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ミャンマー紀行2003(8)パガン サンダル履きでプロペラ機へ

8月19日(火)
4.パガン (1)国内線

愈々地方都市へ行く日が来た。7時のフライトに乗る為、5時半にホテルを出発。明日バンコックに発つS氏とは大いに感謝して分かれる。TTMとSSは車で空港まで送ってくれる。流石にSSは眠そうで前の席で寝ているのが分かって微笑ましい。空港では国内線といえども、イミグレのようなものがある。パスポートを見せるだけの簡単なチェックポイント。何故か空港職員がチェックインなどを全て代わりにやってくれ、待合室に案内してくれる。どうやらアルバイトのようだが、お礼を言うのみ。先方も直ぐ引き下がる。外国人だからだろうか。

 

外国人の待合室は冷房が効きすぎて、寒い。隣のミャンマー人用?は冷房も無く、テレビが煩いがそちらで待つ。ミャンマーの国内線は実にユニーク、国内線3社は全てほぼ同じ時間に、同じ場所へ出発する(因みに午前便はパガン、マンダレー、ヘーホー、ヤンゴンの順に回り、午後は反対周りとか。料金はエアーマンダレーで1周US$269)。ミャンマーエアーは国営で評判が極めて悪く、外国人は誰も乗らないといい、値段も少し安い。ヤンゴンエアーはタイエアーの子会社。私が乗るエアーマンダレーはシルクエアー(シンガポールエアーの子会社)の子会社で評判が良い。ミャンマー、ヤンゴン、マンダレーの順に15分おきに出発。最初はどれが出発するのか分からず、自分のフライトに乗るのにかなり慌てる。

 

機体はプロペラ機ながら、新しくてきれい。機内はほぼ満員で、隣はどうやら日本人の若者。ほぼ全員がサンダル履きというのも珍しい。私も初めてサンダルで飛行機に乗る。機体が飛び立つとあの独特のフワッと浮きあがる感じがする。高所恐怖症の私にとってこれは気分が良いものではない。下を見るとあの岩にぶつかったら痛いだろうな、と思うだけで余計に気分が悪い。

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気を紛らわそうと機内誌を見る。CAが写真に写っているが、何と目の前に本人が微笑んでいる。前の席のタイ人がそれに気付いて、話かけて確認している。そういえば、ミャンマー全体でCAの数は少ないと聞いていた。航空業界はこれからの産業だろう。同時にミャンマーの若い女性にとっては花型の職業ということか。昔のアジアを見る思いだ。彼女が英字紙を持ってきた。見ると一面は軍政府のお偉いさんの記事ばかり。ところが裏を返すと何とJリーグのジュビロ磐田と浦和レッズの試合結果が載っている。ミャンマー人のサッカー好き、そして日本への関心が現れていた。政治に関係ない話題、情報はかなり開放されているようだ。

 

簡単な機内食も出て、直ぐにパガンの上空へ。やっと下を見るのに慣れてきたので、エーヤワディー川(イラワジ川)沿いに多くのパゴダが立っているのを空の上から眺めた。このような時はプロペラ機は高度が低いので、とても良い。今は雨季ではあるが、パガンは元々降水量が少なく、荒涼とした感じに見える。水田は無く、畑が少し見えるが、緑は少ない。

 

(2)パガンの市場

無事着陸すると一面青空の機外へ。非常に開放感があり、気持ちの良い景色。歩いて空港ロビーへ。入れ替わりに飛行機に乗り込む乗客と擦れ違う。如何にも田舎の空港だ。ロビーに行くとミャンマー人はさっさと外へ、外国人は入場料を支払うカウンターへ(外国人はミャンマー各地に入る際、入境料を取られる仕組みになっている。この制度は2014年頃廃止された)。今回もヤンゴン空港の強制両替のようにすり抜けようと思ったが、直ぐに見つかる。私は日本人らしくないといつも言われるのだが。FEC10。パスポートもしっかりチェックしている。

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外に出るとTTMが依頼してくれたガイドが見当たらず、まごつく。仕方がないので、トイレに行ってみる。まあまあきれいで使えるので安心した。戻って見ると全ての人が外に出てしまった模様で、一人ポツンと女性が立っていた。それがガイドのティティ(以下TT)であった。

 

TTと車に乗り込む。やはりトヨタ車。先ずはニァゥンウーの町へ。時間はまだ朝の9時、マーケットを見学する。入り口で少女が2人、ロンジーを手に『安い、安い』と日本語で話し掛けてきた。TTが非常に驚いた表情で『あなた、日本人なの?』と英語で聞いてくる。彼女は英語専門のガイド。何と私を日本人と思っていなかったようだが、市場の人が直ぐに私を日本人と見抜いたことに、ガイドとして少しショックを受けたようだ。市場の売り子は本当に目端が効く。

 

市場には様々な野菜が売られていた。ここは地元の人が日常の食材を買うための市場だ。一部観光客用の土産を売る店もあるが。売り子の女性と子供たちは一様に『タナカ』と呼ばれる日焼け止めを顔に塗っている。女性はタナカを使って化粧をするが、まるで顔に模様を書いているように見えて、何とも微笑ましい。子供たちは実に元気に走り回っている。今や日本では見られない光景だ。

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市場には日本の戦前の風情を残す店も並び、茶を売る店もあった。おじいさんとおばあさんと息子が茶を詰めたり、計ったりしている。そこだけ時間が止まっているような気がするほど、空気がゆっくりと流れている。ここパガンでは茶も米も取れないらしい。全てミャンマー北東部のシャン州より運ばれてくるという。シャン州とはどんなところなのだろうか?

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ミャンマー紀行2003(7)ヤンゴン ストランドホテルに圧倒される

(13)ダウンタウン
その後ヤンゴン最大の市場、ボージョーマーケットに行く。かなり大きな建物の中には多くの店がある。今日は月曜日で休みの店が多く、雨が降り出したせいもあり人通りは少ない。我々は英国伝統の手芸品『タッチィング』のショールを見る。買うつもりなど無かったが、非常に見事な細かい刺繍を見て、思わず買ってしまう。8,000K。S氏によれば、これは見る人が見ればお値打ち物だそうだ。家内にあげると非常に喜んでいた。

 

このマーケットには、貴金属を売る店、ロンジーなどの衣類を売る店、みやげ物を売る店等等、多彩な店が並ぶ。但し人通りが少なく活気は無い。尼さんや小坊主が托鉢に歩いているのが目立つ。ミャンマーの尼さんの服装がピンク色なのが不思議。でもなぜ午後に托鉢?

 

郵便を出す為に中央郵便局へ。ヤンゴン川沿いの古い大通りの中央にある古めかしい建物。TTMについて行くと、建物の中は非常にレトロ。大きな扇風機が天井で回る。入り口で年代物のタイプライターが打たれる(このタイプライターは骨董屋に持って行きたいほど年季が入っていた)。但し非常に暗い。単に停電だったのだが、最初は凄い雰囲気に圧倒された。手紙一つ出すのに、窓口を盥回しされるのは昔の中国並み。それでもEMSの表示があり、国内なら2-3日以内に着くなど、スピードはあるようだ(EMSの中身は全てチェックされる)。

 

郵便局の隣に100年の歴史を誇るストランドホテルがある。要はイギリスが19世紀にヤンゴンを占領後、川沿いに主要な建物を建設したのだ。これはシンガポール、マレーシア、香港でも同様。香港のペニンシュラーホテルの兄分に当たる。これもまた由緒正しそうな建物。中に入るとビックリ。非常にきれいに整えられている。これまでどこに行くにも短パン、サンダルで問題なかったが、ここだけはかなり恥かしい。

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幸いロビーに人影は無かったが、上品そうな受付嬢が立ち上がりニッコリしながら近づいてくる。『ここに泊まりませんか?』パンプレットを見て驚く。何と2泊すれば1泊US$300だそうだ。勿論夕食、朝食、アフターヌーンティーなどが付いているが、それにしても高い。途轍もなく高い。夢を見ているのかと思った。何しろ今泊まっているホテルがFEC20、日航ホテルでもFEC45である。この国ではUS$1で一日家族が暮らせる。1泊が1年分か??一体誰が泊まるのか?『ヤンゴンの地図は無いか?』と聞いてみると、ニッコリして出してくれる。これは深夜特急の香港編のペニンシュラーホテルで地図をせしめる場面を再現。イギリスは良いホテルを残すものだ。

 

ストランドホテルに圧倒されたので、ついでにもう1つ立派なホテルを見ることにする。パンシーホテルは街中にありながら、静寂が保たれている素晴らしい空間。100年前の建物を移築した客室もあり、如何にも西洋人が好みそうなコロニアル風リゾート。全てがチーク材で出来ている感じで、落ち着きがある。南国の大人のリゾート。ヤンゴンでは考えられない。プールも静かな雰囲気でとても子供などは入れない。木の葉が微かに水面に落ち、実に風情がある。雨が降り、更に雰囲気を盛り上げる。プールに面した通路でゆったりとお茶を飲む。紅茶がFEC3。聞けばこのホテルは1泊US$120程度とか。次回泊まって見たいところである。

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(14)夕食

夕食はS氏のマレーシア人の友人、T氏夫妻とタイレストラン『サバイ サバイ』へ。TTM、SSも同行。きれいな内装のレストランで、メニューが豊富。それ程辛い物は注文されず食べ易い。T氏はマレーシアのコタバル出身、8年前ヤンゴンに来て、商売を始め、シャン州出身の奥さんと結婚。年齢は私と変わらないが、奥さんは相当に若い。どこで見つけたんだろうか?

 

S氏とT氏は専ら禁止となったドル決済の行方をマレー語で話し合っている。S氏がこれ程マレー語を話せることを初めて知る。なかなか奥の深い人物である。TTMとSSは大人しく食べている。T氏夫人はシャン州の話題などをしてくれる。彼女の実家はガロウに別荘があるそうで、相当のお金持ちのお嬢さんのようだ。T氏からはコタバルの良さを説明され、一度訪問してみようと思った。

 

今日も1日、かなり充実したヤンゴン見物ができた。色々なものを目にしたが、時間はあっと言う間に過ぎていった。さあ愈々明日はヤンゴンを離れ、パガンに出発。緊張感は無いが、気持ちは盛り上がる。ミャンマーの地方都市は一体どうなっているのだろうか。楽しみだ。

ミャンマー紀行2003(6)ヤンゴン 日本人墓地

(11)日本人墓地
TTMの案内で日本人墓地へ行く。場所は空港よりちょっと北側、市内から車で小1時間かかった。途中で花を買う。TTMは知り合いの日本人の墓に献花する花を用意したのだが、私が払おうとすると『自分で買わないと意味が無い』という。このあたりにミャンマーを感じる。この日本人はミャンマーで農業を発展させようと日本の技術を持ち込み、様々な活動していたが、残念ながら夢半ばの51歳で亡くなり、本人の遺言でヤンゴンに葬られたという。

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TTMの実家は実はこの墓の直ぐ近くにあると聞いたので、折角来たのだから、寄っていくか、と尋ねると今は勤務中だから行かない、との答え。そうか、私のアテンドは彼女にとっては仕事なんだ。何とも生真面目な女性だ。彼女は大学卒業後JICAに勤めた経験があり、80年代に農業プロジェクトの関係で日本での研修も予定されていたが、丁度軍事政権のクーデターとぶつかってしまい、全ての夢が消えたという。この話を日本人墓地で聞くとここに眠る19万人の戦没者の心境と重なるものがあるような気がした。尚JICAから派遣された11名が、1978年に飛行機事故に遭い、ヤンゴンで亡くなったとの慰霊碑も建てられている。

 

墓地は数年前にきれいにされたとかで、良く整っていた。真ん中に献花塔があり、周りに戦没者関連の碑がいくつか建っている。なぜか杉良太郎が建てた記念碑なども在る。墓地にはミャンマー人管理人もおり、線香などは用意してくれる。記帳するノートもあり、それを見ると、観光客に混じり、戦中ミャンマーで従軍した元兵士、その家族、遺族、何故か国会議員の名前などもある。

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S氏によれば、数年前までここは荒れ果てており、心ある日本人が日本政府に働きかけた結果、大使館も動き出して、現在のように整備されたとのこと。戦後58年、日本政府はあの無謀なインパール作戦を実行した責任を再度考え直すべきである。全てを当時の軍部の責任とするのは、少し無理があるように思う。

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(12)昼食
事務所に戻るとSSは大学に出かける所であった。昨日夕食を共にしたSさんはPCが動かなくなったらしく、道具を借りに来ていた。愛犬パトラッシュ(?)はとても元気で直ぐに私のところに来て構ってくれと催促していた。机の上に乗ったり、じゃれついたり、まるで人間のように、愉快な犬だ。

 

TTMがSSの弁当の味見をしないかという。何と料理はSS自身がしたという。興味津々で台所に行って見るとマッシュルームと空心菜がニンニクで炒められていた。一口食べるとマッシュルームが柔らかく、これがあっさりしていて、実にいい味を出していた。今日のお昼はこれだと決めて、思いっきり食べ始める。エビも美味く煮付けられており、ご飯と一緒に食べたくなる。ところがTTMは節目がちに『そんなに食べてはいけません』という。何とそれは弁当の残り物ではなく、門番のおじさんの昼飯だったのだ。穴があったら入りたい心境になった。それにしても、20歳でこれほど美味しい料理が出来るSSをかなり見直した。

 

それからまた出かけた。S氏とTTMと3人で、タイ航空のオフィスに行き、帰りのフライトのリコンファームをする。80年代の中国同様、当然電話では出来ず、チケットを直接持って行く。オフィスはダウンタウンのサクラタワーという日系企業が建てたビルの1階にあった。このオフィスビル、日系企業の事務所が入居しているようだが、日本人は既に引き上げており、現地スタッフを残し、看板だけというところも多いと聞く。タイ航空は思ったよりきれいで、PCによる管理もきちんとなされており、80年代の中国とは違っていた。お客は殆ど居ないので、直ぐに終わる。この界隈は外国人が多いようで、ちょっと歩くと英語で話しかけられる。『チェンジマネー?』という懐かしい言葉を聞くと、在りし日の上海を思い出す。

 

お昼はアジアホテルの中華レストラン『海外天(Overseas)』となった。またまた空心菜の炒め物が美味しい。S氏はここにFish Head Curryを食べにやってきたという。この料理はシンガポール、マレーシアでよくあるもので、鯛の頭をカレーで煮込んだもの、かぶと煮か。インドと中国の夢のコラボ、というところだろうか。久しぶりに食べたが、これは実にコクがあり、特にミャンマーのご飯と合うのだろうか?いくらでも食べられる感じがした。

 

このレストランの客には、大陸から来たと見られる中国人がかなりいた。中には昼から大声で話し、白酒を飲んでいる者まで居る。白酒を飲んでいる人々の中国語の発音はどう見ても中国北部の人間のそれだった。資源関係か?国有企業の社員か?ミャンマーに対する中国の影響力が徐々に大きくなり、最近は米国の経済制裁の影響でインドと中国がミャンマーに手を差し伸べて来ると聞く。特に中国雲南省は地続きであり、経済的にもかなり緊密な関係にある。

 

ミャンマー紀行2003(5)ヤンゴン 街歩き2

(8)明日のおかず
S氏お勧めのダゴンショッピングセンターへも行ってみた。ここはミャンマーではないとのことであったが、確かにタイやマレーシアの場末の商業施設のように見えた。勿論今年出来たばかりで施設はきれいだが、どこかあか抜けない感じがする。中にはちょっとしたブランドショップ、電化製品ショップなどがあり、若者向けの衣服を売る店が目立つ。SSが来たがる訳だ。TTMはSSがねだるのが目に見えているので、連れて来たくなかったという。中に1つ日本人が経営する小物屋があった。確かにデザインが可愛らしいバックなどがおいてあり、女性は喜びそうだ。そういう商売でミャンマーに来ている人がいることを初めて知る。

 

TTMがSSの学校に持っていく明日の弁当の材料を買うという。勿論ショッピングセンターの横の露天市場でだ。これは面白そうと着いて行く。先ずは野菜。例の空心菜だ。かなり大きい。1束80K。隣のマッシュルームは少量でも300Kもする。ミャンマーではマッシュルームが高い。いかにもきのこが多そうな国なのになぜだろうか。そしてSSの大好物のエビ。一袋400K。TTMによれば、弁当には見栄を張るので、お金を掛けているとのことだった。ミャンマー人は見栄っ張りだ!これでも日本円で100円にもならないが、一体どんな弁当になるのだろう?

 

ホテルに戻り休息した。バスタブがあるので、ぬるめのお湯でゆっくり風呂に入る。何とも信じられない感覚だ。それから午後4時半にNHK7時のニュースを生放送で見る。ミャンマーでこんなことが可能とは、驚きだ!この生活は病み付きになる可能性がある。極楽、極楽。

 

(9)夕食
夜は中華料理屋に行く。何時もの3人に加え、日本人女性がいる。何とS氏事務所の隣に住んでいる日系企業の現地採用の日本人Sさんだ。Sさんは4年前にヤンゴンに来て、ミャンマーの大学でミャンマー語を習得。2年前から働き始めたが、企業が日本人派遣社員を引き上げた為、事務所に女中さんと犬と暮らしている。

本人は『日本に帰って職を探したいが』と何度も言っていた。正直インフラが整っていないミャンマーで働くのは結構大変だと思う。しかしここで暮らしてしまうと日本社会に復帰するのはかなり難しいのでは?TTMの知り合いの日本女性もミャンマー語の本を出しているが、今は沖縄在住だそうだ。東京生活はかなり厳しい?スピードには付いて行けない。S氏の事務所もS氏は常駐では無いので、TTM、SSとSさんは隣通し、仲良く助け合ってやっているようだ。

 

『ロイヤルガーデン』という名のカンドージー湖の辺にあるこのレストランはショーがある事で有名な高級店。確かにきれいな作りであったが、最近の不況のせいかお客の入りは今一つ。ショーもミャンマーの歌と踊りを交互にやるが、それ程見る価値があるとは思えない。料理も数品しか頼んでいないが、特に美味いわけでもなく、これで30,000Kぐらいしていたから、相当高い。尚S氏と一緒のときは全てS氏がご馳走してくれた。申し訳なかった。

 

しかしここに小柄な可愛らしい女性従業員がいた。彼女はどう見てもミャンマー人には見ない、中国系(香港のレストランでよく見かけける上着を着てスカートを履いているマネージャ―の格好。中国系と直ぐ分かる)。北京語で話しかけると、きれいな北京語が返ってきた。雲南省に近い、シャン州のラショー出身とのことで、両親とも雲南より来た中国人。北京語は学校で習った。最近は中国、台湾のお客が増えているので、北京語の出番も増えてきているようだ。

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8月18日(月)

(10)3日目朝
朝はホテルで朝食。一応アメリカンブレックファーストなのだが、ベーコンは無かった。マーガリンは子供の頃の給食のそれ、オレンジジュースは粉を溶いたもの。何とも懐かしい味だ。バナナは小型だが美味しい。他に客は何故か女性が一人だけ。ボーイもトーストを焼くなど、一生懸命サーブしてくれるが、英語が通じないので、交流することができない。

 

食後はお散歩に出てみる。朝の風が実に爽やか。道には昨夜の雨を受けて水溜りが出来ていて歩き難い。ミャンマーの8月は雨季であり、日本の夏とは違ってそれほど暑くはない。尚ミャンマーが一番暑いのは4-5月。時々車が通っていくが、鳥の囀りもあちこちで聞こえ、実に静か。よく見ると隣はイタリア大使館。そのせいか周りに画廊があったりする。まさに高級住宅街の趣がよく出ている。道端では、朝のお祈りを捧げる人、朝飯を売っている人、家の掃除をする使用人など、様々な人が見えるが、皆何となくニコニコしているのが良い。

 

今日は月曜日なので、出張でヤンゴンに来ているS氏の出勤に合わせて、事務所へ。今日はTTMがコーヒーではなく、ミャンマー茶を淹れてくれた。何となくホッとして、美味しく感じる。このお茶は、プーアール茶を作る原料のような味がするが、雲南近くから来たのだろうか。ちょっと興味が湧く。

ミャンマー紀行2003(4)ヤンゴン 初めての街歩き

(5)昼食

昼食の時間となり、ミャンマーレストランへ。かなり立派な構えである。店内には大陸から来た中国人の一団がいたり、韓国人がいたり、外国人が多いようだ。ここで、ミャンマーカレーを味わう。先ず皿に大盛りのご飯が盛られる。スープと生野菜が出る。(韓国料理のよう)そして鶏肉、魚、牛肉などの煮込み(煮付け)のようなものが出て、好き好きでご飯にかけて食べる。恐る恐る手を出したが、予想外に美味しい。ちょっと油っこいがご飯と混ぜると幾らでも食べられる。野菜は何と空心菜である。ニンニク炒めの様になっていて絶品。ミャンマーの人は手で摘んで食べると聞いていたが、ここは上品なのか皆スプーンとフォークを上手に使って食べている。

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食後に愈々『ラペトゥ』が登場。所謂食べるお茶である。これはお茶請けである。緑茶を漬物にしたものに、ニンニク、豆、ピーナッツ、干しエビと塩、油をぐちゃぐちゃに混ぜて食べる。これも恐る恐る手を出すと、やはり美味しい。しゃきしゃきしている。お茶の葉の香もするし、塩気があり、これでお茶を飲むと沢山飲める。ミャンマーではこれは女性の食べ物のようで、運転手の男性は全く手を出さなかった。女性はこれを食べながら、長話をするのだそうだ。会計は5人で合計5,500K。日本円で650円ほど。驚きの値段である。

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それからヤンキンセンターへ。ここにはシティーマートという外国商品も数多く売っているスーパーがある。S氏は水をここで調達。街中の水は安いが品質に問題があるようだ。1リットルのペットボトルが110K。S氏は2日前に同じ物をここで買い100Kであったという。ミャンマーが昨日貿易決済でのUS$を禁止したとの情報により、物価が上がり始めたのだ。しかし2日で10%とは、変化が激しい。強制両替廃止の影響もあるのだろうか。ミャンマーが動いている。

 

このスーパーには日本の醤油もインスタント麺もポカリスエットとさえも売っている。しかしこの国の物価水準からすれば恐ろしく高い。コーラの缶が400K、ポカリ1,200K、ホットケーキの素4,000K、キッコウマン醤油が5,500Kである。オーブントースターが10,000K、炊飯器は旧型でも15,000Kはしていた。電化製品はパナソニックが人気だと聞く。昔の中国と同じだ。但し街中には既に中国のエアコンメーカーのオフィスも見られ、中国家電業界の力がここにも及び始めるのを感じる。因みに80年代の中国ではこういう店はFEC払いが原則で、しかも一般人民の立ち入りは禁止であったが、この国では特に制限は無いようだ。

 

会社の事務所に戻り一休みした。午後行きたい所を聞かれたので、国立博物館とチャイナタウンと告げる。S氏は今年出来たばかりのダゴンショッピングセンターを勧めたが、取り敢えず博物館に行くと言うとSSは残念そうな顔をして、行かないと言う。どうやら若い娘はショッピングセンターには大いに興味があるが、博物館に付き合うには退屈過ぎる様である。

 

(6)博物館
TTMと博物館へ。FEC5を支払い、入場。荷物は全て預けることになっていた。中は4階建て。1階にはミャンマーの歴史の概要が説明されているものと期待したが、何と碑文のコピーが並ぶ。古いミャンマー語で書かれており何も分からない。辛うじてミャンマーの歴史がパガン王朝以降約1000年であり、タウングー、コンバウン王朝などがが続いていたことを知る。

 

反対側にはマンダレーにあった最後の王朝の『獅子の玉座』がある。かなり大きい。最後の王、ティボーがインドに連行され、玉座もイギリス軍に持ち去られたらしい。館内の彼方此方に過去の王の写真や肖像があり、今でもミャンマーの人々が王室を大切にしている感じがよく分かる。これはイギリスへの悪感情への裏返しでもある。(ミャンマー人は何よりもイギリス人が嫌いだと言う)

 

2階にはミャンマーにいるビルマ族の他、シャン、カレン、モン等の各民族の紹介が在る。各民族にはかなりの違いがあり、タイ系、インド系、中国系など特色豊かである。ミャンマーは連邦国家、各民族は常に独立を意識しているようだ。博物館は全体として分かり易い、充実しているとはとても言えない。ただTMMはなぜか喜んでいた。『ヤンゴンに来て博物館に行くといったら、普通は宝石博物館に行くのです』とのこと。何か悲しい気分になった。

 

(7)喫茶店
博物館を出て街中の喫茶店に連れて行ってもらう。日曜日の午後でもあり、お客で満員。但し殆ど客は男性。我々は屋外の道端に席を何とか確保。大きな木があり気持ちよい風が吹き抜ける。お茶は魔法瓶に入っており、既に出来上がっている。但しお茶屋では紅茶かコーヒーを頼むようだ。私はミャンマー紅茶を頼む。ストレートで飲むと、少し苦くあまり香は無い。TTMはコーヒーを飲んでいる。ミャンマーの女性はあまりお茶屋には行かないし、行ってもお茶は飲まないそうだ。

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テーブルの上にはサモサ、パンなどが置かれている。これは食べると料金を払うシステム。お茶は一人110K。隣に西洋人の女性がガイドと共に現れ、皆の目を引く。中国では日本人と思われない私でもここでは一目で外国人と分かる。何故ならロンジーをはいていないからだ。ロンジーとは、筒状の布を腰に巻くもので、スカートのようなもの。但し男女とも基本的に穿いている。以前は下着を着けていなかったようで日本の着物と繋がるものがある。また男性の喧嘩はロンジーの結び目を解けば勝ちというもの。何だか相撲の禁じ手を思い出す。更に足元にはミャンマーサンダルが便利。最近はロンジーを履かずにスカートを履く女性、ジーパンを履く若者を見かけるようになり、伝統的なTTMなどは憤慨している。

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ミャンマー紀行2003(3)ヤンゴン シェンダゴン・パゴダで祈る

食事が終わり、昨晩もちょっと寄ったS氏の会社の事務所へ。明るい中で見るとここはヤンゴンの高級住宅街にあり、周りは一軒家ばかり。オフィスになっている部屋にある大きな変圧器が目を引く。停電が多いヤンゴンではこの辺りだけはあまり停電が無いというのだが、電圧が一定しない、などと言われると、どうしても、やはり昔の中国を思い出してしまう。

SSは早速自分の仕事であるパソコンを開けて、メールのチェック。ミャンマー人がPCにネットを繋ぎ、仕事をする、予想もしていない光景だった。実際ミャンマーでは,インターネットへの接続は難しく、基本的にはメールのやり取りのみ。外国向けの特別サービスといった雰囲気だった。メールも政府のチェックを受けている可能性があるようで、政治的なことなど、迂闊なことは書けない。軍事政権の情報統制を強く感じるが、これは仕方がない。

 

TTMがミャンマーコーヒーを入れてくれる。ストレートで飲んでみるとちょっと苦く、酸っぱい感じ。ミャンマーではコーヒーもかなり採れるようであり、お土産に買って行く人もいると言う。他国と違い、町にはスーターバックスもマクドナルドも無い(敵対関係にあるアメリカ関係の物は全てダメなのである)。基本的にお茶の国と思っていたミャンマーでコーヒーは意外であった。

 

書くのもどうかと思うが、私はこの時この事務所のトイレを何回も借りた。最初食べ物に中ったのではないかと思うほど便が出たが、全く正常だった。何故か次々に便が出る。どうしてこんなに出るかと思うほどであった。最後には体中の全ての便をきれいに吐き出した充実感がみなぎる。こんな感触は初めてである。思うに日頃は何やかんやで緊張を強いられており、便も抑制されている。ところが初めて来たのに、ここには何か懐かしさがあり、緊張感がまるで無かった(勿論S氏が居てくれたからに違いない)。何とも不思議な感覚にとらわれる。ストレスのないミャンマーは、健康に良い場所、ということなのだろうか?

 

(4)シェンダゴン・パゴダ
皆でヤンゴンの象徴、シェンダゴン・パゴダに行く。今から2,500年前に仏陀の聖髪8本が奉納されたと言われている由緒正しいパゴダだ。シングッダヤの丘に金色に輝いている。車で近づくと大きなパゴダが迫ってくるようだ。観光客が上るのに使うエレベーターを無視して、一般人が歩く参道へ。駐車場で車から下りる時、サンダルを車に残していく。ミャンマーでは全てのパゴダで素足で歩かねばならない。靴下もダメ、外国人だからといった言い訳もダメ。こういう一遍の妥協も許さない姿勢に凛とした物を感じる。実に素晴らしい。因みにこれ以降、私はミャンマー滞在中の殆どをサンダル履きで通した。それはいつでも素足になれるようにするためである。サンダル履きがこんなに快感であることを知るとは思わなかった。

 

屋根で覆われているので比較的涼しい参道を多くの人が上って行く。ここの階段はかなり急である。両側には花、線香、仏具などを売る店が並ぶ。その数は相当なものである。SSが見えなくなる。行きつけの店で線香と花を買っている。お寺に捧げる花を一生懸命選んでいる姿は微笑ましい。この辺の店を冷やかすのも面白いかもしれないが、私はTTMとSSに従って行かなければならない。一種の義務のようなものが感じられ、黙って後を付いていく。

 

参道を登りきるとそこは大きな広場のようになっており、沢山の人が祈り、歩き、座っている。時計回りに歩くのが仕来りの様で左に歩き出す。少し行くとSSが居なくなる。見ると自らの象徴であるライオンの小像が在る場所へ行き、先程買った花を生け、線香を挿している。それから床に座り一生懸命お祈りする。そこには多くの人が座り込み祈りを捧げていた。

 

続いて、TTMもナーガ(龍)の場所へ。ミャンマーでは何曜日に生まれたが最も大切。SSは火曜日、TTMは土曜日である。それぞれに方角と象徴の動物が定められている。彼らは常に同じ場所に参拝するのである。因みに1週間は8曜日となっており、水曜日は午前と午後に分かれる。理由は聞き洩らした。

 

私は日曜日生まれ。北東、太陽、鳥である。今日は日曜日、日曜日に参拝するのが最もご利益があるようで、一段と多くの人が祈りを捧げている。私が花を生けようとすると少年が指を指す。線香の場所も指示する。何者かと思っているとチップをくれと言う。以前は無かったが、ミャンマーにも外国人目当ての子供を使った物乞い集団が登場したとS氏がしきりに嘆いていた。

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兎に角私も一生懸命祈る。心に浮かぶのは『自然に生きたい』ということであった。今まで一度もそんなことを考えたことは無い。やはりこれ自体がご利益か?人々はひたすら祈る。ゆっくり、ゆっくり時間が流れる。今日は太陽が出ていないので、座り込んで祈る人が多い。

 

パゴダの歴史を写真で展示している場所で見ると、昔はこんなに大きな物ではなかったが、皆の寄進により徐々に大きくなった様子が分かる。上座部仏教では、寄進することが来世に繋がると信じられており、信仰が厚いパゴダほど、大きくなっていく。最近の写真には軍の偉いさんが写っていたが、S氏も敢えて名前を口にしない。ここでは政治の話は全てタブーなのである。因みに写真は1870年以降の物で明らかにイギリスの侵略後に写真が導入されたことが分かる。

 

パゴダに登れる場所がある。本日は登ってもよい日だということであったが、女性は厳禁。ここミャンマーは男尊女卑の国だとの印象を受ける。全てが男性中心。女性は働く道具のように感じられることもある。我々のグループには女性が二人いたので、敢えて登ることはしない。

 

仏像は至る所にある。Golden Leafと言われる金箔が売られ、多くの人がその金箔を仏像に貼り付けて、功徳を積む。自分または家族の悪いところがあれば、仏像のその部分に金箔を貼るとご利益があるという。思わず仏像の頭に貼ってみたが、さてさてご利益は望めるのだろうか?帰りはエレベーターに乗ってみる。外国人は入場料としてFEC5を支払っている為、優先的に乗れる。あっと言う間に下に降り、外に出る。素足で駐車場を歩き車に乗り込む。

ミャンマー紀行2003(2)ヤンゴン トートーマ母子に初めて会う

(2)ヤンゴン市内
案内されて外に出て、車に乗り込む。聞けば、強制両替をしなかった人は初めてだし、こんなに早く出てくることも無く、驚いてしまったようだ。(強制両替とは、外国人個人旅行者に対して、US$200を強制的にミャンマーの外貨兌換券FEC200と両替すること。実際の価値は当然1:1ではないので、両替することは大きく損することを意味する)その後の情報で強制両替は翌週の月曜日より正式に無くなったという。私は何と幸運だったのか、その恩恵をいち早く受けたことになる。

 

既に夜になっていた。空港から一般道に出る。80年代の中国、北京あたりを想定していたので、道はガタガタで暗いと思っていたが、大分違っていた。片道2車線、明るいとはいえないが、街灯も光っている。走っている車は日本車が殆ど。私が乗った車もかなり古いがトヨタのクラウンだった。

 

道の両側には家やレストラン、商店などが見られる。時々漢字の看板などもあり、中国系の存在も確認される。S氏が『先に会社に寄って腹を空かしたのをピックアップします』と言う。てっきり会社の日本人かと思ったが、それがスースー(以下SS)だった。実は空港にはS氏以外にS氏の会社のヤンゴン事務所の女性社員、トートーマさん(以下TTM)が一緒に迎えに来てくれていた。彼女は娘と共にヤンゴン事務所に住み込んでおり、SSがその娘なのである。ヤンゴン事務所は大きな通りから少し入った1軒屋であった。頑丈な門があり、車が着くと門番が開ける。建物は2階建て、2階は二人の住まい、1階は事務所とダイニング。

 

夜も7時半となり、直ぐにレストランへ。SSの好きな火鍋屋『セブンアップ』という店に行く。南国に有りがちなプレハブ、オープンスペースであることを除けば、そこは普通の中華の火鍋屋であるが、席数はかなり多い。味は中華風で、初めてのミャンマー料理が食べられるか緊張していた私はホッとして大いに食べてしまった。SSは海老、蟹が大好物とかでせっせと食べる。SSは20歳の女子大生、食べ盛りといった感じ。鍋の中には鶏肉、しいたけ、空心菜などが入れてある。最後は麺で〆る。何だかタイのコカレストランを思い出す。

ミャンマー2003 090

 

ミャンマービールも飲んでみた。全く冷えていないが、味は悪くない。S氏は冷えたビールを要求したがないようで、氷を加えて飲んでいる。私も倣おうと思ったが、氷は中る危険があるというアジアルールに鑑み、殆ど入れずに飲む。

 

途中から客も従業員の男性たちもテレビに見入っている。よく見ると何とサッカー、しかもイングランドのプレミアリーグである。ビデオ映像とのことであったが、どう見ても今日の開幕戦の試合である。ミャンマーにもタイから衛星放送が入り込み、見られるようになったようだ。ミャンマー人もサッカー好きが多く、テレビが無いレストランは流行らないとのこと。尚従業員は男ばかりで数はやたらと多いが、ちゃんと働いている者はあまり見られない。

 

夕食後、本日から泊まるミンガラガーデンへ。このホテルはS氏のヤンゴン定宿で、僅か1泊FEC20である。どんな宿かと思ったが、高級住宅街にあり、ガーデンというぐらいで広い庭があり、部屋もかなり広い。ボーイ(何故かボーイしかいない?)も皆、とても親切。熱いお湯のシャワーを浴びることも出来て満足。

 

テレビをつけると先程の衛星放送が見られる。丁度2つのチャンネルで、プレミアリーグ2試合が同時に進行している。思えば昨年の開幕戦はペナンのホテルのバーで見た。また北京語チャンネルもあり、何と深田恭子主演の日本のドラマの吹き替えをやっている。ミャンマー語字幕だ。ミャンマーでこんなものが見られるとは、何とも驚きだ。更に窓を開けるとそこには微かにライトアップされた、ヤンゴンを象徴するシェンダゴン・パゴダが見えた。実に申し分の無い宿だった。

 

8月17日(日)

(3)朝食
S氏の指示で朝食をホテルで取らずに、8時に車が迎えに来て出発。ローカルレストランへ向かう。レストランは割りと広く、中華風飲茶、粥、ミャンマー料理など数種類の朝食が食べられる。我々(S氏とTTM、SS)はミャンマーの典型的料理である『モヒンガー』を頂く。

 

『モヒンガー』はぶつぶつに切れた米の麺に魚ベースのどろどろのスープをかけた物。バナナの芯が入っているのが珍しい。香菜の香も良く、予想以上に美味い食べ物である。これで150チャット。更に本日は贅沢をして?ゆで卵をのせており、合計250チャット。ミャンマーに来て初めてのミャンマー料理であり、少々緊張したが、こんな美味しいものが食べられるとは思いも寄らなかった。お替りも食べたかったが、結構ボリュームがあり、断念。

 

もう1つ『ナンジー』という麺と具を混ぜて食べるものにもトライしたが、こちらの味はまあまあ。レストランの客は家族連れが多く、普通の格好をしているように見えたが、皆車で乗り付けてくる上流階級のお金持ちとのことで、中には大型の携帯電話を持っている人もいた。因みにミャンマーで携帯を使用するには電話機を含めて1台US$5,000もするとのことで、先進国ではとても信じられない値段であった。これが持てる人は途轍もない金持ちだと言う証明になっている。しかしそんなに電話す相手がいるのだろうか?本日は日曜日で多くの人々が食事をしていたが、香港のような煩さが無く、時間もゆっくり流れていて良い。

 

ミャンマー紀行2003(1)初めてのミャンマーへ

《ミャンマー紀行2003》  〈2003年8月の旅〉

  1. ミャンマー行きの理由

上海に留学していた頃、西洋人がよく『バンコックに行ったついでにビルマに行ってきた』と言うのを聞いて、たまげたものだった。我々日本人にはビルマは遠い国で決してタイのついでに行く国ではない。『ビルマには素晴らしい遺跡もあれば、きれいなビーチもある』と言われても、俄かには信じられなかった。

 

確かミャンマーに初めて行きたいと思ったのは、1996年の正月、何の理由も無くカンボジアのプノンペンに2泊3日の旅行に行った時だったと記憶している。だがやはり行きたい理由は何も無かったと思う。ただ1週間前に突然カンボジア行きを決めたため、一番の観光地アンコールワットに行けなかった悔しさが少しあったからかもしれない。既に1988年にインドネシアのボルブドールを訪れていたため、世界の3大仏教遺跡のもう一つがミャンマーのパガンだということだけは知っていた。それだけあれば、理由が出来た。行こう、と思ったが、3月には転勤で東京に戻ってしまった。

 

その後ミャンマーのことはすっかり忘れていた。東京でも北京でも先ず思い出すことは無かった。それが香港に戻り、中国茶の勉強をしていると『中国茶の原木は雲南省、更に原木はミャンマーに在る』などという記述が目に入ってくる。そうだ、ミャンマーだ。行く理由はいくらでもあるのだ。あとはどうやって行くか、ツテだな。

 

  1. 香港でビザ取得

7月に航空券を押さえた。そこで旅行会社にビザの取得を尋ねると自分で取ってくれと言われ、ミャンマー領事館の電話番号を教わる。恐る恐る電話すると『会社からレターを貰って来て下さい』と言う。休暇なのに何故?どうやら本当に休暇なのか確認するためらしい。『レターが無いとどうなるの?』と聞くと、『何時ビザが出るか分かりません』とのつれない回答。これでは、まるで80年代の中国だ。そう言えば、色々と情報を下さり、今回の旅行のアレンジをして下さるS氏に話しを聞いていると、大体ミャンマーは80年代の中国に間違いは無い、と確信出来た。

 

ビザが無くては行けないので、直接香港の領事館へ出向く。以前は中国でも埒が明かないものは直接交渉するに限った。緊張して訪れると、お客は誰もいない。受付で申請書を出すと、『レターは?』と聞かれる。勿論会社にそんなレターを書いてもらう気はなく、無い旨を伝えると会社の名刺を出せと。担当は名刺を一瞥し、2時間後に取りに来いとだけ早口で言った。拍子抜けした。観光ビザは3ヶ月以内の入国で、滞在は4週間まで。最近はスーチーさん問題で米国が経済制裁を行い、日本のODAも止まっていることから、何時ビザが出なくならないとも限らないと聞いていたので、その日の内に入手でき、一応滑り出しは上々だ。

 

8月16日(土)

  1. ヤンゴン

(1)空港
いつもの事だが、何の準備も無しに8月16日(土)にミャンマーに向けて出発した。香港―ヤンゴンの直行便は無く、タイ航空のバンコック経由で行く。香港発14時10分、バンコック着15時50分(時差1時間)、18時バンコック発、18時45分ヤンゴン着。タイ、ミャンマーの時差は30分。時差が30分と言うのはあまり聞いたことが無いが、何となく両国の微妙な関係が感じられる。

 

バンコックからのフライトは、7割程度の乗客だったが、後ろにイギリスの大学生の団体(スポーツチーム)が乗っていなければ、半分以下といった感じだった。前の方の席に欧米人を乗せているのが、髪の毛の色を見れば一目で分かる。外国人は休暇といった感じのカップルが多い。飛行機はあまり緊張する間も無く、ヤンゴン空港に着陸してしまう。暗くて空港の周りがどうなっているのか良く見えない。タラップを降りるとバスが来ている。見ると日本の中古車で『京都市営バス』と書かれており、まさかここで日本に会えるとは、と驚く。

周りを見渡したが、軍用機などは見えない。軍事政権なので当然あるものと思っていたが?後で聞くとヤンゴン郊外に軍専用の飛行場があるようだ。(中国では80年代時折軍用機が飛行場の隅に停まっていたのを思い出す)バスを降りると古ぼけた建物があり、入るとやけに小さいカウンターがある。係員にパスポートを差し出すと『SARS、SARS』と言っている。健康カードを出すと、突然看護士姿の女性が私の耳を目掛けて、体温計を突き刺してきた。何とSARS騒ぎが過ぎて既に2-3ヶ月は経っているが、手動で体温を測っているのだ。見ると私に使った体温計を何の躊躇も無く、次の欧米人に当てている。かろうじて外国人とミャンマー人は分けているようだが、果たしてこの国に衛生概念はあるのだろうか?

 

イミグレーションのボックスには3人の女性が座り、役割分担があるらしく、一人一人がパスポートとビザを確認している。それでも昔の中国のように入国に30分も1時間もかかることは無く、あっと言う間にイミグレを抜ける。さあ愈々悪名高き強制両替かと辺りを見渡したが、銀行の看板はあるが、誰も声を掛けてこない。預けた荷物も無く、税関の前に到着してしまう。税関職員に申告書を出すと一瞬にしてOKが出た。

 

何処から出るか探していると、出口のおじさんはドアを開けずにちょっと待てと言う。当然両替をしていないので留められたと思ったが、どうやら私が一番先に到着してしまい、後続を確認していた模様で、もう一人来ると直ぐ開放された。S氏は空港に迎えに着てくれると言っていたが、姿が見えない。これは困ったと思いながらも、案外楽しんでいる自分を発見。出迎えゲートでは多くの迎えが来ている。かなり暗い照明でなかなかS氏が見つからない。漸く端から端まで行った所で、S氏の後姿を発見し、声を掛けると本当に驚いた様子で『何でこんなに早いの?』と聞かれる。