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北限のお茶を訪ねて2015(3)村上茶の老舗 富士美園の挑戦

10月16日(金)

翌朝はホテルで朝食を食べる。朝食付きと言っても簡単なメニューのところが多い中、ここではきっちり、ご飯に味噌汁、おかずも豊富で、ご飯をお替りしてしまう。さすが新潟米処。納豆、たまご、海苔、新潟米の美味しさをアピールする場としても、実に効果的なような気がする。

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8時前にホテルの外に出ると、既にKさんが迎えに来てくれていた。もう一人Kさんの銀行時代に先輩である、Iさんがわざわざ車を運転してくれた。実はIさん自身は新潟県内で銀行勤めが長かったが、生まれは村上、それも老舗茶屋だったのだ。村上で一番有名なお茶屋、富士美園が生家であり、現在は弟さんと甥子さんがお茶屋を継いでいるが、定年後は新潟で村上茶の販売なども手伝っているという。これはまさに貴重なご縁だ。

 2.村上

村上散策

村上までは新潟から北へ。ちょっと話をしている内に、何だかあっという間に着いてしまった感じだ。車中でIさんがペットボトルに入ったお茶をくれた。飲んでみるとほんのり甘い。昨晩詰めた冷茶だという。うま味が引き出されている。車で約1時間、交通量も少なく、順調に新潟最北端の街、村上に着いた。

 

村上の町に入ると、古い町並みが見える。両側が黒塀という小道を通ると、何だか時代劇のセットのようだ。土蔵造りのとても珍しいお寺があった。浄念寺、奥の細道では芭蕉と曽良もここに立ち寄ったらしい。またこの寺には6代将軍家宣の側近であり、新井白石と共に政治の実権を握っていた間部詮房の墓があるという。

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間部は甲州で猿楽師をしていたが、後に家宣に仕え、将軍になるとそのまま江戸城へ入った。八代将軍吉宗の登場で、権力の座を追われ、高崎から村上へ国替えになってそこで死んだという。晩年の詮房はどのようにこの地で過ごしたのだろうか、興味深い。雪国である村上は江戸時代、どのような位置づけにあったのか。メインの通りに出ると、村上牛などの看板が目に入る。やはり村上でも元は輸送手段として、牛を使っていたのだろうか。

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富士美園

そして今日の目的地、富士美園に入る。お店の奥が座敷になっており、見事な大ぶりの屏風が飾ってあった。『これは山岡鉄舟直筆です』とIさんの弟さんが説明してくれる。いきなり幕末の有名人の名が出てきたので、ビックリ仰天だ。昨日まで屏風展が行われていたらしい。

 

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中庭も素晴らしい。この家、奥行きが非常に深い。まるで京都の町屋のようだ。村上は日本海を伝って、京からも大いに影響を受けている。但しここは城下町。武士が通り抜けできるように作られてきたとも言う。階段箪笥といった面白いものも置かれている。階段状になっており、引き出しが付いている。その感覚が何ともお洒落だ。神棚も不思議な位置にある。人間が神様の上に住まないように天井が特に高く、吹き抜けになっている。座敷の真ん中には囲炉裏があり、湯を沸かしてお茶を淹れてくれた。何とも優雅で、風情がある。

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そこへ表が騒がしくなる。何と地元の小学生が沢山やってきた。今日は社会科見学だという。確かに郷土の歴史を知るのに、このお茶屋さんはとても参考になるだろう。創業は明治元年となっているが、勿論江戸時代から続く老舗だ。我々は場所を小学生に譲り、一時的に店から退散する。

 

そしてIさんのお知り合いの酒蔵を見学しに行く。開いてはいなかったが、呼ぶとすぐに人が出てきて、丁寧に説明してくれた。昔は沢山あった酒蔵も、統合されていき、2つしか残っていないという。ここにも屏風祭りの名残で立派な屏風や家具、そして引き札などが沢山展示されていた。社長が出てくるとIさんとは顔なじみ。酒の試飲が始まる。原料の米が美味ければ酒も美味くなる。当然の原理のようだが、米によって味が異なることを教えてくれる。

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そしてまた富士美園に戻ると、I茶師が待っていた。彼は弟さんの息子で、40歳とまだ若いが、日本茶インストラクターの資格取り、新潟ではお茶の第一人者と呼ばれているらしい。お茶屋の取り仕切りをやっている。いきなり明治初期の蘭字を見せてくれた。村上茶もこの時期、輸出に力を入れていたようだ。ロシア向けなども試みられているのは地理的な問題か。お茶自体は1600年代に持ち込まれ、植えられ始める。明治期は80%以上、アメリカに輸出していた。そして最近は紅茶の製造にも力を入れている。雪国紅茶という名称で、新潟などでも売っている。

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茶畑にも連れて行ってもらった。少し小高くなった場所に茶畑は点在していた。防霜ファンなどはなく、北国ではあるが、茶の新芽が出る頃は、霜などの被害はないことが分かる。狭いエリアに茶樹がぎっしり植えられている。その横には昔からの在来種も見られた。『効率から言えば、在来は収量が少ないが、村上の歴史を大切に残していきたい』という思いで、作られていた。

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そして別の畑では、新たに茶樹が植えられている。『茶レンジ事業』として、スポンサーを募り、茶畑を拡大している。ここ村上では、他の地域と異なり、需要に茶葉が追い付いていない。そこで資金力のあるスポンサーの力を借りて、県外から購入している茶葉を自分たちで生産して代替しようとしている。将来は茶農家で意欲のある者が集まり、独自に茶作りを展開したいとも言う。伝統を残しつつ、北限のお茶というブランドを確立して、前に進もうとする姿勢は非常に好感が持てる。これからの日本の茶業の一つのモデルなればよいと感じる。

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北限のお茶を訪ねて2015(2)新潟市内散策とB級グルメ

 

橋を渡って古町の方へ歩いていく。先ほどバスで通っており、何となく土地勘ができている。古い旅館などが見え、ここに泊まってみるのも面白かったな、などと思う。アーケードのある商店街を歩くが、残念ながら買い物客は少ない。なぜか古町演芸場という小型劇場が目を引く。今日も中では何かが演じられている。どんな歴史を持っているのだろうか、とても興味深い。その先を行くと、『タレかつ丼発祥の店』というのがあった。新潟独特には独特のかつ丼があるらしい。是非とも食べてみたかったが、今日は不幸にも定休日だった。

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この街には三越があった。駅近くには伊勢丹もある。新潟が日本海側でどのような位置づけにあるのか、よく分かる。かなり裕福な街だったに違いない。そして現在地方のデパートは撤退が相次いでいるが、いまだにそのまま残っているということは、それなりの売り上が確保されているか、何かよほど強い力が働いていることになる。その力はどこから来るのだろうか。

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更に行くと白山神社に出る。非常に由緒正しい神社。いきなり戊辰戦争で銃弾が当たったという松の木が見えた。新潟の戊辰戦争といえば、越後長岡の河合継之助が有名だが、この辺りでも戦闘があったことに少し驚く。その先を行くと、きれいな庭と池が見える。燕喜館という建物が目に入ってくる。明治の豪商の邸宅の一部を移築したようだ。見学しようと周囲を回ると、入り口は神社の敷地の外にあった。正面の門を潜り、入ろうとすると、玄関で一生懸命に三脚を整えて撮影している女性がいたので、遠慮して、神社本殿の方へ出る。

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立派な本殿ではお祈りする人々が多い。七五三という文字が見える。もうすぐそのような時期だな。初詣などでもきっと多くの人が訪れるのだろう。もう一度燕喜館の付近に戻ると、遊神亭という名の茶室がひっそりとある。その横には茶筅の碑が建っている。以前富山でも見たことがあるが、茶筅を供養するのだろうか。それなら茶碗はどうなるのだろうか。

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神社の横にはこれまた立派な公園がある。楠木正隆という初代新潟県令の像が置かれている。随分と新潟の為に尽くしたようで、その功績が称えられている。ちょうど大河ドラマ『花燃ゆ』では楫取素彦が群馬県令として活躍しているが、楠木もそんな存在だったのかもしれない。明治天皇が明治11年に巡行した際の碑も残っている。この公園は緑が深く、池も素晴らしい。

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その隣には新潟県議会旧議事堂がある。すごく立派な建物がバスから見えたので、気になっていた場所。入場は午後4時までで既に過ぎていたが、心よく中へ入れてくれた。このがっしりした建物、ちょっとしたところに西洋風を取り入れ、擬洋風建築と呼ばれるものらしい。1883年に建てられ、50年間議事堂として使われたという。その後の運命はどうだったのだろうか。

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1階は議会場や応接室、執務室などがあり、2階に登ると県の歴史が垣間見られた。新潟は港として栄え、明治維新では日本海側で唯一開港された港町。明治政府も新潟を重視していたはずだが、その後横浜や神戸などの発展を他所に、それほど注目されなくなってしまった。やはりロシアとの関係だろうか。ちょうど閉館作業をしに来た係員は喜ばしそうに『この時代の議事堂が残っているのは全国でもここだけ』と胸を張っていたが、新潟のその後についての話はなかった。

 

新潟のB級グルメ

またブラブラ歩き出す。台湾茶の店があったが、人がいないようだったのでスルーしてしまった。人情横丁と書かれた昭和を思い出させる小さい店が並ぶ一角もあった。続いて橋まで来ると近代的なホテルオークラ。陽が西に傾き、私もちょっと疲れてきた。駅の方に戻ると繁華街があり、伊勢丹もある。バスターミナルの2階に登ると、そこに『みかづき』というレストランがある。ファーストフード店のようだ。

 

ここが新潟のB級グルメ、イタリアン発祥の店だという。店内には55周年と書かれており、その歴史は古い。1つ330円と安い。もちもちした太麺はうどんのようにも見える。だがれっきとした焼きそばだという。もやし、キャベツと特製ウスターソースで炒め、粉チーズで味付けする。その焼きそばの上に特製のミートソース(トマトソース)をかけて、白生姜を添えている。

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これをプラスチックのフォークで食べると実にチープな感じがする。味は正直ちょっとぼやっとしており、お子様向き。おやつ感覚か。カレー味などもあるらしい。これが出来たきっかけは、町内運動会に出して好評だったというからよく分からない。店内は高校生などがチラホラ。敢えて大人が食べる物でもないような気がするが、ご当地グルメにも色々あるということだ。

 

それからまたブラブラして日が暮れた。先ほど気になっていたタレかつ丼を食べたいと探したが、なかなか見つからない。仕方なく駅まで戻ると、駅ナカ食堂のメニューにタレかつ丼があったので注文してみる。タレかつ丼は、揚げたての薄めのトンカツを“甘辛醤油ダレ”にくぐらせて、ご飯にのせただけのシンプルなものだった。ちょっと甘いタレに惹かれて、ご飯が進む。

 

ここでは普通のカツを切っていたが、発祥の地、とんかつ太郎では、一口サイズのかつが数枚、載っているらしい。だがどうして新潟でこのタレかつ丼が生まれたのか、そしてなぜ新潟市民に愛されたのかは良く分からない。『卵でとじないカツ丼』という言い方から、何か類推できるだろうか。この日は宿に帰り、ちょっと風邪気味のため、明日に備えて早めに寝る。

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北限のお茶を訪ねて2015(1) 3000円のバスで快晴の新潟へ

《北限のお茶を訪ねて2015》  2015年10月15-19日

 

今年は日本の茶旅が増えている。静岡、関西、九州、そして四国にも足を踏み入れた。だがこれまで新潟には行ったことがなかった。2年ぐらい前に一度、長野から富山へ行く際、直江津、糸魚川など新潟の一部を通過した記憶はあるが、それ以外にはこれまで意識したことは殆どなかった。スキーが好きな人、温泉に行く人なら、一度ぐらいは行こうと思うのかもしれないが、私には縁のない地域だと思っていた。

 

昨年福岡に行った際、佐渡出身のYさんから、『ぜひ一度行ってみて』と言われていた。『お茶でもあれば行くんだけどね』とつぶやいた時、突然沖縄でご一緒したKさんの姿が目に浮かんだ。新潟出身のKさんが、あの時『村上というところにお茶があります。良かったら案内しますよ』と言ってくれていたのだ。そうだ、ご縁はあったのだ。これは行かねばなるまいと思い、早々Kさんにご連絡すると、同行を快諾してくれ、準備はあっと言う間に整った。今回はとてもロマンチックな響きを持つ、『北限のお茶を訪ねて』、新潟を旅してみた。

 

10月15日(木)

1.新潟

新潟まで

今回もバスで行くことにした。但し夜行ではなく、昼間だった。新宿からのバスは朝8時発で料金3000円。新潟行きはここから1₋2時間に一本と頻繁に出ているのに、驚く。誰が乗って行くのだろうか。このバス会社は格安にもかかわらず、ちゃんと西新宿のビル街の一角にオフィスを構え、案内もきちんとしていた。乗客は各方面のバスに次々に乗り込んでいく。

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私たちのバス、新潟行きの乗客は多くはなかった。オフィスのすぐ上に乗車場があり、数人が乗り込むと音もなく発車した。このバス、電源は各席に装備されており、座席の上から覆いがかけられ、眠りに着くことも出来る。勿論毛布もある。おまけに小さいが画面もあり、ちょっとした映画を見ることも出来た。車中で映画のルパン三世を堪能した。この料金としては実によくできていると思う。

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バスは1時間ちょっとで埼玉県の三芳サービスエリアに入った。埼玉だけに狭山茶が売られていた。それから景色の良い田舎を走り、嬬恋高原SAでまた停まり、最後は越後川口SAに停まった。この日の天気は快晴で、素晴らしい秋の雲が、川の上を遠くまで筋を引いている。この風景、実に絵になる。それからは刈り採りの終わった田んぼを眺めて過ごした。そして午後2時過ぎに新潟市内に入り、古町から港を通過して、駅近くのバス停に着いた。

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駅前ホテル

まずは新潟駅まで歩いていく。道は分かりやすい。駅前商店街は、残念ながら閉店している店、夜だけの飲み屋などが多く閑散としていた。駅は古びた感じで、階段など段差が多く、荷物を持つ私は、駅の向こう側へ出るのに苦労した。向こう側には、ビルがいくつかあったが、予約したホテルをすぐに見つけることが出来なかった。実際は駅の脇にあったのだが、探し当てるまでに結構苦労した。

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このホテルは駅前ビジネスホテルといった雰囲気。陶板浴が1階に入っており、宿泊者は無料で利用できるという。シングルの部屋は狭く、とても古いのだが、立地が良く、ちゃんとした朝食付き、陶板浴付きで1泊4000円は悪くない。人気があるようだった。この週末も数十人の団体が泊るので朝食時間を制限すると書かれている。ただ部屋にWi-Fiが飛んでおらず、ルーターを使わなければならないのは、現在ではかなりのマイナス要素だろう。

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それでもフロントの応対などはしっかりしており、とても親切で喜ばしい。日本の地方都市の、チェーン店ではないビジネスホテルのフロントには親切で笑顔があるところが多いように感じる。親切でなければ、とっくに淘汰されてしまっているのかもしれない。新聞が無料で置かれているのも、地方都市ホテルの特徴だ。新聞社も相当苦労しているのだろう。更にはロビーにある飲料機でコーヒーを作り、部屋に持って帰ることも出来る。アメニティグッズも必要なものだけを部屋に持って帰る仕組みになっており、無駄を省いている。

 

新潟散策

とてもいい天気だったので、ホテルから散策に出た。15分ぐらい歩いていくと、新潟港に出る。橋の上から眺めると、遠くに佐渡汽船が見える。あそこからフェリーに乗れば、後日目指す佐渡へ行けると分かる。日本海側もこんなに爽やかなのか。後で聞くと、新潟でこんなに天気がいいのはかなり珍しいことだったようだ。川沿いのひと際大きなビルには日航ホテルが入っているという。以前ネットで検索した時、確か1泊6800円、と出ていたところだ。

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日航ホテルがそんなに安い訳はない、相当辺鄙なところにあるに違いないと、無視したが、午後8時チェックイン、午前9時チェックアウトであれば、泊れる出張者向けのお得プランだった。ロケーションも悪くないし、泊ってみればよかったかな、とちょっと後悔。ここはコンベンションセンターにくっ付いており、大きな会議があれば、多くの宿泊があるが、なければ割引せざるを得ないのかもしれない。

京都茶旅2015(10) 大徳寺内のお茶屋さん

清水一芳園というそのお店は、大阪のお茶問屋が、京都に開いたお店だった。店主は息子さん、店内はかなり斬新な造りで、お茶も売っているが、茶器のスペースが意外と広い。そして喫茶スペースではカップルが、大きなパフェを頬張っている。Iさんはここに台湾茶が置かれているというので、興味を持ってきたようだ。台湾茶は店主のお父さんが、台湾との付き合いが深く、店主も台湾に修行に行ったことがあることから、売られているとのことだった。

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ただロケーションが繁華街ではなく、お客を呼ぶのは予想以上に大変で、ランチにマグロ丼を出すなど、色々と工夫を加えており、お茶からは少し離れて行っているようだ。日本の茶業についても、色々と意見交換をする。このようなカフェを交えた、直接お客さんの声が聞ける場所を通じて、茶問屋さんも、消費者ニーズを吸い取ってくれるとよいのではないか、と思う。

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帰りにお茶屋さんで教えてもらった、お店近くのイタリアンへ行く。お洒落な店内では女子会が行われており、男二人の我々はピザとパスタを食べて早々に引き上げる。バスを乗り継ぎ、金閣寺まではかなりの時間がかかる。北大路のバスターミナルが立派で驚く。京都はやはり広い。

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10月8日(木)

大徳寺

京都最後の朝もいい天気だった。今回は本当に天候に恵まれ、晴れ男の面目躍如。ISO茶房に荷物を置いて、大徳寺に向かう。これもIさん紹介のお茶屋さん、昨日行こうと思っていたら、お休みだった。京都は水曜休みが多いようだ。昨日買った1日バス券を今日も買い、使う。

 

大徳寺まではバス亭3つぐらいで直ぐに着いてしまう。お店は10時からといわれていたので、それまで大徳寺を散策。このお寺は有名だが、来るのは初めてだ。大徳寺は臨済宗の大本山。1315年の創建、応仁の乱で荒廃した寺を一休さんが再興したという。侘び茶を創始した村田珠光など東山文化を担う人たちが一休に参禅以来、茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人と深く関係した寺となっている。秀吉が信長の葬儀を行った場所でもあり、山門の2階に自分の像を安置した利休が切腹となったのは有名な話だ。

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寺院内にはいくつもお寺があり、その庭が素晴らしい。木々が静かに佇んでおり、歴史を感じさせる。早朝で観光客の姿もなく、ゆっくり散策すると、何もしていないのに、妙に気持ちが落ち着てくるから不思議だ。ボーっと歩いていくと寺の外へ出てしまう。そこにもまた狐篷庵という非公開の場所があった。小堀遠州の建立。狐篷という文字に惹かれる。隣には高校があるのだが、全体的に実に静か。

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この寺の敷地内に、お茶屋さんがあるのだが、気づかずに通り過ぎてしまう人も多いかもしれない。そのお店、皐盧庵はひっそりと建っていた。中に入ると、玄関脇でお茶を売っている。店主KさんにIさんの紹介だと告げ、上げてもらう。畳の部屋が3つあった。その向こうに中庭が見える。何とも雰囲気の良い、京都を感じさせる作りとなっていた。

 

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Kさんはまだ若い。10数年前に宇治田原でお茶作りを始めたが、作ったお茶がどこに売られていくのか分からないことに疑問を持ち、お茶の販売を開始、4年前にはここに店を構えるまでになった。日本の茶農家はお茶を作るだけ、というのが主流。最近は農家自身が販売を手掛ける例は多くなってきたが、Kさんはさらに一歩進んで、自らの手でお茶を淹れ,お客さんに出すところまで来てしまった。普通はお茶淹れには他の従業員を雇うだろうが、彼は一人でやっていた。これはある意味で画期的ではないだろうか。

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お客は最大3組まで、部屋ごとに対応する。炭火でお湯を沸かして、ゆっくりお茶を淹れる。メニューを見ると高級な抹茶もあるが、1000円程度で楽しめる煎茶もある。お菓子も最中などの他、大徳寺納豆が小さなお皿に置かれており、実に楽しい。大徳寺納豆は麹菌を使って発酵させ、乾燥後に熟成させたもの。小さい粒のようになっており塩辛い。こちらが本来の納豆であり、現在我々が思う納豆は室町以降、納豆菌を使って作るのだそうだ。Kさんとお茶作りや喫茶の話しをしていたら、あっという間に時間が過ぎた。慌てて帰る。

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最後はタイ料理

ISO茶房で荷物を受け取り、これまでの礼を言い、バスで京都駅へ向かった。午後の新幹線に乗る前に、駅付近で食事をする予定になっていた。バンコックで出会ったKさんは、タイ料理を習っており、バイトでタイ料理屋でも働いている。彼女はバンコックで出会った人たちの中でも、何となく印象に残っている人だったので、連絡してみたところ、わざわざ出てきてくれた。

 

京都駅から10分ぐらい歩いたところにあるタイ料理屋さんに向かった。川の横にお店があった。店内はほぼ満員で、何とか席を確保した。タイ人が料理を作っており、人気があるようだった。パッタイとカレーのセットを頼み、シェアして食べたが、久しぶりのせいか、なかなかうまい。

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Kさんとはタイの話で盛り上がる。今や日本にもタイ料理屋がどんどんできており、一種のブームのように見える。東京でもランチにタイ料理、というケースが増えていた。だが、あのバンコックの屋台で食べるB級の麺、チープなカオマンガイなどには当然お目にかかれない。タイが少し懐かしくなる。既に2か月以上離れていた。

 

また話し込んでいると、時間がどんどん迫ってくる。ぷらっとこだまは遅刻を許さないため、急いで駅に戻る。何とかホームに駆け込み、電車に乗り込んだ。今回の京都の旅を振り返りながら、4時間の新幹線旅を楽しんだ。

 

京都茶旅2015(9) 寺町通と新京極

Mさんと落ち合い、Mさん行き付けのフレンチレストランへ。ランチ時間、大変混んでいたが、予約されており、我々の席だけがポッカリ空いていた。かなりの人気店。非常にお得なランチセットがある、ということで、お客の多くが女性だった。スープとメインの牛の肩肉を美味しく頂き、そしてデザートのキャラメルプリンはとても大きく、濃厚な味だった。

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Mさんは、これまで世界中の茶畑を歩いている茶旅の大先輩。今年はグルジア行きも果たされ、いよいよ行くところがなくなりつつあるというつわもの。お茶の販売、お茶の教室をしており、またイタリアへ行って、バーテンダーにお茶の淹れ方を教え、カクテルの作り方も指導しているというから、実に国際的だ。まさにお茶の話が世界を駆け巡っているようだった。Iさんも『聞いたこともない話が飛び交っており、大変勉強になった』と言っていた。

 

寺町通と新京極

食事が終わるとMさんと別れ、Iさんと2人で歩きだす。特に目的地、予定もないので、この付近を散歩することにした。まずは寺町通にある一保堂へ。ここは1717年創業という老舗だが、喫茶の部もあり、多くの観光客が訪れている。ご飯をたらふく食べた後で、喫茶は遠慮したが、お茶会主催者のSさんから『京番茶』のリクエストがあったので、これを探して買う。

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京番茶は東京ではなかなか手に入らない、ということだったが、先日東京の丸の内を歩いていたら一保堂の店舗があったのを思い出す。聞いてみると『丸の内店でもご購入頂けます』という答え。番茶は値段は安いがかなり嵩張る。しかしお土産として頼まれたのだから、やはりここで買って、ちゃんと持ち帰るべし!因みにバッグに入れると茶葉が潰れるので、手で持って新幹線に乗る。自分の分も購入したが、夜枕の横に置いて寝たら、かなりの匂いで目覚めた。

 

丸の内店で驚いたのは、喫茶のお茶の料金が1000-3000円と突出していたことだった。抹茶や玉露では2000円台、煎茶も1000円台、番茶でも1000円はする。正直店に入るのもためらってしまった。外国人ビジネスマンがターゲットなのだろうか。このような料金の違いが判る人がどれほどいるのだろうか。これは場所代ということだろう。京都の店は、1000円以下の物が多く、普通の喫茶店感覚で利用できる。ちょっと休んでお茶を飲むには嬉しい。次回は是非寄ってみよう。

 

それから寺町通を歩いていく。お寺が所々にあり、落ち着いた感じの通りとなっている。骨董屋さんも何軒か見え、茶器なども置かれていたが、とても入って見る度胸はなかった。この辺にも中国人が出没して、高値で骨董を買い漁っていると聞いていたからだ。少し戻って本能寺へ行く。本能寺の変が起こった場所は実はここではない、ということだったが、やはり有名な寺であり、信長公廟などもあるためか、観光客は多い。

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そのまま新京極を散策する。新京極という名を聞くと、修学旅行しか思い浮かばない。中学、高校とも修学旅行は関西だった。そして恐らくは、夜ここを歩き、土産物を買ったのだろうが、明確な記憶はまるでない。ただ1つ記憶にあるのは、当時珍しかった、マクドナルドへ行き、シェイクを初めて飲んだこと。その吸い方が良く分からず苦戦している内に、集合時間となってしまい、かなり慌てた思い出があるが、あれもやはりこの辺りだっただろうか。

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今は店もきれいになっており、日本人の観光客と外国人が半々ぐらい歩いている。相変わらず修学旅行生の姿も見られるが、往年の数ではないようだ。錦小路は京の台所とよばれ、青果店、鮮魚店、乾物店、惣菜店などが並ぶアーケード街、石畳の狭い通りとなっている。漬物、干物が目を引く。食材店は、中国人、台湾人、韓国人で賑わっていた。京都の食べ物を買って、歩きながら食べる、というのがウケるらしい。

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お茶屋で喫茶

夕方となったが、まだランチが重く腹に残っており、夕飯までにもう1つどこかへ行こうということになる。せっかくの機会なので、バスに乗って、三十三間堂へ向かう。ここも修学旅行で来て以来だったが、到着すると既に閉門していた。ただ我々の目的はここを観光するのではなく、この近くに出来たというお茶屋さんに向かう。これはIさんの希望だった。

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ところが三十三間堂の周囲を歩き回ってみてもなかなか見つからない。陽が落ちていくと、風が吹き、ちょっと涼しくなる。私はスマホを使い慣れておらず、店の位置確認にかなり手間取ってしまう。何とか電話番号を見つけて、電話をすると、思っていた場所とかなり違っていた。ようやくたどり着く。

京都茶旅2015(8) 福寿園とおばんざい

4.京都2

福寿園

約束の時間より少し早く着いた。Hさんが『ちょっとお茶でも飲みましょう』という。これからお茶を飲みに行くというのに、なぜそうなるのだろうか。京都福寿園本店のビルのすぐ近くにある大丸の2階、茶房アドニス “福寿草”に連れて行かれる。ここはHさんの憩いの場、都市伝説としては『ここに来ればHさんに必ず会える』のだというほど、彼女のお気に入り。

 

Hさんの指定席、カウンターに座ると、すぐにウエルカムティーとして、水出し茶が出てくる。この茶房、福寿園のイメージを変える試みなのだろうか。勧められるままに、ほうじ茶ラテとケーキのセットを注文。ほうじ茶のラテ、意外やこれはなかなかイケル。日本茶は甘くしない、甘くないという概念を取り払っていてよい。平日の昼間、お客さんは女性ばかりだが、日本茶のイメージを変える、多彩なニーズに応える、という姿勢が感じられる。

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それから本店の地下一階へ。Hさんも一緒に行く。本店は各階で、茶の販売、喫茶、レストラン、展示場など、実に様々なお茶に関するスペースが設けられているお茶の百貨店だが、地下一階は『プロ仕様の設備で自分の好きなお茶が作れる』『お茶講座が開かれる』場としてある。日本茶インストラクター3名が常駐して、お茶のことを教えてくれ、色々なニーズに応えてくれる。

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前回はその中の一人、大学院で茶の歴史を研究しているHさんを訪ねたが、そこでチーフのIさんを紹介してもらった。2人とも日本茶の歴史の研究をしており、今回は主にIさんからお茶の歴史の話を聞くために立ち寄った訳である。ここでまた、江戸時代のお茶の歴史、日本の地方におけるお茶の飲み方の歴史、など様々な話が聞ける。併せて、限定品のほうじ茶を手に入れて、ご満悦で帰る。

 

おばんざい

次の約束は6時半にJR二条城駅。地下鉄で向かうが、福寿園での話が楽しすぎて、遅刻寸前となる。JRではなく、地下鉄を教えてもらって、よかった。何とか間に合う。今晩会うのは7-8年ぶりになるTさん。香港時代の10数年前、彼女はお茶を習っており、一緒にお茶会を開いた仲だ。その後彼女は実家のある京都に戻り、今は普通に働いているという。これまで何度か会おうとしたが、お互いの都合が合わず、今回実に久しぶりの遭遇となった。

 

彼女はこの近くに勤務しており、家との往復も自転車ということで、自転車を押しながら店に向かった。着いた場所は、住宅街の一角。『わらじ亭』、普通の人には分かり難い場所かもしれない。中は大きなカウンター席が並んでおり、レンコン・つくね、ベーコン・じゃがいも、おからコロッケ、ニラまんじゅう、など、実に美味しそうなおばんざいが並んでいた。もうそれだけで、どれにしようか、目移りしてしまう。

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そしてその美味しい食べ物を頬張っていると、カウンターの向こうから奥さんが話し掛けてくる。Tさんのお母さんの知り合いだというのだ。京都で育ったというが、実に世界各地に良く出かけており、中国などのアジアだけではなく、アフリカやヨーロッパにも詳しく、色々な国の事情に明るかった。これには正直かなり驚く。こんなところで、こんな話、という感じの会話が続き、お酒も飲んでいないのに、大いに楽しむ。常連さんが店と会話している。格式のある京都、とは全く別の世界を味わい、その奥深さを知る。これは本当に面白い。

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Tさんに京都のB級グルメとして、にしんそばを食べた話をすると、『ネギ焼の方がそれらしい』という。帰りに、ちょっと寄り道して、ネギ焼の美味しい店を紹介してもらった。さすがにお腹が一杯で、食べることは出来なかったが、次回は是非そこへ行って味わってみたい。バス停まで送ってもらい、また金閣寺へ帰っていった。バス路線さえわかれば、京都は意外と便利な場所である。

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10月7日(水)

フレンチとお茶話

翌日は朝ゆっくりと過ごした。Iさんの茶房も今日は週に一度のお休み。色々とやることがあるであろうに、今日は一日私の京都見物に付き合ってくれるという。そこで京都で紅茶や中国茶などを長く商っているお茶屋さん、Mさんを紹介しようと思い、ランチを企画した。待ち合わせ場所は京都市役所前、金閣寺からバスで向かうと、意外と直ぐに着いてしまう。

 

バスを降りると、そこには桂小五郎の像が見えた。ここはどこだろうと見ると、ホテルオークラ、江戸時代は長州藩邸があったところらしい。ということは幕末の動乱期、ここは尊王攘夷派のアジトと化し、多数の志士が出入りしていた。禁門の変でこの藩邸は焼き払われ、長州は都落ちした。この戦闘によって、京都の町もかなり焼失したという。京都市役所の建物も、まじまじと見たのは初めてだが、立派な建物だった。まるで博物館のようだ。

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京都茶旅2015(7) 茶の歴史を考える

駅のにしんそば

妙心寺の近くにJRの花園駅があった。実はこれから京都駅へ向かう。バスで行こうと考えていたが、どうみてもJRが速くて確実だと思われる。ただ山陰本線の各停は1時間に何本あるのか、それだけが心配だったが、20分に一本もあり、安心した。乗車すると僅か10分もかからずに京都駅に到着してしまった。意外と混んでいたのは、やはり都会だからだろうか。

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山陰線の京都駅ホームは、駅の端の方にあった。思わず山陰というイメージがチラついてしまう。ちょっと暗いそのホームを出ると、駅そばがあった。ちょうど昼時。ここで食事をすることにした。昨日Iさんに京都のB級グルメは何だろうと、と聞くと、強いて言えば『にしんそば』かな、と言う。にしんそばは京都の蕎麦屋ならどこにでもあるから、ということだったが、私は今まで気が付いたことは一度もない。いや京都で蕎麦屋に入ったことがなかった。

 

駅そばでメニューを見てみると、やはりあった。注文するとアツアツの蕎麦の上に大きなにしんが載っていた。そして九条ネギの香りが何とも言えない。九条ネギは本当にウマイ。しかしなぜ京都でにしんなのだろうか。勿論京都市内には海がないため、日本海側からにしんが運ばれてきた、ということだろうが、そんなににしんが好きなのか。きっと歴史がある。

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宇治へ

そばを食べ終わると、JR構内を宇治行きのホームへ移動する。一昨日と全く同じ時間の電車に乗り、宇治に行くのである。元々は茶の歴史を研究しているHさんとランチする予定であったが、宇治で行きたいところがある、というので、急きょ予定を変更したという訳だ。

 

少し早くホームへ行くと、以前にも増して外国人が多い。欧米人もいるが中国人、台湾人が目立つ。この線で奈良まで行くようだ。団体で爆買いしに来る中国人とは明らかに違う個人客だ。英語を話し、静かに行動している。だが、表示が分かり難いのか、殆どの外国人が立ち止まって、行き先を確認して、電車に乗り込んでいく。駅員も対応しているが、英語には対応できても中国語には対応できないようだ。このような個人客にいい印象を持ってもらうことが、これからの日本の観光業にとって、とても重要なことだと思うのだが、どうだろう。

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Hさんと無事に落ち合い、宇治へ向かう。車内で、もし日本の茶の歴史を真剣に勉強するとしたら、どうすればよいかを聞く。基礎として『古文書を読めるようにすること』『研究としての歴史の調査手法を身に着けること』、その上で、大学院に入り、指導教官を見つけて、研究すること、という説明を受ける。正直日本茶の歴史は茶道中心で物足りない気がしている。もしこの分野の研究が非常に少ないのであれば、自分でやるしかない、ということだろう。実際にHさんはそうしている。

 

3.宇治2

歴史資料博物館

一昨日と全く同じバスに乗る。そしてルートの途中にあった歴史資料博物館で下車した。ここはHさんが時々仕事に来ている場所だそうで、今日は『宇治茶』の特別展が開かれており、それを見に行くことにしたのだ。展示には明治期の茶作りの様子が再現されており、宇治茶の歴史についても詳しく解説されていた。しかもHさんの関係で、学芸員の方がわざわざ説明についてくれた。Hさんにとってここは仕事場。そこへ行くと、オフィスの人と仕事の話となってしまい、ゆっくり見学する余裕はなかったようだ。私だけ得した気分になる。

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『宇治茶は常に非日常茶』という表記が気にかかる。宇治は碾茶に始まり、青製が起こり、そして玉露へ。常にトップブランドを生み出してきた日本の茶の中心地、という自負が強く感じられる。製茶の様子も非常に詳しく展示されており、この展示の為に、相当に苦労して資料を集め、話を聞いてきた、ということがよく分かる。

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学芸員によれば、用語が残っていても、それがいったいどのような作業だったのか、それは想像することも難しく、また想像と違っていることも多いという。歴史を研究するというのは考える以上に困難なことで、まただからこそ必要なことに感じられる。このような展示がもっと多く行われ、もっと多くの人の目に留まることを望む。

 

私は最近ちょっと関心のある『江戸時代の庶民の飲んでいたお茶』について、質問してみたが、明確な答えを見出すことは出来なかった。歴史というのは、非日常的なことが記録され、伝えられていくのであり、ごく日常的な生活は、記録されることも少なく、語られることもないのだろう。

 

1時間半ほど見学し、話を聞いて博物館を後にする。またバスに乗り、宇治駅へ。そして元来た道を京都駅へ取って返す。京都駅から地下鉄に乗り、四条烏丸で下車。5月も訪れた福寿園を再訪するためであった。

京都茶旅2015(6) お寺巡り

北野天満宮

終点の北野白梅町駅で降りると、ちゃんと切符を回収される。当たり前だな。駅を出ると、宿まではまだ少し距離がある。普通ならバスに乗るのだが、何だかまた歩く気になってしまう。歩き癖が付いた、ということだろうか。バスと電車で座っていたせいか、足も幾分軽くなっている。

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大通りから少し入ったあたりは、昔風の家が見られる。平野神社の鳥居が見えた。ここから北野天満宮は近いだろうと、行ってみる。菅原道真が配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次ぎ、これが道真の祟りだとする噂が広まり、これを鎮めるために作られたのが、大宰府天満宮と北野天満宮。

 

この天満宮、お茶関係で言えば、秀吉が北野大茶会を開いた場所として有名である。その記念碑もちゃんと建っており、太閤井戸などという名前の井戸もある。そういえば最近吉田山大茶会、というイベントも開かれており、知り合いのお茶屋さんたちも参加していると聞く。来年は行ってみるか。臥牛の像もいくつか見られる。牛は神の使者とされているらしい。

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天満宮ではちょうど后宴祭というイベントが行われていた。古来から続く、ずいき祭(瑞饋祭)という五穀豊穣を祝う儀式。私は脇から覗き込んだため、突然目の前に和服姿の女性や幼い子供たちが飛び込んできて驚いた。八乙女舞奉納が行われたようだ。これは年に一度の祭りであり、偶然見られたことはラッキーだったのだろう。そしてようやく夕方、ISO茶房に戻った。実に実に長い旅だった。お茶とご飯を頂き、シャワーをゆっくりと浴びて、早めに就寝する。体は相当に疲れており、夢も見ずに、熟睡出来た。

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10月6日(火)

仁和寺と妙心寺

町屋の朝が来た。今日もまた出かけていく。折角なので金閣寺周辺を散策することにした。取り敢えず徒然草で有名な仁和寺を目指す。バスに乗れば直ぐに着く、と聞いていたが、やはり歩き出す。今日もいい天気だ。金閣寺近くにはあまり店はないが、何故か食べ放題がある。中国人のため?

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少し歩いていくと、立命館大学に着く。私は昔なぜかここに入りたいと思い、東京で受験して合格している。ただキャンパスは一度も見たことがなく、35年の時を経て、初の対面となった。学内は特に特徴もない普通のキャンパス。一体なぜこの大学が気になったのか、今でもよく分からないが、単に京都に来たかった、というのとも、少し違うような気がしている。

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また少し歩くと、タクシーが数台見えてきた。現在の修学旅行は、グループごとにタクシーをチャーターして回るのが基本らしい。これなら先生が管理しなくても運転手さんに任せればよく、ガイドもしてくれて迷子にもならず効率もよい、ということだと聞いた。だがそれで本当に良いのだろうか。自分たちの力で目的地に向かう、そんな行動がとれないなら、あまり意味がないようにも思うのだが。学校も学校だが、親も親。自分の子供が心配なのは分かるが、中学生や、ましては高校生にもなって、管理された中で旅をするのでは、教育ではない。

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何となくそんなことを考えながら、学生の後ろを歩いていくと、竜安寺に入る気持ち失せてしまった。竜安寺といえば、石庭が有名。あの石と白い砂のコントラスト。どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないような配置。私も修学旅行で一度見ており、実に興味深いのだが、もう一度見たいと思ったが、学生に譲ることにして、足早に寺の階段を下りる。

 

それから仁和寺へ向かう。ちょっと横道を歩くと、横の門が見えてきた。そこからサラッと入り、横断した。こちらには幼稚園の園児が沢山来ており、鳩と戯れていた。先ほどの修学旅行生とは違い、実にのどかな光景だった。五重塔もある。御室とは出家した天皇が住んだことから、御室御所と呼ばれていたようだ。御室桜は有名できれいだという。境内はかなり広く、絵小戸初期の建てられた重要文化財がズラリと並んでいる。実に由緒ある寺院だった。

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反対の門を出ると、八十八か所御山めぐり、と書かれていたので、そちらに歩いていく。なんと小山に八十八の札所を再現しており、実際に四国巡りに行けない人のために、簡単に巡れる、というコンセプトのようだった。まるでミニゴルフ場を思い出させ、ちょっと白ける。3₋4つ眺めてすぐに飽きてしまい、また仁和寺に戻る。正門を写真に収め、次に進む。

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Iさんから『妙心寺は静かでよい』と聞いていたので、そちらに向かう。門を潜ると、沢山の寺院が中にある。妙心寺という敷地の中に、小型の寺院が詰まっている感じだ。拝観出来るところもあり、謝絶と書かれたところもある。外から見ても庭がきれいであったり、人が少なかったりで、ゆっくりと散策できる。欧米人で感じ入っている人、写真を撮りまくっている人などがおり、彼らにとっては、観光地ではない寺院、こういった場所が、京都なのかも知れない。

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京都茶旅2015(5) 地獄のトレイル

トレイル

この川沿いの道は京都トレイルのコースになっているようで、案内図が出ている。まずは関西電力清滝発電所、水が積止められて小型のダムになっている。その先からは歩き難い川沿いの道を行く。ただ風景は最高に美しい。行き交う人も殆どいない。3㎞ぐらいはそんな軽いアップダウン(岩をつたったり)を行く。愛宕神社の下に出る。比叡山と並び称される京都の山、本当は上ってみたかったが、標高900mを越えており、先ほどの文覚の墓に登ったダメージから断念した。

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清滝猿渡橋、いい感じに架かる橋の横には、これまたいい感じの旧家が川に面して、建っていた。宿屋か料亭か。この景色に見とれた私は、更に川沿いに歩いてしまった。本当は道路沿いに行けば、清滝バス停からバスに乗ることが出来たのだが、完全にこれを見落としてしまう。与謝野晶子の歌碑が見え、更に奥深い川沿いの絶景が見えてくると、もう前に進むしかない。

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向こうからフランス人の若者が一人でやってきた。相当疲れているようなので声を掛けてみると、嵐山からすでに10㎞ぐらい歩いてきているようだった。高雄までまだかなり距離があることを伝えると、ちょっとがっかりしていたが、若いので、スタスタ行ってしまった。だが、私の方はどうすればよいのだろうか。さすがにここから10㎞も歩く気力はない。バスに乗りには恐らくは清滝橋に戻らなければならないが、後戻りする気分でもない。先日の暴風雨でなぎ倒れた木の残骸が痛々しい。

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そうして、道が川を離れた。少し登っていくと、道路に出た。ここは一体どこなのだろうか?看板を見ると落合、という場所らしい。案内図によれば、嵐山までは6㎞あるという。しかしこの付近にバス乗り場はなく、清滝まで戻るのが一番近い。それでも前に進んだ方が面白いと判断して、嵐山の方へ歩き出す。

 

地獄の山越え

ところがこの車が通る道はかなり急な坂であり、どうみても山越えをするような感じとなっている。車に抜かれながら、喘ぎながら登っていく。かなりきつい。更にはこれまで歩いてきた累積の疲労が追い打ちをかけてくる。足が上がらなくなってきて、つまづくように前のめりとなる。もう限界が近づいてきたことが分かるが、前に足を出す以外、どうしようもない。そんなことを考えていると、ようやく峠を越えた。ここは六丁峠というらしい。

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下りは楽かといえばそうではない。箱根駅伝の山登りの5区を思い出せばよい。ひたすら上った後の下りはかなり足に堪える。足の回転数を下げるが、ブレーキをかけているようで、腿への負担が大きい。木々に囲まれた自然の中、人間の無力さを痛感する。そしてどうしてここまで歩いてきてしまったのか、不思議な気分になる。既に10㎞以上は歩いただろうか。

 

道路脇にあった表示が目に入る。嵯峨陵、何とここは嵯峨天皇の皇后の御陵であった。嵯峨天皇といえば、文献に残る歴史上で初めて茶を飲んだ人物である。815年、僧永忠が点てた茶を滋賀の寺で飲んだとある。勿論これより前にも様々な人が茶に接していたと思うが、公式文章がないのだそうだ。永忠は在唐30年の僧侶であり、彼が滞在した長安の寺でも喫茶の習慣があったらしい。一体どんな茶を飲んでいたのだろうか。推測の域を出るものはない。

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それにしてもなぜここに皇后の墓があるのだろうか。これまで天皇の御陵は何度も聞いたことがあるが、皇后の御陵、しかも1200年前の人物の御陵があるとは、さすが京都、と唸ってしまう。何らかの特殊な功績があったのだろうか。歴代皇后の墓がもしあれば、京都の山は墓で埋まりそうな気がする。明治45年に修陵があったとある。ただ残念ながら、この御陵へ行く道は土砂崩れにより通行止めになっており、実際の御陵を拝むことはなかった。

 

そしてようやく人里が見えてきた。ここはどこだろうか。遭難した人間が人家を見てホッとするような感じだった。それほどに疲労していた。ここは古民家を使って、お店が数軒出ていた。保存地区なのだろう。鳥居本、大きな鳥居がある。ゆっくり見物する心の余裕はなく、車が通る道路に上がると、バス停が見えたので、走り寄り、時刻表を眺めた。そしてフッと顔を上げると、何とそこにバスが停車した。もうどこ行きでもよいから、乗り込む。ついにこの地獄のトレイルから脱出した。

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嵐電

バスの座席に深々と座る。疲れで頭がボーッとなっている。乗客は多くはない。見るとこのバスは嵐山行きであった。歩くのとは大違い、バスはスーッと道を行き、どんどん都会に戻っていく。嵐山のあたりに来ると、平日にも変わらず、沢山の観光客が歩いていた。嵐電の嵐山駅前でバスを下りた。嵐山を散策するべきだが、もう体力の限界、真っ直ぐ電車に向かう。

 

電車はレトロでいい感じだ。ホームでは沢山の中国人の声がした。何かと思うと、何とホームの端に足湯が設置されていたのだ。私も是非は入りたいと思ったが、大勢の中国人に圧倒されて、近づくのを遠慮した。抹茶アイスを食べている観光客も大勢いる。ここだけを見ると経済がかなり活性化しているように感じられる。これも中国人パワーのお陰だろうか。

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電車は四条大宮行き、途中の帷子ノ辻で乗り換えて、北野白梅町まで。嵐山で切符を買ったが、乗換に際して、この切符を回収されてしまうと新しい電車に乗るは面倒、どうすればよいのか、よく分からないまま乗り込む。外国人たちは特に気にする様子もなく乗り換えていたが、どうやってルールを知っているのだろうか。

 

京都茶旅2015(4)神護寺と文覚上人

西明寺

高山寺を出て、道路沿いに歩いていく。ガイドブックによれば、西明寺という寺まで歩いて15分ぐらいかかることになっている。ゆっくり行くと、道端に『茶山栂尾』という石碑があったりする。清滝川が横を流れている。やはりこの辺に茶が植えられたのだろうか。橋を渡ると、いい雰囲気の横道があり、そこを気持ちよく歩いていく。人は誰もいない。静寂の秋。

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すると私の横を1台の車が通り過ぎ、西明寺に入る橋のところに停まった。台湾人カップルがレンタカーを借りて、この辺を回っていた。指月橋、この付近は緑が濃くなり、実に美しい。これは絵になる風景だと言える。台湾人も、この誰もいない静かな風景にしばし見とれて、橋の上に佇む。苔のむす階段を上がっていくと、そこに西明寺の門が見えてきた。

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西明寺は三尾の名刹の1つ、また紅葉の名所だとある。ここも来月には人で埋まるのだろうか。私は紅葉も見たいような気もするが、今の、この誰もいない光景を更に愛する。本堂の右手にきれいな庭があったので、そちらへ入ろうとすると、奥さんが出てきて『そちらは開放していません』といわれてしまう。それでは仕方がない。脇から写真に収めて立ち去る。

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左の方へ行くと、墓石が並んでいた。ここが寺院であることをうっかり忘れてしまっていた。その前には茶の木が少し植えられている。恐らくは寺の僧侶が年に1度ぐらい摘み採って茶を作っているのだろう。元々京都の各寺には茶園があり、こんな風に育てていたのかな、と思う風景だった。高山寺が最古の茶園かどうかは別として、茶と仏教の繋がりを考える。

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神護寺

寺の裏門を出て、そこからまた川沿いを歩いていく。もし2つの寺だけ見るであれば、道路に出てバス停を探すのだが、せっかくここまで来ており、まだ時間も相当に早いので、3つ目の寺を目指した。神護寺、そこはかなりの急な階段を登っていく。長い参道、既にかなり歩いており、これは疲れる。しかしここも明恵上人所縁の場所であり、歯を食いしばって登る。

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神護寺といえば、文覚上人が空海ゆかりの寺が荒れ果てているのを悲しみ、その寺の再興を後白河法皇に強訴したところ。文覚自身は罪に問われて対馬に流され、死んでいくが、その弟子上覚によって再興がなる。上覚の甥が明恵であり、彼も一時、神護寺に滞在している。

 

ようやく山門にたどり着く。門を潜ると、意外や平地があり、金堂、多宝塔、大師堂、鐘楼などが見える。この寺は、道鏡によって流罪となった和気清麻呂が、和気氏の私寺である神願寺を建立したことから始まるらしい。清麻呂の墓があるというので、そちらに歩いていく。山に登る道があり、『文覚上人の墓』という表示があったので、まずはそちらへ行ってみる。ちょっと登れば墓に着くと勘違いしていたのだが、これが大変な山道を20分以上登り続けた。途中で断念しようとも思ったが、何だか文覚上人に導かれてしまったようだ。

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何とかたどり着くと、そこは見晴らしの良い山の頂近く。何とそこには後深草天皇の皇子の墓もあり、宮内庁管轄となっている。その横に文覚の墓も並んでいた。墓自体はシンプルだが、寺を再興した文覚の位置付けが良く分かる。文覚は源頼朝に決起を促したり、後白河法皇とやり合ったりと、日本の歴史上に名を残す、重要な人物だと思うのだが、その彼がいつ死んだのかさえ、定かではないというから、本人はさぞや無念の最後であったろう。

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帰りはまた急な坂道を下りていく。そしてふもとまで来て、道を変え、和気清麻呂の墓へと向かう。こちらはすぐそこにあった。かなり疲れていたのでホッとする。いくつか墓石が見えたが、最終的に見つけた清麻呂の墓は、何となく古墳を連想される、盛り上がった造りとなっていた。高貴な人物の墓は奈良時代でもこのようだったのだろうか。ちょっと興味が湧く。

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神護寺の鐘楼を横目に見ながら、山門を潜る。あの階段は急すぎて降りたくないと思い、車が通れる別の道を下りてみる。下まで降りていくと、川沿いの景色がとても良い。自分の体力を自問すると、『まだ大丈夫』ということで、川沿いにトレイルを開始した。実は既にこの時、体力的にはかなり消耗しており、また昼ご飯も食べていなかったので、無謀であったことを後で思い知ることになる。