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大分茶旅2021(4)木浦から竹田へ

Tさんから聞いた話の中に、吉四六さんが出てきた。確か大分焼酎の名前として聞いているが、九州ではとんちの一休さん並みに有名な人らしい。彼が茶にも関係あるかもしれないというので、普現寺という寺にその墓を探しに行く。寺は鎌倉中期創建とあり、非常に落ち着いた山間のいい景色が見られた。吉四六さんの墓は外にあったが、吉四六とは代々受け継がれた庄屋、廣田吉右衛門のことで、一人を指すのではないらしい。

ランチは街道沿いの食堂に入る。とり天が食べたいと思っていたが、チキン南蛮や唐揚げも頼み、皆でシェアした。昼からどう見ても食べ過ぎの旅になっている。鳥の天ぷらが意外と美味しいことに気が付く。東京ではなぜあまり見かけないのだろうか。

午後は木浦を目指す。途中の看板に『ととろ』という文字が出てくる。私は見たことはないが、ジブリアニメ『となりのトトロ』のバス停があった。ここは撮影スポットらしく、カフェまであったが、平日でお客はいない。とにかくかなりの山の中へ入っていく。そこから1時間ほどで何とか木浦に着いた。

今回大分に来たメインはここだった。1875年政府の要請で紅茶伝習所が開かれたのが、熊本の山鹿とここ木浦だったのだ。この伝習所は翌年人吉でも開かれたが、残念ながら成果が上げられなかった。その後はインド風製法で再度伝習が行われているが、それも明治でほぼ消えてしまった。国産紅茶の歴史は失敗が多く、残念ながら地元でもほぼ知られていない。現在『木浦』で検索すると、韓国の『モッポ』が出てきてしまい、国内での木浦の知名度は高くない。

Oさんが事前調査してくれ、伝習所の場所は郵便局の裏とのことだった。土産物などを売る町の施設が隣にあり、聞いてみると、その横だった。ただそこは川沿いの空き地で草が生えているだけ。郷土史家が作った本によれば、確かにここが伝習所となってはいたが、そこに『インド風』の文字が見られたので、最初の場所ではなく、数年後の伝習所だった可能性もある。

戦後共同工場が出来るなど、一時は茶業が盛り上がった時期もあったが、現在は茶農家が2-3軒あるだけらしい。その中で、『宇目紅茶』というブランドで、紅茶作りをしている人もいい、小さな茶畑は川沿いに見えたが、残念ながら会うことはできなかった。街の人に聞いてみると『木浦は鉱山で栄えた町。恐らく明治初期は鉱脈を掘りつくし、他業への転換が必要だったのではないか。結局その後三菱が鉱山経営に乗り出し、イギリス人も招かれ、近くには洋館もある』とのことだったが、茶については首を傾げた。

そこから山道を抜けて竹田市を目指した。途中に神楽の里という道の駅を通ったので、何か食べるものはあるかと物色するも、店はほぼ閉まっていた。仕方なく2時間かけて竹田市に着く。予約した宿へ行ったが人影はない。かなり大きな宿だが、今日泊まるのは我々4人だけらしい。自慢の大浴場も閉まっていた。部屋は狭く、居心地が良いとは言えなかった。

宿から歩いて5分ぐらいのところに食堂があるというので出掛けた。この宿の付近は街の郊外にあり、食べるところがちょっと心配だったが、それは杞憂に終わる。唐揚げで有名な店の支店があり、昼に続き唐揚げ、チキン南蛮、そして鳥スープと鶏肉のオンパレード、鶏肉好きとしては大満足。1日でどれだけ鶏肉を食べたのだろうか。店の個室に入り、お茶談義に花が咲く。

木浦の繋がりで言う竹田とは、授産事業で紅茶会社が出来たとか、明治中期に開かれた木浦の伝習所に派遣された教師が竹田の人だったとかいう、断片的な情報だけだった。現在茶業関係のものを見付けることはかなり難しい。

4月9日(金)田能村竹田と広瀬武夫

朝早く起きた。今日は朝食も出ないが、まだ腹が一杯なので、散歩に出た。取り敢えず駅の方に向かって歩く。川に朝日が昇っていくのがよい。豊後竹田駅の後ろは崖になっており、水が落ちている。明治期に建てられたという妙見寺の山門が実に見事だった。駅舎の中には滝廉太郎の像がある。滝廉太郎はこの地で一時期を過ごし、そしてあの荒城の月を作曲した。今回はその舞台、岡城は横を通っただけになった。

駅前には田能村竹田の小さな像が建っている。竹田市に来た理由、それは江戸期の煎茶文化に大きく関わった竹田の故郷を見たかったからだ。駅前から続く通りには、竹田の南画がいくつも表示されていた。取り敢えず一度宿に戻る。Oさんは少し遅れるとの連絡があり、後の二人は既に宿を出てどこかへ行ったという。

大分茶旅2021(3)杵築から野津へ

その辺を歩いていると、和田豊治の看板がある。朝吹英二や中上川彦次郎らについで留学し、富士紡績を立て直した人。中津には福沢人脈があり、明治期の日本を支えた人物を多数輩出している。その福沢の旧宅も残されており、記念館もある。諭吉の母、順を主人公にした朝ドラ政策を嘆願する動きもあるという。記念館の展示も立派で、その家系と人脈の凄さはもっと勉強すべきだと思った。

宿に帰って一休み。それでも昼ご飯を抜いていたので、腹が減り、近所の食堂へ。生姜焼き定食600円、安い。満足。旅をしているとどうしてもご当地名物を食べようとするが、私は旅が日常なのだから、普通に食べたいものを食べるのが良い、という基本を思い出せてくれた。その後近所を散策して、腹ごなしをする。

4月7日(水)中津を歩く2

今日はOさんが迎えに来てくれ、茶産地へ行くことになっていた。だが佐賀から来るので到着は昼頃とのことで、朝ご飯をたくさん食べてから、午前中は引き続き中津を歩くことにした。黒田官兵衛が宇都宮氏をだまし討ちにした際、その家臣を襲って血塗られた元合寺の赤壁、河童の墓がある円応寺、中上川彦次郎生誕地などを歩き回る。

天気が良いと気持ちが良い。最後には江戸時代に本格的な中華料理の解説書を書いた田中信平なる人物まで発見して、ちょっとびっくり。中津というところは実に多彩で面白い。結構暑くなる中、トボトボ歩いて何とか宿に戻る。少し待つとOさんがやってきて、車に乗り込んだ。

先ずは中津市内のお茶屋さんにOさんの知り合いを訪ねた。創業100年を越える丹羽茶舗。看板には宇治茶と書かれ、店舗も由緒ある雰囲気だった。隣には喫茶部と書かれた建物もあり、ラテなどのドリンクテイクアウトにも対応しているが、かなりお店に格式がある。お茶の歴史の話をすると、奥の座敷に売茶翁関連の掛け軸があるというので、早速拝見した。老舗茶荘らしい、中庭も見える。ただ店舗内はかなりおしゃれな雰囲気もあり、そのバランスが良い。

中津から杵築に向かう。本日のメインは杵築紅茶の歴史を学ぶこと。大分の紅茶といえばきつき紅茶であり、きつき紅茶といえばAさんというぐらい、国産紅茶界では有名な方からお話を聞いた。とても気持ちの良い外のテーブルに紅茶と奥さんお手製のお菓子を頂き、とても良い気分でお話を聞く。マスクをしているので花粉症も気にならない。

医者であった奥さんのお祖父さんが戦後朝鮮半島から引き揚げてきて、無医村だったこの地に招かれ、村を豊かにするために奨励したのが、きつき紅茶の始まりだという。だが最終的に1971年の紅茶自由化で紅茶事業は頓挫してしまう。そしてAさんが奥さんと結婚して、この地にやってきて紅茶作りを始めたのは、それから20年以上経っており、実はお祖父さんともほとんど会ったことがなく、紅茶作りを教わったわけでもないらしい。これは意外な歴史だった。それにしてもべにふうきで作られた紅茶、すっきりした透明感があって美味しい。

お祖父さんの像が、元自宅付近に建っていた。やはりこの村に功績があったと讃えられている。茶工場があった場所にも行ってみたが、今やその痕跡はない。どこでも同じような状況なのだが、50年前に紅茶作りに投資した人々はそれなりに損失を出し、借財の清算に追われたようだ。

そこから車で約2時間、本日は佐伯に宿泊する。ここは魚などが美味しいとのことだったが、Oさんは夜、オンラインミーティングがあり、夕飯の時間が少なかったので、目についた中華食堂に入る。地方都市にはよくあることだが、ここも量が多い。というか、料理2品を選んで定食にする形式になっており、料金も高くない。かなり美味しく、コスパは抜群だったが、胃はもたれた。

4月8日(木)臼杵から木浦へ

翌朝はゆっくり起きて、ゆっくり朝ご飯を食べる。出発まで時間があったので、佐伯の街を歩いてみる。ここは海軍の街で、海軍航空隊の基地があった。港の近くに濃霧山という場所があり、基地はそこにあったらしいが、今は公園になっている。港は非常に穏やかな入り江になっている。

本日午前は臼杵野津町の茶農家を訪ねる。2代目のTさんにお話を聞く。こちらは煎茶ブームの頃に茶業を始め、この周辺でも20-25年前はかなりの茶農家があったが、今は減少傾向にあるという。最近は紅茶を作っていると言い、専門家であるOさんと色々な話をしていた。その後茶畑も見学する。北九州からやってきたMさんらが合流した。Mさんはバーテンダーだが、昼間は和紅茶を出すバーをやっている。

大分茶旅2021(2)宇佐八幡から中津城へ

4月6日(火)宇佐神宮へ

朝も早めに起きた。宿の朝食を食べに行ったが、食べている人は殆どいなかった。やはり宿泊客は多くはないようだ。9時に駅前へ行き、観光案内所で情報収集する。だが宇佐八幡付近の様子はよくわからない。先ずは昨日のバスに乗って、宇佐八幡まで向かう。40分乗って910円、地方のバス料金は安くない(大分空港-中津は1550円)。補助金次第か。

このバスにも乗客は二人しかいない。この路線今後も続いていくのだろうか。宇佐八幡の一つ前、八幡の郷というところを過ぎると、何と県立博物館があった。なんだここで降りて、博物館を見た後、歩いて八幡へ行けばよかったと思ったが後の祭り。次で降りて観光案内所へ行く。ここで大体のルート計画を立て、神宮のお参りへ向かう。

宇佐八幡は広大な敷地を持っており、歩くのは大変だった。先ずは外側から攻めてみたが、何しろ記念碑などが多い。最澄が中国へ行く前にここにお参りし、天台宗を開いた後、また参拝したとか、宮本武蔵と関係があるとか、かつて宇佐参宮線で使われたSLなども置かれている。

広い境内に踏み込むと、木々がいい感じで生えており、雰囲気が良い。『仏様と神様が日本で初めて出会った場所』などと書かれており、面白い。きつい階段を上がると、立派な社殿が現れる。参拝者は殆どいないので、静かにお参りする。下宮もあり、大きな池やきれいな庭園もあり、その歴史に豊かさも見える。

更に少し外れた丘を登っていくと、和気清麻呂の碑があった。そうか、ここは奈良時代に起こった宇佐神託事件の場所だったか。「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、朝廷が混乱し、和気清麻呂が派遣される。最終的に道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育において持ち上げられ、このような碑が建立されているのだろうが、史実はちょっと違うようだ。

道鏡は下野の国に流されており、栃木に住んでいたわが父は、道鏡についてかなり詳しく調べていたのを思い出す。だが残念ながら、その資料は既に私の手元には無く、結局何がどうなったという話も、上の空で聞いてしまい、今や記憶の片隅にもない。確か栃木では道鏡顕彰会などが、道鏡は悪くないという説を唱えていた。

観光案内所に戻るために歩いていると、敷地内には宮や寺の跡などもある。『日本書紀には、』のフレーズで始まる説明書きが多い。またきれいな橋が架かっていた。呉橋と呼ばれており、呉の人が架けたという。近くには夏目漱石の句碑などあるが何とも新しい。観光案内所でレンタサイクルを借りる。1日300円。何と電動自転車でちょっと困惑。初めて乗ったが、こんなラクチンなものとは知らなかった。

電動自転車は急坂もあっという間に上ってくれる。その勢いで3㎞先にあった県立博物館まで行った。バスは一日数本しかないのでとても助かる。そして何より天気が良い。博物館で宇佐八幡の歴史やこの地域のことなど、色々と学んだ。本当はもっと居たかったが、中津に戻るバスの時間を考えて、見学を制御した。

自転車を返した。昼ごはんを食べたかったが、バスを優先する。トイレの壁に『双葉山の里』というポスターがあった。あの69連勝の横綱もここの出身だったか。彼は絶頂期が太平洋戦争中で、昭和20年に相撲が再開された瞬間に引退した悲劇の人だったと聞いている。

バス停で待ったが、時刻表から20分遅れてようやくやってきた。それでも運転手は『遅れてすみません』などとは言わない。この路線は昨日空港から乗ったものだが、今日は飛行機でも遅れたのだろうか。やはりこの路線を使う人は殆どなく、中津駅までほぼ独占状態で戻る。

中津を歩く

駅前には福沢諭吉の像が建っていた。駅前から中津市博物館まで歩いて行く。ここで中津の歴史を学ぶ。中津といえば黒田官兵衛だが、その後は細川が入っているのが面白い。立派な中津城の石垣も見られ、説明も受ける。それから中津城に登る。このお城、かなり格好いい。一番上から見ると、市内も、そして海もよく見える。如何にも官兵衛、海に近く情報を取り易かったらしい。関ケ原の合戦の情報もいち早く得て、九州から天下を狙おうとしたとか。

中津の偉人として、解体新書の前野良沢なども登場している。また江戸期の城主、奥平家は、あの長篠、いや設楽原の戦いの際の、長篠城主だったと言い、そのエピソードなども語られている。それから転封を繰り返し、ここに落ち着いたらしい。お城の撮影スポットには、小さな官兵衛像があって、観光客は城をバックに写真を撮る。

大分茶旅2021(1)中津へ

【大分茶旅2021】 2021年4月5日-10日

2021年も暗いスタートとなってしまった。年初に緊急事態宣言が発令され、また旅を止めてしまった。結局2か月半も緊急事態は続き、もはや緊急事態が常態化した。それでもオリンピックをやると言い、聖火リレーの日程のため、緊急事態は解除されたが、ちょうど花見、お彼岸、卒業式などと重なり、コロナ感染者はむしろ増えていった。

昨年12月の会津以来、旅はできていなかった。どうしようかと思っていたが、Oさんよりお誘いがあり、大分から茶旅を再開することになった。これまで九州には何度も来ているが、何と大分には一度も来たことがない、通過したこともない、未知の場所だった。果たして今回は何が見られるのだろうか。

4月5日(月)中津まで

羽田空港に行くのは、いや飛行機に乗るのは昨年の10月以来だった。これまで10年間、あれだけ乗ってきた飛行に乗るのが何となく怖い。憂鬱だ。これはコロナ禍だからだろうか。歳を取ったのだろうか。そろそろ出掛けなければという時間に、なぜかメジャーリーグで大谷のリアル二刀流をやっていて、出るに出られない。しかも家を出る時小雨が降っており、眼鏡も服も軽く濡れた。それがとても嫌だと感じた。

京急線は遅れているとのことだったが、かなり早く出てきたので、慌てる必要はなかった。品川駅でうどんを食べて、ゆっくり羽田に着いた。それでも時間は余る。外は相変わらず小雨が降っている。ANAで大分行をマイレージで予約したが、フライトはソラシドエアーだという。因みになぜかマイレージは通常の6000マイルではなく、僅か3000マイルで乗れた。キャンペーンだというが、いよいよ航空会社も厳しいのだろうか。

機内も乗客は7割ぐらいだろうか。私の隣も空いていて快適だ。昨年と違い、特に煩い感染予防策はなかった。フライトは1時間半、提供されたスープはアゴユズというご当地物だった。話し声もなく、皆静かにしている。大分空港に接近した時、その動きは面白かった。機体は海上を相当ゆっくりと180度旋回してランディングした。

空港を出ると空港バスのカウンターに行く。今日はこれから中津まで行くのだが、検索したところ、バスで途中まで行き、そこから少し歩いてJRの駅へ行き、そこから電車で中津駅へ向かうルートしかなかった。そのバスもすぐ出るのでどうしたらよいかと聞いてみた。答えは簡単で、『中津行バスもある』だった。しかも料金は高くない。これだとチケットを買って、バスを探すと、何と乗客は私一人、しかも中津駅まで2時間掛かるという。しかしもうチケットは買ってしまったし、そのまま乗っていく。

大分空港は海辺の端にあった。そこから山沿い、狭い田畑を通っていく。車もほとんど通っていない。夕日がのどかさを増して見せる。このバスは空港バスと言いながら路線バスでもあり、乗り降りは自由にできるが、1時間乗ってもだれ一人乗ってこない。ようやく母子がベビーカーを持って乗ってきた。だがたった一停留所で降りてしまい、また運転手と二人となる。

豊後高田市街地を通過して、宇佐駅を過ぎる。そして何と宇佐八幡に至る。私はいつか宇佐神宮には行きたいと思っていたが、検索しても鉄道路線、バス路線共に見いだせず、もし行くとすれば歩きしかなかった。ところが今、その神宮が見えている。やはり地方都市の路線については、来てみないと分からない。明日はここに来よう。

それから宇佐市街地、そして中津市街地を通る。国道沿いには牛丼やうどん、ハンバーガーなど多くの全国チェーンが並んでいた。中にはなぜかタイのタイスキMKの文字すら見える。大分名物のから揚げの看板も多い。そんな中、やはり2時間かかって中津駅前に到着した。まだ夕日は沈んでいなかった。

駅の反対側、予約したチェーンホテルにチェックインした。時刻は午後7時、夕飯を食べるところはあるだろうか。唐揚げで検索すると『ぶんごや』というところが有名なようなので、そこまで10分ほど歩いて行ってみたが、何とそこはショップであり、既に今日の営業は終わっていた。

途中にあった店に入るも『うちには唐揚げ定食なんてないよ』と追い出された。仕方なく宿の食堂に戻ると、何と『ぶんごや唐揚げ定食』があった。食べてみたが、唐揚げはかなりあっさりしていた。あとは部屋で休んだが、久しぶりの旅のせいか、いつものようにすぐに寝付くことができず、少し体調が心配になる。

静岡茶旅2020(4)紅茶史を学ぶ

Mさんに金谷駅まで送ってもらって別れた。先ほど急ににわか雨が降ったが、なぜか駅に着くと止んでいた。そしてきれいな虹が出た。今日の旅は成功だったという印だろうか。金谷から浜松へ、そこで乗り換えて豊橋まで行った。1時間半かかった。豊橋駅前の、最近ずっと使っているチェーンホテルを予約していたが、何だかここの対応は良くなかった。

チェーンホテルと言ってもようは担当者個人の問題もあるし、ホテルの設備の問題もある。それは分かっていたのだが、何となく不愉快になったのは、やはり疲れのせいだろうか。1枚だけもらったGoToクーポンを使って、駅ビルの和幸でとんかつを食べた。何だか嫌な予感がする。天気も良くない。

11月20日(金)紅茶史の基礎を学ぶ

朝ご飯を宿で食べる。豊橋のご当地グルメ、カレーうどんとあるが、どうなんだろうか。やはり外は雨で、外出を控える。本日は国産紅茶を学ぶため、T先生とお会いすることになっていたが、急速にコロナ感染者が増加し始めていた。当初はかなりのお時間を頂くつもりだったが、状況に鑑み、モーニングを食べながらの短時間に変更となった。

T先生から『長く話せないのは残念だ』と言って頂き、貴重な資料を沢山頂戴した。そして先日枕崎へ行ったことや、森永紅茶の話などを始めると、やはり膨大な知識をお持ちなので、話は簡単に止まらず、予定時間をオーバーしてお話を聞いてしまった。ただ一番印象に残った言葉が『国産紅茶の歴史は悲しい歴史』だったことは、なぜこの歴史が語られずに埋もれているのかを一言で言い表していた。もしコロナがなかったら、半日ぐらいT先生を引き留めて話を聞いてしまったであろう、と思うほど、刺激的な時間だった。果たして次回はいつお話が聞けるだろうか。

外へ出ると雨は上がっていたので、今回初めてきた豊橋の街を歩いてみることにした。先ずはJRで一駅乗って二川宿へ行ってみる。線路に沿って東海道があり、古い町並みが少し見られる。15分ぐらい歩くと本陣資料館があったので見学すればよかったのだが、そこをスルーして、落ち着いた街をフラフラして、そのまま豊橋駅に電車で戻った。

駅から何となく這い出す。商店街に安いかつ丼屋があり、腹ごしらえをしてから歩く。少し行くと老舗のかまぼこ屋が見える。この辺は東海道の吉田宿だったらしい。更に行くと昭和初期の立派な建物、豊橋公会堂がある。その向こうには豊橋ハリスト教会がそびえたっている。その隣は旧吉田城跡。公園になっており、散歩するにはちょうど良い。

天気がとてもよくなってきている。だが既に色々と疲れてしまっていた。早めに宿に帰り休む。夕方ちょっと外へ出て、ラーメンを食べて、またすぐに宿へ帰って寝た。やはり体力の衰えは深刻だと案じる。

11月21日(土)レジェンドに会って

今回の旅の最終日を迎えた。豊橋滞在が何となく不完全燃焼だったので、今日こそは、と意気込む。豊橋から袋井までJRで戻り、そこからバスに乗って浅羽支所を目指す。今回は久しぶりにM先生をお訪ねして、胸にあるいくつもの疑問を払拭しようという目論見だった。だが昨日のT先生より年齢が上のM先生は果たして来られるのだろうか。

それは杞憂に終わる。3階に上がると先生はちゃんと来られていて、30分ばかりお話しできた。紅茶の歴史など、モヤモヤしていたものの一部が何となく晴れていくのがうれしい。文献に書かれていなくても、足で稼いだ豊富な経験を持つM先生の一言一言が心に刺さる感じがする。もっと伺いたかったが、万が一のことがあってならないと、大変残念だがお暇する。先生のコレクションも見ずに立ち去った。本当にコロナは困ったものだ。

ちょうどバスが行ってしまった。仕方なく周囲を散策すると、茶畑が見え、神社があり、城跡まであった。30分はあっという間に過ぎて、バスに乗って駅に向かった。だがまだ時間は早い。そして天気がとても良い。荷物は駅のコインロッカーに入れてある。今回は袋井宿付近も散策してみようという気になり、駅より一つ前のバス停で降りて、歩き出す。東海道袋井宿は駅の反対側にあり、ふらふら歩いてみたが、特段見るべきものはなかった。

袋井駅まで戻り、東海道線に揺られて、東へ向かった。疲れていたので、どこかで新幹線に乗って帰ろうと思っていたが、この揺れ心地が何ともよく、少し寝入る。結局小田原まで在来線を乗り継ぎ、小田急に乗って帰宅した。さすがにコロナがうるさくなり、乗客も少なく、ゆっくり読書が出来、考え事も出来た。

静岡茶旅2020(3)中村圓一郎を訪ねて

現在日東紅茶の歴史について書いているので、三井農林さんの大工場を外から眺めた。紹介してくれるという方もいたのだが、今回はコロナ禍なので敢えて中に入ることはせず、遠めに写真に収めた。詳しく調べていけば、相当興味深い紅茶史が出てくるのだろうが、先月枕崎を訪問して少し満足してしまったところもある。

旧藤枝製茶貿易商館(通称とんがり屋根)にも行ってみた。明治35年(1902年)に建設されたというこの建物は、静岡の近代茶業の幕開けを象徴する洋風建築。この可愛らしい建物、現在は使われていないのだろうかと思っていたら、藤枝市に寄贈される予定で、蓮華寺池公園内に移設し、茶文化を発信する観光拠点として整備する方針だという。

最後に以前お世話になった方を訪ねた。とても美味しい料理を出すお店だが、現在は一日数組しかお客を取らず、しかも年内でお店自体を辞めてしまう予定だと聞いた。本当に残念ではあるが、このコロナ禍、お客さんを受けたくてもままならず、疲れてしまったのだという。ゆっくり休んでいただきたい。そしてまたいつか再開してくれたら、と思う。

夕方暗くなった頃、島田の宿まで送ってもらった。そして夜はお知り合いのIさんたちと、お寿司屋さんで会食した。茶の歴史などについてSさんに色々と教えてもらい、勉強になる。皆さん、夜の会食は久しぶりだと言っていた。ここではGoToクーポンが使えたが、店の外には一斉表示しておらず、店に入らないと使えるかどうかわからないようにしていた。どう見ても使ってほしくない様子が窺われた。お寿司屋さんは仕入れを現金で行っているのだろうか。お客が来てもクーポンだと現金化が遅れ、店の経営に影響があるのかもしれない。

11月19日(木)中村圓一郎を探して

翌朝も天気が良かった。宿で待っていると、川根のMさんが迎えに来てくれた。今日は戦前静岡の、いや日本の大茶商、中村圓一郎の歴史を訪ねる旅をすることになっていた。先ずは榛原郡吉田町に向かう。中村家は明治以前から醤油屋であり、その後製茶業にも参入したという。だが戦時中圓一郎が亡くなると、茶業からは手を引き、戦後は醬油屋だけが存続していた。

中村醤油に突撃したが、社員の女性は『昔のお茶のことはよく分かりません』とそっけなく言う。後ろから男性が出てきて、資料と言ってもこれしか、と言いながら会社のパンフをくれた。そこには圓一郎についても触れられているが、茶業についての詳しい情報はなかった。『あとは社長に聞くしかない』と言われたが、あいにく外出中で会うことは叶わなかった。まあ、突然訪問したのだから仕方がない。それでも醤油屋さんに辿り着いただけでもかなりの前進だ。

続いてMさんの家のある川根方面へ向かう。何となく途中までは、昨日通ったような気がする。藤枝の大茶樹へ行くのもこの道だったのか。そして大井川鉄道千頭駅付近までやってきた。駅の近くに中村圓一郎像が建っていたが、そこは分かり難い場所で、訪ねる人も少なそうだった。圓一郎は醤油や茶だけではなく、この大井川鉄道の初代社長も務めていたのだ。

更に近くの水力発電所もあるという。日英水電、イギリスの技術で発電を起こしたものだが、これらにも圓一郎は関与している。Mさんに案内されて、その遺構を見に行ったが、トンネルを掘り、水の落差を利用して発電が行われたようだ。そしてこの電力の一部は川根あたりの茶業にも利用されたというから、その貢献度は高い。今や忘れ去られている感のある中村圓一郎。その貢献を考えればもう少し顕彰されるべき人物ではないか。

それからお弁当を買い、山の上の方まで登っていく。見晴らしの良い場所でお昼を食べた。さすがお茶農家、Mさんはお茶入れ道具一式を持ち込み、ここでお茶を淹れてくれた。こういう環境で飲むお茶はまた格別だった。紅葉はちらほら見られたが、観光客はほぼいなかった。

それから川根を降りていく。途中森の中に突然モダンな建物が登場して驚いた。何とここは茶工場だという。美術館かと思うような建物がなぜ森の中に。そしてそれが茶工場とはどういうことか。更には新しく茶工場を作るということは、作った茶が売れる見込みがあるということだろうが、一体どんなお茶を作り、どこに売るというのだろうか。どうやら海外輸出か?

最後に金谷の方に降りた場所に、ここも最近できた商業施設、KADODE OOIGAWAがあり、見学する。緑茶・農業・観光の体験型フードパークと書かれている。かなり大きな施設であり、大井川鉄道の駅にも隣接している。お客さんも入っており、単なるお茶の販売だけでなく、お茶の体験コーナーなどもある。更に魚などお茶以外の売り物も多く、地元民が楽しめるようになっていた。

静岡茶旅2020(2)丸子から大井川へ

そこからまた歩き出す。いつの間にか浮月楼と書かれた料亭のような場所に出た。そこは最後の将軍徳川慶喜が駿府に移ってから住んだ屋敷跡だという。入って見たかったが、コロナ禍で営業しているように見えない。まだ時間が早かっただけか。せっかくここまで来たので、慶喜謹慎の寺、宝台院にも寄ってみる。この寺は家康の側室で2代将軍秀忠の生母、西郷の局の菩提寺だった。古田織部が作ったキリシタン灯篭などもあって、ちょっと興味深い。確か家康は自分の周辺の者がいつの間にかキリシタンになっていたことに恐怖を感じて禁令を発したと記憶している。

宿に戻り、荷物を受け取り外へ出た。今日は久しぶりに紅茶作りのMさんを訪ねることになっていた。わざわざ奥さんが静岡駅前まで迎えに来てくれたのは有難い。丸子に向かう途中の道路わきで車が停まったので、何かと思っていると、何と生シラスを購入。そのまま昼ご飯のお店(有名店、とてもよい景色)にそれを持ち込んで、丸子名物とろろ汁と共に美味しく頂く。何と贅沢なランチだろうか。そしてその場には、以前台湾でもご一緒した、日台協会の方もおられ、懐かしく談笑する。

それからMさんの作業場にお邪魔する。実は今年の頭に火事があり、現在は仮茶工場のようになっている。家もまだ土台しか作られていないが、製茶作業は既に行われており、さすがと思ってしまう。そして早々試飲が始まる。特に牛乳にもこだわった特製ミルクティーは美味しい。東京から来ていたYさんも一緒にお茶を楽しんだ。

ここは日本紅茶の祖とも呼ばれ多田元吉が茶作りをした土地でもあり、紅茶の歴史についても、色々と情報を得る。特に多田がインドから帰国した後、最初に紅茶を作ったと言われる高知、そこに同行した熊谷義一とは何者か、などの話題が出た。多田も使ったかもしれないお盆や茶葉を揉む笊などがここには残されており、火事でも無事であるのは、やはり歴史を明らかにせよ、ということなのだろうか。

あっという間に時が過ぎ、名残惜しいが、安倍川駅まで車で送ってもらった。今晩は島田に泊まる予定となっており、電車に揺られていく。車内に乗客は少ないが、これはコロナの影響なのだろうか。島田駅で降りてから、宿までの10分弱、本当に人が歩いておらず、寂しい感じがした。

宿はチェーンホテルだったが、手続きはかなり適当だった。更に『この辺でGoToクーポンを使えるところは?』と聞くと、『コンビニぐらいですかね』とそっけない。時間も遅いので、荷物を部屋に入れてすぐに外に出て夕飯を探したが、食堂らしきものもなく、あっても閉まっていて困った。

ようやく見付けた蕎麦屋さんでもお客は全くいなかった。きっと閉めようとしているところに私が飛び込んだのだろう。かつ丼セットは美味しかったが、クーポンは使えなかった。盛り上がっている静岡市内との差はかなり大きい。

11月18日(水)島田から金谷、そして藤枝

朝ご飯を宿で食べると、すぐに外へ出た。天気がとても良いので、歩き出した。実は宿の横が島田宿本陣だったので、何となく『越すに越されぬ』大井川を渡ってみようと思い立つ。30分以上歩いてようやく川の近くまで来ると、昔の建物が見えてくる。川越遺跡もある。川を眺めてみると、川幅はかなりあるが、水量は少ない。勿論今は橋が架かっているので、ゆっくりと橋を渡ってみる。

そこからまた30分以上歩いて金谷駅近くに来た。今日はこれから、ふじのくに茶の都ミュージアムで待ち合わせだったが、そこは駅の反対側、そして急な坂道だった。近道しようとGoogle検索に従って歩いて行くと、何と陸橋が補修で通行止めと書かれていて暗澹となる。もう体力が残っていない。思わず作業員に声をかけ、何とか渡らせてもらったが、その先の坂は相当に堪えた。

ミュージアムに着いた時には全身汗でびしょぬれで恥ずかしかった。取り敢えずお知り合いのHさんに声をかけ、ここの図書室に入れてもらい、資料を探しながら休んだ。その後展示を見学しながら、S君の到着を待った。ここの展示は当然ながらかなり細かく、私が探していたものも見つかってよかった。

見学が終わった頃、S君が到着して、彼の車で藤枝の方へ向かった。朝からずっと歩いていたので、車がやけに早く感じられた。藤枝の大茶樹を見に行ったが、山の中の茶畑に、こつ然と現れる感じだった。樹齢約300年、かなり遠くからでないとカメラにも収まらない。だがなぜここにこんな大きな茶樹が残ったのだろうか。昔見た嬉野の茶樹を思い出す。

静岡茶旅2020(1)静岡市内で

《静岡茶旅2020》  2020年11月16日-21日

10月以降、CoToトラベル解禁もあり、国内旅が少し行きやすくなっていた。だが冬が迫り、何となく雲行きが怪しくなってくる。出来るだけ、行けるうちに行っておこうと考え、旅を詰め込み始めた。中でも静岡だけは、来年の連載や調べ物の関係もあり、どうしても訪ねる必要に迫られて、行くことになった。果たして無事に行けるのだろうか。

11月16日(月)静岡へ

9時25分バスタ新宿発静岡行きのバスに乗った。乗った一番の理由は安い(新幹線の半額程度)からだったが、もう一つは『乗客が殆どいない』という噂だったからだ。ところが座席指定をしてみると、数席しか空いていないので、これは間違ったと思ったが、既にチケット購入済みで乗るしかなかった。ところが実際に乗車してみると乗客は10名に満たず、途中の高速道路バス停でも乗ってくる人はいなかったので、あとはゆったりと席を移動して、好天の富士山などを眺めながら、バスの旅を楽しんだ。

だがこのバス、まっすぐ静岡駅へは向かわず、清水付近で一般道に入り、いくつものバス停で停車した。元々高速道路でも渋滞区間があり、いつ着くかと心配していたが、最終的には10分遅れで到着したから、安堵する。すぐに予約してある駅前のホテルに荷物を預けて、静岡の街へ飛び出した。

直ぐに駿府城に突き当たり、更に歩くと茶町に出る。その道を北上していくと、少しばかり茶の名残がある街並みとなる。最盛期には茶問屋が軒を並べ、大いににぎわいを見せたお茶の街だが、今や静かに佇んでいる感じだ。取り敢えず約束していた茶業会議所まで駅前から30分弱歩いた。月刊茶に連載していた過去があり、懐かしくて、そして何か資料はないかと訪ねてみたわけだ。

編集者のOさんが在籍しており、資料探しの前に、先ずはお茶を一杯となり、そこから各地の茶話に発展していく。それは思いの外、楽しい時間であり、今後の旅へのヒントをくれる貴重な機会ともなった。結局ここで午後を過ごしてしまい、茶の歴史調査は特になく、Oさんの車で駅まで送ってもらう。これもまた楽しく、如何にも茶旅らしい。

ホテルに戻りチェックインする。この宿は新しいようで、きれい。そして部屋も広い。テレビを点けると大相撲中継があり、それを見ていると腹が鳴る。そうだ、ランチを食べていないことに今更気が付く。取り敢えず駅地下に潜ってみると、きれいな日本茶カフェが出来ていた。静岡各地のお茶が売られているようだったので、入って見ようかと思ったが、空腹には勝てず、スルーしてしまった。

静岡県は実に太っ腹だった。泊まったホテルで、GoToトラベルクーポン以外に、静岡商品券がもらえて、それが使えるお店に入り、美味しいお刺身を頂戴した。そんなに高くないホテル代なのに、と思っていると、どこからか『その宿は静鉄だから』という声が聞こえてきて、面白い。

11月17日(火)紅茶王を訪ねる

このホテルは朝食付きだったが、新しいホテルらしく食堂はない。1回に入店しているプロントで食べるのだ。混雑する時間を避けて早めに行ってみると、既に出張族で席が埋まっている。何とか滑り込んでプロントの和定食?を頂く。そういえば、ここで昨晩ウエルカムドリンクも無料でもらった。ちょっとしたことだが、なんだかとても得した気分になっている。

午前は散策に出た。昨日は通り過ぎた駿府城をゆっくり歩いてみた。城内?に徳川家康の像があり、家康が手づから植えたというミカンの木があった。その後ろは発掘調査が行われているようで、将来は復元されるのだろうか。周囲のお堀もきちんと残っている。高校が近いのか、学生が登校中の雰囲気で歩いて行く。

また茶町に舞い戻った。結局昨日はそこまで行ったが、何もしなかったのでちょうどよい散歩コースとして利用する。静岡に茶をもたらしたといわれる聖一国師の像があるというので行ってみたが、最近建てられたモダンな造りで驚いた。その裏側は茶市場のようだが、閉まっている。

それから当て所なくフラフラしていると立派なビルの中に中央図書館の分館があることがわかった。しかもそこは歴史情報センターとなっていたので、お茶関連の資料でもないかと寄ってみる。係りの方が親切に色々と案内してくれ、静岡県各地区の茶業史などを眺めて過ごす。やはり静岡の茶歴史はずば抜けて多い。だから困るとも言える。こんなに沢山あれば、整理できなくても当然だろう。

鹿児島茶旅2020(6)再び知覧へ

そこから3日前も通った道を再び知覧まで行く。着いた場所は、先日Oさんと横を通った鹿児島県茶業試験場。あの時は分からなかったのだが、何とここは既に移転しており、元試験場になっていた。60年ほどの歴史があったようだが、確かに今や人影は全くない。Kさんの計らいで、自由に中を見学することができた。茶工場内には製茶機械などがそのまま残されており、まだ十分に現役の余韻が漂う。古びた木製の揉捻機が歴史を感じさせる。

試験場には研修生など若者もたくさん来たようで、その名前が書かれていた。県としても若手の茶関係者、茶農家を育てる必要があり、大学に近いところに試験場も移されたらしい。外へ出ると目の前に茶畑がある。よく見ると台湾種などと書かれた茶樹もあり、多くの品種が植えられていた。その品種改良も活発に行われていたらしい。

この茶畑もその内取り壊されて歴史から消えていくのだろう。何となく寂しい。現在鹿児島の茶業はあの静岡を抜いて、生産量日本一がまじかに迫っていると聞いている。春に来れば、その勢いが十分に感じられるのかもしれないが、今回訪ねた地域では、ごく静かな印象しかなく、どうしても中国などの他国を見てきたものかたらすれば、日本の茶業全体が伸びているようには感じられなかった。

Kさんは私のFBを見ていたようで、知覧バーガーを買いたいというので、先日Oさんと行った店に寄る。だが11時からしか開いていないとのことで、少し待つ間、私は向かい側にあった英国館という紅茶屋へ入り、その展示物を見学した。英国館は紅茶の世界では有名なお店だと聞いていたので、鹿児島紅茶の歴史などが詳しく語られているかと思ったが、それほどなかった。英国館という名前からしても、英国紅茶がメインであり、従来日本において紅茶というのは西洋の飲みものだということを思い出させた。

それから急いで市内に戻る。Kさんは学校の先生なので午後授業があるのに、今日付き合ってもらい、非常に感謝している。借り出した本を見て、必要な部分は近くの店でコピーした。ここのコピー代が安くて、それにも感激した。その後また歩いて宿の方へ戻る。30分ぐらい行って、川沿いの維新ふるさと館に入り、休む。ここは幕末維新の歴史、そして鹿児島の偉人とその家族についての展示があり、参考になる。

もうやることもないので、そのまま川沿いをフラフラと歩いて行く。途中に松方正義の立派な像と生誕地があった。松方は明治、大正に政府の重職を担った人物だが、この場所から見ると、西郷や大久保とは少し離れた位置関係にある。明治14年の政変から松方デフレ、茶業者には評判も良くなかったが、その人生はもう一度じっくり見ていく必要がありそうだ。

気が付くと海の方まで来てしまった。調所笑左エ門の像が建っていた。調所と言えば、幕末に藩財政を立て直した人物で、これが後の倒幕に繋がるから重要だ。ただ抜け荷などの嫌疑をかけられ、切腹しており、薩摩が大いに活躍する幕末には登場しない。出てきても悪役だが、果たして本当にそうなのだろうか。

天保山砲台跡があった。ここも昨日見た砲台跡と同様、薩英戦争で砲撃された場所だ。更に行くと、何と坂本龍馬新婚の旅碑というのがあった。坂本龍馬とおりょうは日本で初めて新婚旅行をしたと言われているが、本当にそうなのだろうか。明治以降のおりょうさんの寂しい最期を考えると何となく悲しくなる。

また川沿いを戻っていく。途中の公園に乃木静子像があった。あの長州出身の乃木将軍の妻、明治天皇に殉じた女性は、実は薩摩の出であった。なかなか歴史の表舞台には出てこない女性史。これからは大いに注目してみたいような気がする。

時間となったので、荷物を宿で受け取り、駅前のバスターミナルへ行って、空港バスに乗る。また昼ご飯を抜いたので、そこにあったコンビニでサンドイッチを買って食べようとしたら、税率が2%違うと言われ、驚く。確かにニュースでは聞いていたが、コンビニが設置したスペースで食べるのと、その外側のベンチで食べるのに、税金が違うというのは何とも新鮮ではあるが、府には落ちない。コンビニ店員の応答は門切り型で慣れたもの、この種の問いは既に多く投げかけられており、皆が疑問に思っていることがよく分かる。空港まで1時間ほど、到着しても乗客の姿はあまり見られない。『知覧茶 全国茶品評会 日本一に輝く』という横断幕が誇らしげに掲げられていた。

鹿児島茶旅2020(5)鹿児島市内を歩き尽くす

歩き疲れて外へ出た。だが隣に尚古集成館があったので、ついそちらにも寄ってしまう。ここは島津斉彬が富国強兵のため、産業振興を図った場所と聞いている。造船・造砲・ガラス製造・紡績・写真・電信など多岐にわたる事業を展開、薩摩ガラスや反射炉の工場を建てている。内部では鎌倉時代以降の島津家に関する展示などもあり、興味深い。島津と茶については、今後もう少し勉強してみたい。あの家老、調所広郷の息子が明治に入って北海道開拓に尽くし、後に男爵となったというのが目を惹いた。有名人も多い薩摩出身者だが、それ以外の人々の明治というのも、一度調べてみたいテーマではある。

天気が良いので何となくここから歩きたい気分になる。ちょっと行くとすぐに明治時代に建てられた、感じの良い洋風の金鉱事務所が移築されていた。湾沿いにずっと歩いて行くと、琉球船の目印松などがあり、格好の良い桜島を見ながら薩摩-琉球の繋がりに思いがいく。琉球にとっての薩摩とは、何ともやるせない存在だろう。

更にザビエル上陸記念碑までかなりの距離を風に吹かれて歩いて行ってしまった。ザビエルが最初薩摩に上陸したのは、案内役のヤジローの故郷だったからだろうか。そこに見た風景とは一体どんなものだっただろうか。薩摩では仏教徒の反対に遭い、すぐに引き上げたらしい。

進んでいくと、砲台跡の碑があった。ここが幕末の薩英戦争の舞台であろうか。薩摩がイギリス艦隊の力を思い知り、明治維新に至った、ある意味歴史的場所ではないだろうか。この付近は公園になっており、西南戦争の官軍戦没者慰霊碑もあった。この戦いでは西郷軍だけではなく、官軍側にも多くの死者が出ており、その慰霊碑だったが、心はどちらも薩摩人、という思いもあっただろうか。薩英戦争と西南戦争、鹿児島を変えた二つの戦い、地元ではあまり触れたくない歴史かもしれないが、もう少し注目してもよいのではないだろうか。

そこから小高い丘に登る。多賀山公園は、島津氏の昔の山城の跡らしい。だがここの主役は何といっても日露戦争の英雄、東郷平八郎だろう。その墓にはきれいな花が供えられており、更に上ったところ、桜島を一望できる場所に銅像まで建っている。鹿児島で今まで見た中で一番優遇?されているのは、東郷さんではなかろうか。

ここで銅像と桜島を一緒に写真に収めようとしたが、何とこの狭い場所を占拠し、Youtubeの動画をずっと撮っている女性たちがおり、声をかけても『夕日が落ちてしまうので』と言って、とうとうどいてくれなかったのには、おおいに驚いた。これからはYoutube命、という人が増えるのだろうか。何とも迷惑な話だ。こういう人たち、どこかに通報すれば排除してくれるのだろうか。

夕方になり、あまりに長い時間歩いて疲れてしまったので、ここからバスで帰ることにした。何とかバスに乗り込んだが、料金を払うための券を取ると、何と文字や数字がほぼ見えずに、いくら支払ったらよいのか分からず困った。機械のインクが切れていたのだろうか。宿より少し前で下車するが、運転手に声をかけても気にする様子はない。Suicaも使えなかった。

午後5時前だが、昼ご飯を食べておらずかなり腹が減る。こんな時間に開いている店などあるのだろうか。すると目の前にレストランが見え、何と開店していたので、たった一人で思わずステーキセットを頬張って喜んでしまった。今日はあんなに歩いたのに、腹が一杯になると、ちょっと散歩したくなるから何とも不思議だ。

中央駅前まで行き、ライトアップされた立派な薩摩留学生像の写真を撮ってみる。既に暗くなっており、うまく撮れないが、五代友厚が率いたこの留学生たちも、日本の近代化に活躍したのだろう(個人の紹介も書かれているようだが、暗くてよく見えない)。そしてこの留学費用捻出のために五代が藩に建白した『五代才助上申書』の中に、なぜか紅茶製法が書かれており、非常に興味を惹き、調べてみることになった。五代に紅茶を教えたのは長崎のグラバーだろうか。

10月28日(水)知覧へ

翌朝Kさんが車で迎えに来てくれた。知覧方面に向かったのだが、先ずは途中にある鹿児島県茶業会議所に立ち寄る。Kさんはわざわざ電話で資料の有無を確認してくれ、その貸し出しを得るためにここにやってきたのだ(資料は車中で拝見する)。この周囲には茶市場があり、茶業関係の会社が軒を並べている。ここが今や日本一の生産量となる鹿児島茶の中心だと思われたが、今は季節ではないので、人影もなくかなり静かな朝だった。