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中国地方西部茶旅2020(5)安芸太田の茶処

これから吉賀町に戻っても夕飯を食べるところがないという。Uさんが『海が見えるレストランで食事がしたい』というので、車は帰る道と反対に海に向かっていく。宇部市のあたりまで来てしまったが、ネット検索したその食堂は港の中にあり、しかも閉まっていた。仕方なく、街中のスシローで寿司を食べたが、私にとっては、初めてのスシローであり、デザートまで食べて十分満足できた。

7月22日(水)広島へ

いよいよ今回の旅も最終日を迎えた。今日はインドパキスタンが専門のM先生も加わり、4人で出掛けていく。大学の授業はオンラインとなり、ネットさえあればどこでも授業ができるというので、フィールドワークに来ておられるらしい。コロナ禍にも良い面もあるのかもしれない。私もM先生と話していて、パキスタンやバングラの茶事情について知ることができ、有意義だった。

この吉賀という場所は島根県にあるが、一山超えればすぐに山口県である。今日は広島へ行くというから遠いのかと思ったが、山道を1時間半で広島駅まで着くらしい。ちょっと行けば広島県にも繋がっているのが、この辺の面白いところ。でも車がないとどこへも行けない(広島駅から吉賀町まで直通バスが運行しているらしい)。今日はちょっと雨の予感もある。

午前11時頃には広島駅付近に着いてしまった。そして目指すは広島風お好み焼きだ。有名なお店に開店と同時に突入して味わう。ソースやマヨネーズのいい匂い。いや、こういうのが食べたかったんだよな、という味がする。店内にはお客がどんどん入ってきて、コロナどこ吹く風状態だった。満足、満腹で店を出た。

それから安芸太田という辺りに向かう。道の駅へ行くと美味しそうなソフトクリームがあったので思わず食べる。本当に道の駅にはいろんなものが売っている。そこで地域振興を担当する方と待ち合わせて、お茶関連の場所まで案内してもらうことになっていた。雨脚が強まる。付近には加計という地名が見られるが、あの有名になった加計学園と何か関係があるのだろうか。

案内された場所は、広々とした民家だった。中に入ると実にきれいで驚いた。何と空き家を改装して貸し出す事業を行っているという。いわゆる民泊だろうか。見晴らしの良い農村風景、思わず座り込んで見とれる。地元の古老がやってきて、この地の茶の歴史が書かれた町史などをもってきて見せてくれる。

この付近も江戸時代は芸州浅野家の領地で、茶業も奨励されていたという。やはり江戸時代、作物が取れない山間部で、政策的に茶は作られていたということか。更に明治初期、茶の輸出が始まると、茶工場が建ち、茶問屋が茶葉を捌いていたらしく、広島県の茶処と言われたという。

隣の納屋のようなところへ行くと、昔使われていた釜炒り用の鉄釜と炉が残されていた。小さいので自家用かと思われるが、昨日も見たように、中国地方山間部は伝統的に釜炒り茶だった様子が見て取れる。果たしてこの釜炒り製法はどこからどのように伝わったのだろうか。それを解くカギは残念ながら今回見つからなかった。

この近くにお茶の専門家がいるので、と言われ待っていると女性がやってきた。Kさんという日本茶インストラクターで、何と私のことを知っているという。元々は九州の方で共通の知り合いもいた。今はこの地に移り住み、地域振興活動などもしているようだ。それにしてもこの山奥で、自分のことを知っているという人が現れるとは驚き以外の何物でもない。

いつのまにか雨も上がったので、周囲にわずかに残る茶畑も見た。こちらもこれまで同様、既に産業としての生産は終了しているといってよい。これからは民泊などを見据えた風景の一環として、茶畑や茶の歴史が登場するのかもしれない。

名残惜しかったが、加計地区を離れた。そして車で広島駅まで送ってもらい、そこで皆さんと別れて新幹線に乗る。M先生から『駅弁はたこめしがうまいですよ』と教えられたので、それを探す。今は乗客が少ないせいか、時間的な問題か、駅弁はわずかしか残っていなかったが、その中にたこめしがあったので、買い込んで慌てて新幹線に飛び乗る。

さすがに新幹線は空いていたが、夏休みシーズンを迎え、全国的にはGoToトラベルの運用が始まり、旅行客が戻ってくることだろう。だが、東京は除外されてしまった。これはどう見ても、国民に対する不公平な措置と言わざるを得ない。科学的根拠も示されず、恣意的な政策決定?アメリカなら必ず訴訟になるだろう。そして私の国内旅はここでまた一時中断を余儀なくされてこととなってしまった。

中国地方西部茶旅2020(4)鹿野茶、そして小野茶へ

最後に津和野にある太皷谷稲成神社(稲荷を稲成と書くのはここだけ?)に参拝した。日本五大稲荷の一つで、朱色の千本鳥居を潜ると、津和野の町並みがいい感じで眺められる。ここでお揚げ包(お揚げ、ろうそく、マッチ)をもらい受け、拝みたい稲荷の前に行き、それを供えるとご利益があると聞き、やってみる。ご利益のほどは定かでないが、気持ちはよい。ここは北白川宮家ともご縁があるようだ。

そして夕暮れが近づく中、ついにUさんの住む、島根県吉賀町にやってきた。ここは昨年3月に一度お邪魔しており、その際外から見た立派な旧家に泊めてもらえることになっていた。ここは某お笑い芸人ゆかりの家であるが、庄屋さん格、2階建ての豪邸で部屋数も多かった。夕飯は途中で仕入れてきた魚などを材料に、Uさんが用意してくれ、ここに住むAさんと3人で、美味しく頂いた。この家は古いためこれから徐々に改修されるようだが、一応シャワーもあり、蚊の出現なども心配されたが、私には問題ない住環境でぐっすりと眠れた。

7月21日(火)鹿野茶、小野茶へ

さわやかな朝を迎えた。朝ご飯を食べさせてもらい、今日もUさんの車で出発するが、一体どこへ行くのだろう。Aさんと3人で山道を50分ほど行くと、川が流れ、自然豊かな山間集落が出現する。その道沿いに茶樹がちらほら見え隠れしているとテンションが上がる。如何にもUさんが好む光景だ。

近所で聞き込みをすると、80歳になるSさんが親切にも、この付近の茶の歴史を説明してくれた。茶はその昔(少なくとも明治初期)から作っているが、最盛期はかなりの量を出荷していたという。だが近年は人口減少(23軒あった家が今は6軒のみ)と高齢化が進み、自分たちの飲むお茶を生産しているだけだ。毎年5月に若葉を使って釜炒り茶、ほうじ茶を作る。番茶という名称は使わない。Sさんに案内されて、茶畑も見た。緩斜面の狭いところに茶樹が植えられている。

そこからまた山道を30分ほど行くと、集落があった。こちらは以前Uさんが訪ねたことがあるという。Nさんというお宅へ寄ったが、ご主人は介護ベッドの上におり、奥さんは『こんな状態だから、もうお茶は作れない』と残念そうに話してくれた。これが山間部の現実かもしれない。もうすぐ山のお茶は消えてくことになりそうだ。

鹿野という街へ向かっていると、山の中に突然看板を見つけた。降りてみると『井上豊後守墓所』と書かれている。何と戦国時代に毛利家に仕えた武将だったらしい。墓も非常に古く、家臣の分も含めて沢山ある。そしてあの長州ファイブの一人、鉄道の父井上勝がその子孫だと言い、また井上薫も一族内の人間であるらしい。こんな山奥に戦国を見るとは思いもよらない驚き。

そこから1時間以上走って鹿野に着いた。腹が減っていたが、食堂なども見つからず、もちろんコンビニもない。昼飯抜きか、と思っていたところ、偶然食事処が目に入る。何という幸せ。すぐ飛び込んで美味しいとんかつにありついた。そしてそこの奥さんが実に愛想がいい。聞けば大阪から嫁いできたといい、『田舎町ではいつまで経っても、余所者なのよ』と笑いながら、余所者の我々に色々と話してくれた。その中で鹿野茶について聞くと、関係者と連絡を取ってくれた、感謝だ。

鹿野ファームという直売店で鹿野茶を買ってみた。更に町外れの『たぬき』というお店へ行くとご主人は鹿野茶の製造もしており、話を聞きながら、手作りの製茶道具なども見せてもらった。5月の田植えが終わると茶作りをするらしい。鹿野茶の起源は1374年漢陽寺を開いた用道禅師が中国から茶の実を持ち帰りこの地に植えたことに始まるという(この時代に、こういうことは普通だったのだろうか?)。江戸時代、鹿野茶は有名ブランドだったとか。昭和初期でもかなりの産量があったというが、現在は細々と作られているだけ。漢陽寺は先ほど横を通り過ぎただけだったが、中に入って見るべきだったと後悔したが後の祭り。

そこからさらに1時間ほど車に乗り、小野茶の産地へやってきた。山口茶業は、観光茶園でも売り出しているのか、リゾートのような素晴らしい空間の中にあった。H社長は2代目で、初代の父親が八女から移住して、高度成長期に小野茶開発に努めたという。役所と連携して、広大な茶畑を造成している。今日回ってきた中で、企業型の茶業は初めてだった。釜炒り茶も作っているとのことだったが、『大量には売れないよ』と残念そうにこぼす。

その造成された茶畑も見に行った。確かに広い台地に茶畑が向こうの方まであった。防霜ファンも見え、伝統産業とは全く違う光景だった。だがその一部には耕作放棄茶園も見られた。ここもご多分に漏れず、後継者不足、そして茶価の低迷の煽りを受けているようだ。夕暮れの台地が少し悲しい気分にさせた。

中国地方西部茶旅2020(3)佐々木小次郎と静御前の墓参りをして

7月20日(月) 山中で驚きの発見

朝食は早めに食べた。おにぎりとみそ汁、サラダにたまご、十分な量だった。宿泊客がそれなりに居たことはこの時に分かった。食堂にスタッフはいたが、フロントはやはり誰もいなかった。チェックアウトはカギをボックスに入れるだけ。とても簡単でよい。

9時にUさんが車で迎えに来てくれた。Uさんは島根県と山口県の県境に住んでおり、車で1時間ぐらいかけて萩に来てくれた。事前打ち合わせはしておらず、彼女は今日、萩を回ろうと考えていたようだが、私の昨日の行動を聞いて、素早く全てを変更してくれた。この機転は素晴らしい。

『じゃあ、これから珍しいお城の跡を見に行こう』と言われ、キョトンとしていると、萩市大井の海岸沿いに着いた。昔漁港だったのだろうが、今は実に静かで人影もない。そこから少し上ると、鵜山(うやま)という丘があった。そこに壠(グロ)と呼ばれるお城の外壁、石組みのような構造物を突如出現して驚く。

グロはかなり高い石垣で、沖縄で見たグスクを思い出す。グロとグスク、どこか音も似ている。ここは城なのか?元寇の時の防御だったのか?グロに関する詳しい資料は全くないとのことで、真相は闇の中である。近くには湊古墳などもあり、この地域がどの程度の歴史を持っているのかも含め、まさにミステリーだ。そして簡単な丘なのに、道に迷ってしまうという不思議。なんだろう。

そしてなぜUさんはこんな場所を知っているかも謎だった。その理由はいとも簡単で、『山の中に野生の茶樹が生えていないかを探して、島根、山口などの山間部を訪ね歩いていると、自然と出てくるのだ』というので、これまた驚いた。まさにUさんならではの茶旅が展開されている。

そこから今晩のおかずを買いに行く。新鮮な魚が沢山車に積み込まれた。私はただ車の助手席に座っているだけで、どこへ行くのか、今どこにいるのかもよくわからない。そして今度は『お墓参りに行きましょう』と言われ、また車に揺られる。阿武町という土地の山間に到着する。何と佐々木小次郎の墓と書かれているではないか。その墓は古びており、文字もよく読めない。正直『小次郎って、いつ死んだんだ』などという愚問が頭を過る。そう、彼は巌流島で死んだのだ。

佐々木小次郎という名は有名だが、その生涯について知っていることはわずかだとこの時気づいた(先日小倉城には行ったが、何も勉強しなかった)。そしてここにあった説明書きに興味を持ち、調べることにした。まさか小次郎の妻がキリシタンで、と言われると、もう頭は真っ白だった。そしてササっとウキペディアで小次郎を探ると、何と巌流島の小次郎は69歳だったとある(戦前の定説?)ではないか。妻は妊娠中とあるから、小次郎は69歳で子をなしたのか(何となく加山雄三の父、上原謙を思い出す?)?調べた結果がこちら。

それから、道の駅「うり坊の郷katamata」というところにも寄った。田舎では何といっても道の駅が頼りだ。むつみ肉と書かれた猪肉を中心に奥あぶ清流米やトマトソフトクリームが名物だという。ここには日干番茶が売れられており、今回の旅の目的、『日本の山間部の茶業を訪ねる』がようやく登場した。

そして更に墓参りが続く。今度は何と静御前だ。静御前は小野小町などと並び、美人ということもあってか、その墓は全国にあるという。だが義経や静ゆかりの地といえば、東北、京都、鎌倉などと思われ、少なくとも山口に関係があるとは思えない。

田んぼ道を行くと、『静御前の墓』という看板が数十メートルおきに出てきてびっくり。よほど行政が力を入れているのだろう。しかしよく見ると『伝説』という文字も見える。その墓は少し山を入ったところにあった。母親磯禪尼と義経の子の墓も一緒であるが、かなり古びており、ちょっと崩れかかっている。果たしてこれは本物なのか。

そんなことを考えている私の横でUさんは真剣に何かを眺めていた。このお墓に通じる参道に茶樹が植えられていたのだ。こちらはどう見ても最近のものだが、一体だれが植えたのだろう。その意味を知りたくて、そして静御前の歴史を知りたくて、何と町役場に押し掛けた。静については、一応資料はあるものは正直よくわからない(義経と壇之浦が結びついた?)いう。

茶樹についても『そんなのあったっけ?』と言われるも、その時偶然電話が鳴り、何と掛けてきた人のお父さんが植えたことが判明する。その家を教えてもらうとさっきの墓のすぐ近くだったので訪ねて行ったが、あいにく留守で事情を聴くことはできなかった。しかしこれは何とも面白い展開だった。帰り掛け、教えられた道の駅に行くと、静御前の像まで建てられていたが、地元の人も訳がわからないのではないだろうか。

中国地方西部茶旅2020(2)萩で幕末史を堪能する

街を歩くと、高杉晋作生誕地や木戸孝允旧宅などが、ぞろぞろ出てくる。そこをちょっと見学するのに、いちいち100円程度の入場料を取られるのは非常に煩わしい。萩城下は世界遺産にも登録されているというのだから、もっとまとめてもらいたいと思ったら、最後の方で共通券があるのが分かったが、もう遅かった。

城下町から少し郊外に出ようと歩いていると、途中で藩校明倫館を外から見た。非常に立派な木造の建物があり、しかもその後にも数棟が続いている。これは思ったよりはるかに広い。水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と共に日本三大学府の一つに数えられていた明倫館。吉田松陰を筆頭に、井上馨、桂小五郎、高杉晋作、長井雅楽、乃木希典など、さすがに多彩な人材が学んでいた。

隅の方に、最近長州ファイブの説明があった。幕末英国密留学を果たしたのは井上の他、伊藤博文、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士だった。知り合いの香港人がロンドン大学卒業生で、彼から以前その名前を聞いて興味は持っていた。井上馨は外交、遠藤は造幣、山尾は工学、伊藤は内閣、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」と呼ばれ、明治日本の原動力になっていた。だが明倫館に通えたのは井上だけだったことは、明治維新とは何かを考えさせられる。

松本川を渡り、松陰神社を目指した。萩といえばやはりここに来なければならない。坂本龍馬にゆかりの薩長土連合密議之處などの碑もあり、ムードは盛り上がる。1862年竜馬は武市半平太の手紙を持参して萩に入り、久坂玄瑞らと会合を持った。これが後の薩長同盟に繋がるとの説もあり、久坂の影響で竜馬は土佐を脱藩したらしい。

そして神社に踏み込むと、かなり広い敷地を持ち、松下村塾の建物が復元されている。こんな小さな建物の中に連日若者が溢れかえって、激論を交わしていたのだろうか。松陰が押し込められていた旧宅も保存されている。ボランティアの人が観光アンケートを行っており、珍しく付き合って答えたら、水を貰った。

そこから少し行くと、伊藤博文の像やその別邸が開放されていた。更に吉田松陰生誕の地や松下村塾発祥の地がある。実は吉田稔麿生誕の地の碑も小さく見えたが、この稔麿という人物もちょっと注目されてきている。松陰の叔父で教育者の玉木文之進の家も残されていた。そして東光寺という立派な寺まで来た。ここは黄檗宗だ。

そこから坂を上っていくと、松陰、玉木文之進など吉田家、久坂玄瑞や高杉晋作、その他、幕末の歴史で名前が出てくる人々の墓が沢山ある場所に出くわした。これは歴史好きにはたまらない場所かもしれない。そして小高い丘から、眼下に街が見えた。そして松陰の像があり、この付近が本来松陰の生まれた家の跡だと書かれていた。

一体何キロ歩いたのだろうか。さすがに疲れて足が動かなくなった。おまけに雨が落ちてきそうな天気となり、周遊バスを利用することにした。これは30分に一本程度しかないが、大体どこへでも行けるのでとても便利。しかも料金は100円だ。萩駅なども通ったが、その先の海が見える場所でバスを降りてまた歩き出した。小さな港は静か。藩の船倉があり、古い町並みが見え、雰囲気が良い。

かなり歩くと、野山獄跡までたどり着いた。ここは松陰が海外渡航失敗後に投獄された場所で、ここでも受刑者などに教育を施したとあるが、今は記念碑が建っているだけである。午後4時過ぎまで歩き回ってしまい、しかもご飯はモーニングうどんしか食べていなかった。こんな時間にやっている食堂もないだろうと、宿に戻りかけると、何と今朝のモーニングうどんの店が目に前に現れた。これはもう食べるしかないと、かつ丼セットを注文。腹ペコなので腹一杯詰め込んで満足した。

ようやく宿に行き、チェックインを済ませた。ここは大型ホテルであり、大浴場もあるというので、疲れた体を癒すためにさっそく浸かりに行く。さすがにこの時間は誰もいなくて、ゆったりできる。露天風呂もあり、快適だ。さっぱりすると、のどが渇くが、飲み物も無料コーナーがあり、充実している。部屋も広めだ。これで朝食付き、料金は5000円程度だったので、当たりホテルだろう。週末は近隣から泊り客が来るようで、意外と混んでいた。このまま夕飯を食べに出ることもなく、ボーっと休息に充てた。

なおこのホテルは、B&B式バジェットホテルという表現を使っており、フロント業務も午後の一定時間だけで、あとはなんでもセルフサービスになっている。料金を抑えるという意味と、コロナ対策という両面から、なかなか良いアイデアだと思われたが、どうだろう。

中国地方西部茶旅2020(1)萩へ

《中国西部茶旅2020》  2020年7月19日-22日

長崎から佐賀、福岡と進み、本来はここで一度東京へ戻る予定だったが、島根在住のUさんから連絡があり、2-3日時間があるというので、小倉から山口方面へ向かうことになった。茶旅はまだまだ続いていく。

7月19日(日)萩へ

小倉に2泊して、なんだかスッキリした。Uさんと明日萩で待ち合わせとなったので、今日は移動日、萩に到着すればよい。だが私は萩に行ったことがなく、歴史的にはどう考えても興味深い場所なので、朝一の電車に乗って急いで小倉を離れた。これまで食べ過ぎたので、宿の朝食は食べなかった。

先ずは山陽本線下関行きに乗る。僅か15分で本州へ渡る。そこからすぐに新山口行に乗り換えて30分、厚狭まで行く。厚狭を『あさ』と読むらしい。古来「あづさ」と呼ばれ、中世以降「梓弓」に関係の深い地名から「あさ」に変化したとか。何となく日本語ではないような気もするが、どうだろうか。

ここからJR美弥線の2両編成に乗り換える。それまで海辺を走っていた列車は山の中に突っ込んでいく感じになり、ところどころに田園風景が広がる。当然乗客は少なく快適。1時間ほど乗ると、長門市駅で山陰本線の1両列車に乗り換えて、最後は海を見ながら、東萩まで行く。合計約3時間。

途中駅で聞いてみると、山口県内はSuicaがほぼ使えないとのことで、切符を買い直した。山口県はJR西日本に再三要請しているというが、進展は見られないとか。安倍首相のおひざ元でこんなことがあり得るのだろうか。そうか、安倍さんは電車に乗らないから分からないんだ、きっと?!デジタル化推進とは何だろう?

朝10時過ぎに東萩駅に着いたが、さてどうしようか。予約した宿は駅のすぐ横にあったので、先ずは荷物を預けようと出向いてみると、何とフロント業務は午後までやらないと書かれており、スタッフは誰もいなかった。ただコインロッカーがあり、『宿泊客は無料で使える』となっていたので、そこへ荷物を押し込んだ。

そして駅の観光案内所で地図を貰う。係りの女性に『どちらから?』と聞かれ、ドキッとしながら『東京から』と答えると、ニコニコして『世田谷に松陰神社がありますね』というので、驚いた。何だか気分が愉快になって、足も軽くなる。そのまま歩いて、萩城跡へ向かったが、途中で一軒の食堂が見えた。このコロナ禍にも拘らず、行列ができており、思わずのぞき込むと『モーニングうどん』と書かれているではないか。気になってしまい、つい中に入った。

肉うどん360円は確かに安い。そしてネギは小鉢に取り分けられていて、いくらでも食べてよいという。何とも気前が良い。汁の味も甘みが程よく、美味しい。今日は日曜日、朝から家族でモーニングうどんを食べているのは、何とも微笑ましい。お店の人も余所者にも優しく、気に入ってしまった。

元気一杯で萩城跡まで歩く。突然楫取素彦生誕の地という看板に出くわした。さすが萩。幕末、明治に名の知れた人物を多く輩出している。楫取はNHK大河ドラマ『花燃ゆ』にも登場した、吉田松陰の親友。松陰の妹寿が嫁いだが病死、そしてもう一人の妹で大河の主人公だった文(久坂玄瑞未亡人)を後妻としている。

因みに楫取は、1864年長崎に勝海舟を訪ね、長州藩の窮地を救ってくるよう頼んだりもしている。この時坂本龍馬とも再会している。明治に入ると群馬県令となり、養蚕、生糸貿易を熱心に奨励し、文夫人はニューヨークで成功した新井領一郎に松陰形見の短刀を託している。楫取素彦、もっと注目されるべき人物だと思う。

城の手前には菊ヶ浜と呼ばれる海水浴場もあったが、さすがに水遊びは禁止のようで、人もほぼいなかった。萩城は関ケ原の後、毛利輝元が築城し、居城となった。幕末の動乱で不便となり、山口に移るまで長州藩の中心地。今は解体され、石垣などは残っているが、見るべきものはあまりない。

城の近く、毛利輝元の墓がある、天寿院も訪ねてみた。ここは廃寺となり、墓だけが残っている。管理維持費として参拝者は20円払うようにと書かれていたが、毛利家はそんなに貧しいのだろうか。いや歴史観光を売り物にするのであれが、市がこの程度の維持費を負担するべきではないだろうか。外国人が20円の看板を見たら、相当の違和感を覚えるであろう。

そこから萩城下町が始まっていたので歩いてみる。武家屋敷が並んでおり雰囲気はある。立派な像を見つけたが、何と田中義一だった。陸軍大将で、昭和の初め総理大臣にもなっているが、生家は藩主の駕籠かきだったとある。萩博物館を訪ねると、何とコロナで事前予約制となっており、見学できなかった。仕方なく、ショップで資料本でも探そうと思ったが、ここも検温などがうるさく、結局何も見ずに出てきた。

九州北部茶旅2020(11)北九州 ユニークなTea House

小倉駅からJR日豊本線に乗り込んだ。20分ほど乗って朽網という名の駅で降りた。正直何と読むのか分からなかったが検索して、『くさみ』だと知る。網から海を連想したが、どうも海はないらしい。なぜこんな地名になったのか。ネット上では『景行天皇が土蜘蛛討伐の際に、葛の網をしいたところそれが朽ちたことに由来』とか『「くさ(臭)」+「み(水)」で、臭みのある水(飲めない水)に由来』とか説明されているが、何となくピンと来ない。

駅から上り坂を上がり、国道らしき道に出た。ここに来た理由、それは昨年3月の四川旅でご一緒したMさんが凰茶堂という中国茶のお店を出していると聞いたからだ。そのお店は想像していたよりずっと大きく、車が何台も止まっていた。午後1時ごろだが、ランチを食べる人、お茶を飲む人で賑わっていた。お茶だけでなくスイーツも充実しているようだ。

ここ3か月はコロナで様々な問題があったが、ソーシャルディスタンスや除菌など1つ1つの課題をクリアーしてお店をオープンさせているという。話を聞いていると思った以上に飲食業は大変だと痛感する。Mさんは忙しそうだったので、私は奥まった席でお茶をオーダーしてまったりと飲み、美味しいデザートをサービスしてもらってご機嫌になる。

ランチのお客さんが捌けた頃、茶葉を売る辺りに移動して、Mさんと無駄話を始めた。このお店、思ったより遥かに茶葉の種類が多く、またマニアックなお茶まであって、見ていても楽しい。それは店主の拘りだろう(まあ、あの四川省の茶旅にやってくるくらいだから)。

その間も地元のお客さんはひっきりなしにやってきて、中国茶を飲む人がこんなに多いのかと、ちょっと驚く。地域に根付くには苦労も多いのだろうが、何とも頼もしい限りだ。コロナに負けず、お店を続けていって欲しい。そしてまたいつか、一緒に茶旅する機会があればよいなと思う。

朽網駅に戻ると、何と電車が止まっているという。こういう場合、どうしたらよいのか、考えは全く浮かばない。だが幸いなことに頭を巡らすまでもなく、なぜか電車はやってきて、すっと乗り込み、小倉駅まで戻った。ホームを歩いていると、『北九州名物 かしわうどん』が目に入り、突然腹が減った。そういえばちゃんとお昼を食べていなかったのだ(さっき凰茶堂で飲茶を食べなかったことが急に悔やまれる)。甘い汁で煮しめた鶏肉が上に乗り、ネギとの相性がとても良い。こういうローカルフードが好きだ。

宿には戻らず、また商店街を散策する。美味しそうな和菓子屋さんがあったので、思わず寄り道した。日本茶旅ではやはり和菓子の魅力が大きく、まんじゅうなどを1つ買って部屋で食べるのが病みつきになってしまった。ついでにこの先で渡すお土産も購入して満足する。

そして午後は、駅近くにあるバーに向かった。昼からバー?酒も飲まないのにバー?と言われそうだが、昼はカフェ、夜はバーのホルンというお店があるという。狭い入り口には、おしゃれにTea House Hornと書かれている。中に入るとバーカウンターがあり、奥にはテーブル席が意外とたくさんあるようだった。

このお店は、バーテンダー店長のMさんが和紅茶の美味しさに目覚め、夜の本業以外に昼間は和紅茶専門カフェとして運営しているというのだ。私は近年酒を飲まないのでバーに行くことはないが、バーカウンターでゆっくりバーテンダーとお話しながらドリンクを味わいたいという密かな欲求は持っていた。そういう人の気持ちを満足させてくれるのが、ホルンだったのだ。

Mさんがゆっくりと和紅茶を淹れてくれた。最近の和紅茶は物によっては非常に質が高い。そして和洋どちらのお菓子にも合うような気がしており、美味しく頂く。Mさんは若いころからバーテンをやっていて、既に10数年の経験があるという。そして和紅茶との出会いで、新たな可能性に目覚めた。こんなお店が全国にあればいいな、楽しいなと思ってしまう。

夕方5時を過ぎると、夜の営業準備に入るというので、この心地よい空間を退散した。また商店街に戻ってみると、土曜日の夕方で人混みがすごい。コロナなどどこ吹く風だ。夕飯に何を食べようかと悩んだが、前回滞在時に焼うどんを食べたので、今回はとりかつ丼にしてみたいと思う。さっきかしわうどんを食べたことなど完全に忘れ去られている。

ところがとりかつ丼で有名店だという店はなぜか夕方前に閉店となってしまっていた。検索すると同じ店の2号店が別の場所にあると知り、そこまで歩いて向かった。川沿いのショッピングモール内のフードコートのような場所にそれはあったが、こちらはなぜかかなり空いていた。とりかつ丼とみそ汁、サラダセットを注文。とりかつは甘みがあり、私の好みだった。九州北部の旅はこうして終わりを告げた。

九州北部茶旅2020(10)小倉城と清張記念館

7月18日(土)北九州散歩

朝は良い目覚めだった。この宿は新規オープンなのか部屋がきれいだ。この宿は長崎、佐賀と同じホテルチェーンだったが、驚いたことに料金はわずか1泊2000円。GoToトラベルの実施が延期になる中、なぜこんなに安いのか。何と北九州市は独自に割引キャンペーンをやって、ホテルなどを支援していたのだ。しかし9月末まで書かれており、この料金なら1か月6万円(朝食付き、駅近)で小倉に住めるな、などと下世話な考えが頭をもたげるほどの安さだ。実は今回博多は週末でホテル代が高かったのでスキップして、安い小倉に2泊することにしたという事情がある。朝食を見る限り、お客はそこそこに入っている。

朝食後散歩を始める。先ずは小倉城を目指す。数年前小倉に来た時は時間がなく、城の周囲を一周しただけに終わったので、今回はゆっくり、じっくりと歩く。常盤橋を渡る。ここは長崎街道の東の起点だと書かれている。先日行った長崎の起点はどこだっただろうか。佐賀は街道沿いを通ったが、今回の旅は長崎街道からは大きく外れていた。今はすっきり新しい街になっている。

お城の堀を眺めながら、先ずは今回の目的地、松本清張記念館を訪ねる。コロナの影響か、参観者は多くない。前回脇を通った時、是非入ってみたいと思った記念館、念願が叶った。松本清張は小倉生まれ(実際は広島?)で私が大好きな作家の一人。推理小説は映画やドラマ化もされ、最近のコロナ禍で『砂の器』や『点と線』など、テレビの再放送が続いている。

だが彼のもう一つの顔、歴史家という面が非常に興味深い。古代史物も面白いが、特に昭和前期の『日本の黒い霧』や『昭和史発掘』などは、研究者としての成果が散りばめられ、一般人が知らない歴史を知らしめたことが、大変参考になっている。私は大学生の時に1年ぐらいかけて清張の本は全て読んだと思っている(その殆どの内容は既に頭にない)が、その時彼はまだ生きており、今なら話を聞いてみたいテーマがいくつもある。

記念館はかなり広く、彼の経歴から映画のポスターまでその展示も多岐にわたり、また一部資料なども備えられていて、充実している。展示を見ながら思い出すことも多い。だが何といっても今回目を惹いたのは、杉並の清張宅から移送したという、再現された彼の書斎と書庫だった。書庫には膨大な書籍や資料が詰まっているように見える。私はもう多くの欲望を持たない人間だが、あんな書庫を持つほどに興味あることを調べて書いてみたい、と強く思ってしまった。

お城を見てみる。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘シーンの像がある。そうか、巌流島は小倉藩の領地だったのか。そして佐々木小次郎は細川家の剣術指南役だった。この小次郎はこの後の旅で再び登場し、非常に興味深い歴史に遭遇することになる。

立派な城の中に入り、上まで登ると周囲が一望できる。途中には歴史の説明が色々となされており面白い。ここは関ケ原で功があった細川忠興に領地が与えられ、彼が作ったもので、小次郎を雇ったのも忠興の時代なのだ。忠興といえば、奥さんは関ケ原のある意味犠牲となった明智光秀の娘ガラシャ(今年の大河ドラマは6月よりコロナの影響で休止中だが、芦田愛菜演)。そして利休の高弟、茶人細川三斎でもある。実に興味深い人物だと言え、ちょっと調べてみる意欲が湧く。

小倉城庭園にも行ってみた。大きな池にきれいな庭園があった。武家の書院とある木造の建物で庭を眺めながらお茶を頂くことも可能なようだったが、コロナで人はあまりいなかった。展示館も併設されており、ここは細川の後に藩主となった小笠原家による小笠原礼法に関するものが説明されていた。当時の小笠原家には宮本武蔵も仕えていたとか。小倉に移った小笠原忠真は晩年、黄檗宗に帰依。中国から渡来した即非如一禅師を開山として広寿山福聚寺を創建したというのも興味深い。

城から出て駅の方へ戻る。途中に商店街があった。4年ほど前、小倉に来たのは、辻利さんを訪ねるのが目的だった。京都からの分家である小倉辻利は現在台湾を始め、世界中に辻利の名前で店舗を展開しており、カフェやスイーツに力を入れるなど、最先端の面白い活動をしている。今回も社長にお会いして、聞きたいことがあったのだが、不在とのことで諦めた。以前は台湾人観光客などがわざわざ来ていたが、今や残念ながらその姿はない。

九州北部茶旅2020(9)博多にちょっと寄ってみて

7月17日(金)博多に短期滞在

今朝もいい天気だ。宿には朝食が付いていないので、迷わず飯抜き。食べ過ぎなのだ。駅まで荷物を引いて戻り、JR筑肥線で博多へ向かう。一度さっと乗り換える。車内は博多に近づくにつれて、急に人が多くなる。1時間半で到着する。今回博多には泊まらないので、先ずはコインロッカーを探して荷物を押し込む。

駅前から祇園の方向へ歩いていく。10分もかからず承天寺に着く。ここは鎌倉時代の臨済宗の僧、聖一国師が開山した寺だ。当時の博多の豪商、謝国明などの援助を得たらしい。聖一国師といえば、静岡茶の祖とも呼ばれているが、その史実はちょっと疑問らしい。ただ入宋中は杭州郊外の径山寺で4年ほど修行しており、ここで茶に親しんだことはほぼ間違いがない。先日京都へ行き、やはり国師が開いた東福寺も訪ねているので、何となく親近感が沸く。

国師は宋から、うどん・そば・羊羹・まんじゅうなどの製法を日本に伝えたと言われている。承天寺に「饂飩・蕎麦発祥之地」の碑があるのはそのためだ。博多ごぼてんうどんは私の好物だが、麺がフニャフニャなのは日本でここだけが当時の麺を維持しているのではないかと勝手空想してしまう。

また国師には博多で疫病が流行した時に、施餓鬼棚を弟子に担がせ、自らその上に乗って町中に聖水を撒き、疫病が退散したとの逸話があり、これが博多祇園山笠の起こりだとか。それで「山笠発祥之地」の碑も置かれている。いずれにしても当時のマルチタレント聖一国師の果たした役割は実に大きい。

そこから川端に向かう。実は今朝知り合いのZさんから連絡があった。彼女はコロナでずっと福岡にいたらしい。折角なので、ちょっと会おうということになり、ラーメン屋で待ち合わせた。ところが歩いて10分ほどの場所なのに、なぜか店に辿り着けない。仕方なく別の店に入り、ラーメンを食べた。それからカフェに移動して話し込む。

Zさんとは北京で知り合い、その後色々とご縁があった。今は福岡にも家があり、ここが気に入っているらしい。そして博多のお寺で写経するなど、すっかり馴染んでいる。何事にも探求心が強く、かなりのめり込むタイプなので、教えてもらう事も多く、話していて楽しい。

話は尽きなかったが、Zさんと別れてまた歩き出す。先ほど訪ねた承天寺の近くまで戻り、今度は栄西禅師が開祖、源頼朝が建立したという最古の禅寺、聖福寺に向かった。さすがに古刹、という雰囲気を醸し出す境内だった。栄西は宋から持ち帰った茶種をこの寺にも撒いたというが、その場所はよくわからない。僅かに茶筅を持ったユニークな茶筅観音があるだけだ。ここは広田弘毅の菩提寺でもある。文官で唯一絞首刑になった元首相は何を思ったであろうか。

バス停を探していると、立派なお寺に出会った。東長寺、真言宗の寺で、弘法大師が唐から戻り、ここで密教を祈ったらしい。福岡は日本の玄関口、そんな時代は意外と長かったはずだが、今ではその意識が薄れている。一度はこの町に住んでみたいと思うが、その機会は訪れるだろうか。

バスに乗り、指定された場所に移動した。福岡は地下鉄も発達しているが、バスも沢山走っており、どれに乗ってよいか迷う。バスを降りてちょっと迷いながら、とあるマンションまでやってきた。実は知り合いのYさんが、ここにマッサージ屋を開業したというのだ。

10年前北京に居た時は、Y夫人が腕の良いマッサージ師と共同でマッサージ店を経営しており、かなりお世話になっていた。だが今度はご主人が全く違うマッサージを始めたというのだから、ちょっと驚いて覗いてみることになった。マンションの一室に入ると、施術室がある。先ずはマッサージと言われ、恐る恐るベッドに横になる。

CS60というのだそうだ。ボールのようなものを体に擦り付ける感じで、北京で昔受けていた強い指の圧力とは違い、スーッと気持ちが良い。何だかウトウトしてしまい、気が付くと施術はほぼ終わっていた。特に体が悪いとの自覚もないので、ちょうどよい休憩となった。

別の部屋に移ると、Y夫人がお茶とお菓子を用意してくれていた。彼女は中国茶の茶芸師で、こちらも本格的だ。マッサージと中国茶が同時に味わえるところなど、ちょっと想像がつかない展開だった。そしてダラダラと過ごしていると、疲れも癒え、爽快な気分となる。夕飯も近所の焼き鳥屋で一緒に食べた。ちょっと昔話などをして、ちょっと今の社会について語っていると、あっという間に時間は経ってしまう。

今晩は小倉まで行かねばならないため、早めに切り上げてバスで博多駅に向かった。ロッカーから荷物を取り出し急いでホームへ走り、鹿児島本線区間快速に乗り込んだ。これで1時間半かけて、暗い中を列車は走る。午後10時前に何とか小倉駅に到着。今晩も駅近の宿を予約していたので、チェックイン。そしてシャワーを浴びるとすぐに寝てしまう。

九州北部茶旅2020(8)初めての唐津

唐津へ

佐賀駅まで送ってもらい、今度は唐津へ向かう。JR唐津線に乗れば1時間ちょっとで着いてしまう。今日は天気も良いので有難い。駅前の観光案内所に寄って、今日予約した宿の場所を確認して地図を貰った。唐津にはチェーンホテルはないようで、普通の宿を選んだが、駅から10分以上荷物を引きずって歩く。もうすぐそこにお城が見える。途中の商店街はコロナのせいか閑散としていた。

宿のチェックインは4時からしかできないと言われ、正直対応も今一つ、不満を覚える。預けた荷物もその辺に置き去りでちょっと心配だが、田舎では取られることはないのだろう。仕方なく外へ出た。ちょっと歩くと、イカの活き作り、の看板が目に飛び込む。私は一般的には豪華なご当地グルメとは無縁だが、イカは大好きなので、思わずその店に入ってしまった。驚いたことに外を歩く人はいないのに、店内は満員盛況だ。確かにイカは新鮮で食べ応えがあった。思わぬ散財だったが、気分は頗るよい。

これで元気が出た上、天気も良いので、唐津を歩き回ることにした。先ずは資料探しに唐津市近代図書館へ向かった。実に立派な建物だ。コロナ禍にも拘らず、係員に丁寧に対応してもらった。だが唐津出身の家永泰吉郎(台湾の日本統治初期の新竹県長)に関する資料は何も出なかった。何故だろうか。家永は日本統治初期の台湾で地方官僚として活躍した人物だが、その実像は掴めないままだ(後に家永は鍋島家の家臣筋だと判明)。

だが唐津には辰野金吾をはじめとして、多くの人材を輩出したことなど興味深い歴史が沢山詰まっていることが分かった。歩いているとその辰野金吾生誕の地があった。東京駅や日銀本店を設計した男はここで生まれたのだ。更に立派な建物があり、その重厚な構造に昔の銀行ビルだとわかる。旧唐津銀行であり、現在は辰野金吾記念館になっている。設計は金吾の弟子だという。中に入ると1階は広井銀行ロビーであり、2階に金吾関連の展示物がある。

唐津にはあの高橋是清の足跡もあった。唐津藩英学校(耐恒寮)で英語を教えていた。その生徒に金吾はじめ、その後の唐津を支えた有名人が出たというから驚きだ。因みに私は全く理解していなかったが、幕末の唐津藩は同じ佐賀県内ながら肥前とは異なり、幕府側に付いた負け組であったのだ。この逆境が辰野金吾などを生み出したとも言えるかもしれない。

それから唐津神社を見つける。その近くには唐津くんちの曳山展示場などもあった。お囃子のテープが流れていたが、何となく寂しく、そのまま通り過ぎてしまった。そこからずっと歩き出した。本当は秀吉の朝鮮出兵の基地、肥前名護屋城跡へ行きたかったが、バスに乗ることもできず、歩くには遠すぎた。

3㎞ぐらい歩いてようやく海に出た。往時の唐津港、そこには古めかしい建物が残されていた。明治末年に建てられた木造だが洋館風、旧三菱合資会社唐津支店本館で現在は唐津市歴史民俗資料館と書かれていたが、休館中で中を見ることはできなかった。その昔ここは石炭積出港として栄え、三菱が事務所を設置、三菱御殿と呼ばれていたとか。この建物の設計は三菱建築で、顧問は曽根辰蔵博士。彼もまた唐津出身で辰野金吾と共に高橋是清に学び、東京ではジョサイア・コンドルに建築を学んだ男だった。

帰りもトボトボと歩き、途中で古い大きな屋敷を通った。この町は予想以上に石炭で栄えていたに違いない。ようやく宿へ行き、チェックインを済ませたが、まだ外は明るかったので、再度外へ出て近くの唐津城に行く。かなりきついのぼり階段のところへ行くと、地元の高校生が何と階段ダッシュをやっており、私は登るのを止めた。とても若者に敵う体力はない。

だがそのまま帰るのも癪だったので、橋を渡り、虹の松原と書かれた方へ向かう。少し風が出てきたが、海を見るにはよさそうだ。だが海の近くは林に囲まれ、海辺には近づけない。何とか虹の松原の碑を見つけたが、林の中に埋もれている。疲れたので、帰ることにしたが、同じ道はつまらないと思い、橋を渡り、別の方向へ。

結局川の反対側をずっと歩いて、唐津駅まで戻ってしまった。疲れ果てた目の前に、『ラーメンランキング 佐賀県2位』の表示を見て、思わず入ってしまう。ラーメンは確かにうまく、そしてチャーハンもいい感じだった。街中で入れる店を探すよりも正解だったかなと思う。宿に帰る頃にはすっかり暗くなり、唐津の旅は終了となった。宿は古びたビジネスホテルで客もあまりなく、ひっそりと寝入った。

九州北部茶旅2020(7)有田焼から売茶翁へ

7月15日(水)ちょっと有田へ

朝早めに起きて、ゆっくり荷物を引きずり長崎駅に向かった。長崎駅も6年ぶりだったが、駅舎は工事中で、ホームも新しい方へ移動しており、意外と遠かった。今日は佐賀で泊まるのだが、その前に急に有田へ行ってみたくなる。だが時刻表を見ると思いの外、時間がかかる。Suicaは使えないので、切符を購入する。当然ながら特急などには乗らない。

長崎本線快速シーサイドライナーに乗ると、途中彼杵など茶処の駅を通過した。彼杵茶日本一などという宣伝も出ており、降りて訪ねたかったが、時間的に許されなかった。ハウステンボス駅を通り、早岐という駅で佐世保線に乗り換え約2時間、ようやく有田駅に着いた。ローカル線の旅は緩々としており、乗客も少なくて良い。

有田駅に降りたものの、特に当てがあるわけではない。取り敢えずコインロッカーに荷物を入れて外へ出た。観光案内所があったので、そこで地図を貰い、名所を聞いてみた。有田焼の博物館など、見どころは色々あったが、今日は時間が2時間しかないので、柿右衛門窯だけに絞ることにした。タクシーで行くことを勧められたが、当然歩いて向かう。

有田の街はさすがに焼き物を商う店がいくつもあった。雰囲気も悪くない。柿右衛門はちょっと郊外にあり、歩くと駅から30分ぐらいかかって大汗を掻いた。ようやくたどり着くと、敷地内にきれいなショップがあったが、こんな時期の平日だからか、店員さんはいなかった。裏へ回ると展示館があり、何とか柿右衛門の歴史などを見ることができた。出島にあった東インド会社の皿も展示されていた。

きれいな庭も見えたが、雨が強く降り出した。工房もあるようだが、見学はできない。というより人が誰もいなかった。同じ道を帰るのもなんだと思い、少し回り道をしようとしたところ、何と山登りになってしまった。かなり急な坂を喘ぎ喘ぎ何とか登り切り、下りに入ると、古めかしい民家がいくつも見られた。更に古い町並みが残る辺りを散策しに行こうとしたが、時間切れで駅に戻った。

佐賀で

有田駅からまた佐世保線に乗り、佐賀まで行く。今度は1時間もかからずに到着。駅横のホテルを予約しており、そのままチェックインして荷物を置くと、すぐにまた外へ出る。午後はくれはさんを訪ねることになっていたので、もうすっかり馴染んだ道を歩き始めた。お店の付近は古い町並みの保存地区でなかなか良い。

お店に行く前に寄りたいところがあった。実は京都でも追いかけたあの売茶翁についての情報が欲しかった。売茶翁はここ佐賀の出身であり、彼がいた寺もあるはずだった。それを知る手掛かりとしては、やはり肥前通仙亭(高遊外売茶翁顕彰会)へ行くのが良いと思われた。以前に一度訪ねたが、その時は売茶翁がどんなお茶を飲んだのかだけに興味が絞られており、有益な情報は得られなかった。

肥前通仙亭の敷地に行くと、売茶翁顕彰碑がそこにあった。中に入ると、丁寧な説明があり、そして売茶翁直筆の書などが展示されているのを見ることができた。売茶翁は佐賀にいたんだな、という意識が芽生えた。だが売茶翁が出家した龍津寺を訪ねたいというと『今は寺自体がなく、その場所を探すのも地元の人でないと分からない』と言われてしまった。

その足でくれはへ行ってみる。実は今日はちょうどMさんの講座が開かれており、その終わる頃を見計らって挨拶に行った形だ。会場は満員盛況で、お知り合いも何人も参加していた。Mさんとは先月京都で会ったばかり。まさかまた佐賀で会うとはご縁がある。皆さん熱心に質問しており、関心の高さが分かる。

夕方になり、講座参加者も散会し、Mさんも福岡へ去っていった。そしてOさん夫妻とお嬢ちゃんと一緒に夕飯に連れて行ってもらった。午後5時半から美味しい物を頂き、何だか楽しい夕飯だった。売茶翁の寺は明日Oさんが連れて行ってくれることになり、更に一安心となる。車で宿まで送ってもらい、早々に休む。

7月16日(木)売茶翁の寺

翌朝宿で朝食を食べた。実は長崎と同じホテルチェーンで料金もそれほど変わらない。だが朝食の取り方は、長崎がビニール手袋をしてビュッフェ料理を取るのに対して、こちらは既にラップされているパンや食べ物をプレートに載せて食べる方式だった。ホテルごとに色々と工夫しているのが面白い。

Oさんと龍津寺へ向かった。バスでも何とか行けるが本数が少ない上、バス停から寺まで分かり難い。車で20分ほど郊外に出ると、周辺には田んぼなどが現れる。Google地図に寺の名前は出ていたが、なかなか行き着かない。何と本当にこの寺に本堂はなく、お墓があるだけだった。そこに比較的新しい売茶翁顕彰碑が顕彰会によって建てられているのだ。やはり歴史というのは簡単には見えてこない。

くれはの近くの旧古賀銀行(佐賀市歴史民俗館)の中で、Oさんと紅茶を飲んだ。ここはいかにも昔の銀行という雰囲気が漂っており、大正ロマンを感じさせる場所だった。ここで日本紅茶の歴史を探す旅について、話が盛り上がり次回の再会を約す。