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華南お茶散歩2015(3)ネット環境抜群の広州のホテル

丘の上の教会から歩いて降りる。そして海沿いを歩き、宿方面へ戻る。それにしてもまだ5時台だというのに腹が減る。ランチが少なかったのだろうか?歩いていると、昔よく行ったマカオ料理屋が目に入ったので、思わず入る。ソルマー、気が向くとよくここでランチを取った記憶が蘇る。だが雰囲気はかなり変わっていた。

 

5時台だというのに、ほぼ満員のお客、それも中国人が多かった。彼らは中国国内同様に大声で店員を呼び、普通話で話す。何とも違和感がある光景だ。食事はスープと魚のメインを取ったが、味は変わらないものの、値段は2倍ぐらいになったような気がする。為替の問題が大きいが、これも観光客料金だろうか。店員と英語で会話するとスムーズ、普通話を話す中国人には明らかに対応が悪い。こんな店になってしまったのか、これも中国の影響ということだろう。

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宿に帰り、ネットをちょっとやって寝てしまう。マカオの夜景、カジノ、全てパスした。マカオの変貌は香港同様かなり残念な状況だ。勿論仕方がないことだが、あの昔の、のどかな中にカジノがあり、何となく猥雑な雰囲気を懐かしく思う。

 

1月23日(土)

岐関口岸

翌朝は早く目覚めたが、マカオ散歩に出る気にならなかった。もうマカオはいいと思い、早々にチェックアウトして、新馬路を歩いていき、半島の裏側へ出た。ここに岐関という小さな港があり、対岸の珠海に渡ることができる。メインのイミグレは拱北にあるのだが、いつ行っても大勢の人がおり、外国人窓口が少ないため、1時間以上待たないと越えられない。もう十分に懲りているので、裏口ルートを使うことにした。

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ちょうど8時に船があったので、イミグレを通り、チケットを買う。30ドル、わずか数分の旅にしてはかなり高いが、これが並ばないための費用ということだろう。船にはそれほど人も乗っておらず、10分前に着いても十分に乗船できるからうれしい。珠海側の写真を数枚撮るともう到着。こちらのイミグレもほぼフリーパス。

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ここから珠海市内までは少し離れており、タクシーを探すがいない。1台だけいた運ちゃんに聞いたところ30元と言われたのでスルーして道へ出る。バス停を探すうちにタクシーが来たので乗り込む。結局バスターミナルまで22元掛ったので、30元でもそれほど高くなかったな。途中に電車の駅が見えた。この軽軌、広州まで走っているらしい。だが見る限り、1台も車両が見えない。パスしてバスを選択。

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広州行のバスは10分後に出発した。何ともスムーズな展開だ。これなら広州にも直ぐに着くだろうと思ったが、それは甘かった。何とこのバス、珠海市内をグルグル回った。市内を出たのは1時間後。それから高速で走ったが、結局広州のバスターミナルに着くまでに合計3時間弱かかっていた。次回は軽軌を試してみよう。

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2.広州

ネット環境抜群のホテル

バスターミナルから地下鉄に乗り、慣れた長寿路駅で降りる。今回はI夫妻に倣ってホリデーインに宿泊することにした。Facebook、ツイッターはおろか、Googleも繋がらず、Gmailすら見られない現在の中国において、何といってもネットがストレスなく通じることが最大の理由だった。チェックインすると、フロントの女性の対応がぎこちない。研修中のようだったが、何とも時間が掛かりストレスになる。

 

実は私は中国のいいホテルでは原則中国語を使わず、英語で会話するようにしている。それがそのホテルのレベルを図る1つの要素だからだが、研修生には荷が重かったようだ。マネージャーが出てきて、普通に英語で会話できると快適になる。日本のパスポートを出しても帰化した中国人と間違われることが多いので、日本人をアピールする狙い?も多少ある。

 

ホテルの部屋は広くて快適だった。I夫妻は2人だけで出掛けるというので、午後は部屋でのんびりすることにした。マカオでもネット環境が悪く、ここで思う存分ネット環境に浸る。中国内でこれだけの環境があればいつでも来たいと思うのだが、今はそうは行かない。ただホテル代が700元程度と高い。昔の700元なら普通だと思ったが、今や1元20円の時代、1泊14000円を3泊は貧乏人には堪える。何とか人民元収入を得る方法はないか、などと考えてみたりする。

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腹が減ったので外へ出て、白切鶏と叉焼ご飯を打包する。これが何とも美味いのだ。ご飯大盛り、おかずも大盛り、味は抜群、これで12元。やはり広州のレベルは高い。これでスープも売っていれば完璧だと思うのだが、それは望み過ぎ。ただ私は注文した時に、厨房のおじさんがどこかへ出ていき、帰って来ない。店員もすみませんね、という雰囲気だが、その数分が待ち遠しくて、困った。更に腹が減り、更に美味しさが増した。これはおじさんの作戦ではあるまいが、ストレスではなく満足度が高まるから不思議だ。

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華南お茶散歩2015(2)マカオの英記茶荘

英記茶荘

今回のマカオ訪問の目的の1つは英記茶荘を訪ねることだった。3年前に香港の長洲島の爺さんが是非一度行ってみるとよい、と言った場所。この爺さんは広東省順徳の出身で、1937年日本軍の広東進攻でマカオに逃れ、親戚を頼って英記茶荘で働いたという。今でも昔の姿を留めている唯一のお茶屋さんだとか。

 

新馬路をまた歩く。そして十月初五街というユニークな名前の通りを行く。この通りはかなり昔のマカオが残っているが、その中でも英記茶荘のビルは遠目に見ても年代物。間口の狭い店先、上には『寿眉王』の文字がある。白茶か。中を覗くと、古めの茶缶がずらりと並んでいる。一見さんには入りにくい店だな。

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中に入っても、特に誰も相手にしてくれない。オジサンは新聞を読み、オバサンは他の客と話し込んでいる。仕方なく、ウロウロ見ているとオバサンが『何が欲しいのか』と普通話で聞いてきたので、『この店の歴史が知りたい』と切り出した。だがオバサンは『そんなこと聞いてどうするの?』という顔をするので、伝家の宝刀、『コラムを書くんです』と言ってしまった。それでもオジサンはピクリともしなかった。

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オバサンが簡単に説明を始める。1932年に開業以来、この場所で、常に同じやり方で売っているという。確かにこの店内を見れば、ほぼ昔のままの様子が見て取れる。だがなぜマカオにお茶屋さんが?香港との関係は?など質問していくと、さすがにオジサンが口をはさみ始める。戦前は雲南や広東から戦乱の中を逃げてきたお茶屋さんがここに集まってきた。一時はここでも茶の加工を行っていたが、戦後は茶葉の供給などが香港と中国の間で行われるようになり、その結果マカオの地位は低下したという。

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話している間にもお客が何人かやってきた。皆常連さんで、『いつもの』という感じで買っていく。中に一人、結構高そうな茶を注文した人がいた。プーアール茶の原料となる緑茶?で、オジサン自ら奥に行き、取りだしてきた。値段はかなり高かったが、私も話のついでに少量購入した。更に白茶も必要だったので購入。その後は話もさらにスムーズになる。

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そこへおじいさんが入ってきた。長洲島の爺さんと同い年のここのオーナー。Iさんが『京劇役者のように色が白くて華奢』と言っていたが、まさにそんな感じの人だった。職人として生きた長洲島の爺さんと、オーナー一家に育ったこのおじいさんでは、環境がかなり違っていた。それが顔の色にも出ているのだろう。おじいさんは、我々の話に加わらずに、ボーっとしていたので、一緒に写真を撮ってもらうことにした。何となく元気がないような気がしたが、気のせいだろうか。そしてこの店はいつまでもこの状態で営業していくのだろうか。不動産が高騰し、周囲がどんどん変化していく中、常態を維持することは簡単ではない。因みに香港にも同じ名前の茶荘があるが、全くの無関係だそうだ。香港の茶荘がなぜこの名前を付け、古くから営業していると言っているのかは分からないとのこと。

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マカオ散歩

茶荘を出て、気ままに歩く。この付近は一等地であり、開発が進んでいる。ずっと歩いていくと、聖アントニオ教会がある。昔来たことがあるな、と思う。そうこの辺、何となく懐かしい。周囲を見渡すと、何とカモンエス公園があるではないか。カモンエス、ポルトガルの詩人で東方に流れ着き、マカオにも2年住んだという。確か日本にもいたことがあったような気がする。大学生の頃、彼を描いた映画?を見た記憶があるのだが、錯覚だろうか。

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東方基金会の立派な建物を覗く。東インド会社が作られたマカオには、往時を偲ぶ様式の建物がたくさん残っている。プロテスタントのための墓地も設置されており、1800年代にこの地で亡くなったヨーロッパ人の墓が存在している。公園内、坂を上ると古いカモンエスの胸像が見える。この辺りは非常に落ち着いた空間があり、大好きな場所の1つである。観光客の姿はなく、マカオの庶民が寛いでいるのがとても良い。

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更に歩いていくと定番コース、大三巴牌坊の裏に出た。聖ポール天主堂跡だが、火事で教会が消滅し、現在はファサードだけが残っている。このファサード、キリシタン禁令で本国を追われた日本人職人が建造に参加したことでも知られ、日本とマカオの繋がりを偲ぶ場所であるが、今や中国人観光客を中心にして、大勢の人が行きかい、とてもゆったりと物思いに耽る環境にはない。

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特に大三巴街は人が多過ぎて前に進むことも出来ないほどの混雑ぶり。まるで毎日がお祭りのようである。その中杏仁餅で有名な鉅記という店は、この道なりに3軒も存在しており、しかもどの店にもお客が一杯という不思議な状況を見せている。コンビニのように店ごとに競争させているのだろうか。中国人観光客が試食品をバクバク食べ、10箱、20箱と買い込んでいく姿は圧巻だ。

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混雑を抜け、落ち着くために、ドン・ペドロ5世劇場やロバート・ホー・トン図書館を訪ねる。この辺の風景は実に良いと思うのだが、観光客は少ない。それがまたよいとも言えるのだが、ここも皆世界遺産だよ、と言ってみたくなる。マカオ散歩はこの付近が一番良い。10年以上前のクリスマスイブにこの付近の教会のミサを見学した時の荘厳な様子が鮮やかに思い出される。

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そして何と言っても、亜婆井前地。マカオで最初にポルトガル人が住み始めた場所らしい。天然の水が井戸から湧き出している。大きな木の下のベンチで老人がゆったりと座り込む。ここになると、まさにローカルマカオ。今回はそこから丘を登ると、西望洋聖堂に辿り着く。ここからマカオタワーなどが一望できる。少しもやっているが、よく見える絶好のロケーション。ポルトガル人はここから故郷を思ったのだろうか。

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華南お茶散歩2015(1)宿代が高騰したマカオ

《華南お茶散歩2015》  2015年1月22日-27日

 

寒い寒い東京、そして韓国から戻り、暖かいバンコックで数日過ごした。この時期タイの人にとってはかなり涼しいらしく、特に夜は肌寒さも感じられるが、私には問題ない、最高の季節だった。しかしまたすぐに旅に出た。広州茶葉市場ツアー、昨年8月に続き、2回目の参戦だった。1月の広州、寒い時はかなり寒い。覚悟していく。

 

旧正月前の香港や広東省はことの他、出入りが激しい。航空券もかなり高くなっており、何と今回はエアアジアでマカオに入ることになった。マカオ空港に行くのは2006年以来、マカオ自体も3年はご無沙汰だから、これはいい旅だと思ったのだが。今回もまた珍道中が始まる。

 

1月22日(金)

1.マカオ

四苦八苦のホテル探し

マカオ空港には順調に着いた。空港は以前の印象からするとかなりきれいになっていた。便数も巨大空港とは違い少ないため、イミグレも空いている。イミグレカードを探したが見付からず、窓口へ行くと、何とそのまま外へ出てしまった。判子も押されない。機械から紙が出てきて、ノービザの期間が確認できる。香港もいつの間にかこの仕組みになっているらしい。

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ここから公共交通機関でリスボアあたりへ行きたいと思う。そうだ、カジノの無料バスがあるはずだ、と気が付いたが、インフォメーションでは、バスに乗れという。そうしろ、と言われればそうするのが私の旅なので、バスを探すとすぐにやってきた。4.2香港ドル、そんなコインは持っていない。1つだけあった5ドルを入れてもお釣りは出ない。バスは懐かしいタイパ島をちょっと走るとすぐに橋を渡り、あっという間にリスボアの横に着いてしまった。

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そこから歩いて、南湾街付近へ。今回はマカオのゲストハウスに泊まってみようというので、ネットで検索した住所を持って来たが、住所だけを見てもなかなか分からない。記事も3年前のものだし、無くなっているのかもしれない。ようやく1軒発見して安堵した。雰囲気もよさそうな所だったので、意気揚々と入ってみる。ところがフロントのおばさんがあまりに無愛想。しかも広東語しか話さない。こちらも英語で押し通したところ、3階へ行け、という。3階に安いGHがあるのかと思い、重い荷物を持って行ってみると、何とそこには部屋があるだけ。しかも何とも中途半端な感じの部屋。

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下に戻り、あの部屋はいくらだという『450香港ドル』と。え、ネット情報ではこの宿の部屋は高くても200ドルとか書いてある。それを見せると『一体いつの時代の話をしているんだ?』と更にすごい剣幕で広東語を話す。こんな所には泊まりたくないと思い、別の宿の住所を見せて行き方を聞くと『知るわけがないだろう、自分で探せ』と言われ、さすがに頭に来た。マカオって、こんなにひどかっただろうか?

 

2軒目はなかなか見付からない。よくよく見てみると、あるビルの2階にあり、そのビルの名前が違っていた。ようやくたどり着いた、と喜んでベルを押すとおじさんが眠そうに出てきて鉄格子越しに『今日は満室だよ』と。えー、このおじさんは親切で言葉づかいも丁寧だったが、『最近ずっと満員だよ、ホテル代も高いからな』という。さすがにマカオも香港に釣られて宿代が高騰していることを悟る。どうするんだ?

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調べた宿は5軒ほどあったが、場所が分からない。どうやら住所も間違っているようだ。仕方なく、前を歩いていくと、セナド広場に出た。その先に新中央酒店という看板が見える。懐かしい、10年近く前に1度泊まったことがある。しかしその汚さはまた格別であり、もう泊まりたいとは思わない宿だが、10年も経てば変わっているだろうと向かう。ところが、何と改装中で閉まっていた。この辺は一等地、改装後は高いホテルになっているのだろう。

 

更に福隆新街に迷い込む。ここには安宿と思われるところがいくつもあるが、かなり怪しい雰囲気が漂い、どうも泊まる気がしない。30年ぐらい前の台北をちょっと思い出す。珠海に抜ける裏港まで出てきた。ここにもホテルがあったが高かった。向かいは安いぞ、と聞いたが、そこは家具を運び出していた。どんどん変化していくマカオ。

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新馬路をトボトボ戻り、また南湾街付近を歩く。さっき断られた宿の先に南賓賓館という文字が見える。ここはネットに載っていたが、なんと『新』が付いていた。旧もあるのかと思い、入ってみる。急な階段を3階まで上がると、かなりきれいな雰囲気。若いカップルがちょうど出てくるなど、先ほどの福隆新街とはかなり違う。そこのおばさんはどう見てもポルトガルの血が入っている。英語も上手く、愛想がよい。ここにしようと見るとシングル380ドル。だが、その部屋はもう無くツイン580ドルだよ、と言われてしまう。しかしすでに宿を探し周り疲れ果てていた。そして荷物を持って階段を降りる気力を失っていた。部屋もきれいなだったので。ここに投宿。

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ただネットの電波が弱く、部屋では使いづらい。フロント脇にちょこんと座り、ネットを見る。何だか寂しい。結構なお金を払って泊まったのに。ランチも下の茶餐庁へ行くが、40ドルで大した味ではなかった。マカオは観光地、色々と期待できないことが多いと分かる。隣の席で2人の日本人が『マカオって、意外と詰まんないな』と言っているのが良く分かった。カジノに行かない者にとって、マカオの魅力は街歩きしかないのだが、そちらはどうだろうか。

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フフホト茶葉の道散歩2014(6)広大な回民区

古い街並み

大きなお寺もあったが、もういいか、ということで素通りした。実はそれが最初に行こうとした大召、無量寺だったのだが。帰ろうかと思っていると、向こうに古い街並みが見えた。と思ったのは錯覚で、こちらも最近きれいに改装された骨董街だった。というか、土産物屋というべきだろうか。しかしフフホトに観光客など来るのだろうか。夏の間はある程度、草原ツアーなどが見込めるのだろうか。どうも、箱モノ行政が目に付く街だ。財政は豊かなのだろう。

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折角なので、回民区を目指してみる。アチト君も行ったことがないというので歩き始めたが、これが意外と遠い。アチト君は彼女のお父さんの重いナイフを背中に背負って、大変だっただろう。結構歩いて、回民区に入った。だがどこが回民区なのかさっぱり分からない。回族に繋がる建物、人々などまるで見つからない。

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古ぼけた建物があり、その一帯は再開発されようとしていた。この辺りが昔の回民区かな、など思いながら、歩いて行くと、立派な建物が見えた。回民区の役所だった。この一帯、かなり広範囲の場所が回民区だったのである。昔はここに沢山の回族商人がいて、ここから新疆やチベットへ向けて荷を運んだ、茶葉を運んだのではないだろうか。想像がどんどん逞しくなるが、その面影は微塵もない。

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さすがに疲れた。結構寒くもなってきた。ちょうど来たバスが大学行きであり、走って乗り込む。前に回族の帽子を被った老人がいた。横には回族の衣装を着た老婆もいた。やはりここは回民区だったのだ。更にはバスが動いてかなり行った所にもモスクがあり、回民の文字も見えた。本当に広い区域に回族が住んでいたのだろう。

 

バスにはどんどん乗客が乗ってきて、立錐の余地もなくなった。確かに夕方ではあったがラッシュ時とは思えないタイミングでなぜこんなに人が乗っているんだ。お蔭で、窓から外を眺める余裕もなく、呼和浩特の街をバスは駆け抜けてしまった。バスでも30分以上は掛かったので、もし歩いていたら大変だっただろう。

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バスを降りて、学内のホテルへ戻る。律儀なアチト君はホテル前まで送ってくれた。これから急いで彼女の家に行き、お父さんにナイフを渡すのだろう。夕日がきれいに落ちていく。Nさんから電話があり、やっと北京から戻ったというが、疲れているので明日の朝会うことに。今夜も一人、どうしても食べてみたいご飯に挑戦する。

 

烩菜

辺りが暗くなってから、学外へ出た。どこかで烩菜と書かれた看板を見た気がしたのだが、暗いせいか、なかなか見つからなかった。ようやく1軒の店を見つけたが、看板には書いてあったのに、品切れだと言われてしまう。こうなると意地だ。探しまくるがこういう時は空回り。なかなか見つからない。

 

何とかもう1軒、見つけて入り、席に着いて注文するとおばさんが『本当に食べるの?』と聞いてきた。メニューを見ると55元もするのだ。それでもどうしても食べたいというと、『分かった』と言って下がる。それから20分ぐらい、私の前には料理は出て来なかった。何か間違いがあったのか?そしてついに料理が出てきた。驚いた。とても一人で食べきれる量ではなかった。え、だからおばさん聞いたのか。まあ、いいや。白いご飯と共に食べる。

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烩菜は昔中国南部で出会ったことがある。烩飯と言って、いわゆる中華丼の元と思われた。豚肉と野菜を炒め、更にじっくり煮込む。ちょっとあんかけ風でとろみがあり、物凄く美味い。これこそ中華丼だろう。ここの烩菜には肉団子も入っていて、野菜が美味かった。更には下の方に麺まで隠れていた。もう驚き。

 

しかし物凄いボリューム、まるで学生時代のように一気に食べる。ちょっと残ってしまったが、3人前は食べた気になり、腹を押さえる。会計してみて驚いた。僅か20元だった。おばさんは恐らく1人前を特別に拵えてくれたのだ、この我儘な外国人の為に。こういうサービス、涙が出るほどうれしい。でもこれ1人前ではないだろう。

 

10月17日(金)

空港へ

翌朝はNさんとまた学内のレストランで待ち合わせ、今回の茶旅の成果を報告した。何と言っても鄧さんと会えたことは大きかった。そして呼和浩特の街も何となく見ることが出来、次の旅への意欲が湧いてきたのは事実である。全てはNさんのお陰、感謝である。

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そのままホテルへ戻り、チェックアウトした。Nさんがタクシーを呼んでくれ、大きな荷物をトランクへ詰め込んだ。呼和浩特の街を走り抜け、30分で空港へ着いた。空港でネットに挑戦したが、やはりVPNは使えなかった。これから先が思いやれる。天気もここに降り立った時より、だいぶ空気が澱んでいた。

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フフホト茶葉の道散歩2014(5)大盛魁と元盛徳

10月16日(木)

大盛魁と元盛徳

翌朝、アチト君が早々にやって来た。今日も一日付き合ってくれるという。有難い。今日の目的地は大盛魁、清代に茶葉貿易で大儲けした山西商人の屋号だ。その店の跡が残っているというので出掛けてみた。今日は歩いて行く。その方が街歩きの感覚がつかめた。

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大学から西へ20分ぐらい歩くと、大きな建物が見えた。古玩城、ようは骨董屋ビルだ。だが近づいても人の気配がない。建てたはいいが、使われていないのだろうか?その向かい側に大盛魁と書かれた立派な、真新しい門があった。その奥には建物がいくつか見えたが、いずれも新しい。しかも人の気配は全くない。

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その辺を歩いてみたが、ここは最近作られた場所のようで、まるで映画のセットだった。投資に失敗したのか、既に作った会社はいなくなっているように見える。何と勿体無い、これも一種の箱モノ行政だろうか。そもそも本当にこの場所に大盛魁はあったのだろうか?説明書き一つないので何も分からない。勿論大盛魁がどんな活動をしていたのかも何一つわからない。

 

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もうここはいいかと思いながら、ふと裏へ回った。そこには古びた小さな邸宅が一軒見えた。行ってみると元盛徳と書かれていた。こちらも大商人の屋号。門が開いていたので中へ入ってみると、そこは北京でもよく見た四合院造りの邸宅。庭には古い木があり、風情がある。だがここには人が住んでいた。勝手に入って申し訳なかったが、話を聞いてみると気さくに応じて案内してくれた。

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歴史は200年以上あるというこの家、現在の住人斉さんは10年前から住んでいるとのこと。裏には井戸もあり、本格的な古民家だった。『大盛魁のところはあんなにきれいにしてしまったが、何の風情もない』という。それはそうだろう。斉さんは何も言わなかったが、この四合院を守るため、敢えてここに住んでいるのかもしれない。それぐらい、ここは大切な場所だと思うが、開発の波は中国全土で吹き荒れている。果たしてどうだろうか。

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席力

大召と言われる寺院へ行ってみる。ここは呼和浩特建都の父、アルタンハンが建造した寺院だという。アルタンハンはチベット仏教を導入した人物。しかしよく見ると名前は席力、となっている。1588年の創建。これは違い寺院へ来てしまったが、まあいいか。

 

アチト君は彼女に頼まれて、この近くのナイフ屋さんに出向いた。彼女のお父さんが注文した物を代わりに取りに行くという。少しして戻ってきたが、『約束の時間に取りに来なかったと怒られた』という。どこの世界でも、男はつらいよ、だ。しかし大きなナイフを注文するとは如何にもモンゴル族。

 

30元を支払ってチケット買ったが、誰もチェックしない。本堂まで真っ直ぐに道を進むのみ。でもこれ、マニ車を回す以外、普通の寺院をあまり変わらない。本堂と思われるところへ来ると、坊さんがいて、ようやくチケットをチェックした。チケットを持っている人間だけが中に入れるようだ。中は完全にチベットのお寺と同じだった。インドのラダックや西寧の寺が懐かしく思い出される。アチト君は仏像一体一体の前で祈りを捧げている。

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それから先ほどの斉さんに勧められた五塔寺に向かう。だが腹が減って来た。ちょうど『焼麦』と書かれた看板があり、気になっていたので、その店に入ってみる。焼麦は呼和浩特の名物らしい。麦を焼くのか?店の主人は回族ではないかと思われた。アチト君に、どれだけ食べるかと聞いているが、何を食べるかとは聞いていない。

 

周囲を見てみると、皆蒸籠が置かれて、食べている。どうやら小龍包の大きな奴のようだ。いや、よく見ると焼売の大きな物だった。そこでハタと気が付く。焼麦は焼売のことではないのか。食べてみるとまさに焼売の原型に思われた。面白い。醤油をつけて、ひたすらこれを食べた。この店は焼麦専門店だった。お客は次々に入ってきて繁盛していた。確かに美味い。

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五塔寺

それから五塔寺へ行った。1727年創建。確かに古くて、いい雰囲気だった。そして本堂の脇にあった建物、上に5つの塔が乗っていた。勿論最近作られたものだろうが、何となくおかしい。ただこの建物は様々な装飾が施されており、描かれている内容もちょっと興味深い。

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仏像もあるが、モンゴル文字、いやひょっとするとチベット文字かと思われるような文字も見える。かなり細かい彫り物もある。そして建物の中には、仏様があった。何とも言えないいい感じだった。この寺にも人影は全くなかった。不思議なぐらい静寂な時間が過ぎた。

 

それから九久街の茶葉市場へ行ってみる。ここに茶葉市場があると一昨日教わった。行ってみると確かに店は沢山あったが、客らしい人は殆ど歩いていなかった。福建系の店が多く、岩茶などを売っている。ここまで来て福建の茶を見ても仕方がないと思い、通り過ぎようとすると、1軒の店が目に止まる。

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ここは一昨日の宴会で私の隣に座っていたオジサンの店だった。確か四川省の緑茶を扱っているとか。どんなお茶か試飲してみた。ちょうどオジサンは外出したということで、やる気の無さそうな女性が応対してくれた。このお店は最近始めたらしい。そして四川のお茶、米倉山の緑茶も最近取り扱い始めたという。目新しいが・・。

 

フフホト茶葉の道散歩2014(4)博物館は立派すぎたが

10月15日(水)

2日酔いか

翌朝は爽やかに目覚めた。あんなに飲んだのに、全く酔いは残っていなかった。むしろスッキリした気分で、頭の回転が速くなっている。こういう時は物を書く。今日はアチト君も一日授業だし、Nさんも北京なので、一人マイペースで過ごすことが出来た。これもまた必要な時間だ。あとで聞く所に寄ると、昨晩の白酒は高級品であり、かなり高い物だったそうだ。だから二日酔いにならない、いい酒を飲んだ。

 

部屋でダラダラしていると9時過ぎに掃除がやって来た。昨日は『あとで』とお願いしたが、結局やってもらえなかったので、今日はこちらが部屋を出て、掃除を頼む。泊り客が多くないようで、掃除を集中的にやって帰りたいらしい。まあ気持ちは分かる。天気は良いし、寒くもないので、散歩に出る。

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フフホトの旧市街地は碁盤の目のようになっているので比較的歩きやすい。現在の中心部は新中国以降に建設された街なのだろう。何となく腹が減る。ちょうど清真の看板が見え、新疆のラグメンの字があったので、その小さなレストランへ入った。午前10時だが、お客はいた。皆ラーメンを食べている。ウエートレスは何も言う前に『ラーメンね』と言ったので、ラーメンになってしまった。

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このラーメンがまた特に何の変哲もないのだが、後を引く。特にスープの辛みが残る。何故だろうか。麺は細麺でそれほど好きではないのだが。7元。満足した。それからトボトボ歩きだした。今日は博物館へ行こうと思っていたので、このまま歩いて行くことにする。ところが地図で見ていた以上に遠かった。かなり歩いても辿り着かない。お蔭で大通りの立派なビルを眺めるなど、街歩きを堪能できたとは言えるが、足が痛くなるほど疲れた。

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立派過ぎる博物館

大学は街の西側、博物館は東側。歩いて1時間半は掛かった。遠かった。着いてビックリ。実に立派な博物館、というより、ショッピングモールと見間違うほど。映画館も併設されており、いわゆる博物館の雰囲気は殆どない。言われなければ通り過ぎただろう。中国はどこでもそうだが博物館はチケットを取る必要はあるが無料。ここでは身分証のチェックすらなかった。

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中に入るとやはりきれいな箱モノ行政。実に立派な造りだが、私が必要としている茶に関する展示は殆どなかった。中国とモンゴルが如何に一体か、歴史的の共存関係にあるか、と言った政治的な要素の強い展示が多く、また宇宙開発事業の基地として内モンゴルを美化する展示もあり、あまり見る気がしなかった。小学生が社会見学で沢山訪れており、彼らを避けて見学するのも面倒だった。彼らはここで一体何を学ぶのだろうか。

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書籍を販売するコーナーがあったので、もしや歴史の本などないかと探したかったが、何と係が昼休みなのか、閉鎖されていた。1時間待ってみたが、やはり誰も来なかったので、諦めて去る。まあそんなものだろう、こんな時は。

 

博物館の小高い場所から眺めると、周囲には高級マンションが林立していた。この辺りがフフホトの新興地区、市政府などの建物を移転させ、東に広げた場所なのだろう。因みに不動産価格は6000-8000元/㎡の表示があったが、今はそれで売れるのだろうか?

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みかんを買う

帰りはさすがに歩けない。バス停でバスを探すと一本で大学へ戻るバスが見付かる。バスは頻繁に走っており、私の努力をあざ笑うかのように、あっという間に大学まで引き戻された。バスも空いているし、道も空いている。一度ホテルに戻り休息。

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夕方外へ出て買い物をしたいと思った。いつものことだがバナナが食べたくなる。バナナは腹持ちがいいし、簡単に食べられるのもよい。今やどこへ行っても売っているし実に手軽だ。だが、大学付近ではなぜか売っていない。探し回る羽目になる。小学校の下校とぶつかり、大勢の子供が出てきた。父兄が必ず迎えに来ている。おじいちゃんやおばあちゃんもいる。中国、大変だな。何人もの子が腹を空かせ、買い食いをしている。

 

ようやく果物を売る店を発見。バナナを買うが、みかんも目に入る。そうだな、季節的にはもうみかんだな。南国にもあるが高いので、ここはみかんだ、と思い、あわせて買う。そんな買い物がちょっと嬉しい。内モンゴルでもお金があれば何でも買える。

 

オムライス

夕飯はどうしても食べてみたということで、また学内のモンゴルレストランへ行き、オムライスを注文した。一昨日女子学生が食べているのを見て、これは美味そう、と思ってしまい、食べてみた。結論から言えば、チキンライスの味付けがちょっと違っていたが、まあ、内モンゴルでオムライスが食べられるだけでも感激か。

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先日インドのバラナシでもオムライスを食べていると中国人が寄って来たのを思い出す。このオムライス、ケチャップでお絵描きもできるし、アジア受けするメニューだな、と思う。クレープなどと同じコンセプトで売りだせば、かなりイケルのでは、と思ってしまうのだが、どうなんだろうか。

 

ホテルの部屋に戻る。そういえばホテルではネットは簡単に繋がるし、VPNも問題なくつながるため、Facebookもツイッターも出来てしまう。私は中国滞在中この2つをお休みしてきたが、繋がってしまうと、見ない訳にもいかず、見てしまうと更新しない訳にもいかない。結局部屋にいる時はいつもと同じように多忙になってしまっている。勿論繋がらないより百倍良いのだが、深夜までみかんを食べながら作業してしまった。

 

フフホト茶葉の道散歩2014(3)『茶葉之路』の著者、鄧九剛氏に会う

茶葉の道展覧館で

そしてついに鄧氏に会うために、研究所へ。研究所と言われていたが、行ってみると展覧館。かなり立派な建物だった。中は広くて迷路のよう。案内を乞うと2階に連れて行かれる。女性が待っており、そして鄧氏と対面した。鄧氏は柔和な文化人、威圧感もなく、温和な語り口で、実にすんなり話に入ることが出来た。

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勿論彼は私の目的を知りたがったので、その説明からした。そして茶旅の中でモンゴル‐ロシアの国境キャプタで茶城を見たこと、湖南省益陽で磚茶工場などを訪ねたことを話すと、大きく頷いてくれた。『日本人がここに来たのは初めてだ』と言われ、大いなる歓迎を受けた。女性は北京で不動産業を営んでいると言ったが、お茶が好きでこの茶葉の道研究を資金的にサポートしているらしい。この展覧館も彼女の敷地に彼女が建てた、ものだという。淡々と武夷岩茶を淹れながら、話を聞いていた。

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私は鄧氏の著書を一通り読み、いくつもの質問を携えてきた。だが1₋2質問すると彼はそれには答えず立ち上がり、書棚から本を取りだすと私に差し出した。『君の聞きたいことはたぶんここに書いてある』という。『復活的茶葉之路』、という題名の昨年出版されたその本には、前著には書かれていなかった、その後新たに分かって来た茶葉の道に関する情報がふんだんに盛り込まれていた。

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特にモンゴル族商人もこのルートを使い、茶葉交易を行っていたことや、最近の茶葉の道研究に賛同する中国、モンゴル、ロシアの関係都市の様子なども書かれている。既にこの道は単なる茶の交易ルートではなく、シルクロードに続く、中国‐ヨーロッパの一大交易ルートとして脚光を浴びつつあったのだ。勿論そこには各都市の経済的な思惑もあり、また中国の中央政府の政治的、外交的な思惑すら見えてくる。

 

地図を広げながら説明する鄧氏。その地図の大きさ、広さにちょっと圧倒される。こんなに長い距離を300年前にラクダと共に歩いた人がいた、というだけで旅人心をくすぐられる。『君も旅の観点からこの道を研究したらどうだ』と鄧氏は言う。確かに茶旅をしている者としては、まずはこの大ルートを1つ1つ歩いて行くことが重要だろう。『次に行くべき重要な都市は、漢口だな』との指示もあり、意欲が湧く。

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フフホトを拠点に清代に巨万の富を築いた茶商、大盛魁。鄧氏は大盛魁についても詳しく調べ、本を書いていた。その本が2₋3年前にテレビドラマ化されていた。この本も欲しかったが、ここで言いだすとおねだりすることになるので、後日本屋で探すべく、我慢した。ところがフフホトでは見付けることが出来なかった。やはりどんな場面でも必要な物は勇気を出して貰い受ける、これが研究者なのだろう。

 

大宴会

あっという間に3時間ぐらい過ぎてしまった。話は尽きなかったが、トイレに立ちあがった際に、この建物中を見学させてもらった。茶葉の道に関するポイントが簡潔に書かれていたプレート。往時のフフホトの写真も飾られている。実は20人ほど入る部屋では同時にセミナーが行われていた。この展覧館は茶葉の道の認知度を高める、研究を進めるために様々な催しが行われているらしい。

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そして夕飯を食べていかないかと誘われた。中国では食事に誘われれば認知された、と考えるので、喜んでお受けした。同じ階のさらに立派な部屋に食事が用意され、いつのまにかフフホトのお茶好きなどが集められていた。そしてお茶ではなく、白酒が出てきて、乾杯が始まる。いつもはお酒を飲めないと断る私だが、今日は覚悟した。ここでは中国流でやらなければならない。

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お隣の女性が『山西の古歌』を歌い出した、実にリズムが良くて上手い。山西方言のため意味は良く分からなかったが、参加者の一人は『子供の頃に母が歌っていた歌だ。方言も懐かしくて涙が出る』と言っていた。フフホトに住む漢族の多くは山西あたりの出身だ。とても参考になる。

 

そして酒を飲まないアチト君も早々に草原の歌を披露した。彼の故郷はモンゴル国境に近い草原で、両親は今でも馬や羊を飼っているらしい。それにしても本当に草原にいるような気分になるから凄い。結局お前も歌えということになり、定番の北国の春を歌い出したが、完全に歌詞を忘れてしまって困った。横のオジサンが2番を完璧な中国語で歌ってくれた。そして『子供の頃、いつも歌っていたよ。俺たちにとっての日本といえば北国の春と高倉健さ』としみじみ言う。そう、高倉健は誰もが知る大スターだ。

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2時間ぐらいの宴会で白酒をどのくらい飲んだだろうか。実に久しぶりに完璧な酔っ払いになってしまった。帰りは誰かが車で送ってくれたが、ホテルの部屋に倒れ込んだところで記憶は途切れた。

 

それにしても茶縁、恐るべし。このような楽しい出会いがあるから、茶旅は止められない。いや、止めるどころかどんどんエスカレートしていく。ロシア語も出来ないのに、どうやってロシアへ行くか、なんて考え始めていた。まあ、なるようになる、ご縁は必ずつながる、と思う。

フフホト茶葉の道散歩2014(2)濃厚なチャイと茶鍋

濃厚なチャイ

キャンパス内のレストランへ行く。モンゴル族がやっており、モンゴル料理が食べられる店。そこでチャイを飲んだ。実は私はこのミルク入りのお茶があまり得意ではない。特にここのチャイは濃厚で、腹に重い。Nさんは薬缶から注いで何杯も飲んでいる。やはりここは習慣の違いだろう。因みに薬缶に入ってくる場合とポットに大量に入ってくる物を選ぶことができる。モンゴル族はものすごい量を飲んでいることが良く分かる。

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このレストランで夕飯も食べた。周囲にはモンゴル族の学生や先生が集まっている。何とオムライスを食べている女子学生がいた。聞くとここの店主は日本への留学経験があるという。というか、内モンゴルのモンゴル族の留学先の多くが日本、なのだそうだ。これは初めて聞く事実。モンゴル人といえばお相撲さんぐらいしか思い浮かばないのだが、実はモンゴル、内モンゴルを合わせてかなりの人が日本に住んでいることになる。

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Nさんから現在の内モンゴル経済など、各種事情を聞いた。石炭価格の暴落など受け、この地域の経済も厳しさを増している。不動産価格の上昇にも歯止めが掛かり、価格調整が懸念されていた。夜はかなり冷えてきたが、返ってぐっすり寝られた。

 

10月14日(火)

朝からチャイ

翌朝は朝8時に昨晩のレストランへ行った。Nさんが一緒に朝ごはんを食べてくれた。彼はチャイと揚げパン、私にはオートミールのような食べ物を頼んでくれた。雑穀にヨーグルトのような物を掛けて、更には砂糖を混ぜて食べるのだが、意外や腹に重い。早々沢山は食べられない。

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それから学校近くの食料品店へ行く。ヨーグルトやチーズなどがふんだんに置かれていたが、私の目当てはお茶。丸に川の字の磚茶を発見。湖北省産だった。小さいサイズ380gと大きなサイズ1.7㎏があった。この商標のお茶が良く売れているのだという。これは大盛魁の子会社の商標だったと思う。いまでも使われているのか。

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Nさんと別れ、ホテルで待っていると彼の生徒であるアチト君が迎えに来た。彼は東京に8か月滞在した経験があり、日本語はかなり話せた。Nさんはこれから北京の学会に出張となったため、アチト君を付けてくれたのだ。まずは内モンゴルのお茶関係資料収集の為に、本屋へ案内してもらった。ところが

 

行った所は文化商場。文房具やら、雑貨やらが沢山売られていた。その中に古本屋が数軒あったが、お茶の本は全くなく、呼和浩特の地図を手に入れるのがやっとだった。でもこの商場、何だか面白い。昔の中国に紛れ込んだ気分になった。

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もうちょっと歩いて行き、ランチを食べる。茶鍋、と名付けられた鍋を注文した。文字通りチャイがスープであり、その中にチーズなどが入っている。今まで見たことがない迫力。2人ではとても食べきれない量だった。これはモンゴル伝統の料理ではなく、モンゴルに入って来た漢族が作った料理だと思われる。

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このレストランの向かいには小さな日本食レストランがあった。その名もちびまる子。やはり日本留学組が開いた店らしい。アチト君も日本飯が恋しくなると、偶に食べに行くらしい。時間があれば一度食べたいと思ったが、その機会は訪れなかった。

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フフホトでモンゴルらしいところへ、ということで、民族衣装を売る店が並ぶ通りを歩いた。最近は結婚式が派手になり、民族衣装ニーズも高まっている。全く偶然ながらアチト君の彼女と遭遇した。これも何かのご縁か。大学院を修了したら、就職して結婚するのだろうか。

 

タクシーに乗り、呼和浩特駅に行ってみる。本当は電車で内モンゴルとモンゴルの国境あたりへ行ってみたいのだが、叶わないのでせめて駅でもと思ったが、特に特徴のある場所ではなかった。

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賽馬場

そして今回の最大の目的、『茶葉之路』の著者、鄧九剛氏に会いに行く。Nさんが既にコンタクトしており、競馬場横にある茶葉之路研究所に来るように言われていた。タクシーに乗るとその場所は直ぐに分かったが、約束の時間には早過ぎたので、周囲を散歩した。

 

それにしても競馬場とは。モンゴル族だから、博打としての競馬ではなく、スポーツとしての馬の競争だろう。いまでもお祭りなどでは活発に行われているようだが、遊牧生活を捨て、都会に暮らすモンゴル族にとって、馬は遠い存在ではなかろうか。

 

この付近は新興住宅街なのか、マンションが立ち並び、旧市街地とは様相が異なっていた。スーパーは『毎月18日は自然閉店』と書かれている。全品35%オフ、でお客がいなくなれば早めに閉める、と書くことで客を引き寄せている。きっと多くのお客が押し寄せているのだろう。面白い発想だ。

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なぜか高級マンションの1階に北朝鮮レストランがあった。モンゴルと北朝鮮の繋がりは十分に深いと思っているので不思議ではないが、なぜここにあるのかはとても奇妙な感じがした。

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フフホト茶葉の道散歩2014(1)タクシーは早い者勝ち

《フフホト茶葉の道散歩2014》  2014年10月13日-17日

 

昨年夏、モンゴルへ行った時、偶然にも『茶葉の道』の中ロ国境に行きあたった。そこには100年以上放置された茶城が今もその姿を残していた。その時私は1冊の本を持っていた。『茶葉之路』、鄧九剛という人が書いた本だが、どうにも気になっていた。モンゴル旅では内モンゴル大学のN副教授も同行しており、鄧氏がフフホト在住の作家であること、恐らくコンタクトできることを聞いていた。

 

東京のエコ茶会で3回目の講演を行った。4回目もありそうなので、来年はこの『茶葉の道』を話したいと思い、早々にフフホトへ飛んだ。果たしてどうなるのか?フフホトは寒いのか?良く分からないまま、ユニクロのウルトラライトダウンなる物を購入して乗り込む。

 

10月13日(月)

1.フフホトまで

台風で早起き

日本に約1か月滞在し、関西、九州と回り、東京での用事をいくつかこなした。正直日本は私にとって無理が効く分、疲れる場所だ。かと言って、今や中国はストレスの溜まる場所。まあとにかく早起きして羽田空港へ向かう。前日から台風の接近が告げられており、相当早くに起き出したが、幸いまだ来ておらず、電車も通常運行だった。

 

チェックインカウンターでフフホトまで行くと告げたが、『北京までしかチェックインできない』という。同じエアチャイナのフライトなのに、と思ったが、国際線から国内線は全てそうなのだとか。何とも不便な国だ。フライトは順調で、北京空港での乗継にはかなりの時間の余裕があった。

 

前回はGoogleが繋がらずに大混乱してしまったが、今回はちゃんと事前にVPNをインストールして臨んだので、問題ないと思っていた。だが、北京空港でWIFIには接続で来たのに、VPNは繋がらなかった。本当に困ったことだ。先が思いやられる。

 

国内線も順調、満席だった。この時期、フフホトに行く人がこんなに多いとは。やはり内モンゴルの中心都市、商業の街だから、ということだろうか。観光客は見当たらず、商売や投資関係者と見られる人々が乗っていた。

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2.フフホト

タクシーは早い者勝ち

フフホトの空港に着くと、預けた荷物もちゃんと出てきたので、タクシーを拾いに外へ出る。ところが、タクシー乗り場付近では列を作ることもなく、皆バラバラに空車を待つ状況。車が来るとそこに群がり、行き先を叫ぶ。大きな荷物を持っている私はどうしても出遅れる。これではいつになっても乗ることが出来ない。何という田舎の空港、などと思ってみても何の解決にもならない。タクシーの絶対数が足りないのだから、方法を考える必要がある。

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よく見てみると、既に客が乗り込んでいるタクシーに向かい交渉している人がいた。そうだ、相乗り、それも既に乗っている車なら捕まえやすい。場所も内モンゴル大学だから分かりやすい。そう思ってトライするとすんなり乗せてくれた。やはり地元の人間がやっていることを真似るのが良いようだ。

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タクシーは市内に向けて走り出したが、内モンゴルに着いた、という感じは特になかった。郊外のマンション建設が進み、何となく商店がある。中国のどこにでもある地方都市である。途中で渋滞に嵌ったが、それほど酷くはなく、市内中心部をすり抜けて、車は内モンゴル大学へ。ただ正門に着いたところ、ここからは車は中へ入れないというので、無理を教えて東門に回り、予約してもらった学内のホテルの前に付けてもらった。さすがに大きな荷物を抱えて歩いて行く気力はなかった。

 

内モンゴル大学

ホテルでNさんの名前を言うとすぐにチェックインできた。Nさんも研究室が近いということで、すぐに来てくれた。昨年改装したというこのホテル、部屋も広く、思いの外、きれいだった。ただ電源などは昔のままらしく、どこにあるのか分からず、ちょっと苦労した。

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Nさんに学内を案内してもらった。池もあり、木々も鮮やかで、晩秋の雰囲気が出ていた。夕暮れ時、さすがにちょっと肌寒い。東京と比べると10度ぐらいは違うだろうか。チンギスハン像がキャンパスの真ん中にある。外モンゴルではソ連時代、ずっと無視されてきたチンギスハン。モンゴルの英雄は不要だったのだが、ここでは『中国の英雄』として、祭られているのだろうか。

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このキャンパス、中国の大学としては小さかったが、郊外にかなり大きな新キャンパスがあるという。現在は漢族の学生が増え続け、教員も漢族の方が多いらしい。内モンゴルの複雑な歴史を垣間見るほど、私には知識がない。

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広州茶葉市場ツアー2014(4)仏山の豪華ホテルに泊まる

南海へ

時間がやって来たので、I夫妻のタクシーに便乗し、芳村の地下鉄駅で下ろしてもらう。この駅から仏山南海へ向かう。地下鉄1号線で終点まで行き、広仏線に乗り替える。こんな電車があるとは知らなかった。15年ほど前に仕事で何度も行った仏山、南海。その時は全て車だったが、今では広州への通勤圏内になっている。

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広州のホテルで仏山のグループホテルの場所を聞くと、地下鉄からすぐ、ということだったので、言われた駅で降りると、目指すホテルは確かに直ぐに見えてきた。この付近は私が持っていた古い仏山の街のイメージは微塵もなく、高層ビルと住宅が立ち並ぶ現代都市になっている。完全な広州のベッドタウンとなっていた。

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その中でもひときわ目を惹く豪華ホテル、そこにI先生が待っていた。I先生は北京の駐在時代のお知り合い、一度帰国後また北京に赴任されているが、仕事でちょうどこのホテルに宿泊しており、お声が掛かったので、行ってみることになった。5つ星ホテルのエグゼクティブルーム、素晴らしい空間がそこにあった。

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ここでもネットは全て自由でFacebookすら簡単に繋がる。しかもスピードは広州のホテルより速く、むしろ日本より速い感じがした。今回のストレスが一気に解消され、しばしネットに向かってしまう。NHKのドラマも映っており、極楽気分になる。

 

夕暮れ時、ラウンジへ行くと、お酒も飲めるし、軽い〈と言ってもかなり豪華な〉食事も楽しめる。外へ食べに行く必要もなく、いい景色を眺めながら、ゆっくりと話が出来た。欧米人中心にラウンジ利用があったが、かなり余裕があり、ゆったり感は抜群だった。夜も話をしながら過ごす。湯船に湯をためて風呂にも入る。かなり気持ち良い。一晩、泊めてもらい、感激。

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8月31日(日)

遠い散歩

朝食もラウンジで美味しく頂く。靄がかかっているのは大気汚染か自然現象か?その先に塔が見える。手前には公園がある。食べてばかりではなく、散歩に出ようということになる。歩き始めるとこの公園が広いことが分かる。更に塔は小山の上にあり、そこまではかなり遠い。だが行くと決めたので行ってみる。

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相当歩いて、丘に近づいて行く。だが登るところが分からない。ようやく見つけて登るがキツイ。そして登り切ると、何と塔は改装中で中には入れなかった。何という無駄な道のり。でも無駄な道を歩くことが重要かもしれない。暑い日差しが照り付けている。

 

そしてホテルをチェックアウトする。I先生も暇なので広州見学するというので一緒に地下鉄に乗る。まさか広州がこんなに近いとはIさんも驚いている。それほどに中国の都市間は接近している。小1時間で広州に着く。

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2度の夕飯

午後4時、I先生は20数年前、中国留学中に広州に来た思い出を語り出す。広州酒家、ここが思い出の場所だというので、出掛けてみる。周囲では中秋節の月餅を売っている。店に入ると電気が点いていなかった。聞けば夕方は5時半からだという。このお店、いつも混んでおり、恐らくは並ばないと入れない。1時間半並んでいる訳にもいかず、断念した。

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それから歩行者天国をフラフラした。I先生にとっては20数年ぶりの広州、あまりの変化に驚くことすらなかった。全く違う都市を歩いている感覚だろう。その中の適当な店に入り、お茶を飲みながら食事の時間を待つことにした。ゆったりした感じ、それもまたよい。それから好きな物を頼み、どんどん食べる。豆腐が美味い。ビールも美味い。良い日曜日の午後だ。

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I先生と別れて、ホテルに戻る。その後I夫妻と連絡を取ると、また食事に行くという。何と今日はホテルのレストランを予約しているので、と言われ、1度食事をしたのだが、出掛けて行く。立派な部屋でハトなど豪華な夕食を頂く。今晩は2度おいしい、幸せな状況になる。

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9月1日(月)

雲吞麺

今日はバンコックに帰る日。朝はゆっくりと起き、心残りのないように雲吞麺を食べに行く。広州の雲吞麺は基本的にどこでも美味しい。大勢の人々が麺を頬張り、スープをすすっている。私もその一人となり、幸せな時間を過ごす。僅か7元で、大きなエビ入り雲吞が入っているのが凄い。

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周囲を簡単に散歩し、荷物を纏めてチェックアウトし、地下鉄へ行く。広州の空港まで地下鉄を乗り継げば行けることが分かったので、チャレンジしてみる。これも意外と簡単で、1時間ちょっとで空港まで着いてしまった。簡単な荷物なら地下鉄利用も楽かもしれない。空港では前回断られたラウンジに入り、ネットを繋いだが、やはりGoogleは一切シャットダウンされていた。中国が『外国人お断り』を宣言しているようで、気分的にはかなり落ち込む。

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