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厦門で歴史茶旅2018(5)昔のアモイを思い出しながら

華僑博物館へ

午後はホテルで過すつもりだったが、やはり外に出てしまう。バスに乗って博物館へ行こうと思ったが、厦門には大きな博物館はないらしい。こういうところは福建省の省都は福州だ、ということだろう。検索すると近くに華僑博物館があったので、そこを目指す。

 

バスを待っていたが、博物館行きバスは一本しかなく、なかなか来ない。そしてようやく来たバスには多くの老人が乗り込んだ。なぜだろうか。バスは昨日行った張乃英さんの家の横を通り過ぎ、海辺を離れた。それからすぐに博物館に到着する。ここも午前中に行った集美大学を創設した陳さんが作った博物館らしい。陳嘉庚氏は東南アジアで一体どれだけの財を為したのだろうか。

 

立派な建物が建てられている。思ったより観光客が多い。中には日本人の団体もいて、ガイドが説明をしていたが、興味を持ってみている人は少ない。中国人でも田舎から来たちょっと金のあるおじさんが、大声で話して係員に窘められていた。展示物は陳さんを初め、東南アジア各国の華人に関するものが多く、特に福建から大勢の華僑が海を渡り、その内の一部が成功した様子を窺わせる内容だった。

 

中国、特に清朝時代には幾度も動乱があり、その度に民衆が移動を余儀なくされ、アメリカの炭坑や鉄道建設に行き、アジア各地で体を張って労働している。私個人は、成功した有名華僑より、海を渡った名もない人々がどうしたのかが気に掛かる。でもそのような人々の歴史は残されることもなく、消えていくのみだ。故郷に帰りたかった人もいるだろうが、当時故郷に錦が飾れたのは成功したものだけだった。

 

帰りはバスに乗らずに歩いてみる。途中まで行くと立派なお寺があり、入ってみたかったが、かなりきつい崖の上にあったので、下から眺めるだけに留めた。既に足が痛い。コロンス島の夕日を見ようと海辺に出た。この風景は18年前とそれほど変わっていないように思えるが、海沿いの道路脇は、観光客向けのきれいな店が並び、歩いている人もきれいな格好をしており、やはり大幅に違うのだな、と感じる。

 

夕飯は厦門らしいものを食べようと近所を歩き回り、蟹肉入りの小籠包、蟹黄湯包と牡蠣オムレツ、海蛎煎を注文した。どちらも一人分としては多い量だったが、完全完食してしまう。中国に来るとどう見ても食べ過ぎだろう。料金も観光地価格のように思えるが、今の中国は正直なんでも高い。

 

11月24日(土)
台北に戻る前に

今朝はホテルの朝ご飯を楽しみにしていた。これまで泊まっていたホテルでも朝ご飯は提供されていたが、ありきたりの物で、あまり満足できていなかった。このホテルは先ず1階のレストランの内装が良い。そして料理もかなりいいものが出てきて満足できる水準だった。

 

あとは時間までホテルでゆっくりしようと考えていたが、今日も何となく外へ出た。行くところもないので、30年前に行ったきりの古刹、南普陀寺へ行って見ることにした。バスは何と昨日の博物館行きと同じ、終点だったから、要領は分かっていた。今日は土曜日で更に観光客が多かった。

 

バスの終点に寺はあったが、その前には厦門大学の校門が見えた。ここも30年前にちょっと歩いた記憶がある。中に入ってみようかと思ったら、一般人は簡単には中に入れないことが分かり、諦めた。今は観光客が大学に押しかける時代だから、致し方ないだろう。向かい側の寺に向かって歩き出す。

 

ところが寺にも入れなかった。今日は何かイベントがあるようで、門の前では人が入れないように、係員がロープを持って立っている。観光客はそれを取り巻いている。信心深い人は外から祈っているが、多くは写真を撮るだけだ。それにしてもこのお寺もきれいになった気がする。経済力とは真に恐ろしい。

 

帰ろうとしてバスを待ったが、乗るべきバスは運転手が中にいるのにドアを開けようとせず(本人はスマホゲームに夢中)、更に彼は鍵を掛けてどこかへ去ってしまった。乗客が乗ろうと詰め掛けているのにこの態度はどうだろうか。一言いつ発車するというだけで待つ方も楽なのだが、そういう気づかいを中国のバスに期待するのは難しい。別のバスで途中まで行き、降りてまた散策する。

 

ホテル近くの路地に入るとそこは別世界。道に迷ったかのように、30年前の中国の面影が次々現れ、何とも幸せな時間を過ごした。ほとんど開発されている中にも、一筋の道が残っていたとはすばらしい。空港に向かうまでの僅か時間、この路地で遊んでいた。最後は本当に迷子になってしまい、スマホを取り出すと現実に戻る。

 

ホテルをチェックアウトしてすぐ近くの乗り場から空港バスに乗り、1時間弱で空港に着く。チェックインはすぐに出来た。あまりにも時間があったので、出国審査後にバーガーキングで軽く食べた。他のレストランの食べ物はビックリするほど高かった。中国各空港の高額な食事料金は改めるべきだ。厦門航空便は順調に飛行して、松山空港に戻った。

厦門で歴史茶旅2018(4)漳平水仙、そして集美へ

今日重要な二人に会うことができ、今回の目的はほぼ達成され、気持ちはぐっと楽になる。というか、疲れているのにその興奮が収まらない。夜は以前魏さんから紹介されただけで、会うことがなかった、もう一人の張さんに会いに行った。彼の店は軌道で10駅ほど離れており、意外と遠かった。

 

スマホを使って何とか辿り着いた店に張さんはいなかった。夕飯を食べに出てしまったらしい。私も腹が減ったので一人で付近の店を探す。だが食堂はあまりなく、仕方なく、初めて沙県小吃に入って見た。ここはチェーン食堂で、中国ならどこでも見かける店だが、なぜか一度も試していない。だが何と東京にまで店が広がったと聞き、どんなところか見てみたのだ。

 

そこは店を改装してきれいになっていたが、メニューは完全な定食屋。何でもある感じで、纏まりはない。定番の西紅柿炒鶏蛋を頼んでみたが、量がやたらに多く、味はちょっと薄く、油は多い。ご飯が山盛りに盛られ、冷めたスープが付く。これで15元、何だか肉体労働者の食事で、食べ切れずに店を出た。

 

店に戻ると張さんがお客の若者と茶を飲んでいた。この店は漳平水仙を扱うことで有名らしい。張さんは漳平の出身で、その歴史も探求しており、話を聞く。最近日本でも話題になっているお茶だが、思ったよりも幅が広い。その歴史は100年を越え、地元には紙で包む時に押される印判が残り、型を取る道具も残されていた。

 

味は以前飲んだ物よりは美味しく感じられる。これは張さんの淹れ方か、茶葉が良好なのか。話題になっているということは少なくとも品質は向上しているのだろう。週末は漳平で水仙祭りがあり、張さんも明日から故郷へ帰るらしい。というか、今後は活動拠点を漳平に移し、用事がある時だけ厦門に来るというから、今日が最後の日だったのかもしれない。やはりご縁はあるものだ。

 

11月23日(金)
集美へ

もう厦門に用事はなかったが非常事態が起きていた。今日台北に帰るつもりだったが、昨日の段階で、金門経由の便はすべて満席、このルートは週末台湾旅行に向かう中国人に占拠されていた。いや、実は明日台湾で重要な統一地方選挙が開催されるので、台湾人が帰国するのかもしれない。いずれにしても満席、そして直行フライトは何と日本円で4-5万円もしている。とても帰れない。

 

日曜日に帰るフライトを予約し、さてホテルも延泊しようかと考えたが、何と部屋はあるが、料金は当初の2倍だという。元々今回の期間中、厦門では大規模ない医療関連イベントが開催され、ホテルが取れない状況だった。知り合いが何とか抑えてくれていたが、優遇レートは最初の1泊だけ、次の日は200元上乗せになっており、私はこのことすら知らなかった。そのことをきちんと説明してくれなかったと抗議したが、私は何も見ずに書類にサインしていたので、ホテルはそれを盾に、私が悪いという。

 

まあそんなホテルに泊まることは愉快ではないので、早々他を探したが、どこも軒並み高い。どうせ高いのならばと、18年前に泊まった思い出のある鷺江賓館を予約した。チェックインは12時以降なので、それまで天気も良いので時間潰しの旅に出た。軌道の駅へ行き、どこへ行こうかと見ていると、集美というのがあったので、そこを目指す。

 

軌道で40分ぐらい乗っただろうか。そこは随分と遠かった。しかも乗る線を間違えてしまい、大橋を渡ってから、思っていた方向と違う方へどんどん進んだので、慌てて降りた。だがそこは住宅以外全く何もないところ。タクシーすら走っていない。近くのバス乗り場から集美大学に行けるというので探したが、バス停すら見付からない。

 

かなり歩いてようやくタクシーを拾い、大学の門まで行った。ここがいつも車からきれいな校舎が見える大学だ、写真でも撮ろうと入って行ったが、とても広いキャンパスでまた歩いく羽目になる。ここはシンガポール華僑の陳さんが建てた学校でちょうど100周年を迎えるらしい。南国風のキャンパスと中国風の校舎、その取り合わせが面白い。バスケットとバレーのコートが20面ぐらいあって、その広さは尋常ではない。

 

結局あの川沿いのきれいな景色の場所へ出られず、写真も撮れず。正門から出てバスに乗り、宿へ帰る。何とバスは1時間近くかけて走る。これで2元。すごい。腹が減ったので、先日連れて行ってもらった店を再訪し、鴨肉などのセットランチを食べる。これで20元は価値がある。

 

それからホテルをチェックアウトして、またバスに乗り、鷺江賓館へ。外から見るとちょっときれいにお掃除した程度に見えたが、中は全面改修後で、18年前の面影はない。とてもきれいなロビーで驚く。今日の料金は18年前の3倍だが、まあ高くはないのかもしれない。私自身は会社を辞めてから中国で泊った最も高いホテルだろう。

 

窓のない部屋だがおしゃれに加工されている。古いホテルの部屋という印象だったから、かなりの変化に戸惑う。フロントの愛想が凄く良い。冷蔵庫のドリンクは無料だが、4本のうち2本はビール。ビール、替えて欲しいな。あの18年前、21世紀の最初の日を過ごした場所、1月1日に小三通の船が初めて台湾からやってくるというので大勢の人が港に溢れていた光景、もう完全に歴史だな。

厦門で歴史茶旅2018(3)厦門茶業のレジェンドと会う

11月22日(木)
厦門茶業のレジェンドと会う

厦門3日目。今日は昨日会った張理事長が、『安渓大坪の大先輩、レジェンドのところに連れて行ってあげる』というので、有り難くついて行くことにして、待ち合わせ場所の地下鉄駅まで歩いて行った。ところが到着直前になって、『急な用事が出来たので、一人で行って。場所は息子に電話して聞いて』というではないか。

 

仕方なく電話を掛け、ご自宅の住所を聞き、タクシーを拾って向かった。そこは海が見えるマンションで、環境がとても良かった。言われた部屋に行くと、1928年生まれ、90歳の張乃英さんが、暖かく迎えてくれた。大坪に生まれた張さんは、解放後厦門のお隣、樟州茶廠(厦門、安渓と並ぶ三大茶廠)に長年勤め、その製茶及び評茶技術は周囲に一目置かれる存在だった。

 

お名前からも分かる通り、安渓大坪で、あの台湾に鉄観音を持ち込んだと言われている張乃妙とは同郷、同族。乃妙の一族は今も大坪におり、かなり標高の高いところに家があるのだという。乃英氏の家とは2㎞ほどしか離れていないそうだ。戦争中、集美中学(厦門)が安渓に疎開してきたので、中学に行くことができた、これは日本のお陰だね、笑って話してくれる。その笑顔が実に穏やかだ。

 

1950年代初め、厦門に出てきて茶行で働いた経験もあるという。現在の鎮邦路付近に店があり、今もその建物は残っているかもしれないという。この辺りには往時、大茶商が沢山ビルを構えて店を出し、賑わっていたらしい。それも国営化の波で今やすべて消えてしまっている。

 

1989年に樟州茶廠を定年退職するまで、特に80年代に改革開放が始まると、多くの外国人がやって来た。その中には日本の松下先生もいたよ、という。またコンテストなども始まり、張天福先生と一緒に評茶した写真なども残っている。鉄観音茶が盛り上がったのもこの頃だった。ただ100年前鉄観音は既に大坪にもあり、その形状は半球形だったという。現在の安渓鉄観音茶の惨状を見過ごすことは出来ずに、2016年には個人で安渓政府に意見書を提出し、その結果、豆腐機の使用禁止など、改善策が示されたという。

 

乃英氏の息子は茶業に就かなかったが、父親のそばで色々と見聞きし、現在はその資料を整理しているようで、こちらも歴史にかなり詳しかった。2時間も話し込んだら昼時になり、ご自宅でご飯をご馳走になってしまう。食後も安渓産の水仙など珍しいお茶を淹れて頂き、大いにお話しを聞いた。乃英さんは終始元気だったが、実は半年前に同い年の奥様を亡くされたばかりだった。次回また再訪したい家だ。その機会はあるだろうか。

 

乃英家を失礼し、バスに乗ってバスターミナルへ向かう。そこから開元路に切り込むとレトロ感が溢れてくる。教えてもらった鎮邦路にも一部古い建物が残っていたが、そこが元の茶行かどうかは分らない。Y字路などがあり、道は面白いが、唯一洋行の名前が記された壁があったがそれだけしか発見できなかった。

 

更に歩くと水仙路に出た。この道には聞き覚えがある。先日バンコックで林奇苑という戦前の大茶商の名前を聞いたが、その厦門本店の場所が水仙路だったはずだ。だが現在の水仙路は非常に短い道で、しかも完全に開発されており、現代的な大きなビルが建つなど、往時の面影は全くない。残念ながら厦門で古い茶商を探すことは、国営化と再開発という二つの壁に大きく阻まれ、もはや不可能だと思われた。

 

そこから18年前に宿泊した鷺江賓館の前を通り、人が大勢いるフェリー乗り場からコロンス島を眺め、そのまま歩いて行くと人通りがなくなり、寂しくなる。ここに最初の港があったようだ。軌道の始発駅、第一码头駅まで辿り着き、それに乗って宿に帰る。さすがに歩き疲れて休養する。

 

すると、張理事長からまた微信が入ってくる。ミャンマー、ヤンゴンに本店があった張源美の厦門支店を管理していた末裔と連絡が付いたぞ、というビックリする内容だった。疲れも忘れて飛び出し、指定されたバス停に向かう。何とそこはバス停2つしか離れていなかった。こんな近いところにいたのか。

 

そこに張一帆さんが迎えに来てくれ、今はほぼ休業状態の茶荘をわざわざ開けて見せてくれた。何とそこには古い張源美茶行の看板が掛かっているではないか。私がヤンゴンにいる末裔に会ったというと張さんは驚いて『今は連絡も途絶えている』という。張源美が国営化された時代、張さんのお父さんが店を経営していたが、それ以前の話を聞いたことは一度もなかったという。

 

その理由は文革だった。資本家は打倒されるので、子供に類が及ばないように伏せていたらしい。そのお父さんは、そのまま厦門茶廠に務め、茶業界では有名な方だった。実は昨日厦門茶廠で『中国烏龍茶』という本をもらったが、それはこのお父さんが書いたものだったのだ。僅か3年前に亡くなったという。もしお父さんが生きていれば、今であれば詳しい話が聞けたかもしれない。張さん自身は90年代に茶業が儲かると聞いて、茶の輸出などはしていたが、今は引退の身だという。2000年代の鉄観音茶が緑化していく話などは参考になった。

厦門で歴史茶旅2018(2)茶業商会と厦門茶廠を訪ねて

11月21日(水)
茶業商会理事長を訪ねる

今回中国で使うシムカードは松山空港で購入してみた。中国国内のシムカードでは残念ながらFBやツイッターを見ることは出来ないが、長い期間連絡を絶つこともできないので、海外のシムカードを買うことになる。今回買ったシム、7日間で630台湾元だが、十分に使えた。電話は使えないが、これがあれば、中国内でもなんとかなるので有り難い。

 

そんなスマホを使って向かった先は、厦門茶業商会の張理事長。彼の茶荘は、地下鉄嘉禾路駅の近くにある。取り敢えず一番近い駅、斗西路口駅から軌道に乗り、地下鉄1号線の文灶駅に乗り換えようとした。ところが同じ名前の駅なのに、実はこの2つの線は全然繋がっていないことが判明。スマホで位置を確認して歩いて10分も掛けてようやく乗り継いだ。1年前に出来た地下鉄はとてもきれいだったが、空いていた。こんな不便があるからだろうか。

 

何とか嘉禾路駅に辿り着き、歩いて指定された茶荘まで来たが、まだ朝早く、店は閉まっていた。そこへちょうど今回の紹介者である郷土茶業史家の沈先生もやってきたので、電話してもらい、中へ入った。張理事長は茶商として、日本企業との付き合い(茶葉輸出)も多かったと言い、簡単な日本語を話したので驚いた。

 

長年厦門市茶商協会の理事などを務めていたが、お役所である協会に限界を感じ、2013年に茶業商会を設立したという。当然多くの茶商を知っているが、その資料は協会にも商会にも殆どないという。ただ張理事長もやはり安渓大坪出身であり、鉄観音茶の歴史、いや歴史的人物の紹介を受ける。これはとても有り難いことだった。また鉄観音茶は100年前からその形状はそれほど変わっていないこと、そしてそれほどには有名ではなかったことも教えてくれた。

 

張氏は茶商としてよりむしろ評茶師として有名だという意外な話もあった。そのため様々な茶が中国中から持ち込まれ、美味しい茶も手に入り易いらしい。ただ近年の中国茶全般についての評価はかなり厳しく、彼は厳選した茶だけを売るようになったらしい。お土産に雲南の高山紅茶をくれたが、何となく台湾的だった。

 

一度宿に戻る。乗り換えるのが面倒で、中山公園まで地下鉄で行き、そこから歩いた。また厦門にも古い街並みがそこここに残っている。腹が減ったので、沙茶麺を食べる。今では厦門中どこにでもある沙茶麺、私が入ったのはチェーン店で、器は紙で味気ない。値段はどんどん上がっている感じで、いくつかトッピングを加えると20元にもなってしまう。

 

午後は銀行に出掛けた。窓口でちょっと手続きをしたのだが、何と支付宝への入金の仕方を忘れてしまい、係員が親切に教えてくれた。実はその時、パスポートから書類を落としてしまっており、後で電話がかかってきて知らせてくれた。今や銀行窓口は比較的すいており、対応も親切になっている。

 

沈先生が午後のアポも取ってくれた。鉄観音茶輸出の歴史なら、輸出入公司に行くべきだと言い、私はバスで指定された場所へ向かった。そこは旧市街からは少し離れていたが、茶工場がまだ残っており、周囲に微かに茶の香りがした。元の国営厦門茶廠(移転後)がここだった。

 

今は中茶で統一され、その傘下となっている厦門茶廠。1954年に中国茶業公司の厦門事務所としてスタートし、その後周辺の茶廠、茶商を収容して国営化していく。実は先日ヤンゴンで訪ね当てた張源美という茶商もこの時、ここに併合されている。その後文革を経て、1979年に改組され、改革開放を歩んでいく。その頃に出てきたのが鉄観音茶だったともいえる。

 

オフィスではなく、その販売店舗で先生と待ち合わせた。そこへ日本向け輸出担当スタッフなどがやってきて、烏龍茶輸出の歴史を語り出す。特に1970年代の終わり、日本向け輸出が始まった頃の話、その後急速に輸出量が伸びていく辺りは、面白い。ただ烏龍茶ではあるが、鉄観音茶とは誰も言っていない。

 

1970年に製造された鉄観音茶が残っていた。水仙もある。さすが中茶だ。だが『こういうものは飲まない方がよい』と言われ、写真を撮るだけになった。80年代の茶缶も登場したが、鉄観音茶はその頃ようやく名前が売れ出したのだろう。安渓県政府が鉄観音茶のブランド化に尽力した話なども出てきていた。

 

最近は利益優先の企業集団として、様々な茶の開発に取り込んでいるという。今回飲ませてもらったのは、烏龍茶を後発酵させたブロック茶だった。この茶葉は口当たりも悪くなく、体にも良い、として、売り出す予定らしい。茶葉が大量に余り、売り先に困る昨今、企業は様々な工夫をしている。

 

バスで宿に戻り、そのすぐ横にある梅記に立ち寄る。ここには以前お世話になり、安渓西坪の工場にも2度お邪魔し、泊めて頂いていた。1875年に厦門に店を出した老舗であり、歴史調査でも重要なところの1つである。店長の王さんは若いが歴史に興味があり、今日も西坪出身の茶商の話をしてくれ、参考になった。

 

夕飯は近所の鴨肉屋でご馳走になったが、そこの燻製鴨肉は実に味が良かった。更にはかなりあっさりした鴨肉麺を食べながら、叉焼などを頬張ると幸せになれる。こういう食事が簡単に出来るのは実にありがたい。

厦門で歴史茶旅2018(1)心地よいお茶工作室

《厦門で歴史茶旅2018》  2018年11月20-24日

台湾滞在中に海外へ行く。以前バンコック滞在中はしょっちゅう出掛けていたが、台湾では東京との往復がもっぱら。ただ以前一度福建に入っており、今回も金門経由で厦門へ行くことにした。厦門行きの目的は、先日バンコック及びヤンゴンで見つけた茶商の末裔関連を調べること。そして懸案となっている鉄観音茶の歴史を大陸側でも掘り越すことだ。ちょっと大掛かりになってしまったが、さてどうなるのだろうか。

 

11月20日(火)
厦門まで

前回台北から厦門へ行った時、帰りに厦門のフェリーターミナルで『一条龍服務にしたら』と言われたことを思い出し、今回はそれを予約することにした。一条龍とは、ワンセットサービスのこと。台北-金門の往復航空券、金門内の移動及び荷物のトランスファー、そして金門-厦門の往復フェリーチケットが全て込みの料金でチケットが買える。いわゆる2001年に始まった小三通での特殊サービスだ。航空会社は立栄と遠東の2社。遠東の方が安いし、全く乗ったことがないので、遠東を選択する。

 

台北松山空港までは宿泊先から僅か5駅ですぐに着く。預け荷物は搭乗1時間前からしか受け付けないのでじっと待つ。10㎏までなので、かなりギリギリだが、何とかクリアーした。荷物検査を通ると後は搭乗するだけ。のはずだったが、なぜか搭乗口を間違えており、あわや乗り損なうところだった。最近のボケ具合は半端ない。

 

小型飛行機で1時間、金門に着く。遠東航空の乗り心地もサービスも分らないうちに到着だ。金門空港で指定カウンターへ行き、パスポートを預けて他の乗客を待つ。そして外に待つ専用バスに乗り込む。まずまずスムーズだ。しかしバスは真っすぐフェリーターミナルに向かわず、何と途中で停まる。

 

そこは金門名物の麺などを売る土産物店。遠東が提携しているのだろう。小さなお椀一杯の麺が無料で試食できたが、特に購入する人はいなかった。バスは物産セールスを行い時間調整したのだ。ターミナルにはフェリーが出る40分ぐらい前に着き、預けたパスポートで買われたフェリーチケットと弁当を受け取り、イミグレを抜けて、フェリーを待つ。その間にもらった弁当をかき込む。まさかここで弁当を食えるなんて、すごい流れ作業だ。

 

フェリーに乗れば30分で厦門に着く。着けばイミグレは簡単ですぐに入国できる。素晴らしいスピード。11時に台北を離陸して午後2時には厦門のターミナルを出る。これならダイレクトフライトを使わない訳だ。ただここから厦門の街に出る公共交通手段がないのは困ったものだ。

 

仕方なくタクシーに乗る。運ちゃんと話すと、今日はもう200㎞以上走ったのでこれで帰宅するという。決して景気が良い訳ではないが、ここには確実なタクシー需要がある。途中で渋滞に嵌るも、40分ぐらいで予約してもらったホテルに着いた。実は前回泊まったホテルがとても良かったのでまたお願いしたが、何と満員で別のホテルとなっていた。

 

工作室へ
早速厦門での行動を開始する。まずは先日ホーチミンで張さんに紹介してもらった王さんを訪ねることにした。住所を聞いたが、どうやら地下鉄などもなく、バスも難しそうなので、またタクシーに乗る。運ちゃんに住所を見せるも、住所ではよく分からないと言われ、取り敢えず近くまで行って見ることにした。

 

その通りまでは行けるのだが、番地は複雑で分かり難い。だが何とか探し当て、ビルに入り、その階に行って見たが誰もおらず鍵がかかっている。連絡してみるともうすぐ仲間が行くから、と言われ、ちょっと待っていると若者がやってきて中に入る。中はお茶の倉庫兼研究室のようで、本棚にはお茶関連の本がかなり置かれている。私が見たい内容の本が沢山あり、嬉しくなって思わず手に取る。

 

そこへ王さんと2-3人の仲間が入ってきて、賑やかになる。王さんは元新聞記者で数年前にそれを辞めて、今は茶文化の研究をしながら、執筆などを行っているという。その取材力があり、筆も確かで、お茶の歴史についても既に多くの関係者と会っており、その内容は微信で公開されていた。これを読めば私の今回の目的もある程度達成できそうな感じだ。

 

ただかなり忙しく、夜は予定があると言って別れた。この工作室、お茶好きが集まり、持ち寄った茶葉を試したり、お互いの知識を共有したりと、他日1日ここで勉強したいほど充実していた。若者たちが夕飯に連れて行ってくれ、一緒に食べた。それから仲間がやっているというオフィスへ向かう。

 

かなり新しい感じのビルで、その中に茶葉の包装などを作る会社があった。勿論お茶以外にも様々な包装が飾られていて面白い。これまで若者はIT企業に向かっていたが、ITビジネスも一段落。これからはこんなビジネスが流行るのだろうか。因みにここを起業した若者の参考書は日本で出版されたデザイン本だった。彼らはどんどん日本を吸収していく。

福建茶旅2018(8)厦門⇒金門⇒台中へ

4月22日(日)
厦門へ戻る

昨晩早く寝たのと、鳥のさえずりがかなり煩かったので、早めに目覚めた。下へ降りて行き、資料を確認して、朝ご飯を頂戴する。ここにもっと居たい、と思う。昨日はここの子供たちが週末帰宅で戻ってきており、賑やかだ。この村には学校がないので、街に泊まって学校に通い、週末だけ実家で過ごすという生活になっているという。

 

今日は智送が厦門に行く用事があるのでその車に乗せてもらい、厦門に戻る予定となっていた。ただ都合で、午前9時にここを離れたのはちょっと残念だったが仕方がない。また来ることがあるだろうか。まず昨日行った日塞にもう一度行き、何か歴史的な手掛かりはないか探してみた。残念ながら何も出てこない。

 

続いて、南岩鉄観音発祥の地にも寄る。ここは前回も来たことがある有名な場所だ。母樹が大きく囲われ、横の建屋ではお茶が売られている。確かに歴史的な場所なのだが、後から作られたものが多い、観光地化したところにはあまり用がない。観光客の邪魔になるので早々に退散する。鉄観音茶のルーツもいくつか説があるようで、困る。

 

車は厦門に向かって走る。今日は日曜日、厦門市内に近づくと車が増えて渋滞になる。茶葉市場にある梅記の店に辿り着き、そこで智送の妹に昼飯をデリバリーしてもらい食べる。その後、智送は安渓に帰っていき、私は王さんの車で厦門賓館へ行きチェックインした。この宿は気に入っているので、ここで過す。

 

それに飽きると散歩に出る。近くには烈士の記念碑があり、更に歩くと、かなり古い建物が点在している。その向こうにはビルが連なっていたが、1階の店は全てへ移転していた。張り紙を見ると、ここが解放軍所有のビルだと分かる。賃貸禁止で全て追い出されたのだろう。それにしても昔の一等地に沢山不動産を所有しているな。

 

華僑飯店の近くまでそう遠くはなかった。私が1987年に初めて厦門に来て泊まった宿。ここのチャーハンが美味しかったような。いや、あれは泉州の華僑飯店かな。今日はなぜか小籠包が食べたくなり、店を探して入る。なぜか麺まで頼んでしまい、動けなくなるほど腹一杯。ここで現金で払おうと小銭を探していると、店のオヤジが『面倒だな』という顔をした。アリペイで払ってほしかったようだが、今回福建に来てこのような対応をされたのはここだけだった。日本の報道では中国で現金はもう受け取られないかのように言っているがそんなことはない。

 

4月23日(月)
4. 台中まで
金門

翌朝は早く起き、朝食をしっかり食べて宿を出る。金門行きのフェリーターミナルはいつの間にか五通一か所となり、バスで行こうと探してみたが、ウマく乗り継げずに、タクシーを拾う。タクシーでもかなり距離があったので、9時前にようやく到着する。9時半のフェリーチケットを買い、出国する。

 

今日は金門経由で台中へ行き、そこから埔里まで帰るつもりだった。これは台湾人がよく使うルートで、福建行きの国際線フライトよりはかなり安くあげられるはずだ。取り敢えず12時の金門発台中行のフライトを抑えており、フェリーは10時過ぎに金門に着いたので問題ないと思っていた。

 

ところがバスに乗ろうとすると『あなたはセットチケットを買っていないので乗れない』と断られる。実は厦門からフェリー代、金門内バス代、台中までのチケット代が込みで販売されていたのだが、それを知らずに航空券だけ買ってしまい失敗した。このチケットがあれば、フェリーターミナルで荷物のチェックインも出来る楽々サービスらしい。

 

しかしそこは台湾だ。『領収書が要らなければ200元でバスに乗せるよ』と言ってくれ、難なく空港に到着。ただ荷物を預けるのは1時間前からしか受け付けないという。しかも重量検査はかなり厳しく、少しでもオーバーすれば追加料金だ。まあ飛行機が小さいので仕方がないか。因みにフェリーターミナルと空港で台湾のシムカードを購入しようと思ったが、残念ながら台湾島で扱っているような30日のカードは売っておらず、台中空港で購入することとなった。

 

飛行機はあっという間に台中に着く。しかしここからが厄介だ。台中市内へ行く交通手段があまりないのだ。バスはいつ来るかわからない。すると今回、空港バスが増えていることに気が付いた。しかも高鐵駅へ行くというので、ちょうど停まっていたバスに慌てて乗り込む。100元はかなり高いが、荷物の置き場などもあり快適。

 

これまでの市内行きの路線バスと違い、このバスは速い。30分ちょっとで高鐵駅近くに来たが、何と高鐵駅ではなく、台鉄の新烏日駅の横に着いた。下車したのは私だけ。余程使えないバスなのだ。そこから繋がっているとはいえ、延々と歩いて高鐵駅へ。着いた時には疲れ果て、思わず丸亀製麺でうどんを食べてしまう。元気が出たところで、バスに乗り、今回の旅は終わった。

福建茶旅2018(7)西坪にある日塞と月塞

4月21日(土)
西坪を歩く

何だか寝坊してしまった。緊張感がない、というか、全てから解放されたような朝だった。下に降りていくとお父さんがお茶を淹れてくれたのでそれを飲み、朝ご飯のお粥を頂く。これが何とも幸せな朝餉なのである。この家には一体何人が住んでいるのだろうか。さっぱりわからないが、一人紛れ込んでも問題なさそうだ。

 

お父さんがこの家の歴史を教えてくれる。それは族譜と呼ばれる家系図にもちゃんと書かれており、明瞭だ。昔は貧しかった、という話が出る。共産中国は長年、農村に富をもたらさなかった。『タバコが無くてね、自分で巻いて吸ったものだ』と言いながら、実際に見せてくれた。実に懐かしそうだ。今でもこの世代より上は大抵タバコを吸うし、また大切に吸う。

 

沈さんも加わって、ひとしきり昔話に花が咲く。そしてお父さんの弟が、香港で成功し、茶業が続けられたことなどが語られていく。その後王さんと沈さんは厦門へ帰っていき、私だけがここに残った。ひとしきりここにある資料を読んでいると、何と先日木柵で会った鉄観音茶の張さんのことが安渓県誌に出ているではないか。すぐに張さんに連絡すると彼も驚いていた。30年前に書かれた本に載っているのだから驚くのも無理はない。ここで台湾と中国の鉄観音茶に対する定義の違いも学ぶ。

 

お昼がやってきて、また美味しく頂く。田舎の農家の食事は皆が一斉に集まって『頂きます』などとやることはない。手の空いた者からやってきて、ご飯とスープをよそい、おかずに手を伸ばして黙々と食べて、終わったら食器を片付けるだけ。日本はいつから皆で食卓を囲むようになったのだろうか。一家団欒というのは高度成長期の産物だろうか。いずれにしても、農家飯は美味い。

 

皆は忙しそうなので、ひとりで散歩に出てみた。古めかしい建物がこの田舎にマッチしている。ちょっと歩くと南岩村と書かれた建物がある。ちゃんと理解していなかったが、ここが鉄観音茶のパッケージによく書かれている、あの南岩村なのだ。更に進むと堯陽という地名も出てくる。これはあの、香港や台湾にある堯陽茶行の発祥の地名だろう。歩いているだけで歴史が見えてくるようだ。堯陽には日塞と呼ばれる要塞のように囲われた場所がある。

 

ここは民国初期に、匪賊から身を守るために一族で固まって居住した跡らしい。ここから堯陽茶行を興した人々が出ていくわけだ。恐らく台北に今もある有記銘茶などもここから出ているだろうという。今や住む人もまばらで、繋がりも確認できないようだが、往時の様子、なぜ彼らは外に活路を求めたのかが少しわかるような気がした。

 

道に横断幕が張られているところがあった。『全面的に圧茶機を取り締まり、圧製茶を排除する。安渓鉄観音の品質保持の戦いに打ち勝つ』と書かれている。確か圧茶機が規制されたのは、私が前回ここに来た一昨年の10月。しかしやはりその後もこの機械は使われ続け、その品質を落としているということか。一度楽をした者は元には戻れない、大坪の張さんが言っていた言葉が思い出される。

 

梅記に戻ると、智送が『どこかへ行くか』と声を掛けてくれたので、彼の車に乗り込む。車は私が今歩いて戻ってきた道を進む。そして私がさっき遠くから眺めた日塞の近くで停まり、我々は下へ降りて行った。すぐ横には『本山発祥の地』という碑があり、母樹が囲われている。ここも前回来た時に見た記憶があるが、今回見ると、やはり歴史的な意義、この茶葉は色種と言われたものなのかなど、考えてしまう。

 

そして日塞の中を歩いていく。立派な建物が少し残っている。人はあまり住んでいないが、お婆さんが顔を出したりする。周囲の城壁のような石垣は崩れずに健在だ。100年以上経っているのだろうか。往時はここで茶作りが行われ、ここから多くの茶葉が世界に運ばれて行ったのだろう。

 

次に月塞に行ってみる。こちらは横に民宿がある。前回も来たのだが、今回見てみると、何とここからバンコックへ移民して茶商をしていた人の手紙や写真が飾られていた。ここの親戚筋なのだという。こういう記録が何気なく残っているところが流石に西坪だな。今度バンコックで追跡してみようか。

 

ここの民宿のオーナーが本山を飲ませてくれた。先ほど作ったばかりだという。実はここの小高い場所に本山を植えるプロジェクトが進行しているというので、登ってみることにした。既に本山という品種はある意味で絶滅危惧種かもしれない。それを守ろうという試みらしい。標高700m、月塞がよく見える場所に茶樹が植わっていた。果たして成功するだろうか。

 

戻るとすぐにまた夕飯の時間となる。新鮮な野菜に、鶏肉や豚肉。こんな食事をしていたら幸せだな、と思ってしまうが、食べるのを止めることが出来ず、腹は常に満杯で、体重も相当に増えたと認識できるほどだ。今晩も又、食後に濃厚な味わいの鉄観音茶を頂き、早めに就寝する。

福建茶旅2018(6)安渓を再訪する

4月20日(金)
安渓

今朝は早めに目が覚めた。疲れてくるとこういうことがよくある。ホテルの朝食は、かなり混みあってはいたが、満足のいく物で、美味しく頂く。食べ過ぎだとは分っていても、付いている物は食べてしまう。悲しい習性だ。そのまま気持ちがよいので散歩に出た。この厦門賓館、実は後背部を含めてかなりの敷地がある。驚いたのは小高くなった場所にある古めかしい建物、タイの領事館がこの中にあったことだろうか。周囲にも古い建物などが残っており、歴史を感じさせる昔の一流ホテルだ。習近平もここで結婚披露宴をしたとネットにあったが、本当だろうか。

 

王さんが迎えに来てくれた。沈さんという年配の人も一緒だ。沈さんは長年お茶の歴史を研究し、雑誌を発行しているという。これから行く安渓の歴史などは相当に深く勉強しており、おてものだ。3人で安渓を目指す、その車の中で既にレクチャーは始まっている。これは何とも有り難い。更には既に雑誌に載せた物で関連あるものを微信で送ってくれた。

 

1時間半ほどで安渓県の中心に到着する。そこには茶市場があるのは前回も来たので知っている。ここで昼を食べる。王さんの知り合いがレストランを開いており、豆腐がうまかった。その後市場をちょっと見学するが、そろそろ茶が出来始めているが、昼過ぎで閑散としている。市場の外の店に入る。沈さんの知り合いだという。鉄観音茶で色々と賞を取っているようだ。出された鉄観音は清香だが、マイルドな味わいだった。

 

それから孔子廟を訪ねる。なぜここに来たのかと思っていると、見学もせずにどんどん中に入っていく。奥にオフィスがあり、そこにこの廟の管理者が待っていた。彼は書の達人のようで、帰りに彼が書いたものをくれたので、驚いた。そしてそこには安渓華僑史の第一人者である陳先生がいた。

 

86歳の陳先生から、詳しくはこれを読んでくれといわれ、著書を頂く。中をパラパラめくると、安渓出身、東南アジアで活躍した華人のことなどが沢山記されている。これは大いに参考になる。特にビルマで茶商として成功した人が気になる。タイは殆どいない。インドネシア、マレーシアも茶商は見当たらない。

 

そして私の一番の関心事を率直に聞いてみた。『台北の大稲埕で歴史的に茶商をやっていた(今もやっている)者には安渓西坪出身者が多く、その姓は王だが、それにはどういう歴史があるのか』と。しかし陳先生の答えは意外だった。『私の専門は華僑史だが、台湾に渡った者は華僑ではないから専門外だ』というではないか。

 

確かに中国から見えれば、国外に渡った者が華僑、華人であり、中国の一部である台湾に渡っても、単なる国内移動ということだろう。これは香港、マカオについても同様の論理だ。なるほど、この辺の定義もしっかりしているなと妙に感心する。結局その答えには辿り着けなかったが、収穫のある面談だった。西坪に行けばこの答えは見つかるだろうか。

 

1年半ぶりに西坪の梅記を訪れた。前回2泊させてもらったが、ここは本当に居心地の良い場所だった。智送が笑顔で迎えてくれた。まだ茶作りは始まっていないようで、周辺は閑散としていた。近くの泰山楼を見学。前回も見たが、住んでみたくなるような100年以上前の建物だ。

 

夕暮れが近づいており、すぐに車で茶畑のある山の上まで登る。標高約1000mの眺めの良い場所にある茶畑は、まだ茶の芽が少し出ているだけの状態であり、茶摘みが始まるのは数日後かららしい。沈さんが愛おしそうに茶樹を眺め、茶葉に触っていたのが、ちょっと印象的。本当にお茶が好きなんだな。

 

日暮れ前に梅記に戻り、美味しい夕飯を皆で頂き、それからゆっくりと老茶を飲む。今日は沈さんが一緒ということもあり、前回よりさらに古いお茶が出てくる。部屋は前回同様4階にあり、そこに場所を移して、お茶を飲み続ける。何となく疲れてしまった私は先にシャワーを浴び、そして静かな、涼しい環境の中、ぐっすりと寝入る。

福建茶旅2018(5)改修中の万福寺と新しい梅記

4月19日(木)
全面改修中の万福寺

翌朝は特に予定もなかったので、ホテルで朝食をゆっくり食べた。福清の街でも歩いてみようかとロビーまできたところ、N師と同行者がソファーで談笑していたので挨拶すると、『今から万福寺に行くけど、行かないの?』と聞かれ、折角だからと同行することにした。既に2年前に訪ねてはいたが、N師は福清の万福寺再建に尽力されたと聞いていたので、ちょっと興味があったのだ。

 

いつの間にか昨日のメンバーも何人か集まり、促進会の副会長以下が迎えに来てくれ、2台の車で万福寺を目指した。万福寺は福清の郊外にあり、30分ぐらいかかる。街道から小道に入り、小さな村を抜けたところに、あるはずだった。だがそこで目にしたのは、改修中の寺だった。

 

部分的に補修しているのではない。ほぼ全面的に壊して、新たに作っていると言った方がよいかもしれない。2年前の姿は見られなくなっており、唖然とした。しかし私などより数年ぶりに来たというN師はどうだろうか。30年前、砂埃の舞うこの地に通い、様々な困難を乗り越えて再建したものが目の前から消えているのだ。その心境は推し量れない。いつの間にか林会長も厦門から駆け付け、この光景をじっと見ていた。

 

辛うじて本殿は残されており、その横に臨時の建屋があった。そこに今の住職が立っていた。彼は30年前、研修?でここに来て、その再建を見ていたらしい。その後海外に渡り、今回を機に戻ってくるということだった。彼もまた何となく申し訳なさそうではあるが、既に立場のある人であり、双方ともに大人の対応をしていた。お茶を淹れてもらったが、何となく味気ない。

 

帰りは何となく言葉も少なくなる。市内に戻り、林会長が元気づけのためか、威勢の良い海鮮料理屋へ案内してくれ、またまた福清料理をご馳走になる。イカやカニ、魚などの海鮮がふんだんに登場、そして豚足や内臓系など私の好物もこれでもかと出てくる。麺も実にとろみがあるスープでうまい。更にはタケノコ、スイカなど隠元ゆかりのものも織り込まれる。ちょっと元気が出た。そういえば空心菜は沖縄には伝わったらしい。

 

午後は林会長が茶荘に連れて行ってくれた。非常に豪華な茶館もある。黄檗宗の関連で、煎茶なども作られている。茶の歴史が知りたかったが、それはなかなか難しく、お土産のお茶をもらっただけに終わる。そして最後は会長の自宅に招かれ、今度はコーヒーを頂く。枇杷が出てきた。これも日本に伝えられたという。奥さんとは東京でお会いしたことがあったが、この立派な家で会うとまた別人のようでもある。

 

厦門へ行く高鐵を予約してもらった。厦門北駅ではなく、厦門駅へ行く列車もあると聞き、厦門駅の方が市内に近いので、そちらにしてもらったら、午後をゆったりと過ごすことができた。車で福清駅まで送ってもらい、活動終了。最後の仕事は予約したチケットを窓口で受け取ることだが、やはり行列が出来ていた。何とか早めに進んで、無事列車に乗り込んだ。

 

3. 厦門
新しい梅記

厦門北駅を通過した頃、王さんより連絡があった。北駅で下車して新しくできた地下鉄に乗れ、と。だがすでに駅は過ぎていた。彼はまさか私が北駅で降りないとは思っていなかったのだろう。結局厦門駅でBRTを探し、店のある駅まで行って合流した。厦門にもついに地下鉄が出来たことに気が付かなかったのは迂闊だった。本当に中国はいつ来ても変化がある。

 

店にも寄らずに、王さんの車で出掛ける。何と離れた場所に梅記のきれいな新しい店が出来ていた。かなり立派な2階建て。商売は順調なようだ。夜も8時を過ぎていた。腹が減り、その店の向かいのレストランへ行く。1年半前に一緒に安渓に行った女性スタッフと三人で夕飯を頂く。

 

店を案内してもらうと、敷地はかなり広い。和室を含めて個室が充実している。ハイクラスな顧客向けに作られている空間。かなりモダンな造りになっているが、そこに梅記の歴史紹介など、伝統、文化などを織り交ぜて、雰囲気を出している。お茶も鉄観音(かなり古い物もある)は勿論、色々な茶葉を用意して顧客ニーズに応えている。

 

ここでゆっくりとお茶を頂き、王さんが予約してくれた宿へ向かう。厦門賓館、如何にも昔からあるホテルである。何だか高そうだったが、法人契約で意外と安く泊まれる。フロントの女性も非常に親切でフレンドリー。部屋はコンパクトで使い勝手が良い。結構気に入ってしまい、ぐっすりと休む。

福建茶旅2018(4)黄檗文化促進会で

4月18日(水)
2. 福清
黄檗文化促進会

翌朝は福州から福清に移動する。魏さんが連れて行ってくれるというので、オフィスまで歩いていき、そこで合流して乗車した。福清には2年前にも一度行っているが、今回も又黄檗文化促進会を訪問する。因みに魏さんも福清の出身、というか、日本にいる福建人の半数以上は福清出身だと思う。黄檗文化促進会の林会長もやはり福清出身で、魏さんと同じ時期に日本に留学していたらしい。この福清人脈は知られていないが、かなりすごい。

 

車は小1時間で福清に入る。昔は山を越えて難儀して福州に来たらしいが、今は高速道路があり、トンネルがあり、簡単に行きつける場所になった。何故福清から海外を目指す人が多かったのか、それは山深い場所で仕事がなく、福州までは難儀ではあるが歩いて行けた、ということであったろう。

 

黄檗文化促進会の建物は相変わらず立派だった。入っていくと、既に大勢の人が集まり、何かをしている。林会長の正面に座っていたのは、まさかの日本人。それも黄檗宗のお坊さん、N師だったので、驚いた。聞けば、仏教画を描かれるということで、隠元禅師にもゆかりが深く、林会長とも深いご縁のある方だった。

 

それに合わせて東京からもマスコミ関連の中国人が同行してきていた。やはり今は黄檗宗、隠元禅師を見直そうという機運が、特に中国側で強いということだ。皆が話している中にも、隠元禅師が中国からもたらした文化が江戸初期の日本にどれほどの影響を与えたのか、と言った話題が出てくる。

 

 

同時に『魏氏楽譜』という古来の楽譜を研究している女性が態々広西から来ており、驚く。これは中国で現存する最古の楽譜であるらしい。確かに古代から音楽はあるが、それがどんな曲だったのかは分かっていない、と説明されればその通りかもしれない。そしてそこに我が魏さんが当然のように食いつく。彼も魏氏の一人なのだ。放っては置けない。一緒に勉強を始め、同じ魏姓で、この研究をしている人に熱心に教えを乞うている。

 

今日宿泊する予定のホテルに場所を移してランチ。かなりのご馳走が出てくる。テーブルも2卓、20名が食事を共にした。この食事の内容がまた日本人の口に合う。それは味付けがよいこともあるが、食材が日本に近く、何となく安心して食べられる雰囲気なのだ。これもまた隠元禅師のお陰か。忙しい魏さんはここで福州へ向けて帰っていった。いつも本当にありがたい存在だ。

 

促進会に戻る途中、林会長が『ちょっと寄り道しよう』と言って、街中に出ていく。車を降りるとそこにはベーカリーがあった。『ちんすこうを買おう』というので驚いた。店にはパンやケーキなどが並んでいたが、その一角に中華菓子のようなものがあった。その中に『真酥』と書かれた食べ物がビニール袋に入っている。『これがちんすこうだよ。真酥は福清語で「ちんる」、そこに糕「こう」を加えて、ちんすこうと沖縄の人には聞こえたのに違いない。もっとも糕は蒸しパンなど指すけど、福清も沖縄も焼き菓子だね』と説明される。林会長はお店の人に作り方も見せて欲しいと交渉してくれたが、さすがに企業秘密ということで断られてしまう。ただ作り方もほぼ同じらしい。

 

これを持ち帰る。まだ腹が一杯なので、まずは隠元禅師や黄檗宗の説明を聞く。この会館には実に多くの関連資料が保管されている。その多くがこの2年、林会長自らが毎年4-5回は日本へ行き、ゆかりの地を訪ね歩き、そこで集めて来た物なのだ。中国にはすでに残っていないが、日本には残されている歴史的な資料、遺品の典型例だった。

 

そしてついに福清のちんすこうを食べる時が来た。どんなお茶と合わせるのかと考えていると、何と会長は生卵を持ち出し、それを溶いているではないか。そこに熱湯をかけてかきたま風にする。更にちんすこうをパラパラとかけてかき混ぜ、頂く。なんだこれは。まるでシリアル?真酥にはちょっと塩気があり、卵の甘さを合わせると絶妙な味になる!

 

林会長によれば、昔は皆貧しく、子供は病気になった時だけ食べさせてもらえたらしい。何だか私の思い出すのはバナナかな。また来客があり、食事まで間がある時に出されるものだったともいうが、当時卵は貴重品であり、平時食べるものではなかったであろう。それにしても熱湯をかけるとはいえ、生卵を使うことが驚きであり、まるで日本の風習かと思ってしまったのは偶然だろうか。

 

実は1月に沖縄に行った時、老舗ちんすこう店の方を紹介してもらい、話したことがある。沖縄に入ってからの歴史はある程度分かるが、中国でのちんすこうの歴史は分からない、ということで、今回聞いてみたわけだが、まさに百聞は一見に如かず、というところか。今後沖縄と福清の交流が進むとよいと思う。また福清以外にもちんすこうはあったかもしれず、それを探すのも又一興だ。

 

林会長は忙しい。これから厦門まで行って夜は宴会だという。我々は皆お腹が一体でホテルに戻る。だが軽く夕飯を食べようということで、ホテル内になぜかある韓国料理へ行く。N師はここの牛丼は日本のような味だと言って勧めてくれたので、それを食べて、部屋に戻る。とても長い一日だった。