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下田紅茶旅2015(2)地紅茶サミットで

来賓あいさつの後、地紅茶サミットが始まった。現在の地紅茶の問題点、取り組みなどを各地の生産者代表が報告していく。北は茨城、新潟から南は熊本あたりまで、実に幅広い生産者が集まっていた。皆さん、紅茶作りをはじめてそれほど年月が経っている人は少ないが、その熱意は感じられる。中には『皆さんの製茶レベルは低すぎる』とのたまう、コンサルタントと称する人もいて、ちょっとビックリしてしまう。単なる仲良しの会ではなさそうだ。

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兎に角、如何にして品質の良い紅茶を作るか、そしてそれをどのように消費者に広めて、売っていくのか、という共通の、重い課題が地紅茶にはある。その取り組み事例を紹介し合い、皆で地紅茶を盛り上げて行こうという姿勢がある。『いいお茶とは何か』という問いかけに『消費者に選んでもらえるお茶』『自己満足ではいけない』という言葉が響いていく。日本茶業界の問題点をそのまま突きつけるような話になっている。煎茶にもこんな議論はあるのだろうか。

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知り合いのOさんも、普段は温和な話しぶりなのだが、この時ばかりは『地紅茶が少し世間に認知されてきたとはは言っても、流行りは一時的なものになりがちだ。ここから努力して、消費者に真に受け入れられる商品を提供する必要がある』と厳しい顔で指摘していた。このサミットは一般の人向けに行うイベントではなく、地紅茶業界の決起集会のようなものであった。それはとても面白い。

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そして最後に次回開催地である奈良県月ヶ瀬の茶農家とその支援者が、前に出て発言した。既に来年の開催も決まっており、12月4-5日に行われるらしい。しかも開催地は持ち回り、というより、自ら立候補して、企画書を提出し、審査を経て決まるという。自分たちのやっていることを同志に見てもらおう、より多くのお客さんに知ってもらおうという志、とても大切なことだと思う。

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サミットは時間が短く、あっという間に終わってしまった。後は懇親会での相互交流になるようだ。続いて、静岡の重鎮、K先生による基調講演があった。『開国と紅茶』という場所をわきまえた演題だったが、この発表内容にも驚いた。下田紅茶は『ハリスが将軍に茶を献上した』ことに由来すると聞いていたが、K先生は『歴史的に文献に当たってみたが、そのような事実は見付けられなかった』とバッサリ、と述べていた。これには会場もビックリ。

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具体的には、ハリスの幕府への献上品リストの中にお茶はなく、また当時アメリカでは紅茶は作られていなかった(下田ではこの紅茶は中国産だと説明しているようだが)、ということだ。ではなぜこのような話が出てきたのだろうか。これは後世の人が書いた物を参照した結果ではないか、とのことだったが、一方『お茶の商売をするため、地元振興の為に宣伝として使われる分には、このようなストーリーは良いかもしれない』とも付け加えられていた。

 

町おこしをした市長さんも聞いている目の前で、こんな話ができる研究者というのは、すごい。自分の研究成果をちゃんと発表するものだな、と妙に感心してしまった。それにしても江戸時代、オランダや清朝は献上品として将軍にお茶をもたらしたのだろうか。もしそれがあったとすれば、それは紅茶だったのだろうか。ちょっとした興味が湧く講演内容だったことは確かだ。

 

講演終了後、知り合いと出会って話し込んでいると、1階のブースの試飲販売は既に終了してしまっていた。また明日があるからいいや、と思っていたが、何と今日だけ参加という人達もいて慌てるも、もう遅かった。先日訪問した村上茶のIさんとはトイレですれ違ってあいさつしただけに終わる。行き当たりばったりの旅が多いが、もうちょっと計画的に回るべきだった。

 

懇親会

それから宿に戻り、チェックインした。そこにいたのは外国人(フィリピン人かな?)のおばさん。明日の朝までは彼女が当番なのだろうか。人手不足の上、経営が難しくなる従来型のビジネスホテル、その生き残り術にも興味が沸いてくる。後でゆっくり観察してみよう。

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サミットの懇親会にも飛び入りで参加することになっていた。その場所はサミット会場ではなく、某ホテルだというのだが、その場所はよく分からなかった。まあ、検索すれば分かるだろう、下田はそんなに広い街ではない、とタカを括り、駅前から歩いて向かったが、検索で見る地図では高低差はよく分からなかった。

下田紅茶旅2015(1)地紅茶サミットで下田へ

《下田紅茶旅2015》  2015年11月28-29日

 

最近静岡に行く機会が増えている。静岡市内の他、牧之原、川根、梅ヶ島、清水など、今年は既に4回も行っているようだ。静岡県茶業会議所の雑誌『月刊茶』の連載が始まったこともあるかもしれない。まあ、日本茶の中心地は静岡だから、当然といえば当然かもしれないが、やはり何といっても静岡は広い。まだまだ行くべきところはいくらでもある感じだ。

 

そんな中、『全国地紅茶サミット』が下田で開かれるという話を聞いた。地紅茶、和紅茶など、最近日本各地を巡っていると、紅茶製造の話がとても多いので、ちょっと興味が湧いてくる。ちょうどその時期に予定していた旅が延期になり、日程的に行けると分かったので、ちょっと覗いてみようと思い立つ。下田は本当に初めて行く場所であり、幕末の吉田松陰やハリスなど、歴史的なことも色々と思い出され、折角なので1泊でトライすることにした。

 

11月28日(土)

下田まで

いつものように小田急線の急行で小田原へ出て、そこからJRに乗って、熱海で乗り替え。東京から踊り子号なら乗り換えなしで行けるというのに、相変わらずかなりの時間をかけた、ブラブラした旅となる。少し早いが腹が減る。熱海駅の下田行き列車のホームにあった駅そばに入る。こんな時間なのにお客が入り替わり立ち代わりやってくるのは意外だった。

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かき揚げうどんを注文し、待っていると、かき揚げ蕎麦が出てきた。私のではない、というと、次の注文者に蕎麦を出すが、彼もうどんだった。おばさんが不貞腐れて『エー』と声を出したので、その男性は『じゃあ、俺が食うよ』と救いの手を差し出したが、『いいよ、もう』と言って作ったばかりのかき揚げ蕎麦を流しに放り投げてしまった。そしてそれから一言も声を発せずに私と彼に作り直したうどんを差し出した。何とも後味の悪いし、居心地も悪い。こんなに気分の悪い思いをしたのは実に久しぶりだった。おばさん、虫の居所でも悪かったのか。

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熱海から伊東まではJR線、そして下田までは伊豆急行という不思議な連結になっていた。川奈といえば、有名なゴルフ場があるな。河津といえば、桜がきれいだと聞いたことがあるな、など、初めて巡る鉄道の旅は思ったより楽しかった。山が見えるかと思うと、海が見えてくる。これをゆっくりと走っていくのだから、急行などよりも各停の旅が似合っている。

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途中伊豆高原駅で6両だった列車の3両が切り離され、前3両へ移動を余儀なくされる。この列車、勿論観光客も乗っているが、地元の人のちょっとした移動にも使われている。今日は土曜日なので、買い物などにいくのだろうか。この辺に住んでゆったり余生を送る、きっと悪くない。

 

1時間半ほど列車に揺られ、12時過ぎに下田駅に着いた。改札口は関所になっていた。今日は宿を予約していたが、駅前にあるのですぐに分かるだろうとタカを括っていたが、すぐには見付からず、周囲をウロウロしてしまう。最終的に観光案内所に聞くと、駅の裏側だと分かる。ホームのすぐ脇、電車がよく見える位置にその古びたビジネスホテルは建っていた。鉄道オタクなら喜ぶロケーションだろうか。ご主人がいたので、荷物を預かってもらい、出発する。日本ではどこでもチェックインは3時以降だ。もう慣れたよ、その習慣。

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地紅茶サミット1日目

『全国地紅茶サミット』という看板が出ていた。市民文化会館は、駅前の道を歩いて5分ぐらいのところにあった。すぐ近くになぜか坂本龍馬の像があり、また唐人お吉の記念館があった。そちらに興味があり、歩いていくと、ちょうど佐賀の紅茶屋さん、Oさんが向こうからやってきた。Oさんには昨年の九州茶旅でお世話になり、そして今年は佐賀のお店を訪問しており、既に顔なじみだった。今朝佐賀を出てきたのだという。東京から来た私と到着時間はそう変わらない。

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そのままOさんに付いて会場入り。主催者の方に挨拶をして、通路を通ると、そこには地元のお菓子を売る店、そしてなぜか歌を歌っている人がいた。このようなイベントを地域で盛り上げているようだ。そういえば、会場外にもブースが出ていて、紅茶とは関係ない食べ物などを売っていた。

 

奥のホールへ行く。入場料800円を払うと、お茶を飲むカップと、パウンドケーキの入った袋を手渡される。このカップで紅茶の試飲を行うようである。中では全国各地から紅茶作りをしている人々がブースを出して、詰め掛けた紅茶専門家・紅茶ファンにお茶の説明をしながら、試飲を勧めていた。取り敢えず敬意を表して地元下田紅茶のブースへ行ってみた。

 

下田で紅茶が作られていることをはじめて知ったのだが、そのお茶のネーミングがすごい。開国下田紅茶『ペリーティー』。そしてハーブを使った『ハリスティー』、りんごチップを混ぜた『プチャーチンティー』。そして夏みかんチップを混ぜた『しょういんティー』にはもう驚くしかない。それにしてもペリーやハリスがお茶と関係があったのだろうか?何も知らない私の疑問!

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入間高麗茶旅2015(3)お茶屋さんから高麗神社へ

そしてもう1つ。『琥白』という商品は、萎凋を行い、釜炒りした独特のお茶。『緑茶でも、烏龍茶でもない、全く新しい日本茶』として売り出しており、そのチャレンジは大いに買いたい。釜炒りも、日本から姿を消した殺青手法だが、中国の緑茶ではごく普通であり、この方がスッキリして飲み易い上、茶葉の処理がとても簡単などとの声も聞かれ始めている。

 

私がエコ茶会の話をすると、Sさんは『2年前に浜松町のエコ茶会を見に行った時は正直驚いた。こんなに沢山の人、特に若い人達が楽しそうにお茶を飲んでいる姿を見たのは初めてだった。あの光景を思い出すだけで、茶業の将来について勇気が沸いてきた』と勢い込んで話してくれた。全くその通りだと思う。今の日本茶は生産者と消費者の間が大きく開いてしまい、生産者は消費者が何を求めているのか、よく分からなくなっているのではないか。

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また日本茶について、中国茶や紅茶などと大きく違っているのは『香り』ではないのか。日本茶には香りがなくなっていると感じているのは私だけだろうか。子供の頃、お茶屋さんといえば、店先でほうじ茶のあのいい匂いが忘れられない世代もいるのでは。最近はほうじ茶や番茶を買う人も増えていると聞く。一般的な煎茶には何か物足りないものがあると感じている層もいるはずだ。Sさんは台湾にも修行に行き、東方美人のような烏龍茶を作る現場を実際に経験したという。このような体験が、お茶の世界を広げていくのでは、と思う。

 

だからこそ、例えば生産者がもっと、様々なタイプのお客の前に出てきて、対面でお茶を淹れ、直接お客の感想を聞き、ニーズを聞く必要があると思う。来年はぜひエコ茶会など、イベントにも出店して、直接体感してほしい、他の生産者とも交流して欲しい、と伝えた。中国茶・台湾茶の関係者はこのような萎凋香は慣れたものであり、また日本茶の世界でも、説明の仕方によっては、新鮮なお茶として受け入れられる可能性が十分にあると考えている。

 

因みにこちらのお店でも来客数は年々増えているという。だがそれは常連さんを基盤とした、高齢者の方々、特に奥さんを亡くしたおじいさんなど、話し相手を求めてきている人も多いらしい。それはそれでよい。お茶を通じた一つのニーズだ。ただ若者の将来は長い。彼らのニーズに合うお茶を是非開発して欲しいと願う。話しは3時間にも及び、その間お母さんは、もう一人のおばさんと2人で、ずっと手を動かしていた。この地道な努力はきっと実を結ぶだろう。

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高麗神社

既に夕暮れになっていたが、やはりどうしても高麗神社に行ってみたくなる。実はWさんは地元タウン誌の編集を長年やっており、そのこともあってか、数年前から『高麗郡建郡1300年記念行事』にボランティアで関わっているという。来年がその1300年に当たるようだ。

 

668年に滅んだ高句麗、その混乱の中で王族など多くの高麗人が日本へ渡ってきた。そして716年、武蔵国に高麗郡が置かれ、関東付近の渡来人はこの地に集められる。当時渡来人は高い技術力を持っており、それを利用してこの辺りを開拓したという。そして当時の高麗王、若光の遺徳をしのんで作られた霊廟が高麗神社のはじまりとされ、若光の子孫が宮司を務めている。

 

鳥居を潜り、参道を行く。そこには沢山の植樹がなされていた。日本の総理大臣経験者の名前もある。出世明神と言われているとかで、若槻礼次郎、斉藤実、鳩山一郎などがここに参拝後、総理大臣になったとある。ここに来れば総理になれるのか?皇族の参拝者も沢山いるようだ。勿論駐日韓国大使なども参拝している。高麗神社は実に不思議な神社、と言わざるを得ない。

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本殿は来年の行事に備えて一部改修中とのことだった。暗くなってきたので帰ろうとしたが、ちょうど人が通りかかった。Wさんがみなに挨拶している。と、一人の男性に紹介された。それが日高市の隣、鶴ヶ島市の市長だった。鶴ヶ島でも茶が採れるとのことで、ひとしきり話をした。鶴ヶ島は他の街よりさらに高齢化が進んでいるとのことで、危機感がかなりあるようだ。茶業の将来についても熱心に話している。

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完全に暗くなり、帰途に着く。高麗神社は駅からかなり離れており、またJRの電車がどのくらい走っているか分からないという理由で、Wさんの車で朝下りた武蔵藤沢駅まで送ってもらった。今回日高市に初めて行き、この付近の歴史には興味深いものがあることを認識した。お茶との関連性はないとのことだったが、またぜひ訪れた。

 

尚本日声を掛けた入間のK君から、直前になって『当日撮影が入ったので、行けません』とのメッセージが入った。その撮影とはテレビ東京の人気番組「出没!アド街ック天国」のロケだった。入間というより、彼のお店がある『ジョンソンタウン』の特集であり、後日番組を見ると、お店と彼が映っていた。

 

ジョンソンタウンは、元々米軍ハウスと呼ばれる平屋のアメリカン古民家で米軍の住居。米軍撤退後、平成ハウスと呼ばれる現代的低層住宅が建てられ、樹々の間に点在している。アメリカ郊外の街並を想わせる。最近はカフェなど、店舗として貸し出されており、そのおしゃれな雰囲気が受けている。入間にはこんな場所もあるのかと、前回訪れて感心した。因みにK君のお店はその中で唯一日本的な建物を保持しており、異彩を放っている。

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入間高麗茶旅2015(2)日高 巨大ラーメンと萎凋香

2.日高

駅前の巨大ラーメン

アリットを後にして、車は入間を離れた。今回Wさんから連れて行きたいお茶屋さんがある、とだけ聞いていたが、それが入間市内ではないことに少し驚く。日高市を目指していくという。そこには何があるのだろうか。予想とは違い、入間と日高はかなり近かった。この辺の距離感は私には全くない。

 

昼ご飯を食べていなかったので、お店の近くで食べようということになったが、なぜか蕎麦屋も食堂も閉まっているところが多かった。どうやら水曜日が定休日、というのがこの近辺の標準らしい。昨年も長崎で経験したが、日本の地方都市に行くと、このようなことに出会うことが偶にある。皆で一斉に休まなければお客さんも困らないし、商売にも繋がる、と思うのだが、慣習は何故破られないのだろうか。抜け駆け禁止なのだろうか。解せない。

 

JR川越線の武蔵高萩駅というところに来た。こんなところに駅があるのか。洋菓子の不二家が駅前にあるなんて、何とも昭和な感じがする。しかし駅前の食堂なども閉まっていた。これはもうどうしようもない、と思った時、駅の横にTというラーメン屋が見えた。ここしかないので入ってみると、お客は男性ばかり。メニューを見ると、普通のラーメンが800円、大盛りは1000円程度する。結構高いような気もするが、どうなんだろうか。他に選択肢はない。

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午後1時半前のこの時間でもお客が結構いる。とても忙しそうで、注文を取りに来てくれないので、こちらから声を掛けると、おばさんが何とか対応してくれた。ラーメンに卵を入れて、と注文した。老夫婦が2人だけで切り盛りしている店。ラーメンを作っているお父さんの表情はかなり険しい。Tというのはそんなラーメン店なのだろう。

 

ドンブリが運ばれて来てビックリ。その量の多さは並の大盛りではない。そこに卵など載せてしまったので、その器の中身には迫力がある。腹が減っていると頭では認識していたが、これを見て食欲が少し落ちた。それでもこれは義務として食べなければならない。味は正直分からなかった。ただひたすら食べることに集中した。その集中力が続かなくなるころ、何とか食べ終わった。なぜこんなに多いのだろうか?その理由を聞いてみたいが、そんな雰囲気はない。

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一緒に食べた女性のWさんは、当然ながら早々にギブアップしてしまった。何となくお客さんの視線がきつい。ラーメン好きの常連さんが行く店であり、素人さんは気をつけた方が良い、ということか。日本にはこんな店も多い。代金を支払い、早々に引き上げる。こだわりとは言いながら、どうなんだろうか。

 

ものすごく腹一杯の状態で、お茶屋さんへ行くのは、かなり危険だと思った。私は車には乗らずに、駅前から歩いてお店に向かった。少しでも腹をへこませたかったのだ。駅からすぐの道路脇には、昭和天皇の行幸記念碑というのが見えた。昭和16、17,19年の各3月に行幸しているという。第二次大戦中にここに行幸されている理由は一体何だろうか。どこにもそれは説明されていない。ただこの近くには高麗神社がある。何か関係があるのだろうか。

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備前屋さんで

駅前から国道に出て少し行くと、明治初年創業の備前屋というお茶屋さんがあった。Wさんの車が私を追い抜いて、駐車場に入った。狭山茶、という文字が見える。ここは日高市だが、名称は狭山茶に含まれるようだ。ブランド名、面白い。実際には入間や日高で作られているのに、狭山茶か。

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お店に入ろうとすると、後ろの事務所へどうぞ、と言われ、そちらから入る。すぐに目に飛び込んできたのは、姉さん被りをしたお母さんの姿だった。しかも彼女は枝取りをしていた。中国のお茶屋さんではよく見られるこの光景だが、この細かい作業を日本で見るのは初めてだった。正直ビックリ。お母さんは農家の出身ということで、昔から色々な農作業を経験しているのだという。

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この部屋のテーブルの上には湯を沸かす釜がセットされていた。ご主人のSさんが釜から湯をすくい、笑顔でお茶を淹れてくれた。なぜWさんは私をここに連れてきたのか、それはこのお茶を飲んですぐに分かった。私好みの煎茶なのである。何と言っても萎凋香がある。これは素晴らしい。

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萎凋香は世界中の高品質な茶に共通する、普遍的な「かおり」であるはずなのだが、日本の煎茶世界では『萎凋香は欠陥品』として、問屋は取り合ってくれない、売れない物だという話を聞き、本当に驚いてしまった。何ということだろうか。中国茶・台湾茶の世界に居る者としては、あり得ない話が日本ではまかり通っているように思えてならない。茶の個性を尊重しない?それは日本茶の世界だけでなく、日本全体の教育問題などにも繋がるものではないか、と思ってしまう。

 

備前屋では「やぶきた」と「ふくみどり」という2種類の品種を使って、天日で萎凋することにより、萎凋香あふれる煎茶を生み出している。鮮やかな「かおり」と甘みのある、のど越しの爽やかなお茶。実に好ましいと感じるのは私だけだろうか。こんな試みは嬉しい。

入間高麗茶旅2015(1)お茶博物館 アリットで

《入間高麗茶旅2015》  2015年10月22日

 

入間市博物館、通称アリットに初めて行ったのは確か10年前だった。ここは別名お茶博物館とも言われており、お茶関係の資料もあり、また知見のある方もいる。お茶大学も開かれている。茶旅に出てスグに一度お訪ねし、台湾で茶作りに関わった日本人のその後に関する資料を探したことがある。しかしここ4年はご無沙汰していた。

 

今年に入り、6月に久しぶりに入間へ行ったが、比留間園さんで6時間の長居をしてしまい、茶畑すら見ずに帰ってきた。9月にはアリットへ行き、資料室で参考図書を見る機会を得たが、どうしても分からないことがあり、更に話が聞きため、今回ついにあの人に会いに行った。

 

1.入間

博物館でKさんと

そもそも私を入間に導いてくれたのはWさんだった。10年前に香港で出会い、その後東京に戻った際に、入間のお茶関係者を紹介してくれるなど、大変お世話になった。5月のゴールデンウイークのお茶イベントには2年続けてお邪魔し、あの美しい茶畑に感動したり、茶作りの現場を見学したりと実に思い出深い。

 

最近また連絡が復活しており、今回はWさんの誘いで、入間入りすることになった。いつも行く西武線入間市駅ではなく、武蔵藤沢駅で待ち合わせ。これも最初の訪問と同じで、何となく懐かしい。あの時小学生だったお嬢さんは今は大学生になっているという。Wさんの車に乗せてもらい、アリットへ。

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平日の午前中、アリットはひっそりとしていた。受付で案内を乞うと、学芸員のKさんが出てきて、奥の部屋に案内してくれた。これまで何度かお会いしているKさんだが、これまではいつもイベント会場で挨拶する程度であり、直接に長時間、面と向かってお話を聞くのは初めてではなかろうか。

 

日本茶に関する知識は日本でも有数。そのお茶の交友関係も非常に広く、お茶関係者なら知らない人はない、日本中からお声が掛かる存在だった。私は初めてお会いした時、そのような有名人とはつゆほども知らなかったが、後で日本茶の本を読むと何回も名前が出てきて驚いたことを覚えている。何しろ気さくな方なので、そのようには見えないが、そんな人が本当は怖い(笑い)のだ。

 

Kさん自らお茶を淹れて頂いたが、それはご自分で作った烏龍茶だった。『定年になったら、お茶作りをしようと考えていた。近所の茶農家の畑を借り、製茶機械も借りられるんだが』というのだが、その夢は日本茶業界に必ずや阻まれるに違いない。恐らくはこのアリットにとって、いや日本にとって、手放すことができない人材として、一生涯、茶業の為に貢献されることだろう。Kさんに後継者がいるとは聞いたことがないない。それにしてもこの烏龍茶、福建の岩茶の梅の香りがほんのりする。どうやってその作り方を学んだのだろうか。

 

ここアリットの部屋には北限茶、という文字が見えた。先日行った新潟村上のことかと思ったが、実は更に北、秋田県の檜山茶というのがあるというのだ。村上同様、江戸時代からお茶が作られていたが、現在では既にほぼ生産する農家がなく、幻のお茶となっているが、アリットではこの茶のサポートをし、イベントも開催している。この辺もKさんの尽力が大きいようだ。

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江戸時代、庶民は一体どんなお茶を飲んでいたのか、または飲んでいなかったのか。具体的には『長屋の熊さん、八っさんの飲んだお茶は』という課題を抱えている私。この点について、色々な人に聞いてきたが、『そんなことは考えたこともなかった』という答えが多かった。時代劇の長屋の様子には必ず、茶を飲んでいる場面があるのだが、あれは一体何なんだろうか?

 

だが、Kさんは具体的な資料を提示して、その考え方を示唆してくれた。この辺りも多くの資料を読み込んでおり、普段から茶の歴史を十分に検討しているKさんならでは、と感心する。これまで幾多の講演会をこなしてきており、その膨大な資料の一部をご提供頂いた。資料と知識、その2つから話される内容には、非常に説得力がある。私のように手っ取り早く資料を集めて纏めよう、というやり方では、いつになっても足元にも及ばないことを知る。

 

午前11時に伺ったのだが、昼休みの時間も大いに過ぎて、2時間近くもお話を聞いてしまう。誠に申し訳ない思いだったが、私の方としては、実に収穫の多い訪問となる。Kさんのお邪魔をしてしまった訳だが、『今度は昼間じゃなくて、アフターファイブにしましょうよ』という温かい言葉を頂き、本当かな、と思いながら、博物館を後にした。聞くところによれば、Kさんは北国の出身でお酒は非常に強いらしい。お茶関係者にはお酒が強い人が多い、と台湾や中国では思うのだが、日本でもそうなのだろうか。果たしてこのアフターファイブ企画は実現するのだろうか?私は酒が飲めないが、是非とも実現したいと思っている。

 

北限のお茶を訪ねて2015(8)真野御陵でおじいさんに拾われて

バスが2時なので、小木を散策した。木崎神社の横を歩いていくと港へ出た。どんな風でも入港が出来た小木港は天然の良港だったと書かれている。今は静かな漁港。フェリー乗り場は別の場所にある。こちらの方が今はメインだ。小木からは直江津にフェリーが運航している。元々はこの便で直江津に行き、そこから東京へ戻ろうかと考えていたのだが、直江津からのバスは新潟ほどなく、日程上の都合から、新潟に戻ることにしていた。

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真野

2時のバスに乗り、もう一つ訪ねようと思った場所、真野御陵へ向かった。適当にこの辺だろうと降りると、そこは佐渡歴史伝説館という場所。そこから歩いたが、なかなか着かない。更に道が上りになり、結構疲れる。途中に石抱きの梅、という梅の木があった。これも順徳上皇が植えたと伝えられる。この辺は、なぜか豪邸が多い。庭も太宗立派な家、この財はどこから来たのだろうか。ようやく真野御陵に着いた。当然中に入ることもできず、ただ何となく外から眺めるだけ。承久の乱に敗れて22年間、この地で過ごして亡くなった上皇はどんな気持ちだったか。今も決して賑やかな場所ではない。当時は本当に寂しいところだったであろう。

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さて来た道を戻るのは疲れるなと思い、国分寺へ抜ける道はないかと、土産物屋で聞いてみた。すると、『素人には無理ね』とにべもなく言われる。御陵の横の道を山沿いに行けるようだが、表示もなく道も険しい。諦めようと立ち去りかけると『おじさんに送ってもらいな』と。すると、そこで話していたおじさんが『乗りな』といって軽トラを指した。

 

先ほど苦労して登ってきた坂を軽トラは軽快に走っていく。この方、70代だが、トレールに昨日、今日と参加した帰りだった。合計で20数キロを歩いたらしい。『国分寺へ行くバスが出ているところへ連れて行ってほしい』というと、『そこまで送っていくよ』と言ってくれる。申し訳ないが、成り行きで行ってみる。すると、突然道から外れる。

 

『そこに佐渡金山の金を運ぶ中継場があった』と言って、坂を上った家を指す。藁ぶきの古びた家が残っていた。こんな所まで人足が担いで運んで来たんだな、そして小木の港までも運んだのだな、という実感が沸いてくる。この家はもう使われていない。横には新しい家が建ち、人が住んでいる。『いずれは取り壊されるよ、市の史跡にも指定されていないし』とおじさんが小声で言う。

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車は国分寺跡へ。そこは何もない場所だった。まあ奈良時代の遺跡が残っている方がおかしいとも言えるので、これが自然だ。その少し向こうに、お寺はあった。現在の国分寺の建立は江戸初期らしい。なかなか雰囲気の良い場所。おじさんが『五重塔も見るか』というのでそこまで運んでもらった。妙宣寺には五重塔が確かにあった。順徳上皇配流に同行して、その後出家した北面の武士が建立したらしい。日蓮が流されてきた時はその危機を救ったともある。五重塔は1827年の建立、非常に保存状態が良く、写真を撮りたくなる雰囲気がある。境内は相当に広く、大小様々な建物がある。承久の乱に続いて起きた、後醍醐天皇の討幕計画、日野資朝は佐渡に配流され、処刑されている。その墓もここにあった。

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宿まで送るというおじさんの好意を断り、この寺で時を過ごし、バスで戻ることに。ところがちょうどバスが行ってしまい、歩いてその辺を散策することに。そこにも日野資朝の息子の逸話あり、大膳神社というところに能舞台もあった。何とも佐渡は侮れない場所だ。更に歩いていこうとしたが、疲れてしまい、少し待ってバスに乗り込み、佐和田へ帰った。

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夜は日曜日のせいか、近所で開いている店がなく、やっと見つけた店も常連さん相手に開いているところ。皆が酒を飲む中で黙々とカツ丼を掻き込んですぐに帰る。なんかとてもアウエーな感じで困る。カツ丼は600円でとても安かったのだが、みそ汁が妙に熱かった。

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10月19日(月)

帰り道

翌朝はゆっくり起きて、8時台のバスに乗り、両津へ。バスにはお客が乗っていたが、その中に2人、外国人がいた。フィリピン人だと思われる。一人は陽気なフィリピーノであり、話声が大きくなると、もう一人がシーっとやる。日本に慣れている。一人は来たばかりの学生、一人は何らかの仕事をしているように見受けられた。佐渡にも外国人が住んでいるんだな、いや、ここは昔各地から流れ着いた人たちが住んだ場所なんだ、と思いを巡らす。

 

両津でカーフェリーに乗る。今回は床にごろ寝、と思っていたが、どうやら社会科見学らしい、中学生の一団が大勢乗り込んできて、占拠されてしまった。仕方なく、椅子席に座っていると、今度は中国人観光客が数人やって来て、比較的大きな声で中国語を話し始めた。佐渡にも中国人の個人旅行客が来る時代か。

 

昼前に新潟に着くと、まずはバスで駅へ行き、Yさんに言われた黒糖饅頭をお土産に買う。続いて、駅そばを食べる。一口かつが入ったうどんを注文。うーん、別々に食べてもよかったかも。そして先日下りたバス停へ向かい、バスに乗る。今日は乗客が結構多かった。若者が多いが、何をしに行くんだろうか。

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バスに乗り込むと今回モニター画面は付いていなかった。バスによって一定ではないようだ。そして行きと同じように3か所のSAに停まる。ところが東京に入るころから渋滞に巻き込まれる。到着予定時間を過ぎたがどこを走っているのか全く分からない。結局30分以上遅れたが、運転手からは一言も説明がなく、お詫びの言葉もなかった。普段首都圏の電車では2分遅れればお詫びばかりしているが、このバスの対応はある意味で徹底されている。安いんだから仕方がないでしょう、といった態度が潔い。でも移動する身としてお詫びは要らないので交通情報は欲しい。このバスは東京駅行きだった。急遽参加することになった飲み会に行くため、新宿駅に急いで向かったが、大遅刻してしまった。

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北限のお茶を訪ねて2015(7)徒歩で往復した小木から宿根木

10月18日(日)

小木へ

今朝は朝から島の南の方、小木へ向かう。バスが限られているので、8:25発に乗るため、佐和田BSへ。中で待っていると、バスがやってきたが、何とそれは違うところへ行くバスだった。運転手が『今あっちから出て行くよ』というので、慌てて動き出したバスを停めて乗り込む。危ない、もし乗り損なうと1時間は来ないバスだった。このバスには数人の人が乗っていた。今日は日曜日だが、観光ではなく、地元の老人の移動が殆どだった。

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バスは佐渡の歴史的な場所、真野新町を経由して、1時間ほどで小木の港へ。ここは本当に静かで何もない感じ。Yさんから『必ず宿根木へ行って』と言われていたので、行くことに。ところが宿根木行きのバスは1日僅か2本、最初の便は12:25発だった。今はまだ9時半、3時間は長い。バスで小木から宿根木まで15分。これなら歩いて行けるだろうと歩き出す。

 

街は小さいが商店はある。かどや、という老舗旅館跡があった。尾崎紅葉が泊り、長塚節の旅行記にも出てくるという。大正まではあったが植木屋に転職したというのが面白い。お茶と書いてある店もあり、寄ってみたが『佐渡番茶』はなかった。佐渡では京都の煎茶などが飲まれており、番茶はとうの昔に廃れていた。最近復活したと聞いたのだが。お茶屋のおばさんは、そんなものがあるかという感じで『JAならあるかも』というだけ。港近くのJA販売所へ行ったが、『金井ならあるかも』とJA支社がある場所を口にした。残念ながら佐渡番茶は観光客の土産物として細々と売られており、地元には馴染んでいない。

 

宿根木を目指して歩く。小木の街外れに由緒正しそうな神社があった。そこからは街道沿いに歩いていく。1㎞ぐらい行くと、これもまたYさんから『海がきれいだ』と聞いていた、矢島経島という看板が見えてきた。まずはこちらへ曲がる。少し行くとお寺がある。何気なく覗くと、御所桜という文字が。佐渡に流された順徳上皇が都から取り寄せて植えた、と伝えられる桜。佐渡には配流地としての歴史もある。

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お寺から海を下りていく。そこには確かにいい景色が待っていた。たらい船が見えたが、観光客はおらず、係員すらいない。この景色を独占できるのならそれは素晴らしい。矢島と経島は赤い橋で繋がっている小さな島。矢島は矢を作る竹の産地、経島はやはり配流された日蓮の放免状を携えた高弟の日朗が途中嵐にあい、漂着した島、とされている。

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本日も天気がとても良く、そして水は澄んでいる。小木から小型船のクルーズ客がここまで来て、橋を潜っていく。島を後にしてまた国道に戻ろうとしたが、上り坂はきつい。何とか這い上がり、そこから3㎞、歩いていく。車の時々通るのみ。柿が植えられた畑が見える。田んぼの刈り取りも終わっており、如何にも秋の田舎の風景が広がっている。

 

宿根木から琴浦へ

宿根木は元々佐渡金山の繁栄期、江戸初期の廻船業の集落。江戸時代後期から明治初期にかけて全盛期を迎えた北前船の寄港地として発展した港町。その入り口には北前船が展示されている民族博物館が作られていた。レトロな郵便局、それから十王坂という坂を下って行くと、古めかしい町並みが視界に入る。ここは歴史保存地区。北前船は明治中期頃まで盛んであったが、輸送手段が鉄道にシフトすると姿を消し、宿根木も静かになっていく。街中には、北前船で財を成した船主などの家が残されており、船大工たちが造った建造物が密集している。舟板を利用した家、舟形の家、新日本紀行でも紹介された面白い飾りが軒下のある家など、100軒以上が保存されている。日曜日だが観光客は殆どなく、ひっそり。

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観光案内所があったので聞いてみると、『最近は人口も減り、バスの本数も減った』という。いい観光資源を持っているのに、何しろ不便。車で行ける人はぜひ行ってみるとよい。案内所の若者は『帰りも歩くのであれば、琴浦まで海辺の遊歩道があります。非常に自然が豊かなのでお勧めです』と笑顔で言われたので、従って行ってみる。

 

ちょっと行くと、前が岩で塞がれており、どうしてよいか分からない。遊歩道はどこだろうか。仕方なく岩に開いている穴(手で掘られたトンネル)を潜ってみた。向こうには月面のクレーターのようなうねりが見えた。進むと途中で道がなくなり、岩を飛び越えて行かなければならない。波の浸食と大地の隆起によってできた台のような地形は、「隆起波食台」と呼ぶらしい。これはもう私が思う遊歩道ではない。完全なアドベンチャーだ。

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確かに景色は素晴らしい。水も透き通っている。釣りをしている人がいたので声を掛けると『タコを採っている』という。釣竿を持っている人をあと二人見掛けたが、それ以外は誰もいない。ほぼ無人島に来た気分になる。途中に表示があったのだが、方向が少し間違っており、その表示通り進むと、何と崖を登らなければならず、何とか這い上がると降りる道はなかった。木や草をかき分け、道を見つけ降りていく。もうサバイバルレース並だ。

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結局石切り場を経由して、何とか琴浦の浜にたどり着く。これは本当に体力を消耗した。この場所は、研究者は大喜びだろうが、一般人がちょっと歩くには少し厳しいと思う。琴浦はダイビングスポットらしいが、今はお客もなく、老人が日向ぼっこしていた。そしてまた急な坂を上がり、国道へ戻る。ここで完全に体力は尽きた。後は気力で、小木を目指す。

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小木でランチ

12時過ぎにようやく小木に戻ってきた。ちょっと待てばバスでも戻れたはずだが、その間の体験はバスの15分には代えがたい。往復10㎞近く、岩を越える、急な坂を上がるなど、相当にきつかった。腹も当然減る。ランチは創業200年の七右衛門へ行くようにと言われていた。道を歩いている人も殆どなく、果たして蕎麦屋がやっているのかと疑念が湧く。

 

メインの通りを歩いていく。その店がある場所も知らず、開いている店あまりもなく、不安が募る。すると突然目の前にその店が。明治期に建てられた、さり気ない店構え。暖簾がかかっていたのでホッとして中へ入る。お客が一組いた。おばさんが『いくつ?』と聞いてくる。この店にはメニューはない。商品はざるそばだけ。取り敢えず2つ頼んでみた。

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そばとねぎが載った小ぶりのどんぶりが出てくる。汁は河童のマーク。麺は石臼でひくとか。非常にいい感じ。汁はあご出。最近ハマっておりとても喜ばしい。これは確かに癖になる味だ。いつの間にかお客さんがどんどん入って来て、満員になる。地元のおじさんたちも食べている。老夫婦がやっているため、もうすぐ閉店してしまうのではないか、との噂もあるという。このような店はぜひ残って欲しいと思うが、後継者はいないのだろうか。

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北限のお茶を訪ねて2015(6)佐渡金山から歩く

佐渡金山へ

佐渡へ来たらまずは佐渡金山へ行くべし。ということでバスの時間を見ると、路線バスは本当に少ない。一般観光客はやはりレンタカーを使うのだろうか。仕方なく時間まで海辺へ行ってみる。確かに海は青い。天気が良いので良く映えている。街は相当に古い。この小さな街で、飲み屋の看板がやけに目立つのは海の男が多いからだろうか。バス停の建物になぜか伊勢丹が入っている。もちろん土産物専門だが、こんなところに何故伊勢丹が?謎だ。

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バスがやって来て乗り込んだが、乗客は殆どいない。金山までは途中海岸沿いを行き、そこから山沿いに進んでいく。最後は結構上って到着する。チケット売り場へ行くと、江戸と近代の2つのコースがあるという。バスは1時間後と2時間後の2本で今日は終了となるので、2時間後のバスに乗るべく、2つのコースを行くことにした。合計料金1200円はかなり高い。

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まずは近代コースの方から。こちらは機械化された明治以降の展示。坑道も明るく、トロッコが通るなど、近代的な造りとなっていた。坑道を歩いていくとスーッと冷気が走るとことがある。鉱脈は8本あり、その最大のものが『道遊の割戸』と呼ばれている。ここでは平成元年まで採掘が行われていたようだ。

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取り敢えず一気に歩いていくと坑道を直ぐに抜けてしまい、明るいところへ出た。ここには当時使われていた機械などが展示されていた。案内を見ると、ここから少し登ると、道遊の割戸が実際にあるというので、上ってみた。確かに岩が大きく割れているが、ここに金が埋まっていた、という実感は沸かない。小さな神社が祭られており、そこに微かに貴重な物、という認識を生み出せる。そしてまた小さな坑道を抜けると、土産物店があり、近代は終了した。

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次に一気に江戸コースへ向かう。こちらは坑道も狭く、暗い感じだが、所々にライトアップされた人形が浮かび上がり、その作業状況が見て取れ、その大変さがよく理解できる。この採掘作業はどう見てもかなりの重労働。確か佐渡送りになった犯罪者が労働者として使われたと聞いていたが、実際にはその数は少なく、各地から仕事を求めてきた人々が作業に当たったらしい。こちらも一気に通過してしまい、2つのコースを1時間で見てしまった。

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ちょうどバスが来たので乗り込んだが、これで帰ってしまっては如何にも面白くない。1つ目のバス停付近は佐渡奉行所などがあるようだったので、そこで降りてみる。また1時間後にバスに乗ればよい、そんな気分だった。だが、この付近は皆後から作られた観光用施設で面白みは薄かった。バスは来ない。仕方なく、小道を歩いてみた。するとちょうどトレールをしている一団とぶつかった。今日、明日は佐渡で大きなトレール大会があるようだ。

 

トレール組が来た方に歩いてみる。彼らは長坂という名の海に向かった、眺めの良い下り坂の階段を下りていく。その先には旧家を改造した休み処があった。鐘楼もあった。更に行くと、京町通りという細い道があり、両脇に昔の風情を残す。この相川という場所は佐渡金山の街であり、昔はかなり栄えていたのだろう。古い寺なども見え、その歴史を感じさせる。

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歩いて下り、海沿いに出る。とても疲れていたが、相川の街はとても静かで、お茶を飲むようなところもなかった。陽が西に傾いていく。相川支所というこの街に不釣り合いな役所があり、その横のバス停からバスに乗っていく。佐和田BSまで、ゆっくり戻る。乗客は殆どいなかった。1つ前のバス停で下車して、散歩してみる。落ち着いた街並みがいい。バスチケットについていたクーポンが使えるお菓子屋を探したが、見付からなかった。とても残念。

 

佐和田で

佐和田の宿の近くまで来ると、諏訪神社がある。いい感じの古さだ。その横の商店街では何やらお祭りかイベントが行われていたが、既に夕暮れとなり、片づけも終わろうとしていた。そこへ足を踏み入れると、向こうから携帯を持って話しながら通り過ぎた人がいた。どこかで見た人だな、と思って通り過ぎたが、何とそれは拉致被害者の曾我ひとみさんだったことをあとから思い出す。

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確かに曽我さんは佐渡の人。そして佐渡で拉致され、未だにお母さんは見つかっていない。彼女の人生は激動だったと思うが、今は地元で普通の生活をしているだけ、なのだろう。ある意味では、それはホッとする光景だったが、彼女は誰にも言えない、解決できていない色々な問題を抱えているのかもしれない。しかし一体誰を責めれば良いというのだろうか。

 

相当に疲れた足を宿で休め、夜また外へ出る。大きな道沿いを行くと、来年大型ショッピングセンターの開設を目指して、工事が進んでいた。佐渡もこれから発展していくのだろうか?夕飯は得意のB級グルメを食べたいと思ったが、なかなか見付からない。歩いていると、肉つけうどん、という名前が目に飛び込んできた。これが食べたい、と思い、中へ入る。

 

店内はかなりきれい。店主はなぜか本日の定食を勧めてきたが、それを断り、初志貫徹、肉つけうどんを注文した。店に客は1人しかいなかったが、出てくるのに結構時間がかかる。手間をかけて作っているようだ。出てきた麺はうどんだが、野菜がタップリと乗っており、まるでタンメンのようだった。和中折衷の食べ物ということだろうか。つけ汁はカツオと煮干しでだしを取り、そこに肉みそが入っている。これは一体誰が発明したのだろう。中華と和食の見事なコラボだと思うのだが、中華料理を知らなければ出来ない。中国人は関与していないのだろうか。満腹になって外へ出て、小さなスーパーで飲み物を買い、宿に戻った。

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北限のお茶を訪ねて2015(5)フェリーで佐渡へ渡る

10月17日(土)

4.佐渡

佐渡へ

朝早く起きて朝食を食べる。今日は団体さんの利用があるので込み合うとのことだったが、特に人はいなかった。既に食べて出て行ってしまったのだろう。日本の団体行動は実に素晴らしい。今日も朝食をモリモリ食べた。どう見ても昨日から食べ過ぎなのだが、米が美味しいせいか、いくらでも入ってしまう。

 

そして宿をチェックアウトして、新潟駅へ。駅から佐渡汽船の港までバスが出ていると聞いたので、行ってみる。バスターミナルには時刻表の時間より早く既にバスが来ていた。今日は土曜日で佐渡へ行く人が多いのか、臨時便のようだ。私は佐渡行きのフェリーチケットすら取っていない。大丈夫だろうか?ちょっと不安になる。バスは満員の乗客を乗せ、港へ向かった。

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15分ほどで港に着くと、すぐに切符売り場へ向かう。佐渡へ行くフェリーはジェットホイールとカーフェリーの2つがあった。思わず一番安いの、というと、カーフェリーの2等を売ってくれた。それでも片道2380円。これがジェットホイールなら6390円だから大違いだ。カーフェリーは9:25発で11:55着と2時間半かかるが、ジェットホイールは1時間で着いてしまう。まあ、暇な旅だから、適当に行こう。

 

すでに多くの乗船客が乗船を待って並んでいた。しかもその多くが観光客とはとても思えない黒っぽい服を着ている。何か島で大きな葬儀か法要でもあるのだろうか。フェリーはかなりの大型船。カーフェリーだから当然か。

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船内に入ると、2等は座席と床の2つがあった。私は座席に座ったが、慣れている人々は毛布などを持ち込み、さっさと床で寝転がっている。私も帰りは寝転がろうと思う。今日も天気が良く、外の風に吹かれながら、眺めを楽しんでいる人もいた。中には屋上で、海燕?に餌をやる人の姿も。船内には簡単な食堂から、ゲームセンターまである。見学しながら過ごす。

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定刻に両津港に到着した。さてこれからどうするか。観光案内所に行ってみたが、あまり役には立たなかった。取り敢えず地図をもらい、真ん中の街まで行けば何とかなるだろうと思い、2日間乗り放題2000円のバスチケットを買おうとしたが、よく分からないから、バスの窓口へ行けと言われる。窓口では2000円のものはもう売っていない、今は2500円だという。

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貰ったパンフに書かれた内容と違うことは日本国内で何度か経験しているが、このようなことは速やかに改訂してほしい。よく見ると2500円のその券には500円のクーポンが付いており、買い物ができるとなっていたが、佐渡金山の入場料には使えないとのことで、結局その分損をしてしまった。地元の事情は良く分かるが、それならもっと買い物しやすい環境が欲しい。

 

宿捜し

ともかく両津から佐和多へ行くバスを待つとすぐにやってきた。だがバスの乗客は少ない。先ほどの団体を含めて、基本的に観光客はツアーバスに乗るのだろう。私のような路線バスに乗る者は観光客ではないのだろうか。佐和田までの40分、民家はそれなりにあったが、田んぼが多い。

 

佐和田のバス停で下りたが、何とも寂しい街だった。貰った観光案内に出ていた宿へ行ってみようかと思ったが、バス待合室の横に旅行会社があったので、そこで聞いてみる。伊勢屋という旅館なら、素泊まり5000円だという。他は食事が付いてもっと高い。なんとなくいい感じだったので、そこで予約して言われた通り歩いていくと10分ほどで伊勢屋に着いた。

 

伊勢屋の建物は私の想像した旅館にイメージ通りだったが、連れて行かれたのはそこから3分ほど離れたワンルームアパートの一室だった。素泊まり1名の場合、伊勢屋がやっているアパートに入れるらしい。これは何とも面白い。宿の女将によれば、ここは温泉もない場所で近年観光客の泊りは少ないが、ビジネスで来る出張者が比較的多いため、長期滞在もできる、このような形をとっているという。

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確かにこのワンルームで、キッチンもあり、バストイレももちろんあり、部屋も新しく、Wi-Fiも完備され、ベッドもフカフカしていて、妙に居心地が良い。言わなければ掃除に来ないので、全く独立して泊ることができる。面白いコンセプトだ。地方都市ではアパートの空いている部屋も多いと聞く。このような形態にして外国人に貸し出すのも1つの案かもしれない。

 

北限のお茶を訪ねて2015(4)村上の鮭

鮭料理

Iさんに連れられて、鮭料理を食べに行く。とても立派な料亭に入る。村上に数軒ある鮭料理の店はどれも老舗で、その歴史は相当に古いようだ。中庭などもあり、ここも奥行きが相当に広かった。その個室に入ると女将が自ら村上鮭の歴史や料理について説明してくれた。村上は鮭が名物。三面川は古来より鮭魚産卵孵化の川だったが、明治に入り、天然種殖場の外、孵化場を本町堀片に設置し、漁獲高が多いに上がったという。村上の一大産業である。

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鮭は頭から尾っぽ、内臓まで何ひとつ捨てるところが無い滋養食。いくらや刺身は勿論、鮭を使った酒びたし、ルイベ、腹子、すっぽん煮など、非常に手の込んだ料理がきれいに並べられていた。酒飲みには堪らない、つまみにちょうどよい品々だろうと思う、鮭尽くしのメニューとなっていた。味にコクがある。これで新潟の地酒を飲めば、さぞや気持ちの良いことだろう。鮭は焼くのが一番、と思っている私などは、村上では笑い者かもしれない。

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食後、今度は鮭の商品を売る店へ行く。店の名は喜っ川(きっかわ)。あの吉永小百合がこの店の前で撮影したJR東日本の「大人の休日倶楽部」のCMの場所としてもかなり有名だと聞いた。休日にはここで吉永小百合と同じポーズで記念撮影をする観光客が大勢いるという。

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古い建物に入ると、100種類以上の鮭商品が並べられている。我々はそこ通り過ぎ、ズカズカと奥へと進む。何とそこには千匹もの鮭が1年もの間天井から吊るされ、乾かされている。腹は既に割かれて内臓は取り出されている。何故頭を下にして吊るすのか。また腹は完全に割かず、間で止めてある。武士の街では、切腹は忌み嫌われるためだという。それにしても何という豪快な眺めだろうか。秋鮭が最高だというが、まだちょっとシーズンには早かった。鮭に塩を丁寧に塗り込み、1週間漬けて、今度は塩抜きをして、1週間陰干しすると塩引きが出来るという。塩加減と熟成の味が決め手だという。

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江戸時代、村上藩の主要な財源となっていた鮭。後期になると、だんだん不漁になり、藩の下級武士・青砥武平次が世界ではじめて鮭の「回帰性」を発見。その性質を生かし、三面川に産卵に適した分流を設け、鮭の産卵を助けることで鮭の回帰を促した。世界初の「自然ふ化増殖システム」。三面川の鮭の漁獲高は飛躍的に増え、藩の財政も潤い、村上は鮭の街としての地位を確立。

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今は北国の小さな街にしか見えない村上だが、その食文化、伝統文化はかなり色濃い。そして驚くほどの豊かさが感じられるのは、歴史のなせる業だろうか。時間の関係で鮭とお酒、そしてお茶だけを見て新潟に戻ることになった。電車で来ることも出来るようなので、次回はもっとゆっくりこの街を歩こう。

 3.新潟2

Iさんの車で送ってもらい、新潟市へ戻り、川沿いにある新潟市歴史博物館で別れた。この博物館もがっしりした立派な建物だった。中には新潟の歴史が展示されており、特に幕末開港以降の歴史を中心に見た。新潟市は阿賀野川と信濃川の大河2つが交わる要所。そして日本海を経て朝鮮半島やロシアに繋がる場所。ここから大陸に旅立った人も多かったのではないか。何となく逃避行とか、共産党という文字が頭に浮かぶ。1955年に新潟大震災があった。その後防災都市として、復興していく。街が比較的整然としているのはそのためだろうか。

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博物館の前にはもう一つ石造りの立派な建物があった。Kさんが勤務していた銀行の支店をここに移したという。1階には銀行カウンターがあり、2階には金庫もあった。更にもう1つ、新潟税関の建物もこの敷地内にあった。城の櫓と洋風の窓、擬洋風建築、幕末開港された税関の中ではここだけ建物が残っているという。明治初期、この税関はどれほど機能したのだろう。

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それからブラブラと駅の方へ歩いていき、居酒屋へ入る。夕方5時でも結構お客がいる。今日は花金、という言葉はまだ死語ではないのか。いや、午後5時に来る客はサラリーマンではあるまい。今や退職した世代が早めに飲み始めるため、時間帯が早くなっているようだ。店員の若い子も、おじさんの扱いに慣れているのがその証拠ではないだろうか。愛想がいい。

 

Kさんが『新潟市のものではないが、〆はへぎそば』で言い、居酒屋を出て、蕎麦屋へ行く。確か昔1度食べた記憶がある。へぎそばは、新潟県魚沼地方の発祥、つなぎに布海苔(ふのり)という海藻を使った蕎麦をヘギといわれる器に盛り付けた切り蕎麦のことをいう。2人でこんなに食べるのかと思ったが、あっという間に平らげてしまった。何とも贅沢な夕食をKさんにご馳走になる。今回は大変お世話になってしまった。

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駅でKさんと別れ、ホテルへ戻り、陶板浴を体験する。サウナのようなものだが、陶板の上に寝転がっているだけ。そのうち体が温まり、汗が出てきた。皆携帯を見たり、何かを読んだり、ただ眠ったりと、まさに思い思いの体勢でジッとして、この空間を利用している。40分ほどして出て、シャワーを浴びると、体がふわっと軽くなった印象がある。これなら風邪気味の昨日も利用するべきだったと後悔したが後の祭り。睡眠も少し深くなったように思う。