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京都ぶらり茶旅2020(3)東福寺から宇治へ

さすがに長旅だったので、今日の散歩はここまでとして京都駅前に戻ることにした。近くの地下鉄駅まで歩いて行くと、ちょうど近所の高校から生徒が下校してきており、駅は混雑していた。まさに密な状態があちこちで見られたが、注意する者もない。マスクを外している者もおり、学校の感染予防、ちょっと心配になる。外出が久しぶりだったこともあり、かなりビックリした。ただ地下鉄自体はそれほど混んでおらず、何となく安心感が広がる。

駅前のホテルに戻り、預けた荷物を受け取ってチェックイン。部屋は普通で特段の良し悪しはない。ただすぐにシャワーを浴びたのだが、何と湯が出て来ない。歩き疲れてあまりに暑かったので、そのまま水シャワーで気持ち良く流した。そしてベッドに寝ころび、気だるい至極の時間を過ごす。

今晩は、ご連絡したMさんから先斗町に来るようにとのメッセージがあったので、また地下鉄で先ほどのルートを戻っていく。鴨川の橋を渡って左に折れると、よく京都撮影の刑事もので出てくる風景に出会う。そこをサクッと歩いていると、立派な建物の前に説明書きが見える。土佐藩低跡と書かれているが、建物の前には『角倉了以翁顕彰碑』という文字も見える。更には日本映画発祥の地、という説明もあり、何だか歴史が凝縮されているようで、妙にワクワクしてしまった。

先斗町の狭い路地、人影はまばらでコロナの影響は相当に出ているように思われた。店を閉めているところも多い。そんな中、6年前にも一度行った長竹さんに行く。既にMさんは何か食べながら、ご主人と話し込んでいた。このお店のカウンターに座ると、何となく不思議な安心感があるのはなぜだろうか。酒を飲まない私だが、お茶関係の本が沢山置かれているからだろうか。

Mさんと紅茶の歴史の話を始めるとご主人も加わり、更にはお客さんまでが関心をもってくれ、どんどん茶の歴史話が飛び火し、相当に話が弾んだ。そしてご主人から抹茶パフェの由来などを聞くと、やはり本を読むだけではだめで、実際に旅して分かることもある、と再認識する。そして何より、生の情報に触れることが楽しく、また疑問が湧き、更に調べを進めようという、いい循環が起こってくる。勿論食事も重要で、焼き魚、京野菜などを美味しく頂き、デザートのアイス、あんこ、そしてお茶と満足して、夜が暮れていった。こういう時間を大切にしたい。

6月23日(火)宇治へ

翌朝は天気が良かったので、暑くならないうちに宿を出て、先ずは京都駅前から30分ほど、東福寺まで歩いて行く。この付近、伏見街道沿いにもいくつか寺院があるようで、風情がが感じられる場所だ。東福寺は静岡茶の祖ともいわれる聖一国師が開祖のお寺で、それだけでもお茶関係と言えるが、境内でお茶に関するものを目にすることはほぼない。

ここに来た理由、それはここでも売茶翁が店を開いていたと言われているので、どんなところか、その通天橋と呼ばれる橋を見に来たのだ。入場料600円は少し高いなと思っていると、3月までは400円だったらしい。これもコロナ対策なのだろうか。客殿は改修中で、その費用の捻出だろうか。

中はきれいな小渓谷、そして橋があるが、橋の全貌を撮影できる場所がない。帰りに外を通ると、そこからは全貌が撮れたので、何となく損した気分になるが、まあほぼ人がいない、気持ちの良い庭を歩けることは貴重だろう。敷地は広いので、ゆっくり回っているとかなり時間がかかる。


JR東福寺駅まで行き、電車で宇治を目指す。宇治で降りると、辻利本店が見えたが、ここは昨日の祇園辻利とは同族だが別経営。京都に限らないが、老舗の経営は複雑で部外者にはよく分からない。取り敢えずフラフラと平等院まで歩いて行く。平等院には、宇治茶の碑と辻利の創業者、辻利右衛門の像があると聞いていたので、探しに行ったのだが、入り口の外側に二つともあったので、入らずに写真を撮り、目的を達した。宇治茶の碑は、明治の昔、この建立式典で小学生の三好徳三郎が学校総代で言葉を述べたと言われるものである。

後は宇治歴史資料館へ行って、資料を探そうと考えたのだ。グーグルマップで見ると近道ルートがちょっとした山越えで難儀する。正直かなり暑いし、坂もきつかった。須磨夫のマップには高低差や坂道のきつさは反映されないので、時々困ることになる。何とか資料館に辿り着き、お茶関連の資料をお願いすると、コロナ下にもかかわらず、快く探し出してくれたので、コピー取りに勤しむ。永谷宗円とはどんな人だったのか、宇治茶の歴史は、など、さすが宇治だけに様々な資料があり、色々と勉強になった。

京都ぶらり茶旅2020(2)徒歩で行く京都観光

最後にきつい階段を登りきると、清水寺に出た。ここに来たのは恐らく高校の修学旅行以来ではないか。ただ目的は寺の見学ではなかったのでスルーして、参道に出る。いつもであれば多くの店が観光客を呼び込んでいるはずだが、残念ながら今日は閉まっている店が多く、また歩いている人もまばらだ。学生服も全く見かけない。

三年坂を探す。ここも売茶翁が店を開いた場所と言われているので、一応チェックする。こういう機会でもなければ、わざわざ訪ねることはないだろう。または気が付かないうちにその坂を下りてしまうことはあっても、意識はしないだろう。この辺は如何にも京都に来た、という雰囲気のある場所だが、一方観光客向けになり過ぎてきているともいえる。三年坂とは別名、『産寧坂』(安産祈願)『再念坂』(清水参拝後ここでもう一度祈願)などと書かれているのが面白い。

高台寺に突き当たる。秀吉の正妻おね様のお寺というイメージがあり、お茶会なども開かれている寺だが、今は当然ながら休止中だった。庭が見事な場所だが、スルーして階段を下りていく。ここの階段の風情が好きだ。そして八坂神社までフラフラと歩いて行くのは悪くない。普通はここから賑やかな一帯を散策するのだが、今日はまっすぐ?建仁寺へ向かう。

5年ぶりの建仁寺で桑の碑を眺める。栄西の喫茶養生記、もう一度読んでみようか。この本は喫茶というより薬として効能が書かれているはずだ。その横には平成の茶苑と書かれ、茶樹が植えられている。その前には栄西禅師、茶碑が建立されている。後ろを見ると建立者は祇園辻利の三好さんになっている。台湾から引き揚げた後、作られた祇園辻利の歴史にも興味が沸く。

境内を歩いていると、曹洞宗の開祖、道元禅師がここで修行したとの看板も見える。この当時の宗教については、よく知らないので、各宗派の繋がりなどを含めて改めて勉強する必要性を感じる。お茶の観点だけから栄西を、そして禅宗を見ていても、何も分からないかもしれない。

そのまま四条通へ出た。先ほどの祇園辻利が気に掛かり、その本店を訪ねてみた。店員さんに店の歴史を訪ねてみたが、ほぼ何も知らないようだった。『先代が昨年亡くなりまして、歴史を知る人もいなくなりました』という言葉が、まさに歴史を感じる。戦後の混乱期、着の身着のまま台湾から引き揚げてきた人々の苦労は既に忘れ去られようとしている。

急に腹が減る。元々ランチを探すはずがいつの間にかこんな所まで歩いてきてしまっている。目についた焼肉屋に飛び込み、焼肉定食を食べる。腹が減っており何ともうまいのだが、なぜ京都まで来て、焼肉を食べているのか、自分でも分からない。ランチ1080円と書かれていたので、てっきり税込みだと思っていたら、税別だった。こんなことが新鮮に感じられる。

特に雨も降って来ない。ホテルに帰っても仕方がないので、更に歩きだす。正直これだけ長い距離を歩いたのは数か月ぶりで、足がパンパンに張り、嬉しさにあふれている。やはり旅をしないといられない体になっているのだ。目指すは知恩院。恐らくここも高校の修学旅行以来ではないだろうか。40年前のその時、静かでよい印象を持ったお寺だった。

かなり厳しい階段を上ると、やはり静けさがあった。自分がここへ来た理由など、完全に忘れて、ただボーっとしていた。いつもなら修学旅行生などで賑わっているのかもしれないが、これが私の知恩院だと思う。門を出てフラフラ歩き出す。すると寺の外壁の植え込みがなぜか目に入る。

そこには何かの碑が建っていたが、よく読めないので、植え込みの中へ入りこんだ。そして驚いた。『前田正名君』という文字が見えたのだ。私が知恩院に来た理由は、この前田正名の碑を探すことだったのだ。しかもまさか境内ではなく、こんなひっそりした場所にあるなど思いもよらない。前田正名は明治期の偉人の一人だと思っているが、今や完全に忘れ去られた人物だ。この碑が現在の彼の評価を物語っていた。

更に行くと『大谷本願寺故地』や『蓮如上人御誕生の地』などという碑が見えてくる。花園天皇陵もあり、『ここはお国の何百里』などという軍歌の碑まで現れる。何とも不思議な道を歩き終えると、そこには平安神宮の赤くて大きな鳥居があった。何だか旅が終わった気分になるも、今日最後の目的地へ向かう。

西福寺、そこは南禅寺の参道をちょっと脇に入った、とても小さな寺だった。なぜそこへ行ったのかと言えば、そこに雨月物語で知られる作家、上田秋成の墓があると聞いていたからだ。上田秋成は江戸時代、数寄者として名があり、煎茶にもかなりのめり込んだという。ちょっと意外な人物が煎茶と関連していたので検索してみると、墓は大阪ではなく京都にあると分かった訳だ。ただこのお寺、門のところに説明書きはあるものの、中に入ることは叶わず、墓に参ることは出来なかった。

京都ぶらり茶旅2020(1)ステイハウスからの脱却

《京都ぶらり茶旅2020》  2020年6月22日-25日

バンコックから戻った3月23日以降、私は自主的に14日間、外に出ず自宅で過ごした。その間に東京五輪は1年延期となり、緊急事態宣言が出て、週に1度、1時間以内の買い物以外、外へ出ることもなく5月まで過ごした。6月に入ってもコロナは収まったのか、事態はどう推移しているのか、はっきりしない状況が続いていたが、ベトナムやタイなどでは感染者がほぼいなくなり、次のステップに進むような動きとなっていた。

そんな中、2か月以上体を動かさずにいたところ、体調不調に陥り、やはり散歩ぐらいはしなければと、徒歩訓練と称して近所を歩き始めた。東京アラートなる奇怪な警報も出されていたが、いつの間にか解除されていた。そしていよいよ連載している原稿の都合上、京都だけはどうしても行かなければならない事態となり、県跨ぎ自粛の解除(6月19日)とともに、意を決して新幹線に乗って徒歩訓練遠出に出発することとなった。

6月22日(月)京都まで

京都まで行くには、昔は安い夜行バスなどに乗ったものだが、今回はとにかく蜜を避けるために、一番早い新幹線を利用することにした。新宿あたりで見てみると、いつもは安いチケットを売る販売店で、なぜか『自由席券は売切れ』と書かれているのが目を惹いた。そろそろ出張者などが動き出す頃だが、皆どの程度混んでいるのか分からないため、指定席ではなく、席を自由に選択できる自由席に乗ろうとしたのではないだろうか。

実際品川から新幹線に乗ってみると、指定席でも3席の真ん中はさすがに空いていたが、それなりに乗客はいた。自由席もやはりそれなりに混んでいる。午前10時前の新幹線、いつもなら乗っているはずの観光客の姿がほぼ見られない。勿論外国人は皆無だった。スーツ姿の男性が殆どで、乗りたくないのに無理して乗っているといった感じか。

いつもなら昼時には駅弁を買って食べるのだが、マスクを外すべきかどうかも分からず、食べるのも憚られた。周囲でも誰も食べている人はいない。マスク率は100%で、寝ているか、スマホやPCをいじっており、声も全く聞こえてこない。静まり返った車内が、コロナを感じさせた。

京都駅で降りると、まず目を惹いたのは観光客の少なさ。駅前のバスターミナルには、いつも長い列が出来ていたはずだが、今は殆ど人がない。バスも乗っているのは地元の人なのか、その数も極めて少ない。予約した駅前のホテルでも、お客はあまり見かけなかった。いつもならその便利さから予約が取りにくい宿のはずだが、何とも寂しい。そしてその料金も通常の半額程度ではないだろうか。貧乏旅行の私としては有難いが、如何に異常事態であるかを示していた。この宿の営業は6月1日より恐る恐る再開した、ということで、アクリル板が目新しい。

三十三間堂から清水寺を回り

取り敢えず荷物を預けて外へ出た。このビルの1階には、辻利が入っており、喫茶スペースも設けられていたが、ソーシャルディスタンスで座席が減らされており、お客は一人もいなかった。雨が降りそうだったが、腹も減ったので、フラフラ歩いてみる。以前泊ったことがあるゲストハウスも閉まっており、外国人バックパッカーで賑わっていた宿も廃業したのかもしれない。

鴨川を越えていくと、蓮華王院が見えてきた。三十三間堂とも呼ばれており、宮本武蔵を思い出す。チケット売り場にも人影はなく、前を通り過ぎた。煎茶道の祖とも呼ばれる売茶翁はここに店を出して茶を売ったというが、どうなのだろうか。勿論その痕跡はない。向かいには国立博物館もあったが、月曜日は休館日で入れなかった。

暫く長距離を歩いていなかったこともあり、何となくそのまま歩きたい気分となる。曇りで暑さも厳しくないのでちょうどよい。北の方角に歩いて行くと、大谷本廟に出た。徳川幕府により改葬された親鸞聖人の廟堂だった。ちょっと気になってお参りしてみたが、人影はなく、厳粛な感じであった。

その先を清水寺へ向かうのに、近道として坂を上った。かなりきつい坂だったが、両脇は墓で、ちょっと面白い。『肉弾三勇士の墓』など、日清日露から太平洋戦争まで、戦死した人々の墓が目立っている。『陸軍伍長』など肩書が書かれているものも多く、中には亡くなった場所や経緯が彫り込まれているものもある。確かに無念の戦死を遂げた親族を弔うために、このような方法になったのだろう。高台から街がよく見えた。

名古屋茶講座の旅2019(2)名古屋三昧

今日は午前中、『鉄観音茶の歴史』を話した。名古屋も熱心な方が多い。参加者の中で、珍しい鉄観音茶を持ってきてくれた人がいた。パッケージは中国福建の鉄観音だが、台北の恵美寿の文字があり、それを大阪の茶商が輸入して日本で販売されていた。ああ、これが台湾で聞いた大陸鉄観音茶だ、と分かってとても面白い。

 

お昼はTさんがご飯を作ってくれ、それをご馳走になる。Tさんの料理は常に美味しいので、食べ過ぎてしまい、眠気も出て、午後の講座に支障が出る。午前と午後に2時間合間があるので、数人で雑談会も開催する。皆さん、色々と茶の歴史に関する疑問を持っているので、質問もなかなか難しい。

 

午後は本邦初公開の『東台湾茶の歴史』を話す。これは今年1月に訪ねた宜蘭、花蓮、台東の茶旅を中心に、これまでに歩いて調べた東側の台湾について報告した。今では蜜香紅茶や紅烏龍などがブランド化され、注目されるようになったが、その歴史を話す人はほとんどいない。

 

私の講座内容は、先ず私的勉強会で話してみて、分かりにくい点などを修正してから、一般公開となるのだが、今回はTさんの要望もあり、ぶっつけ本番で実施した。その結果はやはり時間的なバランスも良くなく、内容にもばらつきが出て、私としては満足できる内容ではなかった。やはりもう少し練ってから話すべきだったと後悔する。

 

参加者の中には、わざわざ静岡から来てくれたMさんがいた。私が今調べている台湾の製茶試験場を作った男、藤江勝太郎の故郷に住み、藤江について関心を持っている方だ。来年は静岡森町で、藤江についての報告会が出来ればよいな、と考えている。名古屋にはご当地ネタ、無いのだろうか。

 

今回は夜の懇親会などは開催せず、Tさんと二人で夕食を食べることにしていた。Tさんは明日早朝から海外に出るのに、忙しい中付き合ってくれた。実は講座を何度も主催してくれているのだが、ゆっくり話す機会がなかったので、ちょうどよかった。Tさんについての理解が深まる。

 

連れて行ってもらったのは、洋食屋さん。名古屋三昧という定食があり、エビフライから手羽先、みそカツまで、凄いボリュームで名古屋が載ってきた。どう考えても若者向きの量なのだが、家族連れなども多く、知る人ぞ知る名古屋の穴場らしい。これには大満足、Tさんご馳走様でした。

 

12月9日(月)
春日井で

翌朝、宿をチェックアウトして、荷物を持って名古屋駅へ。乗る電車は昨日と同じ、中央本線だった。千草までは10分だったが、勝川駅までは18分。春日井市は思ったより近いところにあった。駅で迎えてくれたのは、お茶研究会のMさん。初対面だが、既に私の書いたものなども読んでおられ、勉強熱心で、今回お声を掛けてくれた。

 

会場は、普通の住宅地の中にあり、連れてきてもらわないと分からないところ。皆さん、遠くは1時間以上かけて、車で通ってこられているそうだ。多くが主婦などで、平日の昼間の都合の良い方々だった。中に一人、昨日の講座にも参加された方がおられ、その熱心さには驚く。また中国などの駐在経験のある方もおられ、中国茶に親しんでいる方も多い。

 

話をする前に、既に主催者の方から、たくさん質問が飛んできて、驚いた。そして相当にネット検索などで情報を集めていることも分かった。『台湾茶の輸出は東方美人から始まったのか?』『台湾茶の始まりは原住民?』など、予想もしない問い掛けもあり、ビックリする。なるほど、世の中にはいろんな情報が出回っていることがうっすら分かって面白い。

 

今日のお話は『台湾高山茶の歴史』だった。これは主催者がチョイスしたものだが、果たしてどこまで満足感が得られただろうか。また皆さん、お忙しい方も多く、講座の途中でお昼ごはんの弁当が配られ、それを食べながら話を聞いていた。私だけが話が終わった後に弁当を頂くというこの形式、個人的にはちょっと残念だった。

 

帰りに有志の皆さんと駅前でお茶をしながら(ケーキも食べる)、更に話を進めた。私が書いたこと、調べたことが全て正しいなどというつもりは毛頭ないので、説明に大きく頷かれると、こちらがビビってしまう。どこまでを鵜呑みにして(知識として覚える)、どこからを疑うのか、これは実に難しい問題だ。ただ現地に行っているから分かるというものでもないし、でも行った方が感覚は掴めるのだ。

 

名古屋駅まで戻り、新幹線に乗り込む。参加者の一人は何と新所原から来られており、新幹線で豊橋まで帰るというのでまた驚く。私などは名古屋から掛川でも在来線で行くだろう。というか、本当は帰りもJRバスで帰りたかったのだが、明日から北京なので、さすがに体の負担が少ない交通手段にした。

 

品川まで1時間半で着いてしまうのは、私にとっては、本を読むにも、何かを考えるにも実に中途半端だ。結局ボーっとしているうちに降りることになり、何となくもったいない気がする。電車の中は、私がもっとじっくり本が読める場所だからであり、今回は行きのバスの中でも松下先生の『アッサム紅茶文化史』を熟読して、テンションがかなり上がったものだ。さて、明日は極寒の地へ向かう。果たしてどうなるのだろうか。

名古屋茶講座の旅2019(1)名古屋で

《名古屋茶旅2019》  2019年12月7日-9日

4日前に九州・大阪の旅から戻ったが、すぐにまた名古屋に向かう。お声がかかるのは何とも有り難いことであり、出来る範囲で希望には応えたいと思っている。名古屋は今年2月に伺ったばかりではあるが、話したいことも増えてきているので、若干無理な日程の中、出掛けていく。

 

12月7日(土)
名古屋で

4日前、新幹線で大阪から東京に向かう際、名古屋を通過した。本当はここで降りたかったが、そうもいかずに通り過ぎたので、もう新幹線で名古屋へ行く気はなかった。静岡にも用事があったが、タイミングは合わず来年に持ち越し。それではと、昼間のバスで向かうことにした。バスは空いており、ゆったりと座って行けた。

 

バスタ新宿を昼に出たバスは、途中2か所で休憩して、夕方6時前に名古屋駅に到着する。普通の人なら、日中に5時間以上かけて移動するのは無駄に思えるだろうが、旅が専門の私にとっては、料金は新幹線の約半額で、色々と景色も眺められるので、悪い話ではなかった。天気の良い冬は特に富士山がきれいに見える。今日は土曜日なので、サービスエリアも賑わっており、土産や食べ物なども少しチェックする。

 

JRバスは名古屋駅脇に到着するから移動に便利だ。本日予約したホテルまで歩いて5分、ここは今工事中であり、料金は比較的安かったが、部屋は非常に狭かった。まあ、寝るだけなら問題はなく、テレビでもあれば退屈も凌げるので良い。電気ポットがなく、湯は給湯器で汲むのだが、紙コップなので持つのが熱くてちょっと面倒だった。

 

名古屋駅でIさんと再会した。今年2月に犬山市に彼を訪ねて以来だった。香港で一緒だったのは、もう25年も前になる。北京で再会したのも20年も前になる。その後も断続的に連絡が続いていたが、最近会う頻度が上がっている。今回はもう一人の香港仲間のUさんと3人で、と思っていたが、それは叶わず次回に持ち越し。

 

Iさんが予約してくれた駅から歩いて5分ほどのビルの上にある居酒屋に入り、四方山話に花が咲く。この居酒屋、食べ物は悪くないのだが、何だかすごく混んでおり、厨房も接客も明らかに手が回っていない状態だった。我々が注文した鍋は味がないな、と思いながら食べていたら、若い店員が『これを忘れた』と言って、つゆをポンと置いて行く。すみません、の一言すらない。何だかな、もう少し言いようもあるだろうに。近頃の若者は、などと言うつもりもないが、おもてなし日本はすでに過去のものではないだろうか、とふと思ってしまった。

 

12月8日(日)
茶心居で

翌朝は、朝ご飯を食べに、宿近くのコメダ珈琲に向かう。これまで名古屋には何度も来たが、恐らく名古屋のコメダに入るのは初めてだろう。日曜日のせいか、それほど混んではいない。駅近いこともあり、外国人観光客がチラホラみられる。そして店員は殆どが外国籍だと思われる。

 

コメダに来たのは先日台北のコメダに入ってみたので、その違いがあるかどうか確認する意味もあったのだが、違いは殆どないように見えた。珈琲の味も特に変わらない。料金は台北の方が少しだけ安いかもしれない。小倉トースト、これはやはり美味いように思う。時間があれば、ここでダラダラしていたかった。

 

2月も開催された名古屋、茶心居での講座。これまでは公民館を使用していたが、今回は茶心居の新店舗が会場となった。私は行くのが初めて。前の店舗ともそうは離れていないと聞いていたが、検索すると一番近いのはJR中央本線に乗って行くと出ている。これまでは地下鉄かバスだったので、ちょっと意外な展開。しかも地下鉄よりJRの方が安いらしい。

 

名古屋駅からJRに乗り込む。日曜日だからラッシュはない。千草という駅まで行く。駅前を歩いていると、元祖台湾カレーの文字が見える。台湾カレー、初めて見るネーミングだ。名古屋には奇怪な台湾ラーメンなる、台湾にはない辛いラーメンがあるが、カレーまであったとは。台湾のカレーは日本からの輸入品が始まりだと思うのだが、どうだろうか。そういえば、台湾うどんという看板も目に入った。正直名古屋では『台湾と付ければ何でもよい』という風潮でもあるのかと、ちょっとびっくりする。恐らく台湾人もビックリだろう。

 

歩いて10分ほどの住宅街の一角に新店舗はあった。前の店と異なり、一見ここはお茶屋かと思う作りであり、お茶や茶器もあまり並んでいない。店主Tさんによれば、どちらかと言えばイベントスペースとして使っていきたいらしい。10数人は入れるので、確かに勉強会などには適しているかもしれない。ただ日が当たる時間帯はシャッターを閉めるので、秘密結社感もある?

九州茶旅2019(4)大阪民博で客家の勉強を

そして搭乗時間となり、お別れ。ピーチの関空行き最終便は意外と混んでいた。搭乗に手間取り出発は少し遅れた。それでも1時間後には到着する。ピーチが着いたターミナルから、電車の駅までシャトルバスで移動して、何とか11時の電車に間に合った。この電車に乗らないと、終電まであと僅かだった。

 

ラピートは、特急料金がかかったが、既に深夜なので早く着くに越したことはなく、料金を払った。乗車ギリギリだが、窓口で買ったら割引があるというので並ぶ。難波まで行っても、天下茶屋で降りても、料金が同じというのは腑に落ちなかったが、とにかく急いで乗り込んだ。ガラガラなので指定席も意味がない。いや、むしろ座席を探す方が手間だった。

 

時刻検索で見ると、今晩予約した宿は難波まで行くより、天下茶屋で堺筋線に乗り換えて長堀橋駅へ行く方が早かった。ただ最終電車なので乗り過ごすことはできない。堺筋線に乗ろうとしたら、酔っ払いの若者がホームで吐いている。何だかそれを見て『日本だな』と思ってしまう。

 

大阪のホテルは2-3年前まで非常に高騰しており、予約も取り難かったが、その後新しいホテルが雨後の筍のようにできており、9月に来た時久しぶりに泊まると、地方都市より安くてサービスがよい所まで逆転してきていた。今晩の宿も地下鉄駅の真上で、真新しく、深夜なのに若い女性が勤務しており、対応がとても柔らかい。今回は寝るだけなので部屋は簡素だが、簡単な朝食も付いて1泊4000円代とは、素晴らしい。

 

12月3日(火)
民族博物館へ

昨晩遅く寝たので、ゆっくりと起きる。午前9時前に軽く朝食を食べようと食堂に行くと、いたのはほぼ外国人。中国語やタイ語が聞こえてくる。意外と食べ物もあった。掃除のおばちゃんが私に向って『サンキュー』と言ったので、日本人だと告げると、とても恥ずかしそうに去っていく。

 

10時にチェックアウトして、荷物を持って地下鉄に乗り、懐かしい梅田駅前のビルに行く。ここはいつも講座を開催してもらう場所であり、さすがに迷わず来ることが出来た。今日は民族博物館で客家のお勉強の会に参加する。その主催者で台湾擂茶を商っているMさんと合流してランチを食べることにしたのだが、指定された場所はこのビルの地下の洋食屋だった。

 

集合時間は何と10時50分。なぜこんなに早いんだろうか。いくら民博が遠いとしても早過ぎる。行ってみると既にMさんだけでなく、講座主催者でお世話になっているM女史など4人が集まっており、店の前で並んでいる。そして10分前には他に数人並ぶではないか。『予約はできないし、11時過ぎに来ると席がないんです』、ちょっと驚き。

 

11時に店に入ると既に注文してあったので、すぐに定食が出てきた。Mさんはステーキしか食べないと言うが、私はさっき朝ご飯を食べたばかりなので、ハンバーグなどにしてみた。確かにボリュームもあって、美味しい。ふと周囲を見ると、既に席は埋まっており、外には列が出来ていた。

 

それから重い腹を抱えて、荷物も引いて、梅田から千里中央に向かう。千里中央と言えば、35年前、大阪外大との定期線で2回、訪れた場所だが、それ以来来たことはなかった。妙に懐かしい。そこから更にモノレールに乗り継ぐと、万博公園駅に着く。駅からあの太陽の塔が見えるだけでワクワクした。

 

大阪万博から50年が経つ。国立民族博物館は、その公園の敷地内に建てられていた。今日は民博で客家研究をしておられる先生のお話を聞く予定だが、その前に、膨大な展示の一部を見ることにして、荷物をコインロッカーに預け(館内のロッカーは無料)、館内を回り始める。ついでに本などの資料も探してみる。

 

2時になると参加者10数人が集まり、K先生の先導で、館内のアジア、特に中国、華人関連の展示の説明を受けながら見学する。お茶に関する展示は殆どないのだが、華人や客家に関する説明は勉強になる部分があった。またここは、博物館だが、博士課程の大学院生もおり、研究員は教授や準教授の肩書も持っているというのがユニークだ。

 

そして会議室で、参加者が先生に質問する時間がやってきた。皆さんそれぞれの角度で、疑問をぶつけ、先生がそれに答えていくという、ある意味で非常に効率的な形式で行われた。最後に私は『台湾擂茶は客家の伝統文化か』と『広東客家が台湾に茶業を持ち込んだ可能性はあるか』という2つの質問をしてみた。擂茶を商うMさんからすると、ドキッとする回答だったが、真実は真実、商売は商売だろう。客家についても益々興味が沸く内容だった。

 

既に夕暮れが近づいていた。私はこれから東京へ戻らなければならないので、新大阪まで出て、新幹線に乗るべく、皆さんと別れた。駅で駅弁を買って乗り込み、それを食べてからウトウトした。そして来年の計画を考える。やはり少し東南アジアにシフトして、茶商だけではなく、華人や客家について勉強しようと思った。

九州茶旅2019(3)佐賀で講座、そして福岡経由で

12月1日(日)
佐賀で

朝はゆっくりと起き上り、ゆっくりと宿の朝ご飯を食べた。ここのご飯はかなりの種類があった。食べている人を見ていると、中国人やら他の外国人も何人かいた。中国人が納豆を食べる姿はちょっと不思議。何故鳥栖に外国人が泊まるのか、それは謎だった。どこか見るべきところがあるのだろうか、それとも何か買うのか。

 

10時前に宿を出て、佐賀に向かった。駅舎はかなり古く、小さかった。昨日の事故の影響は既になく、定刻に出発し、30分で佐賀に着く。残念ながら今回も吉野ケ里遺跡にはご縁がなく通り過ぎた。と言ってもここの駅から遺跡入り口まで歩いて20分以上かかると聞くと、簡単には行けない。

 

駅には講座の主催者、Oさんが待っていてくれており、車で会場である彼の店に行く。店の周囲ではイベントがあり、駐車場が満員で遠くまでに停めにいく。まずは簡単に準備してから昼ご飯に行く。その店には期間限定のラーメンがあり、今はなすとカボチャラーメンだったので、それを注文する。思ったよりずっとカボチャが合っており、美味しくてちょっと感激する。

 

今日は昨日の熊本と同様、可徳乾三について話をした。午後から雨になり、生憎の天候の中、皆さん熱心に集まってくれた。正直同じ九州でも熊本と佐賀は違うので、どこまで興味を持ってくれるのか心配したが、それは杞憂に終わり、かなり反応は良かった。参加者はお茶関係者が多かったが、かなり意識の高い方がおり、同じ九州人ということもあってか、多くの質問が出た。

 

講座終了後、有志で懇親会も開かれ、その席ではさらに活発な茶の歴史談義が繰り広げられた。わざわざ熊本から来てくれた茶農家さんもいて、驚いた。お酒を飲まない私でも、話題が興味深ければ楽しく過ごせる。お茶を作るにも、販売するにも、歴史や文化を知っている方が有利である、ということは間違ないだろう。ただそれを学ぶ心の余裕が持てるかどうかであろうか。

 

今晩は駅の近くの以前も泊ったホテルに投宿した。明日も講座があるので、その準備もあり、部屋でPCを開いていると、かなり大きな音がした。雷が鳴っている。季節のはずれの嵐か。それとも明日の波乱の予兆か。

 

12月2日(月)
佐賀から福岡経由大阪へ

翌朝は雨だった。宿の朝ご飯は昨日よりさらに充実していたので、ゆっくりと味わう。それにしても毎日朝からコメを食い、おかずをたらふく食べているから、どんどん太っているように感じられ、体は重い。そろそろどこかでダイエットが必要だと突き出した腹が言っている。

 

雨が止んだので、とにかく腹ごなしに散歩に出た。昨年も散歩しているので、特に目的なく歩いていく。道路に水が溜まっているから、昨晩はかなり降ったのだろう。ふと見ると横をバスが通り過ぎたが、そこには福岡空港行と書かれているではないか。今日は講座終了後、福岡空港経由で大阪に行くのだが、このバスでいくのがよいのではないかと思い、駅まで行って時間を確認した。やはり電車を乗り継ぐより早くて便利らしい。お土産に佐賀名物のぼうろを買う。佐賀はなぜか菓子がうまい。

 

今日もOさんが迎えに来てくれ、お店に行く。月曜日は定休日だが、講座のためだけに使用する。この付近は古い昔の街並みが残されており、雰囲気がよい。近所に古い建物を利用した映画館があり、そこでランチもできるというので行ってみたが、ご飯は食べられなかった。すぐ近くのラーメン屋で食べる。佐賀ラーメンというのは、高菜?食べ放題で、あと生卵を入れるのが特徴だと言われ、食べてみる。

 

午後の講座は昨日に続いて参加してくれた人もおり、またタイで知り合った人、四川で知り合った人など、熊本や福岡からも来てくれ、平日にもかかわらず有難い。今日は『台湾茶と日本の深い繋がり』について話をする。特に日本統治時代の茶業の取り組みや、昨日の可徳も係わった初期台湾紅茶の歩みなど、台湾でも知られていない内容が多かったが、果たしてどの程度、関心は得られただろうか。

 

講座終了後は、車で駅まで送ってもらい、朝調べておいた福岡空港行バスに乗り込む。乗客は少なかったが、途中数か所でお客を拾ってから高速道路を通って、特に渋滞もなく、約1時間20分で空港までやってきた。これなら確かに荷物を持って電車を乗り継ぐよりは便利だ。

 

空港には福岡在住で、昨日の講座にも来てくれたYさんが待っていてくれた。午後9時の最終便を予約しているので、まだ3時間ほどあり、夕飯を一緒に食べてもらうことにしていた。博多は食べ物が美味しく、毎年一度は必ず来ると誓っていたが、今年は空港だけになってしまった。

 

空港内にも飲食店はいくつもあったが、博多名物と言われるものは多くはなかった。それでもYさんともつ鍋を食べると、笑顔になれる。次回は福岡でも講座が出来ないだろうかと真剣に思うのだが、なぜかご縁は訪れない。国内線なので食事をしても時間はあまり、更に珈琲を飲みながら話をする。

九州茶旅2019(2)三友堂、そして合志で

11月30日(土)
三友堂へ

久しぶりに泊まった東横イン。昔はあまりよい印象がなかったが、最近はいくつか改善したようで、悪くはなかった。無料で提供される朝ごはんも以前はおにぎりとみそ汁だけだったような気がするが、今日はいくつか選択の余地があった。何よりここは駅の横にあるのが便利だった。

 

今日は合志市で行われる講座に出掛ける訳だが、最後の最後まで調べようと思い、可徳乾三が130年前に設立した茶舗を訪問することにしていた。熊本駅前からバスに乗れば一本で行けるらしい。ただその本数は多くはなく、もし乗り間違えると訪問できなくなるので結構緊張する。駅前のバスは思ったより多く走っているので、目を凝らす。

 

何とかバスに乗り込む。30分ほどでバスを降り、少し歩くとお寺があった。見性寺、そうか、ここが可徳乾三の法要が行われた寺だと知る。そのすぐ近くに三友堂はあったが、その店舗は思ったより小さかった。店主のKさん夫妻が迎えてくれる。聞けば熊本地震で仮店舗での営業を余儀なくされているという。

 

ここ三友堂は1887年(1889年の説もあり)に可徳乾三他2人により設立された老舗茶荘で、往時はシベリア向けの茶を大量に輸出していた。球磨地方などから沢山の茶が運び込まれていたという。可徳はシベリアビジネスに失敗した1908年頃には経営から手を引き、Kさんの祖先が引き継いだが、その後も発展を続けていた。

 

以前の店舗の写真を見ると間口も広く、従業員も沢山いたが、昭和28年の大洪水で茶葉を失い、その補償のために店舗を売り、縮小したらしい。可徳の名前が入った看板があるとのことだったが、残念ながら今は見せられる状態にないとのことだった。戦後宮本常一もこの店を訪れ、民族学の研究をしていた。現在の店主は茶商だけではなく『茶葉の鑑定』などで有名だという。

 

もっとお話を聞きたかったが、講座の時間が迫っており、ここから熊本鉄道に乗り、終点の御代志という駅まで行く。駅は本当に簡易で、その昔の江ノ電を思い出してしまった。二両編成の電車が何とも良い。天気が良いので、車内は温かく、転寝しそうになる。30分ほど揺られていく。

 

合志で講座
駅に着くと今回の主催者市議会議員のUさんが迎えに来てくれ、会場である合志図書館に移動した。ここは前回もつれてきてもらったが、立派な施設であり、今日はその一角を使い、可徳乾三の話をさせてもらう。会場には歴史好きの方やお茶関係者などが集まってくれた。中には台湾埔里でお世話になった日本人Yさんのお知り合いも駆け付けてくれていた。Yさんは熊本出身だったので連絡してみたところ、声を掛けてくれたようで、何とも有り難い。

 

可徳乾三はここ合志の生まれであるが、完全に歴史上は埋もれてしまった人物。その生涯とゆかりの地を追った話は地元の人にはどう映っただろうか。講座終了後、参加者から『合志の人々が戦前多く外国に出ていたことは聞いているが、具体的な話を知ることが出来た』などと言ってもらえたのは良かったが、もっと詳しい話を期待されていたかもしれない。

 

そして昔、熊本ではロシア語や中国語が出来る人は沢山いたという話も出るなど、こちらも色々と勉強になった。次回は可徳本家などから話が聞けるとよいのだが、どうだろうか。因みにほとんどお話もできなかったが、会場で紅茶を淹れてくれたのは、人吉出身の女性で、手作り菓子とお茶のお店をやっている方だったが、何とトルストイ翻訳の第一人者、北御門二郎氏のお孫さんだという。この方は就農しながら翻訳したと言うが、お茶も作っていたのだろう。やはりご縁がある。

 

帰りは高校の先生の車に乗せて頂き、上熊本駅まで行った。車中でも様々な歴史の話が出てきて面白かった。やはり私の対象はお茶好きではなく、歴史好きとの会話ではないだろうか。話も広がるし、各地方の知らないことも沢山けるのがよい。駅からJRの在来線で、一路鳥栖を目指す。

 

この路線は以前も乗っていたので、安心して寝落ちる。いつの間にか冬の田園風景が暗くなっていく。荒尾あたりに着くと、ちょうど台湾紅茶に投資した日本人の末裔からメッセージが来た。彼の先祖も荒尾の出だったことを思い出す。この車両は長距離用ではないので、ずっと座っていると腰が痛くなってくる。1時間半の旅、最後は久留米で急行に抜かれるというので乗り換えて態勢を変えた。

 

鳥栖駅に着くと、長蛇の列が出来ていた。何と佐賀、長崎方面の電車が止まっており、払い戻しなどを求める列だと分かった。普通なら佐賀に泊まるのだが、今晩は禁煙部屋が確保できず、ちょうど鳥栖に泊まることにしていたので、助かった。駅のすぐ近くの宿を予約してもらっていたが、そこの設備・サービスは料金の割にはちょっと・・??とても腹が減っていたので、近所のモールでかつ丼を食べたが美味しいとは思えない。ちょうどサガン鳥栖は残留争いをしており、ホーム最終戦がここのスタジアムで行われていたようだが、どうなったろうか。

九州茶旅2019(1)阿蘇で突然通訳を

《九州茶旅2019》  2019年11月29日-12月3日

九州には1年に一度は行きたいと思っている。昨年6月に熊本、佐賀を旅したが、今年は7月に沖縄に行った。そしてここ3年間でまとめた『九州茶をシベリアに売り込んだ男』の話をついに地元熊本で話す機会を得た。ついでに佐賀でも話す。そして何だか福岡経由で大阪まで飛んでしまった。いつもながら予測不能な旅だった。

 

11月29日(金)
熊本へ

偶にはマイレージを使って国内線に乗ってみようと思った。羽田‐熊本の片道だからそれほどマイルを食うわけでもない。そしてよく見てみると、私には毎年アップグレードポイントなるものが付与されているのだが、今まで一度もアップグレードしたことがなかった。国内線だとちょうど持っているポイントでアップグレードできたので、プレミアエコノミーというのに初めて乗る。

 

座席は一番前。少なくてもここ10年、飛行機の一番前の席に乗った記憶はない。座席もまあまあ広くて快適。そのうえ、国内線エコノミーではドリンク一杯しか出ないのに、軽食まで登場した。乗り込んだらすぐに寝ようと思っていたのに、眠れなくなる。だが実はもう一つ眠れない要因があった。

 

若いCA二人が、私の斜め前でずっとおしゃべりしていたのだ。これまであまり見たことのない光景だった。カーテンの陰というならまだ分かるが、私が見える位置でだから驚いた。そして年配CAが来たので収まるかと思ったが、止めさせようともしない。確かにプレミアム席は空いていたから、やることはなかっただろうが、日本の航空会社もアジア化が始まったか。

 

ほぼ定刻に熊本空港に着いた。先日のウラジオストクのフライトと時間はほぼ変わらない。この空港、3年前に台風直撃の中、成田に向かって飛び立ったことはあるが、降り立ったのは初めてだ。そしてここで35年ぶりの再会が待っているはずだった。大学の1年先輩のTさんは熊本出身で卒業後は地元に帰ったとは聞いていたが、その後全く連絡を取っていらず、今回電話番号を聞いて連絡したところ、わざわざ空港まで迎えに来てくれるというのだ。

 

事前に最近の写真ももらっていたので、問題なく分かるだろうと思っていたが、何と出口で通り過ぎてしまったらしい。その原因の一つは、明日からちょうどハンドボール女子の世界選手権が熊本で開催されるそうで、私のフライトにもフランス語を話す選手たちが乗り込んでおり、彼女らを歓迎する人々が多かったからだろう。電話をかけてようやく再開にこぎつける。

 

Tさんの車に乗り、お互いの35年を埋めようと話し始めたが、それは簡単な作業ではなかった。卒業後のTさんの波乱万丈の展開だけでも今日中に終わりそうもない。それほど長い時間会っていなかったのに、一瞬にして昔に戻れるのはすごいと言わざるを得ない。下宿で一緒にご飯を食べたことなど、色々と思い出して、若かりし自分が蘇る。

 

周囲は既に暗くなりかけていたが、折角だからと阿蘇方面を走り、写真を撮ろうとしたが、残念ながら暗すぎて見えなくなっていた。それから田楽を食べようと、高森というところにある雰囲気の良いレストランに入った。囲炉裏がいくつかあり、そこで肉を焼いて食べた。向こうでは中国語も聞こえてきており、観光客もいるようだった。

 

いつの間にかお客は皆帰ってしまい、我々だけが話を続けていた。話しは尽きないのだ。ところが突然店の人が騒ぎ出し、こちらに向かって『車をぶつけられたみたいです』という。意味不明ながら急いで駐車場へ行くと、暗がりの中で、Tさんの車に別の車が微かにこすったらしい。

 

その運転手は日本人ではなかった。顔を見てすぐに中国語で話しかけると、相手は台湾人であり、彼らも店の人も言葉が通じたのでホッとしている。台湾人は高齢の両親を連れており、お父さんの具合が悪いので、一度宿に送ってから戻ってくるというが、律義に一人は残っていた。私は車を運転しないので、こういう処理には全く疎く、言葉が出来てもなかなか捗らない。

 

警察もやって来て現場検証と確認が始まった。若いお巡りさんは『いやー、助かります。多いんですよ、外国人の事故が』と言い、いつもは携帯アプリで会話していると告げた。レンタカー会社もちゃんと中国語対応の体制は出来ており、様々あったが何とか解決した。事故を起こした台湾人の方は、実にきちんとしたいい人たちで、『今度高雄に来たら寄ってくれ』などと言いながら分かれた。

 

思えば熊本辺りは戦前台湾に渡って仕事をした日本人も多かったはずだ、などと思っていると、店のおばさんも『うちの主人も台湾生まれで、その両親は花蓮で・・』などと話し出す。明日の講座で話し内容にも、熊本ではロシア語や中国語が話せる人が戦前は沢山いた、というくだりがある。

 

Tさんに熊本駅前に予約した宿まで送ってもらった。何とも有り難い。もっともっとその後の出来事を聞いていたかったが、それは次回にしよう。そういえば、明日の夜、東京では大学の同じクラブのOB会が開かれるので、早々にTさんについて報告を入れておいた。

広島・岡山・大阪ぶらぶら散歩2019(3)美作番茶、そして大阪へ

9月26日(木)
美作番茶から大阪まで

朝はさわやかに目覚めた。ここ二日間、かなり歩いたので筋肉痛はあったが、疲れがちょうどよく、眠りの質が改善された。日頃如何に歩いていないかが分かる。今日は美作というところへ行く。岡山駅に到着するとすぐに『この駅(目的地)、スイカ使えますか?』と駅員に確認すると『使える訳ないでしょ』と軽くあしらわれた。まあ想定の範囲内だが、そういう場所へ行くのだ。

 

朝8時過ぎに岡山から電車に乗った。JR津山線で津山まで約90分、車窓からの眺めが秋の雰囲気だ。津山駅には一両電車が待っており、20分で林野という駅に着く。途中は田んぼや畑が多く、林も見られた。一両電車はワンマン車で、運転手の横に料金箱がある。確かにスイカなど使えないわけだ。同じ岡山県内だが、2時間10分以上かかった。

 

駅にはKさんが迎えに来てくれていた。この地で美作番茶を作っている若者だ。昨年のティーフェスティバルで、誰かの紹介があり、お茶を少し買った。それを台湾茶業界の重鎮に上げたところ、面白いね、と言われたので、一度産地を訪ねたいと考えていた。ちょうどそこに知り合いのWさんが訪問するというので、橋渡しを頼み、今日が実現した。

 

美作と言えばまず思い浮かぶのは剣豪宮本武蔵だろう。武蔵も飲んだお茶、との広告も見られたが、果たしてそんなに古くからお茶作りがあったのか、それはちょっと疑問だった。そんなことを考えているうちに車で、番茶作りの工場に案内された。何となく茶葉を摘む時期(夏)、大きな茹で釜などの設備、製法などは四国の阿波晩茶などを想起させる。ただ茶葉を煮出した汁を茶葉に掛けるところが、決定的な違いかもしれない。色味がよくなるという。

 

次に店舗に連れて行ってもらい、そこで古い製茶道具や写真などを見せてもらう。勿論この地域でも番茶以外に煎茶などを作っており、戦後は活発な時期もあったという。また写真には昨日訪れた後楽園の茶園が写っており、何とここ美作の人々が茶作りをしていることも分った。古い茶箱にその歴史が感じられる。番茶を飲ませてもらうと、やはりすっきりしていて飲み易い。

 

お昼も過ぎてしまい、次の電車までは時間があるので、ランチを食べに行く。近くに湯郷温泉がある。湯郷と言えば、女子サッカーの湯郷ベルがあるところだ。あの日本代表キャプテン宮間が所属しており、覚えている。温泉もあるなら、ちょっとした観光地とセットでお茶も売り出せそうな感じはする。

 

温泉街に焙じ番茶ソフトクリームやドリンクを出す店があり、繁盛しているとのことで、2号店は何と倉敷にあるそうだ。その後食堂に入りご飯。このあたりの名物、ホルモンうどんは自分で炒める。意外に大きな内臓系が入っており、私は好きなタイプだった。若いKさん、お茶の話しをしていても将来が楽しみだ。

 

また林野駅まで送ってもらい、窓口で大阪までの切符を買う。一番早く行く方法は意外と乗り換えが多かったが、言われたとおりにした。JRで佐用まで行き、そこで智頭急行に乗り換える。それから上郡まで行き、また少し離れたJR駅に戻って、下校の高校生と一緒に相生まで行く。そこで新快速に乗れば大阪まで一本だった。

 

相生で座ることができ、後は寝ているだけと安どしていたら、何と事故で姫路から先に行けないという。姫路駅で聞くと振替輸送があると言い、ちょうど姫路城がみえるところから、また別の電車に乗る。しかし振替は三宮までらしく、またJRに戻り、ようやく大阪に着いた時は疲れ果てていた。更に地下鉄で心斎橋まで行く。

 

大阪のホテルは高い、と思い込んでいたが、今回検索すると5000円ぐらいで普通のホテルが取れるようになっていた。心斎橋を歩くとそんなホテルが沢山出来ていることに気が付く。予約したホテルもロビーは豪華な感じだが、中国人観光客に占拠されていた。ただ部屋の装備はアジア仕様であり、欲しい物は皆あったのでこれで十分。

 

ワールドカップラグビーを見るために、すぐに夕飯を済ませに外へ出た。歩いて2分のところに、トンテキがあり、1000円で美味しく食べられてよかった。ラグビーはイングランドが圧勝した。

 

9月27日(金)
大阪で

今日は1年ぶりに梅田でお話しした。午前午後と2講座あったが、また沢山の人に来て頂き感謝だ。ただその中にあれ、と思う二人がいた。東京でお茶イベントを主催するMさんと、大阪で茶文化を教えているOさんだった。この二人とは3月に四川旅行に一緒に行き、楽しく過ごしていた。

 

講座終了後、主催者のMさんが突然サプライズで二人の婚約を祝い、花束を渡した。実は薄々そうではないか、とは思っていたが、まさかここで二人に会うとは思っていなかったので驚いた。これもまさに茶のご縁だろう。その後、場所を移して食事会があったが、そこでも話題の中心はMさんだった。私はひっそりと新幹線で東京へ戻った。