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九州で茶旅2014(3)福岡 八女茶の星野村

9月23日(火)

犬塚へ

翌朝ホテルをチェックアウトして西鉄の駅へ向かう。今日はついに福岡の茶産地、八女を訪れる。最近では中国のお茶関係者でも『八女』は知られており、その状況を聞かれたが全く答えられないという経験をしている。玉露の産地として名高いが、その実態はどうであろうか。

 

今回のアレンジをしてくれた北京のFさんから『八女では羽犬塚に泊まれ』と指示を受けていた。『羽犬塚』とはちょっと奇妙な名前だなと思っていたが、何と司馬遼太郎の『モンゴル紀行』にその名が出てきたので大変驚いた。終戦時の満州で亡くなった学校の女先生が羽犬塚の出身だったから記していたのだが、この地は元々街道沿いで馬を替える場所だったらしい。それがいつしか訛って、馬が犬になったとか。福岡と長崎の中間地、という位置づけだろうか。今は駅前に犬の像があるようだ。

 

JR羽犬塚へ向かうはずだったが、JRに乗るには博多駅まで行かねばならず、西鉄にも犬塚という駅があるのでそちらへ行く。Fさんに紹介された、佐賀で紅茶屋さんをしているOさんが面倒を見てくれることになっており、Oさんに連絡すると『八丁牟田』という駅で降りるように指示がある。佐賀の紅茶屋さん、この響きが実に特殊。

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西鉄で一昨日も通った路線を特急で進み、花畑や久留米などを通過し、途中の大善寺で各停に乗り替えて、何とか八丁牟田に着いた。ここまで50分、東京なら十分に通勤圏内だが、この辺は完全な農村の風景だった。何とかスイカが使えたので駅を出ると、そこには作務衣、雪駄姿のOさんが立っていた。なんだかとても格好いい。

 

2.八女

そばの前にコーヒーを

Oさんの車で八女に向かう前に、腹こしらえ、ということで、とても雰囲気の良い森にあるそば屋さんへ行った。だが時間はまだ11時前、11時半からと言われ、横にある喫茶店に入る。いつも思うのだが、日本の地方都市にある小さな喫茶店やレストランのレベルの高さは他のアジアには見られない。きめが細かく、拘りがある。

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このお店も本格的なフレンチを出すらしい。コーヒーも美味い、室内装飾も実に良い。ワインボトルも置かれているから喫茶店ではなく、森のレストランだ。オーナーの拘りが随所に出ていた。デザートのケーキも美味しそうだったが、これからランチなので控えようと思っていると、何とサービスで小さなケーキをプレゼントされる。凄い!

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そば屋へ移動。平日の昼なのに予約が結構入っており、お客が次々にやって来たのには驚いた。恐るべし。手打ちのそば、とろろを入れると歯ごたえがあって美味い。汁も実に繊細な感じでよい。いいな、こんな生活。ここのご主人もかなりの拘り派だと思われる。まだ何もしないうちに感動してしまった。

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星野村の茶園

それから車は八女の星野村へ向かった。この辺が一番の産地ということで、連れて行ってくれたのだが、相変わらず予習を全くしない私には良く分かっていなかった。一軒のお茶屋さんに入る。星香園(http://www.seikaen.com/)、名前がいい。そこの責任者は何と23歳のY君だった。お父様はお茶作りで有名な方だったが、急に亡くなってしまい、別の仕事をしていたY君が急遽家業を継ぐことになったという。

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うちの息子と変わらない歳で偉いな、と思う。日本の茶業は正直上り坂ではない。そんな中で若者がこの仕事に就く、かなりの覚悟が必要だったはずだ。勿論周囲のサポートもかなりあるようで、お父様の友人のオジサンも一緒に話をしてくれた。八女も茶農家の年齢はどんどん上がっており、100軒で青年部の会員は10名ちょっとだとか。

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お店で煎茶や玉露を頂いた後、Y君運転の車の荷台に乗り、茶畑を見学した。かなり樹木の生えた山道を行き、出てきたところは天然の要害。まさに四方を木で覆われた自然な茶畑がそこにある。この環境は素晴らしい。良いお茶が出来そうだ。品種も三種類ぐらい植わっていた。

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Y君と別れて、道を行くときれいな棚田が目に入る。日本の原風景だな、としみじみ思うが、そういえばアジアにも、ミャンマーやベトナムでこんな風景を見たな、感動したなと思い出す。日本とアジアが近いことを改めて思う。

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八女のお茶といえば、かぶせ。道沿いの茶畑にも鉄の枠が見える。ここに覆いをかけて、かぶせ、るのだろう。今は来年に向けて茶樹を育てる時期。茶葉が出てきている。下の水田では稲穂が実り始めている。茶処の秋、の風情が良い。

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九州で茶旅2014(2)福岡 グルメ三昧

天神の夕飯 ゴマサバにシメはたこ焼き

それからY夫妻と、そのお知り合いでお茶会にも参加してくれたF夫妻と、天神まで出て、夕飯を食べた。まだ福岡に来て間もないY夫妻が、グルメのF夫妻を誘ってくれたようだ。わざわざ家の近くでお茶会をやったのに、また天神まで出てきてくれ、Y夫妻には感謝だ。

 

連れて行ってもらったお店の名前は何と、トゥクトゥク。だがタイ料理ではなく、和食。実に美味い刺身が出てきた。そして何と言ってもごまさば。『福岡に来たらこれを食べなきゃ!』と言われたが、あまりの美味さに人の分まで食べてしまった。最近は日本に帰ったからと言って寿司や刺身を食べたいとも思わなくなっていたが、こういうものを頂くと、心が動く。豆腐も美味い、何でもウマイ。福岡は食どころと言われているが、本当に実力があると感嘆した。

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更にシメを食べに別の店に。連れて行かれたのは何と立ち飲み屋。しかも注文したのはたこ焼き。これにはビックリ。実はこれは福岡流ではなく、F夫人が関西出身で美味しいたこ焼きを探したところ、見つけたのがここだったという。これはこれで面白い。立ち飲みなのに、我々だけが風呂の椅子のような小さな椅子に座り、たこ焼きを食べながら、飲む。初日から福岡の夜を堪能した。

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9月22日(月)

柔らかいごぼう天うどん

翌朝はゆっくり目覚めた。今日は夜まで何もない。オフモードだ。10時過ぎまでホテルで旅行記を書き、その後出掛ける。まずは腹ごしらえ、昨日聞いた、博多名物のうどんを食べる。チェーン店に入り、ごぼう天うどんを注文した。うどんが柔らかい、のだが、汁が美味いのか、どんどん食べられる。ごぼうの天ぷらがまた絶妙な味を出しており、そこに柚子胡椒を入れると、さわやかな味となる。こんなうどん、初めて食べた。朝の10時という中途半端な時間だが、多くの人が食べていたのにも驚く。

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それから博多駅を目指して歩く。爽やかな日差しが差す中、中洲を通り、ちょっと道に迷いながら進む。思ったより時間が掛かり、30分ほどで到着。ちょうど長崎壱岐の神楽が披露されていた。駅前は工事中だった。実は昨日『福岡で中国人が多く住む地域はどこか』と聞いたところ、美野島、という答えだったので、そこを探した。どこにあるか分からないので、駅に行けば分かるかと思い行ってみたが、地図などにもその名は見えない。インフォメーションで聞くと、駅から歩いて15分ぐらいだというので、また歩き出す。

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博多駅の周辺と言っても直ぐに住宅街に入る。この辺が地方都市だ。そして確かに美野島はあった。だが中国人が住んでいる気配は感じられない。美野島は昔蓑島と言ったようで、その記念碑などはあったが、中華レストランすら発見できなかった。代わりに古い商店街があり、物価がかなり安いという印象受けた。美味そうな天ぷらなどを店頭販売していた。

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そのままホテルへ戻るべく、歩く。住吉神社があった。1000年以上の歴史を誇る全国の住吉神社の始原と言われる。現在の本殿は黒田長政が再建したとある。古びた中に光るものが感じられた。渡辺通り、を歩く。昨日からどうしても人名『渡辺通』だと思ってしまい、笑う。渡辺さんという地主がこの辺の土地を寄付したからその名が付いた、と聞いたが、全国でも珍しいのではなかろうか。

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昼を過ぎた時間、ホテルの近くの居酒屋をふと見ると、海鮮丼ランチ600円とあったので入ってみる。このランチ、ボリュームが凄く、海鮮があふれるばかりに乗っていた。おまけにサラダとフルーツはセルフで取る方式。これで600円はどう考えても安い。福岡、恐るべし。

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愛宕神社とコーヒー

夕方、ご縁のあるK社長がホテルまで迎えに来てくれ、福岡の街を車で案内してくれた。有難い。まずは北京のZさんもマンションを買ったという高級住宅街、大濠公園へ行く。途中中国領事館を通過。大濠公園を一周すると分かるが、かなり雰囲気のよい場所で、中州などからも近く、この辺のマンションが高い理由も頷ける。

 

それから博多湾が一望できる愛宕神社へ行く。結構急な上り坂を上ると、確かに一望できたが、かなり埋め立てが進んでおり、昔の風景からは変わっていたと思う。まるで東京の愛宕神社と同じ情景だ。800年前に繁栄した博多の港、元寇など歴史が次々に思い出されるが、その面影はない。

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帰りにそこでお茶屋に入った。いやお茶屋ではない。珈琲屋だ。何と今右衛門?のコーヒーカップでエルサルバドルのコーヒーを頂く。そして饅頭、何というコラボだろうか。面白い。エルサルバドルといえば、台湾で会ったKさんがご主人の仕事の都合で赴任している場所。先日Facebookでコーヒーに話題を書いていたような。こんなところで出会うとは。

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おふくろの味と飯盒雑炊

街の中心に車を停めて歩く。博多祇園山笠、を見る。かなり巨大な山笠、これが唸りをあげて?動く様は壮大だろう。それからキャナルシティへ。1997年に行ったことがあるが、あの時は開業直ぐだっただろうか。でもなぜそこへ行くのか。K社長は『ラオックスへ行こう』という。福岡まで来てラオックス?と思ったが、行ってみて驚いた。

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ラオックスなのに家電は殆どないのである。如何にも中国人が買いそうなお土産物がズラッと並んでいた。奥のレジにいた店員も中国人、家電はないのかと聞くと『少しある』との答え。PCはないが、デジカメはあると言った完全な中国人観光客向け対応が凄い。そして家電で目に付いたのは炊飯器、何と10万円、8万円の炊飯器だけを売っていた。日本人はここには来ないだろう。恐るべし。

 

夕飯に行く。福岡には色々な食べ物があるが、K社長は歩いている内に、おふくろの味、と書かれた小さな店に足を踏み入れる。初めて入るという。とても安価な値段で、小鉢料理が食べられた。おまけにクジラまで出てきた。ビールを飲んでたらふく食っても一人2000円は行かない。凄い。

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〆はラーメンだな、と歩き出す。中洲の屋台は高くて美味くない、というので他に歩いて行くと途中で『飯盒雑炊』の文字が見えた。K社長、『これは美味いよ』というので、思わず入る。本当に飯盒で雑炊を作っていた。昔からある店だそうだ。明太子雑炊を食べるとなぜかうまい。腹が一杯と思っていたが、簡単に平らげた。更にラーメン行くか、と言われたがさすがに無理だった。2泊したが、とうとう博多ラーメンにはあり付けなかった。それでも十分に満足した。

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九州で茶旅2014(1)福岡 公民館でお茶会

《九州お茶散歩2014》  2014年9月21日-26日

 

昨年アジアの茶旅に日本を加えた。日本はアジアには違いないが、私の中で思い描くアジアとは違っていた。だがアジアの茶畑で『日本の茶畑はどうなっているんだ?』などの質問を受けることも多く、日本を知らずしてアジアで質問することなかれ、とばかり、出掛け始めたのである。

 

始めて見ると日本の旅はまさにワンダーランド、知らないことだらけだし、日本の素晴らしさも体感する代わりに、とんでもない部分にも出くわすことが多い。ネタ満載の国、日本なのであった。日本人だから日本を知っている訳ではない。

 

今回は前から是非行きたいと思い、今年の初めにバンコックに来てくれたY夫妻がいる福岡を目指した。8月に中国の北海でお世話になったZさんも福岡にマンションを買った。8月末から福岡の集広舎のWebにコラムの連載を始めた。全てが九州を向いていた。そして肝心のお茶は、昨年末北京で一度お会いしただけのFさんが全ての紹介をしてくれた。駒は揃った、後は進むだけだった。

 

9月21日(日)

1.福岡

スカイマーク

大阪から横浜経由で東京へ戻ったのもほんの束の間、翌朝早くに羽田空港へ行き、福岡行きのフライトに乗った。今回は初めてスカイマークに乗る。ジェットスターの方が安かったのだが、さすがに成田は遠い。体のことも考えて羽田を選択、必然的に料金からスカイマークが選ばれる。

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空港に着くと、スカイマークのカウンターは端に寄せられ、荷物検査もJAL、ANAとは別になっていた。チェックインの仕方が分からずまごついていると、係員が丁寧に教えてくれた。今や機械でチェックインも出来ないのは化石(普通は携帯?)、ということだろうか、ちょっと恥ずかしい。時間があったので空港の土産物なども眺めてみると、本当に種類が豊富、目移りするが、荷物になるので何も買わず。

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飛行機は可もなく不可もなく。LCCではないが、LCCだな。シートはそこそこ広い。アイスコーヒーを100円で売っている。周囲を見る間もなく目を瞑ったら、あっという間に福岡に着いてしまった。機内でネットが出来ると書いてあったが、出来るのだろうか?試して見る機会を逸してしまった。

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空港に着くと地下鉄の駅に向かい、すぐに乗車して天神駅へ向かった。福岡は本当に空港から市内が便利だ。福岡に来たのは記憶が正しければ1997年以来、その時も空港の便利さが一番印象に残っている。

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今回のホテルは、友人から勧められたルートインを利用しようと思い、ネットで予約したが、天神から歩いて数分、立派なホテルだった。最近ルートインに買収(グループに編入)されたのか、前は立派なビジネスホテルだったようだ。12時過ぎにフロントに行ったが、荷物を預けて、西鉄の駅へ。歩いて15分ぐらいと言われたが、実際行ってみると7-8分。

 

ホルモン焼き

今日は福岡でお茶会、それも中心地ではなく、Y夫妻の住む朝倉街道という駅へ向かう。こんな旅がいい。普通は行かないような場所へお茶は連れて行ってくれる。お茶会参加者は午後2時過ぎに西鉄天神駅から乗車し、朝倉街道で落ち合い会場へ行くことになっていた。駅付近でランチを食べようとウロウロしていると、川沿いに出てしまった。由緒ありそうな建物がいくつか建っている。秋の風が爽やかで良いが、この辺にはあまり店がなく、駅へ戻り、賑やかな通りへ進む。もう時間がなかったので適当な店へ入る。

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鳥ざんまい、と書かれた店なので、鳥料理を食べればよいと思い、チキン南蛮を注文したが、10分ぐらい待っていると『チキン南蛮は売り切れです。唐揚げかホルモン、どちらがいいですか?』と聞かれる。あれ、鶏肉料理屋でホルモン?その不思議さに思わずホルモンをオーダー。出てきたのはただのホルモン焼き。これも福岡流?この店、面白い。

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朝倉街道のお茶会

駅へ戻るとまだ少し指定された電車まで時間があった。初めて乗る電車なので、慎重にボードを見ていると、『花畑』行きの電車があった。秋の日の午後、お花畑行きの電車に乗るなんて、いいな、と思い、つい乗ってしまった。確認するとこの電車も急行で、朝倉街道を通る。問題ない。日曜なので買い物や遊びに来た人が大勢乗っていた。

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20分ぐらいで朝倉街道に着く。当然まだ誰も来ていなので周囲を散策、と思ったが、特に周囲には何もない。Y旦那がやって来て合流、他の参加者を待つ。朝倉街道、と言う地名だから、ここは昔街道があったのだろう。恐らくは長崎辺りと福岡辺りを繋いでいたのでは。きっと面白い歴史のあるのだろう。

 

参加者が集合し、東針摺公民館へ向かう。周囲は住宅地、所々に田んぼがあり、案山子に掛かれた言葉が面白かった。『いつまでもあると思うな、オヤとメシ』最近痛切に感じる時がある(笑い)。参加者の中にはこの付近を通学路としていた人もおり、その変化に驚いていた。

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お茶会には10人ほどが集まり、Y夫人(高級茶芸師)がお茶を淹れ、私がお話した。驚いたことに北京関係者が多数出席しており、中でも以前私の茶旅判子(消しゴム)を作ってくれた女性がサプライズで来てくれた。福岡出身で偶々里帰り中だった。これもご縁。2時間はあっという間に過ぎ、中身はあまり覚えていない。ただ公民館でお茶会、いいなと思った。

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静岡牧の原日帰り茶旅2014(2)白茶作りを手伝いながら懇談

茶作り

倉庫より更に小さい建物、物置もあった。そこへ入ると、小さな製茶道具が置かれていた。釜炒り用の大きな釜が目に飛び込んでくる。実に可愛らしい木製の揉捻機、まるで骨董品だ。『お茶農家はどんどん辞めていく。そこへ行き、必要な物を分けて貰ってくる』ということらしい。大規模農家は小さな機械は必要ない。博物館にでも入りそうな道具を大切に使う、これはいいことだ。

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ちょうど昨日摘んだ茶葉の処理が行われていた。奈良から手伝いの男性が来ていた。皆新しい茶の作り方を学んでいる。作業する労働者も足りないので、相互に補っている。報酬は作った茶だというから、勉強とは言いながら、いいお茶を作らないといけない。

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Sさん、彼は茶農家の後継ぎで、30歳前の若者。両親と一緒に伝統的な煎茶作りをしている合間に、釜炒り茶、白茶、烏龍茶、紅茶など、様々なお茶の製法を研究し、実際に作っている。そしてそれを発信し、将来に備えている。『これまで親がやってきた農業がずっと続くとは思えない。煎茶の需要もどんどん落ちてきている。将来は煎茶を作るだけではダメだ、と思っている』という。

 

辞めていく農家があると、茶畑を引き継ぐ話が来る。引き継げるいい条件の所があると引き継いで茶園を広げていく。商売としてやっているので、何でもかんでも引き受けることなどできない。皆これからの茶業全般が心配になっている。そんな中でSさんのように活発に新しいことにチャレンジして行く姿勢、素晴らしい。

 

ランチ

実は今日は3月に三河でお世話になり、奈良、宇治まで車で連れて行ってくれたIさんもここに来ていた。Iさんも様々な形で日本茶をサポートしており、その過程でSさんとも知り合い、3月の時もSさんも誘われて一緒に三河、奈良を旅している。かなりパワフルな女性だ。Iさんは在来種など色々な日本茶を持ってきてくれ、倉庫で淹れてくれた。これもまた面白い。

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ランチにレストランへ行った。茶畑に囲まれた場所で、地元の人が来るところ。大勢の人が食べていた。定食を頼むと、サラダや漬物は取り放題、ご飯もお替り自由、そして何よりおかずのボリュームが半端ない。まあ悠に1.5人分から2人分はあるような。これで800円は凄い。ボリュームだけではなく、味もよい。野菜などは新鮮なのだろう。地元でとれたものをここで販売もしている。ある意味、アンテナショップだろうか。牧の原生活センター、大満足だった。

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作業しながら懇談

午後も倉庫でお話しながら過ごす。Sさんに『ただ話していても詰まらないので、皆で茶葉の選り分けをしながら、話しましょう』と乗せられて、全員が作業員となる。それもまた楽しい。まるで麻雀でもするように、4人で卓を囲み、乾していた茶葉を持ってきて、芽の部分だけを取る。

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『白茶を作る』とSさんは言う。白茶の製造工程は萎凋と乾燥だけ。茶葉をそのまま放置していれば、白茶になってしまう。ただ芽の部分だけを使うため、我々はこの作業をしている。黙々と、いやお茶の話をしながら、芽を取って行く。Sさんが私の作業を見て『えー、本当に芽の部分しか採らないんですね、それだとお茶の量は殆どできませんよ』と指摘する。確かに私は本当に小さな芽の部分のみを取るため、他の人に比べて収穫量が少ない。その代り、実にきれいな芽が並んでいた。

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『だってこんなお茶が飲んでみたいから』と反発したものの、まさにこれでは商売にならないと感じる。自分が飲んでみたいお茶と販売するお茶、それが一致することなど稀であろう。私は急に何かに気が付かされたように思えたが、そのまま心の中に放置した。

 

あっという間に時間が過ぎ、夕方になってしまった。バスの時間も考慮して、4時過ぎに車でバス停に送ってもらった。何とも短い滞在で、とても牧の原の全貌など知る由もない。ただちょっとでも触れてみると、大いに興味が湧く。これはいい経験だった。次回はもう少しいろいろな所を見てみたい。

 

バスで静岡駅へ戻り、そこからは高速バスに乗ることにした。新宿まで直行するというので、電車の乗り換えを考えるとバスが便利と判断した。料金も電車とさほど変わらない。ただ切符を買うのに、ちょっと時間がかかり、危うく乗り遅れそうになった。日本は順番を守るのは良いが、急いでいる人かどうか、判断してサービスして欲しい。

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バスは快適に飛ばし、途中で一度休憩した。そして都内に入る頃、少し渋滞しただけで渋谷に着いた。新宿まで行く必要もなく、渋谷で降りて、電車で帰宅した。長い長い一日だったが、その日の深夜にはワールドカップの決勝トーナメントが始まり、また私の戦いが始まった。つかの間のリフレッシュ、その表現が相応しい牧の原の一日だった。

静岡牧の原日帰り茶旅2014(1)始発電車で静岡まで在来線

《静岡牧の原日帰り茶旅2014》  2014年6月28日

 

6月に入り、東京に戻っていた。今年は4年に一度のサッカーワールドカップの年。全ての試合を生中継で見る、を目標に、開幕戦から試合を見まくった。27日までに予選リーグが終了、決勝トーナメントまで休みがあったので、茶旅に出かけることにした。ただ28日未明には再開されるため、旅は日帰りになってしまった。

 

場所は静岡、お茶処であり、何を置いても行かなければならない場所だったが、茶畑に行ったことがなかった。今年3月に三河から奈良まで一緒の旅をした若者Sさんを思い出し、連絡を取る。7月初旬より九州に武者修行に出るというので、この日に無理やり押し掛けた。静岡と言っても広い、どうやって行くのだろう。

 

6月28日(土)

始発電車で

静岡まで新幹線で行こうと思ったが、新幹線の料金は本当に高いので躊躇していた。ところがサッカーのブラジル時間生活のお蔭で、夜中は眠れないことに気が付く。結局当日も数時間寝ただけで、朝4時には起きてしまう。こうなると、始発にでも乗らないと、途中で寝入ってしまいそうだ。

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始発で行くのは良いが、早く着き過ぎると先方が寝ているはずだ。Sさんは連日夜中までお茶作りの実験?をしているとFacebookに書いてある。さてどうするか、時間潰しを兼ね、何と全て在来線で静岡まで行くことに。京王線の最寄り駅から、井の頭線、小田急線に乗り継ぐ。土曜日の朝一番、混んでいないかと思うと大間違いで、座れない。座って寝て行こうという作戦がもろくも崩れる。

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小田急線ではようやく席が空いて座ったが、隣に中国人の女性が座るなり、携帯を取り出して大声で話し始める。『いくら外国人だからって、バカにするのもいい加減にしろ!』と怒鳴っている。誰に向かって怒鳴っているのかと不思議だったが、よく見ると彼女の眼は向かいに座っている日本人男性に注がれていた。これはホーム上で何かあったのか、それとも単なる痴話げんか?周囲の乗客も驚いていたが、彼女は言いたいことを言うと、すっきりした表情で降りて行った。朝から凄いな!

 

下北沢から80分、小田原まで来て、JRに乗り換える。まだ時間は7時過ぎ、でももうかなり乗った気分になる。ここからは各駅停車、小田原の次の駅から、海が見え、そしてかなりローカルな駅が続く。この辺の雰囲気は悪くない。そして50分ほど乗り、沼津へ。沼津は昨年10月、京都大学の杉山先生の講演を聞くために訪れた場所。とてもいいところだった、と記憶している。既に懐かしい。

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9時に静岡駅に着いた。ここからバスに乗るように指示が出ている。静岡駅北口から静鉄バスの相良行きに乗る。ただバス料金を見て驚いた。1000円を超えている。私はどこへ行くのだろうか。こんな高いバスなのに、20-30分に一本出ているのが不思議。田舎のバスは乗る人が少なくて料金が高い、というのが定番なのだが、どうなんだろうか。

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このバスはビーチへ行くのであり、夏は海水浴客で賑わうのだろう。だが今は雨が降っている梅雨の土曜日の朝、乗客は限られている。出発して静岡市内を少し徘徊し、何と高速道路に乗った。これで分かった、料金の秘密。これは遠くへ行くんだな、と初めて自覚した。約50分で『静波海岸入り口』のバス停で降りる。まさにここはビーチへの入り口。茶旅で海辺に来るのは久しぶりだ。あれ、トルコの黒海沿岸以来かもしれない。

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牧の原台地

Sさんが車で迎えに来てくれた。国道付近には小さな街があるが、道路沿いに全国チェーンのレストランや本屋、洋服屋などは見えるものの、かなり静かな場所である。ただお店などを見ていると、この辺り所得が意外と高いことは感じられる。

 

車で小さな街を抜け、少し丘を登ると茶畑が見えてきた。さすがに平地にはないが、こんなに呆気なく茶畑が見えてくるのも珍しい。台地というぐらいだから、小高い所にあるとは分かっていても、一段上がっただけで、後は畑が広がる光景はあまり想像できなかった。大規模茶園の雰囲気がある。海は近いようだが、全く見えない。

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Sさんの家に着く。自宅の横の倉庫に作業場を作っていた。煎茶の方は茶畑の近くに別にあるようで、ここはSさんのための実験場だ。この自宅から微かに茶畑が見える。ここは牧の原台地、明治維新後、旧幕臣などが開拓に入り、開墾した場所として知られている。元々米作りなどに向かない不毛の地であったが、石ころだらけで水はけがよく、気候も温暖で霜が降りないため、茶園などには向いていたらしい。今は防霜ファンも見られるが、霜が降りるのだろうか。

 

バタバタ茶を訪ねて2013(4)氷見の民宿は料亭だった

高岡散歩

翌朝はホテルで出された大量の朝食を平らげ、高岡の街に出てみた。ここはこじんまりしていて散歩にはちょうど良い。高岡古城公園に着く。ここは前田家2代藩主利長が隠居した場所。設計はあのキリシタン大名、高山右近とか。右近は信仰を捨てなかったが、前田家に庇護されており、この建築に携わる。その後家康の伴天連追放でマニラに行き、そこで亡くなる。何とも歴史を感じさせる。ただ利長亡き後は廃城となっていたのを明治になって保存された、とある。今は公園となり、高岡の人々のゆったりした生活を感じさせる場所となっている。特にお濠は美しい。


  

 

次に高岡大仏に向かう。一応地図はあったが、歩いて行けば分かるだろうと高を括っていると意外と分からない。着いてみると、街の真ん中にポツンとある。奈良、鎌倉と並ぶ日本三大仏の一つという頭が混乱のもとだった。現在の大仏は20年の歳月をかけて昭和の初めにできたらしい。1980年には11m、後ろに下がった、とあるのが、なんとも微笑ました。大仏の下には展示物があり、薄暗い中に置かれた仏像に迫力があった。

 

それから街歩き。高岡には土蔵造りの旧家が点在していると聞き、訪ねてみる。江戸時代の商家などが残されているが、その繁栄は如何ばかりであったか、今はそれを見ることは難しい。午前中は人の往来も殆ど無く、それはそれでゆったりしていてよいが。

 

駅の反対側へ向かう。曹洞宗瑞龍寺、ここは前田利長公の菩提寺。山門は実に風格があり、国宝にもなっている。江戸初期、利長の転居で街が開かれた高岡。加賀百二十万石を築いた人に相応しい立派な寺である。周囲は高い塀で囲われ、堀もめぐらされている。まるで城のようなのが、面白い。こんなところが駅のすぐ近くにあるのが嬉しい。

 

更に山門の前の道をずーっと東へ歩くと、利長の墓所がある。そこまでふらふら歩いて行って、疲れてしまった。さあ、そろそろ電車に乗ろう。

 

7.   氷見

観光案内所は案内してくれるの?

氷見線という電車に乗った。僅か一両。何とも微笑ましい。欧米人や中国人などが乗っており、意外と国際的。彼らは途中の海岸のある駅で降りてしまった。有名な場所なのだろうか。私はゆらゆら揺られて終点まで。

駅には観光案内所が併設されていた。『今日泊まりたいんですけど』と声を掛けると、60歳を過ぎたと思われる男性が『一人?電車で来たの?』と聞いてくる。何だか変な感じ。ここは駅なのだから電車できても不思議ではないだろうに。そして1軒の宿(1泊2食付き7000円と言われた)に電話を入れてくれたが、何と満員と断られる。今日は日曜日、その夜に満員とは、はて。

おじさんが困った顔をしてパンフとにらめっこ。そこには40軒以上の宿が記載されていたが、『受けてくれるところがあるかどうか?』と不思議なことを言う。『駅の近くのビジネスホテルに泊まったら?』と言い出すおじさん。さすがに『民宿に泊まりたいから氷見に来たんです』と若干語気を荒げると『そうですよねー』と。そんなに混んでいるのか、と思っていたが、どうやら『おひとり様お断り』が多いらしい。結局何とか1軒受け入れが決まる。9600円に料金も跳ね上がるが仕方がない。

送迎はないので、バスで行け、と言い、時刻表のコピーをくれる。しかも入室は3時以降だから、それまでは行くな、とも言う。『ではこの辺で見るところはありますか?』と聞くと、なんとなんと『この辺り見るとこ、無いんだよね』だと。観光案内所が案内しない、どういうことだ。おまけに『じゃあ、適当に歩くから、荷物を預かって』というと、『預かってもいいけど、この間無くなったことがあってね、それでも良ければ』と言い放つ。もう何とも声が出なかった。ちょうどコインロッカーがあったので、何とか荷物を押し込む。ここの街には客を受け入れるという考えはあるのだろうか?一体どんなところなのだろうか??

藤子不二雄の出生地

憮然としながら、街を歩く。日曜日なのに商店街に休業が多い。これは街の伝統か、それともシャッター通りか。街の中にキャラクターがあちこちにある。忍者ハットリくんや怪物くん等。何とここは藤子不二雄Aさんの出生地だった。Aさんはお寺で生まれたようで、宗光禅寺という寺にはモニュメントまであった。アニメファンなら喜ぶだろう。地元の人は見慣れているから何とも思わないかもしれないが、これはなかなかいい。どうしてそのような説明はないのだろうか?

氷見の港も晴れ渡り、風が気持ちよかった。その先には道の駅があり、ここにはかなりの人が来ていた。とにかく皆車で来る。電車で来る人など想定していないのだ。海の幸もあり、屋外で食べ物を食べることもできるいい場所だが。

運河沿いにヒミング(http://himming.jp/)という倉庫を改造した喫茶店、いやアートギャラリーがあった。ちょっと中を覗くと、おじさんが『よかったら、寄ってって』というので、そのままギャラリーを見て、2階に上がり、座り込んでしまった。ここは何とも居心地が良い。NPOが経営しており、大学生がボランティアをやっているようだ。その手作り感と丁寧さが良かった。観光案内所とは大違い。ぼっーと過ごす。

民宿は泊まるところではなく料亭

さっきの観光案内所のパンフを見て、今日の宿泊先を確認したところ、何と『個人送迎あり』との記載があった。案内所に戻り、この記載を質したが『書いてあるけどないんです』との答え。そんな馬鹿な??重ねて問うと『ないものはないんです』と強く言われ、まるで泊まれるだけで幸せだ、とでも言わんばかりの対応。『どこの宿もギリギリでやっているんで』と言われても話の筋が違う。

どうしてもこんなことが起こるのだろうか。このパンフは民間人が作ったものではない。観光協会が作ったものであるという。まさに虚偽表示だと思うのだが、当事者に悪びれた様子もなく、謝るという概念すらない。このおじさんも実は板ばさみなのかもしれない。そう思うと急に哀れ、とも感じられる。

仕方なく言われたバス停へ。しかし時間になってもバスは来ない。踏んだり蹴ったり。15分ほど遅れてきたバスに乗り、民宿のあるところへ。こじんまりしたその宿は何だか普通の家へ行ったよう。

2階に通されたが『今日はお客さんしかいませんよ』とふすまが全部空いている。何であんなに苦労して泊まる先を探すんだ、解せない。送迎のことを聞いても『お客さん、バスで来たの』と驚いている様子。ましてや『明日大阪へ行くんだけど』と言ってみても、『ああ、バスは7時台に3本あるけど、あの後は10時だわね』と呑気なもの。もうこうなればアジア式。なるようにしかならん。因みにWIFIなど当然、全くない。

夕飯まで時間があるので散歩に出る。小さな城跡、小山にのぼり、海を眺める。海沿いを歩く。そんな日常風景的なことしかない。でもそれはそれでよい。何だか気分が少し晴れた。そしてお風呂を独占して、長湯する。だんだん極楽気分になる。

夕飯前に男性がフラッと泊まりに来たので、ふすまを閉める?今晩はこのおじさんと二人で飯だな、などと思っていると、何と一人ずつ1階にある個室に通される。そしておかみさんが運んできた料理をポツンと一人で食べる。何とも侘しいのだが、しかしその刺身の素晴らしさ、煮つけ、焼き物、全てが実においしい。これならみんな大喜びだろう。ここの宿主は魚の仲買の資格を持ちプロ。とにかく素晴らしい。黙々と全部平らげた。

そして分かった。ここは泊まるところではなく、地元の人や常連さんが食事に来る料亭のような場所なのだ。だからおひとり様は手間のわりに儲からないので、あまりいい顔はしないのだ。食事だけに来ても5000円から掛かるらしい。朝食まで付いて10000円は安いと言わざるを得ない。満足して広い部屋で寝る。

6月24日

氷見から

翌朝は7時に起き、すぐに朝食に呼ばれる。また一人でテレビを見ながら、和定食をたらふく食べる。どうしても生卵などに手が行き、ご飯を大量に食べることになる。ただ美味しいものは美味しいので、それを押さえるのは体に良くない、と考えて食べる。

隣のおじさんは早々に車で帰ってしまい、部屋に一人取り残される。こんな場所でゆっくりしているのだからと原稿など書いてみる。これはなかなか捗る。そして時間を忘れて没頭、気が付くと10時が近づき、慌ててバス停へ。

民宿のおかみさんが言う。『お客さん、氷見まで行って電車に乗るより、バスで直接高岡へ行った方がかなり得ですよ』、その意味は市が補助金を出して、高岡までのバス料金を押さえているため、安いということだった。それでもバスは老人を中心にそれほどの乗客もなく、40分ほどで高岡へ戻った。

そして大阪行きのサンダーバードに乗る。ゆったりしたシートで快適に過ごす。それにしても車掌が車両に入るのに、いちいち頭を下げるのは、ちょっとやり過ぎではないだろうか。インドでビシッとした制服を着た車掌の毅然とした態度とは正反対の、どこかおどおどして見える対応は、客によい気分を与えるとは思えないのだが。

列車は、福井、鯖江、・・など、未知の世界を走っている。いや、未知ではない。20数年前、かみさんと金沢・輪島へ行ったことがある。その帰りに東尋坊、永平寺へ行ったのではなかったか。記憶が定かでない。帰りは米原から新幹線に乗ったように思うから、この線路も走ったのだろう。そう考えると、実は富山も20数年前、金沢までの夜行列車で通過していたことになる。既にかなり長く生きてしまった。忘れることもどんどん多くなっている。

京都、新大阪で多くの人が下りた。大阪まで約3時間、確かに富山は関西との結びつきが強い。北陸新幹線により、そこに変化があるのか、ちょっと注目である。

8.   大阪

チェックインは午後4時から

大阪駅から市営地下鉄の乗り場まで大きな荷物を持って歩くのは結構大変。人が多い。ようやく梅田駅から地下鉄御堂筋線に乗り、本町へ。しかしこの地下鉄、初乗り200円は高い。橋下市長がこの件を問題にしているようだが、その気持ちは分かる。特にJRの初乗りが関東より安い120円なのだから、この料金の高さは当然問題だ。大阪で気が付くことは、各電車に女性専用車両があること。そしてその乗車位置がほぼ真ん中にあること。東京だと先頭の一両が女性専用というケースが多いが、どう考えても真ん中にある方が使い勝手が良い。大阪はやはり女性が強い、ということだろうか。

 

本町でまた重い荷物を階段で引き揚げ、何とか地上へ。氷見を出るのが遅れたので、予定到着時間を1時間ほど過ぎた3時過ぎに、本日の宿泊先、東横インに着いた。カウンターでチェックインをお願いすると『お荷物をお預かりします』と言われる。何の話か分からなかったが、何と『チェックインは4時から』だとか。えー、チェックインが午後4時のホテル、アジアを歩いてきたがそんなホテルは聞いたことがない。

 

フロントの研修生が『もしホテル会員になれば3時からチェックインできます』というので、それはいいサービスだ、と入会しようとすると、『入会費は1500円です』と言われ、唖然。何でも金に換算している。入会金を払っても3時からしかチェックインできない、恐ろしくてやめた。ホテル側もちゃんと備えはしている。荷物を預かるだけではなく、1階ロビーにテーブルを用意し、麦茶を出し、無料WIFIも設置されている。そこに座ってネットでもやって、1時間待て、ということだ。仕方なく、Kさんに電話して来てもらい、場所を移してお茶を飲んだ。

 

その日の夜はKさん主催の勉強会。関西の皆さんと楽しく歓談した。これまで長い間来ていなかった大阪に、今年は既に2回来た。何だかご縁が繋がり始めた。

 

6月25日

せんば

翌朝ホテルの朝食を食べる。1階のロビーが食事をする人々で埋まる。食事無料、というが、食事込みの料金、という方が正しいのではないか。1泊の基準、国外は一般的に24時間だが、このホテルでは18時間(午前10時チェックアウト)、なのだから、食事を入れてももう少し安くてもよいのでは、と思ったが、泊まる人が沢山いるという現実は顧客ニーズに合っている、ということだろう。

 

確かに出張者なら、夜遅く戻って寝るだけ、翌朝の朝ご飯が付いていればそれを食べてチェックアウト、だから16時から翌日10時で何も問題はないのだろう。ホテルライフを楽しむという習慣は日本人にはあまりない。そんな文化が生み出した合理的なホテルチェーン、全国一律のサービス内容、それが東横インの強みなのだろう。でも、正直『おもてなし』はあまり感じられない。

 

ホテルの近くにせんば心斎橋商店街、というアーケード街があったので歩いて見た。ここは観光地化しているので、日本中から、また海外の観光客が大勢歩いている。『ええもんやうしもん なんやかんやありまっせ』と書かれた看板が妙にいい。この商店街、330年もの歴史があると書かれている(http://semba-shinsaibashi.jp/top.htm)。豊臣秀吉の大阪城築城以降、この付近は商業の中心地、として栄えてきた。天下の台所、もこの辺を指すのだろうか。

 

まあ、何でもある。中国、香港、台湾系に人気なのは食べ物。粉もののみならず、洋菓子系の人気も高い。私は探していた手ごろな小さなリュックを1つ買う。東京では見つからなかったものが大阪にはある。地下鉄2駅分を歩き、なんばへ。

 

そして難波で昔のお知り合いに会い、ランチ。それからホテルに戻って荷物を取って、新大阪へ行き、新幹線で東京へ戻った。長いようで短い国内旅行だった。

 



バタバタ茶を訪ねて2013(3)突然立山へ向かう

4.   富山

富山散歩

Hさんと駅でお別れして、富山行の各停に乗る。もう完全に各停の常連だ。富山駅まで小1時間、何事もなく、過ぎた。富山駅で下車。駅は2015年開業予定の北陸新幹線の工事が行われていた。因みに新幹線が出来ればよい、と勝手に思っていたが、地元の人によれば「現在富山発のサンダーバード大阪行きが、金沢始発になるのでむしろ不便になる」との声があり、驚く。ここは関東より関西に近い場所、ということなのだろうか。

 

駅の近くのビジネスホテルに投宿。まあどこにでもあるビジネスホテル。部屋も狭い。が、驚いたことに、テレビ番組の中に香港のフェニックステレビがある。一体誰が見るのだろうか?中国人がここに泊まって、フェニックステレビを見る、ちょっと面白い。

 

富山の街を散歩してみた。駅前から路面電車が走っている。小雨の降る中、敢えて徒歩で富山城を目指す。今は公園になっているこのお城、中には2代藩主前田正甫の像がある。伝説では、この正甫が江戸城で腹痛を起こした他の大名に反魂丹という薬を渡したところ、たちどころに治り、諸藩より求められたのが、「越中富山の薬売り」の始まりだとか。

 

公園内には茶筅塚など、色々と記念碑があり、雨に濡れてしっとりとした雰囲気が良い。城の堀沿いには遊覧船もあるようだが、今日はお役御免のようだ。1時間ほどぐるっと回ってみたが、富山の街は落ち着きがあり、静けさの中にあった。ある意味、地方都市らしい地方都市、ということだろうか。

 

再会

夜は北京時代にお知り合いになったNさんとYさんと再会した。Nさんはこの4月に富山に転勤になったばかり。Yさんはお隣の高岡市在住になっていたが、わざわざやってきてくれた。富山にお知り合いがいるとは思っていなかったので、喜ばしい出会いであった。

 

食事は富山の海の幸を満喫した。刺身もかき揚げも実に、実に美味かった。先日の札幌でも感じたことだが、日本の地方都市は食に恵まれている。というより、東京などの大都市が恵まれていない、ということだろう。もっと日本を見直す必要がある。

 

富山には韓国人が多く訪れていたが、昨年の竹島問題以降、観光客が激減しているらしい。地理的に近いというだけではなく、日本の良さが感じられる富山は高く評価されていたのではないか。それが政治で翻弄されてしまうのは残念でならない。

6月22日

6.   立山

立山へ

翌朝はスッキリ目覚める。天気も回復していた。朝食はホテルが無料で提供。朝から生卵をご飯にかけて食べ、満足してしまった。休日であり、皆さんゆっくりご飯を食べており、慌ただしさはない。

 

今日は立山へ行くことにした。昨晩Yさんより、折角だから立山のパノラマを見た方がよい、と言われてので。芦峅寺を目指せ、の一言で富山駅へ。立山行の電車に乗り込む。目的地は立山博物館、駅は千垣という名前。それだけを知り、電車に揺られ、田舎道を行く。

 

小1時間で千垣に到着。非常に小さな無人駅。電車を降りる時に一両目の頭しかドアが開かず焦って降りる。すると運転手が慌てて下りてきて、「切符」と叫ぶ。私は電車の降り方も知らずに乗ったのだ。

 

千垣駅は何とも古風な駅舎を持っていた。如何にも映画のロケ地になりそうな場所である。そこからどちらへ歩いて行くのか、聞く相手もいない。仕方なく適当に歩く。線路沿いの車が通る道を行くと、庚申塚や石仏群が現れる。この道が古来立山への参道だったことが分かる。少しずつ上っていく感じ。そして2㎞あまり歩いて、博物館に到着。お目当てのパノラマショーは2時間後、とのことで、周囲を歩き出す。

 

芦峅寺界隈

この辺りは実に雰囲気が良い。教算坊という江戸時代の宿坊の庭は見事であった。隣の神社も歴史を感じさせる。その中で博物館だけで現代風で浮き上がっていて、景観上好ましいとは言えない。阿闍梨法印が仏祖報恩のため、建立したという種子石碑が並ぶ坂を下る。ここも古き良き道のムードに溢れている。

布橋、あの世とこの世を渡す、天の浮橋とも呼ばれ、江戸時代芦峅寺の重要行事であった灌頂会の際、女性たちが目隠しして、この橋を渡ったという。やましい行いのあった女性はそこで橋から落ちる、という話は、先日沖縄の久高島で聞いたイザイホーの儀式に通じるものがある。「戒め」「箍」という言葉が思い出される。今の世には「お天道様は全てお見通し」という概念が欠けている。

橋の先には墓があった。ここに過去寺があった証拠であろうか。驚いたことに芦峅寺という寺は既になく、地名として名を留めているのみ。周囲は公園のようになっており、旧家が移築されていて、往時の面影を見ることはできる。

2時間後、ビデオ上映をみた。立山の歴史や自然に関するものだった。歩いて見てきたことが説明されており、興味深い所もあった。立山信仰、私の中には殆どなかったイメージが膨れた。そしてビデオが終わると、場内のカーテンが開き、立山連峰が一望できた。ビデオ上映中は降っていた雨はなぜか上がっていた。観客は私の他に一人だけ。勿体無い景色だった。

博物館の受付によれば、「バスは時刻表通り動いている」とのことであったが、今日は休みのような気がして、歩いて千垣駅に戻る。そしてやはり駅に着いてもバスの来る気配はなかった。博物館の人は通勤は車でありバスなどに乗ることはないので、知らないのだろうが、間違った案内により、電車に乗り遅れたりしたら、目も当てられない。何しろ1時間に一本程度しかないのだから。そのまま電車で富山へ帰った。

そしてNさんに聞いた「反魂丹」を売る老舗の薬屋、池田屋安兵衛商店を訪ねた。ここは駅から少し離れた商店街の近くにあった。堂々とした店構え、中には昔の薬作りについての展示物があり、観光客が見学することもできた。勿論薬を買いに来る地元に人もいた。実は先日訪ねた蛭谷は和紙の産地でもあり、富山の薬を包む紙として使われたのかと推測、尋ねてみたが、「江戸時代以降、薬を包む紙は八尾で作られている」との回答であった。蛭谷の謎はここでも解けなかった。

6.   高岡

不思議なホテル

高岡へ向かう。富山から高岡まで各停でも30分。距離は非常に近い。だが、この2つの都市の間にはとても大きな溝がある、と聞いた。高岡は京風文化の街であるらしい。

 

実は今朝ホテルを予約しようと思ったが、予約できないホテルがいくつもあった。そんなに混んでいるのか、駅についても特に人が多い様子もない。仕方なく予約した駅前のホテルは分かり難く、電話で場所を尋ねた。何と普通のビルをビジネスホテルに替えたものらしい。分かり難いわけだ。

 

そしてこのホテル、実に面白い。インターネットはあるが、特殊な機械を使わないと繋がらない。WIFIの時代からすると10年以上遅れている。私は持参のポケットWIFIで凌いだ。部屋のドアはカードキー方式だったが、何とドアは自動では閉まらなかった。一度フロントへ行き、戻ってドア分けると開いていて驚いた。確かに横に説明書きはあったのだが、これもまた何十年前のものなのだろうか。

 

ワンフロアーの部屋数も少なく、フロントも呼び出さないと出て来ないし、出てきても不機嫌そうである。今のホテルチェーンに逆行したようなサービス。大浴場もあると書いてあったが、大は余計であった。全てが不思議、ネタとしては面白いが。

 

高岡のパキスタン料理

昨晩会ったYさんを呼び出してしまった。何だか一人、という気分ではなかったのだろう。彼女は車でやってきてくれた。夕飯を食べようということになり、「パキスタン料理はどう?」と聞かれて、思わず飛びつく。何で高岡でパキスタン、その意外性が面白い。

 

場所は高岡から富山の方へ戻ったところのようだった。国道沿い、夕日がきれいに落ちていった。そこは何と、駐車場、いや中古車を停めている場所だった。パキスタンに中古車を輸出する基地だそうだ。そこで働くパキスタン人の為に料理屋が出来、それが地元日本人にも評判を呼んでいた。それにしてもなぜ富山にパキスタン人、不思議だ。

 

プレハブの食堂、という感じのお店に入ると働いている人はパキスタン人だが、お客は皆日本人。どうやらお店が繁盛したのでここは日本人用にして、パキスタン人用は別の場所に作ったのではないだろうか。ナンとチキンカレーを頼んでみた。予想よりはるかに大きいナン、そして大量のカレー。確かに味は良く、黙々と食べてしまった。インドではナンは高級品で普通はチャパティを食べる。日本はなんて贅沢なんだろう、などと思ってしまう。

 

帰りに道の駅、に寄った。明日どこへ行くのがよいか、作戦を立てるためであった。高岡や富山の地図はあったが、各地がバラバタ。これでは大阪や東京から来る外国人には使いにくい。勿論日本人しか範疇にはないのだろうが、もし外国人にも来て欲しいなら、「自分の街はこんなに素晴らしいだけではなく、自分の街までどうやってくるのか」を示してほしい。各自治体は考え方を改めるべきだろう。

またTSUTAYAを通った。ここには車が沢山駐車されており、人が沢山いた。「高岡の若者は夜になると車で出歩く」との言葉に、東京や大阪との違いを感じる。昼間道を歩いていても、日本の地方都市のことは分からない、ということだろう。

 



バタバタ茶を訪ねて2013(2)蛭谷のバタバタ茶会

3.   朝日町

小川温泉

駅には朝日町商工会議所のHさんが迎えに来てくれていた。これは京都宇治のお茶問屋さんの口利きである。感謝。今日は特に予定がなく、そのまま宿泊先へ。事前に『温泉ホテルと湯治場、どっちが良いか』と聞かれていたので、湯治場、と答えていた。湯治場、その表現が何とも古風で好ましい。この21世紀にも湯治場があるのだろうか。

 

Hさんの車で送ってもらう。途中川があり、その向こう岸を差して、『あそこが蛭谷。バタバタ茶をやるところ』と言われる。ただその『蛭谷』の発音はどう聞いても『ビルダン』と聞こえてしまう。一体どんなところだろうか。

 

車は山道を行き、トンネルを潜った。その向こうにはまさに一軒宿といった感じのホテルがドーンと建っていた。目指す湯治場はその立派なホテルの横にちょこんと併設されていた。既に予約されていたので、スムーズに。湯治場は1泊2食付きで7000円ぐらい。ホテルはその倍はするらしい。そしてHさんは会議があると言って帰って行った。

 

フロントのおじさんに『WIFIありますか』と聞くと『WIFIって何?あー、あの無線の・・』と言われて驚く。実はこの山の中、私が持ってきたポケットWIFIも、圏外が表示されていた。『携帯は何とか繋がるんだけどね』『そういえば数年前、外部との接触を断ちたいというお客が数日泊まったな』など、浮世離れした話が続く。でもそれは好ましい。私もネットなし生活でのんびりできると割り切る。

 

この湯治場に来るお客さん、昔は確かに湯治の為に長逗留だったが、今では近隣の老人たちの日帰りの湯、となっている。中にはここの温泉の権利を持っていて無料で使える人もいるらしい。田舎は複雑だ。夕方は皆が湯から上がり家路につく。

 

露天風呂があるというので見学に行く。小川というには大きな川沿いに歩いて行くと、脱衣所はあったが、風呂は見えない。と思ってカメラを岩の方に構えると、何と裸のおじいさんが立ち上がった。本当に自然の温泉だった。双方ビックリして無言。脱衣所から素っ裸で岩まで歩く自信がなく撤退。その横を女性が女性用に向かっていく。すごい。

 

宿に戻り、一風呂浴びると気分も落ち着く。だがすぐにご飯。何と5時半開始だ。泊まっている人は殆どいないので、食堂は早く閉まるようだ。刺身など、結構おいしいものが出て満足。おばさんにこの辺の歴史を聞いてみたが、『よくわかんね』という感じ。

 

夜は物音といえば、川のせせらぎのみ。ネットもなく静かに熟睡。そういえば今朝は長野で朝5時に起きて、長い1日だった。

6月21日

蛭谷へ

すっきりした朝の目覚め。PCを見ないとこんなに楽なのか、と改めて感じる。またこの環境、素晴らしい。朝8時過ぎに、ホテルの方へ行き、朝食を食べる。団体さんは既に朝食を終え、バスに乗り込んでいる。朝ごはんは充実しており、満足した。9時半にHさんが迎えに来てくれた。湯治場ともお別れ。名残惜しい。フロントの男性からは色々な話を聞いたが、何と元お坊さんだったようだ。もっと話を聞けばよかった、残念。

 

車は川沿いを走る。蛭谷地区は以前戸数100戸あったが、今では30戸、150人が暮らす町。伝承館というバタバタ茶の伝統を守る施設がある。ここで週4回、午前中に地元の人が集まり、茶会が開かれている。私はこれに参加させてもらった。お当番の女性が準備をしており、10時頃から三々五々人が集まり、バタバタ茶を飲みながら、お話している。

 

バタバタ茶の歴史は相当古い。基本的には仏事。各家庭で故人の祥月命日に茶会を開催、知り合いが集まって茶を飲み供養する。蛭谷(ビルダン、ベルダン)地区では今でも続いているが、準備などが大変で開催が減ってきている。それに伴い茶の需要も減り、生産もほぼなくなり、他の場所(福井辺り)で作られた物を買って凌いでいた。

 

だがその茶農家も生産を中止することとなり、このままではバタバタ茶がなくなると危惧したHさんら、町の人々は茶作りをしていた最後の一人に教えを乞うて見事復活させたのだという。現在の茶葉生産量は年間僅か3000㎏で、とても商売に適した生産量は確保できない。年1回7月頃に茶葉を摘み、40日掛けて作る。専業農家はなく、友の会で生産している。このバタバタ茶、作るのはかなり難しい。何度も試行錯誤を重ねているが、未だに完璧に作れることはないという。Hさんは『発酵させている間は一日2₋3回の見回りが欠かせない。本当につらい作業だ』と言っている。

 

しかしなぜ蛭谷というのか。なぜ『びるだん』と読むのか。そしてなぜここでバタバタ茶が飲まれているのか、謎は深まるばかりだ。

バタバタ茶会

伝承館に10名程度の人々が集い、茶会が始まった。茶葉を布で包んで鍋に放り込み、煮出している。皆さん、マイ茶碗、マイ茶筅を持ってきており、煮出した茶を碗に注ぐ。そして素早い動きで茶筅を碗の両側に打ち付け、バタバタ音をさせながら、茶をたてる。これがバタバタ茶の名前の由来だ。

 

この茶のたて方、飲み方がいつどこから伝わったのかは定かではないらしい。私が4月に訪ねた中国広西壮族自治区の梧州で作られていた六堡茶と製法が同じと言われているが、この町ではそれすら知られてはいない。茶は中国から来たのだから、この製法も中国から来たのでは?と言っても真実を知るすべがない。一応公式見解は⇒ http://www.shokoren-toyama.or.jp/~batabata/

 

仏教に絡んでこの茶が生まれたのではないか、との話もある。この付近は一向宗であるが、なぜか蛭谷には寺がないため、自宅で仏事、茶会をする習慣が残ったというのだ。お茶と仏教は深い関係にあるので、十分に考えられる。また蛭谷と川を挟んで対岸にある羽入は全く違う土地柄であることから、蛭谷の人々はいつの時代かに別の土地からやってきた、茶の製法も持ってきたのではないとの説もある。実際蛭谷の人々は非常に明るい。太陽が出る方角だから、というだけではあるまい。

 

そんなことを考えているとおばあちゃん達は、どんどん茶を飲み、ケタケタ笑いながらとりとめもない話をしている。『そんな混ぜ方じゃダメだよ』と手本を見せてくれたり、昔話をしてくれる。少なくとも皆さん、子供の頃から慣れ親しんだ茶である。おばあちゃんがバタバタやってくれると味がまろやかになり、美味しいのは何故。

 

『昔はお茶に塩を入れていたよ。そうすると美味しんだ。けど、最近は健康診断あるでしょう。すぐに血圧などに影響が出るから、今は入れないの』という。そういいながらも塩が置かれており、入れてみると何となく味がすっきりしているようだ。いずれにしてもこのお茶はあっさりしていて飲みやすい。

 

そしてお当番の家で作られた漬物、実に実においしい。最初は遠慮していたが、あまりの美味しさについつい手が出てしまう。自ら作ったキュウリや大根を漬けている。山菜も山から採ってきている。非常に自然な味だ。

 

あっという間に時間が過ぎ、参加者は開始同様、三々五々帰って行った。『さよなら』とも言わない人が多い。どうせまたすぐ会うからだろうか。帰ろうとするとお当番さんが『おにぎり作ったから食べていきなよ』と言って、漬物とおにぎりが差し出された。既にお茶会でお腹一杯だったが、ありがたく頂戴した。このおにぎりもうまかった。何とも幸せな茶会だった。感謝。

http://www.kurobehan.com/kouza/guide19/

茶畑

伝承館を後にして、茶畑を見学する。茶畑は町の中にあり、遠くに山々が見えるいい景色の中にあった。『お茶実証畑』と書かれた看板が立つ。畑はここ1つだけ、ここでバタバタ茶製造の原料となる茶葉を摘んでいる。海辺に近いこともあり、標高はなく、平地に畑が続く。

 

茶樹は『やぶきた』と書かれている。あと1月もしないうちに茶摘みが始まることもあり、茶葉が元気に育っていた。ここは公園にもなっていて、向こうの方にまるで原始時代のような藁葺の家屋が見えた。バタバタ茶が何となく愛おしくなってきた。

 

すぐそばに『なないろ館』という郷土の特産品などを扱っているところがあった。富山県には各地に窯があり、焼き物が盛んなようだ。海辺ではヒスイの原石が今でも見つけることが出来るという。『縄文時代から古墳時代にかけ、朝日町はヒスイの玉つくりの地』だったそうで、古代のロマンに満ちていた。

 

この地はその昔、中国や朝鮮半島と独自の交易があったのではないだろうか。ヒスイの貿易がメインだったかもしれないが、それに伴い、モノや人の往来があり、独特の文化が築かれた、そんな気がしている。

 

最後に町役場へ行き、町の歴史についての資料を探したら、親切にも『町史』を貸して頂いた。ただ残念ながらお茶についての記述は殆ど無く、バタバタ茶については、分からないことが多く残ってしまった。

 

 

 

バタバタ茶を訪ねて2013(1)真田神社と善光寺

【バタバタ茶を訪ねて】 2013年6月18日-6月25日

 

4月に広西壮族自治区の梧州に行った。そこには六堡茶という黒茶類の珍しいお茶があった。そのお茶について書かれた中国の本を買ったところ、その中に『同類のお茶が日本の富山県にもある』と書かれているのが目をひいた。何故あるんだ??

 

それでも富山県のどこにあるのかもよくわからないし、行く機会もないだろうと思っていたら、ちょうど長野県に行く用事が出来た。そして富山県のお茶、バタバタ茶についても京都の問屋さんが『取引があるから紹介する』と言ってくれた。だんだん条件が整ってきたので、訪ねてみることにした。

 

6月18日

1.   上田

今回は長野県上田市にお邪魔した。新幹線で行こうと思うと、大宮へ行くことに。ところが何とか大宮まで行くと、何と『上田行の指定券は売り切れ』と言われる。長野新幹線、よく見ると上田で停まらない便も多い。ちゃんと調べてくればよかった。日本では事前の調べが大切だ。

 

何とか自由席で座席を確保した。ネットでもやろうと思ったが、無料のWIFIなどはない。おまけに電源すらなかった。別の機会に新幹線で乗り込んできた台湾人が皆で電源を探していたのを思い出す。インバウンドにはWIFIと電源は必須だろう。そういえばその辺の電源に差し込んで『盗電』と言われるのは日本ぐらいではないかと思う。

 

昼過ぎに上田に到着。指定されたホテルはチェックイン時間前だったが、部屋を用意してくれた。これは大変ありがたかった。外は雨。それでも先ず行かなければならないところがある。雨をついて外へ出た。

 

真田神社

行くべきところ、そこは上田城。そして真田神社。真田昌幸、幸村(信繁)ゆかりの方から、『上田に行くなら一度行ったら』と言われていた。そうなれば行ってお参りするべし。地図を貰って歩き出す。

上田城までは意外と距離があった。しかも登り。ようやく二の丸跡へ。けやき遊歩道がある。上田城と言えば、徳川が2度にわたり、真田に苦杯を舐めさせられた場所として有名。徳川の時代に全て壊されてしまい、今は勿論その全容はないが面影は再現されている。何となくワクワクする。

城内はきれいに整備され、公園になっている。その一角に真田神社があった。その前にはなぜか若い女性が2人、不思議な格好をしていた。コスプレか?聞けば『歴史好き女子(歴女)』が増えているのだとか。真田神社も昔は訪れる人が少なかったが、最近の歴史ブームで参拝者が急増。テレビでも歴史物が多くなっており、特に若い女性が増えているらしい。面白い現象だ。

神社はこじんまりしている。真田家の家紋、六文銭が目立つ。神社自体は本当に小さい。そして歴史が感じられるが、正直それほど話題になるようなものではないと思う。そんなひっそりとした神社が好きだ。西の櫓から上田の街が見える。この街はお城が中心なのだな、とよくわかる。城内には胸像や碑がやけに多い。顕彰するのが好きなのだろうか。地元を大切にしているのだろうか。

街に戻ると真田十勇士のキャラクターがそこかしこにある。真田十勇士は確か大正時代に作られたヒーローだったと記憶している。すると上田とは関係がないようだが、今はゆるキャラブーム。何かキャラクターを、ということで作られたのかもしれない。因みに昼の街は雨のせいか、人通りも殆ど無く、ひっそりとしていた。

その後地元企業関連の会に出席すると、元気な企業経営者の方々が沢山いた。海外進出の意欲も高く、皆さん熱心に交流されていた。真田幸村を主人公にした大河ドラマの制作をNHKに働きかけている、との話まであった。街はただ歩いて見ているだけでは分からない。その夜は馬刺しとそばを頂き、大満足。夜の方が人通りがある場所もあった。上田も奥が深い。

6月19日

2.   長野

 

 

翌朝、長野に向かった。元々は白馬で1泊を予定していたがキャンセルになり、それならば、と長野に1泊。昼頃電車で長野駅へ。駅前の実に古いビジネスホテルに飛び込む。ここでもチェックインは3時からと言われたが、大雨でもあり、フロントのおじさんは『1部屋空いているから使って』と言ってくれた。この辺がチェーン店との違い。その場に応じて対応できる。それにしても階段が複雑で、部屋も狭い。おまけにタバコ臭い。何もよいことはないのだが、料金は安い。駅前にあり、その昔は活躍したホテルなのだろう。

 

腹が減ったので昼ご飯を探す。善光寺方面に歩いていくと、アーケード街にパン屋さんがあった。パンでもよいかと思ったが、何とそこに『カツカレー500円』の表示が。思わず入ってみる。簡単な飲食コーナーがある。カツカレーに味噌汁とサラダも付いていた。これはパン屋さんの具材を活用しており、面白い。コーヒーまで飲めた。何でこれで500円なのだろうか。サービス?それとも地方はこんなもの??

 

善光寺

長野の善光寺には一度は行ってみたいと思っていたが、なかなか機会がなかった。立川志の輔の落語に『お戒壇めぐり』というのがあり、どうしても体験してみたいと思っていた。ランチ後そのまま歩いて行く。雨で人通りは多くないが、その後雨上がる。

 

門前町を歩いて行く。緩やかな登り。善光寺には宗派がない。誰でもがお参りする。寺の前、両側には宿坊もあるようだ。勿論土産物屋は多い。山門を潜ると、背後に山を頂いた本堂がそびえていた。

 

本堂に入ると500円を払い、お戒壇めぐりへ。地下へ入ると本当に真っ暗で驚く。暗いと思ってはいたが、全く灯りがないとは思いもよらず、閉所恐怖症の私はちょっとパニックに。案内も何もないので、壁つたいに歩を進める。あまりにゆっくり歩いたので後ろの人に体を障られ、抜かれる。普通こんなことはないのだが、今はどうしようもない。観念した。一時は出られないのではと思うほど、道も真っ直ぐではなく、恐ろしい。

 

それでも暗闇を歩いていると色々と考えることがある。この暗さは一体何なんだ、なぜここを歩くのか、など。完全に暗闇ショックに襲われた。全く違う感覚(生まれ変わる?)も生じる。僅かな時間だったはずだが、すごく長く感じられた。外へ出ると光がまぶしい。うーん、と呆然としていると、係のおじさんが『生まれ変わった自分の姿を鏡で見て』と促す。これは正直余計なお世話だと言わざるを得ない。生まれ変わるのは姿ではなく、心ではないか。

 

それから展示館を見る。ダライラマの来訪記念に作られた曼荼羅。堂内に吊り下げて拝む掛け仏、など、見るべきものが沢山あった。ここも日本の原点の一つ、と感じられる。その後善光寺の周囲を歩く。六地蔵、絵馬、千人塚、色々とある。修学旅行生はお戒壇めぐりをしたのだろうか。みんな楽しそうだ。

 

そして街歩き。川が流れていた。水量が非常に多い。最近の集中豪雨の影響だろうか。気象が異常なのが分かる。雨は上がっているが、雲の動きが激しい。

 

6月20日

お朝事(数珠頂戴)

翌朝は5時に起き、再度善光寺へ向かう。お朝事に参加する。この行事は長野に泊まった人だけが参加できる(電車だと間に合わない)と聞き、わざわざ1泊したのだ。朝から参拝する地元の人が多い。健康のために歩いているという老人もいた。おばさんに『こっちだよ』と言われ、お寺に上がる。皆思い思いにストレッチなどをしている。毎日顔を合わせ、何となく知り合いになっている人々。この緩い連帯、なかなか良い。

 

少しずつ観光客も集まり始める。皆どうしてよいか分からない。お坊さんが行き来を始める。何かが始まる気配はある。すると誰かが本堂に沿って並び始める。向こうの山門の方から人が来る気配がある。いつの間にか、人が一列になっている。そこへ後ろに傘持ちを従えた偉いお坊さんがスタスタと歩いてくる。皆膝をつき、頭を差し出すと、そこへ数珠がポーンと触る。相当に早い動きだ。確かに数十人の頭を敲いていくのだから、のんびりはしていられない。

 

この儀式、お坊さんが出仕する朝の儀式の前後に行われる有難い行いで、明治末期までは本堂で一夜を明かした信者が受けるものだったという。今でも365日、一日も欠かさず行われている。昨日のお戒壇めぐりといい、特に何かをした、という感じはないが、ちょっと何かを考えるきっけにはなる。善光寺は不思議なところだ。

 

松代 象山地下壕

今日は夕方バタバタ茶のある富山県朝日町に移動する予定だが、それまで時間がある。さて、どこへ行こうかと考えたが、気になっていた松代へ行ってみる。長野駅で聞くと、バスで30分と言われる。あれ、電車はないのかな。ローカルバスに乗り込む。すぐに田舎のきれいな国道を走る。日本は本当に田舎の道がきれいだ。途中川中島というバス停があり、川中島の合戦の公園があった。降りてみたかったが、それだと間に合わないため、断念。聞けば、合戦の場所は特定できていないが、古戦場と思われる場所は少し離れているようだった。

 

松代に到着。何とレトロな駅舎の前でバスを降りる。なんだ、電車もあったのか、と思ったが、既に廃線になっていた。残念。そのまま街を歩き出す。ここ松代は真田家が江戸時代に入封された場所であり、宝物館などがあった。街の一角は映画のロケセットのような雰囲気。

 

しかし私のお目当てはここにはなかった。象山地下壕、街の外れまで歩いて行くと、丘の端、小川沿いにあった。この地下壕は第2次世界大戦末期、天皇と大本営、政府機関をここに移し、本土決戦を行うために掘られた壮大な地下壕だ。浅田次郎の小説でも取り上げられており、一度見てみたいと思っていた。

 

入口でヘルメットを借り、中へ。かなりしっかりした枠組みで地下道が支えられている。灯りがあるのでどんどん中へ進む。進んでも進んでも、まだ道がある。これは本当に大きな地下だ。途中、説明書きがいくつかあるがよく読めないものもある。この地下壕、昭和19年に掘り始め、75%が完成していたとの話もある。各場所の配置も決まっていたのだろう。

 

豪内には見学者がいたが、殆どが修学旅行か社会科見学の高校生だった。おじいさん、おばあさんのガイドさんが付き、一生懸命に説明している。『本当にここに大本営が移され、本土決戦があったら・・』『多くの朝鮮人労働者が動員され、命を落とし・・・』この豪の中でそのような話を聞けば、色々と考えることもあるだろう。だが高校生には実感はないのではないか。かなりの非日常空間なのだから。

 

この地下壕は何のために開放されているのだろうか。反戦?『このような悲惨な歴史を忘れてはならない』と言われても、実際に使われなかった施設を見て、実感が湧くだろうか。歴史的なミステリーならワクワクするがどうだろうか。

 

帰りに佐久間象山を祭る象山神社へ行く。幕末を生きた象山はここの出身。象山はここで29年間、藩の青年たちに学問を教えていたという。だが京都で暗殺されると、佐久間家はとりつぶし、家屋敷も壊された今も残っているのは井戸だけ、というのが何とも悲しい。

 

各駅停車で泊まで

バスで長野駅へ戻る。今日は試験の日なのだろうか、午前中なのに学生が大勢乗っている。長野駅で直江津行の電車に乗ろうとしたが、何とスイカが使えなかった。本日の目的地、泊まで切符を買おうとしたが、料金も分からない。するとちゃんと駅員が一人、自販機の前に立っており、『どこまで行くのか』と聞き、料金を調べ、切符を買ってあげている。これは助かる、とは思うものの、釈然としない。自販機の前で人が処理?何かが変。

日本人でもよくわからない電車の料金。外国人が来たらさぞや困るだろうな。しかも日本語ができなかったりしたら、ひと騒動だ。スイカが使えれば取り敢えず乗り込めるのだが、『当分使えるという話はないし、ここの駅で使えても富山の田舎の駅で出られないでしょう』と言われると、日本は先進国なのか、と思ってしまう。

そしてもっと驚いたのは、直江津までの電車が妙高3号という特急仕様の車両。ところが各停なのだ。各停だけど、指定席は有る。これは凄い。日本のローカル線、なめたらいけません。

そして1時間半、妙高3号は見事にすべての駅に停まった。途中スイッチバックするところなどもあり、鉄道マニアがカメラを構えていた。上杉謙信の居城だった春日山城も通過した。元々特急だった彼?が今では各停。でも何だか胸を張って走っているように見えたのは私だけだろうか。

直江津からは急行なども出ていたが、妙高3号で気を良くして敢えて各停に乗る。直江津は 佐渡へ渡るフェリーが出ている。佐渡へも一度は行ってみたいが今日はお預けだ。厚い雲が覆う直江津、日本海側は太平洋側とは違うんだぞ、と言われているように感じる。

直江津を出た富山行各停はゆっくり走る。途中トンネルに入り、電車が停まる。あれ、故障か、大変だ、と思っていると、何とそこは駅だった。筒石という名。日本では珍しいトンネル駅だそうだ。駅の入り口はかなり上の方にあり、上り下りは大変だとか。こんな駅に出会うのも各停ならでは。

青海(おうう)、能生(のう)といった読めない駅名もあった。恐らくは由緒正しい、または何かの当て字なのだろうが、結構風情を感じる。風情と言えば、親不知、市振など、松尾芭蕉の奥の細道やその他歌人が歌を詠んだ場所として知られている。電車も親不知付近ではかなり海に接近。海の上に道路が掛かっている。

市振は越中と越後の国境。ここから越後へ入るという意味で『一から振り出し』。芭蕉の 「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」はとてもいい句だと思っている。一度下りてみたいが、今回はやめておく。ようやく泊の駅に着いたのは1時間後。この旅もまた面白かった。気が付くと1車両に1-2人しか乗っていない。泊の駅で降りたのは私だけだった。さて、どうなることやら。

 

愛知、奈良お茶散歩2014(6)信楽 陶芸通訳に四苦八苦

3月6日(木)

6.信楽

陶芸通訳

翌朝ロビーに行くとTさんが迎えに来てくれた。チェックアウトして、荷物を車に積み込む。今日は滋賀県の信楽へ行く、らしい。今日はドイツからお茶の研修に来たマリアのために、Tさんが信楽の陶芸家の所へ彼女を連れて行く、それに同行させてもらうことにしたのだ。

 

マリアも車に乗り、出発。天気は曇り。彼女のご機嫌も曇りがち。疲れているのか、あまり話をしない。信楽と言えば、狸の置き物ぐらいしか思いつかないし、大体どの辺にあるかのかも分からない。ただただTさんの運転に乗っかっていく。小1時間も経たないうちに、それらしい雰囲気の場所にやってきた。信楽と言えば、信楽宮、奈良時代に聖武天皇によって造営された離宮、紫香楽宮とも書く。実に古い歴史を持つ地域で、良質の土があることから、陶芸の里として、有名となっていったらしい。

 

小雨が降り出した、と思ったら、小雪に変わる。とても寂しい感じの場所に、いくつもの工房が見える。その中の一軒に車は入っていく。工房のご主人とその息子さんが迎えてくれた。工房に入ると、Tさんが『あとで迎えに来る』と言って帰ってしまった。え、なにそれ?

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ここでマリアが轆轤を回し、陶芸の基礎を勉強すると聞いたのだが、マリアはそこに置かれている陶器を見て、興味津々。しかもこの道20年の息子さんが轆轤を回すとバンバン質問が飛び出した。ところが・・、陶芸家は英語もドイツ語も出来ず、マリアは日本語が出来ない。皆の注目が私の集まり、にわか通訳を引き受けざるを得なくなる。

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しかし、私には陶芸の知識はなく、それを英語で伝えるのは容易ではなかった。それでもマリアの質問は容赦なく繰り返され、私の説明に納得できないと、身振り手振りで伝え始める。そのエネルギーは、先ほど車の中で見た彼女ではなかった。彼女はベルリンで日本茶カフェの店長をやるらしい。その為に日本へきて、日本の茶について勉強しているそうだが、陶芸への関心も半端ない。その道50年のご主人の手さばきに感嘆の声を上げ、質問の拍車がかかる。奥さんが出してくれたお茶もお菓子にも目もくれない。

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そして約3時間、彼女の興味は尽きなかった。最後にようやく轆轤の前に座り、真似事程度に回すともう時間切れとなった。それにしても名人の手さばきは凄い。まるで手品のように一瞬にして手から形が生まれ、あっという間に湯飲みが出来る。外国人がこれを見たら、さぞや喜ぶことだろう。

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信楽でチーズフォンデュ

Tさんが奥さんと一緒に戻ってきた。ここからは第2部のスタートだ。料理研究家のT女史も東京から駆け付け、食事の用意が始まる。マリアがドイツから持ち込んだチーズをベースにフォンデュを作るらしい。マリアは何でもこだわりがあり、時間をかけて作業をしている。鍋もわざわざドイツから持ってきたとか。

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T夫人とここの奥さんも、フォンデュの具材となる物を沢山作る。野菜は勿論、関西らしくたこ焼きにチーズを付けて食べたりした。何とも楽しい食事会に参加した気分だ。前の工房は和風だが、奥の自宅は全く違うイメージで作られており、いい雰囲気の暖炉が設置されており、ヨーロッパ風。

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マリアは実はロシア人で、若い頃、ドイツへ移住したらしい。しかもロシアでは陸上選手で、短距離のオリンピック代表候補だったとの話もあり、興味深い。プロの陸上選手は正直その資質で決まるので、努力しても成れるものではない、という言葉は、陶芸の世界とも通じるのだろうか。

 

工房を失礼する頃には、雪はやみ、外は明るくなっていた。Tさんの車で宇治駅まで送ってもらったが、信楽から宇治は車でわずか20分、その近さに驚いた。そのまま京都駅でマリアと別れ、新幹線で東京に戻った。