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ミャンマー紀行2005(1)ヤンゴン 3度目のミャンマーへ

《ミャンマー紀行3》

 

2003年8月、2004年8月と2年続けてミャンマーを訪れた。この旅行で受けた衝撃??は大きかった。ミャンマーにどんどん吸い寄せられていく自分がいた。友人に会う度にミャンマーの良さを伝え、旅行に行くように勧めた。しかし私は本当にミャンマーを知っているのであろうか??過去2回は決められたルートをただ回っただけではなかったのか??スス(以降SS)からメールが来る。『旅行会社を作りました』???どうやらトートーマさん(以降TTM)が動いたらしい。私は雨季のミャンマーしか知らない。季節の良い乾季に行って見たい。

 

今年は1つ問題があった。長男の受験である。香港に住む者が日本の高校に入る為には冬に日本に戻って受験しなければならない。当然家内も同行する。小学校に通う次男の面倒は私が見ることになる。やはり無理か??弁当の作り方を習い始める。ところが神様はどうしたことか幸運を我が家にもたらした。11月に長男の高校入学が呆気なく決まってしまったのだ。香港で受験できた高校が入れてくれたのだ。これもミャンマーの吸引力のせいか??早々にチケットを予約する。こうして僅か1年半の間に3回目のミャンマー旅行の道が開かれた。

 

1月15日(土)

1.3度目のヤンゴン

(1)ヤンゴンまで

毎回バンコック経由である。だいぶ慣れてきたので、バンコック行きのフライトを1時間遅らせた。午後2時発を3時に変えたのだ。4時50分にバンコックに到着し、6時のヤンゴン行きに接続する。バンコックの空港での待ち時間を減らしたい。何故ならヤンゴンから戻った後、チェンマイに行き、帰りに5時間ほどこの空港で過ごすことになっているからである。

 

しかし香港での出発が遅れた。こうなると気持ちが急いても飛行機はなかなか進まないものである。イライラしても仕方がない。フライトを変えたことを後悔しても始まらない。地球の歩き方などを読んで気を紛らわす。ところで今回はどこへ行くのであろうか??私はミャンマーでの日程を知らない。

 

バンコックに飛行機が降り立ったのが、5時25分。何とか間に合った。しかし6時発のミャンマー行きのフライトはまるで差別されているかのように毎回ターミナルの1番端になる。重い荷物を背負ったまま、急ぐ。走り出す。15分前にようやく辿り着く。既に搭乗が始まっており、大半の乗客が乗り込んでいた。これは想像以上に際どかった。次回は元に戻そう。しかしそんな機会が果たしてあるであろうか??

 

飛行機は満席であった。何と隣は日本人男性。地球の歩き方を見ているところみると観光らしい。周りには欧米人も多いが、台湾人の団体などもいる。中国大陸から来る得体の知れない人々もたくさん乗っている。ミャンマーブームである。相変わらずあっと言う間にヤンゴン空港に着陸した。

 

(2)いつもの夕飯

空港にはこの半年で特に変化はなかった。強制両替なども復活していない。相変わらず大勢の人が迎えに出ていた。出口を出ると直ぐにSSが寄って来た。もうこれは日常生活のようだ。あの運転手が運転する車に乗る。今回はS氏とはすれ違いであり、迎えはTTMとSSの二人と言う以外には何らの違いもなくことが運ばれていく。

 

前回まではここから定宿ミンガラガーデンに行ったが、今回はTTMの家(S氏のヤンゴン事務所)に宿泊させてもらうことにしていた。これもミャンマーを知る1つの試みである。暗い中、空港から20分ほどで到着。初めてこの事務所の2階に上がり、部屋に重い荷物を置く。

 

今日の夕飯も決まっている。あのセブンアップ、SSの大好きな火鍋屋である。家からは徒歩圏内にあり、直ぐに出掛ける。今回はお隣の日本人女性Kさんも一緒である。以前お隣はSさんであったが、Sさんの事務所が引越しその後にフラワーアレンジメントを教えるKさんが入居したのだそうだ。おせっかいTTMはどうも日本人と縁があるようだ。何とも面白い。

Myanmar2005c 027m

 

暗い夜道をとぼとぼと歩く。小さい頃に田舎道を歩いた感覚が蘇る。前回は雨季で道には水溜りが多かったが、今回雨はない。車の通る道に出ると向かい側にセブンアップがある。車が沢山停まっている。流行っているようである。そういえば気候的には実に気持ちが良い。22-23度である。香港が比較的寒く15度以下であったので、歩いている時も気持ちが良かった。ところがTTMやSSを見ると上着を着込んでいる。寒いというのである。SSが言う。『最近セブンアップはいつも満員です。寒い時は鍋です』と南国ヤンゴンでは、20度台前半は寒いのである。

Myanmar2005c 026m

 

KさんとSSが具を取りに行く。海老と蟹がSSの好物であることも何ら変わりがない。確かに雨季の暑い時に食べるよりは、今日食べる鍋の方が美味い気がする。兎に角ここに来ると食が進む。男性従業員の動きが鈍いのも相変わらずである。気が利かないのがミャンマーらしい。

 

ミャンマー紀行2004(24)ヤンゴンで涙する

11.ヤンゴン3

(1)CD

実はヤンゴンでは人が待っており、一緒に夕食を食べることになっている。私は時間が相当遅れていることを気にしていたが、お土産にCDを買いたいとTTMに告げていた。TTMは良く覚えており、先にCD屋に行こうという。時間を気にすると『ミャンマーでは遅れてしまった場合は10分でも30分で同じです。問題ありません』と言われる。妙に説得力があり、従う。

 

事務所の近くにヤンキンセンターというショッピングセンターがある。昨年は水を買いに来たところだ。地下にシティマートがある。外国のものが沢山置いてあり、日本の食品も買うことができる。その横にCD屋がある。SSに頼んでミャンマーで流行っている音楽のCDを紹介して貰う。

 

SS自身は恐らく外国の音楽を聴くので、実はミャンマーの音楽は好きでないかもしれないが、一生懸命選んでくれて、おまけに『これはお土産です』と言って買ってくれた。本当はそんな負担をかけるべきではないのだが、有難く受け取る。奥さんに良いお土産が出来た。

 

(2)夕食

急いで事務所に戻る。TTMのお父さんが留守番してくれていた。そしてお客さんが2人。一人はメイミョー在住のKさんの奥さんで、ミャンマー人のMさん。もう一人は現在メイミョーに住むスウエーデン人、ノレン氏。何故かメイミョーではなく、ヤンゴンで会うことになった。

 

旅行中にTTMから話は聞いていたが、何となく不思議な気分。何しろ日本語ペラペラのミャンマー人と英語を話すスウエーデン人とヤンゴンで一緒に食事をすることになったのだから。しかもこの2人は何と大阪で知り合ったのだと言う。ノレン氏はスエーデンの世界的企業、エリクソンの元技術者。サウジアラビア、台湾、スペインなどに駐在し、大阪と横浜にも住んだことがあった。

ミャンマー 215m

 

ノレン氏は現在メイミョーの我々が訪ねた中国系寺院の直ぐ近くに住み、三食をあの食堂で食べている。ミャンマーで今後も暮らすかどうかは未だ決めていないが、今のところ生活できている(サバイブ)と言う。メイミョーの環境は抜群だ。これまで住んだ海外にも引けを取らない、ともいう。

 

彼は色々なアイデアを持っているようでミャンマーの為になるような提案をどんどんしていきたい、今はインターネットも通じず、衛星放送も見られないが、今後政府に提案して便利にしていきたいという。ここにも一人夢を持って異国で生きる人がいる。簡単なことではないが、生きたい場所で生き、死にたい場所で死ぬ、何と人間らしい生き方ではないか?

 

Mさんもヤンゴン出身ながらご主人(日本人)Kさんの仕事(設計師)の関係でメイミョー在住。明るい性格で楽しく暮らしているように見える。日本語研修に行き大阪在住11年。今のご主人と知り合い結婚。次回は是非訪ねてみたい。きっと面白いことがあるに違いない。

ミャンマー 214m

 

因みに食事の場所はあのSSのセブンアップ。最後の晩餐に相応しい有意義な話で盛り上がる。次回またこの人々に会えるのだろうか?SSはエビやカニを頬張る。ヤンゴンに戻ってホッとした様子が、可愛らしい。かなり雨が降っていたが、店を出るときにはきれいに上がっていた。

 

8月13日(金)

(3)最後に  

翌朝7時起床。相変わらず良く眠れる。疲れているだろうにTTMがキチンと迎えに来てくれている。事務所に向かう。旅行の精算をする。お金の精算だけでなく、思い出の精算(整理)を始める。SSが何か持ってくる。紫の餅?何とそれは昨日シャン州でTTMが買って持って帰ったもち米を使ってSSが作ったおかきであった。途轍もなく美味かった。涙が出てくる。この心遣いには表現を失う。こんな気分になったのは久しぶりである。TTMやSSのこの気持ち、大切にしたい。

ミャンマー 216m

 

空港に向かう途中、TTMが『その人のことを知りたければ一緒に旅行するのが良いといいます。今回一緒に旅行してあなたのことが良く分かりました。』と言う。彼女は私の何が分かったのか、言ってはくれなかった。一体何だろう?薄っぺらな、宗教も信念も無い行動だろうか?

 

私もTTM、SSと旅行して分かったことが一杯あった。だが、それは口に出して言えるものではない。また多くのミャンマーの人々の心、気持ちが少しは分かったような気がする。そしてそれが私にとっては色々なことを考えさせ、色々な体験をさせてくれた。ミャンマー、それは私にとって既に掛替えの無い国になっている。次回は何時行こうか。

 

(完)

ミャンマー紀行2004(23)ミャンマーのフライトは面白い

10.ヤンゴンまで

(1)ミャンマーの女優

待合室で一人注目されている女性がいた。SSに聞くとミャンマー人の女優だと言う。確かにしっかり化粧している。物腰もそれらしい。SSに『一緒に行って写真を撮りたいとお願いをして』いうと『嫌いな女優だからイヤ』といわれてしまう。良く見ていると確かに態度がちょっと偉そうではあった。

 

彼女は飛行機でも一番後ろに座り、マネージャー(または母親?)と一緒に身を隠すようにしていた。ヤンゴンの空港に到着すると係員が傘を差し出し、案内されていた。荷物が出て来るまで携帯でずっと誰かと話していた。TTMの話では外国で映画も撮ったことがあるくらい有名な人。と言いながら名前は2人とも思い出せないと言う。何で??

ミャンマー 212m

 

(2)荷物

私は旅行中飛行機に荷物を預けることは原則しない。以前ヨーロッパで荷物を預けて失くし、大変な思いをしたせいである。どうせデイバック1個である。ところがヘーホーで皆が荷物を預けており、TAMが預けろというので勢いで預けてしまったのだ。うっかりしたと気付いたのは搭乗してから。何とバックにバンコック行きのエアーチケットを入れていたのだ。普段預けないから忘れてしまっていた。一度心配になると落ち着かないものである。

 

マンダレーには直ぐに到着した。雨は降っていなかった。ふと思い出したのは以前読んだある人の旅行記。ここマンダレーの空港で機内から外を見ていたら、空港ターミナルに運ばれていく荷物の中に自分のものがあるのを発見、急いで機外に出て取り戻したと言うもの。私も急いで機外に出た。誰も止めない。荷物が丁度出されていた。一生懸命見ていたが、私のものは無い様だ。安心した。しかし他国では絶対許されない行為だろう。この国の管理は大丈夫だろうか?

 

空港を見渡す。何も無い。いや、雨上がりできれいな虹が出ていた。これだけ広い空間で、何も無い場所で虹を見るのは初めて。何となく感動的。きっとこれからは良い事があるに違いない。

ミャンマー 213m

 

(3)機体

マンダレーを出発する前に我々は席を一番後ろのほうにした。決して女優さんを見たかったからではない。ヤンゴン到着時に早く出られるから。そう、この機体は後ろしか開かないのである。それを知っているミャンマー人は皆後ろに乗る。対照的に外国人は前に乗りたがる。

ミャンマー 211m

 

機内でスチワーデスが何か言った。突然TTMが『ハイ』と手を上げたかと思うと『すみません』と私に言い、前の方に行ってしまう。何で?SSは又お母さんの癖が始まったという顔で『機体の後ろが重たいので5人前に行ってください、とスチワーデスが言いました』と言う。何?何々??お相撲さんが乗っている訳でもあるまいし、後ろが重いから前に行け?一体どんな機体なのだろうか?しかしスチワーデスの要請に応じたのはTTMともう一人の男性だけ。勿論女優さんは座ったまま。我々も行かないといけないのかと思っていると、何と飛行機が動き出す。さっきの要請は何だったのか?謎は深まるばかり。

 

しかしそれにしてもTTMの真っ直ぐな性格。人が困っていると聞けば率先して動く。勿論我々が何で後ろの席に移動したかも承知している、それを全て超越して前の席に動く。きっとそうせずにはいられないのだ。本当に偉い人だと思う。こういう人が居るということがミャンマーの本当の魅力なのではないだろうか?

 

(4)ヤンゴン空港

結局2時間遅れでヤンゴン空港に到着。タラップを降りると人々が何か話し掛けて来る。TTMがその内の一人を捕まえる。どうやら荷物持ちのようだ。ターミナルで荷物を待つ。荷物が運ばれてくると各荷物持ちが一斉に群がる。それは凄まじい勢いだ。しかし誰の荷物か分かるのだろうか?結局TTMが一緒に行き、指図する。悠長に構えていた私も自分のバックが心配になり、見に行く。バックは片隅に見事に放り出されていた。危ない、危ない。

 

何だか慌しく外に押し出される。運転手を探していると向こうで手を振る人がいる。TTMの妹だ。先日実家で会っている。その横にもう一人。一番下の妹だという。TTMは4人姉妹の長女。皆仲が良さそうだ。何故迎えに着たのか?聞くとどんな人と旅行したのか見に来たとのこと。ということは私を見に来たのだ。しかし車の中では皆はしゃぎ、良く話す。私のことなど眼中に無いように。途中で2人は車を降りた。『さようなら』と日本語で言って。

ミャンマー紀行2004(22)タウンジー 温泉と涙の別れ

(5)温泉

タウンジーの街で私の好物のシャン豆腐でも食べようと探したが、まだ午前11時前で何処も作っていなかった。仕方なく、タウンジーを後にする。結構残念に思っており、次回を期す。車で1時間、道をヘーホーからインレーに取る。途中までは幹線道路を走っていたが、その後田園の道へ。小川が増水して橋を何とか渡ったところもある。何の変哲も無い農村風景の中に突然SPAの看板がある。その建物が温泉施設であった。インレー湖で昨年宿泊した湖賓ホテルが運営している。ホテルのオーナーは福建系。台湾などとも繋がりがあり、温泉に仕立てたのではないだろうか?

 

入り口と反対側に小山があり、その端に源泉が沸いていた。湯気が濛々としていたから、恐らく80度ぐらいはあるのでは?勿論そのまま入ることは出来ない。施設はミャンマーとしては整っており、個室が7つぐらいある。中を覗くと台湾にあるものと似ている。浴槽があり、流し場もある。小さな窓が付いているが、どう考えても狭い。外国人用は別にあるという。露天である。しかしそこはプールのようになっていて、シャワーを浴びてシートに横たわり時々小さなプールに浸かる。幸い誰もいない。私は素っ裸で入ることにする。しかしそこは厳しいTTMのこと、必ずロンジーを着けて入ってくれと何度も念を押す。分かった、分かったとばかりロンジーを取り出すと安心したのか皆行ってしまう。

ミャンマー 202m

ミャンマー 206m 

 

このプールはコンクリの壁で無造作に外と隔てられている。見上げると空しか見えない。まるで大草原の真っ只中に裸で温泉に浸かっている気分、この感触は堪らない。勿論裸で通す。プールは3つあり、1つは原湯に近くて熱くて入れないが、後の2つは適度に調整されていて気持ちよく入れる。ついつい泳いでしまう。シートに横たわるとそよ風が吹き、実に良い。自分は一体どこにいるのだろうか?分からなくなる。結局誰も入って来なかった。入浴を終わり出ようとしたところ、入り口に外から鍵が掛けられている。やはりTTMとTAMは私の行動を十分承知しており、信用されていなかった。誰も入れないようにしてあったのだ。従業員が慌てて走ってきて開けてくれた。こちらが恐縮してしまう。

ミャンマー 204m

 

高床式建物の下にテーブルがあり、そこで昼食を取る。SSとTTは先程タウンジー市場で買い与えたタナカできれいに化粧している。可愛らしい。風が通って気持ちが良い。野菜中心のメニュー。健康志向に合致している。特にトマトが美味しかった。又地鶏ではないということだったが、鳥のから揚げは肉のうまみが抜群で美味かった。しかし何より美味しかったのはTAMが持参した餅米ご飯。炊いたご飯にココナッツとゴマがかかっている。これがあればシャン州で生きていけると思うほど。自然の中で温泉に浸かり、健康的な食事。日本人にも受けそうな企画である。今度提案してみようか?

ミャンマー 207m

 

更に言うと今回タウンジーのマーケットでTAMは密かにあるものを買っていた。それはもち米を揚げた『おかき』である。塩味が適度に利いていて絶品。車の中で貰ったのだが、私ばかりが幾つも食べてしまった。前回の豆腐と団子に続きシャン州で日本の味を発見。次回は何が飛び出すか?

 

帰る際にTAMが少し離れた場所にある地元の人が入る源泉を見せてくれる。当然囲いも何も無い。湯は熱くて浸かることは出来ない。地元の人はただタオルをお湯に浸して体を濡らすだけ。どんな効用があるのかは最後まで分からなかったが、昔からこの辺りの農民が利用していたことは分かる。尚ミャンマーにはここの他にもラショー、ティーボーなどに温泉があるとのこと。地震国でもあるミャンマーに温泉があっても当然か?次回はティーボーでお茶農家を訪問し、帰りに温泉に入ろうと密かに決める??

 

(6)ヘーホーでの別れ

そして愈々その時が来た。ヘーホーの空港に到着したのだ。私にとってもシャン州は忘れ難い、そして離れ難い土地である。更にはSSとTT。TAMは淡々として車から降りると野菜などを買い込みTTMに渡している。門の所でお別れかと思ったが、TAMが手続きし、TTも中に入る。

 

搭乗手続きが終わり、ベンチに座り談笑していたが、TAMが無表情に時間を告げる。見るとTTが大粒の涙を流している。こんなきれいな涙を見るのは久しぶりだ。対照的にSSは硬い表情で何か言っている。TTMは小遣いだと言って涙一杯のTTのバックにお金を押し込んでいる。TTは一生懸命拒んでいたが、本当の親子以上に親子らしい感じがする。昔日本にもこんな光景があったはずである。

ミャンマー 210m

 

TAMがTTを促して建物から去ろうとする。その時突然何を思ったのか、TAMが荷物の重さを測る台の上に乗る。体重を量ったのだ。このユーモラスな動作に釣られてTTまでそこに乗る。SSは『恥かしくて出来ない』等と言いながら笑顔が戻る。周りの皆も苦笑する。TAMとは本当に不思議な人だ。しかしこの機転、只者ではない。次回彼女に会うのが益々楽しみになってきた。待合室に入る。席に座るとSSがワーッと泣き出す。堪えていたものが噴出したようだ。TTMは『泣き虫』などと言ってからかっていたが、その涙も美しかった。次に何時会えるか分からない、その分情緒的になる。今の日本では直ぐ携帯かメールをするからこういう涙は出ない。

 

この待合室にも西洋人が多い。マッサージをするおじさん、おばさんが入ってきて、暇な西洋人には好評であった。1回、1,000K。この西洋人は何処へ行くのか?一抹の不安。飛行機は1時間遅れた。ヤンゴンエアー、CAは良いのだが、時間にルーズ。更には再度あの悪夢が。何とルート変更になり、又マンダレーに行くことに。何ということであろうか?

 

ミャンマー紀行2004(21)タウンジー 山のパゴダで思うこと

(4)山の上のパゴダ

ホテルに戻りチェックアウト。山の上のパゴダに向かう。ホテルから直ぐの所にTAMが勤めるタウンジーホテルがある。やはりイギリス風の建物。タウンジーは高地で涼しい上に交通の要所。シャン州の評議会も開かれる政治の中心でもありイギリスも重視していたようだ。

 

ホテルの傍に差し掛かるとTAMが『ここは麻薬王クンサー夫人の家です』と言う。中国系ミャンマー人クンサーは80年代まで麻薬王と呼ばれ、闇の世界を牛耳っていたが、その重要拠点の1つがタウンジー。ここからタイ国境に抜けるルートは麻薬ルートであったようだ。彼は現在どんな生活を送っているのか?麻薬から手を引いてタイとの国境の村で静かに暮らしているとTAMは解説していたが、本当なのだろうか。俄かには信じ難い。家も各地に持ち、愛人も何人もいただろうか。

 

又戦時中のタウンジーについては、古山高麗雄氏の『フーコン戦記』にも描かれている。日本軍がここを占領した1942年から43年に掛けて司令部が置かれ、久留米の料亭翠香園が料亭を開いていたとある。将兵にとっては極楽であったと言う。慰安所も設置されていたようだ。戦地に料亭が進出したなどというのは初耳である。軍の膨張と軍に群がる商人達がここミャンマーにも蔓延っていたのだろう。何とも悲しい話であるが、それが我々の知らない歴史、特に戦争の実態なのかもしれない。

 

歴史にもしもは無いが、1942年に日本軍がヤンゴンを占領した時、ミャンマー独立勢力に後を任せて撤退していたら、その後はどうなっていただろうか?遠藤周作夫人、遠藤順子氏の『ビルマ独立に命をかけた男たち』(著者はビルマ独立を支援した民間人、岡田幸三郎の娘であり、今のスーチー氏の父、アウンサウン将軍が家に来たこともあるという特異な体験を持つ)の中で、ビルマ独立軍に参加した日本人の話として『例え戦争に敗れても、もし名誉ある撤退をしていたら、ビルマは非武装中立を宣言して、その独立を保てたはず』だと記している。更にそうしていれば、インパール作戦などで多くの日本人が死ぬことも無かった、と言っている。正に歴史に『もしも』であるが、やはりもしもは禁句かもしれない。

 

標高2,000mの山の上に登ると、四方が一望出来る。そこにパゴダが建ち、その先端には風鐸が付けられ風に吹かれて、良い音色で音を奏でている。この世の極楽、といわんばかりの山である。蝶が木に留まっている。TAMによれば毎年10月頃にはパゴダ一面が蝶で埋めつくされると言う。蝶々の愛好家にとってはたまらない場所らしい。モールメンの蛍と同じような話のようだ。もしかすると戦争で成仏できない仏の代わりに飛んでくるのだろうか?

ミャンマー 196m

ミャンマー 199m

 

下を眺めるとTAMが『実はビンダヤはあの山の向こう。直線では僅か20マイルなのです。しかし山のこと、道が蛇行しており、65マイル掛かるのです』と解説する。ここからはインレー湖もよく見える。パゴダでは皆自分の場所に行き、祈る。生まれた日の曜日によって祈る場所が違う。この自然な動作が凄い。今の日本には無いもの。宗教でも道徳でも自分の信じる物がある人が最後は強い。私もTTMの後ろについて、日曜日の場所で黙礼している。

ミャンマー 200m

 

車に戻ろうとするとTTMの『ちょっといいですか?』が出る。このパゴダにも寄付をするという。SS、TTと共にお坊さんのいる家屋に入る。部屋には老僧が一人きり。壁には何と鎌倉の大仏の写真などがある。お経をあげた後、老僧が流暢な英語で話し始める。これには驚く。彼は多くを語らないが、『日本人も沢山くるよ』と言う。この辺りで60年前に何があったか、彼はすべてを知っているようだ。しかしそのことには一切触れず、健康の為にといって、私にキャンディーを1つくれる。そして又いつか来なさい、とにこやかにいう。

ミャンマー 197m

 

戦争中日本兵とミャンマー人の交流は想像と違い、かなり友好的だったようだ。ミャンマー全体ではインドに対する敵対意識が強く、イギリスの手先としてやってくるグルカ兵にも嫌悪感があった。しかしここシャン州ではイギリスとも、そして日本とも友好的な関係が築かれていた。ここからタイ国境に逃げた日本兵も多かったはずだが、シャン州の人々のお世話になった人が多かったと聞く。ミャンマーをただ自分が戦った戦地としてだけではなく、人との交流を求めて再度訪れる元日本兵やその遺族もまた多かったはずだ。しかし元兵士も既に80歳を越えて年々来る数が減っている。ミャンマーとの今後の交流は我々の世代に掛かっている。どうすべきか?

 

ネル・アダムスというシャンの藩王の娘がいた。イギリス人と結婚し、数奇な運命に翻弄されたその女性が書いた『消え去った世界』を読んだ(既にメイミョーの所で紹介したが)。その中には日本軍の横暴振りも出てくるが、同時に民間日本人のカメイさんが防空壕を掘れとか、危ないから逃げろとか、色々と世話を焼いている。著者はそのことを50年以上経ってもしっかり覚えており、この本の日本語訳も偶然チェンマイで日本人と会って実現している。

 

そして日本占領時代ではなく、ビルマ軍事政権が彼らの生活を根底から変えてしまったことを嘆いている。シャン人はミャンマー人とは違うこともよく分かる。又日本政府も戦争中シャン州を高く評価していた。天然資源も豊富、農業生産性も高く、シャン人の単純で正直な性格にも好感を持っていたという。将来日本からの移民を連れて来るつもりであったらしい。日本人には間違いなく住み易い土地であったから。軍の考えだから第2の満州、といった政略的な意味合いが多いが、実際に日本の寒村から移住した人がいたら、天国と感じたかもしれない。帰りに山を降りながら、ここら辺りに日本語学校でも開こうか、などと夢のようなことを考えていた。

ミャンマー紀行2004(20)タウンジー マーケットで

(3)マーケット  8月12日(木)

涼しかったせいか夜9時半から翌朝7時までぐっすり眠る。7時半に朝食を食べる。SSもTTも意外に眠そうではない。どうやらTTMがキチンとコントロールしたようである。TTの話を聞く。彼女の家は15年前までこの近くにあったが、政府の指示で強制移住させられ新村へ移った。移ったといっても当時新村には何一つ無かった。政府は僅か20,000kを補助しただけ。移住した人々は自ら家を築いて、生活したという。軍事政権下、何とも凄い話である。

ミャンマー 185m

 

中国にありそうな話である。中国では『土地は全て国のもの』と言う考え方で、政府が必要とあらば住んでいようが何であろうが、退去命令一枚で15日以内に強制的に退去しなければならない場所がある。私が贔屓にしていたお茶屋があっと言う間になくなったこともある。勿論補償金など一切出ない。住み家を簡単に追われる、というのは私には想像できない。

 

TTには人に言えない、色々な苦労があったことだろう。そうしてヤンゴンに出てきて日本語を学ぶ。かなり上達したのに、妹の為に故郷に戻ることになってしまう。今は中国系企業で働いているというから、人生は本当に儘にならないものだ。本人も来年にはもう一度ヤンゴンに出ていきたいと言っていたが、果たしてどうなるだろうか?非常に気になるところである。

 

8時にTAMが現れる。お土産をくれる。きれいなテーブルクロスである。有難く頂く。今日TAM弟は来なかった。代わりにTTを入れて5人で行動する。完全に女性に囲まれてしまったが、あまり違和感はない。とても気楽な家族旅行のような気分になるは、何とも不思議。

 

先ずはシャン州で5日に一度持ち回りで開かれるマーケットに行く。前回はビンダヤで行った、あの印象的なマーケットである。タウンジーマーケットには新鮮な野菜、果物、米、茶など様々なものが売られていた。あの発酵で有名な小泉武夫先生も珍しい食材を求めてこのマーケットを訪れている。キノコ(日本のしめじ)と虫のさなぎ、カエルを買い込みインレー湖近くのフーピンホテルで自ら料理した、と著書に書かれているのを記憶している。

ミャンマー 186m

 

売り手には様々な民族がいた。前回よりも民族衣装がより多彩な感じがある。さすがタウンジーはシャン州の中心都市という感じがする。しかし今日は雨。ゆっくり見ることが出来ずに残念。売り子は雨でも傘を差して座り込む。傍から見ているとその姿は可哀想と言うより、1つの文化に見えてくる。シャン州の置かれた厳しい現状を見ているようにも思える。

ミャンマー 187m

 

今日は朝食を食べてスグと言うこともあり、TAMは豆腐も団子も食べさせてはくれない。とても残念。雨が強くなり、とうとう常設の屋内マーケットへ移動する羽目に。このマーケットは最初のマーケットより少し離れた場所にあり、何とヤンゴンのボージョーマーケットより広い。何でも売っているところである。最初のマーケットからも9時過ぎには皆が移動してきて、ここで更に商売をするのだという。ここはタウンジー経済の中心地である。

 

私はお土産というものを買わない主義(ケチ?)であるが、前回ヤンゴンでS氏に勧められてタッティングという手編みの織物を買った。珍しく奥さんに好評であったので、今回も探すことにする。TTMがタウンジーに一杯あると言うので探してみるが、なかなか見つからない。この手の込んだ織物はミャンマーでも織り手が減っているようで貴重品になりつつある。特に黒いものは織手の目が悪くなるようで、織る人が少なく、希少価値であるらしい。

 

漸く売っている店を1軒見つけて品物を選ぶ。色の種類があまり無い。品数も少ない。他の店も似たようなので、仕方なくここで2枚買う。これからはなかなか買えない物になるかもしれない。1枚4,000kとヤンゴンの半額であったのはやはり地方都市だからだろうか?SSとTTは何処かへ行ってしまい、二人で自分の服を選んで買っている。何とも仲が良い。

ミャンマー 190m

 

雨も小止みになったので、外に出る。ミャンマー独特の化粧品『タナカ』を売っている。SSとTTの為に買う。売り子の女性は顔中模様を描いてタナカを塗っている。SSが塗っている姿を見たことが無いので渡す。TTはほんの少し、目の脇に塗るなどかなりお洒落である。タナカはミャンマー女性の象徴。この後アテネオリンピックでミャンマー人女性が重量挙げにタナカを塗って出場。話題となるが何故かドーピングで陽性となり、失格となってしまう。抑圧されたミャンマーの女性にもスポーツをやる人が出てきたことは喜ばしいのだが。

ミャンマー 192m

 

余談だが、マーケットの入り口にアイドルのブロマイドを売る店があった。ミャンマーにもあるんだなあ、と通り過ぎると後ろでSSが『ああ、ヨン様だ』と叫ぶ??見るとあの冬のソナタの男優が微笑んだブロマイドを売っている。そうなのだ、ここミャンマーでも冬ソナブーム、そして韓流ブームなのである。これには驚く、そしてアジアは狭くなったと実感する。ヤンゴンでもバンコックでも韓国系映画、ドラマのポスターなどをかなり多く見かけた。SSは日本語をやめて韓国語を習いたい、などと真顔で言ってTTMに叱られていた。

 

ミャンマー紀行2004(19)タウンジーの美少女

(4)ビンダヤ洞窟院

山を降りる。何だか離れたくない気持ちである。雨は全く止み、晴れ間がのぞくほど。高所恐怖症の私が何故か下界の景色を楽しんでいる。急な坂も全く気にせずに。やがて洞窟院の所まで戻る。TTMとSSは裸足であるから足がかなり汚れている。TTMはある建物に入って寺の人と何か話をすると横の井戸で水を汲み、足を洗う。その姿が実に美しい。深く仏に帰依した人の姿である。

ミャンマー 170m

 

TAMとTTMはどんどん歩いて行く。洞窟院に行くと思っていた私はちょっとビックリ。彼らは洞窟院の下の茶店まで行ってしまい、茶を飲み始める。『何故洞窟院に行かないのか?』と聞く、これからタウンジーに行くので時間が無いという。しかしTTMの顔を見ると残念そう。彼女の前回のビンダヤ訪問は15年も前。仏教徒のTTMが洞窟院を見たくないわけが無い。勿論SSは行きたいと言う。TAMを無理やり説得して行くことになる。前回は怖いエレベーターで上に登ったが、今回は100段の階段を歩いて登る。どちらも怖い。中に入ると昨年よりきれいになっている。常に改善しているようだ。SSは折角登って来たのに空気が悪いと言って早々に下に降りてしまう。

 

TTMとTAMと3人で見て回る。相変わらず見事な仏像群である。昨年同様寄付(仏像に金箔を施す資金)をして自分の名前を仏像の前に記したい欲望に駆られるが、一方仏教徒でもない自分がそんなことをして良いのか迷う。そのことを素直にTTMに話したところ、『あなたは何時か必ずミャンマーに住みます。その時寄付すればよいのです』と預言者のようなことを言う。私も何時かミャンマーに住むような気がしているので、素直に頷く。時間が無いので奥には行かず、30分で切り上げてタウンジーに向かう。4時半には出発したが、タウンジーは実に遠い所であった。

ミャンマー 176m

 

9.タウンジー (1)タウンジーへ

TAMは何故時間が無いと言ったのか?タウンジーに向かって漸く分かった。ビンダヤからヘーホー方面に戻り、大きな夕日を横に見た。そこから又かなり行き、更に山を登る。辺りが暗くなっても到着しない。暗い中をどんどん山道を登って行く。何処へ行くのだろうか?もし車に皆がいなければかなり緊張する場面である。夜7時、漸く大きな街に着いた。標高1,400m、それがタウンジーの街であった。途中にゴルフ場があり、到着したと思ったのは、新村であった。ここは15年ほど前にタウンジーの街の人口が増えたために一部を強制的に移住させたのだと言う。

 

シャン州の州都であるタウンジーの大通りはかなり漢字が目立つ。中国系が多いようだ。又商業都市としてインド系もいる。少数民族も多い。実に多彩である。サルウイーンホテルはその街の外れ近くにあった。部屋は広かったが、テーブルに蝋燭が置いてあり、停電が多いことを窺わせた。標高が高いこと、小雨が降っていることもあり肌寒い感じである。1泊UD$10。

 

(2)トゥトゥ(以降TT)登場

ホテルにチェックインしようとした時のこと。一人の少女がロビーに姿を現した。その途端、SSが大きな声を出し抱き合った。SSの日本語学校の同級生TTである。彼女は勉強を終えて故郷のタウンジーに戻って就職していたのである。TTMも彼女の出現を大いに喜び、3人で盛んに話している。今日は彼女もここに泊まり語り明かすようだ。ところが夕食に出ようとロビーに行くと何やら揉めている。TTMに聞くと解決したと言う。どうやらTTは身分証明書を忘れたらしい。ミャンマー人がホテルに泊まるにはこれがいる。

 

TTMはホテルの主人に掛け合った。主人は頑として聞き入れなかった。最後にTTMは自分が旅行社の人間であり、保証状を出すこと、それでもダメなら今後このホテルには一切客を送らないと言ったという。嘘も方便と言うことがある(嘘といっても彼女は私のガイドであり堂々と旅行を仕切っているからあながち間違いではない)。SSとTTのあの喜び合う様子を見ていれば誰でも何とかしようとするだろう。と同時にTTMの度胸には恐れ入った。この説得力は凄い。

 

又もっと凄いのはSSとTTが語り明かすと翌日に障るので、3人で一部屋を借り、経費も浮かしたと言うのだ。何とも凄い人である。どちらにしてもSSとTTは嬉しそうにピッタリくっついている。シャン人であるTTは両親がいないので妹の面倒を見るため戻ってきたしっかり者。日本語の能力も高い。今は中国系の機械商社で働いているようだが、この日本語は勿体無い。TTMもヤンゴンで旅行社を紹介したが、故郷に戻ってしまったと残念そうに話している。TTMはTTにとってヤンゴンのお母さんなのである。

ミャンマー 183m

 

夕食は4人で中華麺を食べる。少ししょっぱかったが、SSとTTは何も気にならないように話し続けている。私は外に出た。店の横にジョルダーノがあった。本物かと見るとどうやら本物らしい。SSによるとジョルダーノはヤンゴンにもありミャンマーで最も人気のあるブランドだと言う。

ミャンマー 182m

ミャンマー 184m

 

夕食後ナイトマーケットに行こうとしたが、雨が強くなりホテルに戻って寝る。結構涼しかった。15-16度ぐらいのようだ。SSとTTは寝ただろうか?いや、あの様子では寝られるはずが無い。自分の修学旅行を懐かしく思い出す。

ミャンマー紀行2004(18)ビンダヤ  ラペソーの村で

30分も歩いただろうか?家が見える。母娘がここだよ、と言う感じである家に声を掛ける。直ぐに家からおじさんが出てきて招き入れられる。中の土間では3人がさっき摘んだという茶葉を捏ねている。茶の香が広がる。お茶が出る。TTMが美味しいと言って飲む。確かに美味しい。正直言ってミャンマーのお茶の質はそれ程上等とはいえないのだが、何故か美味しいのである。水の関係もあるだろうか?ラペソーが登場。豆や乾し蝦など全く入れない純粋な物。塩味が利いている、ライムを搾っておりこれもイケル。ついつい遠慮もせずに食べてしまう。

ミャンマー 138m

ミャンマー 145m

 

豆が出る。落花生のようだ。これも美味。TAMの適切な解説、『これはレイジービーンです。この豆の弦は上に伸びず、下に留まっておりその分太っているのです。それで農民はこれを怠け者の豆(レイジービーン)と呼ぶのです』。何故か皆がSSの方を見たような気がした?

ミャンマー 147m

 

TAMが他人の家の土間から更に奥に勝手に入る。ついて行く。そこは台所兼居間。人の食事を覗いて見る。美味しそうな野菜、豆、健康に大切なものがふんだんにある。おじさんが『トウモロコシ食べるか』と言った感じで突然炭火の中に生のトウモロコシをくべる。香ばしい匂いがする。しかし何とも豪快である。美味しいと言うとどんどん出てきてしまうので、食べるのを止めるほど。前回もそうだったが、農家の人は突然訪れても実に親切。気を使わせてしまっているのは重々分かっているが、この対応が嬉しい。おじさんもおばさんも一生懸命色々と説明してくれる。

ミャンマー 150m

 

ここのラペソーは1.6kgで2,200k。茶は1,500kにしかならないので、10年前から歩の良いラペソー製作に切り替える。この家はかなり大々的にやっており、作業の最終工程である、樽に漬物石で漬けている物が家の中に沢山置かれている。小泉武夫先生の『アジア怪食紀行』には、このラペソーと肉、野菜を一緒に炒めると唖然とするぐらい美味しい料理になる、と書かれているが本当だろうか?発酵食品は非常に美味しいものであるとは実感しているものの??次回試してみよう。

ミャンマー 139m

 

戦時中日本兵はこの村にもいたという。おじさんが一言、『お前はこの村で死んだ日本兵の生まれ変わりではないのか?』と言われてとても驚く。確かに私はシャン州に来ると全く違和感がない。ここが生まれ故郷だと言われても納得できる気がしている。やはり私の先祖はミャンマー人、又は前世はミャンマーに縁があるのだろうか??日本兵はここで何をしていたのだろうか。

 

この村は全部で160世帯、800人が暮らす、この辺りではかなり大きな村。農家から少し登って行くと大きな僧院と学校があった。その僧院の横に1つの建物がある。案内のためについてきた農家の人が『この建物は日本人が建てた図書館です』と言う。彼は鍵を借りてきてドアを開けてくれた。中にはミャンマー語の本が沢山置かれていたが、日本語の本は無かった。ただ壁に『友情』『愛』と言う文字が掛けられており、僅かに日本の痕跡を残している。

ミャンマー 164m

 

しかし鍵をかけているところを見ると、現在使われている形跡はない。これもまた残念なことだ。折角資金を出して箱ものを建てても、その後の運営資金などがないと、このような状況になることは、中国で日本政府が行ってきたODAでも何回も見てきている光景だ。自己満足にならない、一過性に終わらないためにも、支援は良く考えて行わなければならない、とつくづく思う。

 

きっとここに暮らした日本兵か遺族が建てたものだろうが、今や謂れも分からないとは何とも悲しい。ミャンマーに戦争に行った人の書いた本を読むと平時は日本兵と村人が仲良く交流したことが語られていることが多い。武者一雄氏の『ミャンマーの耳飾り』という本は児童文学の形態を取っている。インパール作戦の悲惨を書いているが、村人との交流が上手く描かれている。今でも日本の童謡を歌えるミャンマーの老人がいると昨年ガロウのウラミット氏から聞いたのを思い出す。

 

シャン州の人の懐の深さ、誰でも受け入れる温かさと、昔の田舎の良き気質を持つ日本兵はお互いに相容れるものがあったのではないか、と勝手に想像する。私のような普段気が短い人間でもここに来ると気持ちがゆっくりになっていく。スローな生活が送れるような気になるのも、シャン州の人々の気質によるのではないかと思われる。何かが突き抜けて、超越しているのである。

 

茶畑は整然としているが、害虫に結構やられていた。無農薬は良いことではあるが、生産にはそれなりの苦労が伴う。茶樹は30-40年ぐらい経っているものが多い。茶摘みの女性は若い。かなりきついスロープで作業している。結構大変な作業である。向こうの山にも茶畑が見える。この村はいまだ茶畑の入り口である。この奥にまた山を越えてまだまだ広がっている。ここの電源は山の上に水を溜めて水力で起こすと言う。山には山の生活がある。

ミャンマー 162m

ミャンマー 159m

 

ミャンマー紀行2004(17)ビンダヤ 雨の山登り

車は一路ビンダヤへ。シャン語で『広大な平原』を意味するビンダヤはなだらかな丘陵地帯。道は常に一本道。途中雨が降ったり止んだり。雨が降っても農作業は続いており、あのシャンペーパーで作った傘を差している農民も見える。実に長閑で、且つ豊かな田園風景が広がる。

 

1時間ぐらい走ってトイレ休憩がある。茶店で茶を飲む。お茶は緑茶。この辺りで飲むスーッと飲めて、何となく美味しい。小さな街道沿いの集落だが、交通の要所で人が多い。野菜や炭など物も豊富に売っている。シャン州には松の木が多い。この木を使って火を起こすらしく、松の木の木片を売り歩く人々がいる。皆少数民族であり、生活は豊かでは無さそうであるが、実に淡々として自らの仕事をこなしている。日本人も昔は寡黙であったろうか?

ミャンマー 127m

 

昨年から聞きたかったことをTAMに聞く。彼女は一体何人なのか?答えは『ガイン、シャン、バオー族の混血。夫はカチン、シャンの混血。だから子供は何だか分からない』。我々には想像できないほどの民族の渦である。彼女が醸し出すあの独特の雰囲気は、こうした背景から来るのであろうか?しかしそれでも『私はミャンマー人』という言葉は聞かれなかった。文化を見ればよく分かるが、シャン人はどうしてもミャンマー人ではないのである。

 

シャン州は以前は独立しており、ソーボアと呼ばれる藩王が各場所を統治していた。ビルマの他の土地とは全く異なる体制を保持しており、イギリス統治時代、又日本占領時代でさえ、その地位を保護されていた。1947年にビルマ政府が独立する直前にアウンサウン将軍との間で結ばれた『パンロン協定』でも、10年後の連邦からの脱退が認められていた。ミャンマー人と一線を画す由縁である。だが現実は、そうはなっていない。歴史の波とは恐ろしい。

 

もう少しビンダヤに近づくとTAMが『ここから新しい道が出来、マンダレーまで車で4時間です。景色も素晴らしいです』と解説する。昨年来た時はまだ無かったらしい。あまり変化が感じられないミャンマーも色々と発展はしている。次回は飛行機でなく車で来るのも良いかも?何故なら空港のあるヘーホーは平原の真ん中で何も無く、何処に行くにも一定の時間が掛かってしまう。マンダレーも空港まで1時間近く掛かるし、考えてみれば車が便利なのかもしれない。既にこの時点で次回のことを考えている自分に気付き、思わず苦笑した。

 

結局2時間掛けてビンダヤに到着。何と大雨である。果たして茶畑に行けるのか?取り敢えず前回はトイレを使うだけに寄った洒落たレストランに入る。このお店、非常に衛生的にきれいであり、西洋人がよく利用するようだ。きっとビンダヤ観光する外国人は皆ここに来るのだろう。

 

昼食はシャン料理、何度食べても、何を食べても美味い。今日の豆スープは何と茗荷入り、絶品。これだけで幸せになれる。お替りする。またシャン州の米は何とも美味い。日本米に近い。野菜は新鮮、デザートのパイナップルも実に甘い。TAMはお茶を飲む時、緑茶にライムを搾る。シャン州の飲み方かと聞くと『TAMスタイル』とのこと。ちょっと酸っぱくなかなか個性的な味になる。こんな独特のスタイルをいくつも持っていることがTAMの魅力。

ミャンマー 129m

ミャンマー 132m

 

実は今回車の助手席に男性が座っていた。誰だろうと思っているとTAMの弟だと言う。何でもSSが山を登れない時の為の補助要員とか?ニコニコしていて寡黙だが、マレーシアに出稼ぎに行ったとかで英語も出来る。ミャンマーからマレーシアに出稼ぎに行くことは意外と簡単なようだが、賃金が低下したので戻ってきたのだという。マレーシア経済も相変わらずか?彼はTAMのご主人と同じ地質学が専攻というからこの国ではエリートのはずだが。その彼が出稼ぎに行かなければならない所が現在のシャン州の厳しい現状を表している。

 

(3)ラペソーの村

ビンダヤの名所と言えば前回も訪れたビンダヤ洞窟院。そこの横を歩いて抜ける。雨は小降りからやがて止む。晴れ男である私の面目躍如である。近道だというので登り始めたが、結構急な坂道である。TAMは前回同様ちゃんと靴を穿いているが、TTMは例のミャンマーサンダルでスタスタ登る。問題はやはりSS。サンダルでは登れずとうとう裸足になる。TAM弟の出番が近づいている?

 

少し行くと我々の前を山に戻る母娘がいる。TAMが道案内を頼んだようでのろのろ歩く我々を待っていてくれる。この辺りはダヌー族の村であるから、彼らもダヌーであろうか。娘は7-8歳か?カメラを向けると手で顔を覆い、写真に納まってはくれない。実にシャイで可愛らしい。頭に籠の紐を引っ掛け歩いて行く。これが彼らの営みである。小さい時から親の手伝いをして働く。日本の子供に体験させたい世界がそこにある。

ミャンマー 137m

 

途中山道を振り返るとビンダヤの街が一望出来る。湖など雨上がりの素晴らしい風景が広がっている。ここに座って一日伸びをしていたい気分。SSが山の子を見習って、後からゆっくりと上がってくる。負けん気は人一倍で、弱音を吐かず頑張っている。誉めてあげたい。

ミャンマー 136m

ミャンマー紀行2004(16)日本語のできる美人CA

(9)ヘーホーへ   8月11日(水)

翌朝6時半に朝食、6時50分にはホテルを出る。愈々クライマックス、シャン州に向かう。空港への道は一昨日通っているが、例の洪水被害の場所で大渋滞が起こっていた。車が一車線しか通れない為、そこに車が殺到している。全く動かない状態になっている。マンダレーへ向かうトラックが多く、物資が都市に流れている様子が伺える。そんな悠長なことを考えていると横でSSなどは飛行機に乗り遅れると本気で心配している。ミャンマーではなるようにしかならないと体に叩き込まれてきた私は平然としており、この対比が妙に可笑しい。

 

しかしこんな所で乗り遅れてなるものか。シャン州への私の思い、TTM、SSそれぞれの思いが通じたのか、車は何とかトラックの間を掻き分けて、20分後に通過した。そしてあの分不相応な空港待合室で飛行機の来るのを待っていると、思いの外、今度は直ぐにやって来て搭乗した。順調、順調。

ミャンマー 122m

さあ、あのアルプスの少女ハイジ、ティンエーマーとの再会だ。必要以上に胸が躍る。そしてあの100年前の日本、シャン州の村々がもう直ぐ目の前に現れるかと思うと、本当に心臓が大きく鼓動してくる。一体何故私はここまでシャン州に思い入れを持ってしまったのだろうか?私は本当はどこから来たのだろうか?とても説明できない様々な思いが、こみ上げてくる。

8.再びビンダヤ (1)ヤンゴンエアー

機内に乗り込む。前回は乗り込んでから行き先変更を知らされたので、TTMの方を見る。大丈夫と小声で言う。よかった。荷物のバックを上に収納しようとすると若いCAが『手伝いましょう』という。しかもその言葉が流暢な日本語である。私はTTMの指示で一番前の席に座っていた(ヤンゴンから出るとき以外は自由席)ので、離陸後そのCAと会話してみた。彼女はヤンゴン外国語大学日本語学科の3年生、つまり日本的に言うと現役女子大生CAである。

ミャンマー 123m

 

既に学校の授業は終了しておりヤンゴンエアーに就職したという。結構な美人である。日本語能力も高い。勿論英語も出来る。才色兼備である。実はSSも同じ大学に行っているが、彼女は日本政府が援助した日本語センターに通っているらしい。航空会社からCAにならないか、との誘いはSSの所にも来たそうで、『なるのは簡単です』と言っていた??日本語学科は語学を重視し、日本語センターは会話を重視しているとのことであったが、このCAの言葉はかなり立派な日本語であった。SSの焼餅だろうか??

ミャンマー 124m

 

本当はもっとお話したかったが、マンダレー、ヘーホー間は僅か25分。あっと言う間に到着してしまった。彼女の名はリダ・アウン。25分間の夢であったか?『また会いましょう』とリダはにっこりして挨拶した。とても残念!降りるとTTMが『ヤンゴンエアーはエアーマンダレーより美人が多いと聞いたので、敢えて選びました』と言う。お願いした訳ではないが、人の気持ちを察してくれる人である。エライ!でもルート変更はどうかと思うのだが??

 

(2)ビンダヤへ

飛行機を降りるとそこはシャン州であった。空気が違う。景色も違う。また帰ってきた、心の中がそう叫ぶ。空港ロビーを簡単に抜け、入り口の門の所に来るとティンエーマー(以降TAM)が人の間を縫うように小柄な体を前に出してきた。1年ぶりの再会だった。懐かしい!

 

早々にワゴン車に乗り込んでしまい、あの涼やかな空港脇の小道(並木道)を眺める暇も無かった。さあ、今日は何処に行くのだろう?何処に連れて行ってくれるのだろう?『ビンダヤ』という言葉がTTMとTAMの会話から聞こえる。ビンダヤか。昨年お茶農家のおばあさんを突然訪ねたあのビンダヤの山中。『今年はラペソー(食べるお茶)を作っている農家に行きましょう。』とTAM。色々と考えてくれている。

 

実は昨年山中のおばあさんに写真を引き伸ばして送る、約束していたが、果たして届くのか不安であったので、本日持参した。今回は他の場所に行くので写真をTAMに託した。彼女は何時おばあさんのところに行く機会があるのだろうか??おばあさんは元気であろうか?