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島根横断茶旅2019(2)松江でぼてぼて茶

街中にある「はんのえ」というお店に入り、ぼてぼて茶碗などを見た。抹茶茶碗とさほど変わらない。茶筅は奈良の高山町産だという。ただ扱っているお茶は地元産ではなく、ぼてぼて茶の由来についても収穫はなかった。最後に出雲大東町の方まで出向く。ここには20年以上前、須賀神社の総本山を訪ねてきたことがあり懐かしい。神社は立派な鳥居などが出来てかなり変わっているようだった。降りてゆっくり眺めたかったが、茶旅にはその時間もなく通り過ぎた。

 

藤原茶問屋を訪ねる。ここで島根茶の歴史について、教えを乞う。藤原さんはお茶作りにも熱心であり、地元の茶の歴史にも熱心だった。大東茶の起源は松平不昧公がこの地に来て、番茶を飲んだことから始まるらしい。250年の歴史あるお茶。水もよい土地だったという。古い茶業史資料が出てきて面白い。お茶も美味しく頂く。

 

長い一日のドライブを経て、車はついに松江市内に入った。松江に来たのも20年ぶりだが、街の様子はそれほど変わっていないように見えた。駅前のホテルを予約しており、チェックイン。思ったよりずっと良いホテルで、パッケージツアーの良さを知る。続いてUさんが急きょ泊ることになったゲストハウスを探したが、なかなか見つからず苦戦する。

 

それが済むと、Iさんの店に向かった。Iさんとは5年ほど前、香港、広州で一緒に旅をしており、その後彼は故郷で中国茶荘を開いていた。一度は訪ねたいと思いながら、開店して5年以上、来る機会がなく過ぎてしまったが、ついに今晩実現した。お店は茶町と書かれた通りに面していたが、その通り自体、多くの店が閉まっていた。せっかく茶町なのに、茶の雰囲気はない。

 

お店の中はかなりきれいで雰囲気が良い。お茶の種類も豊富で、お客さんも多いだろうと思って聞くと『松江は保守的で、新しい物に手を出す人が少なく、中国茶の認知度が非常に低い』というではないか。これには正直びっくり。松江と言えば茶文化というぐらいだから、さぞや各地のお茶に精通しているものと思っていたが、全く様子は違うようだ。

 

隣の鳥取や広島から来るお客さんもいるというのに、地元の人が来ないとは困ったものだ。それでも昨今の台湾ブームなどもあり、豆花を出すなど工夫をしており、興味を持つ人は増えているらしい。外部への出張なども行っているようだが、是非店を続けられるようにして欲しいと願う。

 

3人で夕飯を食べに行く。私の泊まるホテルに車を駐車したところ、宿泊代とは別に一晩1000円の駐車料が掛かるというので驚いた。日本というのは本当に恐ろしいところだ。それから歩いて、松江名物のおでんを食べに行った。ところが今日は金曜日の夜、8時過ぎに店に入ったところ、もうほとんど食べるものは残っていないという。

 

あり合わせのおでんを注文してつまんでいると、いつの間にかお客さんはいなくなっている。まだ腹も満ちていなかったので、今度はしじみラーメンを食べに行って見る。しじみは宍道湖の名物だが、ラーメンがあるとは初めて知る。しじみが金属の笊に分けられて出てきたのはちょっと驚く。味は意外とうまい。長い1日目はこんな感じで暮れていく。

 

3月9日(土)
松江から出雲へ

泊まっていたホテルは快適だった。ビジネスホテルではあるが、東横インなどからすると2段階も上と言う感じだ。昨晩帰る時に酔っぱらったサラリーマンが『今回の出張、ここに泊まれてうれしいです』と大声を出していたのを思い出す。朝食も充実しており、和食にオムレツまで付けてもらい、朝から嬉しい悲鳴?

 

今日はまず、ぼてぼて茶を実際に飲んでみることにした。お城の堀端にあるお店へ行くと、堀沿いの外の席に案内され、ぼてぼて茶がやって来た。茶碗に既にお茶が入っており、具として、豆腐、黒豆、高菜など7種類を入れて、塩も振る。このお茶は番茶だという。茶筅を茶碗にぶつけるのはバタバタ茶と同じ原理だ。

 

味はかなり飲みやすいのだが、飲み方は片手でひょいと口に持っていき、こぼさないようにさっと飲むらしい。だがこれは全くできない。お店の人から、ぼてぼて茶の由来などを調べた資料を見せてもらったが、当然ながら不昧公の逸話などが載っており、バタバタ茶やブクブク茶とは違うことは分かったが、その歴史的背景を探るのは難しかった。

 

松江の郊外に出てきた。造園業の傍ら、宝箱、という茶業をしているMさんのところにお邪魔した。島根茶の復興、農薬や化学肥料を使わないお茶作りを進めているという。事務所ではお嫁さんが対応してくれ、車で山を上がると、お父さんが待っていてくれた。非常に眺めの良い場所に茶畑が見える。

 

大庭空山、有機の畑。造園業をされているので、林と茶畑の共生などにも配慮され、合わせて他の場所から飛んで来る農薬などの侵入も防いでくれるのだという。何しろ景観が素晴らしい。茶工場も横にあり、紅茶製造の機械なども導入されている。脇には井戸があり、水が良いことも分かる。やはり信念をもって茶作りをしている茶畑はちょっと違う。

島根横断茶旅2019(1)米子から安来へ

《島根茶旅2019》  2019年3月8日‐11日

島根県、そこは東京からもっとも遠く感じられる日本の県かもしれない。5年前にぼてぼて茶に興味を持ち、すぐにでも行こうと思ったし、2年前には知り合いのUさんは島根に移住して茶作りを始めたので、ぜひ来て、とも言われていた。しかしいざとなると、なかなか一歩が踏み出せずにいた。

 

ちょうど予定していた勉強会が、会場の都合で延期となった。実は私は今回の説明資料を作りあぐねており、この延期を心から歓迎していた。そしてぽっかり空いた数日間、これを島根行きの当てることにして、Uさんに連絡したところ、折角だから、島根を端から端まで楽しもうという話になり、渡りに船と出掛けていく。

 

3月8日(金)
米子から松江へ

今回の島根行きに際しては、Uさんより、『パッケージツアーを使うと安い』と言われてちょっと驚く。送られてきた内容を見ると、ANAの往復航空券(いくつかの空港から選択し、行き帰り別空港可)+ホテル1泊が付いており、他にも特典がいくつかあった。観光客を呼びたい島根とのタイアップ商品かもしれない。

 

行きは出雲空港から入ろうとしたところ、何とANAは飛んでおらず、米子空港となる。またいい時間のフライトには割増料金が掛かり、どこまでお得だったのかは判断が難しいが、この商品のお陰であまり悩まずに日程が決められたのは良かった。尚いつも思うことだが、ネットで購入したツアーのチケットなどが郵送されて来るのには本当に違和感がある。

 

早朝羽田空港に向かう。国内線は乗る機会が少ないので、いつも駅ホームの前で降りるか後ろで降りるかが覚えられずに困る。国内線はWebチェックインすれば、そのまま搭乗ゲートまで行けるので、荷物も預けずにスタスタと進む。正直、誰が乗っているか分からないフライト、ちょっと怖いけどね。

 

飛行機に乗る前にツアー特典を1つ使う。1000円分の買い物券があるので、それでお土産のお菓子を買う。足りない税金分80円を現金で払うと、マイレージを溜めましょう、と言われ、カードの提示を求められる。80円でマイルがたまるのだろうか??もし貯まらないのなら、こういうマニュアル的な無駄は排除して欲しいものだ。

 

フライトは順調で、1時間半ほどで米子空港に着いた。バッゲージクレームでは目玉おやじに歓迎されるなど、空港内は鬼太郎一色になっている。出口をUさんの姿はない。何とUさんの住む場所から、この空港まで車で4時間以上かかり、その予想外の遠さで少し遅れたという。それは本当に申し訳なかった。でも車がないと、何もできないのも事実。せめてANAも出雲行きを飛ばしてくれていればと思う。米子は鳥取県の端なのだ。

 

Uさんと落ち合って、最初に行ったのは境港のおさかなセンター。ここでお昼を食べようという。それにしてもいい天気だった。海も輝いており、向こうに大山がくっきりと見える。釣りをしているおじさんたちも何となく楽しそうに見えるのはやはり天気のせいだろう。

 

展望台のようなものが建っているが、登っている人はあまりいない。鳥取紅茶などが並んでいるお土産物店も開店休業状態だ。如何にも箱物行政の産物だ。ランチに魚を食べて、ちょっと市場を覗く。大きな蟹や魚がゴロゴロ。あまり見かけない魚もいるのは、やはり日本海側だからだろうか。

 

それから境港の鬼太郎ロードでも歩いて観光するのかと思いきや、突然の茶旅が始まり驚いた。さすがUさん、只者ではない。車はドジョウすくいで有名な安来町に向かった。30分ぐらい走るとちょっとした山の中へ入る。そこに古い工場が見える。茶工場だった。既に閉鎖しているのか看板もない。事務所に恐る恐る入っていくと、話しを聞くことが出来た。

 

この辺りでは昔から茶を作っており、戦後の好景気には製茶組合が出来て、共同工場としてここが作られた。だが茶葉需要は落ちていき、組合は解散。今は一部の人がここを使って、番茶などを細々と作っているという。工場は大きく、かなりの生産量があったことを窺わせる。安来番茶は、今でも周辺地域では飲まれているが、全国的には知られていない。因みにぼてぼて茶の原料はここの番茶ではなく、安来にはそもそもぼてぼて茶を飲む習慣もないとのこと。

 

茶畑の残っている場所を聞き、見に行く。突然立派な鳥居が見える。登っていくと、平安時代に京都岩清水八幡宮の別宮だったと書かれており、由緒正しい。それにしても、その時代にここに建てられた八幡宮、何か特別な意味があるようにも思う。更に進んでいくと、道路脇に茶畑が僅かに残っていた。防霜ファンも装備され、きれいな畑だった。

 

それから同じ安来市内の、母里という場所に移動した。そこに民俗資料館があるとのことだったが、閉まっていた。周囲を見ると立派な図書館があり、中には当地の民藝品などの展示室があった。更には地元の歴史本を見ていると、昭和初期にぼてぼて茶について纏めた資料が見つかり、コピーをお願いした。因みに母里と言えば、黒田官兵衛の部下に母里太兵がいたのを思い出すが、何か関係があるのだろうか。

静岡から愛知へ2019(3)犬山の病院と城

2月3日(日)
セミナー

今朝は早めに起きる。あまりに狭い部屋で、息苦しかった。上はちゃんとした部屋だったから、料金を払えばよかっただけだが、それなら駅前の3000円の所に泊まって、銭湯だけ入りに来れば、420円で済む。次回はそうしよう。チェックアウトする時に見ると、朝から銭湯は開ており、大勢が入っていて驚いた。また泊り客は若者が多く、皆朝風呂後にチェックアウトしようとしている。こんなのが流行りなのかもしれない。

 

名古屋駅前から地下鉄に乗り、今池に向かう。ところが今池に行ける地下鉄は2つあることに気が付く。どちらが便利なのか、さっぱり分からず、適当に乗ったら、遠回りだった。やはり不慣れだ。駅を出て、荷物を引っ張って会場へ向かう。会場に行くのは3回目なので、問題はなかったが、結構歩いた。

 

今日は台湾高山茶と中国紅茶の話。主催者の茶心居さんが参加者を集めてくれて有り難い。高山茶の話は、茶産地の位置と意味が分かり難かったようだ。確かに余程詳しくないと理解できないはずだ。私は今や、自分の話したいテーマで、話したいようにしており、参加者のことはあまり考えていないと改めて思う。

 

お昼は台湾おにぎりとスープの会場販売があり、私もそれを頂いた。しかし午前と午後の間が2時間以上あり、雑談に花が咲いてしまい、少し気が抜けた。散歩に行った人もいたが、雨が降り始めたようで、ちょっと難儀した。次回は1時間ぐらいのインターバルで出来るとよい、と思う。

 

午後の中国紅茶、こちらも中国全土を駆け巡っており、位置関係は分からなかったかもしれない。また紅茶全体の歴史の詰めがまだ甘いため、分かり難かったかとも思う。紅茶の近現代史は、各産地共に似通っているので、もう少し工夫が必要だろう。まだ烏龍茶の歴史などを勉強していないため、その比較ができないことも苦しい。

 

セミナーが終了すると小雨の中、今池に歩いて戻り、また名古屋駅へ。今日はこれから犬山市へ向かうのだが、何しろ初めてで、名鉄でもまごつく。ホームまで行くと、色別に並ぶ列が違っており、本当に困った。そこにアジア系外国人数人がやってきて、当然のように空いているところに並んでいたが、自分たちが乗る電車が来ると横入りの形になってしまう。何となく車内の雰囲気が悪くなる。

 

5時半過ぎに犬山駅に到着する。旧知のIさんが車で迎えに来てくれて、夕飯に連れて行ってくれた。そこはちょっといい和風ファミレス。何と香港で一緒だったTさんが今そこの役員になっているというので驚く。立派な定食とドリンクバー、親子三世代で来られるお店を目指しているようだ。

 

そこでIさんと昔話に花が咲く。実はIさんと、昨晩名古屋で会ったUさんも香港の時に知り合い。奥さん同士は今も年賀状をやり取りしているらしい。この二人、近くにいるのに会う機会がなかったようで、ちょっと橋渡しした。Iさんはこの偶然?にとても驚き、そして喜んでいた。今晩はIさんが予約してくれたホテルに入り、足を十分に延ばして寝る。

 

2月4日(月)
背骨と犬山城

翌朝、朝食付きというので1階のカフェに行って見ると、トーストとゆで卵に、煮物のようなものが付いてきた。とても不思議な朝ご飯。そういえばいまだに名古屋のモーニングを食べたことがない。Iさんが迎えに来てくれ、勤務している、『あいちせぼね病院』に向かう。

 

この病院には椎間板ヘルニアと脊柱管狭窄症の患者がやってくる。治療費は100万円以上するが、1度の手術で、ほぼ治るというので、東海地方を中心にお客がたくさん来ているという。確かに費用が多少掛かっても、数か月、数年痛い思いするより、すぐに治る方を選びたいという希望は理解できる。東京にも分院があるので、腰痛持ちの私もいつかお世話になりそうだ。

 

病院内を見学すると、MRIが何台もあるなど最新鋭の機器が揃っている。病室もとても広くてきれい。外国人富裕層向けの対応だろうか。病院はつい最近だが、オペクリニックは20年以上前に開業しているという。愛知にこんな病院があるとは驚きだ。健康診断に来る人も多いとか。Iさんとこの病院が更に良くなる方法について話しているうちに、あっという間に昼になる。

 

とんかつ屋に連れて行ってもらったら、満員盛況。何だか活力あるな、犬山。その後車で国宝犬山城まで連れて行ってもらい、Iさんと別れ、城に登る。この城、日本で一番古い天守を持つことから、城好きに大人気だとか。登っていくと階段が急で大変。上からの景色はとても良い。歴代城主、明治以降も城主が城を所有してきたという。

 

城の下には神社などもある。前の道は、昔ながらの風情を作っている。そこを歩いて駅へ行き、名鉄で名古屋に出る。JRバスで帰ろうと思い、新宿行きを頼んだが、『30分後の東京駅行きの方が早く着く』と言われてびっくり。余った時間で、あの台湾ラーメンを食べてみるが、辛くてたまらない。これに台湾と名付けるか?長距離バスに乗る前に食べるものではない。バスは空いていて快適。途中SA に寄って約5時間で東京駅まで帰って来られた。料金は新幹線の半分、その日の内に帰れるし、次回からこれにしよう。

静岡から愛知へ2019(2)富士山茶園から袋井、名古屋へ

2月2日(土)
富士山茶園から袋井、名古屋へ

翌朝は早めに起きたが、既に包丁とまな板がぶつかる音が響いていた。農家の朝は早い。朝ご飯を頂いていると電話が鳴る。Nさんのお知り合いの茶農家から、『富士山がきれいだから茶畑見に来れば』とのお誘い。本日は午前中に金谷のミュージアムを見学してから袋井まで行くことになっていたが、富士山の誘惑には勝てずに、Nさんの車で出掛けて行く。

 

そこは金谷とは反対方向。車の中からも富士山が大きくなっていくのが分かる。まずはHさんの家に迎えに行き、一緒に茶畑に進む。もう沼津に近いこの辺り、平地にも茶畑が見られるが、我々は山道を登り始める。少し行くと山沿いにひっそりと茶畑が広がっている。まるで山茶を見に行った時に出会ったような光景だ。

 

更に登っていくと、新しく開墾された場所にまだ小さな茶樹が植えられていた。畝の幅がとても広く、普通の畑とはかなり違ってみえる。『皆が山を捨てて機械を入れやすい平地に移ったから、逆張りで山に植えている』のだという。新しい試み、実に新鮮だ。大きな木が邪魔しなければ富士山がよく見え、観光スポットとしても絶景になるだろう。

 

帰り路を行くと、今度は目の前に海が見える。その前には広々とした平地があり、製紙工場などの煙突が見える。写真撮影には絶好の場所だが、当然地元の人以外に知る者はない。更に下りると高速道路を渡るが、この辺は高速の上を渡る橋がとても多く、比較的簡単に平地に戻れる。

 

そのまま車は沼津インターを目指す。ここから高速に乗った方が金谷には近いという。そしてSAではHさんのお茶が売られていた。このSAは、ここから海が撮影できることから、立ち寄る客が非常に多く、売り上げもかなりあるという。またなぜか入り口には行列が出来ており、なぜかアニメキャラのイベントが大人気なのだという。

 

高速道路に乗ったが、静岡は広いことを改めて知る。途中まで行って、金谷に寄っていては、袋井の約束に全く間に合わないことが分かり、金谷のミュージアム行きを諦めることになった。松下先生のコレクション展示の見学は次の機会に譲ることとしよう。Nさんたちは静岡の東側の人。西側にある袋井へ道は分からないという。途中のSAで確認してようやく道を選び、遠州森町で高速を降りた。

 

そこから一般道を走り続け、11時半の約束に10分遅れで到着。ランチはお知り合いのIさん、Mさんとハンバーグを食べる。Hさんは金谷に行くために同乗してきたが、この混乱に巻き込まれ、一緒に食べる。同業者のMさんとは、やはり何となく面識があり、業界内話も始まる。

 

食後NさんはHさんを乗せて金谷に向かった。金谷へ行きたかった私が行けず、特に必要がなかったNさんが行くとは。何かのお告げかもしれない。我々はMさんの車で、セミナー会場へ移動する。袋井駅近くの立派な公民館だ。『茶学の会』のことは何度も聞いていたが、偶々今日開催だったので初めて参加する。

 

重鎮K先生をはじめ、参加者が続々集まってくる。旧知のY先生と隣になり、茶の歴史について雑談する。今日は埼玉の博物館の学芸員から『明治期のさいたま茶の輸出』について、話があった。この方は茶の専門ではなく、博物館の展示のために1年かけて準備した、その内容を報告している。

 

埼玉と言えば狭山茶だが、県内にはそれ以外にも茶産地があり、一時輸出されたというもので、地元の茶関係者などが紹介されている。出来れば、江戸時代の茶生産まで遡ってもらえると、私としてはもっと興味を惹かれたのだが。静岡の参加者は茶の歴史に詳しく、鋭い質問がどんどん飛んでくる。ずっと聞いていたかったが、夜の名古屋の予定に備えて、一足先に失礼した。

 

袋井駅まで歩いて行き、JR在来線に乗り込む。浜松で乗り換え、また豊橋でも速い電車に乗り換えた。途中で乗客がたくさん乗ってくる場面もあったが、席は確保できたので楽ちんだった。新幹線を使わなくても約2時間で名古屋駅に到着した。今晩は前回とは違う駅近くのホテルへ向かう。

 

その宿は、何と銭湯が部屋を提供するという面白い所だった。銭湯の入り口でチェックイン。そこから横のビルに繋がっていて、地下へ。どうやら前はバーだったと思われる場所に実に狭い部屋がいくつかあった。この部屋で6000円は、いくら銭湯入り放題といわれても正直高い。

 

夕飯は旧知のUさんと駅付近で洋食。Uさんとは香港、北京でご一緒、その後東京、名古屋でも会ってはいたが、今回は久しぶり。還暦を過ぎてもバリバリ働きながら、奥さんと欧米にも旅行するというからすごい。仕事の話から家族の話まで、古い付き合いの方とは幅広い話が出てよい。その後銭湯にゆっくり浸かり、早々に寝る。銭湯には若者がたくさん来ており、ちょっと驚く。

静岡から愛知へ2019(1)ホッとする農家民宿

《静岡・愛知茶旅2019》  2019年2月1日-4日

1月の台湾生活から戻ったが、旧正月で行くところがない。それでは日本国内を回ろうということで、名古屋のセミナーに呼ばれた。折角名古屋まで行くなら、静岡に寄ろうと思い立ち、農家民宿をされているNさんの所に泊まることになった。更には名古屋の後、初めて犬山市にも向かう。ご縁はずっと続いていく。

 

2月1日(金)
農家民宿へ

台北から戻って僅か2日だったので、今日は朝ゆっくりと出発した。日本は冬だし、無理は禁物。今回は在来線で静岡を目指す。やはり時間がある時は、苦手な新幹線は避けるべし。小田急藤沢経由を計画したが、乗り継ぎに失敗し?いつもの小田原経由となる。スイカが使えないので切符を買うなど、久しぶりのルーティン。箱根駅伝グッズを見ていると、外国人観光客が相談窓口周辺にたむろしている。

 

小田原かJRに乗ると、今日は本当に天気が良くて、海が輝いている。熱海で乗り換えてまた進むと、富士川を渡る頃、おっきな富士山が目の前に現れた。あまりの見事さに心を奪われている内に、写真を撮り損ねた。新幹線では遠くに見える富士山が、在来線ではなぜこんなに大きいのだろうか。

 

午後3時前にJR興津駅に到着。そこにNさんが待っていてくれた。興津といえば、東海道17番目の宿場町。以前一度降りたことがある。茶のゆかりの寺があったはずだと言うと、早速車で連れて行ってくれる。清見寺、ここの特徴は何と言っても、山門と本堂の敷地の間に東海道本線が通っていることだろう。

 

この寺に鎌倉初期、聖一国師が立ち寄り、茶の種が伝えられたと聞いたことがある。ただ境内にはそのような雰囲気も、表示も何もない。あるのは見事な古い五百羅漢などである。ここでお茶会が開かれることがあると言うが、静岡茶の祖だと言われる聖一国師の由来があるのであれば、もう少し宣伝するだろうと勝手に思う。

 

むしろ興味深いのは、大正天皇が皇太子時代にここで静養し、海水浴などをしたという話。その時食べられたのが、宮様まんじゅうとして残っているという。それにしても大正天皇とは一体どんな人物だったのだろうか。天皇が退位する今年、ちょっと知りたいテーマの一つではある。

 

車は旧東海道を走っていく。街角には、古い道しるべや石碑が残っていた。色々なところにあったものを、一か所に集約したのだとか。身延山へ、という表示から、ここから山梨方面を行く旅人がいたことも分かる。『この辺には見るものは何もない』と言いながら、車はその身延山方面に向かって走っていく。

 

途中で高台に上がる。小島陣屋跡、と書かれた場所がある。江戸時代陣屋があった場所、明治維新後は小学校になり、私有地として所有され、下の方の大部分は戦後分譲されたらしい。石垣が残っており、陣屋があったことは何となく分かる。ここには昭和30年以降、かなりの茶畑があったとのことだが、残念ながらかなり前から茶業は衰退し、放棄地が増加していた。

 

10年ほど前に、その放棄地が陣屋跡として、国から指定を受けて、活用されることになった。だが本日現在、若干の茶樹以外はほぼ更地で、陣屋跡の看板だけが建っている。史跡指定を受けて10年も経つのに、再建される訳でもなく、何かに活用される訳でもない。何故だろうか。それにしても陣屋が茶畑になり、また陣屋に戻される、何だか面白い展開ではある。

 

興津駅から10㎞近く進んだところに、小河内という地区があり、車は小道に入って停まる。そこには『有機農法の宿 ぬくもり園』と書かれている。庭には古い建物があり、その横には茶畑がのぞく。とても雰囲気があり、ちょっとテンションが上がる。宿泊場所は、Nさんのおうち、本当に民宿だ。元々は土間になっていた玄関、敷居が高い。その横に広い部屋が2つ、今日はお客さんがいないので、この部屋を占拠する。

 

暗くなる前に周囲の茶畑を散策。家の裏から山沿いに広がる。こういう光景に憧れるお茶好きは多いだろう。近くには小学校があり、下ると川もある。畳の部屋に戻って、お茶を淹れる。涼しくなってきたので、石油ストーブに火が点く。何とも懐かしい生活が始まる。猫がこちらをチラチラ見ている。お風呂に入る。お茶風呂、本当に淹れたお茶が湯船に入っている。体が相当に暖まる。

 

夕飯はNさんと二人で食べた。何だか実家に帰ってきたような気分になる。もう長いこと味わっていなかった感覚だ。猫も慣れてきて、おこぼれを狙いながら、膝の上を占拠する。暖かな夕飯となる。静かな環境で、お腹が一杯になると、かなり眠気に誘われる。今日はサッカーアジアカップ決勝があるはずだが、そんなことにはお構いなく、早々に布団を敷いて寝てしまう。

熱暑の関西茶旅2018(5)ティーツーリズム

7月25日(水)
和歌山大学ワークショップ

翌朝は皆で朝ご飯を食べた。この宿舎には食堂があり、住人は三食をここで食べることができる。確かに周囲に食堂などはあまりなく、学生にとってもここでの食事は重要だろう。朝飯は300円でビュッフェスタイル。好きなものを好きなだけ取って食べる。昔の学生なら大喜びだろうが、今はどうだろうか。パンや卵を取って食べる。因みに昼と夜はメニューが出ており、各500円だというから有り難い。

 

その後N氏とピアポーン先生はどこかへ出掛けていき、私は疲労が溜まっていたので、ワークショップの準備をしながら、部屋で休息していた。12時前にアムナーさんが迎えに来て、会場へ案内され、そこで資料のチェックなどを行った。それからランチ、さすがに学生で混んでいたが、何とか席を確保して、大型のオムライスを食べる。これはどう見ても男子学生向きで量が多い。

 

午後はアムナーさんの授業を見学した。思いの他多くの学生が授業を取っており、観光学に対する興味のほどが窺われた。今日の授業はちょうど、各グループが外国人向けに京都和束の旅をアレンジする旅行商品を発表することになっていた。アムナーさんは基本的に英語で授業しており、時々日本語を交ぜている。発表も勿論英語、プレゼン資料も英語だった。

 

学生にとっては外国人を迎え入れる旅行会社のようなことをするのは、経験がなければ極めて難しいと思う。そんな中、和束を訪ね、色々と工夫して旅をアレンジしている様子は、前向きでなかなか良かった。今政府が推進している訪日客数の増加ありきの政策ではなく、満足が得られる、リピーターが増えるアレンジをしてもらいたいと感じた。

 

授業が終わるとそのまま、ワークショップになだれ込んだ。参加者は学生と学内の先生だけと思っていたが、学外からも大勢来ていたので、驚いた。ピアポーン先生がタイのティツーリズム(ロイヤルプロジェクトなど)を説明、N氏は日本とアジアの茶業の現状を細かく説明していた。私はアジア各地で実際に行われているティーツーリズムを自らの経験に基づき紹介した。果たしてどこまで役に立っただろうか。

 

 

その後、ピアポーン先生がタイ茶を淹れ、私が持ち込んで台湾茶をTさんに淹れてもらって、参加者で飲んでみた。やはりティーツーリズムにはお茶がないと始まらないだろう。参加者同士の交流も行われ、お茶を通じた地域交流、世代を超えた交流会になっており、良かったなと感じる。

 

夜はTさんの車に乗せてもらい、市内へ出て、刺身や焼き物など美味しい物を沢山食べた。日本に何度も来ているピアポーン先生だが、焼き鳥が入ったサラダをお替りしていた。やはり刺身に慣れているとは言っても、ガイヤーンの方が更に慣れているのだろう。Tさんには大学まで送ってもらい、お手数を掛けてしまったが、これも3月のご縁ということで楽しい夜だった。

 

7月26日(木)
大阪セミナー

翌朝は早く起き、宿泊先を出た。午前7時、駅まで行くバスはまだないので、荷物を転がしながら歩いて向かう。大学前駅に着くと、そこそこ乗客がいた。もうすぐ特急サザンが来るというので、大きな荷物も邪魔かと思い、急いで特急券を買って座っていくことにした。こんな贅沢、良いのだろうか。

 

指定席はそれほど混んではいなかったので、ゆったりと過ごす。途中からだいぶ人が乗ってきたが、それでも満員ではなかった。やはり510円払って1時間座るというのは贅沢なのか。田園風景がずっと続いていたが、その内、街がどんどん飛んでいく。一昨日乗り換えて慣れている新今宮で降りて、JR大阪駅へ向かった。

 

この旅で何度も来ている大阪駅ではあるが、今日のセミナー会場は駅前に沢山あるビルの一つであり、正直よそ者には分かりにくい。地下をぐるぐると回り、何度かへこたれながら、それでも3月に来ていたので、何とか辿り着いた。Mさんとお手伝いの皆さんが暖かく迎えてくれ、大勢のご参加を頂き、午前午後のセミナーも無事に終了した。3月に開催したばかりなのに、本当にありがたい。

 

セミナー終了後、東京に帰る前に、『たこ焼き食べましょう』と誘われ、2月にインドで食べたい病に掛かって以来、念願のたこ焼きにありつく。関西ではたこ焼きは家で作って食べるもの、ということもあり、大人数でたこ焼きを食べられる場所をわざわざ探してもらったようだ。そこには普通のたこ焼きもあるが、ネギマヨ、ゆず塩ポン酢、濃厚チーズなど、予想外のたこ焼きが沢山並んでいて驚いた。確かに普通のものを食べるなら家で、となれば、店側も工夫するのだろう。

 

皆さんと楽しくお話しして、腹も膨れた頃、新大阪に向かい、新幹線に乗り込んだ。今夏の旅はとても暑かったが、それなりの収穫もあり、また普段は見ないようなものも見られてとても有意義だった。次回はもう少し涼しい時期に再訪しよう。

熱暑の関西茶旅2018(4)孫文記念館から和歌山大学へ

7月24日(火)
孫文記念館

今日も快晴だった。天気が良いのは悪いことではないが、こう暑いと動きが鈍い。結局わざわざ三宮まで来て2泊もして、何もしていないような気分になってしまい、やはりここは孫文記念館を訪ねることにした。そこがそんなに遠いとは思っておらず、相変わらずの無計画が露呈しているが、それが私の旅だろう。

 

JRで明石の方向へ舞子という駅まで揺られていく。この駅で突然気付いたことは、ホームにあるベンチが全て、電車の進行方向(またはその逆)に並んでおり、ちょっと異様に見えた。少なくとも関東では見たことがない並びだ。後で聞くと、これは転落防止のために作られているという。ホームが傾斜しているので、酔っ払いの他、ベビーカーなども落ちる危険があるようだ。関東にも一部あると教えられたが、それなら全部そうすればよいのではないだろうか。

 

遠くへ来たもんだな、と駅を出ると、何だかちょっと現代的で驚く。そして向こうに海が見える。更にはチラッと橋も見える。ここが明石海峡大橋のある場所だとようやく気が付いた。そしてお目当ての孫文記念館はその雄大な橋のたもとに立派に建っている。実にいい景色だ。

 

八角形の中国式楼閣『移情閣』は1915年に建造された現存する日本最古のコンクリートブロック建造物だという。華僑の貿易商、呉錦堂の別荘の一部をここに移築した。中に入ると、煌びやかで美しい。孫文ゆかりの品も展示されており、神戸華僑の歴史も少し学ぶことができた。何よりこの風景、いいな。

 

周囲も散策したかったが、時間があまりなかった。予想外にいいところだったので次回はゆっくり来よう。JRで三宮まで戻り、荷物をホテルに取りに帰って、またJR駅にやって来た。これから梅田経由で和歌山へ向かうのだが、昨日の予行演習もあり、今日はちゃんとJR大阪駅へたどり着く。

 

梅田経由和歌山へ
大阪駅ではIさんと待ち合わせた。Iさんは阪急沿線の人だが、私が間違えないようにJRまで迎えに来てくれた。何しろ以前彼女のところでセミナーをやった時、JRを乗り間違えて遅刻した苦い経験がある。それから大阪の電車はよく分からない、と思うようになっていたのだ。駅近くのビルの上のレストランへ行く。

 

ここはタイレストランで、ビュッフェスタイル。思えばIさんと会ったのもタイであり、一緒にカンボジアへも行った。何となくフワッとした人で、そこが何とも良い。タイ料理も意外と本格的で、美味しい。実はタイ料理は今やタイより日本の方が旨いのではないかと、思えるほど、日本で普及しており、日本人の口に合わせている。

 

ヨーガの話からアジアの話へ。どんどん話が進んでいき、取り留めはないが尽きることもない。途中でお腹は満腹信号を出していたが、構わず話し続けた。何だかとても懐かしい人に会い、昔話を延々としているような感覚になる。Iさんには申し訳なかったが、非常にすっきりして、次に進むことができた。

 

3月にも梅田から和歌山に向かったことがあった。その時はセミナーに参加していた方が途中まで同行してくれて、何も考えずに、和歌山まで行くことができたが、今回は一人。そして前回はJR和歌山駅だったが、今回は南海で和歌山大学駅前へ。仕方なく検索して、一番簡単なルートである、JR大阪-新今宮-和歌山大学前で行ってみた。

 

新今宮付近は近年外国人バックパッカーが沢山宿泊する安宿があると聞いており、一度は泊まりたいと思っているが、今回もまた大阪は素通りとなってしまった。新今宮駅でJRから南海に乗り換えるのはちょっと面倒だったが、関西空港に向かう外国人は私よりサクサクと乗り換えホームを目指している。

 

特急サザンという列車は一部が指定席になっているが、平日の昼間だから自由席でも十分に座れた。約50分で3月にも来た和歌山大学駅前に到着してしまう(JR和歌山駅へ行くよりずいぶんと近く感じられた)。これは確かに大阪への通勤圏だ。駅前で今回招いてくれたアムナーさんに連絡を取ると、何と出掛けており、こちらに向かっているらしい。私は大学行きのバスに乗ってしまったので、大学で彼を待つことになった。

 

今回は和歌山大学観光学部のワークショップに参加する。そのため、大学のゲストハウスに宿泊させてもらった。アムナーさんもここに住んでおり便利だ。ワンルームマンション、1か月5万円らしい。私が学生の頃は、こんな立派な、明るい部屋には住めなかったなあと感慨深い。ただゲストは与えられたWi-Fiの機械を自分で操作してネットに繋がねばならない。結局よく分からず、職員の方の手を煩わせることに。

 

夜は同じくワークショップで登壇するN氏及びタイのピアポーン先生と一緒に、歩いて和歌山大学駅前に戻り、イオンモールにあるレストランで食事をした。アムナーさんを入れたこのメンバーは、昨年7月タイ北部のお茶調査で出会っており、そんな茶縁がここに繋がるのだな、と面白く感じる。

熱暑の関西茶旅2018(3)南京町の歴史

7月23日(月)
南京町で

翌朝も快晴で朝から暑い。ホテルから南京町までは歩いて僅か10分程度で近い。南京町の歴史は神戸港が開港した160年前当時、外国人居留地の横に華僑が住み始めたのが始まりのようだ。だが残念ながらそんな資料が展示されているだろう華僑博物館は今日休館で見られない。この地域は戦後、米軍相手の飲み屋街などになっており、1980年代に中華門を作り、中華街として再開発して売り出したのは比較的新しい。かなり意外な歴史だといえよう。

 

南京町自体は決して大きくない。暑い中、歩いていくと、天仁銘茶など台湾系の茶荘が見えるが、これも1980年頃、南京町が観光地化した際に進出したものらしい。ここには残念ながら老舗の茶荘はない、と聞いている。だが南京町には今でも多くの華人が住んでいる。彼らはお茶を飲まないのか、飲むとすればどこで買うのかを聞いてみた。

 

東栄商行でしょう、と言われる。中華食材店、そういう目で見てみると、商店の店頭には安い烏龍茶やジャスミン茶が並べられている店がいくつもある。中華レストランで使われるお茶もここらあたりから、供給されているのだろう。ここのお茶は中国から仕入れているに違いない。南京町の一般の茶の歴史を辿るのはそう簡単ではない。

 

今日は月曜日で、観光客も多くはない。老祥記などの有名店も定休日で食べられない。仕方なく、海の方へ歩いていく。海岸通りには中華商会の立派なビルがあり、また100年程度前の建物がいくつも並んでいる。ここが当時神戸の国際貿易の中心地だったことが分かるが、その中に茶葉は含まれていなかったのだろうか。

 

道路を渡り、メリケンパークへ行く。ホテルオークラの向こう側、ここは遮るものもなく、直射日光にやられ、午前10時でも歩くのは困難だった。ただ海は鮮やかに見え、気持ちはよい。そこからヨロヨロと南京町付近に戻り、古い建物が並ぶ街並みを歩いてみたが、暑くて断念。中華料理を食べようという意思も消え、なぜか鱧フライを食べてホテルに帰る。

 

梅田へ
ホテルでシャワーを浴びる。もうこれがないと生きていけないほどの暑さだった。クーラーを全開にして昼寝をする。しかしその時間も長くは続かず、またJR駅に向かう。何とこれから梅田へ出るのだ。梅田と言っても私がよく分からないので、待ち合わせはJR大阪駅にしてもらった。ただ来た電車に乗ってまっ直ぐに進めば大阪駅へ行けると思っていたが、やはりそうではなく、危うく違うところへ行きそうになる。

 

大阪駅で会ったのは王さん。実は昨年のエコ茶会で紹介され、少し話しただけだったが、四川省出身で現代茶文化を研究している研究者。私は最近喫茶の発祥が中国四川省かどうかに、興味を持ち始めたので、今後機会が有れば四川に行きたいと考えていた。3月に和歌山で会ったTさんとも仲良しということで、急きょ今回会うことが決まったのだ。本当は彼女の勤める大学まで行きたかったが、ちょっと遠かったので、梅田になった。

 

彼女はとても研究熱心で、駅構内にあるファーストフード系のカフェに入っても、抹茶ドリンクを頼み、その傾向を分析している。観光学とお茶、というテーマは、明後日和歌山大学で行われるワークショップにピッタリな気がする。それにしても日本語でこれらを研究していくのは大変だろう。また日本の大学には色々と雑用もあるようで、研究時間には制限がある。

 

四川のお茶については、実に興味深いが、私はきちんとした茶旅は一度もしていない。それは特にご縁がなかったということだが、同時にそこまで四川のお茶、特にその歴史を重視してこなかった結果ともいえる。だがここに来て、ベクトルが四川を指している。茶の起源は雲南でも茶の利用は四川から、という可能性もある。何とかして、茶旅をしてその一端を解明したいと、王さんにお願いした。果たして願いは叶うだろうか。

 

時間はあっという間に過ぎてしまい、今度は大阪から元町までJRで戻ることになる。夜は北京でのお知り合い、Iさんと中国料理を食べた。彼女の息子も同席したが、北京の時はうちのお茶会にも参加していた小学生だった彼が、何とこれからオランダの大学で勉強するのだという。思わず、『日本に帰らないつもりで頑張れ』と言ってしまった。母親の気持ちはどうなんだろうか。

 

因みに元町の南側には南京町があり、昼間も歩いた通り、昔ながらの中華街のレストランが並んでいる。駅の北側には、新華僑とも言うべき新興勢力が台頭しているようで、店は結構流行っている。従業員はほぼ中国系だったが、白人の団体がやってきたりしても、片言英語で何とかやっている。南京町にも厳しい競争が起こっているようだ。

 

熱暑の関西茶旅2018(2)岐阜の在来茶園と神戸の茶貿易

7月22日(日)
在来茶園

翌朝は部屋に差し込む朝日で目覚めた。Nさんが和の朝ご飯を用意してくれ、気分上々、美味しく頂く。こんな古民家で暮らせたらいいな、と思ったが、当然ながら雨漏りなど色々と不具合も多く、修理などなかなか大変らしい。このような家はこの集落には他にもあるようだが、借り手もなく、住む人もいないのが現状らしい。過疎化は深刻のようだ。その中で若者がNさんの手伝いをして、茶作りをしているのは頼もしい。

 

名残惜しいが午前8時には出発し、茶園見学に向かう。車で山を登っていくと、道の両側にきれいな茶畑が見えてきた。そこから下を見ると、実に見事な景色が広がっている。この景色が評判を呼び、週末は観光客が大量に車で訪れるようになったという。だがその結果、車の排気ガスやごみが排出され、畑仕事に影響が出るまでになる。中にはそんな状況に嫌気がさし、茶業を辞めてしまった人もいるらしい。ここの茶園の茶樹は6割以上が在来種だと言い、昔からある貴重な茶樹だと思うのだが、何とも仕方のない現実がそこにある。Nさん達の茶業、これからどうなっていくのだろうか。

 

それから岐阜駅まで送ってもらい、JRの在来線に乗る。岐阜の古民家滞在はあっという間に終了し、現実に引き戻される。今日はここから神戸三宮まで行くのだが、新幹線に乗るほど急ぐ旅でもないので、米原から新快速に乗って座っていく。日曜日の京都、大阪周辺はかなり混んでいたが、合計2時間半ほどで三宮に着く。

 

神戸へ
神戸には最近来た覚えがない。10年ぶりだろうか、実に久しぶりだ。岐阜と同じくらい暑いので、まずは予約しているホテルに行き、荷物を置かせてもらう。大阪はホテル代が高いと言われていたが、三宮のビジネスホテルはかなりリーズナブルな料金だ。これはどうも、神戸が外国人観光客のインバウンド地域から外れているということらしい。観光のイメージのある神戸、何となく不思議だ。

 

チェックインできる時間ではないので、駅前に戻り、ランチを食べる。神戸と言えば、何だろうか。結局南京町から駅前に出店している小さな店で、焼き餃子を食べていた。調理していたのは中国から来た人だろうか。それから図書館へ向かう。とにかく暑いので外を歩くのには限界があった。実は今回神戸に来たのは『南京町と茶』というテーマで何か調べられないか、と思ったからだった。そのために、地元在住のお知り合いIさんにK先生を紹介してもらっていた。

 

K先生は大学教授でもあり、南京町にある華僑博物館の館長も務めた方で、この話には打ってつけであったが、既に大学も博物館もリタイアしておられ、何と今は東京に住んでおられた。そこで事前に東京でお会いして、色々とお話しを聞き、資料も頂いたのだが、基本的に南京町の歴史などはよくわかったものの、お茶の歴史に関するヒントは殆ど得られなかった。既にこの時点で、今回の企画は破たんしていたともいえる。

 

K先生から何か資料があるかもしれないと言われたのは神戸市立中央図書館。三宮から地下鉄に乗り、大倉山という駅で降りる。大倉山公園があり、そこには孫文の碑や華僑関連の碑などがあるので、ちょっと驚く。ここは政商大倉喜八郎の別荘だったところだというから、中国とも何か関連があるのだろう。

 

図書館は外壁工事ですっぽり覆われていたが、通常通り開館されていた。真っすぐ2階に行き、神戸ふるさと文庫を見る。神戸居留地と華僑に関する資料などは見付かったが、茶の輸出などは、明治期に終わってしまったとあるだけだった。台湾と神戸についても、色々と資料はあり、バナナや帽子に台湾商人が絡んだ歴史は見てとれたが、茶貿易に関しては、ほぼない。神戸と言えば異人館などがあり、紅茶のイメージもあるが、こちらも一部しかなかった。収穫の殆どない事態となる。

 

今回の私の発想は、NHKのファミリーヒストリーという番組に女優の余貴美子さんの回があり、彼女の祖父が台湾から神戸に来て、茶を商った、というナレーションを聞いたことによる。商人の中には茶を扱った者はいたはずだが、それが歴史に残るほどの大きな商いではなかったということだろうか。これは横浜についても同じで、華人茶商については、調べるのが難しい。

 

暑いのでホテルに帰って休むことにした。ホテルの近くに生田神社があり、そこにお参りする。その先、異人館近くまで歩いて登ると、モスクが見えた。この付近、飲食店などを見ても、イスラム系、インド系、中華系、朝鮮系などが混在しており、多彩な神戸の一端が見られた。

 

 

夜まで休息し、暗くなってから外へ出た。今日は日曜日であり、街は人で溢れていた。神戸牛を売り物にする店がズラッと並んでいるが、そんなに牛はいるのだろうか。本物はどれだろうかと思いながら、牛はパスして、ラーメンを食べた。まあ、私の旅はグルメではなく、その日の気分で食べるものが決まるだけだ。

熱暑の関西茶旅2018(1)灼熱の岐阜で

《関西茶旅2018》  2018年7月21-26日

もう1か月以上旅に出ていなかった。2年に一度ぐらいある、長期休養。段々退屈になり、また旅に出たくなる。それのエネルギー補給は私の茶旅にとって極めて重要だと身に沁みている。さて海外へ、と思ったが、その前に大阪で声を掛けて頂き、関西へ向かうことにした。ところが直前になって、その話はキャンセル。さて、今回はどうなるのか。それにしても関西は暑かった!!

 

7月21日(土)
灼熱の岐阜へ

今日は新幹線に乗って名古屋に向かった。岐阜へ行く予定なのだが、昼間到着する安いバスなどないのである。名古屋まで行き、在来線に乗り換える方法しかないと分かり、久しぶりの知り合いに連絡して、名古屋駅まで出てきてもらった。土曜日の名古屋駅、暑いのに人が多い。待ち合わせ場所に行くと、なぜかフィギャ―スケートの羽生君のポスターがでかでかと出ている。オリンピックからすでに半年、フィーバーはまだ続いている。

 

20年以上前、香港で知り合ったIさんはその後、転職して今は名古屋近郊にいた。私のメルマガにも良く返事をくれており、偶には会いたいな、と思う人だった。駅近くのモールの中にある中華料理屋でランチを食べながら話す。それにしてもこの中華、点心と料理をうまく組み合わせて、そこそこいい値段を取っているが、満員御礼だ。

 

医療関係の仕事をしているIさんからは、現在の日本医療について、色々と教えてもらった。次回は是非彼の勤める病院を訪ねて、その実態を知りたいと思った。こちらからはアジアの現状をお話しし、その動きを伝えた。外国人看護師の問題など、閉鎖的な日本の医療、これからどうなるのだろうか。

 

名古屋駅からJRに乗って、岐阜駅へ向かった。関西は暑いと分かっていた。東京だって相当に暑いこの夏、ましてや何故、連日天気予報で最高気温38-39度が表示される岐阜に行こうと思ったのか。それは3月に行くつもりで約束していたのに、こちらの事情で延期してしまった負い目があったからだ。

 

だが1か月前に行くことを告げた後、1週間前に確認の連絡を入れても返事はなかった。なんとか電話番号を探して電話してみると、『あれ、他の予定を入れてしまった』というので、また今度と言おうとしたが、それより一瞬早く『午後3時に来てくれれば』と言われたので、行くことになった。

 

午後3時前に岐阜駅に着いた。名古屋から岐阜までは本当に近い。駅に着いて電話してみると、『信長の像のところの近くに迎えがいる』と言われて行ってみたが、見当たらない。もう一度聞くと、迎えの車が渋滞で遅れている、との返事があった。取り敢えずそこで待っていて、と言われたのだが、屋外は猛暑だった。

 

タクシーを待つ場所には辛うじて屋根はあったが、屋外であり相当に暑い。何だかインドのバラナシの灼熱地獄を思い出していた。それから30分、屋内に引っ込むことも出来ずにこの灼熱の中にいた。それでも『インドよりマシだ』と思えるところが、海外を渡り歩いた強みだろう。

 

そこに迎えの人が来てくれた。ああ、助かったと正直思った。ところが車に乗った瞬間、『こんな暑い時に何ですが、車のエアコンが壊れていまして』というではないか。もうこれは笑うしかない状況だった。そして思わず『インドよりマシです』と答えると、その男性の方が驚いてしまったようだ。まさかインドと比較されるとは思ってもいなかっただろう。

 

まずは車で30分ぐらいのところへ行った。そこは和風のカフェ。入っていくと待ち合わせをしていたNさんはいない。とにかく水分が必要だったので、アイスコーヒーを頼んだ。少し落ち着いて周囲を見渡すと、とても雰囲気の良いカフェで、陶芸家さんの個展も開かれていた。

 

そこへNさんがやってきて、彼女の街の方へ向かう。私はどこを走っているのか全く分からない。陽が暮れかけた頃、到着したのは山沿いの温泉。週末で地元の人がたくさん来ていた。ここで露店の温泉に浸かり、夕飯までご馳走になった。疲れは一気に吹き飛び、何となく地獄から天国、いや、良いご褒美が与えられたようだ。やはりここはインドではなく、日本だった。

 

真っ暗な中、揖斐川町春日というところに着いた。そこには150年を越える古民家があり、その広いスペースがNさんたちの作業場として使われていた。ここでお茶を頂いたのだが、そのほうじ茶が何だか懐かしい味がして美味しかった。昼間の暑さもすっかり忘れてしまうほど、ここの夜は穏やかだった。茶作りの苦労話などを伺い、ずっと話し込んでいて、夜中になってしまい、この古民家に泊めて頂く。一日でこんなに展開するのも珍しい。