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鹿児島茶旅2020(4)日東紅茶から仙厳園まで

80歳になるKさんは今も現役で紅茶作りに励んでおり、その品質の良さは評価が高く、和紅茶界では有名な方だという。1971年の紅茶輸入自由化に伴い、多くの地域が緑茶生産に切り替えられ、紅茶は姿を消していったが、ここも例外ではなかった。2000年代に入り、かつて紅茶を作っていた人々が高齢化する中、枕崎紅茶の伝統を残そうと研究会を立ち上げ、再び紅茶作りが始まったのだという。べにふうきを使って作った紅茶はイギリスで賞も取り、今やブランド茶『姫ふうき』らとなり、和紅茶界では有名だ。テレビなどでも取り上げられ、その録画を見たり、参考資料を見ながら話が進む。

後継者のお話などを聞いていると、それよりは、と言って、来年の正月、お孫さんがランナーとして箱根駅伝に出場予定だと喜ばしそうに語る。紅茶作りに対してはかなりきびしい方だと思われるが、孫の話になると急に顔がほころぶ、いいおじいちゃんになる。きれいな店舗も構えており、益々いいお茶が作られて行きそうだ。

最後にNさんに試験場の中を案内してもらった。さすがに南国の試験場、広大な敷地に実に様々な品種が植えられている。大葉種もあり、アッサムやキャンの大きな葉が見られる。キャン種とシャン種の違いなどもこれからきちんと調べて発信しないと、常に誤解が生まれそうだ。それにしてもこの試験場はやはり紅茶のために作られたものなのだ。

枕崎を後にして、鹿児島へ戻った。鹿児島中央駅まで車で戻り(枕崎駅から電車に乗りたい気持ちもあったが)、そこでお世話になったOさんと別れ、一昨日泊まった宿にまたチェックインした。初めての鹿児島をここで終わりにするのはもったいないと考え、あと2日歴史旅をすることにしていたのだ。夜は無性に腹が減り、近所でとんかつを食べる。鹿児島は豚肉がうまいと感じる。

10月27日(火)鹿児島散策

朝はゆっくり起きた。宿に付いている朝食はなかなか良いが、食べている人は多くはない。今日の午前中は、以前お茶イベントで知り合ったお茶関係者のKさんと会うことになっていた。その場所は宿から歩いて10分ぐらいのところにある日本茶カフェ?老舗お茶屋のような建物だが、中はモダンな感じ。自ら急須で鹿児島茶を淹れる体験がコンセプトのようだが、2煎目用に熱い湯を貰うことができないなど、ちょっとなんだかな、という感じのお店だった。

ただそんなことは別にして、Kさんとのお茶話は刺激的で、時間が経つのも忘れて話し込んだ。私が鹿児島茶の歴史を殆ど知らないことを心配してくれ、茶歴史が分かりそうな本を調達してくれるといい、また何と明日朝、知覧の試験場(跡地)を案内してくれることになった。旅に時間的余裕を持たせておくと、このような僥倖に巡り合えるのがうれしい。

昼過ぎに宿に戻ってびっくり。私は連泊しているのだが、宿泊しているフロアーの部屋のドアは全て開け放たれており、しかもそこに人は誰もいなかった。慌てて自分の部屋を閉め、フロントに電話して何が起こったのか確認したが、全く要領を得ない。責任者という人が出てきたので事情を聴くと『コロナ対策で換気をした』ということだが、こちらはPCなど貴重品を部屋に置いており、もし盗難に遭ったらどうするのかと聞き返す。

すると『実はコロナで清掃員が十分に確保できず(もともと高齢者が多い職場で感染を怖がり出勤しない人が増えている)、しかし換気は必要なのでこのようなことになった』と詫びられた。コロナは様々な余波を生んでいることが分かったが、今後貴重品の扱いはどうしようか。少なくともこのような状況が起こっているのは、この宿だけではあるまいから、貴重品は放置しないようにしよう。

そのまま駅まで戻り、仙厳園へ向かうバスに乗る。揺られること30分で下車。そこには薩摩藩主の別邸があった。ここは大河ドラマ西郷どんでも何度も見たので是非行って見たいと考えていた。入場料は1000円するが、GoTo券で払えてしまう。敷地は広大で、快晴の中庭から見る桜島は、実に見事な風景。これが見たかったんだよな、という感じでテンションが上がる。

琉球から送られたと言われる建物があり、西郷どんの各ロケ地も看板で紹介されており、その場面が懐かしく思い出される。斉彬と西郷が相撲を取った場面も今日のような快晴だったな。結構な時間、ふらふら歩きまわる。それにしてもきれいに整備された広大な庭園だ。一応島津家だから茶室があり、茶筅塚もあった。歩き回って疲れたら、目の前に団子屋があるではないか。両棒餅という名物だそうで、考えてみれば昼ご飯も食べていなかったので、ほうじ茶と共に美味しく頂く。

鹿児島茶旅2020(3)指宿から枕崎へ

今日の活動はここまでとして、宿泊先へ向かう。知覧にはあまり泊まるところがないとのことで、今晩は指宿泊となった。予約したホテルに行くと、海に面した広い部屋に通された。やはりコロナの影響でお客は減っているのだろう。広い海に落ちていく大きな夕日を眺められ、疲れも癒えた。そして誰もいない大浴場に浸かり、かなり休まる。夕飯はまたラーメンを食べた。その名も『勝武士ラーメン』。指宿名物と書かれており、昼の茶ぶしに続いて、カツ節が使われているのだった。さらって食べられて美味しい。

10月26日(月)指宿から枕崎へ

朝は早く目が覚めて、海を眺めていたら、朝日が昇って行った。散歩したくなる。指宿といえば、砂むし風呂が有名なところだが、残念ながらコロナの影響で休止中のようだった。指宿には町という感じのところはなかった。フラフラしていると、橋牟礼川遺跡という表示があったので、そちらに向かう。その名前は何となく北海道のアイヌ語を思い出す。遺跡は竪穴式住居などがあり、700年頃の古代隼人の生活、と書かれていた。まあ指宿だって、なぜ『いぶすき』と読むのか分からない。この辺りには昔はかなりの往来があり、現在の日本とは違う形があるのではないだろうか。

宿をチェックアウトして、車で枕崎へ向かう。40分ぐらいで到着したが、枕崎がよく分からないので、先ずは観光案内所を探した。この街には枕崎駅があり、それは日本最南端の駅だという。鉄道ファンなら一度は来てみたいところだろうが、私にとっては意外な感じしかない。沖縄に鉄道がないからだろうか。JRは北海道の稚内と枕崎の間、約3100㎞を結んでいるらしい。その横に案内所があり、そこで地図を貰い、枕崎のあらかたを掴む。

アッサム種の母樹が植えられているという神社を目指した。ところがその神社、妙見神社と聞いていたのだがなかなか見つからず、案内所で聞いてようやくたどり着いた。鳥居の横に母樹園と書かれた一帯があり、そこには古い茶樹がかなりある。ここは1931年、日本で初めてインドのアッサムより導入されたアッサム種の茶樹が残されていた。

これは台湾に導入された時期より少し遅い。キャン種という名称も見られるが、これは台湾で言うところのシャン種なのだろうか(後日別物であることを確認した)。ここの茶樹より品種改良が行われ、紅茶用品種が作られて行った。アッサム種は気候的に日本では育たないと言われているが、ここ枕崎は例外ということだろうか。それにしても歴史的な茶樹をまじかで見ると、やはりワクワク感があり、国産紅茶の歴史に近づいた気分になる。

折角なので、神社を参拝して、裏山を上ってみる。登りきると枕崎の街が一望出来て眺めがよい。そこから港が見えたので、そちらへ向かってみた。ほぼ人影はなかったが、土産物を売る店が開いており、鰹節など海産物が沢山売られていた。そして昨日知覧で食べた(飲んだ?)茶ぶしもパックで売られており、これは土産物品として扱われていることも分かった。

そこから枕崎の試験場を訪ねていく。少し時間があったので、海を見下ろす周辺の茶畑を眺める。ここは戦後台湾から引き揚げた三井の人々が立ち上げた日東茶業で、日東紅茶が作られた枕崎工場のあたりとなる。工場もそのまま残っていたが、現在は他企業がオフィスとして使っているとのことで、中を見学することは叶わなかった。それでもなんだかいい風が吹いてきて、往時を偲ぶことはできる。

試験場へ行くと会議を終えたNさんが来てくれた。Nさんも長くこちらにお勤めの専門家だった。ちょうど昼時となり、取り敢えず街中の食堂へ行き、枕崎試験場の成り立ちから、枕崎紅茶や日東紅茶の歴史などについても、色々とお話を聞いた。ここ枕崎の気候が日本で唯一アッサム種に向いていること、そして紅茶生産にも適していることなどが分かってくる。

ランチのお弁当以外に名物としてカツオのたたきが登場した。鰹節と言い、たたきと言い、高知と名物が同じであり、その共通性に思いが至る。この2つの地域は、気候や風土も似ているのかもしれない。ある意味では、ここは日本ではない、ともいえるのかなと思ってしまう。それにしても高知から鹿児島を続けて旅する人などいないだろうが、紅茶繋がりという、その奇縁にも驚かされる。この地域性もやはり茶の歴史に繋がる話だろうか。

午後はNさんのご紹介でKさんの所へ伺う。Kさんは昭和30年代、まだあった日東茶業で5年ほど勤務した経験があるという貴重な人物だった。Kさんからは、何人もの、当時の日東、いや三井農林の人々の名前が飛び出し、後で調べてみると、日東紅茶の戦後史の一端が浮かび上がってきた。

鹿児島茶旅2020(2)鹿児島市内から知覧へ

10月25日(日)鹿児島散歩

今日はOさんと合流して知覧へ行くことになっていたが、それは午後の予定だったので、昨日に引き続き、市内散歩を続けた。何しろ初めての鹿児島であり、鹿児島といえば幕末維新から明治期を中心に多くの歴史上の人物を輩出しているので、見に行くべきところは沢山あると思っていた。しかし現実には、鹿児島は第二次大戦の空襲などでその大半が焼けており、実際には古い建物などはあまり残ってはいないと分かる。

黒木為禎、東郷平八郎、山本権兵衛、黒田清隆らの生家、邸宅跡に碑が建っていた。周囲数百メートルとかなり狭い地域に密集して生活していたことが分かる。明治維新はある意味、隣組の力で成り立っていったのかもしれない。一方篠原国幹、村田新八など西郷と共に生きた(死んだ)人々の家もこの付近にあった。西南戦争とはまさに同士討ち。それは悲惨な歴史であり、その影響(禍根)は今なお続いているようにも思えた。

その中でちょっと異彩を放つ石碑があった。大山巌の記念碑だった。大山といえば西郷のいとこであり、戊辰戦争を共に戦ったが、西南戦争で袂を分かった。後に日露戦争で、陸軍の総司令官として活躍、海軍の東郷平八郎と並んで英雄になった男だ。しかし西郷のこともあり、西南戦争後鹿児島に戻ることはなかったと聞く。その胸中は非常に複雑なものがあったのだろう。また会津藩士の娘、山川捨松(津田梅子と共にアメリカの留学)を嫁にもらうなど、極めて先進的なところもあり、興味深い。もう少し彼の人生を眺めてみたい気がした。

そして西郷隆盛生誕地に至る。ここはかなり大きな敷地である。別途弟西郷従道の碑もある。西郷生誕地と大久保利通生い立ち地の記念碑というものも建っている。これは1889年に両家及び友人たちにより建てられたもので、西南戦争による遺恨を払おうとしたものらしい。だがここ鹿児島を歩いてみると、明らかに西郷びいきであり、大久保が亡くなって140年経った今でも、受け入れがたいものがあるように感じられるのは気のせいだろうか。

折角なので、川沿いを歩いて行き、大久保利通生誕地にも行って見た。簡単な碑がひっそり建っているだけだった。周辺には伊地知正治や牧野伸顕(大久保次男)などに関する碑も見られた。最後に宿の向かい側に大きな樺山資紀邸跡の碑を発見した。樺山といえば、初代台湾総督であり、ちょっと感心した。

知覧へ

11時頃、ホテルをチェックアウトして鹿児島中央駅までOさんを出迎えた。そこからレンタカーを借りて、Oさんの運転で一路知覧を目指した。知覧といえば私が思い浮かぶのは特攻隊ぐらいだが、先ずはその特攻隊記念館に到着した。だがこの旅は観光地を歩くものではない。特攻隊はまたの機会にして、その隣の資料館へ向かった。ところが日曜日のせいか閉まっており、資料を探すことはできなかった。

お昼ご飯を食べようとOさんが調べた郷土料理屋へ行って見たが、千客万来で入れなかった。この付近は武家屋敷と呼ばれているが、なぜか近くのおしゃれなハンバーガー屋に入る。そこは知覧茶を練りこんだバンズを使ったバーガーを出していた。ランチプレートに乗ってやってきたバーガーは小柄なものが2つ。ジューシーなハンバーグと合っていて美味しい。ティーペアリングのプロであるOさんはデザートも注文し、色々と試行している。

しかもこれで終わりではなかった。先ほどの郷土料理屋へ戻る。さすがにお客も減っており、座敷に上がり、縁側へ。そこで茶ぶしというものを注文した。これは自家製味噌と鰹節に知覧茶を掛けて食べるものだが、メニューにはドリンクの欄に記載されていた。確かにこれはこれで美味しい。こういう飲み方はいつから行われているのか知りたかったが、それを知る資料はなかった。JAに寄ってみたが、ペットボトルのお茶は買えたが、茶ぶしも知覧茶の歴史も分からなかった。

図書館にも行って見る。鹿児島県の茶業史関連の資料が何冊かあり、コピーを取ろうとしたところ、全て職員がやってくれるとのことで1時間ほど待った。かなりの量があったので大変だったと思う。何とも有難い。その資料を見ていると、手蓑山というところに『知覧茶発祥の地』という碑があることが分かり、知覧茶の歴史に迫れるかと訪ねてみた。

その付近に行って見ると確かに僅かな茶畑があり、お茶屋さんもあったが石碑は見つからない。お茶屋さんで聞いてみると、昔はあったが台風で倒れてしまったという。よく探してみると新しい石碑が隅っこにあったが、何とも残念な感じだった。古びた石碑を近くで発見したが、それは明治期にこの辺りを開拓した人を記念していた。

鹿児島茶旅2020(1)初めて鹿児島を歩く

《鹿児島茶旅2020》  2020年10月24日-28日

高知からそのまま鹿児島に回った。2年前、熊本人吉から東京へ戻る時、鹿児島空港を利用したことはあったが、基本的に鹿児島へ行ったことはなかった。日本で2番目の茶産地にも拘らず、そして歴史的にも極めて重要な場所であるにも拘らず、一度も足を踏み入れていないとは。というわけで、初鹿児島にワクワクしたが、今回は緑茶ではなく、高知に続いて紅茶の歴史を学びに来た。ついでに歴史散歩も堪能する。

10月24日(土)初めての鹿児島で

新幹線は鹿児島中央駅に到着した。ここは以前西鹿児島駅と言ったようだが、昔から鹿児島の中心的な駅だったという。新幹線の開通で駅舎もきれいになったが、土曜日の午後でも人が多いとは言えない。観光案内所で地図を貰い、予約した宿の方向を教わり、そちらへ向かう。数分歩いて全国チェーンホテルにチェックインした。部屋は悪くなかった。

ずっと列車に乗っていたので、力が余っており、すぐに外へ飛び出した。宿の横に川が流れており、そこに像が建っていた。近づいてみると大久保利通像だったが、最近建てられたもののようだった。鹿児島における大久保の位置づけを感じる。そこから川沿いを北上して、お城の方へ向かう途中に、ザビエル像があった。ザビエルはここ鹿児島に上陸し、布教活動を開始していた。ザビエルを導いたと言われるヤジロウーなどの像もある。

更に行くと、西郷隆盛像がある。如何にも鹿児島に来た気分になる。その向かいには小松帯刀像もあった。幕末の薩摩を代表する人物として、近年注目されている小松だが、知名度は西郷に比べてかなり低いのは残念だ。折角なので県立図書館で資料を探そうと思って行って見ると、何と休館だった。驚いたことに今日だけではなく、10月1か月休館という大胆な企画。コロナのせいでもなく、建て替えなどでもなく、資料整理と点検のため、と書かれていたので、本当にびっくりした。秋の読書週間なんて鹿児島には無いんだな?

仕方なくそのまま進むと、お城跡があり、黎明館という歴史館があるというので行って見た。入り口付近には天璋院像などがあった。入ろうとしたところ、何と玄関口でアンサンブルのコンサートが行われており、大勢の人がそこに集まり、かなりの密状態。入ることも出来ずちょっと聞いていたが、その後何とか人をかき分けて中へ入った。入場料を払って展示物を見ていたが、参観者は皆無。

そして気になった展示の説明をスマホに収めていると、係員が飛んできて、『撮影禁止です』というではないか。確かに入口に一部撮影禁止と書かれてはいたが、その周辺に撮影禁止マークはなかった。驚いて係員に聞き返すと『基本的に全て撮影禁止です』と言われたので、納得がいかず帰ることにした。だが一度入場券を買ったものは払い戻しできないということで、気分的にかなり損をした。他の博物館などでは写真を撮られたくなければ、きちんと表示しているはずだが、ここにはそのような概念はなく、自分たちのルールだけが罷り通っているらしい。

そのまま帰るのも気分が悪いので、西郷巡りに出た。西郷終焉の地は城山を少し上ったところにあった。小さな洞穴が残っていたが、何となく寂しさを覚える終焉の地だった。その上には城山公園やホテルがあるようだったが、疲れていたのでそこまでとした。だが少し道に迷ってしまい、気が付くと五代友厚の生家付近に来ていた。

五代といえば朝ドラで一躍名が知られた男だが、明治に実業界に転じたため目立たなくなっているだけで、非常に重要な人物との認識がある。五代は1835年に儒学者の次男として生まれたという。『士魂商才』と看板に書かれているが、まさに武士の魂と商人の才覚を持った人物として知られており、明治期には大阪発展に大いに貢献し、東の渋沢、西の五代とも呼ばれている。

折角なので五代像がある天文館の方へ歩き出す。かなり歩いて疲れたが、まあいつもの旅だ。五代像は新しく立派だった。鹿児島最大の繁華街、天文館辺りには立派な老舗百貨店などもある。今日は土曜日なので、そこそこ人は歩いている。結局3時間ほど歩いて宿へ帰った。

だがすぐに腹も減り、近くを物色して小さなラーメン屋に入った。最近ちょっと食べすぎの上、疲れも溜まっていたので、ラーメンあたりがちょうどよい。豚とろラーメンを食べたが、こってりしており、疲れた体にはちょうど良い。部屋に戻るとすぐにシャワーを浴びてそのまま寝入る。

高知茶旅2020(4)しまんと紅茶、そして鹿児島へ

10月23日(金)四万十川の茶工場へ

翌日はまたいい天気になった。今日は一昨日久しぶりに再会したSさんが車を出してくれ、四万十川上流に向かう。実は今回、ご紹介をもらい、高知紅茶の現在を知るために、四万十紅茶を訪ねようと思ったのだが、そこにはバスも電車も公共交通機関は走っておらず、一度は行くのを諦めていた。そこに突如Sさんを思い出し、連絡したところ快諾を得て、一転して訪問できることとなったのだ。

車は昨日訪ねた道に沿って行く。途中のゴルフ場のところで、茶畑があったのを確認した。だがゴルフ場といえば農薬をふんだんに撒いているはずで、そこに茶畑とはどうなのだろうか。今日はそこから更にかなり遠くまで行く感じとなる。あまり車も走っていない道を約2時間掛けて四万十川を上っていく。

ようやく目的地まで来たが、肝心の建物が見付からない。電話してみると、何と細い道を上ったところに、元々学校だった校舎を活用したオフィスが作られていた。当初はここで働くY夫人の連絡先を紹介してもらい、電話を入れていたが、当日は実際に四万十紅茶を作っているご主人のYさんから説明をしてもらった。この小学校は過疎化で廃校になってしまったが、彼はここの卒業生でもある。

ただYさんが見てきた茶業はずっと緑茶であり、最近になって紅茶を作り始めたとのことで、昔のことは分からないし、森永という名も聞いたことはないとのことだった。それでも小学校の同級生のお父さんが紅茶を作っていたとは聞いたことがあるので、よく調べてみれば、その歴史も分かるかもしれない。四万十川のほとりに建つ茶工場と斜面にある茶畑も見学させてもらった。ここから見る景色は素晴らしい。

昼ごはんにしまんと名物のアユを探しに行く。ちょうどシーズンは終わってしまったようで、道の駅でもひっそりと売られていた。焼き立てなら美味しかったろうが、冷めていて少し残念。ここで定食を食べてかなり満腹だったのに、スイーツまで買い込んで、しまんとほうじ茶と共に頂く。今日は何とも天気が良く、気分は頗る良い。帰り道も香港時代の話などで盛り上がる。Sさんにも茶旅の楽しさが少しは伝わっただろうか。

夕方高知に戻る。出来れば昨日調べてもらっていた平尾喜寿のお墓を探しに行こうかとも思ったが、やはり疲れが出てしまい、お土産を買いに行くに止めた。夕飯も宿の近所の定食屋で済ませる。ここの定食、実にボリュームがあり、小鉢など付いていてお値打ちであった。

10月24日(土)アンパンマンで鹿児島へ

今朝は朝の列車で鹿児島へ向けて出発した。実は佐賀のOさんから、鹿児島の枕崎へ日東紅茶の歴史を探しに行こうとのお誘いがあり、どうしても行きたかった。だが高知から鹿児島へはどうやって行くのが良いかと迷い、検索などしてみた結果、飛行機なら関空か羽田経由になるので無駄が大きく、料金はかかるが、楽なのは電車だと分かった。

午前8時の南風6号岡山行を予約していたのだが、ホームに行って見てびっくりした。何と車両全体にアンパンマンのキャラクターが描かれている、アンパンマン列車だったのだ。そうか、高知はやなせたかしさんの出身地だった。そして今日は土曜日、幼い子供たちとその親が大勢乗り込んできて、さながら幼稚園の遠足のようになってしまった。向こうも『なんでおじさんが一人で乗っているんだよ』と不思議に思っていたかもしれない。

アンパンマン列車はあのテーマソングと共に定刻に出発した。最初はのどかな平地を走っていたが、途中景色の良い渓谷なども走り、気持ちよかった。多くの小さなお友達はこの辺までで降りて行った。本来ならこの辺で降りて一泊したいところだったが、今回は先を急ぐ旅なので仕方がなく、車窓から眺めた。高知から徳島、香川と抜け、列車はいつの間にやら、瀬戸内海を渡っていた。

岡山駅まで2時間半かかった。ここで新幹線に乗り換えだ。20分の間にトイレに行き、駅弁を買い込み、鹿児島中央駅行の新幹線に滑り込む。途中で予約した今日の宿の場所を探してみたが、そこで愕然となる。何と予約日を間違え、1か月先になっているではないか。慌ててキャンセル(無料)して、予約を取り直したら2000円も高くなっていた。これはかなり凹む。これからの旅は老との戦いになる。山陽道から九州に入り、何となく知った地名を眺めている内に寝入ってしまった。気が付けば乗客はほとんどが降りておらず、3時間ちょっとで鹿児島中央駅に到着した。

高知茶旅2020(3)劇的に森永茶工場発見!

それからYさんのご実家に行き、ご両親にもご挨拶した。お母様は持木亨さんの娘で、台湾生まれ、先ほど見た貴重な写真をきちんと保管されていた。しかもコロナ禍でゆっくり話せないからと、わざわざお手紙まで書いてくださっていて恐縮してしまった。短時間の訪問のつもりではあったが、実際にお目に掛かると、色々と思い出で話が出てきて、またまた情報が更新されていき、何とも嬉しい限りだった。

そこから車で30分。佐川町にやってきた。実は半年ほど前、FBでOさんという方が『森永紅茶の最後の提携工場を見付けた』という記事をアップしており、それを知り合いから教えてもらっていた。Yさんも興味津々で車を出してくれたので、小雨の中を見に行ったわけだ。既に住所なども分かっており、簡単に行けると思っていたが、大間違いだった。住所の場所に行っても、ただの山村。周囲を歩き回っても何も発見できない。

ここの紅茶作りを復活させ、商っている明郷園に電話してみるが留守電になっていて繋がらない。仕方なくネットで検索した住所まで行って見るが、そこは一般住宅で、お茶屋さんは見当たらない。ここで完全に途方に暮れた。雨も降り、腹も減る。私はここで一旦諦めようとYさんに提案してみたが、彼は諦めなかった。

取り敢えず佐川町の観光協会へ行くという。佐川町は司牡丹など酒で有名。土佐漆喰の美しい酒蔵がいまでも多く建ち並んでいた。その中にあった観光協会の建物に入り、何気なく周囲を見ていると、何とそこに紅茶が売られているではないか。思わずそこにいた人に『この紅茶を作っている人と連絡を取りたい』とお願いすると、快く引き受けて電話をしてくれ、その古い茶工場に案内してもよい、という返事をもらってくれた。私としてはこれは奇跡の遭遇だと思ったが、きっとお爺さんが孫のYさんに見せたくて引っ張ったに違いない。

そこから車で15分ほど行った小学校で待ち合わせた。訳も分からずに来てくれたSさんには感謝しかない。そしてYさんが持木亨さんの孫だと説明すると、『えー、資料しか見たことがない名前だが、その子孫が来るとは』とSさんの方が、そのご縁に大そう驚いていた。そこから山道をどんどん入っていく。これは普通ではとても行けないような場所だ。当初の考えの甘さを痛感する。

そしてかなり立派な石垣のある庄屋さんのような家が見えた。その先についに茶工場が見えてきた。こんな山奥だったのか。建屋に紅茶の文字が見える。私も感動したが、Yさんはしばしボー然とそれを眺め、それから写真を撮り始めた。既に50年以上が経過し、残念ながら老朽化が激しく、中に入ることはできなかった。その周囲にはわずかに茶畑が残っており、元気な茶葉が工場の前に見られた。Sさんが『あれがはつもみじです』という。私にとっては初めて行く品種だったが、60年前は多く植えられたものだという。

小雨の中で長い時間工場をただただ眺めていた。最後は名残惜しいが促されて、その場を立ち去った。Sさんが『紅茶を飲んでいって』と言って、作業場に連れて行ってくれた。今日は雨だったから、たまたまパッキング作業をしていて時間が取れたという。雨が幸いすることもあるんだ。これもやはりお引き合わせなのだろう。

そしてSさん製作のはつもみじとべにふうきのブレンド紅茶を頂いた。何とその紅茶がエンゼルマークの付いた森永カップに入れられていて、これまた大いに感激した。このカップは半年前Oさんと一緒に工場に入った際、見付かったものだという。元々この紅茶は茶葉を手摘みして丁寧に作られていて美味しいのだが、この森永カップで飲めば味もまた格別だ。更には森永紅茶の名が入った袋まで保存されており、本当にさっきの茶工場が森永関連だと認識できた。

Sさんとお別れして、また先ほどの観光協会に戻る。勿論ご紹介のお礼のためだが、お茶を買うのも忘れていたのだ。この紅茶、通販でも買えるらしいが、ここまで来たら、ここで買わないと。帰りの車で急に腹が減る。昼ご飯を食べていなかったことに気が付き、コンビニでサンドイッチを買って食べた。ああ、まさに茶旅。今回のご縁はすごかった。

その後再度Yさんの勤務先に立ち寄り、他の先生にもご挨拶して、また少し資料を拝見し、車で宿まで送ってもらった。今回はYさんなくしては茶工場にも行けなかったし、雨の中、車を出して頂き、感謝の言葉もない。感慨に耽りながら部屋で休息していると、また急に腹が減ったので、近くのラーメン屋に飛び込んだ。しかしそこは何となべ焼きラーメンと書かれており、鍋にラーメンが入っていた。それとご飯を合わせて食べるらしい。ただ中国語で、ご飯をラーメンに入れるな、とも書かれている、何とも不思議なところだった。

高知茶旅2020(2)板垣退助から高知の紅茶へ

川の方へ出たので、板垣退助の屋敷跡などへ足を延ばしてみる。これも自転車のお陰で、行動範囲はグーンと広がる。今屋敷はなく、記念碑だけが建っている。そのまま川沿いを走っていくと、『板垣退助帰朝記念碑』などもある。これは1886年に板垣がヨーロッパ視察から帰国した際の記念に作られたものらしい。確かこの洋行の前に岐阜で襲われ、あの名台詞を吐いた?そしてこの洋行が自由民権運動の転機だったとどこかで読んだ記憶がある。土佐も実に様々な人材を輩出している。それにしても天気が良くて気持ちが良い。StayHomeだけでは、体に良くないとつくづく感じる。

街中に戻り、はりまや橋を過ぎる。その小川に沿って走ると、すぐに立志社の石碑に出くわす。立志社は1874年、板垣らによって作られた自由民権運動の中心的政治団体。ここで多くの若者が自由と人権のために立ち上がった。更に行くと、高野寺という寺の前に板垣退助生誕の地の碑がある。良くも悪くも高知は板垣退助が多い。

それから後藤象二郎生誕の地や武市瑞山殉節の地などを巡る。更に高知城の入り口付近を歩き、板垣退助像を見付ける。だがそれよりも、ひっそりと木の陰に隠れていた野村茂久馬という像が気に掛かる。全く知らない名前だが、吉田茂が文字を書いている。一体誰だろうか。

一まわりまわって疲れたので、案内所に自転車を返した。すると例の係員の女性が『平尾さんのお墓の場所も大体分かりました。ただ山の中で分かり難いです』と言って、ネットからコピーした資料を渡され、もう完全に脱帽だった。平尾喜寿については、『どんな字を書きますか』と全く知らない様子であったものが、『高知県出身者を知らないのは恥だ』といった案内所魂?に火を点けてしまったようで、自由民権運動記念館にも問い合わせてくれ、色々と説明してくれた。コロナで人が少なく、若干時間に余裕があったのかもしれないが、ここまでやってくれる案内所は初めてで、称賛に値する。

ようやく宿にチェックインして休む。何しろ運動不足に慣れない自転車を漕いだのだから、疲労は相当なものだった。前回来た時は無かった新しい宿で居心地は悪くない。それでも夕方また出掛けた。何と20年ぶりに知り合いのSさんと会うためだった。Sさんとは香港の時に一緒の時期に駐在員をしていた知り合い、その後も2-3度は会っていたが、21世紀に入って会うのは初めてだろう。

指定されたホテルのロビーで再会したSさん。貫禄は付いていたがすぐに分かった。長年勤めた会社を辞め、転職して高知に来たのだという。Sさんに伴われて、高知の美味しい魚介類を堪能し、すっかりご馳走になってしまった。何と二人ともお酒を飲まないので、ひたすら魚や貝を焼き、口に入れた。

昔の仲間の話題などもたくさん出てきて、楽しいひと時を過ごしたが、話の中で驚いたのは、さっき見た野村茂久馬が『土佐の交通王』と呼ばれた地元の名士で、何とSさんは彼が創業した会社で働いていたことだった。岩崎弥太郎は世界に飛び出したが、野村は高知のことだけを考えて、高知のために尽くした人だという。

10月22日(木)奇跡的に残っていた茶工場を発見

翌日起きると外は雨だった。昨日の晴天が嘘のようだ。今日はついに持木壮造の子孫の方に会うことになっていた。既にFBでは1年以上交流を続けてきたYさん。わざわざ雨の中、ホテルまで車で迎えに来てくれた。何とも申し訳ない。そして取り敢えず彼の勤める地元大学の研究室へ向かう。そこでYさんのお母様から預かったという貴重な写真などを見せて頂いた。中にはこんなものが残っていたのかと驚くような写真もあり、目の前がくらくらした。

Yさんの曽祖父、持木壮造さんは台湾中部の魚池でアッサム種紅茶を最初に作り始めた日本人の一人として、これまで調べてきたのだが、持木家については今日で一気に様々なことが氷解した。実際に魚池で茶作りの陣頭指揮を執ったのは壮造さんの長男で、Yさんのおじいさんに当たる持木亨さんだった。Yさん自身もその昔台湾に行き、先祖の偉業(921地震で倒壊する前の持木茶工場)を写真に収めている。

Yさんは台湾との繋がりを大切に思い、自らの学生にも高知と台湾の歴史を伝えたいと考えていた。そして今回、戦前は台湾で紅茶を作っていたおじいさんが戦後の引き揚げで最終的になぜ高知に来たのか、その理由に触れて驚いてしまっていた。何と森永紅茶はここ高知でも作られており、その指揮を執ったのはおじいさんだったという歴史があったのだ。

更に付け加えるならば、日本の国産紅茶発祥の地は、明治初期の高知(多田元吉によるインド風紅茶の製造)だったともいえるので、その辺を地元でもう少し認識してもらえたら、なぜ戦後高知で森永が紅茶を作ったのかが分かるだろう。

高知茶旅2020(1)観光案内所の熱心な案内に導かれて

《高知茶旅2020》  2020年10月21日-24日

台湾紅茶の歴史を調べ始めてから4年が経とうとしていた。最初は簡単に考えて、日本統治時代の南投県魚池付近の紅茶の歴史を当たっていたのだが、そのうちここで最初に紅茶を作った日本人は誰だったのかに興味が湧き、持木壮造という名前に行き当たった。更にはその持木農場で作られた茶葉を森永が買い取り、森永紅茶を作っていたとなると俄然前のめりになっていった。

今回はその森永紅茶が高知県で作られていた戦後の歴史を追い、また持木家の子孫も高知にいることが分かり、そのご縁で高知を訪ねることになったのだが、結果としてはかなり劇的な展開もあり、いくつもの発見もあり、やはり茶旅は止められないとの思いを強めた。

10月21日(水)高知ゆかりの人々を訪ねて

羽田から朝の飛行機に乗り、午前9時過ぎには高知空港に着いた。空港バスで30分行けば高知駅だ。駅前には相変わらず、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の像が並んで建っているが、その駅寄りに前回は立ち寄らなかった大きな観光案内所があった。午前中に到着したので、まだホテルに行くのも早いと思い、当日の行動プランを立てるために地図をもらおうとふらりと入り、情報収集を始めた。

この観光案内所、実に機能的かつ情熱的な対応でびっくりした。高知県が如何に観光業に力を入れているかが、十分に伝わる内容だった。今回は高知出身の二人の人物について知りたいと思っていた。一人は『竹内綱』。そう聞いても知る人は少ないかもしれないが、あの敗戦後に総理大臣を務めた吉田茂の実父である。先日大磯で吉田茂邸を見学した時、竹内の額が掛かっていて興味を持ったのだ。

『竹内綱にゆかりのある場所を訪ねたい』と聞いてみると、担当してくれた女性職員は『高知市内にはないですね』と言いながら、即座に『宿毛歴史館』に電話を入れて、確認を取ってくれた。宿毛は高知市内から特急で2時間かかる場所だが、竹内の生まれ故郷だから何か分かるかもしれないとの配慮であり、『宿毛はいいところですよ、是非一度行って見てください』とのご紹介でもあった。

もう一人は高知の初代茶業組合長で、板垣退助らと共に自由民権運動にも関わった『平尾喜寿』という人物。こちらについても尋ねてみたが、さすがに『どんな字を書きますか』と全く知らない様子であった。だがあとで色々と教えてくれたのでこれまたびっくりとなる。

竜馬パスポートも紹介された。これを持っていると観光地などで色々と特典があるようだが、ホテル代の支払いでもこのパスポートがゲットできるというので、予約した近くのホテルへ行き、チェックイン前にもかかわらず、スタンプを貰い、荷物を置いて案内所へ戻り、パスポートを申請した。

『オーテピア』にも電話してくれた。ここは県立図書館で、『3階に高知茶の歴史関連の資料があると言っていますから行ってみて』と言われ、1日無料貸出自転車の鍵を渡してくれた。これで楽々図書館へ行けた。自転車、天気が良ければ実に快適な乗り物だということを発見して嬉しくなる。

だが、最初に辿り着いたのは高知城の脇の公文書館で誰もいなかった。すぐ横の山内一豊像の写真を撮り、オーテピアを再び探す。やはり立派な図書館で、担当者も実に親切。キーワードを告げるといくつもの関連ありそうな資料を探し出してくれ、思い掛けない資料を目にして、沢山コピーを取り、大いに役立った。平尾喜寿もここではすぐに通じた。

腹が減ったので、オーテピアの横にあったひろめ市場を訪ねる。ここは3年前、ちょうどクルーズ船が到着して3000人の中国人観光客で街が占拠され、この市場もカツオのたたきを目掛けた全てが中国人観光客だったのを目のあたりにして驚いた記憶がある。だが現在のコロナ禍、外国人の姿はどこにもなく、日本人観光客も数えるほどで、閉まっている店もあり、何とも寂しい。ウツボのから揚げと鯨かつを注文して美味しく頂く。

お礼を言いに案内所へ戻ると、『竹内綱の像が市内にありました』と言ってコピーした地図をくれた。何とも有難く、自転車で自由民権通りまで走っていく。竹内綱と長男の明太郎(吉田茂の兄)の像が並んでおり、無事に記念撮影することもできた。午前中に尋ねたことを午後になっても調べてくれているとは喜ばしいというより、むしろ申し訳ない気持ちになってしまった。自由民権記念館にも寄ろうと思ったが、なぜか違う方にペダルを漕いでしまった。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(7)堺 河口慧海と与謝野晶子

10月16日(金)堺を歩く2

翌朝はすっきりと目覚め、朝食を取り、宿を出た。夕方関空から東京へ戻るまでまだだいぶ時間があるので、引き続き堺を歩いてみることにした。先ずは昨日訪ねた利休屋敷跡の横にあった、さかい利晶の杜へ。昨日は通り過ぎてしまったが、利休と与謝野晶子関連を同時に見られるというので、行って見ることにした。ここには利休の茶室が再現されなどしていたものの、興味をそそる展示物は多くはなかった。そして資料館はコロナで閉鎖されていた。

そこから開口神社へ行く。ここに与謝野晶子の歌碑があった。近く歩くと大通り沿いに与謝野晶子生家跡の看板もあった。晶子も堺の生まれで、菓子屋の娘だったという。あの情熱的な歌はここから生まれたのだろうか。そのまま歩くとザビエル公園もある。1550年来日していたザビエルは京に上るため、堺にやってきた。この地は彼を手厚くもてなしたと言われる日比屋了慶の屋敷跡だという。キリシタンと堺、これはとても大きなテーマなので、時間ができた時、もう少し眺めてみたい。

その後、寺が集まる地区を散策し、それから商人の町の跡も歩いてみた。堺らしく鉄砲鍛冶屋敷跡などもある。やはり堺に莫大な富をもたらしたのは鉄砲であったのは間違いがない。古めかしい建物を通り抜けていると、清学院という建物に紛れ込む。ここは江戸後期から明治初期、寺子屋が営まれていたところで、画期的な男女共学だったという。そしてここで学んだ中に、あの河口慧海がいた。

慧海は100年以上前にチベットに単独潜入して仏教を学んだ僧侶で、大冒険家。私も『チベット旅行記』は何度か読んでおり、今も家に本がある。係りの人にその話をすると、いろいろと慧海について説明してくれた。その中に『慧海は東京で亡くなったが、最後は姪の恵美さんが世話をしていた。彼女の旦那はあの宮田輝だよ』という言葉が引っ掛かった。後日青山墓地にその墓を訪ねると、宮田輝の横に慧海が眠っていた。彼が堺出身だと初めて知った。

近所に慧海生誕の地があるというので訪ねてみたが、何と住宅街の家と家の隙間に記念碑が埋め込まれるようにあった。これでは通りすがりの人は全く気が付かないだろう。きっと複雑な事情はあるのだろうが、現在の堺での慧海の位置が分かるような気がして少し寂しくなる。それでも近くにある七道駅の前には、慧海の像が建っている。写真を撮っていると、客待ちのタクシー運転手が『何を撮っているんだ』という顔でこちらを見ていた。

ここから堺の昔の掘割をなぞった小川の横を歩いて宿に帰る。堺駅まで来ると与謝野晶子像が建っており、そこから堺の港の方へも行って見る。意外と小さな港に小舟が停まっている。ルソン助左衛門の像を発見してテンションが上がる。この像は1978年の大河ドラマ『黄金の日々』の放映を記念して作られたという。若き日の市川染五郎(松たか子のパパ)が主演して、昨日見てきた千利休、今井宗久などが出てくる大河。よく覚えている。私の堺のイメージもそこから来ているのかもしれない(2021年4月よりNHKBSで再放送始まる)。

港の周囲を歩いてみた。海に近づくあたりに可愛らしい灯台が見えた。1877年に作られた旧堺灯台。現存する灯台の中でもかなり古い物らしいが、既に50年前にその役目を終え、今は保存建築物として残っている。堺の繁栄は、やはり戦国時代が中心であり、その後は大阪などの陰に隠れてしまっていた。

時間が来たので、関空に向かう。コロナ禍で貯めていたマイレージを使う機会もなかったので、今回はそれで東京行きのフライトを予約してみた。国内線は必要マイレージ数も少なく、また燃油サーチャージも徴収されないので、使い勝手は良い。そして予約も簡単に取れてしまった。

堺駅から30分ちょっと乗れば関空に着いてしまうのだから、今後も堺に寄る機会もあるだろう。そもそも電車に乗客があまりおらず、関空に到着すると、空港内は更に人が見られない。国際線はほぼ止まっているのだろうが、ボードを見ると、国内線もキャンセルの表示が多く、あの忙しかった空港の面影は全くない。空港内のお店も閉まっているところが多く、豚まんを買うこともできなかった。まるでゴーストタウンのようだった。

仕方なく早めに荷物検査を通ったが、本当に人気がなく、怖くなってしまった。ポケットにGoToクーポンが1枚入っているのを思い出したが、使える店はあるのかと思ってしまうほどだ。開いているショップを何とか見つけ、土産を買いながら店員に聞いてみると『ここのところずっとこの調子なんですよ』と諦めたような力ない答え。機内に入っても乗客は少なく、安全ではあるが、とても寂しいフライトとなってしまった。

奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(6)堺 謎の南宗寺から仁徳天皇陵へ

南宗寺の門を潜って入っていくと、三好長慶の像があった。この寺は長慶が、1557年父の菩提を弔うために建立した。昔の堺の町割りでいえば、一番端に南宗寺はあったらしいが、大坂夏の陣で焼けてしまい、あの沢庵和尚が再建、現在のかなり広い敷地に移ったという。三好長慶についても、これまであまり注目されてこなかったが、畿内を、そして幕府を支配した信長の前の天下人との呼び方もあるようなので、調べてみたい人物だ。

その敷地内をずっと歩いて行くと、天慶院があった。その門の前には山上宗二供養塔という文字が見えた。山上は利休の高弟で、秀吉により殺された点も利休と共通点がある。この寺は利休との関係が深く、宗二の供養塔は最近建てられたとある。もし戦国末期の茶の湯を知る必要があれば、山上宗二も重要人物ということになる。

その奥に南宗寺があり、拝観料を払うとボランティアガイドに案内される。堺は主要な観光地にガイドが配置されており、何も言わなくても無料で案内してもらえるのがすごい。境内は撮影禁止なので、ただただ集中して話を聞きながら歩く。ここには千家供養塔が並んでいる。利休だけではなく、表、裏、武者小路の三千家がずらっと並ぶのはすごい。しかしなぜここにあるのだろう。因みに利休の墓は京都大徳寺に三好長慶と並んで建てられているという。

津田宗及の墓がある。ガイドは『彼はキリシタンでしたが、死ぬまで言いませんでした。ただ墓には十字架が、灯篭にはマリアが彫られています』というのは印象的だった。利休や宗久はキリシタンを疑われながらも、恐らくは違うだろうと言われているが、宗及だけは本物だったわけだ。古田織部作と伝わる枯山水庭園や利休ゆかりの茶室、実相庵などを茶関係として興味深く拝見する。

何と歩いて行くと、徳川家康の首塚や墓にも出会ってしまう。言い伝えでは夏の陣で真田勢に追われた家康は、後藤又兵衛の槍で刺され、ここまで落ち延びて絶命し、その後の家康は影武者だったというものだ。江戸時代は歴代堺奉行が赴任後先ずここを参拝したとの話などが信ぴょう性を高めているが、どうだろうか。唐門は旧東照宮の門だった。

そこで一旦宿へ帰ろうかと考えたが、地図をちらっと見て驚いた。何とこの南宗寺から僅か1㎞ちょっとの場所に、あの仁徳天皇陵があると書かれているではないか。私は小学生の時から歴史好きだが、一度は仁徳天皇陵を見てみたいと思って50年になる。これは行かねばなるまいと歩きだす。江戸初期から古代へのタイムスリップはすごい。

だが仁徳天皇陵、という行先表示は見付けることができなかった。方向は間違っていないのでそのまま行くと、堺市の図書館があり、先ずはここで資料を漁る。キリシタン関連の本など興味深いものが多くあったが、とても読み切れないので出てきた。そしてその横には堺市博物館があり、更に歴史見識を高める。ここの古墳群が世界遺産に登録されて、注目が集まっているようだ。外には利休だけでなく、紹鴎の像などもある。

そしてついに博物館の向かいに見える古墳に向かった。ここがいわゆる仁徳天皇陵であったが、その参拝所に行って見ても、あの教科書に載っている写真のような古墳は全く見えない。大き過ぎるのだ。向こうに渡ることもできない。だから博物館で「仁徳天皇陵古墳VRツアー」が行われていたのだが、何とか実物は見られないのか。前には堀があり、その向こうにはこんもりした林が見えるだけだった。ここにもガイドがいたので聞いてみると、『一応お勧めは三か所』と言われたので、そこへ行って見ることにした。もう何となく意地でやっている感がある。

最初に訪ねたのは、JR百舌鳥駅南側の陸橋の上だったが、ここではほぼ何も見えなかった。そこから古墳の端を歩いて1つ向こうの駅へ行く。みくにん広場というショッピングモールの上から見ると確かに古墳の一部は見えるが、木々に深く覆われて全貌を見るまでには至らない。そして最後に堺市役所高層館21階展望ロビーにも上ってみた。ここなら高いところなのでよく見えるだろうと思って勇んで行って見たが、遠すぎて僅かしか見えなかった。結局ヘリコプターに乗って上から見ない限り、あの風景には出会えないことを結論付けて終わった。何とも寂しい。

一体どれだけ歩いたのだろうか。相当疲れた上に、昼ご飯すら食べていないという現実に直面した。だが時刻は午後3時を過ぎたばかり。こんな時間に食事ができるところとなると、チェーン店しかなく、牛丼屋で牛鍋を食べて何とか落ち着く。そして30分ほど歩いて宿に辿り着き、チェックインすると、もう外に出る気力は全くなく、その日は部屋で寝込んでしまった。ここ数日はずっと人と一緒に行動したので、一人で好き寝られる喜びもあったかもしれない。