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茶旅 静岡を歩く2022(6)藤かおり、そして島田で

食後また急坂を降りていき、駅まで戻った。Tさんが車で迎えに来てくれた。牧之原の茶農家であるTさんとはほんの2週間前に、東京の朝市で知り合い、ご縁で今回の訪問となった。きっかけは『藤かおり』であり、『森薗市二氏』であった。私が台湾の関係で昨年雑誌に書いた森薗さんの話しを読んでいてくれた。そしてTさんのお父さんが藤かおりの育成者である森薗さんと親しく、藤かおりを直接分けてもらったというのが興味深かった。

Tさんの茶工場兼自宅は、県試験場のすぐ近くにあった。ご自宅でお父さんも交えてお話を聞く。お父さんは森薗さんにとても可愛がられており、茶作りを教えられ、毎朝晩試験場に出退勤する森薗さんに声を掛けられていたらしい。晩年はよく藤枝の自宅に遊びにも行ったという。

森薗さんがなぜ宮崎の試験場から静岡へ転勤となったのか。それが何となくわかる資料にも出くわした。やはり話を聞かないと真実は分からない。庭には森薗さんにもらったという木が植えられており、茶工場にはなぜか数年前、高林式釜炒り機がやってきたといい、茶畑には藤かおりが今も育っている。帰りに茶業研究センターに寄ってもらい、森薗さんを思いながら、入り口だけを見た。それから金谷駅に送ってもらった。

再び菊川駅で降りた。午前中報恩寺のお母さんから聞き、また先ほどTさん宅でも聞いたカフェが気になっていたからだ。駅からすぐのところにSan Gramsという名のカフェを見つけた。広い敷地にモダンな平屋。元々松下幸作が製茶機械を作った松下工場の跡地だという。1899年に生産が始まり高林式製茶機械が作られ、高林謙三自身もここに住み、終焉の地となった。あまりにおしゃれなカフェで入るのは遠慮した。

3月18日(金)島田で

今朝は天気が悪い。雨の予報も出ているため、雨のないうちに外での活動を終えることにした。3日間お世話になった掛川を離れ、島田へ向かう。駅のコインロッカーに荷物を入れて、大井川を目指して歩き出す。途中で予想より早く小雨が降り始める。

40分ぐらい歩いて川まで辿り着いたが、なんと木造の橋が架かっていた。『世界一長い木造歩道橋』でギネス認定されたという蓬莱橋を渡る!渡るのに100円取られる賃取橋!長さ約900m、それほど高さもなく、川に水も少ないのだが、風に煽られると傘が飛ばされそうで怖い。1879年牧之原台地の茶園開墾のため架けられた農業用橋というから、単なる観光橋ではない。

橋を渡ると神社などがあり、山に分け入る雰囲気となる。台地を登り切ると、茶畑が見えてくる!茶畑の間を更に上ると、高台に大きな像が見える。中条景昭、幕臣で牧之原開拓に尽力し、多大な貢献をしたとある。先日の丸尾文六より早く入植し、相当な困難を乗り越えて、今日の牧之原を築いた人物だった。像はその貢献の大きさに比例しているのだろうか。1896年彼がここに没した時、葬儀委員長は勝海舟だったという。

近くの法林寺に立ち寄る。ここには幕臣伊左新次郎岑満の墓と書碑がある。伊佐は晩年牧之原に移住して中條景昭を支えた人物。私塾を開き、後進の指導に当たった。実は幕末の三舟(高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟)の書の師であり、下田奉行所組頭時代、アメリカ初代領事ハリスに「唐人お吉」を紹介したとも言われている。境内にはお吉の像が置かれていたが、この話は本当だろうか。

雨はこれから強く降るだろうと予想して、急いで島田駅へ戻る。木造橋を避け、トラックが通る頑丈な方にしたが、渡っている途中、強風と雨に襲われ、傘もさせず、ずぶ濡れとなる。昨日まで天気が良かっただけに最後に旅の洗礼を受けた。それでも駅まで戻る間にまた雨は止み、何とか図書館に辿り着く。

このきれいな図書館で牧之原関連の資料を探していると、予想以上に色々なものが出てきて、コピーを取り終わるまでに相当の時間が経過した。ここの係員は非常に丁寧で好感が持てた。今回の静岡でもいくつかの図書館のお世話になったが、これほどサービスに差がある県は珍しいのではないか。

図書館から駅まではすぐだった。おまけに雨も止んでいた。駅でコインロッカーから荷物を取り出し帰路に就いた。帰りもJR在来線でゆっくりと過ごした。熱海で乗り換える際、時間があったので、Suicaを一度切り替えようとしたが、改札から出られず、駅員に『小田原で精算してください』と言われる。小田原での精算はスムーズで嫌な感じはなかったので、今後は到着地精算に切り替えよう。

今回静岡の茶歴史関連の場所を多く訪ね、やはり静岡、歴史が多くて深いと感じた。だが思いの外、その歴史が大切にされておらず、意外と知られていないとも感じる。自分が静岡に住んでいればな、と思う一方で、県外の人間が余計なことをするべきではないとも感じる。日本一の茶処は難しい。

茶旅 静岡を歩く2022(5)掛川城から菊川へ

菊川駅前まで歩いていくと、関口隆吉像を発見した。あの浅間神社にもあった名前だ。関口は幕臣で初代静岡県知事。牧之原開拓にも尽力したとのことで、現在でも顕彰されているが、一般的に知られていないのは残念だ。ここから東海道線で掛川に戻った。夕飯は掛川駅から少し歩いた食堂で取った。独特のレバニラ炒め、具沢山の味噌汁など、特色ある定食が良い。腹一杯なのに、夜また宿の夜泣きラーメンまで食べてしまった。今日は相当歩いたので、体が欲していたのだろう。さすがに疲れて寝入る。

3月17日(木)掛川で

翌朝は元気に起き上がる。天気も良い。折角掛川に泊まったので、お城周辺を散歩した。桜が咲き始め、これから花見が始まりそうだ。立派なお城を眺めながら堀の脇を歩いていくとお城の脇に2つの石碑が見えた。実は昨年千葉県佐倉に行った際、掛川城に佐倉に関する石碑があると聞いていたので、興味を持って見てみたが、文字が良く読めない。

読める文字の中に、『山田治郎蔵』とある。この人の石碑だと分かったが、それと佐倉は関連があるのだろうか。それが知りたくてすぐ近くにあった図書館へ向かうが、何と9時の開館前だった。よく見ると横には立派な建物がある。確かテレビでも見た報徳社だった。二宮尊徳の報徳思想、これは静岡の人々に受け継がれ、茶業にも関わっているので興味があったが、まずは開館した図書館へ行く。

図書館で石碑について尋ねると『お城の脇なら、お城に聞いたら』と言われ、今度はお城に向かう。入場料を払う受付で聞いてもらったら、『石碑があるのは知っているが、茶業に関しては専門外なのでコメントできない。観光協会に行くように』と言われ、駅にある観光協会へ向かう。ところが観光協会では『その石碑の所在自体が分からないから、まずその場所へ行ってみて何かわかったら連絡する』と言われる。静岡って、歴史が多すぎて、なかなか分からないことが多いらしい。

菊川で

菊川駅まで一駅電車に乗る。駅のすぐ横に報恩寺があることは分かっていたので安心して向かったのだが、ちょっと意外な展開に。ここの墓地内に高林謙三の記念碑があるということだったが、その墓地が見付からない。思い余ってお寺に訪ねると、何と墓苑は歩いて10分の場所にあることが判明。地図をくれたのでそれを頼りに探す。

駅の北側、少し小高くなったところ墓地があり、その一番奥に石碑が見えた。『高林謙三の墓』となっているが、これは本当のお墓が川越にあり、お墓参りが出来ないので、ビジネスパートナーの松下幸作がこの碑を作ったという。供養碑とでもいうべきだろうか。近くで作業していた墓石屋さんが『ちょっと前まで茶工場があって、茶を作っていたよね。最近茶はダメだから、どんどんなくなっていくよ』と寂しそうに語る。この墓地周辺にはまだ茶畑が残っていた。

そこから菊川公園を目指して、また線路を渡る。地図上では近いと思っていたが、何と急な上り坂が待っており、きつい。登りの途中には常葉菊川という野球の強い高校があり、その上に公園はあった。今日も天気が良いので、幼稚園園児が遊び回っている。松下幸作の記念碑があると聞いていたが、見付けた石碑は茶祖栄西禅師のものだった。だが下を見ると、菊川茶業先覚者と書かれており、その中に松下幸作と高林謙三(その他山田治郎蔵、内田三平)の名が見られた。横にもう一つ石碑があり、文字は読み取れなかったが、これが松下幸作顕彰碑であろう。松下は高林が特許を取得した製茶機械に対していち早く生産販売契約を結び、製茶機械の普及に努めている。

最後に駅に戻る途中、旧赤レンガ倉庫を外から見た(予約しないと見学はできないらしい)。1887年原崎原作らによって作られた富士製茶株式会社の倉庫だった。この製茶会社及び原崎原作について、子孫の方が資料を纏めており、その本を購入した記憶があるので、帰ったら見直してみようと思う。

金谷で

また東海道線に一駅だけ乗る。今度は金谷駅で降りた。まずはミュージアムの方へ登っていく。かなり急こう配の上り、そこに家々がある。そこを抜けると広い道路へ出て、更にいくと待ち合わせの食堂がある。食堂の駐車場から下を見ると、大井川と金谷宿方面が実によく見える。川越人足が失業して、その救済のための牧之原開拓という話は昨日読んだばかりだ。

今日はお知り合いとランチを食べることになっていた。この食堂、うなぎがメインらしいが、コロナ禍で予約していないと入れない。お客は我々以外に一組しかなかったが、後から来たお客は断っていた。ここの名物は眺望なのだろう。うなぎのたれはかなり甘めだ。お知り合いの退職祝いで、楽しく食事した。

茶旅 静岡を歩く2022(4)丸尾文六を追って丸尾原へ

バスで御前崎方面へ向かう。先ほどの丸尾家が御前崎の出身ということで、何か分かればと訪ねてみた。終点まで乗り、そこから図書館を目指す。この辺は浜岡、あの浜岡原発のある場所だった。図書館の人に『丸尾文六』と言ってみたが、誰ですかという顔をされたので驚いてしまった。そして資料もほとんどないので更に驚く。

図書館から2㎞ほどのところに、丸尾記念館があるというので行ってみた。ここは丸尾文六の弟の家系3代を記念している建物で、最近はずっと休館している。横にある高校の初代校長も務めた人物の記念のためにあるようだ。文六についてどれほどの展示があるのかわからない。

御前崎は空振り。それでもどうしても丸尾文六を追いたくなり、文六が開拓した牧之原丸尾原を訪ねたくなった。だが浜岡から丸尾原へ向かうちょうどよいバス路線はなかった。仕方なく菊川行バスに乗り、一番近そうなバス停で下車して、そこから歩くことにした。Googleで一生懸命見ながら、ここだという場所で降りた。小笠高校前だった。

ここから丸尾原を目指す。道は分かりやすい。何と途中、神尾辺りからほぼ茶畑だけが見える。こういう道、思いの外テンションが上がってしまう。ちょうど行き会った茶農家のおじさんとお話しすると『今日は急に暖かくなったが、雨が少ないから今年の茶はちょっと』という。こちらは雨がないと歩くのに助かるが、農業には雨が必要だ。そこから山登りが始まり、喘ぐように足を前に出して頑張った。昔のようには体が動かず、もどかしい。何とか登りきると、そこもまた両側茶畑。何と気持ちが良いことか。

バスが通りそうな道まで出て南下する。ちょうど車から降りた女性に『ここは丸尾原か?丸尾文六さんを調べに来た』と話しかけると、『うちも文六さんと一緒に入植した17人の一人がご先祖。川根の方から来た仲田』というではないか。そして彼女が教えてくれた『丸尾文六記念碑』を探しているとお墓が見えてきた。

近づくと、声を掛けられたので、丸尾文六について聞くと『うちは浜岡から文六さんと一緒に来た』という。ここでは浜岡から来た人、川越人足、元武士の3つの集団が混在しており、それは現在でも続いており、4-5代目で今も茶業を続けている人がいる。墓苑は丸尾家のものだったが、現在の当主は大学教授でこの地におらず、管理委員会に委託されているという。墓石を見ると、明治時代以降、この地の開拓に努め、茶を作った人々が葬られている。

丸尾原水神宮に行ってみると、そこには丸尾文六と仲田源蔵の石碑が並んでいた。ただ古いもので文字は良く読めない。今や丸尾原と名前が付く場所を探す場合、この水天宮が目印だろうか。丸尾文六に始まる茶園、茶作りが今に繋がれているのはさすが静岡だと思うし、ここへ来れば丸尾文六を偲ぶことができると感じられる。

ここまで歩いてきたのは良かったが、いったいどうやって帰ればよいのだろうか。まさかまた歩いて1時間半か。いや歩いて行ってもそこでバスに乗れる保証はない。検索してみると何と、この水天宮前からコミュニティーバスで菊川駅まで行けるという。本当だろうか。バス停を見ると1日に6本出ているが、最後の一本がもう少しすれば来ることになっていたので、それに賭けてみる。

バスは確かにやってきた。いや実に立派な小型バスだったが、乗客はいなかった。しかも料金は100円だけ。このバスのルートは、何と私が歩いてきた道を戻っている。いや全く逆ルートであっという間に小笠高校前、そして菊川病院で停まった。何とここで10分休憩するからトイレに行っておいたら、と言われる。コミュニティーバスの利用者の中心はお年寄りであり、一番行く場所は病院なのだ(だから夕方は誰も乗っていない)。反対周りのバスもここで休息している。

そこから菊川駅を目指して走っていく。私は思い直して、駅の少し前、図書館で降りた。折角丸尾原まで行ったのだから、この歴史を調べておきたいと考えたのだ。古めかしい菊川市の図書館に入り、丸尾文六関連、牧之原開拓史などの資料を探してもらった。さすがにいくつもあり、閉館時間も近いのでコピーを取って持ち帰ることにした。

ところがここでトラブルが発生した。この図書館、コピーは自分で取ることが出来ず、お願いして職員に取ってもらうシステムだった。必要な部分が多くなってしまったのは申し訳けなかったが、お願いすると、半分ぐらい取ってきて『後は大体同じだから取らなくても良いのでは?』というので驚いた。確かに閉館時間が迫っており、また他に業務があるのも分かるが、まさかコピーを拒否されるとは思ってもみなかった。

仕方なく上司と思われる男性のところへ行き、『自分でコピーを取らせてほしい』と訴えると、彼は面倒くさそうに、私の方には何も言葉を発生せず、突然自らコピーを取り始めた。これまで全国で数十の図書館を訪問し、色々とお世話になってきたが、ここの図書館ほど、対応に問題がある例を見たことはない。正直驚いてしまい、言葉も出ない中、料金を払ってコピーを受け取り退散した。

茶旅 静岡を歩く2022(3 )高天神城と松本亀次郎

宿に戻って荷物を引き取り、駅へ向かう。駅前に餃子の自動販売機があったが、あれは美味しいのだろうか。そこから電車で掛川を目指す。45分ほどで掛川駅に着き、今日の宿まで歩く。そこは数年前に一度宿泊したことがあったので場所はすぐに分かった。元々天気予報は雨だったのに、陽が出ている。暑いぐらいだが、荷物を引いて駅から10分歩くとすれば、雨でないのは大変有難かった。

午後4時前にK先生がわざわざ宿に来てくださり、半年前の茶話の続きを伺った。色々と資料を探して頂き、コピーを頂戴した。森薗市二、有馬利治から讃井元など、今では語られなくなった茶業人の様々な昔話が飛び出し、話があちこちに乱れ飛び、収集はつかないながらも、非常に参考になった。気が付けば3時間近くも話し込んでいた。夜は風が吹き、少し寒さが感じられたので、何とも申しわけない思いだ。

夜7時になり、ランチすら食べていなかったので、急に腹が鳴る。風の中、急いで近所の定食屋へ行ってみる。狭い店内に常連さんと思われるお客が数人。何とか席を確保して、たれ焼きチキン定食を注文する。これが予想以上に美味で、マカロニサラダも付いて、コスパが良い。帰る時にはもう看板になっており、危うく食べそこなうところだった。地方都市の夜は早く、既に人通りもない。

3月16日(水)丸尾文六を追う

今朝も朝風呂からボリューム満点の朝食を取る。そしてすぐに宿を出て、バス停を探す。目指すは高天神城だ。バスは時間通りやってきて、駅の南側へ回り、どんどん進む。20分ぐらいで高天神城の表示が見え始めたが、Googleで検索したバス停はまだ出てこない。結局かなり通り過ぎたバス停で降りる。そこから歩いて2㎞と表示されたが、何とGoogleが示した道は山の中へ入っていき、行き止まりで引き返す羽目に。

何とか回り込んで城門跡に辿り着き、そこから登り始める。山城、何と坂がきついことか。ここを攻める軍勢は大変だっただろう。何とか本丸跡まで来た時には息絶え絶えの惨状だった。この城は戦国末期、武田勝頼に攻められ、激しい戦闘があったと書かれている。今回の目的地は、この戦闘で討死した本間八郎三郎氏清と丸尾修理亮義清兄弟の墓を訪ねることにあった。

この兄弟がここで散ったことにより、丸尾家は浜岡の方へ逃げて身を隠し、その後帰農したとあり、江戸時代は庄屋にもなった家だった。その家から幕末に生まれ、あの牧之原開拓事業を行い、明治期の静岡茶業の功労者となった丸尾文六が出たという。丸尾の功績は相当大きかったはずだが、今はどれだけ知られているだろうか。

二の丸跡の後ろ側に、兄弟の墓所があった。きちんと表示もされており、向かい側には『天正二年戦死者の碑』もある。丸尾家などが関与して、歴史を後世に残しているのだろう。搦め手から城を下ると坂は更に急激だった。こちらからはとても攻められない。下には『赤堀磯平顕徳碑』が建っていた。戦前『小笠流手揉製茶法』を完成させた人物と書かれており、如何にも茶処らしい。

バスの時間を考えながら、先ほどのバス停より前の停留地を探していると、目の前に『松本亀次郎』の文字が目に入る。自然と足が松本生家の方へ向いた。戦前中国人留学生に日本語を教え、支援した有名人だった。教え子には周恩来、魯迅、秋瑾などがおり、中国では高く評価されている人だが、日本で知る人はほとんどいない。かく言う私も、日本の台湾統治初期の茶業組合の名簿に、同姓同名の人物の名があり、彼を調べるためにこの名に出会っただけだった。

中国風の吹き抜けの小さな六角堂が見える。中には松本の業績や中国人留学生について展示されていた。外には井上靖の石碑がある。『日中友好の架け橋』という言葉が躍る。彼は東京で、そして北京でも日本語を教えていたようだ。私も留学経験があるので何となくわかるが、厳しい環境の時に助けてもらえると、その恩は一生忘れないということだ。

一番近いバス停まで歩くとその直前に鷲山病院があった。そこに看板があり『吉岡弥生生家』と書かれていた。吉岡の旧姓は鷲山。さっきバスで『東京女子医大』を見かけて不思議に思っていたが、創設者の実家だから、ここにキャンパスがあったのだ。吉岡は津田梅子らと並ぶ日本女子教育の先駆者。そして松本の5歳年下で塾の後輩だった。

茶旅 静岡を歩く2022(2)登呂遺跡からヴォーリズ住宅へ

そこから緩い上り坂を10分ぐらい上ると、県立美術館前。道路脇が公園のようになっており小さな茶畑があった。ここにやぶきた生みの親、杉山彦三郎が選抜した13種の茶品種が植わっていた。近くにやぶきたの原木もあると聞いたが、それは見付けることができなかった。

その上に県立図書館があり、そこで茶業史関連の資料に当たる。さすが静岡、資料はたくさんあるが、調べるべき人物、事柄も無数にあるので、いくらやっても終わらない。今日はかなり歩いて疲れたので、適当なところでコピーを取り、引き揚げる。帰りは終点新静岡駅まで行き、そこから宿へ。

今日の宿泊先は、出来て2年も経っていないきれいなホテル。一言でいえばコロナ禍でスタートしており、最近人気がある宿のセールスポイントはほぼ取り入れている。中でも驚いたのは、夜の軽食として、カレーが無料で食べられたこと。歩き疲れて外へ出たくない私にとって、大浴場でゆったりと足を延ばし、そのまま夕飯を食べられるのは何とも有難い。

しかもそのカレー、具は殆どないが味は良く、ご飯は自分で盛るので十分な一食となる。サラダも付いている優れモノ。何だかインド山中の三食付き宿を思い出した。ドリンクもセルフサービスで飲み放題。ドーミーインも夜泣きラーメンではなく、夕飯ラーメンにしてほしいと思う。

3月15日(火)登呂遺跡からヴォーリズ住宅へ

朝起きるとまずは大浴場に浸かる。天気も良く、下界が良く見えるのも良い。何とも極楽。この宿を推薦してくれた人が『ここの朝食は並のレストランより良い』と言っていたが、確かに料理の内容は充実していて、これまで旅してきたホテルの食事より良いと感じられた。やはりこの宿、他のチェーンホテルの良いところを多く取り込み、その少し上を行き、それなりの料金を設定しているから、かなり人気がある。

今日は比較的余裕があるので、多く歩くことにした。天気予報は雨だったが、それは完全に外れた。ここ静岡には登呂遺跡があった。登呂遺跡といえば、私が小学校の教科書で出会った初めての弥生時代だ。その印象はかなり強かったが、静岡市内にあるとは思っていなかった。しかも宿から歩いて30₋40分なので、散歩にちょうど良かった。

ほぼ住宅街という道を歩き疲れた頃、登呂遺跡が見えてきた。思ったより規模はかなり小さい。高床式建築が見えたが、その数も多くない。ほとんどが何もない平原だ。博物館があると書かれていたが、分からず通り過ぎた。行きつ戻りつしてようやく中に入ったが、展示物もさほど多くはない。唯一気にかかったのは、木製道具。これはどうやって作ったのだろうか。今まで真剣に考えたことがなかったが、今は木地師を調べているからとても興味が沸く。

外では幼稚園児が運動会?に興じていた。その横を通り過ぎて、海の方に向かって歩いていく。ほぼ海まで出たところに、もう一つの目的地、旧マッケンジー邸があった。1918年にアーウィン商会日本支店に赴任し、日本茶のアメリカ向け輸出に尽力したダンカン・マッケンジーが1940年に建てた洋館が残っていた。

建築設計はあのメンソレータムを日本に持ち込んだウィリアム・メレル・ヴォーリズ。ヴォーリズは英語教師として滋賀の近江八幡に赴任したが、宣教師、実業家、建築家など多彩な顔を持つ男で、建築の分野でも日本各地で相当数の洋館を建てており、先日は京都の実業家邸宅がテレビで紹介されていた。ここに訪ねてくる人もヴォーリズ建築を見に来る人が多いという。

1940年といえば戦争前夜。なぜそんな時期に家を建てたのだろうか。戦争をして欲しくない、その願いからだろうか。結局1943年にマッケンジー夫妻はアメリカに強制送還されるが、戦後又この地に戻る。そしてダンカン亡き後も妻エミリーはここに留まり、赤十字など福祉活動に尽力し、静岡市の名誉市民になる。1972年彼女が日本を離れる際、この邸宅は市に寄贈され、今日まで維持されていた。その記念碑が庭にあった。

海風が強い場合、高波が来た場合など、どうするのかと思うほど、海に近い場所。そして反対側には富士山がきれいに見える。喘息持ちのダンカンがここを選んだらしいが、彼がどんな茶貿易をしていたのか、興味ある所だ。もう少し調べてみたいと思う。茶業者の邸宅なのに、有名なのは建築家と社会福祉家の妻というのは、ちょっと残念な気がしないでもない。

帰りも歩いて静岡駅を越え、また駿府城公園に行く。昨日見つけられなかった杉山彦三郎の像をどうしても見付けたくて寄り道した。今日は公園スタッフもいたので、場所はすぐに分かった。行ってみると4人の像が並んでおり、一番立派な髭の人が杉山であった。やぶきた生みの親、杉山彦三郎については、これから調べを開始したい。

茶旅 静岡を歩く2022(1)静岡市 茶歴史を巡る

《茶旅 静岡を歩く2022》  2022年3月14-18日

1₋2月はコロナ禍でもあり、また寒いので外出を控えていたが、いよいよ我慢の限界がやってきて、静岡を目指す。今回は昨年から続いている調査に、更にご縁が重なり、とても興味深い歴史旅になった。そして何よりも歩いた。歩き疲れるまで歩いたが、それは何とも気持ちの良いものだった。原点回帰。

3月14日(月)静岡市内を歩く

久々の旅に出る日。興奮していたのか午前5時前には起きてしまい、そのまま家を出た。昨年末に青春18きっぷで旅した時と同じような時間に行動を開始。既に路線にも慣れているので、何事もなく新宿、品川、小田原、熱海と来て、何と10時前には静岡駅に着いてしまった。今日もまた天気が良く、富士山もきっくり見えた。ああ、やっぱり新幹線に乗らない旅の方が良い。

今日の宿は駅前から少し離れているが、歩いて行ける範囲。いつもの宿泊場所とちょっと違うので、駅前の慣れない道を行く。すると幼い徳川家康と今川義元が二人でいる像を見つける。二人の有名人という意味で並べたらしいが、どう見ても子供をいじめる大人の構図に見えてしまう。歴史的な意図がある像なのだろうか。

きれいなお宿に荷物を預けて、飛び出していく。駿府城公園に杉山彦三郎の胸像があるというので行ってみたが、広い公園内のどこにあるのか一向にわからない。徳川家康の像だけが、案内板に出ている。しかも月曜日は入場券が必要な見学場所は全て休みとなっており、聞くこともできなかった。お茶室もあるというので、行ってみるもその付近にも胸像は見当たらず、すごすご引き上げた。

15分ほど歩いて浅間神社へ向かう。ここは平安時代から続く由緒ある神社であり、社殿も非常にユニークな二重構造になっていた。歴史的にも、徳川家康が武田との合戦の際に焼き払ったと書かれており、武田が陣を敷いた背後の賎機山には古墳もあるというから見どころ満載である。

だが私がここに来た目的は神社ではなかった。きれいな池の近くに建つ石碑を見るため、というと怒られるだろうか。『丸尾翁頌徳碑』は明治初期に牧之原を開拓した丸尾文六。その牧之原開拓にも尽力し、旧幕臣から県知事となった関口隆吉の『従三位関口君之碑』。『阪本藤吉製茶之碑』は幕末に宇治茶製法を招聘した伊久美の阪本藤吉。茶業関係の古い石碑が3つも並んでいるのは、実に珍しいがいかにも静岡らしい。個々の人物の業績や生涯については、これから折に触れてみていくことになる。

神社はほぼ見ずに次に歩き出す。道なりに歩いていくと、富春院の前で足が止まる。そこに建つ石碑の中の『中村敬宇 西国立志伝』という文字に目が留まった。幕府の儒者、中村がイギリスに留学して書いたもので、明治初期の若者に愛読された。あの渋沢栄一も大河ドラマの中で読んでいたように思う。その中村はここの出身だったのだ。そしてこの富春院、昔はここに寺があり、今川義元の墓所であったらしい。

その義元の墓がある臨済寺もすぐ近くにある。すごく静かな禅寺であり、義元の知恵袋であった雪斉が開山。竹千代(家康)も人質時代、雪斉の教えを請うていたからこの寺にもよく来たであろう。またここには聖一国師の茶祖堂もあるとのことだったが、一般公開日以外は修行の妨げになるとして、堂に近づくこともできず、引き揚げる。

近所の公園の中に市立図書館を見つけたので寄ってみたが、残念ながら休館日だった。仕方なくとぼとぼ歩いていくと、結構暑くなり、また朝早く起きて腹が減ってきた。ちょうど目の前に蕎麦屋が現れたので、そこで親子丼とそばを食す。年配の女性たちが忙しそうに、しかし楽しそうに働いていてよい。

食後結構歩いて清水山公園に到着。公園入口に大谷嘉兵衛像がはっきり見えた。なぜここにこの像があるのだろうか。資料によれ戦前の1917年に大茶商を顕彰するためこの地に建てられた像は第二次大戦中供出されてしまい、戦後の1965年茶業の復興と共に、行政と有志により再建されたらしい。大谷が静岡茶に果たした役割も、今後じっくり見ていきたいところだ。

静岡には何度も来ているが、しずてつ(静岡鉄道)に乗ったことがなかったので、清水公園の最寄り駅、音羽町から乗ってみた。しずてつは戦前創業で、一時は東急の傘下に入り、あの五島慶太が会長をしていたらしい。台湾で茶業をしていた頃だが、何らかの繋がりがあるのだろうか。まるちゃん列車に乗り、数駅行って、県立美術館前駅で降りた。Suicaが使えるので快適だったが、降りる時、『入場』にタッチしてしまい、Suicaが作動せず焦る?ボケは確実に進行している。

日高・川越日帰り茶旅2022(2)高林謙三と川越

川越で

高麗川駅に戻り、JRで川越を目指した。何とも言えないのどかな電車旅だ。川越は半年前にも何気なく散歩した街だが、今回ははっきりとした目的があり、駅を降りてまっすぐにそこに向かっていく。だが川越が侮れない歴史の町。突然『あんたがた何処さ』という動揺は、幕末討幕軍がここに駐屯した際、近所の子供とのやり取りが歌になったという看板を見る。この地を仙波山という。

そこに中院という立派な寺があり、入ってみると庭がきれいだった。どうも由緒正しい。説明を読んで驚く。『830年伝教大師最澄の弟子、慈覚大師円仁が一寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院の勅号を(天皇より)賜る。この星野山無量寿寺仏地院が中院』とある。更にその横には仙波東照宮という名前も出て来る。なぜこんなんところに東照宮があるのだろうか。徳川家康の遺骨を久能山から日光へ移す際、ここに数日逗留したといい、これを記念して、あの天海僧正が建立したという。中に入っていくと急な階段があり、そこを登ると葵のご門が見える。

東照宮の横に、ようやく目的地、喜多院を見出す。敷地が相当に広い。ここは平安時代に開かれた寺で、先ほど登場した天海僧正も住職をしていたといい、天海像もある。それで家康が庇護した。天海が家康の信頼が厚かったことが分かる。天海は108歳で亡くなったらしいが、その長寿ゆえに時代劇などでは政局を動かす悪役扱いを受けている。五百羅漢などもあり、実に立派な寺である。

だが私がここへ来たのは、高林謙三の記念碑があると聞いたからだ。ところが記念碑はいくつもあるが、文字が消えてよく読めないものがあり、見付けることが出来ない。社務所に確認してようやく場所を突き止めたが、何が書いてあるのかは分からない。隣には川越鉄道関連の石碑が建っており、僅かに読めた文字の中に増田忠順の名前を見つけて満足する。写真は逆光でうまく撮れない。いずれにしても高林がここ川越で顕彰されていることは分かった。

社務所に寄ったのは大正解だった。ついでに高林の墓の場所も教えてもらった。墓は喜多院から数百メートル離れた墓地にあったので、聞いていなければ辿り着けなかっただろう。高林夫妻の墓はそれほど大きくはないが、ちゃんと説明書きが建っており、すぐにわかる。ここでも高林の顕彰が進んでいる様子が窺える。

更に歩いていくと、住居表示が小仙波町となる。ここは高林が茶園を開いた場所らしいが、勿論今やその面影は全くない。日高生まれの高林だが、佐倉順天堂で医学を学んだ後、この地で医業を開業し、藩主の御殿医にもなったのに、茶業者に転換した。何とも劇的な人生ではないか。

川越市博物館に高林の展示があると聞き、川越城本丸跡の横に美術館と共にある博物館を訪ねてみた。受付で『高林謙三』というと係の人が展示場所まで案内してくれ、展示は少ししかないと言いながら、以前開催した特別展示のパンフレットまでくれた。実に親切な対応だった。

高林の紹介は勿論、蒸し器や粗揉機など彼が発明して特許を取得した製茶機械の展示もあり、また河越茶の歴史、川越鉄道に関しての説明もあった。焼き芋屋の屋台の展示など、いかにも川越らしい。昔芋ほりといえば川越だった、川越に来たこともあったはずだと急に思い出す。更に歴史が知りたくなり、図書館にも寄って、資料を探した。時間はどんどん過ぎて行ったが、狭山茶を含めて資料もそれなりに集まり、充実した1日となった。

帰りはJRではなく、本川越駅の方が近かったので、そこから電車に乗る。こちらは西武新宿線。私には地理感覚がなく、頭がごちゃごちゃになったが、これに乗って行けば、新宿まで運ばれていくので安心しながら寝入る。さすがに今日も疲れた。西武新宿から乗り換える際、ついでに蕎麦屋に行き、カレーとそばを食べて締めくくった。

日高・川越日帰り茶旅2022(1)高林謙三を探して日高へ

《日高・川越日帰り茶旅2022》  2022年3月1日

2022年も2か月が過ぎたが、旅には全く出ていなかった。コロナ恐るべし。まん防なる言葉の意味も分からなくなっている。花粉はそれほど飛んでいないのだから、単に寒いから外に出ないというのもある。しかしそれでは体調が悪くなるので、散歩だけは欠かさず続け、スマホの万歩計をインストールして、歩数も図ってみた。

そしていよいよ旅に出る前の練習として、日帰り旅を1回やることにした。場所は埼玉、日高川越。昨年も一度訪ねているが、今回は的を絞っている。あの佐倉順天堂で学んで医師となった高林謙三を探す。

3月1日(火)日高へ

朝8時過ぎ、京王線を新宿とは反対方面の電車に乗る。分倍河原で乗り換え、南武線で立川へ。さすがに通勤時間帯で、乗客は多い。そこから青梅線で拝島へ行き、八高線で高麗川駅まで行く。拝島ハイボール、何と広告を見ると、本当に最近はご当地物の売り込みが多いと感じる。

初めて降りた小さな高麗川駅。確か近くにある高麗神社には行ったことがある。駅の案内板に『製茶機械発明者 高林謙三翁生誕の地 北2.5㎞ 徒歩30分』と書かれているのが何とも嬉しい。

本日の目的は高林謙三の足跡を辿ることだった。取り敢えず生まれ故郷である日高へ来れば何かあるだろう、という程度の軽い気持ちだった。だが駅前にもかなりひっそりと『高林謙三翁生誕の地』という石碑が見付かる。ここで高林はかなりの有名人であることが分かる。

そこから約30分、平沢天神社を目指してフラフラと歩いていく。いい感じの田舎道で、途中に茶畑も少し見られた。天神社の看板を見ながら入ろうとすると、そこでお目当ての『高林謙三生誕之地』と書かれた石碑に出会った。その後ろに申し訳程度に茶樹が一株植えられている。そうか、ここで高林は生まれたのか。天神社にお参りしてから去る。

すぐ近くの住宅の前には、『高林謙三翁 桑田衡平翁 兄弟誕生の碑』という真新しい石碑があった。最近高林謙三を顕彰しようという動きも感じられる。高林の弟桑田衡平も佐倉順天堂に学んで医者となり、地域に貢献した人物だという。貧しい中から優秀な兄弟が生まれている。

そこから駅の方向へ戻ると、古そうな醸造所がある、酒飲みならちょっと寄っていくところだろうが、私には無縁の場所。その先の高麗川を渡ってだいぶん行くと日高市生涯学習センターに辿り着く。そこには実に立派な高林謙三の像が聳え立っていた。これなら地元の人も興味を持つだろう。

そこには図書館も併設されており、そこで高林謙三関連の資料を探し、特許を取得した製茶機械の詳細な内容などを、コピーを取ってもらった。高林がどのような人で、佐倉順天堂とどう繋がり、なぜ医者から茶業者に転身したのか、といった素朴な疑問を解いていく材料が手に入ってよかった。やはり地元にしかない物があるから、やってくるのだ。

何だか急にお腹が減ってしまった。するとセンター近くにかつやというとんかつのチェーン店があったので、思わず初めて入ってしまった。かつ丼セットを注文すると、みそ汁とサラダが付いて、これが安い割に意外とおいしい。所謂コスパが良いのだ。最近のチェーン店の食べ物の質は確実に上がっている(上がっていなければ生き残れない)。だからコロナ禍の要因だけではなく、昔ながらの店が閉店に追い込まれるのかな、と思ったりする。

青春18きっぷで行くいわき・山形2021(3)山形から東京まで

12月23日(木)山形から東京まで

今朝も天気は悪くなかった。本当は山寺へ行きたかったが、階段が多いこと、そして滑ることなどを考慮して今回は遠慮した。まずはゆっくり朝ご飯を食べる。ここは初めて泊まるホテルチェーンだったが、郷土料理がふんだんにあり、小皿に分けられているものも多く、実に食べやすかった。従業員の対応も良く、次回からはこのチェーンを使おうと思うが、ただ大浴場が無いのが難点だった。

午前中は山形市内を散歩することにした。まず昨日建物だけを見た郷土館に入ってみる。ここも無料だった。前の建物だけでなく、後ろにも続いており、中庭がある構造だった。内部も非常にレトロな雰囲気で、素晴らしい。元病院ということか、部屋数が多く、展示もかなり多い。

街を歩いていると、古めかしい建物も多く、また古めの教会なども見られ、思ったより楽しい。専称寺まで歩いていく。ここは最上義光の娘、駒姫の菩提寺だという。駒姫は僅か15歳で豊臣秀次に嫁いだが、その後すぐに秀次が切腹。駒姫も三条河原で処刑されるという悲劇の姫である。奥の方にポツンと黒髪塚があるのが何とも悲しい。

駅の方へ戻っていくと、三越があった。地方都市からデパートが撤退する中、何だかホッとする。山形駅は今年120周年を迎えたとある。さあ、帰ろう!まずは米沢へ向かう。山形の次の駅が蔵王。私はスキーをしたことがないので、ここに来ることはなかったが、名前は有名だ。

米沢まで50分弱。ここで福島行に乗り換える。向かいに特急が停まっており、こちらに乗りたい気分だが、そこは18きっぷの悲しさ。そこから1時間強で福島なのだが、この間にトンネルや工場のような屋根に覆われた駅がある。この辺が豪雪地帯なのだと分かり、またなぜ山形市が県庁所在地なのかもよくわかる気がする。このような気づきが各駅停車の旅である。

そしてトンネルを越えると雪国ではなく、快晴の地に出た。米沢‐福島間約50分で、ここまで天候が違うとは驚きであった。福島駅に着くと、東北本線への乗り継ぎに時間があったので、そばでも食べたいと思うのだが、駅の外にあるのだろうか。駅員に聞いてみると何と『新幹線の改札を入ったところにある』といい、また『新幹線改札で蕎麦食べたいといえば入れてくれるから』と人懐っこい福島弁で言われ、何だかほっこりする。

試しに行ってみると、出場券を渡され、確かにすぐに入れてくれた。こういうニーズはあるのだろう。かき揚げうどんを食べたが、ネギもいっぱい入れてくれ、格段に美味しく感じられた。食べ終わると何事もなかったように在来線に戻って、新白河行に乗り込む。意外と混んでいて驚く。

新白河まで約2時間、途中の郡山からは1年前の冬に会津若松から乗った路線だった。ここから黒磯行に乗り換えて、黒磯に着く頃には日が暮れていた(黒磯からは首都圏、が思い出される)。更に宇都宮まで1時間弱の行程だった。今は小刻みに乗り換えなければならず、何となく不便だが仕方がない。宇都宮からは湘南新宿ラインに乗りだけなので、この旅はもう終わったようなものだったが、何となく宇都宮駅の外へ出た。

先日浜松で餃子を食べたので、宇都宮でも食べてみようかと思ったのだ。この2つの都市は長年その消費量1位、2位を争っていたが、今年は宮崎が1番だったらしい。因みに私は栃木市というところで育ったが、宇都宮が餃子で有名な街だと思ったことはなかった。その有名店も駅にあるとのことだったが、意外と駅が分かり難く、何とか別の餃子屋に辿り着く。

狭い店なので、コロナ対策がきっちり行われており、ちょっと緊張する。入ってくる人もほぼ旅行者。それほど腹が減っているわけではないので、餃子シングル(餃子6個)セットを注文するが、なぜはみそ汁がバカでかい。何とか食べ終えて、急いでホームに戻り、次に電車に間に合った。小山を過ぎると、そこからは昔よく乗った路線なので、急に安心感が出て眠り込む。気が付くといつしか池袋、私の終点新宿はすぐだった。

今回18きっぷを5日使い切った。初日の新宿‐京都はかなり儲かったが、その後はそれほど節約にはならなかったように思う。それでもSuicaが使えるかどうか気にすることもなく、また途中下車が自由なので、この切符もこれからまた使えそうだとわかる。ただJRの廃線が続く中、事前にちゃんと調べて行かないと、使えない区間が増えていることは頭が痛い。それより在来線の旅に風情がなくなりつつあるのが、何とも残念だ。

青春18きっぷで行くいわき・山形2021(2)初めての山形市

1時間半ほどで仙台駅に到着した。ここ仙台は私にとっての鬼門。18歳での失敗以降、どうしても足が向かない場所(先月も新幹線で通り過ぎた)。前回この駅で降りたのはちょうど25年前。それも確か乗り換えただけ。そして今回も乗り換えのみ。腹が減ったのでエキナカの駅そばで『鶏唐揚げカレー南蛮』を頂く。何だかいい所取りしているうどんで、しかもご飯が付いており、カレー汁をご飯にかけて食べるという贅沢品。完全に腹が苦しくなるまで食べ続けた。

18きっぷは途中下車自由なので駅の外へ出て少し散歩する。確か伊達政宗像があったなと探したが見つからない。本当に駅の周りを一周したが目ぼしい物もなく、過去の記憶もなく、すぐにホームへ行き、山形行電車に乗る。仙台‐山形が各駅停車で僅か1時間20分というのは今回初めて知る。それほど近い距離、利便性の面から海沿いではない山形市に県庁が置かれたのだろうか。

この辺の地名も読みにくい。秋保温泉はその昔の旅行ガイド試験で覚えたので読めたが、その駅名『愛子』は読めなかった。作並という駅にはニッカウヰスキーの蒸留所の広告が出ていた。面白山高原は何ともおもしろい名前だ。この辺から雪が積もっているのが見える。山寺という駅では思わず降りたくなったが、山寺までの所要時間、後続電車などを調べていなかったので、まずは山形へ向かう。

山形で

山形駅の通路には舞台『マイフェアレディ』の広告が出ていたが、そこに神田沙也加の名前を見て複雑な思いとなる。わずか数日前に命を絶った彼女。生きていればここで公演していた筈だった。駅前の宿へ行くと、新しい建物で非常に対応も良く、かなり気分が晴れた。山形に雪はなかった。それにしても山形駅の裏側は、広々とした敷地、ゆとりの空間が広がっており、心地よかった。

宿に荷物を置き、晴れた山形の町を歩く。宿から駅と並行に行くと、山形城跡があった。今は公園になっているが、本丸跡の公開は冬は行っていない。城跡に山形市郷土館という洋館が建っている。明治初期の偽洋風建築、もとは県立病院だったという。城内には最上義光像が建っている。馬に乗り如何にも戦国武将といった格好だ。関ケ原の戦いの折、会津上杉勢と戦い、その進軍を食い止めたのが最上だった。その功績は大きい。城の堀も深いし、城門も立派だ。

城外へ出ると最上義光歴史館があった。実は最上は連歌に優れ、茶の湯もたしなむ文化人だったので、その歴史と人脈を知りたかったのだが、あいにく休館中だった。この時期観光に来る人などほとんどいなのだろう。歴史館の前に建つ最上義光像は戦国大名ではなく、文人として描かれているのが面白い。

もう少し行くと病院の敷地の脇に『イザベラバード顕彰碑』があった。イザベラバードと言えば、明治初期に日本などを旅した有名なイギリス人女性旅行家だが、1878年にここ山形を訪れ、その発展の様子を著書『日本奥地紀行』に記しているとある。バードは日本各地を歩いたと思われるが、このような顕彰碑を見たのは初めてだった。彼女の著書を読み返してみようか。

山形県郷土館、文翔館に立ち寄る。ここは大正時代に造られたレンガ造りの旧県庁。館内の展示は予想をはるかに上回る充実ぶりで山形の歴史、特に江戸期の物流、明治以降の変遷に興味深い内容があり、満足した。おまけに入場無料だから驚く。山形というところは意外に文化都市なのではないだろうか。

次に出羽国分寺薬師堂へ行く。聖武天皇の命で全国に建てられた国分寺。ここは当時の最北端ではなかろうか。国分寺の場所については諸説あるらしいが、江戸時代にはここ柏山寺に薬師堂が移されていたらしい。芭蕉の記念碑や戊辰戦争の薩摩戦没者の碑などもある。それからちょっと最上川(馬見ヶ崎川)を眺めに行く。

最後に教育資料館を訪ねたが、既に時間が遅く閉まっていた。ここも立派な建物だった。そこからテクテク30分以上かけて駅まで戻ってきた。駅内に平田牧場というとんかつ屋があり、何と6時まではとんかつ定食が660円(通常1210円)で食べられるとのことで、思わず食す。平田牧場も山形の会社、地元のおいしい豚を頂き、至極満足する。夜は大人しく、きれいな部屋で休む。

山形県に宿泊するのはこれが初めてとなる。これで1泊もしたことがない県は、47都道府県中埼玉と香川の2県のみとなる。2022年度中には全県制覇の見通しだ。