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ミャンマー紀行2005(11)交通の要所 ラショー

(6)学校

ソーボアハウスを後にする。もうティボーには用はないということで、そのままラショーに向かう。これは私に希望だ。中国国境に近いこと、第二次大戦中の援蒋ルートの一端を見てみたいということ、そして温泉があること。ラショーに向かう道は昨日来た道の続きを行く。直ぐに検問があり、通行料を支払う。するとその先に椅子に座った老人が坪を持っている。椅子には旗が立ててある。運転手は窓からお金を投げたようだ。どうやらこれはドネーション(寄付)を募っているらしい。独立運動デモでもするのだろうか?

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聞くところに寄れば、シャン州には長く反政府勢力が存在した。先程のパンロン協定を反故にされ、ソーボアが連れ去られ、独立は失われたのだから当然といえば当然では有るが、長い歴史である。現在は停戦協定が締結されているが、停戦しているだけで、決して戦闘を放棄したわけではないようだ。

 

寄付の為に車が停まった際、ふと目に入ったものがある。学校である。広い校庭に机を出して、小さな子供達が勉強しているように見える。私は咄嗟に車を降りて、歩き出してしまった。TAMが後を追う。特に咎める様子もない。我々二人は1年半前、南シャン州で山の学校を訪れたことがある。その時の記憶が蘇る。校舎の近くで1年生が青空授業をしていた。先生と思われる女性が警戒したように近づいてきた。TAMが話し掛ける。その内先生の表情が和んできた。学校の写真を撮ることは政府の法令で禁止されているが、話はしてくれるという。

 

この学校は近くの村の子供を集めている。シャン人もいるが、バロン人など少数民族も多い。先生自身は北のカチン族だという。何故ここにきたのかは分からなかった。もう一人の先生はワ族だと言う。ワといえば、タイとの国境に住み、昔はアヘンの交易を担っていた人々ではないか?カチン族の先生の話でビックリしたのは、この付近の村では日本人は非常に評判がよいということ。何でも戦争中にこの辺りを敗走した元日本兵が戦後この地を訪れて、恩返しを申し出たという。水の確保が必要だということを聞き、小さなダム(貯水池??)を建設した。これにより、村では大いに助かった。それでTAMが先生に話した時、先生の表情が緩んだのであろう。日本人の先輩に感謝しなくては。

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先生と大分打ち解けてきた。子供達はミャンマー文字の練習をしている。SSは熱心にその様子を見ている。突然先生が『うちに来ませんか?お茶でも飲みましょう。』と誘ってくれた。是非行ってお茶を飲んでみたかったが、さすがに子供たちを放って行こうとは言えない。TAMも先を急いで、断ってしまった。残念。子供たちに手を振り、学校を後にした。

 

5.ラショー

(1)ラショーの市場

ラショーまでは2時間。昨日の12時間を経験してしまうと大した距離に思えないところが人間不思議である。車に弱いSSにも良かったのではないか?この辺りの道にはあまり変化もなく、外を見ても面白いものを拾うことは難しい。ラショーの街は大きいようだ。マーケットのある場所はラショーレイと呼ばれ、所謂ラショーである。北には新しい街ラショージーがあるが、バスターミナルがあるだけ。

 

車はマーケット近くに停車。緩やかな坂を上っていく。『電脳培訓班』と書かれた看板を掲げるビルがある。ビルの前にはバイクが沢山停まっている。どうやら中国系のためのコンピューター教室のようだ。街のあちこちに漢字が目に付く。本当にここはミャンマーであろうか?坂の途中には旧正月の飾りを売る店もある。香港で売っている福の字を逆さにした物や、財弁天の絵が描かれた物、宝船が描かれている物など掛け軸が多い。

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食べ物を売る店も多い。見ると何とてんぷらを売っている。ちょっと油っぽそうだが、紛れもなく野菜てんぷら(かき揚げ)である。餅やのりを揚げたものもある。食べてみるとなかなか美味しい。隣ではキムチを売っている。こちらはかなり辛くて食べ難いほど。ここでは中国も日本も朝鮮も混ざり合っている。

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建物も混ざり合っている。くすんだ洋館が見えると思えば、白い塔を配するモスクもある。一体ここはどこなんだ?文明の交流地点と言うのであろうか?日中戦争の最中、連合軍はこの街から昆明まで所謂ビルマロードを建設した。全長1153km。日本軍はこの街を通って、中国国境へ進み、そこで大敗する。運命の道なのである。元日本兵でここラショーを懐かしがる人は多い。

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更に行くと両側に建物が並ぶ狭い路地がある。ここにも露店が出ている。TAMが突然花を買い、早く写真を撮れと目で合図してくる。後で聞くと、花売りの彼女はバロン族だそうで、珍しい民族衣装を着ている。滅多に会えないのだそうだ。お茶を道端で売っている。大きな竹で編んだ籠に入っている。三種類あるが、どれが良いのか見た目では分からない。小さな手秤に載せて重さを量る。緑茶を乾燥させただけのようだ。売っているおばさんは中国系に見えるが。この辺りの少数民族が売りに来ているのかもしれない。

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干し柿も売っている。煎餅も売っている。日本の伝統的な食べ物がそこら中にある。やはり、やはりミャンマーは、いやこの辺りは日本のルーツではないのだろうか?ここは交通の要所ではあるが、特に観光資源はない。それでも日本人も一度は訪れてみると良いのではないだろうか。

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ミャンマー紀行2005(10)ティボー ソーボアハウスでお姫様に会う

(5)ソーボアハウス

車は一路ソーボアハウスへ。TAMがティボーを宿泊場所に選んだのは、ここに来る為だったようだ。ソーボアとは藩王のこと。ティボーの北の外れにこの藩王の家が現存している。小さな家々が建っている所を抜けて、小さなパゴダの横を通るとソーボアハウスの広い敷地の外壁が見えてきた。

 

ソーボアとは、ネルアダムス(藩王の娘として生まれ、現在イギリス在住の女性)の著書『消え去った世界―あるシャン藩王女の個人史』によれば、『ソーボアは世襲の直系男子で、三十三ある各藩国を統治していた。ビルマ人、そして後のイギリス人も、シャン語の称号「サオパー」(天の支配者)を誤った発音でソーボアと呼んだ』と定義している。シャンの王様だ。

 

ソーボアはカルマ(運命)を信じるシャン人により、特権的な地位を与えられ、尊敬されていたが、同時に領民を正しい道に導くことが期待されていた。ソーボア制はこの相互信頼があって成り立っていたようだ。長年の統治の後、日本軍の侵略・撤退、イギリスからの独立を宣言する過程で、1947年『パンロン協定』が成立、シャン州は10年間暫定的にビルマ連邦に属することになる。

 

しかし協定は破られ、1962年のネ・ウインのクーデター(社会主義革命)により、政府首脳と同様にソーボアも多くが逮捕、投獄された。一部は無残にも殺されてしまったという。ここティボーのソーボア、サオチャーセンも消息不明になってしまった一人だ。このサオチャーセンは非常に開明的な藩王で、アメリカ留学後、ティボーに近代的な農業、工業を導入し、領民の生活を改善したと伝えられている。また留学中に知り合ったオーストラリア女性、インゲ・サージェントと結婚したことは、シンデレラストーリーとして有名な話だ。

 

サージェントの著書『Twilight over Burma :MY LIFE AS A Shan PRINCESS』によれば、彼女は自分の恋人がシャンのソーボアの息子だと知らずに結婚を承諾、ティボーに行って初めて事実を知り、悩んだ末に結婚し、様々な習慣の違いなどを乗り越えて、ティボーの発展を藩王の影で支えたという。現代でもそんな話があるのかと、痛く驚いた。尚この本はTAMが是非読むように推薦したので、帰途バンコックで探してようやく買ったものである。

 

1924年に建造されたソーボアハウスは現在サオチャーセンの甥、サオオーチャ夫妻が管理しているとガイドブックにある。果たしてソーボアの一族に会うことが出来るのであろうか?車は門の前で停車した。門は堅く閉ざされているが、隙間から覗いて見ると広大な敷地である。一体どうやって入るのであろうか?突然TAMが中に向かって何か叫ぶ。そして何と鉄の門を叩く。『開門』と叫んでいる武士のようだ。だが何の反応もない。ジッと待って又再度同じことをする。まるで儀式のようだ。

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5分ほどしても何も起こらないので壁の周りを歩いて見る。周りは農家であり、今も野菜を作っているらしい。するとSSがやって来て、中に入れるという。門の前に引き返すと向こう側に召使の女性が立っている。私が外国から来たという事情を聞いて、中に入れるかどうか主人に聞いてくると言って建物の方に立ち去る。

 

何だか悠久の歴史の中に身を置いている気分だ。時間がゆっくり流れている。10分して、門が開き、中に入れてもらう。左側には大きな菩提樹の木があり、小屋が見える。右側にはテニスコートの跡が見える。畑も見える。正面に洒落た洋館が目に入る。実に形のよい2階建て。玄関前の様子はイギリス風、2階のバルコニーは南欧風であろうか?1階の外壁の一部にはツタが絡まっており、何とも風情がある。

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玄関から若い女性が出てきた。誰であろうか?サオオーチャのお嬢さんだという。見た目に品がよい。サオオーチャ夫妻は丁度旅行中で、今日は中を見せることが出来ないと申し訳なさそうに言う。私は彼女に興味を持ち、TAMを通訳にして質問しようと英語でTAMに向かって話し出した。すると彼女はTAMの方を見ることなく、流暢な英語で答え始めた。生まれてからこのハウスから外に出たことはあまりないこと、英語及び勉強は全て両親からここで習ったこと、両親は普段はこのハウスを管理することを仕事としており、たまには畑で野菜なども作ること、等など。

 

彼女の話し方は一語一語ゆっくりと考えながら、音を出す。不思議な間合いを持っていて、それでいて引き込まれてしまいそうな雰囲気がある。さすが世が世ならプリンセス。だが、彼女が外に出ないのも、決して本人の希望ではないのであろう。自由を奪われしまったプリンセスの将来はどうなるのだろうか?などと、勝手な心配をしたくなる。

 

彼女と別れて、裏に回ると、プールがある。長く使われていないようだが、場合によっては貯水池として使えるかもしれない。そう思って壁の向こうを見ると川が流れている。TAMによれば、あの川から水を引き、灌漑設備を整えたようだ。サオチャーセンはこの川を見ながら、ティボーの農業の将来を考えたことだろう。彼の行方は未だに分かっていない。さぞや無念であったろう。

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菩提樹の横にある建物も見た。祈り堂である。建物の形が実に素晴らしい。工芸品のようである。今でも夫妻により、毎朝祈りが捧げられているという。木造の質素な建物ではあるが、心地よい空間である。祈りをする場所に入ることは出来ないが、2階に上がり伽藍から周りを見渡すと何だか世界が違って見えた。何故だろうか?ミャンマーが軍事政権であることなど、そこからは微塵も見えないのだが。

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ミャンマー紀行2005(9)ティボー 洋館で充電を

1月18日(火)

充電でトラブル

朝まだ日が出る前に、電気を点けてみたが、まだ電気は来ていなかった。これでは今日の写真は全くお手上げである。フロントに行き、聞いてみると『ホテルでは電気は夕方だけしか供給しないのです。皆さん蝋燭の明かりで夜を過ごす事が非常に気に入ってくれています』との答え。

 

しかしよく見るとフロントの一角では電気が点いている。また聞けば『これは最低限業務に必要なものです』と言う。いくら頼んでも絶対に電気は供給しないと分かり、さすがに怒ってしまった。停電なら仕方がない。しかし電気があるのに点けない。それも充電するという非常に僅かなものに対してもだ。

 

TAMとSSがやって来た。どうしたんだ、と慌てている。事情を説明するとTAMが交渉を始める。おじさんでは埒が開かないらしく、奥からおばさんを呼んで来る。少し話をしていると思ったら、突然TAMが大声を出す。英語で『4000チャット払ってやるから、電気を点けろ』と凄む。これまでに見たこともない凄い勢いだった。あまりの事に私が間に入り、もういいから行こう、と外へ連れ出した。

 

TAMが切れた、あの冷静なTAMが。小さな体が震えた。興奮が収まらないらしい。運転手に車を出してもらい、朝ごはんを食べに行く。こんな状態で果たして食べられるのか?ミャンマーに来てほぼ初めての異常事態に私も呆然とした。これはきっと昨日私が漏らした不満に起因していると思う。彼女のショックは相当のものだったに違いない。私の後悔も段々深くなる。

 

(4)朝ごはん

昨夜行った場所は実はメインストリートではなかった。バスターミナルのある場所に町並みが見えた。立派な、そして伝統的な建物が見えた。写真を撮りたいと思い、車を停めてもらった。しかし充電していないのでカメラは動かない。この建物は何とレストランであった。中に入ると天井は高いが暗い。電気が来ていない。TAMは注文だけするとどこかへ行ってしまった。メニューは何とも中華風。お粥と揚げパンだ。なかなか美味い。周りを見ると漢字で書かれた書が掛っている。どう見てもこの家は中華系だが、しかし建物は洋館だ。なぜだろうか?

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TAMが戻って来た。この店で充電させてくれるという。急いでカメラを持っていってコンセントに差し込む。TAMは余程気にしていたのだろう。食事も取らずに懸命に動いてくれていた。しかもこの洋館のオーナーを捕まえていた。充電している間、彼と話しをした。彼は雲南省から来た中国人。中国語は今一つだが、英語が話せたので、英語で聞きたいことを聞く。

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この洋館は1927年建造。イギリス人の手によって造られたと思われる。その頃はいくつかの洋館が建っていたらしい。第二次大戦中ここティボーにも空爆があり、この1軒を残して全てが破壊された。日本軍がやって来てこの洋館を占拠して、食料も全て奪われたと聞く。

 

これらの話は全てこの地の老人から聞いたという。彼自身は80年代にこの洋館を買い取った。これからは中国人の時代だという。確かにこの辺り、中国人が多いように思われる。昔イギリスが侵入し、日本が占領し、今また中国からの侵略を受けるのであろうか?充電は電源が弱くてあまり出来なかったが、貴重な話が聞けた。

 

車に乗りホテルに戻る途中、TAMが静かに言う。『私はシャン人が嫌いだ。あのホテルの家族は典型的な悪いシャン人だ。人が困っている時は黙って助けるものだが、彼らは何もしない上に、お金を要求した。私には耐えられない。恥ずかしい』と。この時から私もシャン人を少し警戒した。

 

ホテルに戻り、支度をして直ぐに荷物を持ってチェックアウトした。こんな所に一刻もいたくない気分になる。フロントの男性は何故かニコニコしている。しかし我々が全く笑わず、お金を払って出て行こうとすると突然『充電させてあげる。お金は要らないよ』と英語で言い出した。

 

これには呆れたし、かなり馬鹿にされた気分になる。外国人の印象を悪くしては損だとでも考えたのだろう。充電など出来なくても良いから、早く立ち去りたい。荷物を車のトランクに入れているとフロントのおじさんとシャワーに連れて行ってくれたにーちゃんが『何で充電しないんだ。必要なんだろう』といいながら、寄って来た。全員無言で無視して車を出した。

 

外の道には托鉢を終えた僧侶が列を成して壺を持って、歩いて行った。一方このホテルの隣は学校だったようで、沢山の生徒がたむろして開門を待っていた。それを見ながら少しずつ心をしずませた。

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ミャンマー紀行2005(8)ティボー 熱いシャワーと停電

4.ティボー

(1)熱いシャワー

ホテルはミスター・チャールズ・ゲストハウス。庭にはテーブルが出ていて、西洋人がビールを飲みながら談笑していた。とてもミャンマーとは思えない。この小さな街に何故こんな洒落たホテルがあるのか??TAMによれば、ここティボーには外国人が泊れるホテルは2つしかない。その内条件の良いこのホテルを選んだと言う。オーナーは海外経験もある。フロントに行くと女性から『ウエルカム』と英語で言われる。この片田舎では結構驚きの対応である。

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部屋に案内されると清潔で快適そう。満足。案内してくれた男性が『お湯も出ますよ』と流暢な英語で言ってくれるので、嬉しくなる。何しろ12時間も車に乗ってクタクタである。早くシャワーを浴びたい所だ。早々にシャワーの栓をひねる。ところが・・?何時まで経ってもぬるい水しか出ない。仕方なくさっきの男性を呼びにフロントへ。彼は『おかしいな』と言いながら部屋へ。そして『これはお湯ですよ』と言う。えー、冗談でしょう?押し問答が繰り返される。

 

その内彼が『ではお湯を持ってきてあげましょう』と言う。どこにお湯があるんだ?自分でその場所に行ったほうが早いと言うと彼は案内してくれた。そこは裏庭。コンクリートの建物の中にはシャワーがある。『これは家族用ですよ。でも風呂好き日本人のあなたに特別開放しますよ』と親切に言う。

 

有り難い。熱いお湯が沢山出ている。今までのもやもやが吹っ切れる。服を置く所がなくてTシャツが濡れたが、気にならない。人間疲れたときには熱いシャワーに限る、これは人生の鉄則に加えられるかもしれない。シャワーから出て部屋に戻る時、ホテルの従業員、いや家族が居間で皆でテレビを見ていた。怪訝そうな顔をしていたが、挨拶すると笑顔になった。いい人たちが、外国人のためにホテルを作ってくれたんだ、とその時は思ったのだが・・?

 

(2)ティボーの夕食

既に午後8時。夕食に出掛ける。街は小さくメインストリートらしき所に直ぐ到着。両側にレストランが並ぶ。が、みなこじんまりした食堂。TAMが串焼きを食べようと言う。店先で焼いている。日本で言えばうなぎ屋のように見える。食べたい物を選んで焼いてもらうのだ。

 

勿論店はオープン。少し涼しい風が吹き抜ける。見ると普通の鶏肉や豚肉、魚もあるが、何だか分からない肉もある。野菜もしいたけやねぎもあるが、オクラもある。オクラの串焼き?オクラの串焼きは美味かった。鶉の卵も絶品。完全な炭火焼。スープは塩気が強い。よく分からない臭気が強い食べ物も出てきたが、食べられない。何しろ暗くてよく見えない。まるで闇鍋状態だ。

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TAMがお酒を飲みましょうと言う。珍しい話であり、受けることにする。ラベルのはがれたビール瓶が出て来る。グラスに注いで飲むと、何と『甘酒』である。子供の頃にひな祭りかなんかで飲んだ、あの懐かしい味がする。やはりここは昔の日本なのである。更に食後TAMが出して来た物を貰ってビックリ。口に入れると、何と仁丹である。よく食後に舐めているらしい。

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店の中の方を覗き込む。丸い七輪で焼いている。これも日本である。ネコが横で丸くなっている。退けようとしても動かない。猫はコタツで丸くなる日本と変わりがない。車の中で疲れを見せていたSSも元気になり、ネコをかまっている。薄暗い光の中、何となく暖かい。

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店を出ると歌声が聞こえる。他の店では酔ったおじさんが大声を張り上げていた。カラオケなどもなく、どんな歌かも分からないが、懐かしい気分になる。道の角まで来るとしゃがみ込んで七輪に何かを載せている人がいる。近づいてよく見ると、それは煎餅であった。海苔を巻いているものもある。いやー、これこそ日本の源流。本当に明かりのない中、内輪をパタパタさせて七輪に向かう男性は私の分身ではなかろうか?

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(3)しかしホテルは

そして歩いてホテルに戻る。空を見上げると綺麗な星がシャワーのように降ってくる。こんな星空は見たことがない。やはり乾季に見る星は素晴らしい。実にクリアー。そしてホテルの前に来ると唖然??ホテルは真っ暗であった。TAMは予期していたかのように、ドアを叩く。中から女性が出てきて何かを手渡す。蝋燭である。太い蝋燭を手渡される。部屋は別棟になっているので真っ暗な廊下を歩いて行く。停電なのだろうか?

 

思い出したのは充電。既に完全に切れている。部屋に入ったが、全く電気が来ていない。仕方がないので蝋燭をテーブルの上の蝋燭立てに立てる。赤々とした蝋燭の火を見て、何だかどっと疲れてしまった。そのまま寝入り、気が付くと何と朝になっていた。初めて蝋燭の炎に包まれて寝た。

ミャンマー紀行2005(7)ゴッティ橋と夕日

(2)チャウセーの昼飯

チャウセーはマンダレーの近く、大学や大きなパゴダがある由緒ある街である。我々は大きな通りを走っていた。これがヤンゴンーマンダレーを結ぶ幹線。国道1号線といった所か??大型トラックやバスが大きな音を立てて通り過ぎる。幹線といっても片道2車線であるが。道端のレストランに入る。トイレに行くと裏は電車の線路である。国道1号線と東海道線が平行して走っているようなものだ。丁度電車が走ってきた。ヤンゴンからマンダレーに行くようだが、スピードは遅い。何時着くのだろうか??道を走っているバスも遅い。ミャンマーの時間は我々とそれとは全く異質なものである。

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食事は中華である。どうしても日本人に合う味は中華ということになる。地鶏とカシューナッツの炒め物は塩味が効いていて美味かった。トマトのサラダは食べていいのかと思ったが、食べてしまった。甘くはなく、自然な時がした。ご飯が大盛りで盛られたが、あまり食べられない。車に揺られすぎであろう。TAMは袋から何か取り出した。彼女が袋に手を伸ばすと興味津々である。今回は昨日買ったアボガド。ナイフを出して切り、スプーンを出して勧める。そうか、これは山越えの非常食であったのだ。既に危険は越えたのか??

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そうそう、朝から大騒ぎしたデジカメの充電。TAMがこの店の親父と交渉して充電させてもらえた。しかし電源があるのはレジの横。仕方なく、デジカメを睨みながら食事を取る。もしカメラがなくなれば大変である。珍しそうに眺めているお客もいて冷や冷やした。電流が弱いのか、なかなか充電は終わらない。その内時間が来て充電を中止し、出発した。何とも電気を求める旅となってしまった。

 

(3)ティボーまで

マンダレーに向かって走り出したが、途中で曲がる。前回訪問したメイミョーに向かう。懐かしい山を登る。メイミョーは高原にあり、暑いマンダレーの避暑地として存在していた。今日はメイミョーに行くものとばかり思っていたが、何と更にその遥か先まで行くという。そろそろ尻が痛くなる。午後3時頃山を登り切りメイミョーを通過。本当にここで降りたかった。町外れには分かれ道が有った。洒落たレストランが角にある。向かいに大きな木がある。この木がどれだけの旅人を見てきたのか??日差しは強いが、ビーチパラソルがテーブルを覆い、下は涼しい。

 

更に行くと給油。ミャンマーでは石油は高価な物。政府の公定価格は1ガロン180チャットだが、実際の価格(闇価格)は1200チャットにもなっている。更にお金を払っても量を確保出来ない。運転手は道端にドラム缶を並べた給油所??を回り、価格を交渉してガソリンを確保していた。聞くところによれば、立ち寄る給油所は決まっているそうだ。同じ民族の開いている所で買う。見分け方は立てている旗らしい。やはり同じ民族でないと騙される、という事だろうか??

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夕方ティボーに大分近づいて来た頃、世界で2番目に高いところにある鉄橋の横を通過した。こんな所に世界で2番目というものがあること自体が驚きである。名前はゴッティ鉄橋。1903年イギリス人により建設された。イギリスという国は本当に恐ろしい。アジアの果て??の山の中に100年も前にこんな高い鉄橋を建設しているのである。高さは300m位あるらしい。橋の所には1948-51年という表記が見える。恐らくは第二次大戦の際、一度破壊されたのではないだろうか??それを修復して現在に至っているのであれば、日本の責任はどうなるのだろうか??

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実はこの時写真を撮りながら相当の疲れを覚えていた。朝7時にビンダヤを出てから約10時間、殆ど車に乗っているだけである。運転手は疲れないのであろうか??私はもう疲れた。寝たい!そう思うと何でこんな所にいるのだろうかという疑問が湧いてきた。TAMが『明日はこの電車に乗って鉄橋を渡りましょう』と言う。しかし私は『高所恐怖症だから乗りたくない。それに私の目的は列車に乗る事でもなければ、車に乗る事でもない』と幾分声を荒げてしまった。

 

3回目のミャンマーで初めて怒ってしまった。日頃短気な私がここミャンマーでは全く怒ることがなかった。しかし今日は何故か、そして誰に対してか怒ってしまった。声を出してしまってからハッとした。TAMは非常に困った顔をしていた。そして一言も話さない。こちらの方も困ってしまった。

 

SSが『怒ったの??』と心配そうに顔を覗き込む。『いや』とだけ言って車に乗り込む。本当にどうしたんだろうか??自分でも分からない。それから1時間ほど車内は沈黙に包まれる。全員疲れが顔に出る。いつでも楽しい旅というものはない。しかし自分が原因で楽しくない雰囲気を作ってしまった。更に一生懸命やってくれているTAMを傷つけてしまった。自分にショックである。

 

6時頃車が停まる。山の中の道端に物を売る店がある。何故だろうと見ていると、山陰からきれいな夕陽が顔を出す。店の前でコップにビールを注ぎながら、夕陽を眺めているミャンマー人がいた。何と贅沢な夕方だろうか??ミャンマーにもお洒落な人がいることが分かった。夕陽をじっと眺める。実にゆっくり落ちて行く。心にあったわだかまりが解けていく。SSは涙を流しそうに眺めている。TAMは例の無表情で見つめている。ふと彼女は私の横に来て『誤解があったようですね。明日はあなたが行きたい所に行きましょう』と言ってくれる。

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『ラショーとチャウメイに行きたい』と咄嗟に答える。TAMは黙って頷く。恐らく彼女は用意していた全てのメニューを捨てたであろう。しかし一言も愚痴を言わない。プロのガイドなのである。そしてプライドは非常に高い。どんな要求にも応えて上げる、という意気込みがある。夕陽が完全に沈み、車はティボーの町に滑り込んだ。実に12時間、長い長い一日が暮れた。

ミャンマー紀行2005(6)南シャンから北シャンへ

(6)電気

朝から写真を取り捲った。暗い内はフラッシュも随分使った。気が付くとデジカメの電池が切れ掛かっている。これはマズイ。今日はメイミョーまで車で行くのである。着くのは夜になるという。電池がなければ写真が撮れない。しかし出発の時間は迫っていた。慌てて部屋の電源に差し込むが反応しない。停電なのである。万事休すか??下に降りてTAMに事情を話すとホテルの人と相談してくれる。そしていきなりおじさんがこっちに来いと合図する。着いて行くとそこはホテルの建物の横。塀の向こうにはさっきの少数民族の人々が野菜を売っているのである。

 

何とおじさんは建物の横の地面すれすれの場所の扉を開ける。そこは半地下になっており、中には自家発電装置が備えられていた。かなり暗い所へ入り込むと充電を始める。正直言っておじさんと二人、こんな所に蹲って朝を過ごすとは??外を見ると塀の向こうから人々が何事かと覗き込んでいる。

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TAMも心配そうにやって来た。時間が無いと言う。残念ながら15分ほどで充電を打ち切る。どうなることやら??しかしこのホテルの親切には感動した。外国人ということはあったと思うが、機敏な対応には感謝したい。しかしTAMは何故そんなに急ぐのか??これから何が待っているのか??

3.ティボーへ

(1)ビンダヤから

充電は中途半端であったが、何とかなるだろう。車は出発した。7時15分。今日は一体どこへ行くのだろうか??聞いてビックリ。何と北シャンのティボーまで行くという。エー??車で12時間は掛るというのだ。何故ティボー?さすがに驚いたが名ガイドTAMに従うしかない。

 

ビンダヤの街から山を越える。眼下に湖が霧の合間に少し見える。下界の神々しい朝日とはまた違い、なかなか幻想的な風景。遠くに山がいくつも見える。山に囲まれた盆地、それがビンダヤであった。あの山の中に茶畑があり、茶農家があり、そして子供達が走っている。風が霧を押しのけて一瞬山がきれいに光った。

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実はこの旅には予備のデジカメを持ってきていた。これをSSに貸してみた。喜んで写真を取り捲るSS。何か面白い写真が取れそうである。今もTAMと二人、写真を撮り合っている。ミャンマーの大自然の中で、デジカメを使うミャンマー人、何となく不思議ではあるが、これが21世紀の姿か。

 

平地に出る。ユアンサン平原というらしい。確かに遥か向こうまで見渡せる平原である。畑には少しの作物もなく、山には僅かな木もない。ただただ広いだけ。その中を時折並木あり、一本道を行く。真っ直ぐに進む。暫く行くとマンダレーに向かう分かれ道に出た。最近出来たばかりの近道。以前よりはかなり速いらしいが、それでも4時間ぐらい掛るという。

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途中で車が止まる。オレンジなどこの辺で採れるフルーツが道端で売られている。TAMは何と生ジュースを注文していた。女性が一つずつオレンジを絞っていく。機械ではなく手で。時間が掛かるが美味しそうである。後からドイツ人女性を乗せた車も止まり、同じものを注文している。どうやら名物らしい。待つ間に周りを眺めると牛が放牧されている。実に長閑な光景。穏やかな朝日は暑さも感じない。爽やかなそよ風が吹き、手足が伸びる。幸せな気分になる。ジュースは本当にフレッシュでどろどろしていた。

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また車に乗る。少し行くとまた上り。山の中に入る。カーブがきつい。ぐるぐる回る。途中に小川があり、木の橋が架かっている。少し壊れており、渡るのは心配であったが、運転手は難なく越える。簡単に書いてしまったが、ここまで約4時間走っている。S氏からは『ミャンマーの旅行とは一日中車に乗って、宿に着き、翌日また一日車に乗るようなものだ』と聞いてはいたが、既にそれが目の前に起こっている。この先一体どうなるのか??このままこの風景が何時間も続くのであろうか??

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この山を越えるとシャン州境となる。平地は先程とは一変、緑もなく、木もない。ただの大地に禿山。まるで原始時代。『はじめ人間ギャートルズ』というアニメを突然思い出す。ああ、こんな所が大昔だったのだろうか??マンモスでも出てきそうだ。人影は全く見られない。

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木の陰からパゴダが見えた。州境である。検問がある。運転手が何か話している。私はパゴダとその前にある井戸に興味を持った。そして大胆にも車を降り、写真を撮る。SSはハラハラして見ていたようだ。何しろいちゃもんを付けようと思えばいくらでも出来る。外国人だからといって許されるかどうか??しかし私には何事にも思えない。車から降りて足を伸ばしたかった。

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以前もシャン州からマンダレーに入る時、見咎められた。シャンには中国系が多く、彼らはアヘンを扱っていることがある。私も怪しい中国系として声を掛けられたが、全く意味が分からなかった。TTMが慌てて『日本人』と告げると周りの皆が笑い出したことが思い出される。昼近くにチャウセーという街に入る。

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ミャンマー紀行2005(5)ビンダヤ 夕食と朝市

(4)ビンダヤの夕食

山を下りると辺りが暗くなっている。過去2回はビンダヤには来たが、泊ったことはなかった。1回目はインレー湖から来て、マーケットを見てから、山に入りお茶の木を見て、ガロウに泊った。2回目は山の中で食べるお茶、ラペトゥ作りを見学し、夕方タウンジーに行ってしまった。夜になるとこの小さな街の人通りは全くなくなり、かなり寂しい。ホテルに荷物を置いて、シャワーを浴びる。何とかお湯が出て嬉しい。さすがに山登りは疲れた。心地よくベッドに体を沈める。ほの暗い電灯は眠りを誘う。

 

下に集合して夕食へ。ホテルの向かいにある中華食堂だ。この『正来食堂』は地球の歩き方にも載っている。さすがに客は誰もいない。かなり暗い中でメニューを見るが良く見えない。が、TAMは見えるようだ、何品か注文するといきなり持ち込んできた弁当箱を開ける。中に干し肉と挽肉のようなものが入っていた。

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食べてみると味が滲みこんでいて美味い。一つは肉と思ったが、フルーツのサラダであった。もう一つは干し肉。疲れた体には実に心地よい味だ。フルーツはしゃきしゃきしている。驚いたことにこれを作ったのは、さっき我々の道案内をしてくれた男性だという。実は彼はプロのトレッキングガイドだったのだ。

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今日のような短い旅では不要であるが、数日山の中を歩く過程では、当然自分で食事を作る。更に非常食として今食べているような物を持参する。かの食べ物はガイドとしての彼のプロの技なのである。何だか分からないが感動してしまった。

 

そして中華料理。肉団子と野菜のスープは塩気が十分に効いていて疲れた体には、美味い。空心菜炒めも新鮮。チャーハンも昔風(地球の歩き方のお勧め)。鶏肉も地鶏を使っているのか、歯ごたえが良い。腹が減っていたこともあるが、恐ろしいほど沢山食べてしまった。食後にミャンマー茶を飲んでご機嫌になる。

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この店の子供達は皆店を手伝っている。中国系の家族経営がここに生きている。高校生ぐらいの長男は鍋に向かい、中学生ぐらいの次男と三男はテーブルを拭いたり、皿を洗ったり。夜遅く来た珍客にもめげず、明日の為に働く姿が素晴らしい。感動的。ホテルに戻ると何も考えずにベットに入り、ぐっすり寝る。明日は朝が早い。

 

1月17日(月)

(5)朝市

翌朝は5時過ぎに起きた。さすがにまだ辺りは暗かったが、何となく騒々しい。既に5日に一度のマーケットのために多くの少数民族が山を下りてきていた。ホテルの前にはトラックもやって来た。大きな荷物を抱えた女性が何事もないように歩いて行く。すると湖の向こう側が明るくなり出した。朝日が湖面を捕らえる。実に美しい光景だ。少数民族の人々も一瞬湖面を眺める。そして忙しそうに市場へ向かう。お寝坊のSSも起き出して来たので、市場へ出向く。といっても隣なのだが。

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このマーケットは思い出深い。初めて訪れた際、TAMから揚げ出し豆腐と白玉を食べさせてもらった。きれいとは言い難い市場で物を食べることは中国で鍛えてきた私としても抵抗があった。ほんの申し訳程度に一口口に入れてその美味しさに驚き、全部食べてしまったのである。昼食はこの2品であった。

 

今回もあの豆腐を食べたい、TAMは早速探してくれたが、朝が早くまだ出来ていないらしい。薄暗い中を歩き回るとやっと1軒作っている店があった。早々に食べる。美味しいが、少し油っぽい。ビニールに入れてもらい持ち歩きながら熱々をほお張る。昨日山の中で食べた天然煎餅も売っている。まだまだこの市には昔の日本の食べ物を売っているに違いない。

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TAMが1軒の店を指す。屋台と違ってちゃんとした店構えである。ここが昨夜食事をした正来食堂のオーナーが始めた店であった。1954年創業、彼はここから身を起こして今ではビンダヤの茶など商品を大きく扱っている。昨夜一生懸命働いていたのは、息子達であろう。成功した家庭であるが、気を抜いていない。さすが華人。雑貨や食料品が所狭しと並んでいる。

 

市場からいったん外へ出ると朝日が神々しい。湖面に映える朝日はまるでこの世のものとは思えない輝きがある。市場の場外でも皆が店開きをしている。山から下りてきた少数民族の人々が野菜を並べている。子供も連れて来ている。眠たそうな子供に哺乳瓶(いやペットボトル??)を持たせている。朝は少し寒いので毛糸の帽子を被っている。もしかするとかなり厳しい生活をしているのかもしれないが、お兄ちゃんと二人、並んで市場が開くのを待つ光景も実に和む。

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ミャンマー紀行2005(4)ビンダヤのサクラ

(3)ビンダヤのサクラ

我々は山に入っていった。TAMとSS、それに宿の男性が先頭を切って歩く。TAMの説明は実に明快。『1回目にビンダヤの山に登った時、1月にはサクラがきれいだといったら、是非来たいと言われたから無理にスケジュールに組み込んだ。今はサクラのベストシーズン』。私はそんな会話を全く覚えていない。TTMに聞いてもよく分からないわけだ。1回目はTAMと二人で旅立ったのだから。しかしほんの何気ない会話を1年以上覚えていて、今回の予定に組み込んでくれるとは、TAMという人は有り難いというか恐ろしい記憶力というか??

 

最初の急な坂を上り切ると少し広い山道となる。山から流れる小川が乾季で干上がり、近道になっている所もある。背の高い木が見えてくる。サクラの木もパラパラとある。そうか、日本でサクラの名所といえば、サクラの木が並木のように繋がっており、サクラ吹雪が舞う中を行く、またはお花見を木の下で行う、などが連想されたが、こちらはあくまでも山の中に疎らにピンクの花びらが見える程度。尚この道の名前は『サクラ街道』だそうだ。しかし本来野生のサクラとはこんなものではないだろうか?そしてこのサクラは一体どこから来たのだろうか?いや、日本のサクラはどこから来たのだろうか??日本の桜の原型もこの辺りから来たのだろうか?全く植物の知識のない私にはお手上げである。TAMも首を横に振る。

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先頭の男性はどんどん進んでいく。手にビニール袋を提げて、まるで街の中を飄々と歩いているようにしか見えない。SSは常に遅れ、TAMがサポートしているため、私は中間で一人、歩を進める。山の中は下界の暑さと違って、実に爽やか。いい時期に来た。男性とは言葉が通じないだろうと思っていたが、何と彼は英語が普通に話せた。しかし口数は少ない。

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途中で休憩した。TAMが腰に着けた袋から何か取り出し、皆に振舞う。恐る恐る手を出すと煎餅のような丸い形で中に豆が埋まっていた。食べてビックリ。まさに煎餅そのままだった。但し日本のように人工の塩気ではなく、微かに塩の味がする程度で、天然の食べ物といった感じがする。昔の日本の煎餅はこんな味だったのではなかろうか?実に素朴で美味い。

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この山の頂上まで行くには時間がないようだ。SSのせいかな?途中の見晴らしの良い場所からビンダヤの街を眺める。下に湖がはっきりと見える。また大きなお寺も見える。周りには相変わらず断続的にサクラの花も見える。美しいというより長閑な午後の日差しに和む。

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付近にお茶の木が見える。しかし既に老朽化していて、お茶が採れるのかなといった感じ。これが在来種というのだろうか?お茶はもっと山の上の方に若い木があるよ、若者が言ったが、今回は見ることが出来なかった。近くに洞窟があり、中には仏像が沢山置かれている。1999年に作られたばかりだそうで、新しいものだが、村人が積極的に仏像を寄贈している。こんな山の中に窟院があり、仏像がきれいに保存されている所が如何にもミャンマーらしい。

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山の中の村に差し掛かる。ここから迂回して山を下りるようだ。どこでも村に入るところには大きな木があったりして、入り口であることを告げている。日本で言う所の道祖神であろうか?子供達が珍しそうにやって来る。家は道から上に上がった所に有るようだ。カメラを向けると皆笑顔である。手を振る子もいる。幼い弟をおんぶする女の子を、思わず写真に撮る。この写真から忘れ去られた古きよき日本の原風景が蘇る。後で眺めても涙するほど、よく撮れていた。SSは疲れ果てて座り込む。都会の子と山の子はやはり違うようだ?

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シャン州の山の中は気持ちが良い。牛がいる。草を食べさせている。近くで焚き火をしている人もいる。乾季のせいか、家の修理をする為の木材を切り出している人々がいる。近づいていくと態々のこぎりを動かして見せてくれた。夕陽を浴びるサクラの花びら、が見えた場所もあった。ひっそりと咲く山の中のサクラ、何とも見方が変わるような風景だった。

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下界が近づく。学校から戻る子供達とすれ違う。TAMによればここから1-2時間掛けて帰るらしい。凄いことだ。毎日往復3-4時間掛けて学校に行く。しかも自分の足で。今の日本の子供にはそんな気概はないだろう。いやここの子供も特に気負っているわけではなく、極普通のこと、日常生活の一環なのであろう。それでも学校に行けることが幸せだという。

 

学校が見える。校庭ではサッカーに興じる男の子が見える。彼らはこの付近の村の子だろうか?山の子は日が暮れる前に家路に向かっていることだろう。これも貧富の差というのだろうか?そして誰が本当に幸せなのだろうか?我々日本人は大いに考える必要があると思う。 

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ミャンマー紀行2005(3)ヘーホー空港の幸せのシャンヌードル

(5)シャン州へ

TTM家に戻る。ミャンマー茶を頂く。何だかんだで時が過ぎ、空港に行く時間となる。今回のお供はSS一人。実はシャン州に行くのが今回の目的。3回目であるし、行くなら自分ひとりでよいと考えていたが、S氏より『旅行会社社員としてSSを鍛えて欲しい』と要請されていた。

 

香港からTTMにメールを打った。いくら親しいといっても、またS氏の依頼とはいっても20歳の娘と二人で旅行させろというのは如何なものか?母親であるTTMに意見を聞いたのだ。案の定TTMからの返事はネガティブであった。しかしその理由は『SSは経験が浅すぎてガイドとしてあなたの旅行をサポートするのは難しい。乗り物酔いもするし、足手まといになるだけで、とても連れて行って欲しいとはいえない』という旅行会社的な回答であった。結局飛行機は二人で乗っていくが、シャン州の旅程全てにあのティンエーマー(以降TAM)が同行する、という条件でSSを同伴者とした。果たして結果はどうなるのだろうか?

 

さて、ヤンゴンの飛行場に到着するとTTMは不安なのか、何くれとなくSSに指示を出し、また自らも飛行場内まで入って来て世話を焼く。余程心配なのだろう。TTMと別れて、待合室まで入ると二人切りになる。さすがにSSは緊張気味。それは中年男と二人でいることの緊張ではなく、これから飛行機に乗るという恐怖であろう。前回は終始TTMに靠れて上空で耐えていたが、今回は頼れるものは自分しかいない。

 

今回は昨年開業したばかりのエアーバガンという航空会社に乗る。近年ミャンマーも遅蒔きながら空路の発達を見ている。これだけ人が動き始めているから当然ではあるが、国営ミャンマー航空の評判が余りに宜しくないこともあり、新規参入する航空会社が後をたたない。エアーバガンというぐらいだから、バガンを中心に運行しているはず。そうなるとヤンゴンなどに行くにも遅れる可能性がある。TTMはどうしてこんな会社を選んだのだろうか?? 飛行機は案の定遅れた。空港でひたすら待つのかと思ったが、数十分であっさり呼ばれてタラップへ。

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ジェットではないが機体は新しい。乗り心地も悪くない。そう思ってみているといきなり離陸だ。あのふわっとした感触は未だに慣れないが、それでも何回も乗ったので恐怖心は薄れてきた。しかしSSはそうは行かない。しっかりと目を閉じ、体を強張らせている。本当に可哀想だ。この飛行機はヘーホー直行のはずだったが、やはりマンダレーに先に向かった。これももう慣れたことであり、特に驚かないが、SSは再度恐怖を味わうことになった。添乗員への道は険しい。ヘーホーに着いた時には既にSSは死人のようにぐったりしていた。大丈夫だろうか??この先??

 

2.ビンダヤ

(1)シャンヌードル

3度目のヘーホー空港はやはりひっそりしていた。以前は2度とも雨季に来た為、特に観光客が少なかったらしい。しかし今日も空港で降りた客は多くない。その少ない団体などが次々通り過ぎる中、SSが私のパスポートを持って手続きをしてくれる。添乗員らしい行動である。外へ出るとTAMが心配そうに立っている。SSは走り寄って行く。やはり心配だったのだろう。嬉しそう。あの空港脇の涼やかな並木道は健在。大きく深呼吸すると全身が痺れる様な奇妙な感じ。

 

今回はどうあってもTAMの行動を阻止して、この並木道脇の食堂に入ろうと思っていた。それは最初にここを訪れた時、帰り際にTAMがご馳走してくれたシャンヌードルが忘れられなかったからだ。いつもは朝ごはんを食べない私が思わず2杯食べてしまった程の美味さ。目の前に車がやって来ても必ず主張しようと身構えていると、車は食堂脇に駐車してあるという。拍子抜け。あの並木道をゆっくり歩いて、あの食堂にヌードルを食べに行く幸せ。人間の本当の幸せとは何だろうか??『食べたい物を食べる為に歩いて行く気持ちの良い並木道を知っていること』ではないだろうか。

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食堂は1年半前と全く同じ。きれいとはいえないが趣のあるテーブル。注文するとあっと言う間に出て来るシャンヌードル。横には小皿に載った高菜漬け。きしめんのような麺の上にねぎと挽肉を載せたどんぶりがやってきた。スープはあっさりした鶏がらか。あっと言う間に来てあっと言う間に食べた。2分位だっただろうか。本当はもう一杯食べたかったが、何故か幸せは1杯目だけな様な気がして止める。ここまで来て、思い焦がれて、やっと来た幸せな瞬間、本当はそのプロセスで9割は終わっていたのだろう。

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(2)ビンダヤへ

車は晴れた日の午後、いつもの道を走り出す。やはり雨季に比べて乾季はからっとしていた。さすがに暑いが、不快感はない。車の窓を少し開けて風を呼び込むと気分が良い。畑に作物が実っている。農民は見えないので、お昼寝中であろうか。私も今度来る時はこの辺にホームスティでもしようか。

 

小一時間行くとこれも毎度通る分岐点に着く。今回もトイレ休憩。TAMはフルーツを載せた台車に近づき、アボガドとみかんを買った。何でアボガド??彼女は笑って答えない。この謎めいた所が彼女の魅力である??ボロボロのトラクターが穀物や玉ねぎを積んでゆっくりゆっくり進んでいく。相変わらずの時間経過である。店の中でミャンマー茶を飲む。ちょっと欠けた茶碗、何時からあるのか分からないポット。これもミャンマーらしい風景である。それから1時間ほど畑の中を車が走る。広い、どこまでも続く畑、所々に大きな木がある。一里塚というわけではないが、何百年もの間、目印として、また農夫の休み場所としてあの木はあるのだろう。

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ビンダヤは3回目であるが泊まるのは初めてである。先ずは今日の宿、ミピャザジ・ホテルに入る。特に豪華なホテルではなく、街のホテルといった感じ。いいところは湖畔に面しており、部屋の窓から湖が良く見える。ちょっと昼寝したい心境であるが、何故かTAMは直ぐに集合をかけた。しかし今回何故ビンダヤに来たのかが分からない。TTMにはシャン州の北側を訪れたいと言っていたのに。何か手違いがあったのだろうか??毎度の事ながら今回も予定も聞かずに旅を始めている。我々はどこへ行くのだろうか??

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ミャンマー紀行2005(2)ヤンゴンに住むということ

(3)Kさんの話

事務所(宿)に歩いて戻る。事務所の部屋でお茶を飲む。ミャンマー茶である。暖かいお茶を飲むとホッとする。この感覚は以前なかったものである。TTMがフルーツを出してくれる。ヤンゴン郊外の実家で取れたグレープフルーツのような果物。これが甘くて美味しい。色は鮮やかな赤。身が締まっている。何という名前だろうか、どんどん口に入ってしまう。

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SSはメールチェックに励む。これは仕事である。Kさんも隣人であるからこちらにジョインしている。Kさんは意外なことにミャンマー人にフラワーアレンジメントを教えている。私はてっきり日本人の駐在婦人向けだと思っていたが、ミャンマー人で習う人がいたとは、ちょっと驚きだ。お父様がミャンマーと繋がりがあり、その関係でいつの間にか、ヤンゴンに来て、住み始めたという。『ご縁です』という言葉が何度も出て来たのが、実に印象的だ。

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ヤンゴン暮しについては、やはり旅行で来るのとは訳が違うという。好きとか嫌いとかではなく、全く思い通りにならない毎日である。1つのことをするのにものすごい労力と時間が掛かる。普通の日本人には耐えられないことも多い。彼女の話を聞いていると昔の中国を思い出す。こちらが好きかどうかは関係ない。しかし本当に情熱がないと何事も進まない。そんな国があるのである。

 

ミャンマーに関して書かれた日本語の本も沢山読んだという。だが真実を伝えるものは少ない。大抵は私みたいに、『兎に角好きになったのでミャンマーは何でも良い』という話か、『アウンサン・スーチーと人権』みたいな話。どちらも一部しか伝えていない。ミャンマー人の親日についても、考えるべきことがある。何故親日なのか??ミャンマー人にも色々な人がいる。損得を考える人も当然いる。親日家との付き合い方もなかなか難しいとKさんは言う。

 

話は尽きない。夜も12時頃になってしまった。今までのミャンマー生活で最も遅い時間まで起きている。風呂に入るために二階に上がる。シャワーから温いお湯がちゃんと出ている。今日はそれで十分。疲れが取れる。ミャンマーで得られるいつもの、深い深い眠りに着く。

 

1月16日(日)

(4)朝の散歩

朝は爽やかに目覚める。窓から朝日が差し込んでいる。6時過ぎだ。階下に降りるとTTMがおはようといいながら、『朝ごはんは?』と聞く。いつもは食べないと答えると、横のSSががっかりした様子。どうやらSSは朝ごはんを外に食べに行きたいらしい。わざわざ早起きして待っていたSS、そう察して散歩を申し出るとTTMは申し訳なさそうにしているが、SSは早く行こうと促す。こちらも散歩は是非したいし、ミャンマーの朝ごはんも食べてみたい。

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外に出ると朝靄が掛っていて何ともいい雰囲気。昨夜行ったセブンアップのある広い道に出る。僧侶が大勢で托鉢に歩いている。後ろの方に小坊主がちょこちょこと付いて行く姿が何とも可愛らしい。しかし彼らの境遇はどうなんだろうかと考えてしまう。裸足で袈裟を着て托鉢の坪を持つ。自分の子供の姿だとしたら???いや、傍から見て可哀想だと思っても当人は案外それほど思っていないかもしれない。

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そんなことを考えていると曲がり角の所に突然『資生堂』の看板が出ている。何でこんな所に??どうやらビューティーサロンらしい。ミャンマーも急速に変わってきている。一部の女性はロンジーを着ずに、タナカでない洋風の化粧を始めた。うーん、ミャンマー、それでいいのか??当然TTMはSSを厳しく躾けており、スカートなどは履かせない、というのだが。

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更に歩いて行くと立派な木造の家がある。最近出来た土産物屋らしい。珈琲も飲める。観光客は増えているのだろうか??昔は西洋人や日本人がお客であったが、今は中国人が主だろうか。その店の近くに病院があった。何気なく見ると日本語が書かれている。SSも初めて見るという。恐らく日本で勉強した医師がいるのであろう。ヤンゴン在住の日本人は100名前後であろう。お客さんはいるのだろうか??むしろ日本帰りを売り物にしているのかもしれない。

 

セインハルヤンという名のレストランに着く。SSは麺と野菜などを混ぜて食べるシャンヌレが美味しいという。頼んでみると非常に麺がシコシコしている。からめる汁もあっさりしていて美味い。別にスープも付いていてこれがまたあっさり味だ。漬物もなかなかいい味を出しており、満足。尚、店では大勢のミャンマー人が朝食を食べていた。以前別の店に行った時も日曜日。やはり子供連れが多かった。皆楽しそうに食べているのがとてもよい。

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