとSSがアイドルなのが感じられる。

ミャンマー紀行2004(4)雨のバゴーに思う

日本兵がミャンマーで戦っていた時も雨季には相当の雨が降っていた。突然そんなことを思う。古山高麗雄氏の『フーコン戦記』の中には次のような記述がある。

 

『泥水がタコツボに流入し、首筋から背中を泥水が這った。褌が濡れていても何が濡れていて濡れたままでいるしかなかった。それでも雨が降ると敵機が飛来してこないし、戦車の動きも鈍くなる。雨は朝霧同様天然の煙幕になり、空爆や機銃掃射から逃れることができた。けれども飯盒炊爨が難儀になり苦労した。それに煙幕は敵味方双方にとっての煙幕であり、地面が濡れると歩兵の動きも鈍くなる。あの戦場で生き残る為には雨の中に現れる人の姿に相手より先に気付かなければならなかった』

 

バゴーで亡くなった鈴木さんはどんな戦いをしてきたのだろう?タコツボとは、各人が爆撃などを避ける為に掘った穴のことである。陣地を死守せよ、との命令は北ビルマの戦線ではこのタコツボを守ることであったという。既に隊としての体をなしていない日本軍はそれでも退却という言葉を使うことが無く、『死守』、『玉砕』、そして退却を表す『転進』となって撤退して行った。

 

しかし陣地が1つずつのタコツボで、そこを死守して玉砕するとは何を意味するのだろうか。本当に愚かな戦いをしてきたものだ。そして10人中7人は死んで行った。一体誰が悪くてこんなことが起るのか?中国、韓国その他東南アジアの人々が日本人に対して未だに拭い去れない危惧を持っている訳はきっとこんな理解不能な行動に理由が見出されるだろう。

 

良い、悪い、やりたい、やりたくない、を別にして日本人はこんな愚かなことが出来る人々である。またもし戦争になれば日本人はきっと同じことを繰り返すだろう。社会が上手く行っている時は、日本型管理は非常に機能する。しかし状況が悪くなれば一挙に全てが崩壊する。バブル崩壊後の10年を見ても明らかである。日本人は気が付かないが、アジアの人々はちゃんと見ているのである。

 

(6)ヒンダゴンパゴダ

TTMが呟く。『バゴーはミャンマーで唯一女性上位の街です』『それはメスがオスの上に乗っているからです』??白鳥(ヒンダという伝説の鳥)がこの地に降り立ち、シンボルとなった。この白鳥は番いであるが、メスが上なのである。この鳥が降り立った場所がヒンダゴンパゴダとなっている。バゴーはここから始まったと言う伝説の地。パゴダは小高い丘の上にあり、向こうにシュエモードパゴダがよく見える。日本も小高いところに神社を作る習慣があるが、そんな文化がここミャンマーにもあるのだろうか?きっとあるに違いない。

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雨が非常に強くなってきた。裸足でタイル張りの階段を登るのはかなり滑り、危険である。一歩ずつ噛み締める様に登る。登り切るとそこでは何やら踊りが行われている。五穀豊穣の踊りといった感じで、男女が衣装を着けて踊る。踊りの後、信者が彼らを取り囲み何やら話している。彼らは日本で言う巫女のようなものなのか?

 

更に上に登ると仏像がある。TTMはその前に座り、瞑想を始める。私は周りを歩き回る。赤ん坊を抱いた少女が目に入る。呼んでも近づかないし、写真を撮ってもよいかというジェスチャーをしたが断られる。物売りの子供が多い中、彼女は純粋な子守。目がキラキラと輝いていた。

 

帰りに物売りの男の子2人と出会う。彼らは一生懸命TTMに道などを教え、鶉の卵を売ろうとしている。TTMが厳しい表情で何か言う。その後にその卵を買う。聞けば『彼らに一生懸命働け、働かないでお金を貰ってはいけない』と諭したという。こんな昔のお母さん的な人は今の日本にはいない。又それを素直に聞く子もいない。どうしたものだろうか?鶉の卵を1つ剥いてみた。なかなか剥けない。かなり集中してやる。漸く食べる。何だか修行僧の気分になる。残りはSSへのお土産になった。

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(7)道路沿い

私は初めての街に行くと博物館を訪れることにしている。街の歴史が分かるからである。バゴーには歴史があるので楽しみにしていた。が、バゴー博物館に寄ってみると、門の所に女性が傘を差して立っており、VIPが来るので今日は閉館と言われてしまう。軍事政権の一端を垣間見る。中国でも時々あったなあ。残念。

 

仕方なくバゴーを離れることに。途中道路沿いのレストランへ。マンダレーなどへ向かうバスがトイレ休憩などで立ち寄るというが、お客は殆どいなかった。トイレに行こうとすると従業員が態々付いてきて、鍵をくれる。中に入ると洋式便器であるが蜘蛛の巣だらけで使用している形跡が無い。バスで旅行しようという外国人がいないのか、いてもミャンマー式トイレに慣れている人しかバスの乗らないのか?

 

TTMがバゴー名物という粽のようなものを買っている。私も食べてみたいと思ったが、何とあと2-3日しないと食べられないという。保存食であろうか?食べられないと言われると食べたくなるのが人情。『開けてはいけません。不味くなりますから』とぴしゃり。これも残念。

 

昼食後TTMがパイナップルを買うという。道沿いにフルーツを置いて売っている所が多い。値段はヤンゴンと同じだといってTTMは不満そう。しかし実家へのお土産であるから致し方ない。店先に瓶詰めのものがある。何かと見るとトカゲなどの爬虫類が入っている。漢方薬のようなものだろうか?これを飲むと利くのだろうか?きっと利くに違いない。何故?理由は無い。

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ミャンマー紀行2004(3)バゴーの高僧と鎌倉の大仏

(4)バゴーの高僧

次の訪問場所に行く途中、TTMが『ちょっといいですか?』と言う。私はこのTTMの寄り道が大好きである。規定路線を歩く観光旅行ではなく、庶民の生活を垣間見る旅行が好きなのである。何でも寄付をするためにお寺に行くという。何でバゴーまで来て寄付?この後の旅行でもTTMはスキあらば?寄付を続けるのであるが、ここではバゴーに入る直前に見た建立中のパゴダに小さな仏像10個(合計は528だそうだ)を寄付する。かなり分かり易い。

 

そのお寺が何処にあるのか良く分からなかったが、兎に角かなり大きなお寺である。名前はダマリンガラという。但し観光地ではなく、一般のミャンマー人が日曜日に一家揃ってやってきている。堂内はかなり広く、皆思い思いに座っている。弁当を広げる家族もいる。TTMによると信心深い人々は僧に倣って午前中しか食事をしないそうだ。雨が降っていても堂内で熱心に祈り、熱心に食べ、楽しそうに一家団欒を送る。ある意味で理想的な光景である。

 

TTMが奥の間に入って行く。私も恐る恐る続く。奥の間は結構広い。仏壇の前に沢山の供え物が置かれている。その前で一人の老僧が食事をしている所を多くの信者が取り囲んでいる。僧は食べながら何かを語っており、皆が有難そうに聞き入っている。内容は分からないが、この僧がかなりの人物であることは一目で分かる。TTMが布施を差し出す。僧に何か告げると皆が一斉にこちらを向いた。どうやら私のことを紹介したようだ。正座していて良かった。外国人が来るのが余程珍しいのか、おばさん達がかなり好奇な目で見つめてくる。

 

突然僧が立ち上がる。そして少しよろめく。周りの信者の殆どが女性であった。皆手を貸そうと立ち上がったが、誰もそれ以上動かない。すると私の背後から我が運転手が、すかさず膝立ちで進み出て手を貸す。その動作は運転中よりはるかに機敏に見えて実に頼もしい。

 

後で分かったことには女性は僧に触れることができないと言うこと。それにしても檀家でもない彼が自然に行動できる所が素晴らしい。子供の頃から身に付いているとしか思えない行動だった。日本では今や教えられずに自然に覚えることといえば、ろくな事は無いのだが。

 

僧が立ち去る際に私の方に向かい、手を口に持っていく動作をした。『何か食べていけよ』といってくれているのが分かる。軽い感動を覚える。この僧は非常に簡単な動作で言わんとすることを表現している。後で聞いた話だが、この僧はバゴー管区で最も偉いお坊さんであるそうで、TTMに名前を聞いてみたが、『教えられない』と言われてしまった。外国人との接触は何か問題になるのだろうか。

 

檀家の女性達が我々の前に所謂卓袱台を持ってくる。その上にお茶、カステラ、ウエハース、豆を揚げたお菓子を置いて行く。この豆がとても美味しく、暫し頂く。向こうでは女性達が食事を始める。僧の有難いお話を聞いた後、気持ちよくご飯を食べているように見える。これは宗教だな、と感じる。

 

トイレに行く。何処にあるのかと思えば、本堂の端に扉がありそこから階段を下る。地下通路があるのかと思うほど深い。数メートル下に例のミャンマー式トイレ(日本の和式トイレ)がある。横に桶があり自分で水を掛けて処理する方式だ。初めは慣れないが、慣れてしまえば、これもまたよい。ミャンマー人は非常に清潔好きであり、どこのトイレもきれいだ。

 

(5)シュエモードパゴダ

バゴー最大の見所と言われていたシュエモードパゴダに到着。シュエターリャウン涅槃仏とはバゴー駅の線路を挟んで反対側にある。1000年以上の歴史があるパゴダと言われており、釈迦の遺髪を納める為に建立された。ミャンマーのパゴダの特徴として、建立後増築が繰り返される。このパゴダも元々23mであった高さが、現在114mまで伸びている。きっとこの先もずっと伸びて行くのだろう。

ミャンマー 012m

 

雨が強くなってきた。晴れ男の私も名前を返上せざるを得ない。傘を差し、更に安物のレインコートを着込んでいたが、ずぶ濡れとなり、大変である。だが何しろパゴダは全て裸足でなければならない。雨の中を裸足で歩く気持ちのよさは、子供の時以来味わったことがなかったが、この感覚。素晴らしい。TTMと二人、まるで映画、雨に歌えば、踊るように歩き回った。

ミャンマー 011m

 

ほぼ一周したと思った所で、変な看板にぶつかる。『鎌倉の大仏はこちら』?行ってみる。パゴダは一般的に中心から四方に参道が伸びており、その1本の参道の途中に、かの大仏は特別ルーム?に安置されていた。確かに形と顔立ちは鎌倉の大仏にそっくりのミニチュア版。この仏は戦争中この近くで戦死した鈴木さんという方の遺族がその慰霊の為に建立したとある。日本人が来たらガイドは必ず案内する名所となっているという。TTMが聞く。『鎌倉の大仏には何故屋根が無いの?ミャンマーでは屋根が壊れたら絶対放置しませんよ』と。本当に何故修復しないのだろうか?罰当たり、と言われている様でとても気まずい。

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ミャンマー紀行2004(2)バゴー ビルマの竪琴の涅槃仏

  1. バゴーへ (1)朝  8月8日(日)

翌朝気持ち良く起きて散歩。高原の朝を思わせる涼しさ。水溜りが多く上手く歩くことが出来ない。車が通るたびに泥水を跳ね上げられ、難渋。(8月のミャンマーは雨季)朝食はホテルの食堂で。私一人の為に給仕してくれる。このホテルには一体何人の人が泊まっているのか心配になる(S氏はルームサービス、案外皆そうなのか??)。子供の頃に食べた給食のマーマレードと粉のジュース、美味しいとは言えないが懐かしい。バナナを食べると満足。

ミャンマー 003m

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S氏と事務所に行く。事務所がTTMとSSの家であることも変わらない。SSがミャンマー茶をマグカップに大目に入れてくれる。特に香りも無いのだが、何となく柔らかい感じで、ガブガブ飲めて、美味しい。いつも飲んでいる中国茶はちょっと刺激が強すぎるのかもしれない。

 

ミャンマーでは今変な噂がある。米ドル札の中に偽札があるという。券面がCBで始まる100ドル紙幣は偽札ということで両替を拒否されるらしい。私の財布を調べたら何と数枚あった紙幣の内2枚がCBで始まっているではないか。当然TTMからも受け取りを拒否される??仕方なくバンコックに行った時に両替してみようということになる。実際バンコックでは難なく両替できたから不思議な話であるが、何とNHKの海外安全情報でも取り上げられていた。

 

又面白いのは廃止されたはずのFEC(外貨兌換券)が未だに使われている。電気代など政府への支払いはFECが求められている。これは市中に出回っているFECを回収する目的のようだが、結果としてFECの無い人々がFECを手に入れようとする為、闇の価格がUS$より高くなっている。因みに1US$=850k程度であるが、FECは600-700kとも言う。おかしな国である。

 

(2)バゴーへの道

今日はミャンマーの古都バゴーに行く。車が小さいこともあり、TTMと私の二人だけで行くことになった。S氏とSSは事務所で留守番し、仕事をこなすに。SSは一緒に行きたかったようで、かなり不満顔だ。車が家の門を出て行くまでジッーと見ている姿が何とも可愛らしい。

 

ヤンゴン郊外へは昨年日本人墓地を訪ねたことがあるが、車窓から広がる風景はその時と全く同じ、途中までは同じルートのようだ。近郊作物として野菜を作っている所もあるが、広々とした水田が中心だ。この農作業が全く機械化されていないため、全て手作業。水牛が鋤を引き、農民が鍬を振るう。テレビドラマでしか見たことは無いが、まさに昔の日本の農村、昔の農業を思わせる。

 

バゴーに近づくと何故かそれまでよりも水田が広くなり、更に豊かな感じがする。街が近い感じもする。現在ミャンマーは雨季。昨年は雨季にも拘らず、雨に遭わず晴れ男を自認していたが、今日は雨。それもどんどん強くなってきている。この雨の中、農民は蓑と笠で作業を続ける。作業している人は大変だろうが、見ているこちらは牧歌的なとても良い光景を目にしている。

 

(3)シュエターリャウン涅槃仏

バゴーはヤンゴンの北東約70km、13-16世紀にはモン族(現在は南ミャンマーにいる)の王都となり栄えたが、その後ビルマ最後の王朝に征服された。現在往時の繁栄は見られない。西洋人はペグーと呼ぶ。今回車は幹線を通らず裏道を行き、1時間ちょっとでバゴーに到着。裏道には車は殆ど無く、長閑なもの。外国人だけでなくヤンゴンの人々の日帰り旅行にも丁度良い、日本で言えば鎌倉か?

 

先ず訪れたのは、シュエターリャウン涅槃仏。994年にモン族の王によって建立されたが、バゴー王朝崩壊で忘れ去られ、密林の中に隠れてしまう。イギリス統治時代に偶然インド人技師に発見されると言う数奇な運命を持つこの涅槃仏。全長55m、実に良い顔をして横たわっている。尚現在も街の中心からは少し離れており、周辺には何も無く林に囲まれている。

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仏の周りにはこの涅槃仏に纏わる話が絵で掲げられ、仏教がこの地に広まった様子が信者の関心を集めている。又この仏の足の裏には見事なモザイク模様が施されている。枕の部分にも同様も模様がある。往時の繁栄振りが窺い知れる。椎名誠に『秘密のミャンマー』という著書がある。なかなかユニークな本であるが、その中にこのパゴダを訪ねた記述がある。この涅槃仏の顔が不謹慎にも『オカマ』のようだと表現している。確かに不謹慎だが当たっているといえる。ミャンマーではここに限らず、何となく女性的な、優しげな仏像を見る機会が多い(特に目が魅力的??)。何故であろうか?

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有名な『ビルマの竪琴』で水島上等兵が『埴生の宿』を弾いたあの涅槃仏はこのシュエターリャウンがモデルと思われる。作者竹山道雄は実はビルマに行ったことはなく、帰還兵から話を聞いたりして作品を完成させた。ビルマ人がこの本をビルマ語訳しようとしても、『ビルマ僧は楽器を弾かない』『生き物に触れない(水島の肩にはインコがとまっていた)』などは受け入れがたいと言って、翻訳本は出ていないとか。

 

バゴーでも外国人は観光地料金としてUS$10を支払わなければならない。最初に行ったパゴダで支払う。又写真を撮る場合は各場所で200kを支払う(ビデオ撮影は1,000k)。有名なパゴダは何処もそうだが、絵葉書や土産物を売る人々が沢山いる。ここでは12歳ぐらいの少女が絵葉書を持ってやって来た。その日本語の達者なこと。ここで土産物を売りながら覚えたようだが、今の日本の若者より余程しっかりした日本語を話す。土産は買わない方針なので小さな子供にあげた飴を彼女にもあげるとちょっとはにかみながら受け取る。急に顔が子供になったのは愛らしい。

ミャンマー紀行2004(1)懐かしのヤンゴン再び

《ミャンマー紀行 2》

 

思い立ち難い国、ミャンマー。2003年8月念願のミャンマー旅行を果たした私は浮かれたようにその旅行記を書き、貪るようにミャンマー関係の本を読んだ。それは絶えて久しい熱狂であった。

 

それから1年。今年は何処に行こうかと考えている所へ、あのS氏より『また行きましょう』と声が掛かる。そしてダメを押すようにスス(以降SS)より『ミャンマーで待っています』という可愛らしいメールが届く。しかも日本語で。

 

そして行こうかなとS氏に漏らした瞬間、あの昔の日本のお母さん、トートーマさん(以降TTM)が猛烈な勢いで旅のアレンジを始め、あっと言う間に予定が埋まる。行かねばならない、そうそれは義務なのである。

 

ビザは昨年より更に簡単に取れる。飛行機のチケットも昨年よりかなり安く手に入る。全てが順調に進んでいく。さあ、今回はどんな旅が待っているのだろうか?『私の前世はミャンマー人、又は先祖はミャンマー人』との前回得た仮説?は果たして実証されるのだろうか??

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  1. ヤンゴン再び  8月7日(土)

    今回もタイエアーでバンコック経由。しかし何故かタイエアーでは未だにヤンゴンとは呼ばずにラングーンと言う(昨年は気が付かなかったが)。チケットにはヤンゴンと書いてあるのに?タイのミャンマーに対する蔑視か??はたまた英語では未だにラングーン???

バンコックーヤンゴンは昨年より乗客が多いようで、飛行機の機体も大きくなり、ほぼ満席。昨年は西洋人が前の方の席に配されていたが、今回はそうしたことも無い。中国大陸系の人が多いようだ。

 

出発が遅れたため、ヤンゴン到着も少し遅れる。空港で待っているあの懐かしい人々を思うと気が逸る。定刻より20分遅れでヤンゴン国際空港到着。昨年と同じで外は真っ暗。あの余りパッとしない建物が目に入る。歩いて直ぐの距離に飛行機は停止するがやはりあの旧日本製の京都市営バスが横付けされる。気が急いており、出口の所に陣取ってドアが開くのを待つ。

 

バスがイミグレの建物に着くと皆がサッサッと中に入る。どうやら急いでいるのはミャンマー人だけでその流れに乗った私はまたまた一番に外国人イミグレに到着。今年は昨年と異なりSARSの検査(耳に行き成り体温計を押し当てられる)もなく、イミグレも綺麗になっており、対応も昨年の3倍早い。(昨年は私のパスポートを3人が見ていたが、今回は1人が見ただけ)

イミグレを抜けると既にFECへの強制両替も完全に廃止されており、又税関も書類を見せるとあっさり通してくれる。ガラス越しに向こうに大勢の人が待っているのが見える。目で探すが待ち人は見つからない。昨年同様こんなに早く出てくるとは思ってもいなかったのだろう。

 

出口から外へ出ると直ぐにタクシーの客引きの声が掛かる。それを無視して進むとそこに何とSSがポツンと待っていた。少し大人になった雰囲気で。S氏とTTMは、と聞こうとした時、向こうから2人が現れる。何となくニタニタして。後で聞くとSSが少し太ったとかで、私が彼女を認識できるか試していたようだ。私としては何となく心外。忘れる訳が無い。

 

車も運転手さんも昨年と同じ。何となく昨年のビデオを見ているよう。車が動き出すとTTMが『ヤンゴンは昨年と何処が変わったか教えて欲しい』と言う。色々と目を凝らしてみていると中国語の看板が増えたようだ。また道路標識が出来ていた。但し幹線道路で時速30kmの標識が役に立つとは思えない。

 

そのまま又昨年と同じ火鍋屋『セブンアップ』へ。相変わらずSSの好物。店はいくらか明るくなっており、お客が多い。そういえば今日のヤンゴンは23度ぐらいで結構涼しい。TTMとSSは寒いと言っており、どうやら寒さで火鍋屋が繁盛しているようだ。運転手さんはジャンバーを着込んでいる。見ると携帯電話を使っている客が2-3人いる。昨年より普及してきたようだ。中国系は羽振りが良いのか?

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前回はここでサッカーのイングランドプレミアリーグ開幕戦を見て驚いたが、本日は何とアジアカップ決勝、あの因縁の日本―中国戦を生放送していた。見るとテレビの近くの席には中国系が数組。TTMとSSは日本が点を入れると喜んでくれたが、S氏と私は複雑な表情で見守る。従業員は余り関心を示していない。

 

ところで1つ大いに驚いたことはSSの日本語である。日本語検定3級に合格したとは聞いていたが、これほど話が出来るようになるものであろうか?僅か1年前は簡単な事以外は全て英語で話していた娘が今度は全てを日本語で話す。まるでマジックを見ているようだ。才能もあるのだろうが、努力も大きい。今の日本の若者もこんなに簡単にできるであろうか?

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ホテルはあのミンガラガーデン。特に変わったところは見られない。S氏の部屋が昨日の大雨で雨漏りしたとか。部屋からシェンダゴンパゴダのライトアップを眺めて大満足の初日夜であった。

ミャンマー決死行2014(13)ヤンゴン 洪水の中で

買い物

昼過ぎに雨が止んだ。TTMは早々に動き出す。タクシーを呼んで買い物に出掛ける。私も付いていく。橋を渡る。今日もスムーズ、嬉しい。車は一軒の絨毯屋?の前で停まる。絨毯の他、様々な種類の敷物を売っている。しかもそれは完成品ではなく、あくまで材料。お客はそれを買って行って、自分で加工するのだという。今や日本ではなかなかない形態だが、ミャンマーではお客のニーズに合わせた商品がないので、こうなるらしい。

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TTMは一体何を買おうとしているのか。聞いてみると、雨に備えて、玄関のところに敷くマットが必要らしい。玄関のサイズを図ってきており、それに合わせて、中国から来たプラスチック製の敷物を買う。布と同じで1mいくらという計算で売っている。お客と店員が知恵を出し合って材料を選び、自分で加工する。私にはできない技である。それにしても中国のプラスチック製品は安くて豊富。アジア市場を独占している。

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それからTTM家のある住宅地区のスーパーへ行く。色々と買い物するのに付き合った。どんなお茶が売っているのだろうと見ていると、突然の停電。まだ暗くなっていないので問題はなかったが、いまだに、しかもこんな時期でも停電があるのか、ヤンゴンは。ここが郊外の古い住宅街だからだろうか。ちょっと驚く。ここでかゆみ止めを買う。蚊に刺されたので、仕方がない。地元の薬の方が効くだろう、という判断。

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最後にケーキを買う。私からの愛ちゃん誕生祝だ。と言っても愛ちゃんは食べられないのだが。愛ちゃんは今のところ、母乳生活。SSも結構苦労しており、体力を付けなければならない。好物のチーズケーキでも食べて、元気を出してもらおう。

 

Tさん

夕方、ご近所のT先生のところへ行く。T先生は、ミャンマー滞在10年の日本人、建設系のお仕事をしておられた方で、時々お邪魔している。いつもブログでミャンマーの庶民の生活を織り交ぜた生情報を提供しており、有力な情報源である。

 

ちょっとご挨拶のつもりが、まだ陽のあるうちから、お酒が出てきた。日本のおつまみを食べながら話を聞く。ミャンマーの物価が急に上がったような気がするのだが、という問いには『ミャンマーには少額貨幣がないので、値上げする時は上げ幅が大きくなる。ミャンマーの庶民のためにはまずは少額貨幣を作るべし』との答え。なるほどのその通りだ。タイなどは細かすぎると思うほどの、少額コインがあるが、ミャンマーにはコインもない。

 

昨日走って来た高速道路にしても、建設専門家から見えれば『完全な手抜き工事』らしい。入れるべきものを入れていないとか。だから補強工事が必要なのであり、しかし補強するぐらいならやり直した方が早いらしい。突貫工事もよいところ。これではトラックを走らせるなど、できるはずもない。

 

ちょっとのつもりが気が付けば、2時間も長居してしまった。申し訳ない。それにしてもミャンマーは奇想天外。昔の中国を思い出させる。今や中国は普通の国に近づいたな。ミャンマーも来るたびに変化しており、その内に普通の国になって行くのだろう。でも普通とは何だろうか?

 

ビジネスビザへ

実は数日後に息子がTTM家に世話になりに来ることになっている。彼はバンコックでビザを取り、ミャンマー入りする予定となっているが、色々と話しているとどうも観光ビザではなく、ビジネスビザの方が良いという結論に達した。ビジネスビザなら、ヤンゴンの空港でアライバルビザが取れるという。その為の書類作りが急遽始まった。

 

その関係で息子のパスポートコピーが必要だと分かり、メールで東京に依頼する。だが私のメールは何とか、向こうに着いたものの、向こうから来たメールを開くことが出来ない。パスポートコピーが重いようだ。これがないと作業が進まない。結果、電話連絡により、Faxで貰うことになった。何だかレトロな世界だな。

 

3種類の書類を作ってもらい、手渡された。これと申請書を空港で出せば取れる、と言われたが、ちょっと前のミャンマーでは考えられない変化がここにもあった。事実息子がヤンゴンの空港に行ってこの書類を出すとすんなりビザがもらえたらしい。ただし、アライバルビザを申請する人が増えており、空港でかなりの行列になったとか。1時間は待ったというから、それもまた大変だ。

 

11月6日(木)

洪水発生

夜中に屋根を叩く音がすごかった。大丈夫かなと思うほどだったが、朝起きてみると、本当に私のベッドの横が雨漏りしていたのには驚いた。凄い状況だ。そして外を見ると、家の玄関の外側に水が近づいていた。このまま降り続ければ、床上浸水もあるのではないかと思われた。しかも昨日のT先生の話では、この住宅街の灌漑も酷いらしい。とても大量の水を捌ける状況にはなく、本来ならモーターを買って汲み上げなければならないが、それもしていないという。どうなるんだろう?

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その後も雨は降り続いたが、なぜか水位はそれ以上上がらず、結果的には事なきを得た。なぜだろうか?よくわからない。ただこの2日間、殆ど雨、雨季は終わっていなかったばかりか、更に続いていたのだ。タイとミャンマー、バンコックとヤンゴンでも気候はかなり違うようだ。

 

美味しい炒飯を食べ、フルーツを食べ、何だか実家でボーっとしているような気分だ。既に私には実家というものがない。ここが実家になるのかもしれない。TTMは『我々は家族だ』とよく言う。私も段々そう思えてきた。息子もそう思うだろうか。

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タクシーを呼んでもらい、空港へ向かう。既に水はある程度退いており、靴が嵌ることはなかった。しかし車が走り出すと、至る所で水が浮いていた。ミャンマー人は洪水になれており、この程度なら裸足で傘を差して歩いている。そこで生きていく、ということは全てを受け入れなければならない。私はまだミャンマーの全てを受け入れることはできないようだ。

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空港に着くと、呆気なくTTMと別れた。まあまた会えるだろう、と思うので。空港のフリーWiFiは繋がりにくいので、カフェに入り、ネットを繋ぐ。ようやく現世と繋がったような気分になる。今回はシャン州の山の中で世俗と離れた生活を送った。これはとても大きな経験だった。

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ミャンマー決死行2014(12)ヤンゴンの愛ちゃん

7.ヤンゴン2

ヤンゴン渋滞と橋完成

それからまた高速道路に戻り、残り半分を消化した。思ったより早く着いたなと安堵したが、ヤンゴン市内に入る道は渋滞だった。渋滞というより、道は3車線あっても、1車線は路上駐車、1車線は露店が出ている状態で、その中を歩いて道を渡る人、荷車を押す人、などが行き交い、車のスピードなど殆どでない。これが解消されれば、かなり早くなるはずだが、急に車が増えたからと言って、長年の習慣は変わらない。

 

我々はTTMの家を目指した。Tさんがわざわざ送ってくれたのだ。マンダレーから来るとヤンゴンの西にあるTTM家はそれほど遠くない。しかし道の整備も遅れており、なかなか進まない。マンダレーではこのような渋滞は見られない。やはりヤンゴンだけが特別な状態になっている。

 

そして一番恐れていたのが、橋。前回8月に行った時も、最後の橋を渡るのに、1時間以上かかった。これはきつい。ところが今回行ってみると、何と新しい橋が完成していた。年内にできればよい、と言われていたのが、意外な速さ。嬉しい速さ。橋の上をあっと言う間に通り過ぎ、対岸に着いてしまった。これまでの苦労は何だったんだろう。6時前にはTTM家に到着した。感激。

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TTM家の愛ちゃん

まずはTさんと今回得たミョーテイ村の茶葉を分ける作業をした。茶葉は何種類にもわたり、分けるのも大変だった。そして名前がどうもハッキリしない物もあった。とにかくこのお茶をTTM達に飲んでもらい、その感想を聞こうということなった。そしてTさんは帰って行った。明日からまた仕事だそうだ。とにかく今回の旅に連れて行ってくれたTさんには感謝だ。

 

そして今回ミャンマーに来たもう1つの目的、それは生まれたばかりの愛ちゃんに会うことだった。9月に生まれたばかりのSSの娘、愛ちゃんだが、実に大きい。生まれた時すでに4500gあったらしい。今やもう6kgを越え、抱っこしてもその重みがすごい。そして抱っこしていないとすぐに泣く。これには困る。日本では抱き癖が付く、などと言って抱っこしないようにするのだが、母親のSSは『なぜ泣いているのか分からないのが不安。泣いて欲しくない』と言ってすぐに抱っこしてしまう。でも相当の重さなので、TTMやTTMの妹たちも代わる代わる抱っこする。一家総出で愛ちゃんにかかりっきりだ。

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雨季に生まれた愛ちゃん、紙おむつなどは使わないので、洗濯も大変だった。TTM妹が洗濯して、乾して、それからアイロンを掛けている。大変な作業をしている。当の愛ちゃんはにこにこ笑っていたり、急に寝てしまったり。赤ちゃんだから仕方がないが、周囲が騒ぎ過ぎかもしれない。いや、皆嬉しくて騒いでいるのかもしれない。それでももう50日、疲れてきただろう。

 

夕飯は何と手伝いに来ていたSS旦那のお母さんが作ってくれた。これがとても美味しくて驚いた。どうしてこんなに美味いのだろうか?聞けば、以前レストランをやっていたらしい。プロなのだ。一味違う。ミャンマーのスープは今一つだ、などと思っていたが、義母さんのスープはとてもいい味が出ていた。もう一度レストランをやって欲しい、と真剣に思う。それにしても日本では義母が食事を作り、それを嫁とその母が先に食べるなど、あり得ない光景だろう。

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リビングのテレビでは日本のNHKが映っている。SSは大好きな韓流ドラマばかり見ているようだが、私がいるので日本のテレビにしてくれていた。何かニュースでも起こっていないかと見たが、特に世の中に変化はなかった。というか、本当に世の中で起こっていることはこの画面で見ることはできない。その思いはどんどん強くなる。

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この家にはWiFiがない。これは致命的だが、この付近の回線が一杯とかで、設置できないらしい。それでもスマホを使えば、WiFi機能があるというので、問題ないと思っていたが、やはり使えない。使用料金を払っていないらしく、SSの従妹に支払ってもらったが、それでも使えなかった。別のスマホを持ち出して繋いでみたが、何とも遅い。やはり夜はダメなのかと諦める。

 

夜は2階の部屋を使わせてもらった。ミョーテイ村の涼しさに比べれば相当に暑いが、既に11月、それほど暑いとは言えない。それでも我が息子がこれからここに世話になる、ということで、TTMがクーラーまで設置していてくれた。そしてもう要らないかと思っていたが、蚊帳も。ところがなぜか夜中に何か所も蚊に刺されてしまう。何があったのだろうか。よく眠れない一夜を過ごす。

 

11月5日(水)

大雨と断水

朝は7時前には起きたが、雨が降っていた。もう雨季は終わったのではないのか。それも雨足がどんどん強くなる。そして困ったことに大雨とは反対に、家じゅうの水が出なくなっていた。どうやらモーターの故障らしい。どうするんだ?TTMはどこかに電話を掛けている。義母さんは黙々と朝ごはんの支度をしている。朝飯も豪華だった。美味しいというとどんどん出てきてしまうので、黙って食べたが、美味かった。

 

食事が終わった頃、職人さんがやって来た。すぐにモーターを治していった。昔のヤンゴンでは考えられないスピードだった。近所の人の知り合いらしいが、それにしても便利になったものだ。早速TTMは2階でお湯を沸かしてくれた。お湯をためておいて、それを浴びて入浴した。気持ちが良い朝になった。有難い。

 

そして愛ちゃんを抱っこしたり、ダラダラしている内に昼になり、またご飯を食べた。特に何も予定を入れていないので。本当にダラダラ生活になる。SS旦那は昨夜、いや今朝、仕事先であるミャワディから車で戻ってきていた。彼の国境貿易にもとても興味があるのだが、とにかく今は皆が愛ちゃん中心に回っており、ゆっくり話もできない。

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ミャンマー決死行2014(11)厳戒態勢のネピドー

6.ネピドー

厳戒態勢のネピドー

帰りにネピドーに寄ってもらった。ちょうどマンダレーとヤンゴンの中間に位置する人工都市。2003年頃から軍事政権下で極秘裏に建設され、2006年に首都移転、突如現れた一夜城。『行っても面白くない街』と色々な人から言われていたが、実は一層興味が湧いていた。一体どんな風につまらないんだ?

 

行きは高速道路から街の端を眺めただけだったが、それでもいくつか建物が見えた。今度は高速を降りて街へ向かう。街の入り口には検問があった。なんだここは、入ってくる者を一々全てチェックしているのか?横を見るとASEANサミットの看板が出ている。これだ、来週はオバマも安倍も、アジアの首脳たちもここにやってくる。それで警戒厳重なのだろう。

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それにしても車が少ない。殆どいないと言ってもよい。だからこんなにチンタラ、1人ずつ身分証をチェックできるのだ。我々は外国人だから、『入境禁止』にならないか心配したが、特に誰何されることもなく、通り抜けた。まあ1週間以上も前なのだから、チェックはするものの、緊張感はないのかもしれない。

 

街は本当に広々していたが、車も走っておらず、ましてや道を歩いている人は皆無。一体ここは何なんだ。役所は全てここに集められていると聞いたが、どこにもそれらしい建物は見えない。あとで探してみると、ある一角に各省が1つずつ広大な敷地を貰っており、入口の門は見えるが、建物は全く見えないことが分かった。ずらりと並ぶ官庁街を想像していた私は、全く間違っていたのだ。百聞は一見に如かず。

 

車で回るも、広すぎて、行けども行けども先がある。1つの広大な都市を人工的に作るというのは途轍もないエネルギーなのだろう。郊外には駅があり、空港も作られている。何とも広い道路があった。片道十車線、両側20車線、何故こんなものが出来たのか。恐らくは航空機のスクランブル発進用なのだろうが、これまでの旅で見たこともない広さだった。軍事政権はここで何をするつもりだったのだろうか。西側との戦闘、少数民族との戦いを想定していたということか。

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ホテル街がある。国際会議などを首都で開くために誘致したのだろう。来週はどこも満室だろうが、今はひっそりしている。ホテルとホテルの感覚もかなり広く、隣のホテルに遊びに行くにもちょっと歩く感じ。国際的なホテルチェーンはあまり見られなかったが、規模の大きなホテルばかり。ここは私のような者がフラッと来る場所ではないな、と感じる。それでも動物園や宝石博物館など観光客向けの施設もあり、最近は家族連れなどが遊びに来るとも聞く。ミャンマー人なら必ず行く、お寺も完備されている。ヤンゴンのシェンダゴンパゴダに似せているらしい。

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道路にはバス停があるが、バスは一度も見なかった。屋根のあるバス停に人が2₋3人所在なげに座っていた。あれはバスを待っていたのか、単に暑さしのぎだったのか。車で来ない限り、何もできない街だった。特に今は、警備の人々だけが目立つため、車から降りて写真を撮ることすら憚れた。道路の草木を手入れする労働者だけが、異質なものとして、そこに居た。

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ランチを食べるところもない。レストラン、が道路沿いにある、ということもない。食べるところは基本的にホテルか。我々はショッピングモールへ行く。きれいなモールだが、お客はあまり居ない。本当に人の気配のない街だ。それでも主要官庁が揃っているのだからそれなりに人口はあるはずなのだが。家族をヤンゴンに残す単身赴任が多いと聞くので、役所と家の往復、昼間は外に出ている人口がない、ということだろう。

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モールにはレストランがいくつか入っていた。その中の1つに入ると、日本人の出張者と思われる一団がご飯を食べていた。暑いミャンマーに来ても、ちゃんとスーツを着て、ネクタイをしている者までいる。こういう姿を見ると、申し訳ないが、現地には溶け込めないな、と思う。勿論1₋2日で帰ってしまう人々なのだが、どうなんだろうか。まあ、逆に日本人であることを強調するにはいい出で立ちかもしれない。中国人と間違えられていいことはあまり無い。韓国人はどうなんだろうか。

 

入った店はヤンゴンにもあるチェーン店。頼んだ麺を食べてみると何とも味の素。具は沢山入っていてよいのだが、ウマイとは言い難い。今や段々見なくなった味の素、ミャンマーではまだ沢山使われている。ミョーテイ村の麺が懐かしい。自然が一番だ。アイスコーヒーも妙におしゃれで違和感が。

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私のネピドー体験は僅か2時間ほどで終了した。でもこの2時間で十分ではないだろうか。歴史のない、人工的な、人影のない街は、私にはそぐわない。自分が一体どんな街に行きたいのか、はっきりさせるのによい場所を訪れたことになる。

 

ミャンマー決死行2014(10)発展していないマンダレー

メミョーの牧場

車は3日前に走った道を戻って行く。が、3日前がかなり昔のように思えるほど、ミョーテイ村の衝撃は大きかった。メミョー手前に牧場があるというので、寄って見ることになった。ところがなかなか見つからない。表示も何もないので、Tさんも以前の記憶が頼りだ。ようやく見つかり中へ。

 

ここは牧場というより、ちょっとした自然公園にレストランが併設されている感じ。かなり奥まで行ってみたが、馬が少しいただけだった。これから牛を入れてテーマパークになるのだろうか。それでもミャンマーとしてはきれいな造りの庭があり、いい感じではある。ミャンマー人の国内旅行ブームが始まりそうな中、今後が楽しみだ。

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レストランまで歩いて戻り、食べ物を探す。プリンが目に入ったので頼んでみる。思ったほど甘くなく、まあまあ美味しい。プリンもお茶もそれほど値段は高くはなく、お客さんも結構入っており、取り敢えずは成功なのかもしれない。家族連れが多くみられ、これからのマイカー時代の到来を予感させる。道路を見ると、中国製の大型バスが停まっていたが、乗客はいない。何と中国から新品の輸送中だったのだ。これからはバスもどんどん増えていくだろう。ビジネスも従来とは変わってくるかもしれない。

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因みに道路を何となく眺めていると、車のナンバープレートは圧倒的にヤンゴンが多い。やはりヤンゴンばかりに車が集中しているのかと思いきや、『ミャンマーでは輸入された場所で車を登記して、その後地方へ持って行っても登記変更しないことが多い』とTさんに説明されて納得。

 

それからメミョーを走り抜け、3時間ほどでマンダレー市内へ入った。まだ暗くはなかったがTさんが予約してくれたホテルへの道が良く分からない。道には番号が付いていて簡単だと思ったのだが。それでも何とか到着すると、そこには目立つ立派なホテルがあった。

 

5.マンダレー

発展していなかったマンダレー

そのホテルは周囲を圧する高いビル、如何にも華人がやっている感じだった。フロントでは英語が通じ、サービスもよかった。10年前にマンダレーに宿泊した時も、ミャンマー内でこの街だけにはホテルサービスというものが感じられたのを覚えている。ようはお客のニーズにこたえようという姿勢があることだ。

 

部屋は広くはないが、きれい。とにかくミョーテイ村ではシャワーすら浴びていなかったので、まずはシャワー。お湯が出るのが何とも嬉しい。久しぶりに爽快感を味わう。日本人は何と言っても風呂が大切、と実感する。ただこの部屋はきれいなのだが、シャワーの水周りは悪く、トイレに行くのは大変。ミャンマーはまだまだ見掛けを整えている段階だと強く思う。

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既に暗くなっていた。夕飯に出掛ける。10年前に泊まった旧市街とは違い、この付近は新たに拡張された土地のようだ。殆ど見覚えはない。ヤンゴンが急速な発展を遂げていることを考えると、第2の都市マンダレーもさぞや発展している、ビルが乱立しているでは、などと想像していたのだが、大きな間違いだった。どうみても、ミャンマーの田舎街に毛が生えた程度。これはどうしたことだろうか。

 

新しくできたマンダレー初のショッピングモールに行ってみたが、店も閑散としており、お客も殆ど歩いていなかった。街にも人はあまり見られない。寂しい感じだ。日本ではミャンマーの発展が伝えられているが、発展しているのはヤンゴンだけ、後の都市は以前とそれほど変わらないことを証明している。この実態を見ないでミャンマーを語ることなかれ。

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それにしても10年前は中国人がどんどんやって来て、投資をしていた。『マンダレーは中国人の街』とまで言われていたのだが、その中国人が土地を押さえたのに、開発しなかった、というのは、余程儲からないのだろうか。少なくともこの2₋3年、民政移行後は少しずつ開発が進んでいてもよさそうなものだが。

 

夕飯はTさんが行ったことのあるレストランへ行く。ビールが飲める2階建てのオープンな空間、そこには大勢の客がいた。やはりビールが飲めるところに人が集まるのだろうか。でもビールのつまみに、スイカが出てきた。何だか新疆ウイグルのラマダンの夜、を思い出す。食事は中華系、従業員はインド系、客はミャンマー系、何だか面白い取り合わせだ。

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その夜は久しぶりのネット接続で、メールなどを処理した。3日間全くネットを見なかったが、既に必要な所には、接続不可と連絡してあったせいか、特に重要なメールはなかった。これからは時々接続不可、と事前連絡して、雲隠れしようか。ミョーテイ村での生活は自然で快適だったな、と今になって思う。

 

11月4日(火)

朝飯

翌朝は早めに起きる。山の上とは異なり、街の喧騒で夜が明ける。このホテルの最上階がレストランになっており、ここで朝食を食べる。昨晩は暗かったが、ここからマンダレー市内が一望できた。やはり高い建物はあまり無い。落ち着いた街並みが広がっている。これはこれで好感が持てる。

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朝食は在り来たりのビュッフェだったが、ここ3日間毎日カオソイだったので、これも新鮮。自分ではあまり自覚はなかったが、山に行ったことで、何か感覚が変わっているのかもしれない。このホテルは出来たばかりなのか、お客はあまり見かけない。マンダレーもホテルは増え過ぎなのだろうか。

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朝食後、ホテルを離れ、再び車で高速道路へ向かう。10年前、雨季に来て、この辺が大洪水だったことを懐かしく思い出す。今や道は整備されているが、洪水が来れば防ぎようはないかもしれない。空港へ行く道から高速に乗る。

 

また高速道路の単調な旅が始まった。しかも既に一度通っている道だから、ワクワク感もない。消化試合、という雰囲気で、ミョーテイ村訪問の反省会のように、Tさんと話をする。今回の旅は一体なんだったのだろうか?との思いが強い。何かの啓示なのか、単なる試練だったのか。今後に繋がる何かが見えたが、Tさんのお役にはあまり立たなかったようだ。これは申し訳ない。

 

ミャンマー決死行2014(9)チャウメイ 再びバイクで決死行

再びバイクで決死行

そしてついに宿泊先の前にバイクが停まった。村長の息子ともう人の若者がスタンバイしていた。急いで荷物を纏めて、下に降りる。今回茶葉を色々と頂いたので荷物が増えている。バックは運転手が股の下に挟んで運ぶ。これだって大変だろうが、もう慣れている。バイクは行きのスクーターではなく、少し大きいバイクが来た。後ろに乗るのも簡単ではなく、足の短い私は跨ぐことができずに苦労した。

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そもそも私は一昨日来た時に『帰りはバイク以外の乗り物で帰りたい』と強く主張し、村人も『そうか、分かった』という感じだった。現に乗合小型トラックが走っているのも目撃していたので、全く手段が無い訳ではない。だがその願いも空しく、無視された。というか、その乗合トラックは朝6時に下の街から出る。ということは朝の5時にここからバイクで行かなければ間に合わず、山から下りるバイクが一番怖い、しかも真っ暗な訳でそれは避けられない。更にはそのトラックでも相当の揺れがあり、十分に怖い思いをする、ということで、自然却下となっていたようだ。それでは仕方がない。またバイクにお世話になろう。

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若者の後ろに乗り出発したが、彼は外国人を乗せた緊張からか、実にゆっくり運転していた。これは本当に怖かった。手の皮は一昨日かなり剥けており、まだ治っていないので、無理してバーを掴むことも出来ない。彼は特に急な下りに慎重で、下りのスペシャリスト、村長の息子にスピードに全く付いていけない、どんどん引き離される。もしここでバイクがこけたら、探しに来て来るのだろうか。

 

村の入り口に着く。ここでなぜか休む、まだ30分しか経っていないのに。それが彼らの掟なのかもしれない。素直に従う。茶葉が今日も干されている。既に茶摘みをしたのだ。昨日作ったばかりの茶を頂く。いい雰囲気だ、本当にここは。

 

我々以外に道を走る者などいない、そう思っていると同胞がいた。朝チャウメイに向かう村人や近隣の人々は結構いるのだ。その代り道が狭く危険なので、スピードは更にでない。追い抜きも難しい。例の比較的大きな街に出ると、急に視界が開けた。バイクに風が気持ち良い。写真を撮りたかったが、今日は休憩なしに一気に走り抜けた。

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途中の道路脇でまた休憩。そこへミョーテイ村の例の中国人が追い付いてきた。彼も商売のため時々チャウメイに出て、売り物を買ってくるらしい。と言ってもバイクだ。積める物は限られているが。バイクがない時代はどうしていたんだろうか。歩いていたのだろうか。ちょっと考えられないが、なければ仕方がない。

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都合2時間ほど行った所で、本格的な休憩所に入る。店があり、ご飯を食べる。既に多くの人が食べている。お昼は12時、などと言う感覚はここにはない。朝明るくなると起きるのだから、すでに一日の半分は過ぎている。ここで麺を食べてみたが美味しくはなかった。やはりミョーテイのカオソイがいい。

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3時間経ち、ついに山を下り切った。今回も手のしびれが尋常ではない。体がこわばっているのは気温が低かったせいだろうか。それでも体は山道に相当慣れており、かなり的確に反応で来ていた。しかし平地に着いて安心したのもつかの間、今度は猛スピードで走り出す。60㎞は出ていた。更には何と女子高生にバイクで追い抜かれ(彼女のスピードは尋常ではなかった)、発奮した若者は更にスピードを上げる。私は体が対応できない。全身に痙攣が来そうだ、と思った頃、懐かしいお茶屋が見え、バイク旅は無事に終了した。生きていてよかった、または生きていることの実感が、真に味わえる旅だった。

 

人間、偶には冒険しないといけない。冒険すると自分が生きていること、今どんな立ち位置にいるかも、よく分かってくる。今回のバイク旅、当初は何も考えられず、ただ恐怖だったが、最後の方は、自らの旅の意味を少し考える機会となった。とは言っても、もうこれはしたくない。あとで聞いてみると『マンダレーでランドクルーザーをチャーターすれば、村の近くまで直接行ける』とのこと。今回は2人だったのでコスト面が合わなかったようだが、次回は4₋5人でランドクルーザーにしよう。

 

チャウメイの茶商

疲れが出ていた。茶問屋に入ってお茶でも貰おうと思っていると、この店のご主人がチェンマイから戻ってきていた。彼の病気は大したものではなかったようだ。元気に歩いていた。街の知り合いの人々が次々に見舞にやって来たから、今日戻ってきたのかもしれない。お茶を飲みながら、ミョーテイ村での出来事を報告した。この店の主人が、実質的に村の外交を仕切っている。

 

彼は自分たちの緑茶の売り先を何とか伸ばしたいといい、日本へも輸出できないか、と聞く。だが率直に言ってこの味は日本人にはなかなか馴染めないだろう。中国の緑茶ですら、日本では難しい。かと言って、そういってみても始まらない。まずはミャンマー国内で売り先を増やすのが先決ではないだろうか(南シャン州の緑茶の方が飲みやすいとも思えるが)。また茶葉そのものは良いのだから、何か改良などの工夫が欲しい。日本の茶農家など専門家の支援があればよいのだが。

 

今朝発作でチャウメイに搬送されたという宿泊先のご主人も、この店の奥、2階で寝ていた。取り敢えず発作は収まったようだったが、顔はかなり疲れており、辛そうな状況だった。それにしてもよくここまで来たものだ。健常な私でも相当に疲れており、フラフラなのに。これが村の厳しさか。そして今後彼は村へ帰れるのだろうか。

 

ゆっくりしていたかったが、今日はこれからマンダレーまで行かねばならないので、早々に茶問屋を失礼した。何とも呆気ない別れとなったが、Tさん運転の車は走り出してしまった。生死を共にした、バイクに乗せてくれた村人に満足に礼も言えなかった。残念。

 

街を抜けて街道へ出た。マンダレーとは反対の方へ走る。すぐに道沿いに土産物を売る店が並ぶ。そこではナムサンなどの緑茶や紅茶の茶葉も売られている。酸茶は見当たらない。やはり酸茶は下ビルマに人々が飲むお茶のようだ。特に目を惹くお茶もなく、何も買わずに立ち去る。

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