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杭州日本茶の原点を見に行く2012(2)静岡茶の原点径山茶

6月1日  3.  径山寺   径山寺へ辿り着く

翌朝、いよいよ今回のメインイベントである径山寺へ向かう。実は以前より龍井茶の茶荘の人々が美味しそうに飲んでいたお茶が気になっていた。聞くと径山茶だという。ある人が「これは龍井茶と同じくらい美味しいが値段は10分の1。これが知れると値段が高騰する恐れがあるので黙って飲んでいる」と言い、とても興味を持った次第。

そして昨年杭州で会ったある女性が「径山寺によくお参りに行くので、お寺のお坊さんとも懇意だ」と言っていたので思い出して連絡を取る。ところが杭州まで来てみると何と彼女は出張に出てしまい、アレンジできなくなっていた。唯一の手がかりは一日一本しかないというバス。

実はその女性の伯父さんが昨晩会った汪さん。事情を聞いた汪さんは何と私に同行して径山寺へ行ってくれるという。有難いやら申し訳ないやら。ところがところが・・、当日朝8時前にバスの出発場所に行って見たが、そんなバスはないと言われる。仕方なく余杭行きのバスに乗る。2元。1時間ほどバスに揺られ、終点で下車。ところがはやり・・。ここから径山寺行きのバスは午前9時と午後3時しかなく、既に午前の便は行ってしまっていた。

仕方なく汪さんと道路へ出て方策を練る。そこへタクシーがやって来たので、乗り込む。100元、40分は掛かった。途中までは平地を行くが、そこから山登りが始まる。かなり奥深い場所へ来た感じだ。帰りは1時20分発のバスがあるというので、タクシーを断り、寺を目指す。

タクシーを降りると目の前に「日本茶道の源」と書かれた看板が。おー、何だか分からないが、いい感じだ。周囲の雰囲気も落ち着いていて、日本的に見えてくる。「径山萬寿禅寺」と書かれた山門を潜る。汪さんが線香を買ってくれ、拝殿に捧げる。

径山寺と茶

径山禅寺は天目山東部凌雲峰一帯、東北峰の径山(770m)にある。南宋の五山の一。唐代の742年に法欽禅師により創建され、宋代には僧侶3,000人という隆盛を極めた。茶を仏に捧げる修行があり、茶樹は開祖法欽禅師が植えたとの説がある。径山茶宴と呼ばれる僧侶により開かれる大茶会があり、日本の茶道の源流であるとも言われている。また天目茶碗の天目はこの山から来ている。

日本茶の祖といわれる栄西も、この余杭に一時期滞在したらしい。この寺が臨済宗の原点と言われる所以であろう。南浦紹明は宋から帰朝の際、ここから茶の臺子(茶道で用いられる棚)などの茶道具一式を持ち帰り、中国の茶の方式を大徳寺に伝えたという。

1235年、静岡出身の聖一国師が入宋し、径山寺などで修行。修行の中に茶栽培、製茶などが含まれており、1241年の帰国後、静岡に茶の種を撒いたのが静岡茶の始まりと言われている。寺から茶園に向かう涼やかな道に記念碑も建てられている。この付近は実に日本的な雰囲気が立ち込めている。

径山茶は銘茶と言われてきたが、清代には径山寺が廃れて顧みられなくなったことから、茶も忘れ去られた。文革で荒れ果てた寺はその後再興され、茶も復刻されたというが、その名声は龍井茶には遥かに及ばない。地元に人に寄れば、「龍井茶が有名になったのも国家指導者が推奨した、所謂国策だった」と。径山茶は国の政策から外れているのだろう。

茶園は山深い斜面にあり、幽玄な景色が見られる。この地の茶摘みは年1回、当然茶のシーズンは終わっており、茶の木も何となく薄ぼんやりとしている。それがまた良い。茶葉を摘み、茶を作り、そして修行とする。とてもいい。

径山茶

今回は案内してくれる人もなく、汪さんと二人でゆっくりと寺を見て歩く。径山禅茶と書かれた建物があったので中を覗く。すると製茶設備一式が置かれており、ここで茶が作られることが分かる。これは究極の手作りと言えるのだろう。きっと美味しいに違いない。

どうしてもお茶を飲んでみたかったが、昨年は開いていた茶店が今年は閉店しているという。何とも残念。代わりに?昼食を寺の食堂で取る。これは昨日の寺と全く同じで喜ばしい。今日のメニューは完全な精進料理。豆腐とわかめのスープ、肉もどきの野菜などが並び、代金はお布施として10元程度を入れる仕組み。

おかずを盛るおばちゃんが、もっと食べな、と大盛りにしてくれ、ご飯もお替り自由だと告げる。この山深い寺でゆっくりとした気分で食事を取る、それは一番の美味しさだろう。だがお茶にはあり付けない。

バスの時間には少し間があったが、バスが来ているか見に行くと、おばさんが声を掛けて来た。お茶が飲めるという。付いて行くと近くの簡易宿泊所と食堂を兼ねた店。そこで出た径山茶は実に美味しく、飲み易かった。水のせいかもしれない。料金は1杯20元。この店にある径山茶で一番高い物でも、1斤、800元程度。龍井茶に比べると格安だ。日本茶の源流、と言われればそうかなと思うほど、飲み易い。

この店には毎年日本人が一人で数日泊りに来るという。新茶の時期に何をするでもなく、日がな茶を飲みながら過ごしているらしい。そんな生活、いいな。しかし無情にも帰りのバスが出る。バスを乗り替え杭州市内へ戻る。全てバスだと僅か16元の旅だった。




杭州日本茶の原点を見に行く2012(1)法浄禅寺に見るお茶と寺

【杭州お茶散歩】 2012年5月30日-6月5日

香港滞在を終えて、東京に戻る。東京で出稼ぎしていたのだが、たまたま2週間近く空きが出た。今度は北京で出稼ぎだ。偶には稼がないと。でもそれだけでは詰まらない。どうせなら茶畑へ行こう。どこへ行こうか、そうだ、昨年行った杭州、あの径山茶を見に行こう。

5月30日    1.   雨の杭州    ユースホステル

北京から飛行機で杭州に到着。空港からはリムジンバスで市内へ向かう。空は雨模様。途中からポツリポツリ。そして杭州駅付近で下車した時は土砂降りに。何とかタクシーを捕まえて、予約したユースホステルを告げる。しかし運転手はその場所が分からず、取り敢えずその近くのホテルへ。だがそのホテル、迎賓館のようで、宿泊者以外は中へ入れてくれない。そこの警備員に聞いてようやくユースホテルが分かる。

中国でユースホステルに泊まるのは初めて。今回は知り合いが予約してくれたのだが、190元の個室。入り口はなかなか雰囲気が良いが、建物の中は薄暗い。3泊分を前払い、そしてもう一泊したいと告げたが、満員だとか。結構混んでいる。杭州は観光地でホテルが高いので若者がユースホステルを使っているらしい。

部屋は普通のホテルより狭く、ベッドも床が薄い。窓の外は学校のようだ。もし明日の朝学校があればちょっと煩そうだ。

雨は止まない。5時半頃になり、腹が減る。ホテルの従業員は自分達で餃子を作り食べていた。私も何か食べたいというと、20元ほどで、ご飯と野菜炒めが出て来た。こんな食事が良い。さっさと食べて部屋に戻り、ネットをやる。今や若者が多いホテルではWifiが常識。

5月31日   2.   龍井の寺   中天竺へ

翌朝は雨も上がり、太陽はでないものの、涼しくてよい。今日は昨年出会った浙江大学のO先生に案内を願い、法浄禅寺を訪ねることになっていた。勿論どうやって行くのか分からないが、タクシーなら問題なく行けると言われ、何故かタクシーを回避し、バスでトライする。

杭州には一般バスと観光用のバスがある。観光用3番に乗ると、昨年訪れた龍井村などを通過する。やはり龍井茶は杭州の一大観光産業だ。このバスに乗っていると何だか気持ちが良い。それは安くて、行きたい所へ行ける、そんな気分を満足させるものだからだ。3元。

そしてある所で乗り換えとなる。だが、時間が大幅に余っている。どうせなら歩いて行って見ようと思ってしまう。それは大いなる間違いだったが。茶畑が広がる道を歩く。段々上りとなる。どこまで行くのだろう、心配になるくらい歩く。

バス停を見るとあと4駅。だが、その4駅は遠かった。とうとう疲れ果て、そしてバスを待つことに。しかしなかなか来ない。そこへ白タクがやって来て、3元で行くという。何と良心的な。思わず乗り込む。ものの2-3分で法浄禅寺に到着する。最初から車に乗れば早いのだ。

法浄禅寺

法浄禅寺は天竺山の稽留峰という場所にある。597年にインドの禅師宝掌が道場を建て、唐代に盛んになり、1765年に「法浄寺」と改名された。寺は何回も建て直されたが、現在のものは清代の建築である。

流石にここまで来ると静けさが漂い、小川の流れも清らかに見える。待ち合わせ時間にはまだ間があり、周囲を散策。寺名が書かれた門を潜ると、斜面に本殿が建てられ、両側にも作務処や宿舎が並ぶ。

O先生がやって来た。O先生の友人という男性と3人で、中へ。お寺の執事、といった感じの男性が中へ招じ入れる。彼はお茶に精通しており、寺の事務をこなしながら、お茶の調査、研究、講演などを行っているらしい。早速お茶が淹れられる。龍井の新茶だ。なかなか優雅なお茶だった。


   

お茶を飲みながら話すことは取り留めもない。私は茶の歴史を知りたかったが、その話になかなかならず、逆に最近のお茶事情がメインといなる。部屋の棚には高そうな茶器が並ぶ。お寺は質素、などと言うことは中国にはないらしい。お寺の拡大の話も出る。O先生の友人はログハウスを売っているようで、その話で盛り上がる。とうとう歴史の話は出ずじまい。

昼時となり、皆で食堂へ。ここは誰でも入って食べられるという。素食、精進料理だ。野菜と豆腐の煮込みとご飯だが、これが予想外に美味い。かなりの量があったが、全部食べてしまった。お寺の料理は油も少なく、健康的なようで、最近は人気があるという。

その後O先生は授業があり、学校へ。執事と男性は寺の拡張計画のあるという場所へ。私も付いて行く。寺の裏には茶畑があり、毎年早春には茶摘みの儀式も行われるという。元々茶は仏教との関連性が強く、仏様にお茶を上げる、という習慣が長く続いている。この寺ではそのため、僧自らが茶摘み、製茶を行い、一つの修行としている。これはある意味で茶の起源であろう。

戻る途中に草深い中にホテルがあった。あのアマンリゾートだ。こんな所にという場所にさりげなくある所が良い。ただこのホテルが出来て、この付近の地価が上がったとか、お客は殆どいないとか、話は色々とあるようだが。

梅家烏鎮 再び

昨年4月に友人に連れられて行った梅家烏鎮(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4429)。前回は車で連れて行ってもらったため、場所の位置関係がよく分からなかったが、何と法浄禅寺からかなり近い場所にあることが判明。バスで行って見ることにした。

バスはなかなか来なかったが、乗ってからは速かった。元々の梅家烏の鎮があることも分かった。私がこれから行く所は新村、ようするに移転された街だった。元々の鎮はいい雰囲気で降りて見たかったが、先程徐さんに連絡してしまったので、真っ直ぐに向かう。

徐さん、昨年4月にYさんに連れられて梅家烏鎮で会ったばかりか、その翌日街中で2度も偶然会ってしまった奇跡の人(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4434)。バス停を降りると鎮は直ぐに分かり、徐さんの家へ直行。

鎮は閑散として人気もない。徐さんは家で待っていてくれた。あの懐かしい庭、早速龍井茶を頂く。爽やかな風、爽やかな味わい、お茶はこうした環境で飲むのが美味しいと改めて実感。

今年は例年になく冬が寒く、茶葉の生育が遅れ、明前茶の産量は多くなかったという。また毎年安徽省から来る茶摘み出稼ぎ者の賃金も相変わらず上昇しており、茶葉の価格は昨年の20%増しとなっていた。勿論いい茶葉はもうないとのこと。徐さんはたまたま友人が来たので、ここに居たが、今はお茶のシーズンではないので、基本的には杭州市内に住んでいるという。

徐さんは忙しいそうだったので、早々に退散し、鎮を一周したが、老人と小さい子供の姿が少し見られただけ。この鎮はお茶のブランドの為だけにあるよう気がして、何となくうーんと思ってしまう。これも中国の農村の一形態だろう。帰りは別ルートのバスに乗り、ホテルに戻る。

清河坊で

夕方から西湖付近を散策。ユースホステルから西湖が近くてよかった。靄る湖面に浮かぶ小舟を眺めていると、何だか自分が流されていくよう。流されても湖なのでどこかの岸には辿り着くのだろう。昨年春、「江南の春を楽しむ」という企画でK先生とご一緒した。先生は当地の大学とも交流を深めており、会社を辞めたばかりの私を誘ってくれた。皆で船に乗り、西湖遊覧をしたことが思い出される。先生は今年の春、西湖の春を見ずして亡くなった。初めての一緒の旅が最後の旅になった。人の出会いは儚いものだ。

夜、昨年お会いした汪さんと清河坊で待ち合わせた。清河坊は昔の街を再現した場所で、昔の建物が残り、大道芸あり、似顔絵かきあり、お店もずらりと並んでいて、観光客の人気スポット。

汪さんは30年前に北海道大学に2年留学しただけなのに、きちんとした日本語を話す本当に頭のいい60代で、浙江大学の理科系の教授も務める人物。今回も連絡すると懐かしそうに出て来てくれた。これは嬉しい。

汪さんは私を一軒の茶店に誘う。なかなか雰囲気が良さそう。汪さんは慣れた足取りで2階へ上がる。そして龍井茶を注文しようとした。ところが、突然汪さんの顔色が変わり、店員に何か言い始める。そして茶葉を持ってこさせ、じっくり見てから、この店のオーナーに電話した。一体なにがあったのか。

聞けば3週間前まで、一人68元だった料金が、突然3倍になっていた。そして茶葉は本物ではなかったという。オーナーの指示で本当の茶葉が運ばれてきたが、それでも料金は変わらない。観光料金と言えばそれまでだが、地元の人からすれば怒るだろう。実は汪さんは一時、お茶屋さんもやったという専門家。彼を騙そうとしたことでトラブルとなる。恐らく私がいたので、お茶を飲んだのだが、普通なら席を蹴って退場しただろう。

テーブルには菓子や果物がふんだんに並べられ、店員が茶を淹れてくれたが、何だか全てが嘘っぽくなってしまった。これでよいのだろうか。折角の再会に水を差されたが、こちらとして、このような一面が見られて、勉強になった。





福州お茶の原点を訪ねる2012(4)台湾政策の最前線平潭島

倉山区

午後は雨模様。だが、強引に車を出してもらい、川向こうの倉山区へ向かう。昨日鄭さんが「そこに日本領事館もあったぞ。今あるのはアメリカ領事館あとぐらいかな」と言っていたので、どんなところか見て見たかった。

古い街は小高い丘の上に横たわっていた。車を途中で降り、後は歩きに。古い建物が崩れかかっていたりする。学校の跡もあったが、改修中。かなり雰囲気の良い洋風建築。さすがに潰すことはなく、改修するらしい。

それにしても旧アメリカ領事館の建物は見付からない。何となくこの辺かと言うあたりで道を入ると、近所のおじさんが「何してるんだ、こんな所で」で迫って来た。思わず、領事館探している、と告げると、「それはここだ。でも今は会社の社宅だ」というではないか。そうか、もう長い間、民間人が住んでいるようだ。写真を撮り、早々に引き上げる。

更に進んで行くと、旧ロシア領事館であったらしい建物も、見付かった。ただ中には入れない。お屋敷のような場所だった。福州は歴史的にはかなり重要な場所ではあるが、その歴史を保存しようという感覚はあまりないようだ。これは残念なことだが、中国は基本的に歴史を重視しない。仕方がない。

帰りに川沿いを見ると立派な教会が見える。その横には高層マンションも顔を出す。この辺りが1860年代に茶葉を輸出した港らしいが、その面影は見付からない。そして古めかしい建物の1階は土産物屋になっており、風情が殺がれる。

夜は一人で歩き回る。毛沢東の立派な像がライトアップされている。お寺もライトアップされている。一番いいなと思ったのは、小さな川沿いの小さなレストラン。

6.   6日目(19日)   平潭島

翌日午前中はお休み。常に旅行中の私はたまに休まないともたない。そして午後、魏さんが車を出してくれ、平潭島へ向かう。先日皆さんと食事をしていると「今平潭島の開発が凄い」との話が出る。それは何だと聞くと、「聞くぐらいなら行って見ろ」ということになり、向かうことに。

空港に向かう道をまっ直ぐ行き、空港を過ぎると「この付近が福清だ」と同乗した若者が言う。そうか、ここがあの福清か。ここは日本を含めて海外移住者を多数出している街。私の知り合いの中国人でも最も多いのは福清人。今回の旅も実は福清ネットワークで支えられている。

福清を過ぎると、大きな橋が架かっていた。これが平潭島へ繋がる橋。ここも規模が大きい。そして橋を渡ると海辺を埋め立て、非常に大きな開発が行われている様子がはっきりと分かる。そう、ここが温家宝首相が「一日一億元を投入して開発する」と宣伝した平潭島なのである。

元々漁村中心だった平潭島はここ数年、台湾政策の最前線基地として位置づけられ、台湾企業誘致、台湾人の誘致が盛んに行われている。開発区の管理をする役人に台湾人を登用するとの話もあり、台湾政府は警戒しているが、台湾人には話題になっている。市内でもマンション建設が盛んで台湾人が購入する場合には優遇措置があるとか。

市内から少し離れた場所にあるフェリーターミナル、ただの漁村だった浜辺に大規模なターミナルが建設され、異彩を放つ。そして既に台中線が運行されており、2時間半で台湾へ行けるという。やはり近いのだ、台湾は。こういった台湾政策をついでに見れることも茶旅の面白味だろう。

8.   8日目(21日)  琉球館

今日はとうとう福州最後の日。魏さん達は武夷山に出張に行ってしまい、何となく取り残される。私も武夷山についていければ良かったのだが、ちょうど香港に戻る日に当たってしまい断念。

さてどうするか、ある人から「福州に琉球館があるので見た方が良い」との情報を得ていたのを思い出し、行って見る。だが、タクシーに乗り、調べた所在地を探すが見付からない。福州のかなり昔風の町並みが心地よく、その辺を歩いて探す。

ようやく見つかった琉球館、「柔遠駅」が正式名称のようだが、琉球館の通称で呼ばれていたらしい。この付近は本当に昔の街そのもので良い。近所の人々が訝しげに私を見る。それは、何と今日は休館日、中へ入ることは出来なかった。ご縁が無かった。

この琉球館は、明代に創設され、20世紀初頭まで存在したという。基本的には日本による琉球統治に反対した亡命琉球人の拠点であったようだ。また貿易の拠点としても機能した。恐らくは日清戦争後、日本が台湾を統治下に置いた頃、ここも実質的な機能が止まったと思われる。

従来の建物は既になく、最近再建されたきれいな建物が存在するだけ。日中友好などの碑が置かれているが、琉球は一体誰の領土か、考えさせられる。

福州、さようなら

午後は街中をぶらつく。晴れた日の午後は、空も青い。建物も高層ビルがちらほらある程度で、落ち着きがある。茶葉市場を訪ねる。先日行った所とは違い、街のど真ん中にあるが、何故か建物の一部が火災か何か焼失しており、人気もまばら。通りでは地下鉄工事も行われており、何だか寂しい。

シャングリラホテルまで歩く。このホテルの周辺には立派な店構えのお茶屋さんが並ぶ。殆どが高級な土産物屋さん、そして地元の人が外部の人を連れてくるお店。正直、ホンワカした雰囲気でもなく、あまりなじめない。スタッフ募集の看板が出ていたが、「店長年収10万元」などと出ていると、お茶屋はただの儲け機関かと残念に思う。

福州の空港までリムジンバスに乗る。25元。1時間弱で着く。20分に一本程度出ているので便利。空港でチェックインしようとしたが、国際線は時間にならないとゲートが開かず、待つ。国際空港ではあるものの、便数はそれほど多くない。ようやく中へ入り、出国審査を通る。

その先に魏さんの元泰の出店がある。そこでゆっくりお茶でも飲んでと思ったが、どうしてもメールチェックが必要になり、隣の喫茶店に移動。中国の空港はどこでも計ったように同じ料金(58元)の飲み物を買い、パスワードを受け取る。これは本当に高い。

既に暗くなった福州を飛び立つ。今回は魏さんにお世話になり、実に様々な体験が出来た。福建省のお茶というと武夷山やアモイなどはよく聞かれるが、実は福州が重要だということがよく分かった。またも茶縁に導かれ、百聞は一見に如かず、だった。

福州お茶の原点を訪ねる2012(3) 農業局の専門家から茶の歴史を習う

4.福州4日目(17日)   福州海峡茶業交流協会

福州も4日目、今日は午前中お役所に行くという。魏さんに連れられて行ったところは、福州市農業局。一体何が始まるのか。一室に入って行くと空気が張り詰めていた。何と福州のテレビ局が取材をしていた。会長と呼ばれた人がインタビューを受け、その後専門家が福州の茶業の歴史などを詳しく話している。

福州海峡茶業交流協会、この組織は対岸にある台湾と、お茶を通じて交流しようという団体。そうか、お茶を通じて交流、いいな、などと思っていたが、ここは市の農業局。そうか、これは政府方針なのだ、と気が付く。実際に会長に話を聞くと「まだ台湾には行っていない。交流はこれからだ」と言われ、少し驚く。

お茶の専門家としてインタビューの応えていた鄭さんに茶の歴史について話を聞きたかったが、多忙の様子で諦めた。結局農業局の前で記念撮影して戻って来ただけに。それもまた良い経験だ。魏さんは実に色々と気を使って私を案内してくれている。有難い。

お昼は日本ラーメンを食べて物件を選ぶ

お昼は紅茶屋近くで食べようということになり、歩き出す。すると1軒のラーメン屋が目に入り、そこへ行く。「東京麺一番館」と書かれたこのお店、1997年に開業した福州でも初期の日本ラーメン店。日本から帰国した地元の人が始めたらしい。

叉焼麺セットでミニ丼が付いて30元。味は日本とそれほど変わらない。普通は15年も経てば、地元の味に変わっていくものなのに何故だろう。やはりここ福州付近は本当に日本への出稼ぎ、留学者が多く、日本の味を知っている人が多いからではないかと勝手に推測する。

街には高級そうな日本料理屋は見当たらないが、ラーメン屋とか天ぷら屋とか、比較的簡単な店はいくつも見掛けた。日本食がブームというより、地元に受け入れられたものが残っていると言った印象。この辺に福州人の傾向が見えるような気がした。

そしてラーメンを食べていると突然魏さんが、動き出す。外へ出る。着いて行って見ると、「ここの隣が貸し出されている。立地は悪くない」と経営者の顔に。どうやら新しい店舗を考えているようだ。そういえば月末に卸市場の店を閉じるのだった。老板は忙しい。部下の男性が、そこに張り出されている携帯番号にその場で電話している。そして魏小姐は入れないかドアを調べている。そうか、こうやって場所選びは始まるのか。日本のように不動産屋さんを通して、なんて流暢ではない。

そこへ男性がやって来た。聞けばここのオーナーらしい。二言三言話していると、突然「それで賃料はいくらだ」と魏さんが交渉に入る。オーナーが「ちょっと待て」と言って警戒する。そうれもそうだ、誰だか分からない人間と賃料交渉しても払ってもらえるのかどうか訝る。魏さんはさっと名刺を出し、説明、そして交渉担当となった男性が携帯番号を交換してこの日は終了。面白い。

鄭さんの歴史講義

夕方、「鄭さんが来てくれるぞ」と連絡が入る。鄭さん?そうか、午前中に農業局で会った専門家。魏さん達が連絡して私の為に呼んでくれたのだ。紅茶屋で会う。

福州の茶の歴史、それは花茶だという。ジャスミン茶の故郷、確かに彼はテレビのインタビューでもそこを強調していた。唐代には仏教の普及と共に花茶が使われ、北宋の時代には薬として珍重された。清の時代にも愛好され、西太后も愛飲した。1870年代、福州は中国の茶葉取扱いで最大となり、海外にも花茶が輸出された。当時福州には17もの外国領事館が存在した。日本も置いていた。

新中国後も80年代まで福州のジャスミン茶は高価な存在だった。だがその後鉄観音や岩茶の台頭もあり、価格が下落。元々高級ジャスミン茶は製造に非常に手間が掛かり、半年も掛けてやっと完成するため、価格が下がった今、茶農家が製造を敬遠している。彼の仕事は福州のジャスミン茶を復興することにある。またよいお茶が採れるのは北緯25-30度あたりであり、中国では福州、浙江省、湖北、四川が含まれるという。亜熱帯で雨量がそこそこ有るということか。

だが、何故福州の茶業は衰退したのか。港は使われなくなったのか。台湾茶との関係は。日本はどう関わったのか、などなど、聞きたいことが山ほどあったが、時間切れとなる。

夜は昨晩に続き、魏さん達と茶芸館見学。今回は湖の畔にあるきれいなお店へ。個室で優雅にお茶を頂いていたが、午後9時に魏さんは商談があると言って、出て行った。老板は本当に大変だ。

5.   5日目(18日)    紅茶世界詩文コンテスト

本日は朝10時前に紅茶屋へ来るように言われていた。何やらイベントがあるらしい。行って見ると紅茶屋の一部が会場となり、人が集まってきている。ビデオ撮影の準備も進む。何が起こるのだろうか。

来賓が席に着き、会が始まる。第6回紅茶世界詩文コンテストの開幕式、それがイベントの内容だった。紅茶に関する詩や文章を半年かけて募集し、最後に選考するとか。福州市の役人やら、協賛する新聞社やらが挨拶を述べる。中でも魏さんの熱の入れようは相当なもので、別弁をふるって紅茶の世界を語りかけていた。

また茶芸も披露され、自慢の茶芸隊が登場し、優雅にお茶を淹れて見せていた。このようなイベントの為に女性陣を確保し、お茶の普及に努めるのは大変なことだろう。会は滞りなく終了。その後は新聞社、雑誌社などのインタビューが始まり、翌日の紙面を賑わせるよう、皆が努力する。面白い企画である。

福建博物館

午後は福建省博物館へ行く。中国では現在全国どこでも博物館は無料。これはいい制度。ここの博物館もかなり巨大だ。中へ入ると天目茶碗のレプリカが沢山置かれている。福建省武夷山近くには天目茶碗を製造していた官窯があった。10年以上前、偶然にそこを訪れると、昔の失敗作品が散乱していたので驚いたことがある。先日お会いした呉雅真さんも20年前はここに勤めて、茶器などを眺めていたのだろう。

またここ福州は琉球と深い関係にある。それを示す様々な展示品がここにはある。清朝時代、琉球国と書かれた墓がある。琉球は日本なのか、それとも独立国か。この辺の歴史認識も難しい所だろう。展示品には中国側の思惑もあるだろうが、純粋に琉球使節団のことなど、考えてみたい。

近年は日本の茶道関係者が沢山訪れている様子が、写真で飾られている。やはり日本と福州はお茶で結ばれていると言える。ここは武夷山への玄関口。ただ最近は飛行機で直接武夷山へ行けるので福州を意識する人はそう多くはない。福州は何故顧みられなくなったのか、検証する必要がある。






福州お茶の原点を訪ねる2012(2)金駿眉やらアメリカ人やら

正山小種堂

夕方紅茶屋に戻ると、お客が来ていた。紅茶屋にはお茶関係者も多く往来するので、ここに居るだけでも楽しい。特に今日来た女性は若いが元気がとても良い。聞けば武夷山から来たという。魏さんが言う、「彼女が正山堂の広報担当だよ」と。

正山堂、それは最近の中国紅茶ブームの火付け役とも言える、金駿眉、銀駿眉を生み出した所だ。何でも今から400年ほど前に紅茶の元祖とも言える正山小種を作り出した江さんの24代目が今の会長だとか。何だか不思議な感じはあるが、そうだとすれば、この会社、いやこの会長の家は中国紅茶のルーツであり、17世紀以降、イギリス人が好んだお茶、正山小種、俗に言うラプサンスーチョン、を生み出したことになる。これも歴史だ。

福建省の紅茶、それはラプサンスーチョンであり、このお茶が輸出され、そしてこのお茶が飲みたいがため、アヘン戦争が起こったのかもしれない。いや、そんな高級なお茶ばかりが輸出された訳ではない、と少々頭が混乱する。松ヤニで燻したお茶、スモーキーな味わい、かなり変わったお茶であり、一般受けする感じはなかった。それが金駿眉の異常なブーム。500g、2万元だ、3万元だと言われると疑ってしまう高値。現在でも正山堂の卸値は9,800元だそうだ。100g換算でおよそ日本円2.5万円。有り得ない数字だなあ、と思う。

その秘訣を聞きたいというと流石は広報担当、兎に角一度武夷山へ来てくれ、と言われる。こちらとしては願ってもないことだが、行ってもそう簡単に秘密が分かるような気がしない。取り敢えず今日は知り合えただけで良しとしよう。私が帰る日に魏さん達は行くようだ。今回のご縁はここまでだ。

老外の夏先生

夜、私の為にゲストを呼んだというので、紅茶屋で待つ。やって来たのは何とアメリカ人。流暢な普通話を話し、既に福州に6年いるという。現在は福州大学のTMBAに通っていると本人は言っていたが、本当にそんなものがあるのだろうか。因みにTMBAとはTeaのMBA。お茶の製法管理から販売経営までを学ぶのだという。

彼は欧米人向けにお茶のコーディネーターを仕事としており、茶博覧会などでも活躍する。また昨年茶に関する本も出版しており、この辺りのお茶関係者には有名人である。自らを夏年生と名乗り、中国服っぽい物を着ている。面白い人物である。

周囲が完全アウエー中で仕事が出来るのは素晴らしい。我々は二人で話すときは英語で、誰かが入ると普通話で話した。何となく、違和感があったが、まさにそれがアウエーということだろう。明日の夜、素晴らしいお茶屋に連れて行ってあげる、と言い残し、夏先生は帰っていった。明日がちょっと楽しみになった。

3.   福州3日目(16日)   飲茶を食べながら

翌日午前中はフリーということで、ホテルで休む。少し疲れが出ているかもしれない。そんな時は休むに限る。そして昼ごはんは皆で飲茶へ行く。主目的は正山堂の広報担当を接待することで、私もそのお零れに預かる。中国的には重要な来客があれば、何をおいても食事を共にする。魏さんと正山堂がどういう関係で、どんな取引を、いや駆け引きを行っているのかは知る由もないが、こういう場面も面白い。

 

皆でワイワイ言いながら、点心を食べているだけのように見えて、魏さんの親戚で会社を共に支えている魏小姐は、要所要所で色々と聞き出している。営業担当は営業の、業務開拓は商品の話を小出しに出す。皆役割があって参加している。飲茶は、台湾式ではなく、香港式。一つ一つ美味しく頂く。ただ福州の人は北の中国人と違い、それほど一度の量を食べない。この辺もまた面白いところ。お茶は持参したお茶を淹れて飲む。

福州の茶市場

午後はお茶の卸売市場へ案内してもらう。この市場、結構歴史があるようで、周辺も含めれば数百軒のお茶屋が並ぶ巨大市場。福建省のお茶を中心にお茶なら何でもありそうだが、人通りは少ない。

魏さんの店、元泰茶業もここに店を出している。だが、やはり客足が鈍く、今月末に閉鎖する予定だという。お茶の消費が増加していると言っても、個々のお店や市場が必ず儲かる訳ではない。中国で増えすぎた茶城などの実態を少し見た思いだ。

福州のお茶と言えば、実はジャスミン茶。その老舗、春倫名茶の出店があったので寄ってみた。高級ジャスミン茶は作るのに非常に手間が掛かり、今では生産量はかなり減っているという。昔はお茶と言えば、ジャスミン茶という時代もあったが、現代、これほど多種のお茶が出回ると、ジャスミン茶も厳しい。特に安いお茶が沢山で回るので、高級茶のイメージが作り難い。

お茶を試飲させてもらうと、非常に良い花の香りが鼻を突く。この香、女性などは好きなのだろうな、と思いながら、お店を後にする。後で貰ったパンフレットを見ると、この店、老舗と言っても1985年頃設立とある。そうか、中国の茶業は新中国建国後、殆どが国有化され、ここの農民は茶葉を国営工場に供出するスタイルだから、個人経営の会社は存在しなかった。だから、会社は最近、だが、お茶作りは数百年の歴史、と言わざるを得ない。何とも不可思議。

次に白茶の店へ飛び込みで入る。白茶も福州近郊の名産。白茶と言えば、香港の飲茶屋で香港人が良く飲んでいる寿眉茶を思い出す。日本人は香港人がプーアール茶やジャスミン茶を飲みながら点心を食べていると思っているが、比較的多くの人は白茶である寿眉を好む。一つには健康に良いとされ、もう一つは値段が安いからだろう。毎日のように飲むお茶に一般庶民は早々お金を掛けられない。

白茶で驚いたのは、プーアール茶のような茶餅が大量に売られていたこと。それも3年物だとか、2年物だとか、まるでプーアール扱い。何とか白茶ブームを起こそうとするのは商売上分かるが、それに意味があるのだろうか。正直それほど美味しいとは感じずに、立ち去る。

茶館巡り

夜は昨晩の夏先生がまたやって来て、我々を馴染みの茶芸館に連れて行ってくれた。非常にきれいな外装、節節清と書かれた看板。中に入ると更にきれいで優雅。かなり広いスペースには、ゆったりとした茶を飲める空間があり、別途個室も備えている。如何にもお金持ちが来そうな雰囲気。

夏先生の指示で女性がお茶を淹れてくれた。大紅袍は優しい香りがした。プーアール茶は緩い余韻があった。場所の静寂のせいであろうか。ただ店内の写真撮影は禁止、など、少し窮屈な面があり、うーんと思ってしまった。

そしてもう少し庶民的な所へ行こうということになり、案内されたのは元々魏さんのお店で茶芸を披露していた女性のお店。こちらはこじんまりしたスペースで、グッとくつろげる雰囲気。

女性が見事な手さばきでお茶を淹れてくれ、皆ワイワイ話しながら飲む。私としては、優雅で上品よりこちらの方が楽でいい。福州には様々なタイプの茶芸館が存在する、それ自体にお茶の厚みを感じる。



福州 お茶の原点を訪ねる2012(1)茶縁が繋がり紅茶屋さんへ

【福州 お茶の原点を訪ねる】 2012年4月14-21日

福建省福州市、1987年4月、間違ってこの地に降りた。でもいい所だった。2009年、久しぶりに仕事で行った。80年代は先進都市だったが、それほど大きく変わっていなかった。他の中国の都市ほど発展していなかった。

今回中国紅茶のことが知りたいと思った。知り合いに福州市郊外福清出身の人がいて、食事をしていたら、突然「福州行ったら」と言われ、そのまま彼は福州の友人に電話、そして携帯が私に回って来た。「もしもし」先方は日本語だった。「歓迎する」とも言ってくれた。これは行かない訳にはいかない。しかしその後メールをしても返事はない。秘書のアドレスを聞き、メールすると返事が来た。到着の便名とホテルの予約依頼をした。果たしてどうなるのだろうか、全く見当もつかない。

1.   福州1日目(4月14日)

久しぶりにドラゴン航空に乗った。離陸すると隣の席の中国人は私のことなど構わずに、私のシートの肘掛けに腰掛けて、窓際の女性と話し始めた。どうしようかと思案しているとCAが「お客様、後ろの席が空いていますよ」と英語で言ってくれた。ちょっと感激した。CAの香港人も一部中国人の態度の悪さに毎回ヘキヘキしているらしい。

空港に着くと、迎えが来ていた。メールで連絡を取った女性。まだ若い。車は古いベンツ。80年代の香りがする大型車で快適である。空港高速を走り、河が見えてきた。ライトアップが眩しい。予約してもらったホテルにチェックイン。既に時間は夜9時近いが、彼女は「良かったら、紅茶屋へ行きましょう」と誘う。紅茶屋とは何ぞや、と思いながら、興味を惹かれて出向く。

ホテルから歩いて5分、紅茶屋はあった。紅茶屋という名前の喫茶店。店内には紅茶が棚に並べられ、ゆったりとしたスペースでお茶が飲めるようになっている。私には紅茶とワッフルが出され、ワッフルにはフルーツも付いていた。ここが今回お世話になる魏さんのお店であった。魏さんはその日は他の来客があり、顔を見せなかったが、何となく面白いことになりそうな予感があった。

2. 福州2日目(15日)     紅茶屋の魏さん

翌朝10時に魏さんがホテルにやって来た。そしてまた紅茶屋に行った。魏さんの一族は1914年に九州で創業、70-80年代は日本の土産物などの貿易に従事、その後改革開放で不動産業をやり、魏さんはお父さんから不動産業を引き継ぎ、最近好きな茶業に乗り出している。魏さん自身も1980年代の立命館大学へ留学。その後帰国し、福州で生活している。日本語は忘れた、と言いながら、毎年日本に出掛け、3月のFoodexにも出店していた。私も行ったのだが、福州のお茶屋さんには気が付かなかった。友人で茶業をしているSさんは、そこで魏さんと知り合ったと聞いた。不思議なご縁だが、お茶関係なら当然か。

紅茶屋は2年ほど前に開業。所謂喫茶店をイメージして作られており、我々には違和感はないが、福州では珍しい存在。中国中から18種類の紅茶を集めて売り出しているほか、お店では昨日のワッフルやケーキ、スパゲッティなども食べられる。ソファーでゆったり出来るし、会合で使う人も多い。

魏さんは「商売は大事だが、お茶文化を広めたい」とも言う。確かに中国人がお茶を飲む機会も一般的には減って来ている。お茶処の福建省とて、コーヒーのチェーン店が進出、若者に人気となっている。一方、中国茶を業とする人々も、儲け話に血道を上げ、お茶本来の文化的な側面が損なわれている。

また福建省はある意味で紅茶の故郷であるにもかかわらず、烏龍茶や鉄観音ばかりが喧伝され、影が薄れている。その意味でも中国人に紅茶を宣伝することに意味があるとも言う。確かにお茶屋さんも、飲む側もその歴史などにはあまり興味を持たないのが現実である。私の調査もこのようにして、紅茶を主に考えてみることにした。

福州で茶芸を広めた呉さん

お昼に魏さん達に連れられて、茶芸館に行く。茶芸館と言っても昼ごはんが食べられるレストラン。ビルに2階にあった。「雅真茶芸 呉家私坊菜」と書かれた入り口を入ると、中は雅なレストラン。お茶を飲むようなテーブルもあるが、普通の中華テーブルもある。

我々は人数も多いので、丸テーブルに座ると、そこへオーナーの呉雅真さんが入って来た。何と私と同じ時期に上海の復旦大学で本科生だったという才媛。その後故郷の福州に戻り、福州にある博物館に勤務。日本から来た偉い人の案内も沢山したという。その頃、サントリーの烏龍茶のCMに出演していたとは後で聞いた話で、この時は全く知らなかった。

呉さんは、閩式工夫茶芸技法という茶芸を確立し、この分野では大先生である。実際に会った印象は物腰が柔らかいこと、かなり知的なこと、そして少し疲れていたこと。岩茶の世界にも明るく、日本に岩茶を広めた一人、佐能典代さんとも昔は良く来ていたという。あまり多くは語らないが、知識は相当なものかと思う。ただ1860年代、福州は上海と並ぶ茶葉の輸出港だったこと、その頃のエピソードなどを聞こうとしたが、時間切れで答えは得られなかった。一度で何もかも聞こうというのには無理がある。

呉さんはこれから、どんな活動をしていくのだろうか、ちょっと興味があったが、それを聞くのも辞めた。次回また来るチャンスがあれば、自ずと分かるだろう。

福州散歩

午後は林則徐記念館へ行く。例のアヘン戦争時の総督林則徐はここ福州の出身である。やはり福州とお茶の関係は切っても切れない。この記念館の中には実に太くて根が張り巡らされた大木がある。これは林則徐の確固たる信念を象徴しているのだろう。特に庭が素晴らしい。お茶に関する記述は少しだけあった。

その後ぶらぶら散歩して、三坊七巷という昔の街を再現した通りに出た。観光客が多く、賑わっている。ここで驚いたのが、スターバックスとマック。2つともいつもの外装は影を潜め、かなりシックな作りとなっている。一瞬偽物かと思うほど、見かけは違っていた。これが周囲との協調、景観を損ねない措置なのだろう。お金になれば何でも妥協する姿勢、素晴らしいと言っておこう。

また紙芝居のような出し物が有ったり、子供達が飴をなめていたり、と懐かしい風景が続く。日本人が見ても懐かしいと思うのだから、中国人にも懐かしく感じるのだろうか。最近中国の都市にはこの手の時代物通りが続々誕生している。何かしないとお客が呼べないのは事実だが、地元の人はどう思っているのだろうか。

様々なお茶屋が店を出しているが、どれも観光客目当てのようで、じっくりお茶を味わえそうな雰囲気もなく、またよいお茶を揃えているとも言い難い。お土産用に高いお茶は沢山あるようだったが。



龍井茶の村を行く2011(2)梅家烏の老板娘に三度遭遇

4.梅家烏鎮

Yさんが「行きましょう」と言う。どこへ行くのか?知り合いの所だと言う。途中で携帯で電話している。「獅峰龍井」の知り合いに電話したけど、あっさり茶はない、と言われたらしい。それはある意味で本当に知り合いだろう。もし客であったら、「ある」と答えて適当な物を売っているかもしれない。因みに獅峰龍井はあっても1斤、5000元は越えるとのこと。基本的に前年に予約で埋まるらしい。中国は本当に資金がダブついている。これも一種の投資だろうか。

我々が向かった先は梅家烏鎮。ここの龍井茶は龍井全体で中の上程度の産地と認識されている。車が鎮内に入ると、それまでの農道とは異なり、立派な3階建ての建物が並ぶ。ここはどこなんだ!

Yさんは一軒の家へ入っていく。ここも3階建て、前庭があり、大きな木もある。中から女性が出て来て、しきりに愛想よく庭のテーブルへ座らされる。直ぐにグラスに入った梅家烏龍井の新茶が振舞われる。グラスを手にすると鮮やかな茶葉が中で踊り、仄かな香りが鼻を衝く。爽やかな風が吹き抜け、庭が楽園と化した。

ひとしきりお茶を堪能。何杯でも飲める。茶農家の奥さん、徐さんはよくしゃべる人で、今年の茶の出来から、子供の学校のことまで話しては、奥に引っ込み、仕事して、また出て来ては話す。Yさんとは子供同士が同級生と聞いて納得したが、何となく引っ掛かる。

徐さんが中から次々に食事を運び出した。そういえばさっきここのおじいちゃんが、生きた魚を生簀に入れていた。その内の一匹が早速登場した。他の農家が取ってきたものを買っていると言う。ふーん。野菜も新鮮で、鳥も美味しい。屋外で風に吹かれながら、美味しい空気を吸う。満足。

食後鎮を散歩した。今はお茶の季節でどこの農家も忙しいはずなのに、中には庭で新聞を読んでいる男性がいたりする。隣のおじさんは、茶葉を篩にかけていたが、何となく長閑。全体的に切迫感はなく、別荘地帯で庭いじりをしている老人たちを想起させる。これはなんだろうか。

おばあちゃんが茶摘みに出ると言うので同行する。と言っても庭のすぐ裏に茶畑がある。摘んでいるのは殆どが出稼ぎのおばさん。おばあちゃんはお手伝いさんに手を引かれて摘んでいる。何でやっているのか聞くと「健康のため」との答え。これはこの辺のお茶農は地主、出稼ぎ者は小作という、以前の仕組みそのままのような気がする。

帰りに徐さんに「私がこの家を買いたいと言ったら、いくらで売ってくれる」と聞いてみた。「絶対に売らない」と答えながら「例え2000万元でもね」と。え、2000万元とは日本円で2億5千万円??この地はそれ程の価値があるということか。茶の値段はどんどん上がり、農家としてのメリットは取り、空気はいい。

中国の農村は貧しい、殆どの日本人はそんなイメージしか持っていないが、実際には中国と言っても広い。立派な家、全て揃っている家具、恵まれた自然と労働環境、後は教育・医療などか、などと思っていると、実はそれも徐さん達は既に手に入れていた。

5.西湖の茶荘
2日ほど前、我々の訪問団は夜、西湖の畔にやって来た。流石に夜は薄暗いが、その中にその茶荘は建っていた。かなり立派な建物だ。写真を撮ったが暗くてよく写らない。バスの運転手さんに聞いて、龍井茶の新茶を、西湖を眺めながら飲める所を探した結果だった。

中に入るとかなり広い。入り口で茶葉や茶器を売っており、広いスペースは西湖に近接していた。こんな所でお茶が飲めるのはいいな、と思ったが、実際夜は暗くて湖面は殆ど見えない。照明もなく、暗い外を眺めながら飲むお茶はちょっと寂しい。

にも拘らず店内には驚くほどお客がおり、賑わいを見せていた。これが観光地杭州、龍井茶の産地としての強みだろうか。更に料金を見て驚く。新茶は安くても180元から。これまで地元で食べた食事代は一人50元、高くても100元。お茶一杯がこの値段とはすごい。

テーブルの上にはスイカ、メロン、ブドウなどの果物、瓜子、ナッツ、棗などのつまみが所狭しと並んだ。この値段はまさに場所代、文句のないよう色々な物を出している。既に宴会で腹一杯の我々、とても手が出ない。

肝心のお茶がやってきたが、香りはあるものの・・・。まあ、観光地だから仕方がないが、杭州のある種の物価が異常に高いことを実感した。そういえば後日立派な喫茶店に入った所、コーヒー1杯が68元したが、お替りは何杯でも可能、フルーツ、クッキー、チョコなどまるでアフタヌーンティのように次々食べ物が登場して驚いた。これは杭州の習慣なのか、はたまた客単価を上げる作戦なのか。

いずれにしても杭州にはお茶を飲む文化は存在するが、庶民は家で瓜子の殻でも割りながら、普通に飲んでいるに違いない。

6.茶農家の奥さんと三度会う
梅家烏鎮に行った翌朝、宿泊先である浙江大学正門前のホテルを出て、市政府の方へ歩いていくと、道の向こうからやって来た女性が突然私の名前を呼ぶ。中国に知り合いは多いと言っても杭州に知り合いは殆どいない。一体誰だろうか。

近づいてよく見るとそれは昨日訪れた梅家烏の茶農の奥さん、徐さんではないか?しかも昨日の質素な服装とはかなり違っており、サングラスを掛けていたこともあり、全く分からなかった。

「なんでこんなところで」という私の疑問を素早く察知した徐さんは早口で「実はこの近くに家があるのよ。子供の学校はこの辺がいいので、家を買って子どもはこっち。私もあれからこちらに戻って、子供の世話。今から銀行行くの。」との説明。

へー、そんなだ。家を買って大学近くのレベルの高い中学に通わせる、学区制は北京と同じである。でも、鎮に住む人は農村戸籍なのでは?そうであれば戸籍が障害となり、都市部の学校へは入れないはずだが??疑問はどんどん膨らんだが、道端のこと、詳しい話も聞けず、分かれてしまった。あー、残念。それにしても徐さんは農村と都市を非常にうまく生きている。中国ではこのような人々が増えているのだろうか。

その日の夜、北京時代の知り合いのお子さんの家庭教師だったという中国人Xさんと会った。彼は山東省出身で北京の名門大学の修士を出ているが、何故か杭州に就職。本人いわく「杭州は憧れだった。北京や上海のような都市で働く気もなく、故郷に帰る気もなかった。」と。うーん、所謂80后世代と言われる若者は私の理解を遥かに超えていた。

彼は宿泊先のホテルから歩いて20分ほどのところにある「一茶一座」という台湾系のチェーン店に私を連れて行ってくれた。このお店は前週渋谷のロフトにある店に行ったばかりで何となく因縁を感じる。勿論渋谷とは全然違う形態で、お茶もあるが食事がメイン。何故かビビンバ定食などを頼む。プーアール茶が付いてきた。不思議。

Xさんに梅家烏に行ったこと、今朝そこの奥さんと再会したことなどを話していた丁度その時、Xさんの背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。一瞬体が硬直した。向こうのテーブルを見ると女性が手を振っていた。横には中学生ぐらいの女の子がいた。何とそれは徐さんだった。この驚きは表現しにくい。

私と同様、いやそれ以上に驚いたのがXさん。今聞いた話の本人が目の前に現れたのだから、確かにビックリ。徐さんによれば、今日はお嬢さんの塾が遅くなり、ここで2人夕食を取っていると言う。しかもこの店にはめったに来ないと言うから、やはり相当のご縁である。うーん、これはもう次回も杭州に来なければ。

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龍井茶の村を行く2011(1)ほっつき歩きを始めた街

【龍井茶の村を行く】 2011年4月1日

1.杭州まで
会社を辞めることにした。どうせ辞めるなら、3月末までに辞めたかった。どうしてか、それはサラリーマン時代には絶対に出来ないことをしてみたかったから。3月末から4月初めて海外旅行すること。年度末に掛かるこの時期は普通のサラリーマンは休めない。いくら私でも休んだことはなかった。

そして首尾よく理解が得られ、退職することが決定した。同時に某大学の先生から杭州に行く計画を聞いていた。これしかない、これに乗ろう。そう決めて飛行機のチケットを予約した。

ところが3月11日、震災が襲ってきた。一時は退職自体が『こんな時期に』と反故になるのでは心配した。非常時には仕方がない、との気持ちもあったが、逆に皆からは『なんでこんな時期に辞めるんだ。もう少し様子を見たら。』と心配された。

震災後在日中国人の帰国ラッシュが始まった。ディスカウントチケットを予約していたが、発券期限が到来した。これまで4-5万円だった上海行きのチケットが正規料金の20万円に跳ね上がっていた。ここで予約を切ると永遠に行けないような気分になり、購入ボタンを押した。

結局震災の影響も少し収まり、退職した。問題は茶畑行き。以前龍井村に行ったことのある先生は『現地に着けば誰かがアレンジしてくれる』と言っていたが、大丈夫だろうか。昨年まで杭州に住んでいたOさんを思い出し、至急連絡を取る。

何人もの中国人を紹介してもらったが、誰が何をしてくれるかは全く分からない。現地で出たとこ勝負だ、と決めて上海に乗り込む。震災後2週間を過ぎた成田空港はガラガラだった。帰国ラッシュはとうに過ぎていた。何だこれは。震災の影響で成田空港の地下通路を通ったが、人は一人もいなかった。

上海で25年前の留学先の大学を訪問していると突然Oさんよりメールが来た。茶畑に連れて行ってくる人が見付かったという。そういえば、Oさんもこの大学に一緒に留学していた。やはりご縁は強い。そして翌日高速鉄道で杭州へ。

25年前に杭州に行った時、確か上海-杭州間は4時間以上掛かっていた。しかし今日、僅か57分。時代を感じる。

2.玉泉
それから2日間は行事があり、ようやくその日がやってきた。『朝9時に茶葉博物館集合』というメッセージがお茶畑への期待を高めた。朝も予定よりだいぶ早く目覚めた。地図で見ると宿泊先から博物館までは少し距離があるが、歩けなくもない。そして途中には玉泉という明泉の名前も見える。玉泉は虎跑泉、龍井と並ぶ杭州3大明泉の一つ。当然のように歩き出す。

昨日まで朝は少し肌寒かったが、この日は違った。実に爽やかなそよ風が西湖の湖面から吹いてきていた。柳も緩やかになびき、江南の春が感じられる。足取りも自然と軽くなる。少し道を登ると素晴らしい竹の林がある。植物園にたどり着くと、どうやらその中に玉泉がある。中に入ると池があり、その奥に山外山と言う名前の趣のあるレストランが見える。さらに奥に楼外楼という杭州の有名レストランに支店までがあった。そこを覗いていると老婆が手を天に向け、『上の眺めはいいぞ。歩いていけ。』と笑顔で教えてくれる。

玉泉はどこにあるか分からなかったが老婆の笑顔で山道を登り始めた。しかしこの道、結構きつかった。そしてどこまで登ればよいのか分からず、時間が気になり始める。老人が毎朝の日課だと言わんばかりに大音響のラジオを腰につけ、追い越して行った。残念ながら、頂上を諦め、蕭々と道を下る。下で老婆が呆れ顔で見送ってくれた。

木蓮の花が咲く場所に玉泉と言う名はあったが、何だか名前のみで、池のほとりにお茶屋があり、老人たちが昔ながらの姿で、お茶を飲み、語っていた。その池の水もそれほど綺麗ではなく、ちょっとがっかり。その隣の屋根のある部分では、集団で太極拳に励むグループがあり、よく見ると全員が老婆だった。毎朝同じ時間にここまで歩いてきて、同じようにお茶を飲み、太極拳に励む。健康法とは何か。ちょっと考えた。

それから博物館に向かい歩いた。地図で見るより実は遥かに遠かった。途中に村があり、そこでマントウを買い、朝ごはんとした。この村も観光客目当てに茶屋などやっている所が多い。茶畑の保護区もあり、いちめんに茶樹が見えるのは嬉しい。

3.龍井村へ
Yさんが運転する車でいざ龍井村へ。中国で車を運転することは結構危険。それでもお子さんが3人いるYさんは必要に迫られて、運転を覚えたと言う。確かに安全運転。

20分ほどで、龍井村に到着。車で狭い道を進んでいくと、そこは何だろうか、昔修学旅行で行ったどこから観光地を思わせる、まるでお寺の参道の両脇に土産物屋が並んでいるような光景。聞いてはいたが、うーん。

Yさんはそんなことにお構いなく車を進める。どこで停まるつもりだろうか。皆目見当がつかない。そして道がどん詰まりになった所で車は停まり、到着の声が掛かる。「老龍井」と書かれた門を潜る。入場料を払う。Yさんは駐車スペースの関係で係員と口論になっていて、もう少し戻った所に駐車したところ、今度はそこの前の店の人間から文句を言われている。普通なら堪らない所だが、Yさんは全く動じず言い返している。これは凄い。

何とか収まり、中へ。歩いていくと「龍井発祥の地」、「18本の茶樹」などの表記があり、ここが龍井茶の原点であることが分かる。実際に原木が囲いの中にある。その横を茶摘みに行くと思われるおばさん達が黙々と歩いて行く。いよいよそれらしくなってきた。

その奥には本当に斜面に茶畑が存在しており、茶摘みが行われていた。聞いてみると安徽省から来た出稼ぎのおばさん達だった。摘んだばかりの若芽を籠の中に入れて、斜面を下りてきた。よく見ると上の方で今も茶を摘んでいる人々が見える。うーん、これは素晴らしい光景だ。おばさん達が口を揃えて「今年は寒かったから、芽が出るのが遅い」と言う。

しかしその横をちょっと歩いていくと、下の方に温室のような建物が見えた。よくよく見ると何とレストランの一室。これには興ざめである。確かにこのロケーションであれば、高い料金が取れるのかもしれない。もしやすると政府幹部などを接待するためのものかもしれない。しかしこの場所には相応しくない。

それにしても今日はいい天気である。何とも言えない爽やかな風が吹き、花が咲き乱れる。これは私の日頃の行いの良さであろうか。老龍井と書かれた井戸があったが、水は出ていなかった。池のようになっており、中には小銭が投げられていた。うーん、ここも泉としては既に枯れたか。

一つの建物に入るとそこは茶葉販売と喫茶室。今年の最高級茶の値段を聞くと1斤、4500元との答えが返ってきた。それはここで採れる茶葉の値段らしい。思わず、高い、と唸り、身を引いてしまう。売り場のお姐さんも私の貧弱な様子を見てか、特に勧める風もない。帰り道、道の脇で摘んだばかりの茶葉を天日干しする農夫がいた。いいお茶かも知れないが、そこまで値段が高いのだろうか、決して彼が悪いわけではないが、その姿が恨めしい。




《雲南お茶散歩2013》(7)大理 35分の空の旅

11月29日(金)

朝の散歩

翌朝は早くに目が覚めた。が、宿には朝飯は付いていなかった。陳さんは『食べない』ということだったので、一人で大理の街に出てみた。朝が早いせいか、宿のドアは閉まっており、店はどこも閉まっていた。ご飯にありつける様子がない。

 

ようやく湯気の立っている場所に来た。そこは学校の近く、小学生は早くから登校し、その途中で親がご飯を買っていた。野菜を売る市場があったが、他はひっそりとしていた。観光の街の朝はこんなものだろう。

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人が少ないので散歩をするにはよい環境だった。朝はひんやりしており、身も引き締まる。このままずっと歩いて行きたい衝動に駆られる。そんな朝もよいものだ。

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35分の旅

そして車を呼んでもらい、大理の空港へ向かう。大理にも空港がある、ちょっとした観光地なら空港をそろえている、それが今の中国だろう。1時間ほど田園風景を走り、到着したその空港は本当に小さかった。それでも一日に何十便か飛んでいるようで、お客はまばらながらいた。

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セキュリティーチェックも1時間半前からしか受け付けない。ただひたすら待った。そしてチェックが終わると、コーヒーショップがあり、そこではWIFIが使えた。今やどんな小さな空港でもWIFIは必須、但しこのショップでも珈琲は58元とバカ高い。これは珈琲代というよりネット代だろう。結局朝食を食べていない我々はここで麺を食べたので2人で150元以上かかった。

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飛行機は50人乗りのジェット、祥鵬航空という初めて聞く名前だった。とにかく安かった。これも陳さんの指示と予約した。ただ陳さんはケチというより、無駄なことにお金を使わない人だということが良く分かってきた。

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飛行機は定刻に飛び立ち、そして飛んだと思って少ししたらもう離陸体制に入った。僅か35分のフライト、心配する間もなく着陸してしまった。この航空会社の英語名はLucky Airだった。今もこんな地域航空会社が中国各地で活動していることを知る。

 

昆明は第4ハブ

昆明で陳さんと別れた。彼はこれから友人たちと一緒に雲南省からミャンマーへ抜ける旅をするのだという。ということは、実はもう一度大理を通過する可能性がある。それなら大理で待っていてもよさそうなものだが、そこはきちんと私のアテンドをしてくれていたのだ。

 

昆明空港は勿論大理よりは大きいが、それでも中国の他の空港に比べて大きいとは感じられなかった。実際には現在拡張工事が進められており、2年後には大きく変化していることだろう。

 

ここで驚いたのは、東方航空が上海に続く第2のハブを昆明に置こうとている様子だった。国際線カウンターに行くと『ヤンゴン』『ビエンチャン』『プノンペン』『ホーチミン』などの行先がずらりと並んでいる。明らかに東南アジアのハブとして昆明を使おうとしている。『デリー』などインド向けもあり、中国人観光客が伸びている地域に盛んにフライトを飛ばしている。

 

そのことはコラムに書いている。⇒ http://www.chatabi.net/colum/96.html

 

そして私が乗るタイ航空も、その中の一つとして、順調に飛び立って行った。今回の旅では『お金持ちの行動』を学ぶことが出来、とても有意義だった。それにしてもお茶の状況はちょっと心配だ。

《蘇州お茶散歩2013》(7)上海 空港ホテルに泊まってみたが

5. 上海

空港ホテル

今晩は上海に泊まり、明日の朝東京へ向かう。何と今回は虹橋⇒羽田線を予約できたので、気持ちは楽だ。だが上海の宿泊場所ではいつも悩む。下手な所に宿を取ると、朝のラッシュなどで時間が読めないし、第一タクシーがいるかどうか。そこで今回も空港ホテルに泊まることにした。前回は浦東の空港ホテルに泊まったが、正直料金ばかり高くて・・・?

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高速鉄道の駅からそのまま地下を歩くと、空港ターミナルへ。第2ターミナルの中を迷っていると、突如チェックインカウンターと同じフロアーに予約したホテルがあった。一瞬目を疑ったが、こぎれいなそのホテルに私の予約はあったのだ。前回の浦東の格安ホテルとはちょっと違う。ただチェックインカウンターの処理の遅さ、部屋の狭さは変わらないが。

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兎に角明日の朝はかなりゆっくり起きられると喜んだが、そうは問屋が卸さなかった。何と羽田行の国際線は第2ではなく、第1ターミナルから出発するのだ。なんともはや、言葉も出ない。第2と第1はシャトルバスで繋がっているとのことだったが、そのバス乗り場がどこにあるのか全く分からない。面倒になり探すのを辞めた。中国の空港の表示の悪さ、分かり難さは天下一品。

 

夕食会

それから地下鉄で街に出る。ある人から本の購入を頼まれていたので、本屋へ行くが、『この本は専門書だから普通の店にはない』と一言。仕方なく、出版社そのものに買いに行くことにした。

 

住所を頼りに歩いて行くと、そこは想像よりはるかに遠い場所だった。上海古籍出版社、は昔の上海を思わせる一角にひっそりとあった。横に書籍部があり本が購入できる。だが、やはりここにも置いていなかった。今予約すれば1週間後には倉庫から届くだろう、と言われて断念。他にネットで購入する方法もあるようだが、海外への郵送は出来ないようだ。万事休す。

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時間が来たので今日の会食場所へ。上海は一晩しかないので、失礼は承知で『16日夜暇な人』を募集したところ、実に多彩なメンバーが集まってくれた。場所は古北の人知れないイタリアン。とても面白い。

 

元々はエコノミストのHさんを紹介され、会うことにしたが、そこへ銀行時代にご縁のあった中国人(現在日本国籍)Kさんが合流、レストランをアレンジしてくれた。また上海人で復旦大学の卒業のH博士、実は蘇州の本屋で彼の著書、『安倍経済学』を見つけてひそかに驚いていた。更には北京時代に一緒だった日本人Mさんと台湾人Cさん。この二人は実は20年前台湾の企業で机を並べた知り合いだった。これも当人同士が驚く再会。現在はMさんが日系企業へ出向、Cさんは投資ファンド運営を行っている。

 

女性陣もHさんの他、新聞記者のKさん、何でも屋のKJさんが参加。何でも屋のKJさんは上海ではなぜか餃子屋をやっているらしい。その後和僑会の関係でバンコックでも再会した。

 

こうしたメンバーが揃うと、私が何かをする場もなく、皆で話が大いに弾んだ。簡単な異業種交流会のようになり、また友達の輪が広がる。偶にはこのような場を設けるのも面白いかと思う。

 

10月17日(木)

東京へ

結局昨晩の余韻も醒めぬまま、早起きしてホテルを飛び出す。8時半のフライトだが、例のシャトルバスの時間が分からない。乗り場すら分からない。6時過ぎには第2ターミナルへ。インフォメーションに聞くと、『下の階に表示がある』というのだが、行ってみるとシャトルバスではなく、市内などへ行くバス乗り場だった。

 

それから迷いに迷った。そして何とか近くまでたどり着き、カウンターで確認すると『タクシーに乗らないのか』と聞いてくる。見ると後ろにはタクシーの運転手が待っている。これで全てが分かったような気がする。わざと表示しないのだ。そしてタクシーに稼がせているのだ。

 

そして分かりにくい場所にある乗り場でバスを待つ。やってきたバスは10元徴収した。これなら白タクで10-20元で行った方が良かった、ということになる。よく出来ている。しかもバスは第1まで20分もかかった。これは遠い。もし急いでいればバスなど待ってはいられない。それでも結構な乗客がいたということは慣れた客も多い訳だ。

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第2から第1までわずかな距離を1時間以上かかって行く。これは合理的ではない。改善の余地がある。だが聞いてみると地下鉄でも行けるらしい。バスのニーズなどどんどん減っている結果、隅に追いやられたのかもしれない。

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虹橋⇒羽田線はとても便利だが、そこにはそれなりの落とし穴がある。さすが上海、ただでは通さない。