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京都、滋賀、兵庫茶旅2021(3)近江八幡を歩く

近江八幡

来た時と同じバスに乗り、また近江八幡まで戻る。既に結構歩いたので疲れてはいたが、天気も良かったので、そのまま近江八幡の街を歩いてみることにした。『近江商人発祥の地』の碑がある駅前から歩くと30分ほどのところに、歴史的風景地区があった。ここは江戸時代朝鮮通信使の通り道でもあったようで、朝鮮人街道という名前も見られた。

昔の図書館風の建物、資料館というのがあったので入ってみた。近江商人と茶について、何か展示はないかと探したが、特に見当たらない。一生懸命資料を見ていたら、話しかけてくる人物がいたので、茶について聞いてみると、『茶の歴史の観点で見る人がいないんですよ。大きな商家には必ず茶室があったのですが、誰も管理しないから昭和の中頃までにどんどん朽ちていきました』と説明してくれた。この方がここの館長さんだった。

木造家屋が立ち並ぶ一角は非常にきれいで、時代劇の撮影に使えそうだった。更に行くとメンタームと書かれたビルがある。ああ、近江兄弟社だ。資料館があるようだったが、コロナで閉まっていた。その前には、後に京都などでも多くの西洋建築を手がけたヴォーリズの像がある。

彼は英語教師として来日してここで生活を始めたと書かれている。終戦直後マッカーサーと近衛文麿との仲介工作をしたともいわれるヴォーリズという人物は実に多彩で、興味深い。機会があれば、もう少し調べてみよう。尚私が子供の頃から慣れ親しんだメンソレータムは今やロート製薬の商標になっているという。

景色の良い川を渡ると日牟禮八幡宮があった。何となく人がそちらに歩いていくので、吸い寄せられるように入っていく。何となく御利益がありそうに感じられる。その八幡宮の向かいには、白雲館という洋風の建物が建っていた。今は観光施設として使われているようだ。更に歩いていくと、ヴォーリズ学園があり、ヴォーリズ記念館もあるとのことだったが、残念ながら閉まっており、見学はできなかった。

さすがに歩き疲れた。そして腹も減った(今日もランチは食べていない)。歩きで駅前まで辛うじて戻るとエネルギー不足が顕著となるが、時刻はまだ4時半。こんな時間に食べられるところといえばラーメン屋ぐらいしかなかった。ラーメンだけでなく、ミニ丼までオーダーして、本当に腹いっぱいになるまで食べる。そしてまだ明るかったが部屋に戻り、あまりの疲労から倒れこむ。まあこんな日もある。

10月24日(日)但馬へ

今日は兵庫県の日本海側まで行く。そのルートを色々と検討したのだが、和田山という駅に特急などを使わずに行くのは京都から嵯峨野線で園部、そこから山陰本線で福知山経由というルートが一般的らしい。ところが検索サイトではもう一つ全く同じ料金で、姫路へ出て、そこから播但線で行くルートも表示されている。

せっかく行くのだから、面白いルートの方が良いと思ったが、確か姫路まで行くとSuicaは使えないだろうと駅で確認を取る。するとなんと、姫路経由だと料金は2000円ぐらい余計にかかるというのだ。確かにかなり遠回りであるから料金が同じという検索サイトの表示は不思議であったが、駅員はそこには一切触れずに、『京都経由ならSuica使えます』とだけ説明する。

本件については和田山駅を降りる時になって、そのカラクリをようやく理解したが、ここでは敢えて書かない。それにしてもJRのシステムは、相変わらず面倒な事が多い。こちらの質問にちゃんと答えず、最後は駅員の方が不機嫌になる、という態度は止めてほしいものだ(もしかすると私を鉄オタと勘違いして、わざとクレームしていると思ったのかもしれないが??)。

京都、滋賀、兵庫茶旅2021(2)彦根の井伊直弼と日野の蒲生氏郷

彦根
そしてまた新快速に乗る。僅か14分で彦根に着いた。また駅に併設されている観光案内所に入る。日本はある程度の規模の駅なら、どこへ行っても観光案内所があり、何ともありがたい。尋ねたのは『井伊直弼とお茶に関して分かる所はどこ』であった。

駅前の像、井伊直政公、彦根藩初代、あの徳川四天王、井伊の赤備え、女城主直虎にも登場したな。ただよく見てみると、1602年彦根城築城途中に佐和山城で死去(42歳)、彦根藩になるのは彼の死後だった。それから200数十年、井伊家の所領は変わらず、そして幕末あの井伊直弼の代となる。

とにかく彦根城に向かう。その堀の前を曲がると、そこに埋木舎があった。ここは直弼が部屋住み時代に15年間暮らした場所だった。中を参観すると、大河ドラマ第1回直弼が主人公の『花の生涯』などの展示がある。今年の大河『青天を衝け』の岸谷五朗とは全然違う。ただ今回の大河で直弼が大老になった要因の一つとして、家定に茶菓子を献上した様子があったのは特筆される。

舎内は落ち着いた雰囲気があり、彼が詠んだ句も示されている。お茶室などもあって、やはり直弼と茶は大いに関連がある茶人だと感じる。座禅の間もあり、善と茶の関連も垣間見られる。部屋住みの暗い人生、と思われがちだが、意外と楽しんでいた可能性もある。

彦根城にも入ってみようかと思い、堀を渡ると、そこに宝物館があった。ここで直弼の茶道具などが見られるのではないかと期待したが、何と明日からの特別展のため模様替えで、入れてもらえなかった。明日は何が見られるのかと聞いても答えがなく、驚いて城も見ずに引き上げることとなった。

堀の周りを回り、楽々園へ行く。ここが直弼生誕の地だという。こちらは幸運にもたまたま一般公開(しかも無料)されており、その屋敷と庭を眺める機会を得た。しかし14男として生まれた男が藩主になり、しかも幕府の中枢に行く、というのは、余程の命運を持った人だったということだ。庭がなんとも美しい。この屋敷の近くには井伊直弼の立派な像も建っており、彦根はやはり井伊直弼中心かと思わせた。

図書館へ行き、井伊直弼関連、特に茶についての資料を漁った。職員も親切に対応してくれ、コピーも沢山出来た。まだ少し時間があったので街を歩くと、かなり古い建物なども一部に残されており、彦根がいい街であると知った。帰りに駅前で『ひこね丼』という幟を見たので、思わず食べてみた。近江牛のすじ肉を使った牛丼であろうか。最近こういうご当地グルメが多い。それからJRで近江八幡に戻り、夜は宿で休息する。

10月23日(土)日野

朝ご飯は宿で食べたが、ここの朝食は非常に簡易。最近立派な朝食ばかり食べてきたので、少し物足りない。ここはチェーンホテルだが、その中で格が一段落ちるステータスだった。名前だけで宿を選んではいけない。

今日は蒲生氏郷を追って日野へ行ってみる。とにかくバスに乗るしかないので近江八幡駅から出発。今日も何とも天気が良い。途中鉄道の日野駅もあったが、目的地まではここからでもバスに乗らないと相当遠いことが分かる。約50分かかって、何とかバスを降りた。日野川ダム入り口、というバス停からして、人家など無さそうだったが、意外や家が結構ある。

蒲生氏郷はここ、旧中野城で生まれた。石碑が建っており、近所に産湯を浸かったという井戸も残されている。日野川沿いには氏郷と冬姫の略歴の看板があった。ここではやはり冬姫も注目されている。城跡はちょっとした森になっており、小高い神社に登ると、昼間でも神秘的な感じがする。

バス通りに戻り、更に歩いていくと古い家屋が見られる。この付近は往時日野商人の屋敷が多くあったのだろうか。その1軒が公開されていたので見学する。日野商人は本宅を日野に置くが、商売する場所は日本各地に渡っており、基本的に本宅にいるのは奥さんだというのを初めて知る。北関東などにもかなり進出しているのは意外だった。ここ山中正吉邸の主は、静岡の富士宮で酒造業をしていたという。その内部には立派な部屋がいくつもあり、庭も美しく、往時の財力が窺われる。更には非常におしゃれな洋室があったりして、実に多彩だ。

この辺の道を歩いていると、ちょっと時代感覚がなくなる。更に行くと、日野商人館があり、先ほどと同じ山中姓の商人の更に広大な屋敷を見ることもできる。ここでは日野商人のネットワークや商法などを知ることもできたが、今後何かの機会にきちんと調べてみたい対象だった。近江商人と一括りにするのは少し違うのかもしれない。

途中の信楽院という寺は、蒲生家の菩提寺で、氏郷の遺髪供養塔もあった。更には雲雀野公園に、蒲生氏郷像を見ることができた。やはりここは蒲生発祥の地であり、当然ながら氏郷はその中心人物と位置付けられている。氏郷は武勇に優れただけの戦国大名でもなければ、ただの茶人大名でもなさそうだ。彼が持つ商人的な発想はきっとこの地で磨かれたものであろうし、それが秀吉を恐れさせたとすれば恐るべし、である。

京都、滋賀、兵庫茶旅2021(1)京都 百万遍から吉田山

《京都、滋賀、兵庫茶旅2021》  2021年10月22‐26日

夜奈良から京都に移動した。宿は京都駅前だったが、腹が減ってしまい、京都駅の地下の蕎麦屋でとり天うどんを食べた。意外においしく満足して宿に入り、大浴場に浸かって幸せに眠った。Gotoトラベルがなくても、駅前の宿なのにそれほど高くない。これもコロナ禍のお陰というべきだろうか。

今回京都は半日だけで、そこから滋賀、兵庫と転戦した。いつもは通り過ぎてしまう場所を訪ねたり、ゆっくりと温泉にも浸かり、一味違った茶旅となった。

10月22日(金)京都百万遍

宿の朝食会場はちょっと狭かったが、食事内容には満足した。ここはチェーン店で最近京都市内にいくつもホテルをオープンさせている。外国人観光客目当てだったのかもしれないが、そのあては今のところ外れてしまったが、私のような者にはありがたい場所であり、今後もご贔屓にしたい。

宿に荷物を預けて、早々街に出た。宿から一番近いバス停に行くと、高瀬川の川端だった。そこには記念碑が建ち。説明書きも見える。先日読んだ小説の主人公が、江戸初期にこの川を作った角倉了以であり、何となく親近感を覚える。宇治からの茶の輸送のこともあり、この川の意義は別途考えるべきだと感じる。

バスで百万遍を目指す。百万遍の交差点と言えば、陸上競技の高校駅伝や都道府県駅伝の実況で何度も聞いた場所ではあるが、ここで降りたのは初めてだろう。今日は知恩寺を訪ねるためにやってきた。因みに百万遍とは、1331年に疫病が流行った時、7日間百万遍念仏を唱えて撃退したことから付いたという。

このお寺に来た目的は1つ、織田信長の娘、冬姫のお墓を探すことだった。冬姫は戦国最強武将の一人で、千利休の一番弟子でもあった蒲生氏郷に嫁ぎ、氏郷亡き後も関ケ原の戦いから徳川時代初期を生きてきた人物である。残念ながらその詳細は分からない部分が多いが、恐らく氏郷にとって重要な人物であったはずである。しかし一般にはほぼ知られていない。茶の歴史にも何等かの関係があったであろうか。

お寺の奥に墓地があったが、結構広く冬姫の墓を探すのに苦戦する。だが最近はお墓探しも慣れてきたので、いくつかのヒントから何とか探し当てた。するとそこにはちゃんと『蒲生氏郷公室 冬姫之墓所』との表示が見付かった。400年前の墓だと文字が読めないなどで苦労するので大変有難い。

この近くに吉田神社があると知り、歩いて向かう。京大農学部前を通過すると、その先に竹村園というお茶屋さんがあった。確かFBで何度も見た名前だったので入ってみようかと思ったのだが、まだ早い時間だったので、通り過ぎた。その先北参道と書かれた表示を曲がったが、意外と遠くに感じられた。

この神社、吉田山大茶会というお茶イベントが毎年開かれており、まだ参加したことがなかったので今年こそはと思っていたが、残念ながら中止となっていた。取り敢えずどんなところか訪ねたわけだが、石段が多かった。ようやく神社に到着すると、何と幼稚園の運動会が開かれており、お参りもトイレに行くことも難しい状況で早々に退散となる。

そこから更に石段を上ると、かなりきつかった。やはりここは吉田山なのだ、と気付いた時はもう遅かった。山の頂上まで喘ぎながら登り、向こう側へ下るしかなかった。茶会は一体どこでやっているのだろう。予想外に面白い立地ではあるが、イベントをやるには厳しい環境に見えた。

その先に銀閣寺があるようだったので、哲学の道を歩いてみる。観光客は残念ながら戻っておらず、閑散としていた。適当にバスを探して、京都駅前に戻り、宿で荷物を引き取って、京都駅からJRに乗った。今回の京都滞在は短かったが、私が知らない京都はまだまだたくさんありそうだったので、また来ることとしよう。

京都を出た東海道線新快速は、琵琶湖の南岸を掠めて、わずか30分で近江八幡駅に滑り込んだ。この30分の間にも大津、石山、瀬田と行ってみたいところが目白押しだったが、今回は素通りした。駅ではまず観光案内所で地図をもらい、ついでに日野への行き方などを聞いた。今日の宿は線路沿いのチェーンホテル。荷物を置いてすぐに外へ出た。

静岡、三重、奈良茶旅2021(6)山添村と月ヶ瀬の茶

10月21日(木)山添村と月ヶ瀬

朝ご飯の後、早々にチェックアウトして、荷物を持って下に降りた。今日はYさん夫妻、そして台湾で会って以来、ご無沙汰のKさんと待ち合わせて、山添村へ向かう。有難いことに奈良駅前集合なので、さっと移動できた。Yさん運転の車で1時間もかからずに、山添村に入った。思っていたより近いし、それほど山の中とも思われなかった。

村役場に行く。最近建てられたのかとても立派だった。中では山添村(旧波多野村)の茶業史に詳しいHさんが待っていてくれた。早々に戦後の森永紅茶について色々と伺う。こちらは亀山よりも先に森永が進出していたが、茶業を推進したのは、あの亀山の川戸勉氏だった。

実際山添村は奈良市からもそれほど離れてはいないが、生活圏(スーパーや病院など)は三重県方面にあるといい、現在であれば高速道もあり、亀山から山添は車で1時間だという。また戦前台湾三井で川戸氏の部下、共に紅茶を作っていた高原正一さんがこちらの茶業に関わっていたというのも興味深い。やはり戦前の台湾人脈がここでも紅茶を作っていた。ただ高原さんに関する情報は途絶えており、分からなかったのが残念だった。

お話を伺った後、60年前に森永に茶葉を供給していたという茶園を見学した。非常な急斜面に茶樹が植わっていた。この風景は昔の写真にも残っており、そこには森永の文字も見えている。紅茶作りは50年前に一度終焉し、その後は緑茶を作っていたが、最近また紅茶づくりが復活しているという。

最近はイベントで紅茶作り体験を行う他、針インターに隣接する道の駅、針テラスなどでも紅茶の販売を行っていると聞いた。そういえば数年前、こちらに就業した茶農家さんと針テラスで会ったのを思い出したが、彼はどうしているだろうか。

Hさんとはそこでお別れして、車は奈良方面に少し戻った。山添の茶工場の前、1950年頃に作られた田原工場の跡地が、道路沿いにあるというので行ってみるも、残念ながらここも全く痕跡はなかった。近くに山添村歴史民俗資料館があり、昔の小学校の校舎を見る思いで、立ち寄ってみる。何だか映画のセットにいるような気分になるほど、いい雰囲気の建物で、中には茶関連の資料も少しあった。

午後月ヶ瀬の茶農家に伺う前に、ランチを頂く。如何にも田舎の食堂という雰囲気がとても良い。おばさんも愛想よくて気持ちが良い、山菜、お揚げ、卵の入ったうどんを食する。更にぜんざいまでデザートとして食べてしまった。何だか幸せな満腹。

月ヶ瀬のIさん夫妻とはもう6年も前、下田で一度会っている。その時『今度是非伺います』と言ってから、これだけの月日が流れている。私は全国で『今度行きます詐欺』を働いている。今回は同行したKさんが『Iさんと話していたら、お父様が森永紅茶の原料を作っていた』との情報をくれたので、Yさんにお願いして寄せて頂いた。

Iさんは20年ほど前に故郷に戻り、家業を継いだ。だが従来の緑茶だけでは将来は難しいと考え、極めて独創的な茶業を展開していた。土壌などの茶園管理に気を配り、品種についても非常にこだわりを持ち、品種の実生から新たなものを生み出そうとしていた。これはすぐに結果を得られるものではなく、かなり先の将来まで見据えた戦略だといえる。あちこちにまだ育ち始めの茶の木がかわいらしい姿をしている畑を見ていると、先の楽しみを思う。

『紅茶については、自分は父親が作っていたとは知らなかった。自分が紅茶作りを始めるに当たり、近所の先輩に聞いたところ、森永紅茶の話が出てきた』と言っておられた。国産紅茶の歴史は50年前に一度完全に断絶し、その後の空白期にほとんどのことが忘れ去られていた。『悲しい日本紅茶の歴史』はどこにでもある。

あっという間に時間は過ぎ、茶畑に日が落ちていく。山の日没は早い。暗くなったところで、茶工場も見せてもらうと、台湾製の製茶機械などもあった。色々と研究を重ねているようだ。次回は天気の良い日に、半日この茶園をゆっくり散歩してみたいと思う。帰りもまたYさんの車で奈良駅まで送ってもらった。名残惜しい奈良だったが、そのままJRで京都へ向かった。

静岡、三重、奈良茶旅2021(5)奈良を歩く

10月20日(水)奈良へ

今朝は晴れていた。そして今日は奈良へ移動する。移動ルートはいくつかあるようだったが、あまり考えずに来た電車に乗り込む。まずは近鉄で松阪方面へ向かい、伊勢中川という駅で大阪方面の電車に乗り換える。そこから桜井駅まで乗って、JRに乗り換える。JR駅までは少し距離があり、またなぜかホームは寒かったが、何とか電車に拾われて、奈良駅まで辿り着いた。これが一番料金が安いルートだったらしい。電車が奈良県に入ると、歴史的地名、遺跡の案内などもあり、何度か降りたい衝動にかられたが、荷物が重いので残念ながら控えた。

奈良駅前の某チェーンホテルを予約していたので、荷物を置きに行って驚いた。通路にずらっと荷物が野ざらし?に置かれており、これでは誰かが盗んでいっても全く分からない。思わずそれを指摘すると、フロントの女性は『いやなら、駅のコインロッカーに預けて』というではないか。さすがにすぐにマネージャーが出てきて、特別にフロント内で預かるという。見れば外の荷物は修学旅行の学生のものだった。コロナ禍でも何とか修学旅行に来られたのはよかったなと思うが、荷物はちょっとかわいそうな気がした。

チェックインまでかなり時間もあるので、取り敢えず駅前の観光案内所に立ち寄る。そこで地図をもらい、県立図書館の位置を確認するが地図に載っていない。街中とは正反対の方向で、しかも意外と遠い。バスも頻繁にはないらしい。まあ天気が良いので今日は歩いていくことにする。ただ折角の奈良なのに、住宅街を歩いているだけなんてつまらないなと思いながら歩く。

30分ほどして、図書館に到着した。今や日本の図書館はどこもきれいで立派だ。ここで昨日と同様、奈良の茶業関係資料を探しまくり、見付けるとコピーしていく。残念ながら目指していた奈良紅茶の歴史やそれにかかわった人物については、ほとんど資料は出てこなかった。奈良も歴史事案が多過ぎて、茶業などは当然のように埋もれてしまったのかもしれない。

朝ご飯はたくさん食べていたものの、さすがに腹が減った。帰り道にあったチェーン店のうどん屋に思わず入る。そして目に留まったかつ丼セットを注文。かつ丼意外とうまい。そして関西風うどんはいい味だしている。なんだかちょっと嬉しくなる。食後は元気になり、何となくその勢いで、街中に突入した。

ふらふらと歩いていると、突然茶道発祥の地、という文字が目に入る。近くには『茶礼祖 村田珠光』の文字も見える。称名寺というお寺は村田珠光がいたところだった。茶道関係者なら一度は訪れる場所かもしれないが、私はちょっと拝見するだけだった。それから奈良時代の聖武天皇の御陵(佐保山南陵)を通った。隣の佐保山東陵には光明皇后が埋葬されていた。やはり奈良を歩くと一気に1000数百年の時を超える。

東大寺の横も通る。狭い道を修学旅行の中学生が歩いてきて、思わず車道を歩く羽目になり、すれ違う際車に轢かれそうになる。奈良の人はきっとこんな光景には慣れているのだろう。旅行会社のガイドさんもさほど気にしている様子もない。何だか疲れてしまい、宿に戻ってチェックイン。すぐに大浴場へ向かったが、浴場の場所がフロントに近くて、お客さんと沢山鉢合わせ。ちょっと落ち着かない。

更にドリンクが無料で提供されているのだが、その食堂へ行くのに、フロントを通るので困る。よく見たら反対側から行けることが分かり一安心。実は翌朝朝食を食べようと浴衣で出かけたら、何と朝は反対側の通路は通行禁止で着替える羽目に。昨日まで3泊した宿があまりにも良くできていたので、その差が歴然とし過ぎていて怖い。いくらファシリティーがあっても、使い勝手が考慮されていない、それを補うべき人材に問題があれば、ただの猿真似ではないだろうか。

静岡、三重、奈良茶旅2021(4)亀山へ

10月19日(火)亀山へ

翌日も宿で朝食を食べてから出掛けた。駅へ行くと大勢の人が集まっている。衆議院選挙なんだな、と思っていると、何と田村厚生労働大臣が現れ、演説を始めるところだった。そうか彼の選挙区は三重だったか。厚労大臣と言えば今や時の人だから、地元としても力が入っている。

私は今日も切符を買い、JRに乗り込んだ。昨日とは反対方向、亀山に向かう。僅か20分ほどで到着する。駅を出るとNさんが待っていてくれた。Nさんとは、Facebook上で知り合いになった。彼の投稿に茶の歴史関連が多く、三重茶の歴史にも詳しそうだったので、いきなりメッセージしてみたところ、快く迎え入れてくれたのだ。

だが彼がどんな仕事をしている人なのか、全く知らなかった。この辺が茶旅の面白いとこであり、恐ろしいところでもある。車に乗り込んですぐに『私が誰だから分からずに連絡してきましたね』とNさんに言われ、ドキッとした。そしてその車はどこへ進むのかも分からなかった。

到着した場所、それは試験場だった。茶業研究室、それがNさんの職場。何と茶の歴史好きというだけではなく、茶の専門家だったのだ。早々に三重県の茶業史などについて、色々と教えを乞う。私が今興味を持っているのは、明治初期の駒田作五郎、大正期の伊達民三郎、そして戦後紅茶史に輝く川戸勉、全て三重出身の茶業者だ。駒田、伊達については、地元有志で研究が進められているという。

そこへ川戸勉氏の息子さんが登場した。今回一番会いたかった人をNさんがわざわざアレンジしてくれていた。感謝しかない。ここからは戦後の紅茶史、特に川戸紅茶と森永紅茶に関して、かなり具体的なお話を聞いた。そして戦後の国産紅茶が、戦前の台湾から脈々と繋がるものであり、三井の日東紅茶を作った人々の歴史でもあることを確信した。

川戸さんが紅茶作りで使ったべにほまれは、その後の国産紅茶終焉でほぼなくなってしまったが、最近地元有志が復活を目指して活動しているという。今回は試験場に植えられたべにほまれの前で写真を撮らせて頂き、お別れした。

お昼時となったので、Nさんの案内で、イタリアンレストランへ行く。なぜイタリアンかというと、ここで亀山紅茶が飲めるからだという。最近の和紅茶ブームもあり、日本各地で国産紅茶が飲めるのは嬉しい。それから以前紅茶工場があったあたりに行ってみたが、全く痕跡はなかった。

最後に先ほどの川戸さんのご自宅に立ち寄り、何と川戸さんが経営していた有名な喫茶店のカップ(モーレツ紅茶の名称入り)を頂戴した。すでに数年前に閉店しているこのお店のカップ、プレミア商品だ。更にお自宅の裏に残る茶工場、そして製茶機械を拝見した。確かにここに紅茶作りがあったことを確認した。Nさんに駅まで送ってもらい、駅前のお店で亀山紅茶を買って、電車に乗り込んだ。

博物館と図書館

津駅まで戻ると雨が降っていた。一度宿に戻ろうかとも考えたが、先ほどNさんから県立博物館へ行ってみたら、と言われていたので、バスを探してみた。すると今まさに出ようとしていたので思わず乗り込んでしまう。雨の中、15分ぐらいでバスは博物館の近くに止まった。

博物館の受付で『お茶に関する展示が見たい』と言ってみると、何とわざわざご担当者が出てこられて、『お茶関連の展示は殆どないのですが』と恐縮している。ちょっと話していると、駒田作五郎関連の品などがご子孫から提供されているらしいが、まだ公開には至っていないという。三重のお茶の歴史は、実はこれからなのではないか。

博物館の展示を見学すると、確かに茶業関連のプレートはちょっとあるだけだった。そこにはあの大茶商、大谷嘉兵衛と並んで駒田の名前もあった。三重は松阪商人などが名を馳せており、商業に関する展示は多かった。そう、あのエカテリーナの茶会で紅茶を飲んだ(日本紅茶の日の由来)と言われる大黒屋光太夫も伊勢の船乗りだった。

そしてこの博物館は総合博物館と書かれており、古代の恐竜から現代まで、相当力の入った展示が行われている。今後茶業の展示が増えることに期待したい。3階に資料室があるというので行ってみたが、資料があるのかもよく分からず、コピー不可と言われてすごすごと立ち去る。

まだ雨は降っていたが、すぐ横に図書館があったので、そちらへ移動する。こちらでは色々と資料の検索をしてもらい、茶業関係の資料のコピーもできてよかった。三重の茶業、江戸時代、明治時代から現代までかなり興味深い。まあ今でも日本で3番目の生産量があるのだから、もっと注目される存在だろう。ただ三重茶業史の歴史上の人物が分かってくるのはまさにこれからだろう。帰りもバスに乗ろうと思ったが、雨も止んだので、ゆっくり歩いて帰った。夜は疲れたので外出はせず、夜泣きラーメンを食べて寝る。

静岡、三重、奈良茶旅2021(3)松阪と蒲生氏郷

観光案内所なら何とかしてくれるかも、との淡い期待。すると『今日は月曜日だから、どこもみんな閉まっているんです』とのつれない答え。これは困ったと周囲を見渡し、パンフレットなどからヒントを探る。今回の目的は蒲生氏郷だからそれを伝えてみると、『郷土史に詳しい人は今出掛けている』というので、取り敢えずお城見学に出掛けることにした。

駅からまっすぐ行くと、日野町と書かれた交差点がある。この付近に滋賀の日野、蒲生氏郷の生まれ故郷が見えてくる。氏郷が日野からここに来た時、大勢の日野商人、職人を呼び寄せたらしい。そこを曲がっていくと、松坂牛の幟がある。松阪牛、美味しそうだが、その店も今日はお休み。路上には江戸時代の国学者、本居宣長の像がなぜかボックスに入れられてある。そうか本居宣長もここの出身だったのか。お城脇に旧宅も残されていたが、月曜日はやはり入れなかった。

老舗のお菓子屋もあり、創業天正3年とあるから、まだ信長の時代である。信長が好む菓子を作らせたとの話もあった。やはり茶道関連である。そして三井家御用達ともある。そうか、ここ松阪は三井家発祥の地でもあったのだ。三井と茶の歴史、三井家は勿論、鈍翁や日東紅茶など、とても興味がある。三越のシンボルであるライオン像もあった。三井家のお屋敷は今もこの地にあったが、門は固く閉ざされていた。この付近には松阪商人の商家がいくつも残されていた。

松阪城跡に辿り着いた。『蒲生氏郷と松阪城』という打って付けの展示が、歴史民俗資料館で行われていたが、ここも月曜日で休みだった。ここは建物自体が歴史的でよい。本丸も天守閣も何も残っていない城跡を上っていき、ただただ眺めた。氏郷がこの城をどうように作ったのか、を知ることはもうできない。それから古い街を歩き回って駅に戻った。

さっき訪ねた観光案内所に行くと、観光ガイドの方が戻っており、氏郷関連の歴史について、色々と話を聞いた。だがやはりこの街に残されているものは多くはないという。話の流れで、会津で氏郷の墓を見たと告げると『実は松阪にも墓がある』というではないか。そしてなんとその寺まで案内してくれた。

龍泉寺というそこは駅からそれほど遠くはなかった。立派な門を潜るが、氏郷の墓がどこにあるかは容易には分からない。やはり一緒にきてもらって正解だった。墓は大きくはなく、その前に写真が掲示されていなければ、全くわからないだろう。その写真は昭和10年に展墓祭というのが開かれた時のものだという。氏郷の本墓は京都大徳寺にあるというので、ここにある墓は亡くなった元城主を慰霊するものらしい。氏郷は後世でも松阪の日人に愛されていたのだろうか。今回松阪に来て一番の発見だったかもしれない。

津新町から歩く

急いで駅まで戻り、津に戻る電車に乗った。この駅でも当然ながらJRと近鉄が走っており、どちらに乗るかを考えなければならなかったが、面倒なのでSuicaを使い、近鉄にした。そして津駅より1つ前の津新町駅で降りて歩く。1㎞ぐらい歩くと、松菱百貨店がある。ある人が昨年、三重で商売するなら松菱の包装紙に包まれた土産を持参しなければ始まらない、と力説していたのを思い出し、どんなところかと訪ねてみたのだ。まあいかにも老舗ローカルデパートという感じ。お客が少ないのはコロナのせいだろうか。

そこからちょっと歩くと、津城跡があった。ここは公園になっており、藤堂高虎の像が建っていた。おじさんが『ここは何にもないね』と話しかけてきた。最近は城ブームで全国の城を回っている人も多いらしい。若い女性が一人で何枚も写真を撮っていたが、彼女も歴女なのだろうか。

津駅に近づくと、四天王寺というかなり立派な寺があった。四天王寺と言えば、聖徳太子の時代に大阪に建てられた寺だと記憶しているが、ここも太子ゆかりの寺だと書かれている。更にここには織田信長の母、土田御前や藤堂高虎の妻の墓があり、確かにこの辺りでは名刹なのであろう。一応お墓を探してお参りした。

結構な距離を歩いて宿まで戻ったが、腹が減ってしまい、すぐに外へ出た。駅の近くにはあまりよさそうな食堂がなかったので、ちょっと検索してまた1㎞以上歩いていく。自分でいうのもなんだが、とても元気だ。これはコロナ禍の引き籠り生活の反動だろうか。

夕方5時になるともう暗くなってきた。その食堂には海老天とカツを煮込んだ、天かつ丼というメニューがあり、注文した。これは甘めで非常に好みの味であり、値段も700円と満足できるものだった。因みに泊っている宿には夜9時半になると夜泣きラーメンがあるので、日の最後はそれを〆に食べてから寝るので、夕飯は早めが良い。

静岡、三重、奈良茶旅2021(2)袋井 松下コレクションで

10月17日(日)袋井 松下コレクションで

朝早めに起きて、宿で朝食を取り、すぐに出かけた。何しろ初めての浜松。お迎えが来る前に浜松城ぐらい見ておこうと考えたのだ。天気予報は雨だったが、空は曇り。ちょうどよい散歩日和だ。浜松の街は日曜日の朝からか閑散としていた。浜松城跡まで歩くと結構時間が掛かったが、朝の散歩は気持ちが良い。そして思いの外、立派なお城が目に前に現れる。

1572年徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗して、この城に逃げ帰った。後の天下人、家康にとっては、このこじんまりした城は色々な意味で思い出部会のではないだろうか。8時半に開城し、上まで登った。展示も三方ヶ原などが中心で面白い。今度大河ドラマでまた家康が取り上げられるらしい。その時はこの城も脚光を浴びるだろう。そこから市内を少し散策してホテルに戻る。

豊橋のJさんが車で迎えに来てくれた。本来は今日豊橋でM先生とお会いするというので、浜松の宿を取ったのだが、急遽場所が袋井に変更になり、戻る形になってしまった。ちょうどJさんも参加するというので、浜松で拾ってもらい、袋井に向かった。Jさんもお茶関係の人で、何度か会っていたので、お願いした。車中、探求心の強いJさんとお茶談義。

約1時間で袋井駅へ行き、東京から来た人々と合流した。何と意外にもMさんまでいた。しかも撮影機材を持っている。今日は一体何が始まるのだろうか。Jさんの車に皆が乗り込み、浅羽支所に向かった。バスだと30分に一本しかないので、とても助かる。入口まで来ると、支所の人が『今日は選挙の期日前投票ですから』と言って、我々を端に遠ざけた。あまり歓迎されていない様子が窺える。

3階のM先生コレクションは充実しているが、見学者はいない。先生はご高齢ながら大変お元気で、それから長い時間我々に話をしてくれた(詳細は色々あって割愛する)。コレクションの中には、昨日K先生から教えられた西郷昇三氏(対ロシア茶貿易への貢献者)直筆の『西郷文書』(戦前から戦後の静岡茶歴史の貴重な資料)も置かれていたが、残念ながらそれを気に掛ける人はいない。

更には日本国内で作られた磚茶が無造作に置かれているが、これは第二次大戦中、蒙古向けぬ作られたものだろうか。そうであれば実に貴重だ。書棚の書籍類も、先生が世界中で手に入れたものの一部らしいが、1日中読んでいても飽きないだろう(ここに数日通って読書三昧してみたい衝動に駆られる)。このコレクションの重要性は、地元ではなかなか理解されないのかもしれないが、是非とも展示が続いてほしいと思う。

結局弁当を食べながら、その後はお茶を飲みながら、更には場所を移して、ずっとM先生のお話を聞き続けた。それは非常に貴重な、幸せな時間だった。ついには新説まで飛び出してきて、驚きと感動と共にお開きとなった。帰りは豊橋までJさんの車に乗せてもらい、M先生とKさんも同乗した。次回は先生のお宅に伺い、更に話を聞き続けたいと思っているが、ご高齢の先生のこと、ご迷惑だろうか。

豊橋駅でJさんとも別れ、岐阜に帰省するKさんと共に新快速で名古屋へ向かった。1時間で名古屋に着き、近鉄に乗り換えて、三重方面へ。津へ行く電車、どれが一番早いのかと迷いながら松阪行きの急行に乗り込む。車内は意外に混んでおり、立っている人も多い。1時間後、電車は無事に津駅に到着した。

今晩から3泊は駅前のホテルに泊まることになっており、三重をゆっくり散策できそうだ。この宿の良いところは夜9時半から夜泣きラーメンが無料で食べられること。そして大浴場に浸かり、風呂上りにアイスを食べると何となく幸せ。館内はすべて浴衣で歩けるので、気を遣わずにリラックスできるので評判の宿だった。

10月18日(月)松阪へ

今日から三重を歩いてみる。過去三重に来たのは伊勢神宮と賢島ぐらいだった。まずは松坂へ向かう。津駅に行くと、JRではスイカが使えないと書かれている。では切符を買うのかと思い、一応窓口で聞いてみると、『近鉄はスイカで乗れますよ。でもJRの方が料金は安いです』との回答。え、松阪に行くのに、JRと近鉄があるの?同じ場所へ行くのに何で料金に差があるの?何で近鉄はスイカ使えるの??と疑問だらけで頭が固まる。しかしJRの電車がすぐに来るというので慌てて切符を買い、何とか乗り込む。

乗ってみてわかるのは、目的地が一緒でも途中の路線は別(当たり前か)。松阪駅に近づくと車内アナウンスが『次は「まつさか」』と言っている。「まつざか」ではないんだ。初めて知った。因みに地元では「まっさか」とも言っているらしい。天気は曇り、松阪については何も調べておらず、どうしたよいか悩みながら、観光案内所へ足が向く。

静岡、三重、奈良茶旅2021(1)静岡で茶の歴史を学ぶ

《静岡、三重、奈良茶旅2021》  2021年10月16日-21日

コロナ拡大、オリンピック、パラリンピック、そして首肩肘痛など、この3か月は色々とあって、全く旅に出られなかった。徐々に体が回復するにつれて、引き籠りのストレスが徐々に溜まっていった。それを解消すべく、とにかく思い切り旅に出て行った。今回はどんどんどんどん、西へ西へと向かった。

10月16日(土)西焼津まで

今朝はスパッと目が覚めた。やはり旅に出る日の朝はいつもとは違う。体のことも考えて、今回は新幹線に乗ろうと考えていたが、早めに家を出ていくと、ついいつものように在来線に乗って静岡方面を目指した。だがただ目指すのも何なので、小田原辺りにちょっと寄っていこうとか考え、早めにバスに乗って小田急線沿線の駅まで出た。

ところが電車を待っていると、『人身事故発生』のアナウンスがあり、電車が止まったことが分かる。相模大野まで何とか走って、そこから藤沢へ回り、何とか東海道線に乗り込んだ。熱海を越えるとSuicaはエリア跨ぎになるので、藤沢駅で切符を購入。毎度のことながらなんと面倒なことか。そこから熱海まではいつもの風景。そして静岡方面はホームが違うので、荷物を持って階段をバタバタと上り下りして、また電車に乗り込む。最初の目的地は西焼津だったので、途中興津で一度降りて、後続の電車で向かう。

西焼津の駅で降りると、Nさんが待っていてくれた。車でランチの場所へ向かう。最近Nさんとの共通の話題はタイなので、そんな話をしていると10分ほどで蕎麦屋に着いた。そこに旧知のIさんが先に来て席をとっていてくれた。コロナの収まりのせいか、すごく繁盛している店で、お客がひっきりなしに入ってくる。こちらがオーダーした蕎麦もあっちに行ってしまうほどだったが、それを指摘するとすぐに謝りに来てくれ、アイスをおまけしてくれる。

Iさん、Nさんとはお茶繋がりなので、お茶の歴史から現代の茶業まで様々な話題で盛り上がる。お茶素人の私は、基本的な質問(チコちゃん的な)をぶつけていくつも情報を得る。何となく日本茶というのは、世界の中でも特殊な茶に位置づけられるのかもしれないと思ってしまう。同時に静岡の茶業人の歴史に興味を持つが、それは私の仕事ではないように思われた。

掛川で

食後またNさんの車に乗り、西焼津駅に戻ると、ちょうど電車が行ってしまった。次に来る電車を見ると島田行き。何と掛川まで行かないことを知り、慌ててK先生にお電話して遅刻を知らせた。6分遅れて掛川へ駆け込み、K先生と再会する。といっても二人だけで会うのは初めてで、どのように接すればよいか戸惑う。

K先生から『今日は天気が良いから駅前のベンチで話しましょう』と言われ、話を始めた。意外なほど午後の日差しが強く、少し汗ばむ(いや話の内容の面白さで体熱が上がった?)。台湾茶と静岡についての歴史的なお話がどんどん展開していき、今日の本題を忘れて聞き入る。時々本題に戻るのだが、当然のごとく知識と経験があふれ出し、どうしても脇にそれていく。だがその脇の話が面白い。これは歴史の話ではあるが、先生の実体験、生の話だから迫力もある。

アッと気が付くと、夕方五時の音楽が鳴り始めた。我々はまるで小学生のように、夢中になって遊んでいたのだ。はたと我に返り、ペットボトルのお茶すらお渡しもせず、2時間も話し続けていたことに恥じ入る。K先生は今年81歳だというが、全く衰えはなく、次々にはなしが繰り出される。

さすがに夕暮れとなり、風が涼しくなってきた。ベンチから立ち上がり、帰ろうと言いながら、また20分ぐらい話しが続いていくと、本当に暗くなり、お別れの時が告げられた。長引くコロナで人と話す機会も減り、『いいガス抜きになったよ』と言って頂いたが、大変なご迷惑であったに違いない。ただこちらの収穫はとても大きかった。

掛川駅から在来線で浜松まで向かった。ランチが蕎麦だったからか、何だか腹が減る。駅に着くと予約した駅近くの宿に荷物を置き、すぐに外へ出た。予想以上に風があり、ひんやりする。浜松餃子には目もくれず、うなぎ屋に入った。決して安くはないうなぎ屋だったが、午後6時で満席だという。

15分ぐらい待って席に着き、ひたすらうなぎの到着を待つ。カウンターには、SNSに写真を上げようという感じの男性が二人。実は私はサラリーマンを辞めた10年前、一つの誓いを立てた。『10年間は自らうなぎを食べに行かない』と。そして10年が過ぎ、何とかうなぎが食べられる環境なので、ついに還暦祝いと称して食べに来たわけだ。まあ、美味しいには美味しいのだが、やはり私には高級な食べ物だったかな。

佐倉茶旅2021

《佐倉茶旅2021》  2021年10月12日

7月に宮崎から戻った後、コロナも収まらず、私の肩痛も良くならず、オリンピック、パラリンピックをテレビ観戦するばかりで、ほぼ外へも出なかった。9月になり、少し状況が好転したので、外を散歩するようにはなったのだが、どうも体を動かしていないと具合が悪い。まず単発の旅(日帰り)で様子を見ることにした。以前から気になっていた千葉県佐倉へ出向く。佐倉といえば長嶋茂雄を思い出すが、果たして何があるだろう。

10月12日(火)佐倉へ

何となく天候は思わしくなかったが、行こうと思ったときに行かないとどんどん腰が重くなる。今日は千葉県佐倉というところへ初めていく。本八幡まで都営地下鉄で行き、そこから京成線で京成佐倉駅まで、2時間弱で到着する。まずは駅前の観光案内所で地図をもらい、大体の場所を確認する。そうか、佐倉には国立博物館もあるのか。ただそれとは反対の方角へ向かう。

既に昼が近づいていた。朝飯もちゃんと食べていなかったので腹が減り、食堂へ向かう。先日Facebookで見た佐倉の美味しそうな定食が頭に浮かんでいた。だが11時半にその店に着くと、狭くはない店内は、コロナ対応で席数が減らされていたこともあり、既に満員だった。10分以上待つ間、皆が何を食べているのかじっと観察する。

ようやく席に着き、日替わり定食を注文する。刺身がメインで、そこにメンチカツとコロッケ、そして美味しい汁、更には漬物と杏仁豆腐が付いてくる豪華版。持ってくるお盆がデカい。1210円は決して高くはない。テイクアウトの人も多い。なぜここが人気なのか、分かるような気がした。

そこから本日の目的地、佐倉順天堂に向かう。あの順天堂病院はここ佐倉が発祥。佐倉順天堂医院は今もここにある。その横に佐倉順天堂記念館が建っている。渋い木製の門を潜ると1858年に建てられたという建物がきちんと残っていた、庭には創始者佐藤泰全の像がある。

順天堂は江戸末期の1843年に長崎留学を終えた佐藤泰全が江戸で蘭医学塾を開き、その後佐倉に移り住んで開いたオランダ医術の塾だった。ここでは外科手術を中心とした最高の医術が教えられたらしい。ただ泰然がなぜ佐倉に移り住んだか、その理由ははっきりしない。藩主は幕末老中として活躍する堀田正睦であり、蘭学を奨励していた彼の招へいだとする説が語られているが、どうだろうか。

入り口で、今回の主目的である『佐藤百太郎について調べに来た』と告げると、受付の女性が『ああ、百太郎の資料は殆どないと思いますよ』と済まなそうに言う。それはある意味想定内であり、取り敢えず中の見学を始めた。佐藤百太郎は一応家系図には出てくるが、佐倉順天堂としては、あまり取り上げられない人物。順天堂は能力主義だったといわれ、実子でも相当に実力がなければ後継ぎにはなれない。泰然の養子で後継者の尚中を父に持つ百太郎は残念ながら、その道を閉ざされた人だった。

受付の女性がやってきて、『それでも何かあるかもしれない』と言いながら、色々と探してくれたのは何とも有難い。こういう対応は実にうれしい。その結果百太郎のものではないが、明治初期の佐倉の士族授産事業などについては、資料を見ることができた。そして『佐倉茶の歴史だったら、小川園さんが調べていた』と教えてくれた。

佐藤百太郎は順天堂の後継者から外れ、祖父泰然が横浜へ伴って英語を学び、幕末にアメリカに渡った。明治になってニューヨークで事業を起こし、日米貿易を開始した男だ。その貿易品の中に佐倉茶が含まれていたというのが今回の旅の発端だった。有名な狭山茶と並びもし佐倉茶も輸出されていたのであれば、今ではピンと来なくなってしまった千葉茶業の歴史も見直すべきではないだろうか。

尚ウキペディアによれば『対等な日米貿易については、百太郎の親類(義兄)である大野秀頴(8代目・大野伝兵衛)による東金町(現在の千葉県東金市)東金茶の輸出が走りである。 茶園の名を東嘉園と言い、有栖川宮熾仁親王が命名した。 1874年頃まで東嘉園(東金茶園)の営業成績は良好な状態をつづけていた。横浜貿易における茶の輸出状況が良好であったからである。 秀頴は商売についてはかなり進取的なところがあり、アメリカとの直接取引を企図したのである』として、狭山茶より佐倉茶の方が直輸出は早く始められたというが、この辺もぜひ調べてみたいところだ。

因みに狭山、入間の近く、日高に高林謙三という医者がいた。彼は途中から医学ではなく、茶業製茶機械の発明に努め、大いに貢献した人物で、茶業史の名を留めている。彼もまた若い頃順天堂で学んでおり、繋がりがあると思われるが、高林の製茶機械はこの地で使われただろうか。

記念館の裏に回ると、そこには2つの石碑が建っている。1つは1890年に3代目瞬海によって建てられたという佐藤泰全の碑。もう一つは1902年にその瞬海の60歳を祝って弟子たちが建てた碑だった。石碑はいずれも古びており、文字は擦れて良く読めない。

記念館の前の道、名前は蘭学の道らしい、を戻り、途中で曲がり、旧堀田邸に向かった。ところが道を間違えてしまい、周囲を大きく一周する羽目になった。こういう時、Googleは役に立たない。入口がうまく表示されないと、こういうことが起こる。またここはある施設の中にあり、それを知らなければ入口を見つけられないとの問題点もあった。

堀田邸は明治に堀田家が東京から移り住んだ場所で、静かなところだった。家屋内に展示があり、明治のころの様子がわかる。農事試験場にもなっていたようだから、茶業とも無縁ではあるまい。庭もまたなかなか趣があり、茶室もあるようだ。

そこから町中に戻る。趣のある建物がいくつも見られる。そんな中に小川園があった。先ほど聞いていたので、思い切って中に入る。するといきなり目に飛び込んできたのが、佐倉同協社と書かれた看板と全景の絵だった。思わず『これは・・』と店員さんに話し掛けると、丁寧に対応してくれた。いくつか質問しているうちに『社長に聞いてもらった方がいいかも』と言って、電話を掛けてくれると、なんと社長が駆けつけてくれた。

社長は佐倉茶の歴史を調べると同時に茶園の復活、観光協会の活動を通して佐倉の町の振興にも力を入れているという方だった。アメリカに最初に直輸出された日本茶は狭山茶と佐倉茶だったという歴史についてお話を伺う。そしてそこに順天堂佐藤家出身の佐藤百太郎が絡んでいる。実に面白い話であり、更に突っ込んで色々と質問した。明治初期には佐倉の人が掛川に茶の指導に行った、などの話は、実に興味深い。幕末から明治も初めの方は、千葉、埼玉、茨城の茶業はかなり発展しており、横浜からかなりの茶が輸出されたことだろう。

その間、こちらで販売している白折茶を淹れてもらったが、すっきりして非常に飲みやすい、美味しいお茶だった。小川園は市内外に何店舗も有する大きなお茶屋さん。今日訪ねたお店は2階に喫茶スペースまであったが、コロナ禍で休止中だった。それを知らずにやってきた若夫婦がいたが、社長は休止を詫びながら、サラッと小袋のお茶を渡していた。こういう気づかいは心に残り、彼らはきっとリピートするだろう。

それから何と社長が車で茶園まで連れて行ってくれた。そこは駅を挟んで反対側の高台にあり、『佐倉茶発祥の地』という看板が立っていた。開墾には苦労があっただろうな。佐倉の士族授産事業の歴史、もう少し調べてみたくなる。幕末茨城付近のさしま茶をリードした中山元成などとの関連もあるようで、今後調べてみたいテーマである。

今日と取り敢えず桜を散歩してみるだけのつもりだったが、思いがけず佐倉茶の歴史に触れることができ、感激した。突然お訪ねした方々にはご迷惑だったとは思うのだが、これこそ、茶旅だった。千葉、埼玉の茶、更に狭山茶の茶貿易の歴史を調べて、まとめてみたいテーマだったが、果たしてその資料はあるのだろうか。