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福建茶旅2018(3)包種茶って、結局なんだろう?

4月17日(火)
包種茶の定義を知る

翌朝も又元泰のオフィスへ行く。今日は魏さんが出張から戻っているというので出掛けた。だが鄭さんより朝9時に陳さんという専門家に来て頂いたと言われ、まずは陳さんと会う。彼はすでに引退しているが、福建省茶葉公司で長年勤務し、この業界では相当に有名な方だった。福建の茶については、その歴史を含めて非常に詳しいが、実に気さくな人だった。

 

私から包種茶について質問すると、『それは昔福建の北では奇種、南で色種、台湾では包種と呼んでおり、三兄弟の関係さ。水仙や鉄観音などの品種茶以外の茶葉を交ぜて作った茶の総称だ』との説明を受け、何だかスッキリしてしまった。今でこそ、品種が主流だが、その昔大量の作られる茶は大雑把に刈り取られ、作られて行ったことだろう。今ほど品種が主体でもなく、自然交配などで雑種になっていったものが多かったのではないだろうか。

 

確かに台湾でも老舗の茶荘には、『武夷奇種』などと書かれた茶缶が置かれていることがある。大稲埕の有記銘茶には『奇種』と名付けた包種茶も売られていた。香港でも包種茶というお茶は見たことがなかったが、奇種、色種なら、何となく見たことがあったと思う。ようは福建を出た奇種が台湾では包種となり(または台湾から送られてきた四角く紙に包まれた茶葉を福建人が包種と呼び)、香港などに流れた茶は、そのまま奇種と呼ばれていたのかもしれない。何となく謎が解けた気分になり、陳さんには大いに感謝した。

 

またこの話を台湾人にしたところ、『包種茶はいかにも台湾らしい』と説明する。台湾は昔から中国大陸の産物を多く取り込み、そしてよいように改良してきた歴史がある。呼び名がなんというかは別にして、自然の花香をうまく出して、同時に花料代を節約したお茶、それが台湾包種茶ではないのか、と言われれば、そうかもしれない、と思ってしまう。小回りに利く台湾、現代でも電子部品産業などにその力を大いに発揮している。

 

陳さんが帰った頃に魏さんが現れ、久しぶりの再会。以前は彼が主催する紅茶の旅に何度か同行したので頻繁に会っていたが、その連載が終了したので、用事が無くなっていた。この1年で元泰にも大きな変化があり、単に茶葉を売るというビジネスモデルは難しくなってきたという。茶文化を如何に売っていくか、そしてそれを如何に広げていくか、これが一つの課題だ。喫茶部や土産物を売る店舗の閉鎖はその表れだ。やはり決断は早い。

 

昨日使わせてもらった図書室では何人もの社員が来て、準備が始まっている。数日後にこの図書室のお披露目式が開かれるというので、残念ながら式典に出られない私も人民中国や月刊茶など、執筆した雑誌を寄贈して飾ってもらった。因みに日本語の本も結構ある(例えば紅茶の磯淵先生は魏さんのお友達である)。

 

魏さんは出張明けで忙しそうだったので、皆さんで飲茶ランチをしたところで早々に失礼した。午後は部屋で勉強して、夜叉合流して、また四川料理屋で食事をした。余程手軽で人気なのだろう。もしこの店が日本にあれば味付けと言い、サービスと言い、日本で流行るかもしれない。

 

それからお茶を飲みに行く。昨年も訪ねた茶芸師林さんのお店。林さんが丁寧に淹れてくれるお茶は美味しく、心地よい。この空間は落ち着きがあって素晴らしく、また来たいお店の一つだ。だが彼女から『実はあなたがこの店に来るのは最後です』と言われてしまう。今月末でここから引っ越すのだとか。その理由を聞くと『このビルの持ち主、軍なんで』というではないか。

 

何と中央の指示で、今解放軍関連のサイドビジネス?は厳しく規制され、貸しビル業もご法度となったらしい。軍の腐敗に対する締め付けだ。しかも当局の指示だから、借り手の契約期限も守られず、違約金も払われない。何と理不尽なとは思うが、それについて異を唱える中国人は一人としていない。何かを訴えても無駄なことは誰にも分っており、そんな暇があったら、次に物件を探し、前を向いて進んでいく。こんなところに中国人の強さの一端を見る。

 

6年前に福州で一度会ったアメリカ人の夏先生ともここで再会する。彼はずっと福州におり、お茶の道を究めていき??最近では中国各地から老師としてお声がかかる存在になっている。魏さんの元泰でも顧問の一人となっている。楽しく、お茶を飲んで、茶談義をして夜が更けた。

福建茶旅2018(2)元泰茶業の図書室で勉強する

寒いので鄭さんと別れて、部屋に戻る。夜になり、それでも腹が減ったので、食事に出るが更に寒い。なぜかチャーハンが食べたくなり、探して食べる。福建のチャーハンと言えば、日本のチャーハンの源流かと勝手に思っているが、今日のチャーハンは如何にもの中国炒飯。まあそううまくはいかないが、悪くもない。

 

部屋に戻ると、午前中に会った李さんから微信が来ている。もう一時茶荘に来ないかという誘いだった。実は午前に訪問した際、台湾で作られた烏龍茶と包種茶に関する本を持参していた。著者は台湾では有名な林馥泉、彼は元々福建人だが、第二次大戦後に福建から台湾に渡った人で、福州でも茶業関係者には知られた存在だという。

 

その著書は1956年に書かれているが、福建では手に入らないらしい。実は李さんは確認したいことがあり、その本が見たいということだったのだ。まさかそれほど貴重な本だとは思っていなかったので、驚く。お蔭で更に李さんから教えを乞う機会を得られたのは幸いだった。

 

ただ昼間人に連れられて行ったお店に夜もう一度行こうとしたら、完全に道に迷ってしまった。これは昨今よくある傾向だが、本当に記憶力が低下しており、恥ずかしい。スマホの地図を駆使して何とか行き着き、夜遅くまでお茶を飲みながら話す。

 

4月16日(月)
元泰茶荘へ

翌朝は魏さんがまだ出張から戻っていないのに、元泰茶業へ行く。昨年までは喫茶部としてお店があり、基本はそこで会っていたが、既にその店は閉鎖され、元泰茶業は今年から新しいスタートを切っていた。オフィスのあるビルの25階へ行くと、以前とは雰囲気はがらりと変わり、展示物が増えている。空いた空間ではお茶を飲んでいる人々がいる。

 

更には図書室が一室に作られ、これまで収集されたお茶関係の本が相当沢山並んでいるのには驚いた。午前中はここで気になる本を取り出して読んで過ごす。包種茶ばかりでなく紅茶などにも興味深い指摘がある。また福建省各茶産地についても、もう少し回って勉強したくなる。ちょっと眺めているだけで、すぐに時間は経ってしまう。

 

昼ごはんの時間になると鄭さんが声を掛けてくれ、元泰の社員の皆さんとランチに出掛ける。辛い物は苦手な福建人が四川料理屋へ行くというのでちょっと驚いたが、そのレストランは大繁盛で席が空くまで少し待った。なぜ人気なのか、その秘密をすぐに分かった。サラダやフルーツ、ライスにスープは各自が好きなものを取るビュッフェ方式になっていて満足感がある。そして何よりも味がさほど辛くなくイケている!中国に来ると、本当に腹一杯食べて満足することがあるが、まさにそれだな。

 

食後、横にあった新華書店に寄ってみる。30年前、時々行った書店だが、その頃はどこにでもあるが冴えない感じだった。ところが今は違う。おしゃれな雰囲気で、座り込んで本を読んでいる学生までいる。荷物はロッカーに預けなければならないが、それも自動ロッカーになっている。残念ながらお目当てのお茶関連の本は見付からなかったが、良い勉強になった。

 

午後も又、図書室に戻り、精力的に福建の茶の歴史を調べていく。勿論すべてを読みつくすなど到底できないので、主要な部分をチェックして、後はカメラに収めておき、後日読むことにした。今後は福建や広東の茶産地を一つずつ回る旅、というのをやってみようかと思う。案外知られていない歴史が掘り出されるかもしれない。

 

夕方元泰を失礼して、少し街を歩く。昨年まであったビルが取り壊され、再開発されている。少し雨がぱらついても、夕方のラッシュ時、バイクと自転車が多過ぎて、交差点は人が渡るのは難しいほどだ。近くに定食屋があったのでフラフラと入ってしまう。量は相変わらず多いが、料金もセットメニューで20元前後。ちょっと前までは10元で簡単な飯にありつけたが、今はよほど探さないとそんなことにはなりそうもない。

 

宿への帰り道。フルーツを売る店が何軒か並んでいる。これも近年中国の大都市にはよくある光景、大資本が全国展開しているのかもしれない。その軒先には枇杷が沢山置かれている。ちょうど旬らしい。そういえばこの枇杷も福建から日本に運ばれたと聞いた記憶があるが、福州の名物だったか。いくつか買って帰り食べてみたが、まだちょっと青かった。

福建茶旅2018(1)福州で台湾茶の歴史を学ぶ

《福建茶旅2018》 2018年4月14日-23日

台湾茶の歴史を勉強していると分からないことが沢山出てくる。資料はなかなか見つからず、有効な答えに出会えないことも多い。先日の包種茶など、やはりどうしてもしっくりこない。こんな時は対岸の福建省、元々台湾茶の元祖である福建の茶の歴史に当たるべきではないかと思い、出掛けてみることにした。ついでに1月に沖縄で出た疑問、『ちんすこう』の歴史についても学んでみたい。

 

4月14日(土)
1. 福州
新しい宿

台北松山空港を飛び立った厦門航空は、順調に飛行した。LCCではないので食べ物は出たが、バナナとパンと水だけ。まあ1時間ちょっとのフライトだから国内線並みか。午後10時頃に福州空港に到着。イミグレも順調で、あっという間に外へ出た。意外と涼しい。すぐに市内に向かう空港バスを探す。ちょうどバスには1席だけ余裕があり、滑り込む。これは結構助かった。

 

もうこのルートも慣れており、夜の暗い街を走る間も寝入る。1時間弱でいつものアポロホテルに到着。そこでタクシーを拾い、今日の宿へ向かう。実は昨年まで、定宿としていた如家というホテルチェーン、ついに予約を断られてしまった。仕方なく、他に泊まれるところを探してもらったところ、意外と安い宿が見付かったというので、そこにしてみた。

 

もう真夜中の12時、道には車は殆ど走っていない。簡単に見つかるはずのその宿は、なぜか入り口が見当たらない。タクシーの運転手も2回回って、降りて探してくれ、と言って走り去ってしまう。探すと実に小さな入口があり、入っていくと『ああ、日本人の人ね』と予約があることが確認できる。

 

この宿、実はXX会館の宿泊部として登記したらしい。外国人が宿泊することを想定してライセンスを取得していたため、安い料金ながら合法的に泊れる場所となっていた。廊下の壁のペイントなどはかなり若者向け。部屋はこじんまりしており、特に何もないが、それが何となくよい。今やベッドとWi-Fiがあれば、どうにでもなる。入口の横には雑貨屋があり、夜中でも飲み物が買えた。有り難い。

 

4月15日(日)
茶の歴史を求めて

翌朝目覚めると、外は相当に寒かった。まるで冬のようだ。それほど厚手の服装を持っていないので、ちょっとまごつく。午前9時に魏さんのところの鄭さんが来てくれる。実は魏さん、急な出張が入り、私の方に日程の変更を求めてきたが、こちらも変更できない事情があり、福州に押しかけてしまった。そこで鄭さんが案内役に指名された訳で、日曜日に申し訳ないことだ。

 

外に出て朝ご飯を探す。福州名物?海蠣餅が目に入る。それにつられて中に入ると鍋辺糊がある。寒い朝にこれは抜群に良い。お客も満員で、皆熱々の物を食べている。なんでこんなに寒いんだろうか、そしてなんでこんなに美味いと感じるのだろう。

 

そこからちょっと歩いていくと、集合住宅がある。入って行くと、小さな事務所のような場所があった。そこは台湾人、李さんのお茶屋さんだったのだ。なぜここを訪ねたかというと、この李さんは、何と昨年亡くなった張天福先生の弟子で、先生を慕って台湾から20年ほど前に福州へ移住した人だったのだ。

 

彼なら台湾茶と福建茶の両方に詳しいだろうということで、その歴史を聞きに行く。彼は私が包種茶について質問すると、一つ一つ紙に書いて丁寧に説明してくれた。その説明を聞いていると、中国では定義が比較的はっきりしているのに、台湾では福建から渡って来た後、改良が重ねられ?定義が曖昧になっているように思えた。品種と商品名など、ちょっと複雑になってしまい、それが分かりにくくしているという印象も受けた。

 

ここで学んだ大きなポイントは、『台湾茶の歴史を台湾内だけで調べていても埒が明かないものがある』ということだ。やはり起源は中国大陸にあり、そこには正しいかどうかは別にして、文献や定説が存在する可能性がある。台湾の方が書かれたものが少ないのは残念ながら事実だ。

 

白茶などを頂きながら、2時間ほどお話しして失礼する。昼ご飯も暖かい物ということで牛肉麺を食べる。やはり中国に来ると牛肉麺は捨てがたい存在だ。そしてちょっと銀行に寄ろうとしたが、歩くと少しかかる。鄭さんが『シェアバイクで行こう』と言い出したのだが、私は北京で昨年シェアバイクを試し、その際保証金が返還されずにその会社が倒産した経験があって、今は使っていなかった。

 

だが鄭さんは『今は保証金なんていらないよ』というではないか。聞けば、芝麻信用なる個人の信用度をはかるものがあり、それが一定以上の点数だと、保証金は不要なのだとか。試しに私の信用度を見てみると、残念ながら保証金不要になるほどの信用度がなかったので諦めた。私は支払宝を数回しか使ったことがなく、芝麻信用に信用されるほどのユーザーではなかったらしい。結局二人で歩いて銀行を往復し、更には三坊七巷へ向かう。

 

そこでおしゃれない茶館に入る。観光地には最近はデザイン力もある、人の目を惹く茶館が本当に増えたと感じる。ただお茶を飲むのが目的ではなく、ここで著名なお茶研究者の温老師と待ち合わせていた。温老師は何冊もお茶関連の本を出している方で、お茶の歴史にも詳しかったので、色々と質問し、これまでの情報を踏まえて、全体を整理できてよかった。

広東・海南大茶旅2017(6)海南から広州へ

8月28日(月)
海南を去る

翌朝は早めに起きて、周囲を散歩してみた。昨晩は暗くて分からなかったが、実は相当大掛かりな開発がなされていた。名前を茶渓谷というらしい。泊まっていたホテル部分の他、別館あり、多数のコテージがあり、プールなどの施設も整っていた。更に歩くと分譲用の家も建てられている。一体どれだけの開発をしたのだろうか。今日は天気が悪いが、もしよければ下が一望できる空間もある。

 

朝ご飯に行くと結構泊まっている人がいて驚く。粥などをさらっと食べて宿をチェックアウトした。もうほとんど残っていない茶畑をチラッと見た。今日は一気に海口まで帰り、空港から飛行機で広州に戻ることになっていた。雨の中、車は山を下り、来た時とは違う道を通っていく。昨晩の宿は三亜の方にかなり近いことが分かる。三亜は昔、息子と二人で遊びに行った思い出がある。

 

途中車は海沿いを走っていた。ガソリンを入れた以外はほぼ休憩なしで3時間以上走った。もう少しで海口というところまで戻ると、道を外れていく。最後の訪問地、南海茶廠に向かっていた。その敷地に入っていくと、茶工場というよりリゾート地のような景観だった。建物も博物館風に整えられており、先の方には宿泊施設さえ見える。

 

陳さんたちはもう一か所にある茶工場に用事があると言って出て行ってしまい、私はそこの人と二人で茶を飲んでいた。彼の話では、ここは元茶工場だが、今はリゾート施設となっているという。海口からも近いため、週末などは人が来て泊まっていくらしい。確かに環境は悪くない。90年代までは大量に紅茶を生産しており、日本企業との取引もあったという。

 

何と陳さんたちはここで作られた黒茶餅を持って帰って来た。既に10年以上前に作られたとのことで、飲んでみるとスッキリしており、黴臭さもなく、美味しかった。紅茶の輸出が落ちこんで以降、様々な取り込み、生き残り策が検討されたことが窺われる。雨が止んだので敷地内を散歩すると、池もあり、畑もあり、何となくいい雰囲気だ。

 

昼ごはんもここで食べるのかと思っていたが、別の場所へ移動。ここでしか食べられない鍋をご馳走になる。隣のテーブルでは昼から酒が入って大宴会だ。そこから車で1時間半ほど行くと海口の空港に着いた。今回は陳さんに大いに世話になってしまった。いつか恩返しをしなければならない。

 

広州で
空港はそれほど大きくはないが、何となくゆったりしていた。フライトも順調で遅れることなく、広州に戻って来た。空港からはいつもは地下鉄に乗るだが、今回はIさんが言っていた空港バスを使ってみることにした。バス乗り場が思っていたより遠くて難儀する。切符を買うのも初めてで分かりにくい。

 

何とか乗り込んだものの、夕方のラッシュ時とぶつかり、途中から何時着くとも知れない感じとなる。おまけに私は終点まで行くのだが、途中停車まであり、時間は読めない。海珠広場に到着したのは1時間半後ぐらいだった。それもバスターミナルもなく、その辺ぽんと降ろされてしまった。

 

既に暗くなっていたが、ネオンがまぶしい。この広場自体はかなり明るい空間なのだ。地下鉄の駅があったが、腹が減ったので、その辺の店に入り、夕飯を済ませてから乗る。安いご飯もマズくはないのだが、何となく塩気が強い。海南島で自然の美味しいものを食べ過ぎたのか過敏になっている。

 

地下鉄で勝利賓館に戻る。海南島でもそうだったがVPN環境は極めて不安定である。次回中国に来る時は別の方法を考えざるを得ない。外国人にとってはどんどん不便になっていく中国の現実。一方中国人は微信の活用などでどんどん便利な生活を送れているというのに。ちょっとむくれる。

 

8月29日(火)
広州を去る

翌朝は快晴だった。何となく雨模様が続いていたので、気持ちよい朝だった。今日は東京へ行くだけの予定だったので、ダラダラと部屋で過す。その後宿をチェックアウトして、また地下鉄に乗り、昨日のリベンジとばかり、また空港バスに乗りに行く。ところが切符売り場に着いた時、ちょうどバスが出た後だった。

 

一応シートはあるので座ることは出来るのだが、トイレがないので困る。係員に聞くと、何と『マクドナルドでしてきてね』というではないか。良いか悪いかわからないが、尿意には逆らえず、広場の向こう側のマックへ行く。しかしマックは2階にあり、重い荷物を持ち上げで、こそこそとトイレを借りる。何しろいつバスが来るかわからないのだから、ゆっくりコーヒーを飲むこともできない。

 

セブンイレブンの前で待て、と言われたが、案の定、指定時間になってもバスは来ない。こういう時、待つ場所を間違えたかとか、時間を間違えたかとか、心配性である。もう一人どう見てもバスを待つ女性がいたので救われた。10分遅れでバスが来て、50分後には空港まで辿り着く。昨晩よりはかなり早い。

 

今回のチケットは香港から入って広州から出るという往復チケット。これでもほとんど料金が変わらないようなので、本当に助かる。ANAの機内ではハーゲンダッツのアイスまで出てくる。偶に乗る日系エアラインはいいものだ。快適な空の旅で東京に着いた。

 

広東・海南大茶旅2017(5)新旧海南茶業を見る

8月27日(日)
茶廠2日目

翌朝は早めに起きたが、出発時間が分からず、部屋でボーっとしていた。午前7時半にホテルをチェックアウト、少し待っていると、茶園のオーナーという人が急いでやって来た。聞けば昨晩深夜に海口から戻り、あまり寝ていないらしい。それでも我々の相手をしに来てくれるのだから熱心な人だ。

 

まずは朝ごはんを、ということで、麺を食べに行く。やかんに番茶のようなものが入っていて意外と美味しい。それから車で20分ぐらい行くと、五里路茶業の有機茶園に到着した。ここは平たい場所に茶畑が広がる。10年前は荒れ地だったらしい。向こうの方では朝日を浴びながら、大勢の女性が編み笠を被り、茶摘みが始まっていた。

 

これからの茶業を考えているオーナー。有機は一つのキーワードであり、それを武器に売り込みを図っていく。近々ここにも茶工場を建てるという。大きな木の下で、茶を淹れてもらった。昨日と違って今朝は天気が素晴らしく、雰囲気も大いに作用していると思うが、ここで飲む緑茶は美味しかった。きっと水もよいに違いない。

 

そこから車で1時間ぐらい走った。ちょうど峠に差し掛かると、やはり車の調子が悪くなる。取り敢えず停まって休みながら、解決策を探る。私は景色がよいのでその辺を見て回ると、大きなダムがあったりする。地元民も峠の茶屋、と言った感じで、お茶を飲んで休んでいたりする。そこへ小型バスが来たので、ここがバス停なのだと分かる。

 

何とか車を動かして、次の訪問地へ向かう。そこはかなりの山間、小さな場所だった。女性オーナーは、非常に積極的な人で、2000年頃全くの未開の地だったここを開拓して茶園を開いたことを話してくれた。当時は道もなく、小舟で川づたいにやってきたというからすごい。

 

五指山椰仙という場所らしい。茶畑を案内してもらうと、樹齢100年を超える茶樹が植えられている。小さな丘のようなところに茶畑が広がる。そこでも少数民族が労働者として働いていた。ちょうど昼時で作業は終了したが、数人が何やら茶樹の下の方を掘っている。聞いてみると、そこに生えている野菜を取り、今晩のおかずにするというのだ。因みに『この野菜は何という名前か?』と聞いてみると『野菜さ』というではないか。まさに野の菜であった。

 

この少数民族、黎族がその昔から茶葉を利用して茶を飲んでいた、という話を何度か聞いていた。ただ今回来てみても、その当時どんな茶を、どのように作り、どのように飲んでいたかは、分からなかった。大変興味深い分野なのだが、漢族中心の歴史の中では少数民族の歴史は完全に埋もれてしまうようだ。

 

 

お昼ごはんにまた美味しい鶏を頂いた。鶏肉好きの私が、お世辞抜きで美味しいと思う地鶏。さすが海南島、レベルが高い。レストラン横の敷地では鶏が放し飼いで飼われており、元気に走り回っている。不謹慎ながら、このような地鶏は旨いに決まっている。肉の締まり方が違う。現地の野菜もうまし。

 

それから五指山の街に行く。そこに陳さんの知り合いの茶荘があったので、寄ってみた。午後3時前は、皆昼寝の時期で、茶荘の電気も消えており、慌てて起きだしてきた人もいた。地元の紅茶や緑茶が出てくる。味にすごく特徴があるという感じではない。天気が悪くなり、雨の気配があった。

 

そんな中をもう一度山の中へ向かう。五指山茶廠、そこも昨日行った2つの工場同様、開拓時代に作られた古い工場だった。後ろの方へ行くと、歴史資産として残し欲しいような建物が残っている。また一応現役ではあるが、将来は保存され、博物館になるのではないだろうか。

 

今日は日曜日だが、すぐ近くに宿舎があり、幹部がやってきてくれた。この工場の上部機関の人も来ており、その運営方針が話しの端々で出てきていた。今や儲けてなんぼの中国、茶業は既に儲からない業務という位置づけなのだろうか。なかなか難しい。オフィスに庭には大葉黄金桂などという珍しい品種が実験用として植えられているが、何となく寂しげだった。

 

夕飯を食べるというので近くの店に移動したが、そこは何となくワイルドな場所。雨が降っていなければ、恐らくは外で食べたであろう。ここの料理もやはり美味しかったが、他のお客が犬の肉を食べており、こちらにも回って来た。私は特に美味しいとは思わないが、好きな人は好きなようだ。ここでも我々がいるのも構わず、茶業についての議論が行われていた。

 

そして真っ暗な中、どこかの山を車で登っていった。よくわからないが、リゾートホテルのような場所へ来た。ここには茶畑もあると言われたが暗くて見えない。取り敢えず、静けさの中、部屋に入り、そのまま寝てしまうしかなかった。茶業関係者により、特別料金だった。海南島も色々あるんだなとしみじみ。

広東・海南大茶旅2017(4)海南島の茶

2時間ほど話した後、外へ出た。オフィスのあるビルは古く、そのすぐ脇には何やら人が集まっていた。ちょっと気になったので近づいてみると、建物の1階が簡素なレストランの様になっており、そこで大勢の人々がお茶を飲み、軽食を食べていた。陳さんが『これが海南島に昔からある老巴茶だよ』と教えてくれた。

 

老巴茶は、以前は暇なおじさん、お爺さんたちが集まり、お茶を飲んで遊んでいたと聞いていたが、今はかなり一般化し、子供も若者も集っていた。飲んでいるお茶も冷たい茶が多く、紅茶も緑茶もあった。広州の飲茶のような風格はなく、茶も食べ物も簡単ではあるが、今ではほとんどなくなってしまった庶民の茶を感じさせた。出来ればここでお茶を飲みたかったが、陳さんに促されて、離れた。

 

次に向かったのは、海口の茶市場。ここで海南紅茶、緑茶などを飲ませてもらい、その雰囲気を味わった。緑茶が美味しく感じられたのは気のせいか。さすがに外国人が来ることはあまりないようで、お客さんも含めて、興味を持たれ、色々と質問が飛んできた。日本への関心の高まりはこんな所まで来ているようだ。

 

夕食は、海南料理屋へ。何といってもここは鶏肉。肉につけるたれは自分でアレンジするのが海南流。これは初めての経験だ。鶏肉は何とも柔らかく、そして皮のプユプユして、実に美味。他の料理もどんどん口に運びたくなる。店内もかなり混んでおり、海口の有名店であることが分かる。有り難いことだ。

 

帰りに陳さんが車で、海口の夜景を見せてくれた。当たり前だが17年前とは全然違っており、橋のライトアップなどがきれいだった。ただ昔と同様それほど高い建物がないため、広々とした空間があり、安らぎが感じられる。湖南省出身の陳さんも、ここは住みやすいという。移住者も増えている。

 

8月26日(土)
茶産地へ

翌日は朝8時に陳さんが迎えに来てくれ、ホテルをチェックアウト。これから2泊3日の茶旅を始まると告げられた。陳さんも週末を潰して付き合ってくれるのだから、何とも有り難い。車は昨日来た空港方面の高速を走っていたが、いつしか山道へ入っていく。海南島に高速道路はあるが、まだ一部に過ぎない。そしてこの島の真ん中付近はそれほど高くはないものの、山岳地帯なのだと分かる。

 

出発からほぼ2時間、最初の目的地に着いた。国営烏石農場岭頭茶廠、1950年代に建設された茶工場。最盛期には大量に紅茶を生産していたが、今は農場の中の一つの工場という位置づけになっている。往時を知る人々に招き入れられ、お茶を振る舞われた。ここも兵団が開墾した場所。今でも来るのが大変なところだから、当時の苦労は並大抵のものではなかった。

 

生産が軌道に乗り、輸出が順調になると、外貨獲得のため、CTC方式が早くから採用されていった。ちょうど文革の頃ではないだろうか。ただ1990年代にはほぼその役割を終え、生産量は激減している。この数年の紅茶ブームで多少息を吹き返しているという感じだろうか。

 

工場でお昼を頂いた。どこもそうだが、農場自家製の野菜は新鮮。やはり現地で食べるのが一番美味しいのだ。地元民同士も懐かし気に、子供の頃の話を思い出していた。うちはXX師団だよ、などという言葉を聞くと、現実にここに入植し、ここで生まれた人々がいたことを実感する。

 

ここからまた山越えを行い、次の茶工場へ向かった。雨が強くなっている。山の中で突然車の調子がおかしくなっていた。原因は分からないが、ここで動けなくなってはかなり危険だと思うような山中だった。幸い車は動いたので、スピードを落とし、何とか次の目的地の街まで辿り着いた。ホッとする。だがその小さな街の修理工場では原因が特定できず、取り敢えずオイルを足すなど応急処置をした。

 

この街の外れに白沙茶廠があった。その周囲にはかなり広大な茶畑が広がっていた。ちょうど雨が上がり、手で茶葉を摘む人々が見えた。摘み手は少数民族らしい。ここも先ほどの岭頭茶廠と同じ成り立ち、同じような歴史を辿っていたが、最近は緑茶生産に力を入れ、白沙緑茶はかなり有名なブランドになっている。

 

この付近には数万年前に隕石が落下したとかで、その土壌、水質は特別だとの説明もあった。とにかく特色を出し、従業員のやる気を向上させないと生き残れない、と若い主任はつぶやいていた。ちょうど土曜日で工場には誰も出勤しておらず、彼は我々が来るので待っていてくれたわけだ。

 

今夜の宿はこの街の大きなホテルだった。川沿いにあり、夜景もきれいだ。夕飯もそこのレストランで食べた。蒸かし芋やトウモロコシが出てきて、何とも安らかな田舎の食事となった。陳さんたちは車の修理に行ったが、果たして明日の運行は大丈夫だろうか。海南島の茶畑、ワクワクの一日が終わった。

広東・海南大茶旅2017(3)沙面から海口へ

8月24日(木)
沙面散歩

翌朝はかなりゆっくり起き上がる。天気は極めて良く、昨晩の雨は嘘のようだった。ホテルのロビーに行くと、昔使われていたものが展示されていた。建物は新しくなってもやはり老舗ホテルだったのだ。外へ出ると、相変わらず古い建物のオンパレード。まあ、昔の租界をそのまま残しているのだから、いくらでもある訳だ。確か2008年頃にもこの付近に泊まったことがあるが、その頃よりもより商業的になっているのは仕方がないことだろう。

 

腹が減ったが、一人で簡単に食べる店はそれほどなさそうだった。ホテルの横にちょうど麺屋があったので簡単に済ませた。観光地というのは庶民的な食べ物屋がないのが困りものだが、灯台下暗しということか。その後も周囲を散策し続けた。教会などもあり、やはり当時の租界、という雰囲気があった。

 

それから橋を渡って地下鉄の駅へ向かった。今日は昨年紹介されて気に入ってしまった老茶客というお店を訪ねることになっていた。前回はタクシーで連れて行ってもらったので、場所がよく分からず、ちょっと迷ったが、何とか到着した。お店にお客はおらず、柯さんが待っていてくれた。ただ上の階の美容院がが改修工事中で、工事の音が煩かった。

 

それでも彼は丁寧にお茶を淹れてくれた。かなり暑い日だったのだが、そのお茶は濃厚な味わいでありながら、何となく涼やか。さすがに有名な淹れ手が入れるとこうなるのか、と感心した。相変わらず茶器も清代の骨とう品で見事だった。やはり彼と一緒に汕頭辺りを旅してみた気分になる。実はこの辺の茶文化が素晴らしいと何度も聞いていたのだが、一人で行っても今は見られないだろうと思っている。次回は潮州料理を一緒に食べようと言って別れた。

 

地下鉄で戻り、ホリデーインに向かった。ちょうどここにIさん夫妻がチェックインしているはずだった。フロントでIさんは、と聞くと、すぐに部屋に電話を掛けてくれた。ここでは彼女は有名人なのだ。部屋に行ってみるとちょうど今着いたばかりだという。空港から近くまでバスに乗り、そこからタクシーを拾おうとしたが、なかなか捕まらず、ようやく捕まえた運転手は道を知らなかったらしい。今や中国でよくある光景だ。

 

Iさんと外へ出て、いつもの店で夕飯を食べる。この付近、まだ古い店が残っているのだが、徐々に新しい店、チェーン店に押されてきているようだ。数年後には無くなってしまうのではないかと寂しく思う。部屋に戻り、プーアル茶を淹れてもらい、何となく落ち着いて話す。このホテル、以前はVPNなしで簡単にネットが繋がっていたが、今や難しくなっているようだ。私のホテルで繋がらないのも当然だ。これからどうなるのだろうか。

 

8月25日(金)
海南島へ

翌朝は早く起きて、空港へ向かう。地下鉄はラッシュ時で混んではいたが、何とか乗れた。広州空港で国内線を利用するのは実に久しぶりかもしれない。なんだかすごくきれいに見える。時間があったので朝食にケンタッキーの粥セットを食べてみる。30元以上とかなり高い。支払いはアリペイで。

 

飛行機は海南航空。思い出すのは今から8年ぐらい前、息子と二人で海南島に遊びに行き、帰りが北京の大雪に遭遇。フライトが飛ばない中、海南航空はホテルの部屋と夕飯を提供してくれ、プチリゾート気分を味わったことだ。30度の海南島から夜中の3時に零下4度の北京に降り立った時の寒さと言ったらなかった。海南航空の印象は良い。

 

今回のフライトは海口まで1時間ちょっとだから、機内サービスも何もない。あっという間に海口空港に降り立った。何と海口に来るのは2000年以来、17年ぶり2度目。前回は仕事で、天安門事件の際に趙紫陽の懐刀の一人であったと言われる人物に会いに行ったことが何とも懐かしい。

 

空港には陳さんの部下が迎えに来てくれていた。空港から市内までは約60㎞、1時間ほどかかるという。天気は良く、空はすこぶる青い。途中まで建物もあまりなく、昔の中国を思い出させた。だが市内近くには、既に高速鉄道の駅さえ見られ、海南島も他の中国と同じようになっていることを予感させた。

 

ホテルも予約しておいてくれ、すんなりチェックインした。海口のホテルだから安いだろうと思っていたが、そんなことはなかった。ホテルの周囲には食べ物屋などもなく、ちょっと歩いて見る。広州より暑い。これでは長くは歩けないと思い、横道にあった食堂に入る。海南島には海南チキンライスはないが、文昌鶏がある。これはこれで十分に美味い。値段も流石に安い。

 

午後迎えの人が来て、歩いて10分ぐらいのところにある陳さんのオフィスに案内された。陳さんの会社は茶葉の輸出入を行っており、当然ながら茶の輸出の歴史には詳しい。ここで紅茶を頂きながら、ひとしきり海南紅茶の歴史を聞く。流れとしては先日の英徳とほぼ同じだが、その担い手が違っていた。こちらは中国の屯田兵、兵団の開拓者たちだったのだ。

広東・海南大茶旅2017(2)英徳紅茶の歴史を学ぶ

8月23日(水)
英徳へ

翌日午前8時にチェックアウトした。今日は英徳に連れて行ってもらえるので、広州茶文化協会の張さんを待った。車で来るというので、荷物をそこに乗せ、今晩広州に帰った時に、ホテルを移るのにちょうどよいと思っていた。車は広州市内の渋滞を抜け、高速道路に入った。思っていたよりも交通量が少なく順調で、拍子抜けだ。

 

英徳は市であり、その中にまた英徳村があった。英徳市までは約2時間、そこから更に30分ほど走り、目的地に着いた。そこは農村と言った感じだったが、立派な建物があった。広東省農業科学院茶葉研究所だ。広東省の研究機関がこんなところにある、それは英徳が広東省の茶業中心であることを雄弁に物語っていた。

 

中に招き入れられ、色々と説明をしてもらった。1960年前後に作られたこの研究所では、当初から現在流行りの紅茶、英紅9号という品種が開発されていたらしい。ただ当時の紅茶はほぼ輸出用であり、すぐにCTCが採用され、リーフはごく一部だったようだ。そしてこの英徳という地は客家が多く住み、昔から緑茶は作られていたことなども分る。昼ご飯も研究所の食堂で、新鮮な野菜、ここで飼育された豚や鳥を頂く。当然美味しい!乗ってきた車は返してしまい、また帰る時に呼ぶというのが今の中国らしいが、私の大きな荷物は結構邪魔で大変だった。

 

それから研究所のすぐ近くにある茶工場を見学した。1957年に建設されたという紅旗茶廠、何と文革中のスローガンがレンガの壁に残されており、古めかしさを感じさせる。建物内部は天井が高く、当時の製茶機械も多く残されていた。歴史を感じさせる場所で、70年代からこの工場で働いていたという人に話を聞いた。話していると声がこだまする。英徳市の茶業協会の人たちも来てくれ、色々と便宜を図ってくれた。

 

事務所でお茶を頂いていると、目の前に華僑茶場と書かれたペナントが掲げられていた。何と中越戦争で帰国したベトナム華僑がこの農場に配置され、茶作りをしていたというのだ。ただ90年代には中国紅茶の輸出は厳しくなり、生産は減っていく。そしてつい最近、英紅9号というブランドが知られるようになり、英徳紅茶は復活した。因みにこの農場は1950年代には右派、60年代には文革の知青、そして80年代には華僑と、実に様々な人々が働いており、まさに現代中国史の一つの縮図のような場所であった。

 

次に向かったのは小さな村の中にある茶工場だった。老一隊、という如何にも軍隊の名前がついている。生産第一大隊、ということだろうか。紅旗茶廠同様、五七幹部学校、文革中は知識青年の下放の場でもあったという。今は民営化しているようだが、やはりその歴史はすさまじいと言える。

 

ここは何と中国の航空宇宙方面と合作して、英紅9号を30株、宇宙に持っていくという実験を行ったことで知られていた。そしてうち4株が見事に生育しているその現場を見ることができたのは何とも幸運。葉っぱは通常の物より大きくなっており、これは宇宙と地球の環境の差から生まれるもの、なのかもしれない。それにして茶が宇宙に行く時代とは驚きだ。

 

最後に郊外の観光茶園に向かった。山の中にきれいな建物があり、小雨の中、テラスで優雅に茶を飲むことができた。近くには茶工場もあり、紅茶生産の現場を見ることもできる。近くの宿泊施設に泊まり、自然環境の中で過すというコンセプトのリゾートとしての開発が行われている。近場では温泉も出るらしい。

 

その後雨が止み、茶畑へ行くと、茶の葉が元気に伸びてきていた。ここには中国企業の看板が多く見られる。各社がお金を出して自社の宣伝を兼ねて、茶園を保有する形態をとっていた。エコとかCSRとかいう言葉が中国でも聞かれて久しい。自社のイメージアップ、そして実際に収穫・生産された茶葉をお客などに配る、如何にも中国老板が考えそうな手法をうまく取り入れている。

 

帰りはまた高速道路に乗る。広州市内まで来るとさすがにかなりの渋滞、しかも雨。それでも何とか今日の宿、沙面の勝利賓館に辿り着く。ここは前のホテルよりはかなり格が上で、料金も高い。有名なホテルだった。ただ昔の面影はなく、90年代に全面改装されているので、歴史的ホテルと言った雰囲気はあまりない。

 

夕飯はホテルの近くで張さんたちと食べる。沙面もどんどんオシャレになり、きれいなホテルやレストランが出来ている、ライトアップもきれいで、観光客も多い。部屋に戻ったが、何とここでもFBに繋がらずお手上げ。ついにトミーに泣きつくと、彼が別のアプローチを教えてくれ、その夜3日ぶりに下界と連絡がついた。何と面倒なことだろうか。何とも面倒でやり切れないが、フカフカのベッドで寝ることができたのは幸せ。

広東・海南大茶旅2017(1)広州の茶空間へ

《広東・海南大茶旅2017》 2017年8月21-29日

 

紅茶産地の旅を続けているが、そろそろネタも尽きてきた。ちょうど連載は1年で終了と言われたのでホッとしながら、最後の2か所をどこにしようかと迷った。広州に行きたいと思っていたので、広州から近い英徳、更には海南島へ渡ることを考えた。どちらも4月に貴州省へ行った時、出会った人々がいたので、行きやすい、ということもあったのは事実だ。

 

広州は毎年のように来ているが、海南島は2009年以来だろうか。しかも海口となれば、2000年以来かもしれない。いずれにしても随分と変っていることだろう。その変化も楽しみに旅を進めることにした。

 

8月21日(月)
広州の宿

広州東駅は相変わらず混みあっていた。そこから地下鉄に乗り、東山口駅で6号線に乗り継いで、文化公園で下車して、本日の宿に向かう。何となく蒸し暑い中、荷物を引いて道路を歩くのは大変だ。道も狭い。最後には陸橋まであり、難儀した。その陸橋の上を高架道路が走り、その横にへばりつくように、その宿は建っていた。

 

新亜飯店の入り口は何となく薄暗い。フロントまでも薄っぺらい感じ。ここは1926年に労働学院があった場所と書かれているが、当時の共産党は何をしていたのだろうか。予約はしてあったものの、最近ではパスポートを出すと断られるケースもあったので警戒したが、すんなりチェックイン出来た。横では中東系と思われる男が相当訛りのある英語でバスの乗り場を聞いていたが、フロントの女性も非常に上手い英語対応をしており、相当慣れている感じだった。

 

4階まで上がると廊下も広く、80年代のにおいがした。部屋はかなり広く、ベッドが二つ、昔風なので驚いた。クーラーの効きもよく、特に問題はないと思っていたが、ネットは繋がるもののなぜかFBなどへのアクセスが出来なかった。まあ時間が経てば治るかと思い、夕飯を食べに外へ出た。

 

今や中国有数の大都市となっている広州だが、この付近はまだかなり庶民的な店が残っていた。おまけにうちの宿も含め、この付近には中東やアフリカ系のバイヤーが多く宿泊するらしく、インド料理やムスリム料理の店まで並んでいた。ここが雑貨市場に近い、とはそういうことだったのだ。だが結局チェーン店の定食を食べてしまう私。暑かったので、クーラーを求めてしまう!

 

8月22日(火)
茶空間へ

翌朝はゆっくり起きる。天気は良いようだ。地下鉄に乗り、東湖駅で下車。そこから歩いて行くと越秀公園がある。とても爽やかな朝だったので散歩がてら、公園内を歩いて見る。木々が生い茂る中で、太極拳などをしている人々がいた。何とも優雅な雰囲気がある。その先が目的地だったが、場所はよく分からない。

 

ようやく探し当てたそこは喫茶去という茶荘。中には貴州で出会った鄧さんが待っていてくれた。連絡を取ってくれたのは前回もお世話になったKさん。この辺は皆何らかの繋がりを持っている。ここはお店というよりは、茶空間。ゆっくり入れて頂いた茶を味わい、その空間を楽しむ場だった。茶機も豊富に置かれている。鄧さんは広東の出身ではないけれど、お茶のことはよくわかっており、私がお世話になっている広州茶文化協会の副会長も務めている。

 

まずはゆったりとプーアル茶などを頂いていると、そこに人が入って来た。彼も4月に貴州であったコロンビア人で、既に広州に10年以上住み、お茶の勉強をしているという。ただ普段はコロンビア系の貿易会社で働いているというので、平日は来られないかと思っていたが、時間をやりくりしてきてくれた。やはり茶の歴史に非常に関心を持っている。

 

何となく話しているとすぐにお昼になってしまい、鄧さんが近くのレストランに案内してくれた。非常に独特なスープが美味しかった。とにかく広東に来たらスープを飲まないと始まらない。最近中流以上の中国人に多いようだが、彼女もやはり食べる物には色々と気を使っている。

 

午後はKさんがもう一軒連れて行ってくれるというので、出掛けた。完全に団地の中の家、そこが立然茶舎だった。非常にラフなスタイルで先程とは雰囲気が一変する。この多様性がまた素晴らしい。中では山茶、在来種から作った茶を頂く。かなりワイルドだが、味は悪くない。更には貴州省の知り合いが作っているという緑茶も飲ませてもらった。これからは大規模茶業なのか、それとも小規模在来なのか?

 

Kさんと別れて、何とか一人で宿まで地下鉄で帰る。広州もご多分に漏れず、ラッシュの込み具合がどんどんひどくなる。部屋では相変わらずFBやGoogleに接続が出来ずに困ってしまった。明日は宿を変えざるを得ず、宿探しに入る。結構気に入っていたのに残念だ。夕飯も又、定食屋で済ませる。これが一番安上がりだし、何より飯がうまいのがよい。

杭州・安徽・北京茶旅2017(9)不便も相変わらずの北京

そこから東の大望路まで地下鉄で戻るが、約束の時間を過ぎており慌てる。こんな時こそ、シェアバイクが便利とスキャンしたが、なぜかちゃんと読み取れず、益々焦って次の自転車のコードもスキャンしてしまった。すると、Wi-Fi電波が弱かったのか、暗証番号が出ないので、仕方なく歩いて行く。途中で急に暗証番号が出てきて混乱が起き、結局この会社の自転車を使うことが出来なくなってしまった。

 

走って約束のリッツカールトンに行ったつもりが、隣のホテルにロビーに行ってしまい、いくら探しても待ち合わせ人Mさんはいない。ようやく間違いに気づき、大幅遅刻で会うことができた。彼女とはバンコックで会って以来だから久しぶりだ。ホテルで持ち寄ったお茶を飲みながら、色々な話をした。

 

彼女と別れ、シェアバイクのことに気を取られていると、カメラがないことに気が付き、急いでホテルに戻ったが、既に彼女はおらず、カメラもない。何とも困っていると、ロビーで遭遇し、無事カメラが戻って来た。彼女は微信で何度も電話をくれたが、私の方はオフラインとしていて、気づかなかった。最後まで迷惑をかけてしまった。そして自分が如何にITに弱いかを痛感した。

 

次の約束にも遅れてしまった。本当は大望路から国貿まで、シェアバイクがあれば一番活躍できたのだが、仕方なく地下鉄に乗る。夕方のラッシュ時の混雑は東京よりよほどすごい。僅か1駅でも苦しかった。そこから地上に上がり、指定されたレストランまでがまたやけに遠く感じられる。

 

今晩は、旧知のT氏、そして後輩のKさん、初対面のTさんと4人で会った。場所はオフィスビルの中にあるきれいなレストラン。だが福建料理だという。これは北京では珍しい。食通のKさんのオーダーで、何となく目新しい料理がいくつも運ばれてきた。福州や厦門には時々行くが、こんな料理だったかな、と思うものもあるし、懐かしいと思えるものもある。

 

実は今回の北京滞在は、T氏の家にご厄介になろうかと考えていたのだが、原稿の締め切りを勘違いしており、夜は部屋に籠って仕上げていた経緯がある。取り敢えずT氏とはここで会えてよかった。楽しい時間は過ぎていき、帰りも又シェアバイクに乗れずに歩いて宿へ戻る。自転車の便利性に完全に取りつかれてしまったようだ。

 

6月29日(木)
東京へ

今朝はかなりゆっくりと起き上がった。これまで早起きしたり、長時間移動したりで、かなり疲れていたようだ。自転車に久しぶりに乗ったことも影響したかもしれない。どうしてもしなければならない用事もなく、部屋で完全休養した。12時に宿をチェックアウトする。昨晩部屋で新しいシェアバイク会社の登録をした。青い会社だが、登録はスムーズだったが、北京を去るにあたり、保証金を返金しようとしたが、これは簡単には出来なかった。ちょっと不安が過る。

 

空港へ行く前に、昼ご飯を食べる。宿の向かいにある茶餐庁、ここも10年前からあるので何度か来たことがある。香港の茶餐庁はB級グルメだが、ここ北京では結構立派なレストランである。だが北京の人々の所得も上がり、今では普通のレストランという扱いだった。席は満席で、付近のOLや友人同士という感じの客が多かった。そこで鶏や鴨肉の定食を食べる。55元。やはりスマホで決済した。

 

宿に預けた荷物を取り出し、地下鉄駅に向かう。駅では相変わらず荷物検査が行われ、下りのエスカレーターもなく、大きな荷物を持つ者としては面倒この上ない。2号線に乗り、東直門駅まで行き、そこから空港線に乗り換える。これもまた結構な労力だ。おまけに空港線なのに荷物置き場もないままだ。北京オリンピックの時に急ごしらえで作って以来、特に改善もないのは、これだけ発展した街としては残念でならない。

 

空港に着くと、東京行きのフライトは1時間半も遅れていたが、折角メールアドレスを登録しても、Gmailが使えないから、見ることもできない。まあエアチャイナが送って来た変更のお知らせも、私は空港に着いた後だから、ほとんど意味はない。サービスと言う概念は相変わらずないのである。

 

結局夕日が沈むころ、2時間遅れで離陸した。だが羽田空港に何時に着くのか、アナウンスもなく、終電が少し気になる。最終的には午後11時過ぎに到着し、その後がスムーズで何とか電車には乗れた。今回の旅は高鉄やシェアバイク、スマホ決済など、中国の便利面も味わったが、相変わらずダメな部分も特に最後に味わった。

 

中国には時差がある、とは常に言うことだが、これは大都市と中小都市の間に差だけではなく、都市の中にもかなりの格差があることを意味している。これが中国を発展しているのか、相変わらずなのかを分かりにくくしているのだろう。中国に行くのが少しずつ億劫になっていく自分がいるのを今回発見して、驚いている。