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ミャンマー紀行2004(15)マンダレー マリオネットとコンセント

(6)夕食

夕食はマンダレーの有名店『ラショーレイ』へ。シャン料理の店で人気があり、我々が行った時も既に多くの人が店にいた。西洋人も何組も来ている。きっと安くて美味い店として有名なのだろう。入り口付近に料理が並べられ、客は物を見て注文、皿に盛られてくる仕組み。1階はほぼ満員で2階へ。こちらは殆ど人がいない。恐らく2階は値段が高いのだろう。80年代中国でよくあった光景。中国の2階は外国人専用で同じものを食べても値段は10倍違った。ここは2階でも安かったが。4,050k。

 

豆のスープが出る。ミャンマー、特にシャンではスープが美味く、必ず頼んで貰うようにしている。この豆スープも絶品。料理もTTMが心得ており、野菜中心であっさりていて、非常に美味しい。感激しながら大いに食べる。一日中動き回っているせいか幾らでも食べられる。健康を肌で感じる。

 

突然TTMが立ち上がる。向こうの席に座った男性と話し出す。全く顔の広い人だ。マンダレーでも知り合いに会う。聞けば彼女がJICAに勤めていた時の上司だそうで、ヤンゴンからの出張だとか。2階に上がってくるということはきっと偉い人なのだろう。彼も同じホテルに泊まっており、一番良い部屋として5階を割り振られたが、今日はエレベーターの故障で最悪だ、とTTMが笑っていた。

 

(7)マリオネットショー

一旦ホテルに戻り直ぐにオートカブタクシーに乗り、マリオネットショーへ。オートカブタクシーは以前ヤンゴンにあったが全面禁止となり、今ではマンダレーで使われているのだそうだ。確かに古い。後ろの台車に乗っていると、もし急ブレーキが掛かったら振り落とされるだろうな、と言う恐怖感がある。暗闇の中、風を切って走る。十分に旅情を感じさせる気持ちのよい乗り物である。

ミャンマー 118m

 

マリオネットショーの切符は実は昨日購入済であった(1人、3,500k)。メイミョーに行く前にこの劇場に寄っていた。午後の劇場では観客席を利用して、劇の練習ではなく、何故か英語の授業をしていた。後で考えると人形遣いの若者に英語を習得させていたのだろう。将来を見据えた学習か。

 

TTMがここのオーナーと知り合いということで劇場の斜め向かいのマリオネット制作場に挨拶にも行った。オーナーの女性は流暢な英語を話し、物腰も柔らかく先進国の人のようであった。後で劇場の壁を見ていたら、ニューズウイークにも写真入で記事が載っていた。ミャンマーの有名人なのである。

ミャンマー 061m

 

マリオネットの製作は殆ど手作業であった。10人以上の人が細々と手を動かして働いていた。なかなか手が込んでいるように見えたが、大半は劇場で売るマンダレー土産だろうか、それ程高級感はない。1つUS$5-10 がお土産の相場のようである。してみると、このショーは土産物のマリオネットを売るための、デモンストレーションのようなものである。英語の習得も、外国人客と会話して、土産物を販売するための練習だったかもしれない。なるほど。

 

ショー自体は殆ど外国人観光客が見守る中、人間の女性がマリオネットと一緒に踊ったり、師匠(かなり高齢であるが、非常に元気。日本で言う人間国宝であるらしい)と弟子が掛け合い漫才のようにマリオネットを動かしながらトークしたりと独特であった。約1時間。先日ハノイで水上パペットショーを見た。こちらは舞台も大きく、鳴り物も大きく、迫力があったが、今日のショーはかなり精緻な動きを重視しているようであり、形態が大きく異なっていた。

ミャンマー 119m

ミャンマー 121m

 

(8)コンセント

実は今回は前回にも増して写真を撮ろうという意欲があった。デジカメも新調していた。しかしバッテリーの替えを忘れてきた。折角行ったマリオネットショーでは僅か数枚しか取れない状態になっていた。充電器は持ってきたが、コンセントが合わない。マンダレーのような都会なら何とかなるだろうと思い、ホテルのフロントに頼んでみた。

 

フロントの人は英語が出来たが、私の部屋番号を聞いて直ぐに日本語に切り替える。地球の歩き方にも日本語の出来る人がいるとある。言葉も北京語、英語、日本語と柔軟に対応する。流石商業都市。ボーイが一人買いに行ってくれることになったが、なかなか見つからなかったようだ。マリオネットショーが終わって帰ってみると探し当てたとのことでコンセントを受け取る。値段は300kであったが、預けた500kのお釣りを全てチップにあげた。

 

しかし部屋で試してみると残念ながら合わない。フロントに持って行くとボーイが再び勢いよく飛び出していき、瞬く間に買って来てくれた。流石マンダレーは商業都市である。顧客のニーズに応える対応があるし、チップにちゃんと反応する(勿論嫌らしさは全然無いので更に良い)。ヤンゴンではこうはいかない。

 

やはり北京に対する上海、東京に対する大阪のような対比がヤンゴン、マンダレーにもあるようだ。商業都市マンダレーの発展は祈りたいが、ミャンマーの良さも失わないで欲しい所。そんな贅沢なことを考えているのは、普段何も考えないで、のほほーん、と生きている私のようなものだけであろうか?中国人の増加が不安にさせる。

ミャンマー紀行2004(14)マンダレーヒルの夕陽

(3)アートギャラリー

TTMが行かなければならない所があると言う。又始まった、面白そうだ。良く分からないが行くことに。『ななえさんが居ます』誰?車は南に向かって延々と行く。一体何処に向かうのか?アートギャラリーである。そこでパガン在住の日本人が作品を展示しているとの事。又その建物は日本のNGOとミャンマー政府が建てた物。

ミャンマー 108m

 

途中大小の壷を作っている場所を通る。何軒もが軒を並べて大きな音を立てて壷を作っている。その時は気が付かなかったが、後で考えてみるとあれはミャンマーの坊さんが托鉢に行くときに持っている壷なのである。ミャンマーには一体何人の坊さんがいるのだろう。坊さんの数だけ壷が必要。小坊主には小さい壷が必要な為、色々な種類の壷を作っていた。ミャンマーでは壷作りは一大産業なのではないか?

 

40分はタップリ掛かった。マンダレーは広いなと言うとここはマンダレーではなく、アマラプラという別の街。なかなか立派な建物が見える。しかし人の居る気配が無い。漸く探し当てるとななえさんは既にパガンに帰っており、作品も無かった。残念。大きな建物の中に人が居た。そこには驚くべし、数十年前の自動機織機が数十台並んでいた。殆どが日本製。ミャンマー政府が国の機織技術を上げるため、これらの機械の導入を要請したらしい。今でも4時までは人が来て機を織っている。機械もここまで使われれば本望であろうか。しかし政府活動とはいっても現在はメンテもされているのかどうか?一部の善良な市民の手で守られているといった感じ。日本のODAが中国で批判されていたが、本当の協力は設備を入れた後にあるとつくづく思う。

ミャンマー 107m

 

(4)ウー・ペイン橋

160年前に作られた橋がある。チーク材を選び、タウンタマン湖を渡る為に1.2kmの橋を架けた。湖岸から見るとドミノ倒しのように綺麗に木製の橋が架けられている。橋には途中何箇所か休息所があり、乾季にはガンガン日に照らされる観光客を守っている。又干し上がった地面を見ることが出来るようだが、今は雨季。橋に到着すると多くの土産物屋が見える。西洋人の団体がバスで乗りつける。湖を見ると水位がかなり高い。こんな所を歩いて行くのか?大丈夫か?私は高所恐怖症、こういう所も苦手なのである。

ミャンマー 109m

 

橋の入り口に行くと、残念ながら通行止めである。もし橋から落ちたら溺れること必死である。160年前の橋、幾らメンテしているとは言えやはり危険なのだろう。西洋人が残念そうに写真を撮る。ウー・ペインは橋を作った時の市長だそうだ。アマラプラは1780年代以降2度都となった街であるが、1857年にミンドン王がマンダレーに遷都。その後大地震で街は崩壊。現在は小さな街になっていて、昔の面影は無い。

 

(5)マンダレーヒル

再びマンダレーに戻る。目指すはマンダレーヒル。時刻は6時。何故この時間かと言うとずばり夕日を見るためだ。マンダレーヒルはマンダレーの北の端にある小高い丘である。仏陀がこの丘に立ち、『2400年後にこの山の麗に偉大なる王朝が生まれるだろう』と予言したと伝えられる。(ミンドン王はこの伝説に合わせて都をマンダレーに遷都した)ミャンマー人は1時間ぐらい掛けて歩いて登る人が多い。我々は車で歩く人を追い抜いて直ぐに着く。非常に申し訳ない気分と有難みが無いなあという感覚。但し私が歩いたら夕日には間に合わない。

 

パゴダを登って行くと四方が見渡せる。絶景である。王宮が一望出来る場所、田園風景が広がる場所、列車が通って行く様子などが、楽しめる。TTMは座って瞑想を始める。SSと私は涼しい風が吹く場所を探し座り込む。本当に涼しい。隣には西洋人が若いミャンマー僧を囲み座り込む。疑問を次々にぶつけて行く。僧は英語できれいに応えて行く。爽やか。西洋人の好奇心は満たされたであろうか?

 

その横には日本人が2-3人ずつ3組。写真を取り捲り、ここには関係ない話題で盛り上がり、そして早く夕日が落ちないか、と仕切りに動き回る。西洋人が偉いとは言わない。彼らも単に好奇心を満たしているに過ぎない場合が多く、夜には忘れている可能性もある。しかし日本人のようにガイドの言葉もうわの空、深く考えずに納得したりするのはどうか?西洋人、恐らくヨーロッパ人の中には自分の感性で疑問を発し、理解していこうとする人、特に若者がいる。先にガイドブックでお勉強し大いに先入観を叩き込んでくる日本人(又は他国の人)は実際のその場所に行くことが目的となっている。真に文化を理解していこうと言う姿勢が無く、残念である。

 

夕日が落ち始める。すると突然のにわか雨。皆庇の下に逃げ込む。しかしかなりゆっくりとした動作である。雨を楽しむ人もいる。向こうでは雨に構わず、日が落ちて行く。そして雨が止み、愈々雄大な日の入りが・・?陽は何とあっさりと雲の中へ吸い込まれてしまった。厚い雲の中へ。期待して待っていた人々はガッカリした様子である。しかし私は違った。薄っすらと光が雲に反映され、何ともいえない良い感じである。大きな景色の中、こんな夕日も良いものである。

ミャンマー 115m

 

エヤワーデー川はかなり増水し、川ではなく湖のようだ。多くの木が水没し頭だけが見えている。家も水没しているのだろうか?これは自然災害というのだろうか。毎年この情景が繰り返されるのでは?20分ぐらいボーっとしたが、TTM、SSのことも考えて帰ることにした。

ミャンマー 117m

 

ミャンマー紀行2004(13)マンダレー 王宮

(8)昼食

実はTTMの生まれ故郷はここメイミョーである。軍人の父はヤンゴン郊外、看護士の母はモン族の出身でこの地とは関係が無いが、何と2人はここで知り合い結婚。TTMが生まれ、4歳までここで生活したという。流石に深くは聞けなかったが、ひょっとすると大ロマンスがあったのではないか?という訳でTTMのメイミョーへの思いは人一倍。SSなどは『何でお母さんはここが好きなの??』などと勝手に言っているが。将来SSが家を出た後はこの地に住むことも考えているようだ。何処にいってもパゴダに寄進するTTMは生まれ故郷でもやはりする。手元にあるお金は全て寄付しているのでは?寄付できない人に代わって施せば皆が幸せになるという。何とも素晴らしい。

 

昼食は中国系の寺に行く。実はこの近くにスゥエーデン人が住んでいる。言葉は全く出来ないので、毎日この食堂に来て同じものを食べる。可哀想なのでミャンマー語で何種類かのメニューを書いてあげたので、今ではバリエーションが広がった??何でここにスゥエーデン人が?TTMの話は要領を得ない。確かにヨーロッパ人が好みそうな静かな所ではあるが?

 

この食堂のシャンヌードルは確かに美味しかった。ジャージャー麺のように具を上に載せて掻き混ぜる。スープヌードルもある。S氏の奥さんが好きだという高菜漬けは私には酸っぱすぎたが。ここはTTMの奢りである。機嫌が良い。朝弁護士の家に行った際、そこの奥さんから『SSをTTMの妹だと思った』と言われて、凄い喜びようだった。ミャンマー人も若く見られることを好むのか??

 

食堂では駄菓子も売っている。懐かしいお菓子がある。メンコみたいな物があり買ってみる。外に出て子供にやり方を教わろうとしたが、SSでも言葉が通じない。近くにいる老人に仕草で示しても遊び方は分からない。仕方が無いので買ったメンコを子供にあげる。子供の戸惑う顔が何とも素朴で可愛らしい。

 

帰り掛けに食堂のおばさんに北京語で話し掛けてみる。完璧な北京語が返ってきた。彼女はメイミョーの生まれであると言ったが。この街も中国系が増えている。人口は以前30万人であったが、現在は70万人と言う。私にとっては住み易い場所になるかもしれないが、現地の人はどうなのだろうか?

 

7.マンダレー (1)マンダレーへ戻る

午後1時にメイミョー発。また専用タクシーに乗り、マンダレーに戻る。下りの景色もなかなか良く、車を停めて写真を撮ったりする。今日は雨が降っていない。勿論高原は涼しく快適。もう直ぐマンダレーという所で急に車から下ろされる。検問である。ミャンマー人も旅行証のようなカードを持っており提示。もしこのカードが無いと旅行は出来ないという。私は当然パスポートを出して簡単に通過、と思いきや少し離れた所にいたおじさんに行き成り呼び止められる。何を言っているのか分からない。

ミャンマー 100m

 

TTMが慌てて何か言う。おじさんが笑って『行っていいよ』と言う顔になる。何が何だか分からない。聞くと驚いたことに私をシャン州在住の中国系ミャンマー人と勘違いしたという。ロンジーも穿いていないし、どう見ても外国人だよね、とTTMに言うと、『あなたは本当にミャンマー人に似ている』と真顔で切り返された。でも特にショックではない。何故であろうか?

 

因みにシャン州の中国人の中には昔麻薬の密売人がいたようで、今でも警戒されている。この検問の目的も中国人の多いマンダレーに不法物資が入らないようにしているということらしい。しかしこんな検問で本当に麻薬や武器を押さえる事が出来るのだろうか?闇物資は横道から??

 

(2)王宮

2時半にマンダレー着。統一ホテルにチェックイン。どう見ても中国系。こじんまりしていて、快適そうなホテル。但しこの日はエレベーターが壊れていた。私は2階で良かったが、TTMとSSは3階まで歩いて登って行った。暑いのでこの階段上りが結構疲れる。部屋は広く湯船もあるが、結構古いホテルである。1泊、US$18。(TTM、SSの部屋、7,000k)

ミャンマー 101m

 

早速王宮へ。4時に閉まるとの情報で車をチャーターして急いで行く。マンダレーの街の北側はこの王宮が中心。かなりのスペース。敷地は一辺が3kmの正方形。高さ8mの城壁に囲まれ、物見櫓が見える。マンダレーに遷都したミンドン王が1857年から建設。その後イギリスの軍事施設となり、日本軍の侵略、撤退で建物は焼失。戦後は軍施設として使われ、一般人の立ち入りは出来なかった。最近王宮建物が復活し、外国人でも見学できるようになった。王宮入り口は警戒厳重。私のパスポートを持って運転手が2箇所も走り回り漸く通される。何で??昨日空港でUS$10を支払っており、今日は入場料を払わなくて良いのだが、何をチェックするのか?

 

王宮正面は博物館になっている。先ずミンドン王夫妻の像がある。次の間にティボー王夫妻の像がある。SSが『この奥さんがミャンマーを滅ばした』と忌々しそうに言う。確かにミャンマー最後の王ティボーは奥さんの尻に敷かれており、客観情勢が理解できない彼女はイギリスに対して無用な抵抗を試みて国を滅ぼした。まるで中国清朝の西大后のようだ。現在のミャンマーの学校教育では恐らく最大の悪者として教えられているのだろう。尚その時の王家の人々はインドに追いやられ、2度と帰ることはなかったという。ミャンマー人はイギリス人と共にインド人があまり好きではないのはこの為だ。

ミャンマー 103m

 

後ろに延々と建物が続く。『王には何人もの奥さんがいました』、とTTMが言う。面白いのは皇后がChief Queen、その下の4人が東西南北で表されてそれぞれ部屋を持っていることだ。日本の大奥は3,000人居たと、TTMに自慢??したら、『将軍は一人ずつ訪ねるのに何年かかるのか?』と真顔で聞かれてしまった。

ミャンマー 105m

ミャンマー 106m

 

ミャンマー紀行2004(12)メイミョー 雲南から来た製茶技術

茶摘み娘がいる。笠を被りロンジーを着て、靴を穿いていることを除けば、伝統的な雰囲気。なかなか良い。摘んだ葉を青年が丹念にチェックし、かなりの部分は捨てられてしまう。茶摘みの指導が行き届かないのか、茶摘み娘が新人なのか、品質管理はかなり難しいようだ。

ミャンマー 086m

ミャンマー 087m

 

建物に戻ると横に倉庫がある。中に入ると天井がとても高いが、今は使われていない。昔イギリス統治時代に紅茶の栽培をした名残だという。紅茶プランテーション、以前マレーシアのキャメロンハイランドで見たものと殆ど同じであった。イギリスはここでも紅茶を作らせていたのか。

ミャンマー 091m

 

倉庫の横の事務所でお茶を頂く。最初はミャンマー人が普通に飲む緑茶。次に台湾人と合弁で作った緑茶。このお茶は1998年に台湾人がここまでやって来て技術指導して作ったものだ。ヤンゴンまではちゃんと冷凍して運んだものの、その後船便に載せてしまい、台湾到着前に全て腐ってしまったと言うから凄い。私は結構美味しい味だと思ったが、TTMやSSは美味しくないとはっきり言う。ミャンマー人の味覚が我々とはかなり違うことは鮮明である。

ミャンマー 090m

 

輸出には懲りて現在はミャンマー国内のみで売っている。1.6kgで2,500k。昨年ビンダヤの茶農家で聞いた値段よりは大分高い。製造コストは機械によりむしろ低くなっているように思うのだが、何が影響しているのだろうか。流通コストを考えればそんなものか?少しお土産に貰った。

 

ノノの家に戻る。そこには彼の父親がいた。40年前に雲南省から移住してきたと言うが、北京語が実に上手い。雰囲気は素朴な農民といった風情である。製茶技術はこの父親が雲南から身に付けて来た。だから伝統的な中国の製茶法で作っていることにようやく納得した。

ミャンマー 092m

 

尚雲南なら何故プーアール茶を作らないのか、と聞いてみると、『ミャンマー人には合わない』の一言。やはり味覚の問題か、現地で生産するのだから、消費者のニーズに応えるのは当然である。この家のお茶の袋には中国炒茶と書いてあった。素朴な感じが良い。次回父親からここに来るまでの物語を是非聞いてみたい。

 

(6)メイミョーのコーヒーショップ

TTMが是非見せたいものがあるという。余り見るべき所のないメイミョーではあるが、コーヒーショップだと言うから驚きである。何で??到着して分かる。確かにこの街から見れば圧倒的にお洒落なお店が出現した。店の名は『ゴールデントライアングル』。何だか意味深な名前である。

 

店の前はオープンカフェ。綺麗なガラス張りで中の椅子やテーブルもヨーロッパ風。スターバックのようなカウンターでコーヒーや紅茶を注文。凡そミャンマーには似つかわしくない店であるが、ここメイミョーではOKであろう。SSは隣のケーキケースに心を奪われている。確か昨日はダイエットを強調していたのだが。まあ仕方が無い。ここなら食べたくなるだろう。

ミャンマー 093m

 

デニッシュも本格的で、私も食べたくなってしまう。ミャンマーで美味しいパンが食べられるとは、何とも嬉しい。プリンも絶品。コーヒーもいい香りがする。とても不思議な気分。雰囲気のせいであろうか?コーヒーが400k、プリンが300k、デニッシュ・ケーキが500k。大満足。

 

オーナーはアメリカ人らしい。アメリカにメイミョーのコーヒーを輸出しているともいう。日本に輸出したらどうなるだろうか?ここに住む外国人が増えればこの手の店は必ず必要になる。お金持ちのミャンマー人相手に中国茶の店でも出そうか??台湾式の茶芸館などは結構いけるかも?

 

(7)植物園

メイミョーの国立カンダウジー植物園へも行ってみた。昔からある植物園らしいが、近年日本とシンガポールの資金・技術援助が入り、綺麗になったという。これがまたやけに広い。入り口には電動カートがあり、歩かなくても回れる。しかしこれだけ環境が良く、木々が生い茂る中をカートで回ってもせっかくここまで来た甲斐が無いとばかり、皆で歩いていく。

 

池があり鴨が泳ぐ。花は咲き乱れ、花壇はキチンと綺麗に整理されている。ここには日本の庭園技術が生かされており、シンガポールやマレーシア式のイギリスガーデンスタイルでもある。ミャンマーの自然な様子からするちょっと違和感があるが、妙に落ち着く所でもある。

ミャンマー 096m

 

平日と言うこともあるのか、人は殆どいない。ミャンマーにはこの時点で観光というものは、殆どないようだった。何とも勿体無い話だが、実に贅沢な気分が味わえた。TTMもSSも楽しそうにはしゃいでいる。写真を撮りまくる。全くの自然の中、美味しい空気を吸い、花を愛でる。心の余裕ができる。ピクニック気分で愉快に遊ぶ。こんな散歩もいいものではないか?

ミャンマー紀行2004(11)メイミョー 茶工場発見

(4)朝の散歩   8月10日(火)

翌朝は6時半に散歩の約束をしていたが、もう少しで寝過ごしてしまう所だった。ミャンマーでは何故か良く眠れる。ストレスが無いのだろうか?涼しいからかもしれない。中国茶を飲まないことも影響しているようだ。好きなお茶を飲むことすらストレスになるのである。

 

朝の散歩は素晴らしい。高原の爽やかさ。軽井沢を歩いている感じ。昨日は暗くてよく見えなかった各家もはっきり見え、写真に収める。大きな庭のあるホテルでは庭先にテーブルが出ており、朝食が取れる。次回はあそこで食事がしてみたい。そんな贅沢が許される雰囲気がそこにある。

ミャンマー 073m

ミャンマー 076m

 

TTMが言う。『昔はよくハイキングに行きましたが、SS達は可哀想に行くことが出来ません』。先日話があった大学生の分散化の影響で大学はサークル活動なども自粛しているという。昔娯楽の少ない学生の為に大学が援助してハイキングが計画されていた。うーん、そうか、だからSSは歩くのが遅いのか?などと話を茶化している場合ではない。朝の爽快な中でまたミャンマーの現状に触れる。

 

ホテルに戻る途中、TTMがシャン州の揚げ豆腐を買ってくれた。これは前回ビンダヤの市場で食べて以来、私の好物になっている。朝からやはり美味い。もう朝食は要らない。しかしホテルに戻るとパンにコーヒー、目玉焼きが出る。パンにはストロベリージャムをつける。イチゴはここの名物である。コーヒーもミャンマーで一番と評判、みな地元で取れるものだ。

 

私の実家は栃木にある。栃木はイチゴの産地であり、子供の頃に何度か親戚のビニールハウスに行き、イチゴを取ったことがある。太陽が東から昇る頃、草に付いているイチゴを手で摘んでちょっと泥を払い、口に入れる。何ともいえない美味しさである。これを食べてしまうと売っているイチゴは食べられない。メイミョーではどうやってイチゴを作っているのだろうか?

 

摘んできたイチゴを親父が苦心してジャムにしていた姿が妙に懐かしい。こんなことを思い出すのもミャンマーだからだろうか?隣で食事をしている大集団がいる。Tシャツにタバコの宣伝が書かれている。どうやらタバコ会社の研修らしく、なぜか若い女性が多い。しかしこの健康的なミャンマーでタバコとは。でも発展途上国では少し発展すると男は皆タバコを吸う。中国で十数年前に何か頼み事をするときには、必ずタバコを差し出したのを思い出す。ミャンマーも発展過程に入るのだろうか?それは人々を幸せにするのだろうか?

 

朝食後部屋に戻る時、パジャマ姿で携帯電話を使っている少女を見掛ける。ミャンマーではかなり違和感のある格好だが、ここでは何となく馴染む。きっとお金持ちの娘が療養にでも来ているのだろう。しかし生意気そうなその様子はやはりミャンマーには馴染まないか?

 

(5)茶農家

TTMが行きましょう、と言う。何処へ行くのか?茶園を見に行くという。車で街中を抜けて一軒の家の前で停まる。比較的大きな家で、庭には農園があり、小作人が耕している。家には奥さんがおり、突然TTMは彼女と仕事の話を始めてしまう。何だか分からないが、SSと外を見学して時間をつぶすことになる。奥さんは繊維関係の仕事をしているようだが、どんなビジネスの話だろうか。

ミャンマー 077m

 

その後学校に子供を送っていったご主人のウタンジー氏が戻る。弁護士だと言う。因みにミャンマーでは弁護士はかなり儲かる商売のようで、彼は庭で小作を使い、携帯電話を持ち、自家用車を運転する。実に人が良さそうな感じだが、かなりのやり手なのかもしれない。彼と一緒に車に乗る。少し走ると又停まり、建物の中から一人の青年を連れ出し車に乗せる。何なんだ??

 

なぜか軍の施設を通り抜け、郊外に出ると山道に入る。段々景色がそれらしくなってくるのは嬉しい。雨の影響でかなりぬかるんだ道を登るとそこに建物が現れる。中に入ると正に製茶の最中である。釜で炒っている者あり、蒸している者あり。そこには素朴な製茶があった。

ミャンマー 083m

 

製造方法を聞こうとTTMに通訳を頼むが、話が良く分からない。その内その青年、ノノが中国系で北京語が話せることが分かり、突然全てが理解出来るようになる。北京語は本当に便利だ。製茶は中国で見られる伝統的な方法。但しここではかなり大量に茶を作っており、紅茶のプランテーション式の経営が取り入れられているように思う。それでは良質のお茶は出来ないだろうが。

ミャンマー 082m

 

外に出ると600エーカーの土地に茶の木が植えられている。広々としている。メイミョーで唯一の茶農園だと言う。年に10回以上茶葉を摘み、製茶する。20年前に始めたと言うが木は結構古い。広過ぎるためか、雑草は全く取られていない。害虫もいるようで木に被害がある。

ミャンマー 084m

ミャンマー紀行2004(10)メイミョー 夜の馬車

(2)夕食まで

既に夕方も5時半を過ぎていたが、散歩に出る。実はTTMは私を人に会せようとしていた。S氏からも名前は聞いていたが一体どんな人なのか?この高原に住んでいる日本人とは?ダリア・モーテルから歩いて3分ぐらいでその家に到着。洒落た洋風の家である。自分もこんな家に住んでみたい。

 

しかし残念ながらKさんはお留守であった。近所の人の話ではマンダレーにでも出掛けたのだろうという。TTMによればKさんは設計師でこの家も自分で設計した。道の反対側の家も彼の作品。ここメイミョーに相応しい職業である。周りには100年前のイギリス風家屋、別荘が並び、空気も最高に新鮮。住環境は申し分ない。家の前に『ひろみの家』と書かれているのは何だろう?後で分かったことにはそれは彼のミャンマー人の奥さんの日本名であった。

 

Kさん宅を後にして、歩き出す。本当に素晴らしいホテル、住宅が並ぶ。庭に大きな木があり、屋根に大きな煙突が見える。聞けば日本人でここに家を購入した人も居ると言う。但しミャンマーでは外国人は土地付き一戸建ては買えないのでミャンマー人の名前で買うのだそうだ。値段は高い所でも5万米ドルぐらい。もし将来住むつもりがあれば是非とも手に入れたいものである。

 

最近はマンダレーに進出してきた中国人が買っているという。これを中国人のミャンマー侵略と見て警戒している人々も多いと思われる。将来値段がかなり上がるかもしれない。それよりもこの絶好の環境で老後を送りたい人は必ず居るだろう。子供たちを連れてくれば喜ぶかなあ?

 

TTMはこのまま歩いて街に行き、夕飯を食べようと言う。付いて行くと最初は家々に目を奪われるが、その内辺りも暗くなり寂しくなる。道を間違えたのかと心配になる。暗くなるとそこは田舎である。本当に周りが見えなくなる。ところがTTMとSSにはどうやら道が見えるようである。ミャンマー人は停電などで暗いところに慣れている。我々日本人は文明に毒されて人間の本能を失ってしまった。

ミャンマー 070m

 

50分も歩いただろうか?何とか街に着いたときは7時になっていた。街といってもそんなに明るい訳ではなく、大きなレストランがある訳でもない。一軒の中華料理屋に入る。どう見ても中国系の一家が店をやっている。メニューも漢字併用。鳥野菜ラーメンを頼むが、非常に美味しい。これで600k。この辺りのレストランは皆薄暗いがここはかなり明るく、気分良く食事を取る。

 

SSが少し太った、と言って大そう気にしているので、人間は何故太るのかという話をした。そしてどうやれば痩せられるのか?(全て私見)本当に痩せたいらしく、一生懸命聞いてくれる。そんなに太っていないのに、可愛らしい。やっぱり若い女の子、気になる所は日本人と変わらない。

 

SSは私に真面目に礼を言う。そして『あなたの子供は幸せだ、色々教えてくれるお父さんが居て』。そうか、SSは父親が居ない家庭で育っている。勿論おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん等に囲まれていたので寂しくはなかったろうが、父親への憧れはあるだろう。全くのお節介ではあるが、私が父親代わりをやろうか?後日その話をしていたら、もう一人父親代わりがいた。S氏である。SSには親子の大切さを教わった気がする。また父親は子供にとって必要な存在であることも再認識した。

 

(3)夕食後

TTMは食事中も店で電話を借りて明日のアレンジなどに忙しい。普通は何をしているのか気になるところだが、ミャンマーでは気にならない。明日がどうなるのか楽しみでならない。帰りも歩いて帰ろうとTTMが冗談を飛ばすがとてもそんな元気は無い。見ると道に馬車が停まっている。ミャンマーで馬車が走っているのは今やここメイミョ-だけだと言う。TTMが値段交渉し、1,000kでホテルまで乗せて貰う。

 

馬の後ろに余り大きくない箱?が付いている。3人で乗り込むとかなり狭いが、何となく気分は出る。そのまま走り出す。街を外れるとあたりは真っ暗。まるでシャーロックホームズのドラマを見ているようだ。そんな中でTTMとSSは普通に会話している。やはり夜目が利く。

ミャンマー 072m

 

ホテルに戻ると未だ8時過ぎだが、やはり田舎の夜はすることが無い。空を見上げると星が出ている。ホテルの建物には屋上があり、3人で階段を登る。空には輝く星がある。満天の星空、というのとも違う何となく独特の空である。最近空を見上げることも無く、首が痛くなる。しかしかなり長い時間首を上に向けていたくなる夜空がそこにあるというのは幸せ。

 

TTMが『あの星は何の星でしょう?』と聞くが、全く覚えていない。少し前は記憶力には自信があり、覚えていたはずなのに。老化現象が始まっている。北斗七星が見える。カシオペア座かな、あれはオリオン座?日本に戻ってプラネタリウムに行き、勉強し直したくなった。

ミャンマー紀行2004(9)マンダレーの日本食堂

(3)日本食堂

そこはなんと日本食レストランであった。名前は『ホームパティー』。午後3時半で客は居ないが、店は開いていた。我々は昼飯を食べていなかった。SSが『おなかが空いたよ』という顔をしている。この店の店長アウンウィン氏が日本語で『カツ丼食べる?』と聞いてきた。

ミャンマー 057m

 

この店はこのアウンウィン氏と日本人のI氏が開いた店だという。I氏は台湾を経てマンダレーで日本語教師をしており、その時の生徒であったアウンウィン氏と意気投合して、2年前に庶民的な日本食の店を開いたというのだ。確かにカツ丼が800kとはかなり安い。ご飯はミャンマー米だったが、それでもカツ丼に合う米をかなり探した結果という。TTMの注文した中華丼、SSが食べている唐揚げも日本の味がして、美味しい。マンダレーで日本食とは嬉しい驚き。

ミャンマー 059m

 

話を聞くとじつのところ、店の経営は大変のようだ。この料金で店を維持するのは容易ではない。家賃、給料に不足が生じてしまい、今I氏は日本に帰ってアルバイトで店の経費を稼いでいるという。そして先日ある日本人の手を経由して、ここにお金を送ってきた(日本からミャンマーへの送金は簡単ではない)。詳しいことは何も分からないで勝手に解釈すれば素晴らしい話である。

 

逃げ出すことも無く、店の為に仕送りを続ける日本人、その日本人を信じて給料遅配にもめげずに頑張るミャンマー人。ある種の理想的な関係を見るようである。この食堂には是非頑張ってもらい、日本とミャンマーの架け橋になって欲しいが、現実がそれをどこまで許すだろうか。

 

因みにこの店の客は日本人の他、I氏が北京語が出来ることもあり、中国系も居るとか。マンダレーは商業の街であり、中国人が大量に居ると聞いている。更にミャンマー人のファンも着実に増えているようである。店の寄せ書きノートを見たSSが笑いながら解説。ミャンマー語で『君の名前が知りたくて毎日通っている』と書かれたページもあるとか。何と純粋な。

 

6.メイミョー

(1)メイミョーへ

4時過ぎに食堂の前から車に乗り、メイミョーへ。メイミョーはマンダレーから約70km、標高1,100mの高原である。現在の名前はピンウールィンというが、昔の名前であるメイミョーの方が通りが良い。酷暑のマンダレーからすれば天国。昔イギリス人の避暑地として開発された街。

 

車はマンダレーの郊外に出ると給油。道端に掘っ立て小屋のような、ボトルにガソリンを詰めたガソリンスタンド?が沢山ある。最近は原油が高騰しており、当然この国でも大きな影響がある。1ガロン180kの公定価格に対して闇は1,200kである。勿論公定価格で手に入る量は限られており、皆闇で買うのだが、今回も1箇所では必要なガソリンを確保できず2箇所に寄ったほど。

ミャンマー 064m

 

途中から上り坂になり、段々高くなる。景色も良くなる。日光のいろは坂のようだという人もいる。マンダレーは蒸し暑かったが、どんどん涼しくなっていくのが分かる。運転手はマンダレーとメイミョー間を走る専用タクシーであり、道は心得ている。かなりのスピードでトラック、バスなどを追い抜いて行く。けたたましくクラクションを鳴らし、道を譲る車には窓から片手を突き上げて感謝の意を表す。その姿が何とも格好いい。1時間半ほどでメイミョー着。結構疲れる。

 

ミャンマー旅行から戻る際、バンコックで1冊の本を買った。ネル・アダムスの『消え去った世界』である。このシャンの藩王の娘はここメイミョーの聖ヨゼフ修道院に通っていた。それによると『街の名前メイミョーはメイ連隊長の町という意味』で街の真ん中にはビクトリア女王から贈られたパーセルタワーと呼ばれる時計台があり、ロンドンのビックベンと同じ音だと信じられていたという。ちょうどその時計台の横を通過したが、今も鳴っているのだろうか。

 

しかしメイミョーの街を過ぎても車は止まらない。更に高い所へ車は突っ込んでいく。10分ぐらいしてかなり山の中に入ったと思うと、そこに今夜の宿、ダリヤ・モーテルがあった。如何にも高原のホテルといった雰囲気が良い。TTMは何度か泊まったことがあり、SSもつい先日姉のPPと泊まりに来たばかりと言う。1泊、US$10は安いか。(TTM、SSの部屋は8,000k)

ミャンマー 068m

 

SSによれば、先日の部屋は電気もお湯も無かったとのこと。今日はどうだろうか?私は外国人ということで『偉い人が泊まる部屋です』という良い部屋に通される。部屋にはベランダが付いており、そこにある椅子に座れば、寛ぎながら外を眺めることが出来る。快適だ。

ミャンマー 066m

 

TTMとSSの部屋は奥まったところのようだ。外国人とミャンマー人で待遇が異なることは仕方が無いことではあるが、何だかとても申し訳ない気がする。私が女なら3人一緒に泊まるのに??外国人とミャンマー人が同じ部屋に泊まる、それは可能なのだろうか?いや、今回の位置付けは、お客とガイド、ということだろうか。

 

ミャンマー紀行2004(8)マンダレー 行き先が勝手に変わるフライト

5.マンダレーへ

(1)ルート変更

10時45分発のヤンゴンエアーは12時過ぎに漸く搭乗となった。空港待合室で約2時間待ったことになる。普通であればイライラして大変な私であるが、この国に入ると全てのイライラがなくなるから不思議である。寧ろ遅れを楽しみ、何が起こるか興味津々の自分がいる。可笑しな事だ。

ミャンマー 051m

 

搭乗するとトートーマ(以降TTM)が私の方を振り向いて顔を顰める。『ヘーホー行きです』何?我々はマンダレーに行くのである。S氏から以前ミャンマーの飛行機は突然行き先の順番を変更することがあると聞いたことがある。その時は笑い話にしていたが、何とその笑い話が私の身に降りかかってきたのだ。これには驚いた。しかし今更どうなるものでもない。

 

隣の席はインド系の人であった。勿論彼にはミャンマー語は分からない。初めての国内出張だそうだ。不安そうに『この飛行機は何処に行くのだ』と聞く。ヘーホーと言うと、驚いて声も出ない。私にはTTMとスス(以降SS)がいる。良かった。昨年のように一人だったら流石にパニックだっただろう。または到着するまで気が付かなかっただろうか?いや、到着しても気が付かず、ミャンマー人についてぞろぞろ降りて行ってしまったのではないか。

 

飛び立った時からかなり揺れていた。SSはTTMの肩にグッタリと靠れて目を瞑っている。どうやら揺れる飛行機に乗ったのが初めてのようで、『私の子供の時からの夢が破れた』と降りる時に呟いていた。それはスチワーデスになることであったが、こんなに揺れるのであれば無理と判断したようだ。

 

隣のインド系もかなり精神的に参ったようで、顔を覆うことが多い。ミャンマーは恐ろしい所だと思っていたに違いない。私は高所恐怖症ではあるが、何故か比較的平気である。不思議。機内食(といってもパンにソーセージが挟んであるだけ)をパクつき、紅茶をお替りする余裕があった。

 

ヘーホーに着く。懐かしいヘーホーの空港。又戻ってきた。そんな感じである。今日このまま降りてしまいたくなる。しかしティンエーマー(以降TAM)はそこには居ないのである。楽しみは後に残そう。飛行機から大雨の中を西洋人が大量に降りる。そうか、ヘーホーに先に寄った理由はこれか。ミャンマーでは降りる数が多い方が先になるのである。不可解だが分かり易い。

 

(2)マンダレー空港

直ぐに出発して25分でマンダレーに到着。昨年も一度降りたが、相変わらず広くて何も無い空港である。ターミナルに入ってみると、実に立派で国際空港並みである。何でこんなに立派な空港がミャンマーに必要なのかと思う。こんなものがODAか何か出来ていたらたまったものではない。因みにマンダレーは国際空港であった。翌々日に出発を待っていると昆明行きの中国南方航空が飛んでいるのを見た。やはり中国系が強い場所である。中国人の侵攻??も進んでいる。

ミャンマー 053m

 

人は数えるほどしか降りなかったので直ぐに居なくなる。私は外国人であるからUS$10を支払う必要がある。これで観光地はタダで見られるというのだが、出張の人にとっては何なる入場料である。別に厳しく取り立てている様子もないので、すり抜けることも出来そうだが、捕まるだろうか。真面目が売り物のTTMがそんな行為を許してくれるとはとても思えないのだが。

 

午後2時過ぎ、チャーターした運転手も可哀想に2時間以上待っていた。しかしこの空港の周りは本当に何も無い。きっとアフリカの空港に着くとこうなのではないか?まるでサバンナを走るようだ。空港入り口と書かれた所までかなりのスピードで飛ばして10分以上掛かる。そこまで建物は1つも無い。更に行くと道路工事があった。運転手によれば一週間前に大雨が降り河川が氾濫。道路も通行止めであった。我々は運が良い。しかし舗装されていない道である。洪水が引いた後、道は水たまり宜しく、完全にデコボコになっていた。

ミャンマー 056m

 

1時間で街に入る。ヤンゴンとはかなり違う。高い建物が無い。バイク、自転車が多い。何となく忙しない。高い建物があったが、それはマンダレー駅であった。但し上はホテルだという。鉄道はどの程度走っているのだろうか。一度乗ってみたいと思うのだが、TTMがそれをしないところを見ると、外国人が乗車するのは大変なのかもしれない。

ミャンマー 055m

 

先ずはヤンゴンエアーのオフィスに立ち寄り、帰りのフライトのリコンファームをする。今や香港などでは電子化され、不要となっているが、ここミャンマーでは電話ではできず、チケットを持参して、窓口で確認するのは必須だ。全ては現物確認、80年代の中国を思い出し、懐かしむ。それからTTMの友人の所に行くという。そこはいったいどこなのか?楽しみだ。

 

ミャンマー紀行2004(7)ヤンゴン チン州のお婆さん

  1. 出発まで (1)白い像 8月9日(月)

翌朝はカラオケで気分爽快??ゆっくりし過ぎて寝過ごす。朝飯も食わずにS氏と事務所へ。今朝はSSがミャンマーコーヒーを入れてくれる。何しろ今日はTTM、SSを伴ってミャンマーコーヒーの産地、メイミョーに行くのだから気分も大いに盛り上がる。SSも愛想がいい。

 

4人で空港に。S氏はタイエアーでバンコックに。我々は40分後のフライトでマンダレーへ。空港に到着してS氏が国際線ロビーへ入るとTTM、SS共に大きなため息をつき、そして『さあ、これで仕事は終わった』と伸びをする。おいおい、一応私も彼らにガイドを頼んだお客なんだけど??しかし彼らが旅行を楽しむ気分でいてくれることが嬉しいし、又これからの旅に期待が持てる。

 

S氏からは空港でお茶でも飲んで飛行機を待つように言われていたが、その時間を無駄にするTTMではない。『白い象がいます』という。良く分からないが連れて行ってもらう。空港から10分ほどで、大きなパゴダが見える。政府が最近建てた貧しい人々の為のパゴダだという。軍事政権も人気取りをすることがあるようだ。

ミャンマー 040m

 

そのパゴダの道の向かい側に白い象が飼われていた。入り口を入ると長い歩道があり、公園のようになっている。その奥に大きな屋根があり、そこに4頭の象が見える。『白い象は吉兆』、政府も象を保護しているようで、入場料はなし。と思っていたが、見に来た人は寄付をするか、500kでパンフレットを買う。やはりミャンマー政府に保護を求めるのは無理のようだ。象は運動の時間なのか、皆揃ってリズムを取って踊っているように見える。真っ白ではないが、薄いピンクの肌である。小象もいる。ミャンマーという国は明るいのか、暗いのか?きっと明るい国なのだ。

 

(2)チン州の老婆

まだ時間があるとTTMがいう。どうするのかと思っていると何と『昨日ボージョーマーケットの服屋で見た写真集に載っていたチン州のおばあさんを訪ねて写真を撮りましょう』という。え、何で??TTMは以前偶然にこのおばあさんに出会ったことがあるのだという。その折に一度写真を撮らせて欲しいと頼んでいたようで住所を聞き出していた。突然の訪問で大丈夫なのか?TTMは下手なガイドより余程面白い。

 

そのおばあさんの家は空港へ向かう道路沿いを少し入ったところにあった。雨でぬかるむ坂道を行く。周りはチン州出身者が多く住む地域だ。その中で親戚の家の裏に彼女はひっそりと暮らしていた。娘さんがヤンゴンに出て来た際に、一緒に来たのだという。彼女の部屋へ行く道はかなり狭く、S氏だったら通れなかったに違いないと皆でニヤリとしたほどだ。

ミャンマー 041m

 

簡単な炊事場と寝床。それが彼女の全てのようだ。実にシンプルな暮らし。ニコニコしていたが、少し戸惑った様子を見せていた。写真を撮らせて貰った。耳には昨日の写真にあったあの大きなカップの付いたピアスをしていた。チン州の人々の風俗は非常に興味深い。恐らく東南アジア、延いては日本の原型風俗なのかもしれない。是非一度ちゃんと調べてみたい。

ミャンマー 046m

 

因みに彼女に色々と話を聞きたかったが、ミャンマー語が通じないらしく、TTMもSSも殆どコミュニケーション出来ていなかった。残念ではあるが、人の家にズカズカ上がり込んで、いきなり話を聞くのもどうかと思って反省した。

 

(3)空港で

おばあさんの家を辞した。ついでに近くの市場に行く。朝の市が開かれていた。雨を避けながらも皆辛抱強く座って野菜や果物、魚や肉を売っている。その中で目に付いたのが、キンマ?の葉っぱを売っているところだ。1枚ずつ葉をきれいに螺旋状に積み重ねて売っている。何だろうと思い聞いてみると、ここではコーンと言い、この葉っぱにビンロウを混ぜ、併せて石灰のような白いものを入れて巻く。食べると口の中が赤くなり、苦い味がする。思わず吐き出す。10k。ミャンマーでは老人も含めて大勢の人が噛んでいる。刺激がある為、トラック運転手などが眠気覚ましに噛むものである。

ミャンマー 050m

 

そろそろ出発の時刻だと空港に戻る。ところが出発は大分遅れるらしい。エアマンダレーなどはどんどん出発して行くのに、我がヤンゴンエアーはアナウンスがない。これでS氏が言ったとおり、本当にお茶を飲むことになる。(実際にはお茶を飲むことも無く、ただ椅子に座っていたわけでクーラーが利いていて寒かった)

 

TTMが知り合いを見つけて挨拶に行く。良く見ると昨年あの日航ホテルで出会った日本人のお坊さんではないか?何でTTM が知っているの?暫くするとTTMが来て紹介すると言う。飛行機も飛ばないし、暇なので挨拶に行く。彼はこの1年間に40回ミャンマーに来たという。実は昨日はバゴーにいて、例の高僧にも会っていたとの事。世間は狭い。更にあの寺にはエメラルドを埋め込んだ高価な仏像があることなどを話してくれる。(私は見ることが出来なかったが、特に残念とも思わない。それがこの旅の良い所。)

 

又ミャンマーを訪れた中で一番印象に残っているのはモールメンの蛍だと言う。10月頃に行くと何十万という蛍が集まってくる。それらは成仏しない日本兵の魂なのではともいう。ミャンマーには無念の死を遂げた日本人が大勢いる。彼らの魂は何時癒されるのか?前述の古山高麗雄氏の『断作戦』『龍陵会戦』『フーコン戦記』の3部作を読むと普通の兵隊がどのような状況であったかが、よく分かる。我々はこの歴史を忘れてはならない。

 

ミャンマー紀行2004(6)ヤンゴン ボージョー市場のミシン

  1. ヤンゴン2

(1)ボージョーマーケット

ヤンゴンに戻ったのは3時過ぎ。予定を大分オーバーしてしまった。S氏は待ち草臥れ、SSと一緒に北野武の『坐頭市』をビデオで見ていたという。そう言えば事務所のテレビとビデオが新しい。SSの姐PPが里帰りした際、全て日本から持ち込んだ。しかし坐頭市を見てSSは分かるのだろうか?日本の印象はどうなるのだろうか?確か昔台湾人から『日本では旦那が出掛ける時、奥さんは両手をついて挨拶するのだろう?』と聞かれて絶句したのを覚えている。あれは時代劇の見過ぎだったのだ。

 

一休みしてヤンゴンの街へ。ボージョーマーケットにロンジーを買いに行く。昨年最後にTTMからロンジーを貰ったが、穿き方が分からない。今度は自分で買ってそこで教わろうという訳だ。TTM行きつけのロンジー屋で選んでもらい、隣のお兄さんに教えて貰うが、これがなかなか難しい。私が不器用なせいもあるが、何故かミャンマー人のように出来ず、最後は諦める。

ミャンマー 033m

 

因みにミャンマー人はロンジーの下にパンツを穿かない。涼しくてよいようだが、私の場合恥かしいことになりそうだ。このマーケット、昨年は月曜日に来た為休みの店も多く人も少なかったが、今日は日曜日。大勢の人が行き交う。西洋人の姿もあるが、ミャンマー人も多い。服の仕立屋はミシン一つで頑張っていた。そのミシンがシンガー、ブラザーなどの日本製。但しどう見ても30-40年は使っている年代物。コレクターがいれば泣いて喜びそう。

ミャンマー 034m

ミャンマー 035m

 

(2)チン州のお茶

ミャンマーの西の端にチン州という所がある。そこから出てきた服屋さんがあった。TTMの仕事先だ。何でも和服の帯を作っているとか。かなり綺麗なデザインである。ミャンマーにも色々なところがある。見ていると日本人の一団が入ってくる。やはりこのデザインは日本人には魅力的。

 

お茶が出た。美味しい。チン州のお茶かと思ったが、カチン州の緑茶であった。カチンはミャンマーの一番北の州。雲南の影響でお茶が採れるのだろうか?一度訪れたいと思っているが、簡単に行ける場所ではない。『フーコン戦記』のフーコン谷地があるところでもある。日本兵が彷徨って、死に絶えた場所である。ところでチン州であるが、ここはインドと国境を接しており、イギリス統治時代にダージリンから紅茶のプランテーションが導入された。戦後作られなくなったが、最近ミャンマー政府が紅茶製造を再開したという。但し規模はまだまだ小さい。

 

外国人が旅行するには未だ制限がある。何故ならごく一部の学生が反政府行動を行っているからだという。そういえばヤンゴンでは最近各大学を郊外にバラバラに移転しているとTTMから聞いた。お陰でSSは友達に会えないと嘆く。政府が大学生の反政府活動を恐れているからだろうか?

 

こんな話をしてくれるのはこの店の主人。しかも全て英語である。どうやら教会の関係者らしい。更に外国人が出版したチン州の写真集を見せてくれる。風景もあるがそこにはチン州の人々が写っている。小さい時に頭に刺青。刺青を彫る際にはその穴は頭蓋骨まで達している。スペイン辺りの女性のように子供の時に耳に穴を開け、大きなピアスをしている女性もいる。

 

マーケットを後にして直ぐにシティーマートに行く。さっきのカチンの緑茶を買うのが我々の目的。TTMと私のコンビは行動が早い。したいと思うと直ぐに行動に移す。心地よい。1,000kで1箱購入。ついでに物価チェックをするが、昨年と殆ど変わっていない。コーラなどは寧ろさがっているようだ。(その後の政府発表では物価は上がっているようだが)

 

(3)夕食

夕食はオーバーシーズレストランでフィッシュヘッドカレーを。昨年ここで美味しいカレーを食べた。その後香港でも探したが、美味しいものは無かったので、楽しみにしていた。どんどん中国人が増えていること、中国系ミャンマー人もそれに合わせて潤っているのか、店は繁盛していた。

 

客で携帯電話を持っている者が目立つ。家族連れの身なりが良くなっている。しかしそれに応じてサービスが悪くなっているようだ。量が少なくなっている。そして何よりカレー自身が骨ばかり。実が無くなっていた。残念。この店を見ていると今後のヤンゴンの変わって行く様子に悪い予感がしてしまう。

 

夕食後カラオケに行く。ヤンゴンでカラオケ??場所はホテル??名前はケイパラダイス??何だか不思議な感じ。そこはミンガラガーデンに近いホテルである。元はホテルの部屋であったが、客が入らず、部屋をカラオケルームに改造した。と言っても部屋はそのまま。カラオケの設備を入れただけ。更にミャンマー語以外の歌を歌う場合はエンジニアが登場し、アレンジ。何と英語、日本語、韓国語と揃っている。

 

SSは昼間我々を待っている間も練習していたらしい。早速1曲。何と歌は桑田圭祐の『ツナミ』である。そして『Say Yes』。ミャンマーでドラマが流行し、武田鉄矢は相当有名らしい。SSは日本語も上達したが、日本の歌も上手く歌える。それから『なごり雪』。そして『妹よ』。ミャンマーで流行った日本映画に挿入されていたとかで、ミャンマー人も良く知っている。ヤンゴンで聞く『妹よ』、何となく感慨深い。やはり感覚的にはミャンマーはこの時代に近い。私もTTMと『分かれても好きな人』をデゥエット、何だか変な気分。皆で思いっきり歌い、お茶やジュースを飲んで、2時間で13,000kとか。未だ2日目であるが相変わらず中身の濃い旅を続けている。