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《安徽お茶散歩 2009》(1)

2009年8月5-7日

《安徽省お茶散歩》2009年8月5-7日

今年からHPの題名を茶旅に変更した。それなのに、お茶の旅に全く出ていない。正直北京生活も2年を過ぎ、何となく疲れている。こんな時に結構パワーの必要な茶旅は難しい。ということで、今回はソフト茶旅、壮年茶旅と言うことで、無理をしない旅を心掛ける。

場所は未だ行っていない中国国内の6つの省に絞る。何とお茶所の安徽省があった。当然ここに決める。しかし黄山は高所恐怖症で難しい。中国10大銘茶の1つ、六安瓜片の古里、六安を目指すことになった。

2009年8月5日(水)

1.合肥
(1) 合肥へ

スケジュールはなかなか決まらなかった。暇な時は暇だが、いざとなるとちょこちょこと予定が入る。ちょうど北京の文化人(日本人)を支援するなど、これまで異なる活動も入り、いい意味で忙しい。結局出張で行くはずだった新疆行きが事件で中止となり、その期間を確保した。

朝8:05発の合肥行きに乗る。隣には全く分からない言葉を話す老夫婦が座っていた。おじいさんは飛行機に乗るのが初めてのようで、落ち着かない。肌の焼け具合から恐らくは、農家の人だろう。いよいよ国内線も団体旅行ではなく、個人旅行の時代か??

合肥の空港は思いの他、小さかった。きれいな建物であるから最近改修しているはずだが、ゲートから出口までも直ぐ。出口を出ても殆ど何もない、相当小さな地方空港であった。外へ出ても建物は広告の看板で覆われ、空港の名前さえなかった。不思議。

取り敢えず市内へ行こうと思い、空港バスを探すがそんな立派なものはなく、ミニバス1台が停まっているのみ。10元で駅や主要な場所へ行くようだが、乗る人も殆どなく、どう考えても、この空港にはバスが不要であることが分かる。発車もいつになるか分からず、下りる。

横のタクシー乗り場は、他の地方空港のように乱れている訳ではなく、料金交渉をする必要もなく、かなりきれいな車が停まっていたので、乗り込む。運転手は女性で非常に丁寧。しかし・・??『何処へ行くのか?』と聞かれてはたと困る。確かに市内に行くつもりだが、ホテルも決めていなかった。とっさに出た言葉は『暇日飯店』へ。休みに行くホテルとしては良い?と言うことではなく、単に日経新聞朝刊の小説『甘苦上海』の主人公が先日猫を追いかけて合肥に来て、泊まったホテルがホリデーインだっただけだ。

しかし『暇日飯店』は何処にあるのか、と聞かれてまたまた困る。殆ど事前調査をしない私の旅、思い出したのは先日貰ったホリデーインを含むホテルグループのカード。昨日中国の何処にあるのか確認したのだ。確か合肥には3つあったはず。そして確か『光明・・』?運転手は『分かった』と言う。本当か??

途中で合肥の茶葉市場の場所を聞く。『「鳥の巣」の巣と湖だよ』との答え。ホテルからも近いらしい。結局暇日飯店まで20分ぐらいで着いた。料金も僅か18元。それでは10元払ってミニバスに乗る人はいないだろう。ガッテン!!

他のホテルを探す手もあったが、今回の目標である『無理をしない壮年旅行』からして、折角着いたこのホテルに宿を取る。時間はまだ午前10時半。部屋はないと、最初言われたものの、最後は何だかチェックインできた。サービス料、朝食込みで470元、私の旅としては安くはないか高くもないか?インターネットが直ぐに繋がり、無料。気に入る。

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(2)逍遥津公園、明教寺、李鴻章故居

ホテルで地図を買い、直ぐに外に出る。先ずは明日行くつもりの六安行きバスターミナルをチェック。ホテルマンは直ぐそこだと言ったが、行ってみると何と六安行きのみは駅の横の別のターミナルであった。残念。

駅には行かずにそのまま歩く。市内中心部何だか、水に囲まれている。小さな川が流れており、何とその横にも暇日飯店がある。古井暇日飯店、どうやらこちらの方が若干高級であり、日経朝刊の女性もここに宿泊したと思われる。

橋を渡ると、右側に緑が見えてくる。非常にきれいな植え込みがあり、小川も流れている。しかし何故か向こうには観覧車も見える。ここは何だ?地図を見ると逍遥津公園とある。逍遥と見れば、坪内逍遥を思い出すが・・??

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正門からは入るといきなり遊園地となっており、夏休みで子供が歓声を上げている。その脇には広大な池があり、良い風が吹いている。奥に入ると徐々に静かになってくる。小さな池を配した庭などは日本的で、実にきれい。全体的に緑が多くてゆったり出来る空間がある。

この公園は215年孫権率いる呉の大軍10万が、僅か800人の魏の張遼に敗れた三国志演義でも良く知られた古戦場。夜の奇襲、また撤退時の待ち伏せにより、孫権は脱兎のごとく、逃げていったとの故事がある。張遼の墓と墓碑はかなり奥まった所にひっそりとある。ここまで来てお参りをする人は殆どいない。

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公園の向かい側に明教寺という古刹があると聞き、訪ねた。ところがなかなか見付からない。古刹と聞いて古い通りを想像したのがいけなかった。実は街中の開発されたショッピング街の中に何とお寺があったのである。

寺は階段を登って入る。信者は無料だが、見学は10元取られる。明教寺は南朝後梁年間(555~587)に創建された寺。寺の造りは中国で一般的に見られるものであったが、ここには三国志の曹操が兵士の弩(弓)の訓練の為に築いたと言われる教弩台(きょうぬだい)、高さ5m、面積3700㎡の弩台跡がある。台の上には269年に掘られたといわれる井戸もある。

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しかしその場所まで行くと、信者なのか近所のおばさんが数人陣取っており、中に入ることができなかった。弓の訓練をした台が今ではおばさん達の井戸端会議の場所とは??(井戸の上で井戸端会議とは??)

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昼の時間を過ぎていたので、その辺の横道の道端で麺を食べた。合肥は小店が多いようだ。この暑いのに名物だと言うことで、砂鍋粉糸を選ぶ。土鍋で煮込んだ感じで極めて熱い。汗がにじみ出たが、味はいける。ズーランと呼ばれる香料が効いている。何度も休みながら完食した。5元。

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今度は清末の大政治家李鴻章の故居を探す。これまた地図がいい加減で見付からない。1周回って気が付いた。何と明教寺の直ぐ北側、同じ道にあったのだ。こんな歴史的な名刹の横に家がある、それだけで李家のこの地での地位がわかる。

立派な門構えを中に入ると入場料20元を払う。内部は復元されたと見えて、かなり新しい感じ。何故かバナナの木などもあり、南国風。広さも相当に広い。彼が太平天国の乱に際して准軍を組織できた財力と人望はここにあったのだと分かる。

 

 

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ここから安徽省博物館まで歩く。曇りの天気で暑くないと思ったが、さにあらず。途中から汗が吹き出てきて困る。3kmぐらい歩いただろうか?無謀なことであった。

ようやくたどり着いた博物館は無料であったが、門の所で入場券を取る必要があった。それを入り口のおじさんに渡すだけ。何故こんな面倒なことをするのか?以前は有料だった全国の博物館は皆無料となり、印刷されたチケットが余ったので、これを使って入場者数を数えているのではないか?だとすれば、入場者の迷惑など考えない、如何にも中国的な手法である。

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肝心の博物館の中身だが、これも残念ながら、いまひとつ。苦労して歩いてきて後悔した?と言っても、安徽省の古い建築物の紹介など、参考になるものもあった。が、安徽省の歴史などの纏まった紹介などは全くなく残念。 

(3) 茶葉市場

疲れていたのでタクシーに乗り、巣湖路にある茶葉市場に到着。何となく茶葉市場と言うイメージはなく、どこかのお店と言う感じの入り口。中は両側にお店がずらり。更に奥に行くと、後ろにも建物があった。かなり細長い市場である。

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しかし今は夏。平日の午後ということもあり、お客の姿は殆ど見られない。お店の人々も居眠りか、マージャンかカードをしており、商売する気は殆どない。そんな中を歩く私はある意味では好奇の的。みんなチラチラと見ている。

ここは安徽省の市場らしく、黄山毛峰、太平猴魅、そして六安瓜片など安徽省のお茶を中心に売っている(最近進出したのか、福建省の鉄観音を扱う店が後ろの方に数軒あったが)。暑さで茶葉が悪くなるという理由か、店頭から茶葉を撤去している店も多い。

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見ていても埒が明かないので、お姐さんに誘われて1軒の店に入る。比較的若めの男性(老板)が2種類の瓜片をガラスのコップに入れてくれた。比較してみようと口を近づけたが、何と熱湯で熱くて飲めない。安徽省では緑茶を100度で入れるのだろうか?その後六安の事など質問してみたが、何となくかみ合わない。先方も訳の分からない人間が行き成り来たので面食らったかもしれないが、話を継続する気にもなれず、外へ出た。

建物を通り抜けて裏に出てしまった。このまま去ろうかと考えたが、何となくもう一度引き返す。最初の入り口に近い所まで戻ってしまったあたりで、おばさんと目が遭う。看板には農民の店、とある。ちょっと気になって入る。おばさんは大きな声で何かを呼ぶ。おじさんが出て来た。おじさんは『何のお茶が欲しいのか?』と聞いてきた。どんなお茶があるのか分からないので、いいお茶を、と答える。おじさんは狭い店の2階に上がり、茶葉を取り出してくる。

ガラスのコップに茶葉を入れ、お湯を注ぐ。お湯の温度も程よいようで、少し濃厚な感じが広がる。六安瓜片はさっぱりしている物が多い中、少し独特。香りはほどほど。

おじさんの言葉はかなりの訛りがあり、聞き取りにくい。しかし何故か単語がところどころ分かり、意味が繋がる。不思議だ。六安瓜片の産地は金塞県、合肥から3時間余りかかるらしい。更にその付近にはダムがあり、船で斉頭山へ向かう。斉頭山は海抜800m、山の上の方で採れるお茶が本当の瓜片だ、と。

 

今は夏で斉頭山に行くのは結構大変。来年春に来れば、おじさんが案内してくれると言う。彼は『自分達は農民で、商売は良く分からない。その代り人を騙すような事はしない。』と。確かにはじめてやって来た人間に対して、非常に親切であり、お茶が好きだと言うだけで仲間になれる雰囲気がある。こういう感じが好きなのである。

この市場は2001年に出来た。元々あった市場が取り壊しにあい、場所を探した所、違う商品を扱う市場であったこの場所がちょうど空いていたので引っ越して来たらしい。当初はかなり厳しい環境であったようだ。15軒で始まった市場は今では10倍近い。

家賃は当初からいる店は数百元だが、後から来た人々は2000-3000元/月と違っている。殆どが六安瓜片を売る店だが、最近鉄観音を売る店も登場。安徽でも香りの立つ鉄観音を飲む人々が出てきたようだ。

名残は惜しかったが、席を立つ。おじさんとおばさんが手を振ってくれた。そして出口付近に来ると、何故かまた向かいのお姐さんと目が合う。どうぞ、と言う感じの目。思わず茶葉を見る。実は六安にも色々な名前の茶葉がある。

中に入って、お茶を飲む。彼女が蓋碗を使って緑茶を入れる。これはこれで変化があってよい。ガラスのコップは茶葉を見せるのには良いが、香りを上手く嗅ぐには適さない。今回は香りを中心に見る。彼女も金塞県の出身。『さっきからこの辺をウロウロしていたでしょう。だから声を掛けた。』と親切。金塞県は空気が良く、水も豊富。何もないけれどいい所だと言う。それだけあれば十分なのかもしれない。

合肥では何処へ行ったかと聞く。既に行った場所を答えると『直ぐそこに包公公園があるから行くと良い』とアドバイスしてくれる。有り難い。もう一度裏口まで行き、言われた通り進む。

《天津お茶散歩 2007》

2007年11月26日

《天津お茶散歩》

ミャンマー関係者S氏が北京にやって来た。どこに行きたいのか、とメールしたが、何故か北京についての返事はなく、代わりに『電車で天津に行ってゆっくり茶でも飲みたい』との意外な答えが??何で中国の電車??何で天津??そして何でお茶??これまでのS氏からはあまり想像できない。

北京に到着後霧が出たせいもあるが、長城にも行きたいと言わないし、故宮もいらないという。我が家でゆっくりとお茶を飲み、ひたすら話をしている。飯の時間になると出掛けて行き、旨いと言っては帰ってくる。

 

そして天津に行く日が。朝7時半過ぎに家を出て歩いて北京駅へ。家から歩いて行けるのは有難い。何しろ駅には人が溢れており、居場所もない。そしてあの人が殺到する改札。日本と異なり、ここでは自分の乗る電車が入るホームに降りる時に改札がある。20分ほど前に一斉に改札を開始するのであるから、人が殺到する。しかも大きな荷物を抱えて。階段は勿論エスカレーターではない。危険極まりない。

しかし、我々が到着すると改札付近の人はまばらで拍子抜け。見れば発車15分前。ホームに降りると既にほとんどの人が乗り込んでいる。やはり家から歩いて来ると時間通りであり、悠々と乗ることができた。

1. 天津へ

電車に乗り込むとS氏は『これは本当に新幹線だ』と喜ぶ。そして自分が各国の電車に乗った話を始める。そうか、やはり彼は電車好きだったのか??最近『鉄ちゃん』などと呼ばれ、暗いイメージがあるため、多くの人が電車好きだと言わなくなっている。しかしこの車両は私が以前乗ったものより座席が狭い。理由はよくわからないが、2種類以上の車両があることが判明。最大時速は在来線の線路を使用しているため、165kmであった。北京ー天津間を約70分で結ぶ。現在新幹線と同様の線路を別途建設中であり、完成すれば35分で結ばれるとのこと。

車窓から見る景色は殆どが畑か道路。田舎の景色は見られるが、あまり面白いものではない。そこで車内を見てみる。我々が乗っている車両は1等車。但し2等車との価格差は僅か数元。その差はどこに。日本の新幹線同様、1等(グリーン車)は席が2つずつ、2等は2つと3つ。

いつもは休日に乗るので満員であり、何と1等のドアには職員が鍵を掛けてしまう。しかし今日は平日のせいか、少し空席が有ったようで乗ってから切符を買っている人がいる。車掌は機械を手に持ち、座っている人に切符の提示を求めたりはしない。昔は恐ろしげな車掌が食い入るように切符をチェックしていたのを思い出す。世の中変わったものだ。

大声で携帯電話を使っている人がいる。しかし中国人も忙しくなったものだ。飛行機に乗り、電車に乗り、走り回っている。昔は切符が手配できないこともあり、出張はかなりゆっくりと、時間を使っていたはずだ。但しある中国人によれば『今の中国人は飛行機や電車に乗っているだけで仕事は実はあまりしていない。昔乗り物に乗れなかったのでその分今乗っているだけ。ようはお金が出来たということ。』との冷めた見方もある。

そんなことを考えている間に列車は改装中の天津駅を通過して臨時駅へ。S氏は『あの駅いったいいつ出来るの?』という素朴な疑問を吐く。確かに柱がひょろっと立っているのみ。これで来年のオリンピックが目指せるのか??臨時駅は相変わらずの混雑、混乱。タクシーは乗って来た人が降りたところを見計らって乗る。なかなか骨が折れる。

2.天津
(1) 解放北路

タクシーでどこへ行くのか?何も考えていなかったので??咄嗟に『アスターホテルへ』と言ってしまう。何故か。前回天津に来て泊まったから。利順徳飯店(アスターホテル)は天津の老舗ホテル。創建は何と1863年、上海で言えばロシア領事館裏の浦江飯店と同じ。イギリス人はどこへ行ってもパターンが同じ。川沿いにホテルを建てる。香港のペニンシュラー、ヤンゴンのストラッド、シンガポールのラッフルズ、全て川沿い、ハーバー沿いである。このホテルも河の前にある。

ホテルは実にレトロな雰囲気を残しており、階段などはかなり重厚。孫文、周恩来、溥儀、梅蘭芳、フーバーアメリカ大統領など、歴代の有名人宿泊客の写真が飾られている。一時は日本軍が占領し、共産党政権後、毛沢東がダライラマを連れてやって来ている。しかし1階には場にそぐわない物が。日本料理屋はまだ許せるとしても日本語で『カラオケ』は許せない。実際宿泊した際、夜ホテルに戻ると恥ずかしげもなく、日本語で歌おうたっている声が廊下にこだましていた。防音が万全でない、などという問題ではない。品性の問題である。

レトロな裏口を潜り、解放北路へ出る。ここを北に向かうと旧金融街となる。上海のバンドほどではないが、昔風の重厚な建物が並ぶ。香港上海銀行、中央銀行、ドイツ系、ロシア系など当時の天津の租界の様子がよく分かる。一般にはあまり知られていないが、天津は上海に匹敵する貿易港であり、かつ金融の中心であった。

日本は日清戦争の勝利後、義和団事件、八カ国連合軍の北京進駐にあわせて1900年頃から天津に本格的に進出。ラストエンペラー溥儀を租界に匿うなど(静園と呼ばれる住まいを与え、そこから旧満州国皇帝に担ぎ出す)中国での謀略工作を行っている。香港上海銀行と旧中国銀行に挟まれて、横浜正金銀行の有った建物が残っている。この図式は上海と同じである。ここは北京にも近い貿易港、条件は上海と一緒である。中国の軍閥系もここに銀行などを建て、巨万の富を築いた者もいたようだ。

(2)茶館1(津衛大茶館)

解放北路をさらに歩いて行くと左手に茶の提灯が見える。正直これは止めてもらいたい。この茶館の建物は銀行を改造したものだという。なかなか重厚な造りである。中に入るとお姐さんが一人で掃除をしていた。開店したばかりらしい。時計を見れば10時過ぎである。1階は入り口付近に茶を入れる台と椅子があり、奥にもテーブルと椅子があるが、全体的にはかなりゆったりとしている。

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2階に案内される。階段はレトロな造りで期待が持てる。2階には部屋が4つあった。奥の部屋は何とマージャン部屋、四角いテーブルが置かれていた??残り3つはお茶を飲むようになっているが、夏用の籐の椅子があったり、普通のお茶テーブルがあったり。我々は何故かソファーのある部屋に通される。

部屋は大きくはなく、ソファーがデンと空間を占領している。窓はあるがカーテンで覆われ、外は見えない。ソファーではあるが、茶を入れるのに不便はない。風が吹いて少し寒い外から来るとエアコンが効いていて暖かい。この空間は密会部屋とでも言うべきか??1930年代あたりの映画に出てきそうな感じがする。しかし天津まで来てこんな空間にはまり込んでしまったS氏はさぞや後悔していることだろう。

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午前中でもあり、ソファーでもあることから龍井茶を注文する。お姐さんが慣れない手つきで背の高いグラスに3分の1お湯を注ぎ、茶葉を入れ、またお湯を注ぐ。それは教科書通りではあるが、うーん。聞けば『邯鄲の夢』の故事のある邯鄲の出身だとか??

S氏にとっては茶館初体験。当然急須を使ってお湯を高く上げたパフォーマンスを期待していたようで、かなり拍子抜けていた。また個室代が40元、但し2人で80元以上のお茶を頼むと個室代が含まれるなど、複雑な??料金体系にも面食らっていた。

1時間ほどして帰るときにもお客はいなかった。さすがに平日の午前中から優雅にお茶を飲んでいる人はいないようだ。会計をした別のお姐さんが『次回は鉄観音などを頼んでくれれば茶芸をお見せします』とにこやかに語っていた。日本人は茶芸のパフォーマンスが好きなようだ。

(3)狗不理

天津の名物といえば何か??北京に北京料理が無いように(北京ダックは実はどこでも食べられる)、天津にも天津料理はないのでは。唯一『狗不理』なる不可思議な名前の饅頭屋があるのみ。狗不理とは『犬も食わない』という意味。そんなに不味い豚まんがあるのだろうか??実は7年ほど前に天津に行った時に狗不理で食事をしたことがある。しかしそのときの印象は最悪。レストランは暗くて汚い、従業員は態度が横柄で、注文しても料理を持って来ない、食器も汚いなど、豚まんを味わうどころではなかった。

そして今回天津に行く機会が増えてきて『狗不理はどうだ?』と会社の職員に聞いてみても、『我々は行かない、美味しくない』との答えだったため、行くのを控えていた。しかし茶館を出たS氏が『昼飯は普段行かないところにしましょう』と言ったので、歩いて行ける狗不理を選択した。

山東路にある狗不理本店は外から見たことがある。立派である。まるでホテルのよう。初めて中に入ってみてさらに驚く。これは本当にホテルをモデルにしている。入り口にはお姐さん達が立ち、恭しく迎えられる。中は吹き抜け、4階まで個室が並んでいる。

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1階奥に案内されると普通のテーブル席がある。竹林があったり、キンキラキンの飾りがあったり、かなり違和感のある造り。11時半でお客は少ないが、いるのはどう見ても中国人観光客。昼から白酒を飲みだしていた。従業員の対応は改善しているとはいえ、他のレストランに比べれば良いは言えない。狗不理の由来を聞いても『メニューにある説明を読め』との答え。しかしこのメニューがなかなか優れもの。

饅頭を頼む場合、以前は伝統的な豚まんしかなかった気がしたが、現在は実に多様な餡がある。外国人などは中に何が入っているか説明を見ても分からない。そこでメニューに饅頭と中の具を写真で紹介している。これなら外国人でも中身が分かると言うもの。

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しかしその値段は小型の豚まんが1個10元はする(何と豚まんが小さな蒸篭に一つずつ入っている)。とても高い割りに味は普通。どうしてこれが名物なのかと不思議に思う。北京人も来ないわけだ。かえって普通の野菜の上湯スープ煮込み??が美味い。

(4)マッサージ

午後は何をしようかと考えるが浮かばない。伊勢丹の直ぐ横にあった偽物・横流し青空市場は何と全て撤去されていた。いずれは無くなるものと思っていても何故か寂しい。イトキンという日本のデパートも既に撤退しており、空き家に。天津は本当に発展する街なのだろうか??

結局S氏とマッサージに行こうと決める。場所は前回行ったあの福原愛ちゃんも来たという店。ちょっと郊外の天津博物館の近く。古びたホテルの5階にある。平日の昼下がり、客は特にいない。前回ここで診察カードを貰ったが、今回は忘れてきていた。すると丹念に私の記録を探している。ここは単なるマッサージ店ではなく、中医の医院なのである。マッサージ自体は60分、全身を揉み解してもらったが、なかなか気持ちが良かった。11月初めて首を痛めて以降正直言ってマッサージは怖かったが、的確な治療と言う感じであり、疲れが取れた。

(5)茶館2(洋楼茶園)

北京に戻る電車は予約されていた。まだ少し時間が余っているが行く所は思い付かない。S氏はまた茶でも飲もうと言う。どこかお洒落な茶館はないかと、タクシーに乗る。午前中に行った解放路とは別に五大道と呼ばれている英仏租界地に入る。ここには多くの洋館が残されており、市の保存建築物として保護されていた。どちらを向いてもレトロな建物。非常によい雰囲気が漂う。夜になればきれいなライトアップもなされ、そこに紛れ込むとかなり幻想的な雰囲気が味わえる。

重慶道、天津は東西の大きな道を『路』、南北を『道』と表示する。重慶道は南北に走る道である。南に向かい、昆明路との交差する場所に洋館が建っていた。この建物、レンガの色が少し回りと異なり、目立っている。更に少し派手な看板もある。

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中に入ると午前中の暗い感じの雰囲気とは異なり、お洒落な住居を改造している。木製の手すりのついた階段を上がり、部屋を選ぶ。ソファーは座りにくいので、円テーブルに重厚な椅子がついている部屋に入る。小姐に鉄観音を注文、彼女がお茶を入れてくれる。今度は慣れた手つきだ。急須を使う。香りが部屋に立つ。いい感じの午後がある。眠りを誘う。しかし・・、意外に周りの部屋がうるさい。平日の午後だというのにいくつもの部屋に客が居る。聞けば、商談と称して来ている老板が多いらしい。それは天津らしいのか??

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こんな洋館に住んでみたい、いつも思うことである。しかし現実には修理も大変だろうし、不便も多いはずだ。洋館は時々来て、お茶を飲むのに適している。天津まで来てゆっくりお茶を飲む、何と優雅な休日だろう。

帰りの電車は速かった、気分である。夢は早く覚めるということ。S氏にとってこの小旅行は何だっただろうか??

 

 

 

 

《湖南お茶散歩 2008》(2)

9月14日(日)
(3)君山へ
翌朝7時頃起きて朝食を食べようと思ったが、昨日同様何度もトイレに駆け込む。一体これは何だ?後で鍼灸師Mさんに聞いてみると、『それは正常な胃腸の行為である』と言う。旅行に出て、北京での緊張した生活が緩んだこと、空気が変わったこと、そして辛い料理を食べたことにより胃腸が刺激され、体内に残されていた宿便が搾り出されている。これは体の浄化にとって極めてよい。

2時間ほど休んで漸く部屋を出た。さて、今日は今回のメインイベントである黄茶の産地、君山へ。と言ってもお茶屋のQさんのメールには『君山へは駅前からバス。タクシーが速いかも。約1時間。』とのアドバイスしかない。更に訪ねる先は『君山公園、工場のGさん』としかない。

いつもの事ながらこれだけの情報でよくもここまで来たものだ。体調の事も考えてタクシーを捜す。ところが・・、運転手はメーターでは行かないと言う。150-200元を要求。うーん、何となく高い。探しまくった結果、1人だけ100元で行くと言うので乗る。そんなに遠いのだろうか??

街を疾風のごとく抜け(地方都市のタクシーは本当に恐ろしい)、トンネルを潜り、洞庭湖に架かる大橋を通る。その先に料金所があり、25元も請求される。これがガンだったのか。と思うと運転手は行き成り料金所手前で待っていた男女2人に声を掛け、乗せる。

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これが100元のカラクリ。料金が足りないので途中で相乗りさせるのだ。1人10元で君山の街中へ。こんな寄り道も楽しい。何となく新しい街がそこにあった。2人を降ろしてから、また湖方向へ。10分ほど行くと、突然着いたと言われる。

着いたところには何もなかった。但し車が何台も駐車してあったので何かあるのだ。本当にここかと確認するとそうだ、と言って運転手は去る。美しい湖があり、1本の細い橋が架かっているのみ。他にやることも無く、橋を渡る。すると・・。

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その先に建物があり、そして渡し舟が停まっている。既に20人ぐらいの客が乗っており、口々に『速く出せ!!訴えるぞ!!』等と言っている。そんな所へのこのこ乗っていったので一斉に視線を浴びる。私が待っていてくれと言ったわけではない、と目で訴える。料金20元(往復)。

船はゆっくり湖を渡る。これがエンジンのない、船頭のいる渡しだったら、唐代の詩人の気分であろうが、少なくとも現代の詩人の気分にはなれる。養殖用の網が見える。何を飼っているのだろうか?湖底に生える草の頭が出ている。ミャンマーのインレー湖を思い出す(そこまで湖面はきれいではない)。20分ほどの小旅行を楽しみ、島に上陸。何と君山は島だった(そんなことも知らないで行ったのか?)。

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(4)君山公園
帰りの船の時間すら分からない中、君山公園に突撃。今日は天気のよい日曜日、それでも人は多くはない。入場料60元を払い中へ。茶工場の場所を尋ねると『あっち』と言った冷ややかな反応が。土産物屋のねえちゃんも面倒くさそうにその先で聞いてと。

この公園は湖に面しているので、湖岸を歩くと爽やかで気持ちがよい。が、工場の場所は一向に分からない。右側に洞庭廟と言うお寺が見える。かなり大きい。更に行くと、湘妃祠がある。古代の皇帝舜の二人の妃のお墓だそうだが、どうであろうか??大体君山は島中が小山になっており、古代は仙人が暮らした場所らしい。そう言われてみて見ると、離れ小島の山の中の洞窟がいそうな気がする。

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もう少し行くと茶店がある。お茶を売っている。売り子のオネエチャンが一生懸命説明してくれる。でもビンの中にあるお茶はどう見ても上等ではない。金の亀を見せてくれるなど大変気を使ってくれたが、最後に工場の場所を聞くと『知らない』と不機嫌になる。

その後少し山の中を散策。ここに入る観光客は無く、全く一人。所々に茶畑がある。但し完全に管理されているようには見えない。勿論今はお茶の季節ではないので、放置しているのか??

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更に行くと湖に出てしまう。島の裏手だ。しかし正面入り口に戻ることは出来ずに横道に。するとそこには少し人影がある何棟かの宿舎が建つ。後で聞けば、昔はここに人が住み、お茶を作っていたが、今では住まいは対岸の君山の街に移り、お茶を作る時だけここに寝泊りすると言う。それでも鶏が沢山出てきて餌をつついていたから、勿論廃墟ではない。

仕方なく戻る。途中にある土産物屋のばあさんに聞くと『今日は中秋節の日曜日。誰が出勤するかね。』とけんもほろろ。こちらもとほほとなり、すごすごと引き下がるしかない。確かにそのとおりだ。ばあさんは確かに高さんという人はお茶のセラーだと言っていた。事務所は実は入り口付近にあるというのでそこへ。湘君園飯店、立派な建物があった。『岳陽市君山茶場』、入り口に看板が掛かっている。

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中に入ると高さんの部屋は2階だという。しかし部屋に行くと鍵がしっかり掛かっていた。2階の全ての部屋に鍵が掛かっていた。やはり今日出勤する人などいないと言うことだ。仕方なく降りる。ここは君山の茶葉を直販する場所。後に東京でQさんにここで仕入れた茶葉を飲ませてもらった。非常に細かく、葉が揃っていた。驚くべき繊細さである。一体いくらするのかは教えてもらわなかった。

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飯店の横に茶荘があった。取り敢えず入ってみる。おばさんが出てきた。お茶が2種類並んでいる。君山銀針、君山毛尖、先が黄茶で後が緑茶。どう違うのか。銀針の製造工程は複雑。君山では製造方法の細部を秘密にしているとのこと。また銀針には君山で栽培される茶葉を使った黄針と別の場所で作られた茶葉を使って作る緑針があるということが分かる。実はお茶会で以前頂いた君山銀針はまさに緑色、緑針であったことが分かる。

3つのコップに茶葉を入れる。お湯を注ぐ。色が違う。黄針は茶葉が太っていく。きれいにコップの底へ落ち、ある葉はまた浮き上がる。非常に幻想的な光景が醸し出される。嬉しい気分になる。おばさんは丁寧に説明してくれる。フェリーの時間も気にならなくなる。

 

1時間弱ボーとしていただろう。ふと我に返る。そうだ、どうやって戻るのだろうか。おばさんに聞くと、いつものフェリーは11時半で次は2時半だと言う。時計を見ると何と11時半を過ぎている。えー・・・??

(5)岳陽に戻る
急いで埠頭へ。と言っても何もない。さっき降りた場所である。団体さんが十数人木陰で待っている。と言うことは今日は臨時便があるはず。ホッとするが、時間は誰にも分からない。私のバスの時間は4時、果たして帰れるのか??

一人が公園窓口に走ったので着いて行く。聞けば直ぐ来ると言う。そして見ると小船が近づいているではないか?急いで戻るが、乗客は降りる客も待たずにどんどん乗り込む。全員乗り切らなければどうなるのか??不安が過ぎる。そして、何とか全員乗る。こういう時の中国人の危機管理は凄い。人数を数えて危ないと見れば人を押しのける。久しぶりに見る光景である。

20分で戻る。しかしこの湖は実によい。午後の強い日差しの中、船で生活する者あり、漁をする者あり、またすれ違う船あり。周囲に何もないだけにすっきりとした湖面が印象的。またもや詩の一つも吟じたくなるが、何分その素養がない。残念。

岸に上がると、タクシーがあるわけでもないので、少し歩いてバスに乗る。4元はちと高いが仕方ない。このバスは出発後途中でどんどん乗り込んできて直ぐに満員になる。ギューギュー詰め。農家の人もあれば、街に遊びに行く若者もいる。観光客の姿はかき消されるローカル線。

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1時間してようやく駅に到着。思い出すと2時までにチェックアウトしないと半日分チャージされる。時計を見ると1時50分。タクシーを捕まえ、5分で到着。フロントに走ると、『そんなに急がなくていいよ』と軽く言われる。チェックアウトを終え、バスターミナルへ。もう岳陽には用がないので、早めのバスで長沙に戻ることに。窓口で切符の交換を要求するとおばさんが『代える必要はない。席はある。』という。しかし昨日の長沙での騒動を考えると安心できないので、重ねて要請すると『私の言うことが聞けないのか。大丈夫と言ったら、大丈夫。』と怒鳴られる。

仕方なく、バスを探すがどこにも見当たらない。長沙行きのバスはあるが、どう見ても直ぐに出そうもない。すると端の方に少し小さいバスがある。車掌らしい人に行くとこのバスが行くと言う。ところが案の定、私の切符では駄目だと言う。窓口の話をすると俺が代えてきてやる、と切符を手に行ってしまう。すこし後悔。5分ほどしておじさんは戻ってきたが、手に切符はない。『大丈夫、ちゃんとやっておいたよ!』??不安が募るが、仕方がない、流れに任せよう。そして事件が??

バスは直ぐに出発したが、5分ほどで駅前へ。ここのターミナルに寄るのかと思ったら、何とバスの乗換えを指示される。道理で空いていると思った。乗り込むとやはり満員に。いい席は取れない。そして出発後に車掌が来て『切符は??』と聞くではないか。懸命に説明するが怪訝そうな顔。それはそうだろう、引継ぎがなければ訳が分からない。やはり後悔した。中国では絶対に切符を離してはいけない。ただ今回は空き席があった事、既に出発していて引き吊り降ろされる心配がなかった事が幸い。それでも如何にも無賃乗車といった疑いを掛けられながら乗車しているのは気分が悪い。

3. 長沙2
2時間で長沙に戻る。東駅の勝手は昨日検証済み。直ぐにバスを乗り換えて駅前へ。面倒くさいので空港バスの出る民航酒店に投宿。300元でPC備え付けの部屋へ。部屋は汚いが、PCで遊べた。

夕飯も直ぐ近くの地元料理屋へ。ここで食べた唐辛子入りのキャベツ炒めが絶品。又大好きな豚レバー炒めも新鮮で美味い。ご飯も進む。辛さも適度と思ったが、後で胃にはかなり負担が掛かった。店員の若い女性達も愛嬌たっぷりで気分がよい。

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今日は中秋節。月を眺めながら少しお散歩し、早々に退散。

9月15日(月)
(1)岳麗山
朝起きるとやはり食欲はない。9時にはホテルを出て、バスターミナルへ。今日はおまけの長沙観光。先ずはバスで岳麗山へ。目指したのは岳麗書院。バスを岳麗南山で降りる。入り口があるので入って行くと、電動車が待ち構えている。あと一人乗れるというので10元払って乗る。

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車はハイキングを楽しむ多くの人々を追い抜き、あっと言う間に山頂へ。標高300m。しかしスモックがかかっており、下は良く見えない。又山頂まで来てよく確認したら、書院は山頂にはなく、少し離れた麓にあった。どうしたもんだろうか??山全体は公園になっているのだが。仕方なく、下に下りることに。しかし又車では味気ないので、歩いて行く。これが結構しんどくて後悔するのだが。たっぷり40分は掛かった。

途中脇道があり、禹王碑を見学。禹王と言えば、古代の皇帝の一人。堯、瞬と並ぶ大帝王で治水を行ったとされる人物。治水をした人の碑が何故ここにあるのか??道教の五岳の一つ、南岳にあったものを移したとか??謎である。

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碑は非常に立派であり、悪戯されない様に枠が嵌められている。しかしここを訪れる人は多くはないだろう。恐ろしげなリフトの下を通り、ゆっくり降りた。

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(2)岳麗書院 
ようやく入り口に到着。正直疲れて脚はがくがく。よい運動と言うには結構厳しい。書院に向かうが距離感が分からずに、タクシーを拾う。山裾を回って5分で到着。

岳麗書院、北宋時代の976年に太守朱洞により創建。朱子、王陽明などの大思想家が講義を行ったことでも知られ、元、明、清を通じて学問の中心。1903年に高等学堂に改名され、1926年に湖南大学となる。抗日戦争時には一部が破壊されたとある。

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書院の中は非常に広く、真ん中に講堂(静一堂)がある。周辺には伽藍が巡らされ、裏には池を配した庭園があった。更に登ると、何と岳麗公園へ行けるルートがあった。そうか、この道を逆に下ってくればよかったのか、と今頃気付いても後の祭り。

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伽藍に腰掛けて思いにふける女性やドイツ人と思われる観光客など様々な人々が思い思いに歩き回っている。図書館もあり、また朱子と張賦が会談した場所も復元されている。湖南省は毛沢東の故郷であり、革命に縁が深い場所。やはりただの田舎ではないのである。展示室に1989年1月に胡耀邦がここを訪れた際の写真があった。亡くなる3ヶ月前である。これも湖南人。横に孔子を祭った文廟があった。大きな孔子像。

(3)湖南省博物館 
昼はホテルに戻り、チェックアウト後、近くの気になるレストランへ。その名も人民公社。中に入ると若き日の毛沢東の写真などが飾ってあるが、特に何てことないチェーン店だった。ここでまたキャベツのピリ辛炒めを食べて満足。

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飛行機が夜の便なので、暇つぶしに博物館へ。タクシーで10分ほど。かなり大きな概観。そして何やら大勢の人が並んでいる。うーん??並んでみると、どうやら身分証を出してチケットを受け取っている。どうやら事前予約で無料のようだ。しかし私は観光客、入ることは出来ないのか??

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警備員に声を掛けると『こっちで美術展のチケットを買えば、全部見られるぞ』と教えてくれた。何だそれは??兎に角30元でチケットを買って中へ入る。重厚な建物の階段を上がると入り口に金属探知機が入っている。オリンピック並みの警備である。バックを通すとペットボトル(水)が2本出てきて、あえなく取り上げられる。

『19世紀の西洋美術展』は3階で開催されていた。皆一生懸命絵を見ている。こちらは長沙で洋画を見る必要性がなく、通り過ぎる。そして1階まで降りて、何とか常設展に紛れ込む。

この博物館で見たいものはただ一つ。2,100年前のミイラである。これを探しまくる。更に地下に降りるとそれらしい雰囲気となる。大きなスペースが取られている場所がある。ここだ、冷気が漂う。ガラスケースを覗き込むとかなり深い場所に服に包まれたミイラが横たわっていた。何ともいえない、体型はかなり崩れているように見えた。無理もない、2,100年も地下に眠り、30年前に掘り出されたわけだから。

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1972年、馬王堆より発掘された漢代の女性ミイラ、軟侯夫人はその保存状態が極めて良好で世界的にも注目を集めた一大発見。当時は皮膚に弾力があり、関節も動かすことが出来たそうだが、今日見ると流石に傷みが激しいのでは。

その後、博物館横の烈士記念公園を散策。湖南省は流石に革命に身を捧げた人々が多い。公園中央の塔の中に展示された犠牲になった人々の中には僅か14歳の少女もいて、心が痛んだ。

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今回の旅は全くの思い付きであり、茶畑でも成果は今一つであったが、やはり湖南省は一度は訪れておくべき場所であることを認識した。

 

 

《湖南お茶散歩 2008》(1)

《湖南省お茶散歩》2008年9月13-15日

中秋節が近づいてきた。今年から5月の労働節の7連休が廃止され、代わりに中国古来の伝統行事の日が祝日に加えられていた。中秋節の3連休、手帳を見ると何故か何も予定が入っていない。この奇跡は生かさなければ??

5月の連休の時に湖南省の旅行を計画していた。航空券も押さえていざ行こうと言う時になり、母親は日本で入院。急遽帰国した。その後休みは全て日本に帰る生活。自分の中で何か物足りなかった。

 会社に入った新人の女性が『携程』というサイトで航空券を予約すると安くて便利だと言う。今まで一度も使ったことが無かったが、3日前だと言うのにいとも簡単に予約出来てしまった。このサイトがナスダックに上場しているシートリップであることは後に知る。

用意は整った。しかしオリンピックの後、急速に仕事が増えてきた。1ヶ月以上停滞していたのだから当たり前だが、急に仕事をすると結構疲れた。こんな調子で大丈夫か??今回も殆ど何も調べずに行く。唯一の頼りは東京の茶商Qさんから紹介されたお茶工場の人のみ。

2008年9月13日(土)

1.長沙1
(1) 長沙へ

パラリンピック開会中の北京は相変わらず、車の制限がある。出発前日タクシーを予約するが、なかなか返事がない。不吉な予感が??それでもどうにか予約が完了。当日は朝6時過ぎに家を出る。道は空いており、25分で空港へ。既にオリンピックの専用線も一部解除になっているが、車は少ない。

3連休ではあるが、空港はそれ程混んでいない。やはり空港の警備体制などに嫌気して控えているのだろうか??チェックイン、イミグレ共にスムーズ。荷物検査だけはかなり厳密で殆どの人がボディーチェックを受けている。私は見事にクリアー??

8時15分発で少し時間があるな、と思っていたら、何と7時35分にはコールされる。早く出発するのか??それでも北京に慣れた私にはとてもそうとは思えず、悠々とトイレへ。それから悠々とゲートに行くと、バスが。そうか、バスだから早く呼んだのか??しかしバスに乗り込んでもいつになっても動かない。8時過ぎて漸く飛行機へ。機内に入ると既に多くの人が乗っていた。そうか、私は1台目のバスに乗り遅れ、最終収容車に乗ってきたのか。呼ばれたら早く行くべきなのだと悟るが遅い。

機内はかなり空席があり、隣もいないのでゆったり。飛び立つと映画が始まる。勿論個別の画面は無い。いつもは本を読んで過ごすのだが、映画の音がやけに耳に着く。うーん??これは日本語ではないか??エアーチャイナの機内で日本語??顔を上げて画面を見ると何とそこには高倉健がいた。

2006年に公開された張芸謀(チャン・イーモウ)監督作品、日中合作映画『単騎、千里を走る。(中国語タイトル:千里走単騎)』であった。この映画の話は丁度2006年2月に雲南を旅行した時何回か話題に出ていた。しかし映画を普段見ない私は関心を示さず、内容も全く不明。

周りを見ると多くの中国人乗客が真剣に見入っている。高倉健の人気なのか、それとも暇なのか??兎に角最後まで見た。中国の一般庶民が上手く描かれている。あっと言う間に機内の時間が過ぎた。

今回はガイドブックすら見ることなく、10時半に空港到着。しかし着陸直前、突然腹痛が??昨夜の四川料理が中ったのか??なぜだ??何とかターミナルへ。特に下痢ではなく、体の中のものが吐き出される。

何の当てもなかった。取り敢えず岳陽にどうやって行くのか聞くと、直接バスが出ていると言う。しかし聞けばバスの出発は午後2時半、3時間以上もここでどうするのだ。長沙市内へ行く空港バスが出ると言うので、急いで乗る。

市内まで40分、17元。快適。市街地の開発が進んでいるのはどこの都市も一緒。民航酒店までに到着。ここからまたどうするのか?窓口で聞くと目の前に駅があるという。では電車で行こう。駅へ向かう。

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(2)長沙で
ところが駅の切符売り場へ行くと、物凄い人の列。まるで80年代の駅のよう。しかも長沙は内陸部の中心都市。広州からも上海からも武漢からも列車が通るため、始発より圧倒的に通過が多い。大きなスクリーンを見ると『無座あり』の表示がちらほら。ということは席の確保はできない。しかも何時に乗れるかも分からない。

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初めて気が付いた。中秋節の前日は皆が故郷に帰る日であった。日本では既に廃れたこの風習、中国人にとっては重要な日である。さて、どうするか?長沙に泊まるか??岳陽行きのバスを聞くと、『東駅、126番』と言う声が皆から帰ってくる。実は湖南省の方言は結構きつい。よく分からないこともしばしば。駅横のバスターミナルで東駅を探すといくつもの線が出ている。一つに飛び乗る。1元。

バスはゆっくり走り出す。どこで降りるか心配になり、停車駅を確認すると『火星鎮』『馬王堆』等の地名がある。うん??ここは何だ。古代遺跡の跡?思わず降りたくなったが、実際に駅に来て見ると陶器市場があったりするだけで、趣は無いので通り過ぎる。

ようやく東駅へ。ここで初めて126番の意味を知る。126番とは駅から東駅の中へ直接入る専用線のこと。私の乗ったバスは道路の反対側で停まり、大通りを歩いて渡る。長距離ターミナルはごった返していた。各地区へ向かう大型、ミニバスがずらっと並ぶが岳陽行きは見付からない。

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聞けば建物の中とのこと。中は切符を買う人の列がある。仕方なく、並ぶ。10人ほど。しかし果たしてここで岳陽行きは買えるのか??今回は焦らず取り敢えず待つ。窓口にたどり着くと46.5元で買えた。しかし何時のバスなんだ??

兎に角乗り場へ。もぎりのおじさんは『急げ』と言う。良く見ると1時10分発。今は1時5分。何と偶然ではあるが、実にタイミングがよい。バスを見つけて乗り込む。ちょっと古いバス。一番後ろの席しか空いていないので、その一番端に座る。後からカップルが来て横に。更におじいさんがその横に。満員となりいざ出発、かと思いきや、あと2人乗ってきた。

そして『私の席はどこ?』と騒ぎ出す。うーん??車掌が全員の切符をチェックする。2人の切符を持たない乗客が見付かる。一件落着か?と思いきや、大喧嘩が始まる。『乗っていいと言ったじゃないか』『切符無しは違法だ』『お金払えばいいんだろう』『いや満席で席はない』『何だと』『降りろ』途轍もない、大声で果てしなく続く。

最後に一人はしぶしぶ降りて出発。もう一人はついに降りない。残った乗客1人は車掌席へ。どうやって解決したのかはついに分からない。中秋節に一刻も早く家に帰りたいのは誰でも同じはずだが。

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バスが走り始めると直ぐ眠りに落ちる。朝5時に起きてここまで来たのだ。無理もない。1時間後目を開けると道路脇の表示が『汨羅』とある。ここは戦国時代楚の政治家、詩人であった屈原が身を投げたと言われる場所である。屈原といえば、亡骸を魚が食らわないよう魚の餌として人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われこれが粽(ちまき)の由来。またドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した」という故事が由来であると伝えられている。

丁度2時間で岳陽に到着。バスターミナルは街中。さてこれからどうするのか?全く何の計画も無い。

2.岳陽 
(1)岳陽1日目
先ずは中秋節の賑わいを考えて、明日の長沙行きのバスの切符を買う。何しろ列車もバスも混雑している。もしキチンと長沙に戻れなければ、この旅の唯一のルールである、予約してある帰りの飛行機に乗る、が守られない恐れがあった。

バスの停まった横にターミナルビルがある。切符売り場では難なく明日午後4時の切符が買えた。番号も1番。何だ、簡単だったんだ。気が楽になる。それから今いる場所がどこか確認するため、売店で地図を買う。おばさんに現在位置を示してもらうと、街の中心。鉄道駅にも歩いて行ける。

かなり疲れていたこともあり、この付近でホテルを探す。ターミナルの向かいのウオルマートが入った立派なビルがあり、その横にホテルの表示があった。結構きれいそうだったので、入る。部屋代260元(朝食付き)で『特別坊』へ。特別って何が特別なんだ??部屋は小奇麗、どちらかと言うとカップルが泊まるような雰囲気。そうか、これが特別だったんだ(ラブホテルと言う雰囲気はない)。これは結構安くて快適な場所が確保できた。

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さて、時間は4時半、取り敢えず岳陽の名所、岳楊楼へ行ってみよう。タクシーに乗る。初乗りが何と3元。安い。運転は地方のそれ(異常に怖い)。10分で到着。何だかきれいなテーマパークに来てしまった感じで少しがっかり。

(2)岳陽楼
岳陽楼の歴史は古い。三国時代、呉の孫権は劉備との戦いに備え、大将魯粛に1万の兵を与え、駐留させた。その際築いた閲兵台がその前身。716年唐代中央より左遷された張悦が楼閣を拡張、南楼とする。北宋時代の重建の際、範仲淹が書いた『岳陽楼記』により名が天下に知れ渡る。その後30回もの改修を重ね、現在の建物は1880年建造。1983年に大改修。唐代の詩人、杜甫、李白、白楽天などの漢詩に詠まれており、風光明媚なイメージあり。武漢の黄鶴楼、南昌の滕王閣と並び、江南三大名楼の1つ。因みにわたしはこれで3大名楼を制覇。

先ずは入場料を払い、中へ。噴水の横には唐、宋、元、明、清の五王朝の岳陽楼のレプリカがきれいに飾られている。特に清代の黄金の楼は目を引く。続いて双公祠へ。双公とは範仲淹と滕子京のこと。中には2人の像が。そして奥には魯粛の胸像もあった。

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岳陽楼は三層。建物の屋根が左右に反り返っており、ユニーク。中には範仲淹の岳陽楼記が刻まれているが、他には特に何もない。3階から洞庭湖を一望すると気分も爽快。陽が西に傾いており、湖面の照り帰りが鮮やか。好きな景色である。

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楼を降りて裏手に回る。岳陽門跡には古い城壁が見える。そして湖に近い場所に茶園があった。入って行くと湖を眺めながらお茶が飲める屋外である。茶店でお茶を注文するとパラソルのある席まで持って来てくれる。よく分からないので50元の君山銀針を注文する。

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細長いガラスのコップに茶葉を入れ、湯をゆっくり入れていく。茶葉がコップの中で舞う。中には一度落ちて又上がっている物も。これを『三起三落』と言うらしい。鮮やかではある。偉大なる毛沢東主席(湖南省出身)も生前愛飲していたとか。

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兎に角お茶も美味しいが、景色もよい。洞庭湖を一望しながら飲むせいであろうか。李白や杜甫になった気分で詩の一節でも出来そうである。屋外の開放感、旅に疲れ、いや北京生活の疲れ、がこの暖かい夕暮れに一気に溶け込んでいく。

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30分もボーっといただろうか。店仕舞いが始まったのを期に腰を上げる。実にもったいない気分である。外へ出ると向かい側に昔の街並みを再現したような建物が見える。行ってみるとよくある土産物屋街。

中に1軒茶店があったので覗く。お姐さんが一生懸命紹介してくれたが、既に少し知識を入れた当方は茶葉を見ても買う気が起こらない。『明日君山の工場に行くんだ』と言った瞬間、彼女も私に興味が無くなった。

鳥の腿焼きを炭火で焼いている屋台があった。思わず購入。5元。ズーランが塗りこまれた味。しかし美味しい。と思って油断すると突然肉から汁が飛び出しズボンが汚れる。ズボンは1枚しかなく、困る。

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そこから岳陽の街を歩き回ったが、これと言って目を引くものは無かった。夕飯はホテルの横のレストランで取る。湖南料理は辛いと聞いていたが、確かに舌に残った。ご飯が何も言わなくてもお櫃で出てきた。何杯でもお代わり出来るようだ。長い一日が暮れた。ベットでぐっすり寝た。

《広州お茶散歩 2008》(2)

(5)日本人お茶屋

夕飯は街の東側に移動。中信広場の中にある東海海鮮酒家へ。このレストランは北京にもあり、先日行ったが、味が安定している。到着してみると何と丁度披露宴の真っ最中で一般客は別室に押し込められていた。Mちゃんの旦那、K君が仕事を終えて合流。何しろグルメのK君のこと、料理の選択は任せたと言いながら、何故か叉焼と豚のスペアリブをダブッてオーダーする私がいた。やはりお茶を飲み過ぎたのだろうか??

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溝Mがこの店を選択した理由は、彼女の事前調査でこの近くに日本人がお茶屋をやっていたからだ。時間は遅くても良い、ということで9時半過ぎに食事を終えて、そこを訪ねた。そのお店は何となくマンションの1室という感じ(実際はオフィスビルだとのこと)。入り口で守衛に咎められたのも、こんな遅くに店に来る客などいないと思ったからか、はたまた人相が悪かったからか??部屋に入ると所狭しとお茶が並んでいた。昨年末に引っ越したばかりとのこと、また当日は茶葉の入荷があったとのこと。嬉しいような環境である。湖南省の黒茶、千両花巻茶が棒状に立てかけられていたりする。

お店の名前はChinese Life Tea House。店長の大高さんは経歴を聞けば、若干27歳。元は中華料理のコックさん。帝国ホテルやホテルオークラから内定を貰っていたが、中華の本場広州を見に来た際、何と中国茶の魅力に取り付かれ、就職を取りやめて広州に住み始めたとか。

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その拘りは尋常ではなく、全ての茶葉を自らの足で産地から集めて来ている。全てが写真に収められ、説明がなされる。茶葉の産地にも色々と変化があることを教えられる。先程の岩茶、白鶏冠も栽培が大変で取れる量が減少。直ぐに品切れになるとか、安渓の本山茶や毛蟹という品種は既に鉄観音に取り込まれてしまい、後数年で無くなってしまうことなど。

また台湾茶を扱わない理由を『まだまだ大陸の勉強が足りない。こちらを極めてから次に進みたい。』と極めて謙虚、いや職人気質。北京と広州の違いについては『北京には茶芸館が多い。北京でお茶を飲むことは非日常空間、広州でお茶を飲むのはごく普通の日常。この違いは大きい。』と語る。まだ20代という彼が淡々と語る姿には既に大いなる貫禄がある。

因みにこのお店を訪れるのは日本人が多いが、中国人客も増えつつある。確かにパッケージや保存方法にも肌理が細かい。勿論メインは日本へのお茶の卸ではあるが。

気が付いたら、11時を回っていた。今日は朝5時半に起きたのだから、長い一日であった。体調が悪いのもすっかりよくなり??爽やかな夜風に吹かれてホテルに戻った。そういえば、この時間に半袖のポロシャツ1枚で歩いていたのは私ぐらい。やはり北京から来ると皮膚の強さが違うらしい。

1月12日(土)
(6)沙面
今回の宿泊先である沙面は、アヘン戦争後に租界地となった所謂小さな出島である。小さな橋を渡ると大きな木と洋風の建物が目に付き、その後はずっと洋館が並ぶ。広州市が保護しているのだろうが、かなりきれいに整備された観光スポットである。

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朝7時半、昨日の疲れもまるで無く散歩に出発。今日も良い天気。広州郊外は正直北京並みの空気の悪さだが、ここ沙面は空気も心持良い。20度を超える丁度良い気温が歩みを軽快にする。

いきなりホテルの斜め向かいに旧台湾銀行があり、その向こうには立派な教会も見える。更には鉄道車両を持ち込んだ目立つレストランがある。南に下ると河に面したオープンレストランもある。朝から大勢の人々がお茶を飲んでいる風景が羨ましい。旧日本領事館跡も未だに現役。公園には木々が茂り、体操する人々の姿も南国風。西に歩くと20年前の憧れのホテル、白天鵞が聳えている。タクシーでしか来たことがなかったが、昔はこんな素晴らしい風景が周りに存在するなど気が付かなかった。いや、きっと最近の整備できれいになったのだろう。

 

それにしても1860年代から建設された租界、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、日本など列強が挙って進出。第二次大戦開始後は日本の独壇場になっていただろう。ここから1941年12月に香港進駐が行われた。

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真ん中の道に戻ると横浜正金とHSBCの跡が並んでおり、勝利賓館というホテルもレトロな雰囲気を醸し出す。ここでは時間が止まっているような錯覚さえ覚える。公園で優雅に運動している人、観光バスで乗り付けてくる人、結婚の写真を撮るカップルなど、全てが絵になっている。

(7)飲茶
9時半に橋を渡り沙面を出る。六二三路という珍しい名前の道がある。なぜこんな名前が??1924年租界であった沙面でベトナム華僑がフランス人を殺すという事件が発生。これに対して英仏は中国人を蔑視するような規制を発動、怒った民衆は各地でストライキを起こし、10万人のデモに発展。英仏はこれを武力で鎮圧。国辱を記念するため沙基馬路から事件の起こった6月23日の数字を取って六二三路に変更しという。

この道の並びには未だにかなり古い大きな洋風の建物があり、薬材市場として使われている。尚この道を北に上がる道に清平街というその昔は広州一の食料市場があった。ここでは犬でも猫でも何でも売っており、食は広州にあり、を実践する場所として何度も見学に行ったものだ。2003年に起こったSARSの元凶として、この市場も全て取り壊されてしまった。

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上下九路と文昌路の角に広州酒家がある。1936年創業。この一角は観光用に綺麗に整備されており、朝から大勢の観光客で賑わう。広州酒家については、地元の庶民が多いらしい。入り口付近では何かを売っており、長い長い行列が出来ていた。今日は朝昼兼用で溝M、Mちゃん夫妻と食事をすることになっていた。早く行った者が行列に並ぶことにしていたが、私がその任に当たる。9時半にホテルを出て僅か10分ほどで到着してしまう。実に良いお散歩であった。

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お姐さんから番号の書かれた紙をもらったが、番号の呼び出しは広東語のみ。さすがに広東語の出来ない私でも数字ぐらいは分かるとたかを括っていると既に番号を飛ばされている。可笑しいと思い列を書き分け北京語で訪ねると何と見るところが違っていた??我々の番号は縁起の良い『99』。皆揃うと図ったようにご案内となる。ここは2階、3階もあるはずだが、何故か1階の順番を待つ。入ってみると確かに雰囲気が良い。2階では注文出来ずに自分で取る方式だとか。こちらは紙に印を付けて注文できる。

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お茶は適当に頼んで、溝Mが昨日買った茶葉を持参し、入れる。なかなか美味しい。お茶を入れる雰囲気がある。隣は何と朝からブランデー??を飲んでいる。一通り点心を食べた後、隣のおじさんが食べていた麺が美味しそうだったので思わず注文。スープを自分で掛けて食べるスタイルは香港を思い出すものがあり、懐かしい。今回は皆さんにご馳走になってしまったが、4人で100元は掛かっていない。

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ホテルに戻り、チェックアウト。タクシーが入ってこない場所にあるため、呼んでもらうと、なかなか来ない。ボーイが遠くまで探しに行ってくれたらしい。チップでも上げようと思ったが、そんな事は思いもよらないとばかりに行ってしまう。やはりここは中国であった。

 

 

 

《広州お茶散歩 2008》(1)

2008年1月11-12日

2008年に入った。オリンピックの年である。ところが昨年後半より体調が悪い。北京も暖冬ではあるが、それでも寒い。南への心が動く。広州だ、そうだ広州だ、と心が叫ぶ。ここには茶葉がある。市場がある。名目は十分。いざ。

 

しかしなかなか簡単ではなかった。正月を日本で過ごし、戻ってきた初日、食事を終わって家に帰ると急激な体調の悪化。一晩中唸り通しで、死にそうな目に会う。以前も東南アジアに行く直前によく体調を崩したので、一つの儀式のようなものか??何とか苦労して体調回復に努めたもの、とても万全とはいえない状態で出発。

2008年1月11日(金)

1.広州
(1) 2つの再会
朝8時半の飛行機に乗る。北京の朝は寒い。今日も零下6度。あまり厚着で行くと荷物が多くなると思い、マフラーなどを家に置き捨て空港へ。しかし外へ出た瞬間後悔??それほど寒い!!

飛行機は順調に飛行し、11時半前には白雲空港に到着。直ぐにタクシーに乗り込む。暑い!!タクシーの中で1枚脱ぎ、また1枚脱ぐ。裸になりたいほど。24度とか??何とも嬉しい悲鳴。

今回のホテルは沙面。レトロな雰囲気という私のリクエストに対して、90年代前半香港60年会での知り合い、溝Mが自ら調査に足を運んでくれた。嬉しい。この溝Mは自宅が香港にあり、現在は広州で北京語を勉強している活発な女性である。

沙面は租界的な雰囲気を色濃く残す緑の豊かな場所である。ホテルは税関の招待所??海関会議接待中心という名前である。タクシーの運ちゃんも分かったような生返事であったが、結局は知らなかった。税関の横で下ろされたが、何とホテルはそこから200mも離れていた。長袖を着ており、汗だくで到着。

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既に溝Mが待っていてくれた。こじんまりしているがなかなかよさそう。部屋もシンプルだが、広い。想定どおりの部屋である。これで298元は安い。ロビーに戻るともう一人の待ち合わせ人、Mちゃんがやって来る。

Mちゃんとは今回劇的な再会である。彼女は7年前の北京でのお茶会参加メンバー。当時は現役の学生で留学中。その後音信は途絶えていたが、やはり恐るべし、茶縁。話はこうだ。大学の後輩K女史と昔香港で同時期に駐在したS氏、この二人は互いにユニークなブログを更新しており、お互いを意識していたが面識は無く、二人を知る私が仲介の労を取った。この北京B級グルメガチンコ対決にもう一人上海より飛び入り参戦した人物が居た。K君である。4人で春餅を食べ、大いに語ったのだが・・・。

その後K女史が『K君の彼女って知ってます??昔お茶会に来ていたMちゃんですよ!!』と言うではないか。え、あのMちゃん、今どこに???当時既にK君と一緒に上海に居たMちゃんはその後K君の転勤で広州。同時に結婚して姓も変わったそうだ。7年ぶりに見たMちゃんはさすがに大人になっていたが、特に違和感無く再会。

(2)広州三大酒家
昼時である。先ずは腹ごしらえを。溝Mに調べてもらったガーデン式飲茶が出来るレストランへ向かう。しかしタクシーの運転手が煮え切らない??広州三大酒家の一つ、ばん渓酒家を知らない運転手は潜りではないのか??

このレストラン、茘湾湖公園の横にある、はずだったが、行ってみると何と改修中。看板だけが残る入り口から中を覗くと、庭園が辛うじて見える。噂ではここは国有経営であったが、倒産し、香港資本による再建が図られているらしい。大変残念ではあるがこれも時代の流れか。

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平野久美子著『中国茶と茶館の旅』を見るとこのレストランは清の時代の貴族の社交場であった。民国以後は蓮根畑になっていたが、1957年に広州市が買い取って改修したとある。見所は湖を中心にした庭園と清朝の貴賓室を再現した迎賓室。是非見てみたかった。今後どのように再現されるのだろうか?? 

因みに広州三大酒家の残りの2つ南園と北園も経営危機で資本が変更になっている。南園は既に再建されたが、北園はその内再開されるという。北園の大きな庭の大きな木下でのんびりとお茶を飲んでみたい、と思うのは私だけだろうか??

そんな訳で食事は茘湾湖公園入り口のバン渓酒家の丁度反対側、園林酒家で食べる。きれいな内装のレストランで、庭は無いものの茘湾湖公園の庭を借景としている。残念ながら点心はほとんど無く、野菜や豆腐料理を頼んだが、味は??

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お茶は広東ということで鳳凰単叢を注文。このお店、お茶の値段で席が2種類ある。高い方に行ってみたが、それでも一人10元以下。お茶の味もあまり期待できない。勿論毎日お茶を飲みに来る老人などはそんなに高いお茶を注文できるわけもない。安いお茶が手軽に飲めるということが1つのお茶文化なのである。 

(3)茶芸楽園 
今回の旅行に出る前に北京で高級茶芸師として活動しているYさんと何回か会っていた。彼女は香港に本店のある茶芸楽園とご縁があり、その広州の出先、中国事業を行っている皆さんとも親交があった。このお茶屋さんは北京の王府井にも最近出店している。

Yさんからはきちんとした紹介と所在の分かるHPも貰っていた。にも拘らず、事前の下調べをしない私の旅行スタイルは、結局紹介された人の携帯だけをメモっていたのみ。

広州滞在時間は僅か24時間、地理不案内な広州で茶芸楽園の所在を突き止めて訪ねるのは正直無理ではないかと考えていた。そこで昼を食べているレストランより取り敢えず電話を入れ、次回また訪問したいと申し入れることにした。

ところが、ところがである。電話に出た謝さんに所在地を聞くと何と『茘湾湖公園の中』というではないか??先方は『今どこに居るのか??本当にそんなに近くに居るのか??』と驚いて聞いて来る始末。これも茶縁のなせる業。このレストランを選んだ溝Mもこの偶然(必然)にはビックリ。Mちゃん共々、私の旅のスタイルと何かが起こる不思議さを理解してくれたようだ。

とにかく楽園に向かう。何と公園に入るのに入場料が掛かる。一人3元。窓口では茶芸楽園で使える入場券付クーポンも売っていた。公園の中は気持ちが良いほど緑に溢れ、大樹の存在がここの歴史を物語っていた。池(湖?)も大きく、午後の暖かな日差しを浴びて、輝いている。散歩している人々も実にゆったりとしており、北京の寒さを全て忘れられた。

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お店の前には急須のモニュメントがあった。しっかりした建物を入ると改修中らしく、少し雑然としていた。案内を請うと店の奥に段差があり、下へ。そこは湖の面した絶好のロケーション。その横で謝さんが待っていた。

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早速席に座り、お茶をご馳走になる。岩茶、肉桂を飲んでいたようだ。園主の陳さんもやってきて挨拶してくれる。非常に人懐こい笑顔が印象的。店内の改修を指示するなど非常に忙しい中、時々来ては話していく。

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香港から広州に出てきたのは15年前の1992年。最初は蘭圃の中に最初に茶芸館を作るなど順調だったが。3年でそこを出て今の場所へ。台湾茶も最初は受け入れられなかったが、徐々に浸透。彼自身香港からの移民だという。今後もここに骨を埋める覚悟できている。

広州郊外には自前の茶畑も持ち、春にはお客さんを連れて茶摘に行く。茶芸教室も格安で開催しており(初級10時間で150元)、お茶が好きな人が増えればよい、という考えのようだ。湖に面した茶を飲む場所も拘りが感じられる。広州にいればしょっちゅう来る場所になるであろう。

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結局2時間ほどもいて、あれこれ試飲する。お土産に茶器のセットを貰ってしまったのには恐縮。改修の終わったこのお店を再訪し、次回は是非湖畔でお茶を飲んでみたい。

(4)芳村
夕方4時、茘湾湖公園の入り口に戻り、タクシーを捜したが、一向に見つからない。こんな時間にタクシーがいないなんて??どうやら広州では午後4-5時頃に勤務交代があるらしい。北京では考えられないこと。

20分待っても埒が明かないため、バスに乗ることに。溝Mはさすが学生だけあって、バスにも詳しい。地下鉄の駅までバスに乗ることに。バス代は2元で北京の1元の倍。北京はバスも地下鉄も安くして、交通渋滞を緩和しようとしているのだろう。

バスに乗ると広州で見たことがない風景が見られた。これまでは出張などで決まった場所しか見ていなかったが、庶民が住む下町を見ると広州もそんなに変化がないと思える。細い道の両側に小さな店が軒を並べている。活気がある。

その内に海珠広場という所に出る。旧正月の飾りを大量に売っている。その量は物凄い。中国中、いやアジア中からバイヤーが買い付けに来るらしい。広州は世界の工場、これを実感できる場所である。広場の中は小さな卸問屋が無数にあり、何から何まで売っている。

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ようやくタクシーを捕まえて芳村へ。芳村とは広州最大のお茶市場がある場所。5-6年前も何度か訪れていたが、最近その規模が相当大きくなったと聞いている。夜6時で閉まるところも多いようなので急いで行く。

芳村に到着すると当初の市場は健在だったが、その横には巨大なモニュメントが出来ていた。更にその横には巨大な茶城も完成し、更には更には道の反対側に多くのお茶屋が軒を並べていた。その規模はもしかすると中国一ではないだろうか??

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Mちゃん行き付けの岩茶のお店が最初の市場の中にあったので行ってみる。ここは雰囲気が昔と変わらない。日が沈む直前である。そろそろ店を閉めようかとしている所もある。何故かとても懐かしい光景を見る思いだ。

大紅袍と大きく書かれたこのお店、『武夷山岩上茶葉科学研究所』とある。この研究所のオーナーは武夷山でも有名な劉国英氏。岩上茶葉科学研究所は1998年に設立され、岩茶の品種開発、設備の開発、品質向上の研究を目的とする「試験基地」である。

店主は武夷山から出て来ていた。この人がまた早口で次々にお茶を出していく。本当に岩茶専門店で、北京の馬連道にあるようなどんな店でもプーアール茶を置いている、というような半端はない。そこが気に入っている。自分の信じるお茶を薦めるのが礼儀であろう、たとえ商売だとしても。

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大紅袍を数種類頂く。こんな飲み方は北京ではしない。中でも北斗1号という懐かしい品種が気に入る。最近はとにかく軽めのお茶が多い。この品種も重くはないが、何となく岩茶らしい感じがある。また白鶏冠という独特に癖のある岩茶が好きであったのでお願いしたが、今は殆ど出回らないと言われてしまう。残念なことだ。確かに癖が有り過ぎると消費者には受けないのかもしれない。そして一部の信者が買い求めて在庫は常にない。

このお店も茶葉研究所の一つの出先であるとのこと。おじさんの奥さんのお兄さんがこの研究所の所長で有名人だという。場所は武夷山の空港の道の反対側だから誰でも分かるらしい。今度是非訪ねてみたいもの。そう言えば武夷山にも2000年12月以来7年行っていない。

7時近くになり、周りの店は殆ど店仕舞いした。トイレに入るために茶城に行ったが、こちらも閑散としていた。タクシーが捕まるか心配なほどであった。

 

《雲南お茶散歩 2006》景洪、昆明(5)

6.昆明2
(1)夕食
昆明に戻ると直ぐにF夫人に電話を入れる。ホテルで待っていると言われて急いで戻る。到着すると既にF夫人がいる。Fさんと友人も車で待機していると言う。一体どこへ行くのか??

Fさんは脊髄を痛めて車の運転を止めているので、友人夫妻に頼んで車を出してもらったようだ。大変申し訳ない話だ。5人で乗り込む。どうやら西の郊外へ向かっている。民族村の近くまで来たから結構遠い。ガイドブックでは南へ8kmとある。

道路脇を入るとそこには古めの普通の民家が並んでいる。そこが民家を改造したレストランになっている。珍しい。レンガ造りの御伽噺に出てくるような三角の屋根がある家だ。暖炉でもあれば北欧の小屋とも思える。部屋の中にテーブルがあり、5人で囲む。昆明料理が楽しめるらしい。雰囲気がある。外には池があり、ライトアップもされている。

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先ずはスープ。鶏がらのスープは相変わらず美味い。気鍋鶏という名前らしい??何杯も食べる。漢方薬が入っており、健康によさそうだ。日本でも絶対受けると思う。山菜炒め、から揚げ、玉子焼きなどが並ぶ。どれも美味しい。脂っぽくなく健康的な食べ物である。ここでもご馳走になってしまったが、料金は合計で120元ほど。信じられないほど安い。

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ここまで来る間の道路沿いには高級マンションが並んでいた。外国人や中国人の俳優、スポーツ選手などが購入していると言う。確かに気候は温暖、物価も安い、食べ物も美味しく健康的となれば老後の生活空間としては良いかもしれない。将来のロングスティ先の候補かもしれない。

実はQさんの友人で昆明に長期滞在している日本人がいるといわれていた。既に60歳を越しているが、昆明で事業をやっているそうだ。行って見ると今は重慶の日系企業を手伝っており、不在とのことであったが、お会いしてみたかった。きっと昆明のよい所を教えてくれたであろう。

(2)フライト変更
帰り掛けに何気なく、『明日の上海行きのフライトを早い時間変更したい』とFさんに相談した。明日の朝聞いてみればよいと思っていた。ところが今すぐ聞けるという。電話すると席は空いているのでチケットを持って事務所に行くという。今は午後10時。どこへ行くのだろうか??

何と現在の中国ではフライト変更サービスは24時間可能だ。オフィスは締まっているが夜間窓口が開いている。東方航空の夜間事務所に出向く。ところが私のチケットは日本で買ったものなので、変更は出来ないと突き返される。F夫人は少し意地になって『明日もやってみる』と言ってくれる。結構大事になってしまった。

しかし中国のサービスはどんどん進化している。銀行のATMもいつの間にか24時間、コンビにも増えている。日本でフライト変更が24時間出来ることはないであろう。銀行改革もなかなか進まない。将来住みやすいのは中国なのであろうか??

2月16日(木)
(3)携帯と本
雲南最後の日がやって来た。F夫人が朝からフライト変更に奔走してくれていたので、部屋でジッと待っていた。11時頃になって連絡があったがやはり変更は難しいという。とんだ手間を掛けてしまった。申し訳ない。

F夫人がホテルに来てくれた。また案内を買って出てくれたのだ。本当に申し訳ないが助かる。Fさんから借りていた携帯電話を返したいが、必要性が高いので自分の分を買うことにする。電気街のような場所へ連れて行ってくれた。店内には携帯の種類も豊富でノキア、エリクソン、ソニー、NEC、サムソンなど外国勢と国内勢が競い合っており、どれを選べばよいか分からない。

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しかし殆ど機能はいらないので、借りているものと同じ種類を探す。何と1年前980元だったというこの機種は現在480元。もうすぐこの機種の製造が中止となり、部品もなくなるものが出るということで値段が大幅に下がったそうだ。キャンペーンガールもにっこり。

続いて地元デパートに入っている本屋に行く。こちらは昔と変わらない本の並び。変わったのは出入り口に盗難防止の機会が配置されていることぐらい。国有デパートの将来は暗い。携帯屋と本屋。これは新旧の明暗を上手く現している。

流石にプーアール茶の本は多い。どれを選んでよいか分からず、先ずは茶馬古道やプーアール茶の産地について解説された本を選ぶ。あまり沢山買っても持って帰れない。日本では手に入らないものばかりだが。

デパートの横に茶餐庁があり、昼食を取る。香港では安くて手軽なファーストフード的な店であるが、昆明では流行のレストランである。店内もきれいで服務員もきちんとしている。サービス重視。値段はチャーハンやお粥が10元程度。ここの物価水準からすれば安いとはいえない。味はなかなか良い。

 

昼食後、腹ごなしに漢方薬市場に行く。タクシーでそこそこ走ったが、どの辺りであったろうか??人影が殆ど無い昼下がりの卸市場、店頭には冬草夏虫という虫の幼虫を乾燥させたような不気味なものもある。タツノオトシゴの干した物もある。勿論薬草なども豊富に取り揃えられており、その1つ1つに効能などが書き添えられている。昆明の人々は子供の頃からお婆さんやお母さんから漢方の効能を教わり、親しんでいる。そのまま持ち帰り、自分で煎じ調合して飲むらしい。

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(4)Fさん宅
先日昆明の茶葉卸市場を訪ねたが、北側にもう1つあると聞いていたので午後はそこへ行こうという。しかし私は我侭にもFさんの自宅を訪問したかった。何故なら彼はお茶を扱っている。彼のお茶を飲んでみたかったのだ。

彼らの自宅は昆明の北東部、なかなか立派なマンションであった。仕事があったFさんは自宅に戻ってきて待っていてくれた。部屋はいくつあるのか、相当広い家である。F夫人の両親も待っていてくれ、自慢の鉢植えなどを見せてもらい、非常に温かく迎えられた。F夫妻の長女と長男はピアノを弾いて見せてくれた。

いよいよお茶を見せてもらう。そこへ先日お会いしたFKさんもやって来た。わざわざ呼んでくれたのだろうか。Fさんの長男も加わり、4人で席に着き、茶を見始める。Fさんは現在店舗を持たずにインターネットでプーアール茶を販売している。中国中から注文が来る。代金回収にも問題がない。そうなのか、今は中国もそんなに進んだのか?感慨深い。

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ネット販売であるから、物凄い高級茶を扱うより普通の値段で質の高い物を選んでいる。孟海茶廠の沱茶、2003年・2004年版は確かに若干若いがリーズナブルな値段でかび臭くないプーアール茶を楽しめる。

1998年物の磚茶、こちらは竹の皮に包まれた一品。かなりマイルド。これまで北京や香港で20年物などと言われて飲んでいたお茶より柔らかい。透明な器に入れるとかなり濃い茶水、しかし何となく透けて見える。水面には薄く白い物が掛る。これは良いお茶だと思う。Fさんも偶然手に入れたようで、在庫も少ない。勿論二度と手には入らないだろう。

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孟海茶廠の工場長をしていた皺良炳さんが作ったお茶もある。FKさんは彼を良く知っているようで、彼のお茶を褒めていた。お茶作りの考え方が素晴らしいと言う。プーアール茶とはビンテージ物が素晴らしいのではなく、実はここ20年に製造された物がよいのである。

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ワイワイやりながら、次々にお茶を飲んで行った。気が付くと5時近い。もう卸市場に行く必要も無い。フライトは変更できなかった為、9時のままでまだ時間がある。Fさんも色々なお茶を紹介してくれる。FKさんも冴えた解説を繰り広げる。

(5)夕食
F夫人がやってきて、家族と食事を一緒にしようという。ご両親が気を遣ってくれているのが分かる。息子の知り合いが日本から来たのだから、何かしてあげようという気持ちが出ている。ご厚意に甘えることにする。

Fさんはバイクで、ご両親、F夫人、長女長男と私はFKさんのバンで移動する。場所は近所のレストランで簡単にするとのことであったが、到着したレストランは非常に立派であった。常に予約でいっぱいのお店で辛うじて1つ残った個室を取ったと言う。行って見るとまだ5時半だというのに、かなりのお客がいる。今日は平日だよなと思いながら、中国は何故かいつでも人が飯を食べている不思議さを思い出す。

食事はやはりスープから始まる。これが相変わらず絶品。何故どこで食べても美味しいのだろうか??食べ慣れてきた山菜の炒め物、地鶏と思われる鶏肉、子供達が大好きな餅のような物。1つ1つ噛み締めて食べる。

お父さんとは日本のことについて話す。息子を遥か彼方の日本に留学させた時の気持ちはどんなだったのだろうか??山西省出身というお父さんには子供の頃、若い頃、日本と何か関係があったのだろうか??

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お父さんは雲南省在住30年というが、いまだに基本的に北京語を話す。昆明語は聞いて分かるが話さない。私にとっては有り難い??ことではあるが、どんな事情があるのだろうか??短時間では知り得ないことが多い。いつか又再訪し、今度は色々と訪ねてみたい。

またまた大量にご馳走になってしまった。今回は本当に申し訳ないほどにお世話になってしまった。日本人にはここまでは出来ないだろう。しかし彼らには東京に来てもらいたい。どんな持て成しをするかはその時考えるしかないが。そしてQさん一族には実はまだまだお世話になるのである。それは上海で・・・??

いよいよお別れである。家の前でご両親と別れ、FKさんの運転でホテルに送ってもらう。そこで呆気なくお別れする。何となくだが、又必ず会う様な気がするのである。ホテルに預けた荷物を取ってタクシーで空港へ。もう慣れた道である。

空港で時計を見ると7時20分過ぎ。私のフライトは9時15分だが、東方航空にはもう一本前の7時50分発がある。ダメもとで聞いてみると既にチェックインは終わっているので荷物は預けられないが、席はあるという。昨夜からあんなに苦労したのに変更できなかったフライトが何の問題も無く、変えられた。不思議である。時間が無い。急いでイミグレを潜り、搭乗口へ。搭乗は始まっており、感慨に浸る暇も無く呆気なく離陸してしまった。

《雲南お茶散歩 2006》景洪、昆明(4)

5.景洪
(1) 景洪の夜3
ホテルまで送って貰い、黄さん達と別れた。最後まで若い女性の正体は分からなかった?黄さんには感謝してもし尽くせない。今後何か機会があればまた会いたいと思う。これも茶縁である。部屋で休息した後、昨日同様ネットカフェに行く。今日も満員である。再度中国の将来について考える。

 

それから歩いて北に向かう。最初の夜にミニバスで空港から市内に入った時、若い女性達が降りた『曼听路』に行って見る。タイレストランが多いと聞いたが、確かにいくつかレストランがあった。道の両側、2階建ての2階には如何にも西洋人が好みそうなアジア趣味である。どうも私には合わない。

横道に入るとそこには19年前の雰囲気の村があった。そう、ここが私の知っている景洪である。それでも建物は立派になっている。人々の着ている物も良くなっている。カメラを向けると皆あまりいい顔をしない。19年前の村はもうどこにもない。

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更に北に歩いて行く。目的地はズバリ19年前に留学生として泊った版納賓館。勿論場所の記憶は全くない。この賓館は当時最も良いホテルであったはずだ。庭がとても広くて、部屋はコテージ風になっていたはずだ。(しかし泊った部屋の窓ガラスは一部欠けていた。)

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そんなことを考えながら、夕暮れの道を歩いて行くと突然版納賓館の門が見える。確かに版納賓館の名前がある。門を潜ると木々は生い茂る庭は健在であった。有ったと思った瞬間、門番に呼び止められる。聞くと驚くべきことにホテルの建物は1-2週間前に全て取り壊した後だった。何と言うことだ。残念。19年ぶりの再会がたった1-2週間遅れた為に叶わなかった。日頃思い出すこともなく、今回もまさか来るとは思っていなかったこの地であったが、無性に残念であった。尚この場所には景洪初の五つ星ホテルが建設されると言う。地元とすればその方が良いのだろう。

辺りは暗くなってしまった。ホテルに戻る。ホテルの裏、ネットカフェの並びに四川料理の店があるのを思い出す。何故か四川が食べたくなる。夜も8時を過ぎるとお客も少ない。路上に出したテーブル席に着く。回鍋肉とご飯を頼む。漬物が出て来た。大根に梅を漬けた物だと思われる。これを食べながら回鍋肉を食べる。驚いたことに思い出したことがある。大学生の時にバイトで家庭教師をやっていた。仕事の前に田端の中華料理屋で夕飯を良く食べていた。その店で出してくれていた梅干と回鍋肉、この味と全く同じだったのである。何でこんな所に来てこんな事を思い出すのであろうか??

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ホテルに戻って脚マッサージに行く。久しぶりだ。しかし健康センターと書かれた建物に入ったが、誰もいない。ようやくマネージャーが出てきたので聞くと1時間68元だという。どう見ても高いが面倒なので座る。

暫くすると30台と思われる女性がやってきて足を揉み始める。聞けば黒龍江省牡丹江の出身だという。何でこんな遠くまで来てしまったのだろうか?知り合いが来ていたので、その誘いに乗ったが、流石に遠すぎて後悔している様子。何しろ帰省するのに費用が掛り過ぎ、稼いでも何もならないという。この旧正月は帰省できずに近場のシンセンに遊びに行ったが結局散財してしまい、状況は更に悪くなったという。一体どうなっているんだ??

部屋に戻ってテレビを見る。トリノオリンピックのスピードスケート女子500mを生中継していた。中国選手が活躍していた。30歳台になった王選手には力が入った。日本の30歳台岡崎朋美は非常に安定していたが、安定しているだけではメダルには届かない。前日加藤も負けていた。日本はどうなるのだろうか??寝たのは午前2時になっていた。

2月15日(水)
(2)景洪観光(午前)
景洪3日目。今日の夜昆明に戻るまで時間があるので、市内を散策する。先ずはホテル脇の宝石店。この辺りにはミャンマーヒスイなどを売る店が多い。その一つに入ると店に居たのはミャンマー人。片言の北京語を使っている。ミャンマー好きのこちらは色々とお話がしたくて話しかけるが、先方は商売で来ている。つれない返事を繰り返し、何とか宝石を買わせようとする。何となくつまらない。

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前の皇冠酒店の所に看板が出ている。『孟海茶廠の茶館』。ホテルの庭に茶館があるようだが、朝はやっていない。庭には南国風の木々の中、あずまやが作られており、オープンスペースでお茶が楽しめる。こんな場所で茶会でも開けばいいだろうなあ、爽やかな風が吹き抜ける中、熱いプーアール茶はどんな味がするのだろうか??そこに座って少し休む。孟海茶廠は現在雲南省最大の生産量を誇っているブランドである。昨日孟海を訪れた際に行って見たかったが、行っても入れてもらえないと聞いていたので、断念していた。

 

地図を見ると市内北側に白象湖と言う優美な名前の湖がある。ちょっと興味があったので散歩がてら行く。狭い町なので歩くと直ぐに着いてしまう。しかしその湖は名前とはイメージが違う。恐らく縦長の形が象の鼻に似ているあたりから名前が付いたような気がするが、何だか釣堀のような雰囲気。もう一つあった孔雀湖も孔雀が羽を広げた姿を名付けたようだが、しっくり来ない。

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市内北西には熱帯植物園があった。周りには立派な大木があり、レストランの建物の2階のオープンスペースをちょっと囲って南国風に簾を下ろしたりして風情がある。しかし入り口まで来ると観光客がバスで乗り付けてきており、入るのを止めた。植物園は易武の帰りに十分見たので。

今度は東へ。瀾滄江に架かる大橋の形が良かったので行って見た。西双版納大橋と言う名前である。数年前に造られたこの橋の上はハープのような形をしたモニュメントが付いている。橋の上から川を見るとなかなか広い。川辺で遊ぶ観光客も見られる。中国人の中には海を見たことが無いとか、大河に接したことがない人々は結構いる。

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橋の向こうには畑が広がっているのでそこでのんびりしようと思った。しかし車で通った昨日は直ぐだった畑は歩くとかなりの距離がある。風も非常に強くなってきたので引き上げる。

ホテルに戻ると横に洒落た喫茶店がある。暇なので入って見る。建物の手前にパラソルがある。テーブルも出ており、外でお茶が飲める。座ってメニューを貰う。ボーイも制服を着込んでめかしている。テーブルの上にお勧めが出ている。10元という字が見える。これは何かと聞くと、ランチのビュッフェが10元だというではないか??コーヒー1杯10元でも安いと思うのに、何と中華料理8品からおかずを選び、スープとご飯、デザート、ワイン1杯まで付く。信じられずにこれを食べてみることに。

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味もまずまず良く、これでどうやって採算が合うのか??どうしても分からない。しかも雰囲気はこの辺りとしては最高によい。昨日の夜の回鍋肉とご飯が10元であったことを考えると何とも不思議。兎に角中国の田舎に暮らすととんでもない価格に時々出会う。嬉しい悲鳴である。

(3)景洪観光(午後)
ホテルは半日延長してある。半額を取られる。交渉したが結構厳しい。と言っても85元である。いつもの感覚なら大した金額ではないが、10元のビュッフェを食べた後では何でも高く感じる。折角部屋を確保したのだからと寝る。外は大分暑くなっている。

しかし貧乏性なのか、1時間も寝ると起き上がってしまい、結局暑い中を外へ出る。今度は南側へ。タイ園飯店という景洪で一番良いホテルがあると言う。どんな所であろうか?午後の景洪は暑い。日差しを避けながら何とかたどり着く。ホテルの脇に池がある。池の畔に茶館がある。池に面した小屋風の場所でお茶が楽しめる。ここはホテルとは別で入り口は離れていたので外から眺めた。本当はそこでお茶を飲みたかったのだが、かなり疲れていた。

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ホテル自体はそこそこ立派。部屋代は500元を超えているらしい。そこまで払うなら金版納の170元の方がコストパフォーマンスは良い。きっと新婚旅行などで使われるのだろう。プールもテニスコートも完備していたが、誰一人使っていなかった。

午後4時過ぎでもまだまだ日は高い。ここは北京時間とは相当離れている。飛行機は5時40分。そろそろここを去る時間となった。何となく寂しい。何があったわけでもないが、まだ遣り残したことがある気がする??フロントでタクシーの料金を聞くと5元だという。何と安い??

 

タクシーを捕まえてもらい空港へ。日が少し西に傾く。畑が長閑。あっと言う間に到着してしまう。5元を払おうとすると『とんでもない』と言う顔をする。外に警備員がいたのを見て『あいつ等に聞いてみろ。20元というはずだ。』と言うので聞きいく。聞くと『運転手はいくらと言っているのか?』と逆に聞かれる。『15-20元ぐらい』とさばを読むと『そんなところだ』との答。運転手に『15元らしい』と報告すると『そうか』と言って呆気なく受け取る。田舎は長閑と言うか、何と言うか??

罰が当たったのか?チェックインした後に出発のディレイが伝えられる。ターミナルの外に座れる場所があるので、そこに座って日光浴をする。周りでは団体さんがトランプに励んでいる。本当は畑の真ん中で寝転びたいが(突然飛び立たれては怖い)。少数民族の女性達がお土産用にフルーツなど売っている。

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何故か今度の航空会社は上海航空。雲南の外れで上海航空に乗るのも不思議な気分だが、人気観光地なので当然あり得る。40分遅れて搭乗すると乗務員は美人が多いし、サービスも丁寧で良い。19年前は上海人(漢民族)の愛想の無さとタイ族の笑顔を比べて、ここを桃源郷としていたが、今は上海が理想郷なのかもしれない??

《雲南お茶散歩 2006》易武・孟海(3)

2月14日(火)
4.孟海
(1)孟海へ

翌朝はゆっくり起きる。流石に昨日は疲れていた。8時半過ぎに朝食を食べに行くと既にお客の姿は殆どなく、ビュッフェの料理も残り少ない。やはり南国の観光地は朝が早い。米線を貰って自分で味付けしてみたが、あまり上手く行かない。

9時半にホテルを出て昨日最初に行った翻胎廠のバスターミナルへ。昨日バスがここから出るのを確認してあったので、余裕を持って行くことが出来た。何と言っても知っているか知らないかは決定的な差である。特に田舎では。

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切符も簡単に買え、直ぐにバスに乗り込む。所謂ミニバスである。乗ってくる人々は少数民族が殆ど。タイ族などの他、色の黒い人達がいた。何族であろうか??バスはオンボロで郊外の広くて真っ直ぐの道に出てもスピードはイマイチ。

しかし景色は素晴らしい。天気が快晴であることもあるが、畑や川が実にクリアーに見える。まるでチベットにいるようだ。道も最近整えられたとのことで新しい。昔は孟海まで2-3時間掛かっていたそうだが、今はこのオンボロバスでも1時間掛からない。

段々畑が見え、そして山の斜面に茶畑が見えてきたなと思ったら、孟海のバスターミナルに到着してしまった。昨日の苦労を思えば嘘のようだ。ターミナルを新しくなったようで、立派な建物である。周りでは少数民族が物を売っている。そして三輪タクシーが客待ちをしていた。

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(2)鴻福茶廠
Fさんから茶廠を紹介されていた。しかしそれがどこにあるのか??さっぱり分からない。孟海の町がどこにあるのかも不明である。このバスターミナルは郊外に作られているものであろう。ようやくタクシーを見付ける。女性の運転手だ。茶廠の名前を告げても、知らない様子だ。これは困った。彼女は他の人々に聞いてくれている。

どうやら場所が分かったようだ。そして料金交渉だ。ここから8km離れているという。ガソリン代も上がっており、以前より料金は高くなっていると言って来る。聞いてみると30元と言うことだったので、兎に角行って見る。

今来た新しい道を景洪方面に戻る。10分ぐらい行くと道路脇に温泉があった。こんな所に温泉??確かに雲南省も火山帯である。偶には大地震もある。西の外れ、ミャンマーに近いところでは最近も地震被害があった。文化大革命中には数万人が亡くなった地震があったが、情報統制で一切公表されず、何と20年以上経ってその事実が世界に伝わるといったこともあった。

運転手に聞くと、個室に入ってお湯に浸かるらしい。外から見るとプールのようなものがあり、水着でも入れるのかもしれない。何となく台湾的。入って見たい衝動に駆られたが、今は目的地に着くことが大切と諦める。

温泉を抜けると昔ながらの並木道がある。こういった並木はミャンマーにもあり、私の最も好きな場所である。静かで落ち着きがある。道の向こうは畑が広がる。トラクターが行く。ちょっと前は馬だったはずだが??

並木道をいくらも行かないうちに呆気なく鴻福茶廠に着いた。運転手に待っていてもらい、中へ入る。もし目指す人が居なければ帰りに困るからである。何しろFさんが連絡してくれているとはいえ、Fさんの知り合いの紹介なのである。どうなっているか分からない。

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茶廠に入ると左手に人が住む小さな家があった。男性が居たので聞いてみると直ぐに取り次いでくれた。右側の建物が事務所であり、中で数人が茶を飲んでいたが、皆出て行ってしまい、工場長の黄さんだけが残る。

 

 黄さんはちょっと戸惑ったように落ち着きなく、部屋の中を歩き回り、お茶を探している。外国人などは恐らく来たことがないのであろう。取り敢えずここのお茶を飲ませてもらう。この茶廠は僅か2年前に出来たそうで、作っているプーアール茶も当然新しい。生茶を入れてもらうと新鮮な感じである。熟茶も作っているが、これだけ新しいと生茶がよい。生茶と熟茶の餅茶をサンプルとして頂く。お世話になった上に申し訳ないが、東京でお茶会に出そうと思ってもらってしまう。

部屋とはいっても開け放たれている。非常に気持ちが良い風が微かに吹く。以前広東省潮州の鳳凰山に登った時に立ち寄った家がこんな感じだったと思い出す。爽やか、落ち着ける、暖かい、などお茶を飲む条件が揃っている。やあ、ここに住みたい。伸びをしながら考える。

黄さんには日常のことなので、何で突然やって来た日本人がこんなにリラックスしているのか理解出来なかったに違いない。工場を案内しようと外へ出る。工場は結構大きくて、十数人の人が働いていた。作り方は昨日の易武と変わらない。設備は若干現代的だが、基本的には全て手作業。

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今年は新工場が隣に完成し、生産量も大幅に増えるらしい。丁度建設中の敷地を歩く黄さんは自信に溢れている。彼は聞いてみると何と福建省泉州市出身であった。お姉さんが昆明在住で彼女が投資した工場である。彼も役員として名を連ねている。奥さんと子供は泉州に置いてきており、単身赴任だという。プーアール茶はそんなに儲かる事業なのだろうか??彼はこの環境抜群の田舎が結構気に入っているというが、どうなのだろう??寂しくないのだろうか??住まいも工場の敷地内だという。

お茶の仕分けなどは少数民族の女性がお喋りしながらやっている。黄さんがどこかへ行ってしまった後、工場でお茶作りを眺めていたら、従業員から出て行けといわれる。この工場の門には確かに参観謝絶の表示があった。お茶作りも秘密が多いらしい。誤解は解けたが、見学を止めた。

 

(3)昼食
黄さんはどうやらお昼の指示をしていたらしい。工場の前のレストランに連れて行ってくれる。レストランといってもタイ族の民家といった雰囲気。入ると奥に部屋がある。低い竹のテーブルが目に入る。テーブルは2段になっており、端にはコップが置ける。

窓から外を見ると目の前には茶畑がある。この家の人が飲む分を作っている。池があり、景色が良い。長閑で緊張感が全くなくなる気だるさがある。遠くには橋が見える。あの橋の向こうに少数民族が住む村があるという。

部屋の中にはエイズ撲滅のポスターが張ってある。衛生教育などはなかなか浸透しないのであろう。普通のテーブルもあり、茶廠の従業員がスープとご飯を持ってくる。持込である。おかずだけ注文している。スープには鳥の頭が浮かんでいる。これを美味しそうと思えなければここではやっていけない。幸い??私は美味しいと思えるのである。実際このスープは絶品であった。何杯もお替りした。

おかずはサヤエンドウの炒め物、鶏肉の唐辛子炒めであった。全て実に美味しい。ご飯もお替りを重ねる。どう見ても食べ過ぎである。しかしこの幸福感は日本にはない。食べられるだけ食べる。

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このレストランの横には人民解放軍の学校がある。時々訓練をする声が聞こえる。この声がなければ本当に最高だったのだが。反対側にはタイ族の伝統的な家屋が見える。瓦屋根である。

(4)基諾へ
昼食後また事務所に戻る。本当は昼寝でもするのだろうが、お客が居るので申し訳ない。実はこっちがここで昼寝をさせてもらいたい。それ程気持ちが良いのである。相変わらず空は真っ青。

黄さんに昨日の易武の顛末を話すと突然『茶の老木を見たいか?』と聞かれ、何気なく見たいと言うと今から行こうと用意を始める。どこへ行くのか分からない。そういえばこの直ぐ近くに南糯山という山に樹齢800年といわれている茶樹があったが、最近枯れたと聞いていた。かなり興味が沸いてきた。

この南糯山、三国時代の225年に諸葛孔明が南征した際、この山に分け入り、茶の木を植えたと言い伝えられている。この山に住む少数民族、基諾族は諸葛孔明を『茶祖』として今も崇めていると言う。また眼病を罹った兵士に茶を煎じて飲ませた所、直ったという言い伝えもあるという。

そういう意味では孟海、いや南糯山は茶の聖地とも言うべき場所である。そもそも普?茶は西双版納一帯で取れた茶を普?という場所に集めたことから名が付いた。(普?では茶は取れないという)茶としては3000年の歴史があると言われているがどうであろうか?? 普?茶は明代以降栄え、1729年には皇帝に献上する献茶となる。1908年匪賊の横行で茶の輸送が難しくなるまで続く。

茶廠の車ホンダアコードに乗り出発。運転手付き。黄さんも経営者である。こんな快適な気候で、会社を経営し、静に暮らす。理想的に見えるがまだ30代前半の黄さんには少し退屈なのではないだろうか??勿論今はプーアール茶作りが面白いからそんなことも考えないのかもしれない。

車は景洪に向かって走り出す。確か南糯山は孟海と景洪の間にあるから、やはりと頷く。実は孟海より西に巴達山という山があり、そこにも老木がある。そちらに行くと下手すれば今日は戻れない。巴達山にも興味はあったが、夜の寒さに耐えられる服装ではなかったので安心する。しかし私は彼に目的地を聞こうとはしない。それが面白いのである。

しかしもう直ぐ景洪と言う所まで来ると流石に首を傾げる。私を送ってくれているだけなのだろうか??そしてとうとう景洪の町に入る。金版納飯店の前を通り過ぎる。おかしい??すると携帯で何やら連絡を取り合っている。何と若い女性が乗り込んできた。彼女は誰なのか??誰も紹介してくれない。そのまま出発。

車は進路を北に取る。孟海方面ではない。どこへ行くのか??高速道路をかなり飛ばしていく。車の中ではテレサテンのDVDがかかっている。懐かしい曲が何曲も流れる。景洪から乗ってきた若い女性は何とテレサテンを知らなかった。黄さんが説明する。黄さんは子供の頃福建省でよくテレサテンの歌を聞いていたという。私も19年前に福州から泉州までバスに乗った時に車内で彼女の歌を聞いた記憶がある。沿岸地区は進んでいたと思う。

そのDVDは日本製で日本公演が収められていた。日本語も出てくるので、話が日本に及ぶ。黄さんは日本について、かなり知識がある。山口百恵やおしんは当然であるが、相撲の朝青龍も知っている。高倉健が雲南で映画を撮ったことも話題になる。雲南の人々にとって日本は遥か遠い国であるが、福建の人間にとっては比較的近い国であることが分かる。

小1時間で基諾村に着く。基諾村はその名の通り基諾族が住む。基諾族は中国で公認されている55の少数民族で最後に公認された民族である。村役場の前に基諾族の男性が2人待っていた。そしてここで車を乗り換えた。普通車では山には入れないという。どんな山なのか??

最初は段々畑が広がっていた。それから坂がきつくなりだした。すれ違うダンプとの間隔がどんどん狭くなる。カーブから下を見ると茶畑が見えることもある。40分ほど過ぎた。相当上にあがった所で横道に入る。ここからは本当に険しかった。車は1台しか通れない。両脇は大木が遮る。中には樹齢数百年と思われる老木もある。枝が大きく張り出しており、上に小屋を作って寝られると思われるほど。

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20分ぐらい行くとちょっと開けた場所に出る。そこに茶畑があった。この畑は人の手が入っている。聞くと黄さん達が買い取ったものだという。車の運転手ともう一人は黄さん達が雇った使用人であるという。こんな場所で大丈夫なのだろうか??

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更に10分ほど奥に進む。すると突然開けた土地が見える。こんな山の中に何故??池もある。小屋があり、人が住んでいる。広場の真ん中には家を建てるための建材が大量に置かれている。黄さんは『ここに茶工場を建てて製茶するんだ』と事も無げに言う。しかしこんな山の中で生活することは出来るのか?小屋を見るとキャベツなどの野菜が置かれている。どこから取ってくるのか魚が干してある。竈が出来ていて調理も出来るようだ。原始的ではあろうが、この辺りの人々にとってはそれ程大変ではないのかもしれない。便利に慣れた我々には全く対応出来ないのだが。

基諾族の一人が手招きする。茶の老木を見に行こうという。彼は鎌を持つとさっさと林に分け入る。急いで後を追う。鎌で草をかき切りながら進む。道は僅かに跡がある。下りであるので、あまり急ぐと滑り落ちそうである。枝が大きく出ている木もあり、危険が迫る。

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5分ぐらい行くと、いきなり『これが茶の木だ』と言う。そんなに太くはない幹の木が数本見える。上を見ると確かに葉っぱは茶の葉である。ひょろひょろと伸びている。見上げると青い空。他に高い背丈の木が何本もその空を覆っている。本当に山深い場所にひっそりと立っている茶の木であった。写真も何枚も撮ったが、上手く撮れているものは殆どなかった。光の加減も難しいし、構図も撮り難い。こんな場合こそ、写真の上手い人であったらなあと思う。

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少し居て戻る。午後の日差しが徐々に戻ってくる。光が恋しい。開けた場所に戻ると何と反対側にも行けと言う。言われるままに附いて行くとまた急な下り。その先の山の斜面には茶畑が見えた。この茶葉はどうやって摘むのだろうか??しかし基諾族の人々には難しくないのかもしれない。それで黄さん達も投資するのだろうから。いや、しかしプーアール茶だろう??そこまでしていいことがあるのだろうか??黄さんに聞いても何となく曖昧。うーん。お茶は本当に不思議である。

もと来た道を帰る。途中ですれ違った車の運転手が何か言っていた。すると直ぐ先のちょっと広い所で車が停まる。ここで対向車を待つと言う。この道は黄さん達がある程度整備した言わば自分の道である。無理はしない。しかし5分待っても誰もやって来ない??

ようやく10分してゆっくりと農作業車がやって来た。何とも長閑な状況である。その間、皆タバコを吸い、伸びをし、取り留めの無い事を話す。日本なら皆イライラして大変であろう。どうなっているんだ、と理由を問い質すだろう。ここにはそんなものはない。ただ待つのである。対向車の運転手が何か言っている。こちら側も笑っている。もう1台来るらしい。東京の線路の遮断機のように動けない。でもイライラはしない。

帰りは途中の休息??を除けば速かった。慣れたせいもあるが、下りは速いのだろうか??しかしこの旅は凄かった。予想を全くしていなかっただけに衝撃はかなりのものがあった。黄さんには大いに感謝しなければならない。ここに来ることは普通出来ない。旅の醍醐味を味わった。

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《雲南お茶散歩 2006》易武・孟海(2)

(4)茶の老木を求めて

羅さんが責任者に何か聞いている。そして突然外に出る。責任者がバイクを指差す。全てが現地のコトバで話されている為、全く分からない。羅さんはバイクに跨る。そして後ろに乗れと言う。何とこのバイクに乗って茶の老木を探しに行く。信じられない。

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茶の老木はここから山の中にかなり入ったところにあるらしい。そこまで車では入れない。歩くとすごい時間が掛かる。そこでバイクである。私はこういう乗り物が苦手である。スピード恐怖症である。しかし意を決して後ろに乗る。茶木の為である。ここまで来るのにどれだけ苦労したことだろう。多少の障害は乗り越えねばなるまい。

しかしこのバイク旅行は予想以上に厳しいものであった。何しろ山道はアップダウンが凄い。ちゃんと掴んでいないと振り落とされそうである。まるでロデオ??のようだ。おまけにこの山道、何故か石が敷き詰められている。しかも所々石が切り立っていてかなり危ない。その中を羅さんは懸命にバイクを転がしていく。

 

初めての道でしかもバイクに慣れていないという羅さんの後ろで生きた心地がしなかった。石の合間を上手くすり抜けて行くものの、それなりにスピードを出すと怖い。もし横転すれば、狭い道のこと、下に落ちしてしまう。何度か目を瞑ったが、幸い不幸は起きなかった。

20分ぐらいそんな道を行くと村があった。羅さんはこの先に茶畑があるか聞く為に家に入っていった。私はようやくバイクから解放されて、ホッとしながら周りを見回す。家畜の黒豚がいた。先日今回の旅行をアレンジてくれたQさんに『雲南の豚と人々』(伊藤真理著 JTB)というユニークな本を紹介されて読んでいた。読んだというより写真集なので眺めていた。日本人女性が雲南に何度も通い、豚を取り続けたというのが面白い。その写真で見たのと同じような豚が目の前にいる。

鶏も元気に走り回っている。昼前の暖かい日差しが降り注ぎ、物音も殆どしない静けさの中、私は何となく幸せを噛み締めていた。何故かは分からなかったが、以前もミャンマーの山中で同じ気持ちになったことがある。やはり私は昔こんな場所で生活したことがあるのだろうか??

茶木はさらに先にあるようだ。再びバイクに乗る。すると村から夫婦に子ども2人を乗せた4人乗りバイクに追い越される。向こうは皆笑っている。何と言うことだ。こんな危険な場所で平地と変わらない運転をしている。しかも1家4人が1台に乗っているのである。目を疑ったがあっと言う間に行ってしまった。山の生活は慣れであろうか??

10分ぐらい行くと木こりが木を切っていた。さすがに羅さんも疲れたらしく、バイクを停めて木こりと話している。確かにこの下には野生と思われる茶木がある。勿論古くは無いが。古い茶木は既に殆ど枯れ果てているらしい。証拠にいくつか木の切り株が見つかる。

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暫く茶の木や風景を写真に収める。空気がよい。深呼吸が気持ちよい。ここで昼寝でもしていればさぞや気分がよいだろうと思ったその時、携帯電話が鳴る。F夫人が心配してくれていた。彼女に朝電話した時は電源がオフであったが、その後電話をくれていた。既にタクシーで移動中というと羅さんと話をして色々と指示してくれていた。今回は昼飯をきれいなレストランで食べさせるように羅さんに言ってくれていた。

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同じ道を引き返す。勿論時間は大幅に短縮された。やはり山の生活は慣れである。途中でお茶を作っている家を見かけたが、そのまま通り過ぎた。きっと伝統的な茶作りをしていたのだろうが、羅さんが疲れていたこともあり、戻ることにした。残念ながら老木を見るという目的は達せられなかったが、いい経験をした。

(5)昼食
茶工場に戻り、バイクを返す。丁度昼時である。しかし彼らはまだ仕事中ということで羅さんと2人、レストランの場所を聞いて行く。しかし易武の町は本当に小さい。道の両側に200mぐらい建物があるだけ。あとは山である。全部で数十の建物である。寂しい。

 

易武は明朝時代より茶の生産が始まり、清朝時代初期、中期には生産量が最大となる。当時は付近一帯が茶畑。茶を口に入れると甘みが出ると遠くはチベットの商人が易武まで足を運んで買っていったという。茶馬古道のルートにもなり、茶を扱う豪商が軒を連ねて栄えたと言われている。

しかし今日その面影は全くない。どう見てもそんな雰囲気は無い。殆ど人も通っていない。教えられたレストランがどこかも分からない。すると茶工場の人がバイクで教えに来てくれた。

レストランといっても建物の1階が開いており、中にテーブルが3つあるだけ。勿論お客はいない。この家の子どもが遊んでいた。お客が来るとウエートレス??に早変わり。テーブルを片付ける。羅さんは奥に入って注文している。何があるか食材を確認しているようだ。

戻ってくると突然大きな筒を引き寄せる。タバコに火をつけて、そのタバコを筒の下の方にある受け口に入れる。顔を筒の上に近づけ思いっきり吸い込んでいる。煙が出てくる。これが雲南の水タバコである。はじめて見た。何故か感動した。昔の習慣だと思っていたことを目の前でごく普通にやってくれる。

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料理が出て来た。先ずはスープ。川で取れた小魚が浮いている。飲むと酸っぱい。山菜で酸っぱい味を出すものが入っている。次に春菊のような山菜の炒め物。そして豚のレバーとねぎの炒め物。これは絶品であった。放し飼いの黒豚の新鮮な肝臓がこんなに美味しいとは。

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スープを飲むとそのお椀にご飯を注ぐ。これは台湾の茶農家でもやっている。私のようにスープを飲みながらご飯を食べたい人にはちょっと残念。しかし物凄い量を食べた気がする。雲南に来てから毎日食べ過ぎである。今日はご飯にありつけるか分からなかった。そういう状況であれば、本能的に食べる量が増えるのであろうか??しかしこれだけ食べて僅か35元である。田舎の生活がしてみたい??

(6)熱帯植物園
この町にいる必要は無くなった。しかし羅さんと一緒に来て本当によかった。もし彼がいなかったら、茶畑も茶工場も見ることは出来なかっただろう。それ程この辺りは寂しいところだ。何よりもバスで到着した瞬間、途方に暮れる自分が容易に想像できる。まさに運、いや縁である。

F夫人からまた電話があった。羅さんに色々と指示している。聞くとあと100元払って孟論にある熱帯植物園に行くようにとのこと。もうリモートコントロール状態である。しかしこんなアドバイスが想像以上に良かったりする。行ってみる。

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帰りは来た道を逆に行くだけ。来るときよりは大分早く感じられる。腹も一杯であり、眠たくなる。朝の緊張は全く無くなっている。一仕事終えた雰囲気である。非常に暖かい日差しが車の中に差し込む。

2時間ぐらいで孟論に到着。川沿いに入り口がある。車で中に入る。直ぐに切符売り場があり、60元を払う。結構高い。最近中国の観光名所はどこも入場料が高い。何となく釈然としない。

切符売り場からまた車に乗る。どこまで行くのかと思うほど、走ってやっと停まる。羅さんが言う。ここで待っているから自分で歩いてくれば??確かに広い。彼には昼寝の習慣があるので、ここで休息を取ったほうが良いようだ。

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歩き始めると南国の椰子の木が沢山並んでいる。そして博物館がある。その近くに大きな木が見える。近寄って見ると何と竹が凄い数束になっている。これが遠くから見ると大木に見える。面白い。暖かい午後の日を浴びながら横に芝生に寝転がる。極楽、極楽。

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博物館には団体観光客が沢山いた。暑いので皆屋内にいるようだ。大木が絡み合った不思議なものが展示されている。『締殺現象』と書かれた説明書きを見るとかなり恐ろしい。但しこれは自然の現象であり、決して人を殺したりはしていない。

 

屋外に出ると池がある。まるでゴルフのアイランドグリーンのような場所があり、木々が元気に伸びている。本当にゴルフ場を思い起こさせる。『空中花園』と呼ばれている華やかな大木もある。枝が不思議にくね曲がり、庭に花が咲いているように見えるという意味らしい。空も青い。伸びをすると気持ちが良い。

木造家屋が見える。人が住んでいる。従業員の宿舎であろうか?子供達が遊んでいる。長閑な光景である。外に鶏がいる。豚もいる。その向こうには何と数羽の孔雀がいる。その孔雀が、何と何と、羽を広げたり、閉じたりしている。まるで練習しているようだ。何羽物が一度に羽を広げる姿は圧巻である。

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園内には雲南らしく、漢方薬に使われる材料になる木がいくつも見える。サボテンなども使い道があるのを見て驚く。中国人は机と椅子以外四足は何でも食べるといわれるが、きっとどんな木でも食べる、煎じて飲むのであろう。

出口の横には川が流れている。何とも自然である。橋が架かっている。写真を撮りたかったが、橋は軍事機密というのが「中国の掟」??であるから、止めておいた。その後川沿いに景洪に向かうと、途中で川の上に高速道路を通そうとしていた。高架の建設が行われている。羅さんによれば、昆明からラオスを経由してバンコックまでハイウエーを通すという。2000年頃計画を見た時は嘘だろうと思ったが、今の中国にはそれを実行する力がある。あっと言う間に出来るかもしれない。しかしどう見ても長い道のりであるが??

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この他この辺りには2つの計画がある。『西部大開発』の名の下に政府が主導する。アジア縦断鉄道はシンガポールを起点にタイを通り昆明まで。将来アジアのオリエント急行が通るのでは??メコン川―瀾滄江水路は中国、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの6カ国を通る。既に国際航路が造られている。

そんなことを考えながら、約2時間掛けて景洪に戻った。夕方の5時を回っていた。長旅が終わった。

(7)景洪の夜2

再び金版納飯店にチェックイン。しかしただチェックインしないのが私。当然のようにディスカウントを要求した。1泊200元であるが、結局3泊するわけだから、連泊割引を要請した。すると意外にも強気に割り引かないという。

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しかしここで引き下がる私ではない??実は羅さんからこのホテルの現地での値段を聞いていた。170元がターゲットであった。そのことを告げると相手のお姐さんは少し怯んだ。そして『実は改修した部屋で170元のところがあります』と言う。部屋を見に行くと多少狭いが小ぎれいである。2階の角部屋を押さえて満足する。兎に角言ってみるものである。

部屋で少し休んでから、外へ出た。インターネットでメールを確認したかったが、ホテルでは出来なかった。ホテルの裏にネットカフェがあるという。面白そうなので行って見た。私は中国でネットカフェなる所へ足を踏み入れたことが無かった。

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入ると凄い数のPCが並んでいた。殆どのPCで若者がネットゲームに熱中している。ヘッドホンを着けているせいもあり、誰も周りを気にしない。ひたすら画面と格闘している。私も席に着く。受付で貰ったカードを差込むと簡単にメールが見られた。但し日本語の対応には多少時間が掛かったが。

30分後に精算すると何と僅か1元であった。これは安い。この値段なら若者がずっとゲームをやれるわけである。PCは韓国製、ソフトは海賊盤といった安価なもので、これで結構儲かるのかもしれない。

横道に入ると果物を売る屋台がある。南国はバナナが美味い。バナナの屋台に近づくとおばあさんが『美味しいよー』と呼びかける。思わず買い込む。7本のバナナで2元。とても1本買うわけには行かない。その場で食べると熟れていて美味い。

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部屋に戻る時、プールサイドの売店でビールを買う。暑いので冷たい物が欲しい。ビンビールしかない。名前はズバリ瀾滄江。中国各地には地ビールがあり、各地各様の味を提供している。瀾滄江は南国らしく軽いビールで1本簡単に飲んでしまう。そして買ったバナナを3本食べると腹一杯でそのままベットに倒れ込み寝てしまう。

 

夜中にちょっと起き上がるとトリノオリンピックの中継をやっている。しかし中国である。日本選手などは出て来ない。フィギュアスケートもペアが流れていた。フリーの演技で男性が女性を投げた際に転倒し怪我をしたペアが何故か銀メダルを取っていた。中国団団長は興奮して『中国の精神が、魂が・・』と叫んでいた。