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茶旅の原点 福建2016(7)武夷学院にある茶学院

426日(火)
武夷山へ

翌朝も気持ちよく目覚めたが、外は曇り。私にとってはとてもいい雰囲気なのだが、茶作りでは晴れ間も欲しいはず。朝ご飯を頂き、この地にも別れを告げる時が来た。楊さんが出てきて、一緒に写真に収まる。彼は一見気難しいが、心配りがある。結局バスで行くという私を制して、茶工場の車で武夷山まで送ってくれた。何とも忙しい時に煩わせてしまい申し訳ない。お土産に白茶と紅茶までもらってしまった。

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車は政和の街を出て高速に乗る。この道、全く車が走っていない。確かに中国の高速道路網の発達は素晴らしいが、ここまで使われていない道も珍しいのではないか。途中トイレに寄ったが、そこにも殆ど人はいなかった。僅か1時間で武夷山に入った。私が武夷山を訪れたのは15年も前の話。茶旅の始まりは武夷山だったが、その後一度も来ていない。皆に不思議がられるが、来ていないものは仕方がない。どの程度変化しているのか、車から見ても想像がつかない。

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5.    武夷山
武夷学院

今回武夷山でお世話になるのは武夷学院。車は門までやってきたが、指定車両以外中には入れないというので、そこで降りた。この大学には茶学院という、日本で言えば茶学部が存在する。紹介されたのはそこの院長。大学を入っていくと、何とも広い敷地で戸惑う。学生に聞いても、茶学院を知らない子もおり、難儀する。敷地内は校舎というより宿舎が続いている。

 

何とか探し当てた茶学院。李院長は待っていてくれた。実は彼が指示しところとは違う門から入ってしまい、ものすごい距離を荷物を引いて歩いたことが分かった。武夷学院は全校生徒15,000人、茶学院の生徒は1,500人とその1割。それにしても日本から考えればすごい数だ。その学生が、茶樹の育種から製茶、はたまた茶文化まで、茶に関することを総合的に学ぶというのだから、さすが中国。日本にはこのような学部はなく、学科すらないと聞いているので、なんとも羨ましい限りだ。

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院長に促されて先生たちとランチに行く。先生も皆比較的若く、ここの卒業生が中心だ。茶文化などの専攻だという。その後、院長が予約してくれた宿に行く。当初、魏さんが院長に『折角だから学院内の学生宿舎に泊めてやってくれ』とお願いしていたが、さすがにそれは出来なかったらしい。学院の外にある宿は意外と広くて快適。有り難い。

 

それから卒業生の一人が迎えに来て、学院内を案内してくれた。やはりかなり広い。その中には図書館があり、その近くに万里茶道文化研究院なるものもあったが、閉まっていて見学できず。武夷山と関連がある朱熹の研究会もあるようだ。裏手には茶畑もあるとのことだったが、雨が降ってきたので見学は中止した。そこへ李院長が車でやってきた。

 

万里茶路の起点

李さんは『あなたが行きたいのは万里茶路のスタート地点だね』と念を押し、車を走らせた。私はてっきり有名な下梅に行くものだと思っていたが、意外にも車は比較的近くで大きな道から逸れ、デコボコ道を走る。そこはよく見ると、武夷山の飛行場の横だった。何でこんなところへ来たのか、不思議だった。雨でぬかるんだ道を突き当りまで行くと『着いたぞ』という。そこに今にも崩れそうな建物が建っていた。

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赤石、というその地名を初めて聞く。そして『ここが本当のスタート地点だが、誰も歴史を掘り起こさず、忘れ去られた場所』だという。そこから川沿いに路地を入っていくと、建物が並んでいたが、どれも皆古い。中には以前は倉庫と店だったと思われるものもあったが、今は普通の家として使われているか、放置され、ひどい状態になっている。地元の人に聞くと『昔はかなり栄えたと聞くがね』と既に今生きている人々の時代には朽ち果てる一方だったとの声もあった。

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川はそれほど大きくないが、よく見ると、石造りの坂があり、いまだに筏が置かれているところがあった。往時は先ほどの倉庫への茶葉の搬入が頻繁に行われていたに違いない。茶葉はいったんここへ集められ、広東体制下では、人間が担いで武夷山を越えたとも言われている。アヘン戦争後は、川で福州や厦門方面に流れて行ったはずだ。今見ても古い木と、商人が商売繁盛を祈願した廟だけがそれを知っているようだった。廟の管理人も『昔は立派な廟だったが、文革で破壊されたよ』と悲しそうに話していた。

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茶園へ

その後は茶園へ向かう。武夷学院を通り過ぎたあたりで山へ入り込んだ。結構急な坂を上る。李院長が『昔から茶作りをしているから、山道の運転は得意だ』というだけのことはある。細い山道を軽快に走っていく。上の方へ行くと見事な茶畑が広がっていた。きれいに管理された茶畑だ。しばし皆で茶畑と戯れる。こんな時間が心地よい。

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茶農家を訪問した。李院長はよく知っているようで、ずかずか入っていく。そこでは昨今流行りの肉桂を作っていた。肉桂は昔からあるが、なぜ今流行っているのだろうか。『馬肉、飲む?』と聞かれ、キョトンとした。牛肉という言葉も飛び交っている。なぜ肉を飲むのか、見当もつかなかった、なんとそれはお茶、肉桂の種類だったのだ。

 

この農家は以前別の仕事をしていたが、空気がよく、水もよい、この土地の環境に見せられ、10年前に就農したという。茶園の管理や製茶法などを学び、今ではかなりいい物が出来てきている。確かに街に近い割にここの環境は抜群だ。夜も静かに暮らせるというが寂しいぐらいだろう。小規模の工場では製茶作業が続いていた。

 

よく見ると作業しているのは若者たち。李院長が『あれは皆、うちの学生だ』というではないか。何と20日間茶農家に泊まり込み、製茶研修をしている。人手が足りない農家と、製茶の勉強をさせたい学院のニーズが一致した結果だとか。確かに23日程度の製茶体験では本当のことは分らない。雨の日も晴れの日も、茶作りに関する理解を深める必要がある。李院長自身が昔は製茶をしていたそうで、この発想は良い。作業後の彼らと一緒に夕飯を頂く。

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茶旅の原点 福建2016(6)政和白茶を勉強する

この建物には事務所やセミナールームもある。もう一つの建物へ行くと、ちょうどお客さんがいて、白茶の分類を説明していた。私がなぜ政和に来たかったかというと、それは香港での体験に基づいていた。ある時、香港の茶問屋さんから何気なくもらった白茶、寿眉。白茶では一番グレードが低いのだが、駄菓子屋の紙袋に入っていたその寿眉、1か月後ににおいを嗅ぐと、すごくいい香りがしたので驚いた。一体どこの白茶かと聞くと『政和』との答え。白茶は政和が最高さ、という言葉が耳から離れなかった。

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白茶と言えば福鼎と言われているが、実は政和の方が歴史もあり、いい物もあるはずだ、ということだった。ついでに白茶のグレードも銀針、白牡丹、寿眉の順番だが、銀針などは立派過ぎて、美味しいと思えない時もあり、白茶は寿眉で十分だ、と思うようになっていた。これはコスパの問題かもしれない。因みに一般の香港人が飲茶の時に飲むお茶も、寿眉が多かった。一番安いお茶だが、これが健康の秘訣かもしれないと思うこともある。

 

この敷地内には崇徳堂という建物もあった。かなり古い建物だったが、中に入るとモダンな茶室が2つもあり、更には相当の書籍も置かれていた。ここはお茶を作るだけではなく、お茶文化を発信することを目的にしている。そして別棟はティショップになっており、観光に来たお客さんはここでお茶を買って帰るらしい。何ともよく作られている。

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夕暮れが迫ると、夕飯の時間になる。食堂へ行くと、地元で採れた野菜、地元の鳥肉などがテーブルに並んでいた。これもまた良い。茶工場で地場の食事をとる。ここでオーナーの楊豊氏が一緒の席に着いた。白茶の伝統製法伝承人、ちょっと気難しい人なのかなと感じた。何かを考えながら、そしてスマホに目を落としながら食事をしている。忙しそうなので、敢えて声はかけなかった。

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だが食後、彼は気を使って私を案内してくれた。場所は茶葉を室内で干している渡り廊下のようなところ。笊に入れられた茶葉がずーと先まで置かれていて、なんとも壮観!ここで彼は一言『白茶作りで一番大事なのは風だ!』と言い、小窓を開けて見せた。政和にしかない風、それがこの白茶を作るというのだ。勿論言葉で説明されただけではわからないことではあるが、実に説得力はあった。

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更には夜、私のために2時間も時間を空けてくれ、質問に答えてくれた。主には政和の茶の歴史についてだが、それ以外にも現状なども詳しく話をしてくれた。政和という地名が茶の世界で忘れ去られることがないよう、勤めているのかもしれない。しかも政和は白茶だけが有名なのではない。昔から政和工夫という紅茶もあり、その製法を用いて作られたのが祈門紅茶である。なぜ今、祈門だけが有名なのかは、とても疑問なのだ。

 

今晩は白茶をたらふく飲んだので、眠れそうにない。でも私を送ってきてくれた林さん、武夷山に行くのは明日にするとのことで、私の横のベッドに転がり込んできて、眠っている。私と同じような人が中国にもいるんだな、と心強くなる。一人でも二人でも料金は一緒であり、かつオーナーの配慮で特別料金になっているので、林さんがいると更にお得感がある。

 

425日(月)
ツアー客がやってきて

翌朝は早めに起きる。外を眺めると曇りだが、眺めはとても良い。農村の朝は早い。朝ご飯の声が掛かり行ってみると、お粥に卵、まんとうなど、健康的な朝が待っていてうれしい。こういう食事をとっていると体が軽くなることを、安渓の張さんの家で何度も経験している。食べ終わるとそのまま散歩に出る。立派な門があり、茶工場の周囲には茶樹が少し植わっていた。

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茶畑はかなり遠くにあるが、工場の裏手の山にも茶畑はあるとのことだったので、スタッフに案内を頼み、坂を上っていく。かなり急な坂であり、かつ最近雨が降った影響で滑りやすくもなっており、意外と危険だったが、何とか登りきる。茶樹がきれいに植わっており、その向こうには小さな政和の街が微かに見える。何ともいい風景だった。

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戻ると林さんがお茶を淹れてくれる。何とも幸せな時間だ。外を見ると団体がやってきた。武夷山からの日帰りツアーだという。リーダー兼ガイドは楊さんの友人のようで、岩茶に詳しいらしい。お茶に詳しい人、全く知らない人が混ざり合ったツアー。製茶の工程などを実際の茶葉を見ながら、進めていく。更には楊さん自ら最上階のセミナールームで講義を行っている。こういうツアーがあったら、参加したい日本人は沢山いるだろう。

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ツアーの人々は思い思いの時間を過ごし、ランチを食べてゆっくりと帰って行った。林さんもそのバスに便乗して武夷山に向かった。お客が帰って暇になるかと思い行きや、ちょうど雑誌が届いた。政和が特集されており、楊さんも取材されていた。なかなか格好良く写っていると思ったが、彼は満足していないようだ。『せっかくあれだけ説明したのに、真の意味を分かってくれない』と嘆く。その日もお茶を飲み、美味しい地場料理を食べて、聞きたいことを聞き、そしてぐっすり寝る。環境がよいと本当にストレスがない。

茶旅の原点 福建2016(5)白茶の里 政和を目指す

どこへ行くのか

紅茶屋で、魏さんが『今回はどこへ行くのか』と聞いてきたので、『武夷山に行きたい』というと、『それなら紹介できる人がいる』と言い、すぐに電話を入れてくれ、相手も了解してくれた。更に『出来れば武夷山の前に政和へも行きたいがどうか』というと、それもまた電話を入れてくれ、受け入れOKを取り付けてくれた。これには魏さんの友人の林さんの助言もあった。中国は、実際に来てから、色々と決まるので、何とも面白い。

 

次にどこへ泊るのか。昨日泊まったチェーンホテルは、昨年よりかなり高かった、と言ったら、『どこか安いところを探そう』と言い、魏さんのスタッフと林さんが何と探しに行ってくれた。そして30分ぐらいして、『ここでよいか見に行こう』というので、道路の向かい側にあるそのホテルへ行ってみた。確かに古く、何より階段しかない5階建ての5階。

 

何だか付け加えのようにできた狭い部屋だったが、安かったし、Wi-Fiとクーラーがあった。折角探してくれたので、ここに泊まろうと思い、5階から1階へ戻りチェックイン。だがパスポートを出すとやはりダメ、中国の身分証が必要と言い出した。そこで林さんたちが色々と交渉を始める。最後は何となくOKになってしまったが、安宿に中国人以外が泊まるのは難しくなってきている実情が露骨に出てきていた。

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また紅茶屋に戻り、お茶を飲む。夕飯は隣から鴨麺を取ってもらい、食す。福建の麺ではないだろうが、これが意外とうまい。食後もまた紅茶を飲んでいると魏さんの微信に連絡が入り、友人のお茶屋さんへ行くというので同行した。散歩がてら歩いていく。狭いが居心地の良いお茶屋さんに入り、またお茶を飲む。とりとめもない話をしていると、また魏さんの微信が鳴り、別の店からも誘いがある。

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タクシーに乗り、そちらに向かう。分り難い場所にあったその店も、こだわりがありそうだった。福州の夜は遅い。ここでもお茶を2-3種類飲んで、退散する。本当にお茶で繋がっている人々が沢山いる。疲れて宿に戻り、階段を上がるのはちょっと辛い。まあ熱いシャワーも浴びられたし、問題はない。Wi-Fiなどはむしろ設備が稚拙なので、VPNをかませれば、FBGoogleも丸見えだ。

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424日(日)
政和まで

翌朝は疲れたのでゆっくり起きる。そして朝ご飯を探していたが、まずは今日乗る政和までのバスのチケットをゲットした。午後1時出発と決まる。朝ご飯は雲吞スープと春巻き。これがなかなか良い。やはりスープは福建や広東が美味い。午前中は部屋で旅行記などを書いて過ごす。福州の観光などしたこともないが、特にしたいと思わない。昼ごはんは簡単なセットメニューで済ませる。これが一番安上がりなのだ。ボリュームがあり過ぎるのが難点か。我々日本人は食べる量が少なすぎるというのが中国人一般の見方だが、どうだろう。

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魏さんのところの車が迎えに来てくれ、バスターミナルまで送ってくれた。10分ぐらいで到着。ここは福州駅の隣だった。バスがやってきて乗り込もうとすると、昨日の林さんから微信が来た。『バスターミナルまで行くよ』と書かれていたので、わざわざ見送ってくるのかと思っていたが、バスがやってきても彼は来ない。もう出発だと思っていると、何と彼が乗り込んできて、バスは出てしまった。林さんいわく、『ちょうど武夷山に用事があるので、政和まで一緒に行ってあげようと思って』と。この親切には驚いた。

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満員の乗客を乗せたバスは高速道路を走っていく。雨が降っている。途中サービスエリアで休憩が入る。意外と遠いのだと分かる。高速鉄道で福州から武夷山まで1時間ちょっとなのに、それより近い政和まで3時間以上かかった。最後は高速を降りて田舎道を進んだせいもあるだろうが、やはり高速鉄道は速いということだ。

 

4.    政和
茶工場にチェックイン

政和の街に入ったのは午後4時半頃だった。かなり小さな街で、お茶屋さんなど、あまり見つからない。林さんが迎えの車を探してくれ、その車で10分ぐらい走る。完全な田舎の風景が何とも良い。その郊外の一角に、茶廠があった。立派な門を潜る。中には広い庭があり、ちょうどそこに茶葉が干されていた。何とも壮観な光景だった。

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驚いたことには、迎えてくれた女性が、『チェックインしましょう』というではないか。何とこの工場の中には、宿泊施設があったのだ。4階まで上がってみてびっくり。ホテル並みのきれいな部屋に案内された。Wi-Fiもあり、ホットシャワーも出るという。これはどういうことだろう。聞いてみると、増加するお客さんに対応するため、昨年24もの部屋を新しく作ったというのだ。この茶工場にはそれほどのお客さんが来るということか。周囲に高い建物などなく、見晴らしもよい。

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茶旅の原点 福建2016(4)野生化した茶樹

野生化した茶樹

お寺の帰りに寄るところがあるという。道路沿いのガソリンスタンドで待ち合わせ。先方が車でやってきたが、人数の関係で車を変えると言い、去っていく。どこへ行くんだろうか。何でも古い、野生の茶の木があるといっているのだが。ランクルで山道を分け入っていく。道路はいいのだが、山道はきつい。かなりの急カーブ。果たしてこんなところに茶畑があるのだろうか。

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しばらく行くと、茶畑が見えてきた。きれいにそろって植えられており、比較的新しく見える。これが野生の茶樹とはとても思えない。更に行くと、山中には不釣り合いな茶工場が見え、車を降りた。そこで雨が降り始める。仕方なく、工場を見学する。かなり広い工場で、中には烏龍茶を作るための機械がワンセット、設置されていた。かなりの設備投資が行われている。福清に茶畑があり、茶が作られていることを初めて知った。

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お茶を飲みながら説明を受ける。ここは長らく、人里離れた山の中であったが、リゾート開発を行う予定で、ある不動産会社が購入し、道路整備などを行った。これからは静かな、自然の環境の中で過す、と言ったスタイルが想定されたようだが、その過程で山の中に大量の古い茶樹が発見されたという。ちょうどプーアル茶などがブームになり、古い茶樹から採れる茶葉が持てはやされていた。そこに目を付け、この茶葉を使い、お茶を作ることに方針転換したらしい。福清の茶、というのは、新鮮な感じがする。

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実際にお茶を飲んでみた。山の水が沸かされ、期待がもたれたが、お茶としては、まだ生産を開始して1-2年。焙煎が強く、これからというのが正直な感想だった。茶葉はあるが、それを如何に加工するかについては苦労しているようで、武夷山から茶師を呼び、指導してもらっているという。コストをかけているので、この茶が売れるのかどうか、価格が合うのかどうか、今後の推移を見てみたい。

 

雨が止まないので、昼ご飯をご馳走になりながら、待つ。こういう自然な環境の中で食べるご飯はなぜか美味い。腹一杯食べたが、それでも雨は止まない。仕方なく、食後の散歩を兼ねて、傘を差して、山道を行く。先ほど見た茶畑は製茶するために新たに植えたものだったが、山の中に野生茶があるというのだ。少し坂道を登っていくと、道の両脇に背の高い木が生えていた。それが茶樹だった。まさに大自然の中にいる、気持ちよい環境だった。

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雑草や他の木と混在している。真っすぐ立っている木も少なく、横に倒れかけているもの、木同士がもたれ掛かっているもの、など、まさに野生の木といった印象だった。だが、これは放棄地に見られる茶樹ではないのか。そう質問してみると、『実はここに生えている茶樹は1950年代、新中国建国以降、当時の人民公社の生産隊が植えたものだ。外貨獲得の手段として、福建省では政府の指示に基づき、いくつもの場所で植えられたが、そもそも生産効率の低い場所であり、更には文革などもあり、その後完全に廃れてしまい、放置されたようだ』との説明があった。

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もしそうであるとすれば、ここにある茶樹は、野生茶ではなく、野生化した茶、ということではないだろうか。日本や台湾でも、よく『自生』『在来』などというが、そのしっかりした定義はあるのだろうか。あったとしても一般に知られているのだろうか。中国でも同じであろう。現在の古茶樹ブームの影響で、このような放置された野生化した茶も、古茶樹として位置づけられ、売り出されていくのかもしれない。私にとっては古茶樹かどうかよりも、むしろ人民公社が植えたお茶という方がよほど興味深いのだが、それではお茶は売れないのだろう。

 

非常に足場の悪いところに生えている茶樹、しかも背が高いため、はしごをかけて摘むらしい。地元の人を雇って茶摘みをするようだが、そのコストは決して安くない。摘める量もかなり限られている。無農薬、無肥料をうたうことは可能だろうが、あとはお茶の味次第か。それよりも、この大自然の中に歴史的なお茶が植わっていることの方が観光資源かもしれない。リゾート開発で出来た道を利用して、この山の中にトレッキングなどの客を呼び込み、そこでお茶を飲ませた方が、高く売れるような気もするが、どうだろうか。

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そんなことを考えながら、山の中を後にした。大きな道路で彼らと別れ、車で福清の街に戻る。街中には大きなショッピングモールなどもあり、先ほどの大自然が懐かしくなってしまう。中国の発展は、当然ながら自然環境を破壊して成り立っていると改めて感じる。そして何よりもどこの街も同じようで特色がないのが、実に残念なことである。

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黄檗文化促進会に戻り、林会長に万福寺及び茶樹について報告し、お礼を言って別れた。彼らは大規模な日本訪問を計画しており、隠元禅師の足跡をたどるらしい。今後の活動にも注目していきたい。有り難いことに福州まで戻る私を車で送ってくれた。あっという間にさらに都会に福州が目の前に現れた。紅茶屋では魏さんが待っていてくれた。

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茶旅の原点 福建2016(3)黄檗宗万福寺へ行く

お昼の時間になっていた。ランチには数人が集まっており、福清の料理が丸テーブル一杯に出されていた。一言紹介されただけで、テーブルについている人がどこのだれかはよくわからない。皆さんも特に日本人に興味を持つわけでもなく、ただ親切に料理を進めてくれるだけ。何とも和やかなランチがゆっくりと進んでいった。今回急きょ、重要なランチがあるから来るように、との指示だったが、それは一体何だったのか、皆目見当もつかない。

 

しかしその空気を一変させることが起こる。食事も半ばになった頃、突然女性がどかどかっと入ってきて、空いている主賓席に腰を下ろした。その瞬間から、それまでの和やかなムードは無くなり、ピリッと張り詰めた空気が流れ始める。その女性は会長が私を紹介しても『歓迎します』と一言いうと、猛烈な勢いで、テーブルの上の料理を取り、口に運び始めた。それを皆がじっと見ている。

 

そして食べながら、色々なことを言い始めた。『今度博覧会を開催したらどうか』とか、『この街の歴史的な資源を活用しよう』とか。実はこの女性は街の幹部であり、ここに集まった人びとは、役人やマスコミ関係者、そして学者さんだったらしい。このような席に外国人がいてよいのかよくわからなかったが、これはどう見ても会議だった。あっという間に食事をとり、お茶を一杯飲んで彼女は風のように去って行った。今や中国のお役人もすごく忙しい。そして経済成長が鈍化した今、町興し、経済活性化、に重い使命が課せられている。

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午後は福清の歴史に詳しい先生が来られ、話を聞いた。福清は、華僑・華人の排出地であり、実に多くの福清人が海外に移住している。その地域も東南アジア各地、その他世界中に散らばっているが、とりわけ日本との関係が歴史的に深く、日本にも多くの福清人がいる。ただ日本では福清と言っても知られていないためか、福州人と名乗っているケースも多い。実際私の知り合いの福建省出身者の半数は福清人である。

 

海外でも福建出身で日本語が話せる場合、福清人である可能性が意外と高い。隠元禅師だけではなく、実に多くの福清人が日本に来ているのに、日本人はそれに気づいていない。残念なことである。台湾との関係も当然深い。前政権も台湾関係を重視し、この近くの平潭島で大規模開発を行い、台湾からの投資を誘致していたが、今はどうなのだろうか。

 

夕方になると『夕飯だよ』という声がかかる。行ってみると先ほどの丸テーブルにご老人方が座っていた。ここに入ってよいのかとためらったが、席が与えられたので、座ってみる。おじいさんたちは、元この街の幹部だった。同窓会のようにここに集まり、食事をして、茶を飲んでいるらしい。基本的に福清語で話しているので、内容はよくわからないが、どうやら現在の政策について、色々と不満を述べているように思えた。確かにこれだけ拝金主義が蔓延すれば、昔の幹部から不満が出るのは当然のことかもしれない。とても話に割って入って、意見を聞く勇気はなく、ただ黙々と福清風しゃぶしゃぶを頂きながら、様子を見ていた。こんな体験もなかなかできるものではない。この会館には実に様々な人がやってきて、面白い。

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そして何と今晩は、この会館に臨時に泊めて頂くことになった。ちゃんと上の階に宿泊施設まであり、恐れ入る。夜はお茶を飲んでいる人のグループに入れてもらったり、文化人の人から話を聞いたりして、内容の濃い勉強ができた。

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423日(土)
万福寺へ

翌朝はゆっくり起きたが、会館に人気はない。1階に降りてボーっとしていると、事務局長が降りてきて、朝ご飯を買ってきてくれた。肉まんと豆乳、そして名物の海蠣餅、実に充実した朝食。事務局長も文化人であり、単身赴任でこちらに泊まり込んでいた。朝から文化論を聞いていたが、現代中国においては、文化には政治の側面があり、また経済にも大きく関係し、そして商業化していくことを嘆いていた。ただそうでないと、過去の歴史や遺跡はどんどんなくなって行ってしまう、埋もれてしまう、と面もあり、簡単ではない。

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今日は車で隠元禅師のお寺、黄檗宗万福寺に連れて行ってもらった。福清市内から車で30分ぐらい行ったところ、幹線道路から少し入ったところにそのお寺はあった。意外と新しい雰囲気だ。ここがあの京都の万福寺と同じ名前、こちらが元々隠元禅師のいたお寺だった。唐代に創建されたが、文革で破壊されたらしい。改革開放後再建されたので新しいわけだ。

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寺院内はかなり広い敷地があり、周囲には何もなく、凄く広々とした環境は素晴らしい。しかし曇り空とはいえ、土曜日なのに、人は殆どいない。この近隣の方々は、黄檗宗を信仰しているのだろうか。何となく観光地化してしまっているのだろうか。福建省のお寺、これまで行ったところは大体朝から熱心な信者が祈りを捧げているところが多かったが、ここは少し不便だからだろうか。まあひっそりしているお寺、私は好きなのだが。

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茶旅の原点 福建2016(2)黄檗文化促進会

福州街歩き

ホテル騒動があったが、さて今日はこれからどうするのか。実は決めていなかった。知り合いの福建人から人を紹介されていたので、その内の一人と微信で連絡を取ると、『ちょうどいい。今晩会おう』と言ってくれたので、それに従う。これが中国らしくて、気ままで有り難い。ただ指定された場所はちょっと分り難かった。タクシーがなかなか捕まらず、ようやく見つけても、その場所がわからずまごまごした。

 

何とそのレストランは日本食。台湾で日本食を学んだ福建人が開いたらしい。私が会った陳さんは日本への留学経験もあり、日本食が好きなようだ。台湾的にアレンジされた日本食はまずまずだった。なぜか高校生のお嬢さんも同席している。彼女もアニメなど日本好きだという。どうやら彼が食事をとらせる役目になっていたようだ。日本から来て最初の食事が日本食とは、面白い。

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食後は三坊七巷を歩く。福州の古い街並みを再現した場所。夜はきれいにライトアップされている。ジャスミン茶の第一工場、福州茶廠というのがあった。勿論茶葉を売る店。昔のジャスミン茶作りの写真が飾られている。ジャスミン茶は福州の名産、昔ここでしか作られなかったお茶。金日成が送った記念品なども置かれており、その歴史が感じられた。

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硯や石を売る店にも入る。日本でも人気の寿山石というのはここ福州の産。実は福州から日本へは実に様々な文化が海を渡っているらしい。この街を歩き、陳さんに話を聞くと、一層それを感じる。陳さんは実は天目茶碗を扱っている。天目茶碗も福建のものだが、今や国宝級の茶碗は日本に5個あるだけ。中国にはないのである。それを今、中国で再生しようとしている。

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422日(金)
福清へ

朝はホテルの横にあるモスバーガーで食べる。ホテルの宿泊客は10元でセットが食べられるのである。ただ勿論日本のモスほどおいしいという感じはない。それからホテルの向かいにある魏さんの店、紅茶屋へ行った。魏さんとは10時に待ち合わせていたが、他の用事があり、遅れていた。お茶を飲んで待つ。このお店、中国中の紅茶を扱っており、見たことがない、珍しい紅茶もあるので楽しい。

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そこへ微信でメッセージが来た。昨晩お世話になった陳さんからだった。『今から福清に行く』というもの。実は本日午後福清を訪ねる予定だった。やはり福清出身の陳さんが車で連れて行ってくれるという有り難いお話があり、魏さんと会った後、向かう予定にしていたので、ホテルをチェックアウトして、荷物を持ってきていた。それにしてもなぜ急に?

 

実は本日お訪ねする黄檗文化促進会、お知り合いの紹介で連絡を取ったのだが、陳さんもそこのメンバーであり、会長の林さんから『ランチまでに来るように』との指示があったという。何でも重要なランチらしい。それで陳さんが急いで迎えに来てくれた。魏さんには事情を説明して、明日会うことに変更した。何とも慌ただしい出発だった。福清までは車で小1時間、高速道路で空港へ行く方向だった。

 

2.    福清
黄檗文化促進会

その建物は福清の街の外れ?にあった。高級なマンションが立ち並ぶ中に建つ会館。黄檗とは仏教の1つの宗派。我々が京都に行けば、JR奈良線の宇治駅の隣が黄檗という駅であることに気が付く。そこはこの福清の地にある黄檗宗万福寺の隠元禅師が江戸初期に日本に渡り、開いたお寺だった。隠元禅師と言えば、隠元豆の名前が残っているが、一般の日本人は殆ど知らない存在だ。

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この黄檗宗、福建省では古来信仰されてきた宗派だというが、全国区ではなかった。中国でも隠元禅師が広く知られているのかは不明だ。だが、彼は日本の江戸期に様々な文化、文物を日本にもたらした。美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚などは彼がもたらしたものと言われている。お茶の関係では、煎茶の祖とも言われている。勿論今の煎茶ではないが、宇治の万福寺では年に1度、全国煎茶道大会が開かれている。

 

促進会は昨年正式に出来たばかりだという。ちょうど昨年自民党の二階氏が率いた日本の代表団3000人が北京を訪れた際、習近平主席が、この隠元禅師の話を持ち出したことから、急速にその歴史の発掘、文化の伝承などが行われ始めたらしい。まさに中国の文化は政治である。しかしその政治と経済がなければ文化や歴史は忘れ去られる、それもまた中国である。福建省での勤務の長い主席から隠元の名が得れば、地元はそれを活用して、広めていく、当然のことではあるが、我々には違和感もある。

 

ただ会館内の展示はしっかりしており、分かりやすい。そして林会長以下、皆さん、非常にまじめに取り組んでいる。発掘された茶碗の鑑定が行われている。その一方では皆さんが書画を実に自然にさらさらと書いている。こういう点では、中国の底力は凄いな、といつも感じる。文化を語ってはいても、私など、書の一つも書けないし、詩などを詠むこともできない。ましてや骨董を見る目などない。林会長は私に『これが中国の伝統的な煎茶だよ』と言って、茶葉を煮出して、淹れてくれた。煎茶とは何か、をもう一度考えてみたい。

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茶旅の原点 福建2016(1)予約しても泊まれないホテル

《福建茶旅2016》 2016421-55

 

3月のロシア、4月の雲南・ラオスと厳しい旅が続いていた。ちょっと休もうと思ったが、4月はお茶の季節。ここで休んではいけない、と誰かが囁く。それに突き動かされて、動き出す。昆明から戻った僅か6日後にはまた成田空港にいた。今回の目的地は福建。いつもならこのシーズン、安渓大坪の張さんのところへ行くのだが、今年はちょっと違っていた。

 

421日(木)
1.    福州まで

正直体はボロボロだった。疲れがたまっていた。でもまた飛行機に乗った。ちょうどマイレージが切れかけていた。全日空は成田厦門のフライトがあった。帰りは日本のゴールデンウイークだったが、特典航空券はいとも簡単に取れた。本当に中国を旅する日本人は少ないのだろう。爆買い中国人も、労働節の三連休の後は、旅に出ないのだろうか。

 

午前10時発の便に乗るためには、朝6時前に家を出なければならない。まあ東京のラッシュを避ける意味では早く出た方がよいということだろう。いつもの京王線都営新宿線アクセス特急という組み合わせにも飽きてしまい、京王線井の頭線半蔵門線京成線、という流れにしてみた。まあ荷物を持った身としては前者の方が楽ではあるが、後者もなかなか新鮮だった。

 

成田から乗ったフライトは案の定、かなり空いていた。日本人より中国人の乗客の方が多い。ビジネスクラスに乗る客など皆無だった。ANAは中国での路線拡大を続けているが、どのような意図があるのだろうか。恐らくは日本人ではなく、中国人需要を見込んでいると思われるが、その予測はどの程度当たっているのか聞いてみたい。

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厦門空港に降り立つと、ちょうど台湾から来た団体観光客とぶつかり、小さな空港はごった返していた。空港のシステムがうまくできておらず、税関検査は厳しさを増しているため、長い行列ができていた。そこで、台湾人のガイドと税関職員が激しい言い合いをしている。勿論税関職員にはサービスなどという概念はなく、居丈高な態度を取り、乗客を物のように扱っている。それに激昂する台湾人。これが中台の現状だろうか。5月には新総統が誕生し、中台の距離はますます遠くなるとみられている。

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実は私の目的地は厦門ではなかった。福州へ行くために高速鉄道に乗る必要があり、まずは空港から駅へ移動を試みる。厦門北駅行の直通バスがあるというので乗ってみた。15元。バスは市内と反対の方、橋を渡って集美を越えていく。地理を理解していなかったので、ちょっと意外な感じ。20分後には駅に到着した。そこで福州行きのチケットを買うのだが、これが相変わらずの長蛇の列。

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中国人はネット予約して、自販機に身分証を入れれば、すぐに手に入るのだが、私たちパスポート組は窓口でしか買えない。4月だというのに、ここはかなり暑い。汗だくになるが、列はなかなか進まない。華僑などのパスポート組とネットなど使わない中国人のおじさんたち。これでは切符を買うのも一苦労だ。窓口の女性も疲れているのか、大声で怒鳴っている。

 

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何とか30分後に発車するチケットを手に入れ、乗車する。高速鉄道は便利だが、いつも満員の盛況。そして皆が座席を倒すので、既に壊れて戻らないものもある。泉州などを通過して一路福州へ向かう。約2時間後、列車は福州駅に入る。福州南という駅もあるが、こちらの方が便利なようだ。

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2.    福州
ホテルに泊まれない

昨年も来た福州。その時泊まったチェーンホテルが便利だったので、今回はCtripでそこを予約しておいた。駅でタクシーを拾い、そのホテルに向かった。ホテルに入り、予約のある旨を告げたが、なかなか進まない。そしてついに『この名前で予約はありません』というではないか。そんなはずはない、とスマホで予約を調べようとしたが、その時、昔から使っているNokiaの携帯にショートメッセージが入っていることに気が付いた。

 

『酒店告知(不接外,我需核您是否持大身份入住),我一直系不上您,系』、え、一度受け付けた予約をホテル側が中国人ではない、身分証を持っていないから取り消した、という内容だった。しかも中国携帯に連絡したが、連絡できなかったとあるではないか。一体これは何なんだ!全く理解できずに思わずフロントの女性に『こんなものが来ているんですが』とメッセージを見せると、彼女も首を傾げ、『うちは外国人、泊められますよ』というではないか。

 

早速Ctripに連絡したが、何とも埒が明かない。兎に角予約は取り消された、あなたには連絡した、の一点張り。これまで何度も使ってきたが、このような対応は初めてだった。仕方がないので、フロントの女性に『どうしたらいい?』と聞くと、『Ctripの予約はキャンセルして、この場でチェックインしましょう』というではないか。それができるなら、なぜこの問題が発生しているのか益々分からなくなったが、料金を確認すると、Ctripの方が60元も安かった。この時は、中国人向け料金で外国人の予約を受け付けた不備を隠すためだと理解した。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(5)エレンホトの車輪付け替え

張家口は万里茶路の重要拠点の1つでもあり、駱駝に載せられた茶葉がここからモンゴル高原へ出て行った場所。万里の長城の出口でもあり、やはりここは訪れたかったが仕方がない。今回は何もせずに、通り過ぎた。何とも残念だが、先は長い。やることがないので、S氏がプリントしてきた今回の旅に関連した資料を見せてもらった。私は事前の予習をしないのだが、S氏はちゃんと関連資料を探していた。私が全く知らない世界、歴史がそこに語られており、実に面白く読んだ。明治中期に茶商隊と一緒にシベリアを旅した日本人、玉井喜作という人物がいたとか、ロシアは陸だけでなく、義勇艦隊という名の船団が、海からも茶葉を運ぼうとしたことなど、今後の茶旅に大いに刺激を与える内容だった。歴史はまだまだ知らないことだらけだ。

 

また恵比寿のフレンチレストランでクスミティーを買ったと言って見せてくれた。このお茶は元々サンクトペテルブルクで1867年に創業し、皇帝たちに愛された、という話だから、まさに万里茶路における、ロシアによる中国漢口あたりからの直接買い付けに関連しているように思う。その後革命により本店をパリに移転して、今は世界的なブランドになっている。サンクトに行けば、その名残は見つかるのだろうか。フレーバーティなので、飲むのは遠慮した。何と今回は煎茶のティバッグを持参している。

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6時間後に集寧南(ウランザップ?)に停車した。ここは既に内モンゴル自治区。モンゴル文字が見えてきて、気分は高まる。外はまだまだ夕暮れには程遠い明るさだったが、日が徐々に落ちていく。食事の時間がやってきたとばかり、食堂車に乗り込む。夕陽を見ながらの食堂車、シベリア鉄道らしい。車掌が何人かで食べているが、ほかに客はいない。国際列車の食堂車だからかなり値段が張るのではないか、との不安をよそに、ニンニク炒め、西紅西炒鶏蛋が各30元、長城ワイン白35元と驚くほど、リーズナブルな料金だった。いまどき北京なら街の食堂でももっと高いのではないだろうか。どうしてこんな値段でやっているのか、料金改定をしないのか、疑問は残るがまずはうれしい。モリモリ食べる。

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エレンホトの国境越え

部屋に戻って暗くなった窓の外を見ているとウトウトしてしまった。そして午後10時前、列車はガタッという音を発して停まった。そこが中国とモンゴルの国境、エレンホトの駅だった。どうしたらいいのかと座っていると、いきなりイミグレ職員が列車に乗り込んできて、パスポートを回収して去って行った。これはかなり不安だったが、S氏が『大体こういうものです』というので、静かに見送った。車掌は何の指示もしなかったので、何となく列車を降りて、待合室を探す。だが建物はあるものの、ビルの中は閑散としており、椅子はあったが、ほぼ何もなかった。ここで乗り降りする人もいない(国内線の乗客は別途降りて行ったらしい)。どうなっているんだ。ここで3時間も時間をつぶすのか。ホームの端には警備の武装警察がぴちっと立っている。

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他の白人たちの姿はない。するとNさんが『皆列車に乗ったままだ。車輪の付け替え作業が見られるかもしれない』というので、急いで車内に戻る。すぐに列車は動き出し車庫へ向かった。車庫に入ると横にももう1台の車両が現れた。連結を外して、2列にしたのだ。その内、知らぬ間に自分の車両が上がっているのが、横の車両との比較でわかる。我々の車両を持ち上げ、下を外し、一斉に車輪を、いや台車を取り替えている。これは効率がよく、何とも豪快な作業だった。鉄道ファンにとってはたまらない光景ではないだろうか。モンゴルに入るとレールの軌道が変わるため、このような作業が必要になる。替え終った後の点検は実に入念だった。どこかが外れでもしたら大変だ。

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確か30年前、内モンゴルとロシアの国境、満州里で、この交換風景も見た記憶があるが、その時は車両を上からクレーンの様なもので、持ち上げていたように思う。作業員はかなりの寒さの中、皆真剣そのものだ。隣の線路にある残り半分も同じ要領で作業された。線路もここは二つの軌道になっている。約2時間かかって作業は終了し、列車は元へ戻った。なんだかワクワクする、楽しい見学だった。列車は日付が変わった午前1時前、エレンホトを出発した。勿論パスポートには出国のハンコが押されて戻ってきた。一安心だった。

 

しかし3時間も待ち時間があれば、ちょっとでよいからエレンホトの駅を出て、街を見てみたかった。遠くに明るい光が見えていた。あれば今のエレンホトの街なのだ。中国らしく、やはり国境の街はこけおどし的にも、立派な建物を建てている。夜中だというのに明るいのはどう見ても不自然だから、これが対外宣伝であることはすぐにわかった。

シベリア鉄道で茶旅する2016(4)一両に3人しかいないシベリア鉄道

 ホテルに帰る。このホテルには有名な魚頭料理の店が入っており、昨年12月は知り合いで卓を囲んで食事をした。その時このホテルが便利だと知り、今回は予約を入れた。夜は皆で近くの庶民的な東北料理屋で食事をした。何だか優しい味付けで大ぶりの東北菜とは思えない食べやすさだった。この付近には外国人の子弟が通う有名な北京五十五中があり、外国人向けスーパー、ジェニールーまであって、何とも懐かしかった。明日はシベリア鉄道かと思うと、ちょっと胸が高鳴っていた。それでもすぐに眠れてしまった。

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3月8日(火)

翌朝は携帯にセットした目覚ましが鳴らず、ぐっすり寝込んでしまい、起きたのは8時過ぎ。ちょっと焦った。昨日の朝が早かったからだろう。お陰で朝食は抜きになる。午前10時にホテルをチェックアウト。地下鉄で行くのは大変なので、タクシーを拾う。20元で北京駅に着く。今や北京の地下鉄も『どこまで行っても2元』ではなく、この区間でも一人4元になっている。タクシーが捕まればそちらの方が効率的と思える料金だ。道もそれほど混んでおらず、すぐに駅に着いてしまう。今日も快晴の北京!素晴らしい。

 

さて、まずは腹ごしらえをしておこうと、駅の横にあるレストランに入る。こんなところで商売できるのだから、何か利権絡みなのだろうか。ファーストフード的な店づくり。餃子を頼むと、もう一つの古い建物から寒い中、運んできた。湯気が立っている。午前10時半だから、客は殆どいない。餃子自体は意外や美味しかった。手で作っている感じがある。値段は一皿29元だから、少し高いのだろうか。今の北京なら仕方がない範囲か。従業員は田舎から出てきた子だろう。携帯をいじってばかりでやる気は感じられない。

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駅は相変わらず、混んでいる。荷物検査の列に並ぶがなかなか進まない。切符の名前とパスポートを入念にチェックしている。荷物検査そのものはかなりおざなりなのですごくギャップを感じる。北京駅構内に入るのは何年ぶりだろうか。いや昨年12月にもここに到着したが、ゆっくり見るのは6-7年ぶりか。やはり立派だ。乗車する列車の乗車口を探すだけでもかなり大変だった。北京にはここの他、西駅や南駅もある。北京の大きさがよくわかる。取り敢えずモンゴルのウランバートルまで27時間、水やビスケット、カップ麺を買い込んで、旅に備える。

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3. エレンホト(二連)まで
シベリア鉄道乗車

11:22発のウランバートル行は、随分前にホームに入線していた。普通は15-20分前にならないとホームに入れない中国の鉄道だが、この列車は国際列車だからか、30分前にはすでに改札が始まっていた。だが乗客葉の姿はあまり見えない。もう乗ってしまったのだろうか。北京-二連-ウランバートルと書かれた車両と、北京-二連、とだけ書かれた車両があり、我々は当然、ウランバートル行に案内された。車内は4人部屋のコンパートメントになっており、まずは快適そうで安心した。外観も高級感がある。

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Nさんはカメラマンだから、盛んに写真を撮っている。私は車内を点検。通路は狭いが、電源があり、充電は可能だった。隣の車両もコンパートメントだが、どちらにも乗客の姿が殆どない。結局列車は定刻前に動き出した。全員が乗車したということだろうか。何と乗客は1両に我々三人だけだった。隣もアメリカ人カップルの2人しか見えなかった。一体どういうことだろうか。あの北京駅の『没有』は何だったのだろうか。後ろの方に連結されている二連行き車両には行けないようになっていると、Nさんは言う。国際線と国内線は完全に遮断されているが、いずれにしてもその車両数は少ないようだ。

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1両に3人しかいないのに、車掌はちゃんと一人いる。勿論中国人なのだが、愛想はない。常に長い鉄道旅をしている疲れがにじみ出ている。後で見ると、彼らは空き時間は部屋でスマホやタブレットでドラマなどを見て過ごしていた。窓の外を見ていても、長城の入り口の駅などを通り過ぎるが、肝心の長城が見えない。ずっとカメラを構えていたNさんも諦めたようだ。長城はどこへ行ってしまったんだ。飽きてきたので、車内を歩いていくと、2人部屋の軟臥に白人が数人いた。彼らはまさにシベリア鉄道をゆっくり旅する定年夫婦という感じだった。この部屋は二段ベットで、すごく小さなトイレとシャワーが付いているらしい。その向こうにまた硬臥であり、中国人が数人乗っていた。それだけだった。この車両は中国製。ただ国際列車の硬臥は国内の軟臥に当たる。

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景色にうっすら雪景色が見えてくる。外はそれなりに寒いのだろうが、天気が良いので、きっくりと見えるだけ。車内は少し暑かった。と言っても人が乗っていないので、何とも寂しい。Nさんなどは『商売あがったりですよ、人がいなければ写真も撮れない』とぼやいている。通路で外を見ていても、何も起こらないので、本当につまらない。中国では誰か臥いれば、何かが起こる。静かな中国は面白くないのだと確信した。3時間後、最初の停車駅、河北省にある張家口南に着いた頃には、もう飽き飽きしていた。取り敢えずホームに降りてみる。でも新しい駅で特に何もない。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(3)まるで闇両替のように切符を手に入れて

 荷物を引きずっていたので東直門のホテルへタクシーで向かう。運転手に『両会のお陰で大変だよ。不便だね』というと、彼は大きく頷いたが、しかしすぐに首を振り、『両会が開催されることは良いことだ』と口走った。驚いた。まさか本気でそんなことを思っているとは思えない。まさか盗聴?昨今の政府による言論統制は、この微妙な状況下で、タクシー運転手の軽い愚痴すら封じているのだろうか。何ともやりきれない思いだった。

 

チェーンホテルには予約を入れており、問題なくチェックイン出来た。決して安くはないかが、ここは立地が良いので、部屋がないことが多い。3人部屋はないので、私は一人部屋に入る。私の携帯を使い、Nさんが国際旅行社に電話を入れた。嬉しいことに明日のウランバートル行のチケットはあるという。氏名、パスポート番号など発券情報をショートメッセージで送った。もう大丈夫だ、と思い、昼ご飯を食べていなかったので、ランチに行こうと言ったが、S氏は『まずはチケットを確実に受け取ることだ』と言い、すぐに国際飯店に引き返した。この辺は本当に硬いが、それだけ様々な経験がそうさせているのだろう。

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国際飯店に引き返した。西門の横から電話を入れて、スタッフを呼び出した。5分ぐらいしておじさんが現れた。そしてチケットを取り出して、内容を確認しろという。午後の日差しがあったが、寒風が吹く中、S氏は入念にチェックした。そして封筒から代金の現金を出した。その代金は硬臥で一人当たり1222元。3人で3600元余りと、数えるのも大変だった。まるで闇両替でもしているような雰囲気であり、周囲の人々も何が行われているのか、と、好奇の目で見ている。確かにチケットは手に入り、旅が続けられることは朗報だったが、国際列車がここまで高いとは思っていなかった。しかも途中駅のエレンホトでの下車も許されないとのこと。何となく喪失感が凄い。わかったのは、エレンホト行の列車は、この国際列車に僅かに連結されているだけであり、席数は極めて少ないので売り切れだったということらしい。

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歴史散歩

国際飯店の横道をふらふら歩き、桂林米粉の店があったので入る。15元の牛なん麺を頼む。さすがに腹が減っているし、外は寒いので、美味く感じられた。でもあっという間に喰い終わる。今日のやるべきことは終わっていた。これから特にやることはない。S氏は原稿を書くためにホテルに戻るという。私は懐かしいこの付近を散歩することにして別れた。このあたりにも、昔の店舗跡など歴史的建造物はいくつも残っていた。二環路の内側は今や歴史保存区のようだ。

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フラフラ歩いていると趙家楼飯店が見えた。ここは五四運動で焼き討ちにあった場所。対華二十一か条の要求を認め、売国奴と言われた官僚曹汝霖の屋敷跡だ。ここには中江兆民の息子、中江丑吉が世話になっており、事件当日には駐日公使、章宗祥と一緒に曹汝霖に間違われて、襲われ、負傷したと言われている。当時は中国人エリートの多くが日本に留学し、日本と深い関係を持っていた。因みに曹汝霖は留学中、中江家に寄宿していた。今はホテルになっており、門のところにその歴史を説明するプレートが嵌っていたが、宿泊する中国人は気付いているのだろうか。

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実はその向かいには1930年代、梁啓超及び息子、梁思成と妻で建築家かつ詩人の林徽因が住んでいたと言われた場所である。私は北京在住時代に『北京歴史散歩』でおここを訪れたことがあったが、今は全て取り壊され、跡形もない。2014年に故居ではなかったと認定され、プレートも外されたと聞く。なんだか不思議な話だ。中国の歴史保存は金にならないと行われない。この一等地にマンションを建てたいとか、何らか所有したい人は大勢いるだろう。そんなことが原因なのだろうか。確かに日本亡命から戻った梁啓超は天津に主に住んだらしいが。

 

懐かしのマッサージ屋へ行く

天気が良いので歩き続ける。建国門は以前勤務し、居住した場所である。元我が家は今も健在で益々立派になっている。その向かい側に昔よく行ったマッサージ屋があった。実はここのメンバーカードを帰国後紛失していたのだが、先日部屋を整理している時に見付けていた。確かこのカードには何がしかの入金がされている。ただすでに数年経っており、この変化の速い中国で、これが使えるとはとても思えなかった。単に懐かしさと興味本位で店に入ってみる。

 

午後の早い時間であり、お客はいない。受付でカードを見せると、マネージャーが出てきて、『勿論カードは使えます。お金もちゃんと残っていますよ』というではないか。これには少なからず驚いた。折角なので久しぶりにマッサージを受けることにした。店は大きくは変わっていなかった。ここであった話は既に『中国出稼ぎ事情』として書いた。http://www.chatabi.net/colum/8812.html まあとにかくこの店があってよかった。マッサージも気持ちよかった。そして今後もあり続けて欲しいが、情勢はそれを許さなそうだ。早くカードを使い切らねばなるまい。

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