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沖縄で突然茶旅2018(6)ブクブクー茶を点てる

すっかり暗くなった夜、今日の夕飯はどうしようかと思ったが、思い切って丸亀製麺にチャレンジした。このチェーン店ならわざわざ沖縄で食べなくてもよいだろうと言われそうだが、沖縄での麺の硬さをどうしても試してみたかった。それは過去、武漢、台中、ホーチミンで食べた物と比較したかったからだ。勿論沖縄は日本領だが、食文化までそうなのか、一つの試金石になると思った。

 

土曜日の夜、街道沿いにあるきれいなお店にはお客がかなりいた。沖縄でも一定の人気があることが分かる。釜揚げうどん+鴨汁+おいなりという組み合わせにしてみる。うどんは完全にコシがあり、海外の麺とは違っている。『沖縄の人も内地と同様コシのある麺が好きなんだ、沖縄そばにしても、フニャフニャしていないし』とつぶやいたが、Hさんは『そうとは限らない。このうどんは内地のものだと思って食べているかもしれない』という。なるほど複雑だ。因みに丸亀製麺は沖縄本島に7軒あるようだ。

 

1月14日(日)
突然ブクブクー茶

翌朝はゆっくり起きる。今日は日曜日で特に予定もないので、図書館にでも行こうと考えていた。そこへ老舗ちんすこう屋の女将さん、Aさんよりメッセージが入る。『本日11時に那覇市識名の沖縄そば屋にて』と書かれていた。実は昨日会ったTさんが繋いでくれたご縁だった。しかも『安次富順子さんと一緒に行きます』と書かれているではないか。

 

安次富順子さんと言えば、琉球沖縄食文化研究家で、且つ何よりも戦後ブクブクー茶を復活させたご本人だった。先日図書館でそのご著書を拝見していたが、まさか今回お会いできるとは思っても見なかった。ご縁というのは何とも凄いなと思う。

 

まずは県立図書館へ歩いていく。今日は少し暖かい感じなので、腰の調子もよく快適に進む。15分位で近くまで来たところ、公園があった。何気なく見てみると、そこは『沖縄県立農事試験場跡』と書かれており、1930年前後にここに設置されたらしい。1961年には移転したとあるから、30年ばかりの間、この街中に試験場があったことになる。今は木々が生い茂る公園だ。

 

その先に沖縄県立図書館があった。そこの2階には沖縄関連書籍が並んでいると、先日Nさんから聞いていたので、一度は訪れようと思っていたのだ。今年の4月からは新館移転作業のため、休館になるとも聞いていた。図書館はかなり規模が大きく、なにより広々としていてよい。

 

2階に上がると、本がずらりと並んでおり、検索をかければ沖縄関連本が沢山見つかった。だが先日訪れた名護の茶業誌を探したが、見付からない。図書館書士の女性に聞いてみると色々と検索してくれたが、結局ここには所蔵されていないと分かった。ところが少しすると彼女は『名護の図書館にはあるようです』と言って、わざわざ他の図書館まで検索してくれ、その結果を知らせてくれた。何とも細やかなサービスで驚いた。ここにはコピーを取りたい内容が豊富にそろっており、コピー機の前にいる時間が増えた。

 

その作業を終わると、11時を過ぎていた。約束時間が11時半に変更になっていたが、初めての場所なので急いで向かう。歩いて15分程度のようだったのでまた歩き出す。大きな道を行き、それから坂を上り、何とか時間前に着いたが、その店にはすでに行列が出来ていた。てんtoてん、というそのお店は人気店のようだった。Aさんを見つけて一緒に中に入る。

 

安次富さんも来られており、店の中をドンドン歩いていき、階段を下りて、一番奥の席に座った。色々とお話を伺おうと思ったが、まずは資料を頂き、更には『実際にブクブクーを淹れてみましょう』と言われたので、さすが料理学校の先生だな、と感心する。このお店はゆかりのあるところだと言い、普通は中で作ってもらうのだが、特別に道具一式を持ってきてくれた。

 

そして突然、『茶筅でかき回して』と言われ、目の前の大きな茶筅を持ち、大きな大きな茶碗に向かう。軽くかき混ぜたが変化はなく、『もっと強く』というので、かなりの力を入れてみると、意外とバランスがとりにくい。これはかなりの技術がいると分かる。何度もやっていると少し泡が立ってくる。これがブクブクー最大のポイント、泡立ちだ。この泡を掬い取り、小さな茶碗(既に小豆が入っている)に移す。飲もうとするがうまく吸えず、こちらにも技術がいる。

 

この泡を立てるためには、技術より重要なものがある。水だ。そのため、ブクブクーを復活させる際はどの水を使えばよいか、那覇近郊の井戸水などを1つずつ調査したという。何しろ戦後50年余り、もう知る人もなくなった茶を復活させる苦労は並大抵ではない。安次富さんとお母様などで、努力を重ねた結晶だ。因みに戦前はブクブクーと呼んでいたが、今では茶を付けないと沖縄の人も分らないという。

 

1つ言えることは、富山のバタバタ茶とは同じ振り茶の系列だが、その成り立ちは明らかに違い、また茶道ともい一線を画すことだ。その独特な手法と成り立ちは他に例を見ない。そしてその起源は謎のままだという。中国などでも見たことはない。ブクブクーは一体どこから来たのだろうか。

 

お見せで頂いた沖縄そばは思った以上に美味しかった。木炭すぱ、麺はこしのある沖縄そばで、かつお出汁のスープは抜群に美味い。古代米おにぎり、というもの、モチモチしていて旨い。何故この店が行列していたのか、それはブクブクーではなく、この麺が目当てだったのだ。納得!Aさんには本当に感謝だ。

沖縄で突然茶旅2018(5)軽便鉄道から茶房へ

金川をなぜ『かにがわ』と読むのだろうなどと考えながら、車に乗り込んだ。急に陽の光が差し込んできた。Hさんが『このまま帰るのもなんだから、今帰仁でも行きますか』と誘ってくれた。今帰仁(なきじん)もどうしてこんなふうに読む(または書く)のだろうか。沖縄の底は深い。

 

今帰仁城(なきじんぐすく)は世界遺産にも登録されている。前回Hさんに連れて行ってもらった座喜味城と同様だが、こちらの方が更に整備されている印象がある。天気が良くなったので、砂漠に建っているような城に向かい、勇んで門を潜り、石段を上って行く。思ったより規模が大きい。ここは琉球王国成立前からある城で、北山王が治めていたという。規模は首里城と同じぐらいらしい。

 

上に登ると、海まではっきり見えている。ここも交易の1つの中心だったのだろう。ただ建物はほとんど残っていない。本丸以外にも西の丸と言った感じのスペースが残っていた。女官部屋があったとも伝えられ、御嶽もあったという。城の中に御嶽というのが、いかにも琉球だ。そんなことを思いながら、城壁を眺めていると、一転俄かに掻き曇り、雨が降り出した。最初は笑っていたのだが、その降り方は尋常ではなく、石段を転ばないように退散するも既にびしょぬれ。

 

まさかあんなにいい天気だったので、傘を車に置きてきたのが失敗だった。小降りになるまで売店の前で雨宿り。そこは如何にも雨宿り、という場所だった。15分ぐらいすると、また明るくなり出し、何と虹がかかり始める。これは何のお告げだろうか。このまま帰るのもどうかと思い、歴史文化センターという建物に入って、歴史を学び直した。

 

夕暮れ時、海岸線を車は走っていく。以前屋我地島に泊まりに行った時に、通った道だ。暗くなった頃、食堂に入る。ここでは海鮮が食べられるというので、海鮮丼をお願いしてみた。お客の半分以上は中国人など外国人、いかにも沖縄で海鮮を食べようという人々だ。彼らを当て込んでいるのか、料金は高め。

 

更に帰ろうとすると、何と道路の反対側の駐車スペースは既に門が閉められてしまっていた。一瞬これでは帰れないかと観念しかけたが、暗い道をよく調べたら、車が何とか通れる道が存在しており助かった。何だか今日は天気同様、晴れたり曇ったりだったが、やはり腰の具合はよくない。

 

1月13日(土)
軽便鉄道から茶房へ

翌日も天気は良かった。天気が良いと腰の調子も上向く。今日はやはりTさんの紹介で、南城市に住む、お茶を研究していた方を訪ねることになっていた。土曜日なのに申し訳ないな、と思っていると、思いがけず、『軽便与那原駅舎』に来て、と言われる。軽便鉄道と言えば台湾ではおなじみだが、沖縄にもあるのだろうか。

 

今日もHさんの迎えで車に乗る。まずは腹ごしらえということで、沖縄では根強い人気のあるファーストフード、A&Wに向かう。ハンバーガーのセットにルートビアをチョイス。ルートビアは美味しい。お替り無料と聞いたが、さすがにこの気候で2杯は飲めなかった。因みに今日は土曜日。基地で働くアメリカンの家族や米兵たちが来ていた。

 

それから与那原駅舎へ向かうが、道が意外と狭くてちょっと探す。ようやくたどり着くと、そこはきれいな駅舎。戦前走っていた軽便鉄道は、時代と共に完全に姿を消し、最近復活したらしい。そこではTさんが一人で業務をしていた。彼を訪ねた理由は大学で沖縄茶について、卒論を書いたと聞いたからだった。ただやはり資料はそれほどないとのことで、沖縄の茶の歴史を調べるのは簡単ではないと思い知る。

 

だがこの駅舎に来たことにより、1つのことに気が付いた。それは戦前、沖縄と台湾は日本政府から同様の政策を持ち込まれ、同じような作りになっていたということだ。しかも残念ながら、沖縄よりも台湾の方が早くに成果が出たようで、多くの資本が台湾に注ぎ込まれ、沖縄は遅れて行ったという歴史だ。同時に地理的にも近いこの2つの場所。台湾が栄えれば沖縄人が出稼ぎに行き、沖縄に戦火が迫れば、台湾に疎開した、という歴史もあるようだ。これは意外と思いつかなかったので、今後はもう少し沖縄と台湾についても調べを進めたい。

 

それからTさんよりアドバイスを受けて、南城市にある茶房一葉を訪ねる。与那原から南城がこれほど近いとは思ってもみなかった。そして茶房が、本当にサトウキビ畑の近くにあるので、驚いた。ここは知らなければ絶対に来ることができない場所だった。お店に入ったが人はいない。

 

てっきりTさんが連絡してくれていると思って、店主のUさんに話しかけたところ、先方が驚いている様子にこちらも戸惑う。何と私の連載記事を読んでくれていたのだ。初めて会うのに、10年ぐらいの知り合いのようになる。茶旅では偶にあることだが、一番驚いたのは一緒に来たHさんだったかもしれない。

 

それから沖縄の茶について色々と話を聞いた。清明茶なども出してくれた。Uさんは独自に何度も台湾に行っており、様々な茶産地を巡っていた。更に驚いたことには、昨年タイでご一緒したT先生が明後日ここに来てセミナーをやるというのだ。どうやら名護の試験場で年1回の紅茶品茶会があるらしい。その会には佐賀のOさんも来るという。何も知らずに来てしまったが、どんどん繋がってくる。

 

お客さんが何組か来たのだが、結局最後までお店にいてしまった。それほど居心地がよかったということだ。突然の訪問にも拘らず、Uさんには歓待してもらい、嬉しかった。一人でここに来ることは難しそうだが、次回も何とかやって来ようと思う。

沖縄で突然茶旅2018(4)清明茶と金川紅茶

Iさんに送ってもらい、一度宿へ戻る。今度の部屋は椅子なので、先ほどまでの苦労はないが、2階から4階へ上がったため、階段を歩いて上がるのがしんどい。本当に老人のように腰を曲げて、よちよち歩いていく。少し休んでから、早目に夕飯を食べようかとまた外へ出た。夜になれば寒さが増すので、腹は減っていないがやむを得ない措置だ。

 

国際通りの方に歩いていくと、昨日閉まっていたお茶屋のことを思い出して、もう一度寄ってみた。何とお店は開いていた。そしてその扉には『清明茶あります』という嬉しいお知らせまであった。中に入ると、店主が店仕舞いしようとしていた。まさに奇跡的に出会えた感じだ。

 

さんぴん茶はピンクの紙に細長く包まれているものが、昔からの包装だという。ただ中身は中国製だと。もっと上等なさんぴん茶もあったが、こちらも中国製らしい。そして清明茶を見せてもらうと、何となく中国で昔見た珠茶のような雰囲気があった。球茶はジャスミン茶の一種であったが、この清明茶はどうだろうか。

 

店主によれば、これは台湾産だというが、今や沖縄でも清明茶を扱う小売店は2-3軒しかないらしく、どこも量が少ないため、問屋経由で購入しているらしい。『清明茶を買うお客さんはもうほとんどいない。清明茶というお茶を知っている人すら稀な状態だ』というのだから、仕方がない。昨日図書館で見た清明茶の説明は『中国茶の総称』のように書かれていたが、本当にそうなのだろうか。清明節前後のお茶と言う意味にも取り難い。

 

モヤモヤしながら外を歩く。昨日図書館で紹介された本を探しにジュンク堂へ向かう。腰は痛いが、座っているよりマシな気がして歩いていく。『しまくとぅばの課外授業』という本にさんぴん茶の由来なども書かれており、また沖縄の地名についても詳しいので、読んでみようと購入。尚ジュンク堂の2階は沖縄関連図書の宝庫だった。もし購入が必要であればまずはここを探そう。

 

ジュンク堂から宿までは意外と遠いが、ゆいレールに乗るのも何なので、ゆっくり歩いて帰る。途中街の食堂を発見したので入ってみた。何とステーキが880円だというので注文する。サラダにスープ、ご飯までついて、そこに立派な肉が登場した。店員さんはブラジル辺りの人だろうか。今日も食べ過ぎてしまったが、それは沖縄が悪い!帰り道は風が冷たいのに、なぜか心は温かかった。

 

1月12日(金)
名護へ

翌朝は更に寒かった。小雨も降り出しそうだ。腰は小康状態ながら、あまり無理できる状況にはない。外へ出ることを諦める。午前10時前、Hさんが迎えに来てくれた。今日は名護へ連れて行ってもらう。名護郊外の茶農家を訪ねるのだが、その前にランチをしようということで、名護アグリパークへ行く。

 

ここはかなり敷地が広く、地元の物産を売り、レストランもある。県のプロジェクトのようだ。沖縄には補助金が沢山出ているな、などと感じてしまう。おしゃれなレストランでランチを注文するが、やはりどことなく涼しい。ただこんな日でも宣伝のための撮影が行われており、店の人が申し訳ないと言って、こちらで採れた芋などをくれた。食事は地元やんばるで採れる旬の野菜をふんだんに使っており、優しい感じがした。

 

食後、売店に寄ってみると、沖縄産の紅茶を販売していた。よく見ると、これから訪問する予定の金川紅茶と書かれていたので、特に購入もせずにスルーしてしまった。緑茶も売っているようで、名護にはお茶の雰囲気があると感じたが、勿論土産物全体から見ればほんの少量だった。

 

車で15分も行くと、目的地の金川紅茶に着くはずだったが、なかなか見付からなかった。何とか茶工場らしき場所を発見したが、看板すらない。仕方なく電話するとその横にご自宅があり、比嘉さん親子が温かく迎え入れてくれた。ここは埼玉のTさんの紹介で訪問したが、どのようなお茶を作っているのかは正直分かっていなかった。

 

ただご挨拶をして、金川紅茶の話を聞いて、昨年の国産紅茶グランプリで第1位を取ったお茶だと思い出した。これは若い息子さんが、非常に熱心に製造法などを研究した結果生まれたものであった。彼発に冷静に物事をみているようで、1番を取ったという気負いもなく、むしろ常に上を目指すという姿勢が素晴らしかった。

 

勿論その基礎となるのは、お父さんが数十年かけて培った茶栽培であり、それはおじいさんの代まで遡る。1960年代には、台湾からの茶の輸入に対して、沖縄独自のお茶作りが奨励された様だ。沖縄復帰後は内地の緑茶需要に応えて、蒸し製緑茶を製造して、皆内地に送っていたが、その需要も細っていた。

 

午前中、数年ぶりに霰が降ったという寒さの中、暖かいお部屋で温かい紅茶を飲ませてもらい、非常に有意義な時間を過ごしたが、肝心の紅茶を購入したいと申し出ると『申し訳ないが、全て売切れ』という返事だった。それほどの産量がなく、また受賞で注目されており、品不足だった。ただ先ほどアグリパークに売っているのを思い出し、すぐに取って返して、3パックを確保した。そんなに需要があるなら、もっと作ればいいのに、と考えるのは素人だろう。品質を保つことはそれほど簡単ではない、と教えられる。

沖縄で突然茶旅2018(3)元台湾人茶商と会う

1月11日(木)
お茶巡り

翌朝も寒かった。何と朝起きてフッとかがむと、ぎっくり腰が再発してしまった。腰痛はもう30年前に最初にやってしまったもので、最近は出ていないから安心していたのだが、まさか沖縄で再発するとは思いもよらないことだった。幸い何とか歩けるので、今日の活動に直接的な支障はないが、この畳の部屋で寝起きする、そしてPCを座って打つのは苦行となってしまった。

 

しかし今回の沖縄、4日程度で失礼するつもりが、どんどん色々な方の支援で予定が入ってきて、とても4日では消化しきれず、昨日7日に伸ばしてもいた。ちょうど泊まっている民泊の部屋は延長した3日は塞がっていたので、洋室に変更してもらうことになる。この辺はかなり運がよかった。もしそのまま畳の部屋だったら、動けなくなっていたのかもしれない。

 

更にはエアコンで部屋を暖かくしたので、多少マシにはなる。常に持ち歩いているタイガーバームの湿布薬を貼り、何とか凌ぐ。もう2年半ぐらい前になるか、ミャンマー激走の列車旅で腰を痛め、タイのメーサイで療養した際に重宝したものだった。こういう時は日本製より強烈なアジア製が役に立つことも知っている。

 

取り敢えずコンビニに行き、ホッカイロも手に入れ、万全の態勢を取る。ついでに昨日気になっていた、うちなーおにぎりセットも購入。これはポーク卵とタコライスが入っている。これでさんぴん茶を飲めば、いかにも沖縄らしい。ただ沖縄の人が朝から皆こんなものを食べているとも思えないが。

 

今日はお知り合いのIさんに案内してもらうことになっていた。彼女も忙しい予定をやりくりして1日付き合ってくれるのだから有り難い。まずは車で比嘉製茶へ向かった。そこの社長とIさんは仕事上の付き合いがあるというので訪ねた。沖縄の茶業では最大級の会社らしく、さんぴん茶もかなりの量を取り扱っている。

 

社長の比嘉さんは30代半ばとまだ若かった。聞けば高校時代は野球で甲子園に行ったとか。会社自体は戦後すぐにお婆さんが始めたらしい。昨日見付けた比嘉茶舗がその店舗だったが、2年前にお婆さんは引退して、引き継いだおじさんは時々しか店を開けないらしい。さんぴん茶については、現在は中国から輸入しているといい、台湾産はほぼない。そのさんぴん茶、今は緑茶ベースだとも言う。なるほど、2種類存在するのかもしれない。沖縄でもお茶自体の需要が落ちているとの話もあり、飲料の多様化が窺われた。

 

お昼は沖縄そばを食べた。チキンそばというのが目を惹いたが、何とそばにチキンカツが入っているというのが凄い。誘惑に耐えかねて頼んでみると、何ともカツがデカい。かなり脂っこいことを覚悟して口にしたが、意外やあっさりで、野菜も入っており、自家製ちじれ麺も美味しい。Iさんはダイエット中とかで、小食だった。3年ぶりに見た彼女は、以前に比べてスリムになって、シャープな雰囲気に変身している。

 

昼過ぎに、5年前にも行った琉求茶館を訪ねた。ここは沖縄でも珍しい台湾茶芸館だ。前回はランチを頂いたが、今回はこの期間中はランチなしだというので、メニューにない阿里山高山茶を頂く。雰囲気の良い店内で、自ら茶を淹れ、ゆっくりその香りと味を楽しみながら、Iさんを話すことができた。気が付くとかなりの時間が経っており、周囲はお客さんで埋まっている。こういうお店のニーズはあるんだな、と感じる。

 

突撃派のIさんは、何と台北駐日経済文化代表処の那霸分処とアポを取ったというのだ。そこは実質的には那覇領事館に当たる場所。そこの処長に面識もないのに電話を入れたというからその行動力は凄い。行ってみると日本駐在が非常に長い蘇処長が快く向かい入れてくれた。そして交流協会の雑誌を取り出すと、毎号送られてきているから知っているという。更には台湾と沖縄を繋ぐ音楽関係者の共通の知り合いの名前も出てきて、一気に親密感が増す。さすが台湾だ。緊張がほぐれる。

 

蘇処長が『お茶の歴史はよくわからないので、Tさんに来てもらった』というと、そのTさんが入って来た。90歳近い年齢だというが如何にも元気で、何とここまでバイクでやって来た。元台湾人で、二二八事件の際に、難を逃れて宮古島に渡ったという。当時は戦後の混乱期、台湾から沖縄の島へ船で渡る人も多かったらしい。宮古で農業をしたのち、那覇でコックになり、そして1950年代半ば、茶商となったという。

 

さんぴん茶を大量に台湾北部から輸入していたという。それは包種茶だともはっきり言う。大稲埕の茶商を訪ね、その加工現場も見たらしい。沖縄と台湾は食生活が似ており、脂っこいものを好むから、発酵茶ベースのお茶の方が好まれたともいう。さすがコック経験のある方に言われると説得力がある。

 

だが1960年代、既にTさんは茶商に見切りをつけていた。伊藤園の前身の会社が新しいお茶のパックを開発した時、『もう茶問屋の時代は終わり、誰でも茶葉が詰められ、スーパーで自由にお茶が売られる』と確信したらしい。国際情勢も変わり、日本と台湾も断交し、お茶の流れも大陸に変わっていく。Tさんは今、隠居の身だと言いながら、野菜栽培などの研究をしているというからすごい。

沖縄で突然茶旅2018(2)深まるさんぴん茶の謎

1月10日(水)
朝の散歩で

翌朝、気温を見ると14度だった。しかし気温以上に部屋は冷えていた。むしろ外へ出た方が良いかと思い、散歩に行く。宿から県庁へはすぐだった。折角なので、沖縄のお茶市場を見てみようと思ったのだ。取り敢えず県庁前のスーパーへ行ったが、まだ開いていなかった。そこで更に国際通りを歩いていく。

 

結局公設市場の辺りまで歩いてしまい、中へ入っていく。そこにはお土産用としてさんぴん茶が売られていたが、何とその価格は50g、98円だった。ティバッグとはいえ、こんなに安いお茶があるのか。裏を見ると中国産だと書かれているが、衝撃的だったのは、『茶(半発酵茶)花(ジャスミン)』とあるではないか。香片茶と言えば、緑茶ベースのはずだが、なぜ半発酵茶と書かれているのか。大いに疑問が残る。

 

ずっと奥の方まで歩いていくと、桜坂という辺りに古びた建物が見えた。比嘉茶舗、と書かれたお茶屋さん。ここなら伝統的なお茶が買えそうだったが、どうやら既に店を辞めているように見える。比較的近くに新しい比嘉製茶というお店があったので、そちらに移ったらしい。

 

実はネット検索やFBの友人情報では、沖縄のお茶が買える店として『茶仙』という名前が挙がっていた。折角なので、スマホマップで探してみたら、国際通りからちょっと入ったところにあった。ただここも店は閉まっており、営業しているのかどうかも分からない状態だった。まだ朝早い時間だったので、もう一度午後トライしてみようと思い、宿へ引き返す。

 

宿の横にはファミリーマートがあり便利だ。そこで取り敢えずポッカの元祖さんぴん茶という茶飲料を買ってみる。この寒い中、暖かい飲み物がよかったが、何となくさんぴん茶が頭から離れず、つい手を出してしまった。確かにこれはジャスミン茶であり、すっきり感もある。ただここに発酵茶が混ざっているのか、緑茶が混ざっているのかは判然としない。

 

琉球大学へ
11時前に大学の先輩、Nさんが迎えに来てくれた。Nさんとは5年前のヨーガ合宿で出会い、同窓という枠を超えて、同じ興味を持つ者として、教えを乞うている。今回も沖縄茶の歴史を調べたいというと、快く琉球大学に連れて行ってくれた。琉球大学は宿のある市内中心部から車で30分以上かかる場所にあり、車に乗せてもらえて大いに助かる。

 

琉球大学の敷地は広々としていたが、天気が悪く、寒々ともしていた。ちょうど昼時なので、まずは学食でご飯を食べる。学食、という響きが久しぶりでよい。私とTさんは西ヶ原の狭いキャンパスで同時期に学生生活を過ごしたが、面識はなかったはずだ。40年近い時を経て、一緒に学食でランチを食べるのは何とも愉快だ。Tさんは人気のある先生のようで、多くの学生から声がかかり、皆笑顔なのがよい。きっと型にはまらない授業をしているだろう。

 

そして調べ物をするため、図書館へ行き、Tさんの紹介で中へ入れてもらった。更には資料検索の仕方、本のある場所なども教えてもらい、大いに助かる。琉球・沖縄関連本は一か所にまとまっておかれているので、そこを見るだけでも実に様々な本があった。ただお茶に関して直接書かれている本は殆どなく、この分野への関心は高くないと分かる。事典類などからさんぴん茶を引いてみるも、載っていないものさえあり、ちょっと驚いた。

 

ようやく清明茶というお茶の存在、そして包種茶と台湾という文字がちらほら出てくるのには、相当の時間がかかった。むしろ琉球と清朝の朝貢貿易などの側面からお茶を見る方が主流なのだと分かる。また沖縄独特のブクブクー茶についての本も眺め、いよいよ興味が深くなる。

 

あっという間に4時間近くが経過した。図書館から出ると、霧雨が降り、風も冷たい。沖縄はこんなに寒かったかと、しみじみ思う。駐車場には元職場の後輩Hさんが待っていてくれた。わざわざここまで迎えに来てくれたのだ。何とも有り難い。数年前に会社を辞め沖縄に移住した彼とも3年ぶりの再会だった。

 

車でイオンライカムへ向かう。このモールはちょうど3年前、私が沖縄に来ていた時に米軍施設の跡地に出来て、周囲は大渋滞だったと聞いていたところだ。ただ今日は平日にこの寒空。さすがにお客は少ない。何となく開店当時のホーチミンやプノンペンのイオンを思い出す。ここで夕飯。何と沖縄に来たのにパスタを選択してしまう私。何故だろうか。時々食べたくなるのだ。

 

Hさんとは近況などを話す。私の方は相変わらずだが、彼の方は様々な活動をして、家も引っ越し、沖縄へ溶け込んでいるようだ。10数年前、沖縄移住ブームというのがあったが、結局は沖縄に馴染めず、半数以上の人が沖縄を去ったという話を聞いたことがある。やはり安易な移住は止めるべきだし、移住するなら現地に溶け込まなければダメだろうと強く感じる。

沖縄で突然茶旅2018(1)日本のサービスとは

《沖縄で突然茶旅2018》  2018年1月9-15日

 

2013-15年の間、沖縄には3年連続で行っていた。基本的にはヨーガの合宿参加が目的であったが、所々で沖縄の茶についても勉強していた。さんぴん茶は『香片茶』だと感覚的に理解し、分かったつもりでいた。だが台湾茶の歴史を訪ねていくうちに、その輸出地として、沖縄、という地名も出てくるようになり、何となく疑問が深まっていく。

 

台湾へ行くフライト、東京‐台北間はどんどん料金が上がっている。これは日台双方の旅行客の増加によるものと思われるが、低価格旅行を旨としている私としては、何とか手を打たなければならない。ちょうど正月明けの羽田‐那覇線を見ると、何と片道ならANAでも1万円はかからない。これなら那覇経由で台湾へ行けばよいとの結論に達し、沖縄の旅が実現した。

 

1月9日(火)
宿まで

那覇行きの午後便に乗るため羽田へ向かった。今日は正月休みの最後の三連休の最終日。電車は空いており、難なく空港に着く。国内線ターミナルもそれほど客はいなかった。前回ここに来て気になっていた、『手荷物』と書かれた預け荷物を自動で預けてみる。これもまた簡単に行ってしまい、ちょっと心配になるほどだ。

 

フライトは3時間、ほぼ台湾へ行くのと変らないが、国内線なので飲み物しか出ない。取り敢えずスープをもらって飲む。その後熱いお茶が飲みたいな、と思っていると、隣のおばあさんにだけCAが『熱いお茶をお持ちしましょうか』と聞いていたので、それに便乗してお願いした。

 

我々がお茶を頼むと、冷たいお茶が出てくるご時世である。ところが出てきたお茶を見てびっくり。まるで給湯器の粉茶を入れたように泡立ち、味もこれ以上ないほど美味しくない。これなら熱いお茶など頼む人はいないだろう。ANAの機内にしてこれだから、外国人にお茶を売り込むなど程遠い。日本のお茶文化とは既にこんなものなのだろうか。残念でならない。

 

何とか那覇空港に到着したが、荷物がなかなか出てこない。ふとターンテーブルの反対側、出口付近を見てみると、ごみ箱がいくつも置かれている。その箱は何と搭乗券や荷物券などを捨てるために置かれているのだ。今や世界がスマホ化し、ペーパレス化を計っている中、なぜこのような無駄な紙を大量に出すのだろうか。エコという概念はどこにあるのだろうか。正直日本という国が分からなくなる。

 

既に辺りは暗くなり、ゆいレールに乗り込む。ここでもスイカなどは使えず、現金で切符を買うことになる。しかもこの切符、自動改札に対応するため、わざわざ紙の切符の上にバーコードを付けている。そんなことをするくらいなら、スマホで乗車できるようにならないものだろうか。恐らく隣の中国人はそう思っているに違いない。乗客の半分は外国人観光客なのだ。

 

旭橋まで十数分、そこを降りてから、歩いて数分で今日の宿に到着した。県庁のすぐ裏付近で、国際通りにも近く、観光としてのロケーションは抜群だった。そこは古いアパートの2階、いわゆる流行の民泊だ。鍵の受け渡しなどが面倒かと思ったが、全てが指示されており、簡単に入室できるのは嬉しい。畳の部屋が2部屋もあり、こぎれい。風呂場も広いし、キッチンもあるので自炊も出来る。一人で住むには広過ぎるが、料金は高くないので、何とも有難い。確かにこれなら既存のホテルが食われてしまうだろうな。

 

腹が減ったので、近所を散策する。居酒屋は何軒かあるのだが、酒を飲まない私には縁がない。その先に定食屋があった。鶏肉を売り物にしているらしい。迷わずチキン南蛮を頼むと、セットでスープやだし巻き卵が付いてくる。チキン南蛮自体も特製のタルタルソースが付いている。沖縄初日の夜がこれでよいのかよくわからないが、まあこれでよいのだろう。沖縄の定食らしいボリュームで腹が膨れた。

 

その夜の那覇は非常に寒く感じられた。東京も冷えていたが、まさか沖縄がこんなに寒いとは思っていなかった。部屋にはエアコンがついていたが、埔里で寒い部屋を経験済みだったので、そのまま厚めの布団をかぶって眠りについてしまった。だが翌朝明け方近くにあまりの寒さに起きあがるほどだった。確かにこの時期、沖縄に来る人が少ないのはよくわかった。

先生と行く高知茶旅2017(5)高知散策

それでは困るので、他の宿へ行くも、料金が1000円以上上がっても、Wi-Fiは繋がらないことがある、というのだから本当に困ってしまう。過去3日はスマホのみの使用となっており、今晩は色々と作業があるので、Wi-Fiが繋がらないと言われると泊る訳には行かない。更に歩いていき、日本各地にあるチェーンホテルで尋ねても『この辺でWi-Fiがちゃんとつながる保証なんてありませんよ』とさも当然という声が出てきて、本当に驚いた。日本ではスマホのみを使用し、PCを使うことはないのだろうか。

 

最後にダメもとで行ったきれいなビジネスホテル、そこのフロント女性は『Wi-Fi、繋がりますよ。今まで問題があったとは聞いていませんよ』と言ってくれた。私はその答えを待っていたのだ。ここに投宿。部屋は狭いがきれいでよい。高知駅から数百メートルという立地もよい。少し疲れが出たので、この部屋で休みながら、色々と作業をした。

 

日が暮れて、腹が減る。香港時代に知り合いから是非行くようにと言われていたラーメン屋があったのだが、行ってみると店は閉まっている。何と午後8時開店だというのだ。高知では飲んだ後の〆はラーメンということなのだろうか。酒を飲まない人はお客にあらず、というか。

 

ホテルのフロンで紹介された店へ行ってみた。そこも夜7時から開店のテント屋台だったが、既に人が並んでいたので、その後ろに並ぶ。屋台餃子安兵衛、どこかで聞いた名前だなと思ったら、昼にひろめ市場で餃子を食べたばかりだった。ただ入ってしまったので、ラーメンと餃子を注文する。

 

一人で来る客は稀で、ほぼ全員が酒を飲み始めている。ラーメン屋の屋台とは違うようで、おでんなども出てくる。餃子は昼と同じで形は小さめだったが、パリっと焼き上げられており、中の肉汁がうまかった。ラーメンはシンプルであっさりしているが、うまみがあり、細麺とよく合っている。十分に満足してしまった。お客がどんどん列を作るので早々に退散した。

 

11月28日(火)
高知散策

翌朝はボーっとしていた。9時半頃になり、今日はどこへ行こうかと検索を始めると、My遊バスというのが、あることが分かる。これなら植物園にも桂浜の龍馬像も見に行けるらしい。ただ時間を見ると、駅前を10時に出発する。慌ててホテルをチェックアウトし、荷物を預けて、走って高知駅へ。バスセンターで1000円の1日乗り放題チケットを買い、また駅の反対側へ戻る。バスはまだ停まっており、何とか乗り込むことができた。乗客は数人しかいない。

 

まずは五台山展望台へ向かった。ここは初日に看板を見てIさんが反応した場所だった。そう五台山と言えば中国にもあるので、何かゆかりがあるに違いない。20分ちょっとで山を登り、バス停で降りた。運転手さんに聞くと『2時間後にバスがあるから、ここを歩いて竹林寺へ降りて、そこから乗るといい』とアドバイスを受けた。そして彼はバス停に掛かる札をひっくり返して去っていく。バスが通過したかどうかはこの札で分かる仕組み。有り難い。

 

展望台からは高知市が一望できた。庭園になっているところも、色々な木が植えられており、きれいである。ただ殆ど人がいなくて寂しい。すぐに坂を下りていくと、竹林寺が見えた。ここはちょうど紅葉の時期になっており、予想もしなかった美しい景色に遭遇することができた。境内はかなり広く、趣もあり、その中で見る紅葉は実に鮮やかだった。ここには結構観光客やお遍路さんがいた。

 

更に歩いていくと牧野植物園の裏門に出たので、そこから入ってみる。温室には世界中の植物が植えられており、南国ムードが漂い、目をキョロキョロさせてしまう。かなり広い敷地には、本当に様々な樹木が植わっている。ただ茶樹は見付けることは出来なかった。後で聞くと入れないエリアにあったらしい。

 

ここは日本植物学の父、と呼ばれている牧野富太郎が作った植物園だった。彼は高知に生まれ、小学校中退ながら、最後は博士にもなる人物。記念館にはその苦労の連続であった植物研究の活動内容が詳細に展示されていた。このような人物が出てくるのも高知ならではかもしれない。

 

正門でバスに乗り、そのまま桂浜へ向かった。浜へ下る所に龍馬記念館があったので降りたかったがどうやら休館中らしい。終点で降りると何とも寂しい所だった。ちょっと歩くと、坂本龍馬の大きな像があったが、それも改修工事中。天気もあまりよくないためか、桂浜も寂しく見えた。観光客の数も少ない。近くの水族館でイルカショーの入場を呼びかける声がこだましているが、殆ど観客はいないだろう。残念だがこれが地方の実態だ。海津見神社という小高い所にある神社から浜を眺めるのみ。

 

そこで味気ない親子丼を食べた。何だか寅さんの映画を思い出す。またバスに乗り、駅へ引き返した。まだ時間があったので、路面電車に乗り(バスチケットで無料)、龍馬生誕の地に行き、碑を見る。更にその付近を散策、才谷屋の跡にも巡り合う。路面電車はかなりゆっくり走っていく。最後にはりまや橋で降り、昨日のお菓子屋でお菓子を買い、駅から空港バスに乗り込む。高知空港は小さな空港でお土産物を眺めて時間を潰すしかなかった。

先生と行く高知茶旅2017(4)ひろめ市場で

それから車で1時間、高知駅まで送ってもらった。Iさんは電車に乗って高知の別の場所へ向かった。Hさんは夕方のフライトで東京へ行くのでそれまで時間がある。2人でコインロッカーに荷物を預けて、高知の街を散策することにした。駅前には幕末に活躍した坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の像が青空に屹立している。

 

まずは高知城の方角へ歩いていく。道にはあんパンなどのキャラクターが飾られている。ここは生みの親、やなしたかしが育った場所でもある。彼の父親は高知の出で、東亜同文書院を卒業し、厦門で客死した人だったと知る。一番街というアーケードが見える。高知はサンゴが有名ということで、店がいくつかある。

 

Kさんが言っていたひろめ市場に出くわした。昼には少し早いが、ここでランチを探すことにした。一番並んでいたのは、やはりカツオのたたき。しかも並んでいるのは何と中国人ばかり。聞けばクルーズ船が今日入港したという。若い中国人が『日本語でテイクアウトって、なんていうんだ?』と聞いてきたので教えてあげたら、喜んでくれた。彼らは一生懸命日本語を使おうとしていた。中には英語でコミュニケーションを図ろうとしている者もいる。

 

3日前にたらふく食べたのにもかかわらず、カツオは美味しかった。食後お茶屋さんなどを見ていると、土佐碁石茶なども売られている。土佐の人は飲まなかった碁石茶、これもお土産用か。城の方に向かうと、骨董市みたいなものもあった。中に『両替』の文字を掲げているところが見える。完全な個人営業だが、確かに船でやってきた人々は一体どこで両替するのだろうか。合法的とは思えないが、ニーズはあるのだろう。

 

高知城に入る。山内一豊とその妻の像があった。そういえば大河ドラマで松嶋菜々子がやっていたな、と言ったら、Hさんから、違うでしょう、と言われてしまう。そう松嶋菜々子は『利家とまつ』のまつ、だった。千代は仲間由紀恵、一豊は上川隆也だったことを思い出すには数分掛かってしまった。私の記憶力の衰えは相当に深刻だった。

 

お城はとても立派に見えたが、階段を上って行くのは結構大変だった。結局上までは上がらず(入場料を払わずに)、途中から城下を眺めた。それでも十分に気持ちの良い風が吹き抜けた。中国人観光客も、全員が上に上がる訳でもなく、皆適当に散策していた。正直高知城の歴史に興味を持つ人は多くなく、遠目から写真を撮ればよい、という雰囲気だった。

 

もう一度ひろめ市場に戻ると、場内は完全に中国になっていた。12時に開店する餃子屋を目指して再訪したのだが、尋常ではない込み具合。さすがクルーズ船の威力は凄い。その中で餃子を買うのは日本人が多い。何とか餃子を買って、席を探したが見付からない。ちょうど荷物が置かれている場所があったので中国語で、『ここに座っても良いか』と聞くと、中年女性は『取り敢えず座って、席がないんでしょう』と譲ってくれた。その後両親などが戻ってきたが席は何とかやりくりする。

 

食後は地元の人が日本三大がっかり名所の1つと呼ぶ『はりまや橋』を見に行く。因みに日本三大がっかり名所とは『札幌の時計台と高知のはりまや橋が含まれることはほぼ意見の一致を見ている』ようだが、3つ目は意見が分かれるという(長崎オランダ坂とか、沖縄守礼門とか)。私は世界三大がっかりは聞いたことがあったが、日本版は聞いたこともなかった。

 

ひろめ市場から1㎞ぐらい歩いた交差点、そこに近づいても、確かに橋は見えない。交差点まで行ってちょっと横を向くと、小さな橋が架かっていた。なるほど札幌の時計台も、通り過ぎてしまうのががっかりなのだ。その橋は思ったよりきれいだったが、きっときれいになったのだろう。

 

元々この橋と言えば『土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい』というよさこい節で有名な訳だが、僅か20mの橋も、まさか自分が名所となるとは思っておらず、更にはがっかりと言われるとは夢にも思っていなかっただろう。お坊さんの恋の歌、というのは、決して褒められた話ではないのだから。

 

今ではその橋の架かっている奥に、きれいな人工水路があり、子供の遊び場もある。Hさんは橋のたもとのお菓子屋に入り、お土産の物色に入った。何だかおいしそうだったので、帰る時には私も買おうと思った。ちょうど時間となり、駅まで歩いて戻り、Hさんは空港バスに乗って去っていった。いよいよここから一人旅が始まった。

 

まずは今日泊まる宿を探さなければと思い、駅の周りを歩いてみた。コインロッカーから荷物を取り出してしまい失敗した。宿が決まったら取りに来ればよかったのだ。すぐ近くに安い宿が見付かった。ただチェックインは午後4時からと言われ、おまけに部屋は4階になり、Wi-Fiが繋がる保証はないと言われてしまう。

先生と行く高知茶旅2017(3)山の古民家で飲むりぐり茶

11月26日(日)
いのの街へ

翌朝も早めに起きた。先生は当然起きておられ、またお話しを聞いた。今日はIさんも話に加わった。Iさんは恩施玉露について、現地にも行き、強い関心を持っていた。先生は20年以上前にそこを訪問していたが、その時は地元では恩施玉露はここが発祥だと言っていたという。だが最近先方の対応が変わってきたとか。

 

Iさんは中国北京の出身で、好奇心が非常に強い。ちょうど私が上海に留学した1986年に日本にやってきたというから改革開放後世代だ。この時期に日本に留学に来た中国人は総じて学力レベルも高く、また家柄の良い人が多い。Iさんはその後日本で結婚し、今は日本人となっている。

 

昨日同様ふれあいの里で朝ご飯を頂き、Kさんが迎えに来てくれた。先生は既に今回の調査目的を達し、午前中の列車で帰られることになっていた。JRいの駅まで先生を送り方々、我々も街に向かった。まずは清流として有名になっているという、仁淀川、その最下流にある沈下橋を見学した。この付近は台風などで大水が出ることがあり、橋に欄干があると流されるので、初めから設置しないと聞き、昨日見た山同様、自然災害の激しさを思う。

 

それからいの町の紙の博物館に送ってもらい、先生とはここでお別れした。先生とKさんは車でいの駅へ走っていった。雨が軽く降っている。博物館の中に入り、入場料を払うと、案内の人がついてくれ、ゆっくり見学を始めた。世界の紙の歴史から、紙漉きの実演まで、紙に関する様々な内容が詰め込まれており、興味深かった。特に紙を作る過程で原料を蒸す大きな木製の道具が、何となく阿波番茶の製造過程で出てくるものと似ており、ちょっと反応してしまった。

 

 

その後、車で古民家に行く。ギャラリーぼたにか、というギャラリー?があった。この倉は明治初期の建造物らしい。中に入ると、何となく骨董屋さんを思わせる古い物が置かれていた。古書もある。オーナーの女性は実に穏やかで、平家の落人です、と言われ、そうだなと思える人だった。商売をしているのか、展示を見せているのか、と思ってしまうような作りだったが、何とも楽しい空間だった。

 

昨日とは違う山の茶畑も見た。今日は天気が悪かったが、何とか雨は免れた。清流が流れる脇に、昨日同様の急斜面があり、茶樹がぽつぽつ植わっている感じだった。こうなると生産効率は良くなさそうだが、有機栽培というに相応しい雰囲気があった。茶はどのように作られるのだろうか。

 

昼ごはんは道の駅でうどんを食べた。お客さんが沢山いて、驚いた。周囲にあまり食べる所がないのかもしれない。そして、また山を登っていく。かなり上ったところに瀟洒な古民家があった。Kさんがお客さんにお茶を振る舞う場所らしい。中に入ると、何とも言えない古い台所があり、竈などもある。柱がしっかりしている。

 

Kさんは囲炉裏に薪をくべ、火を漉し始めた。人間はゆっくりと火を眺めるのがよい。インドでもそう教わった。一杯のお茶を飲むためには、様々な労力を惜しまない。そして丁寧に淹れられたKさんのお茶、りぐり茶を味わう。既に茶畑を見ているので、それを頭に浮かべながら飲む。

 

山茶を原料にして、それを釜入りで仕上げる。何となく中国の山の中の、勢いのある緑茶を思い出す。それでいて柔らかさもある。有機無農薬、あの畑ならそうだろう。『りぐり』とは土佐弁で『こだわる』という意味だと聞く。日本にもこんなお茶があるのかと、正直びっくりしてしまう。台湾のお茶好きに連絡したら、『ぜひ買ってきてくれ』と即答だった。その希少性に惹かれたのだろう。

 

それにしてもこの民家で、畳に座ってダラダラとお茶を飲むのは何とも嬉しい。ずーっとここでこうして居たいような気になってくる。ここに泊まれないのかな。もしお天気が良ければ、眼下の景色も素晴らしかったろう。Kさんには感謝しかない。山を下り、宿舎に戻り、今晩は先生がいないので、3人で夕飯を頂いた。部屋の寒さにも慣れ、ぐっすりと眠ることができるのはよい。

 

11月27日(月)
高知へ

翌朝はゆっくり起きる。お話し相手の先生はもういない。もっと話を聞けばよかったと後悔するが遅し。8時に高知の方に行くというKさんが迎えに来てくれ、宿舎ともお別れして、車に乗り込む。まずはKさんの茶工場による。ここも見晴らしの良い高台にある。創業者であるKさんのお父様がここに眠っている。20年前に亡くなり、その跡を関西にいたKさんが継いだ。とんでもない苦労があったことだろう。お父様の山にかける情熱が伝わるような石碑が建っている。

 

工場の中は比較的新しく、釜入り用の釜もあり、蒸し製を作る機械もあり、設備はきちっと揃っていた。年間にここを使用する機会はそれほど多くはないだろう。隅の方に手摘みに使う竹のかごが置かれていたのが、山茶の工場、という雰囲気を出していた。林業の傍ら、茶業も行う、そう簡単ではないように思う。思いが無ければできないことだろう。

 

それからKさんのオフィスに寄った。Kさんのお嬢さん2人が頑張って事業を進めている。後継者がいるのは頼もしい。お茶を購入した。普通の日本茶に比べれば決して安いとは言えないが、これまで茶畑から工場まで見せてもらい、お茶についても様々な話を聞いているので、特に高いとも思わない。時々思うのは、日本茶、特にいいお茶は他国に比べて安過ぎるのだ。

先生と行く高知茶旅2017(2)山の茶

いの町に着いた時は、既に辺りは暗かったが、雰囲気のよさそうな田舎の集落だった。Kさんの実家が今は来客宿舎になっていると言い、そこに泊めて頂くことになる。2階に上がるとちょうど4部屋あり、一人一部屋となる。すぐに夕飯が供される。かつおのたたき、新鮮な野菜の煮物、太巻きなど、高知の名物が並ぶ。美味しいので、どんどん食べてしまい、腹一杯になる。苦しい!

 

先生は夜が早く、朝も早いので、私も早めに就寝。11月下旬の高知、暖かいかと思ってきたが、この山間は結構涼しい。夜は寒いくらいだったが、エアコンが機能して、また厚手の布団を掛けて、寝入る。畳の部屋、何だか田舎のおばあちゃんの家に来たような感覚に包まれ、かなり熟睡できてしまった。

 

11月25日(土)
茶樹のある山へ

翌朝7時前に目覚める。居間に行くと、先生が既に起きておられ、資料を見ていた。そしてチビリチビリと昨晩の残りの酒を飲んでいた。先生は朝からお酒を飲む習慣があるのかと驚いたが、部屋が寒かったので、仕方なく飲んでいたということが分かった。実はこの部屋にはエアコンがあったのだが、それには気づかれなかったらしい。しかも先生の起床時間は午前4時。それは寒いはずだが、環境対応力は抜群だ。

 

Hさんがやってくるまで、先生に色々と質問してしまった。私にとってはこの時間が一番貴重だった。何しろ先生の60年に渡る経験値は物凄い。こちらが何か聞けば即座に何かが返ってくる。しかもそれが普通の、本で読んだような答えではなく、『何それ?』と思うようなことが多々あり、そしてそれが後日、どこかで役に立つというのだから面白い。

 

8時過ぎに4人で近所に朝食を食べに行く。明るくなった外を見ると、やはり想像通り、雰囲気のある、秋の終わりの集落。5分ほど歩くと、ふれあいの里という共同販売所があり、Kさんがお願いしておいてくれ、そこで朝食となる。味噌汁がホッとする。近隣の農家で採れた野菜などに交じり、釜炒り茶が売られている。何とも懐かしい味がする。

 

そこへKさんがやって来た。ここの女性たちと地元の言葉で話しているが一部聞き取れない。車で山を登り始める。停まったところには特に何もなかったが、『ここからこの山系全体が見渡せる』というKさん。さすが林業会社の社長さんだ。確かに先ほど地図を見てはいたが、先ずここから全体を見ないと、後で山に入っても何もわからない。

 

それから山の反対側へ行く。車は全く走っていなかったが、途中道路工事をしている場所がある。その手前に茶畑が広がっていた。斜面に茶樹がかなりの密度で植えられている。勿論これは山茶ではなく、人が植えた物。民家もあり、軒下の柿が干されているのが晩秋の風情だった。

 

更に登り進むと林が濃くなる。先生はこの付近で車を降り、熱心に道路脇を眺め始めた。ちょっとしたところに茶樹が植わっている。今回の先生の調査、それは『人が住まないところに茶樹はない』を確認することだったらしい。茶樹のある場所ではKさんに、以前民家があったどうか聞いている。

 

そしてついにかなりの急斜面に、茶樹がぽつぽつ植わっている場所に出た。何だか福建省武夷山あたりの光景を想起させる岩が所々にある。ここでの茶摘みは大変だろうな。有機栽培茶畑との表示が見えるが、茶園管理も厳しそうだ。登っているが足元がおぼつかないほど急だった。こんな風景が日本にもあるとは意外だ。茶葉を見ると、様々な形をしており、いわゆる自然交配が繰り返された雑種だった。

 

かなり山道を歩き回り、写真を撮ったり、木を眺めたり。それからふれあいの里まで一旦戻り、お昼にうどんを頂く。このふれあいの里、夏はテラスでBBQなども出来るらしい。そこから外を見ると、畑がきれいだった。田んぼアートというのだろうか。何となく疲れが癒える。

 

午後も別の山に行く。標高700-800m、この辺まで来ると、茶樹は見られなくなっている。それを必死で確認する。この辺は過去も人の住んだ気配がない。無いことを確認することの重要性、きちんとした仮説を持ち、先入観を持たずに行動すること。結果は先生の言うとおりになっていた。なるほど、そうか。

 

今回は大きな車は途中までしか行けないというので、小さな車に乗り換え、2人ずつ運んでもらった。帰りは下りだったが、先生はあっという間に坂を自分の足で下っていく。そのスピードはとても87歳とは思えない。60年以上の経験は、茶だけはなく、山の中を歩くことにもいかんなく発揮されている。驚くばかりの元気さに、皆舌を巻く。

 

疲れて宿泊先に戻る。夜は美味しいお稲荷さんが待っていた。実に見事なキウイも出てくる。そしてこの街の役場で課長をしていた女性が来てくれ、色々と街の話をしてくれた。我々はあまり酒を飲まないので、先生にはよい相手が出来た。こういうところで周辺情報を集めるのも重要な仕事だ。