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杭州・安徽・北京茶旅2017(8)ついにシェアバイクをに乗る

6月27日(火)
シェアバイクで

今朝は朝9時に銀行へ行く。理由は昔開設した口座のセカンド口座を作るためだった。セカンド口座、聞きなれない言葉だったが、中国人の知り合い全員がこれを勧めた。私はアリペイを使うために、決済口座を必要としていたのだ。だが、これまでの口座を使い、何か問題が発生すると困るので、今や中国人はアリペイやWechatペイ専用口座を作っているという。それで近年銀行の口座数が急増したわけだ。それほどに詐欺事件、情報流出などが多いということだろう。

 

銀行窓口では簡単に口座が作れた。そして口座間転送の金額制限などを細かく示される。銀行側もセカンド口座の利用方法を知っており、詐欺などにあった場合でも、被害を最小限に済ませるためだ。そして作ったばかりの口座をすぐにアリペイに繋いで見た。思いの他簡単に繋がった。そのまま銀行の外へ行き、自転車を見付けてQRコードを読み取る。すると暗証番号は提示され、鍵は解除される。

 

自転車にあっと言う間に乗れた。実に快適だ。もし乗っている自転車が壊れていたり、空気が甘かったり、不具合があれば、すぐに他の自転車を見つけることができた。建国門から昨日の雍和宮まで渋滞もなく20分ぐらいで着いてしまった。昨日危険だと思った自転車の群れ、今日は私もその一員になる。天気も良いので気分もよい。

 

孔子廟の中に入り、ぐるぐる回る。以前にも来たことはあるが、今回は牌坊などをじっくりと眺める。碑林という建物もあり、中には凄い数の石碑が並んでおり、圧倒された。それから南羅鼓巷に向かう。地下鉄だと乗り換えも必要だが、自転車ならすぐに行ける。ただ古巷は歩行者天国で、自転車すら走れない。この付近の以前にも調べた古い建物を見て回る。

 

お昼は張自忠路駅の上にある老舗店、天興居で、Tさん夫妻を会った。店はきれいになっていて、昼時はかなり混みあっていた。Tさんのご主人、北京人の張さんが全てを注文してくれた。老北京菜、内臓系を含め、どれも美味しい。偶にこういうものを食べると、北京に来たな、という気分が出る。胡同の現状についても詳しく教えてもらう。

 

午後も自転車を駆使して、ホテルまでゆっくりと帰る。ホテルの入り口まで乗り込んで終了した。入会キャンペーンということで何と料金は2日間無料!有料でも1時間1元程度だから、これほど便利な乗り物はない。ただ見ていると違法駐車は普通で、放置自転車も散見される。真の便利というものは、ルールの無いところに存在するのだな、と強く感じる。日本ではこの便利さは許されない。今日だけでもぶつかっている自転車にも何度か遭遇した。中国を知らない日本人には信じられないかもしれないが、今や中国人は自転車に慣れていないのだ。

 

自転車に乗りなれていないのは私も同じ。快適だとは言っても、相当に疲れが出て、足も痛い。宿でぐったり休む。暗くなってから、夕飯を食べるために外へ出た。昔働いていた懐かしい場所を歩き、蘭州ラーメンの店に入り、12元のラーメンを食べた。その代金を初めてスマホで払おうとしたが、どうしたらよいかわからない。店員に聞くと彼はウイグル人で、私のスマホ画面の英語が読めないと言って困惑する。二人でちょっと格闘して、何とかQRコードを読み込み、無事12元の支払いを終える。やっと人並みになった気分だ。

 

6月28日(水)
銀行で

今日は海淀に行く用事があったので、懸案にチャレンジしに行く。実は数年前、私の銀行口座のATMカードを息子が紛失したが、本人でないと再発行できないと言われていた。既に北京を離れていた私はすぐに申請が出来ず、2年ぐらい経ってからその申請に行ったのだが、『カードの再発行には1週間かかる』と追い返されそうになった。何とか係員を説得して、うまく事が運びそうになったものの、何と口座開設時からパスポートが更新されており、古いパスポートもなければ本人確認が出来ず、手続きできないと追い返されていた。

 

今回2年ぶりにその支店に行き、案の定、一から説明して悪戦苦闘することになる。何しろ最初の担当者は『口座はない』と言い放ち、ここでごねてようやく口座番号に辿り着くも、上級職員が本店を説得しきれず、タイムオーバーとなる。結局取り敢えずこの支店あてにカードを再発行してもらい、次回取りに来ることにしたのだが、果たして取りに来てもすんなり出てくるか。この辺は中国の困った部分だ。ただパスポート更新時に番号が変わってしまうという日本の方式も困りものだ。

 

時間が迫っていたので、シェアバイクでランチの約束場所へ乗り付ける。本当に便利で有り難い。知り合いの王さんと食事をして北京情勢などを聞く。料理は四川だが、それほど辛くなく、あっさりと食べる。皆ある程度歳を取ると健康に問題が出てくるのだから仕方がない。特に中国人は基本的に食べ過ぎなので注意が必要だ。

杭州・安徽・北京茶旅2017(7)胡同を歩いて思う

6月26日(月)
北京散歩

翌朝は早起きてして、暑くならないうちに、懐かしの散歩ルートを歩いて見る。建国門には昔の気象台、古観象台があるが、今日は月曜日で上に登ることは出来ない。社会科学院(元科挙試験場)から胡同に入り、四川省弁事処を抜けていく。ここの四川料理は今もうまいだろうか。

 

北に進路を取ると趙家楼飯店というホテルがある。ここは五四運動で学生が押し寄せた場所として、今もプレートがはまっている。その向かいには梁思成夫妻のサロンがあったはずだが、既に10年前には取り壊され、未だに再開発が行われている(いや開発が止まっているのだろう)。

 

その辺から古い建物は残っているが、住人は減っている感じを受ける。一部は改修という名のもと、取り壊しが進んでいるようにも見える。ここまで地価が高くなった北京で、この立地は誰もが望むところだろう。外交部路の協和病院宿舎のようにホテルとして使われるならよいが、胡同の家に住みたい者も少なくなっているかもしれない。

 

お爺さんが日向ぼっこをしている横で修繕工事が行われていた。その横には人が集まっていた。見ると薬局だった。老人だけが残っている状況の今、この胡同に必要なのは薬局と医者なのかもしれない。それも高価な物は買えないので、伝統的な庶民の薬。胡同の明日が見えるような風景だった。

 

北京二十四中という学校の前を通ると、大勢の人が門の外にいた。何事かと門に近寄ると『考試』という文字が見える。大学入試統一試験、高考は今や日本でも知られるようになったが、その一つ前、高校受験がちょうど行われているようだ。中国の、特に大都市における受験競争の激しさの一端を見る思いだった。そして何より、子供や孫の合格を願って外で待っている親や祖父母の気持ちに思いが至る。

 

実はその横にもう一つの行列を見つけた。こちらはカメラを向けると皆が顔を隠した。何の行列かとみると、清朝時代の総理衙門のその建物は信訪室と書かれていた。ここは地方から出てきた人々が中央政府に何かを訴える窓口になっている。地方では解決できない問題が増えているのだろう。学生も陳情者も厳しい戦いを強いられている。胡同でこんな場面に遭遇するとは思いもよらない、これも北京散歩の面白い所だろう。

 

最後に蔡元培故居を少し覗いて、金宝街を歩いて、地下鉄の駅を探す。香港ジョッキークラブが作った北京ジョッキークラブはまだ存在していた。北京にこれがあってよいのだろうかと昔は思ったものだが、今はどういう位置づけなのだろうか。中国と香港の立場も大きく変化している。

 

お昼は現在連載している人民中国の王総編集長を訪ねて、西へ行く。最近は地下鉄も増え、6号線が近くを走っているらしいが、私は未だにバスで百万庄を目指す。オフィスでは初めて私の文章を担当してくれている銭さんも会えた。それから社内食堂でご飯をご馳走になる。いつも素朴だが美味しいご飯でよい。

 

帰りがけに、魯迅博物館に寄ったが、何と月曜日で閉館。この博物館、一般企業のオフィスもあるようで紛らわしい。白塔もお休みで、何も見ることは出来ず、1番バスで故宮など主要観光地をぐるっと回って、雍和宮に向かった。そこでTさんと待ち合わせていたのだ。Tさんは東京の大学を卒業後北京で勉強し、今は北京の大学で教えている。こういう人材が北京で活躍しているのは喜ばしい。

 

雍和宮は中国最大のチベット仏教寺院。過去何度か中に入っているので、今回は門の写真だけを撮る。それから孔子廟の方へ向かう。ここも観光地化が進んでおり、門の前を通り過ぎる。今や一世を風靡しているシェアバイクがあちこちで横行しており、緑豊かな通りをゆっくり歩くのは危ない。

 

夏の北京の風物詩と言えば、西瓜ではないだろうか。私が北京に住んでいた頃は、街中に小型トラックで西瓜売りがやってきて、ごろごろした西瓜が山のように積まれていた。そして値段も驚くほど安く、甘みもあった。だが最近この光景を見ることはない。トラックは街中に入ることができないのだ。それに代わって目に付くのは、水果店という小さなお店。これがそこいら中にあって驚く。しかしこの店は実は大資本によるチェーン店らしい。実際買ったバナナは美味しくなかった。若いうちにとった果物を大量に購入して、全国にばら撒く。これで美味しい訳がない。あの美味しい北京の西瓜はどこへ行けば食べられるのだろうか?

 

疲れたので観光地化された道のカフェに入ってみる。胡同とは無縁のおしゃれな様相。カフェラテやフレーバーティは置いてあるが、アイスティはメニューにない。だが注文すると作ってくれた。料金はラテの半分だから客単価を考えてメニューに載せないのだろう。決済は勿論スマホ。全てが経済だ。

 

夜は知り合いの陸さんと久しぶりに会った。場所は胡同の中にある工場跡らしい。そこの庭がとてもいい感じ、白人さんが夕日を浴びながら食事をしていた。我々もそこでビールを飲みながら、かなり寛いだ。日が暮れてもきれいなライトアップがあり、実に良い雰囲気が醸し出される。北京も変わったのかな、とふと思う。

杭州・安徽・北京茶旅2017(5)上等の祁門紅茶を試飲する

6月24日(土)
茶廠へ

翌朝は朝ご飯を食べるとすぐに祥源の茶工場へ向かった。祥源は浙江省の不動産開発会社であり、その潤沢な資金でこちらの茶工場を買収した。グループ全体の売り上げに占める茶業の割合は僅か1%だという。今も輸出が全体の70%、リプトンに中国茶葉も供給しているというが、その量も少ないのだろうか。

 

雨は降り続いており、工場の横を流れる川は増水し、このまま降り続ければ溢れるのではと思う程だった。6月はこんなに雨が降るのだろうか。工場は立派できれい。最近新設されたものだそうで、以前の国営時代の工場は別の場所にあったが、既に完全に取り壊されて跡形もないという。

 

建物の前には立派な像が建っていた。呉覚農、近代中国茶業を担った一人だが、彼は1932-34年の間、この地の茶業改良場の場長を務めていたという。研究、生産、販売を一体化するなど相当大胆な改革を断行し、この地の紅茶生産に貢献したとある。当時の外貨獲得の重要物資である茶はこのような人々により発展していった。

 

工場内を見学すると、先端の大型機械が導入され、自動化が進んでいた。これまで見てきたいくつもの紅茶工場の中でも最大規模ではないだろうか。一方博物館の方へ行くと、昔の器具が並んでおり、その生産の歴史が見られるようになっていた。実は今日は朝から一人の老人が我々に同行してくれていた。

 

閔宣文氏、85歳。1958年に祁門茶廠に入り、製茶技術を深め、60年に渡って紅茶を作ってきた人である。現在でも祥源の顧問として、技術指導に当たっている。非常に元気で、我々の質問にも的確に答えてくれた。2008年には非物質文化遺産として、祁門紅茶の伝統製造技術の代表的伝承人にも認定されている。

 

試飲室に移った。ここには相当の種類の祁門紅茶が置かれており、そのうち数種類が無造作に置かれていた。試飲が始まる。上級から3種類は手摘みで、後は機械摘みだという。その最上級の紅茶を飲んでみると、これは完全に異次元の香りと味がした。久しぶりに美味い紅茶を飲んだと思えた。

 

実は先日日本のある年配の方と話していると『30年前、祁門ではいい紅茶が作られており、我々はそれを飲むことができた。だが今やそんな上等な茶を見つけることは難しい。祁門も相当の変化があったようで、上等のお茶は作られなくなっているのだろう』と言われた。だが今飲んでいるお茶を見ると決して上等のお茶がないと思えず、関係者の人に聞いてみた。

 

『それはこちらの問題ではなく、日本の問題でしょう。30年前、日本の経済力は凄かった。当時の中国でいいお茶は日本にどんどん流れていた。だが今は日本人のそんな高級なお茶を買う余裕はないのでは』というのだ。確かにそうかもしれない。30年前の100元は彼らの一か月の給料だったが、日本人にとっては一回の飲み代に過ぎなかった。我々は物があれば何でも買えた。だが今や、高級茶は1斤(500g)、1万元(17万円)もするのだ。私には手が出ない。もし手にできる日本人がいても、その茶を10斤買う力はない。中国人はその単位で茶を買うのだから、勝負にならない。

 

昼ごはんを食べてから、ある茶荘に向かう。ここには元国営茶廠の廠長だった人がいた。彼は茶廠が売却されるとその職を辞し、今は自分で細々とお茶を作っていた。10年前の混乱でにも変化があり、もう大きな茶廠で茶を作る気はないという。その辺の多くは語らないが、色々と大変だったのだろうと推察された。

 

実は今日は山の中の茶畑を見学する予定になっていたが、ここ数日の雨で山道に土石流が発生。その様子が微信で配信されてきて、とても危険な状態だということで、残念ながら見学を諦めた。ちょうど雨が上がっていたので、代わりにこちらの茶荘の裏にある茶畑をちょっと見た。雨に濡れた茶樹は元気で、茶葉もすくすく伸びていた。

 

ホテルの裏に、茶山公園という名の場所があった。時間が余ったのでそこへも行ってみる。そこは小高い丘になっており、茶畑もあったが、既にすべて刈り取られていた。ここの麓には、元々茶業改良場があったという。確かに古い建物が残っていた。昔の従業員宿舎らしい。その前の建物は現在政府が使っており、改良場はもっと田舎に移されているらしい。

 

夜は茶業関係者が集まってきて、大宴会が催された。年配者も来て、酒を酌み交わし、楽しそうに昔話をしている。モンゴル族の女性が草原の歌を披露してさらに盛り上がる。私は酒を飲まなかったが、疲れが出たのか、途中で目が回るような感覚に襲われ、宿に帰って休息した。やはり旅が続いたこと、雨など季節的な要因があったのだろうかと思う。

杭州・安徽・北京茶旅2017(4)中国有数の紅茶産地 祈門へ

6月23日(金)
黄山へ

翌朝は早く起きた。今日は杭州東駅から高速鉄道に乗らなければならない。9時半過ぎに列車に乗るためにはここからバスを乗り継いでいては間に合わないと言われ、タクシーを頼んだ。タクシーは朝の渋滞に嵌ることもなく、思ったより早く、出発1時間以上前に駅に着いたが、料金は来た時より遥かに高かった。どうしてそうなるのかはよくわからない。何か仕掛けでもあったのだろうか。

 

駅に着くと腹が減ったので、お粥と油条を食べた。この店、どこにでもあるチェーン店だが、この日はシステムがダウンしており、オーダーがまとまらずに混乱していた。中国は日本より便利になった想うことも多くなってきたが、一旦破たんすると、目の当てられない惨状になる。いや今や日本でも同じか。

 

列車はかなり長い編成でやって来た。ところが何と、私は並ぶところを大幅に間違えてしまっていた。前と後ろを反対に考えていた。どこに何号車が停まるかということが明示されていないのでこんなことが起こる。15両もの間違えは致命的、列車がついて初めて知り一生懸命走ったが、当然発車までに間に合わない。車掌も取り敢えず乗れ、と叫ぶ。この列車は先頭車両を2つ連結しており、何とか自分の席のある側まで辿り着いて乗り込んだ。もし手前に乗れば、歩いて自分の席に行くことは出来なかった。

 

今回は安徽省の祈門紅茶の旅で来たのだが、杭州からは黄山北駅に行くことになる。まさかここにも高速鉄道が通っているとは思ってもみなかったが、杭州から中国有数の観光地である黄山へ行く便数は少なく、本体である魏さん一行が福州から到着する時間に合わせることは出来ず、長時間待つことになっていた。午後1時過ぎ、列車は無事に黄山北駅に入った。

 

3. 安徽
祈門まで

ホームを歩いていると、スマホに着信があった。出口のところで誰かが待っているという。行ってみると、何とモンゴル族の女性がそこにいた。魏さんたちの紅茶が好きで、内モンゴルから出てきて、深圳などで茶の勉強をしており、近く内モンゴルで茶荘を開こうとしているらしい。今回も勉強のためにこのツアーに参加したのだが、何と深圳からは夜行列車しかなく、今日の早朝にここに着いたのだと。驚いた、朝からずっと待っていたとは。

 

更に武漢から来たという二人の男性も合流した。彼らは私と同じ列車でここに辿り着いていた。お茶や水関係のビジネスをしているようで、浙江や福建を回ってきて、このツアーを知り、参加したらしい。メンバーが4人になり、話に花が咲く。持っていたお茶が淹れられ、のどの渇きを癒す。お湯がどこでも手に入るのが中国の良いところだ。この駅も高鉄のご多分に漏れず、新しいがため周囲に特に何もない。おまけに雨もかなり降っているが、これなら2-3時間待っても問題がない。

 

3時間ぐらいして魏さんたちがやってきてようやく合流した。迎えの車が来ており、ここから60㎞離れた祈門へ向かう。途中はかなりの田舎。雨が強いのでよく見えないが、田畑が多く、また山も見える。約1時間かかって、何とか街に入る。街は思ったよりも建物が多いという印象。

 

予め宿が予約されており、相変わらずの林さんと同室。もう慣れていて有難い。すぐに向かいのホテルで今回の受け入れ元である祥源祈門紅茶の孫総経理が食事を用意してくれ、大いに食べる。その後そのホテルの1階にある祥源の店に場所を移し、紅茶を飲み始める。そこでいくつか祈門紅茶の歴史を聞き出す。世界の三大紅茶の1つとも言われ、中国を代表する銘柄だから、その歴史も華麗なのだろうか。

 

1900年代前半から祈門は世界的ブランドだった。1915年の万博での受賞が大きく取り上げられるが、それだけではないようだ。しかし近年は不振に陥り、ついに国営茶廠が競売されてしまった。祥源は国営茶廠解体後、それを引き受けた会社で、母体は不動産開発業者だった。孫総経理も元々リプトン中国に勤めていたとのことで、この買収により、請われてやってきたという。祈門紅茶は混乱して、以前のような生産はされていない、と何度も聞いていた意味が何となく分かる。

 

話を聞き終えると、眠くなり、申し訳ないが先に部屋に戻って休むことにした。魏さんたちはこれまでの例だと延々茶を飲み続け、話続けているはずだ。林さんが部屋に戻って来たのは夜中の12時を過ぎていたと思う。外はこれまた延々と雨が降り続いている。明日はどうなるのだろうか。

杭州・安徽・北京茶旅2017(3)良渚博物館と径山寺

6月22日(木)
良渚博物館

翌朝雨は降っていなかったので、明るい時間帯の文化村を散歩した。様々な創造的な空間がそこにあったが、果たしてどれだけ使われているのかはちょっと疑問だった。杭州市内の混雑を避け、豊かな空間でクリエイティブな仕事をする、というコンセプトはこれからだろうか。

 

針路を北にとり、教えられた通りに、良渚博物館を目指す。道は本当に広く、車は極めて少ない。そして歩行者に対してとても親切。やはりここは中国ではない。北のはずれに博物館はあった。敷地は広い。正面入り口まで歩くのも大変だ。中に入ると参観者は少なく、ここもゆっくり見学できる。この辺の遺跡は1936年に発掘されたとある。発掘の歴史は意外と古い。その発掘者の中に梁思永という人物がいた。彼はハーバードを出た考古学者だが、何と日本に亡命した梁啓超の息子だった。長男で建築家の梁思成とは母親が違うらしい。この一家、調べればすごい人材を輩出しているのではないだろうか。因みに彼は1954年に50歳の若さで亡くなっている。

 

良渚文化は今から約5300年前から4300年前の1000年間栄えたと言われている。この付近にはこれより前に河姆渡文化があり、その関連性などは説明されていない。この文化にはかなりの定住性があり、家もしっかり作られている。井戸などの水回りも整っていた。そして王権というか、リーダーの下で集団生活が行われていたように見える。墓も王家の物が立派なのは勿論、既に庶民の物も作られていたという。この時代にそんなものがあるとは意外だ。かなり高度な文化がここに存在したことを示している。

 

博物館の周囲を一周する。結構な時間が掛かる。とても素晴らしい池があり、蓮の花がちょうど終わった時期らしい。いい眺めだなと写真を撮っていると馮さんから電話があり、車で迎えに来てくれた。これから径山寺へ行こうと誘ってくれたのだ。昨日の村よりはかなり近いところにある。余杭という地名はどこかで見た記憶があったが、以前径山寺に行く時に通過した街だった。

 

径山寺へ
まずは寺に上る前に、下の街で昼ご飯を食べた。そこは一応観光地のようになっていたが、お客は多くない。食堂に入り、エビや魚を食べる。この辺の名物らしい。お茶は普通の径山茶がポットで出てくるからうれしい。私は以前よりこの緑茶が好きだ。誰も知らなかった頃が懐かしい。

 

それから山道を登っていく。以前はここをタクシーで登ったのでよく覚えていないが、かなり急な坂もある。中腹まで来ると突然通行止めになっていた。何と全山全面改修中だということで、誰も入ることは出来ないという。だがここで諦める馮さんではなかった。ちゃんと道はあり、めでたく上に登ることは出来た。どのようにして登ったかは秘密としておこう。

 

だが頂上は無残な場所となっていた。多くの建物が壊され、新しく建て替えられようとしていた。本殿はさすがに修理だけのようだが、その上にあったと思われる茶畑は無くなり、大仏殿、観音殿が立派に建立されている。不思議な体型をした仏像もあった。まるでタイの物のようだった。寺全体を再開発して、観光スポットにでもしようという考えのようだ。さすがに日本では考えにくい大胆な発想。これは寺に資金が溜まったことと地方政府が何等か関係してなされているのだろう。

 

この寺には、静岡茶の源流としての聖一国師の像や、日本茶道の源流に関する碑なども建てられているが、さすがにそれはそのまま置かれていてホッとした。その部分だけが径山寺だと思えてしまうのは、かなり悲しい。日本との繋がりも、今回の再開発で立ち消えてしまうのではないか。それにしても歴史を発掘して守っていこうという良渚と、再開発しようという径山寺、どちらもお金が絡んでいるのは仕方がないことか。

 

以前はあった製茶室を探しても見つからなかった。取り壊されてしまったのだろう。以前はこのお寺で径山茶を作っていたが、今はもうないのだろうと念のために聞いてみると、倉庫のようなところに通された。そこには段ボールが山積みされ、緑茶ばかりでなく、紅茶や白茶まで保存されていた。今やこの寺のブランドを使い、茶園の茶葉を使い、製茶は外注している様子が窺える。販売価格もかなり高い。これが今の中国のお寺商法か。

 

 

帰りに良渚文化芸術中心で降ろしてもらい、馮さんとは別れた。ここには図書館などがあるが、蔵書には期待していなかった。単にこの建物が日本人、安藤忠雄氏により設計されたという理由で寄っただけだ。今や日本の一流建築家は日本ではなく、海外で高く評価され、そちらで作品を残している。それがいいことなのかどうか、私にはわからない。

 

フラフラ歩いて帰ると、一昨日の晩に来たスタバの横に出た。そこにはいくつかの食堂が店を出していたので、夕飯はそこで麺を食べることにした。中国に来るとどうしても食べ過ぎになってしまうので、一人の時は軽く済ませるのがよい。その後宿とは反対にあるスーパーに行き、飲み物を調達。ようやくこの街にも慣れてきたが、明日はもうここにはいないのだ。

杭州・安徽・北京茶旅2017(2)九曲紅梅を探して

6月21日(水)
九曲紅梅を探しに

翌朝は雨だった。明るくなってみてみると、ホステルの周囲は興味深い建物が並んでいる。だが雨なので外出を控えた。9時前には馮さんが迎えに来てくれた。彼女の車に乗り、知り合いのところへ行くという。私は今回九曲紅梅という杭州の紅茶を訪ねに来たのだが、前回宜興の旅で知り合った馮さんがそれを請け負ってくれ、知り合いに紹介を頼んだようだ。その彼も彼の車に乗り、我々を先導してくれる。

 

良渚文化村から約1時間かかって双灵村に着いた。同じ杭州と言いながらもマ反対の場所、随分と遠い所だった。そこで3代に渡って紅茶を作り続けているという賈炳校さんを訪ねた。彼の茶工場には、石うすやら木製の揉捻機やら、まるで骨董商の様にそこかしこに置かれていた。これは製茶道具として使うのではなく、彼の趣味だという。

 

九曲紅梅というと茶葉が少し曲がっているのが特徴だった。以前は殆ど見ることのなかったお茶、浙江省の茶葉の紅一点、それが最近の紅茶ブームに乗って少しずつ復活してきているという。ただその量は決して多くはなく、また龍井43などの品種を使って紅茶を作っても、需要もそれほど伸びるとも思われない。この村では、この紅茶という資源を使い、村おこしとして、観光茶園化を計画しているという。

 

実際に賈さんの茶工場の上も、既に宿泊施設の整備が始まっていた。来年には前の空き地も駐車場になり、週末には沢山の観光客が訪れることを期待している。杭州市内という一大観光地から僅か15㎞という立地に優位性はあるのだろう。だがお茶を使ってそこまでニーズがあるのだろうか。雨はかなり強くなってきている。仕方なくお茶を飲んでいる。

 

何とか雨が小やみとなり、昼ごはんに行く。地元の人しか知らない場所にある自然の中の食堂。野性味満点。そこで出された鶏肉の美味いこと。地鶏というんだな、これを。野菜なども柔らかくて美味しい。まさに農家菜だ。杭州の少し田舎でも皆さん、実に裕福だ。これも含めて観光化なのだろう。

 

午後は博物館へ。九曲紅梅の歴史がかなり細かく紹介されており、また実際に1900年代初頭から30年代ぐらいまで、この紅茶が龍井茶などと並ぶ高値の茶だったことなどが実際の新聞記事などを交えて展示されており、興味深い。その当時の九曲紅梅はどんな味だったのだろうかと、ふと思ってしまった。

 

それから村の中に少しだけある茶畑を見学。その横にある賈さん所有の別荘?も見学。池があり、いい庭があり、宿泊も可能な部屋がいくつもあるが、一般には開放していないようだ。こちらでは、緑茶をご馳走になる。それにしても賈さんだけがこの村の成功者なのだろうか。

 

賈さんに別れを告げて、浙江大学へ向かった。浙江大学と言えば、6年前、私が会社を辞めて最初の茶旅に出た際、訪れた大学だった。あれから6年も経ったかと感慨深い。馮さんはここの茶学学院の出身ということで、こちらの教授からも歴史を学ぼうと訪れた。残念ながら現在の茶関係者にとって、歴史はそれほどに重要ではない。なぜそれが必要なのかと質問されれば答えに窮する。

 

その後、良渚文化村に戻る。こちらにはなぜ、と聞く必要もなく、5000年前の文化がそこに厳然と残っている。ただ残っていると言っても、発掘されたものは博物館に行き、その現場には何も見られない。遺跡公園という名称が残るだけである。これからここを開発して、テーマパークのようにしていく計画らしい。同時に更に発掘調査が進められるようで、そこに期待がこもる。文化は経済の支えがあって初めて成り立つものだから。

 

夕飯は馮さんがご馳走してくれた。出来るだけ地元の料理をということで色々と頼んでくれた。湯葉を使った料理は日本を思わせる。他の炒め物も、何となく味がちょうどよく、日本を感じさせた。やはりこの地域、日本との関係が非常に強いのではないかと勝手に想像してしまう。

 

夕食後は、文化村内を散策した。この街は大手不動産集団、万科の王主席が『夢の街』として作ったと聞いている。それにふさわしい静かで落ち着いた、中国とは思えない、どこかアメリカ西海岸のような雰囲気を漂わせている。まず人々が急いでいない、車はゆっくり、信号もゆっくり、もうそれだけでも今の中国には貴重だ。ハワイなどを思い出す。

 

きれいな池の周囲を歩くだけで心地よい散歩ができる。犬などを連れて歩いている家族やカップルが多い。魚釣りを楽しむ人もいる。部屋に帰ってすぐに蚊取り線香を点けたが、またかなり刺された。自然に囲まれて生きるとはこういうことかと思いながら、何とか目を閉じる。

杭州・安徽・北京茶旅2017(1)良渚までの長い道のり

《杭州・安徽・北京茶旅2017》  2017年6月20日-29日

2か月に一度の中国遠征、茶旅にも少し慣れてきた。今回は前回ほど遠くない2つの場所、杭州と安徽省祁門を選んで、紅茶の旅してみることにした。ところが突然のプラン変更があり、何とそこから北京にまで行くことになってしまう。やはり中国の旅は疲れることを実感するが如何とも仕方がない。

 

6月20日(火)
1. 杭州まで
ラッシュの上海を抜ける

東京から上海へ飛び、北京から東京へ戻る。こんなフライトがそんなに高くない料金で乗れるのはやはりエアチャイナの良いところだ。ただ成田から浦東へ行かなければならないのは、その後杭州に行く人間にとっては厄介なことだった。もし虹橋行きならすぐに高速鉄道に乗り、杭州に行けるのに。世の中全てがうまくいくということはない。

 

しかも浦東着は午後5時過ぎ。ちょうど上海市内のラッシュ時間に当たっており、バスやタクシーでは何時着くか分らない。上海に泊まることも考えたが、やはり一気に杭州まで行きたくて、今回初めてリニアを使ってみることにした。空港のイミグレはスムーズで思いのほか早く出られたが、リニアの駅までは歩いてちょっとかかる。乗車券は50元、地下鉄なら虹橋まで7元で行けることを考えると極めて高い。しかも列車は出たばかりで待たなければならない。

 

列車が入る時間にしかホームに入れないという中国式は変わらない。特にすごい車両でもなく、乗り込むとすぐに発車し、何と僅か8分で竜陽路駅に着いてしまう。ほとんど何も見ないうちに、そして写真も撮らないうちに終わってしまった。まるでジェットコースターに乗っているような気分だった。

 

竜陽路駅で地下に潜り、2号線に乗り換える。これで直接虹橋駅まで行けるのだが、当然ながらラッシュ時で混んでくる。荷物を持っているので、むしろほかの乗客がよい迷惑だったろう。特に浦東中心部から浦西に渡る付近は滅茶混みで、体の体制を維持するのに苦労するほど。今や上海の地下鉄は東京の込み具合を越えており、昔のように次を待つ余裕もなく、無理やりに乗ってくるのだ。

 

何とか虹橋駅で降りて、すぐに切符売り場に並ぶ。上海はネット化が進んでおり、並んでいる人が少ないので、すぐに買えるのが嬉しい。杭州東駅まで迎えに来てくれるという馮さんに連絡を入れてみる。切符を買うまで何時に着くか分らないのだから仕方がない。案の定、彼女はお嬢さんの都合で迎えに来られないという。まあタクシーで行けば済む話だと思ったのだが。

 

杭州東駅までは約1時間。何とも速くなったものだ。駅でタクシーを拾うが、場所を告げても運転手は分らないという。ただ最近は道行というナビがあるので住所を入れれば、すぐに探せる。それを見た運転手が『なんでそんなところに行くの?杭州市内に泊まった方が便利なのに』と言い出すほど辺鄙なところらしい。途中まで高速道路に乗り、更に一般道を30分以上走ったから、確かに遠い場所だった。そしてその住所近くに来ると、突然それまでの中国の街からカリフォルニアあたりの街並の雰囲気が出てくるから驚く。

 

だが今日泊まる予定のホステルは見付からず、色々と聞きまわる羽目に。最後は馮さんに電話して何とかたどり着く始末だった。そのホステルも何となくモダンな感じで若者が泊まるイメージだった。馮さんが予約してくれ受付で待っていてくれたので、助かった。ここ良渚文化村には外国人が泊れるホテルは3つしかないらしい。受付の女性はなぜか日本語も話し、ビックリ。

 

2. 杭州
夜食

ホテルは迷路のように階段があり、意外と広い。部屋は何となく屋根裏部屋と言った感じだが清潔でよい。料金も高くない。結構暑さを感じるのでクーラーをつけた。そして移動に心を奪われて夕飯を食べていないことに気が付く。しかしどう見ても周囲に食べるところなどない。受付に聞いたが、コンビニすらなく、辛うじてスタバが開いているかもしれないという。一体ここはどういうところなんだろう。

 

取るものも取り敢えず、外へ出た。数分歩くとちょっとおしゃれなスタバがあるではないか。だが中へ入ると、片づけが始まっている。何とか頼んでサンドイッチとカフェラテをテイクアウトできた。中国に来て最初の晩がスタバご飯なんて初めてかもしれない。まあそれでも食べられないよりはずいぶんとマシだ。部屋に帰ってそれを食べ、シャワーを浴びて寝る。何となく蚊に刺されたので、電気蚊取り線香を焚く。まあ寝心地は悪くない。

広大な茶畑を眺める貴州茶旅2017(6)福州散歩

5月1日(火)
福州散歩

朝はゆっくり起きた。今日は特に予定もない。この旅はほぼ終わりだが、私にとっては旅の中休み。何となく粥が食べたくなり近所で探す。白粥のおかずとしてなぜか角煮を選んでしまう。まだ肉へのこだわりがあるのか。折角なので少し福州の街を歩いて見ようと思う。行く当てがないと寂しいので、博物館を目指す。ただそこは省や市の博物館ではなく、個人の物らしい。ネットで検索したら出てきたので行ってみる。

 

バス路線も一本で行けることが分かったので気楽に乗ってみる。バスは閔江を越え、倉山区に入る。この一帯は150年前頃、外国商人が入り、領事館なども作られた地区だった。ただ目的地の博物館は単なる一族の祠であり、しかも閉まっていた。いきなり出鼻をくじかれる。

そこから川沿いに戻り少し歩いて行くと、数年前魏さんの会社の人に案内してもらった、煙台山の旧外人居住区が見えてきた。ただこの辺の川沿いの開発はすさまじく、かなり変わってはいた。前回はアメリカ領事館跡などを探したが、教会のところへ登っていくと、そこは数年前と変わらぬ、昔の家並みが見られてちょっとホッとした。ただ一部は豪華な別荘などに生まれ変わり、お金持ちが高級車で見学に訪れていた。

 

たまに歴史が書かれたプレートが嵌っているところもあったが、歴史保存がそれほど進んでいるようには見えない。残るべきものは一応残っているので、早めに保存した方がよいと思うのだが、どうだろうか。下まで降りてくると大手ディベロッパーがここを保存しながら再開発すると書かれているが、うまくやって欲しい。

 

川沿いにはロシア風の大きな建物が目立っている。橋を渡ってそこへ行ってみたが、歴史的建造物ではなく、単なる商業施設のようで、雑貨の卸の店などが数多く連なっている。ただ連休中のせいかお客は少なく閑散とした中、皆昼寝をしたり、昼飯を食っている。その昔はこのあたりで外国商人と地元民が激しいやり取りをして、輸出がされていたのだろうか。

 

福州にも地下鉄が走っているというので、その駅を探したが、歩いて行くと遠いので、結局バスを待って宿に帰った。帰るとすぐに魏さんから呼び出しがあり、また紅茶屋へ行く。ここには紅茶に関する本がたくさん並んでおり、パラパラめくりながら勉強する。すると魏さんが『今晩は呉さんのところへ行こう』と言い出す。呉雅真さんは、中国では知られた茶芸の先生、紅茶の本も出されているので、ちょうどよいとその話に乗る。

 

宿で休んで日が暮れる頃、魏さんと出掛ける。呉さんのお店は5年前に一度伺った切りで場所も忘れてしまっていた。ここはレストランであり、夕飯を頂く。ここの料理には福州の食べ物があり、美味しく頂く。貴州に一緒に行った林さんと魏さんの親戚のネイさんも加わる。

 

呉さんはちょうど私が上海の復旦大学に留学していた頃、そこの学生だったというので、一応同窓生ということになっている。今や中国全土で名が知られている彼女、本にサインを頂き、有り難く持って帰る。この本、中国紅茶の各茶産地がかなり詳しく載っているので、とても参考になる。

 

 

お店は繁盛しており、呉さんは忙しいようだったので、食事の後は林さんが勤めるプライベートサロンに場所を移してお茶を頂く。さすが茶芸師の林さんが丁寧に淹れてくれる岩茶が何ともふくよかでおいしい。サロンは実に落ち着いた空間であり、久々に本格的にお茶を味わった気分だ。近くにこんなところがあれば、時々お茶を飲みに来るんだがな。因みに林さんは花道も嗜む。

 

5月2日(水)
空港へ

翌朝は5時に起床、市内バスで空港バス乗り場へ向かおうとしたが、早過ぎて始発まで間があり、仕方なくタクシーで行く。ちょうどバスは出たばかりで20分ほど待ったが、それでも次のバスに乗り、予定より早く空港に着いてしまった。まあチェックインは出来たので、後は空港で時間を潰す。魏さんの元泰空港店もあったが、さすがに早過ぎて人はいない。

 

五一の連休とは言っても国慶節や旧正月ほど長くないので、特に混んでいるという印象はない。また中国人の台湾訪問はかなり減っているということで、乗客は台湾人の方が多かったようだ。少し遅れるとのアナウンスはあったが、ほぼ問題なく飛び、今回は桃園に着いた。

 

今回の旅は突然だったが、貴州の茶産業、とても興味深く見た。中国の地方へ政策がどのようなものであり、また茶業を観光業とマッチさせ、発展を促そうとしているところなど、日本も見習うべき点があるように思う。

広大な茶畑を眺める貴州茶旅2017(5)遵義会議記念館

最後に街の近くまで戻って来た。ここに茶業博物館があった。見るからに歴史を感じさせる建物が見える。ここが1939年、張天福氏が選定した茶畑から採れた茶葉を加工した場所だったのだ。驚くほど当時の様子を留め、いい感じに保存されている。参加者も皆興奮気味に工場内に入っていく。中には当時の製茶機械が多く残されており、まさに博物館だった。外は緑に囲まれており、環境は抜群。ずっとここにいたいような衝動にかられたが、団体行動では仕方がない。

 

宿泊しているホテルの近く、別のホテルで降ろされてツアーは解散した。茶博参会者の人数も減ってきたので、1つのホテルでまとめて夕飯を提供するようだ。まあ、ホテルが変わっても食事の内容はさほど変わらず、さすがに毎食ビュッフェが続くと飽きてくるが、提供してもらえるだけ有り難いと思って食べる。

 

夕飯後、ホテルへ帰らず、林さんと街歩きに出た。街に中心に川が流れているので、その付近を散策する。川では釣りをする人などもおり、のどかな感じだ。林さんは、例の街のシンボルである、大きな急須をよい角度から写真を撮ろうと必死になっており、ついには川辺まで降りていく。そこに電話が鳴り、車の迎えが来た。

 

ちょうど暗くなった頃、車はホテル?に着いた。ここは芸香茶業というお茶屋さんだったが、ホテルがメインかと思ってしまう作りだった。向かいのショップに入る。ここでお茶を飲むのだが、お茶以外にも当地の特産品が沢山売られている。聞けば、『当地の商品を売ることを条件に政府から補助が出ている』という。茶葉を売るだけでなく、このような形で産業を推進していく、やはり貴州は観光業だ。

 

釜炒りの実演なども行われており、お茶の香りがよい。先ほどツアー中に会った人はここのオーナーの親戚で製茶指導をしているという。元は国営工場に勤めていたらしい。お茶の話になると非常に熱が入る人だ。紅茶はやはりこれから、という感じだろうか。宿泊客が次々とショップでお茶を飲み、お土産を買っていく。

 

夜も10時になったのでそろそろホテルへ戻るかと思っていると、何と『どうしても宵夜に連れて行きたい。この街の夜は賑やかだ』と言われ、もう拉致同然?に連れていかれる。この辺が中国的情熱の表現だとは分ってはいるが、個々人の体調などは考慮しないのだろうか。まあ、若者は夜中も食べたいのだろう。

 

確かに川沿いに煌々と電気が点いている場所がある。立派な建物があり、お客も結構いるのでビックリ。昨日訪問した会社の人も他の客を連れてきている。ここで簡単に、と言いながら、また一食分の食べ物が出てきて、酒を飲み、酔っぱらうのだから恐ろしい。まあ日本のおじさんも似たようなものかもしれないが、体力的にはもたないだろう。解放されたのは12時を過ぎてからだった。酒も飲まない身としては本当につらい。

 

4月30日(日)
遵義へ

翌朝は何となく頭が痛い。二日酔いはないから疲れだろう。林さんは別行動で重慶へ向かった。我々は昼のフライトまで時間があるので、遵義へ向かうことになる。7時過ぎにはチェックアウトして、車に乗る。1時間以上かかって遵義の街に入る。ここでも魏さんの知り合いが待っていてくれ、案内が始まった。遵義会議の場所へ行くと、まだ開門していないが、既に大勢の人が並んでいた。今日は日曜日、しかも五一の連休だから、混んでいるのだろう。

 

取り敢えず近所の麺屋に入り、朝ご飯の麺を食う。案内人はどこかへ電話をかけている。まもなく開門となったが、地元民の口利きで並ぶことなく入ることができた。遵義会議記念館、すぐ横には古めかしい立派な建物が建っていた。ここが会議の行われた場所らしい。中に入ることができたので覗いてみると、宿泊施設などもある。ここは元々国民党の師団長の私邸だったらしいが、なぜここに来ることになったのだろうか。因みに毛沢東はこの時主要メンバーではなかったので、別の場所に宿泊し、歩いて会議に来ていたらしい。

 

正面には記念館があり、中は当然ながら偉大なる共産党の歴史が語られ、当時共産党への勧誘をする看板などが飾られていた。参観者が多くてごった返している。ガイドさんが色々と説明してくれるのだが、人が多くてよく聞き取れない。仕方なく勝手に見始める。こんな田舎でも戦闘はあったようで負傷者の写真が飾られていたが、その中に若き日の胡耀邦もいたのは驚きだ。

 

あまりの人に押し出されて早々に参観を切り上げ外に出た。周辺を少しぶらつき、その後車で空港へ向かった。1時間ほどで空港に着くと、小さな空港なのでチェックインもスムーズで、フライトもオンタイムだった。行きは長沙経由だったが、帰りは桂林経由。桂林にも30年行っていないので降りたかったが、降りたのは空港までだった。

 

3. 福州2
福州に帰り着くと車で各人の住居まで送ってもらったが、張夫人は病院に直行していた。この貴州の旅がどのような意味を持つのかをちょっと垣間見る思いだった。私は先日の宿にまたチェックインし、疲れたので、魏さんの誘いも断り、一人で過す。夜は肉まんと肉団子汁で済ませる。部屋に戻ると、やはり一人は楽だ。早々にぐっすりと寝入る。

広大な茶畑を眺める貴州茶旅2017(4)360度全てが茶畑の中国茶海

4月29日(土)
1日お茶ツアー

今日は朝から茶博主催者による1日ツアーに参加した。茶業関係者の集まりだけに当然お茶にまつわる場所に連れて行ってくれると聞き、楽しみにしていた。だが天気はあいにくの雨模様。今日はバスを逃すまいと皆が張り切っている。まずはミニバスに乗り込み、集合場所へ進む。なかなか手際が悪くて出発できない。

 

各車両にはガイドさんがいた。おそろいの制服を着ているだが、どう見てもガイドさんとは思えない雰囲気。聞けば、今日のために臨時に集められた公務員や先生たちだったのだ。我がガイドは中学の理科の先生。この人、実によくしゃべり面白いのだが、何と言っても貴州訛りが強く、声調が標準的でない。そこをお客から指摘されると『そうなんです、私標準語しゃべれないんです』とあっけらかんという。ひと時代前なら、田舎の先生が普通話話せなくて、という話はよくあったが、今でもあるんだ、驚き!(勿論基本的意思の疎通には何の問題もない)

 

更には彼女、バスが出発すると、街のガイドをするのだが、『左手をご覧ください!』と言いながら、右を見てしまう。左右が逆になり、何度言って間違えてしまうという面白さ。皆から『左右さん』と呼ばれる始末。でも実に素朴で愛嬌があり、何よりも一生懸命なので好感度抜群。学校でも生徒に人気があるかも。因みにこの街のシンボルは大きな急須のモニュメントだった。

 

バスは丘の上に上って行く。いや丘というより山だ。湄潭も周囲は山なのだ。だからここが茶畑として選ばれたのか。山道を10数台のバスが連なって登って行く。ついたところは景色を楽しむようにできていたが、霧が凄くてよく見えない。それでも目を凝らしてみると、斜面に茶葉が張り付いている。少し霧が晴れると皆が一斉に写真を撮る。

 

古い建物があったので中に入ると、文革中のスローガンがあり、ここが国営工場?だったことが分かる。と言っても製茶道具は極めて質素、我々の横にいた人が、こうやってやったんだ昔は、と言いながら笊を揺すって見せた。その人、実は今晩魏さんが訪ねる予定の人だと分かり、大笑い。世間は狭い。そういえば顔の広い魏さんは、そこらじゅうで知り合いと出会い、挨拶を繰り返す。

 

もう一つ古い建物があり、そこには湄潭茶場打鼓坡分場という看板が掛かっている。なんとここがあの張天福氏が1939年に作った最初の試験場だったのだ。往時の写真がいくつか飾られていたが、ゆっくり見ようとしたら集合の合図があり、残念ながらこの場に来ただけになってしまった。

 

次に官坪小茶海というところに行った。比較的平地で天気も良くなる。ここは広大な茶畑が向こうまで連なっており、茶の海と呼ばれている。貴州省では現在大規模な茶園開発が行われており、そのすごさを見せつけられる思いだった。これまで茶畑面積中国一は雲南省だったが、貴州が取って代わるのも時間の問題に思えた。ただ左右さんが『ここは小ですからね。もっとすごいのが後で見られますよ』と言っていたのが気にかかる。丘の上から見る景色が実によかった。

 

そこで茶畑を眺めていると、このツアーに白人が混ざっているのに気が付いた。顔が合うと向こうがこちらに寄ってきて英語で話しかけてきた。『日本人ですか?僕もお茶の歴史に興味があるんです』と言ったのは、コロンビア人のジェロという男性だった。フランス人の彼女?と参加していた。私も昨年お世話になった広州茶文化協会の副会長の鄧さんに誘われてきたというのでご縁を感じた。

 

彼はもう10年以上広州に暮らし、普段は貿易会社に勤めているが、中国にいる目的はお茶だという。中国各地を回りたいと言っていた。周囲の中国人にとって、同じ外国人でも、彼らには注目が集まり、引っ切り無しに写真の要請が来ている。そんなことにちょっと嫌気がさして、外国人の私の声を掛けたようだ。広州での再会を約す。

 

お昼は観光客用のレストランで食べた。100以上の人が一度に食べるのだから大変だ。外ではヘリコプターが飛んでいたが、なんとそれは観光用だった。ここで同行していたが林さんがカメラを失くしてしまった。とても良いカメラなので残念だったが、良い物はなかなか出て来ない。

 

午後は翠芽27°という少数民族の村へ行く。ここも観光用テーマパークだった。餅つきが行われていたり、名産品のカラフルな傘が並んでいた。農家菜のレストランなどもあり、子供たちが楽しそうに走り回っていた。貴州の観光業育成は相当の資金を使い、動いているようだ。

 

更には車で移動。着いたところは大きな塔が建っていた。そこの前で少数民族の衣装を着た女性がお茶を淹れ、観光客に配っていた。踊りも披露されている。完全な観光地なのだが、周囲は全て茶畑なのである。エレベーターで塔の上に上ってみた。上でもお茶が振る舞われており、お茶を飲みながら周囲を見渡したのだが、何と360度、全て茶畑のみ、地平線の向こうまで茶畑が繋がっている。これだけの規模の茶畑は世界でも稀らしい。それでついた名前が中国茶海。さっきの小茶海が小さく見てしまうから恐ろしい。

 

茶畑の中に入り、茶葉を摘むお客もいる。その横に立ってみると、その何処までも続く様子には圧倒されてしまう。この平地にこれだけの茶畑を作れば、一気に機械摘みで大量の茶を作ることも可能だろう。品質の問題はあるかもしれないが、生産量はどこまで伸びるのか。まずはそれに合った市場が見付かれば大化けするかもしれない。