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先生と行く高知茶旅2017(1)突然長曾我部の居城跡へ

《先生と行く高知茶旅2017》  2017年11月24-28日

ある日、以前からのお知り合いであるHさんよりメールが来た。『この度M先生から、お電話があり11月24日~27日まで四国へ山茶の実態調査に行かれるそうです。関心のある方と同行したいとの事です。ご一緒しませんか?もう、最後の調査かも^_^; と仰ってましたが・・・( ^ω^ )』

 

M先生と言えば、茶旅の大先輩であり、茶の歴史の研究歴は60年を超えるという大御所だ。一昨年ベトナム茶旅をご一緒し、その60年に渡る茶旅の膨大な蓄積を伺う機会を得、大いに感化された。出来ればまたお話を伺いたいと機会を狙っており、幸運が訪れたと即座に回答した。しかもこれが最後の旅かもしれないと言われるとどうしても行こうと考える(先生は毎回これが最後か、とおっしゃっていることは知っていたが)。

 

だがよく考え見れば、なぜ私が誘われたのか、誰が私を誘ったのかさえよくわからない中で、行くという決断は早計だったのかもしれない。ただこれまたベトナムでご一緒したTさんも参加されると聞き、また千葉のIさんとも初めて会う機会を得るというので、取り敢えず行くこととした。タイミングは絶好で、ベトナムの旅から帰ってすぐ後、台湾に行く前になっており、やはり天は行けと指示したと感じた(元々は九州に茶旅に行く予定だったがキャンセルした、残念)。

 

11月24日(金)
高知まで

高知に行くには、飛行機しか考えられなかった。例え電車に乗ったとしても料金は安くないし、何より時間がかかり過ぎる。四国の他の都市にはLCCが参入し、料金が大幅に下がっているのに、高知だけはJALとANAしか飛んでいないため、更に競争原理が働かず、料金は高いままである。夜行バスなどもあるかもしれないが、今回は待ち合わせもあり、またベトナムから戻ってすぐのため、ANAを選択することにした。M先生は新幹線と特急で来るという。その時間に合わせて午後のフライトを予約した。羽田から行くHさんとIさんも同じフライトとなる。

 

久しぶりには羽田空港の国内線のロビーへ行く。今やチェックインはなく、バーコードで飛行機に乗れる。今回は荷物を預けるつもりもなく、何とも手軽だった。ただ荷物預けが機械で自動になっているのを見たが、そこには『手荷物』と大きく書かれている。手荷物とは、機内持ち込み荷物のことだと思っていたが、中国語では宅運行李と書かれており、こちらは正しい。なぜこんな紛らわしい書き方をしているのだろうか。日本人はこれで分かるのだろうか?不思議でならない。

 

お二人とも無事に合流した。搭乗口で前回はバーコードが消えてしまい焦ったが、今回はきちんと処置をしてきたので、問題なく搭乗できた。国内線のフライトとはいえ、料金はかなり高いのに、ご飯すら出ないのはどうしてだろうか。LCCとは違うのだから、その辺のサービスがあってもよいのではと思うほど高知は遠かった。2時間以上かかって高知空港に到着した。

 

いきなり博物館へ
当初はM先生の到着する高知駅で待ち合わせていた。ところが状況が変わり、急きょ高知県立歴史民俗資料館へ行くことになった。空港からタクシーに乗り込んだのだが、運転手は極めて陽気に高知の紹介を始める。だが今回お世話になるKさんによれば『空港から10分で着く』と聞いていたのに、それを過ぎても着かない。そして車は市内中心部へ入っていく。

 

突然運転手が『間違えた』と言い出した。彼は高知城の横にある博物館だと思い込んで走っていたが、指定されていたのは、市内から少し離れた、長曾我部氏の居城だった岡豊城跡に建てられた資料館だったのだ。運転手は恐縮しきりで、料金は割り引かれ、何回も謝られた。小高いところを上り詰め、ついに到着した。外には格好良い長曾我部元親像が建っていた。私のイメージが武骨な武将だったが、近年ゲームがヒットして、格好良い長曾我部像が作られているという。

 

ちょうどKさんが老人を送りに出てきたところだった。この郷土史家がM先生と会い、お互いの情報交換をしていたという。その話、是非聞きたかったが間に合わなかった。何とも残念だ。それにしてもかなり高齢で、且つ外出も難しいと言われている老人がわざわざ出向いて来る。その好奇心の強さ、精神力、私など到底及ばないと察する。

 

資料館に入り、先生を探す。長曾我部氏の歴史が展示されているところで先生と合流した。この歴史も何かお茶の歴史と繋がるものがあるのかもしれない。更には特別展として、仏教、禅関連の展示もあった。最近地方の博物館、美術館に行くことがあるが、実に展示が充実していると思う。ここには高地について色々と書いているKuさんも同行していた。

 

それからKさんの車に乗せてもらい、1時間半ほどかかっていの町に到着した。実は今回の旅は先生と一緒にTさんがやってきて、レンタカーを借りて動く、と聞いていたのだが、なぜかTさんの姿がなかった。先生によると、『名古屋から乗った新幹線でも、乗り換えた岡山駅でも見付からなかった』というのだ。そして『Tさんには高知でどこへ行くのか知らせていない』というので、急いで携帯電話を掛けると、既に名古屋辺りに戻っていた。何とも残念だったが、結局参加者が4人となり、Kさんの車に乗ることができた。

富山から静岡まで茶旅2017(4)遠州森に藤江勝太郎の足跡を訪ねる

7月7日(金)
森町まで

翌朝起きて、お茶を飲みながら朝ご飯を頂き、Iさん宅を失礼する。今日は掛川まで行き、そこからローカル線に乗ることになっており、まずは名鉄で豊橋に向かう。全く問題ないルートだと思っていたが、何と人身事故で電車のダイヤは、完全にマヒしていた。豊橋に何時に着けるのかもわからない状況となる。

 

何とか電車が動き出し、各駅停車となった列車に乗り、豊橋を目指す。だが予定していた東海道線には乗ることが出来ず、豊橋で待ちぼうけ。調べてみると掛川から乗る予定の天竜浜名湖鉄道は、掛川からだけでなく、豊橋に近い、新所原という駅からも出ていることが分かり、しかもこちらの方が待ち時間が少ないので、新所原で降りる。

 

天竜浜名湖鉄道の可愛らしい駅はJRの横にあったが、完全に隔離されていた。スイカも使えず、その料金も遠州森まで1280円と極めて高い、ローカル線だった。しかも車両は1両のみ。でも天気が凄く良くて、なんだか楽しい気分になる。乗客数人を乗せて出発。初めは民家のある場所を通っていたが、その内ちょっとした林の中に入ったりする。

 

20分ぐらいすると浜名湖がきれいに見えてきた。ウナギが食べたくなる。それから気賀という駅に着く。ここは今年の大河ドラマ、直虎の舞台になっているところ。こんなところから出たのか井伊家は。おじさん3人組が乗っていたが、彼らは直虎一日ツアー券を持っていた。ついには大河ドラマ館なる建物まで見えてきて、皆が降りていく。週末なら結構人がいて盛り上がっているのだろうか。

 

その内乗客はほぼいなくなり、運転手と私の2人だけがずっと乗っていることとなった。勿論途中で乗る人もいるが多くはない。ついにはトイレに行きたくなるが、途中駅で数分停まるというので駅のトイレの場所を聞き、降りて用を足したりした。何ともローカル、温かい雰囲気が漂う。まるでテレビのBSの旅番組のようだ。

 

大学が目の前にある駅を通り、乗客が増えてくる。フルーツパークという珍しい名前の駅もある。柿の木が植えられている。名物らしい。1時間40分ほど乗り、とうとう森町病院前という駅で降りた。何とも疲れたが貴重な体験だった。ただこの駅も無人で、周囲には町役場の建物などが見えるだけ。思えば遠くへ来たもんだ、という気分。

 

4. 森町
藤江勝太郎を訪ねて

森町教育委員会に詳しい方がいると聞き、既に1週間前に連絡を取っており、そこを訪ねた。目的は藤江勝太郎。彼は日本統治時代、総督府によって設立された茶業試験場の初代場長。台湾茶業の基礎を築いた人物だと思われるが、どのような人なのかはよくわかっていない。そこで出身地で、且つ帰国後は町長も務めた森町なら何かわかるだろうと訪ねた次第だ。

 

教育委員会には藤江家文書のコピーが残されており、見せて頂いた。それにより藤江の略歴なども明らかになって来た。興味深い資料もあるようだったが、文書を保存している藤江家の了解が必要とのことで、コピーなどは貰えなかった。取り敢えず撮れるものはカメラに収める。お話しを聞けば聞くほど、茶業における藤江の功績は大きいように思った。

 

しかし森町にはもう一人、台湾に深く関係した偉人がいた。鈴木藤三郎、台湾製糖の初代社長を務めた人物で、町としてはこちらの知名度を上げていこうと努力しているという。実際台湾に使節団を派遣し、台湾製糖と交流する、冊子を作りその業績を顕彰するなどを行っていた。藤江はその陰に隠れているようだった。それにしても台湾の3大商品の内、2つがここ森町出身者により興されたというはとんでもないことのように思うのだが。

 

ご担当の案内で、藤江勝太郎の生家にも行ってみた。特に表示などもなく、一人で来ても全く分からなかっただろう。現在は誰も住んでおらず、ご子孫は別の町に移っているとのことだった。森町は明治時代には茶業が盛んだったようだが、今やそれを示すようなものも見当たらない。昔の町役場を利用した歴史民俗資料館も訪ね、藤江の写真を見つけたのは収穫だった。

 

 

遠州森と言えば、どうしても森の石松を思い出してしまう。広沢虎蔵の浪曲、清水次郎長伝の中の石松が好きだ。実在の人物かどうかよくわからないが、この町には石松の墓があるといい、そこにも連れて行ってもらった。大洞院というお寺の前にその墓はあった。墓石を削って持っていると勝負運が付くと言われ、かなり削られていた。この墓は3代目で、削られても壊れない硬い石が採用されているという。

 

遠州一宮、小国神社にも行ってみる。このあたりを見てみると、昔からこのあたりは重要な場所だったことが分かる。まあ博徒が出入りするのも、町が栄えていた証拠だから、東海道線の開通までは少なくとも栄え、そして徐々に今のように落ち着いた街になっていったということだろう。

 

遠州森駅まで送ってもらい、また1両電車に乗る。夕方のこの時間は高校生などが多く、車内は昼間と違って込み合っていた。掛川まで25分、新幹線が走っているにもかかわらず、それからまた延々在来線に乗り、東京へ戻っていった。

富山から静岡まで茶旅2017(3)古民家宿泊、そして高山

古民家に宿泊

実は1回目と2回目のお茶会にはちょっと間があり、そこを利用して本日の宿泊先にチェックインした。そこは何と田舎の古民家だった。朝日町で保存している家で、宿泊可能ということで、Yさんとお知り合い、Tさんと私の4人が、この広い古民家に泊めてもらうことになったのだ。

 

笹川ふるさと移住交流体験施設『さゝ郷(ごう)ほたる交流館』は一昨年開業。1943年に作られた家を県と町が改修して、宿泊施設として利用している。目的は過疎地となっているこの街への移住者の誘致。田舎暮らし体験などで訪れる人を迎え入れるという。とにかくこの地域、田んぼが美しい。川も流れ、実に静かな田舎のイメージだ。冬は寒いかもしれないが、今の時期は最高の環境。

 

夜も9時を過ぎてセミナーの片づけが終わり、皆さんで遅い夕飯を食べた後、こちらの施設に戻ってきた。施設名にもある通り、この辺にはほたるが多いというので早々真っ暗な戸外に出ると、確かに各所にほのかな光が見える。台湾の田舎では見たことがあるが、日本でこんなにほたるが見られるところがあるとはちょっと驚き。

 

室内に戻り、居間でお茶を飲みながらおしゃべりする。さすがお茶好きのTさんが台湾茶を淹れてくれる。それから広々とした畳の部屋に布団を敷いてどっかりと休む。何だか修学旅行のような気分になる。静かな環境に疲れも手伝い、心地よい眠りに就く。ちょっと田舎暮らしがしてみたくなる。

 

7月6日(木)
高山へ
翌朝は7時前に起きたが、Tさんは既に近くの神社にお参りに出てしまっていた。台所では朝飯の準備をしてくれるKさんの姿がある。古民家のゆったりとした廊下の椅子にもたれると、何だか、ザ・日本の朝、という雰囲気が漂う。そして朝ご飯、美味しそうな地元の食材が並んでおり、幸せな気分になる。特にわかめの味噌汁!地元の海岸で採られ、干された自然な食材は絶品だった。これは忘れられない。Kさん、有難う。食後にはこれまた地元産のはと麦茶を飲む。Kさんは実にさりげなくPRがうまい。

 

名残惜しい朝日町と別れ、Yさんの車で富山駅まで送ってもらう。やはり途中は天気が良くなかったが、駅前で降りるといい天気だった。これから飛騨高山に向かう。特急に乗ろうと切符を買いに行くと、何とたった今発車したばかりだという。そうだ、私は貧乏旅行なので鈍行で行くつもりだったことを忘れていた。

 

富山駅の高山本線のホームは変わっていた。2番ホームは1,3番ホームの向こうにあるのだ。危うく乗り間違える所だった。乗客は少ない。平坦な畑の中を50分ほど行くと猪谷(いのたに)駅で終点となり、また斜め向かいに停まっている電車に移動する。猪谷は谷を普通に『たに』と読むらしい。

 

ここから先はかなりの山沿いをとことこ走る。いつの間にか富山県から岐阜県になっている。1時間ばかり走って、ついに高山駅に辿り着く。まずは荷物をコインロッカーに入れて、それから観光案内所で地図をもらい、大体の観光スポットを聞く。平日なので人は多くないが、それでも外国人を少し見掛けた。

 

3. 高山
高山散歩

駅前を見渡して適当な食堂に入り、飛騨牛のどんぶりを食べる。まあこんなものだろうという代物。ちゃんとしたステーキでも食べればよかったと後悔するも、既に富山で食べ過ぎなので、良しとする。それから伝統的建造物が立ち並ぶ保存区へ足を進める。この辺まで来ると中国人を含めた外国人がかなり目に付く。

 

確かにその街並は見事に残っている、という感じだった。町役場や陣屋などが残り、お茶屋やしょうゆ屋などの商家にも歴史が感じられる。ちょっと暑いのだが、ふらふら歩いて回る。アイスクリームが飛ぶように売れている。如何にも観光地、と言った雰囲気である。ただこれといった目玉はない。ただただ街を歩き、博物館などを眺め、この街の発展の歴史、地理的重要性を確認するだけだった。

 

ほぼ端から端まで、少し上った丘の上まで歩いてしまうと、最後はかなりへばってしまう。駅近くの三重塔のある国分寺でしばし休む。それから駅前でお土産物を買い、3時過ぎの特急に乗り込む。高山は有名な場所だったので、もう少し、おーと思うものがあるかと思っていたが、今回は発見できず残念。

 

この列車、名古屋まで直通なので、もう鈍行は止めてこれに乗った。勿論自由席、ガラガラだ。途中、白川茶と書かれた看板を見て、岐阜の白川に行きたかったな、と後悔。自然頂いた白川茶が美味しかったのを今頃思い出しても仕方がない。下呂温泉もよさそうだな、後の祭り。列車は特急なのでどんどん進んでいってしまう。

 

名古屋には3時間かからずに着いた。上出来だ。駅で駅弁を2個買い込み、名鉄に乗ろうと歩いていると、何とボヤ騒ぎに遭遇。それから新安城までどの電車に乗ればよいかわからず、右往左往したが、何とか辿り着く。今晩は、以前も泊めて頂いたIさんの家へ行くことになっていた。前回は場所が分からず、大いに迷ったが今回は問題なく到着。

 

Iさんは昨年体調を崩し、外出が難しくなっていたので、この機会にお訪ねしようと連絡したのだ。まあ、こちらに集まって来たお茶を淹れてもらい、買ってきた駅弁を広げ、お茶談義などをして時間はすぐに過ぎてしまい、疲れ果てて寝入る。

富山から静岡まで茶旅2017(2)朝日町 旅するお茶会

7月5日(水)
2. 朝日町
バタバタ茶再び

翌朝はホテルに朝食が付いているので、そこで食べる。和食・洋食の両方があり、それなりに充実している。昨日のサービスと考え合わせると、このホテルのコスパはかなり高い。全国チェーンのようなので、またどこかで泊まってみようと思う。そう思わせるホテルはそうは多くない。

 

今朝は雨も上がり、天気はよさそうに見える。Yさんの車で、富山から朝日町に移動した。電車で50分ぐらいかかるところ、高速に乗っても1時間ぐらいかかっていた。途中で雲行きが怪しくなるなど、やはり山の天気は変化が大きい。まあ雨が降らないだけよいか。車はなないろKANに入る。

 

その駐車場の向こうには朝日町歴史公園があり、その脇には茶畑があった。ここがバタバタ茶の原料を供給している場所。4年間でさぞや育ったことだろうと思っていたが、意外やそれほどでもなかった。やはり寒い場所は育ちが遅いのだろうか。後で聞くとやぶきた品種の半分が枯れてしまい、2年前に別品種を植えたのだという。

 

因みにその品種、富山らしい名前の『富春』を選定し、指導したのは、武田善行先生だという。その時はただ有名な先生が来られたのだなと思っただけだったが、まさかこの20日後にタイのチェンライの茶旅でご一緒することになるとは、まさに茶縁というのは恐ろしい。

 

次に車で連れてきてもらったのは、バタバタ茶伝承館。ここには4年前も来ている。以前より黒茶生産を中心的に行っている元町役場のHさんとも4年ぶりに再会したが、私のことは覚えていなかった。そしてその茶作りの苦労、プレッシャーは相変わらず続いているようだった。あと1か月もしないうちに今年の茶作りが始まるが、気が重くなっているのだろうか。

 

一方朝日町のPRを託されたKさんは、非常に熱心な人。バタバタ茶を精力的に売り込んでいる。ここに集うおばあさんたちとも仲良くしている。ご老人たちは賑やかに煮出した黒茶を五郎八茶碗に入れて茶筅でバタバタ泡立たせている。先日テレビ番組の収録で松岡修造もやって来たとか。おばあさんたちはいつも明るく、楽しそうにその時のことを語る。相変わらずお当番が持ってくる漬物がうまい。お茶を飲みながら、バクバク食べる。

 

お昼前に伝承館を失礼して、ランチに向かう。この辺の名物ということで、たら汁を食べるために、海岸近くの道路沿いのお店へ。4年前もそうだったが、ここ朝日町には山もあるが海もあるのに、今回も海を見ることはなかった。ヒスイ海岸も一度は見てみないといけない。

 

たら汁はスケソウダラをぶつ切りにして、味噌で煮込んだ料理。元はこの辺の漁師が船上で食べていたものだが、今はこの付近の海水浴客などに提供して、評判だとか。この道路はたら汁街道とも呼ばれ、何軒もの店がたら汁を出しているそうだ。ただ今やたらの水揚げは激減し、北海道産などで作られているらしい。美味しく頂き、まんぷく。これで午後お話などできるのだろうか。

 

旅するお茶会
朝日町の古民家カフェにやって来た。実に良い感じの雰囲気が漂う。ここで午後と夜の2回、お茶会が開かれ、その中で茶旅のお話をする予定となっている。ただ正直一体どんな人たちが聞きに来てくれるのか見当もつかない。しかも最後はバタバタ茶のお話をすることになっているが、このお茶の歴史、国立国会図書館にも出向き、何冊もの本を読んでみたが、どうしても謎が解けないまま、今日を迎えてしまう。恐ろしい。

 

この古民家の一族であり、京都でお茶屋さんと風水師をしているTさんが美味しい台湾茶を淹れてくれることになっている。これは心強い。しかもバタバタ茶に使われる黒茶と酷似していると言われている広西の六堡茶をわざわざ持ってきてくれ、飲み比べまでしてくれた。これは参加者にもわかりやすい。

 

参加頂いた方々、地元朝日町は勿論、富山市など富山全土から集まって来られ、2部とも満員盛況で驚きだった。東京では毎週のように多くのお茶会、セミナーが開かれているが、地方ではその機会が少ないということだろうか。それなら、私のような旅人は旅のついでにお話しする、旅芸人に徹してもよいのでは、と思わせてくれるほど、熱気があった。

 

北京で一緒だったコーヒー屋のRさんとも再会した。昨日飲んだ富山紅茶の会の代表Sさんも来てくれた。学芸員の方、茶道などお茶に関連する方、文化関連のイベントを開催する方、など、思いもよらない人々が集まり、一緒にお茶を飲んだだけでも嬉しかった。また機会があればぜひやりたいな、と思う。

 

因みにセミナーの内容はバタバタ茶にまつわる幾つものネタを披露し、まるでパズルのピースを出すように提供。後は地元で考えてくださいというものだったので、お役に立ったかどうかはわからない。ただ言えることは単にお茶の話をするより、地元にまつわる内容の方が当然ながら興味が沸くだろうということ。バタバタ茶の謎についてはお茶からのアプローチだけでなく、歴史学、言語学、地政学、文化人類学など、様々な観点から切り取ってみると更に面白いと思う。4年に一度ぐらいその成果を発表できれば嬉しい。

富山から静岡まで茶旅2017(1)富山でお話し

《富山から静岡まで茶旅2017》  2017年7月4日-7日

4年前に行った富山。魚がうまかったな、環境がよかったな、という印象が強い。また行きたいな、と思っていると、北京時代のお知り合い、前回も世話を焼いてくれたYさんから『ぜひ来てね』と声がかかる。そしてあのバタバタ茶の朝日町で、セミナーをさせてもらうことになる。地元のお茶について、地元の方に何を話せばよいのだろうかという迷いはあったが、それより、『また富山に行きたい』という思いが勝ってしまった。

 

更にはついでに静岡を再訪しようと思い立つ。だが日本は広い。日本海側から太平洋側へ、どうやってもそれなりの時間が掛かる。台湾に行くより遠いなと思いながら、なぜか無理して、しかも飛騨高山、愛知を経由して行ってしまった。無謀だが、まあこんな旅もあってよいか。

 

7月4日(火)
1. 富山
北陸新幹線で

朝から小雨が降っている。富山への行き方は飛行機、バスなどいくつかあったが、一番安直でつまらない新幹線に乗ってしまう。いよいよ私の旅も歳老いてきたのだろうか。勿論4年前はなかった、一昨年開業した北陸新幹線を一度は体感しようという狙いはあるのだが、新幹線はどれも同じだろう。新鮮味は特にない。

 

大宮まで在来線で行き、はくたかに乗車した。かがやきというのはもっと速いらしいが、そこまで急ぐ必要もない。列車は軽井沢などを通り長野まで行く。天気の悪い平日、基本的には出張のサラリーマン中心で自由席もかなり空いている。数人、山登りの格好の人がいるのはちょっと気の毒だ。

 

黒部川あたりではかなり雨が降っており、川が相当に増水している。台風が近づいているとの話があったが、それは逸れているのではなかったのか。車内ニュースでは福井あたりで大雨のため列車が止まっているとの情報も流れている。私は何という時に来てしまったのだろうか。まあそれも私の旅なのだが。

 

富山駅には定刻1時過ぎに着いた。僅か2時間ちょっと。確かに速いが費用もそれなりに掛かる。あまり食欲はなかったが、一応腹に何か入れようと駅のそばを食べた。駅前を眺めてみると、4年前は新幹線の工事をやっていたが、今はすっきりしている。時の流れの速さを感じる。

 

Yさんが予約してくれたホテルは駅前にあり、雨でも便利。まだチェックインの時間には早かったが、荷物を預けに行ってみると『本日は雨なのでお部屋へどうぞ』と嬉しいご案内。更には雨に濡れていたのでタオルまで差し出されてちょっと感激。これぞおもてなし、ではないだろうか。

 

富山でお話
ホテルの部屋はコンパクトだが居心地は悪くない。さすがに旅慣れた女性が選ぶ宿はどこか良い。午後4時近くまでゆっくりと休み、今日、明日の準備を少しした。ロビーには無料のドリンクサービスもあり、そちらに移動してコーヒーを飲みながら最後の仕上げを行う。そこへ雨の中、Yさんが登場した。

 

そして車に乗り、富山県民会館に移動した。ここの一階のカフェで打ち合わせ。今晩は、富山のビジネスマンの集まりでお話をさせて頂くことになっている。これもYさんの人脈のお陰だ。伝票の代わりに小さな人形が置かれているのも面白い。もしこれが中国なら、この人形にQRコードでもつけてスマホ決済にすれば受けるだろうな、と考えてしまう。日本ではいずれにしても無理だな。

 

このカフェには、富山産の和紅茶が置いてあったので、オーダーしてみた。販売もしているようだ。今や日本のどこでも紅茶が作られている。富山紅茶の会が生産しているとあるが、どんな団体だろうか。くれは紅茶とあさひ紅茶という2種類がある。あさひとはやはり朝日町のことだろうか。あそこで紅茶?

 

会場はこの会館の上だった。行ってみるとすでに主催者が来られていたが、私のPCとプロジェクターの相性が悪く、接続できずに慌てる。これからはPCだけではなく、コードも持参すべきと痛感。参加者は10数人だが、志のある官庁や有力企業の方々が中心の会でちょっと驚く。事前に参加者も聞かずに勝手な話をするのは悪い癖だ。

 

今回は『お茶を通して見るアジア事情』ということで、富山には何にも関係ないし、特にビジネスに繋がるようは話でもなかったが、皆さんきちんと聞いておられ、ホッと一息。お茶というのは意外と様々な側面があるということを理解して頂ければ十分だろうか。それにしてもこのような勉強会が定期的に開かれているというのは素晴らしい。

 

夜は皆さんに連れられて、新鮮な魚介類など富山の料理を堪能した。またかなり幅広い富山情報を聞くことができ、楽しく過ごした。私もセミナーとは違って、こぼれ話をいくつか話し、いつものように『セミナーより2次会の方が面白い』という不名誉なお言葉を頂戴する羽目になる。まあ仕方がないか。ホテルに帰る頃には雨はほぼ上がっていた。

 

静岡フラフラ茶旅2017(2)台湾で活躍した茶業関係者を調べる

3. 藤枝
幸之松の夜

実は幸之松さんにはちょうど1年前に呼んで頂き、セミナーを開催してもらっていた。満員盛況のお客さんだったが、ごく一部のお茶農家、お茶好きの方を除いて、お目当ては私の話ではなく、こちらの料理だったと思う。まあ話の内容も、お茶に相当関心がないと興味を引かない黒茶だったからだろうか。そして驚くほどおいしい料理が続々運ばれてきて、皆さん大満足だったのを覚えている。

 

その時は牧之原のSさんの紹介だった。結局その夜は彼の家に泊めてもらったのだが、『次回静岡に来ることがあれば泊まっていいよ』と言われていたので、お言葉に甘えることにしたのだ。このお店、何しろ風情があってよい。外国人などは必ず喜ぶ日本的な作りだと思う。

 

お店に入るとすぐに料理が運ばれてきた。お刺身、てんぷら、鍋物、どれも美味しく頂いたが、中でも静岡名物黒はんぺんの揚げ物。何と5枚も食べてしまう。これまで食べた物とは別次元の美味しさだった。『今日は家庭料理だ』とのことだったが、大将の料理は実に食べ甲斐がある。

 

Sさんがお茶関係者として呼んでくれていた人がいた。ここ藤枝には、あの日東紅茶の工場がある。そこに勤務するHさん。仕事で世界中の茶産地に行くそうで、今時のお茶事情を聞く。当たり前だが、世界は我々の目の前で起こっていること以上に、動いているようだ。そして日東紅茶の歴史についても、得るものがあった。

 

そんな話をしていると、東京にいるはずのI夫妻が入って来た。一昨日は京都の茶会に出て、昨日の夜、帰り際にここに寄って食事をしたらしい。そこで今日私が来ることを知り、何と実家のある山梨から戻って来たらしい。神出鬼没とは私がよく言われることだが、I夫妻は私の上を行っている。驚くべし。しかも食事が終わると東京へ帰っていたからすごい。何時に着いたのだろうか。

 

私はHさんとのお茶談義に没頭し、気が付けば12時を回ってしまう。酒も飲まずに、実に6時間近くも話をしていたことになる。これは楽しかった。それからお風呂にも入らず、そのまま寝てしまう。Sさん夫妻はさぞや呆れたことだろう。私の旅スタイルはどこでも自由奔放だ。

 

6月7日(水)
翌朝は鳥のさえずりで目覚める。散歩でもしようかと思ったが、もうご飯が出来ていると御呼ばれした。まるで旅館の朝ご飯を頂くようで、何とお替りまでしてしまう。昨晩から食べ過ぎだ。申し訳なかったのはSさんご夫妻の方は、私のはるか前に起きて、犬の散歩も済ませ、朝食もすでに済んでいたこと。居候がのこのこ起きてきて、大飯ぐらいだとは、落語のような展開となる。

 

4. 金谷
野茶研へ

今日は朝から金谷の試験場へ行くことになっており、藤枝駅まで車で送ってもらう。なんとも迷惑な客だっただろうが、また機会があれば泊まりに行きたい。でも断られるかもな。藤枝から電車で金谷まで行く。駅で降りてバスの時間を聞くと30分後しかなかった。しかももしそれを逃せば、午前中はもうないらしい。ちゃんと調べもせずに来たのは無謀だった。取り敢えず駅付近を散策。高台に上がり、旧東海道の石畳の道の入り口まで歩いたところでバスの時間となる。

 

バスの乗客は殆どなく、10分ほどで目的地に着いた。通称野茶研と呼ばれる場所、今日はお知り合いのIさんのお陰で、ここの図書館で調べ物をさせてもらえることになっていた。ここの歴史を見てみると、何と明治時代は東京の西ヶ原にあったらしい。私の母校も西ヶ原にあったのだが、ここの跡地、ということはないのだろうか。試験場だから広々としており、周囲には茶畑もある。

 

Iさんと一緒に図書館に行くと、既に話が通っており、何と私が調べたかった人物に関連する本を選んでくれていた。何とも申し訳ないことだが、時間の短縮となる。藤江勝太郎、中村円一郎など、台湾茶業で活躍した静岡出身者は多いが、茶処静岡のこと歴史に埋もれてはいないだろうか、と思うのだ。静岡でも彼らの名前を知る人が多くないのは残念だ。資料もそれほどない。出身地の町役場などに問い合わせた方がよい、とのアドバイスは貴重だった。

 

お昼はIさんの研究室で一緒に食べ、またお茶の話をした。Iさんとは昨年のお茶祭りセミナーで初めて会ったのだが、偉い研究員の先生とは知らなかった。私は品種や育種のことは何もわからないのだが、お茶の話題が全く尽きないのが不思議だ。やはり世界の茶産地を旅している人とは、話のテーマが合うのかもしれない。

 

午後は、何と偶然にもここで、黒茶の試飲が行われるというので、飛び入り参加した。集まったメンバーもすごい。近世茶歴史を研究するYさん、江戸文化を研究するK先生、尖ったお茶屋のIさんなどが、黒茶を持ち寄り、勉強している。私もプーアル茶などいくつかの黒茶を持っていき、飲んでみる。色々と専門的な意見や疑問が出てきて面白い。更には研究室でトルコのチャイなども飲んでみる。皆さん、お茶に向き合う姿勢が半端ない。私は場違いだな。

 

それから図書館に戻り、お借りした資料を整理してから、バスで金谷に戻った。バスの本数が少ないのでちょっとドキドキしたが、何とかたどり着く。そして名残惜しかったが、そのまま在来線で東京へ戻った。本当は1泊ぐらいして、お茶屋さんや農家を回りたかったが、時間が許さなかった。まあまたすぐに来るだろう。

静岡フラフラ茶旅2017(1)松下コレクションを見学する

《静岡フラフラ茶旅2017》  2017年6月6日-7日

パスポートの有効期限が6か月を切っていた。そうなると入国拒否される国があると警告され、本当かなと思いながらも、パスポートの更新に踏み切った。台湾で更新しようと思ったが、2週間もかかると言われ、さすがに異国で2週間パスポートなしは不安だったので、東京へ行った。その間は日本に居なければならず、旅も日本国内に限られる。そこで静岡へお茶の歴史調査に赴くことにした。果たしてどんな成果があるだろうか。

 

6月6日(火)
1. 袋井まで

いつものように朝早く起きて、在来線で静岡を目指す。小田原まで小田急線、そしてここで普通乗車券を袋井まで別途購入して乗車する。スイカは熱海を跨げない。ちょうど中村羊一郎氏の『お茶王国しずおかの誕生』という本を読んでいると、鎌倉初期、径山寺の修行を終えて帰国した聖一国師が興津の清見寺に立ち寄り、その際中国から持ち帰った茶の種を足久保に蒔いたとの話があると書かれていた。その真偽はよくわからないが、ちょうど興津の近くに来ていたので、思い切って降りてみることにした。

 

駅で切符の有効性を確認のうえ、清見寺への行き方を聞く。線路沿いに歩いて行くだけなので、難なく到着した。そこは門と寺が線路で仕切られている珍しいロケーション。鉄道ファンにはいい撮影スポットではないだろうか。線路を跨ぎ、本堂を見学。きれいな庭が見られた。ただ聖一国師に関する記述や茶の木などはほぼ見られない。仕方なく庭を掃除している人に聞いてみたが、『お茶の歴史については全く知らない』と言われて拍子抜けした。

 

本によれば室町時代には清見寺は都にも知られた銘茶を産出していたとある。聖一国師が足久保に茶の種を蒔いたという文献はどこにもないが、もしそれが本当ならば、当然清見寺にも蒔いたであろうと推測している。それにも拘らず、現代の寺には茶の痕跡すらないのはなぜだろうか。実に不思議だ。やはりこの話は眉唾物だろうか。

 

来た道をとぼとぼ帰る。途中にスーパーがあったので昼ごはんとしてパンを購入した。そこにはレジもあったがかなりの人が並んでおり、私のように買い物数が少ない客は自動決済に誘導される。初めて緊張したが、自分でバーコードを読み込ませ、現金を入れるだけ。意外と簡単で便利だと分かる。東京の近所のスーパーにはないのだが、静岡は進んでいるのだろうか。

 

2. 袋井
松下コレクション

それからまた東海道線に乗り、静岡を過ぎ、藤枝、金谷、掛川と馴染みの駅を全て通り過ぎ、70分かかって袋井に到着した。そこから浅羽支所へ向かうバスを待つ。意外にもバスは1時間に3本程度あり、比較的早く乗れた。10分ちょっとで目的地には着いたが、目指す浅羽支所が分からず迷う。

 

思ったより立派な建物の3階に目指す松下コレクションの部屋があった。ここで茶旅の先達、松下智先生の60年に渡るコレクションが最近公開されたと聞き、どうしても行ってみたいと思ったのだ。火曜日と水曜日の公開と聞き、ちょうどよかった。先日その確認は小泊先生にお電話していたが、会場には松下先生ご本人がおられて驚いた。

 

コレクションは意外にも、黒茶などが多く展示されている。トワイニングの周年記念のブロック茶まである。その辺がいかにも松下先生らしい。お茶の歴史を福建や広東、台湾などを中心に語ることはない。少数民族と茶、更にはビンロウの関係まで展示されている。このような展示は今までになかった物ではないだろうか。少数民族のお茶研究、実に興味深い。

 

また一方には書棚があり、大量の参考資料、本が並べられている。それを見ると中国や台湾が中心ではあるが、よくぞここまで行かれたものだ、という奥地の物もあり、また日本各地の地方誌なども沢山ある。思わず手に取り、見入ってしまうほど、貴重な物がいくつもあった。

 

先生によれば、『ここにある資料は一部だ。現在本の執筆をしており、多くに資料は使用中だ』という。ご自宅には一体どれだけのお茶や資料が眠っているのだろうか。いずれにしても整理するのは大変だったことだろう。そしてこのようなコレクションの展示館が日本にはこれまでなかったことが残念でならない。

 

松下先生には『ぜひ茶寿までお元気でご活躍ください』とお伝えした。茶寿とは108歳のことで、中国茶業界の泰斗、張天福氏をイメージした。先生からは『今のところ体はどこも悪くない。90歳でインドのダージリンに行こうと思っている』という力強いお言葉があった。コレクションの見学者は平日にもかかわらず、かなりいた。勿論先生のこれまでの活動と研究成果の結果であり、また茶の歴史への関心の高まりを感じた。これからはお茶の歴史に興味を持つ人が増えてくれればよいと思う。

 

帰りもバスで袋井駅に戻る。それほど待たずに乗れるのがよい。袋井から藤枝までJRで行く。今晩は、藤枝の幸之松さんにお世話になることになっていた。藤枝駅に着くと、Sさんが車で迎えに来てくれた。何とも有り難い。

世界お茶祭り2016(4)緑茶コンテストの授賞式

それからゆっくり1階を見て回る。お茶を販売するためのブースもあるが、その場でお金を取ってお茶を飲ませるところもある。何だかそれは新鮮。3階に上がると、下のブースが俯瞰できて面白い。そんなことをしていると、また終了時間が来てしまった。ちょうどエコ茶会のMさんと一緒になったので、静岡駅に向かった。

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驚いたことに、私とMさんは同じところに泊まっていた。夕飯はどうするのかと話していると、今朝のSさんの宴会が話題に上り、そこに合流することにした。実は我々、今晩は万が一台湾人か中国人が静岡にやってきた場合に備えていたのだが、どちらからも連絡がなかったのだ。

 

Sさんの宴会は10数人が参加して行われていた。後から割り込んだ我々、端の席でSさん、そしてTさんと話し込む。この会は皆さんお茶関係者だから、各場所で話が盛り上がっている。Tさんとは以前から顔馴染みだが、ゆっくりお話しするのは初めてで、楽しく時間が過ぎた。

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我々が待っていた台湾人、ジョニーは静岡にやってきたが、既に食事をしているということで放置。更には連絡がないと思っていた福州の魏さん、突然知り合いのS女史から電話をもらう。今浅草で魏さん夫妻を一緒だというのだ。それにしてもなぜ彼女が電話してきたのか。何と魏さんの携帯が壊れてしまい、連絡できなかったらしい。それでも繋がってしまうお茶の世界、凄い、というか、恐ろしい。Sさんたちは近くの別の宿に泊まっているようで、団体さんで帰っていく。

 

1030日(日)
魏さんと

翌朝はチェックアウトして荷物をフロントに預けて出掛けた。昨日のおにぎり屋さんも日曜日はお休みのようだ。もう慣れたルートでグランシップへ。駅で何と札幌の日げつさんと出会う。彼女の案内で1階のブースを回り、新たな出会いがある。札幌セミナーに呼んでくれたKさんとも再会。お茶祭りだ。

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魏さん夫妻が日本で有名なお茶博士、王さんの案内でやって来た。ジョニーもやって来た。この両者、初対面だが、私の親しいお知り合いだ。2人とも今回来日した理由は世界緑茶コンテストで最高金賞を受賞、その授賞式に出席するためだった。まずは受賞茶が展示されている会場へ向かい記念撮影。

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それから1階のブースを回り始めたが、皆それぞれに知り合いが多く、インド紅茶、台湾茶、日本茶、そして製茶機械から茶缶メーカーまで、あちこちで引っかかり、前に進まない。魏さんの熱心さが光る。お昼を落ち着いて食べるところもあまりない。館内のカフェで適当に済ませる。折角日本に来たのに、これでよいのかとも思ったが、魏さんの目的は何よりお茶。ご飯は二の次である。

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今日は天気も良いので富士山が見えるかもしれないと、館内最上階へ行ってみる。ここでは高校生が茶席を設けていた。大きな窓から外がよく見えたが、残念ながら富士山は隠れて見えなかった。魏さんの奥さんは、和服姿の日本人を見ると、『一緒に写真を撮って』といって、近づいていく。これもまた面白い光景だ。

 

それにしても魏さんは忙しい。隙があれば1つでも多くのものを見て、一人でも多くの人と出会おうとしている。この圧倒的な行動力についていく、彼の部下たちは大変だな、とつくづく思う。日本の和紅茶にもかなりの興味を示し、来年は茶産地を訪ねようと意気込んでいる。

 

午後3時から表彰式が始まった。受賞者は日本、中国、台湾、インドなど、各国から出ており、受賞茶もかなりの数に上っていた。その中で最高金賞10品のうち、魏さんとジョニーで4つを取っていた。各人が川勝静岡県知事から賞をもらい、記念撮影をしている。実はこの緑茶コンテストは世界お茶祭りとは関係ないのだが、その授賞式をお祭り内で行っているに過ぎないと聞いた。なんだか不思議な感じだが、まあお茶祭りの最後を飾るにはよい企画と言えよう。

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式が終わってもあちこちで記念撮影は続いている。お茶を販売する者にとって、このような受賞写真は重要だろう。またこの機会にネットワークを広げることも有意義に違いない。お茶の輪が広がっていくのは嬉しいことだ。蛍の光が流れ、お茶祭りは幕を閉じた。出口へ向かうとそこでも知り合いに会い、また立ち止まる。

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魏さんたちは新幹線で東京へ戻るというので、静岡駅まで送る。でも明日は京都へ行くというのだから、東京へ戻るのは反対だよ、と思ったが、仕方がない。私も今日は東京へ行くのだが、いつものように鈍行だ。静岡駅で切符を買っていると、MさんやSさんが通りかかる。『1時間だけ静岡の名物を食べて帰らない?』と誘われたが、すでにその気力はなく、ホテルに預けた荷物を取り出して、緩々と鈍行に乗った。よく考えてみればバスで行くこともできたのだが、何だか今回は頭が回らなかった。

 

世界お茶祭り、私にとっては魏さんたちが登場したし、セミナーも万里茶路で、世界を感じたのだが、正直言うと、全体的には日本お茶祭りか静岡お茶祭りに思えてしまった。どうしてこの名前が付いたのかはわからないが、恐らく中国の茶葉博覧会を常に見ている魏さんからすれば、寂しい会場に映ったことだろう。3年後、果たしてどうなるのだろうか、余計なお世話ではあるが、ちょっと心配になった。

世界お茶祭り2016(3)セミナーについて

紅茶セミナーは事前予約を受け付けないと言い、30分前から先着順というので、10時過ぎに行ってみたら、既に数人が並んでいる。私も並ぼうとしたら、何とすぐ近くに講師のY先生がいるではないか。中では主催者のYさんが忙しそうに準備に追われ、更には紅茶の呈茶担当の丸子紅茶組がバタバタしている。私はY先生から『日本の紅茶史』について、色々と聞いてしまった。

 

実は中国ではいつから紅茶という文字が使われだしたのか、と聞かれたことがあった。私も興味があったので、中国茶の関係者にかなり問い合わせたのだが、最終的に政府機関の研究員でもはっきりしなかった。そのようなことに関心を示さないのが現代中国だ。いや日本だって同じだろう。だからこのセミナー、お茶関係者の関心が極めて高い。

 

10時半の開場と同時に50人以上の人がなだれ込んだ。私も末席に連なる。私の横には日本茶のS先生、反対側にはKさんが座った。開会時には座席を増やして定員を超える70人近い人がいたらしい。今回一番人気のセミナーだっただろう。Yさんの挨拶に続き、丸子のMさんの軽妙なお話。やはり日本の紅茶と言えば多田元吉だから。

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Y先生も日本で紅茶という言葉が使われだしたのは明治初期と言い、それは中国の上海方言から来ていると、文献などを検証した内容を解説した。その前は赤茶とも表現していたらしい。その紅茶という言葉を、多田元吉らが広めていったということだろう。明治7年には紅茶を作るために、清国から技術者も呼び寄せているし、多田元吉自身も中国湖北省に紅茶と黒茶の研修に行っていたはずだ。地元ということで静岡と紅茶の歴史に触れられていた。

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そして多田元吉が植えたという100年以上前の茶樹、原木から摘んだ茶葉を使って作られた紅茶が振る舞われた。何とも歴史を感じる。紅茶は当時日本人が飲むものではなく、輸出される商品作物。日本人が紅茶を本格的に口にし始めたのは戦後だろうが、どのような経緯で飲まれたのだろうか。今回のセミナーは基本的に明治時代に絞られていたので、その後の紅茶史について、続編を期待したい。

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セミナー2

紅茶セミナーから急いで戻り、自分のセミナーの準備にかかる。と言っても昨日と全く同じことを話すのだから、それほど時間はかからない。ただ本日は昨日よりかなり多くの方が聞きに来てくれた。何とも有り難いことだが、その分プレッシャーもある。また2回、全く同じに話せた試しがないので、それも困るが、2日続けて参加という方はいないので、今日は今日の話をしよう。

 

何とか話を終えて、質問を受けた。質問された方は、私の説明が悪かったのか、私の意図していない理解をされていたので、その点は修正させて頂いたつもりだった。だがその夜、ネット上の公開の場で『金を払う価値のないセミナー』という批判をかき込まれていて、驚いた。

 

確かにお金を払って聞いてもらっているという概念が私の方に薄かったのは事実かもしれない。昨日のセミナーの前にも『今日は参加者も少ないので自由に話しましょうか』といったところ、『お金を払って聞きに来ているのだから、ちゃんと話してください』と言われて、ちょっと驚いた。これまでそのように言われたことなどなかったからだ。言われなかった理由、それはこれまではそもそも私の活動を理解している人が多かったからだろう。セミナーの題名だけで来てくれる人を受け入れるのは稀だったのかと反省した。

 

私としては、そのような批判がよい悪いではなく、セミナーをもう一度考え直す必要があると痛感した。一度セミナーをやめて、何が必要なのか、何を伝えるべきなのかを考える良いタイミングではないかと思った。今年は色々とセミナーをやり過ぎた。これまでも私のセミナーにかなり不満を持って帰った方がいたのだろう。Y先生のように文献に根差して検証していくのは学術的でもあり、説得力もあるが、私には難しい。私としては全ての方に満足いくような話はできないし、いくら考えても、限界はあると思うのだが、まあ、これも一つの契機であろう。

 

因みに私のセミナーにこれまで参加してくれた数人に『なぜ私のセミナーに参加するのか』を聞いてみたところ、『自分が行きたくても行けないようなところの話が出るから』とか、『珍しいお茶が飲めるから』『お茶を歴史という観点から考えたことがなかったから』などという答えが多かった。今回も『茶旅』を前面に出せばよかったのかもしれないが、『万里茶路』などという硬いテーマを掲げたため、専門的な話かと誤解されてしまったのかもしれない。

 

フラフラ

昼は大幅に過ぎていたが、ご飯を食べていなかったので、外へ出た。広場では屋台が出ており、食事が買えた。何となく富士宮焼きそばを食べた。疲れていたが、好きなものを食べれば元気は出る。それから昨日も見た釜炒り実演のところへ行くと、今日は有名なKさんが炒っていた。しかもそこへ静岡の手もみ茶の方が来られて、共演!何だかお茶祭りらしい光景だった。

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世界お茶祭り2016(2)レトロな静岡

歩いていると埼玉日高の備前屋さんと出会う。昨年一度お訪ねしただけだが、その後FBでのやり取り、台湾茶農家を紹介頂くなど、しばしば連絡を取り合っている。今年は日本茶アワードで受賞したという。常に勉強の人だ。後をついていくと、何とK先生がいた。しかもコスプレ?でマテ茶を淹れていた。私などは茶葉以外のお茶を飲むことなど極めて稀なのだが、積極的な備前屋さんはそこに座る。

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ブラジルやアルゼンチンなどで生産される南米の飲み物マテ茶。飲むサラダとも呼ばれ、体に良いと現地では相当飲まれているらしい。K先生からマテ茶の飲み方を教えてもらい、飲んでみる。何とも不思議なお茶だった。なんかボンビージャというフィルターのついたストローでちびちび飲む。現地では回し飲みが普通とか。それにしても中国茶や紅茶のK先生と思っていたら、マテ茶まで。実に多彩だ。

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雨の夜

時間が過ぎるのはあっという間だった。午後4時が本日の終了時間。外は雨。私は静岡駅まで電車で行き、予約した宿へ向かう。前回は駅の北側に泊まったが、繁華街で煩いので、今回は反対側にしてみようと思い南側にした。だが最近の方向音痴がさく裂して、ずぶ濡れになりながら宿を探す羽目に。ついにグーグルマップに頼る時が来たようだ。

 

その宿は、如何にも昔のビジネスホテルだったが、コンパクトで悪くはなかった。そして本来1泊の予定だったのが、明日も泊まることになったので、この宿に連泊しようと聞いてみるとなんと『明日は満室です』と言われて凹む。取り敢えず部屋で明日の宿を予約しなければならないと焦る。

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ところがネットで出てきた中に何とこの宿があるではないか。料金も変わらない。予約したうえで下に行き、『部屋、有るじゃないですか』というと、すかさず『それは喫煙部屋では』と言われ、更に凹む。ただフロントもちょっと調整してみます、と言ってくれ、結局禁煙の同じ部屋に2泊できることになる。有り難いことだが、何となく釈然としないところもある。

 

そのまま雨の中、外へ出た。今晩は疲れたので、早く休んで明日に備えたい。そこで駅へ行き、寿司を食べて、すぐに戻った。静岡では駅の寿司と言っても侮れない。かなり美味しいものがリーズナブルな料金で食べられるので、行くと必ず食べている。いつもならコンビニも寄り、更にお菓子など買うのだが、その気分ではなかった。宿ではウエルカムドリンクとして券を1枚くれていた。これを自販機に差し込むとコーヒーが出てくるので、それを部屋に持ち込んで飲んだ。面白い自動化だ。そして早目に安らかに眠る。

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1029日(土)

静岡の朝は

翌朝は当然早めに起きたので、朝食が必要になる。天気は回復しており、気持ちがよい。コンビニでサンドイッチでも買おうかと外へ出たが、すぐに古めかしいおにぎり屋さんが目に入る。そこは何と中で食べられるようになっていたので、入ってしまった。地元の人?が2人ぐらい、食べていたのが、おにぎりセット。おにぎり2個と味噌汁、漬物で300円也。おにぎりの具は自由に選べる。勿論作り置きのおにぎりをテイクアウトしていく人もいる。

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これはいい、と早々に注文する。店内のテーブルなどどう見ても昭和の雰囲気。そのテーブルの上には、なぜか朝からおでんが作られている。これも美味そう、と思っていると後から入ってきた女性がそのおでんを2-3本抜き取り食べ始める。静岡おでんは有名だから食べてみたかったが、そんなに食べられないと控えた。その横ではおじさんが朝から競馬新聞を読み、耳にイヤホンを付けている。本当にすごい!

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自分のセミナーは午後1時だが、紅茶セミナーを聞きたいので早めに行くことにしていた。ちょうど静岡駅で改札を入ろうとすると、向こうから顔馴染みのSさんが改札を出てきた。やはりお茶祭りに参加し、所属する協会の皆さんで茶芸を披露するようだ。何だかとてもテンションが高い。『夜は宴会がありますから、参加してね』などと言い、更には『朝ご飯食べてないから付き合って』と言われ、駅構内のコーヒーショップへ。

 

若者向けかなと思う作りのお店だった。Sさんはクロワッサンとコーヒーのセットを頼んだが、私は飲み物だけにした。メニューを見てびっくり。紅茶のコーナーの一番上に『ディンブラ』と書かれていた。普通の店なら『紅茶』とか、『ダージリン』ぐらいしか書いていないと思うのだが、いきなりスリランカの、それもウバやヌワラエリアではなく、ディンブラと書くのだから、相当に凝っている。実際出てきたお茶は、ポットに入っており、茶葉もしっかり。2杯分もある。これで290円とは驚く。日本の紅茶界は変わろうとしているのだろうか。

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紅茶セミナー

Sさんと電車でグランシップに向かい、10階に上がる。それにしてもこの施設、立派だな。地元の人にそれを言うと『税金の無駄遣い』など問う言葉が飛んで来る。箱物行政だろうか。因みにお茶祭りの規模は3年前と比べ、少し縮小しているようだ。予算が縮小しているのだろうか。広場の出店の数も減っているという。