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ダージリンお茶散歩2011(11)シリグリネパール人経営者の話

6.シリグリ  ホテル探し


市場付近は人ごみが凄かった。それでも今日の宿を確保しなければならない。重い荷物を引き摺って、歩き始める。先ずはバスの切符売り場、旅行社と書かれているので何か手がかりがあるかと思うが、そんなホテルは知らないと断られ、代わりのホテルを紹介してくれもしない。不思議だ。





陽が西に傾いている。急がないと途方に暮れるかも、いや既に当方に暮れていたかもしれない。道沿いに少し歩いて2-3聞いてみると、ある人がここを真っ直ぐ1㎞行くとそのホテルがある、と言う。感謝して歩いて行ったが、どこにもなかった。もうその頃にはシャングリラホテルは夢となり、現実的に泊まれそうなホテルを探し始める。

大きな道沿いはかなり煩そうだったし、きれいなホテルも見当たらない。どうしようか見ると、こぎれいなレストランが目に入る。そこの後ろがホテルだった。が、しかしそのホテルはかなり汚かった。それでも800rpもするというので、部屋を見たが辞めた。疲れが出始めた。シェアタクシー修行4時間半もあり、もうあまり気力はない。ふらふらと歩いて行くと、そのすぐ先にこぎれいなホテルが見えた。看板に三つ星ホテルと書いている。

中に入るとロビーが実に立派で、クーラーも効いていて、ここだ、と思ってしまう。料金は1600rpで朝食はおまけしてもらった。部屋はそれどよくないが、お湯のシャワーもでると言う。Wifiが故障中とかで、使えないが、夜はモデムを貸してくれるとも言う。インドもサービス精神が出てきなと感じ、ここに泊まる。

今のインドのようなホテル

お湯のシャワーは快適だったが、トイレまでびしょ濡れとなった。やはりハード面でもまだまだ改良が必要だ。それでも気分は爽快となり、夕飯を探しに行く。先ずは売店でコーラ、25rpを買い、飲みながら歩く。インドでも無性にコーラが飲みたくなるのは何故か。ダージリンやシッキムの涼しい気候から一転、都市型の暑い気候はちょっと息苦しい。

大きな道沿いに屋台が1つ出ていた。バスを待ちながら、オジサンが美味そうにモモ(餃子)を食べていた。私も一つ頼む。熱々だ。中の肉は山羊だという。この辺では普通らしい。隣のおばさんがチャウメンを食べていた。これも鉄板でジューッと音を立てたので、思わず注文。相変わらず美味いが、ここのチャウメンには独特のソース(たれ?)掛かっていた。

食後は暗くなったのでホテルに戻り、ネットモデムを借りて、メール処理などを行う。このホテル、外見はきれいだが、中身はぼろぼろだと分かる。電気は着かない所が多く、テレビはあっても映りは悪い。ベットもお粗末で、硬い。恐らくは古いホテルを最近誰かが買い取り、改装したのだろう。これもいい経験だった。

10月17日(月)
翌朝は早く起きてしまい、散歩に出る。このシリグリと言う街は、交通の要所ではあるが、特に見るべきところもないようだ。ただ街をふら付く。シリグリ郊外の総合開発区のコマーシャルが目に入る。工業園区と住宅の複合だが、これは中国などでも大連などでよく見られたコンセプト。中国の90年代初頭の雰囲気がある。

兎に角街は古ぼけており、発展は感じられない。それでも無理やり開発されていくのだろう。ただ中国などと違い、そのスピードはゆっくりだ。5年後に来れば相応の変化はあるだろうが、中国のように全てが一変してしまうような光景は想像でいない。

朝食はホテルで。きれいなレストランがある。お客は私しかいないので、ボーイも気を使ってパンなど焼いてくれる。それでもあのダージリン地区の優雅な朝食と比べるとかなり見劣りする。食事は料理も大事だが、雰囲気も大いに大事。

シリグリ空港での再会

シリグリからバグドグラまでは車で30分ぐらいと聞いていた。リキシャーを頼めば300rpで行くらしい。それにしても昨日の修行タクシーが4時間半で150rp、リキシャーの料金から見て大分時間が掛かるのだろう。ホテルのフロントでは1時半のフライトなら12時に出ても間に合うと言ったが、インドでは何が起こるか分からない。その際、一人では解決できる自信が無い。11時には出発した。

リキシャーに乗り込むと、周囲が良く見える。街の郊外には大型デパートも出来ており、私が歩いた旧市内以外に街が発展していた。やはりちょっと歩いたぐらいでは、分からないことが多い。

空港には僅か20分で着いてしまった。これで300rpは高い、と思ったが、どうやら定額料金らしい。出発までかなり時間があったが、兎に角インドの空港では過去にも苦い経験がある。手続きは早くしてしまおうと考える。

国内線なので出国審査はないが、荷物検査は相変わらず厳重である。長い列が出来ていた。このバグドグラ空港でも飛行機は頻繁に離発着していた。やはりインドも空の時代に入っている。その列の一番後ろに並んだところ・・・。

前の人が振り返る。何とそれは昨日シェアタクシーで会ったネパール人ではないか。彼も驚いている。聞けば昨日はシリグリに泊まり、今日デリーで行く。デリーで商売をした後、カトマンズへ戻るらしい。彼はシャツなどを作る繊維会社を経営していた。90年代初めには日本企業との取引が多かったが、その後韓国へ移り、そして中国へ。現在では中国語は話せるし、中国携帯も持っている。

中国より原料を仕入れ、カトマンズで商品を作成していたが、昨今の政情不安で工場をシッキムへ移すことを検討している。その為にシェアタクシーに乗っていたのだ。因みに中国の人件費上昇による影響ももろに受けている。価格は上昇し、また中国人の横暴な商売にも悩んでいる。中国人が入れない街、シッキムへの投資は単に優遇措置だけで決めるわけではないようだ。

そんなことを話していると彼の出発時間となり別れた。彼とは実に偶然の出会いであったが、それは誰かが私のシェアタクシーでの修行の見返りに彼を派遣してくれたようだ。

そして私も搭乗した。何事もなく、コルカタへ戻る。



ダージリンお茶散歩2011(10)ガントク 修行のようなシェアタクシー

10月16日(日) ロムテックゴンパ

翌朝は快晴とはいかなかったが、雨は上がった。ホテル内を散策。いい感じで庭が作られている。確かに自然を求める人にはいいかもしれない。でも泊まっている人は殆どいない。昨晩の誕生会の余韻の残る母屋に行く。この地の最高峰、標高8,586mはエベレスト、K2に次いで世界第3位であるカンチェンジュンガは、遥かに霞んでいる。

朝食はここ3日間同じパターン。ようはこの地域ではそこそこ以上のホテルには全て英国式の作法が根付いているということか。眼前に霞を見ながら、相変わらず優雅な朝食を取る。

隣にフランス人のおばさんがやって来た。この人も一人旅らしい。全て旅行社のアレンジで動いているというからお金がある人なのだろう。ひとしきり旅談義をする。これもこのような自由な旅人同士の楽しみだ。

予約したタクシーに乗り、ロムテックゴンパに向かう。車はスズキ製の小型車。最初に下り、途中で別の山を登り、小1時間。基本的に山道だが、時折段々畑が見える。これがなかなか美しい。運転手に停まってもらい、写真を撮る。牛小屋で少年が番をしていた。実に素朴。

ゴンパの入口に着く。運転手が警備兵を指さす。彼はパスポートの提示を求める。かなり厳格な警備だ。色々と宗教的な争いがある、ということらしい。その他、政治的な理由もあるかもしれない。やはりこの地は複雑な様相を呈している。

ゴンパは懐かしい。インド、ラダックで訪ねたゴンパと同じようなお寺が広がる。但しこちらは比較的建物が新しく、また山伝いでなく、平たい場所にある。僧坊もかなりあり、多くの修行僧を抱えているようだ。天気も良くなり、実に快適な朝だ。参詣する欧米人もちらほら。帰り道は天気もよくなったが、方角の関係で最後までカンチェンジュンガを拝むことは出来なかった。残念。

ホテルへ戻り道すがら、1軒の中国料理店が目に留まる。ここシッキムは中国人入境禁止の土地。メニューが書かれた黒板を見ると簡体字で書かれており、脇には中国語教えます、の表示もある。中国人はこの地で何かしているのだろうか。またシッキムの人々も中国語を勉強して職業に就くのだろうか。

洗濯物

ホテルに戻る。タクシーはそのまま待たせて、シェリングタクシー乗り場へ送ってもらうことに。チェックアウトしようとして、昨日以前乾かなかった洗濯物をここで出したことを思い出す。洗濯物は届いていたが、料金が違っていた。私は普通で出したのだが、特別料金が請求されていた。そのことを告げると、「洗濯屋の請求は我々の管轄外」と言われてしまう。それはあまりに無責任と、口論になってしまう。折角誕生会にも混ぜてもらったのに、実に後味の悪い結果となる。

結局洗濯屋が来るまで部屋で待つ。あまり心が穏やかでない時は、どんな良い景色を見ても、自然に触れても、意味がないと気付く。心にゆとりのない旅は、結局ただの時間移動に過ぎない。洗濯屋のお兄さんが駆け込んできて、通常料金を支払う。一体何であったのだろうか。そして受けった洗濯物を出してみると、何と乾いていない。湿ったままの状態である。この地の湿度はそれほど高く、そして雨が影響していた。それにしても洗濯屋が・・・。

意気揚々として入って来たシッキム王国であったが、私の中では幻に終わった感がある。僅か一晩でこの地を去る。それでいいのか、いや、それでいいのだ。

シェアタクシー

逆に下へ向かう。一体どこへ向かうのか。まあ、成るようにしかならない。20分ほど行くと、少し上り、そして車は停まった。その付近には人々が行き交う。タクシーは私を残して去って行った。さあ、どうなるんだ。

「シリグリ」と叫ぶと、にいちゃんが寄ってきて、手招きする。着いて行くとテーブルがあり、チケットを売っていた。150rp、と言われお金を渡すと、チケットが渡され、別のにいちゃんが私を連れてタクシーが連なる場所へ向かう。

この車だ、と指を差され、荷物は車の上に揚げられた。さて、私はどこへ乗るのか、と車内を見渡すと、先に乗っていた一人がチケットに書いているという。確かに番号9が打たれていた。それが座席番号、しかも座席は三列の最後列の真ん中。座席配置は運転の横に2人、その次に4人、最後尾は荷台を改造しており、座り難い。そこへ4人。ギューギュー詰めだ。私の両脇は全て若い男性。本当にきつくて、全く動けない。おまけにPCの入ったバックが股の間に入る。

これは修行の旅だった。身動きできない状態で、しかも道はでこぼこ、またはカーブも多く、車に身を任せる以外にどうすることもできない。両脇に身を任せ、彼らもこちらに身を任せる。どうにもならない。前を見ると車内はまるでラグビーのスクラムだ。

それにしても、道は良くなかった。中には工事中の道もあった。ただ面白いのはその道には、この先道悪し、の看板が立っていることだ。そんな看板を作る前に道を直せばよいと考えるのは、我々の発想か。実際の工事現場を見ると、ワーカーがゆっくりゆっくり作業していた。道を直ぐに修復しないのは共生?かと思ってしまう。

修行のような4時間半


最初の2時間、目を瞑って身動きせずにいると、本当に修行僧になった気分だった。徐々にそのポーズにも慣れて来て、落ち着きが出て来た。車内は前列にオジサンが二人。真ん中に男女2人ずつ。真ん中にはそこそこ余裕がある。それでも羨ましいという感じはない。

途中で休憩があった。そこには簡単なレストランと売店があった。先ずはトイレに飛び込む。車に乗っていて一番心配なのはトイレに行きたくなることだったが、その心配も無くなった。やれやれ。歳を取った気がした。

乗客は思い思い、食事をしたり、自分で持って来た物を食べたりしている。他の車も何台か停車している。見れば、ワーカーを乗せている車もある。若者はジーンズを穿き、おしゃれになっている。

前の座席に乗っていた人が英語で話し掛けて来た。いきなり日本人かと聞かれ、驚く。顔は我々と同じ。ネパール人だと名乗る。これからネパールに帰るところだという。シッキムには何度も行き、このタクシーでシリグリを往復している。ネパールも含めて、この辺の地域ではこのシェアタクシーが当たり前の乗り物で、慣れれば快適だとも言う。

彼と話した後、車の中で考える。「全てをお金で解決しては何も見えては来ない」。確かに私はタクシーを個別にチャーターすることも可能だった。時間も短縮できるし、間違いなく、行きたい場所へ連れて行ってくれる。しかし、そんな生活は、本当の人生の歩みではない。我々は現在お金を使って、一見様々な物を解決しているように思っているが、実は何も解決できていないし、それは決して幸せなことでもない。時間や手間を掛けてしか、見えてこないものを今後は見ていこうと思う。

再度出発して2時間強、山道をクネクネ行く。1時間ぐらい進んだ大きな橋の袂で最初の一人が降りる。ドッーと楽になる。次に2人降りた。そしていよいよ街らしくなってきた。私はどこで降りればよいのか、全く分からない。実は地図も持っていないし、ガイドブックもない。

市場のような所で残り全員が降りた。さっきのネパール人が「どこへ行くんだ」と聞くので、昨日旅行会社で聞いた唯一のホテル名、シャングリラと告げる。周囲にはリキシャーが大勢待っていたが、全員がそのホテル名に首を振る。

仕方なく、私だけが終点まで車に乗る。ところが終点は何と、さっきの市場の道の反対側。車はただユーターンしただけだった。それで全員が降りた意味が初めて分かる。運転手は私に全く関わらずに車を降りてどこかへ行ってしまう。いよいよ一人ぼっちだ。


ダージリンお茶散歩2011(9)ガントク 幻のシッキム王国へ

5.ガントク  とうとうシッキムへ入境

8時前に車に乗る。名残惜しいが、カリンポンを去る。ヒマラヤホテルも実に名残惜しい。特に何もない街でこれほど離れたくない気分になるのは珍しい。しかし今日は幻の王国、シッキムへ行くのだ、と自分を奮い立たせる。

カリンポンから少し行くと、道端に民族衣装の男性がいた。珍しいので写真に納める。レプチュー族の正装だそうだ。河が見えてくる。向こう側がシッキム。そしてとうとう橋を渡る。ここは車が混んでいる。渡り切るとその先にチェックポイントがあったが、そこを通り抜け、ツーリストロッジと書かれた建物へ。運転手は私のパスポートと入境証を持って、手続きに走る。ここはどうやら外国人やインド洋人などが来た時に使う待合室のイメージ。今回入境証はセットさんがダージリンでアレンジしてくれていたが、ここでも手続きできそうだった。

30分ほどで手続きが終了。車は出発したがすぐにガソリンスタンドへ。1リッター46rpだから、日本よりは安いが、この国の物価から考えて、非常に高い値段である。インドが石油の大口輸入国である現実を見る。

山道を登る。途中で、大きな工場建設現場に出くわす。聞けば、最近シッキムに投資ラッシュが起こっている。この地域は従来経済発展が遅れていたが、近隣諸国との関係などからインド政府もシッキムの開発に力を入れ始め、企業誘致に優遇策を講じている。5年間企業所得税免税、設備輸入の非課税などにより、発電所や化学工場の進出が起こり、建設ブームとなっている。確かに数か所で工事が行われており、なかなか活況であった。

結局入境手続きも入れて、4時間ほどでシッキムの中心とガントクへ至る。

ヒドゥン・フォレスト

運転手が今日のホテルを探している。しかしこの辺は街とは思われない。一体どこへ行こうとしているのか。ようやく見つけたホテル名はヒドゥン・フォレスト。如何にも隠された感じで見つかり難い。ここも傾斜地に建てられ、景色が売り物のようだが、生憎濃い霧が出て、眼前の視界を遮る。



ここまで私を運んできてくれた運転手と別れる。私はこのまま彼の車で行動したいとも考えたが、それは料金に含まれておらず、ガントクに2泊するとかなりの金が掛かるらしい。また今は旅行シーズンであり、彼には他にも仕事がある。名残は惜しいが慌ただしく帰って行った。

ホテルのダイニングに残された私におばさんが、紅茶を出してくれる。ウエルカムティー、言われたその紅茶は、冷めないように布巾が掛かっており、重厚なポットと相俟って、本当に熱い。相当に時間がたっても冷めていない紅茶が飲めた。何だは腹も減らない。

流石に毎日歩き回り疲れたので、部屋で休むことにした。テレビを点けると、色々なチャンネルが飛び込んできたが、その中にブータンテレビがあった。何を言っているのか分からないが、Liveと書かれた画面には、新国王とその妃が映っていた。国王の婚礼式典を生中継している。その後日本にもやって来てブームとなる二人、ブータン国内でもかなりの人気で迎えられている。それにしてもこの人たち、日本人に似ている。いや、今の日本人ではなく、昔の日本人に。

チャンネルを切り替えるとラグビーのワールドカップ準決勝が始まろうとしていた。ウエールズ対フランス。ラグビーを見るのは久しぶりだが、英連邦で見ると何だか厳かな気分になり、結局最後まで見てしまう。息の詰まるような熱戦、なかなか得点が入らず、シャンパンラグビーと言われるフランスは影を潜め、粘り強いウエールズに、根気よく対処していた。

試合が終わると一気に気が抜ける。外はここ数日晴れ間が無く、どんよりしている。このホテルの欠点はネットが繋がらないこと。正確にはホテルのダイニングにはWifiがあり、更にはホテルの業務用にはケーブルもあるのだが、何故か私のPCには繋がらない。仕方がなく、街へ行って見る。

ガントクの街

小雨が降っていた。ホテルの入り口から道端へ出て、車を探す。ちょうどタタの小型車インディカが頭にタクシーマークをつけてやって来た。どうやら乗合タクシーのようで先客がいたが、乗せてくれた。街まで急な登り道を30分も走る。25rp。私は何と不便な所に泊まっているのだろうか。

街は思ったよりかなり大きく、道幅も広い。如何にもチベット系の色をした建物が寄り添うようにぎっしり建てられている。土地が無いんだな。車も多く、駐車スペースは満員。人々の顔もやはり我々日本人とかなり近い。

先ずはインターネット接続が出来る場所を探す。篩が巨大な建物が斜面に建っている。中に入ると小さい店が並ぶ雑居ビル。直ぐにネットカフェ(PCがあるだけ)が見付かり、中へ。店員の若者は親切で、PC接続なども手伝ってくれた。すぐに繋がる。20rp。シッキムでネットを繋いで世界と交信していたら、河口慧海も驚くだろうな、大谷探検隊の人々も目を向くだろうな。

それから明日以降のスケジュールを決める。コルカタでセットさんがセットした旅程はここまで。明後日の昼過ぎの便に乗るため、ここからは自力でバグドグラ空港へ戻らなければならない。不安は地震の被害で道路が所々狭くなっていること。当日の朝早く車で出たとしても、万が一道路閉鎖などがあれば、乗り遅れる。それに宿泊しているホテルも不便だ。

旅行会社に入り、相談する。皆親切に教えてくれる。オジサンが言う、「金が無いならシェリングタクシーでシリグリへ行け。シリグリからバグドグラはすぐそこだ」と。シェリングタクシー、その響きに誘われて乗ることに決めた。ただ明日午前中、山の上のお寺に行くための車を確保する必要があった。それはホテルで予約することに。

夕飯も街で食べることに。雨がしとしと降っているので、適当に店に入る。ちょっとおしゃれなこの店、欧米人向けなのであろう。時間が早いので客はいない。例の肉まんを頼む。やはり美味しい。この辺りでは定番の食べ物であることが分かる。

ホテルに戻るのにさっきの小型タクシーを探す。しかしどの車も100rpだと言って譲らない。どうやら街に来ればお客が拾えるが、下に降りていくと誰もいないので、帰りの分も取られるらしい。それでも50rpのはず、と言うが、誰も聞く耳を持たない。そういう決まりなのだろう。仕方なく、乗り込み、雨の中、滑るように坂道を下りホテルに着いた。

誕生会

雨が降る中、ホテルに駆け込む。母屋の方ではなぜか沢山の人の気がする。入って行くと「Happy Birthday」の文字が見える。今日はこの家のお嬢ちゃんの誕生日会だったのだ。そういえば、今日の夕飯をここで食べるか、と聞かれた記憶がある。開店休業だったのだ。

私は明日のタクシーの予約を依頼しようとしたが、皆とても楽しそうに飲んだり食べたりしており、きっかけが掴めない。その内誰かが「あんたも一緒の食べてお祝いしましょう」というので、拒むこともできずに、食事の列に並び、カレーや肉を取る。既に満腹状態だが、これはやむを得ない。付き合いである。

お嬢ちゃんは今年5歳らしいが、かわいく着飾っており、おじいちゃん、おばあちゃんに囲まれている。テラスでは同じくらいの子供たちがはしゃぎまわっている。一角を見ると、プレゼントの山が見えた。ここでもやはり誕生会に呼ばれれば皆プレゼントを持ってやって来るらしい。素朴な場所ではあるが、どんどんそのプレゼントが高価になっているように見えて、ちょっと悲しい。

ようやくタクシーを頼んだが、1つのお寺に行くだけで800rp。かなり高いが仕方がない。誕生会は早々に切り上げて、部屋に帰る。既に日本を出てから10日以上、そろそろ疲れが溜まっているが、そんな時は返って眠れない。この地域の将来を少し頭に描きながらウトウトした。





ダージリンお茶散歩2011(8)カリンポン 優雅なホテルと肉まん

4.カリンポン Silk Road

鉄橋を越えて河を渡る。坂を上り、一路カリンポンへ。途中で運転手が「ちょっと寄って行かないか」という。どこへ行くのか、興味あり。そして細い道へ入ると門が。Central Silk Roadと書かれている。しかもその下にはインド政府繊維省とあるから、これは政府の研究所ではないか。

正直尻込みした。運転手はどんどん入って行ったが守衛に止められる。それはそうだろう。押し問答の末、何故か守衛が押し切られ、中へ入る。建物の中は暗かったが、一つの部屋に入るとインド人女性が座っていた。彼女がマネージャー(所長)だった。

運転手は私をマネージャーの前に座らせて、出て行ってしまう。一瞬どうしてよいか分からない。何を話せばよいのか。仕方なく、日本人であること、カリンポンに行く途中であること、などを告げる。彼女は大きく頷き、この施設の説明を始める。

インドの繊維産業の歴史は古い。またこのカンリンポンと言う土地の歴史も古く、歴史的にはここを通ってチベットへ物資が運ばれ、インド繊維も運ばれていった。しかしイギリスの産業革命以降、インドは市場を奪われ、繊維業は衰退した。独立後、再度繊維を復活させるべく、このような研究所がいくつか作られ、ここカンリンポンにも出来た。蚕を飼うのに適した地である。

彼女は昨年ここに赴任、家族と離れてこの研究所の敷地内で暮らしている。他のスタッフも女性が多いようで、インド政府の女性登用が見て取れる。展示場に案内され、一通り説明を受けるが、蚕の成長など、もう忘れてしまったことが多く、何も質問できない自分が悲しい。

ランチは肉まん

カリンポンの街に入る。相当の傾斜地に街がある。車はその街を抜け、更に上へあがる。どんどん上がる。そして1軒のホテルに入る。何だか素晴らしいロッジ。ここなのだろうか。なかなか雰囲気が良い。などと思っていると、間違いだったらしい。今度は来た道をどんどん下る。

そして街を抜けた所に戻り、1軒のホテルを見付ける。ここはお屋敷風で実に雰囲気が良い。車が停まり、中へ進むと確かにお屋敷がある。その手前の事務所で予約を確認すると確かにある。部屋に案内されると、そこはもう避暑地の別荘。これはいい。と言いながら、早々に乾いていない洗濯物を取り出してベランダに掛けるのだから、風情も何もありゃしない。

兎に角腹が減ったということで、運転手と二人、街へ繰り出す。マカイバリのラジャ氏から「カリンポンに行ったら、肉まんを食え、日本人は大好きだぞ」と言われていたので、リクエストしてみる。運転手は分かったという顔でどんどん進み、一軒のレストランに入る。

そこは結構混んでいたが、何とか席を見付けて座る。メニューを見るとインド系もあるが、明らかに中華系もある。でも店主はどう見てもインド系。これは何だろう。兎に角肉まんと焼きそばを頼んでみる。チベット料理でモモと言えば、小龍包のような食べ物だが、出て来た物を見てビックリ。確かに日本の肉まんと同じ形が4つ皿に載って来た。食べてみると味も全く一緒。これはもう日本である。

焼きそばは中華風。そしてワンタンスープも中華風。基本的にカリンポンは中国とインドの接点だったということであろうか。中国人が中華料理屋をやっているのではない。インド人がインド・中華料理屋をやっているのである。それだけでもこの地の位置が分かる。

ゴンパへの長い道のり

ランチ後、山の上にゴンパがあると言うので行って見る。運転手もすることが無いと言うので同行。20分ほど歩けばつくと言うが。街中はダージリン同様車がクラクションを鳴らし、うるさい。特に道が狭いため、車と人が殺到する。早く抜け出したい。

しばらく行くと学校帰りの学生ばかりとなり静か。周囲は狭い上り道だが、不思議と家の新築を行っている所が多い。どこからそんな資金が来るのだろうか。一部は外部の人間がここに別荘として建てていると言うが、道沿いに別荘?一際立派な4階建ての家があった。国境難民などを収容するために建てられたらしい。政府や国際的な団体の支援があると言うが、こんなに立派なのだろうか。

更に歩いて行くが一向に到着する気配がない。坂はどんどんきつくなる。途中に立派なお屋敷があった。モーガンハウスというらしい。昔はイギリス人の別荘だったが、今ではインド軍の別荘らしい。一般人は立ち入りできない。

イギリスと言えば、ゴルフ場もあった。道の左側の斜面を使ったコースで、フェアウエーは狭く、スライスは崖から落ちる。かなり難易度は高そう。インド軍の将校と思われる人々がプレーしていた。霧も掛かっており、良く見えなかったが、如何にも鍛えている、と言った感じでプレーしていた。

イギリスは避暑地に必ずゴルフ場を作る。これは徹底して行われた植民地政策で感心する。こんな山の中に行ったどれだけの労力を投入したのか、考えるだけでも頭が痛くなる。

1時間経ってもまだ到着しない。いい加減疲れたが、運転手と話しながら歩く。話題はこの地の職業事情。基本的に仕事が無いので嫁が取れないという。運転手などは季節労働者であり、収入が不安定で困る。仕事が無ければ出稼ぎに行くか、軍隊に入るか、のどどちらかしかない。彼はそのどちらも嫌で、運転している。結婚できたとしても、その後収入が不安定になる、出稼ぎで長期間留守にすることにより、不仲となる。離婚率は30%にもなるという。これは個人の問題ではなく、社会問題であるが、政府も含めて有効な手立てはない。

宗教についても考えさせられる。仏教の僧侶は近年とみに金銭欲が高まっており、何かをお願いするのに全てお金を要求される。仏教への信仰心が薄れてきている。一方キリスト教はこの機会に信者を増やそうとしている。特に学校を建てて信者の子供の学費を優遇するなど、こちらも実利に訴えている。クリスチャンへの改宗者が後を絶たない。それでよいのだろうか。

結局坂道を2時間近くも上り、ようやくゴンパへ着いた。既に疲れて果てていたが、折角なので一通り見学する。インドのラダックでも見た、あの厳かなゴンパがそこにあった。そして中では経が唱えられており、日本の仏教界のような堕落は感じられない。ただ何となく、張り詰めたものが無い、という印象はあるが。

帰りは下りであり、相当のスピードで進んだ。途中で古いミシンを使って縫製をしている所があり、ゴルフ場では水を買ったりしながら、1時間ちょっとでホテルに辿りついた。

厳かな夕食

ホテルに着くとへとへとに疲れていた。そこへホテル従業員が「夕食はどうなさいますか」と聞いてきた。普通であれば街へ出て安くて美味しい物を探すのだが、その気力が無い。それにこのお屋敷ホテルで食べてみたい気がした。従業員は「何になさいますか」と又聞いてきた。レストランに行って適当に頼むのではなく、予め頼んでおくらしい。とっさにスープとサンドイッチと答える。今夜はこれで十分だろう。

事務所に寄り、ネットの有無を尋ねる。この事務所内でのみ、使用可能。それはそうだろう、19世紀のお屋敷でインターネットは似合わない。ちょうどフランス人が使っていたので、後で来ると告げると「事務所は8時までです」と言う。そして何と、朝も8時からだという。私は明日8時前にはチェックアウトを予定していると告げると、この時点で精算が始まる。それもあって食事のオーダーを先に取ったのかもしれない。

夕食のスープとサンドイッチは一体いくらするのか。ちょっと緊張した。ここでは相当高いだろうと。ところが、出て来た答えは125rp。僅か日本で250円である。さてどんなものが出て来るのか。

部屋で少し寝て、午後7時ごろ、レストランへ向かう。場所は母屋。非常に優雅な建物だ。中に入るとそこは映画で見たような貴族の屋敷であり、広いダイニングがある。向こうの方で食前酒を飲みながら歓談する西洋人、絵になるな。食事はコースメニューが基本のようで、しかも値段は300rp。私もこれにすればよかったと悔やむが後の祭り。

私は簡単な食事なのでテーブルでなく、ソファーに腰かけて取る。給仕が実に恭しく、スープを運ぶ。口に入れると何とも言えない濃厚な味わい。あー美味い。何十年に渡って作くられてきたもののようだ。サンドイッチも美味。量は少量であり、食欲が出てしまったが、ここは貴族のように何事も言わずに退散。





ダージリンお茶散歩2011(7)ダージリン 中産階級の勃興を肌で感じる

インド中産階級の勃興を見る

一度ホテルに戻り、休息、ではなく、溜まったメールなどの処理を行う。このホテルは流石にWifiで繋がる。やはり文明の利器が登場すると、いきなり現実に引き戻され、ついつい使ってしまう。折角マカイバリで自然の共生、ネットのない生活を行ったのだが、一気に崩れる。人間はもろい。

気が付くと周囲が暗くなる。洗濯物はちっとも乾かない。それはそうだ、日も出ていないこの状況では、当分乾かないだろう。考えてみればマカイバリは標高1200m、ここダージリンは2000mを越えている。夜は涼しいだろう。

先程の道を再度歩いて行くと、益々観光客が増え、道は押すな押すなの大盛況。歩くのも困難な状態になっている。これが10月の観光シーズンと言われた状況のようだ。インドの中産階級の勃興を肌で感じる。

チャウメンを売る店があった。30rp、コルカタで食べて以来見た。思わず注文した。食べた。美味しい!若いインド人夫婦が一生懸命商売している感じだ。私に向かって、日本人か、と聞いてくる。「有難う」と日本語でいう。何だか愉快になり、ついでにチキンロールも食べてしまった。もうこれでお腹は一杯。安くて満ち足りた夕食だった。

ホテルの前は本当に人通りが多く、またその人々が大声で話している。道を通れない車がクラクションを鳴らしまくる。この喧騒は凄まじい。インド系カナダ人のアドバイスがどれだけ有効だったか、そして私の選択が正しかったかは、直ぐに分かった。お蔭で私はゆっくりと柔らかいベッドでぐっすりと眠れた。

10月14日(金)  温もりのある朝食

翌朝は目覚めが良かった。7時には起きて、真っ直ぐに食堂へ向かった。しかし食堂と呼べるものはなく、1階上にテーブルが出ていて、そこで取った。本当に立派な家のリビングにいるような雰囲気で好ましい。

そして食事はホテルのビュッフェスタイルではなく、一つ一つ給仕が聞くスタイル。私はこんがり焼いたトーストとバターにママレード、スクランブルエッグにアッサムティ、そしてバナナと言う朝食にした。いいホテルでは今やほとんどがビュッフェ。大量の食事が放置され、捨てられていくのであろう。それに比べて、ここは人間の温かみもあり、物を無駄にすることもない。そして食事が粗末という訳でもない。少なくとも日本はこのようなスタイルで行くべきではないだろうか。例え人件費が高くても、それがおもてなしであり、勿体ない精神であろう。

このホテルの泊り客は欧米人、特にヨーロッパ人が多い。彼らは実に優雅に朝食を食べる。その振舞には品があり、ビュッフェでバクつく我々とは大きく違うものがある。そして従業員との会話があり、他愛のないことを朝から話す。若い頃、天気の話題などして何になるのかと散々思ったクチであるが、こういう所で朝食を食べると天気の話がしてみたくなるは不思議である。

ダージリンはイギリスの街

ダージリンは傾斜地であり、当然坂道が多い。今朝も食後、早々に散歩に出て、この坂道を下る。途中脇道があり、そちらへ曲がると、制服の高校生が皆同じ方向へ行く。こんな坂の下に学校があるのかと思っていくと、やはりあった。

立派な高校である。建物はいつ頃建てられたのだろうか。イギリスと言う国はアジアのどこにでも立派な建物を建てている。それは何故なのであろうか。自らの威厳を示すためだろうか。単に母国と同じ物を作っていただけなのだろうか。いずれにしてもイギリスが当時世界一の国であったことは間違いがない。この高校一つ見てもよく分かる。

更に横道を下ると、昨日の駅に出た。その付近の道路には、シリグリ行きなどのジープが待機。公共交通機関として使われている。やはりこのような坂の多い場所はジープのような乗り物でないとダメなのであろう。

今度は坂道を上る。いくつものイギリス時代の建物に出くわす。カルカッタの避暑地としてイギリス人が開拓した、それにしても遠い所だ。どうしてだろう。ただの避暑地と言うよりチベットやヒマラヤへの玄関口として機能していたのだろうか。河口慧海のチベット旅行でも再三登場する所から見ても、重要性は分かる。

大きな真新しい建物も見えた。何とこんな所にも大型デパートが進出している。地元の人々も伝統的な市場を捨てて、デパートへ行くのだろうか。場所柄、この建物には興ざめするが、これもまた一つのインドであろう。

ホテルの横まで戻る。実はホテルの横に気になっていた一つの建物がある。病院、1847年と書かれている。ダージリンで病気になったイギリス人は全員ここにやって来たのではなかろうか。雰囲気からすると療養施設だったのかもしれない。

ロウチャーティ

ダージリンを出発する。今日の目的地はカンリンポン。地図で見るとそう遠くはないが、4時間掛かるという。スターとして分かったことは相当の山道。アップダウンがきつい。河口慧海や他の探検家はこの道を歩いて行ったのだろうか。それは凄いことだ。

1-2時間行ったあたりに茶畑が見えた。この辺はロウチャと言う場所らしい。運転手がロウチャティと叫ぶ。ちょうど茶摘みが行われており、車から降りてその風景を撮影する。時ならぬ闖入者に地元の人々も興味津々でこちらを見ている。

更に行くとまた別の茶畑がある。しかしここはもう地名も別でまた別の名前の茶になる。ようはこの辺は茶畑がいくらでもあり、恐らくは市場に出る時は全てダージリン紅茶として販売されるのであろう。茶葉の質がそれほど良いとは見えないが、それはそれで需要がある。

我々は川沿いをカリンポンに向かっている。ティステル河というらしい。この河、そこそこに大きい。この北側がシッキムなのだろう。いよいよ幻の王国へ向かっているのかと思うと、ちょっと胸躍る。

途中河の景色が素晴らしい、日本でいえば峠のような所で休憩する。茶店もあり、チャイを飲む。この風景を見ながら飲むチャイはまた格別。周囲にはインド人観光客が結構おり、同じように風景を楽しんでいる。彼らにとってもここはインド国内ではあるが、インドではない場所。中産階級が車で訪れている。レンタカーだろうか。インドの観光産業はこれから発達する予感。





ダージリンお茶散歩2011(6)ダージリン ダージリンはイギリス時代の避暑地

トイトレイン

そんな話をしていると突然機関車が見えた。何と道の脇に線路がある。これが世界遺産のトイトレインか。特に興味はなかったが、目の前を機関車が走ると気持ちが変わる。何とか乗れないものか。ダージリンの街までもう少しと言う場所で車は停まった。そこに駅があったのだ。聞けばもう少しでトレインが出るという。チケットは250rpと観光客値段だが仕方がない。

駅の上には博物館もあり、昔の車両の部品やベルなどが展示されている。ユネスコのプレートには1881年の開業以来、現在も昔の形を残して運航していると称えている。この鉄道の開設に掛かった労力たるや凄まじい物があったことだろう。

出発の時間が来た。私は言われた場所に乗り込む。ところが欧米人のおばさんがやって来て席を替われという。ここは自分の席だと主張するので、車掌に確認すると私の席だった。日本人は概してこういう場所では言葉が通じないため小さくなっていて後で文句を言う人が多いが、欧米人はガンガン主張してくる。

列車は道沿いにダージリンを目指す。まさに家の軒先をかすめて進む。これは面白い。近所の子供が手を振って来る。振りかえす。と、機関車が吠えた。すると石炭が飛び散り、窓から飛び込んできた。久しぶりに頭から浴びる。これもまた楽しい。子供に帰ったようだ。

仏教の大きなお寺が見える。もうすぐ到着だろうか。崖崩れしている所もある。先日の地震の影響は明らかにある。実にゆっくり進んでいた機関車だが、40分ほどでダージリン駅に着いてしまった。残念、もっと乗っていたかった。

優雅なホテル 

運転手が駅で待っていた。車に乗り込み今日のホテルへ。ダージリンの街はマカイバリと比べれば相当大きいが、道は狭い。車は対向車、人々を避けながら、何とか進む。そしてついにある建物の前で止まる。傾斜地に建つ結構立派な建物である。

運転手は建物の中へ消えたが、車は明らかに通行の邪魔になっており、大変。暫くすると運転手が人を伴って戻る。その若者は私の荷物を軽々と肩に担ぎ、階段を上って行く。運転手は車を動かし去る。急な階段を上る。4階に受付があった。息が切れる。ここは山小屋風でもあり、何とも優雅なホテル。受付も実に丁寧に応対している。

チェックインすると更に1階上へ。その素晴らしく眺めの良い部屋に通される。え、私の宿泊費は1泊僅か4,000円程度だが。しかしあることを思い出した。マカイバリにやって来たインド系カナダ人が「このホテルは表に面している部屋は一晩中うるさいから辞めろ」。そうだ、私はいい部屋よりも静かな空間が欲しかったのだ。

受付でその旨伝えると、困ったように「あなたの料金はこの部屋だ」と言う。このレベルで裏向きの部屋はないと。そして全く見晴らしのない部屋に通されたが、こちらで十分満足。これが最近の旅で鍛えた良さである。料金より静けさを取る。

先ずはシャワーを浴びる。マカイバリではお湯のシャワーはなかった。これで5日間は正直日本人には辛い。ちょっと浴びただけで相当に幸せに感じられる。こんなことは日本では味わえない。節電とか、忍耐とか言っても、やはり実際に経験しなければ分からない。今回被災した人々の暮らしが本当に思いやられた。ついでに洗濯もした。

圧倒的な教会

それから腹が減ったので、街へ。マカイバリでは三食心配がなかったので、久しぶりに自分で食べ物を探す。これも人間の本能かもしれない。ダージリンの街は完全な傾斜地に作られている。狭い道に土産物屋や衣服を売る店などが連なる。一軒こぎれいなレストランがある。見ればパンがある。久しぶりに甘いパンやら、チキンパイやら買い込んで席に着く。

お茶はアッサムティーを頼む。これまで毎日マカイバリティだったので、気分を変えてみることに。値段はダージリンの方がアッサムより若干高い。この高地の眺めの良い場所に陣取り、飲むお茶は格別に美味しい気がする。何だか夢でも見ているような気がしてくる。高いと言っても日本円で僅か100円、気持ちの良いランチであった。

それから午後の散歩へ。私はダージリンの地理も分からず、目的地もない。まさに散歩である。少し歩くと広場がある。観光客を馬に乗せて金を取っている。こういう所を見るとダージリンとは観光地であり、避暑地であることが分かる。それにしてもこの街は英国植民地時代に開かれた所であろう、何となく英国風の建物が残り、雰囲気は良い。

突然目の前に威風堂々とした教会が目に入る。この高台から更に少し高くなった場所にそびえたつ。説明のよると1842年に創建され、その後1872年に再建されている。目の前の建物は140年前の物となる。門が閉ざされており、中に入る事は出来なかったが、壮麗な建物は周囲の人々を圧倒したことだろう。

それから周囲を歩き回る。途中マカイバリで会ったインド系カナダ人に出会う。彼らも同じホテルに宿泊している。彼らの旅はかなり贅沢な物と言える。元がインド人でも、先進国カナダから来れば、過酷な旅は難しいかもしれない。いや、奥さんは白人だからだろうか。

お茶を売る店もあった。何と日本語で直売と書かれて所もあった。マカイバリ茶も堂々と売られていた。ダージリンに来た観光客は当然紅茶を買うのだろう。では、庶民は何を飲んでいるのかと見ていたが、やはりチャイのようだ。チャイは5rpぐらいで飲めるから、庶民のお茶である。

また道を歩いていて気が付くことは、学生が小学生でも高校生も制服を着ていること。またこの制服がビシッと決まっていてなかなか良い。英国風の名残かもしれないが、きちんと制服を着ている姿に秩序を感じる。それにしても、あの制服いくらするのだろうか。やはりお金が無いと教育は受けられないのだろうか、と考えてしまう。




ダージリンお茶散歩2011(5)マカイバリ シャワーの有難さを知る

水シャワーに感謝

午後ネットをしているとフランス人のおばさんが一人でテクテクやって来た。何とカリブ海の島に隠棲し、時々アジアを旅行しているとか。しかも子供たちの為に何かボランティアをしたいと申し出ている。60歳を超えてそのバイタリティには驚く。

PCに強いナヤンがこのおばさんに「西洋式シャワーがある」と話しているのを聞く。実はここに来ての最大の問題はシャワー。ホームステイ先にはシャワーはなく、トイレの隣で水を被るのみ。一応個室にはなっているが、夜などは暗い上に結構涼しいので、風邪気味であることを考慮して、体を洗っていなかった。正直ラダックでも同様の経験はあったものの、ここマカイバリは乾燥地帯ではなく、むしろ湿気が多い地。だから茶の産地に適しているのだが。

ここで全くシャワーを浴びないのはチョット苦しい。そこでナヤンに案内してもらって室内にシャワーのある家に行って見た。この家は家の作りから、部屋の中身までこの付近ではかなり裕福な様子。普通の水洗トイレとシャワーが付いていた。ただお湯は出ない水シャワー。今回インドに来てから未だに一度もホットシャワーを浴びていない。

しかし3日もシャワーを浴びていない体は水でも十分に気持ちよく、落ちてくる水に感謝した。我々は日頃の有難味を味わう機会もなく過ごしているが、このような機会があれば、誰でもが自分の生活を考えてみるだろう。

10月13日(木) 別れの朝

昨晩もパサンはトレッキングの仕事で遅く帰ってきた。ここ二日は朝早く出てダージリンに行き、お客とトレッキングか、今度来る団体のアレンジに奔走していたらしい。昨年ここに1か月以上ホームステイした台湾人イラストレーターが彼らのことを本にしていた。その本が送られてきたが、書いている文字が漢字で読めないと言うので、少し読んであげる。イラストはいい。文字が無くても意味はよく分かる。

出掛けるパサンについて、散歩に出る。彼はここから上がってくるシェアタクシーでダージリンに行くと言う。道に出るとナヤンなど彼の仲間が朝から話をしていた。まだ6時半だが、本当にここの朝は早い。そして意外とあっさり別れてしまった。それでいいのかもしれない。

いよいよ出発の時刻が来た。おじいさん、お嫁さん、そしてリーデンが家の前で見送ってくれた。この小さな木の家が何とも懐かしく思える。特に設備が優れている訳でもなかったが、何となく温もりがあった。日本でも昔はこのような暮しがあったはずだ。人間の幸せとは何であろうか、再度考えた。

おじいさんが私の荷物を軽々と担ぎ上げ、道路脇まで運んでくれた。私より随分年上であるが、その慣れた仕草がこの村で生きて行来ていることを示していた。

3.ダージリン  ダージリンの宗教

昨日ラジャ氏から、「ダージリンに行く道は非常に混んでいて通常1時間で行ける所が2時間半掛かっている。早く出た方がいい」とアドバイスを貰っていた。地震の影響でもう一つある道が崩れ、工場の前の道は異常に混んでいた。私も到着当初から、何でこんなに混んでいるのか、折角の風景が台無しだ、などと感じてはいたが。

それと人々が道を譲らない、また運転が未熟な運転手が増えているとも言う。これは全てインドのモータリゼーションの産物だ。この狭い山道で自分勝手に突っ込んだらどうなるか、誰でも分かることだが、それが出来ない。また分かっていても運転が未熟で結局罠に嵌ってしまう。誰かが一度嵌ると抜け出すのは一苦労だ。

先日行ったクルセオンの街を抜けると山道である。所々に村があり、商店らしきものが見えるが、基本的には退屈である。1時間ぐらい行くと運転手が「これが俺に村だ」という。道の脇に彼の自宅もある。彼らは一体どのような暮しをしているのだろうか。

彼は既に両親を亡くし、妹と住んでいるらしい。結婚するには金が掛かり、彼は嫁さんを貰うまでの収入が無いと嘆く。運転手はシーズン中仕事があるが、オフシーズンにはお客はなく、家でテレビを見ているしかない。これでは安定的な収入とは言えない。家族を養えない。

宗教は特殊でボー教だと。この宗教は彼によれば、神様は自分の両親であり、親を敬うことを絶対にしている。この考え方は素晴らしいと思われる。現在ではこの地域でも仏教の僧侶は金の事しか考えなくなり、キリスト教はその隙間を狙って、改宗工作に余念がない。キリスト教系学校を作り、教徒の子弟は学費が安くなる。そんなことでも仏教を捨てて改宗する人が後を絶たないらしい。




ダージリンお茶散歩2011(4)マカイバリ 茶園主と散歩して分かる素晴らしい茶園

マカイバリ茶園の歴史

クルセオンからの下り坂を降りると、ラジャ氏がお客さんを案内している所に遭遇。彼の家は工場から茶畑を登った所にあると言う。時間が空いたと言うことで、オフィスにお邪魔し、ホワイトティーを頂きながら、マカイバリの茶の歴史を聞く。

ラジャ氏のひいお爺さん(Girish Chandra Banerjee)はコルカタ近くに広大な土地を有する家に生まれたが、ロンドンで法律を勉強したいと言う希望が父親の怒りを買い、14歳で家を出て今のバングラデッシュに辿りつく。ヨーロッパの8か国語が話せた彼はその後地域とイギリスの間に立つなど頭角を現し、16歳でダージリンとクルセオンでポニーエクスプレスサービスというポニーを使った郵便システムを確立。20歳の時には既にこの地域で大金持ちになったと言う。

1840年にキャンベル博士が最初にクルセオンとダージリンに茶園を開いた。そこに目を付けたイギリス軍脱走大佐サムラー(Samler)がこの地に広大な土地を所有。ひいお爺さんはサムラー氏と仲良くしていたが、1858年にサムラー氏が亡くなるとその地を引き継ぐこととなる。しかし時代はイギリス植民地へ入り(1857年セポイの反乱)、危機感覚に優れた彼はこの土地の管理者として香港のジャーディン・スキャナー商会を前面に立てて、土地を所有し、イギリスの接収を免れた。

当時生産管理は行き届いてはいなかったが、商品はクルセオンまで籠を背負って運ばれ、そこから鉄道でコルカタへ。コルカタでジャーディン・スキャナーがオークションにかけ、イギリスなどへ輸出されていった。利益は半々だったと言う。それでも初代が亡くなった1898年には途轍もない財産を残したという。

1939年に第2次世界大戦が始まると、これを好機と見た祖父(2代目、Tara Pada)は父(3代目、Pasupati Nath)をマカイバリに送り込んで経営を行った(マネージャーはインド人と言うルールが存在)が、父は茶に興味がなく、もっぱらハンターであった。

余談だが、東京裁判の3人のジャッジはアメリカ、イギリス、そしてベンガル人だった。ベンガル人のみが天皇の戦争責任を否定し、天皇は責任を問われなかった。ベンガル人とはそういう人々だ。元々ベンガルはこの地や今のバングラディシュを含めた広大な土地を指していたが、イギリス人はベンガル人の優秀さを恐れて、土地を細かく分割した。

話を聞いている間もひっきりなしに来訪者があり、職員が指示を仰ぎに来る。その一つ一つに丁寧にそして的確に指示を与える。トラブルに対しては毅然とした態度で臨んでいる。経営者の顔がそこにある。ただ我々と話すときには、飛び切りの笑顔あり、ユーモアを交えたトークありで、とても楽しい。

10月12日(水)  マカイバリを訪れる人々

昨晩パサンに「ラジャ氏は8時半から工場を見て回り、その後お祈りをするから、9時過ぎに行けばよい」と言われたが、そこは日本人、8時半と約束すれば相手が来なくても8時25分には彼のオフィスに行ってしまった。

案の定、彼は工場に行ってしまい、そこに若いカナダ人カップルがいた。旦那はトロントでTVコマーシャルを作っているとか。よく聞けば1970年代、親がカナダに移民したインド人だそうだ。カナダで育った彼はインドの文化や慣習をあまり知らないらしい。今回の旅は自らの文化を知ることで1か月回っている。カナダは英連邦であるから当然紅茶文化だろうと思ったが、やはり最近はコーヒーが主流。茶のイメージは薄れていると。

トロントもバンクーバーもいまや大陸中国人が大量に不動産を買い、移民してきている。その勢いは驚くべきスピードだと言う。この辺りが金に物を言わせて、その地の文化を理解しない中国人として、嫌われる要素がある。インドでも中国の力による侵攻には警戒感を強めており、例えばシッキムに中国人は入ることが出来ない(パキスタン、バングラディシュも)など、一定の制限を設けている。昔日本も同じように思われていたと思うと、何だか情けない気がしてきた。

因みにここにホームステイする人は、ヨーロッパ人が主流。偶に韓国人や日本人もいる。最近はインドのデリーやコルカタ、ムンバイなどもからもビレッジライフを求めてくる人々がいる。またドイツ人でボランティアとして、水タンクの寄贈を行うような人もいる。実に多様性がある中、日本人でも写真撮影に来たり、ラジャ氏との交流のために茶業者、ジャーナリスト、芸術家、実業家などが訪れていると言う。

その夜、パサンと話した。彼はこの村の発展を真剣に考えていた。「自分たちは大儲けをしようなどとは思わない。また今の自然な生活を捨てようと思わない。しかし例えば子供たちにもっと教育の機会を与えたい。そのため、学校建設を計画している」

その計画によれば、それは専門学校のようなものであり、お茶製造の技術から、車の修理や電気関係など、この村として必要な物を皆で教えようと言うもの。先生はこの村でその技術を持つものが担当、その他事務員なども村人で賄うと言う。

「旅行業はどうしてもコルカタやダージリンなど都市の旅行社がアレンジしてしまい、我々にはあまり利益が無い。何とか自分達でツアーをアレンジしたり、企画したりもしたい」とも言う。確かに私ももしパサンを知っていれば、彼に英語でメールを送り、手配を頼んだかもしれない。欧米人の多くは、旅行社などは通さず、自ら連絡を取り、中には直接やって来て、ステイしていく者もいる。「日本人はどうして旅行社を通すんだ」と聞かれて困る。寄付金で学校を建てる、寄付付きツアーは日本でも流行るのでは。

ラジャ氏の話2

今日はラジャ氏と30分話が出来た。昨日彼は丁寧にマカイバリ茶園の成り立ち、そしてその紅茶の輸出などについて、説明してくれた。このような話は既に何十回もしているようだが、嫌な顔もせずに話してくれる。2008年には本も出版しており、こちらも買い求めて、私の至らない英語を補うこととした。

今日は生産された紅茶の品質と価格について、聞いてみた。150年前にマカイバリで紅茶生産が始まってから今日まで、紅茶の世界ではダージリン紅茶が一番良質であると確信しているようだ。アッサムは大葉種で、繊細な味が出ない。スリランカの茶木はインドから渡った物で後発。中国では混乱もあり、良質の茶葉を作る環境が無かったと言う。

当時イギリス人の憧れは中国産の紅茶。アッサムで茶樹は発見されたものの、やはり中国産が飲みたいという要望に合わせて、中国より茶樹を持ち込み、インド各地に植えたが、結局このダージリンだけで中国産小葉種の茶葉が育ったのだという。

価格は全てカルカッタのオークションで決められたが、ダージリンティーは常に高値であった。勿論茶葉の質と顧客の要望により、安いお茶も作っていたし、ティーバッグも作っていた。リプトンもブルックボンドもダージリンに一目置いていた。

日本の震災の話も出た。「中国にはプリンシパルが感じられないが、日本には今回の震災を見ても、まだまだプリンシパルがある」と言う。先月シッキムを中心にこの地方でも大きな地震があり、家屋に被害が出たと言うが、もし日本の震災並みの地震がやってきたら、人心が耐えられないだろうとも言う。

ラジャ氏と茶園散歩

ラジャ氏が得意の「カム」と号令をかける。私は黙って彼に着いて行く。工場からかなり下る。どこへ行くかなどとは聞かない。指揮官の行動は絶対である。ラジャ氏のいでたちは狩りに行く英国人。背筋はピンと伸びている。

道路では村人と達とすれ違う。その度に彼はバックから飴を取り出して一つずつ皆に配る。店の中の子供には覗きこんで配る。そして必ず声を掛ける。話の内容は分からないが、茶葉はどうかとか、暮らしはどうかなどと聞いているに違いない。その姿はまるで領主様。英邁な領主を持った村人は有難く彼の話を聞く。

左手に棒を持って進む。途中から茶園に突入。昨日も経験しているとはいえ、毎日散策しているラジャ氏のペースは早い。着いて行けずに遅れる。彼は滑りやすい場所などでは、的確に指示を出して助けてくれるがそれ以外はお構いなく進む。自身でも滑ることがある。すると彼は「Part of My Life」と言って何ごともなかったように進む。イギリス人がゴルフでフェアウエーの真ん中に作られたバンカーにナイスショットして運悪く入るように。

ラジャ氏が草むらを指す。そこには蜘蛛の巣が張られている。「これが意味するものは、化学肥料が使われていないことと蜘蛛の食糧が十分にあると言うこと」実に多様な虫がここに生息しているそうだ。

次にまた草むらを指す。「ここには13種類もの草が密集して生えている。彼らは共生出来ている。人間がもしこんなに多人種で密生していたら必ず喧嘩になる。人間とは愚かなものである」全くその通り。

茶畑に入る。彼はいくつもの茶葉を摘みとる。「プージャ(祭り)があったから、成長しすぎてしまった。これでは次の芽が出ない」と言う。プージャ期間は1週間以上休みであったが、自然の植物が成長を止めることはない。それにしても茶畑の景色は素晴らしい。

30分以上下っただろうか。これから上って戻るのかと思うと、気が遠くなる。と丁度小屋が見える。一休みかと思うとラジャ氏は中に声を掛ける。窓から数人の子供たちが顔を出す。どの子も素晴らしい笑顔とちょっとしたハニカミを見せる。彼は一人ずつに飴を配りながら、様子を聞く。ここは茶園の託児所であった。これならお母さんも安心して働ける。素晴らしい配慮だ。

更には車が用意されており、乗り込む。実はパサンの家を通った時に家の犬が付いてきていた。この犬は私が出来掛けるといつも途中までカードしてくれる賢い犬だったが、今日は何故か全行程付いてきてしまった。私はジープの後ろから彼を見え送り、心配してラジャ氏に「あの犬は家に帰れるだろうか」と聞いた。「当たり前だろう、犬はそんなにバカではない」全くその通り、家に帰るとちゃんと玄関先に寝ていた。





ダージリンお茶散歩2011(3)マカイバリ ティテースティング

何をそんなに急ぐ 中国人ツアー

ラジャ氏が「最近中国人のツアーが毎日のように来て忙しい」とぼやく。それは中国が国慶節休みで7連休だったからだと伝える。それにしても彼らは一体何のために来るのだろうか。ラジャ氏も中国人の真意は掴みかねると言っている。

工場見学中に5-6人の中国人がどやどやと入ってきて、ワーッと説明を受けながら、写真をバチバチ撮り、走るように去って行った。「これが中国式さ」と従業員たちも呆れ顔。そんなに忙しく見てどうするんだろうか、という顔をしている。

中国人の中年の男女が写真を撮りに戻ってきたので声を掛けた。四川省で緑茶の栽培をしていると言う。工場訪問の目的を聞くと「視察さ」と答えるのみ。彼らの作っているお茶の名前を聞いたが、緑茶であること以外分からなかった。彼らはそれ程急いでいた。何をそんなに急ぐのか、兎に角これは商売の為とか、有機栽培を学びに来たとかいうのではなく、単なる観光だろう。

しかし後で聞いてみると、ある中国人茶商から、ここの茶葉をそのままバッグに入れたティーバッグは出来ないか、と具体的な商談もあったらしい。中国で今から本格的な有機栽培を行うのは至難の業。一方消費者のニーズは高まっている。それでここからの輸入を考えたのだろう。「基本的に我々は中国人を信用しない。彼らは契約を守らないし、何でも金で解決しようとする。インドとは相いれない」、これがインド的な考え方であるが、それでも中印の貿易は進んでいくのだろう、ゆっくりと。

ティ-テースティング



オフィスの2階でティーテースティングが行われた。6種類のお茶が準備されている。「First Flush Vintage」「Muscatel」「Oolong」「Silver Green」「White Tea」「Silver Tips」と茶葉の缶に名前が書かれている。「First Flush Vintage」とは一番茶。4月頃の紅茶であろう。なかなかすっきりした味わいがある。ちょっと甘みも感じられる。

「Muscatel」は二番茶。6月頃の紅茶。この風味はちょっと独特で表現が難しいが、私はこれが良いと思う。実際にテースティングを進行した若者も「基本的にはFirst Flushより美味しい」と述べていた。

「Oolong」は烏龍茶。ダージリンで烏龍茶?アメリカからの要望があり少量生産している。味が分散しており、香りもなく、特に美味しいとは感じられない。ラジャ氏はこれを「Drjoolong」と冗談で言っていた。

「Silver Green」「White Tea」は緑茶との説明。「Silver Green」は所謂あら茶の感触。緑茶と言っても香りが立つわけでもない。面白いのは「White Tea」。中国茶の白牡丹よりヒントを得て作ったため白茶と名付けているが、不発酵で緑茶なのだと言う。これがなかなかイケル。紅茶好きには受けないかもしれないが、Silver Needleなどが好きなヨーロッパ人にはいいかもしれない。

「Silver Tips」は芽だけで作った最高級品。茶水の色は「White Tea」と同じぐらい薄く、品が良い。味わいも深く、微妙な感触がある。

テースティングだが、2gずつカップに茶葉を入れて4分間蒸らす。そして大き目の茶碗に移して、スプーンですくって口に含み、ブクブクしてから吐き出す。中国茶も同じ要領だから紅茶から学んだかもしれない。

管理責任者の話

茶園の管理責任者から少し話を聞くことが出来た。年間生産量は13万ケース(1ケース30㎏?)、内高級茶は5万ケース。ティーバックはここでは水分が多過ぎるので、乾燥しているシリグリに別に工場を持っている。マカイバリは湿度が高く、茶の生産に適しているが、最近は木材の伐採などで気温が上昇、今後の生産への影響が懸念されるという。自然災害としては2年前のモンスーンで150戸、先月の地震で50戸が被害を受けたが、いずれも軽微。

今年は人件費も高騰。職員、ワーカーとも給与が35%程度上昇しており、価格にも反映されている。ワーカーの日当は90rp、また出来高として1㎏あたり7rpが支払われる。全職員は650人、住宅が支給されるほか、医療費は無料、年金もある。また職員が退職するとその子女は即座にここに職を得ることもできる。この付近の人間はここで働きたいと考えるのでワーカー不足の心配はない。この地域としては、昨年まで州の帰属問題などでストライキが頻発したが、マカイバリには影響はなかった。

ファーストフラッシュ(3-4月)、セカンド(5-6月)、サマー(7-8月)、オータム(10月)の4期に分かれている。価格はファーストが高いが、美味しいのはセカンド。紅茶の輸出先はフランス、アメリカ、日本、イギリス、近年はインド経済が好調で国内消費が高まり、国内向け販売もかなり伸びている。特にホワイトティーはインドで人気が高い。ウーロン茶はアメリカに需要があり生産しているが量は少ない。

有機栽培を如何に維持するのかとの質問には「マカイバリには深い森があり、周囲を囲んでいるので、森が守ってくれる」と。また周辺の茶園も昨年から化学肥料の使用を辞めるなど、有機に対する考えが深まっている。

クルセオンの街

ランチはライス。どうやらここでは昼にライス、夜はヌードルになるらしい。その方が健康的な気もする。それにしてもキャベツ炒めは塩辛い。が、それを美味しいと感じる所が汗の出過ぎなのだろう。またオレンジを絞ったジュースは極めてジューシーで美味しかった。

午後オフィスに行き、ネット接続を試す。モデムを使用したが、簡単に接続できた。2日ぶりの通信は、嬉しいような、余計なことをしたような複雑な気分。勿論緊急や特別なメールが無かったから、こんなことが言えるのだが。オフィスに居る時、通り雨があり、午後としては涼しい気温に。ここはクルセオンのホテルを訪ねてみようと坂を上る。我々の居る場所から上を見るとホテルは山の上に立派に建っており、興味をひかれる。

しかし昨日同様坂を上ることは難儀であった。昨日ほど暑くないので汗は少なかったが、それでもかなり絞れた。このような運動が日本でも必要なのである。実質的に食事が制限されている今の環境で運動すれば、体は軽くなるだろう。人間は、いや私は、何故自己規制が出来なのだろう。

30分ほど登るとココランパレスに到着。後でラジャ氏に聞くと「ここは州知事であった叔父の夏の別荘だった」そうだ。中に入ると、確かにホテルと言うよりはどこか別荘風の作りになっており、なかなか楽しい。

このホテルを紹介してくれたのはセット氏で「ここでお茶を飲むといいよ」と言われたのだが、ティールームが見付からない。ようやく見つかったのは2階の一角。マカイバリの方は見えない場所。お茶を飲まずに去ることにした。因みに1泊2,200rpとのことで、泊まってみてもよいかと思う値段であった。

折角なので道沿いを歩いてみる。もう一つ目を引いた建物は学校であった。何だか赤毛のアンの世界を思わせる可愛らしい校舎だ。英語学校とある。この付近は子供にも早くから英語を習わせている。それが将来の希望に繋がるから。村人は皆言う。「日本人は殆ど英語が出来ない。我々はコミュニケーションに困るが、日本では日本語だけで用が足りると言う証拠。羨ましい気もする」と。

紅茶研究センターの看板が出ている。恐れずに入ってみる。インド紅茶協会や農業部の下部組織であろう。ここがインド紅茶発祥の地であることを考えれば当然あるべくしてある。しかし本日は休業日とかで誰もいない。諦めて更に進む。紅茶工場もあった。しかし門番はマネージャーがいないとして、入るのは遮られる。仕方なく、今来た道をとぼとぼと戻る。





ダージリンお茶散歩2011(2)マカイバリ 美しき茶園と茶摘み娘

10月10日(月)  美しき茶園

翌朝は晴天。思ったより暑い。朝5時には鶏が鳴き、5時半には家族が起床。釣られて私も起床。庭には鶏やヒヨコが歩いており、近所の家でも洗濯などが始まる。実に生活感がある。朝ごはんはパサンが作ってくれる。シェルパは食事作りが仕事の一つ。

9時にパサンに連れられて工場へ行く。先ずはここの4代目茶園主、ラジャ・バナジー氏に挨拶に行く。彼が今回のキーパーソンであり、いきなり会えたのはラッキー。ところが今回の来訪目的を述べたその時、彼の携帯が鳴り、中国人グループの来訪が告げられた。話は5分で中断されてしまう。そして私はパサンに連れられ、茶園見学へと向かう。何だかちょっと残念。たった5分の対面だったが、なかなか面白い人物との印象を受ける。

次にベルギー人の男女3人も同行し、近くの茶園へ降りていく。彼らは実に自由に旅をしており、気に入った場所に長く泊まり、動いて行く。一人は女性でインド、ネパール、タイなど半年旅行を続ける予定とか。確かに気分次第で動いて行く旅が結局は自分の為でもあり、また安上がりなのだろう。旅の仕方を考えさせられた。

急な坂を下り、茶園に入る。パサンは慣れているのでお構いなしにどんどん進む。着いて行くのが大変。茶木がそこここに自由に植えられているのが印象的。また蝶や虫、クモなどが沢山いるので、化学肥料は使われていない様子がうかがわれる。

かなりの霧が掛かっていたが、晴れて来た。向こうの山を見ると山肌の色が違う。どうやら向こう側では化学肥料が使われているらしい。こちら側には木があり、草があり、花が咲いているのでよく分かる。茶園の急斜面では所々で茶摘みが行われており、その大変さは坂を下っている我々にはよく分かる。

実はこのグループには8歳の少年が同行している。彼はちゃんと水を持ってきており、全員に配ってくれた。少年はベルギー人の担当。彼らの会話を聞いていると父親を亡くしており、その代わりを務めているらしい。今日は学校が休みなので同行したのだろうが、既に彼はガイドの訓練を始めている。この地域の厳しさと暖かさを少し垣間見た。

パサンは何かに憑かれたかのように、坂を下る。何か目的地があるのだろうか。相当下った所に小屋があり、中を見ると何と赤ちゃんがゆりかごに入れられて寝ていた。ベビーシッター役にお婆さんが面倒を見ていた。仕事中に子供を預けられるシステムが存在することも分かる。

8歳の少年はどこかに使いに出された。暫くすると一人の青年を伴ってきた。青年は隣の小屋のカギを開け、中を見せる。そこは紙工場であった。どうやらベルギー人が希望して見学するようだ。よく見ると茶の外箱に使う紙も作っている。ここはマカイバリ茶園に必要な紙を作っており、余った物で観光用にはがきやノートも作成していると言うことだ。必要な物は自前で作る、これも面白い発想だ。

 

茶摘み女性の明るさ

午前中は相当に歩いた、特に最後に家へ帰るための上りがきつかった。思わず、ベットに転がり込む。そして昼食を取ると眠気も増す。ところが既に午後の部が始まろうとしている。午後は何と茶摘みを体験しようと言うのだ。ベルギー人の男女がやって来て、「ギブアップ」と言って帰っていった。私一人になった。

パサンは籠を背に、ロープを頭にして、茶園に向かう。摘んだ茶葉を持ち帰るつもりか。それでは茶園から文句が出よう。どうなっているのか。先程歩いた道を下るとすぐに茶摘みをしている人々に出会う。パサンはスーパーバイザーに声を掛ける。そして私に向こうの方を指して、「あっちのスーパーバイザーは英語が出来るから行け」と言う。そして彼自身は何と草刈りに更に降りて行ってしまった。

取り残された私は仕方なく、指さされた方角へ。しかしそこには道はなく、茶畑を突っ切る。これが意外と大変。何度も躓きそうになりながら、喘ぐようにして行く。ようやく到着すると、何だか皆笑っている。聞けば「あんたは顔がネパール人そっくり。それなのに茶畑の歩き方がなっていない」と言う。そこに居た5人の茶摘み娘はどっと笑いだす。思わず苦笑。

スーパーバイザーは工場の方で21年勤めた後、6年前からこの仕事をしているベテラン。右手に傘を持っているだけの身軽ないでたち。「個人的にはセカンドフラッシュが美味いと思うが、今年の秋茶もいいよ」と言いながら、茶葉の摘み方を教えてくれる。

女性たちの手つきを見ていると実に素早い。ある高さ以上に成長している緑の茶葉を尽く、一瞬にしてむしり取る感じ。茶葉が両手一杯になると背中の籠へ上手く放り投げる。これは簡単なようでなかなかできない。龍井の茶摘みのように芽の部分だけを摘むのではなく、凍頂烏龍の里で見た根こそぎ摘んでいくパターンだ。

5人は思い思いの場所で摘んでは移動する。恐らく一定の法則があるのだろうが、実に自由に見える。スーパーバイザーは時々、摘み切れていない茶木の方に歩き、その木だけ摘む。そして近くの女性の籠に放り込む。女性は礼を言うでもなく、自分の手を動かす。

結構な重労働だが、女性たちは実に明るい。常におしゃべりしている。今日はドルガプージャのお祭り休み明け初日、話題は殆どがお祭りらしい。誰かがしゃべり、誰かが応え、そして笑う。スーパーバイザーも「話すなと言ったら、仕事にならないよ」と諦め顔。彼女らはこの周辺、またはダージリン地区からやって来る。午前中は比較的高齢者が多かったが、今回はかなり若い子もいて、後継者不足の心配はなさそう。

茶園には山羊がいて、草を一生懸命食べている。除草の代わりに飼っているのだろう。確かタイの工場で金融危機の時、山羊を飼って除草をした話を聞いたことがある。それにしても貪るように食べている所を見ると、食事が与えられていないのだろうか。何とも可愛らしい。

1時間半ほど、眺め、そして偶に手を動かしていたら、作業終了時間となる。4時前には終わるらしい。皆帰り支度をして、茶葉で一杯になった籠を背負い、急な坂を上がっていく。これは大変な作業だが、これまた明るく振舞っている。古来女性は強いと言うことか。工場まで持って行き、そこで担当の計量を受け、今日の作業は終了した。

工場まで茶葉を運ぶとそこには秤があり、お姐さんが一人、全員の摘んだ茶葉を計量してノートに付けていた。これで給与が決まるのだろう。終わると三々五々帰って行った。その後ろ姿は流石にちょっと疲れて見えた。パサンはとうとうやって来なかったが、一人で帰ることに問題はなかった。

その日の夜パサンは焼きそばを作った。味付けは濃かったが、まさに焼きそば。しかも名前はチャウメンだ。中国から入った食べ物と思われる。スープはラダックと同じ懐かしい味がした。疲れもあり、早々に就寝。

10月11日(火) 工場見学

翌朝はお茶工場見学。9時に集合して、例のベルギー人3人と4人でパサンの説明を受ける。今朝のマカイバリも濃い霧に包まれており、湿度が高い。茶畑の方はどうなんだろうか?工場の建屋はかなり古めかしい。背の高い平屋かと思ったが、中は2階建て。

先ずは昨日摘みんだ茶葉が大量に干されているレーンへ。特に乾燥機を入れている訳ではないので、かなり湿り気がある。ここは2階部分で、茶葉を床の穴から下へ落とす仕組み。下には機械があり、その中へすっぽり。ここまでは手作業で行われる。

下では揉捻機が3台、音を立てて動いていた。そして乾燥、振り分けへ。最後の袋詰めはやはり手。ここでは十数人が働いていたが、その中には初日の夜、荷物を運んでくれたダワもいた。彼の本業は製茶だったのか。

工場の隅には木箱に梱包された茶葉があった。見ると「Dust」と書かれており、かすである。これはティーバッグ用として出荷されるらしい。一級茶葉使用、というやつだ。勿論最高級茶も箱詰めされている。秤も錘を使って計る年代物。何だか雰囲気がいい。