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九州茶の歴史を訪ねて2018(5)人吉で

鳥栖まで行き、そこから鹿児島本線で終点の八代まで乗る。これが2時間半もかかる。途中までは3日前の逆走だ。日は暮れてしまい、暗い中を八代に着くと、向かい側に1両列車が待っており、すぐに出発する。完全なローカル線で、高校生が乗客の主体になっている。料金は前の料金箱に入れて降りて行く。

 

途中は完全に民家もない所を通り、スマホも圏外になっていた。こんな暗い夜汽車に乗ったのは何年ぶりだろうか。どんどん乗客は降りて行き、寂しくなっていく。辛うじてコンビニで買っておいたサンドイッチで飢えをしのぐ。1時間20分以上かかってようやく終点の人吉に着いた。佐賀から合計4時間以上乗っていたことになる。

 

駅前は完全にひっそりとしていた。人吉には温泉宿があると聞いていたが、夜の10時に宿を探して歩くのは大変なので、駅前のビジネスホテルに泊まることにしていた。入っていくと『鉄道ファンですか?』と第一声で聞かれて驚く。ここに出張ではない人間が来るのは、鉄道関係者ばかりだという。私がお茶関係だというと、むしろ宿の人が興味を持ってしまい、少し話した。それからワールドカップ直前の日本代表のサッカーを見て床に就く。

 

6月13日(水)
人吉茶調査

翌朝はやはり疲れからかゆっくり目覚める。午前8時半に芦北のKさんが迎えに来てくれた。ここ人吉で歴史関連の調査をしようと考えてが、一人ではとても無理だと思い、応援を頼んだのだ。だがKさんは茶農家、お茶作りには詳しいが、その歴史は・・となってしまう。

 

そこで詳しい人に当たってもらったところ、その方は最近転勤になってしまい、案内は難しいとのことだったので、一度は諦めて、佐賀から帰ることにしていたのだが、その後案内可能、との嬉しい返事があり、佐賀から長旅でやってきたというわけだ。その方Sさんとの待ち合わせもうまくいく。ところが茶作りの仕事があるKさんは、そこで帰ってしまった。私もびっくりしたが、頼まれたSさんはもっとびっくりしただろう。初対面の二人、Sさんの車で出掛けた。

 

まずは郷土史家の方を訪ね、人吉の街の成り立ちと、その歴史を伺った。実は人吉の茶に関しては、先般岩波新書から本が出ており、球磨茶について、知りたいと思っていたので、この方面の話を聞くことができた。琉球時代、沖縄で飲まれていたのは球磨茶だった、といってもどんなお茶なのか、それはどうにもよく分からないが、番茶のようなものだっただろうか。

 

それから明治に入って、人吉に作られた紅茶伝習所について勉強した。伝習所とは学校だから、学校が建てられたと思い込んでいたが、ある場所を借りて臨時で講習が行われたらしい。日本の紅茶、その伝習所は熊本山鹿、人吉、大分木浦などにはじめ作られたがその実態はよく分かっていない。

 

熊本人吉は先ほどの球磨茶もあり、山茶がかなりあったようなので、紅茶に向いている地だと考えられたかもしれない。またここは宮崎や鹿児島に抜ける交通の要所でもあり、西南戦争の時は、敗走してきた西郷軍に握り飯を渡した、などの言い伝えがある、と球磨焼酎屋の奥さんが話してくれた。熊本ではあるが、鹿児島に近い、ということだ。

 

人吉の街はかなり古くて雰囲気がある。実はこの地名を最初に聞いたのは大学生の時、一年先輩がここの出身だったのだが、帰省するのが遠い、とぼやいていたのを今になって思い出す。確かに今でも遠い。特に金のない学生時代、簡単には帰れなかっただろうな。あの先輩はどうしているだろうか。

 

午後は樹齢100年を越すという古い茶樹がある、というので見に行ってみた。車で小1時間もかかる場所だった。Sさんも数年ぶりに見に行くという。だがその場所にその木は既になかった。どうやら伐採されてしまったらしい。歴史的な価値を考えれば、何とも残念だが仕方がない。これが今のこの地方の状況だということか。

 

帰りに一面茶畑が広がっているところがあったので、車を降りて写真を撮る。平成に入ってから、相良茶という名前で売り出しているという。熊本のお茶、もっと脚光を浴びるとよいのだが。Kさんのお茶だって、どんどん評価が高まり、認知されているが、それでも一握りのことなのだろうか。

 

Sさんには大変お手数をおかけしたが、鹿児島空港行バスの停留所まで送ってもらい別れた。何と人吉からは熊本空港より鹿児島空港の方が近い、というアドバイスを受け、鹿児島から帰ることにしていた。こんなこと、地元の人でないと思い付かない。バスはまだ1時間先だったので、近所にあったTSUTAYAに行き、暇をつぶした。TSUTAYAは駅前ではなく、幹線道路沿いにあるものなのだ。

 

バスは本当に50分もかからずに空港に着いてしまった。何とこれが私の初鹿児島だった。今回は空港だけだが、日本第二の茶産地に行かない手はないので、次回は万全を期すつもりだ。空港で時間が余ったので、食事をすることにした。鶏飯バイキング、580円に惹かれた。自分でご飯を盛り、具材を入れ、汁をかけて食べる。お替り自由、意外とうまい。

 

夜7時でも明るい鹿児島空港にジェットスターが飛んできた。今や東京とはLCCで繋がっており、安くて簡単に来ることができる。成田まで2時間弱の旅、その日の内に自宅まで辿り着けた。次回は是非茶畑を訪ねてみよう。

九州茶の歴史を訪ねて2018(4)幕末維新博覧会

幕末維新博覧会

ちょうど図書館を出ようと思ったところで声を掛けられた。こんなところに知り合いがいるはずもない、と思って振り返ると、何とOさんの奥さんではないか。奥さんにはセミナーの件で、色々とご迷惑をかけており、恐縮。図書館の横のカフェの食事がいい、と言われたので一緒に食べたかったが、今日は幕末維新博覧会を見物しようと思っており、図書館の横がメイン会場なので、そこへ移動した。

 

こんな雨の日の月曜日、簡単に入れるだろうと思っていたが、それは甘かった。案内が付くので団体行動となり、これから2回は小学生の社会科見学?で既に埋まっていた。それならばと図書館に戻り、カフェに行ってOさんの奥さんと食事をした。ここの食事は体に優しい。O夫人と、取り留めのない話をしていたのだが、その中で『台湾へ来ませんか?』と思わず誘ってしまった。実は和紅茶のイベントでOさんを招聘しようと考えており、折角だからOさんと奥さん、お子さんで来てもらうのも悪くない、と思ったのだ。

 

時間が来たので会場へ戻り、見学を始めた。このメイン会場では、CGによる紹介有り、劇団員が自ら演じる寸劇あり、明治維新150年を記念しており、実に面白い企画が揃っていた。特に鍋島閑叟(直正)を中心として、維新で活躍した佐賀人、大隈重信や江藤新平、大木喬任、副島種臣などが、生き生きと描かれている。40-50分、次々と場面が展開し、明治初期の歴史を復習するのにちょうどよかった。

 

会場から出てくるとちょうどOさんから電話があり、彼も子供を連れて奥さんを迎えにやって来た。私の子供が小さい頃、奥さんのことを思いやって、子供の面倒を代わりに見てやり、奥さんが一人で好きなご飯が食べられる、そんな環境を用意してあげることなど、全くなかったな。今さら反省しても仕方がないが、時代が変わったということで片づけてはいけないように思う。

 

Oさんの車でお店のところまで送ってもらった。実はメイン会場以外に共通券で入れる会場が2つ、ここにあったのだ。旧古賀邸では昔の藩校、弘道館が再現され、大隈重信や江藤新平などの、その学びを体感する。もう一つは武士の心得、佐賀発祥の『葉隠』を具体的に紹介するものだった。こちらはどちらかというと、子供向けと言う感じ。見終わると、雨も上がっており、いい気持で散歩しながら帰る。途中の大木が歴史を感じさせる。

 

夕方Oさんから連絡があり、夕飯を食べに連れて行ってもらった。ちょっと気難しい、老夫婦がやっている、入りにくい餃子屋さんだった。確かに間口は狭く、カウンターが少しと座敷にテーブルが2つ。とても狭くて、すでにお客さんがいたので、確かに入りにくい。更には餃子を作っているご主人への注文にも気を遣う。焼き餃子と水餃子が出てきたが、手作りで丁寧に出来ているから、ウマい。しかし地元の、しかもこの店を知っている人と一緒でなければ、とてもこの餃子を食べるのは困難だ。

 

6月12日(火)
セミナー2日目、そして人吉へ

翌日はゆっくりホテルで過ごす。10時前にOさんが来てくれ、まずは佐賀駅にあるお茶スタンドに向かった。ここは嬉野茶を宣伝するために作られたブースで、ちゃんとお茶を淹れて、出してくれるという。各茶農家さんが作った煎茶や紅茶、烏龍茶まで取り揃えている。結構おしゃれなブースなのだが、座って飲むところがないのはちょっと残念。駅のベンチで飲む。

 

一昨日同様福岡から来たYさんを出迎えて、またランチに出る。昨晩とは別の餃子屋さんに行ったが、残念ながら閉まっており、お店近くのそば屋さんに入る。ここでもちょっと不思議なメニューがあったが、話に夢中になっていて、よく覚えていない。今日は2回目の上、いつもの紅茶のお話しなので準備には手間取らない。リラックス。

 

平日にもかかわらず、本日もお客さんが聞きに来てくれ、有り難かった。今日は中国紅茶の歴史の中に台湾紅茶も少し入れ、更に九州ゆかりの紅茶関係者、そう可徳乾三の話もちょっとした。やはりご当地ネタがあった方が、一般的に興味が沸くだろうと思ったからだが、どうだったろうか。

 

話は別にしても、紅茶の方が味や香りは分かりやすいし、このお店のお客さんにはちょうどよかったかもしれない。3日間で2回のセミナー、最近では1日2回を普通にこなしているので、何ともゆったりできて有り難かった。また是非呼んでもらえれば、もう少し話を深堀して、また訪問したい。

 

さて、セミナーが終了し、駅まで送ってもらった。Yさんとは別の電車に乗って、私はまた熊本を目指した。3日前に熊本から来た道を、また熊本に向かうのだ。今回は人吉に行くので新幹線が使えると思ったら大間違い。新幹線に乗ろうが乗るまいが、人吉に行く電車は2時間一本ぐらいしかないので、またノロノロと揺られていくことになってしまった。

九州茶の歴史を訪ねて2018(3)セミナーで苦労する

6月10日(日)
セミナー1日目

夜中にかなり雨が降ったような音がした。日本には梅雨がある。雨が止んでいるのを確認して散歩に出たのは、午前9時半頃だった。特に当てもなく歩いていると、公園に出た。神野公園という名前だそうで、雰囲気がよさそうだったので入ってみた。少し行くと江藤新平の像が立っている。明治政府の司法卿だった江藤は、新政府に反旗を翻し、佐賀の乱で命を落とす。佐賀は、決して有名ではなく、また大きくもないが、薩長土肥の1つ、極めて重要な場所だったことを思い出す。

 

池のほとりには鍋島閑叟の茶室が再現されていた。鍋島閑叟は佐賀潘藩主として幕末を生き、多くの人材を育てた。そして島津と並ぶ、先進的な技術を持ち込み、維新を支えた。もし閑叟がもう少し生きていたら、世の中は変わっていたかもしれない。佐賀はもう少し脚光を浴びたのではないだろうか。

 

11時前にはホテルをチェックアウトして、駅へ向かう。セミナーでお茶いれをしてくれるYさんが福岡からやってくるのをOさんと出迎えた。取り敢えずランチを食べることになり、ご当地グルメを案内してもらう。あんかけ皿うどん、麺は細麺、太麺、蒸し麺の3つから選べる。前回はちゃんぽんを食べたが、この皿うどんもなかなかイケる。

 

それからセミナー会場であるOさんのお店へ行った。この付近はいつ来ても、昔の風情があってよい。今日は日曜日だから、観光客も歩いており、こんな日に私などがお話をするためにお店が休み、というのは何となく申し訳ないことだ。観光客の中にも、今日はなぜ休みなのかと、と覗き込んでいる人がいる。

 

会場の準備もOさんが一人でやっている。今や和紅茶界では有名人なのに、何でも自分でやるのだな、と感心した。PCのセッティングが終わり、私のUSBを差し込んだが、PPTは機能しなかった。これがないと、皆さんの写真を見てもらえないので困った、と思ったが、Oさんはすぐ検索をかけて解決策を見出し、映るようにしてしまった。

 

今回のセミナー、実に安易に引き受けてしまっていた。まあ紅茶屋さんのセミナーだから、紅茶の歴史の話をすればよい、紅茶については台湾と中国と2つ既にコンテンツがあり、問題ないと思っていたのだが、何とOさんから出されたお題、1つは『紅茶の話』だったが、もう一つは『世界でも珍しいお茶や茶文化について』というものだった。

 

本日は日曜日なので、一般向けにということで、考え抜いた末に、『アジアの珍しいお茶とその歴史』と題して、お話しすることにした。具体的には、茶の発祥地、中国雲南で作られる竹筒茶、茶のシルクロード万里茶路を辿る話ではカチンカチンの千両茶、台湾からは客家の酸柑茶、最後に日本の珍しいお茶として、土佐碁石茶などを紹介しながら、Yさんにお茶を淹れてもらった。

 

Yさんだってプロとはいえ、こんなに珍しい茶をいっぺんに淹れることなどこれまでなかったことだろう。会場のお客さんも珍しそうに飲んでくれ、また様々な質問が飛んできたのは良かった。お客さん、佐賀の方ばかりではなく、九州全土から、そして広島辺りからも来て頂いたようで、何とも恐縮。もう少し勉強して出直したいと思った。

 

ようやくセミナーが終わり、Oさんに駅まで送ってもらった。Yさんは福岡に帰り、私は駅前のホテルに移動した。やはり禁煙ルームの方が有り難い。こちらのホテルはこれまでも富山などで泊った事があるチェーン店で、好印象を持っていたのでよかった。夜は疲れてしまい、ちょっと出てラーメンを啜り、すぐに戻って寝た。

 

6月11日(月)
図書館と維新

翌日は残念ながら雨だった。今回のセミナーの最大の特徴は、2回開催だが、日曜日と火曜日に日が離れていることだった。普通なら効率悪いという話になるのだろうが、私の場合、旅がメインだから、これはこれで有り難い。これまで何度も佐賀に来ていたのに、一度も行ったことがない吉野ケ里遺跡、今日こそは、と思ったが、雨だと諦めるしかない。朝ご飯はホテルが無料で提供しているのでそれを食べる。

雨ならやはり図書館へ行こう。ちょうど台湾茶の歴史の中で、佐賀士族出身、日本統治初期に苗栗庁長兼農会会長だった家永泰吉郎の足跡が知りたかった。家永泰吉郎(1868-1915)は大分県尋常中学教諭から、1895 年に陸軍省雇員を命じられ、日本統治が始まってすぐの基隆に到着、1896 年台北支庁書記官、1901年に苗栗庁長にとなり、その後1909年より新竹庁長と要職を歴任し、1914 年に退官している。

 

佐賀市の図書館は月曜日が休館だったが、県立図書館は開いているというので小雨の中を出掛けた。ところが途中ですごい雨となり、ずぶ濡れとなってしまう。何とかたどり着いた図書館で尋ねてみたが、図書館書士の女性が親切に探してくれるも、家永に関する資料は殆どなかった。彼は佐賀と言っても唐津出身だったからだろうか。佐賀のお茶に関する資料も当たってみたが、なかなか適当な物がなく、ちょっと困る。

九州茶の歴史を訪ねて2018(2)可徳乾三の故郷に行く

6月9日(土)
合志へ

翌朝は恐れていた雨も降らず、天気は良かった。朝7時台、未だ宿は完全に寝静まっており、起きてくる者はいない。結局どんな人々が泊っているのか、顔を合わせることもなく、一人宿を出た。道に少し雨水が残っていて、荷物が転がしにくい。今日は土曜日なので通勤者は多くない。

 

昨日確認したバスターミナルへ行く。今日はここから熊本県合志市へ向かう。正直地理は全く頭に入っておらず、ただ言われた通りのバスに乗ることだけに集中した。何とその熊本行きのバスは20分に一本程度あり、相当に速いらしい。切符を自販機で買い、バスが来たら乗るだけだ。因みに合志は『こうし』と読み、バス停の地名は西合志(にしごうし)と読むらしい。なぜだろうか。

 

9時発のバスに乗った。バスは日本だから快適だ。料金が2060円、というのが、その遠さを示していた。ふと目をつぶってしまった。起きたら、ほぼ下車地点ではないか。僅か1時間、確かに早い。高速道路に設置されたバス停で降りたのは私だけだった。こんなところに一人で放置されたらどうなるのだろうか。

 

今回は合志市市議会議員のUさんが迎えに来てくれていた。Uさんとは、私のブログにコメントを頂き、交流が始まったので、会うのは今回が初めてだ。実は私は2年程前から可徳乾三という茶業者を細々と調べていたが、そのことをブログに書いたところ、可徳の故郷である合志から連絡があったというわけだ。

 

Uさんの車で向かった先は、何とその可徳乾三のお墓がある墓地だった。可徳はここ合志の生まれであり、Uさんも世に知られていない合志の偉人として、可徳の業績をもう少し広めようと活動を始めていたのだ。お墓は以前と変わっていたようだった。これも熊本地震の影響ではないかという。

 

古い墓石に可徳乾三の名前を見て、初めて『この人は生きていたのだ』と実感した。遺骨は誰かが台湾から持ち帰ったのだろうか。更には震災後に整理したと思われる墓にも彼の名前はあった。この新しいお墓群、まさに圧巻だった。『可徳家』と書かれた墓石がズラッと立ち並んでいた。正直これまで可徳、という苗字さえ、目にしたことはなかったのに、この街にはこんなに可徳姓が多いのか、と改めて可徳乾三の故郷に来たことに思いを致す。

 

それから合志義塾の跡に向かった。合志義塾は明治25年、農村で教育機会のない若者のために作られた私塾で、男女共学などユニークな教育方針を掲げ、60年間で約6500人が卒業したという。主催者には可徳の親戚もおり、可徳の活動にも深くかかわったものと思われる。入口に碑があるほか、今は牛小屋になっている建物が、教室として使われていたという。その庭には徳富蘇峰からもらった(同志社の新島襄から徳富がもらった)というカタルパの木が今も育っている。

 

可徳が九州で紅茶作りを行い、その茶葉を売る歩き、更にはシベリアで茶業を行うにあたり、この塾を出た若者たちが大勢関わっただろうと想像するが、その具体的な資料は見付からない。それでもなぜ可徳乾三という男がこの地から世界に飛び出していったのか、そのあたりを垣間見られる農村風景がそこにあった。

 

それから合志漫画ミュージアムに行った。ここは個人から7万冊もの漫画が寄贈され、市がこれをミュージアムにしたという。私が子供の頃に読んでいた数々の漫画の原本がほぼすべて保管されている感じで驚いた。館内では子供たちが自由に漫画を読める空間があり、素晴らしい。

 

お昼を食べながら、Uさんと色々と話をした。市議会議員としての仕事を誠実に行っており、更には地域の文化や歴史を残し、広めたいという気持ちがある方だった。こんな市会議員さんはそんなに多くはないだろう。今後も可徳乾三を介在にして、お付き合いを願いたいと思っている。因みに可徳関連資料はお互いが今日まで集めて来た物を紹介しあったが、Uさんの資料の方に興味深いものが多かった。やはり地元の方が集まる。

 

御代志の熊本電鉄駅まで送ってもらい別れた。今後またここへ来る機会はあるだろうか。それにしてもこの小さな駅、そして二両の電車。何ともいい感じだ。スイカで払えるのだろうか。それほど遠いとは思っていなかったのだが、今から佐賀まで行くと、というと、ちょっと驚かれる。

 

JRに乗るためには途中の北熊本で乗り換え、終点の上熊本まで行かなければならない。まあこの電車にゆっくり揺られていくのは悪くない。乗っているのは老人と高校生が多い。午後の日差しにちょっとまどろむ。北熊本で降りると、なぜか台湾人の団体に出くわした。皆一生懸命写真を撮っている。これがくまもん電車だった。今や台湾でもくまもんは大人気、震災の時もくまもんの連想で募金が多く集まったという。

 

上熊本まで行くと、今度はJRで鳥栖まで行くのだが、何と鹿児島本線の区間快速で1時間半もかかる。座れたのはよいが、尻が痛くなる。そこから佐賀駅までも30分かかるので、結局3時間近い電車旅の末にようやく佐賀に辿り着いた。何とも長い旅、九州の広さを思い知らされた。

 

佐賀駅前に予約してもらったホテルに入ったが、何と禁煙の部屋は満杯で、喫煙しかなかった。なぜだろうか。これだけ禁煙者が多いのであれば、全館禁煙にして欲しい、などと言えば愛煙家から非難の的だろうか。すぐにOさんが来てくれ、明日のセミナーの打ち合わせを軽く行い、今日は疲れたので早めに寝た。

九州茶の歴史を訪ねて2018(1)博多でのんびり

《九州茶の歴史を訪ねて2018》

 

台北から戻ってすぐに九州に出掛けた。もうこんな激しい旅はしないはずだったのだが、この後1か月は完全に旅を休む予定なので、その前の最後の追込み、特例として国内旅をすることにした。まあ海外に比べれば大したことはないだろう、と高をくくったのだが、実はかなり大変でとても疲れた。九州も広い。

 

6月8日(金)
福岡で

やはりボーっとしていた。休みが足りないのだろう。今回は強行軍なので、羽田から楽に福岡に入ろうと、ANAを予約してみたが、前日によくよく見てみると、何と成田発だった?!確かにちょっと安いなとは思ったのだが、まさかこんな間違いをするとは。いよいよ来るべきものが来た、と言う感じだろうか。

 

成田で国内線に乗るのはLCCの時ぐらいなので、空港駅には着いたものの、どこへ行けばよいのか一瞬迷う。掲示を頼りに歩いていくと、こんなところがあるのか、という場所だった。勿論混んではおらず、まあ遅刻せずにここまで来れば問題はさほどない。それでも朝起きる時間は1時間以上違っていたが。

 

フライトは2時間弱で福岡空港に着いた。この空港の一番良い所は、何といっても市内に近いところ。スイカも使えるのですぐに博多駅まで移動できる。博多駅では先ずバスターミナルへ行き、明日のバスを確認し、その後、大きなスーツケースをコインロッカーに放り込んだ。実は今晩は明日を考えてこの駅周辺に泊まる予定なのだが、ちょっと変わっており、午後5時からしかチェックインできない。

 

午後1時半に天神の岩田屋本店に行く。東京の人間でいうところの三越本店で、という待ち合わせだと思うが、福岡の地理に暗いので、何度も検索してようやくたどり着く。今日はYさんとランチの予定だが、何とその美貌を大きなマスクですっぽり覆っていた。風邪をひいたという。

 

私のために無理をして頂き、一風堂の本店でラーメンを食べた。今ではアジア各地で見かける一風堂だが、入って食べるのは何年ぶりだろうか。本店はあまり目立たない場所にひっそりとあった。午後2時前ということもあり、お客はそれほどおらず、ゆったりと食事ができた。餃子も食べてしまう。

 

Yさんとはそこで別れてまた後で会うことにした。私はここから博多駅までぶらぶら歩いて見たくなった。天気が良かったのだ。天神の観光案内所で地図をもらい、歩き始めた。すぐ天神中央公園に出る。そこに明治末期に建てられた貴賓館があった。立派な建物だが、3年ぐらい前に夜に通った時は暗くて覚えがない。

 

川にもすぐに出た。30分に遊覧船に乗りませんか、と言われたが、何となく歩きたかった。更に歩いていくと繁華街があり、それも過ぎると櫛田神社があった。何となく寄りたくなるような神社だ。ここが博多の総鎮守。博多祇園山笠が奉納される神社で、飾り山笠が一年中展示されている。門の向こうに牛が寝そべっていた。

 

そこから真っすぐに博多駅まで歩き、先ほどロッカーに入れた荷物を取り出し、駅の反対側を行き、今日の宿泊先を探した。駅から数分とのことだったが、10分以上は歩く。かなり分りにくい場所にその宿はあった。今回敢えて変わり種の予約をした。『男子専用宿』といううたい文句がとても不思議に見えたからだ。

 

午後5時からしかチェックインできないと書かれていたが、4時半過ぎなので覗いてみると、『どうぞ』と言ってくれたので、中に入る。1階はフロント、基本的に2階に部屋がある。そこに行って、初めて男子専用の意味が分かった。部屋は一応仕切られていたが、ドアがなく、カーテンがあるだけだった。これはある意味、病院の相部屋か。勿論シャワーとトイレも共同。それでも最近料金の高い博多において3000円台で寝られるので、外国人などが多く来るらしい。まあ部屋は狭いが寝るだけなら問題なさそうだ。

 

博多駅まで歩いて戻り、地下鉄で姪浜に向かう。今晩はYさんの自宅のある方面で魚を食べる予定だった。姪浜は地下鉄の終点で、かつ福岡空港まで一本で行ける便利な駅として最近人気があるという。Yさんのご主人も出張が多いので、こちらに引っ越したらしい。始発なら座れるし、大きな荷物も持ち込める。

 

駅の周囲は昔ながらの街が残っていて、近所で買い物するのも楽しいという。しかもここには須賀神社があると言われ、一応拝みに行く。どうもあまり機能していなさそうだったが、昔からあるのだろう。それからYさんの家に行き、明後日のセミナーの打ち合わせをしながらお茶を飲む。Yさんには佐賀でお茶入れを頼んでいた。そこへ以前に何度か会ったF夫人が合流する。

 

それから3人で食事に行く。Yご主人は出張中、Fご主人は仕事で遅れるとのこと。取り敢えず漁港付近の店に行くと花金で満員盛況。新鮮な刺身が旨い。私は酒を飲まないのでそちらは女性に任せた。F夫人は近々自らのクリニックを開業するらしい。ご主人は今北九州に出勤しているようで、帰りは遅く、お開き近くにようやく間に合った。

 

帰りはまた地下鉄に揺られ、駅から薄暗い道を歩いていると雨にも降られた。宿へ帰ると、満室になっており、いびきは筒抜け、エアコンは頭を直撃してよく眠れない。これは大変な一日目になった後悔したが、その頃には眠りについていた。

静岡、大阪、和歌山 茶旅話の旅2018(4)和歌山大に行ってみる

3月16日(金)
和歌山大学で

翌朝は驚くほど涼しかった。小雨も降ってきている。当初は和歌山の街を散歩するつもりだったが、完全に取り止めて、ホテルの部屋に籠っていた。僅か2-3日でこんなに天気が急変するなんて、さすが日本だ、と感心している場合でもない。外に出れば風邪を引きそうだが、もう出掛けなければならない時間だった。

 

まずはMさんが車で来てくれた。荷物を彼女の車に乗せると、走り去っていく。これから外せない用事があるというので、私はバスに乗って和歌山大学へ向かうことになっていた。ホテルをチェックアウトして、すぐ目の前のバス停からバスに乗るだけだったが、何となく間違いそうで、怖かった。1台逃すと30分は来ないので約束に遅れてしまうだろ。それにしても寒いのになぜかコートをMさんに預けてしまい後悔する。

 

JR和歌山駅前から30分程行くと、バスは上り坂を走り、そして丘の上で停まった。今日は大学が休みかと思うほど、乗客はいない。雨が激しく降っている。丘の上で風も非常に強い。さて、どこへ行けばよいのだろうか。訪ねる相手、タイ人のAさんに連絡してみたが、繋がらない。ちょっと不安だ。

 

仕方ないので強風の中、傘をさして飛び出す。構内案内図を見てもよく分からない。何しろもらった所在地のメールは英語で書かれているので、その日本語が分からないのだ。困っていると後ろから声が聞こえた。Aさんがやって来たのだ。よかった。結構長い階段を上り、彼のオフィスに行く。

 

和歌山大には珍しく観光学部があり、そこには外国人の先生もいる。タイ人のAさんの他、インド人とカナダ人がいるというから国際的だ。カナダ人とは会うことができたが、すぐにお客さんが来て英語で話し始めたので、あまり話は聞けなかった。Aさんは学生をタイの山の中に連れて行って、そこの少数民族との交流を図るなど、面白い取り組みをしている。その村ではミエンという食べるお茶が作られており、私にとっては興味津々の場所だった。

 

Aさんとは昨年7月タイで出会い、その後10月にも静岡で会っていた。タイから持ち帰ったというお茶を飲みながら雑談した。日本では最近急速にインバウンドという言葉が使われ始めたが、持続的な観光業とは何か、何が観光客にとって本当に魅力的なのか、など、観光学部の研究は益々重要になっていると思う。

 

そこへMさんから大学に着いたと連絡が入る。彼女も実はこの大学で中国語を教えており、よく知った場所だという。中国語は中国語系だけで固まっており、他の言語、他の学部との交流は限られているようなので、Aさんを紹介した。ちょうど私のベクトルが和歌山の方を指していたようだ。

 

お昼ご飯を食べようということで、Mさんの車に乗り、近くのイオンで行く。ここは市街地から離れているが、大きなイオンがあり、生活には困らなそうだ。しかもそこは駅と直結しており、極めて便利な環境となっている。私も食事の後はここから電車で関空へ行けばよいと言われ、安心してご飯が食べられる。

 

イオンの中にはレストランが沢山あるが、どれもチェーン店だ。Aさんは何を選ぶのかと思っていると、何と中華に挑戦するという。私も入ったことがないチェーン店だったので、それに続く。今回の旅はほぼほぼ中華系で占められたな。油淋鶏定食に棒餃子が付く。棒餃子が日本で認知されているとは面白いし、味も悪くない。食後はドリンクバーで飲み物を取り、3人で話す。何だかファミレス感覚だ。

 

時間になると和歌山大学前駅まで歩き、電車に乗る。するとすぐに大阪府になる。この地は和歌山と大阪の境にあったのだ。ある意味で大阪への通勤圏でさえあるが、雨の日の午後に乗客はほぼいない。途中泉佐野で乗り換え、関空へ向かう。和歌山大から1時間もかからず到着する。やはり近い。

 

関空から飛び立つのは何年ぶりだろうか。しかも国内線となると10年以上前かな。当然ターミナルはきれいになっており、ちょっと見違えた。今日の便はバニラだが、まだチェックイン開始までも時間があった。フラフラしていると、肉まん屋に行列が出来ており、私も並んで買ってみた。お土産に持って帰る人も多いようだ。中国人や韓国人が母国まで運ぶらしい。私は軽食のつもりで2つ食べてみたが、食べ甲斐があり、腹が相当に膨れた。

 

ちょうどこの肉まんを新幹線の車内で食べてよいかどうかで議論になっていた。私にはそこまで強烈には思えないが、気になる人には何でも気になるのだろう。まあたばこの煙がダメという段階で、ある程度のにおいは禁止されるべきかもしれない。それなら禁煙や禁肉まんだけでなく、禁酒もお願いしたいのが、酒を飲まない人間の考え方だがどうだろう。

 

フライトはちょっとスタートが遅れたが、アッと思っている間に成田空港に着いた。国内線だと機内で酒を飲む人もいないのでよい。国際線もそうならないだろうか。第3ターミナルから1000円バスで東京駅へ。このバスは非常に混んでいる。もっと本数を増やしてほしいがこちらにも既存の壁が立ちはだかるのだろう。

静岡、大阪、和歌山 茶旅話の旅2018(3)初めての和歌山市で

3. 和歌山
夜の和歌山駅はかなりひっそりしていた。電車から降りる乗客もまばらで、ホームで写真を撮っていると、あっという間に誰もいなくなってしまった。駅の改札付近にはコンビニがあるが、まだ電車はある時間だというのに、駅前全体もひっそりしていた。その駅のすぐ横のホテルを予約していたので、そそくさとチェックインする。

 

大阪に泊まろうかと考えた時、検索するとどこも相当に高かった。『どうせ和歌山へ行くなら、そちらに泊まる方がずっと安い』とアドバイスを受けたのだが、それはやはり正解だったようだ。部屋はそこそこ広く、ゆったりしており、静岡-大阪-和歌山と転戦してきた疲れが一気に噴き出し、寝入る!

 

3月14日(木)
初めての和歌山市

翌朝は駅の周りを散歩してみた。これまで和歌山県と言えば、高野山や竜神温泉には泊まったことがあるが、和歌山市に来るのは初めてだった。だがどこの都市も最近の傾向では、駅周辺にはあまり見るべきものはない。ちょっとコンビニによって朝飯を買っただけに終わる。

 

9時過ぎにMさんが迎えに来てくれた。Mさんは私の中国紅茶の連載を読んでいてくれて、友人を通じて連絡をしてくれていた。『和歌山に来ることがあれば寄って』と言われて2か月ぐらいで、もうやってきてしまったのだから、私も動きが軽い。いや、やはりこれもご縁のなせる業なのだ。

 

車で和歌山ビック愛、という建物に向かった。周囲には高い建物がなく、かなり目立つビルだ。そこの8階に和歌山県国際交流センターがある。今日はMさんの働き掛けがあり、こちらでお話しさせて頂くことになっていた。ここは和歌山に住む外国人との交流を進める目的で設立されており、担当のNさんは元中国人。ちょうど私が上海に行った頃、上海から日本に渡って来た人だった。こういう人々が、言葉だけではない、本当の交流に一役買っているのだろう。

 

『中国紅茶の歴史』なんて、ご興味ある人がいるのだろうか、と心配していたが、それも杞憂に終わる。Mさんの中国語教室の生徒さんなど、大勢が聞きに来てくれ、大変有意義にお話しすることができた。Mさんに黄茶を淹れて頂き、質問もいくつも出て、何とも有り難い。まあ、内容は少しマニアックすぎたかもしれないと反省。

 

会が終了すると、ランチに案内された。Mさんたちがいつも行くという中華料理屋だった。昼時はかなり混んでいる。何とも不思議に感じてしまうのは、昨晩も今日も中華を食べているということだ。今や日本の国民食は中華料理なのだろうか。私自身の感覚では、日本の中華料理は日本料理であり、それはそれで十分美味しいのだが、彼らが地元で支持される理由は何だろうか、とふと考えてしまう。

 

午後は国際交流センターに戻り、Mさんに紹介されたインド人に会う。何故インド人に会うことになったのか。それもインドにいる時、マハラシュトラ州と和歌山県が友好都市であり、和歌山にもインド人留学生がいるという話を聞いたので、どんな暮らしをしているのか、聞いて見たかったからだった。

 

ただ知り合いのラトールさんからの紹介はなく、代わりにMさんが紹介してくれたわけだ。ところがやって来た人は、デリーの出身で、ここでヨーガを教えてながら、インド文化・料理などを紹介している人だった。当初の目論見とは異なるが、これはこれで面白い話が聞けて良かった。インド人が日本で暮らす上での苦労話、1時間以上があっという間に過ぎてしまった。

 

その後はMさんにホテルに送ってもらい休息。そろそろ疲れが出てきており、十分に休む。夕方散歩方々、お城の方にゆっくりと歩いていく。駅から歩くと思ったより距離があり、お城に近づいたころには陽が落ちていた。ショッピングアーケードが見えたので、そちらを歩いてみるも、あまり人影はなく、ちょっと寂しい。

 

ちょうどラーメン屋が見えたので、入ってみる。和歌山ラーメンも有名だと聞いていた。中華そばと書かれているのがなんとなく懐かしい雰囲気だ。和歌山のラーメン、食べてみると、しょうゆ味なのに結構こってりしている。豚骨ベースの豚骨醤油味というらしい。独特だ。

 

更には店の隅では牛筋肉に味噌ダレを付けて焼いたどて焼き『すじどて』が作られており、お腹は一杯ながらこちらにも挑戦した。私はこういうB級食物が大好きだ。お酒を飲む人なら、まずはすじどてをあてに一杯飲み、その後中華そばを食べるのだろう。酒を飲めないと楽しみが少し薄れるが、すじどてが食べられたので満足して戻る。

静岡、大阪、和歌山 茶旅話の旅2018(2)あっという間に通過した大阪で

3月13日(水)
大阪へ

翌朝は6時に目覚め、7時半前に掛川駅へ行き、こだま号にまた乗った。私が新幹線に2日も続けて乗ることは極めて稀だ。しかも品川から新大阪まで全てこだまというのも実に久しぶりのことかもしれない。掛川から乗ると、どこかでのぞみなどに乗り換えなければならず、それが面倒だから早めに出てこだまにしたわけだが、他の車両に追い越され、2時間以上かかる新幹線は何となく苦痛だった。それなのに料金は同じとはどういうことだろうか。

 

2. 大阪
新大阪に着くと、かなり暑く感じられた。ホームから降りようとしたその時、何とコートを車内に忘れたことに気づいた。幸いここが終点だったので、車両は未だホームに停まったままだった。一番前の車両だったので乗り込もうとすると中に車掌がおり、『今係員が前から忘れ物を持ってくるからここで待て』と言われる。確かにしばらくすると私のコートを持った人が来て無事に受け取れ、ホッとした。

 

新大阪からJRで大阪駅へ向かう。この電車、意外と混んでいる。大阪駅では初めての阪神電車の駅を探す。阪神甲子園球場と言えば、子供の頃から高校野球でいつも見ていたのだが、実は甲子園には行ったこともなく、ましてや阪神電車には乗ったこともなかったので、何となく楽しみだった。

 

何とか阪神梅田駅に辿り着き、ホームに出たが、どの電車に乗ればよいかわからない。野田という駅で降りるように言われていたので、梅田のすぐ近くだと知り、普通電車に乗ってみた。西宮の方へ向かうこの電車、どんな感じかなと周囲を見る暇もなく、すぐに野田駅に着いてしまった。

 

今日はFBで連絡をもらっていたLさんと待ち合わせた。Lさんがどんな人なのかは全然分からなかったが、中国人翻訳家かな、という認識程度だったが、なぜか一目で分かった。駅の脇の喫茶店に入る。サンドイッチを食べ、コーヒーを飲みながら雑談した。既に大阪に住んで20年以上というLさんだったが、なぜか2人の会話はオール中国語た。まあ、特に違和感はない。

 

共通の知人もおり、彼女の活動には理解できるところもあったが、何分時間が短すぎて、肝心な話はしなかったように思う。それでも次回の再会を約した。次はどんなことが起こるだろうか、楽しみだ。そして私が向かう梅田のビルの近くまで案内してもらった。一人でも行けると思っていたが、梅田の地下街は想像以上に複雑で、助けがあって本当に助かった。

 

しかしビルがいくつもある。そして指定された階にエレベーターで昇っても、今度はいくつもの部屋がある。ここはレンタルルームが沢山ある所なのだ。表示が分かりにくく、人に聞いても首を振る。何とか探し当てた時には、既にセミナー開始30分を切っていた。結構慌てて準備に加わる。

 

インドから連絡した時、Mさんとは『3-4人でお茶でも飲みましょう』という話であったが、何とこの会場は優に30人は入る。この辺がMさんの凄いところで、茶芸教室の生徒さんなどを動員してくれ、盛況となる。『今日は学校の卒業式などで来られない人もいた』というから、大阪のお茶熱は素晴らしい。

 

午後1時から3時まで、台湾紅茶と包種茶の歴史をお話しした。この2つのテーマ、東京では1つを2時間かけて話していたので、ちょっと盛り込み過ぎた。正直歴史の話はなかなかウケないので心配したが、何とか話し切る。そしてあと1時間は、お茶を飲みながら雑談会となる。急に雑談して、と言われても困るので、また私が余計なことを話す。雑談は得意な方だ。

 

Mさんは昨日中国から戻ったばかりだというのに、とてもエネルギッシュで、ビルの地下で食事会まで開いてくれた。中華の食べ放題、店員も中国人だった。この頃になると、インドで『たこ焼きが食べたい』などと叫んだことなど、完全に忘れてしまっており、出てくる中華をバクバク食べていた。そして10人の方と楽しくお話して過した。大阪に来た甲斐はあった。ただ次回はタコ焼きやお好み焼きに手を出そうと思う。

 

夜も7時を過ぎると、荷物を引き摺って大阪駅に向かう。ここがまた迷路なのでメンバーの方にご案内頂き、ついでに和歌山行きの電車に乗せてもらい、途中まで送ってもらった。ちょうど大阪駅で和歌山行きの電車がやってきてラッキーだった。一人ではとてもこれには乗れなかっただろう。

 

電車は堺などを通っていく。その後は乗客も少なくなり、かなり涼しくなる。途中で電車が2つに分離され、一部は関空の方に、一部は和歌山へ向かった。更に最後の方でなぜか後続の電車に抜かれたので、先の電車に乗り換えたりもした。よくわからないながら、何とか10時前に、和歌山駅に降り立った。

静岡、大阪、和歌山 茶旅話の旅2018(1)静岡の研修会

《静岡、大阪、和歌山2018》  2018年3月12日-16日

 

急に大阪に行きたくなった。先月のインド滞在中、あまりに味気ない食事に耐え切れず?日本食が少し恋しくなるという珍しい現象が起きた。偶々同室の人が大阪出身、たこ焼き食べたい、と思い始めると、居ても立ってもいられなくなってしまった。3月に静岡に御呼ばれしていたので、その足で大阪へ行こうと思う。

 

そして大阪のMさんに連絡すると『ちょうど中国から帰ってくるので、お茶会しましょう』と言ってくれた。そういえば和歌山のTさんからもお声がかかっていたので、連絡すると『ちょうど中国から帰ってくるので、セミナーしましょう』というではないか。まるで計ったように日程が決まってしまった。

 

3月12日(火)
1. 静岡

Foodexの間は東京にいた。そのタイミングで、静岡の製茶機メーカーさんに呼んで頂き、茶旅のお話をすることになっていた。いつもは在来線で行く静岡だが、今日はちゃんと?新幹線に乗ろうと思い、品川へ向かう。今日の目的地は掛川なので、こだまを探して乗っていく。

 

今日は何ともいい天気だ。品川駅の新幹線ホームにはなぜか幼稚園児とその親が大集合していた。自由席なので、皆がそこを避ける中、ちょっと興味を持って同じ車両に乗り込んだ。親たちは付き添いではなく、見送り(送り)だった。親に甘えていた子供たちも大人しく乗り込んでいく。先生たちは大変だ。3人掛けの席に4人ずつ乗せて、面倒を見ている。

 

子供が煩い、と飛行機でよく問題になるが、新幹線の自由席、しかも平日の午前中だから空いており、問題は起きない。彼らは次の新横浜で降りていく。そうか、遠足?に行くのに新幹線とはすごい!子供たちがいなくなった車内は軽い緊張が解け、完全な静寂に包まれた。静岡に近づくと富士山がくっきり見えてくる。思わず写真に収め、すぐにFBに投稿したが、『なぜ新幹線に乗っているの?』といった反応に苦笑する。

 

掛川駅まで1時間ちょっとの旅だった。やはり電車の旅としては早過ぎる。でも仕方がない。駅には昨年タイの茶旅でご一緒したYさんが待っていてくれた。今回のお声がけは昨年の旅のご縁の延長だった。何とも有り難い。Sさんが運転してくれる車でランチに向かった。途中税務署近くで、デモ隊と出会って驚く。これも佐川事件の影響なのだろうか。

 

さわやか、というレストランへ行く。『ここが静岡ローカルハンバーグで有名なお店です』と言われて入っていく、11時半ですでにお客さんが待っていた。げんこつ炭焼きハンバーグが有名で、静岡県内に30店舗を有するという。芸能人などが紹介して、県外からも食べに来る人がいるらしい。

 

確かにこのハンバーグはボリュームがあり、ジューシーで美味しい。ウエートレスが色々と説明してくれる。特にプレートにハンバーグを押し付け、ジュ―っとやるのがよい。そのウエートレスの名前がかわっていて、聞いてみると沖縄出身だった。ここまで働きに来ているのだろうか。

 

午後は製茶機械メーカーの研修会に参加した。400人もの参加希望があると聞いて驚いた。静岡以外からの参加者もいるようだったが、基本的に400もの茶農家がいるのか。それほどに私は日本の茶業を知らない。社長のTさんに会うと、『いやー、今日は快晴なんで、少し参加者が減りました』というではないか。農家は天気が良ければ畑に出てしまうからだ、と言われて、なるほどと思う。

 

それでも大勢の方が、茶業の現状や機械の紹介、安全管理などの話を熱心に聞いている。会場には様々な機械の展示が行われており、休み時間には各場所で説明と質問が繰り返されている。最後に私も少しお話をしたが、数百人を前に大会場でマイクの前に立つのは何年ぶりだろうか。緊張というより、ちょっとビックリしながら話している自分を別の自分が見つめている感じだった。

 

この会には昨年7月にタイでご一緒したNさんやIさんも来られており、夜はT社長のお招きで会食した。酒を飲まない私ではあるが、静岡で食べる海鮮などは美味しく、懐かしい話も飛び出して、楽しい夜を過ごした。お茶を介した多様な繋がり、これは本当に貴重だ。

 

今晩は掛川駅近くに泊めてもらった。ドーミインのエクスプレス、ドーミインは昔何度か泊まったが、今や簡易版まであるのだ。エクスプレスと言いながら、屋上の露天風呂もあるし、夜半の夜泣きラーメンも健在だ。日本のビジネスホテルは今、料金も上昇傾向にあり、変革期なのかもしれない。

沖縄で突然茶旅2018(7)台湾に向かう前に

帰りはAさんの車に乗せてもらい、首里方面へ向かう。首里駅の一つ手前の駅で車を降り、帰る。本当は首里城でも見学すべきだと思ったのだが、何となく疲れが溜まっており、休むことにしたのだ。部屋に戻ってみると、ちょうどテレビで都道府県対抗女子駅伝が終わったところだった。昔はよく見たのだが、今は見る機会もない。

 

今日は暖かくて気が抜けてしまったのか、そのままベッドに倒れ込んで寝てしまった。気が付くと辺りは暗くなっていたが、夕飯を食べたいとも思わず、面倒なので、大河ドラマなどを見て過ごす。明日はこの部屋ともお別れして、台湾へ向かうので、荷物の整理も必要だった。

 

1月15日(月)
フラフラ

よく寝たので、朝早くに起きた。珍しくコーヒーを淹れて飲む。この部屋には、電気ポットもレンジもあるので、簡単なものは何でもできる。腰の調子もだいぶ良くなってきた。今日は夕方のフライトで台北へ行く。この部屋は午後2時まで使わせてもらえるので、重い荷物を置いて外へ出た。

 

まずは先日開いていなかったスーパーに行ってみる。地下の食品売り場は朝から結構人がいた。お茶のコーナーを訪ねてみると、さんぴん茶が売られていた。あのピンクの細長いものもあり、最近のパッケージのものもあったが、やはり沖縄では一定のステータスがあることを感じる。思わず2-3、購入してしまう。

 

それから国際通りを歩いてみる。昨日お世話になったAさんのお店もあったが、どこにも入らず、そのまま公設市場付近を彷徨う。実はこの辺に一軒だけ台湾のお茶屋さんが今も営業していると聞いていたので、是非とも訪ねてみたいと思ったのだ。ただ住所なども分らず、探すしかなかった。

 

ようやく探し当てたそのお店、茶という文字が大きく見えた。外に出ているお茶を見ていると店員さんが声を掛けてきたので、『このさんぴん茶はどこから仕入れているの?』と聞くと『台湾産だ』という。『台湾のどこだ?』と聞くと『仕入れ先は教えられないよ』との答えだったので、『台湾北部?』と聞くと『中部』とだけ答えて、いやな顔をした。

 

『お茶を買いたいので』と言って中へ入ろうとすると『これから台湾へ行くなら台湾で買った方が安いよ』と言って、前を遮る。では、写真だけでもと言ってみると、お断りだ、と追い払われた。余程警戒されてしまったようだが、何か隠しごとでもあるのだろうかと勘繰りたくなる対応ではあった。台湾産、というところにどうしても引っかかってしまう。

 

ここのオーナーは台湾人なのだろうか。そんなことさえ聞けなかったので、収穫なしとしよう。私は単にお茶の歴史を勉強しているだけだが、相手にとっては、過去から現在までの利害に繋がる話になるため、危険人物と思われてしまうのかもしれない。台湾でもあまりに突っ込んで調べるとか、相手の間違いを公に指摘する行為は慎むべきだろう。

 

空港に向かう前に昼ご飯を食べようと思ったが、沖縄最後の日であり、当分日本に戻らない最後の日でもあるため、何を食べるか迷ってしまう。宿の近所にとんかつ屋があり、沖縄でとんかつもないと思いながら行ってみると、何と超満員。確かに沖縄に住んでいる人が、毎日沖縄料理を食べている訳もないのだ。

 

そうなると、やはりステーキか。何と990円でステーキが食べられるお店が、改修中のバスターミナルの横にあった。きれいな店で、サラダとスープはお替り自由らしい。うまいなと思いながら食べていると、そういえば、台湾にもステーキがあるな、と思いつき、ちょっとあれ。こんな戦後の食文化も似ている台湾と沖縄であった。

 

宿に帰り、荷物を持ってゆいレールに乗り、空港に向かった。旭橋駅の近くには先ほど見たバスターミナルの新ビルが建設中で、これができるとこの駅付近はもっと便利になるだろう。ロケーション抜群の場所、次回はここに泊まれるだろうか。民泊法に掛かっているような気がする。

 

空港に到着したが、今日乗るピーチはここからさらにバスに乗って別のターミナルへ行かなければならない。既に過去にも乗ったことがあり、その辺は分かっていた。ちょうどバスが来たのだが、何と乗客が一杯で乗ることが出来なかった。台湾人が多いようだ。私と同じ便で台北へ帰るのだろうか。

 

LCCターミナルは相変わらずガランとしている。チェックインも昔よりスムーズだ。出国審査までもまだ時間があった。ふと周りを見ると土産物を売っていた。Aさんのちんすこうは、正面に宣伝されている。見ると小さな300円の土産物もあり、これは便利だといくつか買って、台湾人への土産とした。台湾にもこんなお菓子あるのだろうか。昨日からそんなことに興味が沸く。

 

飛行機はやはり満席。僅か1時間ちょっとで桃園空港に着陸した。これはやはり便利だ。これからの台湾行は沖縄経由にしようかな。今回の沖縄訪問では予期せぬ収穫が多数あり、お茶の歴史の深さを思い知る。いや、私が知らないことが多過ぎる、変な思い込みが強すぎる、ということだろう。