「ミャンマー」カテゴリーアーカイブ

懐かしのミャンマーを行く2012(6)ビンダヤ ラペソー

3.ビンダヤ  (1)市場のランチ

ビンダヤへ着いた。ビンダヤへは過去3回来ている懐かしの地。ちょうど昼時であり、市場へ入って行く。初めてこの市場へ来て、TAMから「食べろ」と言われた豆腐。あのおいしさが忘れられず、今日も豆腐を賞味する。

黄色い豆腐、食べ方が色々あることを知る。豆腐にキャベツを乗せ、たれをつけると絶品になる。豆腐を揚げて、そこにたれを付けるものもある。また豆腐を揚げてポテトチップスのようにしたものも美味い。

私があまりに美味い、というものだから、店のオジサンとおばさんも笑顔になる。こんな時が本当に幸せを感じられる時。決して豪華な料理も出もなく、珍品でもない、普通の生活の中に喜びがある。

この市場、8年前と何ら変わっていない。ミャンマーの変化など一切感じられない。漢方薬を売る店は以前同様、薬を煎じて瓶に入れているし、乾物の屋の店先には僅かばかりの茶葉が置かれている。

ホテルへ行く。ホテルは前回と変わっていた。新しく家族経営のホテルが出来ており、清潔で愛想も良かった。ネット小屋が作られており、ネット可能とのことだったが、やはり全く繋がらなかった。おまけにここビンダヤでは、何と携帯のアンテナが立たなかった。TAMも仕方ない、といった表情。昔と変わらないということはそういうことだ。今はそれを満喫しよう、という気分になる。

(2)マイクロファイナンス

本日は雨模様。山道を歩くのは大変だということで、お茶の村へ行くのは明日にする。代わりに車で行けるビンダヤの村を訪問。以前も行ったことがある紙工場へ行く。ビンダヤには伝統的に上質の和紙?を作る家内工業がある。今では傘などを作っているのだが、元々はアヘンなどを包むために作られていたと推測できる。勿論村人は誰一人そのことには触れないが。

村で手広く工場をやっている家を訪ねた。先ずお茶が出る。ミャンマー緑茶。そして茶菓子として、納豆を焼いた煎餅が出る。これがなかなか香ばしい。ポテトチップスもここの特産品だ。

工場を経営する夫婦と話していると、何とここの工場拡張に際して、マイクロファイナンスを活用したと聞き、驚く。マイクロファイナンスはバングラディシュで有名となった小規模ローン。独自の返済システムで貧しい人々にも資金が回るようにし、自立して個人事業が出来るようにした仕組み。今やミャンマーの田舎にもこの仕組みが導入され、人々が活用しているというのだ。

夫婦によれば、日本円で5万円程度を低利で借り、毎月少額を返し、工場を大きく出来た(周辺の小規模工場を併合)という。手続きも簡単で、職員が村へ来て説明し、返済資金の回収もしてくれたらしい。非常に便利であり、称賛していた。ただ後日他の村で聞くと、手続きが面倒、返済を遠くまでしに行った、など、反対の意見も聞かれ、まだまだ途上なのかなと思われた。

(3)焼き物と子供達

もう一つの村では焼き物などを作っているということで訪ねてみた。ところが既に村では殆ど作られておらず、完全に空振り。7年の間に大きな変化が見られた。TAMが一軒の家に入り込む。情報収集か。

中では子供達が数人遊んでいたが、突然の来訪者に少し驚き、また興味津々の様子。この子供たち、年齢もバラバラで、年長者を中心に遊んでいる。私が子供の頃まで日本でも見られた風景、かなり懐かしい。

一番の年長者、14歳の女の子が促されて轆轤を回し始めた。小さい頃、習ったらしい。家の中には今でも焼き物を作る道具はあり、頼まれれば作るようだ。みんな興味を持ってその動作を眺める。そして出来た物をみて、大声で笑う。何とも子供らしい、と言える。この村の男たちも出稼ぎに行っているようだ。お父さんがいない、でも仲間はいる、うーん。

表に出てみんなで記念写真を撮る。子供達はとてもいい表情をしている。少しはにかみながらも、目が輝いている。今回の旅のベストショットかもしれない。この村を後にするのは少し残念な気がした。

街に戻り、お寺へ行く。今回ヤンゴンでは全く行かなかったので久しぶり。ところがそこに住まう少年僧達の掃除を見て、何だか少しがっかり。目の輝きはなく、一生懸命さもなかった。田舎が少しずつ街になり、街が少しずつ都市になる。そして少しずつ残念な状況が起こる。これは仕方がないことか。

6月25日(月)   (4)ビンダヤ山中のラペソー

昨晩も10時間以上寝た。日本やタイで10時間以上寝ることはこの歳になると厳しいが、ミャンマーの田舎では全く問題ない。何と言ってもネットが繋がらないことがストレスを減らしている。朝から散歩。ビンダヤの大きな池の周囲を歩く。実にいい風景だ。涼しい。朝ごはんはチャーハンと目玉焼き。これも素朴でよい。

今日は過去3回行った、ビンダヤ山中の茶農家へ行く。既に慣れた山道、洞窟寺院の横から、ビンダヤの街を眼下に見ながら上る。快適。歩くこと30分、もう村に着いた。そんなに近かっただろうか、でも見覚えのある村。

一軒の茶農家に入る。そうだ、ここは7年前に来たところだ。以前は暗かった室内が何となく明るい。テレビを見ている。前は電気が来ていただろうか。おばさんが2人でおしゃべりしていた。ラペソーと呼ばれる食べるお茶を作っている様子はない。お茶が出て、ラペソーも出てきた。7年前より美味しい気がする。ラペソーと混ぜる塩の効いた煎り豆が美味い。全体的に余裕が感じられる。凄く豊かになった訳ではないが、何故だろうか。ご主人はいない。

他の茶農家も2-3軒訪ねてみた。こちらでは数人で茶葉の選別、茶作りが行われていた。みんな何となく明るい。一部簡単な機械も導入されており、多少進化した感じだが、基本的には手作業。効率が良いとは決して言えないが、そこには日々の営みが感じられた。

茶畑は閑散としていた。恐らくはもっと山奥で栽培しているのだろうが、この付近ではもうあまり育てていないらしい。ラペソーの値段は7年前とそう変わらない。ずーっと茶を育てていても、豊かにはならない。そんな声が聞こえた。村の家に衛星放送のアンテナが立っていた。電気が来る村では現金収入を必要としていた。ラペソーはミャンマー人の好物だが、今後どうなって行くのだろうか。ちょっと心配だ。





懐かしのミャンマーを行く2012(5)のろのろ行くミャンマーの鉄道

(10)マッサージと優雅でライトな夕食

ボートトリップを終わり、陸に上がる。直ぐそこには倉庫があり、先程見たトマトが溢れていた。また青く細長いナスも印象的。湖で取れた野菜がここで陸揚げされ、選別されて、市場へ運ばれていく。

歩いていると何だかいい匂いがした。見ると何とホットケーキを焼いている。8つもフライパンが並び、どんどん焼かれていく。TAMが2つ買ってくれ、食べたが、なかなか美味しい。甘みは蜂蜜か。これはどこの文化の輸入品だろうか。まさかケーキもミャンマー発ではないだろう。

TAMは疲れたのでマッサージへ行くという。私も着いて行く。普通の民家のような所に「マッサージ」の表示があった。中へ入ると非常にシンプル。床に寝ていると、マッサージが始まる。最初はおばさんが、オイルのような物を付けて、背中を揉む。少ししたら男性が出て来て、首や背中を強く揉む。これはかなり効く。

このマッサージはミャンマーのこの地方で古くから伝わる手法だというが、薬草のようなものを塗り、体になじませる。意外と強烈なのか、少し疲れを覚える。小屋の中には「マッサージの後はシャワーに入らないで」との注意書きが英語と日本語で張られていた。マッサージ後、体がほてり、毒素を排出するが、シャワーはそれを妨げるというのが理由。確かにマッサージ後は体が何となく火照り、眠気が出る。

帰り道で、串焼きの屋台が出ていた。何となく食べたいなと思うと、すかさずTAMが「食べよう」という。そして肉や野菜を注文すると、橋を渡って立派なホテルへ向かう。これは何だ。何と、注文した料理はこのホテルの前庭で食べることができることになっていた。屋台の串焼きをホテルのテーブルで食べる、信じられない環境だ。


   

まだ時間的には夕陽が差す。こんな時間に実に優雅な夕飯を食べることになる。そして料金は屋台並み、有り得ない気分だ。こんなことがあるから、ミャンマーの旅は楽しいし、止められない。

6月24日(日)   (11)爽快な水シャワー

昨晩も夕食が早く、そして眠気が早く襲い、直ぐに寝てしまった。昨日のマッサージの影響もあったかもしれない。いい睡眠だった。そして朝起きると直ぐにシャワーを浴びる。ところが、お湯がなかなか出ない。朝からシャワーを浴びる習慣などないのかもしれない。仕方なく、水で浴びる。

シャン州はヤンゴンとは違い、比較的涼しい。その中で朝のシャワーは寒いかと思ったが、意外と暖かい。そして気持ち良い。無理してお湯を浴びる必要はなかった。気分よく朝食へ向かう。

朝食は食パンにオムレツ、そしてTAMから回ってきたかき揚げ?と赤米。コーヒー、ジュース、フルーツと多彩。何だか変な取り合わせに思えたが、朝から腹一杯食う。昨晩の食事が早いと、全てが良い感じで回ることを知る。

そしてチェックアウト。今日は駅へ向かう。時間があるので市場見学。ここの市場は威勢の良い魚売りのお姉さんなどもおり、なかなか面白い。顔にタナカを塗った女性たちが懸命に売っている姿に好感が持てる。ヤンゴンとはすべてが違う。

(12)列車の旅

TAMの粋なアレンジで初めてミャンマーで鉄道に乗る。ミャンマーの鉄道は非常に時間がかかると聞いていたが、果たしてどうなのだろうか。駅へ行くと、実にこじんまりした駅舎が見える。そこへ頭に荷物を載せた乗客がどんどん集まって来ていた。

実は我々は先程の市場へ行く前に一度駅に寄り、チケットを購入していた。1時間も前に何故行くのか不思議だったが、列車が出発した時に分かった。何と外国人が2人、ベンチに向かって我々の列車を恨めしそうに眺めていたのだ。TAMによると、鉄道チケットは30分前には発売停止、身分証のチェックなどもある。あの外国人は自国の感覚で20分前に来て乗れなかったようだ。それがミャンマーの鉄道。


  

駅のホームでは様々な人々が待っていた。老人から子供まで、そして大量の荷物が積みこまれていた。ここニャウンシュエが始発駅で、ヤンゴンまでは何と30時間掛かるという。それは列車が動き出して直ぐに分かった。とにかくゆっくり走るのだ。歩いている人の写真がバッチリ取れるほどゆっくり走るのだ。

車内の1等車は古いがなかなか快適。2等車は相当年季が入っていた。1等の乗客はあまりいないので、ゆったりとした旅となる。田園風景が広がる。牛が歩いている。速度がゆっくりということは車窓から外がゆっくり眺められる。ビジネスマンには耐えられないだろうが、悪くはない。

途中ヘーホー駅で停車。ここは空港のある場所の近く。乗り込んでくる乗客は少なく、直ぐに発車するのかと思いきや、一向に発車の気配がない。降りてホームを見ると、何と芋等の野菜を懸命に積み込んでいる。この列車が遅い理由はこれだった。これは貨物列車なのだ。そういえば乗客も大抵は大きな荷物を抱えており、その中身は野菜だったりする。ヤンゴンまで売りに行くのだろうか。

30分ほど停車してからゆっくりと出発。そして次のアンバンという駅で下車するまで僅か2駅を2時間以上掛かって進んだ。最後の方は流石に疲れてしまい、優雅な列車の旅とはとても言えない。TAMが2駅の旅を選んだのはそこを知り抜いていたから。流石名ガイド。

(13)石炭炭鉱

アンバンの駅には車が待っていた。恐らくは車の方が何倍も速く着いたことだろう。あくまでも列車の経験を積むための乗車だった。アンバンの駅は木造の質素な駅ではなく、コンクリートの立派な建物だった。この辺には何かあるのだろうか。周囲は相変わらず、田園風景、理解に苦しむ。

車でビンダヤへ向かう。途中でTAMが「ちょっと寄りましょう」という。こういう時は素直に従う。必ず面白いことがあると経験から判断できる。しかし一見何もない草原を降りていく。牛飼いの少年と何か話した後、更に進む。一体何があるのか。

粗末な小屋が見えてきた。中に人はいなかった。更に行くと、ようやく人がいた。TAMが話し掛けると、首を振っている。どういうことだろうか。その女性に着いて近くへ行くと、地面が掘り返され、黒い物が出ていた。

「石炭です」とTAM。え、こんな平地で石炭が出るのか。しかし規模は実に小さいし、完全な手掘りだ。昔中国の河北省あたりで見た小規模炭坑と比べても、何とも小さい。しかも今は作業している様子もない。聞けば、最近は石炭価格が下がり、採算が合わないため、掘り出していない。男たちは北部の炭鉱へ出稼ぎに行ってしまい、残った者がこの地で見張り番をしているらしい。

それにしても、ミャンマーは資源宝庫だとは聞いていたが、こんな普通の場所でも掘れば石炭が出るとは。付近では水牛を使った伝統的な農業が展開されていた。ミャンマーの奥深さが感じられる光景だった。そういう意味ではミャンマーは楽園、かもしれない。

 

懐かしのミャンマーを行く2012(4)インレー湖ボートトリップで

6月23日(土)  (6)ボートトリップ

ミャンマーの田舎に来ると夜早く寝て、朝早く起きる。何とも健康的な生活となるが、その理由はネットが繋がらないことだろう。PCに向かう時間が短ければ、それだけよく眠れる、テレビや他の障害物が無ければ、そしてストレスが無ければ、ミャンマーの田舎は眠るのにちょうど良い場所なのである。

朝6時には散歩に出る。昨日行った川沿いは気持ちが良い。実に静かで落ち着いた空間がそこにある。船が浮かび、パゴダが向こうに見える。僧侶達は托鉢に歩く。ミャンマーらしい風景は既にヤンゴンでは消えかけているが、ここシャン州には確実に残っている。

朝食はクレープ。蜂蜜を掛けて食べたら、美味しかった。バナナとマンゴも食べ、満足。シンプルだが、いい朝食だった。新しいホテルは朝食も新しい。TAMは伝統的なシャンの朝食。味噌のような物をもち米に掛けて食べていた。これはこれでよい。

朝食後、インレー湖ボートトリップへ。8年前に一度ボートに乗り、日焼けで凄いことになったが、今日はそれほど暑くなさそう。細長いボートにTAMと2人乗り込む。そして懐かしい水上農園を見る。ちょうどトマトのシーズンなのか、トマトを取っている。湖自体も相変わらず雄大で景気が良い。例のインダー族の片足で舟を漕ぐ伝統も健在。

途中で船が数艘停まっている所があった。良く見ると漁師が取った魚を仲買人に売っている。所謂水上マーケットだった。昨晩から漁に出て、網を掛け、朝魚を売って仕事を終えるそうだ。何とも気の長い話だが、昔からこのような漁が繰り返されているのだろう。湖の素晴らしい風景と妙に馴染んでいた。

(7)インティエン遺跡を行く

かなり長い間ボートに乗り、ようやく湖が川となり、幅が狭くなり、家々が見え始める。人々の生活も丸見えだ。お寺もあり、村になってくる。そして到着地には既にボートが沢山停泊していた。多くの観光客が来るところらしいが、私は何も聞かされていない。私は全てをTAMのアレンジに委ねている。

先ずは市場へ行く。シャン州で開かれる5日に一度の市、今日はここで開かれているらしい。いつもの市場の風景がある。茶葉も売られている。ここで入手した緑茶茶葉は意外とおいしかった。

そしてお寺へ行く。少し回廊を上り、外へ出ると、何とそこには古いパゴダが沢山ある。比較的最近発見され、今少しずつ整備され始めたインティエンの遺跡だという。確かに長い間全く放置されているパゴダも多く、何となく可哀そうにも見えるが、200-300年前のパゴダが多いとのことだが、古びた様子がなかなか良い。

上に上ると今度は新しく修復された黄金のパゴダと古いパゴダが混在する。修復費用を負担する人が出るとそのパゴダが綺麗になるのだそうだ。そして寄付した者の名前がどこかに刻まれる。私も寄付して名前を刻もうかなどとも思ったが、以前TTMにビンダヤの洞窟寺院で戒められたのを思い出し止める。

寺院内では昼食が始まっており、お坊さんたちが片肌脱いで、豪快に食事をしていた。ちょっと迫力があった。男たちはお坊さんの給仕をしている。この仕草がどうにいっており、仏教国を感じさせる。女性は手出しが出来ない。

ゆるゆると下へ降りる。一体どれだけのパゴダが作られたのか、と思うほど、大量のパゴダだ。この地は今では発展から取り残されているが、ある時代には都であったのだろう。そうでなければ、これほどのパゴダは出来ない。

(8)インティエンの食べ物

そろそろボートへ戻るのかと思っていると、川の上流へ。そこは小さなダムになっていたが、その周辺では本当に昔ながらの生活が営まれていた。川で洗濯し、体を洗い、そして水を汲む。

我々が歩いていると、年配の女性が前に鍋を置いて座っていた。TAMが彼女に声を掛けると、彼女は立ち上がり、鍋に砂を敷き始めた。いぅたい何が始まるのかと見ていると、何とその砂鍋で大き目の煎餅を焼き始める。

そしてもっと驚いたことは、彼女は年配の女性ではなく、若い女性であり、その懐には赤ちゃんを抱えていた。彼女はここに座って煎餅を焼いてどれだけの収入になるのだろうか。赤ちゃんは生きていけるのだろうか、と余計な心配をしてしまった。何故かあの姿を見ると今でも涙が出そうで困る。TAMは一瞬にして彼女の状況を見抜き、さり気無く支援をしたのだと思う。その煎餅にはほんの少し砂が付いていたが、添加物などはまるでなく、実に実に自然な味がした。

更にボート近くへ戻ると、そこにはまるで日本のたこ焼きのような物が作られていた。食べてみるとタコは入っていなかったが、たこ焼きの外側に違いない。結構おいしいので幾つも抓まんでしまった。シャン州にはこのように日本の原型ではないかと思われる食べ物が沢山ある。いつの間にか市場は終わっていた。片付けのしている子供たち、その向こうには日本人の援助で出来たという学校がひっそりと建っていた。

(9)ボートで寄り道

水上レストランで昼食を取った。最近は観光用の立派なレストランがいくつかできている。店内はきれいでトイレもきれい。シャン州も観光用施設は進化してきている。ここで食べたのは何故かピザ。TAMが食べようというので食べたが、そういえば昨日もワイナリーでパスタ。シャン州で2日続けてイタリアンか。これも珍しいが、一つの変化。

そして8年前にも行った手造り繊維工場へ。水上に浮かぶ家屋は少し綺麗になっていたが、雰囲気は変わらない。相変わらず、相当古い機織り機で皆が懸命に織る。若い女性も年寄りも隔てなく仕事をしている。ここには定年はない。生きている限り、体が動く限り、働き、そして死んでいく、と聞き、人間の営みを感じる。生きがいとか遣り甲斐とか、考えれば考えるほど混乱してしまい、自分を見失う。シンプルライフ。

実は昨日はTTMの誕生日。何かプレゼントを買わねばと思い、TAMに選んでもらう。こういう物を選ぶのは全く自信が無いので助かる。結果、何にでも使えそうな布に決まる。SSにお土産が無いと僻むので、そちら用も購入。全てが手作りで価格は安い。有難いが、あの労働を見てしまうと、うーん。

ボートは真っ直ぐに帰らずに、寄り道する。今度はボートを作っている所で降りる。むくつけき男たちが、せっせと鉋を削っている。だが、一人が私に気が付き、船の模型を持ち出し、買えと迫る。ミャンマーではあまり強要されることが無いので驚く。断ると興味が無くなったとばかりに無視して作業に戻る。こんな所もあるのか。

ボートは元来た水の道を戻る。湖で生活する、大変なことも多いだろうが、何となく風情があり、好ましい。





懐かしのミャンマーを行く2012(3)変わるシャン、変わらないシャン

6月22日(金)  2.ニャウンシュエ   (1)空港

今日は朝からシャン州へ向かう。朝5時に起きて6時前にホテル出発。これは以前の3回とほぼ同じだ。TTMが送ってくれる。SSは韓国旅行の疲れか姿を見せない。空港も国内線は以前の古い空港。何となく懐かしい。

7年前はミャンマー航空、エアマンダレー、ヤンゴン航空などがほぼ一斉に6時台に出発した。恐ろしいのが、どの飛行機に乗ればよいかが全く分からないこと、そしてその行先は乗るまで分からないこと。外国人は胸に各会社のシールを張っていた。英語のアナウンスは国内線にはなかったのだ。当然ヤンゴンがこれだけ変われば、空港も変わっただろうと思うと、そうではなかった。国内線は相変わらず、搭乗機不明。イチイチ誰かに聞きに行かなければならない。ただ聞いた人は親切に答えてくれる、でも出発時間を正確に把握する人は少ない。

また昨日チケット貰った段階ではヘーホーに先に行くと言われた我がエアバガンのフライトだが、チェックインするとマンダレー→ヘーホーの順に変わっていた。慣れているからよいが、初めての外国人はビックリしてしまう。偉い人、政治家やお坊さんが乗ると、その人の行き先が優先されると聞いたが、今でもそうなのだろうか。ヤンゴン、マンダレー、バガン、ヘーホーのルートは巡回ルートで、必ず順番に回るので行先変更ではない。巡回経路が変わるだけ。でもね。

待合室の一角にお揃いのポロシャツを着た人々がいた。どこの団体かと訝しんだが、何と西ミャンマーで起こっているロヒンギャ族と仏教徒の抗争の医療の為に派遣される医師団らしい。この問題は、詳しくは分からないが、昨年訪れたミャンマー国境付近のバングラディシュで難民キャンプを訪れたことを思い出す。イスラムの圧力を恐れるミャンマー、これは一過性の問題ではないが、この件について、きちんと理解し、大局的に報道している日本のマスコミを知らない。

 

ほぼ定刻に我がエアバガンは搭乗となり、出発した。以前のプロペラ機ではなく、きれいなジェット機。客室乗務員の対応も極めてよく、英語もきれいに話す。朝食として出たパンとフルーツも美味しかった。サービスは向上している。だが、料金は国際線より高い。どうにかならないだろうか。

(2)ホテル

懐かしのヘーホー空港。ここもきれいになっていたが、大きな変化はなかった。出口を出ると懐かしい顔が待っていた。TAM、私のベストガイドだ。既に仕事というより友人だろう。そしてあの癒しの並木道も健在。空気が美味い、風が良い。車は観光用の数台しかない。ここは変わっていない。ヤンゴンではない。

早速空港近くのお馴染みレストランでシャンヌードを食べる。ウマい。何も変わっていない。何と驚いたことに7年前と料金も変わっていない。ミャンマーはヤンゴンだけが異常に発展し、他の地方は変わっていないことが分かる。車は本当に走っていない。時折、馬車が通り、バイクが通過する。ミャンマーの地方には車社会は到来していない。

ニャウンシュエに向かう。TAMはいつも何か新しい企画を持っている。今回は何と温泉の出る家に連れて行かれる。その付近は長距離トラックの休息所で、運転手が体を洗ったりしているらしい。新しい井戸を掘ったところ、温泉が出たと言うのだ。確かに昔インレー湖の近くで温泉に入った記憶があり、それほど意外でもない。だがまだ整備されている訳ではなく、地元の人が入るぐらい。何となくもったいない。

今日のお宿はニャウンシェエにあるゴールドスターという小さなモーテル。何となく居心地が良い空間。ちょっとリゾートな雰囲気。これで30ドルであれば、ホテル代はヤンゴンだけが高いと言うことが分かる。ただネットは繋がらない。

 (3)尼僧院

TAMが突然行こうと言う。きっと面白いことがあると思い、付いて行く。今日の乗り物は何と自転車。車は料金が高いので使わないのだろう。ミャンマーで初めて自転車に乗る。なかなか快適。車もあまり走っておらず、運転の心配もない。

街中と言っても、都会とは違い、ゆったりとしている。その中の1軒の前に停まる。ここは何だ。何と尼僧院だった。尼僧院と言えば、昨年インドのラダックで10日間泊めてもらったので、あまり抵抗感はない。

ちょうどお昼の時間で皆食事が終わり寛いでいた。そこへ突然闖入したのだが、快く受け入れてくれた。そして担当という女性が付き、中を案内してくれ、お茶を出し、我々の相手をしてくれる。この感覚、日本にあればなあ、と思う。日本ではお寺は近づき難い場所になっている。

ミャンマーではまだまだ恵まれない人々、特に女性が多くいる。そういう人々の駆け込める場所、として尼僧院がある。相当小さな子供から成人女性まで数十人が共同生活をしている。日本にもこのような場所があれば、子供を殺す親、虐待する親が少しは減るのではないかと思うが、それはその国の事情だろうか。静寂の中で暫しの時を過ごす。

(4)ワイナリー

更に自転車に乗り、郊外へ。TAMは意外と速く、どんどん進む。こちらは不慣れで一生懸命続く。ミャンマーで自転車レースか。面白い。街は小さいので直ぐに郊外へ出る。そして到着した所は、何とワイナリーだった。

ミャンマーでもワインを作るのか、それが率直な感想。ブドウは出来るので外国からワイン技術を持ち込んだようだ。自転車を入り口に停め、歩いて上がる。これが結構きつい。自転車漕ぎ過ぎだろうか。

小山の上からニャウシェエの街が一望できた。なかなかいい眺めだ。上にはレストランがあり、そこにはミャンマーの正装をしたミャンマー人が4人で昼からワインを飲んでいた。聞けば、本日街である銀行の支店がオープンし、そのセレモニーの帰りだと言う。それにしてもこの田舎でミャンマー人が正装してワインを飲んでいる、この光景は信じられない変化であった。

ワインの試飲をすることに。4種類のワインをグラスに少しずつ入れてくれ、ゆっくり飲む。個人的には赤ワインが飲み易かった。パスタとサラダを注文したが、凄いボリュームでビックリ。味はまあまあ。ミャンマーでイタリアンとは。

実は急に雨が降り出し、かなり強く降った。その中で飲むワインはまた格別な味がした。工場も見学したが、現在製造はしておらず、何も動いていなかった。輸出も検討しているが、これからとか。それでも確実に変化しているミャンマーが感じられる。

(5)ソーボア博物館とネットカフェ

自転車を漕いで、ホテルへ戻る途中、ソーボア博物館に寄る。ソーボアとは昔の藩主であり、ここは藩主の館である。流石に堅固な作りが見えるが、中は殆ど何もない。1960年代までに各地のソーボアは弾圧され、連れ去られた。ここのソーボアもその一人で、その後の消息は分からない。所持品も強奪され、最近少しずつ買い戻すなどして、展示品としているらしい。訪れる人は殆どいない。ミャンマーの負の部分が大きく見える。

ホテルへ戻り、ネットを繋ぐためにネットカフェに向かう。自転車に乗っていると気が付かなかったが、この街もパゴダが多い。そしてかなり立派だ。実に美しい形のパゴダを見て、ウットリ。またかなり古い建物の家が多い。木造建築でしっかりしている。何だか気持ちが良い。

ネットカフェへ行ったが、残念ながら繋がらなかった。WIFIは飛んでおり、お店のPCでは普通にキャッチできるのだが、私のPCには響かない。仕方なく、お店のPCでメールチェックだけして退散。他2軒を当たるも全く同じ状況。外国人が持ち込むPCは繋がらないことが多いという。何故であろうか。既に情報統制の時代は終わっているのに。

TAMにその旨告げると、最後の手段として、この街で最もおしゃれなレストランへ向かう。そこは川沿いにあり、いい感じだ。外国人が多く訪れるようで、値段も高い。ここから夕陽を眺めていると、何だかお茶が飲みたくなる。そしてネット接続にトライしたが、やはり駄目だった。ここでは普通の外国人はネットを問題なく繋いでいるようで、私のPCの問題かもしれない。横にある橋でもWIFIがキャッチできるらしく、何人かがスマホなどを動かしている。

その日の夜は街の小さなレストランでダイエットな夕食を取る。野菜炒めとご飯のみ。それでも十分と感じられるのがミャンマーの良いところ。勿論料金も安い。帰りに空を眺めるとやけに星がきれいだった。やはりミャンマーの田舎は変わっていない。






懐かしのミャンマーを行く2012(2)新しいヤンゴンを見る

(5)スートラベル

朝食が終わるとTTMが迎えに来た。歩いて数分で彼らの家に着く。以前のオフィスとはそう離れていないらしいが、ここが何処か結局わからない。全てはTTM主導で進む。今度の家(オフィス)も一軒家。車が停められる庭もあり、家の中も広い。

SSが眠そうにPCに向かっている。最初に会った時は確か19歳、では今は「25歳」といきなり答える。何だか計算が合わないが、永遠の25歳ということにしよう。このオフィスには何とWIFIが設置されていた。勿論信号が弱い時は繋がらないが、私のPCでやってみても繋がった。今やTTMとSSの仕事、旅行業、ガイド業はネットなしでは始まらない。時代は変わった。

携帯電話も頻繁に使う。以前はオフィスの電話兼Faxで何でもやっていたのに、隔世の感がある。ヤンゴンの人はみんな携帯を持っていると錯覚するほど、普及しているように見える。

私が彼らと連絡を取らなかった間、随分と色々なことがあった。リーマンショック、国内暴動、スーチーさんの復帰。国内暴動で日本人が打たれて亡くなった後、日本人だけが企業も個人も誰も来なくなった。日本語で商売しているミャンマー人にとっては致命的な打撃だっただろう。かなり苦労したようだが、その辺は敢えて語らない。

(5)ヤンゴン現地事情

ホテルへ戻り、着替えてから出掛ける。これまでは全てTTMかSSが付いてきて、何でもしてくれたが、これからは一人で行動しないといけない、と思い、敢えてアテンドを断る。だがヤンゴンの交通手段はバスかタクシー。バスに乗れるほどの知識はなく、先ずはタクシーに乗ってみる。初めての体験。ドキドキ。

ホテルの前のタクシーに声を掛け、「さくらタワー」と言うと「2000チャット」といわれて乗り込む。実に呆気ない。タクシーの旧式のトヨタ。きれいとは言えないが、悪くはない。ホテルからさくらタワーまで30分近く掛かった。結構遠いのだな、と初めて実感。そしてさくらタワーの周囲の車の多さにこれまた実感。ヤンゴンは実に車が増えた。


   

旅行会社の日本人Oさんを訪ねた。15年前からヤンゴンに住み、旅行業をやっているが、今年に入ってからの異常なまでの出張者の多さ、ホテルの異常な値上がり、これまでには考えられない。向かいにあるトレーダーズホテル、以前は1泊50ドルだったが、今では250ドルとか。流石に泊まる人が減ったので空いているらしいが、ホテル側は強気だ。

これまでのミャンマー旅行と言えば、戦争中にこの地で亡くなった日本兵を偲ぶ家族の慰問だとか、戦争でミャンマーに世話になった人々が恩返しに訪れるなどが主流だったが、最近はその人々が高齢化し、観光客は減っていた。今年のこの騒動で、観光客は更に激減した。ヤンゴンのホテルは不相応に高く、国内線の料金も国際線並みに高い。他のアジア諸国へのパッケージ旅行と比べて、全く見劣りするらしい。

ランチには近くのカフェでミャンマー人と結婚したIさんも参加してくれた。Iさんのご主人一家はミャンマーでは上流階級に属するようで、色々と面白い話が出て来た。中でも親族にスーチーさんの熱狂的支持者の女の子がおり、皆で止めても辞めないなど、今のミャンマーの現実そのものだ。スーチーさん、以前は人気が無かったが、昨今の西側との融和はスーチーさんが作り出し、国内改革もスーチーさんがやっていると信じる若者が出て来ている。これは初めて聞く衝撃的な事実だ。この盲目的な支援者が次の火種になりかねない、そういうことだろう。

その他、最近はやはり寿司を一家で食べに行くとか、カフェが流行っているとか、本当に現地情報を得ることが出来た。勿論現地に住む人々にとってミャンマーが良くなることを願ってはいるが、世の中そう簡単ではないことぐらい、十分承知といった雰囲気があり、だからこそ、日本の訳の分からないミャンマーブームなるものが一過性で終わることを危惧している。

(6)買い物

Oさん達と別れて、トレーダーズホテルの裏を歩く。新聞スタンドを何気なく見ると、ズラッと並んだ新聞の一面はどれもスーチーさんだった。7年前、「スーチー」という名前を囁くことさえ、公には憚れ、「あのおばさん」などと呼んでいたあの人が、今や堂々と新聞の一面だ。またちょうど彼女はヨーロッパ外遊中。24年ぶりにイギリスを訪れた所だったので、話題性は高かった。それにしてもミャンマーのマスコミは如何に変わったのか。以前は20年以上前の中国と同じく、リアルタイムの報道などなく、偉い人がどこかの国の大統領と会ったなどと言う内容を延々とやっていた。

先ずはヤンゴンの地図を手に入れることにした。だが本屋さんでもミャンマー語しかないと言う。もう1軒訪ねると、何とか英語版が見付かった。まだまだこの国は個人観光客の受け入れ態勢が無いような気がした。

そしてどうしてもミャンマー滞在中必要な物、それはサンダルだ。基本的にミャンマーでは靴を履かずにサンダルを履く。お寺へ行ったら必ず靴を脱ぐので、サンダルが便利だ。飛行機に乗る時もサンダル履きで乗る人がいる。私も以前やってみたが、案外気持ちが良い。そこそこいいサンダルを履かないと足ずれが起きて痛いので、探すがなかなか良いのが無い。ようやく3000チャットでいいのがあった。もう少し値切ればよかったと後悔したが、そのサンダルはかなり長持ちで今でも履いている。

ホテル前に戻ると雨が急に降りだす。どうしようかと思っているとタクシーが前を通りかかったので、乗り込む。この運転手は英語が出来た。それでも住所だけでは我がホテルは分からない。SSが書いてくれた地図を渡すとOKと言って走り出す。料金は2000チャットで前と同じ。

このタクシーは中国製。奇瑞のQQという小型車だ。何でも6000台ぐらい中国から入って来たらしい。運転手は日本車を買いたいが高い。先ずは中国製で儲けから考えるとのこと。ここヤンゴンではトヨタの中古車が圧倒的と思えるシェアを持っているが、最近は新興国の車が入り込んでいる。現代は既に相当数ある。タタも狙っている。

(7)ミャンマーの教育は

ホテルへ戻り、またスートラベルへ。TTMが是非会わせたい人がいると言うので出掛ける。Tさん、建設関係のお仕事をしており、既に定年退職。現在はヤンゴンに住み、ヤンゴン情報を発信すると同時に、学生支援のボランティアなどをしている。

昨今の日本でのミャンマー報道にはほとほと呆れていると言う。スーチーばかりを取り上げ、工業団地ばかりを取り上げる。何か違うだろうと、訪ねてくる記者にもいうのだが、一向に改まらない。ミャンマーを過大評価したり、改革はスーチーがやっていると言う間違った報道を平気でするマスコミに嫌気。毎日何種類ものミャンマー地元紙を読み、また実際の現地の人々と話し、その動静の細かい所を探り、真のミャンマーの動きを伝えている。

大学生の就学支援をしているが、最近大学を辞めてしまう子が増えている。折角奨学金を出したのにと、調べてみるとミャンマーの教育の荒廃が目に余る。先生が学校で物を教えない。勉強したい人は先生の私塾へ行く。この構造は先生の給与が少ない他の東南アジアでも聞いていたが、まさか大学まで。単位が取れず卒業できないため、専門学校などへ流れるらしい。

「豊富で安価、優秀な労働力」を謳い文句にするミャンマーの現実、本当に勉強したい人でお金があれば海外へ出ると言う。一般人の教育レベル低下が懸念される。同時に就学支援などの仕方も変えていかなければならない。この国はまだまだ問題山積だ。

(8)日本企業のミャンマー対応

夜は大学の後輩を紹介されていたので、会いに行く。インヤーレイクの湖畔に立つ瀟洒なレストラン、「オペラ」。ここは元々日本の大手商社の支店長宅だったとも聞く。こんな所へ来てしまってよいのかという雰囲気。中へ入るとキャンデルの火が鮮やかで、シックな感じ。ただ予約は見付からず、一番奥で待つ。約束の時間を過ぎても来ないのでおかしいと思っていると、あちらは別の場所で待っていた。後輩一人だと思っていたが、その上司も一緒だった。

その上司は以前上海勤務の経験があった。昨今のミャンマーブームで急に増員になり、ミャンマーへやって来て1か月。この組織では駐在員は従来後輩Mさん一人だったが、何でも今年3人を増員したとか。そんな急に増員するほど仕事はあるのか。

「毎日数組の日本からの視察を受けている」、今年に入ってからずっとそのような状態だそうだ。しかも日本から来る人々は殆どがミャンマー訪問初めてで、当然日本のマスコミ報道の情報しか持っていない。「聞いてきた話と違う」、ミャンマーの実情を話すと多くの視察者が同じことを言う。あなたは一体何を聞いて、何のために来たのか、と聞きたいぐらいだと言う。

日本企業はおかしいのでは、とある欧米企業社員に言われたことがある。その国に進出する場合、普通はその地に精通している人を雇い、現地事情を十分把握し、事業の可否を見極めるのだが、日本では「その国に始めて来るような人に調査をやらせる」「有り得ない」という。その通りだろう。あれだけ中国リスクを語る人々がいて、素人がミャンマー調査をして、事業企画を練る、あり得ない話だ。

オペラ、でスパゲッティを食べ、ピザを頬張りながら、そんな話をした。日本の不思議さ、は今や世界の常識だろう。日本が出てきたら、マーケットはピークアウト、だから日本のエアラインが直行便を飛ばした頃がミャンマーブームのピークアウトではないだろうか。






懐かしのミャンマーを行く2012(1)激変していたヤンゴン

《懐かしのミャンマーを行く》 2012年6月20-28日

2004年に初めて訪れたミャンマー。私は熱に浮かされたようにはまり込み、それから続けて3回、ミャンマーへ行った。しかしその後は何だかプッツリとご縁が切れ、思い出すことも少なくなっていた。それがある日、「電子書籍を出さないか」と知り合いに言われ、あの魅惑のミャンマー旅行を整理した。そして読み返す内に又行きたくなってきた。

しかしあのTTMやSSは一体どうしてしまったんだろう。数年前に東京で会ったのが最後だった。元々の紹介人であるS氏も最近の状況を知らないという。どうせ行くなら会いたい、と思っていた。すると・・ある日、驚くべきことが起こった。Facebook上で何とあのSSを発見したのだ。急いで友達申請してみると、ちゃんと承認されてくる。そしてメッセージを送るとチャット状態で会話が出来てしまった。SSも社交辞令で「いつミャンマーに来ますか」と聞いてきた。これは行かねばならない。

すると翌日エアアジアからメールが。バンコック⇔ヤンゴン、往復7,000円とある。これだと思い、2月の時点で6月20日を予約してしまった。そしてSSに予約した旨告げた。さあ、どうなるんだろうか。ところが、4-5月にSSからは何の連絡もなかった。ホテルの予約も茶旅の手配もどうなっているのか、全く分からない。仕方なくS氏に他に知り合いを紹介してもらったが、メールするとちょうどミャンマーに行ってしまい、連絡が付かなくなっていた。

とうとう万事休すか、と思っていたところへ、何事もなかったようにSSから連絡が入り、出発の運びとなる。しかし何とSSは前日まで韓国旅行へ行くという。Facebookといい、韓国旅行と言い、ミャンマーは途轍もなく変わってしまったのだろうか。スーチーさんが国会議員になる国、ミャンマーを再訪した。

6月20日(水)  1.ヤンゴン  (1)空港

エアアジアは僅か1時間でヤンゴンへ到着した。前回まで乗っていたタイエアーと違い、乗客は殆どがタイ人などの観光客だ。日本のビジネスマンは殆どがタイエアーに乗っているそうだ。

7年ぶりのヤンゴン空港は見違えるほどきれいになっていた。昔はタラップを降りると京都市営バスと書かれた日本の中古車が横付けされ、何とも不思議な感覚になったものだが、今では空港ターミナルへ直接着くため、あのバスは見られない。ターミナルもきれいになっており、驚くほど。昔のあの薄暗いイメージは全くない。

イミグレもスピード化が図られたようで、実にスムーズ。既に香港でビザを取得済みであったが、良く見るとアライバルビザと書かれたカウンターさえあった。後で聞くと、ヤンゴンの受け入れ先が必要書類一式を持って空港に待機していて初めてビザが取れるそうで、中にはビザが取得できずに乗って来た飛行機でバンコックに送り返された、などいう話もあるようだ。

そして荷物のターンテーブルを過ぎると、何とTTMとSS、そしてもう一人が私を見つめていた。何とも呆気なく再会した。何だかあっと言う間に7年前に戻ってしまったようだ。空港で携帯電話のSIMカードを借りる。普通の国では買うのだが、ここではSIMカード自体が貴重らしく、50ドルのデポを払って借りる。使用料金は一日2ドルとか。いずれにしてもヤンゴンで携帯が使える、夢のような話だ。

(2)ホットポット

空港からバンに乗り込む。7年前は古い古いトヨタ車を使っていたが、あの運転手さんは亡くなったと言う。車も新しくてきれいだ。私が出て来た国際線ターミナルは数年前に建設されたようだが、隣には昔の空港が国内線ターミナルとして使われていた。こちらの方が懐かしい。そこで働いているSSの従妹をピックアップし、市内へ。

空港付近はさほど変わっていなかったが、車が進むにつれて、きれいな別荘風の家が見え、建設中の高層マンションが見えると、やはり変わったんだ、と思う。そして恒例のホットポットへ。SSが大好きでいつも行っていたセブンアップという店は既に廃業していた。代わりに今はヤンゴンでも最も流行っていると言う店へ行く。その綺麗さ、大きさ、平日の午後6時なのに、家族連れ、友人同士、などミャンマー人で満員なのには心底驚く。

SSが食べ物を選びに行くのはいつものこと。実は一緒に来た男性は彼氏だと言う。TTMも公認なのだから、結婚も近いかと思いきや、SSがする気が無いらしい。なかなかいい男なのだが。

食べ物は実に美味しかった。管理も清潔で、ここがバンコックだと言われても分からないだろう。ビールも冷えていた。従業員の対応もよかった。これではあの薄暗くて、誰も働かないような店は淘汰されるのも当然だ。完全に市場原理が働いている。

(3)中華街で

まだ時間が早いと言うので、中華街へ行って見る。昔桶を買いに行った記憶があるのだが、行って見ても全く印象が無い。正直この辺はまだ薄暗く、昔の名残が十分にある。中国人観光客も多く、普通話も飛び交う。

屋台では相変わらずイナゴの唐揚げのような虫を売っている。食べてみたいという気持ちはないが、懐かしさはある。しかし中にはこぎれいなパン屋やドーナツ屋があったりして、ちょっと違うな、と思う所も多い。

「友寿司」と書かれた寿司屋があった。TTMはオーナーと知り合いとかで、オーナーが出て来た。東京の寿司屋で12年働いたミャンマー人だった。流暢な日本語を話す。最初は回転寿司屋、最後は渋谷のびっくり寿司で働いていたそうだ。びっくり寿司と言えばつい2-3週間前に、恵比寿の店に行ったばかり。驚く。

ミャンマーの商売のチャンスが巡って来た、東京でためたお金と寿司職人の技術を持ってヤンゴンに戻った。ヤンゴンのお金持ちの間では健康ブーム。寿司は健康に良いと認識されており、客も増えているという。メニューを見ると、寿司以外にも天ぷらやとんかつなどもある。健康かどうか別にしても、ヤンゴンの食生活は大いに変化している。

TTMによれば、ヤンゴンは現在寿司ブーム。既にこの手の店は20軒を超えていると言う。日本人が行く店は限られており、基本はミャンマー人がお客。彼らの所得はそんなにアップしたのだろうか。

(4)ホテル

中華街から北へ向かう。今日のホテルはTTMの家の直ぐ近くに取ったと言う。それにしてもヤンゴンのホテルの値上がりは凄い。昔何回か利用したミンガラガーデンは7年前の20ドルが今や60ドル。どこのホテルも対して改装などしていないのに、折からのミャンマーブームで急激に値上がりしているらしい。

Wish Hotel、最近出来たこのホテルは、そこそこきれいで従業員の対応も悪くない。英語の出来るスタッフも常駐しており、悪くない。部屋も広く、シャワーのお湯もちゃんと出る。クーラーも効いている。ここも60ドル。まあ仕方ないか。

このホテルにはWIFIがあるという。恐る恐る繋げてみたが、繋がらない。うーん、ミャンマーでネットなど以前は夢のまた夢であったが、やはり今でも事情は悪いのだろう。念のため、フロントに聞いてみると、部屋を替われ、という。違う階の部屋へ行くと、何と本当にネットが繋がった。Facebookもツイッターも見ることが出来た。嬉しくなって、2時間もやってしまった。

6月21日(木)

翌朝は快適に目が覚め、階上の食堂へ。とても簡易な作りで、トースト、目玉焼き、コーヒーを出してくれた。何だかベトナムの安宿を思い出す。テレビでは朝からタイのドラマをやっている。タイ語だが、一目で韓国ドラマのパクリだと分かるような代物。だが、皆食事をしながらも真剣に見入っている。ヤンゴンには以前から韓流ブームはあったが、今や定着したと言うことか。





ミャンマー紀行2003(22)ヤンゴン さらばミャンマー

(6)最後の晩餐

最後の夜はSSの好きなレストランに行くことにしていた。初日の夜に行った火鍋屋より立派だと言う火鍋屋が選ばれた。兎に角火鍋屋なのだ。ところがどうしたことであろうか。あの元気だったTTMの具合が悪いと言う。あの真面目な人のことだ。余程のことだろう。それでも彼女の責任感は凄かった。熱があるのだろうに決して帰ろうとしない。最後は冷房の利いた室内にはいられないと、車の中に移動して寝ていた。何という人だろう。感動してしまった。いくら私がS氏の客であったとしても、そこまでしてくれる人はは今の日本人にはいない。

 

火鍋は相変わらず、安心して食べられる味で美味かった。SSはエビや蟹を頼んで美味いと言って食べている。運転手も同席はしているが、彼は極端に無口で口を挟まないため、実質SSと2人である。彼女もさすがTTMの娘。やはり自分がお客を持て成さなければと19歳にして、一生懸命話してくれる。この歳で英語を使って、外国人と会話を続けるのは大変だっただろう。

Myanmar2005c 028

 

彼女の学校は3年制で専攻は経済だという。クラスは15人で女子は3人しかいない。授業が終わると、友達と遊ぶこともなく、真っ直ぐ帰宅してTTMの手伝いをする。月に一度ぐらいは高校の友達と遊ぶこともあると言うが、我が家の息子たちと比べるとどうだろう?家庭環境の差はあると思うが、親の責任も大きいような気がする。子育ては難しいとまた感じる。

 

SSが夢を語る。『国際的な貿易をしたい。そのためには英語ももっと勉強し、経済も勉強したい』というのだ、私にも昔は夢があったはずだと思ったが、思い出すことも出来ない。SSは来年卒業。何かしてあげたい気分になる。彼女の姉は日本人と結婚して東京にいると言う。それでも一般のミャンマー人が日本行きのパスポートを手にすることは容易ではないようだ。S氏によれば、ミャンマーでパスポートを手に入れるにはUS$5,000程度掛かるという。これは今のミャンマーにとって大金である。奨学金をもらうのも、難関中の難関。更に国際社会からの経済制裁がある。ミャンマーへの援助も細ってきている。TTMの夢が政変で破れたようにSSの夢も叶えられないのだろうか?

 

8月23日(土)

(7)さらばミャンマー

翌朝TTMから電話があった。『他に用事があり、見送りに行けません。本当にすみません。SSが代わりに行きます』、何という律儀な人だ。しかしどう見ても他に用事があるとは思えない。病気は相当重いようだが、声は精一杯元気だった。TTMに最後に会えないことは残念ではあるが、仕方が無い。

 

ロビーにSSがやってきた。車代の清算などをしたが、FECの価値がかなり下落しており、果たして迷惑が掛からないかとかなり心配になる。SSがお土産だといって包みをくれる。後で開けてみると何とロンジーの生地が入っていた。今その生地は大事に保存しており、次回のミャンマー旅行の際に持参して、縫い合わせてもらい、且つ履き方を習う必要がある。

 

ホテルの玄関でSSと記念撮影をした。何だか涙が出てきそう。実に不思議な気分。車に乗ると既に見慣れたヤンゴンの町並みがどんどん過ぎて行く。空港までの30分、何故か殆ど無言だった。自分がどうしたいのか分からない。気持ちが整理できなくなっていた。飛行場に到着。SSが『さようなら。』と日本語で言う。そしてくるりと背を向けて去って行く。何だか希望が去って行くように見えた。

 

 

追記

ミャンマーに関する報道はアウンサウン・スーチーさん一色である。軍事政権のイメージからミャンマーは至極危険なところだという印象もある。事実今回の旅行に際しても多くの日本人から『大丈夫か?』と尋ねられた。その度私は確信を持って大丈夫と答えていた。あの確信は何処から来たのか?自分でも分からないが、今回の旅を終え、その確信が事実であり、且つ私は必ず過去にこの国と繋がりがあった、との新たなる確信を持った。ミャンマー人は来世信仰である。今の日本には未来は無いかもしれない。それでも人は生きていかなければならない。私も来世を信仰しようかと思う。

 

因みにヤンゴン滞在中にS氏の計らいで、一度スーチーさんの家の前を通る機会を得た。そこは道路が封鎖され、一般車の通行は禁止されていた。その為人々は大きく遠回りをしていると聞く。道路に面した建物は一部が黒焦げになっていた。彼女は軟禁中であり、幸い?そこには居ないようであるが、何とも痛々しい。

 

しかしこの軍事政権とスーチーさんの争いのお陰で迷惑しているのは一般市民である。国際援助も途絶えがちである。何とか道路封鎖を解除して、自由な通行を期待したいものである。

 

ミャンマー紀行2003(21)ヤンゴン サイカーに乗る

(3)チャイナタウンのお茶

ヤンゴンのチャイナタウンはダウンタウンの西側にある。ここには漢字の看板が多数見られ、ミャンマー文字が読めない身としては、ホッとする。先日はS氏も一緒に夜市にやって来たが、かなりの賑わいがあり、驚いた。ドリアンを買い、思い切り道端で食べた。美味かった。500K。S氏の会社はマレーシアに農場を保有しており、そこにもドリアンが沢山なっているが、それよりも美味いのだという。このドリアンは一体何処から来るのだろうか?

 

夜に比べて、昼のチャイナタウンは静かであった。暑いせいもあり歩く人も少ない。喫茶店を探してみたが、全く見当たらない。茶葉は乾物屋で売っていたが、大陸製の高山茶を台湾製として売っていたり、龍井茶などは何時のものか分からないほど古かった。勿論ここで中国茶を飲む人は中華系で余程の金持ちと言うことだろう。一般人が1,000-2,000Kもするお茶を飲むよりは100Kのミャンマー茶を飲むのは自然である。しかしここの華人は現地にかなり同化しているようだ。移民した国により中華系の暮らしぶりも大きく変わるものだ。

 

チャイナタウンを離れ、先日行ったシティマートへ。ここでミャンマーのお菓子ティネェを買う。ティネェはニッパ椰子の樹液を固めて作った菓子で、日本で言えば黒砂糖飴のようなものか。口に入れるとかなり甘いが、これがお茶請けとしてなかなか良い。お土産にしようと思う。

 

ところが店員は欲しいティネェが売り切れだという。TTMはそんなはずは無い、と何人もの店員に聞く。最後は奥からちゃんと出てくる。流石。しかしミャンマー人の店員は社会主義国のようにいい加減で働かない。1袋は僅か90Kと、本当に安い。後日香港で同僚の香港人に1粒ずつあげたが、せっかちな香港人は1粒丸ごと口に入れてしまう。これでは甘すぎて食えない。やはりミャンマー時間でゆっくりと端からリスのようにかじりながらお茶を飲むのが良い。

 

(4)市場

先ほど買った木桶を入れる袋を購入する為に、ローカル市場へ向かった。先日行ったボージョーマーケットよりかなり庶民的な場所だった。TTMは良く来ているようで、馴染みの店がある。フィリピンのアマさんが持っているような袋を100Kで購入。更に皆が履いているミャンマースリッパ(サンダル)にも手を出す。1,500Kで結構立派な物を購入。少し小さいが履いているうちにぴったりになるとのTTMの言葉を信じる。事実香港で履いてみて、今はぴったりである。履き心地も抜群に良い。次回の旅行では最初からこのスリッパで行こう。

 

周りを見ていると不意にラペトゥを入れる入れ物を買いたくなる。ところがここには無いと言う。仕方なく外に出る。少し歩くと道端に店があり、子供が店番している。チークで出来た丁度良い大きさの入れ物があったので、買おうと思ったが、子供には値段は分からないという。これで商売になるのだろうか。この時間の流れが好きだ。香港ならブツブツ文句などを言っているところだが、ここではいくらでも待てる。結局親が出てきて、700Kだった。安い。

 

容れ物が手に入ると、ラペトゥの材料を手に入れたくなるのは人情というもの。横の食べ物市場へ流れていく。干しエビ、大豆、揚げニンニク、ゴマ等を個別に次々に買い込む。あまりに安くて幾らか覚えていない。TTMが熱心に選んでくれているが、私にはどれが良いのか、さっぱり。

 

TTMがSSのおかずを買うと言う。先日と同じパターンだ。これが楽しみなのだ。今回は魚。午後の閑散とした市場で多くの男が荷台の上で寝ていた。上半身裸で、まるで死んだように、しかし楽しいそうに。大きな川魚が横たわっていた。男が頭を切り取り、切り身を差し出した。TTMが吟味する。OKを出す。700K。SSのご馳走だ。芋も買っていた。明日、私はヤンゴンを離れる予定で、この材料で作ったご飯の残り物が食べられないのがとても残念だ。

 

(5)サイカー

市場の帰り、車が停まっている場所まで、サイカーに乗る。サイカーは、自転車の横に椅子が付いている。その椅子が面白い。背中合わせに2人が乗れるのだ。サイカーとは,『サイドカー』の略だと思われるが、こんな椅子の配置は他のアジアでも見たことがない。荷物を運ぶことを想定して、作られたのだろうか。

ミャンマー2003 183

 

TTMが正面、私が後ろ向き。後ろ向きは予想外に怖かった。前がどうなっているか全く分からない状態で、ぶつかるのではないかと気が気でない。且つ何となく落ちそうな感じもする。しかし後ろ向きに乗るのは、気分が良い。景色が開け、良く見える。100K。先日香港でトラムの一番後ろから町の景色を見るのが意外に良いことにも気付いていた。何故だろう?

 

ミャンマー紀行2003(20)ヤンゴン 日航ホテルと木桶

本日泊まるホテル日航に行く。本当に立派なホテルだが、TTMの交渉のお陰で1泊FEC45で宿泊できた。到着すると係りの女性が部屋まで案内してくれる。部屋に入ると広くて良いがビューが湖の方を向いていない。このホテルはカンドージー湖に面しているので、何気なくそれを言うと『スモーキングかどうか分からなかった。1階下にレイクビューの部屋がある』と簡単にチェンジしてくれた。お客はある程度滞在していると言っていたが、部屋は3フロアーしか使っていないようだ。

 

ホテルの1階、2階には幾つか店が入っている。その中の一つに骨董などの土産物を売る店があった。日本語の堪能なミャンマー人の女性とオーナーが座っていた。夕方話に行くと丁度日本人のお客さんがいた。以前は医者であったが、事故で死に損ない4日目に蘇生したという。その後縁あってミャンマーで仏教の大僧正に出会い、帰依。現在日本で僧侶をしているという。

 

しかし帽子を被っており、つるつるの頭を隠す。それは以前ヤンゴンで夕食にビールを飲んでいたところ、ミャンマーの若者と口論になり、あわや殴られそうになったからだそうだ。日本では僧が夕食を取るのは普通。酒を飲むのも許されるが、ミャンマーでは絶対に許されない。後でTTMにこの話をしたら、『日本人かどうかは関係ない。僧には絶対に許されない行為』と凄い剣幕で言われてしまった。ミャンマーの仏教感は日本とは大きく異なることを知る。

 

その坊さんに寄れば、ミャンマーには200歳まで生き、死後50年遺体が腐らなかった僧がいたとか、山から空を飛ぶ僧がいるとか、まるで奇想天外だ。日本では信者がミャンマーで仕入れた仏像を高値で買っていき、その資金でミャンマーに僧院を建てていると言うのだが。更には彼の師に寄れば、2009年に中台戦争が勃発し、日本は放射能の海に包まれると予言しているそうだ。さて、どんなものだろうか??※この予言は当たっていないが、2011年に原発事故により、日本が放射能の海に包まれた、というのは事実であり、何とも気になる。

 

見ているとこの店の客層は実に怪しい。謎の韓国人、妙な日本人などが出入りしている。隣の美容室のお姐さんが、韓国製のカップ麺を食べる為にお湯を貰いに来て、そのままズルズルと食べていた姿は圧巻。いつか『ヤンゴン日航ホテルの人々』と言う題で何か書けそうだな。

 

(2)桶屋

TTMが『どこに行きたいですか?』と聞く。彼女はS氏が居た時は全て日本語で話していたが、実は英語の方が得意のようで、会話は殆ど英語になっていた。日本語を使うのは土産物を買うときぐらいで、これは今までの慣れから来ているようだ。何とも不思議だが、こちらの希望を言えば、何でも一生懸命やってくれる、真面目で、実に頼もしいガイドである。

 

最後だからと色々考えたが、結局『桶屋』と答えてしまう。これには百戦錬磨? のTTMも考え込む。ヤンゴンといえども、流石に今はプラスチックの桶、いやバケツを使っているのだが、私が欲しいのは木の桶である。先ずは市内の家具屋へ行ってみた。チークウッドの立派な家具が並んでいた。当然木桶もあるのだが、しかし全ては特注で、明日の朝までに出来るわけがない。恐らく値段も相当するだろう。私が欲しいのはそういうものではない。誰もが日常で使っているようなチープな桶、いや、日常で使っている物などないのだ。

 

北京の脚マッサージ屋にあった脚を漬けておく桶。これがあれば冬場も風邪を引かない。事実あの寒い北京で一度しか熱を出さなかったのは、この桶のお陰であると信じている。ところが、北京を離れる際、行き付けのマッサージ屋に木桶を1つくれるようお願いしたが、何と『会社の固定資産』という大げさな理由で貰うことが出来なかった。マッサージ屋に固定資産の概念があることは驚きであったが、とにかく香港の家で木桶に足をつけたいのだ。

 

木桶は既に中国では余程の田舎でもない限り存在しない。台湾には日本時代からの桶屋があるが職人芸でべら棒に高い。そこでミャンマーだと思ったのだが、しかしここにも時代の波が来ていた。シャン州にはあったかも知れないが、木桶のことなど到底思い出せないほどの体験をしていた。

 

チャイナタウンだ。と言ってもヤンゴン川の辺。そこに昔ながらの桶屋はあった。主人は中国系と思われた。様々な大きさの桶がところ狭しと積み上げられていた。TTMによれば、桶を使って赤ちゃんのおしめ等を良く洗ったと懐かしそうに言う。出来の良いものと傷のあるもの、実に様々であった。主人は愉快な人で在庫の有無は使用人しか分からないと言う。一生懸命TTMに説明しており、時折英語で何時でも来てくれと言う。7,000Kは少し高いと思ったが、手ごろな大きさを一つ購入。主人は壊れたら何時でも持ってきてくれ、と言う。笑ってしまった。

 

ヤンゴン川はあまりきれいとは言えないが、それなりの川幅があり、渡し舟が出ている。向こう岸にはパゴダが見えるが、他にはあまり建物もない。1800年代にイギリスが侵攻した後、この内陸の港は俄かに活気付いたというが、今はその面影はない。ただ往年の建物が残るだけである。

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ミャンマー紀行2003(19)カロウホテルとシャンヌードル

8月22日(金)

(10)ガロウホテルとシャンヌードル

昨夜はすっかり遅くなってしまい、少し疲れ気味となり、眠りも浅くなっていた。翌朝散歩でもしようと思い、ホテルを出ようとすると、朝食が用意されているという。聞いていなかった。TAMが朝食はヘーホー空港でヌードルを食べると言っていたので、申し訳ないが断る。

 

TAMが来る前に朝の散策に出てみた。ガロウの町は小さく、歩いて直ぐ回れる。所々にイギリス風の建物が残されている。昨夜見たイギリス風の小さな駅の駅舎を探したが見つからない。鉄道は通っているのだろうか。ホテルをチェックアウトして、車でガロウの街より高いところへ。正に避暑地の趣がある。軍関係の病院もあった。以前イギリスが建てた病院だ。日本軍も一時占拠して使っていた、あの従軍看護師さんたちが勤務していた病院だろう。

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そしてガロウホテル。100年の歴史を持つ由緒正しいイギリス式ホテルだ。庭も美しく整備されている。建物も重要文化財といった趣がある。中に入るとダイニングが広い。本物の立派な煙突と暖炉がある。クリスマスにここに来れば子供は大喜びのはずだ。但しサンタは来ないとは思うが。部屋もバスルームも異常に広い。バルコニーまである。安楽椅子が心地よさそうに置かれている。これで1泊、US$60。うーん、是非とも泊まってみたかった。次回を期そう!

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そして愈々ヘーホー空港へ。又あの心地よい並木道にやってきた。しかし僅か2日前に来たとは思えない。既に数週間が過ぎた感じがする。道端に数軒レストランがある。ガイドや運転手がここで客を待つ。そう言えばここに来る直前に若者を一人拾った。彼が私を空港内に連れて行く係りらしい。店に入り、私とTAMはさっさと座って名物シャンヌードルを頼む。

 

これは本当に美味かった。流石にTAMが自信を持って、朝食を断らせただけのことはある。先ずヌードルが抜群。米で出来たきしめん風の麺。そしてスープはあっさりした塩味。薬味の葱、香菜なども入り、添えられた高菜漬けも美味で、あっと言う間に1杯を平らげる。そして何ともう1杯お替りをお願いしてしまった。通常朝飯を食わない私が朝から麺を2杯食べたと聞けば家内も驚くことだろう。朝早く起きて、散歩すれば、食欲も出るということか。

 

御代は払わせて貰えず、値段は分からない。TAMに2杯の借りが出来てしまった。次回も何としてもやって来て、この借りを返そう。とうとうTAMとの別れの時が来た。彼女は相変わらず淡々として、門の所に小さく佇んで見送ってくれた。不思議と涙が出そうになった。彼女のアレンジで私はどれだけの体験をすることが出来、どれだけの教訓を得た事か。必ずここを再訪し、TAMとそしてシャン州ともう一度ゆっくり語り合いたいという思いを強くした。

 

空港内に入り、椅子に座っていると斜め前に日本人の夫婦が座っていた。何気なく見ていると、そこに空港職員がやって来て、あの竹筒茶を渡している。その時重大なことに気が付いた。私は車にあのラペトゥの入った竹筒を忘れてしまったのだ。そしてどう見てもその竹筒は私の物であった。ところがその職員はその夫婦にホテルからの贈り物だといって渡している。二人とも何だか分からず、怪訝そうな顔をしている。終に私は『それは私のでは』と声を掛けた。3人で首を傾げていると例の職員が戻ってきて、私の物だと言い直してくれた。皆に安堵が広がった。その夫婦も訳の分からないものを突然貰って困ったことだろう。

 

その夫婦によると何と彼らはこれからヤンゴンに戻り、更に午後便でバンコックへ行き、更に夜便でプーケットに行くという。ところが既に午後のミャンマー航空がキャンセルされており、どうすれば良いか途方に暮れていた。それは日本の旅行社が地図だけを見て作り上げたプランだった。S氏がミャンマーで無理な日程を組むのは必ず落とし穴にハマる、無謀だ、とアドバイスしてくれたのを思い出す。そんな話をしている内に、搭乗時間となり、飛行機は小さなヘーホーの空港を飛び立ってしまった。またプロペラ機だが、もう慣れていた。次にここに来るのは何時のことになるか?絶対にもう一度戻ってこようと心に誓う。

 

6.ヤンゴン再び
(1)ホテル

懐かしいヤンゴン空港に到着し、バンコックに向かう夫婦と別れ、出口を出ると懐かしいTTMがちゃんと待っていてくれた。何だかとても懐かしい人に会った気分だ。ホッとする。SSは大学に行っており不在だという。ちょうど昼時なので車で真っ直ぐレストランへ向かう。

 

ミャンマー料理で美味しいと言われるレストランは街中にひっそり佇んでいた。ちょっと見てもそれと分からない場所にある。店は特に混んでいない。典型的なミャンマー料理を頼む。これも美味い。困ったものだ。又食べ過ぎだ。3人で4,500k。これで食べ納めかと思うと悲しい。