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京都茶旅2015(3) 高山寺と明恵上人

高山寺

バスを下りると、そこは高山寺の裏門になっている。かなりの樹木に覆われている。観光客はほとんどいない。入山料500円を支払い、中へ入る。すぐに国宝、石水院が見えてくる。ここは明恵上人が禅堂とした場所で、後鳥羽天皇の学問所を移築したと書かれている。上人在住時代の唯一残っている建物。簡素な寝殿造りとなっている。しかし私には国宝はあまり興味がない。

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HPの紹介が面白い。『世界文化遺産、高山寺は京都市右京区栂尾(とがのお)にある古刹である。創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。鳥獣人物戯画、日本最古の茶園として知られるが、デュークエイセスの唄「女ひとり」にも歌詞の中に登場しています。また、川端康成、白洲正子や河合隼雄の著書にも紹介されています』

 

こんな多彩な紹介がなされる寺も珍しい。何となくこの寺が他とはかなり違う、という印象を与えている。実際にそこに足を踏み込むと、どうみても寺院、という感じはない。山の中に、自然があり、自然の中に少しだけ人がいる気配がある、そんな場所である。本堂があり、鐘撞堂がある、という寺院建築とは見事にかけ離れていて、何とも面白い。紅葉のシーズンは観光客が列をなす混雑だというが、今はひっそりとしており、それがまたよい。

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擬人化された鳥や動物がコミカルに、しかし意味深く登場する鳥獣人物戯画には多くの関心が集まっているが、さて、私の関心の一つは、やはり何と言っても、『日本最古の茶園』であろう。しかしHPの説明は以下のようになっており、どう見てもここが最古の茶園ではないことは直ぐに分かる。それは先日訪れた佐賀の脊振山の石碑と相通じるものがあるようだ。

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『高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られる。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている』

 

囲いに覆われて園内。そこに入ることはできないが実に少ない面積の茶園がそこにあった。樹木に覆われ、いい傾斜の中にあるとは思ったが、茶樹は当然それほど古いとは感じられない。現在でも茶葉を摘み、茶を作っているのだから、当たり前であろうか。ここで興味深いのは最古かどうかではなく、栄西と明恵の関係ではないだろうか。大先輩栄西が、宋が帰国して、明恵に何かを伝えた。栄西は臨済宗を興して、後世の仏教界に名を留め、独自の宗派を作らなかった明恵の名は歴史の中に埋もれた。それは一体どういうことだろうか?

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白洲正子の『明恵上人』を読んでみると、この僧は華厳宗を信奉しており、法然を激しく批判し、また親鸞と匹敵するほど、当時の仏教界に大きな影響を与えた人物として語られている。私自身、明恵という名を歴史の教科書で見た記憶もなく、茶の歴史で初めて知ったのみだ。そして今年3月、和歌山へ行き、偶然にも明恵上人誕生の地を訪れ、更には高野山のK和尚からも、そのすごさを教えられ、その人となりを認識して、ようやく興味を持ったのである。

 

日本人で一体どれほどの人が明恵を知り、その行いを理解しているのだろうか。今回高山寺を訪れ、この自然の中の寺を見て、益々明恵に興味を覚えたのは偶然ではないだろう。日本の仏教はある意味で親鸞に始まる、とも言われている。確かに世界の仏教の中で、飲酒、妻帯など、日本のそれほど特異な存在はあるまい。明恵はそんな環境の中で、既存宗教に飽き足らず、激しい修行を自らに課し、自からの耳を切ったという。インドへの渡海も企て、承久の変で敗れた後鳥羽上皇に繋がる女人を助けたなど、その行動はかなりアグレッシブである。それにより、北条泰時と知り合い、彼が定めた画期的な『貞永式目』に大いなる影響を与えたようだ。明恵も元は武士の子、貴族社会から武家社会への流れを作ったのかもしれない。

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『仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものである』と主張し、念仏仏教には批判的で、生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践した。昔から伝えられた教えを守り、原点回帰した僧侶であり、実は日本の仏教界では、一番重要な人物ではないだろうか。

 

更には河合隼雄の『明恵 夢に生きる』を読んで驚く。何と彼は19歳から死ぬ間際まで、夢日記を綴っていたというのだ。たかが夢、とバカにするものではない。明恵の見た夢は実にリアルであり、それが何かを暗示していることは明白だという。戒律を重んじることがどれほど難しく、葛藤のあるものか、ということを我々はこの夢日記を通して知ることができる。そこに人間としての明恵上人が感じられ、その教えに真実味が増している、とも言えるのではないだろうか。お茶のご縁で明恵上人を知り、そして高山寺を訪れる、それは素晴らしい出会いであった。

 

寺院内は参拝するというより、散策する感じだ。明恵の御廟も実にシンプル。開山堂という建物が見えるが、あれが本堂に当たるのだろうか。お寺は本来、人里から遠く離れない範囲の山にあり、俗世とは一線を画する場所にあるべきだが、まさにここは最適の場にも見える。1時間半ほど、思いを馳せながら、歩き回り、ある程度の満足を覚えたところで、次に向かう。

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京都茶旅2015(2)至福の町屋に泊る

茶濃香

過去何度か来たことがあるTさんの家、茶濃香。だがいつもは車でスーッと入ってしまうので、外観の印象がない。柿の木が植わっている。『日本緑茶発祥の地 宇治田原』という看板が見える。だが何となく見覚えがない道だ。何とか見つけて上って行くと玄関がある。家のベルを押すと、おばあさんが出てきて招き入れられた。Tさんも急いで帰ってきてくれた。

 

Tさんは、チェコのプラハ、ドイツのベルリンなどヨーロッパを中心に日本茶の輸出している茶商さん。まるで寅さんのように、特製の茶道具箱を抱えて各地を転戦し、日本茶のパフォーマンスをしながら、煎茶や抹茶の普及・宣伝に務めている。これまで何度もお訪ねして、茶の海外輸出の難しさ、ヨーロッパ人の関心の持ち方などについて、色々と教えて頂いていた。今回も2日前までヨーロッパに滞在しており、帰国直後を直撃した形となった。

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ヨーロッパでの日本茶人気は相当に高まっている。チェコのプラハにはティーハウスが沢山あり、紅茶はティーバッグではなく、リーフで出すことをうたって成功しているハウスが伸びているなど、アジアでは聞こえてこない情報が沢山溢れだしてくる。ドイツ、イタリア、フランスなど、私の知らないお茶の世界がこの空間で花開く。私もそろそろ脱アジアか、と真剣に考える。来年はアフリカと並んで旧東ヨーロッパは外せないだろう、と思う。

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少し話していただけだと勝手に思っていたが、既にあたりは暗くなっていた。奥さんから『夕飯、食べて行って』と言われ、恐縮ながらお言葉に甘える。そしてアジアの旅の話などをしながら、栗ご飯を頂く。本当にこのようなご飯は有難い。気を使わせてしまっていると思いながらも、いいご縁が繋がっていると感じられる時だ。帰りは9時近くになり、Tさんに車で駅まで送ってもらう。毎度申し訳ないことだが、私にとってはとても良い勉強の場だ。

 

2.京都

金閣寺まで

京都駅に着くと既に10時近かったが、金閣寺行きのバスはまだあった。結構人が並んでおり、昼間の観光客とは違う、通勤・通学の人々が沢山いることが分かる。バスは暗い中を走り、どこへ向かうのかよく分からない。ただ京都は碁盤の目のような道、何となく方角が分かり、安心はできる。意外と乗客の乗り降りが激しい。京都は勿論かなりの都会なのである。

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京都駅から50分近く乗って、ようやく金閣寺参道に着く。すぐ近くの町屋が並ぶ一軒に本日宿をお願いしたISO茶房はある。勿論既に閉店しているが、Iさんがちゃんと待っていてくれた。そして荷物を置いて、椅子に座るとすぐに中国茶が出てくる。本当に申し訳ない。泊めて頂いた上に極上のお茶まで淹れてもらうとは。ただIさんはお茶の淹れ方がうまい。淹れて頂いたら、遠慮なくどんどん口に入ってしまう。お茶も極上であるから、これは仕方のないことだ。

 

1階はテーブル席もあるが、畳の部屋もあり、私はそこに布団を敷いて、寝かせてもらった。町屋に泊る、何とも贅沢な環境だ。京都はWi-Fiが普及しており、こちらの茶房でも、すぐに高速で接続が出来た。これは便利。周囲はとても静かで布団に包まるとすぐに寝入ってしまった。

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10月5日(月)

高山寺へ

翌朝は7時過ぎに目覚める。何とIさんがキッチンに立ち、焼き魚に漬物、ご飯とみそ汁という純和風の朝ごはんを作ってくれた。これはもうビックリポン!!たらふく食べる。そして更にいい天気の庭で、優雅に台湾茶。あれ、もうこれは出来過ぎの展開だ。こんな幸せがあった良いのだろうか。至福の時、という表現があるが、まさにこの時に為にあるに違いない。

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そして今回の目的地である高山寺へ向かう。ISO茶房からすぐのバス停から、高雄行きのJRバスが出ていた。Iさんに行き方も時間も調べてもらい(相変わらず自分では何もしない。ガイドブックすら借りていく)、殆ど待つこともなく、うまく乗り込んだ。席にも座れた。

 

Iさんから『京都でバスに乗る時には、500円の1日券を買うのが節約になる』と言われていた。但し高雄はその券の利用範囲外のため、差額を払う必要はあるとのことだった。だがバスの運転手に聞くと『JRバスはこの券を車内では販売していない。高雄のバス停でも販売していないので、この往復には使えない』と回答してきた。さすがJR様、完全な殿様商売だ。

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最近私の旅日記の中では、JRに批判的な内容が増えているなと自分でも自覚している。しかしそれは私が恣意的にして行っているものではなく、結果的にJRの営業努力が、少なくとも私鉄などと比べて劣っていると言わざるを得ないことを物語っている、と理解してほしい。高雄までかなり時間がかかると思い、早めに出てきたのだが、何と僅か30分で、高山寺の横まで来てしまった。

 

京都茶旅2015(1)ぷらっと宇治へ

《京都茶旅2015》  2015年10月4-8日

 

何となく京都に行きたい、と思うことが偶にある。ちょうど半年前、高野山から茶筅の街を経由して、なぜか辿り着いた京都。その行程の中で、和歌山で明恵上人と出会った。明恵上人のお寺、高山寺に興味を持つ。そこには日本最古の茶園があるという。栄西から明恵に渡った茶の種、お茶の世界ではよく知られた話となっている。

 

そして金閣寺近くのISO茶房を訪ねた時、『店の畳の部屋に寝ることができる』と聞き、いつかここに泊めてもらおうと思っていた。金閣寺から高山寺は意外と近いらしい。今回は思い立って、京都だけにじっくり滞在することにした。さて、そこで何かが見えてくるだろうか。

 

1.宇治

10月4日(日)

ぷらっとこだまで京都へ

静岡で買えなかった『ぷらっとこだま』という商品を予約した。そして受け取り場所として、わざわざ東京駅構内にあるJR東海ツアーズに向かった。勿論郵送を依頼することも出来るのだが、送料もかかるし、何事も経験。ちょっと待っている間に店内を見ると、『京都格安ツアー』などのパンフが見える。何とこだまではなく、のぞみに乗り、京都の宿泊まで付いても、2万円台からあるという。

 

担当の女性も私がこだまの往復を予約していることにちょっと怪訝な顔をした。『もしお仕事でしたら、次回はこちらの方がお安いですよ』というではないか。なんだそれ?ぷらっとこだま、を購入する人は、『一般的に関西に実家がある』など宿泊場所があり、『片道だけ使う』などの制約型が多いのだそうだ。もし京都往復なら、わざわざこれを使う必要はないのである。何故なら『このチケットは不便なことが多いですから』と笑う。何ということか。

 

当日9:04品川発のこだまに乗るのに30分以上も前に品川へ行く。もし山手線が遅れて予約した電車に乗れなくても、全て自己責任。払い戻しは受けられない可能性があるというのだ。そしてこの商品についている『ドリンク引き換え券』の受け取り場所も探さねばならない。何とこだまには車内販売がない。ドリンク一本無料なのだが、それは駅の指定された場所でのみ、受け取れる。何と面倒な。いつもの崎陽軒しゅうまいも買い込み、改札へ。ところがチケットが自動改札を通れない。紙のチケットだった。駅員に提示して通してもらう。何という不便さ。

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ホームへ行くとのぞみやひかりが次々にやってくるが乗ることができない。外国人観光客の姿が多く見られる。するとホームの駅員のアナウンスが日本語だけではなく英語でも行っていることに気づく。これまでテープによる英語放送は何度も聞いているが、肉声でのアナウンスは初めて聞いたかもしれない。これは外国人にとって、かなり有難いことだろう。

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ようやくこだま入線し、乗り込む。意外と混んでいる。だが、京都までずっと乗っている好き者は少ない。浜松あたりまでには皆降りているようだ。新幹線の各駅停車は、いくつもの駅で沢山ののぞみやひかりに抜かれていく。その度に駅に停車してそれをじっと待つ。十数年前、東北新幹線が電気故障で、全ての電車が各駅停車となり、しかも1駅で30分も停まっていたことがあった。あれを思い出した。それにしても新幹線にはこんなに駅があったのか。合計約4時間、何とか京都にたどり着く。

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いきなり宇治へ

相変わらず予定のない旅ではあるが、一昨日連絡していた宇治のお茶屋Tさんから『暇が出来たから、来てもいいよ』という返事があり、まずは京都駅からそのまま乗り換えて宇治へ行くことにした。もう慣れた宇治行き。快速電車に乗り、13時20分ごろには宇治駅に着いた。

 

だが、Tさんは駅前にいなかった。『事前に電話して』と言われていたのに、メールしかしなかったからだ。慌てて電話すると『今町内会の運動会に来ている』というではないか。そしてバスで来るように指示を受ける。何とちょうど言われたバスが来た。何ともラッキー。初めてバスで宇治田原へ向かう。

 

バスは市内を抜けて、上りとなる。途中に博物館が見え、老人ホームも見えた。結構な山道を越えていく。いつもはTさんの車でスーッと過ぎていた道。終点まで乗れという指示だったので、そのまま乗って行く。維中前、というバス停が終点であり、そこでは確かに運動会が行われていた。Tさんが来ているところだとすぐに分かる。正式名称を宇治田原町立維孝館中学校というらしい。

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実はTさんの家はこのバス亭の更に1つ先。近くに工業団地があるようだが、休日のせいか、そこまで行くバスはなかったので、歩いていく。まあとにかく言われた通り行くしかない。いい天気の日曜日の午後、消防署の前を通り、既に刈り入れが終わった田んぼの横、荷物を引き摺り、トボトボ歩く。

 

 

丸子清水茶旅2015(4)清水 驚くべき蘭字

4.清水

フェルケール博物館

Y先生が『今日はフェルケール博物館で蘭字のシンポジウムがあり、それに出席する』というではないか。私も蘭字には少なからず興味があったので、それはちょうどよい。是非、ということでご一緒して、夫人の車で送られていった。静岡を越えて清水までは小1時間はかかった。港の近くにとても立派な博物館があり、海が見えた。夫人に礼を言い、別れる。

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博物館に入ると、奥の会議室でシンポジウムの準備が進んでいた。聞いてみると本日は満員で既に参加申し込みは締め切られていた。それはそれで仕方がない、流れに任せよう。ということで、2階の蘭字の展示を見学した。蘭字というのは中国から伝わった業界用語で、輸出茶に貼られたラベルの総称だという。確かに茶箱の外側に張られているラベルは、文字が西洋風で、絵は浮世絵だったりする。独特の文字で日本から来たお茶を表わしており、美術的にも価値がありそうに見える。

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茶箱に張られるラベル以外にも、茶箱内に入れられたサンプル茶を入れる茶袋に張られた小型ラベルもあった。茶箱の内側に描かれているものもある。『Pure』と書かれているものは、着香していませんという表示か。『Panfired』は釜炒り茶か。何だか見ているだけでワクワクしてくる。広重が書いた浮世絵も使われている。実にいいデザインに見え、今でも十分使えると思う。

 

実はこの博物館は大手物流会社、鈴与の社会貢献事業の一環として作られた。清水港の歴史を語る場所であり、本当は清水港湾博物館というらしい。ただ愛称としてドイツ語で『交通』を表わす「フェルケール」という名称を使っているとあった。ここに蘭字を常設してもらいたい。

 

そしてその裏にはひっそりと缶詰記念館が建っている。日本で初めてまぐろ油漬缶詰を製造し、アメリカに輸出した清水食品の創立当時の本社社屋を市内築地町から移転したものだという。ここから缶詰事業はスタートし、日本の輸出産業に大いなる貢献をしたことだろう。缶詰のラベルにも、蘭字が使われている。とてもお洒落な缶だ。子供の頃見た、ミカンの缶詰が急に思い出される。

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蘭字シンポジウム

展示を見学していると、以前お会いした茶史研究家のYさんが着物姿でやってきた。何とシンポジウムにキャンセルが出て、急に席が出来たので、参加してもよいという知らせを持ってきてくれたのだ。何とも嬉しい。既にこの展示品を見て、おおいに興味を持った私はお言葉に甘えて、Y先生の後ろを付いていくことにした。

 

シンポジウムは、江戸文化研究者の司会で、浮世絵研究者、蘭字研究者、そして印刷会社の方の3名よりは話を聞くというものだったが、大いに刺激があった。江戸末期から明治にかけての日本茶輸出に合わせて、作られたラベル。例えば2代目安藤広重(広重の養女お辰の婿)がお辰と離別、1865年以後横浜に移り住んで喜斎立祥と号し(広重は名乗れず)、蘭字を描き、「茶箱広重」と呼ばれ、特に外国人からは重宝がられた話など、実に面白い。実際に2階にも2代広重の作品が展示されている。

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また『蘭字は日本デザイン史の常識を揺るがす物』『蘭字は近代グラフィックデザインのはしり』『デザイン性の高い蘭字はパッケージに魅力的な付加価値をつけた』などという説明を聞くと、単に茶業のアイテムというだけでなく、江戸期から蓄積された日本の技術が表現されている、貴重な作品であることが分かった。実際に浮世絵の版画を見せてもらうと、その薄さに驚く。因みに浮世絵には原画というものはなく、版木が擦り切れるまで摺っておしまいだとか。ある意味、オリジナルは版木である。

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シンポジウムは白熱し、時間はあっと言う間に過ぎて行った。参加者からは『とても有意義な情報を得た』とか『海外に日本茶を売っていくには、宣伝、デザインの重要性が良く分かった』といった感想が聞かれた。100年以上前の先人達の努力をヒシヒシと感じる会であった。

 

清水散策

会の終了後、清水駅へ向かう。博物館からは普通はバスに乗っていくようだが、折角なのでゆっくり散歩しながら行く。何とも天気の良い清水港が目の前にあった。隣には大きなドリプラと呼ばれる建物がある。この中には色々なお土産物屋やグルメ店が入っており、観光客には便利なようだが、実際に来ているのは地元の家族連れかな。クルーズ船も出ている。

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ここから15分ぐらい真っ直ぐ歩いていくと、静岡鉄道の新清水駅に出た。ここから静岡駅に戻り、バスに乗る方法もあったが、敢えてJRを選択した。そして清水駅近くの商店街に出た。土曜日の午後ではあったが、人影はまばらで寂しい。駅前でお土産に安倍川餅を買う。今日は安倍川駅からスタートしたから、ちょうどよい。

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清水といえば、清水の次郎長。『旅行けば、駿河国に茶の香り・・』で始まる浪曲を思い出す。広沢虎造、この名人の声を何度聞いたことか。ただ今の清水には、この雰囲気はまるでない。今回は東海道五十三次の宿場町をいくつか見たが、これからは、少しその辺を歩いてみたいと思いながら、在来線に揺られながら、帰途に着く。

丸子清水茶旅2015(3)丸子 紅茶研修会

3.丸子

紅茶研修会

夫人が『ここが家です』と言いながら、車は通り過ぎてしまった。水車のような物が見えて、とても興味があったのだが、今回はお預けとなる。そしてすぐに車は神社のようなところへ入り、停まる。そこには丸子ティファクトリー、と書かれた建物があり、既に大勢の人が建物を出入りし、何か作業をしていた。その中心で指示していたのが、村松二六さん。この方が、明治期に作られていた国産紅茶を復活させた第一人者である。ここ丸子は日本の紅茶発祥の地であった。

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1990年頃から紅茶作りを始め、丸子紅茶として売り出したのが、25年前。誰もが国産紅茶に見向きもしなかった時代、黙々と研究を重ね、紅茶を作っていたというから凄い。化学肥料や有害な殺虫剤不使用の有機栽培で、安心安全で美味しいものを作るため努力を続けた結果、「紅富貴(べにふうき)」の生産に日本で初めて成功した。

 

スリランカや中国にも足を運んだほか、国内各地で研修もして、その製茶技術を高め、工夫を凝らした。また多くの研究者、生産者とも交流して、科学的な観点の検証も行い、作り上げていった国産紅茶だった。その努力が認められ、産業振興に寄与したとして、今年静岡県知事賞を受賞したという。

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今日は何と紅茶インストラクターの研修会だった。約30名のインストラクターが集まり、紅茶作りを実体験している。建物の中には、揉捻機や乾燥機などが置かれており、一昨日摘んだ(昨日は雨だった)という茶葉が運び込まれ、既に茶作りの真っ最中であった。二六氏が的確に指示を出し、皆がそれに合わせて動く。ホワイトボードに解説を書き、詳しい説明を加えている。生産者が、自分の作り方のノウハウを惜しげもなく、披露している。これは凄い光景だった。まさに日本の紅茶の発展に為に勤めている、という姿には感動を覚える。

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二六氏はとても忙しい。作業は、萎凋、揉捻、乾燥と間断なく続いていく。なかなかお話を聞く機会がなく、私はご一緒したY先生と話し始めた。実は先生ともFBお友達だが、どこでお友達にして頂いたのだろうか、と思っていると、何とタイ北部、チェンマイの近くのランプーンのSさん、繋がりであることが分かり、驚く。Sさんの広大な花園、とても懐かしい。

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先生はそこへ時々行き、植物の研究をしておられるという。また四国で焼き畑農業も研究しているとか。焼き畑と茶作り、大いに関係がある。植物学的見地からお茶を見ていく、私には明らかにこの視点は欠けていた。目を開かれた思いだった。とても面白いお話を沢山聞くことができ、途中からは紅茶作りより、こちらの話に引き込まれてしまった。これもまた茶縁。

 

紅茶作りは順調に作業が進行して、2時間程度で終了した。そしてわざわざお弁当まで用意して頂く。申し訳ない。皆さんも研修が終わり、お互い製茶の話をしながら、笑顔でランチを食べ始めた。お茶が出たが、何と台湾の高山茶だった。『こういう香りがあることを知っておいて欲しい』という配慮からだった。二六氏は烏龍茶の作っているという。だが私は、ここまで来て、茶作りのいい香りを嗅いだだけで、丸子紅茶を飲む機会を完全に失った。

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お茶会などでも、『どうしてそこまで行って、お茶を持って帰ってこないのか』とよく言われるようになっている。ちょっと残念な気分となる。あとで購入すればよいとも考えていたのだが、その機会も今回は訪れなかった。今日は皆さん、とても忙しく、ご自宅に寄ることもなかったのである。実は後日、夫人がわざわざその日に作った紅茶を送ってくださり、東京で味わうことになった。適度な香りがあり、スッキリした味わいがあったが、何よりも心がこもっているように感じられた。

 

多田元吉翁顕彰碑

僅かな時間を見つけて周囲を散策した。このファクトリーのある場所は、神社の境内。由緒正しい神社が奥に控えていた。まずはそこへお参り。そして手前には多田元吉翁の記念碑も建てられていた。元吉翁は千葉の生まれだが、明治に入り丸子に移住して、茶園を開く。その後政府の奨励策に乗り、1875₋77年、中国、インドなどを回り、紅茶製造法を習得、1881年からインド式製法で紅茶生産を始めた人物。日本茶業の先駆者として顕彰されている。

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少し上ったところには、『日本紅茶原木』と書かれた看板が立っていた。その脇には古そうな茶樹が植わっている。更にその上には多田元吉及び多田家のお墓があった。紅茶関係者はここに来て、今でもお参りをするそうだ。日本の紅茶、和紅茶・地紅茶などと称して、最近は各地で作られており、よく見掛けるが、元々は多田元吉翁の功績、そして昨今は村松さんなどのご尽力で、再度花開きつつある。お墓の下の元吉翁もさぞや喜んでいることだろう。

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ランチが終わるとY先生が『では次の予定があるので』と帰られる。夫人が車で送っていくという。良く分からないが、ついでに私も乗せてもらい、最寄り駅で下ろしてもらった方が良さそうだと思い、便乗することに。だが、先生は何と清水へ行くという。どのくらい距離が離れているのかすら、分からなかったが、目指す場所がフェルケール博物館と聞き、厚かましくも付いていくことにした。確かここで蘭字に展示が行われていると聞いたからだ。

丸子清水茶旅2015(2)レトロな静岡

2.静岡

ぷらっとこだま

今日は小田原をゆっくり見て回るつもりだったので、静岡に来ても特にやることはない。駅の構内に『ぷらっとこだま』の文字が見えた。実は来月東京から京都へ行くのに、こだまを使おうと考えていた。この『ぷらっとこだま』という商品が安いと聞いたので、ちょうどいい機会であり、購入するため、JR東海ツアーズという旅行会社に入ってみた。何とこの商品専用窓口まであり、5人も人が待っている、人気商品のようだった。私も暇なので待ってみた。

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事前に用紙に必要事項を記入して、順番を待つ。20分ぐらいで番号を呼ばれたので、用紙を提出すると、係の女性が怪訝そうな顔で、『あのー、もしチケットのキャンセルなどがありましたら、静岡まで来て頂くことになりますが、宜しいでしょうか?』と聞くではないか。宜しい訳がない。用紙に東京の住所を書いたので、彼女が確認してくれたのは懸命だった。

 

まさか新幹線のチケットがこんなことになっているなんて、予想もしない言葉だった。どうやらこのチケットはこの旅行会社の旅行パッケージ商品、といった扱いであるらしい。それにしても、何と不便なチケットだ。更には予約した列車以外に乗ることができない、もし列車の方が遅れても、払い戻しは購入した支店で、ということらしい。そして紙のチケットのため、自動改札も通れないらしい。本当に便利?信じられない、この商品のために並ぶなんて!

 

レトロな街

ホテルは駅のすぐ近くを予約しておいた。雨が降っていることもあり、これは助かった。このビジネスホテルは繁華街にあり、周囲には飲み屋などが多い。夜暗くなってから歩いてみると、何とも昭和なレトロな飲み屋街の風景が見られた。静岡って、こんなにレトロなところなの?意識して、レトロな雰囲気で売り出そうとしているのなら、これはこれで面白い。

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また少し歩いていくと、青葉横丁という、本当に昔の飲み屋が軒を連ねているところがあった。かなり細い横町に10軒以上の一杯飲み屋が見える。店の提灯がゆらゆら揺れている。いくつかの店はカウンター席がほぼ埋まっており、常連さんと思われる人々が楽しそうに、仲間同士、また店主たちとお酒を酌み交わし、おでんを食べていた。何とも羨ましい光景だった。

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今静岡のB級グルメといえば『静岡おでん』らしい。私も食べてみたいと思ったが、何しろ酒を飲まないというハンディはとても大きい。暖簾を潜って一人で入るのにはかなりの勇気がいる、と言わざるを得ない。何故なら先日東京の十条にある昭和レトロな飲み屋に連れて行ってもらった時、『美味いアテを安く出すのは、お酒が進むようにして儲けるため』と言われたからだ。食べ物だけ食べて、何も飲まないのは、店にとっては迷惑な話だというのだ。

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仕方なく、また駅の方へ歩いていく。雨もあったので、駅の中へ入り、寿司を食べてみた。さすが静岡、駅構内の店といえども、ネタはそれなりに品質が保たれ、値段も手ごろであり、満足出来た。お客はやはり一杯で、こういうところを見ると、日本は不況かどうか、分からない。

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9月26日(土)

今日は朝9時に静岡駅の一つとなりの安倍川駅集合となっていた。このホテルには朝食が付いているということで1階に行ってみると、パンとコーヒーといった簡単なメニューであったが、温かいスープが気にいった。台湾人と韓国人の若者グループが楽しそうに食事をしながら、今日行く場所の作戦会議をしていた。最近はどこへ行っても外国人観光客を見掛ける。

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8時半過ぎにJRに乗り込む。僅か1駅なので、眠る訳にも行かない。見ると斜め前に座っている女性が一生懸命、紅茶の本を読んでいた。実は今日は一体誰の、どんな集まりなのかも分からずに来ているので、迂闊に声はかけられなかったが、どう見ても同じところへ行くのだろう。

 

駅を降りると、言われた通りの場所へ行く。そこには車が停まっており、村松夫人がわざわざ迎えに来てくれていた。そして例の彼女も当然ながら、一緒の車に乗り込む。そのY女史は、何と始発電車に乗り、北千住から各停でここまで来たという。私をも凌ぐ、猛者がいた。更にもう一人、植物学のY先生を待って、車は出発した。

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車は旧東海道を進んでいるようで、やがて道の両脇には昔風の家が見えてきた。家の前に屋号が掲げられているところもあり、昔は宿屋か店屋だったことが分かる。東海道五十三次20番目の宿場、鞠子宿。安倍川を渡るとすぐにある宿場町だった。立派な建物に見えたのは、創業慶長元年(1596年)の「丁子屋」という、とろろ汁で有名な店。今も復元され、営業しているらしい。広重の浮世絵にも描かれているという。是非この辺をフラフラ歩いてみたいという衝動に駆られたが、今は大人しく、連れられて行く。

 

丸子清水茶旅2015(1)雨の小田原城

《丸子清水茶旅2015》  2015年9月25-26日

 

静岡のお茶雑誌『月刊茶』の連載を始めてから、静岡とのご縁が少しずつ出来てきている。ただ静岡は広い。茶畑も多い。これまで行ったところもまだ限られている。今回は丸子紅茶の産地からお声が掛かり、何とか予定を合わせて、訪ねることになった。ただ何のために行くのかは、全く分かっていなかった。

 

1.小田原

9月25日(金)

雨の小田原城

これまで静岡に行く時は、急ぎの旅を除いて、新幹線などには乗らず、在来線で行くことにしている。下北沢から小田急線で小田原へ、そこから東海道線に乗り換えて行く。しかし小田原で降りたことは一度もなかった。実は小田原という場所にはほんの小さな思い出があるのだが、それを無視するように、5歳の時以来、降りることを拒んでいたようにも思う。

 

何故だろうか、幼少時の記憶は極めて曖昧であり、何か嫌なことがあったのかもしれないが、はっきりとは思い出せない。ただ1つ記憶があるのは、小田原城に登って、そこから下を見て、とても怖いと感じたこと、自分が高所恐怖症であることを悟った場所だったのではないか、と推測しているのだが。出来ればそれを確認したく思い、今回は余裕を持ってやってきた。

 

小田原駅で降りると、何と雨が降っていた。それもかなり強い雨。これはまた歓迎されていないと感じてしまうのだが、意を決して道を進んでいく。目指すは小田原城のみ。途中蒲鉾屋さんなどがあり、小田原らしさを感じる。だが濡れながら何とか到着した小田原城は、無情にも耐震改修工事中だった。仕方なく、行ける所まで行く。勿論5歳の時の記憶はない。

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幅の広い橋を渡り、お濠を越える。古めかしい建物がある。滑りそうになりながら階段を登っていく。小田原城といえば、堅固な城。北条氏が立てこもり、秀吉の大軍が取り囲む、という図式が思い出される。伊達政宗が遅参を白装束で詫び、お茶で言えば山上宗二が秀吉の逆鱗に触れた場所である。宗二は利休の高弟だったが、2度秀吉の怒りを買い、北条氏に使えていた。利休の計らいで和解するはずが三度目の逆鱗に触れ、耳と鼻を削がれた上で打ち首になるという壮絶な最後となる。そして落城と共に、戦国の世が終わった場所とも言える。

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北条氏滅亡後、江戸の防衛の要として大久保氏が幕末までこの地を統治、明治になり城は解体され、関東大震災で最終的に石垣なども壊滅したという。そして私が生まれる1年前、天守閣が再興されたらしい。私が上った天守閣は、再興されて5年後ぐらいだった。当時話題になった後ぐらいだということ。当時辻堂に住んでいたので、親族一同で小田原に出向いたようだ。

 

上まで行ってみたが、完全に改修中で、城は何も見られなかった。勿論上ることも出来ない。近づけないのである。雨のせいで観光客もおらず、食事を取ることも出来なかった。何と寂しい45年ぶりの訪問だろうか。しかし恐らくこれには私の歴史の何かが関係していると思えてならない。腹が減ったので駅の方に戻ってみる。小田原といえば宿場町でもあり、それらしい蕎麦屋に入った。東海道五十三次の9番目の宿場、最初の城下町。次は箱根宿だ。

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今日のランチセットはカツ丼と書いてあったと思い注文したが、実は完全な見間違いをしてしまう。最近注意力が実に散漫で、本当に困る。子供たちからはボケの前兆か、と思われているようだ。カツ丼と蕎麦のセット、勝手にセットにして注文したことになり、かなり高い料金を取られるものと覚悟したが、なんと30円しか違わず、胸をなでおろす(笑い)。それにしても、出てきたカツ丼が熱すぎる!

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本来であれば、有名人の別荘や庭園などがあり、小田原で歩くべきところは沢山ある。だが残念ながら雨のせいもあり、また気分的な問題もあり、もうこれ以上歩く気力はない。小田原駅の改札を見上げると、大きな小田原提灯がぶら下がっていた。おサルの駕籠屋か。箱根登山鉄道の方へ行くと、龍神あんぱんというのを売っていたので、それを買ってみる。有名なのだろうか。仕方なく次に進むべく、東海道線に乗り込み、ダラダラと静岡へ向かった。

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2時間後には静岡駅に到着した。前回名古屋から広島までスイカで行ってしまい、怒られた記憶が蘇る。やはりここでも熱海でエリアが変更になっており、スイカでは出られないことが分かった。数人の乗客が精算のために並んでいる。だがここの若い駅員さんは『お手数をお掛けしています』と言って、にこやかに精算してくれた。JRもデカい組織、人によって対応が違うのだろう。

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ダラダラ佐賀まで茶旅2015(14)佐賀 国産紅茶の博物館

9月16日(水)

佐賀散歩

翌朝はゆっくり起きた。今回の旅、久しぶりだったのと、いつもと違って電車に乗り続けたせいか、かなり疲れが溜まっていた。昨晩のチャンポンのお陰で腹は全く減らない。9時過ぎにホテルをチェックアウトし、荷物を預けて、佐賀の街を歩き始める。小雨が降っており、暑くはなく、気持ち良い。

 

駅の南側には老舗の和菓子屋などがあり、ここが古い街であることを示している。地図を見ると唐人街というのがあり、行ってみた。が、いわゆるチャイナタウンの様相は全くない。説明を見ると、何と秀吉の朝鮮出兵後、高麗人を住まわせた場所だと書かれている。異国人=唐人、ということで、この名が付いたというが、こんな唐人街があるとは、ちょっとビックリ。今やそのことを示す建物なども殆ど残っていない。

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少し行くと商店街があり、そこを過ぎると旧長崎街道に出る。街道といっても決して広い道ではない。今も道沿いには、何となくその名残が感じられ、歩いていると何となく心が広がる。坂本龍馬など幕末の志士たちもここを通って長崎へ行ったことだろう。そして歴史的な建物が見えてくる。旧古賀銀行、現在の歴史民族館、洋風の立派な建物がそこにあった。

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八坂神社を南へ少し行くと、肥前通仙亭という建物があった。そこにお茶に関する展示があるとOさんから聞いていたので、行ってみた。江戸時代、京都で名を馳せた売茶翁は佐賀出身。長崎で煎茶を学んで60歳を過ぎてから売茶の業を始め、京都鴨川のほとりに日本初の喫茶店ともいわれる「通仙亭」という茶店を出す。また茶道具を担いで、春は桜の名所、夏は清流の渓辺、秋は紅葉の美しいところへ出掛け、清明な自然の中で茶を煎じて売り、それが評判となって、煎茶の祖と言われている。

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売茶翁の顕彰会もここにある。資料が色々とあったので、見せてもらう。『煎茶の祖』と言われてはいるが、それは違うという話も聞いた。そして『売茶翁は一体どんなお茶を飲んでいたのか?』という素朴な疑問を聞いてみたが、『煎茶ばかりではない』という回答はあったものの、具体的なお茶については、文献上にはないようだった。歴史は勿論重要だが、もっと『お茶』について、検証してもよいのではないかと思う。と言っても、今更お茶の味や香り、茶葉などを見ることはできない。文献に記されているものも少ない。どうすればよいのだろうか。

 

紅葉

Oさんのお店は11時からだというので、開店に合わせて行ってみた。ここは今年2月にオープンした新店舗。まさに歴史保存区の中にあり、店舗も100年以上の歴史を持つ醤油問屋?の跡だった。天井が高く、広々とした空間がそこにある。手前には日本全国の紅茶がずらりと並び、奥はカフェになっている。カフェと言っても、まるで小料理屋のカウンターを思わせる作り。紅茶の中には、これまでお訪ねした静岡の茶農家さんのお茶などが見られ、何とも喜ばしい。ここに来れば、殆どの国産紅茶が手に入るのではないだろうか。和紅茶博物館?

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座るとOさんがさっとお茶を出してくれる。これが実に香りが豊かで、味もしっかりしている。熊本の紅茶だという。これはいい。ゆっくり味わう。Oさんは淹れる相手の好みをよく見分け、さり気なく振る舞う。私が『煎茶も東日本より、西日本が美味しく感じられ、特に釜炒り茶が好きだ』というと、『それはあなたが中国茶に慣れているから』とズバッという。確かにその通りだ。ということは、中国人にも日本のドロドロした煎茶より、すっきりした釜炒りなら好まれるかもしれない。

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お菓子がまた凝っている。シーズンということで、栗のお菓子が出てきたが、これが素晴らしく美味い。どうしてだろう?『職人さんがこだわっているものだから』ということだったが、この菓子を生み出すのには、相当の労力をかけているのだろう。更に紅茶と合う菓子を追及しているのだから、ただ美味いだけではいけない。カウンターに女性が座っていたが、彼女も菓子を提供する人だった。Oさんは常に研究し、新しいことにチャレンジしている。これは素晴らしい。このお店に来れば、そのことが実感できる。

 

バスで空港

時間は直ぐに過ぎて行き、空港に向かう時間となる。Oさんの車でホテルへ行き、荷物を取って、佐賀駅で下ろしてもらう。バスで空港に行けるというので、トライしてみる。その前に、佐賀の土産として、丸ボウロと最中を買う。これがまた何とも美味かった。歴史的な味わいだろうか。

 

案内所で空港バスの乗車場を尋ねると『免許証、持っていますか?』と聞かれて戸惑う。何でそんなことを聞くのか?まさかバスに乗るのに免許がいるのか??『現物持っていますね!』と念を押され、あと10分で発車と聞き、よく分からないまま、乗車場へ向かった。既にそこにはかなりの列ができており、すぐに乗車となる。このバスはフライトに合わせて運行されているようだ。

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40分ほどで空港に着いたが、その間、路線バスのように、市内で何か所かに停まった。ちょっと前は空港を利用する人は少なかったので、このようなバスになっているのだろうか。下車する際、何と免許証か学生証を見せるとバス代600円が半額になった。今日は『ノーカーデー』キャンペーンの日だったのだ。なるほど、ようやく意味が分かる。そしてこのような試みは悪くない、と思う。

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空港でのチェックインはスムーズ。時間があったので売店を覗くと、嬉野茶や和紅茶が沢山売られていた。初めて乗る春秋航空のフライトは順調で、1時間半乗るだけなら、特に何の問題もなかった。僅か1000円のチケットに大満足。日本の空も大きく変わったことを実感した。ただ成田では第3ターミナルが出来ており、第2の電車の駅まで歩くのが大変だった。

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ダラダラ佐賀まで茶旅2015(13)佐賀 脊振山と井出ちゃんぽん

6.佐賀

脊振山

佐賀駅から歩いて5分、アパホテルにチェックインした。特にアパホテルが好きなわけではないが、駅から近くて安い、というと、そうなってしまうらしい。特にここは1泊4000円だから、文句はない。それにしても佐賀駅から北側に歩いていくと、整然としているというか、県庁所在との駅前としては何もないというか。

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約束しているOさんに連絡を入れるとすぐに迎えに来てくれた。昨年は3日間も八女、嬉野、彼杵などを案内してくれた人。今年はお子さんが生まれ、更には新店舗を開業したので、忙しいというのに、付き合ってくれた。有難い。因みに30分前まではラジオ番組に出演していたという。

 

彼の車で1時間弱、脊振山に連れて行ってくれた。古来脊振山は霊山として多くの修行僧が暮らす山岳密教の修験場であり、隣山である千石山の中腹には霊仙寺跡が残っていた。ここは戦国時代に荒廃するまでは、かなり栄えた聖地だったという。またこの付近は『栄西が中国よりお茶の種を持ち帰り日本で初めて栽培、日本の茶の栽培の発祥地』と呼ばれている。お茶と仏教の歴史的関係は面白い。

 

車が道路脇に停まると、階段が付いており、登っていくと、茶を詠んだ俳句が次々と出てくる。森林浴歩道というらしい。これも行政(ここは吉野ヶ里町)が予算消化で作ったのだろうか。ここを訪れるのはお茶関係者、それともハイキングの人達?少し登っていくと茶園が見えてきた。勿論江戸時代に植えられたものだと説明されているが、近年植え替えているのだろう。誰が管理しているのだろうか、こんな山の中。かなり大変な作業。茶の木はかなり伸びており、茶葉も伸び放題のところがある。このあたりの標高は500mだそうだ。

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『日本最初之茶樹栽培地』という碑が建っている。Oさんは『既にここが最初だ、というのは否定されているが、この碑を取り外すことはできないだろう』という。他にも最古の茶園は日本に数か所あるという。本当はどこが最古か、分かるのだろうか?文献上、最古の茶園は京都の内裏内であり、今は勿論茶畑はない、と研究者からは聞いている。なるほど。

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周囲を散策すると、苔の絨毯、と言ってもよいフカフカの道が存在した。水も流れてきており、森閑とした雰囲気の中、凛としたものが感じられる。岩の所に『栄西茶栽培800年記念祭記念樹』と書かれた棒が倒れ掛かっていた。これは1191年のことだろうから、今から25年近く前に茶樹が植えられたことを示していた。この頃、栄西がクローズアップされたことが覗われる。

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実際にこの山中を歩いてみると、ここで本当に栄西が茶栽培を始めたかは別として、ここは栄西のような僧が修行するに相応しい場所だということは良く分かる。取り敢えず見学を終え、また車で佐賀へ戻る。忙しいOさんは私を下ろすと、お店に帰っていった。私は今朝が早かったので、ホテルでお休み。

 

井出ちゃんぽん

すぐに辺りは暗くなった。Oさんとの別れ際に『佐賀のB級グルメは?』と聞いたところ、ちょっと考えてから『チャンポンでしょう』という。チャンポンといえば長崎ではないのか。だがこれしかヒントがなかったので、食べてみようと思う。更にOさんはホテルからかなり離れた場所に有名なチャンポン屋があるが、駅近くはどこにあるか知らないので、ホテルの人に聞いてみては、というではないか。これは先日の広島と同じパターン。いいぞ!

 

フロントにいた若い女性に『この近くのチャンポン屋は?』と聞いてみると彼女は即座に『井出ちゃんぽんです』という。そこは先ほどOさんが言っていたちょっと遠い場所にあることが分かったが、彼女に『せっかく佐賀でチャンポンを食べるんですから、絶対に井出チャンポンに行ってください』とかなり強い口調で言われる。そして丁寧に場所を教えてくれた。彼女の一押し、そこまで言われれば、行くしかあるまい。歩いて約30分、上等だ!

 

言われた通り、歩いていく。道は既に暗く、目印になるようなものは乏しい。果たして合っているのかさえ、よく分からない。20分以上歩いて、ついに目印であるショッピングセンターを見つけた。ところが・・?チャンポンはないのである。ショッピングセンターの道の向かい側だと言っていたが、ラーメン屋しかない。後は家電量販店だけ。あれ、どうしよう。仕方なく、家電量販店に突入し、店員さんにチャンポン屋の場所を聞くという暴挙に出た。店員も一瞬ギョッとしたが、丁寧に教えてくれた。何とショッピングセンターの裏側に国道があるらしい。

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歩いていくと、ようやく井出ちゃんぽんが見つかった。1時間近くかかったことになる。店内はかなり広く、既に時間が遅いのか、お客は多くはなかった。メニューを見ると、チャンポン以外にカツ丼などがある。国道沿いの地元の人のための食堂、といった雰囲気が漂っている。地元の男性は『チャンポン+おにぎり』が定番とか。但しおにぎりは既に売り切れていた。

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結局チャンポン+たまご+きくらげ、をオーダーした。出てきた物を見てビックリ。物凄い量だった。麺の上にかなりの野菜炒めが乗っており、更にその上にたまご+きくらげ、といった感じ。掘っても直ぐには麺までたどり着かない。おにぎり、注文しなくてよかった。汗を掻きながら、何とか全部を腹に収めたが、腹一杯で動きが鈍かった。帰りはゆっくり来た道を歩いた。

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ダラダラ佐賀まで茶旅2015(12)バスで矢部村へ

5.八女

バスで矢部村へ

6時39分に矢部村行きの始発バスは出るという。駅前のバスターミナルには人は殆どいなかった。確かにこんなに朝早く、どこかへ行く人など少ないだろう。一人のおじさんが声を掛けてきた。あまりにも人がないので、寂しくなったのだろうか。その気持ちはよく分かる。おじさんが身の上話を始めるが、少し訛があり、よく分からないところが、如何にもローカルバスの旅だ。

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結局乗客はこのおじさんともう一人の女性と3人だけで出発した。街中を走って行くと数人が乗り込んできた。だがおじさんも含めて大半が20分以内、すぐに下りてしまった。『大木切ります』『栗買います』など、如何に山の中であることを示す張り紙が目を引き始める。道はとても良い。

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50分ほど行ったところ、黒木というバス停でしばし休息した。ここでバスの行き先が分かれるらしい。この時乗客は既に私だけになっており、運転手さんが『これから先が長いので、トイレに行ったらどうですか?』とアドバイスをしてくれた。そうか、まだそんなに遠いのか。それから道は徐々に上りになり、川も見えてくる。畑もある。道沿いには家がある。そんな風景が続いていく。

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きれいな橋が見えてきた。湖のようなダム?も出てきた。落ち着いた、いい風景だ。いよいよ矢部村が近づいた感じがした。が、指定されたバス停にはなかなか着かない。あれ、と思った頃、ついにそのバス停の名前が出てきた。下りる時が来たのだ。乗車時間1時間20分、1350円の料金を払い、運転手にお礼を言った。そこにはにこやかにKさんが待っていてくれた。

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Kさんのお茶

Kさんは昨日まで福岡の催事に連日出店しており、毎日ここから博多まで通っていた。昨晩も夜中に家に戻ったという。何故そんなことをするのか、『その日作ったお菓子を運んでいた』と。いくら若いといっても、疲れているだろう。そんな大変多忙な中、私の為に待っていてくれる、それだけで有難い。車で自宅へ向かう。なんかとてもいい雰囲気の木がある。古い茶の木だという。

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昨年も八女に来た。その時は時間が合わず、ここには来なかった。星野村へ連れて行ってもらった。同じ八女、という地名でも雰囲気はかなり違う。この矢部村も歴史はかなり古いらしい。Kさんの家も昔から茶を作っているという。品評会で数々の賞を取ってきた有名なファミリーだった。Kさんのお父さんが3代目、彼は4代目で農学博士。若手後継者のKさんは、茶業のみならず、地元の青年団、若者の支援など、かなり多忙だという。海外も視野に入れている。

 

今回は時間が限られている。話をしているとすぐに時間が経ってしまう。Kさんの車で茶園を案内してもらう。当然だが、かなり狭い土地に茶樹が植えられている。標高も600m程度ある。この山の中、寒暖の差も大きいだろう。空気もいい、水もいい。環境は整っている。秋の茶葉は伸び放題、元気が良い。高級な玉露を作るため、覆いをするための枠組みも見られる。八女は玉露で生きていく、昨年お会いした試験場のNさんの言葉を急に思い出した。

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八女津媛神社、日本書紀にも書かれている八女津媛を祭る、歴史ある神社が茶園の近くにある。八女の地名の由来だそうだ。樹齢600年、と書かれている立派な権現杉も見られる。八女の古い歴史を物語っている。この付近、車も通らず静寂が漂い、幽玄な雰囲気さえ感じられる。

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極上煎茶『八女津媛』というお茶を飲んでみる。とてもスッキリしていて、甘みも感じられる。全般的に私は東日本のお茶より、九州や四国の煎茶が好みである。このようなお茶が日本茶の主流にならないのは何故だろうか。それと今の日本茶消費量の減少とは当然関係があるのではないか、と思ってしまうのだが、どうだろうか。

 

既に時間は12時、Kさんがバス停まで送ってくれる。そこには軽食も取れる売店があり、ソマリアンカレーを売っていた。杣の里のカレー、ということらしい。Kさんがご馳走してくれた。この山中でカレーを食べる、何か濃厚な味がよかった。ギリギリまでKさんと話しをして、外へ出るとちょうどバスがやってきた。名残惜しいが次回また来よう。乗客はやはりいなかった。

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佐賀へ

帰りのバスも数人しか乗り降りしなかった。殆どの人が車を使う田舎社会。しかし車が運転できないお年寄りもいるだろう。子供たちが外へ出てしまえば、医者にも行けず、食料を買うのも大変な状況となる。限界集落という言葉をテレビでよく聞くが、この付近も段々そのような状況になっていくだろう。地域社会の相互扶助、古来行われてきたことが、今重要になってきている。そんな中で、Kさんたちの頑張りが、未来を切り開くのではないだろうか。

 

バスは順調に戻っていき、午後2時過ぎに羽犬塚駅前に到着した。そこからJR線で鳥栖へ。更に鳥栖で乗り換えて佐賀へ向かった。この車両はかなり新しく軽そうだった。この辺りはスイカではなく、SUGOKAというICカードが使われているらしい。その使用可能エリアは佐賀まででその次の駅はエリアを跨ぐそうだ。私は何とかスイカで佐賀まで行くことができた。

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途中の駅に吉野ヶ里公園というのがあった。佐賀の吉野ケ里、といえば、弥生時代最大の遺跡。青森の三内丸山遺跡を見たら、ここも見る必要があると思っているのだが、今日は時間がなく、無念にも通り過ぎた。次回はどうしても見に行くことにしよう。電車は3時過ぎに小雨の佐賀駅に着いた。