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奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(5)吉野からなぜか堺へ

2時間があっと今に過ぎてしまい、名残惜しかったがお暇した。先ずはご飯を食べようと、道路沿いを走り、みるりいな、というおしゃれなお店に入る。店の名前は二人の娘さんの名前だそうで、店内も如何にも子供が喜びそうな作りになっていて、遊び場まである。ここで熊野牛のランチを頂くべきところ、なぜか唐揚げを食する。十分満足なボリュームで満足。

午後は熊野本宮を参拝する。一度は熊野古道を歩いてみたいと思いながら、全く果たせていなかったので、1つでも行けたことはうれしい。さすがに古びた落ち着きのある神社だと思うが、何しろ階段が多くて非常にきつい。八咫烏があちこちにデザインされているのはやはり熊野だ。脇道を歩いて降りると、如何にも古道という雰囲気が漂い心地よい。

その後また十津川温泉に戻り、朝Uさんが情報収集した店を訪ねた。そこは村のコミュニティスペースのようで、地元の人が食べるパンなども売られ、外には足湯ができるスペースもある。お店の運営も村民が交代でおこなっているらしく、そこで飲み物を頂き、おやつを食べる。自家製?釜炒り茶も販売されているが、近年お茶を作る人も減ってきているようだ。

奈良に戻る途中、玉置神社に寄る。ここは山の上にあり、周囲がよく見えた。参拝客はほぼいないので、表示を頼りに行くが、意外と奥が深く、自然林に囲まれた山道をかなり歩く。ようやく神社を参拝したが、近くには夫婦杉という大木があるなど、さすが吉野、という山奥さがとても神秘的だった。神社というのはすぐ目の前に現れるものではないと実感する。帰りは夕日を浴びてまぶしい。

そこからYさんの家の方に戻るには相当の時間がかかった。夜もかなり遅くなったので、最寄り駅付近の中華レストランで夕飯を食べることになった。何だか中華盛り合わせのような定食、奈良では定番のチェーン店なのだというが、如何にも日本の中華という感じで、これはこれで美味しい。夜はまたYさんの家に泊めて頂き、既に慣れた寝床で、ゆっくりと寝る。

10月15日(木)堺へ

今回の茶旅はここまで。そして今朝は帰路に就くUさんの車に乗せてもらい、Yさん宅を離れ、堺へ向かった。先日水を汲みに行った井戸のあたりから大阪がよく見えたので、堺も近いと思ったのだが、ここには高速道路もなく、また電車路線も全てが大阪方面に向いているため、どこかの駅から電車に乗っても、必ず一度大阪方面へ出なければならないと知る。

1時間以上下道を走って、何とか天下茶屋という駅に着き、ここでUさんとお別れした。今回もUさんには大変お世話になったが、この車の中で、これまでちょっと疑問に思っていた方について、詳細が聞けたのは大きかった。既に亡くなってしまった方でも、やはりお茶のご縁というのは、どこにでも続いているようだ。

天下茶屋から堺までは関空行きに乗ればわずか6分で着いてしまった。堺は歴史上非常に重要な場所であるとは認識していたが、今まで一度も来たことがなかった。今回は関空から東京へ戻るので、ちょっと寄り道気分で降りてみた。宿も駅のすぐ横にあるチェーンホテルにしたので、荷物を預けて出掛ける。

さっきまで車に揺られることが多く、自分の足で都会を歩いてみると、日差しが強く感じられた。さて、どこへ行こうか。宿で堺の地図を貰い、何となく歩き出す。先ずは利休の足跡かと、利休屋敷跡を目指す。途中龍神橋町などという地名に遭遇すると、何とも言えずテンションが上がる。

利休屋敷跡に到着すると、そこは新しく定められた場所のように古さが感じられない。ガイドさんに呼び止められ、中を見学するが小さな庭と記念碑、そして井戸があるだけだった。堺の街というのは江戸初期の大坂の陣でほぼ焼け落ちてしまい、今に残る建物は殆どないのだとここで知る。ガイドさんに『ほかに利休に関する場所は?』と尋ねると、南宗寺に行くようにと言われる。

この界隈には戦国時代に堺の町衆として権勢を誇った大商人たちの屋敷が連なっていたに違いない。今井屋敷跡の看板が目に入る。今井宗久は織田信長との関係を深めて富を築いた商人であり、また茶人としても名が知られていた。その息子宗薫も秀吉、家康に仕えたが、後に内通の罪で家を没収されてしまったという。

武野紹鴎屋敷跡はもっと目立たない。だが彼こそは、今井宗久、津田宗及、千利休、三茶人の師匠に当たり、村田珠光の茶の湯を伝えた。今井宗久はその娘婿として茶道具などを譲り受けたともいう。このあたりの堺の人間関係なども含め、もう少しきちんと勉強してみる必要性を感じる。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(4)熊野の釜炒り茶

お昼時になったので、近所の食堂の場所を聞き、そこへ向かった。田舎では平日開いている食堂は少ないのだという。少し行くと、なんだかとても立派な蕎麦屋さんがあったので驚いた。意外なほどお客さんがいて、車の停車にも困るほどだった。中に入ると、大きなお座敷や縁側もある。蕎麦などを注文したのだが『ゆっくりお待ちくださいね』と言われ、外のいい景色を眺めたり、部屋の飾りや庭を見たり、話をしたりして過ごす。

何と注文した物が出てきたのは1時間半後だったので、さすがに驚いた。事情を聞いてみるとご主人が一人でやっており、いつも平日はお客さんも少ないのだが、今日だけなぜか突然客が来てしまい、全く手が回らない状態だったという。お客の方も、他に食べられるところがないので、皆がここに集まり、帰る人もいなかったらしい。確かに商売というものは予測不能で難しいが、ちょっともったいない気もした。

店で出ると既に午後3時になっていた。30分ぐらい走って、お寺に着いた。ここは南朝後醍醐天皇ゆかりの金峯山寺だという。ここ吉野は後醍醐天皇や大塔宮が足利尊氏らと争う際の南朝方の拠点であり、その歴史的な物は沢山あるのだろう。この寺だけでも、色々と説明書きがある。だが何といっても本堂の古びた太い柱に非常な迫力が感じられる。中に入ると研究者のグループが何か調べており、その横をすり抜けて見学する。

本当は吉野の歴史、ものすごく興味があるのだが、もしそれを巡ろうと思えば、自分で車を運転して、かなりの時間を掛けなければならず、それは今の私には無理なのだと現地に来てよくわかる。メインはお茶なのだが、歴史に絞った旅をしたい、という気持ちはこういう場所へ来ると高まるが、如何ともし難い。

ここで大阪へ帰るMさんと別れ、我々3人はYさん運転の車で、本日の宿泊地を目指すことになる。途中恐ろしげなつり橋が見える。私は高所恐怖症で何よりつり橋が苦手だ。十津川村谷瀬の吊り橋、と書かれている。長さ300m、高さは54mもある。二人は写真を撮るため、スタスタと橋を渡っていくが、私は最初の2歩でギブアップし、不格好な写真を撮られる。

午後6時半、十津川温泉に着いた。旅館に宿泊するのは久しぶりだ。GoToトラベルで賑わっているかと思っていたが、今晩この宿に泊まっていたのは、我々以外に一人だけだった。『GoToは大手旅行社を救済するためのもので、小規模の宿には恩恵はあまりない』とご主人はいう。我々は確かにかなりの割引を受けて泊まり、美味しいご飯を頂くことができたのだが、これはどういうことだろう。

先ずはゆっくりと温泉に浸かり、疲れを癒す。それから地元で採れた山菜などをふんだんに使ったキノコ鍋、漬物などを堪能した。最近はなかった贅沢を感じる。こちらの若いご主人が山で採ってきたものも多いという。山の幸、ありがたい。だがこういう宿に継続性があるのかどうか、ちょっと心配になってしまう。

10月14日(水)熊野で

朝からお風呂に入り、出てくると朝ご飯。なんともいいね。しかもこの宿が選ばれた理由が『茶粥』が食べられることだった。昔はどこでも食べていたというが、忙しい現代人の生活から茶粥はどんどん遠いものとなり、今ではごく一部のお年寄りが食べているだけだという。川魚やウマい漬物と一緒に食べると実に美味しい。満足な朝のひと時。

出発時間になっても二人はどこかへ行ってしまい、待たされる。私もちょっと散歩してみたが、温泉宿が数軒あり、その向こうに川が流れていた。二人は朝からこの辺の情報収集に余念がなく、その中には茶に関する物もあり、午後ここに戻ることにして、先ずは熊野へ向かう。

30分ぐらいで熊野本宮大社付近に着いた。今日お訪ねするUさんの住所を訪ねてみたが、残念ながら不在だった。電話してみると、茶畑にいるというので、川沿いで待ち合わせて、迎えに来てもらう。Uさんの車に乗せてもらうと、狭い橋も坂道もスイスイ進むからすごい。

Uさんは今年88歳というが何ともお元気だ。ご夫妻はもう50年以上、ここで釜炒り茶を作り続けている。昔は蒸しの緑茶も作っていたが、今は天日干し釜炒り茶の需要があり、多く作っているのだとか。以前は生活していたという家(今は作業場)があり、その横には温室のような建物がある。そこで茶葉を干しているのだろう。その横には随所に自ら手を入れたという揉捻機や釜もある。

少し上にある茶畑にも案内してもらった。Uさんは杖をついてはいたが、歩くスピードは私より速い。熊野の山がよく見える、元気な茶畑を目にして喜んでいるのはYさんとUさん。二人ともお茶作りを実際にしている人なので、話も具体的になり、皆が生き生きと話している。こういう交流は予想外だが楽しい。この二人、来年はここに手伝いに来るかという勢いだ。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(3)吉野 天日干し番茶の里へ

お店は不定期開店のようだったが、事前に連絡していたので、快く迎え入れられた。泊めてもらっているN夫妻も誘っていたが、『営業中』に表示がなかったので、中に入って来られなかったようで申し訳ない。このN夫妻もこちらには初めてきたようだが、この業界の人間であり、お互いのことは既に知っており、紹介する必要もなかった。

それからとても心地よい店内で、何種類ものお茶を出して頂き、中国の茶旅など、取り留めなく話し続けた。Y夫妻も中国留学組であり、中国関係の話、そして中国茶のディープな話に際限はなかった。話はポンポン飛んでいき、N夫妻は目を白黒させていたに違いない。今度夫妻でゆっくりお店を再訪して、陶芸の話などをしてもらいたい。

コロナでイベントなども出来ず、お客さんの往来も少ないというが、既に確固たる地盤を築き、良質の茶を提供しているので、被害は少ないかもしれない。私もこの春、心樹庵セレクトのお茶を初めて注文し、配布を受けた。その多彩な、個性的な茶を一体どのようにして探してくるのか興味があり、今日具体的な話を聞いてみた。その一端を理解したが、その努力は他人にはとても難しい領域だと言わざるを得ない。まさにオンリーワン。

あっという間に3時間ほどが過ぎ、話し足りないと思いながらお別れした。Nさんの車でおうちに帰り、今日も泊めて頂いた。夜は京都から戻ったUさんも合流し、近所の温泉でゆっくりお湯に浸かった。そしてそこの夕飯、名物海鮮丼を食べた。奈良の山の中で美味しい海鮮丼、素晴らしい。

一度家に帰ったが今日はまだ終わらない。水を汲みに行くというので、また車で出掛けた。やはりお茶にはよい水が必要。近所の山中に『弘法の霊水』と書かれた水汲み場があった。そこはまた大阪の夜景が見えるスポットにもなっており、思いの外車が停まっていて驚いた。デートスポットらしい。家へ戻ると昨晩の反省を踏まえて早めに就寝する。

10月13日(火)吉野の天日干し番茶へ

朝、Uさんが京都で買ってきてくれたお団子を食べた。デザートはメロン。朝から満腹で出発する。いよいよ今日は吉野に向かう。奈良には何度か来たと言っても、吉野に行くのは初めてで、歴史好きにはちょっとワクワクする。先ずは近くの駅でMさんと待ち合わせ。Mさんとは大阪セミナーのお知り合いでお誘いしたのだが、Yさん、Uさん共にお茶イベントで既に顔見知りとか。やはりこの世界はかなり狭い。

私はMさんの車に乗せてもらい、吉野へ向かった。途中の話題は昨年来の客家についてとなる。昨年12月Mさんの導きで客家専門家に会うことができ、特に台湾客家への関心は高まっていた。またMさんの今後の事業計画、コロナ禍の対応などを聞いていると、とても面白い。初めは高速道路のようなところをスピーディに進み、そこから山道に入っていく。1時間ちょっとで目的地付近に到着した。

吉野郡大淀町、そこは山間の村で、何軒かの家が見えた。Mさんは急な狭い坂を難なく上り、皆に驚かれる。彼は昔配送ドライバーをしており、このような状況には慣れているというのだが、実に器用な人だ。登りきると目の前にかなり立派な家があった。今日は嘉兵衛本舗というお店を訪ねることになっていたが、お店というよりご自宅に行ってしまった。最近建て替えたとのことで、とても豪華な家で天日干し番茶を頂く。

こちらはお父さんと三姉妹が運営しているとのことで、今回ご連絡を取った広報担当の次女の方が丁寧に対応してくれた。天日干し番茶、今では作られることも少ない伝統的なお茶に惹かれてここまで来た。約170年前、森本嘉兵衛という人が作り始めて6代が経っているという。最盛期は300軒あった茶農家も現在は5軒が残るのみとなったと聞くとやはり寂しい。

お茶の話だけではなく、過疎化による地域の活性化などにも話題が及ぶ。Mさんなどは真剣に過疎地域への転居を考えており、話が弾む。お茶を通じてこのような交流が実際に行われるのを見ると、色々と展望が開けていくような気がした。

例年であればちょうど今頃、茶葉を天日干しする番茶作りの作業が行われているというが、今年は天候の関係で、天気は良かったのにまだ始まっておらず、結局見ることはできなかった。代わりに茶畑に案内してもらい、見学する。周囲を木々に囲まれた狭い土地に茶樹が植わっており、茶葉が元気に伸びていた。また工場の製茶機械なども拝見した。昔の日本の山中はどこでも番茶を作っていたのだろうと思わせる風景だった。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(2)奈良を歩く

因みにYさんとは初対面だったが、何と彼女は3日前にNHK西川きよしの番組に出演しており、初めて会った気がしなかった。彼女は抹茶アートをやっており、その活動が認められ、呼ばれたようだ。コーヒーのラテアートはよく見るが、抹茶で行うとは初めて聞く。だがこれは中国の宋代からある伝統的な技法らしい。これについては少し調べてみたいと思った。

その新婚さんの家に私とUさんがまさにお邪魔してしまったわけだ。それにしてもこの古民家、2階の天井が低いなど、往時はどのように使われていたのか、その歴史が知りたくなる逸物でとても魅力的。そしてNさん制作の急須や茶碗なども置かれており、お世話になるには大変興味をそそる家だった。夕飯は2階で美味しく鍋を頂く。それから私が調子に乗って暴走茶旅話を展開してしまい、全員を寝不足に追い込んだ初日となった。

10月12日(月)奈良を歩く

今朝は短時間睡眠なのに寝覚めが良かった。広い縁側には陽の光がまぶしい。今日は京都へ行くUさんと別行動となり、私は和束へ向かうYさんの車で平城京跡まで連れて行ってもらい、そこから一人散歩が始まった。平城京といえば、奈良時代が始まった710年に遷都された都。唐の長安を模して碁盤の目のような道が並んでいたというがどうだろうか。今やその様子は全く分からない。

こういう話は資料館へ行けばすぐに分かると思ったのだが、何と今日は月曜日で休館だった。仕方なく、広々とした跡地を歩き回る。私は裏の方から入ったようで、正面の近い場所では、復元工事が行われており、往時の様子が見られるようになりそうだ。正門である朱雀門は復元されている。そして遣唐使船が復元されておかれている場所があり、当時の遣唐使に関する資料が展示されていた。だが残念ながら平城京を上手くイメージできなかった。

平城京跡からトボトボと歩く。30分ほど行くと、鑑真和上が建立した唐招提寺に到着した。このお寺、修学旅行で来たかもしれないが、名前だけで全く覚えていない。最近は鑑真を日本に呼んだ僧侶などの歴史も勉強しており(最澄、空海より前の遣唐使で茶を持ち帰った者はいないのか)、唐招提寺にも興味が出た。

この寺は戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として作られた。そもそも鑑真が日本に呼ばれた理由は、日本には仏教は伝来していたが、戒を与えられる僧がいなかったため、仏教が乱れていたことによるという。現在でも奈良時代建立の金堂、講堂、宝蔵などが残されており、世界遺産となっている。

どんどん奥まで歩いて行くと、木々に囲まれた中に、鑑真和上のお墓、御廟がひっそりとある。元々コロナで参観者は多くないが、ここの静寂、風情はとても良い。鑑真については井上靖の『天平の甍』などに詳しいが、我々の想像を遥かに超えた壮絶な世界を思い描いてしまう。

更に10分ほど歩くと薬師寺があった。この寺は天武天皇によって飛鳥に建てられたが、平城京遷都で奈良に移された。東塔は奈良時代から現存するというが、何だか疲れてしまい、門の前を曲がると鉄道の駅(近鉄橿原線西ノ京駅)が見えたので、電車に乗ってしまった。

一度乗り換えて近鉄奈良まで30分ぐらいで行けた。駅には行基の像が建っている。そこから緩やかに坂を上ると興福寺に出る。興福寺といえば奈良公園の鹿、というイメージはあるが、寺自体をじっくり見たことはなかったように思う。興福寺は710年平城京遷都共にここに移された(建立された)藤原氏の寺。その後歴史の舞台には何度も登場する。遣唐使として渡った僧たちもここに関連しており、茶の将来との何らかの繋がりがあるのかもしれない。

急な階段を上ると、そこに何とも形の良い南円堂があった。観光客は少ないが、ここでは熱心にお参りしている人の姿が見られる。続いて中金堂が見える。今日は天気が良いので、いい雲が流れ、何となく映える。五重塔も健在だ。興福寺はかなり敷地が広く、ゆとりがあるため、公園を歩いているような気分になる。観光客がいないので、鹿も暇そうにしている。

東大寺まで歩こうかと思ったが、疲れてしまい、目の前にあった立派なスターバックスで休む。昨晩車で通りかかり、きれいなライトアップが気にかかっていた。外の席に座り、ただボーっと景色を眺めているのがとても心地よかった。東大寺他の寺へ行くのは諦めて休息に努める。やはりStay Homeで体力が落ちていることを痛感する。

午後は以前より一度は訪ねたかった茶荘、心樹庵へ行く。途中奈良茶飯などの看板に心ひかれたが、店は開いていなかった。奈良駅からほど近くには、昔の街並みがしっかり残っていた。そしてその中にひっそりお店はあった。これまで毎年1度、東京のエコ茶会で短時間顔を合わせるだけだったが、店主のYさん夫妻とはどこか通じるものがあり、是非ゆっくりお話したいと思っていた。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(1)遠い仏隆寺へ

【奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020】 2020年10月11日-15日

GoToトラベルなる、国策旅行業救済事業が東京にも適用された。この国のコロナ対応は一体どうなってしまうのか、と首を傾げたくなるが、少なくとも日本政府は旅行を禁止するのではなく、奨励することを表明していることには違いはない。海外に行けない今、感染対策を十分にしたうえで、業務上やむを得ず国内の旅に出ることにした。今回は以前より話があった奈良、和歌山方面へ向かう。山の中のお茶生産の様子を見られれば、そしてその地域の歴史に触れられればと思う。

10月11日(日)京都で

今日は奈良へ向かうことになっていたが、直前に同行してくれるUさんから連絡があり、待ち合わせ場所が京都に変更になったので、ゆっくり家を出て新幹線に乗っていく。満席ということはなかったが、それなりに乗客がおり、6月に乗った時とは雰囲気もかなり違って見えた。やはりGoToトラベルの影響は大きのだろうと感じる。

京都駅でUさんと会った。Uさんのお知り合いが二人、そして私も知るHさんも同席して、駅ビル内でランチを食べた。どうやらこの4人はあるプロジェクトを一緒にやる予定らしく、その打ち合わせを兼ねて集まっていたらしい。そこに私が割り込んだ形となってしまい、恐縮した。

Oさんは、韓国との交流を進行している方で、幅広い人脈を持っているようだ。今回はその韓国との交流の中で、茶が取り扱われるという。韓国茶の歴史、以前少し眺めて見たことがあるが、どうにも掴みどころがない。難しいので止めてしまい、それから5年以上、韓国には行っていない。

東京方面に戻るHさんと別れ、あとの4人で、奈良の寺へ行くことになった。奈良の寺でお茶の歴史といえば仏隆寺でしょう、と言われ、よく分からないが、付いていく。京都からUさんの運転、私が助手席でナビゲーターを担当したが、慣れていないので、なかなか上手くできない。そしてその寺のある場所が奈良と言っても結構遠くて、いつになっても着かないで困る。道を間違えてかなりの山道を入ってしまうが、そこにはちゃんと茶畑があって、写真も撮れたりはするのだが、どうにも締まりのないナビをしてしまいまた恐縮した。

最後はOさんのナビで、目的地仏隆寺に着いたのは、京都を出てから3時間近くが経っていた。まさかこんなに遠いとは奈良、おそるべし。しかしこの付近、何とも味のある山里で、心が和む。あまり和んでいると、お寺が閉まってしまうと思い、秋の夕暮れを走っていくと、いい雰囲気の門はまだ開いていて助かった。これだけ苦労してやってきて、閉まっていたでは報われない。

境内もいい雰囲気に古びており、奈良の古寺を巡礼する気分になる。だがお寺に人影はなく、本堂は固く閉ざされていた。隙間から中を覗いても、暗くて何も見えない。10年前にここに来たことのあるUさんによれば、このお寺には空海ゆかりの茶臼があるというのだが、もう時間も遅いし、私は早々に見るのを諦めていた。

だがUさんは違う。根性が違うのだ。お寺から出てきた奥さんを捕まえて、何とか茶臼を見せてもらうまでに漕ぎ着けてしまう。ただ奥さんから『本堂には灯りがないので、写真は無理かも』と言われていた。それも写真家だというOさんが照明を点け、撮影してしまった。なんだかすごいな。ただこの茶臼が空海の時代のものであるかと言われれば、私には全く分からない。

それより興味を惹いたのは、本堂の背後にあった空海の高弟、堅恵の墓とされる五輪塔が立つ石室(国重要文化財)だろう。平安前期の宝形造という珍しいもので、何だか沖縄の王の墓を思い出した。やはり中国洋式だろうか。そもそもここ仏隆寺はこの堅恵が創建したといわれる古刹。空海とのご縁もあり、茶臼の話も出てきたのかもしれない。でも奈良からここまで歩いたら大変な道のりで、茶臼を担いで来たとすれば大変な作業だったろう。

夜の帳は急速に降りていき、我々の車は急いで山を下りていく。帰りもUさんの運転で何とかやってきたが、島根の山中に住むUさん曰く、『奈良の山道は街灯が少なく、何とも暗くて怖い』と、慎重な運転となっていた。1時間半ぐらい掛けて、近鉄奈良駅まで辿り着いた時は、結構疲れてしまった。そこでOさんたちとお別れして、我々は今晩泊めて頂く、Uさんのお知り合いの家を目指す。

奈良駅から近いと思っていたが、また悪戦苦闘のナビが始まり、1時間近くかかって、車が山の中に突入していく。こんなところに、という場所へ行くと、ようやくNさん宅に着いた。Uさんのお知り合い和束のYさんが陶芸家のNさんと結婚して、この雰囲気の良い古民家に住んでいるというのだ。

大磯茶旅2020(2)大磯歴史散歩、そして藤沢へ

毎年楽しみに見ている箱根駅伝はここを走っているんだな、と思いながら、海が見たくなり、その先を入っていく。こゆるぎ緑地と名前があった。既に陽が西に傾いていたので、駅の方へ戻る。駅から線路沿いに伊藤博文が尽力して作られたという道がある。ここは伊藤が初代韓国総監になったことから、総監道と言われているらしい。旧島崎藤村邸もあり、晩年藤村はここで過ごし、ここで亡くなったという。

朝方立ち寄った鴫立庵、そこの前には『湘南発祥の地』という記念碑があった。私も一応数年間湘南で育っているので、何となく感慨深いものがある。これを見て何となく元気が出てしまい、更に歩き続けた。新島襄終焉の地、同志社を設立した新島は、徳富蘇峰や妻八重に看取られて、ここで亡くなっていた。更に地福寺という寺で、島崎藤村の墓に参る。意外と小さなお墓だったのに個性を感じる。

ようやく駅まで戻ると、おしゃれな洋館が建っていた。今はレストランのようだが、大磯の別荘文化を代表する建物として残されているらしい。こうして歩き回ってみると、確かに大磯には歴史的な、興味深いものが沢山ある。だが、別荘などの建物が残っていないため、そこまで目立たない存在となってしまっている。

今回T夫妻から、湘南紅茶とパウンドケーキをお土産に貰い、家に持って帰って美味しく頂いた。Tさんは以前より山北の茶畑を管理して、茶作りをしているが、実は今日訪ねた公園の海辺に、何と茶樹を植えようとしていた。なかなか厳しい環境に見えるが、もしこれが成功すれば、本当の湘南紅茶が出来そうで楽しみだ。

10月5日(月)再び大磯へ

実は大磯に行ったことをFBにアップしたところ、知り合いのIさんから、『鴫立庵には孫文ゆかりの仏像があるはずだ』とメッセージがあった。しかし前回の訪問では、それは紹介されなかったから見ていない。そのことをYさんに確認すると、確かにある、というので、Iさんと一緒にもう一度大磯を訪ねることになった。

前回大磯を歩き回ったお陰で、鴫立庵までの道も頭に入っていた。現地でIさんと合流し、既に待っていてくれたYさんの案内で、T夫人も参加して、そのお堂を見に行く。それは奥まった一角にあり、中の仏像も拝見することができた。Yさんによれば、その来歴は言い伝えられているものの、それを証明する資料などがないことから、誤解を招かないよう、特に案内はしていないという。確かに孫文ゆかりとなれば、中国人を含め、興味を持つ人もいるとは思うが、歴史に非常に興味を持っているYさんが紹介するとなれば、やはりそれなりの根拠が欲しいのは当然だろう。

鴫立庵の横にレストランがあり、ランチを食べることになった。ここから鴫立庵の雰囲気の良い庭や建物が見え、何となく借景という言葉を思い出す。ここのとんかつ、サクサクしていて美味しかった。テラス席などもあり、また来てみたい場所となった。Iさん、Tさんと楽しくお茶談義などおしゃべりして、時間がどんどん過ぎていく。

今回はこれで大磯を離れた。そして向かったのは藤沢。実は辻堂に住んでいた関係で、小さい頃はよく藤沢駅にも来た記憶があるのだが、恐らくこの駅の改札を出るのは、40年ぶりぐらいではなかろうか。駅のところに、さいか屋という百貨店があったのを覚えているが、今もそこにあったのには、ちょっと感動した。今回はそちらではなく、小田急百貨店を目指す。

実は前回小田原で出会った漢方ブレンド茶が無くなってしまい、Tさんに注文しようとしたところ、ちょうど藤沢の催事に出店しているというので、お茶を取りに行ったわけだ。コロナ禍のこの時期に、オープンスペースで催事をしても、お客さんは来るのだろうか。Iさんと一緒に行ってみると、確かに人は多くはないが、明らかにこの催事を目指してやってくるお客さんたちがいた。

Tさんによれば、『お茶の試飲などができないので、新規のお客さんへのアピールはちょっと難しいが、お馴染みさんも多く来てくれて、出店してよかった』と言っていた。他の店を覗いてみると、何と先日大磯でお土産にもらったパウンドケーキが売っているではないか。思わず声をかけると、『今日は大磯の店を閉めて、こちらに出店しています』と有名な三日月姉妹がそこにいたので、びっくりした。これもご縁だなと、また買い込んでしまう。

帰りは同じ方向のIさんと途中まで一緒に行く。Iさんは校正などをしており、仕事でもお付き合いがある人。やはり仕事柄、目を使うことが多いようだが、1日のPC使用などを制限していると聞いた。私もそろそろ目がヤバい。いくらTさんのブレンド茶が効くと言っても、やはり目の使用を制限する必要があるだろうと痛感しながら家に戻った。

大磯茶旅2020(1)鴫立庵と吉田茂邸

《大磯茶旅2020》  2020年9月19日、10月5日

先日小田原に行った時、大磯でお茶作りをしている人がいるとの話が出た。よく聞いてみると、その奥さんは私も知っている人だというではないか。何となく神奈川茶の旅を続けたいと思い、大磯にも行ったことがなかったので、訪ねてみることにした。

9月19日(土)大磯へ

大磯駅は想像よりはるかに小さな駅だった。実は子供の頃、辻堂に住んでいたことがあり、東海道線には馴染みがあったのだが、ここ大磯で降りたことは一度もなかった。そしてここは高級別荘地帯というイメージがあり、駅舎も立派なものを想像していただけに、ちょっと拍子抜けしたわけだ。

駅にはT夫人が迎えに来てくれていた。T夫人とは何と札幌で会って以来、数年が経過しており、札幌で紅茶館を経営していた彼女は、いつの間にかTさんと結婚して、大磯に移り住んでいた。お相手のTさんは以前より茶業を志しており、そこに共通点があったようだ。私は札幌でセミナーを依頼された時、主催者から『紅茶関連はこちらで』と言われて、T夫人と知り合った。お茶のご縁である。

駅前にはTさんが車で待っていてくれ、先ずは鴫立庵に連れて行ってもらった。実に雰囲気の良い茅葺屋根の建屋が見える。鴫立と聞けば、西行法師の『心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮』を思い出すが、何とここはその句が詠まれた場所ではないかということで、その名が付いたという。

しかもそれを言い出したのが、江戸時代初期1664 年に小田原の崇雪(そうせつ)という人物だったというのが引っ掛かった。彼は小田原の外郎屋と関係があったと言い、興味は尽きない。そんなことをここの責任者のYさんから伺いつつ、見学した。Yさんも歴史好きで、色々と詳しい歴史を説明してくれるので、思いの外、長居してしまった。

法虎堂には、曽我物語で知られる曽我十郎の恋人が祭られているという。大正天皇の奥方で、昭和天皇の母である貞明皇后も来訪の記念碑が建っている。この皇后の歴史、ちょっと興味あり。幕末の蘭学医、松本良順の墓碑があるのはなぜだろうか。鴫立沢の標石(レプリカ)も置かれている。実に様々な時代の歴史が詰まっていて面白い。

T夫人はここで定期的にお茶会を開いているらしい(コロナ禍で開催が難しくなっているようだが)。ただ歴史的建造物なので、火を使うことは許されず、T夫人お得意の紅茶などを淹れているという。T夫妻がここに住んでいるのは、Tさんが隣の平塚出身だかららしい。

続いて、大磯郷土資料館へ行く。ここに先ほどの鴫立沢の石碑があると聞いていたが、何と外にポツンと置かれており、意外だった。資料館の展示では特に、大磯ゆかりの人物たちを知り、その別荘文化について学んだ。大磯の別荘というとどうしても吉田茂邸がイメージされるが、実はそれだけではなかった。

大きな公園を歩いて横切り、その吉田茂邸へ向かう。ここで日本の政治は動いていたのか。だが残念ながら数年前に火事になったと聞いている。勿論見事に建て直されており、サンルームと共に立派で広い日本庭園が目を惹く。広い庭を歩いていくと、海が見える場所には吉田茂像が建っていた。建物の中では、養父吉田健三と実父竹内綱の写真が目に入る。また吉田の長い外交官生活の中で、茶貿易との関連を知りたいところだが、それは見つからなかった。

昼ご飯を食べに行く。魚が美味しいお店でランチを頂く。お目当ての生シラスはなかったが、十分に堪能できるご飯だった。昼過ぎには大磯在住のHさんと会うことになっていた。折角なのでT夫妻もご紹介すべく、一緒に待ち合わせ場所へ向かう。そこは古民家を改装したカフェ。古い茶箱などが置かれており、聞けばその昔はお茶屋さんだったところらしい。

このカフェ、かなりおしゃれで美味しそうなパンなども食べたくなる。1階には中庭のテラスなどで飲食が可能だ。何だか立ち飲みもしている人もいる。古民家の2階は畳の部屋。ここで紅茶をオーダーして、飲みながらゆっくり話す。4人でお茶作りの話などをした後、今度はHさんと二人で、茶歴史などについても話す。日本茶の歴史は本当に分からないことばかりだ。

Hさんと別れて、駅の方へ向かおうかと思ったが、まだ日は高いと思い直し、もう一歩きすることにした。駅のすぐ近くにエリザベス・サンダース・ホームと書かれた場所があったが、入ることはできなかった。岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として生まれた澤田美喜が設立した児童養護施設。駐留軍兵士と日本人女性との間に生まれた混血孤児たちを預かる乳児院だった。ここは岩崎家の所有地だったのを戦後苦労して買い戻したという。

大磯には明治の有名政治家の別荘が沢山あったと聞いたが、どこにあったのだろう。東海道松並木を歩いて行くと、改修中の広い敷地があった。ここが大隈重信邸だったところで、近日中に、旧大隈重信別邸・陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸の庭園が一般公開するらしい。明治記念大磯邸園という名で纏められている。その先には伊藤博文邸『滄浪閣』と書かれた石碑があり、その後ろに実際の滄浪閣はあったらしい。

神奈川茶旅2020(3)横浜を歩く2

地下の閲覧室に入る。午後は1時半から3時半の2時間のみ使用できる。席は離れており、わずか4席。如何にも大学の研究者といった感じの人が座っており、既に全てを調べ上げたうえで来場し、サクサクと資料を貰ってコピーしている。初めての私はここに何があるかも知らずにやってきたので、係員の人の手を煩わせることになってしまう。

それでも何とか目指す貴重な資料を探し当てたが、何とそれは120年以上前の現物であり、ここでコピーすることはできないと言われてショック。専門業者に依頼して、1-2週間、費用も相当掛かるので、断念した。勿論色々と別の発見もあり、なるほどと思う横浜開港時の資料も見つかった。やはり来てみないとわからないものだ。

結局2時間居たのは要領の悪い私だけだった。外へ出ると日差しがまぶしい。先ほどの大谷嘉兵衛像、実は別の場所にあるとの情報があり、30分ほど歩いて行く。しかしそこは分かり難い傾斜地で、道に迷う。本牧山頂公園の中を歩き回り、ようやく天徳寺に辿り着く。寺の境内の、隅の方に大きな記念碑があったが、像はなかった。訪れる人もなく、なぜここに碑があるのかの説明もない。

帰りにヘボン博士邸跡という看板を見つけた。ヘボン式ローマ字で有名だが、彼と奥さんのメアリーは横浜開港後にやってきた多くの日本人に英語を教えており、ヘボン塾出身者にはあの高橋是清、林董(日英同盟の立役者)、益田孝(三井物産初代社長)などがいる。もちろん優秀な医師、キリスト教伝道者という点も加え、その貢献度は想像以上に高い。

旧居留地を歩いていると、所々に古い建物が保存されている。元浜町通りは既にほぼ新しくなってしまっているが、幕末はここに多くの茶商が店を構えていたらしい。向こうに大きな税関の建物も見え、往時を偲ばせる。イルカが歌った『海岸通り』とは、1871年に埋め立てによって作られた道らしい。

日本大通りを歩き、横浜公園へ向かうと、かなりの人が同じ方向に歩いていく。しかも野球のユニフォームを着ている人が多い。そうか、ここは横浜スタジアム、そして今日は横浜のホームゲームが開催されるようだ。夜は暇だったので、もしチケットがあれば野球観戦でもしようかと考えたが、今回は目的が違うので、大人しく部屋に帰って休んだ。

8月27日(木)横浜を歩く2

翌朝は早起きして、朝食のパンにありついた。やはりパンの方が胃にも優しいのだが、今度は量が足りなくて困った。先ずはホテルの横にある横浜公園を散策する。朝は何とも気持ちが良い。池もあり、庭園風の場所もあり、憩いの場という感じだった。1876年に作られたこの公園、何と日本で最古(日本人に開放された最初)の公園だと書かれている。

設計者は土木技師リチャード・ブラントン。1866年大火の後、遊廓跡地に公園を作り、公園から港に向かって新道路を建設、それが日本大通りとなった。日本大通りとは居留民と日本人を分ける道路だったという。尚ブラントンはスコットランド出身、日本中に何と26もの灯台を作った『日本灯台の父』と呼ばれる専門家らしい。

それから港の方へ出てみた。天気が素晴らしく、空も海は青かったが、最初に開港された港は小さかった。そして今日の午前中も再度開港資料館に予約を取っていたことから、また出かけて資料を漁った。少し時間があったので、資料館自体の展示物もついでに眺めてみる。でも一番興味深いのはこの建物自体かもしれない。

資料館を出て、またフラフラしていると、中居屋重兵衛店舗跡という看板が目に入る。重兵衛は開港と同時に群馬から出てきて生糸貿易で財を成した人物と言われているが、幕末でその名が消えている。どうも何かの事件に巻き込まれたようで、ちょっと興味を惹かれる。また調べてみよう。

神奈川県博物館は、1904年横浜正金銀行本店として建てられた。建物は重厚そのもので、そして大きく、形もよい。中の展示物にも興味深いものが多いが、開港場としての歴史は多くない。横浜正金といえば、アジア各地にその足跡が見られるが、小説家永井荷風はニューヨークとリヨン支店に勤めていたらしい。何で永井荷風が、と思うのだが、永井の父久一郎は、明治初期にアメリカに留学したエリート官僚で、その後日本郵船上海支店長なども務めた国際派だったという。

腹が減ったので、その辺の中華食堂に入った。回鍋肉が急に食べたくなり、注文する。当たり前だが、日本の回鍋肉はキャベツだ。しかもその量が多く、キャベツ炒めを食べているような気分ではあるが、店員の中国人は愛想がよく、やはり日本だ、と思ってしまう。

午後は横浜郵船ビルの博物館を見学する。三井と三菱の戦いなどは興味深いが、私が思っていたような展示はなかったので、そのまま海岸沿いを歩き、山下公園で氷川丸を見学する。アメリカ航路の様子(一等船室など)など、参考になるものも見られた。ホテルニューグランドでナポリタンでも食べたい気分だったが、暑くなってきたので、そのまま帰路に着いた。

神奈川茶旅2020(2)横浜を歩く

最後に開成にあるTさんのお店にも寄った。普段は小田原に住み、茶畑は山北、店は開成と拠点が多すぎるので、変更を検討しているという。ただこれもまたご縁。(その後山北駅前商店街に移転したとのこと)

Tさんは漢方アドバイザーでもあり、漢方を取り入れたブレンド茶を特色としている。正直漢方の生薬や花の入ったお茶は苦手だと思っていたが、こちらのお茶は実に飲みやすい。そして効き目も期待できるとのことで、早速購入して飲んでみることにした。特に目が疲れやすいので、それに合わせた茶を選ぶ。これは意外な発見だった。

そこからWさんの車で横浜駅まで乗せてもらった。何と今晩は人生初の横浜泊なので、駅ビル内で夕飯も一緒に頂く。横浜駅といえば人が多いことで有名だが、レストランはどこも閑散としており、ちょっと心配になるほどお客はいなかった。我々もサクッと定食を食べて、さよならした。そういうご時世なのだ。

横浜駅から日本大通り駅まですぐだった。そこから歩いて5分ほどのチェーンホテルを予約していた。夜この付近を歩くとライトアップもあり、雰囲気はよい。何と1泊朝食付きで3000円は格安だろう。フロントの対応もきびきびしていて気持ちが良い。枕も選べるのがうれしい。部屋は変型2段ベッドになっており、広くはないがスペースがある感じ。普通はファミリーが使う部屋なのだろう。

8月26日(水)横浜を歩く

翌朝はゆっくりと目覚めた。午前8時に朝食を食べに行ったが、何とパンか弁当かの選択。そしてすでにパンは無くなっており、朝から量の多い弁当を食べる羽目になってしまった。これもコロナのせいだ。部屋まで持って行くのも大変だったが、意外と多くの人がそうしていた。やはり感染は怖い。

9時には宿を出て歩き出す。ここはどこに行くにも便利な場所。先ずは何となく中華街へ行く。勿論人は歩いていない。天后廟をお参りする。それから山手の方へ向かい、外国人墓地に辿り着く。自由に入れるのかと思っていたが、一般の見学は制限されており、お墓を探すことはできなかった。

港が見える丘公園、こんなところを歩くのは何十年ぶりだろうか。風が少しあり、さわやかだ。旧ゲーテ館やイギリス領事官などの建物が見える。神奈川県近代文学館もあるが、今回の目的と関連がないのでパスして、公園から港を眺める。何となくユーミンの曲を思い出す。

少し下っていくと、古びた建物が見えた。ここはフランス山と呼ばれ、幕末から明治初期、フランス軍が駐留し、その後領事館などが建てられた場所だったという。この時代の歴史、そして茶貿易には大いに興味が湧くが、この遺構を見ても残念ながら汲み取れるものは何もない。

そこからバスに乗って、伊勢山皇大神宮に行く。ここに来た理由、それはウキペディアに『大谷嘉兵衛像』があると書かれていたからだ。ところが広い境内、階段を上り下りしても、一向にそれは見つからない。もう一度ネット検索してみると、私と同じようにそれを探して、ここにはないことを確認したとの報告があった。戦時中像は供出されてしまったようだ。

大谷嘉兵衛は三重出身で、幕末に開港したばかりの横浜へやってきて、若くして茶業を始め、明治期日本一の茶業者になった男だ。茶業組合の会頭も務め、明治の茶業界に大きく貢献した。特に茶葉輸出が重要であったため、横浜に像が建てられたのだろうが、今ではそんな彼を知る人は一部の茶業関係者だけになってしまっている。

神社のすぐ近くになる神奈川県立図書館に立ち寄る。ここは幕末の開港場建設のために神奈川奉行所が置かれた場所だとある。中に入るとコロナ禍で人は少なく、静か。だが資料を探す環境は整っており、また多くの資料が眠っていたので、有意義なコピーができてよかった。

そこからトボトボ歩いて宿の方に戻る。途中にレトロで立派な建物があったので、思わず入ってしまった。目立つ時計塔がある横浜市開港記念会館だった。中もレトロでステンドグラスがきれい。このステンドグラスに描かれているのが、ペリー来航時の黒船ポーハタン号だ。岡倉天心がこの付近の生まれであることなどを知る。

シルクセンターまで歩いていく。ここは元英一番館があった場所で、今は記念碑だけが建っている。ここは旧山下町居留地一番館であり、あのジャーディン・マセソン商会横浜支店があった場所ということになる。ここでは往時活発な茶貿易が行われたのだろう。明治初期には吉田健三(吉田茂の養父)が支店長をしていた時期もあり、何とも興味深い。

そして今日のメインイベント、横浜開港資料館へ行く。英一番館の反対側にある。コロナ禍事前予約が必要で、予約しておいた。午前か午後を選ぶのだが、入れるのはわずか4人という狭き門だ。この建物は元英国総領事館として使われ、歴史的に貴重であり、そして中にも貴重な資料が残っていた。

神奈川茶旅2020(1)小田原から足柄茶へ

《神奈川茶旅2020》  2020年8月25日-27日

7月にあるはずだった東京オリンピックは1年延期となり、何となく7月、8月と過ぎていった。この間どこへ行くでもなく、鬱々とした生活を送っており、体調も捗々しくなかった。このままではどうかしてしまうと思い、また原稿にも差しさわりが出てきたので、近県へのショートトリップを敢行することとなった。

8月25日(火)小田原で

朝の電車に乗るのは実に久しぶりだ。コロナ、コロナと騒いでおり、オフィスワークの7割削減を叫んでいる都知事をしり目に、電車はいつも満員らしい。勿論学校が休みなので、幾分緩和されているが、7割削減などあり得ない。もし本当にそうしたいのなら、先ずは首相や知事がオフィスに出ないで、リモートワークしている様子を見せるべきだ。そして記者会見などもすべてリモートで行うべきだ、と考えるのは、私だけではあるまい。それができないなら、リモートワークなど絵に描いた餅、企業に対する無理強いに過ぎない。日本は完全なデジタル後進国なのだから。

少しでも混雑を避けるため、京王線を新宿方面と反対に乗り、京王永山から小田急へ切り替え、小田急線下り電車で小田原を目指した。小田原駅は静岡方面に行く時によく通る駅だが、実際にここで降りて観光するなど、近年は一度しかなかった。その日も雨でほぼ何もできなかった思い出しかない。

駅で日本茶インストラクターのWさん、中国茶荘を経営しているMさんと待ち合わせた。そこへ小田原在住で茶作りもしているTさんが迎えに来てくれ、4人旅となる。先ずはお昼ご飯を食べに行くらしい。車窓からは小田原城が見える。ここは改修後、まだ行っていないが、今日はとても時間がなさそうだ。

ちょっと行くと、箱根板橋というところに古めかしい建物があった。下田豆腐店という90年の歴史ある豆腐屋だったが、既に閉店となっていた。そこへ何と、インド料理を出す店ができたというのだ。中に入ると、何とも立派な揉捻機や乾燥機が置かれており、紅茶が今すぐにでもできそうだった。

このお店、如春園は小田原でこゆるぎ紅茶を作っているという。元々オーナーOさんは旅行ガイドをしており、インド、スリランカなどへの添乗をしている内に、紅茶の魅力に取り付かれたらしい。更にインドカレーにも目覚め、この3月に開店したという。コロナ禍にあっても、本格的で美味しいカレーと紅茶が評判で、店内は意外と広いのに、ランチは満員盛況であった。またOさんは以前、私の講座を聞いてくれたこともあったようで、ご縁を感じる。

実はここの近所には三井物産初代社長で、大茶人とも呼ばれる益田孝の別邸『掃雲台』が昔あった。9つの茶室で茶会を開く他、農場、牧場、林業の実験場として、チーズ、牛乳工場や缶詰工場などを製品にして三井物産に出荷していたらしい。また戦後すぐ三井農林は一時ここで日東紅茶を作っていたともいう。小田原は紅茶にとっても歴史的場所であり、ここで今、こゆるぎ紅茶が作られているのは、偶然ではないかもしれない。今回は行けなかったが、次回はフラフラとこの付近を散策し、有名人の別邸も探してみたい。

折角なので、如春園さんが、最近植えたという茶畑を見に行くことになった。そこは意外にも旧小田原城内で驚く。勿論現在の城とは異なり、戦国時代あの北条氏が作り上げた広大な城の一部だった。ある意味山城で、豊臣秀吉に攻められて滅亡したのは、この辺なのだろう。石垣の城壁ではなく、環濠が深く掘られ、守られていた。小田原城については、別の機会にもっと調べてみたい。

そんな中の平たい場所に小さな茶樹を見つけるのは、何とも愛おしい感じだ。何とか大きく育ってほしいと思う。その周辺はハイキングコースにもなっているようで、時々人が通っていたが、至って静かな場所だった。次回は自らの足で歩いてここを散策し、併せて探索してみたい。

山北へ

そこから車で約1時間、山北町に行く。今回の目的である神奈川のお茶、足柄茶の茶畑を見に行った。神奈川といっても、山の一本道の、こんなに山深いところがあるのかと思うような場所にその畑はあった。以前はかなりの茶農家があったというが、廃業が続いており、耕作放棄茶園も増えているらしい。見晴らしはよく、富士山が見える日もあるという。

Tさん夫妻は、ここの土地を借りて茶作りに励んでいるという。土地は斜面にあり、茶園の管理は大変そうに見える。それでも茶を作ろうとしているということは、色々と苦労はあるようだが、それはそれできっと楽しいのだろう、と勝手に思ってしまう。

駅のある所まで下りてくると、そこに足柄茶を売るお店があった。外には足柄茶の碑も建っており、近くには茶工場もあるという。神奈川県は何とか足柄茶をブランドにしようと努力していたが、9年前の東日本大震災の影響もあり、なかなか難しい対応を迫られているように見受けられた。