「中国」カテゴリーアーカイブ

鉄観音の故郷を訪ねる2013(3)安渓 村の抱える悪循環

5月6日(月)   朝もはよから

疲れていたせいか、与えられたベッドに横になると直ぐに寝付いてしまった。そして朝までぐっすり。鳥の囀りで目覚める。理想的な目覚めだ。時間は朝6時前、周囲は明るく、おばさん達は既に起きていた。そして7時前に朝食が始まる。食べ終わるとおばさん達はまた茶葉を取りだし仕分け作業を始める。本当に地道な作業だ。何がそこまでさせるかと思うほど、黙々とこなしていく。近所のおばさんもやってきた。

私は散歩に出た。道端ではアヒルが伸び伸びと歩いていた。霧雨が降っており、今日も茶摘みはないようだ。茶畑に人影はない。ずーっと歩いて行くと工場が見えてきた。台湾人が投資して建てたという。何のためにこんな所に工場を?ある人曰く「台湾人は鉄観音というブランドが欲しいだけで、ここで茶を作ろうとは考えていない」と。確かに工場が稼働している様子は無い。

工場の前の丘に登るとこの街が一望できた。茶畑があちこちにある。元来がお茶の街なのだが、近年は金儲けに走る安易な製法で評判を落としている。手で作る世界を捨て、何でも機械で行い、促成栽培製法で、大量生産に走る。何とも残念な話だ。

近くに廟があった。中に入ると「毛蟹の故郷」の文字が見えた。お婆さんがやって来て、まあ茶でも飲んでけ、とばかり杯を差し出した。お茶を飲むのが当たり前の世界。ただ数十年前は自分で作った茶を自分で飲むことが出来ない時代もあった。国営時代は厳しかったという。現在は個人経営だから、何をしても良いのだが、それが結果として茶をダメにした。地方政府は打つ手がないのだろうか。

午前中から張さんと茶を飲む。張さんはもう本当に春茶は作らないと決めたようだ。「雨のお蔭でゆっくり話が出来る」と余裕のコメント。確かに茶作りが本格的に行われていれば、朝から茶など飲んでいられない。2階で作業している女性陣も呼ばれて降りて来て茶を啜る。私というお客がいたから、良いお茶が飲めた、とケタケタ笑いながらまた作業に戻る。

午後もぼうっとしていたが、再度茶作りの作業場へ行って見る。するとなぜか途中の道で張さんが何かしていた。「たけのこ、採ってるんだ。美味いぞ」と笑う。そして近くに生えていた巨大な長芋?も掘り起し「今日は大量だ」と叫ぶ。今日のご飯はその辺で調達する、何と自然な動作なんだろうか、と感心した。

村の抱える問題

張さんには息子がいる。孫もいる。一緒に住んでもいる。だが息子は張さんのやって来た伝統製法を捨て、機械での茶作りを選んだ。確かにあれだけ大変な作業を子供の頃から見ていれば『もっと楽に儲けたい』と思うのも無理ないことだとは思う。

 

最近の促成栽培、促成製法は機械に頼っているうえ、どうしても作業工程を省略するなど、いわゆる手抜きが行われる。それで質の良いお茶が出来れば問題ないのかもしれないが、現実はそうはいかない。きちんとした作業をしないと質は低下していく。質が低下すると飲む人が減り、価格も下がって来る。価格が下がると収入を確保するため、更に大量に質の悪い茶が作り出され、市場に出回って行く。これはもう完全に悪循環。結果として農家も農村も疲弊していく。安渓だけの問題ではなく、中国の至る所で起きている問題ではなかろうか。

 

もう一つの大きな問題は収入が減ることによって、村を出ていく人が増えること。息子には嫁さんがいるはずだが、一度も見掛けない。聞けば泉州に出稼ぎに行ってしまったらしい。とっくに茶業に見切りをつけている。『この村の働き手で残っている者は普通話が下手なんだ』と言われたが、確かに村の方言だけでは余所の場所では通用しないので、村に残らざるを得ない人々もいる。

 

母親がいない寂しさか、孫は勉強もせずに遊びまわっており、時々父親と喧嘩になる。私がいた時も階下で怒鳴り声が聞こえてきた。この閉塞感の中で皆苦しんでいるように見える。かと言って、いまさら伝統製法には戻れないし、もし戻ったとしても、その価値を評価して適正な価格で買ってくれるお客さんがいなければ、どんなに品質が良い茶でも意味はない。

 

午後村を回ってみる。お婆さんたちが総出で茶葉の選別作業をしていた。遠目に見ても、きれいな緑の茶葉が並んでいる。しかし鉄観音本来の色はもう少し黒っぽい。手を抜くと緑茶に近くなるので緑が映えて来る。観光客には見栄えがいいし、手間が掛からないのでこちらが好まれる。だが何度も飲むわけにはいかない、そんなお茶である。

 

ホテルが出来た

高さんと村を歩く。今泊まっている所はご主人の実家。高さんの実家は歩いて15分ぐらい離れた別の村。ご主人の村は張姓、高さんの村は高姓が多いそうだ。確か台湾の木柵鉄観音の産地も張姓が多かったような。150年も前にこの辺りから茶の種でも持って移住した人々がいるのだろうか。興味深い。

高さんの村の方にホテルが出来たというので行って見た。村にホテルが出来る、というのは、外から人が来る、ということになるが、一体誰が来るのだろうか。ホテルは10階建てぐらいで立派に建っていたが、中に入っても客らしき人はおらず、従業員が皆で茶を飲んでおしゃべりしていた。1泊、160元。ネットは繋がる時は繋がる、と面倒くさそうに説明して、女性従業員はお茶の輪に戻って行った。ここは台湾系資本だというが、やはり郊外に出来た茶工場と関係あるのだろうか。

実は高さん達が今回私を受け入れてくれた要因の一つがこのホテルの存在だった。昨年このホテルが出来るまでは村に人を泊めるような場所は無かった。まして外国人がやって来て、もし普通の家の生活が難しいとなれば、どうしようもなくなる。農村の人はそんな所に気を使ってくれていた。勿論私の場合、張さんの家に入るなり、そこが気に入ってしまい、そのまま居ついてしまったのだから、心配は杞憂に終わっている。

村には役場があり、その前に広場へ行くと『毛蟹茶王賽』と書かれた看板が見えた。村では鉄観音だけではなく、新しいブランドを求めているようで、品評会などを開いている様子が伺われた。そもそも昔は市場でも鉄観音と毛蟹、本山、黄金桂などは区別されて売っていたのだが、数年前には本山や毛蟹という名称は姿を消しており、何でもかんでも有名ブランドである鉄観音にしてしまったきらいがある。名称を細かく分ければ何かが復活する訳ではないが、キチンと分けた方が良いかと思う。

村では雨も上がったので、方々で茶葉を路上に出して干していた。まるで近所を掃除するかのようにおばさんが箒で茶葉を掃いていた。何とも長閑な光景であった。家へ戻ると張さんが作った茶葉を天秤棒で運んできた。これでまた女性たちの仕事がやって来た。その日も遅くまで作業は続いた。私は環境のせいか、寝つきが良く、直ぐに寝てしまった。

鉄観音の故郷を訪ねる2013(2)安渓 極上の鉄観音茶とは

5月5日(日) 3. 大坪  大坪まで

翌朝、安渓の大坪から迎えの車が来た。香港の茶荘、茶縁坊の高さんがわざわざ来てくれた。茶縁坊との付き合いは長い。2001年2回目の香港勤務になった時、上環に新しくオープンした茶荘が茶縁坊だった。それから12年、これまで何度も茶園に行ってみたいと思っていたが、実現しなかった。それが今回・・。

車は厦門市内を抜け、洋風の学校がある集美地区を通り、一路安渓へ。13年前も安渓を目指したが、その時は手前の官橋にある安渓茶廠までしか行かなかった。茶畑は見なかったのだ。その時は道も悪く、相当の時間がかかるとのことだったが、今や舗装道路だけでなく、高速道路まで出来ており、道もよかった。

途中同安という街で停まる。昔ペナンだったか、シンガポールだったかの華人関連の博物館で福建省同安出身者を見たことがある。この辺りから安渓まで、山が続き、作物が取れず、厦門まで歩いて行って船に乗り、東南アジアへ出稼ぎに行ったのだろう。一体どんな思いでここを歩き、海を渡ったのか。

農家では基本的に自分の食べる野菜は自分で植えるが、今は時期的に野菜が少ないので、買い足すらしい。実に昔の雰囲気の野菜売りが並ぶ。聞けば値段は相当に値上がりしているらしい。高さんは慎重に野菜を選び、値段を確認し、買っている。この辺は農家出身、見る目は厳しい。

それから山道へ入る。途中で安渓へ行く道と分かれ、山登りとなる。安渓と言っても相当広い範囲の土地を指すらしい。これまでの茶旅のように単に安渓の街を目指しても、茶畑には容易に辿り着かなかったことが分かる。かなり急な坂道を上る。それらしい山の風景となる。標高が上がり、空気が変わる。そして、ちょっとずつ茶畑が見えてくる。気持ちがワクワクする。それは毎度のことだが、いいものだ。

昼ごはん

村に入った。高さんの故郷、安渓県大坪郷萍洲。静かな山間の村だった。道沿いの建物に入る。薄暗い2階ではおばさん達が麻雀卓でも囲むように、作ったばかりの鉄観音茶の枝と雑物を取る作業をしていた。我々が入っていくとすぐに『ご飯、ご飯』とばかり、茶葉を片付け、小さなテーブルを出し、炊飯器と鍋が置かれた。椀を一つ渡され、食べろ、という。スープをすくう。

スープにはのりと豆腐が入っていた。いやー、これは台湾だ。台湾と同じスープだ。美味い。どんどん飲む。台湾でも中国でも農家では椀一つでご飯を食べる。スープを飲み終わらないとご飯にありつけない。ご飯はなんと野菜ときのこの炊き込みごはんだった。何とも懐かしい味。思わずお替りした。

面白いのがおばさん達はご飯をよそうとそのまま立って食べている。低い椅子もあるので、座って食べる人もいる。皆忙しいからだろうか。私は物を置いている台に座って食べた。何となく好ましい。こんな飾らない昼ごはん、いいな。

食後は昼寝でもして休むのかと思いきや、またすぐに茶葉を出し、作業が始まる。この時期、仕事はまさに掻き入れ時。その細かい作業には恐れ入る。これを一日中やれと言われれば頭が痛くなりそうだ。誰が誰かよくわからないが、紹介はない。オイオイわかるだろう。

茶作り

茶縁坊の息子はいなかった。どこにいるのだろうか。尋ねると高さんが『行こう』という。そして家から出て村を出て山へ向かう。今にも雨が降りそう。既に地面が濡れているのは午前中も雨が降ったのだろう。今日茶摘みはなかったそうだ。足を滑らしながら何とか着いて行くと、茶畑が段々畑になっている。1つずつはかなり小さい。

ようやく山間の家に着いた。斜面に建てられたその家は古風で何ともいい感じだった。中へ入ると息子とおじさんがいた。このおじさん、高さんのご主人のお兄さん、張さん。彼が茶縁坊の鉄観音茶を全て作っている。今日茶摘みはなかったが、昨日摘んだ茶葉の処理を行っていた。ちょうど重要な火入れの最中。かなり気を使って何度も手で籠を掻き回していた。この作業が茶の味を決める。

先ずは出来立ての茶を飲んでみる。非常に地味だが、甘い香りがした。そして飲んでみると口の中に甘味が残る。何だこれは、茶杯がまるでワンワン言っている感じで、実に、実に美味い。その一言しか出ない。カップに残った香を嗅ぐ。これはすごい。天然の水を使っており、水そのものがほんのり甘いのだ。これは昔行った潮州の山中で出会ったものと同種だった。やはりここと潮州、雰囲気も似ており、文化を一にしているようだ。

「昔は家族でここに住んでいた。空気もいいし、環境も良かった。でも不便だということでかなり前に今の家に引っ越し、ここは作業場になった」のだという。20年も前に、日本人を含めた外国人調査団がこの村にやって来て、皆がこの家に泊まりたがったという。それは分かる気がした。因みに当時は貧しい村の様子を写真に撮られるのを村の役人はひどく恐れていたそうだ。時代は変わった。「夜ここで寝ているとお化けが出るぞ」、張さんがおどけて見せた。

シンプルな夕飯と夜なべ

雨がしとしと降っていた。張さんは相変わらず、火を入れた茶葉を時々混ぜている。そして黙って茶を飲む。その寡黙な姿勢が伝統的な農民を感じさせる。製茶作業は茶葉を摘んでから2日間、ほぼ寝ずに行う。「俺はもう歳で正直しんどい。引退したい」、と張さんは笑いながら話すが、そういう話が出ること自体、本当に大変なのだろう。来年は作らないかもしれない、この言葉が現実味を帯びてくる。もし香港の店でこの話をしていたら「こんないいお茶、勿体ない、ずっと作ればよいのに」と暢気なことを言っていただろうが、現場を見ながらだと、とてもそんなことは言えない。

高さんと先に帰ることにした。高さんは茶畑を歩きながら「この辺りは実は毛蟹の産地なんだ。勿論鉄観音もあるが、量は多くない。毛蟹を作る茶葉は一目で分かるよ。このちょっと薄いヤツ」と言いながら、葉を手に取る。残念ながら私には直ぐには違いは分からない。高さんは20歳過ぎまでこの地で育ち、茶を見て、実際茶葉を摘んで、育ってきた人。まさに年季が違う。

家に戻るとおばさんが「芋、蒸かしたぞ」と手に持って食べている。私も貰って食べてみると、何とも懐かしい蒸かしイモの味がした。炊飯器で蒸かしている所が面白い。この家、家具はあまりなくシンプルだが、茶を作る道具や籠などは骨董品の部類に入るほど、見た感じが良い。

夕飯は昼ご飯の残りをおじやにしていた。このシンプルさ、実によい。そして美味い。決して豪華ではないが、健康的で、かつ物を無駄にしない生き方。芋も食べていたので、これで十分だった。人間は良い生活環境があり、適度な食事があり、適度な仕事があれば、健康的な一生を送れるのだろう。昔の人は皆このようにして暮らしてきた。それが経済成長だとか、お金だとかいうものに全てを狂わされてしまった。自分の作った物を自分達で食べていく、その生活が壊れて以降、人々には余裕が無くなり、お金の奴隷になってしまったようだ。この村へ来て、感じることは実に多い。

夕食後、張さんが茶を淹れてくれた。お客が来た、ということで、村の人も顔を出す。みんな張さんに「今年の茶はどうか」と聞いている。彼は黙って茶を淹れて出す。基本的に閔南語で話すので良く分からないが、「雨が多い」とでも言っているようだ。そして張さんが私に「今年の春茶は終わった」と一言。でもまだ茶葉が沢山あるだろうというと、「雨で伸びすぎた、良い茶はもうできない。あれだけ苦労して不味い茶を作る気はない」ときっぱり。職人さんなのだ、張さんは。

2階では午後9時まで作業が続いていた。茶作りのシーズンだけとはいえ、男も女も重労働だ。これであまり儲からないとなると若者が逃げ出すのも分かる気がする。しかし美味しいお茶を作るとはそういうことなのだ。



鉄観音の故郷を訪ねる2013(1)厦門 13年に一度の厦門訪問

《安渓 鉄観音の故郷を訪ねる》2013年5月4-10日

香港で12年付き合っている茶荘、茶縁坊。その独特な焙煎で日本人にも好みの鉄観音を売っている。2001年の開店以来、何度も彼らの故郷、福建省安渓の茶畑を訪れたいと思っていた。だがその数日がなかなか工面できずに今日まで至る。

先日茶縁坊でのんびりと茶を飲んでいると『このお茶もいつまで飲めるか分からない』としんみりと言われる。理由は茶農家の高齢化。親戚から茶葉を調達しているが、既に60代で、後継者はない。今年は作るが来年は分からない、と。そう聞くとどうしても行きたくなる。既にインドネシア行の予定があったが、無理やり時間を作り、出掛けることにした。

2013年5月4日(土)  1. 厦門まで  フライトキャンセル

2日の夜、ジャカルタから香港へ戻り、翌日は香港大学日本研究科の発表会を見学。そして次の日は厦門。結構きついスケジュールだ。寝ようとしているとメールが届く。『明日のフライトはキャンセル』と。え、どうするんだ?続いて携帯に電話が入る。3時間後のフライトに乗れ、さすがドラゴン航空、きちんと対応はしている。ちょうど昼のアポが入らなかったので、特に問題はない、ゆっくり行こう。

翌朝軽く寝坊して、空港へ向かう。空港で自動チェックインを試みるもはねられる。『既にチェックイン済み』とか。フライトがキャンセルになったのにチェックイン済みとは何だ。カウンターで行列を待つ。聞けば『もともとのフライトにオンラインチェックインしたので、自動的にこの便にもチェックインしている』。うーん、納得できない。ちょっとフラストレーションが溜まり、何と空港内でサボテンのとんかつを食べてしまう。こんな店が空港内にあるところが香港のすごさ。

飛行機は当然空いていた。2つの便を一つにしても赤字かもしれない。今日は土曜日、そんなことも影響がるのだろうか。1時間ちょっとで厦門高崎空港に到着。厦門は近いな。ここの空港は13年ぶりだが、当然立派になっていた。だが、なぜか飛行機から降りた我々が歩いていく先でほかの乗客がコーヒーを飲んでいた。トランジットかもしれないが、あまりみな光景だった。

空港から市内までタクシーを使わずバスに乗ってみる。10元。乗客は少ない。今や中国もスピード時代。バスは30分弱でコンロス島に渡るフェリー乗り場に着いた。しかしここから今日の宿泊先である華僑大廈への行き方がわからない。運転手が『向かい側のバス停から3番のバスに乗れ』というので、バス停に行ってみたが、降りる駅がわからず断念。タクシーに乗るとあっという間に到着。10元。

2. 厦門   華僑大廈

華僑大廈、この名前ほど懐かしいホテルは中国にはない。1987年、福建省を旅した際、福州、泉州、厦門(http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/china/mukashi08guilin.htm)でお世話になったところである。当時ホテルは事前予約もできず、直接行っても直ぐには『部屋がない』などと言われ、交渉に交渉を重ねて泊まる、そんな時代に、この華僑大廈は何のチェックもなく、泊めてくれた。しかも当時留学生だった私は『台湾香港同胞料金』という特殊ルールの恩恵にあずかり、料金も安かったのを覚えている。何とも有難いホテルだった。

今回厦門に来るにあたり、宿泊先として13年前に泊まった鷺江賓館(http://hkchazhuang.ciao.jp/chatotabi/china/teatrip_05.htm) をまず考えたが、料金は当時の3倍にもなっていた。ロケーションが良いうえに、改修もしたようだ。そこで華僑大廈となったわけだが、ここも当然改修されており、きれいになっていた。ネットで予約した料金はそれほど高くなかったのでちょっと不思議だったが、その理由は本館の横に別館が敷設されており、こちらはビジネスホテルという雰囲気だった。それでも従業員の対応はソフトであり、北京などと比べると非常に良かった。ネットはWIFIとケーブルの両方があり、助かった。

ホテルの周囲は完全に変わっており、全くわからなくなっていた。特に政府系の巨大な建物に違和感があった。中山路は歩行者天国になっており、きれいな店が増えていた。中国の発展とはそういうことだ。

散歩

中山路を少し行くと、古めかしい道があった。古城東路、観光客用の道だ。狭い両側には店が並び、特に茶が目立つ。新茶の季節だし、そもそも厦門と言えば鉄観音茶、というイメージはあるのだろう。だが、無造作におぼんやざるに置かれた茶葉を見ていると、何となく違和感がある。妙に青々とした茶葉が並べられている。本当はこんな茶葉なのだろうか?しかも異常に安い。

携帯電話の残金が気になり、足すことにした。その辺の携帯屋に入り、申し出ると店の主人が『日本人か』と聞く。最近最初から日本人かと聞かれることが少なくなり、ちょっと嬉しい。オヤジも『俺は一目でわかったよ』と自慢げだ。何故わかったのだろうか。

この辺りは古い街並みがあったはずだが、徐々に開発が進み、ビルが増えている。お寺もビルに収納されてしまったところがあった。その1階でお婆さん達がお茶を飲んでいた。昔厦門では街の至る所で小さなテーブルが出ていて、3-4人でお茶を飲んでいる光景が見られたが、今や昔となりつつある。

海に近づくと中華城という洋風建築を改修した建物が並ぶ。きれいではあるが、ブランドショップなどが入り、特に厦門らしさはない。厦門は今や中国でも有名な観光地であり、全国から来る人々の落とすお金が重要な収入になっている。中山路はもっときれいに改装され、週末の歩行者天国は人であふれていた。台湾関連のイベントも行われおり、台湾を前面に出した商品販売も盛んに行われていた。

中山路を突き当たるとそこは鷺江賓館。地下道を通り、海側へ行くとコロンス島へ渡るフェリーがある。往復で8元。13年前は1元。そんなものだろう。コロンス島は静かないいところだったが、今はどうだろうか。行ってみたい気もしたが、今回はやめておこう。人が多すぎる。天気はいま一つだが、雲の合間からほんの少し太陽がのぞく。何だか疲れたのでバスに乗ってホテルに帰る。

夕飯

今回偶然にも東京のお知り合いK夫妻がGWの旅行で厦門に来ていた。彼らは本日永定県の土楼見学に行っており、いつ戻るか分からない。連絡待ち。7時に彼らが泊まっている泰谷飯店へ。ここは海辺で出来て1年。きれいなホテルだったが、周囲に食べるところがない。ホテルに聞くと有名なレストランを紹介してくれたので、タクシーで向かおうとしたが、運転手は誰もそこには行きたくないらしい。なんで?『高いだけで美味くない』らしい。

 

結局運転手が連れて行ってくれたのは大通りからちょっと入った海鮮レストラン。エビやカニ、魚など自分で選んで調理してもらう。K旦那が張り切って選んでくれた。テーブルの上は皿だらけとなり、3人で食べきらないほど。しかも主食として頼んだ麺は直ぐに来てしまい、伸びきる。

 

K夫妻は二人とも中国に関係する仕事をしているが、旅行で中国を旅する機会は多くない。今回は厦門まで来て、そこから雲南省へ行き、日本へ帰る途中、最後の日を厦門で過ごしていた。私も明日から安渓だ。すごい偶然、いや必然。何だか楽しく話をしてしまった。

 

食後は厦門の夜道を歩いてみる。午後10時、脇道に入ると昔のアモイが蘇った。暗い、店はすでに半数が閉まっており、道にはごみが散乱していた。古い建物の下の食堂と果物店は開いていた。Kさんがドリアンを買う。それは何となく映画のセットのようで面白い光景だった。

 

雨が降り出したのでタクシーを探して帰る。厦門の旧市街、狭い道を抜けるとそこには明るい新しい厦門があった。



黒茶を訪ねて梧州へ2013(3)山の中のプレハブ茶工場

六堡鎮

昼時となり、六堡鎮で食事を取ることに。鎮にも小川が流れ、何となく風情のある田舎町だ。古い街並みが良い。ただ最近建てられた住宅もあり、発展がまだら状態。骨董屋と思われる1軒に入ると、古めかしい籠に六堡茶が詰められて売られていた。お茶も骨董の域か。面白い。尚この籠、日本の女性には大人気。ただ嵩張るので持ち帰るのは大変。

お茶屋に入るとおばさんが枝取りに精を出していた。オジサンは悠々と新聞を読む。我々客が来ると相手はオジサンの仕事だ。お茶を淹れて出す。実に素朴な人だった。良く見てみるとオジサンが飲んでいたのは六堡茶ではなく、紅茶。最近の紅茶ブームを当て込んで、六堡茶に使う葉で紅茶を作ったという。こんな所にまで商業主義が蔓延っているのか、それとも好奇心の強いオジサンなのか。

お茶屋の隣の食堂に入る。いきなり目に入って来たのは、大きな容器に入った蛇。蛇やマムシを漬けた酒だ。何故か元気を取り戻した李さんが『これ飲むか』と聞いてきた。勿論断ったが、既に2階では昼間から大宴会が開かれており、騒々しい。

弟さんは早々に厨房に入り、おばさんと何やら交渉を始めた。おばさんが生きたニワトリを手でつかみ、勧めている。今から鶏を絞めているとどれだけ時間が掛かるのだろうか。裏には鶏が沢山籠に入れられていた。鳥インフルエンザが取りざたされている昨今だが、この田舎には全く関係がない。私も郷に入れば郷に従うのみ。

確かに出てきた白切鶏は本当に新鮮で美味かった。梧州の街中では食べられない新鮮さ、ということで、李さん達もバクバク食べた。野菜たっぷりのスープも美味。本来静かな田舎町だが、何故か今日は酒が入り、隣は大混乱。何か祝い事でもあったのだろうか。それとも茶作りが一段落した余暇であろうか。

山の上のプレハブ茶廠

さっきのお茶屋のオジサンが『もう少し山の上にも茶工場が出来たぞ』との情報をもたらしていたようで、食後我々は更に山を登って行った。20分ぐらい行くと、突然プレハブの建物が見えてきた。車が停まり、李さんが降りていく。男性が4人、トランプに興じていたが、なぜこんな山の中でトランプ?

何とこのプレハブが茶工場だったのだ。そしてトランプしている人々は茶葉が届くのを待っていた。李さんはもう完全にお茶屋さんモードとなり、真剣な目つきで製茶された茶葉を見、建物内にズカズカ入り込み、勝手に湯を沸かして茶の試飲を始めた。私も飲んでみたが、特に美味い、とは感じられず。六堡茶など黒茶類は出来たてが美味い、という訳にはいかないので当然か。ただ李さんは気にいった茶があったようで、そこのオジサンと交渉を始めた。これはプロでないと見抜けない。

そして茶畑を見に行くことになった。畑は更に山を登る。海抜も分からない、と言われてしまったが、結構高いはずだ。眺めは良い。ところに・・異様な人々が。そこにはライトバンが停まっており、カメラを構えたオジサンが3人。そしてバンから女の子が2人降りてきた。その子達は何と日本の浴衣を着て、ポーズを取る。チャイナドレスにも着替えていた。どうやらコスプレ撮影会のようだが、何とも異様だった。李さん兄弟はその反対側の茶畑で写真を撮り合っている。

再び工場に戻ると、ちょうど山から茶摘みを終わって茶葉を担いできた女性と出会う。早々に茶葉を確認する。更にはオートバイで運ばれてきた茶葉を見る。李さんはここでいくらか仕入れた。決済は全て現金。梧州に持ち帰り、評判が良ければまた買い足すという。帰りは来た時よりはかなり楽だった。比較的早く梧州に戻った。

4.梧州2  チケットが無い

梧州でも目的を果たして満足に浸る。李さんに『これからどうするだ」と聞かれ、ふと我に返る。どうするんだ?バンコックのポーラからは賀州という風光明美な場所があると教えられていたので、行って見ようかと思ったが、李さんによれば、『古い民家も大自然も郊外にあり、バスでは行けない』という。それはそうだろう。

賀州を諦めるとあとは香港に戻るしかない。体調も万全とは言えないし、今回は梧州で満足しよう。バスターミナルへ行き、チケット購入を試みる。ターミナルは大混雑で、長い列が出来ていた。中国では見慣れた光景だが、やはり効率が悪いのだろうか、または何かトラブルでもあるのだろうか。

20分ほど待って自分の番がやって来たので『香港』と告げると、『コンピューターが壊れているので空きがあるかどうか分からない。ここに電話して聞け』と番号を教えられる。そうなら最初からそう表示して欲しい、とは思うが、ここは中国。李さんが電話してくれたが、何と何と、香港行き直通バスは3日後まで満席だった。どうする?李さんは直ぐに窓口に戻り、満席だと告げ、代わりにシンセン行きを買ってくれた。明日朝9時発、これで方向は定まった。シンセン行きは一日数本あったが、どれも人が多いようだった。高速鉄道が開通するとこの様子も一変するのだろう。

夕飯は最後の晩さんではないが、李さんとオジサンと3人で梧州名物?海鮮粥を食べに行った。私はお粥が大好きな人間だが、ここの粥は本当に美味しかった。中国でも北部は白粥に塩の効いたピーナツなどを入れて食べると美味いが、やはり南のドロッと煮込んだ粥が良い。今回はそこにエビ、カニなどがふんだんに入っているのだから堪らない。

オジサンからは茶について色々と聞いた。市政府はお茶の新興より不動産収入に力を入れているようで、六堡茶の知名度は昔より上がっているが、それでも将来は楽観できないという。中国の茶業も曲がり角に来ているようだ。

4月14日(日)  香港へ

今朝は早めに起きて、帰る準備をする。六堡茶は散茶にしても、籠に入っているなど意外に嵩張る。十分に時間を余してチェックアウトし、バスターミナルまでタクシーを拾おうとしたが・・。日曜日の朝ということか、タクシーの姿は一台もない。5分待っても通る気配すらない。これは困った。取り敢えずバス停で見てみると1台だけターミナルを通るバスがある。仕方なく、これを待つが、これまた来ない。他のバスが来ると聞いてみるが運転手は首を横に振る。歩いて行ける距離でもなし、どうするか。

そう思っていたところへタクシーがやって来た。慌てて乗り込む。聞けば、偶然今朝は出勤したらしい。普通日曜日の朝は商売にならないから、タクシーは休みが多いと。この辺りは宵っ張りの土地柄。朝はゆっくりお休みか。

ようやくバスターミナルへ着いた。既に疲れていた。シンセン行きのバスは定刻に出発。街を抜けるとそこも開発ラッシュ。そこかしこの土地を掘り返している。これが今の中国の実態。その後はまた長閑な田園風景が長く続く。まだまだ土地はあるように見える。6時間後、シンセンへ到着した。やはり香港直通バスは便利だった。




黒茶を訪ねて梧州へ2013(2)梧州茶廠と六堡鎮を見学

梧州茶廠

ホテルからタクシーで5分、梧州茶廠に到着。入り口の門が何となく古めかしくてよい。この工場は1953年に作られ、今年がちょうど60周年。60年間、この場所で茶を作り続けている。正面に陳列館と書かれた博物館がある。何故か工場長が正面に居て、挨拶する。

陳列館には創業以来の歴史が飾られていた。特に驚くのは六堡茶でも1950年代からプーアール茶と同様の熟茶の製法が行われていたこと。熟茶は1974年に雲南省の茶葉研究所が製法を開発したと言われているが、六堡茶の世界ではそれ以前から作られており、実は民間では解放前からあった製法だと言う。陳列館2階の事務所で李さんのオジサンから話を聞く。

また1971-79年の文革中には、湖南省益陽と同じ、茯茶(茯磚茶)を作っていたこと。これは政府の命令だったようで、その後は採算が合わないことから製造を止めている。益陽では政府の補助があるから作っていると言っていたが、実際には補助があっても儲からない、場合によっては赤字になるらしい。

この付近では基本的には現在六堡茶しか生産していない。80年代、黒茶は全く売れなかったようで、廃業した所も多かったようだ。梧州茶廠は実質的に国営であり、生産が続けられたが、長い間低迷が続いた。2005年のプーアール茶ブームで、同じ種類である六堡茶にも少しずつ関心が向けられ、生産が向上したらしい。

ただ梧州茶廠は未だに株式制などへの改組が行われていないため、商業意識がもう一つで、市場の波に乗れない、との話もあった。この辺は益陽茶廠が2005年に改組し、収益重視の生産体制になったのとは異なっている。工場に入ることは禁止されている。説明によれば、倉庫なども木の板が使われており、60年間の六堡茶の茶香が漂っていて、とてもいい匂いがするらしい。このような伝統ももし収益重視になれば替えられてしまうかもしれないので、変革が全て良いとは限らない。

ちょうど我々が工場へ行った時、市の書記が視察に来ていた。だから工場長が正面玄関に立っていた訳だ。市政府の支援ももう少し欲しいとのこと。この視察を機に市を揚げて六堡茶の売り込みに努めてほしい。

李さんの店

市内にある李さんの店へ行く。この店はオジサンがオーナー。オジサンは何と80年代に安徽省にある農業大学、通称お茶大学を卒業して、地元に分配(配属)で戻ってきたが、六堡茶及び梧州茶廠の低迷により、直ぐに飛び出し、自ら商売を始めたらしい。お茶の知識は相当にある。この店は私の泊まっているホテルとは街の反対側にあり、市政府などがあるので、街の中心と言えるが、茶城が我がホテル周辺に移っているため、少し不便。常連客は沢山訪れるが、観光客が来るような場所ではない。勿論彼らの主業は卸しだから、それでよいのだろうが。

昼時になると当然のように飯へ行く。近くの地元レストラン。先ずは例湯が出る。この辺が実にいい。しかも美味い。李さん曰く、「我々両広人は、スープが無ければ始まらない」と。両広人とは広東、広西の2つを指すと思われるが、何だか清朝時代の両広総督を思い出す。それ程にこの2つは密接なつながりがある。ましてやほぼ広東省に近い、ここ梧州は広東の影響を大きく受けているのは当然であろう。それから白切鶏が出て、大腸ときくらげの炒め物が香ばしい。うーん、私の味覚に合っている。嬉しい。オジサンもジョインして、飯を何杯も食う。

日がな茶を飲む

午後も雨模様。今日は何もできないね、とばかりに、店で茶を飲み続ける。六堡茶といっても相当沢山の種類がある。レンガ茶もあれば茶餅もある。可愛い籠に入れた散茶もある。店には大きな古い木の桶に散茶が入っている。良く見ると葉っぱのまま、発酵させた茶まである。

時々常連客が入って来て、茶を飲みだす。ある客が入って来た時、李さんが『70年代の散茶だ』と言って、取って置きの茶葉を取り出した。それはまるで枯葉。そして信じられないほどにマイルドで、心地よい。その客も気にいって、クレジットカードを取り出し、決済を始める。1斤、3000元以上もする茶を何気なく買っていく。聞けば別の街の不動産業で成功したオーナーだとか。

お客も入って来るが、物を売り込みに来る者もいる。南寧から来たという女性二人組、お茶ではないが健康に良いという飲み物を持ってやって来て、店で実演販売を始めた。お客もちょうど良い話題が出来たということか、興味津々で話に加わっていた。が、彼女らが去ると『最近あんなのが多いんだよな』と。田舎の人は人が良いのか。

開発ラッシュ

あまり長い時間お茶屋で座っていたので、腰が痛くなり散歩に出た。市政府があるこの周辺は梧州の街の中心街であり、オフィスビルとマンションの建設ラッシュとなっていた。特に河沿いは軒並み掘り返されており、タクシーで走ると、その様子がよく分かった。この街にはどう見ても不釣り合いな43階建てのコンプレックスビルまで登場しており、その過熱ぶりが分かる。

『全ては高速鉄道のお蔭だよ』とタクシーの運転手は自嘲気味に話す。広州から南寧までを通す高速鉄道の駅が梧州郊外に出来ることから、ここ数年開発ラッシュに沸いている。もっとも当初の予定では既に開通しているはずだったが、前鉄道部長の逮捕に絡んで、多くの鉄道案件が遅れており、この線に関しても完成は1年以上遅れている。一時1㎡1万元を超えていた不動産価格も、最近は8000-9000元まで値を下げていたが、それでもこの田舎町としてはかなり高い。金融引き締めもバブル崩壊もなんのその、中国の遅れた地方都市は起死回生の一発を狙っている。

タクシーの運転手は東北遼寧省の出身だった。こんな南の方まで何で来たのだろうか。『何となく流れて来たんだ。でもこの辺はいい所だから居着いてしまった。大都会は性に合わないし、東北に帰るにも仕事が無い』。中国は広いが、それにしても故郷を離れている人のなんと多いことか。

夕飯は李さんと牛肉鍋を食べる。単に鍋に牛肉を入れるだけだが、この生姜ペーストのたれが美味しい。梧州は牛の産地なのだろうか。店はこの街で人気のあるところだと言っていたが、なるほどどんどん人が入ってくる。地方都市ほど食事にお金を掛ける比率が高いというが、全くその通りだ。

4月13日(土)  朝飯 でかい粥

翌朝もホテルで朝食。昨日の量の多さに懲りて、お粥だけを持ってきてもらう。ところが、そういうお客もいるのか、お粥のどんぶりが半端なくデカい。これと豆乳で朝から完全に腹一杯。昨日は悪口を言ったこの店だが、いい所もある(変わり身が早い私)。

ホテルに李さんがやって来た。今日は嫌がる李さんを説き伏せ、六堡茶の産地へ向かうことになっていた。車は弟さんが運転。彼も別の店で茶を扱っているという。若干雨模様の中、いざ出発。

3.六堡鎮  六堡鎮へ

梧州の街を抜けると、いくつかの工場があり、その先は畑が広がっていた。そして30分ほど進んでから、山道へ入る。最初は広かった道がどんどん狭くなり、そして分かれ道ではどちらへ行くのかさえ、分からない。表示もなく、勿論聞く人もいない。過去に来たことのある李さんの勘を頼りに進んでいたが、何とその頼みの李さんが体調不良を訴える。恐らくは元々車に弱い体質なのだろう。だから昨日もあれだけ親切な彼が『村へ行く山道は大変だ。雨季で道がぬかるんでいる』と行くのを拒否していたのだ。悪いことをしたと思ったが、しかし私は進むしかないのだ。

1時間半ほど掛けて六堡鎮に到着。周辺には茶畑が広がっていた。その中に古風な建物が見える。近寄ると六堡茶廠と書かれている。ここが六堡茶の故郷なのだろうか。実はこの茶廠、昔は隆盛を誇った時期もあったが、1980年代には一度倒産し、最近の街興しで、別の街の人間が投資して再興したとか。六堡茶には不遇の歴史がある。

茶廠の裏には畑があったが、それほどの面積はない。昔は広大な敷地に茶樹が所せましと植えられていたが、その後茶の販売が低迷、100年単位の貴重な茶樹がかなり切り倒されて、畑に替えられたという。たまたまあった樹齢100年の木を見たが、100年でもまだか細い感じがした。改革開放により、国有企業が少しずつ立ち行かなくなった様子が分かる。

茶廠の対面にも茶畑がある。なだらかな丘を登ってみてみる。数人の女性が作業しているので聞いてみると『既に1回目の茶摘みは終わった』とのことで、今日は雑草取りを行っていた。ちょうど4月中旬ごろに茶摘みが行われていると聞いてきたのだが、天候不順で一足遅かったようだ。




黒茶を訪ねて梧州へ2013(1)ご縁が繋がり梧州に着く

《梧州お茶散歩》2013年4月11-15日

2012年、バンコックでお茶会を始めた。その時、バンコック市内でプーアール茶の店を開いている中国人、ポーラと知り合った。彼女は英語もタイ語も出来たが、普通話でお茶の話をするとすぐに意気投合した。これもお茶の力だろう。ポーラの出身地は雲南省ではなく、広西壮族自治区玉林。この近くに梧州という街があり、六堡茶と産地なので行って見ると良い、と言われ、行くことにした。アレンジはポーラが梧州のお茶屋さんに連絡してくれ、受け入れてくれることになった。だが香港から梧州までどうやって行くのか?何となく佐敦を歩いていると、偶然にも梧州行き直通バスを発見。これで行くしかない。

4月11日(木) 梧州まで  直通バス

実は前日は体調がすぐれなかった。梧州行きを一日延期して、今日にした。バスで7-8時間掛かると聞けば、体調が悪いととても耐えらないと判断した。それは正解で体調は回復傾向になったが、今度は雨が降っていた。DBからバスに乗る。いつもはサニーベイでMTRに乗るのだが、何故かその日は東涌行きに乗る。それ程時間は違わないと思っていたが、それは大きな間違い。東涌まで5分程度余計にかかり、東涌からサニーベイまで7分かかる。そんなことが積み重なって気が付いてみると、バスの集合時間が迫っていた。雨の中何とか走って集合場所へ。

バスは12時半に乗り場にやって来た。流石香港は正確だ。その後九龍駅のターミナルを通過、ほぼ満員の乗客。だがこの人々、香港人なのか、広西人なのかよく分からない。運転手も含めて、皆が広東語を話している。因みに運転手は2人いて、交代で運転していた。これも珍しい。安全対策だろうか。1時間弱で境界線のあるシンセン湾に到着。ここは以前も通ったが、通行者が比較的少なく、スムーズに越えられる。今回は特に人が少なく、あっと言う間に中国側へ出てしまった。ここでゆっくりとトイレに入り、これからの長旅に備えた。約1時間待って、全員が集合し、出発。

広東省内をバスは走る。相変わらず雨が降っており、景色は良く見えないが、家が並んでいる所あり、水田地帯あり、でなかなか面白い。1時間半ほど経つと、乗客の女性たちが騒ぎ出す。どうやらトイレ休憩を要求しているようだが、運転手は何とイヤホンをして運転。最初は聞こえていないようだった。運転中にイヤホン、有り得ない。結局それから40分ほどして休憩。ところがそこで何故かバスの修理が始まる。これはハプニングかと思ったが、20分ほどで終了。その間、乗客はマントウや団子などをゆったりと食べて待つ。

あたりが暗くなりかけた午後7時、無事梧州に到着。私は今回の受け入れ人、李さんの言うとおり、最後までバスに乗り、麗港酒店で降りて、そのホテルにチェックインした。

2.梧州  ホテルの周囲は茶屋だらけ

麗港酒店は思っていたより、ロビーが立派なホテルだった。料金表も500元以上したので、どうしようかと思ったが、体調も考え、泊まることにした。ただ料金を聞いてみると338元、そして部屋へ行って見ると、何と、相当広い部屋で、かつ横を流れる西江が良く見える良い部屋だった。浴槽も付いていた。朝食付きでこれなら安い。

逆に広すぎて、寒く感じるほど。兎に角4月だと言うのに、気温は20度以下。今日は雨も降っていて、一層肌寒い。ネットはケーブルで繋がったが、スピードは遅い。まあ、繋がるだけマシか。体調を考慮して、李さんの夕食の誘いを断ってしまった。申し訳ない。夕食を抜くことも考えたが、朝も昼も食べていないので、粥でも食べようと外へ出た。驚いたことにこのホテルの回り、お茶屋ばかりなのだ。何故だろうか。そしてレストランはあるが、海鮮ばかりでとても食べられない。この辺は観光客が多い所なのだろう。

少し歩いて見たが、この街は川沿いにかなり細長い。粥屋は見付からない。帰ろうかと思った時、牛排粉という字が見えた。何となくウマそうでその半屋台の店へ入る。牛排粉とは、きしめんのような麺に、文字通り骨付き牛肉がドカンと入っているスープ麺だった。腹が減っていることもあったが、このスープが腹に浸みた。美味い。麺も結構量があったが、あっと言う間に平らげる。これで8元。安い。帰りは気分よく戻る。寒さも感じなかった。

4月12日(金)  李さん登場

朝、船の動く音で目覚める。ここは河沿い、カーテンを開けると曇り空ながら、河と向こうの山が見える。何とも長閑な景色、今回私はこの景色を見るためにここへ来たかのようだった。梧州は歴史的には古い街、広東省へ流れる珠江の源流である西江を要し、以前は交通の要所として、商業で栄えた。お茶の集積地がここにあるのも頷ける。

何だか体調も良くなり、朝飯を食べる。お粥を探そうとしたが、ここは最初からセットメニュー。お粥と焼きそば、野菜炒めとフルーツ、それに豆乳が付く。これは多過ぎた。お粥と豆乳で満足。ここの従業員は非常に若く、接客業には全く不慣れな若者ばかり。セットメニューを持ってくる以外、何も考えられないようで、何となく微笑ましいが、やはり困る。ここにも労働力不足の一端が見えた。

9時過ぎにバンコックのポーラから紹介された李さんがやって来た。想像していたより若い。35歳。角刈りでちょっと怖そうな印象があるが、日本の俳優にもいそうななかなかいい男だ。最近結婚したと言う。オジサンと一緒に店をやっており、既に10年選手だ。部屋で六堡茶について色々と聞き始めたが、六堡鎮という産地へ行くのはかなり大変であるという。道が悪いらしい。特に今は雨季、車で進めるかどうか。茶の歴史については先ずは何はともあれ、茶工場へ行くことに。そこで分かると言う。




ご縁で行く湖南省茶旅(3)益陽 安化紅茶を発見、益陽茶廠は国家機密

10月15日(月)  3.益陽2  安化紅茶を発見

翌朝は前日の疲れがあり、ホテルでゆっくり過ごす。それでも今日の工場見学の段取りが全く分からないので11時頃に、昨日のお礼も兼ねて、総代理店に顔を出す。今日は雨も無く、いい気分で散歩した。

総代理店に行くと、既に工場側には私の訪問が伝わっているので問題ないと言われ、そしてまた昼時となり、奥でご飯をご馳走になった。一昨日同様、実にうまかった。たらふく食べて、またお茶を飲む。実によいランチだ。

何気なく、店の棚を見ていると、殆ど黒茶しかないその棚の隅に、見慣れぬものがあった。安化紅茶、と書かれていたので興味を持つ。店の人曰く、「安化紅茶はほぼ全量がイギリスなどへの輸出であり、地元の人も殆ど飲まない」と。

実はこれから東京へ戻り、あるセミナーで「アジア紅茶の旅」という話をすることになっていた。まあ、話のタネにと思い、飲んでみると意外とおいしい。そこに売っていた箱を1つ買う。結構高かったのでビックリ。まあ、茶工場のアレンジやら、食事代やら考えれば、このお店に貢献するのもよいかという気分になる。

後日このお茶をセミナーで提供した所、少なからぬ反響があり、また驚いた。「安化と言えば黒茶、紅茶など誰も知らない」「安化紅茶を飲んでみたい、取り扱いたい」との話もあったようだ。日本人の新しい物好きか。

安化紅茶の資料は少ないが、調べてみると「1915年のパナマ運河開設記念万博(開催地はサンフランシスコ)で祁門紅茶と並び、金賞を受賞した」とある。何と歴史的な紅茶だったのだが、今では完全に忘れ去られ、ほぼ全量がヨーロッパに輸出されているとの説明を受ける。ごく一部の愛飲家ののどを潤すだけとなっているようだ。これも貴重な茶との出会いである。

益陽茶廠

一旦ホテルに戻り、休息。2時半に再度お店へ行くと、何だか雰囲気が少し変。奥さんが申し訳なさそうに「実は急用が出来たので、一緒に工場に行けなくなった。あんた、一人で行って」という。一人で行くのは良いが、場所はどこでだれと会えばよいかと聞くと「工場はタクシー運転手なら誰でも知っているから問題ない。会う相手は私も知らないので、工場で聞いてくれ」という。

中国ではこういうことはよくある。決して相手に悪気はない。だが、振られた方はそれを無理難題と感じるだろう。その時の私もそうだった。それでもご縁で旅をする私、取り敢えず行ってみようと表へ出てタクシーを停めて「益陽茶廠」と言ってみたが、運転手は「それ何処にあるんだ?」とのっけから座礁した。結局タクシーの中から店の看板に書かれた電話番号に電話し、奥さんから運転手に行き先を告げてもらった。やれ、やれ、こういう所は中国的いい加減さ。

タクシーは街中を抜け、益陽郊外へ出た。そこには工場団地がある。そして何とその工業団地の一つの工場の前で停まる。ここだ、降りろ、と言われ、門の守衛さんに「工場見学に来た者ですが」と言ってみたが、「誰を訪ねて来たんだ」とつっけんどんにかわされる。こうなることも何となく想定内。

あーだ、コーダ、言っている内に守衛もどこかへ連絡を取り、ビルを指してあそこへ行けという。ビルに入っても受け付けも何もない、途方にくれ、適当なオフィスに入って聞くと、「それなら4階かも」と言われ、何とか辿り着いた。今は株式制に移行したようだが、如何にも国営体質。どう見ても客より工場の方が偉い。   

それでも広報担当の女性はにこやかに工場の歴史を説明してくれ、概要を掴む。元々は安化にあった工場を1958年に益陽に移転。当時は何もなかったが、今では工業団地の中に入ってしまった。国営工場として、主に辺境茶の生産に注力、文革中でも生産を止めなかった。現在でも辺境茶のシェアは約25%で全国一。新疆を始め、青海、チベット、内モンゴルなどへ納入している。2010年の上海万博ではブースを出し、宣伝活動に務め、北京や上海でもブームを起こそうとしている。2005年に株式制に移行、工場に勤務していた人々が株を持ち合っている。従業員325人。殆どが地元の人間だ。2008年には国家非物質遺産に登録され、「茯砖茶」の加工技術は国家機密に認定されているため、工場見学が原則禁止となっている。

そして同じ建物の中にある博物館に行く。ここでは技術責任者が案内してくれた。湖南省の黒茶の歴史は500年あまりあるが、従来茶葉を作るだけで加工は陝西省あたりで行われてきた。1939年に加工技術が導入され、新たな歴史が始まったようだ。だが国営工場であり、国の指示でレンガ茶を作って来たこの工場は、最近になり漸く儲かる茶業を模索しているという。千両茶の生産も復活させるとか。

帰りはタクシーもなく、歩いて行く。途中でバスも走っていたが、1時間掛けてホテルへ戻る。夕飯は面倒なので一人でホテル内レストランへ。ところが何と個室しかないのか、一人で部屋を占拠する羽目に。これもまた面白い。ウエートレスも愛想がよく、本当に心地よいホテルだ、ここは。

10月16日(火)  益陽を離れる

本日は午後の便で長沙から上海へ行くことになっている。先ずは益陽から長沙までバスに乗り、長沙市内からまたバスを乗り継いで空港へ向かう計画を立てた。

居心地の良かったホテルと別れ、タクシーに乗り込む。長沙行きのバスは東ターミナル。30分に一本は出ている。雨が強くなってきて、何だか気持ちが乗らない。バスは大雨の中、1時間ほどで長沙西へ到着。雨に濡れながら、市内行きのバスを探すがなかなか適当なのが見付からない。

取り敢えずトイレにでも行こうかと、長距離バスの建物に入る。何故か荷物検査を経ないとトイレに行けない構造になっていた。ふと見ると、「空港行き」という表示があった。そうか、ここから市内へ行かずに直接空港へ行くルートがあったんだ。言われた場所へ行くと今にも出発しそうなバスがあり、それが空港行きだった。あっと言う間に空港に着いてしまった。

私の乗る飛行機の出発まで3時間以上あった。他に飛行機に振り替えることも出来ずに、喫茶店で軽食を食べながら、ネットをして過ごす。私の黒茶の旅は足早に、そして満足できる内容で終了してしまった。




ご縁で行く湖南省茶旅(2)安化 女社長の誕生会に乱入し、千両茶作りを見学

安化への道

食後、私は明日どうすべきか聞いてみた。明日は日曜日、工場は月曜日にしか開かない。すると茶荘のオーナーが「八角茶業」と書いた。これはなんだ、と思っていると「じゃあな、俺たち、用事あるから」と言って、茶荘オーナーと茶葉局長は外出してしまった。取り残された私は茫然。「八角茶業」はどうなるんだ?

仕方なく店番していた奥さんに聞いてみた。「あ、ここは安化にあるよ、でも路線バスでは行けないね。うーん、地元の人しか乗らない乗り合いタクシーがあるから、明日の朝ホテルに迎えに行ってもらおう」と言い、電話してくれた。更にはこの「八角茶業」のオーナーにも電話し、明日の訪問の了解を取り付けてくれた。これで突然ながら、有名な安化へ行く道が開けた。何だかすごく簡単に事が運んでいる。

10月14日(日)  2.安化  安化まで

翌朝も天気は小雨。朝6時台に起きて、タクシーの運転手に確認の電話を入れたが、イマイチ要領を得ない。まあ、それでも待っていればいつか来るだろう。8時前にホテルをチェックアウトし、ロビーで待つがなかなか現れない。ちょっと不安。8時半前に普通の乗用車がホテル前にやって来て乗り込む。既に先客は3人、私は後部の真ん中に押し込められ、窮屈な旅となる。両脇は男女の若者。ちょうど街から村へ帰る所らしい。

最初は舗装道路を走って快適な田舎ドライブだったが、途中から本当の田舎道を走り始め、物凄く狭い農道なども走り、後部真ん中の座席はかなり大変な状況になった。後で聞けば、現在舗装道路の工事中とかで、已む無くこの道を通っているらしい。1年後ぐらいには益陽から安化までさっと走れるようになるのだろう。

およそ3時間、車に揺られた。これは結構堪えた。安化の街に入り、一人ずつ車を降りていく。実は安化に入る前に電話があった。女性からだったが、何を言っているのかよく分からずに、思わず隣の女性に電話を替わってもらった。彼女が受けた電話の指示を運転手に伝えた。そして・・。

川沿いの道でいきなり降りろと言われた。料金は70元だった。降りたがどうすればよいか分からない。キョロキョロしていると「八角茶業」の看板が見えた。助かった、と思い、中へ入ったが、そこにいたおばさんは無情にも「ここじゃない、あっちだ」という。

真昼の大宴会

どうしようかと又迷っていると向こうから女性がやって来た。こっちだ、という感じで、ずんずん先導していく。私が会うべき人物、鄧さんだった。レストランへ入る。既に人が沢山いる。一体何が始まるのか、そして私はどういう位置づけなのか、さっぱり分からない。

言われるままに奥の丸テーブルの席に着く。私の横に鄧さん、反対側には一番の長老であるおじいさんが座った。まさか私が主役ではいないよな、と不安に。今時どんな田舎でも外国人が来るからと、みんなが集まって宴会はないだろう。

おじいさんが何処から来たのか聞く。「日本人だ」と答えると、一瞬皆「え、」となる。良く見るとテーブルの向かい側には公安の制服を着た男性までがいた。あれ、どうしよう。するとおじいさんが「今回の野田(首相)のしたことは明らかに間違いだ」と言い始めた。これはまずいことになった、尖閣問題がこんな所で飛び出した。他の皆もどうしたものかと成り行きを見ている。

私は「政治的には日中は色々とあるが、私は純粋に皆さんの街のお茶の歴史を知りたくてやって来た者だ。安化黒茶について教えて欲しい」と率直に伝えたところ、誰かが「それはいいことだ」と発言、おじいさんも「好!」と言って、急激にその場が和んでいった。おじいさんも取り敢えず長老として、一言形式を述べたにすぎないという顔をして、その後は実に和やかに食事が進んだ。日本で報道されているような雰囲気ではなく、一つの儀式のようなものだった。

しかし鄧さんは今一つ浮かない顔で「そうか、お茶の歴史が知りたいのか、それなら街に詳しい人がいるかもしれない」などと言い出し、当初はあまり相手をしてくれなかった。というより、何故か皆が鄧さんに向けて白酒を突き出し、乾杯の嵐となる。これは凄い、真昼の大宴会だ。ようやくわかったのは、今日が鄧さんの誕生会だったこと。中国では誕生日の人が皆に御馳走するから、彼女も自分持ちで日頃世話になっている人、親せきなどを呼び集めたらしい。それにしても白酒のビンがどんどん空いて行く。恐ろしい。

料理も豪快だ。蛇の煮込みや虫の唐揚げなど、ワイルドな料理がテーブル中に並ぶ。久ぶりに辛い食べ物を堪能した。湖南省と言えば、辛い、というイメージほどではないが、程よい辛さの料理が多い。

鄧さんが酔っぱらって来た。するとしきりに私の方を向いて「よく来た、本当にこんな所までよく来た」と言い出す。そして「やっぱり、あんたは私のお客だ。私の工場を見に行く」と言い、宴会が終わると車に乗り込む。親戚数人がそれに続く。

安化千両茶の製造過程を見る

鄧さんは飲み過ぎで相当に気分が悪かったろうが、それから30分の山道を登り、工場に着いた。確かにここまで一人で来ることはほぼ不可能。これもご縁だな、と思う。雲っているが、空気も良い。

工場は思ったよりもはるかに大きかった。敷地内に入り、事務所で黒茶を飲む。何だかとても水が良いという印象。2009年頃までは普通の生産だったが、10年以降は生産が急拡大しているという。実はここでは黒茶だけではなく、春は緑茶、秋は紅茶も作っている。工場経営はそんなに楽ではない。

鄧さんはお父さんの工場を引き継いだ2代目社長。本日ちょうど40歳。私をどこかの茶商と間違えて、商売の話だと思って受け入れたようだ。本当に悪いことをした。だが、結果的には実によい出会いとなった。

そして工場へ入ると、何と千両茶を作っている所だった。これは滅多に見る機会がないと、写真を撮りながら見入る。千両茶は重さ千両からきた独特のお茶。茶葉を藁?に詰め、5人の男が足でそれを踏みつけ、転がして作る。これは大変な作業だ。伝統芸能的な雰囲気がある。殆ど作ることはなかったが、最近の黒茶ブームでニーズが復活、それでも毎日作っている訳ではないので、作業現場見学は貴重だ。

作業している5人のうち、熟練工は1人。後は若者。この作業は若者が良い。彼らは以前広東省などに出稼ぎに行っていたが、地元に職が生まれ、こうして故郷で千両茶を作っている。これが沿海部の人手不足現象の一端だと思われる。それにしても迫力がある。

鄧さんと工場前で記念写真を撮る。「来てくれて本当に良かった」と言ってくれたのが嬉しい。何だか鄧さん、泣いているように見えた。酔いのせいだろうか。

安化の街

親戚の人の車に乗り、安化の街へ戻る。「歴史を知りたいのならXXへ行け」と言われ、車に乗ったのだが、意図はよく伝わっていなかったらしく、運転していた人は「俺はよく分かんない」と言い出す。私も行く先の名前すら知らないので、こちらは諦めて、適当な場所で降りる。

今日は安化の街に泊まるつもりでやって来たが、何となく目的を達成したような気分になっており、また適当な宿も見当たらないことから、益陽に戻る道を探る。来る時はタクシーだったから、どうしたものだろうか。その辺の人に聞くと、バスターミナルを教えてくれたので向かう。ちょうど40分後に益陽行き最終バスが出るというので、切符を買う。

まだ時間があるので街を散歩する。実に古めかしい瓦屋根の家々が点在している。本当に昔の町並み、という感じで、空気も時間を超えている。資江という河が流れている。山に閉ざされたこの地域の唯一の道だっただろうか。この河が益陽に流れ、洞庭湖に流れ込んで行く。安化の茶葉もこの河を通じて運ばれていったのだろう。実に歴史を感じる風景だ。

バスは午後5時前に数人の乗客が乗って寂しく出発した。河沿いに道を取る。しかしやはり来るとき同様、道路工事の影響か、田舎の農道を走り出す。そうなると大型バスのこと、対向車とのすれ違いなどに大いに時間が掛かる。その内周囲は暗くなり、益々危険な感じがしてくれる。安化に泊まればよかったのだろうか。

一度トレイ休憩があったが、バスは3時間半ほど掛かり、益陽の街に到着した。益陽鉄道駅前で下車したが、既に相当に疲れており、タクシーを捕まえて今朝チェックアウトしたホテルに戻る。ホテルでは顔を覚えており、「昨晩泊まったお部屋は如何でしたか?宜しければ本日もこちらでどうぞ」と笑顔で言われる。安化で見たあの歴史的な風景とこの近代的なサービス、どちらも良いと思うのだが、突然都会へ戻り、少し戸惑う。





ご縁で行く湖南省茶旅(1)益陽 隣に座っていたのは茶葉局長

《湖南省お茶散歩》 2012年10月13-16日

8月に新疆ウイグルへ行った。その際、当地で飲まれているレンガ茶に関してその歴史を調べて欲しいと言われて、ウルムチで茶荘に入り、聞いてみたが、「俺たちは商売には興味はあるが、歴史には興味はない。もし知りたければ我々が仕入れている工場へ直接行け」と言われ、1枚にパンフレットを渡された。早速行こうかとその住所を見てビックリ。何と湖南省だった。ウルムチからは飛行機で3時間以上掛かる。その時点で「9月からはバンコック在住だし、湖南省なんて、当分は行けないな」とそのパンフを仕舞い込んだ。

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5378

ところが、やはり、湖南省が私を呼んでいた。東京へ帰ると小説家のKさんから「中国に取材に行くが、一緒にどうか」とのお声が掛かった。9月はトルコへ行くので無理だと思ったが、10月中旬でもよいという。そして何と、その取材場所に湖南省長沙が含まれていた。これは行くしかないと心が傾く。

更には東方航空でバンコック‐上海‐東京のチケットを買うと、何と上海‐東京と料金が殆ど変わらなかった。これは安い、行こう、となった訳。Kさんと上海で待ち合わせ、尖閣騒動直後の南京を日帰り、そして翌日飛行機で長沙へ。2日の取材を終えて、Kさんは一人上海へ戻って行った。そして私は、あのパンフの場所、益陽へ向かう。

1. 益陽  益陽まで  2012年10月13日(土)

ホテルで聞いて、益陽行きのバスに乗るため、長沙西のバスターミナルへ。タクシーで20元以上掛かった。そこでバスチケットを買うと28元。これが中国だなと思う。バスに乗り込むとローカルバス。田舎へ向かう。1時間ほど走ると街へ入る。益陽東で皆が降りる。取り敢えず降りようかと思ったが、運転手に聞くと、私が予約したホテルの所まで連れて行ってくれた。実に親切。

ホテルはネットで予約したのだが、かなりきれい。そして何より、スタッフの態度が良い。きびきびしており、笑顔がある。これは経営者の運営の仕方が良いな、と感じた。最近中国の地方都市では、ホテルの質に相当の差が出てきている。これは当たりのホテルかもしれない。

雨の益陽を歩く

今日は土曜日、そして夕方。小雨が降っており、ちょっと肌寒い。あまり外出したい気分ではなかったが、私にはレンガ茶の手がかりが無かった。唯一手にあるパンフの工場、当然土日は休みだろう。何故そんなことにも気が付かず、この日程で来てしまったんだろう。いや、今回私にはこの日程しかなかったんだ。私は呼ばれて湖南省に来ているのだから、きっと動けば何かが起こるだろう。

先ずは益陽の街で何か出来ることはないか、普段ならば、街をぶらつき、適当な茶荘に入り、情報を得るのだが、雨が降っていることもあり、ネットで益陽茶廠の総代理店を探す。ここなら工場の情報が得られると考えた訳だ。代理店はホテルか10分ぐらいの所あるようだったので出掛ける。

歩いて行くと、大きな卸市場のような所へ出た。建材屋などが軒を並べている。その脇に安化黒茶人文茶館と書かれた店があったので覗いてみた。黒茶の普及に務める、との謳い文句があり、黒茶が展示されている。担当者に黒茶の歴史を聞くと一通り説明してくれたが、細かいことは分からない、本に書いてあるとのことで、一般情報しか得られなかった。ここの2階はお茶を飲むスペースになっており、黒茶文化の普及と称して、商売をしているようだった。何だ、黒茶もただの商売道具か。

ある店の前には「尖閣は中国の物、日本商品排斥」などの幕が掲げられている所もあった。反日暴動から20日あまり、この田舎町でも何かあったのだろうか。私が温かく迎えられる素地はあまりないような気がした。

益陽茶代理店でいきなり

更に歩いて行くと数軒の黒茶屋さんがあったが、既に閉まっているか、薄暗い店内で寂しく商売をしていた。確かに雨の土曜日の夕方、人が来る気配もない。ようやく総代理店を探し当てると、そこには先客が2人いた。躊躇っていると「こっちに来て座れ」とのことで座る。「なんか用か」と聞かれたので、黒茶の歴史、新疆との関連などについて知りたい、と伝える。

すると隣に座っていたオジサンが、すらすらと答え始めた。時々中国ではそれほど知らないのに知ったかぶって大声で話をする人がいるが、このオジサンの答えは実に的確で、私の知りたいことを解説してくれた。特に新疆関連については「国策で作っており、儲けはそれ程ない。価格は政府の補助があり、新疆では安く売られている。文革中でも新疆やモンゴルの為に生産を止めることはなかった」という。

オジサンが「月曜日に工場は開くが、工場見学は一般人は出来ない。製造方法は一つの国家機密だ」と言い、店員が持って来たお茶に菌花のついた茶を指した。なるほど、菌が茶葉に付着し、独特の状況を作り出している。「だが、工場の隣に博物館がある。そこには入れるから月曜日に行くと良い」と言い、店のオーナーにアレンジを依頼してくれた。

このオジサン、一体何者だ。店内に黒茶関連の本が置かれていたので何気なく手に取ると、何とそのオジサンの顔写真が載っていた。黒茶の専門家で、かつ現在はこの益陽市の茶葉局の局長をしている人物だった。市政府に茶葉局がある、それで益陽市の支柱産業の一つに茶業があることが分かる。その局長と言えば偉いだろう。

オーナーが「飯だぞ」と声をかけ、局長たちが奥へ入る。「お前も食ってけ」と言われご相伴に預かる。ここの飯は実にうまかった。鶏肉は新鮮だし、味付けは濃いが、私に合っていた。湖南省の漬物はご飯に実によく合っていた。シーズンということで、蟹も沢山食べた。もう満腹だった。

食事の最中、私の経歴を話している中で日本人であることを告げると皆一瞬驚いていた。ちょうど反日暴動直後でもあり、「えっ」という雰囲気になる。私の中国語は決してうまくないが、その風貌と相俟って、日本人に見られることはまずない。局長が「日本とは色々とあるけれど、茶を飲んでいる人は友達だな」と一言言い、その場は和んだ。そして何故か一層食事が進んだ。そんなもんだ。




杭州日本茶の原点を見に行く2012(3)体調不良で昔泊まったホテルへ転がり込む

6月2日   4.  体調不良    ユースホステルを替わる

前日径山寺から戻り、西湖を眺めている内に体調不良に気が付く。兎に角体に力が入らない。ところが今日は宿泊先が満員の為にホテルを移ることになっていた。別のユースホステルを紹介され、そこの人が迎えに来てくれる。

今度のホステルは西湖から少し離れているが、やはり雰囲気は悪くない。ただ部屋がかなり狭い。窮屈感は否めない。取り敢えず昼を食べに出る。この付近も観光客が来るスポットがあり、レストランは賑わっていた。私は普通の食堂に入り、レバー炒めを食べる。これがなかなか美味しく、腹一杯食べてしまう。

そして、午後。本格的に体調が悪くなり、動けなくなった。ナンにもする気が起こらない。どうしようか。ひたすら寝る。それでも回復しない。明日は宜興へ行く予定だが、果たしていけるだろうか。それより、今夜の約束をどうするか。

実は今晩は北京時代の知り合いから紹介された中国人経営者と会うことになっていた。指定された場所はハイヤットリージェンシーの中華。何とか這って行き、食事をしたが、殆ど食べられず、彼に悪いことをしてしまった。彼との話の一端はコラムに書いている。

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5031

会食終了後はそれこそ喘ぐようにホテルに戻り、寝込む。もう宜興へ行く気力はなかった。

6月3-5日  5.   ホテルライフ  25年ぶりの予約

翌朝も目覚めは良くない。宜興へ行くにはここから遠いバスターミナルへ行き、そこからバスで3時間掛かるという。直感的に無理だと感じる。ではこのホステルで寝ているか、と言えば、正直それも辛くなっていた。体調が良ければ気にならないが、やはりこんな日は少し良いホテルにでも泊まって疲れを癒す必要がある。そこで思い付いたのが、25年前、上海留学中に泊まった友好飯店。調べるといまだにある。電話してみると予約が取れたので、先ずはそちらに移る。

友好飯店の思い出(http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/china/mukashi13hangzhou.htm )は何と言っても電話予約が出来たことと料金が予約時の4分の1になったこと。そして何よりも部屋がきれいだったこと。今はどうなのだろうか。

行って見るとやはり綺麗だった。最近改装したようだ。岐阜との合弁は既に解消され、中国資本になっていたが、サービスも悪くなかった。実は予約した時点では食欲がなく、朝食不要で申し込んだのだが、ここに来た瞬間腹が減ったので、朝食付きに変更してもらった。朝食なしの方が良い部屋だったらしいが、「25年前に泊まった老顧客」だと告げると、あっさり変更してくれた。

そういえば、初日に法浄禅寺を案内してくれたO先生は私が25年前に宿泊した当時、このホテルで働いていたという。その話で盛り上がり、ご縁が繋がっているのである。人はどんなところでどんな繋がりを持つかは分からない。

ホテルで寛ぐ

部屋は角部屋でベッッドはふかふかで快適。取り敢えず数時間寝る。この寝る環境というのが大切だ。若い頃バックパッカーで鍛えていた人なら出来るだろうが、私はその経験が無く、かなり長い間、人に紹介されるままに、または料金が安いというホテルを泊まり歩いてきた。
ここへ来て、ガタが来たようだ。これまで疲れを感じることはあっても、先に進むのを拒む気持ちはなかった。だが今回初めて明らかに、先に進みたくない、休みたいという気持ちが出た。このシグナルは大切にしよう。人は時には休まなければならない、いくら自分のしたいことをしていても。

夕方腹が減って起きたが、外へ出る気にはならず、最上階にあるレストランへ。ここは25年前からあった回転展望レストラン。80年代のホテルに流行ったタイプだ。取り敢えずお粥だけ頼み、体の様子を見る。かなり回復しているようだが、本格的に食べるのは明日にして、さっさと風呂に入って寝る。

翌朝は最上階レストランで朝食。このホテル、実は結構すごい。和洋中、何でもある。しかも相当の量である。おかゆを食べて、パンを食べて、スクランブルエッグにみそ汁を飲むこともできる。フルーツも豊富。床が回転していくので、位置が分からなくなるほど、色々とある。これなら、朝食代を払っても正解だろう。たらふく食べた。

そして掃除の時間以外は殆ど外に出ずに、誰とも連絡を取らずに、部屋で過ごす。NHKのワールドプレミアムも入るので、何となく眺めていたりする。何もしない時間が過ぎる。改めて、この1年を超える旅を振り返ってみる。そして何となく次の旅への闘志が涌く。まだまだいけそうだ。

そしてとうとうホテルに2泊して杭州を去る。結局2日間何処へも行かずに、北京に戻ることにした。偶にはこんな旅があってみ良いだろう。2回目の朝食をゆっくり味わい、杭州の景色を堪能する。飛行機の予約をして、空港へ向かう。今回は珍しくタクシーに乗る。これは少し贅沢だったが、偶にはこんなこともしてみよう。私の旅には広がりがあり、またかなりの落差がある。それもまた良い。