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《雲南お茶散歩2013》(6)大理 クラシックなホテルと大理の街

クラシックなホテルと大理の街

今日の宿はお茶屋さんのすぐ近く。昨日の立派なホテルとは対照的に、伝統的な造りの家。最近このような宿が人気なのだろう。部屋数もあまりなく、2階の2部屋が我々にあてがわれた。

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何だかいい感じだ。階下もリビングスペースになっていて、お客も寛げる。どうやらオーナー一家もここに住んでいるらしい。半地下もあり、庭もある。意外なほど広い家だ。ところが・・?何とエアコンは壊れていた。11月末の雲南省、しかもこの家の造りでは、相当に寒い。毛布を貰っただけでは寒いので、夜は電気毛布のようなものを下に敷いて寝た。私はまだよいが、南国育ちの陳さんには堪えただろう。ただ彼は一言も愚痴を言わなかった。それも人生だと思っているようだ。

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実は陳さんは信心深い仏教徒。お茶屋さんの並びには仏教の一派の事務所があり、興味津々で乗り込んでいったりする。最近中国でも仏教が流行りだ。これだけ人の心が揺れ動く中、金儲けだけでは収まりがつかなくなってきている。心の支えが必要なのだ。仏教はその支えになれるのだろうか。

 

午後は大理の街を歩いて見た。街に入る門は昔と同じ。27年前の記憶は蘇らなかったが、何となく懐かしい気分にはなった。だが観光客目当ての店が増え、やはり白族の服を着た人は少なかった。あの頃はそこここにいたのに。確か白族の女の子がウエートレスをしていた喫茶店があったな、あれは中国では喫茶店が珍しい時代、どうしてあったんだろうか?今もあるのだろうか。教会などもあり、この街が意外と多様なことも知る。

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中国人の観光客が目に付く。彼らも大都会の汚染された空気、水などに嫌気がさして、大理にやってくるのだろう。自転車を借りて、楽しそうに行き交う若者。実に穏やかな空気が流れ、一瞬ここは中国ではない、とさえ感じられる。

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夜は地元料理を頂いた。地元の野菜やキノコなどを使った鍋料理、素朴で美味しかった。店が結構暗くて、それもまた昔を思い出した。昔はどこでも本当に暗かった。

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《雲南お茶散歩2013》(5)大理 倉庫に原料を保管して

11月28日(木)

茶倉庫

翌朝はホテルで豪華なビュッフェ朝食を取る。と言っても若干の二日酔いがあり、お粥とフルーツ中心だったが。どうしてこういう時に巡り合わせが悪いのか。いや、天が食べる量を制御してくれているのだ、などと考えながら食べる。

 

そして猪さんが迎えに来てくれて、どこかへ向かう。大理も街の一角は賑やかだが、後は本当に田舎の風情が残る。そんな中を車が行くと、小高い丘の下に、倉庫が建っていた。これが茶廠の新しい倉庫だという。新しい茶工場建設の話は昨日出ていたが、先ずは倉庫か。

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中に入って分かった。大量の茶葉が詰められた袋が積み上げられていた。箱詰めもあった。『現在プーアール茶の原料は非常に不足している。特によい原料は今から確保しないと、数年先には手に入らなくなるだろう。我々は現在原料確保を第一とし、ここに保管している』というのだ。確かに工場を作る前に倉庫を作る、これが現状なのだろうが、何となくしっくりこない。

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そして別の場所にはこれまた大量のお茶が。『我々が2005年以前に出荷したお茶が市場で非常に高値になっている。ここにも良く売ってくれ、というお客さんが来るが、全て出荷済みで物はない。仕方がないので、広州あたりへ出した物を買い戻している』とのこと。出荷時の数倍の値段をつけているらしい。陳さんの目がこの時光った。『この茶、全て売ってくれ』と交渉に入ったようだが、ダメだった。

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『今は売る気がないが、韓国勢は我々の買戻し値の2₋3倍で買ってくれる』というのだ。実は沱茶はその昔は四川省など中国内で消費されていたが、今では韓国で人気が高まっている。陳さんのマレーシアと並んで、韓国にも下関茶廠の総代理店が置かれているそうだ。韓国人が沱茶を飲む、ちょっとイメージがわかない。

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ここの敷地は相当に広かった。2₋3年後には茶工場も建設され、保存した原料を使って大量生産が行われるのだろう。ただその時まで今のような消費が続くのかどうか。だから海外にも販路を広げたい、ということで、陳さんのような人材が求められているのだろう。

 

大卒のお茶屋

倉庫を後にして、大理の街へ。猪さんの車で送ってもらったが、どこへ行くのだろう。陳さんは『友達と会う』というのみ。取り敢えず下関茶廠の専売店を見学。かなりきれいなお店だった。観光客用。

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そして細い道を入った所に小さなお茶屋さんがあった。そこが今日のご縁。何と前回KLで会った復旦大学卒の華人の友人が経営しているのだという。しかしオーナーはまだ30代前半、経済系を卒業したエリートだったが、上海で働くのは嫌だといい就職口を断り、雲南にやってきて教師になった。そして数年前に大理でお茶屋を始めたという。出身は福建省だが、実家はお茶ではなく陶器の方の関係らしい。

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彼は茶産地へ出掛けて行き、自分が気に入ったプーアール茶だけを買い求め、それをネットで販売している。現代の目利き、セレクトショップ?彼のセレクションが良いせいか、お客は確実に増えているそうだ。実際飲ませて貰ったお茶も非常に美味しいものがいくつかあった。勿論陳さんも仕入れるのだが、『量が確保できないから商売にはならない』という。

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そう、これからは大量生産か、それとも少量、高品質か、そんな時代になるのだろう。本当に良い物はそんなにあるはずはない、だが、滅茶苦茶高いのもおかしい、と彼は言う。正論だと思う。

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ランチは雲南名物、過橋米線を食べに行く。彼は陳さんがお金持ちであり、しかも友人の紹介ということで、大変恐縮しながら案内していた。陳さんは『麺一杯食えば十分だ』というスタンス。どこまでも軽い。それにしても久しぶりに食べた米線は美味かった。

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《雲南お茶散歩2013》(4)大理 下関茶廠

下関茶廠

下関茶廠の敷地は広かった。博物館のような展示場へ案内される。ここは1902年に設立された由緒正しい茶工場。雲南省の茶馬古道(茶葉の集積地)が思芽(現在の普洱市)から、ここ下関に移ったことにより作られた工場だという。沱茶の生産が有名だが、その理由は『大理は風の街、風の影響で水分が早く飛び、独特の風味が出るから』と副総経理の猪さんから説明を受ける。

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国営工場時代は沱茶が中心。またチベット向け磚茶も政府の指示で作られる。パンチェンラマへ寄進するために作られたという班禅茶の生産も行われていた。2005年の完全民営化後、現在は沱茶と餅茶が半々。売れる物を作り、利益を上げること、それが株主への還元だ、という。当然のことを言われているのだが、何だかちょっと残念な気分。

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陳総経理も加わり、お茶を頂く。予想以上に飲みやすいお茶である。午後の風に吹かれながら戸外で飲むお茶、素晴らしい。陳さん、猪さん、共に安徽農業大学の出身でお茶の専門家。儲け第一主義に対して、どんな考えを持っているのだろうか。

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工場も見学した。お椀型の沱茶の製造工程を見るのは初めてだったが、基本はプーアール茶。蒸す工程の湯気が濛々と上がる中、手早く型を取る。広い工場内ではいまだに磚茶も作られていた。『政府の指示』は今も生きているらしい。

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大宴会

そのまま夕暮れの工場を後にして湖のほとりへ。雰囲気が実にいい。ここのレストランで宴会が開かれた。少数民族、白族の衣装を着た若い女性が出迎える。27年前、大理では街のあちこちでこの衣装を着た人々を見かけたものだが、いまではこのような観光客も来る場所でしか、お目に掛かれない。それが最大の変化かもしれない。

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ここの料理はおいしかった、と思ったのは最初だけ。何と中国式の大宴会が始まってしまい、料理を味わうどこではなかった。先方は陳さん、猪さんに加えて、女性2名、男性1名、当方は陳さんと私だけ。陳さんは最初だけ適当に乾杯して、何とあとは私に任せたという。普段は酒を飲まない私だが、ここは陳さんのお役に立ち、かつ先方の意にも応えるべく、しこたま飲んだ。こんなに飲んだのは何年ぶりだろうか。

 

結局白酒を4本ぐらい飲んだらしい。帰りはフラフラだった。夜風が心地よかったが、ホテルの部屋でバッタリ倒れ込む。翌朝陳さんが『昨日は助かったよ、みんなも日本人が飲んでくれたんで面子も立った』と言ってくれた。中国の地方では未だに『お茶よりお酒』なのである。

《雲南お茶散歩2013》(3)大理 お金持ちの心得

11月27日(水)

2. 大理

大理までバス

翌朝ホテルで朝食を取り、チェックアウト。タクシーに乗り込み、バスターミナルへ。陳さんは慣れているのでさっさとこなしていく。そして大勢が並んでいる中、自ら私の分までバスチケットを買ってくれた。感謝。

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バスは普通の長距離バス。陳さん、お金があるのだからタクシーなどで行かないのか。『そんな無駄は良くない』と一言。そして『バスの方が景色は良く見えるだろう。お前の為にそうしているんだ』とも。何とも申し訳ないが、陳さんも楽しそうにしているから面白い。

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バスから見える風景はきれいな田園だったり、天気が良いせいかくっきり見える山並みとか。確かにこんな風景を見ながら茶工場に向かうのが良いように思う。3時間ぐらい走ったらトイレ休憩。ちょうど昼前で食事タイム。乗客は店に駆け込み、次々に食べ物を買っている。陳さんは慌てない。最後になってからゆっくりと店員に『麺2つ』と告げる。

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それから店員が麺を作り始める。結構時間がかかり、食べ始めると周囲から人がいなくなっていた。ちょっと不安になったが、陳さんは『辛いな、これ』と言いながらゆっくり食べている。バスに戻ると運ちゃんが『やっと帰ってきた』という顔をして出発。我々を待っていたようだ。それでも陳さんは平然としていた。これが重要なんだろうな。

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それから1時間ほどで、大理の街に入った。ここには27年前にやってきたが、雰囲気としてはそれほど変わっていない印象があった。勿論ビルは建ち、人々の服装もよくなっていたが、きっと風が吹いていたからだろう。昔もそんな印象があった。

 

バスターミナルでバスを降り、白タクを避けて道へ出た。私はてっきり茶工場の人が、迎えに来ていると思ったのだが『それは断った』と一言。陳さん、せっせと自分でタクシーを拾おうとするが、なぜか捕まらない。結構困る。最終的に通りかかった白タクに拾われ?ホテルへ。

 

ホテル

そのホテルは実に立派だった。これまでケチケチできていた陳さんが大変身か、と思ったが、『下関茶廠が予約してくれるんだ。この辺では一番いいホテルさ。俺は泊まりたくないけど、彼らの顔を立てることが中国では何より大事さ。勿論部屋代は自分で払うようにしている』と。

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『ビジネスの世界では相手の行為は必ずしも好意ではない。相手は何か目的があって親切にしてくれるのさ。悪い人とか良い人とかではなく、その親切に甘えることが自分を追い込んでいくことになるのさ』とも陳さんは言う。本当にお金持ちは大変なんだな、とこのとき気が付いた。相手は頼めば何でもしてくれる。でもそれでいい気になっているとある日、その反動がやってくることをこの人は知っているのだ。いや、既に何回も経験しているのだろう。『折角引退して自由の身なんだ、お気楽にやらないと面白くないよ』、なるほどその通りだ。

 

それにしてもこのホテル、眺めがよい。横を流れる川が、湖に注ぎ込んでいる。空は青く、くっきりしている。今の中国ではなかなか望めない環境だ。『これでも一番安い部屋を頼んでいる』と言いながら、部屋もかなり広い。VIP待遇だ。

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約束の時間になり、茶工場へ向かう。しかしここでの迎えすら断っていた。ところがホテルなのに、タクシーは1台もいない。この街には普通のタクシーはほとんど機能していないのではないだろうか。今回は白タクすら来ない。いよいよ万策尽きて、陳さんは電話を掛けた。10分で茶工場の人が迎えに来た。『だから言ってくれればいいのに』と言われ、頭を掻く陳さん、何とも面白い。

 

《雲南お茶散歩2013》(2)昆明 閑散とするお茶市場

お茶市場

陳さんのフライトは私より少し後の到着。取り敢えず昆明市内の様子でも見てみるかと外へ出たが、特に見たいものがあるわけではない。7年前は知り合いの中国人に全て案内してもらい、自分で歩いた経験がなかった。土地勘もない。こういう時はお茶市場、ということでタクシーに乗り込み、『お茶市場へ』と言ってみる。

 

やってきたのは康楽茶文化城。ここは2006年にも連れられてきた場所。一目で分かった。相変わらず300軒もの店が軒を並べているのだろうか。正直言うと、以前より勢いが感じられなかった。歩いているお客も殆ど見られず、中で茶を飲む人々もあまりいなかった。どうしたのだろうか?

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訳も分からず、取り敢えず歩き回るが、店自体が閉まっているところもいくつもあった。その中で目に付いたのが永聘号という名前。ここは前回易武へ行った時、タクシーの運ちゃんが連れて行ってくれた茶工場のブランド。その後東京のお茶屋、Iさんがここのお茶を取り扱っていたことからご縁が生じ、私の活動にも大きな影響を与えたところ。

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中に入る。茶餅が並んでおり、見てみるが、何だか勐海と書かれたものが多い。店の主人と思われる人に『ここは易武の茶ではないのか』と聞くと、一瞬ギョッとした顔をしたので、私の7年前の旅を説明したところ、『実はその後のプーアール茶ブームで原料の茶葉が不足してしまい、原料が調達しやすい勐海にも茶工場を建てた。今では主力工場は勐海に移ってしまった』と残念そうに話す。

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その後も1₋2軒訪ねてみたが、どうもあまりパッとしない。どうやら習近平政権になってからの、『贈答・接待禁止令』の影響が大きいらしい。高い物は軒並み売れないとか。確かにプーアール茶は高くなり過ぎたのだ。この辺で調整があってもよいのではないだろうか。また原料の茶葉を無駄に使って、どんどん作るのも止めたらよいのではないのか。

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しかし商売をしている人にそんなことを言っても何にもならない。彼らは売れなければ収入が得られないのだから。これからの茶業界、暗雲が立ち込めている。本当に良い物を作らないと淘汰されるのでは。

 

夕飯

夕暮れ時、バスでホテルに戻ろうとしたが、結局うまく乗れずにタクシーで帰る。そろそろ陳さんが到着する時間だな、と思っていると、『フライトがディレーした』との連絡があり、夕飯に間に合いそうもないと。

 

それなら一人で食べるかと、少しホテルで休んでから、再び外へ出た。ところがどうもこの辺にはいい感じのレストランがない。勿論一人で食べるのだから、立派な所へ入る気もしない。どうするか、と迷っていると、ホテルのすぐ前に新疆料理、と書かれた小さな店があることに気が付く。偶にはラグメンでも食べようかと、外に出ているメニューを眺め、いざ注文しようと店員に声を掛けると、携帯が鳴った。陳さんが空港に到着したというのだ。慌てて店を出て、ホテルに戻る。彼は30分後にやってきた。

 

二人でホテル横の焼肉屋に入る。既に時間は8時を過ぎ、お客もあまりいない。妙にこぎれいな店である。従業員もやる気はないが、陳さんは怒る気配もない。『まあ大陸はこんなものさ』と一言いい、肉をパクつく。酒は飲まないので有難い。早々に部屋に戻って寝る。

《雲南お茶散歩2013》(1) 中国にもLCCの時代が

《雲南お茶散歩2013》  2013年11月26日-11月29日

 

10月にKLでお世話になった陳さん。彼は最後に不思議な言葉を残した。『俺は11月26日に昆明に行く。下関の茶廠にも行く。お前も興味があるなら、一緒に行かないか』。彼はこの11月26日という日付を3回も言っていた。この日に一体何があるのだろうか?

 

まあそれはそれとして、雲南省には7年も行っていないし、ましてや下関には1987年の留学時代以来行っていないのだから、行ってみる価値はある。しかも陳さんと行けば、沱茶を作っている下関茶廠が見学できるかもしれない。そんな話を東京ですると『私も行きたい』とお茶屋さんから手が挙がる。結局都合が合わずに私だけが陳さんを目指して昆明に飛ぶことになった。

 

11月26日(火)

1. 昆明

ホテルまで

バンコックから昆明までのフライトを調べると、何とエアアジアが飛んでいた。最近就航したらしい。これからは中国市場にLCCが食い込む時代がやってきた。だがその料金は思ったほど安くはなかった。これなら少し高いがタイ航空の方がいいと思い、そちらを選ぶ。

 

陳さんにその旨連絡すると『なぜエアアジアにしないんだ』と聞いてきた。彼はKLからエアアジアで飛んでくる。そして初めて謎が解けた。11月26日にこだわる理由はなかったのだが、陳さんは数か月前にこの日のフライトを早々に格安で押さえていたのだ。正直大金持ちの陳さんがLCCに乗るだけでも不思議なのだが、超目玉プライスに拘るとは。『安い方がいいに決まっている。俺は自由なんだから』と頓着はない。

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当日は久しぶりにタイ航空に乗る。味は別としてタイ航空の機内食は他社に比べて豪華に見える。勿論LCCには食事のサービス自体がないのだが。普通は食事など無くても、サービスなど無くても安全に運んでくれればそれでよい、何の問題もないと思うのだが、少々LCCに疲れているのかもしれない。

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昆明に到着。既に待ち合わせのホテルも予約してあるし、何も心配はない。空港から適当にバスにでも乗って、適当なところで降り、タクシーでも捕まえて・・などと考えながらバス路線図を見てびっくり。何と空港バスは予約したホテルの前に停まるのであった。

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そして25分後に本当にホテルの前に停まり、スムーズにチェックイン。何故陳さんがこのホテルを使うのか、それは便利だからと分かる。部屋は古く、昔のホテルだが、ここはまだ昆明市の中心ではないため、交通もスムーズ。周囲にはいくつも建設中のビルがあった。

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鉄観音の故郷を訪ねる2013(7)厦門 ご縁で泊まる日航ホテル

5. 厦門3   なぜか日航ホテルへ

そして昼前にバスに乗り、港へ。私の1泊2日、ミニ台湾ツアーは終わりを告げた。同じフェリーで厦門へ戻る。またあっという間に着いてしまい、バスに乗り、華僑大廈へ。ここに預けた荷物を取る。本当はもう1泊ここに泊まることを想定して荷物を預けたのだが、急遽新しくできた日航ホテルへ行くことになったからだ。

 

実は昨晩金門島でネットをいじっていると、Facebookに繋がる。ここは大陸ではなく、台湾なのだから、繋がって当たり前だが、つい嬉しくなり、『今金門島にいます』などとアップしてしまう。すると銀行時代の後輩T君が『もし明日厦門に行くなら弟の所に寄ってください』と書き込みがなされた。そして今朝、T弟の携帯番号をゲットして金門から電話してみた。兄から何も聞いていなかった彼だが、快く夕方会うことを約束してくれた。ホテルの場所が華僑大廈から離れていたこともあり、1晩の宿泊もお願いしたと言うわけだ。こういうご縁は、大切にしていこうと思う。

 

華僑大廈付近からバスに乗る。ホテルのある国際会議場はこの場所から相当にはなれているようで、行けども行けども到着しない。だが代わりに最近急速に発展している厦門市郊外を見ることができた。マンションが立ち並び、ショッピングモールがあり、旧市街地だけでは分からない厦門がそこにあった。もしタクシーに乗ったらここまで詳細には見られなかっただろう。しかも1元で。

 

日航ホテル

日航ホテルがこんなところにあるのか、と思うほど、不思議なところにあった。周囲には旧式の住宅が並び、海沿いには国際会議場、そして高級マンションが並ぶ、アンバランスな位置にあった。勿論日航はマネージメントをしているだけで資本参加はしていないだろう。ただ開業1年、建物も客室もきれいに整っていた。ロビーに入っただけで気持ち良い。これは80年代に中国で外資系ホテルに入った時感じたものにすごく似ていた。そこだけ異質な空間が出来上がっているのだ。

T弟は何とそこの支配人だった。コーヒーを飲みながらゆっくり話を聞いた。ホテルを新しく立ち上げ、従業員を訓練し、しかも集客に努める、これは並大抵のことではない。ましてや中国では。ただ彼には天津や大連での豊富な経験があり、しかも前任地はジャカルタというエキスパートであったので、それほど困難ではなかったのかもしれない。

それでも従業員の質向上など課題は多い。話している間にもちょっと問題があると携帯が鳴る。中国では全て指示は老板が出さなければならない。きっと文句を上げたらきりがないだろうが、何とか1年でまとめただけでも手腕が感じられた。

夜は海岸へ行って見たが、特にライトアップなども多くはなく、美しい夜景とは言えなかった。むしろ背後のマンション群のほうがよほど、美しい夜景であり、このあたりでも厦門旧市内と変わらないような値段がついているのも頷ける。

夕飯は軽く食べようと思ったが、適当な場所がなく、ホテルに戻るとベーカリーのパンが半額になっていたので、それを食べて寝てしまった。食事より、睡眠。実はかなり疲労がたまっていたようだ。

5月10日(金) ゆっくり休む

 

 

翌朝、体が少し重かった。確かに3月下旬の関西に始まり、4月のマニラ、広西、インドネシア、そして今回の旅まで、あまりにも旅が続き、その間に香港でお茶会を開いたり、セミナーをしたり。疲れるのも当然かもしれない。

 

そういう意味で、今回突如日航ホテルに宿泊したのは何らかのお導きかもしれない。よいホテルでゆったり休む、そんな時間が必要だということだろう。この部屋には何と茶道具まで完備しており、朝からシャワーを浴び、ゆったりとした気分で張さんの鉄観音茶を頂く。これはこれで極楽気分だ。

 

それから朝食へ。ビュッフェのメニューは飛び切り多い。このホテルは完全に中国人を意識してサービスを組み立てている。日本の経営に有りがちな、日本的な部分を多く残さず、現地のニーズに合わせているところが良い。昨晩簡単に済ませているので、お粥から麺、パンまで、卵から点心まで、たらふく食べてしまった。

 

そして普通なら腹ごなしに、散歩に出たりするが、部屋へ戻り、ダラッとする。今日は半日、快適な部屋の中で過ごすことにした。勿論ネットは繋がるのだが、敢えてそれも止め、完全オフの体制となる。うつらうつらしていたら、何もしないのに意外や時間は過ぎてしまった。疲れが取れたのかどうかわからないが、このような時間は必要なのだろう。窓から外を眺めると、国際会議場周辺がよく見えた。

 

ランチ

11時半にT弟と食事の約束をしていた。ここの最上階には日本食レストランがある。見晴らしもよい。厦門に住む日本人の数はそれほど多くはない。観光客も日本食を食べる機会は少ない。結果としてここも中国人向けに作られている。個室に入ると寛げた。松花堂弁当などを頂いていると、ここが厦門かと思ってしまう。味は日本的、量は中国的、朝ごはんを食べ過ぎてしまい、散歩もしていないので残念ながら残してしまうほど。

 

中国人従業員の教育に話が及ぶ。『日本的なサービスを教えることは本当に難しい。何しろ本人たちが体験したことがないことをやれ、というのだから、いきなりは出来ない』『顧客からのクレーム対応に日中の違いが極端に出る。中国人従業員は日本人が何を、なぜ怒っているのか理解できないことが多い』など。

 

遅れてホテルの営業担当の日本人女性も食事に加わった。彼女は以前T弟と一緒に働いたことがあり、誘われて厦門にやってきた。同じ中国でも、都市によってかなり違うので戸惑うことが多いようだ。厦門は住みやすい場所だが、日本人が好む娯楽は少ないので、少々退屈とか。

 

そんな話をしていると飛行場へ向かう時間がやってきた。そそくさとチェックアウトし、タクシーで空港へ。何と20分で到着。速い。空港でチェックインすると、『あなたの座席予約はない』と言われる。ホテルでWebチェックインしようとしたところ、できなかったのだ、この空港は。乗客が少なく、機体を小さくしたのかもしれない。何とか乗せてもらえることに。

 

搭乗ゲートに並んでいると、係員が私の後ろの中国人男性に『荷物が多すぎるから機内へ持ち込めない。預けろ』とかなり無礼な態度で言う。まるで警官が泥棒に向かうようだ。言われた男性は言い返そうとしたがその剣幕に押され、すごすごと行ってしまった。中国にはまだサービスはないのだ、いやサービスしようとすると、皆がどんどん求めてしまうので歯止めが重要なのかもしれない。いずれにしても、今回の旅では、お金の論理を考え直す機会を得た。

 

鉄観音の故郷を訪ねる2013(6)金門 古寧頭の古戦場を歩く

古寧頭の古戦場を歩く

金門島は今では静かな島だが、第二次大戦後、国民党と共産党の争いの中、戦火を交えた場所でもある。『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(門田隆将著)で近年日本でも知られるようになったが、1949年の古寧頭戦役で国民党が勝利したことにより、共産党の台湾攻略が失敗に終わり、今日の状態が続いているともいえる。この戦に旧日本軍の将兵が大きな役割を果たしていたとすれば、歴史的には大きな意味がある。

 

バスターミナルで時刻表を眺める。古寧頭の戦場跡は行ってみたかったが、何しろ足がない。バスは1₋2時間に一本、古寧頭戦史館に向けて走っている。取り敢えず乗ってみることにした。運転手に行先を告げると怪訝な顔をされた。恐らく観光客でこのローカルバスを使う者などいないのだろう。本当にそこへ行くのか、という顔をしていた。バスは田舎道をゆっくり走る。途中で雨が降り出した。20分ほど行くと、戦史館に到着。降りたのは私一人だった。雨を避けて走って館内へ。無料。中は古寧頭の戦史が絵や写真で語られている。何しろ、国民党の輝かしい勝利の歴史だ、宣伝もやかましいほど。


 

そしてその展示物をガイドの案内で見て回っている団体は中国大陸から人々だった。彼らはどう思っているのだろうか、この戦役を、などと考える必要はない。殆どの人は初めて聞く話、という感じで、蒋介石の絵などの前では『知っている人がいる』と指をさす。既に中台にわだかまりはない。いや、大陸側にはないというべきか。

 

戦史館見学は早々に切り上げる。そしてバスで来た道を少し戻る。そこには戦場の跡があるように見えたから。行ってみるとトーチカ跡などがあるにはあったが、全て後から作られた、または補修されたもので、当時の様子をじかに伝えているようには見えなかった。

 

そこから海を見に行きたいと思ったが、実は意外と遠いようで歩いて行ってもなかなか見えず断念。金門島には当時の歴史を伝える場所がいくつかあるようだったが、一方現地の人々はその歴史を忘れたい、と思っているように感じられた。

 

バスで先ほどの道を戻ろうと思ったが、相当に時間が余る。再度時刻表と路線図を眺めると、何と先ほどのバスは循環して元に戻ることが分かる。そして私はそのバスに乗り、1周してバスターミナルへ帰った。途中海が見える場所もアリ、降りてみたい場所もあったが、降りてしまうと足がないので眺めるだけにとどめた。

 

古き台北を思い出す

ホテルへ戻り、すぐまた出かける。ちょっと腹が減ったのだ。時刻は午後4時半、こんな時間でも店が開いているのが台湾。いつもで誰かが食べている。横道の奥に行列があった。フライドチキンを売る店だった。私も並ぶ。注文を受けてから揚げるようで12分待て、と言われる。

私の前に並んだのは軍服を着た若者だった。昔台北で勤務していた頃、『台湾の男子には兵役の義務がある。通常3年だが、金門へ行けば1年で帰れる』と聞かされ、金門島は大陸との最前線、何があってもおかしくない場所、というイメージが刷り込まれていた。今はどうなんだろうか。金門へ行けば1年は、既に死語ではなかろうか。いや、兵役そのものが緩やかになっているのだろうか。この島に緊張感はない。

ホテルの部屋で揚げたてのチキンを食べる。確かにうまい。台湾は食べ物に外れが少ないが、大陸とのクオリティの差が非常に感じられる。ホテルにはテレビがあり、有線放送で日本語チャンネルがある。日本のドラマを流しており、見入ってしまう。朝の連ドラ、梅ちゃん先生、だった。ここにも台湾が感じられる。

夜は街に出る。街と言っても小さいが、その雰囲気は30年前の台北に酷似している。言葉では表現できない、ちょっと薄暗い、独特の空気がある。ある意味で映画のセットのようなところ。台湾のどこの街にもある演劇の舞台もある。いいなあ、この雰囲気、忘れていたものが様々蘇る。

夕飯は魯肉飯。ひっきりなしにお客が来る店で入るのを躊躇っていると目のあったおばさんが『入りなよ』と促してくれる。店にはあの昔の活気がある。湯気が上がる。いい感じだ。普通魯肉飯は小さな椀だが、ここでは大きな椀に盛られてくる。雲吞スープも飲むとすぐに腹いっぱいになる。これで200円ぐらいだからまた食べたくなってしまう。古き良き台北に浸った夜だった。ここだけに残っているベストな観光地だった。

5月9日(木)  台湾からの投資

 

 

翌朝は早く起きたがダラダラ。朝食に行くと、人が多くて食べる場所がない。本当にこのホテルは流行っている。何故だろうか?ちょうどオーナーの女性がいたので、聞いてみた。彼女も元は台北で銀行員をしていたとかで、私と共通点があり、親しくなる。

 

『このホテルに投資したのは僅か2年前。台北での生活があまりに慌ただしくて嫌になってしまい、ゆったりとした時間が流れるこの島にやってきた。ホテルに投資したのは、これからは台湾人、特に若者が多くこの島を訪れると予感したから。その為には民宿ではなく、安くてWIFIやテレビが整っているホテルのニーズが強くあると感じた。結果としてその予想は当たり、現在満室が続いている。みんなネットで予約してくれるので、コストもあまり掛からない』とか。

 

この街を歩いていると、本当に古き良き台湾が見られる。大きな古い木、お神輿を要する神社、そして古い古い商店など。現在台湾全体が『ディスカバー台湾』といった雰囲気であり、日本時代が回顧されることも多い。それはある意味では『中国大陸からのプレッシャーへの反発』ではないだろうか。若者が牽引する旅、いいではないか。

 

少し外れを歩くと、福建省政府の立派な建物があり、学校の中に中山堂が見えたりする。まさに虚と実、金門島は昔の台湾であり、また中台の接点として、その微妙な位置を保っている場所である。

鉄観音の故郷を訪ねる2013(5)金門 古き良き台湾を思い出す

5.金門島  台湾へ行くのか

国際フェリーなので入国審査がある。台湾の入国カードを適当に書き、係に提出したところ、『あんた、ここに泊まるの?それとも台湾へ行くの?』と英語で聞かれる。『台湾へ行く?ここ台湾だろう』と中国語で答えると、『ここは福建省だ』と言い返される。ようは中華民国福建省に私はやってきたわけで、彼女の言う台湾は台北などのある島を指すことが分かった。それにしてもビックリ。

 

そして金門島を観光すると告げると『宿泊先を書け』とまだ通過させてくれない。これから行って決める、というと『では入国させられない』と頑張られる。金門に泊まるか、日帰りで厦門に帰るかも分からないと突っぱねると『ならば携帯番号を書け』と言われ、中国大陸の携帯番号を書いて、通過した。何と携帯は台湾にローミングしており、使えた。

 

そしてイミグレを出てすぐにさっきの係官の聞いていた意味が分かる。台湾系航空会社のカウンターが4つ並んでいたのだ。近づくと13:30台北、14:00台中などと表示されている。何とここから飛行機に乗れば、台湾へは一っ飛びで行けるのだ。空港までは7㎞離れているようだが、表には専用バスが待機していて、常時乗客を運んでいく。このサービスは速い。現在12時過ぎだから、1時半の台北行(国内線)には十分に間に合う。2時半には松山空港に着いており、3時半には屋台で牛肉麺を食べていそうだ。乗客の動きを見ていると、金門観光者は殆どおらず、皆トランジットで台湾へ帰る(行く)のだ。合点がいった。

 

それにしても何の予備知識もなしに来てしまった。ここがどこかも分からない。出口を出るとタクシーの呼び込みがあったが、どこに行ったらよいかもわからず、途方に暮れる。港とはいえ、周囲には本当に何もない。仕方なく、帰りのフェリーを確認しに隣の建物へ入ると、両替があった。そうか、私は台湾ドルを持っていない、金を持っていなのだ。タクシーにすら乗れない。

 

両替は台湾の銀行の出先が行っていた。人民元の両替はスムーズに出来た。銀行のおじさんは私が日本人だと分かると『島の問題は色々とあるけど、仲良くしような』と言って握手した。不思議な感覚。こんなのは福建省側ではなかなかない。そして親切に私の行くべき方向を示し、地図をくれた。

民宿はどこ

 

 

フェリーターミナルを出て、小高い公園へ行く。ここから港がよく見えた。そして道をとぼとぼと歩き始めた。歩いているのは私しかいない。時折大型バスが通って行くだけ。すぐに立派な建物が見えたが、これも福建省と書かれた役所。やはり私は福建省へ来たんだ。周囲は他に何もない。

 

15分ぐらい歩いていくと、古めかしい家がいくつも見えてきた。水頭村、ここが劉さんが言っていた古民家が集まる村だった。確かに村自体が保存地区になっているのか、皆古い。しかし人は殆ど出てこない、というより不在のように見える。

     

港でもここに来れば民宿は沢山ある、と言われた。確かに民宿と書かれた建物はいくつもあるが、どこにも人がいない。門に鍵が掛かっている。携帯番号が貼ってあり、用があれば電話しろ、となっているところもある。この古い家には住んでいないが、民宿として客があれば使っているのだろう。そこまでして泊まりたいとは思わない。

 

博物館があったので入ってみる。この村の歴史が綴られてはいるが、あまりよくは分からない。建物だけが非常に気に入る。落ち着いた造りの建物は木々の枝葉がよく似合う。

 

腹が減ったが、この村には1軒しか食べ物屋がない。休日などはもっと沢山開くのだろうが、致し方がない。そこで牡蠣の米麺を食べる。これはなかなか美味しい。この店へ来て初めて、台湾へ来た感じがした。ただ店の人たちは黙々と働いており、何かを聞ける雰囲気はなかった。この村に留まることを諦めた。

 

古きよき台湾のサービス

諦めたのはいいが、ではどうするか。港で貰った地図を広げると、この地区の街まで3㎞はありそうだ。歩いていく自信はない。仕方なく通りに出るとバス停があった。時刻表を眺めたがよくわからない。と思っていると、向こうからオジサンが何か叫んでいる。『このバスに乗らないのか』と言っているようだ。見ると道路の反対側にバスが停車しようとしていた。

 

慌てて道路を渡り、乗り込む。このバスは一体どこへ行くのだろうか。えい、どうにでもなれ、どうせ大したことになりはしない、という持ち前のいい加減さで行く。バスには子供やお年寄りが乗っていた。取り敢えず座っていると、やがて街らしきところへ入ってきた。終点のバスターミナルで降りた。12台湾ドルだった。運転手さんも何故か親切。ここは台湾だ、大陸の緊張感はない。

 

周囲をキョキョロすると、ビジネスホテル風の所が見えた。かなり疲れていたので、そこへ飛び込む。狭い受付に行くと、お姐さんがいきなり『こんにちは』と日本語で言った。泊まりたいというと一生懸命日本語を使ってくれた。ただ部屋がないという。残念だが、と諦めようとすると『ちょっと待って』と言い、誰かに電話をしている。そして『1部屋、1800ドルね』とにっこり。こちらも釣られてにっこりしたが、財布はニッコリしなかった。何と1600ドルしか入っていなかったのだ。

 

正直に伝えて出ていこうとすると『ちょっと待って』と言って、またどこかへ電話。そして、『いいよ、1600で』と。何という対応だろうか。元々は部屋が無い、から始まり、今は値下げになってしまう。しかし台湾では昔も何度かこういうことがあった。『日本人』であることが、なぜかそのような厚遇を得てしまうのだ。素直に有難うと言い、チェックイン、と思ったが、そこは台湾。『あなたの部屋は掃除中、荷物はフロントで預かる』という。だがフロントと言ってもちょっと心配なぐらいなスペースしかない。PCも入っているし、無くなると困る。

 

強引に部屋のカギを貰い、荷物を部屋に押し込もうとした。だが、部屋はおばさん二人ががりでまさに掃除中。ここに荷物を置くのはどうかな、と思っていると、下からフロントのお姐さんが上がってきて、『あなたの荷物は責任をもって私が預かります』ときっぱり。有無を言わさず、下へ持って行ってしまった。何というサービス精神、ここまで言われるとたとえ心配でも逆らえない。そしてこんなことを言ってくるところはアジア中探してもないのではなかろうか。古き良き台湾を見る思い、素直に感動してしまった。

 

両替

 

 

部屋は掃除中なので、先ずは両替。ホテルからすぐのところに台湾土地銀行があった。昔は政府系のお堅い銀行だったが、どうだろうか。恐る恐る入っていくと、如何にも昔の銀行の店舗という雰囲気、両替レートが出ている。人民元を両替したいというと、オジサンが対応に出てきた。元とパスポートを渡すと『お前、どっから来たんだ』と完全に怪しまれる。

 

確かにそうだ。日本のパスポートを持って、人民元を両替にこの島にやってくる人、しかも簡単だが中国語を話す、となれば、『中国人が帰化したんだろう』とでも思ったらしい。スパイ容疑?私が『20年前は台北にいて、台湾系銀行に在籍していた日本人』と話すと、何だか急に親切になった。

 

『ここには中国人が両替に来ることも殆どないからびっくりしたよ』とオジサンは言う。そして日本がどうしたこうした、と話に花が咲く。不思議な空間だ、ここは。大陸の人間は台湾へ行ってしまうか、観光客でも決まった場所しか行かないようだ。人民元が簡単に両替できることに少し驚いたが、よく考えてみれば金門島が人民元を受け取らず、台湾ドルへの両替を促していることがせめてもの救いのだろうか。そうでないと飲み込まれてしまうほど、この島は小さい。

 

外へ出るとなぜか葬式の行列に出くわす。これも実に台湾を感じさせる。車を何十台も連ねて、市中をゆっくりと走る。死者の弔いとしてはちょっと派手に感じられるが、悪い気はしない。

 

 

鉄観音の故郷を訪ねる2013(4)安渓 安渓から金門へ

5月7日(火)  雨が上がって

翌朝も6時前に起きる。既に辺りが明るくなっている。何と健康な生活か。これもネットが全く繋がらない環境であることが大きい。ネットが繋がらない、家がそれほど明るくなければ、夜やることは寝るだけ。日頃如何にPCの前で時間を取られ、目を疲れさせ、脳を疲れさせているかが良く分かる。

朝粥を食う。野菜はおばさんが自分で植えている。これまた健康的。ここで生活していれば、何もしなくても健康になれそうだ。日頃の生活を見直し、質素に生きる本当に意味を知るにはこのような生活をしなければならないと思う。


   

この家は2階建てだが、屋上もあった。今朝はみんなで屋上へ出て、畑を眺めた。この風景がまた良い。記念撮影などもした。午前9時半頃、麺が出た。午前中のバスで厦門へ戻る私の為に、麺を作ってくれたのだ。例の長芋も入っている。嬉しい。

小雨が降っており、今日も茶摘みはない。と思っていると、雨が上がった瞬間、機械的な音が村に響き渡る。外へ出てみると女性が一人で機械を使って茶摘みを始めた。兎に角早く摘まないとどんどん伸びてしまい、お茶に出来ない。張さんに言わせれば『もう伸びすぎて使えない』茶葉でも、普通の茶農家にとっては重要な原料となる。

バスで去る

帰りは路線バスを使って戻ることにした。大坪から厦門へ直接戻る方法はない。バスで同安へ行き、乗り換えるという。同安までのバスも一日4便しかない。午前10時半のバスを予約してもらった。何と家の前まで来てくれるというのが、田舎らしい。

バスが来るまで茶を飲んで待つ。名残惜しかった。いつまたここへ来られるか分からない。張さんがそれまで茶作りを続けている保障もない。そんなことを思いながら茶を啜る。出発の時間になってもバスは来ない。まあそんなものかと思っていると突如外でバスのクラクションが。皆一斉に飛び出しバスを止め、張さんは運転手に指示を出し、私を運転手の脇の席に座らせてくれた。あっと言う間にバスは走り出し、呆気ない別れとなってしまった。

バスは茶畑の見える山道を進んだ。それから一路山を下り、1時間ほどで同安の街に着いた。だが、同安から厦門へ行くバスが分からない。てっきりバスターミナルにでも入って、そこで厦門行きを探せばよいと考えていたが、運転手は道路脇で『降りろ』と言い、前方の普通のバス停を指すばかり。仕方なくバス停でバスを探したが分からず、近くの女性に聞いたところ、『私も同じ方向だから』と一緒にバスに乗せてくれた。

バスは普通の路線バス。ただひらすら大通りを厦門に向かって走る。しかし1つずつバス停に停まるので、なかなか進まない。それから1時間走ってようやく厦門市内へ。私を乗せてくれた女性は『終点まで行きなさい』とわざわざ声を掛けて降りていった。何と親切なのだろうか。終点の輪渡に着いた時にはへとへとに疲れていた。そのままタクシーに乗り、また華僑大廈へ戻った。料金は僅か1元だった。

4. 厦門2   日本留学生夫妻

夜、知人から紹介された中国人女性と会う。彼女はご主人と一緒にホテルに現れた。華僑大廈にある日本料理屋へ入る。お客はあまりいない。食べ放題だというので、彼らはどんどん好きな物を頼んだ。元日本留学生なので、日本食は得意だ。ちょっと違うなという味もあったが、意外とおいしかった。腹一杯食べてしまい、ご馳走にもなってしまった。

彼らはわざわざ遠くから私に会いに来てくれて、そして色々と貴重な話をしてくれた。日本企業の置かれている状況、中国民営企業の状況など、現場で戦っている人ならではの話ばかりだった。彼らは日本が好きだが、日本には恵まれなかった。

その夜は、3日ぶりにネットが繋がり、遅くまでPCの前から離れられなかった。これでは折角の大坪行きが台無しだが、致し方ない現実がある。

5月8日(水) フェリーで金門島へ

翌日はちょっと冒険してみようと朝食後出掛けた。何と台湾へ行って見ようというのである。これは知り合いの劉さんが『厦門から金門島はフェリーで直ぐだよ』と教えてくれたので、チャレンジしてみようかと思った次第。ただフェリー乗り場さえ分からず出発。

華僑大廈の近くからバスに乗り、フェリーターミナルへ行って見る。と言ってもいくつもあるようで、どこかは分からない。適当にバスを降り、海の方へ行くと、立派な建物が見えたので、そこで『金門行きはどこ』と聞くと、何とここだ、という。そして『何時のフェリーに乗るのか、11時か』と聞いてくれる。時刻は10時40分。一応国際フェリーだべえ、20分じゃ無理かなと思ったが、切符を受け取る。イミグレも税関もスムーズで、5分後には通過、余裕でフェリーに乗り込んだ。

フェリーは400人ぐらい乗れそうな船。ちょっと違うが、香港からマカオを行くときの気分。それぐらい手軽に利用できる。厦門や福建省の人、台湾人が乗っていたが、金門に観光に行く、という雰囲気の人はあまりいない。彼らは何のためにこのフェリーを使うのだろうか。などと考えているうちに出発し、小さな島々を見ながら、進んでいく。ウトウトしていたら、金門島が見えてきた。何だかとてものどかな島、に見えた。