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ミャンマー紀行2003(18)カロウ 衝撃的な日緬の歴史に出会う

ウラミ氏の話は衝撃的であった。まさかここに来てこんな話が聞けるとは思いも寄らない。氏は1931年生まれの72歳。12歳の時に日本軍がヤンゴンに侵攻。日本語が出来た氏は日本の兵隊に可愛がれ、軍の北進に連れて行かれたという。『日本の兵隊さんは子供が好きだから』『インパールまでは行かなかったけどね。ザガインまでね』と言う。インパールまで行っていれば、恐らく生きて帰れなかったろう。

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『確かに日本軍はミャンマーで悪いことをした・・・』氏はそれだけ言うと後の言葉を飲み込んだ。頭には何が浮かんでいるのだろうか?暫く無言の状態が続いたが、『日本の将校はミャンマー人の感情に配慮しなかった。涼しいからと僧坊に上がりこみ、抵抗する僧を平手で打った。ミャンマー人は親にも殴られたことが無い。このやり方はいけなかった』と言う。でも『ミャンマーの人々は逃げる日本の兵隊に握り飯を差し出した。ミャンマー人と日本人は仲がいいよ』

 

戦後は色々な仕事をしたようだが、日本のODAによる水力発電ダムのプロジェクトに参加。カヤー州のライコーに駐在。その研修の為、1970年には日本に滞在。北海道・東北での研修は寒くて辛かったと。そして11月には東京市谷におり、例の三島由紀夫割腹自殺事件に出くわす。氏は言う。『昔の日本人はそんな簡単に死にはしなかった』『最近の日本は自殺者が交通事故者を上回ったと聞いたが、本当か?何故なんだ?』氏は日本人が好きなのだ。この感覚は台湾でよく感じるそれである。良いも悪いも無く、好きな物は好きといった感じか?

 

その後奥さんの故郷であるここガロウに帰り、由緒あるガロウホテルの支配人になる。その時S氏と知り合いになる。ガロウホテルはサマセットモームも滞在し、小説を書いたというイギリス統治時代に建てられた由緒ある別荘風ホテル。ガロウには1870年以降にイギリス軍が侵攻。1,000mを超える高原で、絶好の避暑地として、開発される。軍の病院なども建てられる。現在もスイスの別荘を思わせる建物があるのはイギリス時代のものである。

 

ガロウホテルの支配人の傍ら、自宅に日本語センターを設立し、ミャンマー人に日本語を教え始める。生徒はガロウの他、遠くはタウンジーの大学生がバスで2時間掛けて習いに来るというから凄い。ホテルの支配人を退いて後は日本語の指導に専念している。話が尽きることが無く、とうとうご自宅にお邪魔してしまった。ご自宅は一軒家。暗くて広さが分からないが庭もある。玄関を入ると非常に広い居間がある。大きな祭壇が見える。テレビの前には奥さんと親戚の子供が台湾系ドラマを熱心に見ていた。部屋の隅にはゴルフバックがある。ガロウにはイギリス人が残したゴルフ場があり、以前はウラミ氏も良くプレーした。現在は息子さんが使っているそうだ。

 

ウラミ氏から衝撃的な手紙を見せられた。それは第2次大戦中に日本赤十字より派遣された元看護婦さんからのものだった。字体はしっかりしており、漢字は少なく振り仮名も振ってある。実はウラミ氏は漢字の勉強をする機会が無かったとのことで、彼女の配慮が強く感じられた。というよりどうしてもこれを読んで欲しいと言う願いが込められていた。手紙には彼女ら静岡班がガロウに滞在し、傷病兵の看護に当たったこと、戦況が悪くなり、最後はガロウを脱出、60日間山中を彷徨い、チェンマイに辿り着いたことが切々と書き込まれていた(この道は『白骨街道』と呼ばれ、日本兵の死体が累々と道端に溢れ、白骨化したと聞く)。私は歴史が好きで、結構知っているつもりでいたが、日本の看護婦さんがミャンマーに滞在し、死ぬ思いで逃げたことなど露ほども知らなかった。

 

香港に戻りどうしてもこのことは知って置きたいと思い、福田哲子さんの書いた『ビルマの風鐸』と言う本を読んだ。これが又衝撃的であった。赤十字の看護婦はその学校を出た後20年間は子供がいようが、病人を抱えていようが命令1つで戦地に赴かなければならない規則があったという。信じられないことである。まるで赤紙一枚の男子と同じ。勿論表面上は国際条約で赤十字の看護婦は安全が保証されていたが、いざ戦場に出れば実際は日本軍の配下も同じである。現実に本の中で和歌山班の看護婦が死んで行く場面がある。兵隊と同じ、いやそこに出てくる中尾婦長などは『天皇陛下万歳』と言って死んでいったのだ。当時は軍人でも『天皇陛下万歳』と言って死ねる人は少なかったと言うのに。又生き残ったが、現地人の妻となったことを恥じ、その後消息を絶った女性すらいた。元兵士で戦後日本に戻らず現地の山奥でひっそり暮らす日本人の話は聞いたことがあるが、まさか女性まで。『生きて虜囚の辱めを受けず』と言うたった一言の為に。あまりにも重過ぎる。

 

ウラミ氏に手紙を出した方は静岡班であり、全員無事に帰国したとなっているが、その思いはいかばかりか?彼女は何度もガロウを訪れ、ウラミ氏を知り、孫の写真まで送ってきている。但し最近は80歳を超え、体が弱ってミャンマーに来られないと嘆いている。これが日本とミャンマーの本当の歴史だ。

 

ウラミ氏は自ら大戦中のミャンマーの歴史を纏めて本にしていた。その中にはアウンサウン将軍(スーチーさんの父親)やネ・ウインなどが日本の軍服を着て写真に写っている。彼らはイギリスを憎み、日本の援助で独立を果たそうとした。今読んでいる遠藤周作夫人の遠藤順子著『ビルマ独立に命をかけた男たち』の中でも、彼女の自宅にアウンサウン将軍がお忍びでやってきたと書いている。日本の中にも心からビルマ独立を望んだ人々がいたことが分かる。ところが皮肉にも大戦末期、ビルマ軍は日本軍を見捨ててあのイギリス軍と手を組む。歴史とは、何という・・?

 

ウラミ氏の自宅には多くの日本人が訪れ、ノートに多くのメッセージが書き込まれている。その多くが若者で自宅前の日本語センターの看板を目にして、行き成り入ってきた者たちだという。確かにこの田舎町で日本語の看板を見れば興味を持つことだろう。でもノートが埋まって行くのはやはりウラミ氏の人柄だ。どんな人でも快く受け入れる、今の日本人にはなかなか出来ないことではないだろうか?これぞミャンマーといった思いだ。私もノートに書いた。『ミャンマーの歴史を勉強して出直してきたい』と。それにしても長い一日であった。朝の托鉢に始まり、山の学校、市場、茶農家、そしてウラミ氏との出会い。一生の内でもそう何度も体験できない貴重な日となった。

ミャンマー紀行2003(17)ビンダヤ アヘンと和紙

(8)ラペトゥと和紙

洞窟寺院を出ると参道に土産物屋が並んでいる。団体がバスに乗るまでは一生懸命売り込みを図っているが、彼らが行ってしまうと静けさが漂う。我々2人はその内の1軒に寄り、茶を飲み、ラペトゥを試食。なかなか美味しいので2袋買う。1袋が800K。1つはTTMへのお土産だ。ついでに茶葉も少し購入。ラペトゥは真空パックされており、3ヶ月は持つとのこと。先程買った竹筒は1年だが、中身は保証されていないので、こちらを食べるつもりで買う。ここのラペトゥは先程訪ねた村より遥か山の向こうで作られているという。次回その村まで行く挑戦をしたいが、かなりの体力を要するだろう。私に歩き切れるか自信がない。

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最後に山を下り、紙工場を見学する。ここでは伝統的な和紙?を手作業で製造し、唐傘?を作っている。先ず原料を水につけて練る、伸ばす、乾かす、と工程を重ね、見事な手漉きの紙が出来上がる。室内では、傘の骨を作ったり、柄を作ったりする。全て手作業。極めて器用な手つきで行われる。傘は日本で言えば京都で売っているような番傘である。絵柄もきれいであり、これは土産用としてよい。但しこの辺の農家でもこの紙を使った傘を差して農作業をしているとのこと。

 

ところでこの紙、昔から作られていたのかもしれないが、驚くべきことに近年この辺りではアヘン製造に関わって活躍していたようだ。帰国後シャン州のことを調べるうちに読んだ『クンサー』(小田昭太郎著)によれば、『和紙はアヘンを包むのに最も適しており、アヘンには全てこの紙が用いられているとのことで、そうなればかなりの量が必要なわけで、山奥の寒村で大量の和紙を作っていたのもアヘン地帯であればこそだと納得がいく』と説明されており、ヘロイン製造過程で紹介されている。私もこれで合点がいった。手漉きの和紙とアヘン、絶対に思いつかない組み合わせである。現地に来てみないと分からないことは多い。

 

そもそもTAMが話の弾みに『麻薬王クンサー』の名前を出したのが、始まりだった。前述の本を読み、80年代までクンサーがシャン州のかなりを支配していたこと、シャン州の少数民族は生きる為にケシを栽培していたことなどが分かる。クンサーはアヘン製造を止めて、何とかケシ農家の生活が立つ方法を考えていたとされているが、結果として選ばれたのが茶の栽培であったということらしい。しかし残念ながらミャンマーの茶は国際的な認知度が低く、輸出も極めて少なく、未だにシャン州の何処かではケシの栽培が続いていると言うことで、和紙の製造も続いているのだろうか。ミャンマー政府と少数民族の紛争の主な原因も、ここに起因しているとの話もある。

 

もう1つTAMの話をすると、彼女の家はタウンジーというインレー湖付近で最大の街にある。今回は行く機会がなかったが、彼女の話では以前この街はケシの一大集積地だったようで、多くの中国人(中国系)が住んでいた。やはりアヘンには中国系が大きく関与していたらしい。クンサー自身も中国人であるということである。ミャンマーの、いやシャン州の人々は中国系に翻弄され、米国その他の国際社会に翻弄されて生きているとも言えるのではないか。

 

(9)ガロウ

ビンダヤを離れ、本日の宿泊先ガロウへ向かう。正直言って何故ここに泊まる必要があるのか私には分かっていなかった。S氏のアレンジだとTAMは言う。ビンダヤからガロウは左程遠いわけではない。またヘーホーの空港からも遠くない。その辺で選ばれたのかと思っていた。

 

ホテル、パミラモーテルにチェックインするとTAMは旦那の実家が直ぐ傍にあるからと言って、行ってしまった。『今日の夜はミスター・ウラミが食事を一緒にします』ミスター・ウラミ?それは誰?ウラミのある人?相変わらずミャンマーの旅は謎に満ちていて、面白い。

 

TAMに言われた通り、7時に部屋で待っていたが、一向にウラミ氏は来ない。おかしいと思い下に降りると、ホテルの人が『車が待っている』と言うではないか。さっきまで乗っていた車が待っており、ウラミ邸に行くという。何だかおかしなことになったが、ここは成り行きに任せる以外にない。

 

5分ほど暗くなった道を走り、ウラミ氏の家に。門の所に既に待っていたその人は70歳を過ぎたおじいさんであった。会うなり流暢な日本語で話してくる。こんなところで日本語とは驚きである。2人で車に乗り、レストランに向かう。少し離れた山の上にあるという。その辺りは山荘のような建物が幾つかあり、別荘地帯と思われた。

 

そのレストラン『メイパラウン』は素晴らしかった。夜は真っ暗で景色は見えないが、昼間なら下界が一望できるはずだ。屋内もミャンマーの田舎とはとても思えない洒落た飾りがある。お客は誰も居ない。若い夫婦が甲斐甲斐しく給仕してくれる。聞けばウラミ氏とガロウホテルで一緒に働いた仲間であり、奥さんは氏の日本語の教え子でもある。どうやら雨季でオフシーズンの今、我々の為に態々レストランを開けてくれたようだ。魚、肉、野菜、ミャマー料理のフルコースが出てきた。とても美味しかったのだが、食べきれる量ではない。

ミャンマー紀行2003(16)ビンダヤ 山の茶農家で

茶の製造法については、摘む→天日干し→鍋で炒る→揉む。摘むのは1芯1葉と丁寧だが、年間12-15回も摘み採るとのことで、質が良いと言う訳にはいかない。老婆は炒る為の鍋などを示して説明していたが、突然竈に薪をくべ、マッチも無しにささくれ立った木の破片でサッと火をつけた。まるで魔法使いのようだ。そして薪に火が点くと、何と竹の筒で火を噴き始めた。そう、時代劇などで風呂を焚くときにやっているあれだ。これには恐れ入った。突然江戸時代が目の前に展開した。火をつけて暖めた鍋で老婆は何かを温めていた。それは何とポテトチップだった。これにも驚いた。かなり厚手ではあるが、正にポテトチップ。塩気が無いが、返って健康食品のようだ。なかなか美味しいし、お茶請けに良い。尚お茶は既にポットに入っているものが茶椀に注がれる。

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話を聞くと夫と2人暮らし。お茶は20年ぐらい前から始め、今では自分の畑で採れるお茶や野菜、果物で十分生活が出来るという。水は生活の知恵で雨水を溜める設備が庭にあるし、不自由は無いようだ。カメラを向けると『大きく引き伸ばして送って欲しい』と老婆が言う。勿論約束した。後でTAMにどうやって送るのか聞いたところ、自分のところに送れと言う。何時か行くこともあるだろうから。その時間の流れがこの辺りのスピードなのだろう。

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家は2階建て。2階も広くてきれい。家具などはあまり無く、極めてシンプルな生活。先祖の祭壇だけが、目立つ。彼らはダヌーと言う民族。この辺りはダヌーの村で、20年以上前は『ケシ』の栽培を主業務としていたらしい。頭の良い民族でケシによって稼いだ資金を浪費せず、茶の栽培に切り替えた為、家々は立派なのだと言うが、恐らくは転作の補助金などももらったのだろう。

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1階の残りは倉庫。生産された茶葉が布袋に入って置かれている。小さなビニール袋1袋分の茶葉を分けて貰う。老婆は金を受け取ろうとしなかったが、TAMが無理やり500Kを渡す。外に出ると遠くから老夫がこちらを見ている。まるで『おじいさんが山へ芝刈りに行き、戻ってきた』といった感じ。

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それから更に登って行くと数軒の家が見える。TAMはまたズカズカ入って行く。何処の家でも『茶を飲んでいけ』といった気楽な応対が嬉しい。おばあちゃんと孫の組み合わせが多い。赤ちゃんを抱いた母親もいる。皆外国人が闖入することはあまり無い様で驚いてはいるものの、気さくだ。ある老婆は言葉が通じないのも構わずしゃべり続ける。意味が分かるはずが無いのに、何となく頷いてしまう。不思議と心が通じる。

 

TEMは先程ポテトチップに興味を持った私を、ガイドとして何とか満足させようと製造現場を探す。漸くかなり上の方で作っていることが分かり向かう。その頃には上り坂が辛いなどとは思わなくなっているから不思議だ。農家の納屋に入ると老婆と12-3歳の女の子が並べられたチップをひっくり返していた。その下では薪が焚かれており、韓国のオンドルのような仕組みでチップをゆっくり乾燥させていることが分かる。

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ポテトチップの単価は茶葉の2倍はするとのことで、最近この辺りでは多くの農家が切り替えている。しかしTAMに寄れば、単価は高いが、薪の費用なども馬鹿にならず、最終的な儲けが茶を上回るかどうかは疑問とのこと。兎に角ゆっくりとではあるが、着実に変化しているこの村は面白い。村の名をジーリンゴ村という。

 

下りは楽かというとそうとも言えない。村の子供が数人追いかけてきて、我々の先回りをする。かなりすばしこい。TAMも山育ちとは言えず、結構時間が掛かる。しかし道を下る途中に見える下界は素晴らしい。田園風景が見事に広がる。登ってくる女性たちも絵になっている。この風景を是非自分の子供たちに見せたいと思う。女性達が道脇で何かを探している。見るとサンダルを取り出した。平地はぬかるみが多く、下駄を履くが山道は別のサンダルとなるため、岩陰に隠しているようだ。微笑ましい。

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(7)洞窟寺院

下り切ると、ちょっと場違いな建物がある。洞窟寺院である。何と立派な建物でエレベーターが見える。今原始的な風景に感激した身としては、あまり興味をそそられない。入り口で靴を脱ぎ、エレベーターに乗る。かなりの高さがある。到着すると橋が架かっている。高所恐怖症には辛いが、景色は良いようだ。

FEC3を払い中へ。合計8,000体の仏像が洞窟に安置されている。これは圧巻だ。この洞窟は2億7千年前に出来たと言われる天然の物で、よくぞこの自然のカーブに合わせて大小の仏像を安置したものだと思う。かなり高いところまである。どうやって安置し、どうやって手入れしてきたのだろう?

 

洞窟内はかなり湿り気があり、足を滑らすほど。仏像と仏像の間を擦り抜けかなり細々と入り組んだ道を進む。仏像の前にプレートが置かれているものがある。ミャンマー語は全く読めないが、中には英語で名前が書かれている。どうやら寄付金を払い、仏像に金箔を施すなどした者の名が書かれているのである。西洋人の名前が多いが、香港人やシンガポール人の名前も見られる。信心深い人が多いのか、西洋人は記念の為か?ドナーは自分の気に入った仏像を選んで寄付するらしい。私もやってみたい誘惑に駆られたが、どう見ても信心など無い人間が寄付するといっても、TAMは許さないような気がして止めた。

 

洞窟はかなり奥まで続いている。それぞれに謂れがあるようで、西洋人の団体はガイドの説明に聞き入っている。願うだけで望みが叶うパゴダ、などと言うのもある。一番奥にもパゴダがあり、後は行き止まり。但し実際にはこの奥もまだあるようだ。かなり狭い穴が続いているが、人間は窒息の恐れがあるとのことで、犬を放ったが、終に戻らなかったとの話がある。何となく秘密の抜け穴があるような気がするが、戦乱が続いた場所なのだろうか?

ミャンマー紀行2003(15)ビンダヤ 5日に一度の市場で

(5)ビンダヤの市場

インレー湖の周りの村々では、5日に1度、各場所で市場が立つ。ビンダヤの街に到着すると、先ずは市場へ向かう。今日はここに市が立っている。パガンでも市場に行っていたので、あまり期待していなかったが、これが行ってビックリ。優良ガイドのTAMの力が大きい。お茶は竹筒入りのラペトゥを購入。1つ100K。筒の中に茶の漬物が入っており、1年はもつというが、売っている人間も保証出来ないという。この竹筒、何とも味わいがあって良い。

 

市場の中では各少数民族が商売をしている印象で、いろんな顔立ちの人達が自分の商品を持ち込んで座っている。民族衣装も多彩で楽しい。売っている物は新鮮な野菜が多い。キャベツは1つ25K。大好物であり、買って炒めたい衝動に駆られるほど、美味しそうに見える。

 

TAMが食べ物を食べようという。流石にここまで全く体調に問題が無かったとはいえ、村の市場で大丈夫かと衛生面で不安になる。正直TAMには悪いが、1口食べて止めようと思った。椅子に腰掛け、目の前を見ると揚げ豆腐のようなものがある。小皿には生姜をベースに葱その他を混ぜたソースが置かれる。TAMが美味しそうに口に運ぶ。私も恐る恐る食べてみる。美味い。揚げの中に柔らかい豆腐が入っており、またソースが絶妙で若干甘く、おやつを食べているようである。1口で止めるどころか、2人で1皿きれいに平らげる。因みに1皿、100K。

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こうなると次は何かと期待してしまう。TAMは小さな団子を買う。お汁粉に入れる団子のようだ。食べると正にそのものである。但し餡子ではなく、中にテェネェが入っている。ヤンゴンで食べた椰子の汁を固めたお菓子である。あれが餡になっている。これも素朴で美味い。

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(6)茶農家へ突撃

朝ごはんも腹一杯食べていたし、豆腐や団子もかなり食べた。これから改めて昼ごはんを食べる必要はもう無い。市場を後にして、早々に山登りにかかる。山の道は見た感じはそれ程急でもないし、歩くのは大変そうにも見えない。緩やかな九十九折、何かテレビドラマの時代劇で使えそうな長閑な山道である。ここにもし峠の茶屋でもあれば雰囲気はぴったりだが。

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しかしそう甘くは無かった。運動不足の私は直ぐにあごを出した。今日は流石にサンダルを止めて靴を履いているが、結構しんどい。後ろから女性達が追い抜いて行く。見ると今まで市場で商売していた人々だ。皆重そうな籠の紐を頭に当てて難なく、運んでいる。7-8歳の女の子もさっさと歩いていく。籠の中には売れ残りの商品の他、鍋なども見られ、自炊している様子が分かる。こんな荷物を持って山を降りてくるのはさぞや大変だろうと思う。TAMによると彼らは何とここから2つ山を越えて帰るのだという。5日に一度のこととはいえ、想像を絶する暮らしがここにある。

 

途中に休むことが出来る小屋があった。まだそんな歩いていない私も直ぐに休憩を申し出る。行ってみると多くの人がおしゃべりしながら休んでいる。殆どが女性である。甕に水が入っていて誰でも飲めるようになっている。皆1山2山越えて帰るという。ロンジーに下駄のようなサンダルを履き、スイスイ登っていく。慣れているといえばそれまでだが、何とも恐れ入った。

 

更に行くと、女性が子供を負ぶっていた。子供の右手は石膏で固定されている。遊んでいて骨を折ったので、村の医者に見せた帰りだという。母親は日傘を差し、風呂敷のような布で子供を包んで背負い、ゆっくり登って行く。この光景を見て、何故か涙が出そうになった。この子はこの日のこと、特に『かあちゃんの背中』を一生覚えているに違いなかった。私は自分の子供に一生覚えているようなことをしてあげたことが今まであったろうか?

 

30分ぐらい歩くと坂が急になる。きついなと思って顔を上げたその時、目の前にお茶の木があった。斜面に少しだけ植えられている。TAMは行き成りその茶畑に入り込み、葉をちぎったりしている。彼女のおじいさんも茶園を持っていたとかで、お茶には詳しいらしい。茶木はそれ程大きくなく、明らかに最近のものに見えた。葉を食べてみたが、お茶の味はするが、例えば龍井茶の葉のような味わいは無い。

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その先に2階建ての家が見えた。こんな山の中にしては、立派な家に見える。道から少し下ると家の庭に出る。家の前では老婆が一人、米を選り分けていた。TAMが何か話しかけると、老婆が中に入れという仕草をした。TAMはまるで自分の家のようにズカズカと入りこむ。私も続く。そこは土間のようになっており、端には竈がある。今日摘んだ茶葉は外で天日干している。

ミャンマー紀行2003(14)ビンダヤ 山の学校に思う

(3)フーピンホテル

本日の宿はニャゥンシェのフーピンホテル。フーピンホテルとは湖濱賓館のことで、どう見ても中国系である。オーナーと思しきおばさん姉妹は顔がそっくりであり、その顔はどう見ても中国系である。彼女たちの父が設立し、今は母親のみが健在でその娘2人が仕切っていると言った感じ。英語は流暢で、日本語も話す。このホテルの設備は今1つであり、これでUS$30は高い印象がある。しかし何となく、中国系のせいか居心地は悪くない。夕食もS氏の推薦がありホテルで予約して食べる。相変わらず美味いが量が途轍もなく多い。TAMと2人では食べきれるわけが無い。

 

隣に日本人の夫婦2組がガイドと一緒に食事をしている。今日の旅が満足だったようで上機嫌である。食事中2回ほど停電があった。この辺では普通のようで皆慣れており、蝋燭が運ばれる。これも風情があるなと思っていたら、3回目の停電は故意であった。何と隣の1人が誕生日でホテル側がバースデーケーキを出したのだ。そのユーモアのあること、なかかな気に入ってしまった。

 

食事が終わると裏でショーをやっていると言う。どうやら西洋人の団体が予約したものだが、地元の人も含めて金も払わず見ているのが、何とも微笑ましい。TAMなどは見飽きているのか何処かへ行ってしまう。出し物は女性の踊りが数種類あり、その合間に京劇の一説や曲芸などがある。獅子舞の獅子が象になっている出し物では、チップを拾い上げる芸を披露しようにも西洋人が理解してくれず、芸人が困っていたのでチップを出そうとしたところ、例の誕生日のおばさんがさっと100K札を置いたのは流石日本人。だが西洋人がそれを理解したときには次の出し物に代わってしまった。最後は皆で踊りましょう、と座長が客席から客を引き出している。私のところに来たその瞬間、また停電となり、お開きとなった。

 

それでもまだ8時である。TAMが散歩しようというので、外に出る。所々に明かりがあり、お茶を飲んだり、食べたりしているようだが、やはり暗い。その代り空を見上げると一面に星が輝く。久しぶりに空を見上げた、星を見た。最近は心に余裕が無かったのかな、と反省する。それにしてもこの田舎町の星空は見事である。東京でプラネタリウムを見た時より遥かに迫力がある。この夜空を是非子供たちに見せたいと思う。本当の自然と向き合う機会はこういう所にでもこないとないのだから。シャワーを浴びると、熱いお湯が日焼けに沁みた。

 

8月21日(木)

翌朝も6時過ぎに起きると既に外は何となく賑やか。下に降りてみるとまるで炊き出しのよう。台湾人の団体が托鉢への施しを行う為、外にテーブルを出し、僧を待っていた。その向こうを見るとこのホテルの母屋のような建物の前で老婆がやはり炊飯器を出して、佇んでいる。どうやらこのホテルのオーナーなのだろう。恐らく毎日こうして佇んでいる、これがミャンマーの宗教というもの。僧達は十数人でやってきた。小坊主もいる。皆壺を持って中にご飯とおかずを入れてもらっている。台湾人は一生懸命に施しを行っている。日本の仏教はどうなっているのだろうか?私はただの観光客となり、呆然と見ているだけだった。

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(4)山の学校

朝食も豪勢でお粥、目玉焼き、パン、ミャンマー料理とまた食べきれないほど出てきた。残念ながら大量に残して、ホテルを後にする羽目になる。今日は今回のミャンマー旅行のハイライト、茶畑へ向かう。茶農家に果たしていけるのか?車は昨日の道を逆戻りし、途中からビンダヤへ向かう。道の途中に検問所があり、料金を払っている。これまでヤンゴンでも見たことが無かった有料道路は何を意味しているか?

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途中に山の学校があった。丁度TAMとミャンマーの教育について、話していた時だ。突然TAMが『そこの学校を見ていきましょう』と言うではないか。山の中の道の端に校庭が広がり、奥に平屋の木造校舎が見える。一目見てどうしても見てみたくなる、それはまさに『山の学校』のイメージそのままだった。もし校舎から蛍の光が聞こえてくれば、そのまま山田洋二監督の世界ではないだろうか。

 

夜中に雨が降ったのか道端には泥濘があり、下りて行く場所はなかなか難しい。校門も無い。そのまま校庭、全くのオープンスペース。校庭には遊具なども一つとして無い。ただ地面が広がっているだけ。ここでは子供が自ら遊びを想像する空間がある。昔の日本もこうだったはずだ。

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校舎は高床式。廊下はミシミシ音がする。授業に邪魔にならないようにそっと歩く。懐かしい感触で、思わず雑巾掛けがしたくなる。そして何より教室から大きな声で英語・ミャンマー語が聞こえてくる。まるで声の大きさを競っているよう。その元気だ、今の日本の子供に必要なのは。幼稚園から中学生まで、5つほどの教室の分かれて懸命に勉強している。ミャンマーでは、特に田舎では学校に行けない子供のほうが多いと聞く。彼らは学校に行けることがどれほど幸せであるかを知っている。自分の子供たちにも是非とも伝えなければならない、そんな光景がここにあった。

 

S氏によれば、ミャンマーの田舎で学校を建てるのには日本円で100万円もあれば出来るという。実際日本人で寄付をして学校を建てた人もいるという。私が学校を建てたいと言ったら、それはエゴであろうか??

ミャンマー紀行2003(13)インレー ボートトリップ

そのままインレー湖ボートトリップに行く。インレー湖に入るのに入場料として、外国人はFEC3を支払う。それ以外にボート代が8,000K。ボートは屋根が無く、細長い。椅子を乗る人の分だけ置いて、出発する。我々はTAMと2人、それに船頭さん。日差しが強く気持ちが良かったが、その内大変だと気付いたがもう完全に手遅れ。全く身動きが出来きない。私は傘も差さず、帽子も被らず、サングラスもしない。半袖、半ズボンである。後ろを振り向くとTAMが帽子、傘、タオル、サングラスの完全防備で控えている。日焼け止めのローションを分けてもらったが、結果としては焼け石(肌?)に水。完璧に焼け焦げてしまった。その後帰国して大分経っても、日焼けの後がくっきり残り恥かしい状態のままであった。

ボートは15分ほど細い河を行き、やがて湖に出る。湖に出てもあまり広くない水路を通っている。これは何だ。何と浮島なのだ。ここで豆やトマト、その他野菜が沢山作られている。全て水栽培な訳だ。驚かされる。見ると実際に農作業している人、農作業に向かうため船を漕いでいる人が見える。我々のボートはエンジンが付いている高速船(?)だが、一般の船は全て手漕ぎである。驚くことには足で漕いでいる人がいる。何と足の方が手より速いというのだ。

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湖の両側に山々を眺め、日差しに晒されながら、1時間ほどで水上寺院(ファウンドーウーパゴダ)辺りに到着。向かい側にある湖が見えるレストランで昼食を取る。食事は中華料理で味はまあまあ。メインは湖で取れた鯉の煮つけ。何となくソーセージを食べている感じがした。TAMは魚を食べないとのことで、頼まない方が良かった。食事代は、確か2人で2,500K。昼食中に何とあれ程良かった天気が一転、スコールとなった。かなり激しい雨だ。我々はツイていた。もしこの雨がボートの上に来たら、ずぶ濡れの上、かなり怖い思いをしただろう。TAMも私のことを晴れ男と賞賛。

 

小雨になったところで、対岸の水上寺院へ。途中でシャンバックを見る。家内から土産にが欲しいと言っていたので、1つ購入。このバックはシャン州なら、誰でも肩から提げているものであるが、土産用としては派手な刺繍で売っている。1,500Kと言うのを1,000Kでダン。

 

お寺はかなり新しく、大きいが、2階の5つの仏像は大きくない。皆が金箔を貼り過ぎたため、丸くなったとの伝説あり。『男性だけが触れます』と言われても触る気になれず。毎年10月頃にファウンドーウー祭りがあり、寺の横にある伝説の鳥カラウェイを模した大きな仏像が船に乗せられ、湖を練り歩く?そうだ。その祭りは賑やかだが、その時以外は至って静かな湖面だ。

 

雨が見事に上がった。船に乗り、織物の村へ行く。村全てが織物で暮らしている。船から上がると多くの建物が見える。中に入ってビックリ。まるで戦前の日本の北関東のようだ。数人が古式床しい年代物の機織機の前に座り、熱心に手と足を動かしていた。その機械を見るとどうやら日本の群馬あたりから来た中古品。TAMも50年以上前に日本から来たものだと言っている。非常に細かい手仕事で、今の日本では既にできる人はいないのかもしれない。

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別の建物では、丁度休憩中でポットのお茶を椀で飲んでいた。その椀も何の変哲も無いが、数十年使っているのではないかという代物で思わず欲しくなってしまう。建物は湖面から大分高くはなっているが、大雨の時など大丈夫なのだろうか?人の事ながら心配してしまう。事務所に寄ると日本のおじいさんが一人で、布を見ていた。プロが買いに来ているのかもしれない。私にも仕事があった。TTMより頼まれて、この工房から生地のサンプルを貰ってくることだ。アレンジは全てTAMがつけるので、私はただ黙って見ていているだけ。その間お茶を頂く。

 

次に鍛冶屋の村に行く。ボートが着くと4人の大人が一斉に動き出し、熱くなった鉄を打ち始めた。これは一種のショーであり、ボートトリップ代に含まれていることが分かる。お茶とラペトゥをご馳走になる。また煎餅が出てきた。塩気が無いのを除けば全く日本のそれである。その煎餅にラペトゥを乗せて食べると、実に美味い。シャン州には日本がある。

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小さい子供が何人かいたので、飴をあげる。昔の中国でも外国人に興味はあるが、あまり近づかず遠巻きにして見ていることがよくあったが、彼らは正にそれである。漸く一番小さい子が恐る恐るやって来て、飴を受け取る。舐めたものかかなり悩んで口に入れる。美味しかったようで、次々に子供が取りに来る。何とも懐かしいと言うか、昔のことを思い出させる光景だ。

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魚民の村も通った。何処の家も高床式でその下にボートが停められている。自家用車だ。小さい子供も遊びに行くのか、器用にボートを操り、進んでいる。家の中の子供は一様に笑顔で手を振る。昔自分が線路脇で行き過ぎる電車に毎回手を振ったのを思い出す。何であんなに手を振ったのか?行きと同じように湖の真ん中を通り、細い川に入り、戻って行く。ぽつぽつと雨が落ちてきた。さあ降るぞ、と思った時、ボートが船着場に着いた。TAMが笑っていた。

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ミャンマー紀行2003(12)ヘーホー 生きているパゴダ

5.シャン州
(1)ヘーホーへ

TTに別れを告げて、パガン空港内へ。今回は昨日の経験があったので、慌てることも無い。順調に飛び立ち、30分ほどでマンダレー着。ここで3人の乗客を残して全員が降りてしまう。客室乗務員の男女2人ずつと合わせて7人が機内に取り残された。こんな経験も初めてだ。取り敢えず大人しく待っていたが、誰も乗ってこないし、出発するというアナウンスもない。仕方なく、いや好奇心で飛行機から外に降りてみる。こんなことも普通なら無いこと。

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飛行場の周りを見渡してみても、本当に何も無い。ただ良い天気が続いている。マンダレー空港は最近新しく出来たばかりとかで、ヤンゴンの小さな空港より余程国際空港らしいと聞いていたが、確かに建物は多少立派であり、滑走路もきれいに見える。しかしなぜここに停まったのか。

 

マンダレーはミャンマー最後の王朝があった場所で、現在でもヤンゴンに次ぐ第二の都市。また商業の中心地としても有名で、茶葉の集積地でもあるという。近年は雲南省から陸路つたいに、または空路チェンマイあたりから流れ込む中国商人が多く、投資も活発で、街は急速に中国化しているとのこと。空港が新しくなったのもそうした商業的な勢いのお陰のようだ。

 

40分ほど待っていたら、漸く乗客が乗り込んできて、出発した。ほぼ満席になる。因みに席は自由。最初のヤンゴンーパガン区間だけは指定されているが、後はいい加減なものだ。また台湾人の団体が乗り込んできた。どうやらミャンマー旅行は台湾でブームなのではないかと思う。

 

僅か30分ほどでヘーホー空港に着陸。ここはマンダレー以上に本当に何も無い。周りはパガンと異なり、畑と田んぼのみ。小さなターミナルに入ると行き成り男性が声を掛けてきた。私の名前と今日のガイドの名前を知っていたので、彼の指示に従う。後で分かったことにはこの空港ではガイドが空港内に入れないため、ガイドは空港職員に案内を頼むのだという。

 

空港の門の所にその女性は立って待っていた。名前はティンエーマー(以下TAM)。非常に小柄で、頬っぺたが日焼けしている。可愛らしくてまるでアルプスの少女ハイジだ。彼女はS氏が以前農業調査でシャン州を訪れた際、知り合った非常に優秀な女性ガイドだと聞いている。

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彼女に促されて、車のある場所まで歩く。並木道である。とても気持ちの良い風が吹きぬけていく。心が何故かホッとするような道である。『朝まで雨でしたから』とTEMは言う。雨季であるこの季節にシャン州で雨に逢わないことは大変な幸運であるらしい。この道から見える建物は以前の空港ターミナルであるが、1942年に日本軍が建設したものと聞いて驚く。

 

(2)インレー湖

車はしばらくは田んぼの間を行き、やがて山道を走る。途中で鉄道の線路の横を通る。この鉄道はパガンとタウンジーの間を走る線であるが、ヤンゴンからだとターズィ乗り換えとなるため、かなり不便であり、皆バスを使うという。バスでもヤンゴンータウンジーは17-8時間を要するらしい。我々の車の前をヤンゴンからのバスが走っていたが、TAMの話では、この時間にここを走っているということは数時間遅れているとのこと。我々は飛行機で簡単にやってくるが、地元の人々にとってヤンゴンはとんでもなく遠いところなのである。

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ローカルバスも走っている。日本でいうところのバスには大抵ドアが無く、一回り小さい1トントラックの少し大きいやつは、後ろの乗り込み口に大抵何人かの若者がぶら下っている。あの状態のままこの悪路を何時間もぶら下っていたら、私なら振り落とされて、死んでしまいそうだ。この辺り、殆ど車が走っていない。ミャンマーの地方ではまだ車両が大幅に不足している。

 

我々は1時間ほどして、目的地のニャウンシェに近づく。ここはインレー湖の玄関口であるが、やはり回りは田んぼである。TAMが車を停める。見るとパゴダがある。パゴダは昨日山ほど見たと言おうとしたが、そこはシュエヤンウェ僧院という19世紀に建てられた木造の僧院であり、多くの小坊主が共同生活をしていた。正に日本でいう畳一畳の生活空間だ。彼らは丁度ご飯を食べた後のようで皆寛いでいたが、中には5-6歳の子もいて、朝は托鉢、その後勉強、午後は自習が課せられているという。TAMによれば、この辺りで食べる物に困った家の男の子はここに引き取られ、育てられるという。『これがミャンマーです』と彼女は誇るでもなく、悲しむでもなく、淡々と解説する。ミャンマーのセーフティネットである。

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隣のパゴダには、数百体の非常に小さな仏像が、建物の回廊の壁に開けられた小さな穴に納められている。窓には西洋式の飾り窓があり、1870年代には既に西洋の影響を受けていたことがよく分かる。ミャンマー最後の王ティボーの時代に建立されたこのパゴダを見れば、マンダレーでパゴダを見る必要はないとのこと。シャン州にも多くの歴史がありそうだ。

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ミャンマー紀行2003(11)パガン 子供たちに思う

(5)夕日を見る

パガンの夕日は非常に有名である。雨季の現在でも雨が少ないパガンでは、多くの夕暮れ時に夕日が見られるようだ。『何処から夕日を見たいか?パゴダの上?河の船の上?河辺?それとも』TTが聞いてくる。午前中パゴダに登った経験からすると、高所恐怖症の私は、必然的に河辺を選択する。

 

オールドパガンにあるエーヤワディー川の河畔、ブーパヤーパゴダの横に座る。川風が実に気持ちよい。地元の人も夕涼みがてら、大勢出て来ている。下には船着場があり、そこから船に乗れるという。FEC5。しかしここに座ってしまえば、もう動く気にはなれない。下は川が良く見え、前はきれいに山並みが見える。十分だ。そしてひたすら長閑。もうせこせこする気にはなれない。そのまま40分ほどの間、じわじわと夕日が沈むのを無言で眺める。

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この時の気持ちを表現することはとても難しい。全てが止まっていた、いや、全てが極めてゆっくり流れ、体がじわっと熱くなる。太陽が大きいとか、真っ赤とか言う感想は無い。ただ静かに、ゆっくりと落ちて行くのみ。対岸でするすると煙がたなびく。焼畑を行っているのか?

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夕日が沈み切ると無言でホテルに帰った。夕日の余韻がかなり体に残っていた。ガイドのTTも帰っていった。その夜、夕飯を食べる気にもなれず、今朝の早起きの影響、そしてパゴダでの出来事が頭を巡る中、8時には寝てしまった。幸せとはこんな状態のことかなと思った。

 

(6)朝のパゴダ

翌朝は6時前に目が覚めた。外に出てみたが、本日は曇りのようで朝日は見えない。全室バンガロータイプのこのホテルは非常にゆったりとした作りとなっており、庭も広い。散歩したいという気分が出る。S氏がこのホテルをわざわざ勧めて予約してくれた理由が分かる。

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夕飯を食べていなかったので、腹が減っていた。朝ごはんはパンとコーヒーといった洋食。隣の台湾人団体には当然のようにお粥などが出されている。私は粥も食べたかったな。久しぶりに台湾語を聞く。ガイドのミャンマー人男性は中国系。台湾語、北京語などが出来る。

 

椰子の木の間から子供が数人見え隠れしている。団体のホテル出発時間は朝7時前ということを知っていて、土産物を売りに来ている。朝早くからの働き者、というイメージではなく、遊びに来たついでに、もし物が売れたら嬉しいな、という雰囲気が和ませてくれる。皆でじゃれながら遊んでいる。

 

食後散歩を続ける。子供が入り口の外から手招きする。皆シャンバックを肩から掛けて、ロンジーではなく、普通のズボンを履いている。近づいてみると『ボンボン、ボンボン』と言いながら、口に手をやる。どうやら飴をくれと言っているのだなと分かる。S氏から子供に会ったら飴をやるとよいという話を聞いていたので、私も飴を持参しており、1人に1つずつあげる。年嵩の(と言っても10歳以下か?)子が袋ごとくれと言う。首を振ると脇から小さい子が貰っていないと悲しそうな顔を出す。渡し損ねたと慌ててあげると嬉しそう。気が付けば、彼は2つ目をせしめていたのである。やはり観光客慣れした子供たちは逞しい。

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ホテルの前の道を歩いて行く。周りは民家が少しあるのみ。砂漠とはいわないが、荒野を歩いて行く感じ。少し小高いところから朝のパゴダを拝む。相変わらず物静かに佇んでいる。子供が後ろを2人着いて来ていた。彼らは英語の単語を幾つか知っており、一生懸命話そうとするが意味は全く分からない。外国人との接触の中から、言葉を覚えていく過程なのだろうか。彼らは私に一体何を見ているのだろうか?単なる遊び相手と思っているのか?それとも明るい未来を見ているのだろうか?いや、そんな難しことは考えず、その日を生きているだけなのだろう。

 

何と雨が降り始めたので、ホテルに戻る。丁度団体が例の『九州産交』バスに乗るところで、彼ら2人も走って仕事に戻っていく。10人ぐらいの子供が団体を取り囲む。中には煩がって彼を追い出そうとする人もいる。ホテルの人も形式的に彼らを外へ押し出す。しかし決して完全を期さない。彼らは擦り抜けてまたやって来る。台湾人の年寄りは、その姿を見て何かを買ってやっている。恐らくは必要の無いその土産を買う真意は、昔の自分の姿を思い出しているのだろうか?この国では、施し・慈悲といった言葉が極めて自然である。

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空港まで僅か15分で到着してしまう。荒涼としたパガンのパゴダの中を走り抜ける気分は、幸せのようでもあり、少し物悲しいようでもあり、何とも複雑である。自転車に乗る観光客、西洋人が多い。一番安い自転車を買うと7,000Kだそうだ。TTに5,000K、運転手にも2,000Kのチップを渡す。これで自転車が買える。どう見ても多過ぎるとTTはかなり恐縮していた。それでもこれが私のその時の自然な気持ち?であった。因みにガイド料は1日US$20で何処でも一律である。空港の待合室から外を眺める。青い空が広がる。このまま時が止まってくれれば、と思うが、しかしずっと止まっていたら、果たして心は耐えられるだろうか。

 

ミャンマー紀行2003(10)パガン 漆工房で悩む

(4)漆工場
取り敢えず暑いので、屋内の漆工場の見学に向かう。金箔をふんだんに使った絵、黒を基調とした漆の椀などを器用に作っている。非常に根気の要る作業だ。特に私が足を止めたのは、馬の尻尾の毛を使って、1つ1つ織り込んで器を作っている女性の前である。日に1つか2つしか出来ないであろうその作業を、彼女は何年やっているのか?何か楽しいと思うことはあるのか?更に彼女が作った器の原型を塗り固め、漆を塗って1週間後に初めて商品となる。我々のように日々時間に追われる人間にとっては、気の遠くなるような作業だ。

 

その馬の尻尾の毛を使った椀(4重に重ねられる菓子仕入れ)を買いたいと思い、工房に隣接した売り場へ。値段を聞くとUS$15だと言う。この値段はミャンマーの物価からすれば極めて高い。直ぐ現地の物価に馴染んでしまう私は即座にUS$5に値切ってしまう。相手の女性は全く話しにならないと横を向いたが、その対応が中国的であった為、私も少し粘ってみた。最終的にUS$7で決着。しかし冷静に考えてみるとこれを作った女性の作業は果てしも無いもの。それをたったUS$7で買ってよいのだろうか?売り手の女性と責任者の女性もニコニコ笑って、お茶とラペトゥを勧めてくるが、本当にこれでよいのか、考えさせられる。

 

ここパガンは観光地である。雨も少なく耕地も少ない。収入の多くを観光客に頼っている。しかし今年(2003年)はイラク戦争、SARSと続き、日本人は殆ど来ない。ヨーロッパ人など外国人もあまり来ない。何処のパゴダでも観光客相手の商売はあがったり、である。若者、子供が一生懸命に土産物を勧めてくるが、私はこれからシャン州にお茶を買いに行く身。不要なものを買っても持っていけない。漆工場も経営が苦しいに違いない。そんな中たった1つしか買わない旅行者である私が値切ってしまったことに、少しずつ罪悪感を覚える。

 

午後もパゴダ巡りをした。兎に角パゴダの総数は2,000以上と言われている。主なものを見るだけでも1日では無理である。オールドパガンより南下しミンガバー村を通過して直ぐにマヌーハ、ナンパヤー両寺院がある。何れもアノーヤター王の捕虜となり、連行されてきたモン族の王、マヌーハが1059年頃に建立したと言われている。マヌーハ寺院は何と言っても涅槃仏である。非常に大きな涅槃仏が狭い建物の中に窮屈そうに横たわっている。これは幽閉されたマヌーハ王の心境を表しているといわれているようだ。しかしガイドブックにもあるように、涅槃仏を下から見ると怒っているように見え、横から見ると微笑んでいるように見えるのは確かである。マヌーハ王の本当の心境は一体どこにあるのだろうか?

 

隣のナンパヤー寺院には、柱に素晴らしい彫刻が施されているという。内部は非常に暗く、採光も考えられていない。一説ではここは幽閉されたマヌーハの住居であった。建物の真ん中辺りに四本の柱があり、この柱の表面に花を手にしたブラフマーが描かれているのだが、勿論暗くてよくは見えない。この壁画のお守をしている?老婆が懐中電灯で照らしてくれる。この老婆の非常に物静かな、暗い、何かを憂いて、こちらを覗き込む表情が忘れられない。

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マヌーハ王の国、トタン国は上部座仏教(小乗仏教)を信奉し、文字を持ち、仏典も多数所持していたようだ。しかしパガンのマヌーハ、ナンパヤー寺院には、ヒンドゥー教の影響と思われる壁画などもあり、王がヒンドゥー教徒であったとの話もある。これは一体何を意味しているのだろうか?

 

再び木陰の涼しいところでTTと話す。教育問題。彼女が学生の頃は、学校に行っている子供は少なく、1家族の子供の数も非常に多かった。最近やっと家族計画が奨励されてきたが、この辺りはやはり無計画に子供を作る。その子供たちには仕事が無く、物売りになるしかない。TTの子供は1人であり、教育にはお金を掛けているという。同時にこの辺りの子供も何とかしなければいけないが、何ともならないのが悔しいともいう。問題意識の高い女性である。

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1975年にパガンで大地震があった。この時多くのパゴダが被害を受けたが、民家の被害は少なかったという。その理由を見に行った。民家は今でも多くが、竹で出来た高床式のものである。竹製は極めて柔軟性が高く、地震の揺れに対応できる。この知恵が何とか日本に応用できないものかと思う。あれだけ地震の多い日本で、画期的な地震対応住宅が出てこないのは、気候のせいなのだろうか?竹も沢山あるので、ぜひ日本に竹の家を、と思ってしまう。

 

ミャンマー紀行2003(9)パガン パゴダの群れ

(3)パゴダの群れ
マーケットでまったりした後は、ニァゥンウーの町を抜けていく。すると直ぐに遺跡群が広がる大きな平原がある。パガンは世界の3大仏教遺跡と言われるが、カンボジアのアンコールワットやインドネシアのボルブドールのように無数の岩石を円錐状に積み上げた遺跡とは明らかに違っている。パガン遺跡は最盛期5,000(現存するのは2,000という)と言われる小型の仏塔が点在するが、威圧感はあまり無い。

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パガンを代表するシュエジーゴンパゴダが見えてくる。シュエは金を意味すると、ヤンゴンのシュエダゴンパゴダで教わったばかり。パガン王朝の創設者、アノーヤター王が建設を開始したが、規模が大き過ぎたため、完成したのは次の王の時代であったと言う。大きくて立派な黄金の仏塔が見える。中は広くて、ひんやりしている。裏庭に出ると良い風が吹いている。伽藍の辺りには、思い思いに座り込んで涼を取っている地元の人々が居る。私もTTを促し、大きな木の下の椅子に掛けてみる。非常に爽やかで、伸びやかな気分になる。

 

TTは47歳で、マンダレーの大学卒。15歳の女の子が一人居るお母さん。ご主人は教師。ガイド歴は長く、非常にしっかりしている。パガンの生まれで、以前は遺跡のある村に住んでいたが、10年前に政府の指示で強制的に移住させられた。新しい家は皆ほぼ同じ大きさで公平に配分されたと言う。中国福建省の武夷山も世界遺産に認定された際、茶農家が全て山から追い出され、政府の用意した村に移った話を聞いたことがあるが、TTの村の強制移住の理由は何だったんだろうか。

今年はイラク戦争、SARS等の影響でヨーロッパ人観光客もあまり来ないので、仕事が少ないとぼやく。日本人客も年々減っていると言う。その割には、今日も明日も日本人をガイドすると言う。これからは中国人客が沢山来るよ、と慰めると目を輝かせていたのが、印象的。

 

次にティーローミンロー寺院へ。今回行ったパゴダの中で唯一上に登ることができたところだ。他のパゴダも以前は登れたようだが、最近は崩れ落ちる危険があり、政府が規制している。上り口には土産物を売る店の子供が居て、懐中電灯で階段を照らしてくれる。上に上がるとパガンが一望出来る。日差しは無く涼しい風が吹いてくる。遺産に触れている感じがする。

 

サラバー門を潜って、オールドパガンへ。サラバー門は9世紀にパガン防御の為に築かれた城壁の名残。何となく、メキシコ辺りの遺跡を思わせる作りだが。どっしりとした重量感のあるダマヤンジー寺院へ向かう。五層の基壇は全て方形でピラミッドのように見える。父と兄を殺し、第5代の王位に着いたナラートゥ王が建設を開始したが、途中で殺されてしまい、その後荒れ果てたと伝えられる、いわく付きの寺院である。暗い伝説と美しい寺院、何となく深い思いに駆られる。

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サラバー門の城壁の外側にパガンで最も有名なアーナンダ寺院がある。シンメトリックな構造で白色の非常に美しい寺院である。第3代チャンスィッター王により1091年に建立。正方形の大伽藍があり、中央の塔の高さは50m。四方に4体の仏像が安置され、南北の2体が当時のまま。真下から眺めると非常に厳しい表情に見えるが、少し離れて見ると微笑んでいる、何とも不思議な仏像である。1975年の地震でかなりの被害があったが、現在はほぼ修復されている。

 

入り口に子供が何人かいて、観光客に土産物を売る。殆どの子供は手を振ると行ってしまうが、中に一人小さな女の子がいて、きれいな服を着ており、絵葉書を持って着いて来る。ついて来なくていいよと手を振ると、幼い口調で一生懸命に『あとで、あとで』と日本語で言うのには参った。恐らくは多くの日本人が彼女に向かって『要らない』と言えずに、この言葉を口にするうちに覚えたものかと思われるが、何とも言えない悲しい、儚い気分になる。

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昼はTTと2人、エーヤワディー川の辺のレストランへ行く。非常に眺めの良い、半分屋外の気持ちの良い場所だ。西洋人が何組かいるのみ。中に1組家族連れがいる。こんな所に小学生ぐらいの子供を連れて来れば、とてもいい経験になり、彼らの人生に大きな未来が開けるような気がしたが、それは親のエゴなのだろうか。

食事はミャンマー料理。鶏肉と魚、空心菜と豆などのフルコース。これがまた美味い。残さないようにと一生懸命食べる。どう考えても食べ過ぎになるまで食べ続ける。これで何と2,200Kとは信じられない。ここパガンではガイドの食事は無料とのこと。驚くばかりである。川の向こう遥か遠くにポッパ山が見える。ここから車で5時間とのことであるが、非常に自然が豊かな上に、山からパガンを見渡せ、夕日が非常にきれいに見えると聞く。次回は是非とも行ってみたい。

本日宿泊するカツマディ・ダイナスティーホテルにチェックイン。ホテルはバンガロー形式で部屋の前に椅子があり、広い庭が満喫できる。実にゆったりした気分になれるホテルである。泊り客は他に台湾人の団体が10数人のみか?因みに彼らは私の車の前をバスで走っていたが、そのバスには何と『九州産交』と書いてある。勿論中古車で日本から輸入されたものだが、『九州産交』はこの度発足した産業再生機構の支援先第1号に認定された企業。まさか台湾人もそんなことは知るまい。

 

しばらく休んで、午後3時に待ち合わせのロビーに行く。外は非常に暑い。ここパガンは年間を通して雨が少なく、乾燥している。現在は涼しい方と言われたが、それでも暑い。TTが午後の出発をもっと遅くしようとしたのは頷ける。