「日本」カテゴリーアーカイブ

九州北部茶旅2020(6)オランダおいね

出島を出て、港の方向、出島ワーフに向かう。その途中で腹が減り昼食を取る。小さな店だがちゃんぽんの名店と言われたので入ってみると、入り口もよくわからず、裏口から入ってしまった。2階もあるようだが、1階は数席しかない小さなお店。桃華園のメニューにはちゃんぽんと皿うどんしかなかった。パリパリの細麺の上にあんかけがどさっと載っており、その大盛感がいい。

そこからふらふら歩きだし、長崎駅の近くの本蓮寺を訪ねる。一昨日は禅寺4つを回ったわけだが、今日のお寺は日蓮宗。訪ねた理由は歴史的な場所だから。元々この地は、1591年に来日したポルトガル船の船長ロケ・デ・メロ・ペレイラの寄附によってハンセン病患者のため聖ラザロ病院が建てられたことに始まる。そして聖ジョアンバウチスタ教会も併設されたということ。その後江戸初期に寺に変わっているのはキリシタン禁令のためだろう。

幕末には長崎海軍伝習所で伝習生頭役を務めた勝海舟が住んでいたというのも面白い。更にはシーボルトが1859年二度目に来日した際には本蓮寺に泊まり、お瀧、イネに再会した場所とも言われている。シーボルトと勝海舟はすれ違いだったらしい。本蓮寺は現在も立派な本堂があるが、当時は相当広い敷地を持っていたのだろう。

それから昨日のリベンジを思いつく。路面電車で長崎市歴史民俗資料館へ。今日は開いていたが、ここはまさに民俗資料館だった。庶民が使っていたやかんなどはあったが、茶の歴史(特に貿易)に通じるものは発見できず。弁当を食べていた係員の人に聞いてみたが、今日は学芸員もいないので、何も分からないと言われてしまった。

折角なのでもう一か所リベンジすることに。そこは長崎歴史博物館の斜め向かいにあったサンドミンゴ教会跡資料館。ここは教会跡であると同時に江戸初期博多出身の豪商末次平蔵の屋敷跡ということで、茶貿易に関するものが何かあるのではとの期待から入ってみた。しかしここは本当に教会跡地を発掘した場所が保存されており、残念ながら私が思うような資料を発掘することはできなかった。

今日は私が長崎で活動する最終日、結局雨も降らなかったので、心残りがないようにと、更に歩いていく。今度はシーボルトの娘イネの墓を訪ねてみる。晧臺寺という寺にあるというのでそこへ行ったが、その横の細い階段を相当上らないと見つからなかった。喘ぎながらようやくたどり着くと、そこにあったのは顕彰碑。楠本イネ、瀧、二宮敬作の名が刻まれている。その少し上にこの3人の墓がある。ここからは長崎の街が見下ろせる。

実は楠本イネについて、私は9歳の時に見た『オランダおいね』というTBSの連続ドラマを何となく覚えている。イネがミックスである困難を乗り越えながら、女医になる話だったが、主演の丘みつ子という女優さんが何となく忘れられない。江戸時代、父親が外国人というのは、想像を絶するほど大変な一生だったのではないだろうか。だからこそイネは人々のために尽くしたと書かれている。

因みに晧臺寺は1608年の創建。この寺は遠藤周作の『沈黙』という小説の舞台としても知られているらしい。この時期はキリスト教勢力が強く、キリスト教徒から攻撃されることもあり、信者獲得にも難儀したという。そのすぐ後にキリシタン禁令となり、仏教寺院は盛り返したらしい。この寺にも非常に多くの墓があり、中にはキリシタンの墓まであった。

中でも目を惹いたのはかなり大きな村山等安一家の墓。村山等安といえば、先ほど訪ねた豪商末次平蔵の屋敷跡の末次にキリシタンであることを密告されて、一家が処刑された人物だった。墓の前の碑には『初代長崎代官であったが、信仰を守り抜いた』と書かれており、この時代の難しさを象徴している。

一旦宿に戻ろうと歩いていると、上野彦馬生誕の地という看板もあった。彦馬といえば、長崎生まれ、日本初期のプロ写真師。あの坂本龍馬の写真を撮った男とも言われていたが、それは弟子が撮ったらしい?写真がなかった時代、シーボルトなどはわざわざオランダ人絵師を呼んで、植物だけでなく、なんでも描かせていたという。日本の絵師川原慶賀もシーボルトの目となって活躍していたと今回の長崎訪問で初めて知った。

宿の近くには長崎海軍伝習所跡などの看板があり、榎本武揚などが紹介されていた。勝海舟と榎本、幕末の行動はなぜあんなに違ったのだろうか。フラフラと出島ワーフも歩いてみたが、6年前は沢山いた観光客の姿はほぼなく、店も多くが閉まっていて何とも寂しい港風景だった。今日はもう腹も一杯なので、夕飯を抜こうと考えたが、また街中を歩き、まだ食べていなかった角煮まんじゅうと包子を買って、歩きながら食べた。そして今回の私の長崎旅は終わった。

九州北部茶旅2020(5)シーボルト、そして出島

部屋で少し休息したが、腹だけは減ったので、まだ明るい外へ出た。すぐ近くにトルコライスを出す店があったので、食べてみる。長崎では豚カツ、ピラフ、スパゲティが一つの皿にのっている料理をトルコライスと呼ぶが、なぜトルコなのかは全く不明であるといってよい。

少なくとも豚肉を入れるだけでイスラム圏のトルコとは無関係だとわかるはずだ。三色旗などに出てくるトリコロールから名がついたという説もある。トリコがトルコになったらしいがどうだろう。まあ名前はどうでも美味しければよいか。当然ながらかなりのボリュームがあるが、今回は空腹で完食。因みにこの店には、ハンバーグ、オムライス、焼き肉などのトルコライスもあり、正直ただの洋食かとも思ってしまう。

7月14日(火)シーボルトと出島

翌朝は雨模様だったが、もう散歩の勢いは止まらない。今日は朝から路面電車に乗って、鳴滝塾を目指した。長崎は路面電車網が張り巡らされており、意外に便利だ。20分ほど乗って、蛍茶屋まで行き、そこから歩く。途中でついに小雨が降りだした。この旅で初めての雨だった。

シーボルトの鳴滝塾は出島からこんなに離れた郊外にあったのか、と来て見て思う。鳴滝塾のあった場所は、今建物はなく、空き地のようになっており、その中にシーボルトの像だけが建っている。よく見ると立派な木も植わっており、『シーボルトノキ』と書かれている。シーボルトはこの庭に日本各地で採取した薬草類を栽培していた。同時に高野長英、二宮敬作(シーボルトの娘イネを養育)、伊藤玄朴など、幕末に活躍する蘭学医も育てていた。更には診療所も開設し、実際に治療も行っていた。尚隣にはシーボルト博物館が建てられており、彼と塾の歴史はそちらで見ることができる。

シーボルトは植物学も学んでおり、当然お茶にも興味を持っていた。当時茶樹は貴重なものであり『シーボルトがオランダ東インド会社の要請によりジャワに日本の茶苗(種)を送った』と言われている。嬉野と宇治のものを送り、その栽培に成功したらしい。だがその後天候不順と病虫の被害に遭い、茶事業は頓挫。19世紀終わりのジャワ茶はアッサム種を取り入れて、紅茶作りが始まり、今に至っているようだ。

シーボルトは有名なシーボルト事件で国外に追放されるが、故国で日本について詳細な情報を出版し、それは1850年代日本を開国させようとする欧米諸国で珍重されたらしい。本人も再度長崎を訪れ、イネとお滝にも再会している。彼は業務上日本地図を入手するなど日本情報を集めていたが、ある意味で本当に日本を愛していたように思われる。

雨が止まなかったので、一度宿に帰るべく、また路面電車に乗る。そして大波止に着いた頃、なぜか雨は上がった。まだ前に進め、と言われているような気分になる。そしてすぐ横には出島がある。シーボルトも元はここに住んでいた。今の出島はきれいに改装されているようだが、何か見つかるかもしれない。

橋を渡って入場料を払って中に入る。ある意味完全な観光地で期待薄となる。右手の方は蔵や建物が並んでおり、往時の居住の様子が少しわかる。しかしシーボルトやケンペルがどこに滞在していたかなどの表示は全くないので、案内所へ行き、聞いてみた。係員が学芸員に電話で聞いてくれたが、判然としないとの答えだった。

様々な展示品のコーナーもあった。目を惹いたのは陶磁器。絵柄に東インド会社のマークであるVOCと入っている。同社が肥前に注文して、皿などを作らせ、ヨーロッパに輸出していた様子が見られる。しかしこの狭い長屋のようなところに押し込められたオランダ人たちは、さぞや苦痛だっただろう。

反対側に歩いていきと、石碑が見える。バドミントン伝来とあるから、日本で最初にバドミントンが行われたのは出島なのだろう。その近くには重厚な石碑がある。これは商館医だったケンペル、ツュンベリーを記念してシーボルトが建てたものだとある。この3人が出島の三学者と呼ばれ、日本を世界に紹介することに大きな功績があったという。ケンペルにはやはり茶に関する研究もあり、興味深い。当時の植物学者が、貴重な茶の知識を得たいと考えたのは当然のことだろう。

また出島内には、出島の全景を再現したミニ出島もある。そしてなぜか旧内外クラブの建物がある。これは1899年にグラバーの息子倉場富三郎等の発起によって長崎在留外国人と日本人の社交の場として設立された「長崎内外倶楽部」があった建物だった。現在の建物は1903年にあのフレデリック・リンガーによって建てられた英国式明治洋風建築だというから、こちらも興味深い。

九州北部茶旅2020(4)大浦お慶と吉宗の茶わん蒸し

ちょっと疲れてしまったが、まだ午前も早いので、大浦お慶ゆかりの場所へも行こうと思い、三菱通りからバスに乗った。長崎はバス路線がかなりあり、簡単に橋を渡って大波止を超えて行く。昨日も歩いた油屋町付近でバスを降りる。大浦お慶はここで油問屋を継いだが、幕末に茶の海外輸出で儲けたという話になっている。

その屋敷跡は、今は広い駐車場になっているが、何となく往時の大きな商売の様子が見え、茶工場が目の前に出現しそうであった。お慶については、正直分からないことも多く、坂本龍馬など、志士たちを支援した話も、内容が機密事項だったからか、資料はあまり残っていないという。それでも最近直木賞作家、朝井まかての小説『グッドバイ』の主人公として取り上げられ、その知名度はかなり上がっていた(図書館で借りて読もうとしたが1か月以上待たされる人気)。同時にお慶は明治初期に詐欺事件に引っ掛かり、大損して失意の晩年を送ったとの定説も、最近の研究で覆されており、益々興味がわく。

折角なのでお慶の墓を探した。言われた方に歩いていくと、八坂神社があり、その横に清水寺もある。名前だけはまるで京都だ。その清水寺に墓があると思い、一生懸命階段を上っていたが、残念ながら墓は寺の横の急な階段をかなり上った上にあり、本当に疲れ果てた。港がよく見える、眺めがよい場所にお慶一族の墓が並んでいた。ここに来て何となくお慶の存在が確認できた気になる。

更にちょっと足を延ばして、西洋式砲術で幕末に活躍した高島秋帆旧宅を訪ねてみた。石垣があり、敷地の広い立派な屋敷があったと思われるが、今は蔵などを残して、建物はなかった。高島といえば、幕府に国防を説き、今の東京高島平で様式砲術の演習をした人物。そしてお台場を築いた江川太郎左衛門などの弟子を育てたが、その後妬まれて?逮捕され、お家も断絶したという。この屋敷もその時に荒れたのだろうか。

長崎の街は歩いていれば、歴史上の人物や出来事、その足跡などがゴロゴロしていて、何とも楽しい。ふらふら行くと、また花街丸山に出た。今でも老舗の料亭はあるが、幕末の志士たちはもういない。横町を入ると、梅園身代わり天満宮などがある。ここはなかにし礼(2020年12月逝去)が書いた『長崎ぶらぶら節』の舞台だったらしい。丸山公園には真新しい坂本龍馬像が立っているが、龍馬は長崎にどれほどいたのだろうか。司馬遼太郎の竜馬はどこまでが史実なのだろうか。

昼になったので、長崎ちゃんぽんで有名だと聞いた店を探したが、月曜日で休みだった。仕方なく少し歩くと、あの懐かしい吉宗があるではないか。ここには約30年前、茶わん蒸しを食べるだけのために、わざわざ香港から家族3人で来たことがあった。木造の建物があり、下足番がいるなど昔と変わらないが、店内はかなりきれいになっている。

一人で食べるにはよいというので茶碗蒸しと蒸し寿司のセットを頼んだ。大きなどんぶりに入った茶碗蒸しの味は昔のままだったが、お客は多くはなかった。そういえば昔馴染みの銀座の店は今閉まっているらしい。まずは長崎で吉宗の茶碗蒸しが食べられただけでも良しとしなければなるまい。

腹が膨れたので、ふらふら散歩する。川沿いに出た。中島川という。あの眼鏡橋もこの川に架かっていた。その先をずっと歩くと、長崎市立図書館を見つけたので入って資料を探した。リンガー家に関するものなど気になる本を数冊見つけて収穫あり。更に昨日通りかかった長崎歴史文化博物館にも立ち寄る。ここは規模が大きく、展示品も多いので参考になる。長崎の始まり、江戸時代、そして近代の歴史などがかなり詳しく説明されており長崎史のおさらいをするにはよい。

ただここにある資料を見せてもらいたいと事務室を訪ねると『コロナ禍で2日前までの事前申し込み(ネット予約)がないと受け付けられない』とあっさり断られてしまった。県外から長崎まで来て現地を見てから色々と知りたいことが出てくると思うのだが、コロナはそんな向学心?を阻んでいた。東京から来たことも歓迎されていないようだった。

今日はこの辺で終わりにして帰ろうと思ったが、比較的近いところに西坂公園があり、日本二十六聖人殉教地があったので寄ってみた。1597年キリシタン禁令により、京都などで捕らえられた宣教師以下26人がこの地で処刑されたという。現在は二十六聖人の等身大ブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建っている。26人の中には子供もおり、そのブロンズ像には何とも言葉が出ない。

何となくこの地を見てしまうと、原爆資料館の方に足が向く。坂を上り下り30分も歩いて浦上方面へ行く。長崎歴史民俗資料館まで何とか辿り着いたが、何と今日は休館日で見学できなかった。それまでの疲れがどっと出て、もう歩く気力もなく、路面電車で宿へ引き返した。

九州北部茶旅2020(3)長崎 唐寺から稲佐のお栄へ

結局心配していた雨は降らなかったが、徐々に薄暗くなっている。今日はどこまで行こうか、もうこれでお終いにしようかと考えたが、明日は雨かもしれないと思うと、出来るだけたくさん行っておこうと欲張る気持ちが出てくる。これも最近旅ができていなかったことによる欲求だろうか。

長崎の唐寺4つの内、残りの2つは少し離れていたが、歩けない距離でもないので、更に進んでいく。途中に長崎会所跡、という碑があった。江戸時代、オランダ、中国との貿易業務を行っていた場所だが、その斜め向かいには大きな建物がある。長崎歴史文化博物館だったので、ちょっと勉強しようと入ってみたが、何ともうすぐ閉館ですと言われ、見学できなかった。

仕方なくそのままGoogle地図を見ながら歩くと、聖福寺に出くわした。ここも四寺の一つだったので入っていくと、何とも雰囲気の良い境内に出会った。この寺は隠元が亡くなった後に建てられたもので、これまでの2つの寺とは雰囲気が違っていた。本堂がいい感じに古びていたのだが、よく見ると改修費用が捻出できずに困っているとあり、何とも言えない気分になる。因みにこの寺は幕末のいろは丸事件の交渉舞台となったことでも有名である。竜馬ファンなどは寄付しないのだろうか?

最後に福済寺にたどり着く。本当に今日はよく歩いた。坂を上っていくと、不思議な門がある。そしてその奥を覗くと、何と大きな亀の堂の上に観音像が立っている。およそ古い禅寺の印象はない。案内板を見ると、ここは昭和20年、長崎の原爆投下で全てが吹き飛んでしまったという。そのため、人一倍平和への祈りが強い。幕末には勝海舟と坂本龍馬がこの寺に宿泊したと書かれているが、果たして史実はどうだろうか。

ホテルまで歩いて帰る。実は意外と距離があり、ふらふらになって戻る。途中に後藤象二郎の屋敷跡、という記念碑があった。土佐の重要人物であった後藤は長崎と縁があり、高島炭鉱の経営に手を出すが失敗。その後を岩崎弥太郎が引き継ぎでいる。明治6年の政変で、西郷、板垣、江藤らと共に下野したが、板垣と共に自由民権運動などに走っていく。

ようやくホテルに着いた時は、もうヘトヘトになっており、預けた荷物を部屋に運ぶのも難儀するほどだった。もう一度外出して夕飯を食べる気力がなく、近所の弁当屋で弁当を買い、部屋で食べた。そして風呂に入って早々に休んだ。旅が久しぶりだったので、完全に張り切りすぎた1日が終わった。

7月13日(月)稲佐のお栄と大浦お慶

翌朝は当然早く起きた。今日も雨は降っていない。そうであればと、8時前にはホテルを出て、歩き始めた。目指すは稲佐。そこがどこにあるかも知らずに探し出す。きっかけは稲佐のお栄だった。前日大浦お慶を調べていると、長崎幕末三女傑という項目に行き当たった。お慶とお稲(シーボルトの娘)、そして稲佐のお栄の名前があったが、お栄だけは全く知らない名前だった。そこに書かれていたのは、ロシア語が堪能とか、ウラジオストクに10年行っていたとか、ロシア皇太子の相手をしたとか、興味深いものばかりだったので、お栄に関したものが何か残っていないか、稲佐へ行ってみることにしたのだ。

だが稲佐は、大波止から湾を渡って反対側にあり、歩くと意外なほど時間がかかった。ちょうど通勤時間で、市役所などに出勤する人々や登校する学生に出会った。橋を渡って向こう側へ行くと、ほとんど人は歩いておらず、取りあえず外国人墓地があるという方へ向かってみる。だが如何にも長崎らしい、かなりの坂を上る羽目になり、昨日の疲れが朝から出て難儀する。

何とか稲佐の稲佐悟真寺国際墓地に着いた。ロシア人墓地はあったが、囲いがされており、門には鍵が掛かっていて入ることはできなかった。ただ中には墓碑が外国語で書かれた墓が並んでいる。稲佐が幕末から明治にかけていわゆるロシア租界と呼ばれた片りんを感じた。

実はロシア人以外にもオランダ人やポルトガル人など、長崎らしく多国籍の墓地になっていた。更には一般墓地には多くの中国人の墓があり、唐人屋敷との関連も見られた。墓地の横には古い寺があり、門は閉まっていたが、横から入って見学した。この悟真寺が墓地全体を管理しているようだ。

墓地から下っていくと、1つの看板が目に入る。ロシア海軍借地とお栄屋敷跡と書かれた地図が見える。この海辺の一体に稲佐のお栄の屋敷(宿?)があり、ロシア海軍が来ると遊んだ場所らしい。更に歩いていくと『ステッセル将軍一行上陸の地』という記念碑が見える。ステッセルとはあの日露戦争旅順で乃木将軍と戦った敵将だが、降伏後長崎に送られていたことを初めて知った。この辺りがロシアゆかりの地なのだろうが、今やほぼ何もない。

九州北部茶旅2020(2)グラバー園から唐寺へ

かなり上り、港の眺めも良いあたりへ来ると、道路脇から古い住居が見えた。ここがオルト住宅に違いないと思ったが、門に鍵が掛かっていて入ることができない。ご縁がなかったなと、そのまま上るとグラバー園の入り口に出た。念のため受付で聞いてみると、何とオルト住宅はグラバー園の中にあり、入場料を払えば見られるという。受付の人は『申し訳ありません、今グラバー住宅が改装中で・・』と恐縮していたが、オルト住宅を目的に来た人は初めてだったらしい。

中に入って一目散にオルト住宅を目指す。この庭園、かなり広い。少し下るとそれらしい建物があったので覗いてみると、そこはリンガー住宅と書かれており、別の建物だった。リンガーとは誰なのか。そこではなぜかグラバーの息子、倉場富三郎に関する展示が行われており、日本とイギリスの狭間で苦しんだ彼の姿が見られた。その横の建物がオルト住宅だったが、説明によればオルトが住んだのは3年程度で、後にリンガー家が住んでいたらしい。オルトの長崎滞在の歴史はかなり短く、茶貿易も少しだけだったが、後で調べてみるとむしろ茶で重要なのは、このリンガーであることが分かり、新たな発見があった。

そのまま園内を散策すると、三浦環の像がある。最近朝ドラエールで柴咲コウが演じて話題となったオペラ歌手だが、ここに彼女の像があるのは、代表作が『蝶々夫人』という繋がりだろうか。作曲者プッチーニの像も見える。その向かいには日本西洋料理の開拓者、草野丈吉の石碑もある。何となく長崎らしい。グラバー住宅は全面改修中で確かに何も見えなかった。だが歴史ドラマではここに坂本龍馬や岩崎弥太郎がやってきており、何となく馴染みがある。あの大浦お慶とも親交があったはずだ。

出口の前に博物館があり、長崎の歴史が展示されている。長崎くんちの大きな山車も飾られている。ここのショップでリンガー家に関する本を買い勉強した。何だか足が軽くなってきた。もらった観光地図を見るとやはり長崎には見るべきところが沢山ある。取り敢えずこのまま長崎に4つある黄檗宗の寺を回ってみる気になる。

ずっと歩いて行くとオランダ坂があり、長崎らしい古びた欧風住宅が残っているところが見える。さすがに坂もきつい。横には活水女学校が見える。孔子廟などもある。水分補給に自販機で飲み物を買うと、なぜか『グラバーとキリン』と書かれている。グラバーは明治に入り、炭鉱経営など多彩な事業に関り、また幕末の岩崎弥太郎との深い関係からか、事実上三菱グループの顧問も務めていた。キリンビールとも関連がある。

長崎は京都並みに、どこにでも歴史が転がっている。唐寺を目指して歩いて行くと、いつの間にか唐人屋敷跡に辿り着く。唐人屋敷跡だから中華街かと言えば、そうでもない。ただ昔風の家が狭い路地に並んでおり、天后廟や土神堂がある。福建会館などもあるが、今はどんな活動をしているか。

更に進むと丸山町に出た。ここはいわゆる色町、丸山遊郭があったところで、今でも一部にそのような佇まいの料亭などがある。カステラの福砂屋の本店もある。なぜか交番は洋風だ。幕末、志士たちがこのあたりで毎夜討幕を語っていたのだろうか。その先には思案橋という文字が見える。

長崎と言えば、古関裕治の、いや藤山一郎の『長崎の鐘』が一番有名かもしれない(他に『長崎は今日も雨だった』など)。だが私個人はあの青江三奈の『長崎ブルース』(『思案橋ブルース』は別物)が頭から離れない。『どうすりゃいいのか思案橋』は子供心にも響くものがあったな。青江三奈ほど独特な世界を持っていた歌手は少ない。その思案橋は既に暗渠となり、今は見られない。

ようやく崇福寺に着いた。山門は竜宮門とも呼ばれ、その形はどうみても中国様式だった。ただこの門は後に再建されたもので、大工は全て日本人だったらしい。かなり歩いて足が疲れていたが、更に急な階段を上って境内に進む。夕暮れも近く、人影は全くない。1629年創建、明より高僧超然を招いて建てられた黄檗の寺だった。階段を登りきると意外と狭い境内に、本堂がどっしりと見えた。夜が近づいている薄暗さが何となく良い。1794年に建造されたという媽祖堂が、如何にも福建を感じさせる。

そこから方向が分からなくなり、まごつきながら興福寺まで歩く。1620年創建のわが国最古の唐寺だという。2代目住職如定は、あの眼鏡橋を作った人物とも言われている。当時の黄檗文化のレベルの高さ、日本への影響の大きさを物語っている。隠元禅師も1654年この寺にやってきて、その後滞在した。日本の黄檗宗はこの寺から始まったともいえる。山門に『歓迎隠元禅師』の幕が掛かっているのが面白い。

奥へ入っていくと、境内はかなりゆったりしている。本堂の脇を行くと、『隠元禅師東度三百五十周年記念』の碑が見える。更に行くと『釜炒茶交流植樹』などという碑もあるが、いずれも新しい。ここでは隠元が持ち込んだ茶は、釜炒り茶だと断定しているようだが、どうだろうか。茶に関する資料は長崎には無いようだ。

九州北部茶旅2020(1)6年ぶりの長崎へ

《九州北部茶旅2020》  2020年7月12日-18日

3月下旬以降3か月のステイハウスで、色々な本を読んだ。勿論お茶の歴史が中心だが、日本国内にはお茶の歴史にまつわる旅ができる場所がいくらでもあると感じ、ちょっとワクワクした。そこでコロナリスクをできるだけ排除しながら、日本茶旅を敢行しようと考え始め、まずは連載の関係で写真を撮りに行きたかった長崎、ついでに佐賀、唐津、北九州まで行ってしまった。

7月12日(日)長崎まで

この時期に飛行機に乗るのはどうだろかと危惧したが、きっと乗客も少ないだろうと思い切って乗ってみた。今年は貯めていたマイレージを使う機会もないので、それで予約を取る。世間ではGo Toトラベルとかいう珍妙な企画が出てきており、感染防止を第一と言いながら、観光客の外出を奨励しようとしていた。だが準備が間に合わず、この時期にはまだ始まらなかった。そしてその後始まったものの、東京在住者は対象外という、完全なダブルスタンダードとなっていた(東京に住んでいるだけでこのような不利益を被るのなら、きっと訴訟の対象になるだろう)。

九州は直前にかなりの雨が降り、また被害も出ており、『50年に一度の豪雨』が三年続けてきている、と嘆かれていた。確かに集中豪雨、大規模地震などが九州各地を襲っており、茶畑の被害も相当出ているようだった。正直こんな時期(コロナと合わせて)に九州に行くのは、少し後ろめたい感じがした。

羽田空港はやはりまだ乗客は戻っていないようだった。飛行機に乗るのも、敢えてなのかバスで機体へ向かった。バスの乗車も人数を制限しているようでゆったりしていた。搭乗率は半分ぐらいで意外と多かった。ANAで予約したが、フライトはソラシドエアーだった。乗客の減少により、コードシェア便も増えているのだろうか。国内線の場合、特にサービスもないので、安全に運んでくれればどこの航空会社でもよい。

国内線はスマホを使えば、チェックインも不要で簡単に乗れるので何とも楽だ。そして長崎までわずか1時間半程度で着いてしまい、機内サービスもほぼないので、国際線に慣れている自分としては、目をつぶっているとあっという間に着いてしまう感覚になる。やはり近いのは楽でよいが、なんとなく物足りない気になるのも、海外旅に飢えているからだろうか。

長崎空港は久しぶりだ。6年ぶりだろうか。長崎に初めて来たのは1991年だから30年近くも前か。次が2014年で今回は3回目だと思う。これだけ歴史がある街にこれまであまり来ていないのはなぜだろうか。自分でも不思議になる。空港からリムジンバスに乗り、大波止を目指す。6年前は知り合いが車で全て案内してくれたので、道も何も分かっていない。バスの車内に貼られている地元携帯のCMが川口春奈(大河ドラマの帰蝶さん)というのも地元感があってよい。

長崎を突然歩き回る

大波止の近くまで来ると、予約したホテルが見えたので、バスを降りた。全国チェーンのホテルだが、いつもより30%は安い。観光客は少なく、仕事で来ている人が多少見られた。チェックインにはまだ早いので兎に角外へ出た。少し歩くとすぐに出島が見えたが、何だかきれい過ぎる出島だった。

そのすぐ近くに長崎新地中華街があったが、ランチ時でもお客は殆ど歩いていなかった。店も閉まっているところがいくつもあり、ちょっと寂しい。ここでご飯を食べようと思ったが、急に長崎ちゃんぽんが食べたくなり、折角なのでちゃんぽん発祥の店まで歩いていくことにした。

雨を心配していたが降っておらず、むしろ歩きやすい気候だったので、かなり距離があったが、進んでいく。四海楼は海辺に建つ立派な建物だった。隣は旧香港上海銀行長崎支店だ。5階建ての建物をエレベーターに乗って行くと、そこだけかなりのお客がおり、席待ちとなって驚く。ここは港が眺められる風景スポットにもなっている。

長崎ちゃんぽん、これまで長崎で食べたことがあっただろうか。私のちゃんぽん体験の殆どはリンガハットだっただろう。立派なちゃんぽんと餃子が出てきたが、観光客料金を取られたな。まあ、下の階にちゃんぽん博物館があり、ここの創業者やちゃんぽんの歴史を見ることもできるので、勉強にはなった。やはり福建福清出身の華人が作ったものだった。

ここまで歩いてきたので、大浦天主堂まで登ってみる。その先にはあのグラバー園があった。そこでふと思い出したことがある。日本で最初に民間人として茶を輸出したと言われているのは幕末長崎の大浦お慶だが、その取引相手は誰だったのか。資料にはオルトというイギリス人の名が出ているが、それがどんな人なのかはよく分からない。スマホで検索してみると、何とグラバー住宅の更に上にオルト住宅という文字が見えたので、天主堂をスルーしてそのまま歩きで登っていく。

沼田茶旅2020(2)真田の城跡を歩く

3年ほど前私は雑誌の連載で『台湾紅茶』について書き、その中で新井さんも取り上げた。新井さんと一緒の働いたことがある台湾人にも会った。数年前は誰も新井さんのことを知らなかった。だがその後凍頂烏龍茶の里であり、最近は日月潭紅茶で有名な南投県が新井さんを介してここ沼田市と姉妹都市になったと聞いた時には正直驚いた。

そして南投県長以下の訪問団が沼田を訪れ、ここにもやってきたというが、その時団に加わっていた台湾人の一人は『周囲に全く茶畑はなかったので驚いた。新井さんは北大農学部卒でそのまま台湾に赴任しているが、群馬、北海道共に茶とは無縁の土地なのに、なぜ彼は台湾で茶の研究をしたのか』という疑問をぶつけてきた。

全くもっともな疑問であり、現在その辺の調査(北大と台湾の繋がりなど)を進めているが、発表できる日は来るだろうか。少なくとも本日ここにやって来て、新井少年が地元のために農業の近代化を志して北大に進んだのでは、と思ってしまったがどうだろうか。村でも、秀才を支援して帝大まで行かせたのかもしれない。

ここまで見てしまうと、もうこの地に特別な用事はない。沼田駅に向かうバスが30分後にあることを確認しており、少し雨模様にもなってきたので、足早に先ほどの道を戻る。だがあの坂を今度は上るのだから、容易なことではなかった。自動車道まで喘ぎ喘ぎ上ったが、相当な時間を要した。それから小走りでバス停に向かい、何とか間に合った。やはり山は怖い。足はつりそうだった。

因みにバス代は30分走って1000円かかる。乗っている人も3-4人だ。ローカルバスは本当に高いが致し方ない。既に一度通った道なので、今度はリラックスして乗る。よく見ると、幟がはためいているが、『真田』という文字が見えた。そうか、沼田は真田の城、沼田城があったところか。真田信繁の兄、信幸が城主で、関ケ原の合戦を経て、江戸時代初期まで生き永らえていた。

急に思い立って、バスを降りた。沼田城は既になく、公園になっているとのことだったが、折角ここまで来たのだから、ちょっと散歩してみようという気分になる。7-8分歩くと沼田公園に着く。真田の里、とも書かれている。これもやはり大河ドラマの影響だろうか。数年前、信州上田に行った時、市長が『真田幸村を大河ドラマにするようにNHKに陳情してきた』と話していたのを思い出す。そして僅か3年後には『真田丸』をテレビで見ることになったのだから、陳情も案外効果があるものだ。

公園内はかなり広いが、本丸跡や石垣が少し残っているだけで、城として見るべきところはほぼない。天狗の面が収められている社があったり、記念碑がいくつかあり、そしてなぜか真田信繁夫妻の像などがある。公園の端からは、眼下に街が一望できて眺めは良い。まあ市民の憩いの場、という雰囲気が漂っている。

それから坂を下り駅へ向かった。バスだとあっという間だが、歩いて行くと結構時間がかかる。しかも下に降りてから、道が曲がっており、まっすぐ駅に行けなかったので、予想外に慌てる。何とか高崎行の列車に間に合ったが、夕方のこの時間は、下校の高校生の大集団に巻き込まれて難儀する。やはり高校生は蜜であり、マスクの装着も甘い。若干恐怖を覚える。

高崎まで戻り、湘南新宿ラインに乗ったが、これは東京駅経由の列車で新宿には行かない。長く乗っていると疲れることもあり、赤羽駅で降りることにした。ちょうど腹も減ったので、駅近くの餃子の王将に行ってみた。餃子の王将、昔はよく行ったのだが、ここ10年以上行ったという記憶はない。

店内は意外と混んでいて驚いたが、コロナ対策しています、と言った感じで、プラスティックボードなどで席がかなり仕切られていた。私はカウンターの一番端に座ったが、店員を呼ぶボタンがそこにはなく、大声で呼ぶこともできず、隣へ割り込むことも憚られ、仕切られたことによる不便を感じた。

そして懐かしい回鍋肉定食を頼んでみたのだが、ボリュームがかなり減っていて残念(意図的に量を減らしているらしい)。更には定食に付いていたのがポテトサラダ、中華スープではなく玉子スープ、これは中華の定食なのかと訝ってしまった。ああ、私が知っている王将で健在だったのは餃子だけだったか。満足感はなかった。これはコロナの影響ではないのだろう。まあ、久しぶりに外食できただけもマシだろうか。

沼田茶旅2020(1)新井耕吉郎記念碑に詣でる

《沼田茶旅2020》  2020年6月29日

京都へ行ってみて、感染症対策をきちんと取れば、短期間の遠出は可能ではないかと考え始めた。寧ろ日々家の中に籠りきっている方がよほど体には悪いと思われたので、雨の日は家に居て、晴れた日には少し外へ出ることにした。晴耕雨読、ある意味で理想的な生活に入った。

そんな中、どうしても一度は行っておきたいが、なかなかその機会がない群馬県沼田市への旅を思いついた。私が台湾茶の歴史を学び始めるきっかけとなった男、新井耕吉郎氏の出身地であり、その記念碑が建っているとは聞いていたので、一体どんなところだろうか、と訪ねてみた。

沼田まで

朝9時半前に家を出て新宿まで行く。湘南新宿ラインという便利な電車に乗ると高崎まで乗り換えなくても良いのだが、待ち時間がかなりあったので、その前の電車で途中まで行き、乗り継いで高崎に向かう。天気は抜群によく、車両はそれほど混んでいないので、ゆっくり本を読んで過ごす。

大宮までは何度も来ているのだが、そこから先はある意味で未知の領域。上尾から始まり、猛暑地帯熊谷、ネギが有名な深谷などを通り過ぎていき、乗客はだんだんに減っていく。終点高崎に着くと、上越線までの乗り換え時間が30分あったので、駅そばを食べることにした。ここもかなりのコロナ対策がされており、お客もあまりいない。

上越線で沼田駅へ向かう。50分ほど揺られて到着する。この時間はさすがに乗客も少なかった。如何にもローカル線という感じだ。駅前はお店などもあまりなく思っていたより寂しい。バス停があり、目的地へ向かうには13時のバスに乗れば行けるようだが、念のため運転手に聞いてみると『そんなところへ何しに行くの?』と相当に不思議がられた。何故だろうか?一体どんなところへ行こうとしているのだろうか。

新井さん記念碑

バスは出発するとすぐに坂を上る。沼田は駅が下にあり、街は上にあったのだ。その街中を抜けていくと、郊外に出る。道路は広いし、しっかりしていて驚くことは何もない。30分ほど乗って、降りるバス停の前まで来たが、何とそこから長いトンネルの入り、抜けたところにバス停があった。店もほんの少しあるにはあったが、確かに観光客が寄るような場所ではない。山がよく見え、景色は抜群だったが、不安はぬぐいされない。

そこからグーグルマップで1.2㎞の地点に目的地が表示されている。雨も降っておらず、楽勝だと思われたが、徒歩で25分かかるとなっていた。何でそんなにかかるのだろうか。山の方へ向かって入っていった。上りでカーブしてはいるが自動車道で歩きやすい。勿論車は一台も通らない。

その先、完全な山道に入るよう、スマホが指示していた。こんな所を行くのだろうか。かなりの下りだ。途中果物畑が見えたので、人の気配は感じられたが、小川の脇の小道を下るのはやはり不安だ。木が生い茂って光を遮り、坂はどんどん急になっていく。汗をかき始めたころ、何とか下まで辿り着いた。

そこは開けており、住宅が何軒もあった。小山を一つ越えて来たのだ。古い家もあるが、比較的新しい家もある。ここが新井耕吉郎出生の地、利根町園原というところだった。まさに山間の小集落、新井はここでどんな少年時代を過ごしたのだろうか。家々を抜けていくとすぐに畑が広がっていた。周囲は山に囲まれている。

遂に新井の記念碑を見付けた。後ろからお婆さんが訝しそうに距離を置いて歩いてきたが、私がここで止まったので安心して畑の方に向かった。確かに私はどう考えても怪しいよそ者である。寧ろお婆さんに声を掛けるべきであったのかもしれないが、そういう雰囲気の距離ではなかった。

私はここに新井の墓もあると思っていたのだが、あったのは、娘さんの墓だった。確か新井の遺骨は彼女が半分持って引き揚げ船に乗ったが、そこで失われたと聞いている。もう半分は魚池試験場の茶畑に眠っている。説明の碑も建っており、娘婿が新井の功績などを調べて書き込んでいた。

そしてその脇には、あの許文龍作、新井の胸像が野ざらしで置かれていた。許文龍氏は台湾の大手企業奇美実業のオーナーであり、美術・音楽などを自ら行う芸術家としても知られている。私が一度だけ仕事で許氏に会った時、彼は『僕は漁民だよ』と言っていた。単なる釣り人でもないだろう。

この像は魚池試験場内にも安置されており、以前新井の子孫と共に見学している。後は台南の奇美博物館にもあるはずだが、それは見ていない。いずれにしても、20年前には全く知られることがなかった新井耕吉郎が『台湾紅茶の守護者』として登場したのは、間違いなくこの胸像とそれに付けられたストーリーであり、かつ新井の資料を保管していて、それを提供した竹下さんのお陰である。

京都ぶらり茶旅2020(5)歩き疲れて京都を去る

既にどれだけ歩いてきたのだろうか。更に金閣寺を目指して30分ほど歩いた。京都でも屈指の観光地であるこのお寺、他の場所よりは観光客がいたが、外国人の姿はここにもなかった。さすがに3日目となり疲れも出てきたので、今日の午後は金閣寺傍にある、お知り合いのISO茶房へ行き、ゆったりとした時間を過ごすことにした。

特に予定はなく、美味しいお茶を淹れて頂き、店主とダラダラと茶の話をする。残念ながらコロナの影響でお客はかなり減ってしまったらしい。今日は定休日なので、お客を気にする必要もなく、ゆっくりと話し、そしてお茶関連の本を見せてもらった。夕飯も近所のインド料理屋へ行き、バターチキンを食べた。京都へ来るとなぜかインド料理、という不思議な巡り合わせがよい。

夜、バスで宿へ向かった。いつもは渋滞がある時間だがスイスイ走り、立っている乗客もいないのが、今の京都である。京都駅の一つ前のバス停で降りてみたが、灯も薄暗く、何とも寂しい光景だった。まあ、人が多過ぎる京都よりは良いのかもしれないが、これからが大変だ。

6月25日(木)本願寺

今日は夕方の新幹線で東京へ帰ることにしていた。お天気は雨模様であり、部屋でゆっくりしてから荷物だけ預けてチェックアウトして、外へ出た。取り敢えず近所の本願寺へ向かった。西本願寺へ行くと、しっかり門が閉ざされていた。ここは横の門だったのだろうか。

フラフラしていると、由緒正しき建物が見えた。龍谷大学の建物らしい。それから東本願寺へ行く。ここは敷地が広い。本堂へ上がろうとすると、靴は自分で持っていくようになっていた。勿論消毒液も備えられていた。コロナ対策も万全なようで、こちらには地方から団体でお参りか研修に来ている人々がいた。

コロナのような状況下、本来宗教はどのように対応するものなのだろうか。人々の苦難、危機に対して、日本の仏教は何ができるのだろうか。東南アジアなどでは、このような状況が発生すれば、お寺が率先して困っている人々の救済に動くと思われるが、日本においては、お寺が何か行動しているとの報道を見かけることはあまりないように思う。我々もそれに期待することはなく、政府の支援にばかり目が行ってしまう。宗教に関心が薄い日本人、そして拝観料を取って寺を経営する仏教団体、これはどう考えればよいのだろうか。

更にずっと歩いていくと、豊国神社に出た。豊臣秀吉の像が飾られている。本来はここから方広寺へ出るはずだったが、なぜか反対を歩いてしまい、初日に行った三十三間堂の向かい、国立博物館に来てしまった。折角来たのだから見て行こうとすると、現在見られるのは庭だけらしい。京都の歴史を知りたいと思っていると、係員から『それならここではなく、京都文化博物館でしょう』と言われ、その行き方まで教えてくれた。

雨が降り出した。ちょうどバスが来たので急いで乗り込む。一昨日歩いた四条通で降りて、そこから北へ向かう。京都文化博物館はかなり重厚な建物だった。そこは別館で、旧日本銀行京都支店だったという。昔金勘定が行われていたであろう場所も今はだだっ広い空間となっている。

繋がっている本館まで行く。入場料を払う前に、名前や住所を書かされる。これもコロナ対策だ。東京の文字を見るとほんの一瞬、係員の目が動いたように思えた。2階、3階を見学したが、残念ながら茶の歴史に関する有益な情報は特になかった。京都では茶は日常なのだろうか。まあ歴史が多過ぎて、展示もできないのであろう。

もう京都に用はないように思われたので、駅前まで戻る。腹が減ったので、駅地下へ行ったが、あの洋食屋は昼過ぎでも満員で驚いた。仕方なく、京ラーメンを食べに入る。セットに衣笠丼というのがあり、珍しいので頼んでみた。油揚げと九条ネギを玉子で綴じている、大阪ではきつね丼というものなのだろうか。

ふと宿でもらった割引券を思い出す。展望台と大浴場の券だったが、展望台には興味がなく、汗をかいていたので、地下の大浴場に行ってみる。浴室には数人のお客がいたが、ゆっくり浸かっている人はいなかった。そうだ、ここでも感染リスクはあるので、不必要に来るべきではなかった思い、体をさっと洗って、すぐに上がってしまった。ゆっくり体を伸ばしてほぐす、という雰囲気はなく、むしろ体が緊張してしまった。

京都駅のバスターミナルは依然として人がいなかった。新幹線のチケットを買い、素早く京都を離れた。駅には『7月からレジ袋有料化』『新幹線の特大荷物事前予約サービス』などのポスターが虚しく貼られていた。乗客はやはり多くはなかった。途中名古屋駅のホームできしめんが食べたかったが、降りるのが面倒で、そのまま通過して、東京へ向かった。

京都ぶらり茶旅2020(4)遂に満福寺、そして鴨川を歩く

午後は暑い中、宇治から一駅電車に乗り、黄檗駅で降りる。今まで何度も通り過ぎてきたが、遂に満福寺を訪ねることになった。駅前にあると勘違いしていた満福寺まで歩いて5分ほどあった。誰もいない山門を潜ると池がある。反対側には木庵和尚ゆかりの場所もあった。

入り口で拝観料を払い、満福寺内のお茶関連の場所について尋ねてみたが、『基本的に何もない』と言われ驚いた。僅かに売茶翁の記念碑と堂があるだけで、あとは年に1度、煎茶道の大会が開催されるだけだという。確かに隠元禅師が日本の持ってきたのは茶だけではなく、生活にかかわる様々な物であったので、満福寺が殊更に茶だけを強調することはないように思う。

境内は非常に広く感じられ、木造の建物がいくつもあり、雰囲気は良い。随所に隠元や木庵直筆と言われる額などが掛かっている。黄檗宗といえば、あの木魚もちゃんとある。一通り歩いて回り、門の外へ出ると、そこには『駒蹄影園碑』があった。これは宇治に茶が植えられた頃、高山寺の明恵上人がその植え方を教えたとの故事に倣って建てられたらしい。明恵と茶に関する話はどの程度真実なのだろうか。周囲を見ると何軒か『普茶料理』という看板も出ており、黄檗宗を感じさせる。

暑いので、電車に逃げ込んだ。夕方は京都市内四条まで戻るので、京阪電車に乗ってみる。思っていたよりずっと近いのでビックリ。これは特急だからだろうか。四条にはアーケードがあるので歩くのは楽だ。今日は急遽福寿園に向かった。本を入手するため、お知り合いのIさんを訪ねた。

さすがにコロナ対策が徹底されており、お茶の試飲は出来ず、Iさんとの会話も2m以上離れて行われた。それでもお茶の話ができるのはやはり嬉しく、話が弾む。お客さんも常連さんが断続的にお茶を買いに来るが、長居する人はいない。福寿園の歴史も知りたいところだが、長居は無用。

疲れたので宿へ帰る。今日も湯が出ずに、さすがに部屋を変えてもらうことにした。日本の普通のホテルで湯が出ないとはびっくりだ。黙っていても客が来ることをいいことにメンテを怠り、コロナで休業期間に入ってしまい、問題が発生したのだろう。この機会にメンテを実施すべきと思うが、その費用が賄えるのか。今日も残念ながらほぼ泊り客に会わない。

夜は疲れたので、京都駅の地下で夕飯を済ませることにした。洋食が食べたかったので検索して店に向かったが、まさかの満員。駅は普段の半分以下しか人がいないのに、なぜここだけ満員なのか。仕方なく、カツカレーうどんを食べたが、わざわざカツをカレーうどんに入れる必然性はあるのだろうか。

6月24日(水)鴨川

一応京都市内を歩き、宇治にも行ったので、今回の旅の目的はほぼ果たしていた。因みに目的というのは、連載中の雑誌の原稿締め切りに合わせて、隠元と煎茶を追い求めることだった。今朝は今まできちんと訪ねたことがなかった京都御所に行ってみた。修学旅行でも行った記憶はない。

御所が今のように公園となり、解放されたのは明治に入ってからのようだ。それまでは公家屋敷などが立ち並んでいた。ちょっとミーハーだが、蛤御門を探した。幕末の歴史、面白い。御所内部の参観は制限されており、塀に沿って歩く。蛤御門のちょうど反対側に仙洞御所があった。後水尾上皇やその妻徳川和子ゆかりの御所であり、ここでは多くの茶会が開かれたという。参観するには事前申し込みが必要で中を見ることは叶わなかった。

その後旧九条邸のいい雰囲気の庭などをチラッと見た。明治になり、公家の多くも天皇と共に東京へ向かったのだろう。私も地下鉄に乗り、次の目的地、北大路橋に向かった。その東側に売茶翁顕彰碑が建てられていた。この碑は比較的最近建てられたものだが、売茶翁に繋がる場所はやはり鴨川かもしれない。

何となく鴨川沿いを歩きだす。コロナ下ではあるが、多くの年配者が歩き、また犬の散歩などが行われていた。記念碑もいくつも建っており、歴史的な場所だとの認識も出てくる。ちょうど空が曇り、眼前の山も少しかすんでみえる。川沿いのせいか、暑さが和らいでおり、とても歩きやすい。

川から離れ、かなり歩いていた。神光院という寺まで行く。この辺りは住宅街で、観光スポットは全くない。何故私がここに来たのか、自分でもよく分からない。金閣寺の方を目指すつもりが、少し道を間違えたのだろう。寺に入ると、実に静かで古めかしく、落ち着きがある。時代劇の撮影などにもよく使われた場所らしい。

この寺は幕末の歌人で陶芸家、知恩院ゆかりの大田垣蓮月が晩年を過ごしたという。境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑、そして茶室(蓮月庵)が残されている。蓮月という人は才能があったようだが不幸で、何度も子供や旦那と死に分れており、出家後最後はこの地で亡くなった。蓮月が生活のために作った陶器は蓮月焼という名で残されている。