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滋賀中心の関西茶旅2022(10)

何となく六波羅蜜寺へ行く。以前も来たことはあるが、振り茶の歴史に空也上人が登場したので、それに関したものはないか探したが、残念ながら見つからず。近くに轆轤町という町名を見て、何かを感じる。そのまま歩き、南禅寺まで進む。そこをさらっと見た後、横道から寺を出ると、野村美術館に出た。

普段なら通り過ぎるのだが、今年は千利休生誕500年ということで、ここでも利休展をやっており、中に吸い込まれてしまう。私は茶道のことは何も知らないので、何を見てもいい勉強となる。続いて昨年訪ねた時休館中だった泉屋博古館にも入ってみる。こちらはゆったりした空間の中、旅する絵画という特別展をやっており、田能村竹田などの絵を見ながら、ちょっと旅した気分になる。

そしてサクラがきれいな哲学の道を歩き、法然院まで行く。ここは予想以上に古びた、静かないい感じの寺だった。私がここに来た理由、それは昨日も別荘を訪ねた内藤湖南の墓があるからだった。驚いたことにここには有名人がかなり眠っている。湖南もそういうご縁の中でここへ来たのだろうか。

法然院から下るとこれまたいい感じの洋館が見える。これもヴォーリス建築だという。一体どれだけあるのだろうか。橋本関雪記念館の前を通り過ぎ、辿り着いたのは駒井家住宅。公開日ではないので、外から眺める。これもヴォーリスか。この付近、閑静な住宅街でちょっと京都とも違う雰囲気を感じる。

歩き回って相当疲れてしまい、バスに乗って宿へ戻る。宿の横の寺には平重盛の石碑があり、平家ゆかりの寺らしい。早めにゆったりと大浴場に浸かり、これまでの長かった旅の垢を落とす。ついでに洗濯したかったが、宿内にコインランドリーがなく、歩いて15分もかかるという。雨も降ってきたので大人しくしている。

4月14日(木)京都最終日

今朝も豪華な朝飯に喜びがある。この宿の特徴はこれだ。雨が降る前に府立図書館を目指して歩いた。もう少しで到着というところにふと見ると『山中商会』の文字が見えた。先日NHKの番組で取り上げていた、清朝の秘宝を買い取った日本商人はここだったのか。さすが京都、歩いていれば歴史にぶつかる。今もきれいなパビリオンがあるようだが、まだ閉まっていた。今はどんな商売をしているのだろう。

府立図書館は平安神宮のところにある、実に立派な建物だった。1909年当地に建てられたらしい。明治末期の建物だった。中も非常にレトロだが、レファレンス対応などは非常に機敏であり、大変有り難い。ただ京都府の茶業関連の歴史はそれほど資料が無いようで、調べ自体は苦戦。

それから何となくフラフラ歩き回り、気が付くと先斗町あたりへ出た。そこにあった瑞泉寺。豊臣秀次一族の墓所があった。秀吉により切腹させられた秀次。その際、妻妾、幼児ら39名も三条河原で処刑され、そこに埋められたらしい。それを江戸初期、高瀬川を開削中の角倉了以が発見し、お堂を建てたという。この寺の近所には了以の顕彰碑も建っている。供養塔の中には駒姫の名前をみえる。僅か15歳、輿入れしたばかりでこの悲劇に遭ってしまった。

実は瑞泉寺にはなぜか『岩瀬忠震宿所跡』『橋本左内訪問地』などとも書かれている。岩瀬はあの日米修好通商条約を井伊直弼にも黙って調印したと言われる人物。実は朝廷の勅許をもらうため京都に来て泊った宿がここだったらしい。幕末の志士、左内は安政の大獄で獄死。岩瀬も閑職に追いやられ憤死した。

最後に辿り着いたのが、旧近江屋。ここは坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われ、命を落とした場所である。今はその説明書きが出ているが、目を止める人は多くない。近くには土佐稲荷があり、真新しい龍馬像も置かれている。ここは土佐藩邸にも比較的近い。そして我が宿にも近かった。

さすがに疲れ果てたので、京都を失礼することにして、京都駅までバスに乗り、そこからはまっすぐ新幹線で帰った。今回も実に盛りだくさんの旅だったが、まだ行けていない場所がいくつもあったようで、次回への持越しは更に続く。

滋賀中心の関西茶旅2022(9)恭仁宮,そして善光寺

4月12日(火)恭仁宮へ

翌朝も善光寺捜しを続ける。検索して何とか見つかったもう一つの善光寺。ちょうど行きたいところがあったので帰りに寄ることにした。まずは京都駅から奈良線に乗る。これは宇治へ行く時いつも使う路線だ。木津駅で乗り換えて、加茂駅で降りる。思い出してみると昔和束の茶畑に向かった際、ここで降りてバスに乗ったのが懐かしい。

今日はここから歩いて恭仁山荘を目指す。古い街並みを抜けて木津川を渡ると、畑が見えてきて、極めて静かな田舎の風景に出会う。更に進んで少し登ると到着した。ここは旧内藤湖南邸(大学退官後隠棲した場所)だが、現在は関西大学の管理となっており、中を見ることはできない。門の前には記念碑が建っている。京都大学の教え子、貝塚茂樹、小川環樹(共に湯川秀樹の兄弟)などの名が見られる。これだけでも湖南がどんな人物かが少しわかる。

内藤湖南については、彼がジャーナリスト時代、植民地初期に台湾に1年ほど滞在したことに興味を持ったが、今や『志那論』など読むべき書を残した人物として認識している。現代中国を見る上で、その歴史を詳細に解析しており、その論には腑に落ちる点が多い。そんなこともあり、何となくここへ来て見たくなったわけだ。現在でもかなり静かなところだから、昔は相当な田舎であっただろう。湖南を訪ねて駅から歩いてくる人がこの山荘から見えたという。何となく『在家出家』という言葉を思い出される。

戻り路、きれいに整備された茶畑を発見する。よく見ると山の方も含め、周囲にいくらかある。さすが和束に近い。まっすぐ駅には行かず、国分寺跡に寄り道する。恭仁宮は聖武天皇が作った宮だが僅か4年で終わり、その跡地を利用して、山城国分寺が出来たとある。広い空間に支柱跡が点々と残る。その横に小学校があり、子供の声が聞こえるのは何となく幻想的な光景だった。学校の裏にも太極殿跡などがあり、かなりの規模であったと思われる。この付近は古代史の宝庫だろうが、その知識がないと何も分からない。

帰りに桃山駅で降りて、懸案の善光寺に向かう。お寺に声がけするとわざわざご住職が自らお墓に案内してくれた。『佐藤百太郎の墓』は大きくて目立つ。千葉の佐倉順天堂に生まれながら、ニューヨークへ渡り、貿易商社を興し、日本で初めて日本人の手による、アメリカ向け日本茶(狭山茶、佐倉茶)輸出を成した人物だ。明治初期の茶業史でもっと扱われてよいと思うのだが、今やだれも知らない。だが最終的に結果が伴わず、失意の帰国となり、理由は解明されていないが、京都に住み、そこで最期を迎え、ここに葬られている。周囲には佐藤家の墓がいくつか見られ、百太郎の子孫が今も墓を見ているという。

京都駅まで戻り、宿で荷物を引き取り、バスで四条へ行き、今晩の宿を探して荷物を預けて、またバスに乗る。午後は久しぶりにIさんを訪ねることになっていた。Iさんは体調を崩し、入院していたが、最近退院したので、金閣寺近くまで顔を見に行った。まだ万全ではないと言いながらお茶を淹れてくれ、久しぶりに楽しく会話した。夕方四条に用事があるというのでIさんと共にバスで出掛け、デパートへ行き、夕飯もその辺で食べた。長期入院すると色々と用事がたまっているという。やはり健康は大切だ。

4月13日(水)京都街歩き

宿の朝ご飯が立派でうれしい。この宿、実はお寺とくっついており、お寺見学などコラボ企画もあるという。そして何と朝飯時に『目覚めの煎茶』なるものが出される。ただ出てきたお茶が掛川茶でビックリ。全国の煎茶を紹介するというオーナーの発想らしいが、京都で掛川茶は何とも珍しい。

今日もフラフラ街歩き。鴨川に出ると、東華菜館という立派な建物が見える。中華料理だが、建築はあのヴォーリズだと聞く。スパニッシュ・バロック、ヴォーリズ唯一のレストラン建築とある。1926年建造。ここで一度料理を食べてみたいが、一人では無理かなと、先へ進む。

滋賀中心の関西茶旅2022(8)敦賀、そして京都

4月11日(月)敦賀の町

昨日は敦賀を歩かなかったので、まずは気比神宮に向かう。実はこの街、商店街は銀河鉄道999で詰め尽くされている。松本零士の出身地かなと思ったが、何だか違うようだ。その商店街を抜けると気比神宮があった。大鳥居の写真を撮ろうと思ったら、修学旅行の一団がその場所を占拠している。尚この大鳥居、明治に国宝に指定されたが、現在は重要文化財とある。格下げってあるんだね?

仕方がないのでその横をすり抜けて、神社内へ。神社はさすがに貫禄があるが、なぜかここにも芭蕉の像があり、句碑もある。そこから少し歩くと永賞寺という寺があり、そこに大谷刑部の供養塔があった。あの関ヶ原で散った西軍の猛者もこの地の出身だった。更に金ヶ崎城跡を目指して歩いて行く。

敦賀と言えば真っ先に思い出すのは、織田信長が袋のネズミになった、あの金ヶ崎撤退戦だろう。だが掲示板を見ると、何と南北朝時代、後醍醐天皇の御子と新田義貞の長男がここで戦死しているとある。金ヶ崎には意外な歴史があるようだ。まずは階段を上り、金崎宮へ詣でる。

そこから更に上っていくときれいに咲くさくらの下に、尊良親王御墓所見込地と金ヶ崎城跡の表示が見える。尊良親王は実際にはここに埋葬されることはなかったようで、この名称になっているのだろう。新田の軍勢300人余りと共に自刃したらしい。そして退き口の説明書きも見える。こちらは多くの時代劇で扱われているので、知っている人も多いと思われるが、殿を引き受けた秀吉が活躍する話となっている。

更にきつい登りを上がると、頂上には金ヶ崎古戦場とあり、そこからの日本海の眺めはかなり素晴らしい。帰りは別の山道から降りていくこともできた。下まで降りて歩くと、レンガ倉庫が見えてくる。その先には旧敦賀駅舎が資料館として建っている。敦賀は大陸との重要な接点であり、杉原千畝が助けたユダヤ人難民もここに上陸した。

中の展示を見ていると、新橋‐金ヶ崎は戦前週3本走っており、そのまま敦賀港発ウラジオストク行定期航路に連絡していたとは全く知らなかった。そもそも敦賀港はウラジオストクでシベリア鉄道の建設が始まったことで開かれたらしい。この時代にはこんなダイナミックな発想があったんだ。敦賀港を開いたのは、大和田荘七という人だという。市役所前にも立派な像が建っている。

港の近くには今でも木造の旧家がいくつも残っていた。敦賀城の跡を探すと真願寺という寺になっており、そこにも大谷吉継の名が出て来る。またこの付近にも芭蕉逗留の宿跡がある。芭蕉は旅の記録を残しているから、300年以上前の人間とは思えないほど、顔を出してくるのが面白い。

最後に本勝寺へ行くと『水戸烈士幽居之寺』の石碑があった。1864年武田耕雲斎が率いる水戸天狗党は、尊王攘夷を唱えて挙兵したが、最終的にここ敦賀で捕縛され、300名以上が処刑されるという悲惨な末路を辿った。処刑場所とお墓は別のところにあるようだが、そこまで行く時間はなかった。

京都へ

宿で荷物を引き取り、京都行の電車に乗る。来る時は湖西を走り、今回は湖東を走っている。先日訪ねた比叡山や坂本を通り過ぎ、1時間半で京都駅に着いた。敦賀と京都は歴史的にも近い。京都駅前の宿に荷物を置くと、すぐに本日の行動を開始する。Googleで善光寺という寺を探すと京都から一駅だと分かり、さっき降りたホームからまた乗る。

一駅で降りて歩き、善光寺に到着したが、そこは実に小さなお寺で、墓石がいくつか見えるが墓所はない。おまけに人は誰もおらずに尋ねることもできない。私は『佐藤百太郎の墓』を探しあぐねてしまったが、如何ともしがたい。仕方なくまた電車に乗り、京都駅へ戻る。

ちょっと急いだのには訳がある。駅の裏側にある店でうどんを食べたかったのだが、何と午後5時に閉まるとある。もう4時過ぎていたので、慌ててその店に辿り着くと、まだ暖簾が出ていて助かった。中に入ると、この時間でも結構客がおり、お稲荷さんなどは売り切れていた。

迷わずに『名物きつねうどん』を注文。お揚げとネギがたっぷり入り、生姜の効いたあんかけ汁が異常に美味しい。600円は満足できる値段。隣の客は横浜から食べに来たと言っていた。店のおばさんたちも笑顔で何とも愛想がいい。もうちょっと遅くまでやっていてくれれば、今後もチャンスがあるだろうが。

今日の宿は函館で泊って気に入っていたところだが、京都駅前は部屋も大浴場も狭いし、朝食もビュッフェはなく、簡単な定食でちょっとガッカリ。道理で駅前なのに安いわけだと理解したが後の祭り。まあ荷物を置くにはとても便利な場所ということで。

滋賀中心の関西茶旅2022(7)敦賀から小浜へ

4月10日(日)敦賀から小浜

朝ご飯を食べるとすぐに宿を出て石山駅からJRに乗り込む。米原までは何度か乗っている路線だが、日曜日の朝、しかも天気が良いので乗客が多い。更に米原から敦賀行に乗り換えると、何と満員電車並みの混雑で驚く。既にコロナも過去のものになったのだろうか。ただ長浜でかなりの人が降りてしまい、後は普通に戻った。長浜は秀吉が築いた最初の城(町)で興味があるので、次回訪ねてみることにしたい。敦賀まで2時間の電車旅は何事もなく過ぎていく。

敦賀駅に着くと、駅にある観光案内所で周辺の情報を仕入れる。ちょうど小浜方面に興味があったので、そのまま向かうことにした。荷物だけ宿へ置いて、すぐにJR小浜線へ。ここではもうSuicaは使えないので切符を買う。1時間ほど、車窓から田舎の風景を見ながら過ごす。ところどころにサクラが見える。日本は本当にいい国だな、と思う瞬間である。

小浜駅に着くと、観光案内所で地図を貰い、食文化館へ向かう。途中海辺に出ると、ここが拉致被害の現場ではなかったのかと急に思い立つ。全く穏やかな田舎町で一体何が起こったのだろうか。食文化館は無料だが、係員も誰もいなかったので質問することもできず、ただ見学するだけとなったのは、残念でならない。なれすしなど発酵文化に関する展示があり、興味を惹かれる。また京都までの鯖街道の起点でもあり、この付近が日本発酵食品の発祥地と言えるかもしれない。これと後発酵茶は何か繋がるのだろうか。

ついでに小浜城跡にも行ってみる。ここは酒井忠勝が川越より移封されてきた土地だった。それだけ重要性があったということだろう。小浜と言えば、あの杉田玄白や幕末の梅田雲浜が小浜藩士であったことは決して偶然ではあるまい。市内にはこの二人に関する記念碑などがいくつか見られたが、地元の人も雲浜などはどの程度知っているのだろうかと思ってしまった。

バスで隣の東小浜駅へ行こうと思ったが、国分寺跡があることが分かり、そちらへ向かう。運転手にどこで降りたらよいかと聞くと『おにゅう』という。漢字で書くと『遠敷』、まず読める人はいないと彼も笑っていた。国分寺のある場所は盛り上がっていた。きっと古墳に違いない。その向こうに復元された現在の建物がある。私は全国でいくつの国分寺跡を巡ったのだろうか。ほとんど何もないのだが、なぜか惹かれてしまう。

東小浜駅の近くに歴史博物館があったので、ちょっと見学する。それから駅へ行ったが、ここはICカードが使用できない上、切符の自販機もないため、窓口で駅員から切符を買わなければならない。敦賀へ帰っても良かったが、三方に寄ることにしてそこまでを買う。Suicaならどこで降りるかを降りる時決められるのだが。

三方駅まで行く。ここで降りたのはズバリ、若狭の黒茶を調べるためだったが、何のツテもないので、取り敢えず図書館へ行ってみることにした。図書館の係員2人は共に私よりは年上と思われたが、ここで黒茶が作られた歴史を知りたいと言ってみても、何と『黒茶はおろか、この地域で茶を作っていたことも知らない』という驚きの回答だった。

ただ非常に協力的な人々で、様々な資料を探してくれたり、県立図書館に問い合わせをしてくれるなど、極めて有難い対応であった。この地域では昔から番茶が良く飲まれており、黒茶も番茶に含まれていたかもしれず、またこの付近は明治期はどこでも茶を作っていたらしいという話になった。またご多分に漏れず、町村合併などで、昔の地名が分かり難くなっていることもよく分かる。

まあ突然やってきて成果が上がるほど甘くはないとは分かっていたので、落胆はしなかったが、50年以上前の歴史とは言え、予想以上に茶に対する関心がなかったことが、何とも不思議に思われた。歴史はそんな簡単に消えてしまう物なのだろうか。帰りに駅で電車を待っていると、夕日が落ちてきて、サクラと相まって幻想的な風景が出現した。これを見られただけでも今日は良しとしよう。敦賀駅でにしんそばを食べて長い一日を終える。

滋賀中心の関西茶旅2022(6)比叡山、義仲寺、瀬田の唐橋

Yさんはどうしても比叡山で茶の木を探したいという。唯一昨日言われたのが、信長の叡山焼き討ちで焼けなかった瑠璃堂付近にあるらしいという不確かな情報のみ。仕方なく比叡山スカイラインを車で登って行ったが、何と料金が2400円もして驚く。道理で車が少ないわけだ。

上までいき、目印の駐車場で車を降りたが、瑠璃堂は見付からない。山中ではGoogleも当てにならない。かなり迷って山道を右往左往した後、何とか到着。そこには古びたいい感じのお堂があり、その向こうに確かにほんの少し茶樹があった。ただお坊さんに聞いたところ、が30年前に植えたやぶきただという。そして『比叡山に茶はない』とダメを押される。

折角高いお金を払って来たので展望台まで行ってみた。なぜかこんなところに植物園もある。ここだと琵琶湖や大津だけでなく、大阪や京都の町が見える。山頂は更に上にあったが、もう行かなくてよいだろうと下り出す。そのまま下まで降りていき、唐崎神社を目指す。

ここは琵琶湖畔にあった。午前中に行った梵釈寺跡、嵯峨天皇は唐崎に行幸したのだから、当然この神社に立ち寄っただろう。そして今は枯れたように曲がっているが、大きな松を見ただろう。何とも非常に景色の良い琵琶湖だった。ここでYさんとお別れして、一人歩き出す。

この付近には戦国末期、あの明智光秀が坂本城を造営した。今は公園になっており、なぜか光秀像に近寄ると光秀を歌った演歌が流れて驚く。琵琶湖のほとりで、ここも風景が良く、サクラもきれいだ。本能寺の変後、坂本城は炎上し、城は大津へ移っていく。近所には明智塚もあった。明智は四国で生きていた、などの説もあるが、明智一族はどうなったのだろうか。

京阪電車に乗って宿まで戻る。疲れたが、この宿には大浴場が無いのが悔やまれる。腹も減ったので、晩御飯にカレーを食べに行った。肉カレーという名前だが、歳の私には死ぬほど多いステーキ?が入っており、完食するのにかなりの労力が必要だった。帰りは腹ごなしにかなり散歩してから戻る。

4月9日(土)義仲寺と芭蕉

今日も天気が良い。早々に歩き始める。宿の近くに大津事件の裁判が行われた大津別院跡があるはずだったが、なぜか見付からない。旧大津公会堂はレンガ造りのいい感じの建物。そこから市立図書館へ回ったが、何と10時開館と書かれており、閉まっていたのには驚いた。コロナのせいだろうか。

待っている時間が無駄なので、京阪大津から電車に乗り、京阪膳所駅へ移動。そこから歩いて義仲寺を目指す。ここは昨晩散歩中に偶然発見した場所で、木曽義仲ゆかりの寺だと思い、見学した。義仲寺は小さな空間だったが、中身は濃かった。まずは巴御前の供養塔を見る。そこに書かれていたのは、巴は生き残り、和田義盛の妻になったとある。初めて知った。

その奥に義仲の墓がある。更にその横には何と、松尾芭蕉の墓があるではないか。なぜこんなところに芭蕉が出て来るのか。聞けば木曽義仲を好んでいた芭蕉の遺言だそうだ。大阪で亡くなった芭蕉の遺体を、弟子たちが船に乗せてここまで運んだというから、さぞや大変だったことだろう。芭蕉の句碑は至る所にある。そして奥の池の向こうに見える翁堂。天井は何と伊藤若冲が描いている。この辺の人間関係は面白そうだ。

義仲寺の帰り、大津教会の建物を見た。和風の瓦屋根の上に十字架が載っている。それからまた図書館まで戻ってきた。『滋賀茶の歴史』というテーマで資料を探してもらい、取り敢えず1時間で効率的な作業を行い、朝宮茶、政所茶、紅茶などのコピーを取った。

宿で荷物を引き取り、それを引っ張って京阪で次のホテルへ移動した。そこでまた荷物を預けて、歩いて瀬田の唐橋へ向かう。2日前に橋を通り掛かった時は満開だった桜は既に散りかけていた。この唐橋は古代の壬申の乱、源平合戦、承久の乱など、何度も争いのキーポイントになっている、まさに歴史的な場所。今はきれいになっておりその雰囲気はない。

そこから川沿いをゆっくり歩いて石山寺へ。花吹雪が何とも心地よい。ここは寺がテーマパーク化しており、かなり広い敷地、山沿いには芭蕉と紫式部の像などがあり、散策コースになっている。かなりの起伏や階段を歩き、膝が痛くなってしまった。それもあり、寺から歩いて県立図書館に向かうつもりが、断念。高速道路の端を歩いて渡れるのかも良く分からなかった。

バスで駅前へ戻り、特に期待もせずに観光案内所で歴史的な場所を聞くと、『今井兼平の墓は歩いて行けます』という。10分ほど歩くと、思っていたよりかなり立派なお墓があって驚く。この近くが兼平最後の地。兼平は理想の武士だったのだろうか。巴御前とは兄弟だったのだろうか。

芭蕉の幻住庵にも行ってみた。かなり近かったが、中に入ることはできなかった。トボトボ帰る途中、東レ、日本電子硝子、ロームなど大企業の工場が並んでいた。宿へ行き、チェックイン。駅前で簡単に夕ご飯を済ますと、湖畔を散歩する。粟津と書かれている。風が気持ちよい夕暮れ。

滋賀中心の関西茶旅2022(5)三井寺、梵釈寺跡、日吉茶園

突然の訪問だったので、簡単な質問をしただけですぐに大津に向かった。ここから琵琶湖は思った以上に近い。今日は取り敢えず三井寺へ行くことにしたが、途中瀬田の唐橋などを通り過ぎ、何だか歴史的な場所が多そうだと予感する。園城寺とも呼ばれた三井寺は意外と広いが、既に午後4時近くで、5時には閉まるというので慌てる。

私の目的地は石碑だったが、境内のサクラがあまりにも美しく、しばしば見とれてしまい、時間をロスした。三井寺には1300本の桜の木があるという。今晩はNHKがここからのサクラを生中継すべく、入念な打ち合わせが行われていた。何と我々は最高の日に、不死鳥の寺、三井寺に来てしまったのだ。

観音堂を探すとかなりの上り階段だった。その更に上に、石碑がいくつかあった。一番初めに目に付いた石碑の裏に回ると多田元吉他、明治初期に紅茶で貢献した人々の名がずらっと並んでおり、これが三谷重孝の石碑だと分かった。三谷は滋賀の紅茶製造に大いに貢献した人物であることが石碑から読み取れるが、残念ながらその後歴史から消えてしまい、今は知る人もほとんどいない。

観音堂から下を見ると見事な風景が広がっている。それから急いで境内を一周する。三重塔をはじめ、見るべき建物も沢山あったが、陽がどんどん傾いていき、終了が告げられていく。やむなく門を出て帰路につく。今晩の宿は寺からほど近い場所、Uさんに送ってもらい、チェックイン。因みにUさんは夜ライトアップされた三井寺をもう一度見に行ったらしい。

このチェーンホテルには大浴場があって、ドリンクバーもあるので、いくつかの都市で宿泊済だったが、何とこの街の宿は、大浴場もドリンクバーもなかった。場所によってサービスが違うなんてどういうこと。チェーンホテルの良いところはサービスが均一的なところではなかったの?と言ってみても仕方がない。あとで見たら先ほど三井寺の中継に携わっていたNHKクルーの宿泊場所にもなっていた。

何だかなあ、と思っていると腹が減るのだ。大津駅の方へ少し登って行ったが、駅前も繁華街という雰囲気はない。ちょうどあった蕎麦屋で夕飯を掻き込む。駅前には商店街があったが、何となくシャッター通りという雰囲気だ。帰りにちょっと散歩すると、ニコライ皇太子遭難の碑を発見した。1891年大津事件はここで起こった。首謀者の巡査は死んだはずの西郷がロシアで生きていて、ニコライと一緒に戻ってくると思っていた、との話は興味深い。

4月8日(金)永忠と最澄

朝NHKを見ると、三井寺のサクラをキレイに映していた。その技術はさすがだが、やはりこの目で見る方がさらに良い。Uさんが朝迎えに来てくれた。比叡山方面へ向かう。まずは崇福寺跡へ行く。琵琶湖からかなり上った山の中にその遺構はある。その先は土砂災害で通行止めになっていたが、京都の方に通じているらしい。

崇福寺というか、その近くにあったとされる梵釈寺。平安初期唐から戻った永忠が両寺を兼務し、唐崎に行幸した嵯峨天皇は京都から山越えでここまでやってきたのだろう。なぜ梵釈寺で茶を、という疑問は何となく解けた。ただ現在は豪雨被害で細い道は通行禁止。平安時代は安全だったのだろうか。

湖まで下りて行く途中、茶樹の垣根があるのを発見した。そこには「日本茶の栽培発祥の地」として、永忠に関する説明書きがあった。やはり最澄や空海も重要だが永忠も唐に30年滞在した僧だから、もっと理解して顕彰すべきだろう。その先を曲がると古墳のある寺があった。ここのサクラもきれいだったが、湖を一望できるのもまた素晴らしかった。嵯峨天皇もこの風景を見ながら茶を飲んだのかもしれない。

日吉神社へ行く。駐車場の前で栗を売るおばさんが呼びこんでいる。駐車場代は無料だが、帰りに栗を買う必要がある。湖の方へ下っていくと、駅のまん前に日吉茶園がある。小さな茶園で、看板は出ているが、これが日本最古の茶園、と言われると違和感はある。実際には最澄が持ち帰った茶の種をまいた場所、という意味合いだろうが、その最澄が持ち帰ったという史実も怪しいらしい。女性が一人、黙々と草取りをしていた。

茶園のはす向かいに生源寺がある。ここは最澄生誕の地。説明書きを見ると何と最澄は渡来人の子らしい。当時は実はそれほど珍しいわけではなかったかもしれない。新しい雰囲気の境内では花まつりの準備が進んでいる。花まつりと言えば子供の頃は苦手な甘酒を飲む日と記憶しているが、こちらはどうだろうか。その後桜の咲く道を戻り、日吉神社を少し見学する。入学式後の親子が写真を撮っている。

滋賀中心の関西茶旅2022(4)政所から朝宮へ

お昼は道の駅へ行く。ここはダムカレー(近くに永源寺ダムがある)が名物と言われたが、残念ながら今日はなかった。というよりも昨日からどう考えても食べ過ぎで、腹は全く減っていない。取り敢えずうどんを食べて、後はお店の商品を眺める。地元の人も来てランチを食べている。ダムに沈んだ村があることを思う。

午後は君が畑の木地師ミニ展示館へ向かう。こちらでも展示物を見学して、説明を受け、更にお茶を頂く。君が畑と政所茶などの説明版もあり、また昔の粗揉機も展示されていた。ただやはり木地師と茶の繋がりについては出てこなかった。むしろ管理している方の個人的な歴史に大いに興味を惹かれ、その話がメインになっていく。

更に黄和田という集落へ行く。そこに95歳で非常に元気なお婆さんがいると聞いて会いに行く。確かに95には見えない話ぶりに驚く。そしていまでも現役で農作業をしており、明日の打ち合わせをしていた。家の前には茶畑が広がり、その奥に大きな桜の木が植わっているのが遠目に見えた。何とも幻想的な風景に生きている。

最後に車を飛ばして永源寺図書館へ行き、資料を探した。残念ながら木地師と茶を直接結びつけるものはなかったが、これまでに聞いた様々な話を整理するのに良い資料が見つかり、コピーした。松下先生の寄稿に『木地師と茶は関連があると思うので、木地師研究の中で是非明らかにしてほしい』とあったが、それはなかなか難しいようだ。

宿へ帰ると、またイワナ中心の美味しい料理が目に前に出て来る。食べ過ぎは良くないと分かっていても、出てきてしまえば、腹の中に納めなければならない。一品一品それを繰り返していくと、いつしかデザートまで行き着いてしまい、今日も重たい腹を抱えて寝ることになる。

4月7日(木)政所から朝宮へ

今朝も美味しい朝ご飯を頂き、名残惜しい宿を去る。今日はYさんの案内で、政所の茶畑を見学する。何と言ってもYさんが10年近く心血を注いで守り育てた茶園。川を挟んで、実にいい感じで谷に向かって茶樹がある。畝ではなく株である。話を聞いて風景を眺めるだけで、ちょっと涙が出る。樹齢300年という茶樹が無造作に目の前に現れる。政所茶の歴史が窺われる。

『この地域の人たちは、家が朽ちる前に自分で更地にして出て行く』と言う。放棄茶園が増加する中、いくつも更地になった茶畑に遭遇した。Yさんたちが考えた『一坪茶園主構想』も地元の方々の土地への愛着からとん挫した。潔いが保守的な土地柄。一方この自然環境を愛して移住者は少しずつ増えている。週末畑を管理するグループも増えている。これから政所茶はどうなるのか。

ここでYさんと別れて、我々は永源寺に向かった。入口が分からず裏口に行ってしまう。何とか正門へ回るとそこには階段があり、登れるか不安だったが、段数は少ないというので登っていく。ここは江戸時代彦根藩の領地。井伊家の霊廟がある。門も古風で立派。だが入場料は自販機で買う現代システムだった。

観光客など全くおらず、全体的に非常に静かなお寺だが、お掃除している僧たちに頭を下げても何の反応もなく(禅寺の修行だからか)、何だか殺風景?な気分が漂い、とてもお茶の歴史の話を聞くような雰囲気はない。境内を見渡しても残念ながら茶はなかった。

最後に政所茶を購入しようと道の駅に向かう。何とその場所を完全に勘違いしており、宿の先に道の駅があった。それでもお茶をゲットできたので満足して、政所を去る。ところがこの時また道を間違えてしまい、朝宮まで大回りする。おまけに途中になぜか渋滞まであり、なかなか到着しない。

街道から少し山へ入ったところに茶畑があった。畝の形状が少し変な恰好?その先に仙禅寺と書かれた表示を見つけた。 大きな朝宮茶発祥地の石碑もある。残念ながら観音堂は改修中で、中はよく見られなかったが、非常に静かな山の中で、何とも癒さる雰囲気がある。

朝宮茶は平安初期の最澄に繋がると言われているが、栽培が盛んになるのはもう少し後のことだろう。明治には紅茶も作られたと聞き、その辺を知りたくて、近所のお茶屋さんを訪ねてみた。だが何と定休日。道の向かいにはべにふうきの茶畑があり、和紅茶が作られていることは分かった。

特に宛もなかったので、朝宮を離れて、大津に向かうことにしたところ、運転していたUさんが道路脇の看板を発見。片木古香園と書かれており、何と数年前、無農薬栽培の抹茶を探して訪ねたことがあるというので、いきなり行ってみる。ちょうど店主のKさんがおられたので、朝宮茶について、色々と教えて頂く。

何と言っても朝宮茶の特徴はその独特な味と香り。琵琶湖畔のこの地域独特の気候、寒暖の差に起因するといい、取引価格も他より高いらしい。歴史的に有名な朝宮茶だが、かなりの茶が宇治へ送られ、宇治茶となっているとも聞く。ここのお茶は5月頃作られるが、実は飲み頃は11月だと聞き、何だかミャンマー茶の話を思い出す。

滋賀中心の関西茶旅2022(3)木地師について学ぶ

食後、蛭谷にある木地師資料館へ行く。管理をしている方に開けて頂き、説明も受ける。これにより木地師とはどんな人々かについての知識が初めて入ってくる。轆轤とはどんなものか、実物を見て触ることもできた。ここに展示されているもの、能面など今は実物だが、今後は複製展示に切り替わるらしい。木地師と茶については特に何も出てこなかった。木地師が朝日町に移住したかについても不明だった。氏子狩り帳でも、石川と富山は空白になっている。

白洲正子に『かくれ里』という文章がある。その中に『木地師の村』という表題で、50年以上前にこの地域を訪ねた様子が書かれている。蛭谷から君が畑まで、当時は歩いて1時間ほどかかったらしい。正子は能面に興味があり、その取材が主であったようだが、『木地師に轆轤を教えたのは秦氏(渡来人)』の可能性を示唆しているのは興味深い。

それから惟喬親王御陵へ行く。立派な惟喬親王像がある。親王は文徳天皇の第一皇子だったが、第四皇子が藤原氏のバックアップで天皇となり(武門の棟梁清和源氏の祖、清和天皇)、その影響もあり、出家して隠棲した。その隠棲先の一つとしてここ蛭谷及び君が畑の地があり、惟喬親王が木地師の祖と呼ばれていることは先ほど勉強した。

そこから君が畑に行く。惟喬親王を祭る大皇器地祖神社がある。その横にあるお寺には、やはり惟喬親王の御陵がある。そして木地師発祥の地との説明も見える。どうやら蛭谷と君が畑は、惟喬親王と木地師に関して共に伝承があるようで、ちょっとびっくりした。元茶工場が川の横にあったのも意外だった。ここにドリンクの自販機があった。Nさんは喜んで、ドリンクを買う。私もつられて買う。都会から来た彼にとって、コンビニはおろか自販機さえほとんどないこの場所はちょっと辛いのかなとも思う。

本日の訪問は終了し、お宿へ向かった。雰囲気のある古民家、部屋には囲炉裏がある。ゆったりと寛ぎながら、美味しいご飯を頂く。こちらでもイワナを養殖しており、イワナ中心。特に目の前で焼かれた魚は何とも美味。息子さんがイタリアンで修行していたとかで、洋風の料理も登場し、満足。またこの地域の様々なお話も聞けて勉強にもなる。食後、ゆったり風呂に入り、疲れたので早々に休む。

4月6日(水)蛭谷と君が畑

翌朝は暖かい日差しが差し込み早起き。夜は少し寒いぐらいだったが、陽が出れば違う。そして朝ご飯もまた温かい。旅館の朝食というより、田舎風のいい感じ。ご飯が沢山あり、ついお替りしてしまう。温かいお茶を飲むと気分はなぜか高揚する。部屋から外を見ると、以前茶畑だったと思われる土地から茶樹が抜かれ、草が生えている。

今朝の仕事は、何と給油。一番近いガソリンスタンドを聞くと何と『三重県側』と言われ、一瞬愕然となる。ところが『車で15分』と言われ、また驚く。ここは三重にそんなに近いのか、それなら是非行ってみたいと出掛ける。少し行くとトンネルがあり、そこを抜けるともう三重県だった。昔はトンネルが無く、山越えして大変な道のりを茶摘み女性たちが来たという。

1つ目のスタンドは開いていなかったが、2つ目でガソリンをゲット出来てホッとした。帰りに茶畑を見つけて少し立ち寄る。『だいあん茶』と書かれた、大安町のちょっと不思議な茶畑。こんなに広い茶畑があるとはさすが三重県。そして蛭谷の茶も三重(伊勢)との繋がりを考える必要がありそうだ。

急いで政所のY家に行く。今日は木地師研究の専門家、T先生がわざわざこちらに寄って頂き、木地師の歴史をご教示頂くことになっていた。古民家のY家に上がり込み、早々講義を聞く。T先生もこの付近、既に廃村になった村の出身だった。若い時に村を出て、今は愛知に住んでいるという。松下先生などとも繋がりがあり、『お茶は素人』と言いながら、実は大変詳しい方だった。

木地師の歴史は思った以上に複雑であり、また全国に散ったルートも簡単には分からない。朝日町蛭谷へ木地師が行ったことはほぼ間違いないが、そのルートは単純ではなく、茶がその過程で持ち込まれたかどうかも不明らしい。更に政所茶の歴史などについても、柳田国男の書いたものを鵜呑みにはできないといい、木地師の末裔が茶栽培を行ったかどうかにも疑問を呈していた。

T先生のお話はどんどん広がり、木地師より御師ではないかとか、日野商人の関りとか、私が普段気にしているところをどんどん突いてきて、面白くて仕方がない。時間はあっと言う間に過ぎてしまい、続きは次回となってしまった。今回事前に提出していた質問にも丁寧な回答を頂き、大変参考になったが、しかし私が今調べている核心にはなかなか近づけずにいた。

滋賀中心の関西茶旅2022(2)幻の安土城へ

そこからヴォーリズ学園まで歩く。前回ヴォーリズ建築のハイド記念館は閉まっていたが、今回は展示会があり開いていた。と思ったが先生らしき人が『ああ、4時で閉まりました』という。今回もまた見学できなかったが、これもまたご縁。園内の一柳満喜子ヴォーリズ夫人(学園創設者)の像を拝見して立ち去る。

歩いて駅まで戻る。途中平和堂があったので寄ってみる。平和堂は中国にも進出しており、ちょうど10年前の反日暴動の際は、湖南省長沙の店舗が焼き討ちにあったのを見たことを思い出す。駅の反対側には巨大なイオンが出来ており、経営は大変そうだ。と言ってもイオンの方も巨大なだけに、お客の少なさが目に付く。ベトナムやカンボジアで見たイオンを思い出す。県民はPCR検査無料だとある。夕飯は何と前回も食べたラーメンとチャーハンとなる。他にも食べるものあるだろうと、自ら突っこむ意外な展開。

4月5日(火)安土を歩く

翌朝宿の朝食が意外とよくて気分が良い。午前中は暇なので幻の安土城を見に行く。歩いて行っても良かったのだが、一駅電車に乗る。安土駅で降りると、織田信長の像が控えている。ここは信長の町なのだ。ほぼ人がいない道を歩いていく。朝鮮人街道があり、旧家が見られる。雰囲気が良い。

安土城跡に到着する。その周囲を歩くと、サクラが満開で何とものどかだ。お散歩しているお爺さんに挨拶すると、にこやかに返事がある。その先では工事を一時中断して花見に興じるおじさんたちがいる。まさかこんないいお天気でサクラが咲いていて、仕事なんかできないよな、という雰囲気の笑顔で挨拶を交わす。この桜の下で笑顔にならない人はいないということだ。それが桜の力であり、古来日本の力だったように思う。

こんもりした丘のような安土城の入り口まで来ると、石垣跡などが見えてきてテンション上がるが、城は既にない。天守閣跡などへ行くには、何とここも頂上まで急激な404段の階段があるというので、昨日に続いて断念した。膝が痛くなるのは困る。これからの旅を考えて無念ながら自重する。

少し散歩した。セミナリヨ跡という公園があった。信長はキリシタンを認めていたが、もしずっと生きていたらどうしただろうか、とふと思う。信長流のやり方で禁令を出さずに交易を進めただろうか。遠くを眺めると線路の向こうに何やら建物が見える。安土考古博物館他、比較的新しい建物が並んでいる。その中に古い建物もいくつか移築されており、見応えがある。とにかくここもサクラがきれいだった。

そこから歩いて安土駅まで戻る。いい天気の中、畑の中を歩いていくのは気分爽快だった。何だか生きているって感じがした。最後に旧伊庭家住宅に立ち寄る。ここもヴォーリズ住宅だ。洋風木造建築で、雰囲気が実に良い。残念ながら閉館日で中を見ることはなかったが、何となく楽しく写真を撮る。

政所へ

近江八幡駅へ戻り、宿で連絡を待っていたが、なかなか来なかった。Uさんの車が到着したのは、予定より30分遅かった。聞けば『桜があまりにきれいで土手から車が転落する事故があって渋滞した』というのだが、その転落する気持ちはよくわかった。急ぎ東近江政所へ向かう。

約1時間、途中までは昨年訪ねた日野へ行く道を行き、最後に少しずつ上っていく。待ち合わせ場所は養魚場。何とか辿り着くと、そこにはYさんと昨年結婚したNさん、そして生まれたばかりのRちゃんが待っていてくれた。ここはイワナを養殖しており、お昼から和室にイワナ料理が並ぶ。これは美味いと、バクバク食べた。

Yさんは政所茶の継続を目指して10年頑張っている人。1月にZoom会議で私の活動をお知らせし、3月の報告会にもゲスト参加(2月に出産)してもらい、ようやくの訪問となった。今回は政所茶の歴史というよりは、『木地師と茶』『蛭谷と富山のびるだん』の関係などについて知りたくて訪問した。ご主人のNさんは、歴史方面に興味がかなりあるようで、有用なアドバイスを貰えてよかった。生まれたばかりの赤ちゃんがいる中、対応して頂き、本当に感謝しかない。

話の中に政所茶とか、蛭谷とか、色々と地名が出てきてかなり混乱する。地図を頭に入れてから来ないからだと怒られそうだ。この付近は『六が畑』といい、そこには君が畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、九居瀬の6つの集落からなっているらしい。その中で蛭谷と君が畑に木地師発祥の伝説が残されているようだ。

滋賀中心の関西茶旅2022(1)眼鏡を失くして大パニック

《滋賀中心の関西茶旅2022》  2022年4月4₋14日

富山県のバタバタ茶の謎を追っている。追ってはいるが、謎は解けないだろうな、という気分ではある。そんな中、ちょっと気になる情報が入ってきた。今回は滋賀県政所茶を軸に、滋賀中心に旅を展開してみたい。

4月4日(月)名古屋で焦る

珍しく雨のスタートとなった。といっても、10分ほど行けば駅があり、そこからは濡れることもない。今日の目的地は滋賀の近江八幡。ここは昨年10月に2泊し、12月にも通り過ぎている。今回は変わった行き方をしようかと考えたが、結局頭がまとまらず、当日新宿駅で新幹線の切符を買うという、あまりにもべたな展開となってしまった。

近江八幡に行くのは新幹線で京都まで行き、戻るのが早いが、料金は割高なので、米原まで新幹線を使うこととした。するとこだまかひかりしか乗れない。待ち時間も長い。取り敢えずのぞみで名古屋まで行き、そこで乗り換えることとした。何と言っても名古屋の新幹線ホームには、駅そば、きしめんの住吉があるので、楽しみだった(実は在来線ホームにもあるらしい)。

新幹線の自由席はガラガラ。雨は静岡に入ると止み、晴れ間も出てきた。いいぞ、と思い、名古屋で降りて住吉へ行くと、昼時だというのに、いつもよりお客が少ないので拍子抜け。次のひかりまで30分あるのに、5分で食い終わってしまう。仕方なく一度ホーム階から下へ降り、ドリンクを買い、トイレに入ってから、またホームへ戻った。

そこで突然気が付いた。なんと私は眼鏡をかけていないことに。慌ててバッグの中などを探したがない。ホームの駅員に聞くと改札へ行け、という。まずは念のため、使ったトイレとドリンクを買った場所を探してみたがない。もう一度住吉にも戻り、食べた場所を確認したがなかった。

そこで改札にすっ飛んでいく。改札では、それは遺失物係の担当だといい、改札の外にある、その場所を教えてくれた。またすっ飛んでいく。かなりパニックになっている。遺失物係は私が乗った新幹線を特定して、その列車に電話を掛けてくれた。だが『もし車内にあった場合、その列車の最終駅に取りに行くか、後日着払いで郵送となる』と説明されたので、今日中に博多まで行って帰ってこられるだろうか、と頭がぐるぐるする。

もう一人の係員が声を掛けてくれたので、何気なく『名古屋駅で失くしたものは、皆ここに集まりますか?』と聞くと、『さあ、警察に持っていく人もいるし』と素っ気ない。『因みに眼鏡なので、無いと本当に困ります』と涙目で訴えると、『え、眼鏡!今掃除のおばさんが持ってきましたよ』というではないか。

掃除のおばさんがどこでこれを見つけたのかは不明だが、是非ともお礼を言いたい。恐らくはトイレにあったのだろう。しかしもし眼鏡がなかったら、どうすることになったのだろうか。金があっても眼鏡の替えは簡単には作れない。やはりスペアを持ち歩く必要がある。というか、掛けていないのを自覚できないほど、眼鏡の度数が合っていないということも言える。帰ったらまずは眼医者へ行こう。

この大ボケにより、30分ロスした。1台電車に乗り遅れただけで済んだのは奇跡だと感謝するべきだろう。米原まで2駅、それから京都方面へ行く在来線に乗り換え、2時前に近江八幡駅へ着いた。すぐに前回同様観光案内所へ入り、地図をもらう。と同時に思わず『琵琶湖へ行きたい』という言葉が口をついて出た。なぜ琵琶湖が見たくなったのか、理由は分からないが言われた通りのバスに乗る。先ほどの眼鏡騒動のショックからだろうか。

長命寺行バスは、近江八幡の観光街を抜け、ヴォーリス学園の先を曲がり、どんどん郊外へ出て行く。20分ぐらい行くと、ついに琵琶湖が見えてきて終点となる。途中でバスは空になり、最後まで乗っていたのは私一人だった。長命寺の前には桜が見事に咲いていたが、その下にバイクを停めて、人の撮影を邪魔しているライダーがいた?

長命寺に行こうとしたが、何と上まで登るのに808段の階段があるというので断念した。その横を見ると聖徳太子という文字が見える。ここは聖徳太子ゆかりの寺らしい。琵琶湖の方を見ると、船乗り場があった。そこから少し行くと、また素晴らしい桜の木が見える。名所松ヶ崎とある。琵琶湖に咲くさくら、ある意味でこれは日本の原風景かもしれない。

ずっと湖沿いを歩いていく。句碑などが続く。天気は良く、水面はきれいだが、風が非常に強く、歩くのは大変だった。恐らくゆっくりと琵琶湖を見るのは初めてだが、なぜこの湖に惹かれるのかが何となくわかる。しばし呆然と見つめる。今回はここに来ただけでよかったと思えた。帰りもまたバスに乗る。途中ヴォーリス病院があったのでそこで降りてみた。少し歩くと次にラコリーナという新しい観光地がある。その先は伝統的な川に船を浮かべて花見というのも良い。