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京都・名古屋茶旅2016(1)和束は奈良が近かった

《京都・名古屋茶旅2016》 2016824-29

 

オリンピックが終わった。16日間は長かった。外へ出たいという気持ちが強かった。実は今年は茶旅報告会を少し多く行う予定でいた。特に東京以外で呼んで頂き、日本国内の茶旅を進めようという狙いがあった。アイドル並みに??全国ツアーに打って出ようとしている。既に札幌で4月に行い、6月には静岡でも行った。

 

京都は年に一度は行きたい場所だった。金閣寺近くのISO茶房さんには昨年もお世話になったが、またあそこへ行きたいと思っていた。そしてついに茶旅報告会を開催する運びとなった。関西での開催は初めてであり、どうなるのか見当もつかなかった。

 

824日(水)
1.    和束まで
バスタ新宿から

スリランカ繋がりのYさんから、『京都へ行くなら、おぶぶ茶苑へ行ったらどう』と声を掛けられた。この茶苑、色々なところで名前を聞いていた。連絡してみると、25日の訪問はOKとのこと。ただ午前10時に来てほしい、と言われ、電車やバスの時間を調べると、どうも朝東京を出たので間に合わない。かと言って前日京都に行くのもどうかというタイミングだったので、夜行バスに乗ることにした。3月のシベリア鉄道の旅以来、夜行、というものに恐怖感はなく、勿論日本のような快適な空間であれば、一晩ぐらい何ともないと思うようになっていた。

 

現在新宿発の夜行バスの大多数は新しくできたバスターミナル、バスタ新宿から出ているらしい。折角なので、どんなところか見学方々、バスタ発で行ってみることにした。何とか安いバスを探したが、以前乗ったような京都まで2000円、と言った価格のバスは既に無くなっていた。例のスキーバス事故以来、夜行バスに対する規制が厳しくなったに違いない。今回は和歌山行のバスに乗り、京都駅で降りることになった。

 

バスタ新宿は夜10時でも相当に混んでいた。座る席もなく、立っている人も多い。評判の悪いトイレは男子用は空いており、難なく用を済ませた。バスの発着場に行ってみると、これでもか、というぐらい頻繁にバスが出入りしており、一体どれに乗ればよいのか迷ってしまうほどだった。バス需要の大きさを改めて感じる。夏休みの終盤ということもあり、家族連れや学生の利用が多く見られた。やはり新幹線は高過ぎるのだ。このようなオプションがあることは旅人にとって大いに救いである。

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さて、私の乗るバスも出発時間ぎりぎりの23時前にようやくターミナルへ入ってきた。何人もの人が並んでいたが、満席ではなかった。私の席は3列シートの真ん中。個室のようにカーテンで仕切ることができたが、窓側の人々もカーテンをしているため、外は全く見えなかった。カーテンというより、何となく蚊帳の中にいるような気分だった。携帯の充電は出来そうだったが、差し込んでも電気は来なかった。周囲の若者は携帯電池も持ち込んでいるようで、皆構わず、スマホをいじっている。

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バスは高速を順調に走り、足柄SAで休息した。出発して僅か1時間ちょっとなので、これは運転手の休憩だと思われる。まあ一応外の空気を吸おう、ということで、トイレへ行く。ここで30分ほど停まった後はもうどこへ停まらず、一直線に走っていたようだ。私はぐっすりと眠りに就き、起きた時はもうバスが京都に入っていた。そこからが少し長く感じられたが、午前6時前、夜明けの京都駅に無事に到着した。

 

825日(木)

大雨でストップ?

朝の京都駅は清々しかった。朝日が昇るのも見え、何となくいい気分で朝を迎えた。トイレを探して入る。トイレは殆ど和式しかない(新幹線内などは洋式かも)。外国人は苦労するだろうな。それからJR奈良線を探す。何となく掲示板を見てびっくり。奈良線の後、乗り換える予定の関西本線は、大雨のため遅延しているというのだ。大雨、どこで降っているのだろうか。駅員に尋ねると『お客さんが行くところまでは動いているようです』とは言われたものの、何となく不安になる。

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そもそも、今回の目的地、京都というより、どう見ても奈良が近い。なぜ私は京都を目指して来てしまったのだろうか。悔やんでも仕方がない。まあ私の旅だ、そんなものだろう。6時台の奈良線で見慣れた景色を見ながら進む。宇治まではすでに何度も乗っている路線だった。だがそこから先は未知の世界。駅名にも山城などというのが出てきて、何となく地理を理解した。山城国とは、平城山の後ろ、という意味だったとか。やはり奈良が近い。

 

木津という駅で乗り換える。心配した関西本線、一部徐行しているようだが、加茂駅までは定刻通りだった。雨は全く降っていない。加茂駅までは一駅、8時過ぎには到着したが、バスは30分以上来ない。しかもその次のバスは2時間後。このため、10時に行くにはこのバスに乗るしかなかった。手持無沙汰で周囲を散策したが、駅付近には何もなかった。歩いて数キロ行けば、古い寺や聖武天皇が短期間遷都した恭仁宮跡(山城国分寺跡)などもあるようだ。今度時間があれば、是非行ってみたい。

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藤枝から愛知へ流れていく2016(5)醤油、みりん、そして常滑

67日(火)
醤油やみりんや

翌朝は朝からTさんが茶を淹れてくれる。お茶好きが集まると、気楽なお茶会がすぐに始まるのが嬉しい。彼は日本に20年住んでいた人で、ある意味では日本人以上に日本に詳しく、またお茶への造詣も実に深い。今はワルシャワに帰っているが、今回も日本滞在中に様々な場所を訪れ、日本を体感しようとしていた。その後は中国へも入り、お気に入りのお茶場を訪問するらしい。すごい情熱だ。

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本日彼はこの三河地方で、醤油屋さんやみりん屋さんへ行くという。面白そうなので、Iさんとともに付いていくことにした。運転はKさんという女性がやってきて担当してくれた。彼女は自然保育のような活動をしているという。『えこども=絵+子ども、エコ+子ども、笑顔+子ども。世界の素敵な人々と創造力溢れる保育』。何だか面白そう。Iさんのところには色々な人が集まってくる。

 

Tさんたちは約束の時間があるので先に出掛けていた。我々は追い掛けていく。車は碧南市というところへ入る。周囲には古めかしい家が並ぶ。事務所ではTさんと日東醸造の社長が面談していた。突然押し入る形になり恐縮。醤油屋さんと聞いていたが、出てきたのは『しろたまり』という商品。日本で醤油を名乗るには大豆を原料として使わなければならないが、こちらでは小麦を使っているので、そのような名前になっていると説明を受ける。

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製造場所が『足助』と聞いて、Iさんの目が輝く。実は寒茶作りをしている場所だったという。兎に角水がいい。空気が言い、環境が抜群だと社長もIさんも言う。木の樽で天然醸造、などと言われると、それだけですごい商品に思えてくる。是非一度足助、という場所には行ってみたい。創業1938年の老舗である、この会社のこだわりがTさんをも驚かせている。

 

続いて向かったのはみりん屋さん。道が狭く、どこから入るのか迷う。背の高い煙突が目印。明治43年創業の角谷文治郎商店。外国語ができる社員がきちんと対応してくれた。勿論Tさんは日本語堪能なので、会話は日本語だったが。三河みりんというのは、原料にしょうちゅうを使い、醸造期間も1年以上で、他のみりんとは違っている。工場を見学すると、もち米が大きな容器に入れられ、蒸されていた。

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みりんを試飲した。まるでリキュールのようにほんのり甘く、濃厚だった。リキュールグラスで飲むとその印象が一層増す。これはちょっと衝撃。製造法を聞いていても、焼酎を使って発酵を抑制するなど、何だかこの辺の商品はお茶に繋がるものがあるようにも思える。最近はみりんがマクロビに使われるなど、その効能にも注目が集まっているようだ。それは大規模大量生産ではなく、伝統製法で作られるみりんにのみ適用される。

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茶の旅で歩いている私だが、このような日本の伝統製法に触れると、その良さが実感でき、茶のみならず、その作り方、こだわりを十分に理解して、消費者としてそれを守っていく必要があると強く感じる。大量・安価な商品に流されてはいけない。Iさんのように料理が得意で、食材にもこだわりのある人だけではなく、一般人が少し昔に戻らないと、良い方向には行かない。

 

常滑

Tさんたちと別れて、車は常滑へ向かった。先日お知り合いのWさんから『ぜひ常滑へ行って』と言われたのだが、焼き物に興味があるわけでもなく、知る人もないので、当面行かないだろうと言ったばかりだったが、なんとその舌の根も乾かないうちに、常滑に連れてこられてしまった。これもご縁というのだろうか。

 

常滑へ行ったのは、焼き物を見るというよりは、ランチを食べに行ったという方が正しい。車で常滑の街を通ったが、焼き物屋さんが目立つなというぐらい。ただ聞いてみると、以前はこんなに店はなかった。特に日本茶が売れない原因の1つが急須離れだ、という意見もあり、急須の産地には打撃が大きかっただろう。確かに焼き物は売れなくなっていたのだが、努力して、店が増えて行ったのだという。確かに中国人や台湾人が日本の焼き物に関心を示しているとはよく聞くが、そういう外国人パワーのお陰なのだろうか。

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常滑屋さん、という、古民家を改造したレストランに入った。何とも雰囲気の良いお店。平日だがお昼は混んでいるようだった。ランチはハヤシライス。器がよい。ご飯ができるまで、オーナーにお話を聞く。常滑の急須を愛し、陶芸家さんを支え、育ててきた様子がよくわかる。常滑の復活?はやはり地道な努力による。そしてこれから、更に発展していけるかどうか。2階には焼き物のほか、地元の商品などが置かれており、買い物ができる。今回は心の準備がなく常滑に来てしまったので、次回はもう少し落ち着いて街歩きがしたい。

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すぐに時間は過ぎていく。車で名古屋駅まで送ってもらう。常滑は空港セントレアからもかなり近く、名古屋駅へも遠くはない。1時間程度で行くことができるので、今回は名古屋駅から新幹線で東京を目指すことにした。

藤枝から愛知へ流れていく2016(4)カレーを食べて、迷子になって

 ようやく見つけたそのお店、週末の家族連れで混んでいたが、何とか席を見付けて座る。従業員を見ると全てインド人に見えたが、彼女は『全てネパール人』と小声で教えてくれる。それでもヒンディー語がなんとか通じるようで、色々と話していたのは良かったのかもしれない。出てきたカレー、インド中部出身の彼女にとっては、北部中心の料理は少し味が違っているようだったが、それでもお腹が空いているのか、どんどん食べていた。

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因みにインドでナンを食べている人を殆ど見ないが、日本ではチャパティを見ることは殆どない。インドではナンはチャパティの10倍するのに、日本ではなぜ同じ値段なのか。一口食べて『これはナンでなくて、パンですね』と彼女は看破した。帰る時に明日からの食糧としてチャパティをテイクアウトし、取り敢えず食べられそうなものを確保した。それにしても『日本では父親や母親までもが、子供の前でアルコールを飲む』というのに、ちょっと違和感があったようだ。インドのファミリーレストランではアルコールは一切出ない。

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大学のある駅まで戻り、寮に帰る前に、スーパーを探した。そこでも食べられそうなものを物色して、買い求める。食材に注意しながら、いくつか買っていたが、これは結構大変な作業だった。バンコックやハノイで出会ったインド人が、『大きなスーツケースを持っているのは、中にチャパティなど大量の食糧を入れているから』と言っていたのが、ようやくわかった気がした。ことは好き嫌いとか、我慢すれば食べられるとか、そういう次元ではないので真剣にならざるを得ない。ハラール食品などが注目されているが、インド人のことも考えて上げて欲しい。

 

家が見付からない

彼女と別れて、Iさんの家へ向かう。ここで急に心細くなる。名古屋までは車で連れてきてもらったが、新安城までどうやって行けばよいのだろうか。兎に角地下鉄で金山という駅へ行き、そこで乗り換える、と言い聞かせた。名鉄のホームへ行くと、電車が入ってきたが、新安城に行くのかどうかわからない。各停も来れば、急行も来る。どれに乗るのがよいのだろうか。

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取り敢えず急行に乗り込むとどうやら止まるらしいと安心した。30分後、下車。ここまでくれば大丈夫と思ったが、何と駅から家に行く道が分らない。駅のどちら側へ出るのだろうか。確か携帯に情報をもらっていたと思い、見ようとしたが、既に電池切れだった。あとは記憶を辿るのみ。駅から線路に近い道を行けば、と歩いたが反対側に出たようだ。更には目印の会社があったはずだが、見付からない。それが何とか出てきたが、最後に家に着けない。なぜだろうか。目印の車がないのだ。何とその車は昼間と反対向きに駐車されており、暗くて見えなかった。また近所の家も住所表示をしているところが殆どなく、何となく住所を思い出しても役に立たなかった。

 

駅を降りてから50分後、汗だくになって家に入った。そこにはSさんも待っていてくれた。『なんで電話しないの?』と言われたが、電池が切れると何もできないことを痛感した。二人は今晩豪華な食材を買い、美味しい夕飯を食べていた。私は疲れてしまい、しかもカレーで腹も一杯、何も食べられなかった。何とも損した様な気分になり、お風呂を借りて入り、布団を敷いて寝てしまった。

 

66日(月)
日がな休息

翌朝はゆっくり起きた。今日はもう用事がないので、東京へ行くだけだった。ところが朝、Iさんが『今晩、ポーランドのTさんが泊まりに来るよ』という。実は彼には7月にポーランド、チェコ、ジョージア、ウクライナに行きたいとお願いしていたが、その話ができていない。更には先日の幸之松さんのご夫妻もポーランドに和食を披露しに行くので、一緒に行かないかと言われ、話が混乱していた。ここで話をするのがよい、ということになり、Iさんには申し訳ないが、もう一晩お世話になることにした。

 

朝ご飯は何と茶粥を作ってくれた。茶粥と言えば、昨年Iさんのアレンジ、Sさんの運転で行った四国茶旅が思い出され、懐かしい。Iさんはいとも簡単に料理を作ってしまうが、なかなか手間がかかるものだ。朝から美味しいご飯を頂き、満足。そして部屋で旅行記などを書いて過ごす。お茶を飲みに降りてくると、やはりまた四国の話となる。四国の晩茶、碁石茶などの後発酵茶はなぜ存在するのか、四国にはどういう人々が海を渡ってきたのかなど、色々な本の紹介をしてもらった。

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お昼御飯も昨晩のご馳走の残りを十分堪能した。こんな生活でよいのだろうか、と思うほど、ゆったりして、美味しいものを食べて、知識を吸収した。午後もこのペースでダラダラし、夕飯もまた美味しく頂く。Tさんたちは一体いつ来るのだろうか。彼らが到着したのは午後9時、それからご飯を食べて、お茶を飲む。そしてポーランド行の話をし、結果的に私の旅は10月以降に延期となる。お客さんがたくさん来るのに、彼が一人では対応できないからだ。

藤枝から愛知へ流れていく2016(3)茶心居、そしてインドから来た娘

 このお店、外観から見ると街の喫茶店のようにも見えるが、中に入ると、プーアル茶などが並んでおり、かなりのこだわりが感じられ、普通の喫茶店ではないことが分かる。そしてその中にSさんやGさんのお茶が置かれている。店内はこじんまりしているが、居心地のよさそうな空間だった。常連のIさんが『お茶下さい』というと、何も言わずに香りのよいお茶が出てきた。『スイーツは』というと、美味しそうなスイーツが出てくる。

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店主のTさんは15年ほど前にこの店を開いたというが、ミュージシャンでもあると聞き、驚く。そして料理もうまいらしい。こだわりは強く、茶に関する知識も豊富だ。こんなお店が名古屋にあるのか、と感心する。この周辺のお茶好きが集まるサロンのようだった。ゆっくりお話を聞きたいと思ったが、今回は突然の訪問でもあり、また次の約束の時間が迫っていたため、先に失礼してしまった。とても残念な思いが残った。次回ここに来るのはいつなのだろうか、果たして再訪の機会はあるのか。

 

後ろ髪惹かれる思いで店を出て、Sさんの車で大学まで送ってもらった。住宅街を曲がりくねり、最後は少し坂を上った。確かに近かったが、3㎞以上はあり、とても歩いていけるような距離ではなかった。その正門で待ち合わせていたのは、あのインドでお世話になったラトールさんの娘、ナイニーカだった。彼女は正門の前で心細そうに立っていた。2年ぶりに見る彼女はかなり大人びており、背もすらっと高くなっていた。

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インドから来た娘

ナイニーカと最初に会ったのは確か2009年の暮れ、私が初めてインドに行った時だった。ラトールさんのガイドのもと、エローラなどの遺跡などを見て回った後、自宅で出会ったはずだ。その時、彼女は12歳。ニコニコして聞き取りやすい英語を話し、その利発さを覗わせていた。その時の記録を紐解くと『お嬢さんに英語で話しかけると完璧な英語が返って来た。「学校は楽しいけど、数学嫌いなの。クラスは女性ばかり59人」。ミッション系の私立中学に通っている。めがねを掛けている。日本や中国と変わらない。違和感なし』

 

その後も3年前には一緒に北インドのデリー・リシュケシュの旅に行ったし、2年半前には彼らの親族の結婚式で、華麗な衣装も披露してくれた。15歳で一族の人々に花嫁候補としてデビューした時だった。2年前にはお母さんと一緒に初の日本旅行に来たが、我が家は奥さんと次男(リシュケシュでも一緒)が一日同行した。そして今回17歳になり高校を卒業して、大学に進学する前、初めて一人で6週間の短期プログラムに参加して、日本にやってきた。日本語を学ぶのだという。

 

私が一番心配したのは食事。何しろベジタリアン家庭だし、日本語は少し話せて読める程度だろうから、食べる物には神経を使うはずだった。門の前で『日本はどう?』と聞くと『いい』と言いながらも次の言葉が『おなかが空いた』だったのは、やはり悪い予想が当たっていた。学内の食堂を見に行く。土曜日の午後で閉まっていたが、当たり前ながら、インド人が食べそうなものはメニューにはない。コンビニがあったので入ってみたが、食材表示は全て日本語であり、しかも小さい文字。とても彼女が理解できるとも思えない。

 

仕方なく、どう見ても安全なリンゴジュースを買い、座って飲みながら、話を聞く。問題は食事だけではなかった。同じ寮に中国人の女性がおり、自炊しているのだが、豚肉を炒めているにおいが耐えられない、ともいう。これは単に好き嫌いの問題ではない。生活習慣上、有ってはならないことではないだろうか。当然部屋を変えて欲しいと要請したが、事務方は、週明けしか対応できない、と返事したという。海外から多数の留学生を受けている大学が、こんなことでよいのだろうか。そこにはノウハウの蓄積はないのだろうか。彼女が言うには、インド人は今回初めてこのプログラムで来たらしいが、イスラム教徒は来たことがないのだろうか。

 

そしてネット環境も万全ではなかった。部屋でネットが繋がりにくい、ロビーまで行く必要があるという。だから私の連絡に対しても対応が遅かったわけだ。インドでも数年前はWi-Fiなどないところが多かったが、今ではあっという間に普及して、彼女の家にだってWi-Fiがあり、私も使わせてもらったことがある。日本を科学技術先進国だと思ってきているアジアの若者はこの事態を目の当たりにして、どんな感想を抱いて帰っていくのだろうか。日本人として、ちょっと目の前が暗くなった。

 

大学の近くにはインド料理屋がなく、昨晩は同室の日本人が、名古屋駅近くまで連れて行ってくれて、そこで夕飯を済まし、そこでテイクアウトしたローティーを今朝食べただけだという。急いで検索して、日本人がやっていなさそうな料理屋を探す。そこへ行くのは地下鉄を乗り換える必要があったが、距離的には近そうだった。大学から最寄りの駅は既に彼女が覚えていたのでスムーズ。駅で切符を買おうとする彼女だが、どこまで乗るのか、一生懸命探さないと、料金すらわからないのが日本のシステム。

 

毎回これでは大変だと、窓口に行き、スイカのような現地のICカードを購入して渡した。こうすれば、切符を買わなくても済むし、バスにも乗れ、東京や大阪でも使える。外国人の目線で見ると、地下鉄の乗り換えでも容易ではない。何しろ表示が分り難いうえ、英語は限られている。更には到着駅から地上に上がると日本人の私でさえ、方向感覚を失う。スマホがあれば地図を検索できるが、シムカードがなければWi-Fiは飛んでいないので、検索できない。

藤枝から愛知へ流れていく2016(2)豊橋の絶品紅茶

 65日(日)
豊橋の紅茶

翌朝は雨上がり。牧之原の茶畑も何となく潤っている。朝6時には起きて、付近を散歩すると何とも心地よい。雨で空気も澄んでいる。茶畑、特に元気な茶畑を見ているとこちらも元気になるのはなぜだろうか。既に2番茶の摘み取りも終わり、夏に向けた準備が行われている畑もあり、また今日の摘み取りを待っているような畑も見えた。今日の茶摘みがないのは残念だ。お母さんが朝ご飯を用意してくれ、ずうずうしくも、たらふく頂く。日本はいいな、と思う瞬間がここにある。

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Sさんの車に乗り、豊橋に向かう。今日は前々から一度訪ねたいと思っていた、Gさんのところへ向かう。Gさんとは2年半ぐらい前に、名古屋のお茶会で知り合った。豊橋で紅茶作りをしていると聞いたので、興味を持ち、一度訪ねたいと申し入れたが、その後機会がなかった。昨年11月の下田サミットの会場ですれ違った時、『来ませんね』と言われたのが引っかかっていた。どうしても行きたいと思い、今回の藤枝セミナーを引き受ける条件としてS氏に『Gさんのところへ連れて行ってくれれば』と伝え、実現した。ただもし今日が晴れなら、自分で電車に乗って行くところを、なぜか雨が降る。この辺が農業の難しいところであり、また人生のあやか。

 

牧之原から1時間半ぐらいで豊橋に着く。特に標高があるわけでもない、普通の畑が続く。そんな中にGさんの茶畑はあった。挨拶もそこそこに茶工場に入り、茶を飲み始める。若いGさんは、様々な試みをしており、実に研究熱心。茶工場はまるで実験場のような雰囲気で、紅茶や烏龍茶など面白いお茶が出てきた。それをSさんが飲むと、かなり専門的な話が飛び出し、私などはついて行けないこともしばしば。更にはお父さんも加わり、完全な茶農家談義が繰り広げられる。

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Gさんは4代目。数年前に勤めを辞めて、実家に戻り、家業を継ぐことに。こちらのG製茶は1927年の創業、元々は煎茶を作っていたが、50年ぐらい前に紅茶を数年作ったらしい。残念ながらその紅茶は輸出用で国際競争力がなく、数年でとん挫。以降こちらで紅茶を作られることもなく、作り方も伝わらなかったが、10年前に復活。無農薬、無化学肥料で紅茶を作り、好評を博し、昨年は尾張旭の紅茶フェスでグランプリを獲得するまでになる。Gさんは茶葉の組み合わせと揉み方を研究して、最高のものを追及している。その熱意は相当のもので、ストイックに行っている。

 

茶畑を見学する。茶樹に蜘蛛の巣が掛かっている。虫も所々に見える。虫よけの棒が刺さっている。無農薬とはこういうことだろう。無農薬茶園を作るには長い時間が掛かっている。『有機JASで認める農薬も一切使わない』という話には刺さるものがある。『正しい整枝法を実行すれば、茶樹は健康になり、少ない肥料でより「うまい茶」を作ることができる』という話も出る。この辺になる正直私にはよくわからないのだが、S氏とG親子の間では盛んに議論がなされている。枝の切り方、落とし方で茶の味が変わるのだろうか。科学的なことは分らないが、ここのお茶が美味しいとすれば、それは正しい方法ではないかと思う。その他土壌造りなどにもこだわっており、この農業をやっていく、特にこれをきちんと管理していくことは大変なのだと感じる。

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現時点では収量がそれほど多くなく、G製茶の紅茶はなかなか手に入らない貴重品となっている。何しろ現地まで買いに来たというのに『在庫はありません』と言われてしまうのだから、驚きである。ウンカにかまれた茶葉を見て『烏龍茶生産にも』と意欲を示す。とにかくGさんは『うまい茶を作る』という一点に集中している。勿論ご両親がいるからできることだが、Sさん同様、両親が元気な間に新しい日本の茶を作ってほしいと思ってしまう。

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あっという間に時間が過ぎていき、昼頃になってしまった。Sさんは安城に用事があるというので、また車に乗せてもらい、名残惜しい豊橋を離れた。豊橋から安城まではすぐだった。この辺の土地勘はまるでない。いつもお世話になっているIさん宅を訪問。なぜか今晩はここに泊めて頂くことになる。何という展開。この家は一種のサロンになっており、SさんやGさんのお茶もここに来れば手に入るようになっていた。私は2階の部屋に荷物を置く。

 

茶心居へ

私の次の目的地は名古屋にある大学だった。その大学がどこにあるのかわからない、というと、Iさんが『そこは茶心居さんの近くだから一緒に行こう』と言い出し、Sさんが車を出して、何と名古屋へ向かって走り始めた。まあ茶旅とはこういう展開だとは思うものの、日本でこの展開はなかなかない。茶心居、お茶好きの人に聞いたことがある名前だが、初めて行くところである。車は小1時間で、名古屋のどこか分らない所に着いた。

藤枝から愛知へ流れていく2016(1)藤枝の報告会

《藤枝から愛知へ流れていく2016》  201664-7

 

有り難いお誘いを受けて、4月に札幌で茶旅報告会を開催した。皆さんのお役に立ったかどうかははなはだ疑問ではあるが、自分としては日本を旅しながら、お話もさせて頂けるのはとても有り難い。これで調子に乗って、全国ツアーを企画?したいと大胆な考えを起こす。ただどうすればよいのかは分らない。そんな時、お知り合いのSさんからメッセージが入ってきた。『藤枝でセミナーやりませんか?』と。これは渡りに船、日程を詰めて、予定した。ただ演題として選ばれたのは『雲南ラオスの旅』。これでいいのだろうか?まあなるようになるか。

 

1.藤枝
64日(土)
セミナーへ

最近は静岡へ行く時は新幹線など使わずに在来線に乗って行く。5時間ぐらいかかるが本も読めるし、考え事もできてそれほど悪くはない。ただ新宿や渋谷からバスもあり、料金もあまり変わらないと聞いたので、それも調べてみたが、ちょうどよい時間がなかった。今回は夕方藤枝に着き、そこから幸之松という料理屋さんで報告会を行う予定となっている。東海道本線の各停で藤枝駅に着くとおかみさんが待っていてくれ、車で連れて行ってくれた。

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車はすぐに市内を抜け、田舎道を走っていく。途中で突然工場が見てきた。『ここが日東紅茶の工場です』と言われる。日東紅茶と言えば、戦前台湾でも紅茶を作っていた会社だ。地元、藤枝付近の茶葉を使い、国産紅茶の販売に力を入れていくらしい。国産紅茶は最近、和紅茶とか地紅茶とか呼ばれ、にわかに注目が集まってきている。大手企業もそこに目を付け、本格的な生産を始めたのだろうか。何となく楽しみだ。

 

幸之松さんは、いい雰囲気の場所にあった。報告会としては思わぬ、立派な会場で驚く。相変わらず、どんなところやるのか、主催者はどんな人かもわからずに、呼ばれれば出て行くパターンだった。今回はSさんの紹介があり、それに乗っかった形となっている。Sさんからは『蕎麦屋さん』と聞いたような気がするのだが、どうみても割烹料理屋さんだろう。聞けば昼はお蕎麦屋さん、夜は懐石など、注文で作るという。こんなことを言っては失礼だが、日本の田舎へ行くと、こんなところにこんなおしゃれなお店がある、と思うことが多い。Sさんが作るお茶もここで販売されていた。

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セミナーには沢山の人にお出で頂き、話を聞いてもらった。Sさんがお茶を淹れてくれた。2月と4月に訪ねたラオスと雲南省の過酷な旅を通じて得たものを紹介する。茶の木の源流である雲南省と、その国境を接しているラオスは当然同じ文化であり、昔は国境などなく、自由に出入りしていた。実際には今でも自由に出入りしている人々がいること、プーアル茶の原料となる茶がこのルートでラオスから大量に運ばれている様子を報告した。雲南の易武山中には、清代に入植した漢族が茶を作っていた。まだまだ奥が深い茶の歴史。そのほんの一部をお伝えしたに過ぎない。

 

報告会の後は、食事会となった。料理が次々に運ばれてきて、それがまた何とも豪華で驚く。お刺身、鯛の蒸し物、幸之松で作ったトマトなどの野菜、などなど。この料理を見て、本日なぜこんなにたくさんの皆さんがここに集まったのか、その理由はハッキリわかった。少なくとも私の報告のためでないことは。そして途中でギターの生演奏などもあり、何とも盛り上がった。私も寄稿している月刊茶のOさんは皆さんに雑誌を配ってアピールしてくれたし、まあトータルには成功と言ってよいかもしれない。

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食後も皆さん、交流に余念がない。以前この藤枝のマーケットで初めて会ったIさん夫妻などは、今は東京在住だが、今晩はここに泊まるという。私も当初、ここに泊めて頂く予定だったが、明日の天気が雨ということで、Sさんの農作業が無くなり、豊橋に連れて行ってもらうため、急きょS家に泊めることに変更となる。この辺が、茶業は農業なんだな、と改めて認識する機会である。I夫妻他と、長々お話で盛り上がった後、幸之松さんを御暇し、小雨で暗い中を、牧之原に向かった。

 

S家にお邪魔するのは3回目。昨年3月には四国茶旅に出はずが、いつの間にか和歌山に渡り、そして静岡に立ち寄り、一晩ご厄介になった。何だかいつも突然やってきて、ご迷惑な話だが、夜中12時に訪れた旅人をSお母さんは快く受け入れてくれ、何とも有り難い。今晩も布団が敷かれている部屋に招き入れられ、早々に寝入る。夜中にトイレに起きると、まだ雨がしとしと降っていた。農業にとって雨は重要だが、旅人にとっては時に厄介なものである。

さしま茶旅2016(3)日本一入りにくいお茶屋さん

郷土館

木村さんの家でお茶を飲みながら話していると、日がきれいに落ちて行った。本当に一日が短い。吉田さんからはさしま茶に関するイベント資料をお借りしており、今日の目的は一応果たされていたのだが、まだ何かあるかもしれないということで、さしま郷土館に連れて行ってもらった。

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日本で様々な地方都市を訪れる機会があるが、どこへ行っても図書館や役所は立派である。これは箱モノ行政の産物かもしれないが、もし実際に活用できるのであれば、とても素晴らしい環境がそこにはある。東京のように込み合っていることもなく、借りたい物は比較的容易に借りられる。こんな環境は実に羨ましい。さしま郷土館もきれいで広々としており、蔵書もかなりある。こんな多くの中から、必要な本を探すのは大変だな、と思うほどである。

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私が調べている『江戸時代のさしま茶』についても、郷土館の方と吉田さん、木村さんも熱心に探してくれて、いくつかの関連資料が見つかった。やはり江戸末期まで、この地では主に番茶が作られていたとある。この商品を利根川の水運を利用して運んだようだ。関宿藩が奨励していた、という事実もある。年貢もかなり収めていたようだから、それなりの利益もあったと思われる。

 

やはり江戸は巨大市場だったのだろうか。そして幕末になってどうして、海外輸出に力を入れ始めたのか。幕藩体制の崩壊が関宿藩にもたらした影響とはどんなものだったのだろうか。これは単に茶の歴史ということではなく、むしろ郷土史として、知っておいてもよいのではないかと思われる。事実を羅列するだけではなく、その背景を教えてくれる書物に出会いたい。

 

日本一入りにくい長野園

それからまた車に乗り、農地の脇の道を行く。すると川が見えてきた。いや実際には暗くて見えなかったのだが、横に川があるのは分かった。そしてその川の向こうに城が見えてきた。それは私が奥さんの両親の墓参りに行く時見ていた、関宿城だったのだ。そこでは数年前にさしま茶に関する展示会も開催され、その時に作られた資料が手元に渡されていた。一度はこの城、いや博物館にも行ってみたいと思うが、今日は勿論閉館しており、次回を待つほかはない。

 

どこへ行くのかな、と思っていると、暗闇の中、すごく立派な門構え、石垣が見えてきた。そして何と車はその門を潜った。ここはきっと江戸時代の庄屋の家だったに違いない。しかしなぜここに来たのだろうか。吉田さんが『ここにお茶屋があります』と言っても俄かには信じられない。

 

しかし玄関の横には確かに店舗があった。長野園という。HPによれば『日本一入りにくいお茶屋』だそうだ。確かに知らない人は入ってこれない筈だ。茶園管理責任者と言う肩書を持つ花水さんは、以前は商社の食品部門に勤めていたそうで、結婚により奥さんの実家である創業70年になる茶業に入った人だという。このお屋敷に小さな販売店舗を作ってはいるが、住まいは別らしい。

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花水さんと話していると、共感できることがすごく多かった。これは初めからお茶の生産者だったり、流通をしていた問屋さんではなく、別業種からこちらに入ってきた人が持つ素朴な疑問などが共有できるからかもしれない。だが彼はその素朴な疑問をちゃんと商品化して、従来は出てこなかった発想で、お茶作りを志向している。その行動力が素晴らしい。

 

例えば、在来種を使った和紅茶、そしてこれを洋菓子とコラボして原料にも使うなどは、私がいつも思っていたことだった。『日本茶と洋菓子は合うはずだ。日本の洋菓子は世界レベル』という概念。そして何より驚いたのは、『独自のほうじ茶を作った』ことだ。日本茶に香りがない、という私の素直な疑問、彼はほうじ茶を燻製してしまっていた。ちょうど朝の連ドラ『マッサン』でウイスキーの命はスモーキーフレーバーだ、と連呼していたのだが、まさにお茶をスモーキーにしてしまった。

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これは紅茶、ラプサンスーチョンが好きなイギリス人にウケるだろうか。それはまだわからないが、既に大手の百貨店から引き合いが来ているという。『これからのターゲットは大人の男だ』という点で十分に面白いとおじさんが感じる商品設定だった。商社で培った流通ルートなども大変参考になっていることだろう。従来の茶問屋による流通ではなく、新たな商品を新たなルートで流していく、これは将来の日本茶を面白くする試みであると言える。これからの活動が大いに注目される。

 

話し込んでいると遅くなってしまい、いずみ紅茶の吉田さん、烏龍茶の木村さん、スモーキーフレーバーの花水さんと夕飯を共にして、ご馳走にまでなってしまった。皆さん、個性的で独創的、更には勉強熱心で、今月末には静岡から和紅茶生産の第一人者村松二六さんを招いて研修会があると聞いた。

 

話していて全く飽きない、何とも楽しい夜だった。正直さしまへの認識は薄かったのだが、今回の訪問で、認識を完全に新たにした。またぜひ来よう!帰りの湘南新宿ラインで、あれこれ考えているとあっという間に新宿まで戻ってきた。やはり近いのだ、そして楽しいのだ、さしまは。

さしま茶旅2016(2)さしま茶の歴史と現在

茶園のすぐ横の畑に行ってみると、ここにはまるで茶業試験場かと思わせるほど、様々な品種が植えられていた。畝ごとに品種が違う、と言ってもよいかと思うほどだった。見ると今も新しい品種を植える作業を行われているようだ。先日購入したいずみ、という品種も植えられていた。この品種はその昔、元々紅茶用として開発されたが、その後紅茶が作られなくなると無くなっていったが、近年復活され、煎茶を作り賞も得たという。その若干の渋みが私は好きだったが、勿論これを生かした紅茶を作れば、これまた新しい感覚が開けることだろう。

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茶園の入り口付近には不思議な置物が見えた。中に入ると、古い蔵が見える。既に建造から100年以上は経過しているらしい。レンガに特徴があるな、と思っていると、『このレンガは東京駅に使われたものを同じだと聞いている。栃木の茂木あたりで良いレンガが作られていたらしい』というではないか。何とも歴史を感じさせる。蔵の中を拝見すると、今はここが茶葉の貯蔵庫になっていた。適度にヒンヤリしたこの室内が、茶葉の保存に適しているようだ。

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更にその蔵の横を見ると、何だか昔の温泉宿のような建物が建っていた。こちらも見せて頂くと、そこが製茶作業場になっている。天井が高い、というか、高いところに天窓があるという感じだった。天候により、窓を開け閉めするらしい。高所恐怖症の私にはとてもできない業だ。昔の製糸工場などを思わせる作りだった。昔は手作業で行われた製茶、その一部をいち早く機械化したことも分かる動力もある。

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さしま茶は江戸時代、日乾法という天日干しで作られていたという。この金額の安い茶が、今回のテーマである江戸庶民にもたらされた茶のような気がする。これは番茶、と言ってよいであろう。その後、江戸末期には宇治の煎茶製法を学び、品質改良が行われた。吉田茶園もその頃、創業されたらしい。幕末には、さしま茶の売り込みのため、伊豆下田の玉泉寺に開かれた米国総領事館に、ハリスとヒュースケンスを訪ねた記録もあるようだ。地紅茶サミットの開かれた下田はさしまと無関係ではなかったのだ。これもまた実に面白い偶然だ。

 

敷地内にはきれいな店舗があった。そこでお茶を頂きながら、話を聞く。いずみ、ほくめい、美沙希など、見慣れない品種の茶が並んでいる。普通にどこにでもあるお茶ではなく、常に色々な品種を改良して、新たな茶作りを目指している様子が良く分かる。試飲すると、いずみは勿論、他の物も、他にはない、独特な味わいがある。この地を実際に見てから飲むからそう感じるのかも知れないが、ちょっと誰かに紹介したいような気分になる。風は相当に冷たいが、天気がとても良い庭では、子供たちが楽しそうに遊んでいた。この雰囲気も重要だ。

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木村製茶

吉田さんの車で、出掛けて行く。冬の日は短い。既に日が傾き始めている。何となく子供の頃、栃木の冬の夕暮れを思い出す。ちょっと寂しい雰囲気。吉田さんの言葉のイントネーションが昔を思い出させるのかも。栃木と古河、やはりかなり近い場所にある。これから行くのは境町、木村製茶を訪ねる。こちらも横に茶畑が広がっており、様々な品種が植わっていた。

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木村さんは10年以上前から、国産烏龍茶の生産をしている日本では珍しい茶農家だ。日本の茶葉を使い、如何によい烏龍茶を作るか、日々研究しているという。様々な茶樹が植えられている理由はそこにある。『日本の茶業はすでにピークを過ぎており、特色あるお茶作りをしないと将来はない』との考えから、この寒いさしまの地で育っている、肉厚の茶葉を使って発酵茶を作る、香りの良いお茶を作ることを考えたという。香りは今の日本茶に欠けている重要な要素だ。

 

台湾から早々に製茶機械を輸入して、また実際に毎年台湾を訪問して、様々な茶農家のもとへ行き、実際に烏龍茶作りを学んできた。比較的日本茶に近い包種茶などを勉強したようだが、当初は悪戦苦闘した。『言葉が通じずに苦労したが、学ぶことはとても多かった』というが、その努力は並大抵ではなかったろう。茶業にかける情熱が感じられた。そして『作り手の都合ではない、茶葉の都合で作ること、消費者に身近な茶作り』という言葉が印象的だった。

 

吉田さんから『いずみ』をもらい、共同生産したお茶は芳醇な香りがあり、世界緑茶コンテストで最高金賞を受賞した。木村さんの烏龍茶を飲ませてもらうと、かなり淡い香りがあり、上品な感じがした。『自らが生産できるお茶の数量には限界がある。少量多品種、小回りの利く茶作りを目指していく』との言葉があったが、知れば知るほど奥の深いこの世界、その道のりはまだまだ険しいのかもしれないが、ぜひ頑張ってチャレンジして欲しいと思う。

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さしま茶旅2016(1)栃木から古河へ

《さしま茶旅2016》  2016年1月13日

 

2016年になった。アジア放浪の茶旅も3月で満5年を終える。これまでの旅は一言で言えば、楽しかったと言えるのだが、これからまた5年間、同じような茶旅を続けられる自信は正直ない。やはり残念ながら変化がなければ、飽きてしまうのではないだろうか。そこで最近は少しテーマ性を持った旅にもチャレンジを始め、6年目に向けて活動を開始してみた。

 

今回は『江戸時代、庶民はどんなお茶を飲んでいたのか』というテーマで調べを進めている中、関宿とか、さしま、とうか言う地名が引っ掛かってきた。江戸の街に運ばれたお茶だから、狭山茶あたりからかと思い、入間のお茶博物館、アリットのKさんに聞いたところ、『狭山茶は煎茶以降だよ』という答えであり、『むしろ関宿あたりに集まった安い番茶が江戸へ行ったのでは』というのである。これは面白いと思い、一度訪ねてみようと、考えた。

 

実は関宿はうちの奥さんの両親の所縁の地。二人のお墓もあり、私も何度か行っているのだが、まさかお茶が採れるとは驚きだった。江戸時代には利根川の水運を利用した、重点都市として、機能しており、お墓の近くには川が流れ、城も再建されているのは知っていた。そして近年さしま紅茶という名前をよく聞かされていたが、関宿からさしまが、1つの茶園圏であることを初めて知る。昨年11月の地紅茶サミットでは、さしま紅茶も出展されており、そのご縁により、まずは行ってみようと立ち上がる。因みに私にとって猿島という地名で思い出すのは平将門ぐらいであるが、今年は申年であり、何となく縁起を担いでいる。

 

1月13日(水)

古河まで

地紅茶サミットで知り合った吉田茶園さんに、お店の場所を聞くと、何とJR古河駅に近いという。てっきり東武動物公園駅あたりからバスに乗るものと思っていたので、かなり意外だった。そして古河といえば、私が育った栃木にほど近い。まずは最近ご無沙汰している墓参りに行こうと、朝東京を出て、栃木市へ行った。今や栃木市に行くには、特急を使えば、新宿から駅3つ目という、驚きの近さだが、私は延々鈍行に揺られ、3時間かけて行ってみた。

 

既に両親はなく、栃木に行くこともめっきり減っていた。法事でもないとなかなか足が向かないという不幸者が、突然現れたので両親もびっくりしただろう。菩提寺は歴史だけは古い天台宗の寺で、江戸時代の2代横綱、綾川 五郎次の墓などもある。商店街は残念ながら寂れて行くばかりに見えるが、一応江戸時代には水運で栄えており、一時北川歌麿も滞在したとされている。今も古い蔵が残っている蔵の街として、天気が良ければ観光客も来る。冬場は風が強く、人通りは少ない。

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寺の前の花屋で墓に備える花を買う。向かいには昔肉屋があり、コロッケが美味かったが、無くなっていた。『随分前だよ、無くなったのは』と花屋の主人に言われ、自分はいつからここに来ていなかったのかが、気になり出したが、何とも思い出せない。肉屋は見事になくなり、跡地は駐車場になっていた。尚寺のすぐ近くには女優山口智子の実家、老舗旅館鯉保もあったが、10年ほど前に時代の波で閉店している。因みに山口智子は中学の後輩に当たり、弟は同級生である。栃木からトレンディ女優が出た、というのは当時相当の話題だった。

 

駅前で昼ご飯を食べて、JR両毛線に乗り、小山で乗り替えて、東北本線で古河まで行った。乗り換えを含めて1時間近くかかる。高校時代、同級生で古河から通っていた者がいたのをふと思い出したが、名前までは思い出せない。うちの高校には栃木県以外に、群馬、埼玉、茨城から生徒が通ってきていた。4県に跨る高校、結構広域だな、と。古河は茨城県に属するが、やはり近いとは言えない。

 

吉田茶園

駅には吉田さんが待っていてくれた。昨年の地紅茶サミットで出会い、さしま茶の歴史が知りたいというと、心よく案内を引き受けてくれた。さしまといえば、近年は紅茶で売り出しているところだが、実は地紅茶サミットで私が惹かれたのは、いずみという珍しい品種で作った煎茶だった。紅茶の会で緑茶を買っていく変な客、として吉田さんの印象に残ったのかもしれない。

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駅から車で5分ほど行った、JRの線路近くに吉田茶園はあった。まずは近くの茶畑を見学する。まさに線路脇にあるこの茶畑、東北本線で唯一見える茶畑だという。確かに東北へ行くのに茶畑、というとイメージは合わないかもしれないので、もし見付けたらちょっと驚くことだろう。

 

茶畑はフラットな場所にあり、向こうまでよく見渡せた。そこには川も流れているという。やはり茶葉の輸送は水運か。今日は天気は良いが、茶樹は1月のこの辺りにありがちな強い風に耐えているように見えた。しかしよく見ると、上の部分はしっかりと全体をガードして硬くなっているが、その下からは新しい息吹が感じられ、比較的寒い地域の茶樹のありようを見せてくれていた。茶樹はやぶ北をはじめ、数種類が植わっており、ここでは様々なお茶が作られている様子が見て取れた。

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下田紅茶旅2015(3) 下田散歩

既にあたりは暗くなっている。少し行くと川沿いに風情のある街並みが見えてきた。ペリーロードと呼ばれるその道は、了仙寺から下田公園まで約500m。平滑川をはさむ石畳の小道沿いには伊豆石造りの風情ある家並みが続いていた。ペリーが日米和親条約締結時に歩いた道だそうだが、今や観光スポットとして、復活している。ペリーは往時の下田を見て、どう思ったのだろうか。

 

そこから上り坂を行く。何だか闇夜のハイキングのようになってきたが、今更止める訳にも行かない。いくつかのホテルやペンションなどが見えたが、目指すホテルは高台の上にあることが分かり、愕然とした。喘ぎながら登っていく。これも私の茶旅なのだろうか。ようやくたどり着いたところは立派なホテル。

 

懇親会にも多くの参加者があった。乾杯のご発声は紅茶研究家の磯淵先生。明日は船上で紅茶を飲み、セミナーを行う、紅茶クルーズを開催するという。何故か下田芸者の踊りも披露される。この辺がご当地のPRなのだろうか。私はOさんに付いて、適当なテーブルに座る。Oさんのところには引っ切り無しに挨拶の人が来る。さすが地紅茶の第一人者だけのことはある。

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ビュッフェの食事を取りに行き、新鮮な刺身などを食べながら、同じテーブルの方々とお話をする。お隣のご夫婦は、愛媛県の山里で紅茶を作っているという。民宿もやっているので泊ることもできるらしい。反対側には長崎県の対馬で紅茶作りを始めた人もいた。本当に色々な場所で紅茶が作られていることを実感。同時に折角のご縁、一度はお訪ねしてみたいと思う。参加者の大半はここに泊まっているのだろう。

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食事が終わっても皆さん、話し続けている。この懇親会もメンバーオンリーなので、皆紅茶関係者だ。年に1度のこの機会、親睦を大いに深めている。私はそっと失礼して、夜道を駅前まで歩いて帰った。テレビでは丁度フィギャアスケート中継があり、浅田真央の復帰戦が映っていた。

 

11月29日(日)

松陰散歩

翌朝、この宿には朝ごはんがついていた。宿の別棟が居酒屋をやっており、朝食はそこで食べる。昨晩結構食べてしまったので、お腹はそれほど空いていなかったが、付いてみるものは食べる。昨日の女性が、焼き魚、目玉焼き、ご飯とみそ汁を持ってくる。お客は仕事で来ている人が多いようだ。1人ずつカウンターに並んで食べるのはちょっと面白い。

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散歩に出る、実にいい天気で気持ちが良い。海の方に向かって歩いていくと、黒船サスケハナ号が停留している。クルーズ船だ。その先を歩いていくと弁天島に着く。吉田松陰の碑・金子重之助の顕彰碑と弁天社がある。松陰はここから黒船への密航を試みたのだな、夜の海はさぞや暗かっただろうなと思うと、何となく胸が躍り、同時に切なくなる。

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アメリカ領事館が置かれた玉泉寺にも行ってみた。ハリスがここにいたのは僅か2年だったが、日本初の(牛の)屠殺場があり、牛乳の碑があるのが、何とも開港という言葉を感じさせる。また寺社内にはアメリカ人やロシア人の墓もある。ペリーの船に乗り込んで命を落とした人々の墓は立派だった。ロシア人の墓を探す前に団体が来たので、早々に立ち去る。三島神社には立派な松陰の像が建っていた。

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サミット会場の脇の宝福寺も覗いてみる。勝海舟と土佐の山内容堂がここで会見したとあるが、なぜか坂本龍馬の像が建っている。唐人お吉の墓もあるとかで、記念館も建っている。だがお吉は、間違ってハリスのもとへ行き、そのことで下田の住人からは相当冷たい仕打ちを受け、失意のうちに死んだと聞いた。それが芝居で有名になると持ち上げているとは、なんとも。歴史と商売、何でもありというのはどうなんだろうか。

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サミット2

サミット2日目。昨日回れなかったブースを回り、お茶を購入した。さしま紅茶のYさんからは、紅茶サミットなのに何故かちょっと渋い煎茶を購入。こういう味、求めていたんだよな、いずみ。牧之原のYさんの紅茶もなかなかの味。そして熊本のKさん、しっかりした紅茶を作っているなと感じる。来年サミットを主催する奈良月ヶ瀬のIさんのところも早々に訪ねてみたいと思った。

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10時からは、地紅茶の第一人者、すでに30年以上丸子で紅茶を作り続けている村松二六さんの講演があった。二六さんの丸子には既に9月に訪問していたが、その時は研修会でお話を聞くことが出来なかった。今日の講演は実務者として、その蓄積したノウハウを惜しげもなく、伝えていた。参加している茶農家にはとても参考になったであろう内容だった。

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私も茶農家の方から、これほど実践的な話を聞くのは初めてではないだろうか。様々な工夫を重ね、自ら機械を調整し、気候などに合わせて茶作りを行っている。そのぶれない姿勢は素晴らしい。紅茶作りを目指す皆で盛り上げて行こう、という感じが、30年のご苦労を物語っていた。

 

講演会で顔馴染のRさんに会い、彼女らともう一度ブースを回る。お茶の味やパッケージ、展示の仕方、女性の感覚は全く別なので大いに参考になる。そのままランチに行き、昼過ぎの電車で下田を後にした。