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福建・広東 大茶旅2016(1)福州でレジェンドに会いに行く

【福建・広東 大茶旅2016】 2016102-19

 

台湾経由で福州に入る。だが今回の目的地は厦門、いや安渓。そしてさらに南下して広州。このような日程のなったのは、カメラマンTさんの希望。彼が安渓に取材に行くというので付いていくことにした。なぜ今、安渓なのか、何か新しい発見があるのだろうか。また茶葉の道を万里茶路以外でも追い掛けていく企画、福建と広東が輸出拠点だから、という意味で広州へも行ってみる。

 

102日(月)
1. 福州
突然レジェンドのもとへ

福州空港に着くと、空港バスに乗り込む。以前乗った気がしたので、知っているつもりで何も調べなかったが、何本もバスが出ていて慌てる。取り敢えず一番早く出る便に乗り込む。どうせ市内へ行けばタクシーを拾わざるを得ない。バス代25元。市内まで約1時間かかり、到着。

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バスを降りてタクシーを拾い、取り敢えず魏さんの紅茶屋へ向かう。店に入っていくと、魏さんが数人でお茶を飲んでいたが、私を見てかなり驚いた顔をした。『明日じゃなかったの?』という。完全に私の到着を1日間違えていたらしい。よかった、彼がここにいて。すぐに今晩の宿を探すべく、魏さんの親戚のネイさんが動いてくれた。向かいの如家は前回高かったが、ネイさんの交渉のお陰で安く泊まれた。感謝。

 

さらに驚いたのは、『ちょうど今から張老師のところへ行くんだ』と言われたこと。張老師とは中国茶業界の泰斗、張天福氏に他ならない。それは何をおいてもお供する。張天福氏には4年前に一度、お会いしたことがある。やはり魏さんに連れて行ってもらった。103歳と言われたが、非常にお元気で、電話で茶作りの指示を出していたのが印象的だった。その時は福州の茶葉輸出の歴史を調べており、『1860年代の福州の様子』について聞いてみたが、『生まれてないから分からない』と言われてしまった。そして『茶葉人生』という分厚い自叙伝を頂戴し、詳しいことはその中を読んで、笑顔で言われたのをよく覚えている。

 

現在は既に満107歳。自宅を訪ねると、張夫人が迎えてくれた。『以前一度来たわね』と言ってくれる。張老師は車いすに乗っていた。先ほど食事をして、魏さんを待っていたようだ。少し眠そうだったが、彼が近づくと、目を見開く。このお歳になると、興味にあるものにだけ、目が反応するということかもしれない。

 

今回は女性も3人、同行していた。皆さんお茶関係者だが、レジェンドの張老師と写真を撮りたいと殺到する。これはまた中国らしい。日本ならもう少し配慮するだろうが、こちらでは遠慮はない。老師は疲れてしまっただろうか。そこへ男性が入ってくる。先ほど台北の茶業博覧会から戻ったと報告している。台湾の皆さんも老師の動向には関心が高いようだ。

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今日魏さんはなぜここを訪れたのか。私は聞いていなかったが、何と張老師も関係した金元泰という紅茶が金賞を受賞したという。一体どこで金賞を取ったのかと聞くと、『静岡の緑茶コンテスト』というではないか。それは今月末に静岡で3年に一度開催される世界お茶祭りで表彰式があるイベントだった。私もこのお茶祭りに行き、セミナーをすることになっている。ここで日本との繋がりが出てくるとは思いもよらないことだった。老師も日本人がそのために来たのかと思ったかもしれない。

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魏さんが受賞したお茶の缶を見せると、それまではあまり動きのなかった張老師が自ら缶を手に取り、じっと見ている。これは偶然ではあるまい。お茶、といえば反応する、まさに茶葉人生なのだ。張老師に頂いたご本、余りの分厚さにそれほど読めていなかったのだが、これを機に、読んでみよう。

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お茶屋さん

帰りに茶葉市場に寄る。海峡茶都は昨年、来たことがある。その時はこの市場のオーナー会社、満堂香の総経理にジャスミン茶について聞いた。今回は岩茶のお店に行く。上海から来たお茶屋の女性のために、魏さんが案内したのだ。彼女はこれから厦門へ行くのだが、最後の最後まで時間を有効に使い、色々と勉強に余念がない。

 

紅茶だけでは消費者を満足させることができない。福建省では岩茶も重要なアイテムであり、今回は白茶がお気に入りのようだ。茶葉を売るのが難しくなっている時代、経営者は様々な工夫を凝らす必要がある。困難な時代を数多く過ごしてきた張老師は、今の時代をどう見ているのだろうか。

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車はあるビルの前に停まる。魏さんが私を連れて上のレストランへ行く。そこには魏さんのお母さん、弟さん2人とその家族が待っていた。弟さんは香港在住で、たまたま里帰りしており、家族で食事をするところだった。こんなところにお邪魔して申し訳ない。まあ、主役は次男の幼い娘、個室で動き回る。何とも可愛らしい。

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驚いたのは、魏さんが兄弟とは広東語を話し、お母さんとは福清語、弟さんの奥さんとは普通話を話していたことだった。確かに魏さんは華僑であり、改革開放でお父さんがこちらに戻ってきたと聞く。香港育ちの兄弟は幼いころから広東語を使っていたらしい。お母さんはどこの人なのだろうか。これだけの言語を自由に操る、とはさすが華僑。因みに魏さんは香港在住の奥さんとは普通話を話すという。何とも複雑だ。

 

食事が終わると、紅茶屋に戻る。店には何組もお客さんがいた。魏さんは少し風邪気味だというので、早目に引き上げたが、実は政府の役人が来るというので、それを躱していた。経営者は本当に大変だ。私も宿へ戻ろうかと思ったが、半年前に政和、河口に一緒に行った林さんなどがやってきて、面倒を見てくれる。

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茶旅の原点 福建2016(16)厦門のITパークで

7.    厦門
なぜかITパークへ

厦門では本来することがなかったのだが、またS氏から指令が来た。『厦門でお茶のサンプルを受け取ってきてほしい』と。まあ暇なので引き受けたのだが、その相手は茶荘や茶市場にいる人間ではなかった。どのようにして会うのがよいのかよく変わらず、『あなたの近くに泊まりたいが、どこか良いところはないか』と聞いてみると、ある場所を予約してくれた。だがそこはITパーク内だった。

 

行き方は分らないので、厦門北駅からタクシーに乗る。厦門北駅は厦門空港よりも遠い。結構な時間をかけて車は目指すITパークに入った。その中にあるホテルだと思い込んでいた私に、運転手が『住所はここだよ』と言ったのは、単なるオフィスビルだった。こんな所のはずはない、と思ったが、運転手はさっさと私を置いて行ってしまった。こういう工業区などは分り難いのでタクシーは嫌がるのが普通だ。

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1階に喫茶店があったので聞いてみると、何と正面入り口から入れ、という。そこを入ると受付があり、守衛さんが応対した。予約したというと、何やら紙を取り出す。1日泊まるための契約書だというから驚いた。やはりここはホテルライセンスを持っていない。そこで警察との間で取り決めたのが、日ごとに部屋を貸す賃貸契約という手法だったと思われる。恐らくはこのITパークに出張で来る人及び徹夜残業などの人が寝るために作られた宿、必要悪だった。こんなところに潜り込めるとは面白い。

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部屋は15階にあり、いわゆるマンションの一室という感じ。ベランダからの眺めはなかなか良い。ホテルより快適ではないかと思われる。ただタオルがない。歯ブラシなどもない、と思っていたら、ビニールに1セット入った物があったので開けてみる。あとで有料だ、と言われ、10元取られた。因みにタオルも受付に言えば貸してくれたらしいが、その仕組みはまるで説明されないから分からなかった。

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S氏の知り合いである陳さんが部屋まで来てくれた。彼はこのビルで働いているという。動画関係の仕事らしい。日本のアニメが大好きで日本語も覚えたという。彼は私が依頼されたサンプル茶を渡したが、『代金は300元です』というのでまた驚いてしまった。サンプル茶は当然無料だと思っていたのだが、確かにサンプルにしては量が多い。仕方なくS氏に微信で確認すると『払ってくれ』というではないか。正直『どんなお茶をいくらで、どれだけ、持ってきてほしい』とS氏は頼むべきだと思う。そうでなければ外国で、このようなことがあった場合、対処は出来ない。私に持ち合わせがあったから払えたが、もし現金がなければ受け取ることも出来なかったではないか。

 

陳さんは仕事があるので帰って行った。そして私は腹が減った。昼ご飯を食べていなかったのだ。だが周囲にある食堂で食べる気にもなれず、バナナを買って食べて終わりにした。ITパーク内を少し散策したが、広々とした空間で気持ちはよかった。でもどこも同じように見えるので散歩にはあまり向かない。部屋に帰ってPCに向かう。5時を過ぎるとさっきの陳さんから電話があり、食事に行こうと誘ってくれた。

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彼の車で市内へ。やはりそこそこ離れていた。まだ明るい中、レストランが出している外のテーブルに腰掛け、お茶を飲みながら、食べ物を食べる。鍋物から炒め物まで、とても二人では食べ切れないほど頼んでいる。やはり中国人とは食べる量が違うのだ。彼は武夷山の出身であり、厦門とはかなり文化の違うところの出であった。だからお茶に詳しいとも言える。

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食後は彼の知っているお茶屋さんへ行く。この辺は厦門の高級住宅地らしく、地価も相当に高い。こんなところで茶荘を経営するのは大変だろうと思っていると、オーナーの女性が『武夷山に帰ろうかと思っている』とぽろっという。やはりお茶は売れない時代なのだ。店員は一生懸命紙に茶葉を包み、1つずつ丁寧に糸で縛っていた。このような芸術的処置がないと更に売れないらしい。お店の改修をしたばかりだというのに、何とも厳しい時代なのだ。

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55日(木)

日本へ

翌朝は曇っていたので、景色を眺めることが難しかった。雨は嫌だなと思っているとその内靄は晴れてきた。朝ご飯は下のファーストフード店でお粥を食べる。このような店のシステムは残念ながらしっかりしていないから、順番はバラバラ。前の人が食べ残したものが大量にテーブルに溢れて次の人間は使えない。それでも出勤前の若者はどんどん入ってきて注文するから、ますます混乱する。

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ここにいても仕方がないので、早めにチェックアウトして、タクシーを捕まえようとするが、なかなか捕まらない。ITパーク内に入ってくる車は少ないのだろうか。いや、仕事で乗ってくる人は多いはずだ。やはり最近はやりの携帯で呼ぶタクシーのせいだろうか。それでも何とか捕まえて、空港まで行く。この出費はバカにはならない。それでも地下鉄のない厦門としては仕方がない。

 

空港に着くと早過ぎて、チェックインができない。そうだ、これが厦門空港の欠点だった。直接カウンターへ行けないのだ。仕方なく外で待ち、何とかチェックインを済ませ、それでも時間が余る。今回の旅は思えば長かった。その思い出にふける。飛行機はそれほど混んでいなかった。ゴールデンウイークだというに、やはり日本人の旅行者はいないのだ、と実感した。中国には魅力的な場所が一杯あるというのに、なんとももったいない。

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茶旅の原点 福建2016(15)保存されない古い鎮

河口で

王さんのお店はかなり立派な作りでお金が掛かっている。広い部屋でスタッフが淹れたお茶を頂いていたが、昼時になり、ご飯を食べに行く。それが終わると時間があったので、古鎮を散歩することにした。信江という川がある。ここから茶葉が運び出され、遠くヨーロッパまで運ばれたと思うと、ロマンチックだが、現在の状況は川で洗濯している人がいるだけの静かな川だった。ここは本当に茶葉の集積地だったのだろうか。港の跡さえ、見られない。

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古鎮を歩いて見ると、両側すべてが古い建物だったが、大体は100年ぐらいのものが多く、往時茶葉が集積した150年以上前のものは見いだせなかった。ただ建物の下に通路があり、製茶された茶葉がそこから直接河に運び出された様子を微かに垣間見ることができる。この街自体はそれほど保存されているという感じもなく、朽ち果てていくように見えるが、一部にプレートが掛かっており、歴史的意義は見いだせる。もう少し保存をしっかりすればよいのに、と案内のスタッフに言うと困った顔をする。

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土産物屋も数軒あるが、平日の昼のせいか、人は殆どいない。ひなびた古い街、洗濯物が干されるなど生活感もあり、決して嫌いではない光景が広がっている。一軒茶荘があったので入ってみると、天井の高い、2階建てだった。往時は茶葉の問屋だっただろうか。2階に茶葉を保管しただろうか。そこには河口の位置づけと、万里茶路に関する記述が飾られており、簡単な資料館のようになっていた。そこで茶葉も販売している。やはり万里茶路の勃興により、歴史が発掘され、文化が保存されていくのだろう。

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王さんの店の横にあるホテルにチェックインした。きれいでかなり広く、そして高くはない。理想的な宿であった。3時に店に集合ということで、昼寝した。何とも気持ちがよい。桐木は涼しかったが、この平地は少し暑いぐらいでちょうどよい。またお店に戻ると、この街の役人が来ていて、打ち合わせの最中だった。この人は王さんのお母さんの教え子だとか。先生だったんだな。中国では今でも先生というのは尊敬される存在で、卒業してもずっと敬われているケースが多い。日本はどうだろうか。

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車で郊外へ。街の外にやけに広い道があったが、車はあまり通っていなかった。そして巨大な建物も見えた。何だろうと思っていると、新町役場の建物だという。だが使われている形跡はない。2つとも不必要なものに見える。何となく聞いていると、この街の前の書記が『万里茶路』を材料に予算をもらい、この建物と道を建設したらしい。既に彼は別の街に異動しており、この街には使われない公共工事の遺物だけが残ったとか。だから先ほどの古鎮の保存も万全ではなかったのかと、一人合点する。これもまた今の中国の一つの側面だ。

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湖書院という古い建物を見学する。1175年、この地で朱熹など4賢人が集まって討論したという歴史的場所。今残る建物は300年前、清代の建造というからこの付近では相当に由緒ある建物となっている。南宋時代は首都臨安へ行く道がここを通っていたというから、やはりここ河口は昔からの交通の要所。それにしても静かな堂内だが、今の中国人でこのような場所に関心を持つ人は殆どいないことがなんとなく残念だ。歴史の保存より、現代の建築、街の発展よりおのれの蓄財、中国は曲がり角には来ているが、うまく曲がることは難しいようだ。

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皆で夕飯、豪勢な地元料理を頂く。食後の散歩で、もう一度古鎮の方へ歩いて行く。特に観光客がいる訳でもなく、若干のライトアップがあるのみで、基本的には暗かった。ここは十分に観光資源になると思うのだが、果たしてこれから街の政府はどうしていくのだろうか。静かな町はふけていき、私も早めに寝る。

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54日(水)
厦門へ

翌朝は早く起きて、街を散歩した。静かな田舎町、悪くない。ホテルの脇の麺屋で朝飯を頂く。これがまた絶品。内臓系が入り、卵焼きが載り、私好み。王さんのお店で少しお茶を飲み、別れを告げる。大変お世話になってしまった。更に車で高速鉄道の最寄り駅、上饒駅まで送ってもらう。ここまでも車で約1時間。河口はちょうど武夷山北駅と上饒駅の間にあることが分かる。上饒の街はマンションなどがたくさん建ち、河口よりは栄えているように見えた。切符は昨日買ってあったので、スムーズに乗り込む。

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魏さんと林さんは福州で降りていく。私だけが厦門まで乗って行った。明日の厦門発のフライトで東京へ行くためだ。今回もまた魏さんにはお世話になりっぱなしだった。1時間半で福州に着き、更に1時間半で厦門まで来てしまった。何とも速い。昔の鉄道なら10時間以上かかっただろう。そしてもし徒歩なら?茶葉が運ばれたルート、それは途方もなく遠い道だと実感する旅だった。

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茶旅の原点 福建2016(14)江西省の武夷山へ

6.    河口
桐木関

車は高速道路に入った。そして少しくとトンネルがあったが、長さは3㎞と書かれている。更に行くと次のトンネルは6㎞。何と長いトンネルなんだろうと思いながら、これが武夷山山系の山越えなのだとふと気が付く。ということは先日の説明が正しければ、茶葉を担いで越えて行った人々がいたということになる。話では理解できても、実際にこの長いトンネルを潜っていると、気が遠くなる。ここを3日掛けて越えて行ったとは、何ともすごい話だ。

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高速道路を降りると山道に入る。狭い道を慣れた感じで運転してくれたが、途中で車が立ち往生していたりして、山道の運転の大変さが伝わってくる。相当の山奥に入ったところで、建物が見えてきた。そこが今日の目的地、河茶廠がある場所だった。そこだけがきれいに開発されていたが、周囲には樹木が生い茂る、完全な大自然。こんなところになぜ茶工場があるのだろうかと不思議になる。

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工場では総経理の王さんが迎えてくれた。彼女のご主人はやはり不動産開発業者で、以前にこの土地を手に入れており、数年前に茶工場を作ることにしたという。やはり万里茶路の歴史発掘がきっかけだったらしい。今は鉛山と言われる河口は、300年の昔、茶葉の集積地として栄えていた。最盛期は300人の茶師がここに集まり、茶葉のブレンドなどをしており、この茶葉が広東経由で海外に輸出されていた。この歴史はあまり知られていないが、最近はイギリスの学者が調査に来るなど注目されつつある。

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1757年に乾隆帝が対外貿易を広東一港体制としたことが河口を栄えさせた。武夷山の茶葉は、福州や厦門の港から輸出できなくなってしまった結果、茶葉を広東に運ぶ近道として、河口が選ばれた。ここから川で北へ行けば漢口を経由して万里茶路のルート、東へ行けば上海への道も開かれている。ロケーションが抜群によいのだ。1840年にアヘン戦争があり、その後福州などが開港され、更に第二次アヘン戦争で全面的に対外開放されるに及んで、河口の存在感は薄れて行った。栄えたのは約100年、その間一体どんなお茶が作られ、どんな繁栄があったのか、今は分からなくなっている。

 

王さんたちとお茶を飲む。ここで作られているのは紅茶だ。河紅、という名称で復活している。まだ再開したばかりで、これからのお茶だろう。宿泊施設もあり、今晩はここに泊めてもらうことになった。ここにはWi-Fiはなく、携帯の信号もほぼ立たないという環境だった。私にとっては絶好の休みだと思うのだが、企業オーナーである魏さんにとっては、仕事の連絡が出来なくなり、大変な状況となってしまった。

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夕飯を頂き、またお茶を飲んでいると眠くなってしまう。こんな何もない、静かで素晴らしい環境なら、寝るに限る。先に失礼して部屋に行き、シャワーでも浴びようと湯沸かし器を見てみると、何とその昔、仕事で取引した広東省の会社のものだった。懐かしい。そしてお湯を出そうとした時、落雷があり、電気が消えた。そのまま全く点かなくなる。これはもう寝るしかない、と布団に潜り込むと、ひんやりして気持ちよく、あっという間に眠りに落ちた。

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53日(火)

翌朝早く起きる。既に周囲は明るい。向こうに高い山が微かに雲に覆われている。林さんもすでに起きて散歩していたので、一緒に茶畑を探しに行く。山から流れてくる水が急だ。すごい音がする。昨日車で来た道を降りていく。歩いていると本当にここが大自然の中であることを実感する。この道路さえなければ、奥深い山の中だ。ふと見ると碑が建っている。昔この辺を歩いていて、行き倒れた人もいたかもしれない。茶葉を運ぶ道はまさにこの道だったのではと思う。

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茶畑が見えてきた。勿論もっと山奥の標高の高い場所にもあると聞いたが、この付近でも若干植えている。最近植えたのだろうか。茶樹がまばらだ。向こうのダムが見える場所まで歩いて引き返す。帰りの上りはかなり辛い。脚に堪える。竹を切り出している地元民に会う。戻ると朝ご飯が待っていた。何ともいい散歩であり、健康的な朝を迎えている。魏さんはまだ起きてこない。

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魏さんは昨晩眠れなかったらしい。何しろ時間が勝負の中国での商売において、携帯が全く繋がらない上に、充電する電気も一晩中来なかったのだから、時々起きあがってしまったらしい。中国のオーナーは忙しすぎる。朝も電気が来ると早速どこかに連絡していた。ここの王さんなどは、この山で使える強力な携帯を保持していた。やはり頻繁に連絡がやってくる。明日もどこかの役人が視察に来るとぼやいていた。彼女も家は河口の街にあり、ここまで車で1時間半はかかるという。年間100往復はするというから驚きだ。

 

茶工場を見学した。この山の中にしては近代的な工場だった。衛生面にも気を使っている。最近作ったからだろう。昨日日が暮れてから運び込まれた茶葉が室内に置かれている。機械設備も一式揃っており、後は製茶技術の向上が期待される。何しろ武夷山系に属するこの山、この涼しい環境で作られる紅茶、茶葉もいいものがありそうだし、今後が楽しみだ。

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茶旅の原点 福建2016(13)観光地でない星村の良さ

51日(日)
再び星村へ

ついに行くところが無くなった。天気も曇りがちだ。こんな日は休めばよいのだが、明日には武夷山を離れると思うと、何となく外へ出たい気分になる。昼前には宿から出て行く。まずは腹ごしらえ。いわゆる自助餐のようなところがあり、安く食事ができた。この宿の近辺はやはり庶民、そして学生のための安い食堂が多いので本当に助かる。スープの代わりに、薄い粥が付いてくるので、これもまた有り難い。

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結局バスで星村へ向かう。もうバスの乗り方にも慣れ、どれに乗ればよいかすぐに分かるほどになっていた。星村は数日前に李院長に連れて行ってもらったので、土地勘もある。バスの終点の1つ前で降りる。何となく歩きたい気分になっている。古い茶工場も見えてくる。前回は車でさっと見ただけだから、今回はゆっくり徘徊する。星村の街はそれなりの規模であった。昔は茶葉貿易で栄えたのだろうか。250年という古い木が残っていた。

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ある一角は映画のセットになりそうなほど、古き良き風景を残していた。そこだけが時間が止まったような静けさで、かなり古い木造の家が狭い路地に並んでいる。老人が竹で籠を編んでいる。全てが手作業だった。ここには観光客も入ってきていない。もし観光客が沢山いたら、この雰囲気は保てない。基本的に昔ながらの生活をする人がいる場所だから、保存できるのだと感じる。向こうに教会の十字架が見える。この辺も早くから宣教師が入っていたのだろうか。田舎で昔栄えていた場所には大抵教会がある。

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急に私の横を通り過ぎたバイクが倒れた。それほどスピードは出ていなかったが、運転していたお母さんはバイクに足が絡まり、痛そうだった。後ろに乗っていた女の子は、振り落とされたが意外と平気だった。田舎のバイクの二人乗り、気を付けないと。もし私が振り落とされたら、今や受け身も取れず、骨の一本は確実に折れているだろう。道も平らではない。横には小川が流れている。この辺も茶葉が運ばれたルートかな。

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更に進むと、もう少し時代が下った建物がある。人民公社という文字が入っていたり、中外合資の賓館などという看板もある。80年代はまだ茶葉産業に活気があったのだろうか。15年前に訪ねた武夷岩茶研究所の建物が木に覆われて建っていた。九曲の船着き場、川辺まで下りてみる。あの竹筏に乗り込む観光客が沢山見える。往時はここから茶葉が運び出されたのだろう。今は人が運ばれていく。

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橋の脇には古めかしい建物があった。今は別荘のようになっているが、古めかしく作られたものだろう。今一つ行ってみたという気が起こらない。橋の袂を見ると、窯跡という表示があるから、元は窯に関係していたのかもしれない。船着き場近くは51の連休で観光客が沢山いた。茶葉貿易での賑わいと観光客の賑わい、あの商売に熱気とはかなり違う何かがある。近づき難い。

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観光客を避けてバスターミナルからバスに乗り、そそくさと退散した。バスは休日だからか頻繁に出ており、すぐに乗れた。既に馴染んだ、川沿いの道を走り、武夷山莊の近所を通り、昨日の正山堂の店付近、景区の入り口も通り、宿へ戻った。恐らくこれだけ長い間一度に武夷山にいた、しかもすることがなかった日本人は少ないのではないだろうか。自分でもまさか1週間もいるとは思ってみなかったが、それはそれで貴重な体験を数多くした。

 

宿に戻るとさすがに疲れ果て、眠ってしまった。夜また定食屋で食事を取り、シャワーを浴びて寝る。このルーティン化した生活が心地よくなってきている。私は旅から旅と移動を続け過ぎているのだろうか。もう少し一か所に留まり、その街をよく見極め、楽しさを探す、そういったことも必要かと思うようになった。それもこの旅の成果の1つだろう。それは沢木耕太郎の世界か。

 

52日(月)
河口へ

翌朝は起き上がれず、遅くまで寝ていた。武夷山を去るのが寂しいようでもあり、また次の旅への期待もあるのだろうが、なぜか体が重い。少し風邪気味かもしれない。武夷山は天気の良い日もあったが、曇りや小雨もあり、意外や夜は涼しかったから、体に堪えたかも。取り敢えず、昼ご飯を食べ、1週間お世話になった宿をチェックアウトした。午後、魏さんたちとの待ち合わせ場所である、高速鉄道の駅へ向かう。宿の近くからバスが出ているが、なかなか来ない。タクシーが来たので聞いてみたが、40元だという。どう見ても観光地料金であり、断る。

 

何とかバスが来て狭い車内に荷物を持ちこみ、乗る。バスは市内を抜けて、かなりの距離を行く。何もないところに作られた武夷山北駅に着いたのは30分後だった。魏さんと林さんが高鉄に乗ってやってくるが、武夷山で私を拾い、車で別の場所へ行くという。『武夷山は福建省にもあるが、江西省にもある』という言葉が引っかかっていた。江西省の武夷山、それは一体どんなところなのだろうか。興味津々。魏さんたちが着く前に迎えの車の運転手と連絡を取り合い、落ち合った。ここからさらに1時間半以上乗っていくと言う。魏さんたちも予定通り到着し、出発。

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茶旅の原点 福建2016(12)観光地のお茶

430日(土)
観光地のお茶

翌日は休養に当てることにした。何しろ疲れがたまってきた。そして私の武夷山滞在はまだ続くのである。なぜ移動しないかというと、福州の魏さんが52日にここに来るので、それまで待っていることになっているからだ。魏さんも私と会った後、香港へ行ったりして忙しい。その中で私をどこかへ連れて行ってくるというので有り難く待つ。ただ流石に1週間は長い。

 

午前中は部屋でPCをいじり、粥を食っただけで過す。昼前にちょっと散歩しようと外へ出て、武夷学院の周辺を歩いて見る。茶畑があるというので、探してみたが、その内雨が降り出し退散した。近所の食堂に飛び込み、また定食を食べる。この定食、味はまあまあだが、何しろ値段が安い。ご飯やスープもお替りできる。観光地の武夷山は料金の高いレストランが並んでいるが、少し外れればこのような庶民の食事の場所があるのは、長逗留には有り難い。

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午後李院長から『急な出張が入り、武夷山を離れる』との連絡があった。既に彼は3日も付き合ってくれており、しかも私が行きたい場所は基本的に案内してくれたので、十分だった。有り難い。そして魏さんからも連絡が入る。やはり心配してくれていたのだ。『李院長がいなくなったので、別の店へ行け』と言ってくれた。その場所とは正山堂。紅茶発祥の地、武夷山桐木村で紅茶を作り始めた江さんの会社だった。昨今の紅茶ブームを招来した、金駿眉を開発し、販売した会社でもある。

 

担当者に連絡を入れ、言われた通りにバスに乗って行く。店は完全な観光地街にあった。この付近はさすが武夷山、土産物としてお茶を売る店が多かった。その中に埋もれるように正山堂、と書かれた店があった。だがなんとレイアウトの変更中。51の連休前にきれいにしているのだろうか。それにしても商品もあまりない。聞いてみると私が訪ねる人は隣の店にいるという。だが隣に正山堂はなかった。あったのは、ちょっとおしゃれなお茶屋さん。入っていくと、2階へあがれという。

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そこは何とも言えないきれいな、そしてモダンな空間。従来の茶芸の場とは完全に一線を画していた。この企画を担当していたのが、実は4年前に福州で会ったことがある女性だった。突然の再会に驚く。私がここに来た理由、それは武夷山の紅茶の歴史を知るためだったが、彼女はまずはビデオを見せてくれた。そこでは正山堂の歴史、すなわち中国の紅茶の歴史が語られていた。更に彼女は武夷山紅茶に関する本も持ってきて見せてくれ、おまけにその本をくれた。何とも助かる。

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またぜひ尋ねたいことがあった。それは4年前、福州で聞いた『1斤、9800元で飛ぶように売れていた』というあの金駿眉が今、どうなっているのかを。彼女は実に冷静に『ここ2年、販売は極めて安定している』という中国語を使っていた。だが私にはそれは『以前に比べてかなり売れていない』という意味だと解釈した。習近平政権誕生後の腐敗汚職撲滅運動で、一番被害を被ったお茶かもしれない。そして彼女が出してくれたお茶は紅茶ではなく、白茶だった。昨今のブームを背景にしている。

 

2階にある茶芸コーナーについては、従来の形ではなく、若者、特に女性にモダンなお茶を楽しんでもらうべく、工夫して作った空間だという。私にはよく理解できなかったが、その後中国の大学などで見ても、伝統茶芸ではなく、モダン茶芸が若者ウケし始める予感はある。その辺は若い女性ならではの視点で、すでに手を打っている感があった。まずはお茶に親しみ、それからお茶を買い、更には茶器なども買う、という消費循環を促す狙いがあるようだ。もう茶葉を売るだけでは持たない、茶文化を売っていく時代だということだ。

 

実はもう1つ、行こうかと思っていたところがあった。そこは正山堂から近いはずで、聞いてみると、やはりすぐそこだという。連絡すると、来てもよいと言われたので、正山堂を離れて、そちらに向かう。誰家院という名前だが、立派な建物であった。ここは茶荘なのか、それともホテルなのか。聞いてみると、泊まることもできるという。51の連休中は予約でいっぱいらしい。確かにきれいで居心地がよさそうだ。勿論料金はそれなりに高い。

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実はここのオーナーとは政和で会っていた。もし武夷山に来るなら寄ってと言われたので、寄ってみたのだが、以前は茶関係の雑誌を出していたという彼は、現在はお茶の先生をしている。そして自らも茶産地に行って、自らの好むお茶を作っているらしい。すごくたくさんのお茶が並んでおり、友人たちがあれこれ言いながら、お茶を飲んでいた。武夷山の岩茶が中心だが、種類が多い。特に百瑞香というお茶の濃厚な香りが気に入った。

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夕飯に行くという彼らに付いていき、レストランが路上に出したテーブルで食事をした。何ともフランクなお茶仲間たちで楽しく過ごす。食事を終えるとまた店に戻り、茶を飲む。こんな生活は理想的だ。泊まり客もどんどん入ってきて一層賑やかになる。私は途中で失礼して、バスに乗り、宿に戻った。今日は休みのはずだったが、やはり武夷山では休むことはできなかった。嬉しい悲鳴!

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茶旅の原点 福建2016(11)上梅を訪ねて

429日(金)
上梅

翌朝、李院長と会う。携帯番号のことを相談すると、『新しく買った方が速い』との一言で、近所のお茶屋にいた人が助けてくれて、すぐに新しい番号になった。勿論実名登録も済ませたので、問題は無くなった。ただ電話番号が変わってしまったのはやはり痛い!取り敢えず100元を入れて、様子を見ることにした。鄒さんに連絡してみたが、忙しいようで今回は会えなかった。これもまたご縁か。既に51の休みが近づいており、観光地で且つ茶の時期である武夷山には多くの客が押しかけてくる。

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下梅があれば、上梅もある。どういう因果か、下梅の鄒さんではなく、今日は上梅を訪問するという。若い女性の先生が、彼氏に車を運転させて、迎えに来てくれる。日本ではこんなことはあるのだろうか。上司の前に彼氏を連れてきて、その車で出かけるなんて。まあ、中国らしいとはいえるし、あまり違和感もない。むしろこの機会に李院長に紹介しようという目的かもしれない。車は高速道路に乗る。今日はかなりの遠出になる。

 

高速を降りて、山道を行く。途中の村で道路が塞がっており、通れなくなる。後ろからも車が詰めてきて、動きが取れない。かなりの時間を費やして脱出したが、一時は立ち往生かと心配になる。そして着いたところは、かなりの山の中にある茶工場だった。午前中にもかかわらず、製茶機がかなり動いていて、活気があった。ここでも武夷学院の学生が研修に勤しんでいる。

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2階でお茶を頂く。この茶工場は周囲3㎞に人家がなく、自然の中にある、と説明を受ける。更にここの土壌はよく、岩茶の香りがよく出るとも話が出た。ただ私の試飲能力の低さからか、どうも岩韻のようなものは感じられない。実は製茶で気になっていたことがあった。外に広い敷地があるのに、茶葉が全く干されておらず、室内に広げられていた。李院長もこの点を強く指摘していた。聞いてみると『実はこれは他の茶農家が持ち込んだ茶葉で、自分たちの物ではない』との説明を受けた。

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茶葉の摘み取りが始まり、自分のところで処理しきれない茶葉が持ち込まれてくることもあるのだろう。だがもしそうであっても、天気が良いのに、日光萎凋が全くない茶作りをしているところがあるとは、正直驚きだった。これを見てしまうと、他の作業工程も手を抜いているのではないかと疑ってしまう。岩茶と言っても大量に作られており、一抹の不安を感じた。学生の研修としても好ましいとは思えない。儲け主義の一端を垣間見る思いだ。

 

お昼はやはり工場で頂く。食後、学生たちが散歩に出たので、後をついて行ってみる。聞いてみると『労働はかなり疲れる。夜も眠れない』などの不満が出てくる。そして『フルーツが食べたい』と言った女子は、山道の道端で野イチゴを見付けて、摘み出した。かなりの量を摘んで皆のお土産にした。こんなことは日本の学生ではできない、中国でも田舎の子の特性だろう。因みにこの小さなイチゴはかなり甘く、美味しかった。工場の周囲は確かに環境がよかった。山沿いに茶畑が広がり、理想的な風景に見える。

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もう1つの茶工場へ行こうと、皆で車に乗る。学生だと思っていた若者の中に、卒業生が数人おり、先生に付いていくというのだ。彼らはここで製茶研修を行い、懐かしさで再訪したという。もう1つの工場は別の村にあったが、こちらは摘まれた茶葉が敷地一面に敷かれており、李院長も早速見分して、茶葉の摘み方と日光萎凋について、指導をしていた。こちらは正常な製茶工程が遂行されていた。茶業者によって質がかなり違うということだろう。

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その後、その村の近くを観光することになった。遇仙橋というかなり古い橋を見る。橋の真ん中に像が置かれている。何だかベトナムのホイアンに架かる日本橋を思い出した。小川が流れる中、数百年前にこの橋を渡った人がいるのだろうか。この付近はなぜか、昔の佇まいを完全に残しており、もう少し先には、昔の村がそのまま残っていた。茶畑はないものの、茶景村という名前に心惹かれる。村の大木は数百年前からこの景色を見ていただろう。

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夕方になり、朱熹の故居にも行ったが、博物館になっているその家は既に閉まっていた。紫陽楼遺跡という石碑が建っていたが、何だろうか。その付近で地元料理の夕飯を頂き、真っ暗になった高速道路に乗って帰る。高速で30分も走ってようやく武夷山に戻ったところで、初めて相当遠くに来ていたことを知る。部屋に戻るとかなりの疲れが出て、すぐに寝てしまう。

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茶旅の原点 福建2016(10)武夷山を歩く

428日(木)
崇安と武夷山景区

翌朝はゆっくりと起きた。今日は予定が特にない。李院長も流石に毎日付き合ってくれるほど、暇ではない。天気は悪くない。出掛けるべきだろうと判断して、昨日会った鄒さんの事務所へ伺えないか、電話してみた。だが電話が通じない。何度かけても繋がらない。彼の電話が使用停止になっているようだ。料金が未払いなのだろうか、とその時は思ったのだが。

 

仕方がないので、武夷山市内へ行ってみることにした。まずは近所にあったベトナム料理屋でフォーを食べる。福建には美味しい麺が沢山あるのに、それでも学生たちはフォーを食べている。いつも同じ麺では飽きてしまうのだろうか。大学の近くのレストランは基本的に安いのがよい。国が発展したと言ってもまだまだ貧しい学生は沢山いるのだ。それからバスに乗ってみる。

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15分ほどでバスは街中に入る。適当に降りて、古い街並みなどないかと探す。今や中国はどこの街に行っても、作りがほぼ同じ、チェーン店など店もほぼ同じで、面白くない。昨日李院長は『万里茶路の起点は赤石と崇安だ』と言っていた。崇安とは今の武夷山市内、少し歩くと、古そうな狭い道が現れた。南門街と書かれたその道には雰囲気があった。今でも両側に商店などが並び、洗濯物が干され、生活感もある。細い路地に入るとやはり川があった。ここが赤石と繋がっていることが分かる。ただ茶葉に繋がるものを見ることはなかった。

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川を渡って向こう岸へ行くと、そこは実にのどかな田舎の風景。ただそこにはひなびた村、花橋があった。大きな木があり、その歴史が垣間見える。この川には真新しい、大きな橋も架かっていた。歴史的な橋の復活だろうか。元の道に戻ると、城南小学校という立派な外壁が見える。この辺は下梅で見た祠を想起させる。他にも赤石で見たような建物もあり、ここが100年以上前には栄えていただろうと勝手に想像する。

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大きな道に出ると、ちょうどバスが来た。見ると武夷山莊へ行くらしい。何も考えずに乗り込む。これで崇安とはお別れだ。バスは元来た道を戻り、更には武夷山景区に動いていく。何だか懐かしい風景が広がってくる。そして川を渡り、山の中へ。ついにバスは武夷山莊の前で停まった。付近には観光客が歩いている。あれ、こんなところだっけ、と一瞬戸惑う。

 

武夷山莊は200012月、私が泊まった宿だった。当時木はそれほど茂っていなかったように思う。背景に岩山が見えていたと記憶がある。今はいい雰囲気に隠れている。広い敷地、歩いて上っていく。ホテルの建物は恐らくリノベーションされていた。庭も相当にきれいになっている。当時も高級な宿だったと思うが、今や料金も高いだろう。取り敢えず1周してみたが、思い出せるものはなかった。やはり15年の月日は長い。

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山荘を出て隣の敷地へ。武夷宮は改修中で見学できず。その先は観光地化している。この辺はさっさと通り抜ける。九曲渓に出た。如何にも武夷山の風景だ。橋を渡ると、そこからは家もなく、道が続くのみ。そして横道へ入る。そこは茶作りの村だった。道は細い一本道。道なりに行くと、天日で茶葉を干している家がある。茶畑も見えてきた。こんな風景を期待して歩いていたので、喜んだ。

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そこからずっと歩いて見た。天気は良いが、道の両側に木があるので、何となく涼しさも感じられる。横に川が流れているのも大きい。ただ観光バスなどがバンバン走って来るのはちょっと。この道は星村まで続いているはずなのでそこまで歩いて行きたかったが、疲れてきた。その辺はちょうど筏下りの流れがよく見えた。川沿いに行き、それを何となく眺めて過ごす。

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ちょうどバス停があったので、そこからバスに乗ろうとしたが、手を上げても通り過ぎてしまう。どうやらここは特定の観光バスだけが停まると分かり、更に歩く。ついに到着した場所でも、星村行バスは停まらない、と言われ、ショックで疲れが一気に出た。とぼとぼと元来た道を歩いて戻る。来る時は軽やかだった足取りは重い。坂があれば気持ちが萎える。何だか天気も暑くなる。何とか茶畑のある村まで戻り、そこからバスに乗る。

 

宿に戻ればよかったのだが、バスは途中で景区を通った。何となく降りる。15年前、世界遺産になったばかりの武夷山で、大紅袍の原木を見た記憶がある。岩の上に生えていた。折角来たのだから、見ていこうと思い、門のところへ行くと、チケットが必要だという。今や中国でも有数な観光地であるから、当たり前と言えば当たり前なのだが、茶樹を見るためだけに多額の支払いをするのはどうなのだろうと思い、止めた。周囲の広場でも茶葉が広げられ、干されていた。付近は皆茶業者だった。茶作りの最盛期、茶葉が香る。

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宿に戻ってくると李院長からメッセージが入った。『あなたの携帯電話が止められている』と。一体何が起こったのか。よくわからないので、近所の携帯ショップで聞くと、とにかく使用停止になっているので、中国移動の店へ行け、と言われる。その店は武夷学院の中にあったので、何とか探し出して、聞いてみる。すると『実名制ですね』というではないか。私のこのシムカードは数年前、香港にいる時に便利なように深圳で購入したものだ。その時は実名登録など不要だったが、現在は全てのシムカードを実名で登録しなければならない。それをしていなかったので、切ったというのだ。何という突然、昨日まで使えていたものが予告なしに。

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店員に掛け合っても無駄だった。彼も気の毒に思い、色々としてくれたが、最終的に実名登録は購入地区、私の場合は深圳、いや広東省へ行かないと復活は出来ないと分かる。このシムには300元以上お金が入っており、かつ中国の知り合いは全てこの電話番号を知っている。これを変えるのは困ったことになる。何とかならないのだろうか。何とも暗い気持ちで学院内を歩いていると、夕日が妙にきれいだった。そして急に腹が減る。近所の定食屋で思いっ切り食べてみてもどうにもならない。因みにネットで実名登録ができるとの話もあったが、それも外国人は無理だった。

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茶旅の原点 福建2016(9)茶農家と不動産屋が手を組む時代

星村へ

そのまま宿に戻るのかと思いきや、李院長は車をまた別の方向に向けた。先ほど話題に出た星村へ行くという。桐木には入れないが、星村は観光地なので、いつでも見られる。途中、山の中に入る。突然かなり大きな登り窯が見えてきた。建窯と書かれている。宋代に天目茶碗などを製作して皇帝に献上し場所だが、確か15年前に行った場所の名は水吉だったはずだが。

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よくよく見ると、ここは一遇林亭窯、という別の名前だったが、建窯の遺跡として、復活している。かなりの規模に圧倒される。15年前の水吉の窯は日本の愛好家などがお金を出して作ったほんの小さいものだったが、今では大きく作り変えられているかもしれない。このあたりにも中国の変化がよく見える。以前は価値のないものと放置されていた物が、ある日突然脚光を浴び、変化していく。今の中国は、観光資源を探しており、何でも掘り返されていくという印象が強い。

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星村へ行ってみたが、万里茶路と繋がる遺跡は何も残っていなかった。古い建物も港もすべて新しくなっており、微かに歴史を留めるのは天上宮という名の廟だけだった。かなり立派な廟ではあったが、茶葉貿易のことなどすっかり忘れ去った清々しさが漂っており、長居する場所でもなかった。ここも文革では破壊されたのだろうか。

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川の方へ行ってみる。昔の港は既になく、今は観光客を乗せる筏船の発着場所になっている。武夷山の観光名物の一つである筏下り。私も15年前に一度経験したが、昔はこの九曲の流れの中を茶葉が運ばれていったのだろう。ここだけは多くの人で賑わっており、次々に筏が出発していく。何となく川の流れを眺めていると人が茶葉に見えてきた。

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茶農家が別荘を

さて、帰るのかと思っていると、車はまた山道を入っていく。そこには比較的大きな茶工場があり、ちょうど茶葉が運び込まれ、製茶が行われていた。ここにも若者が沢山いるなと思っていたら、やはり武夷学院の学生だった。李院長はいくつもの派遣先を確保して、学生を研修に送り出し、理由をつけては、その状況をチェックしに来ているようだ。元々製茶経験が豊富な彼は、自ら茶葉をみて指導に当たる。それがまた茶農家にとっても為になるようで、皆真剣だった。

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工場の脇の建物、中は相当きれいな内装になっていた。今や武夷山では茶農家、などというイメージはなく、会社のようになっているところが増えている。ここで目についたのが大きな茶壷。それも1つや2つではない。100個近い壺が置かれている。そして何と私にも一個くれるというのだ。その条件は『10年後に取りに来ること』。ここのオーナーは記念として、友人や市の幹部などに、このようにして茶葉を送り、長い付き合いをお願いしているらしい。

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私などは10年後、どうなっているか分らない。もしこの茶葉、岩茶を味わってみたい人がいれば、10年後取りに行ってほしい。だがどうなっているか分らないのは私だけではなく、中国人や中国そのものの将来も全く見えてこない。そんな中だからこそ、敢えてこんな企画をしたのかもしれないが、果たして、どれだけの人がこの茶を飲むことができるのだろうか。因みにこの茶工場も街の区画整理の対象になっているようで、移転を余儀なくされるという。

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オーナーが食事に行こうと誘ってくれた。また工場で食事するものと思っていたら、車で移動を始める。山を下り、幹線道路を走り、また山の中へ。一体どこへ行くのだろうかと思った頃、着いた場所はどう見ても別荘地帯。武夷山の不動産業者が数年前に山の中の土地を取得し、最近開発したらしい。武夷山の景区内での開発は一般的には難しいはずだから、相当早い時期に認可を得ていたに違いない。

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我々はなぜここへ来たのだろうか。実は先ほどの茶業者と、この不動産会社が手を組み、環境抜群のこの場所でエコツーリズムを手掛けるというのだ。武夷山という場所柄、茶畑という風景も欲しいということか、お茶の販売だけでは以前のように儲からない茶業者の事情もあり、実現したコラボだった。この大自然の中で茶畑を眺め、お茶を飲む。そして別荘に泊まり、そこのレストランで食事をとる。そんなコンセプトらしい。これからは茶葉を売るのではなく、それを飲む環境を売るのだとか。

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まだ正式に開業しておらず、我々は試食に訪れた格好だ。他にも友人たちが参集してきて、賑やかに食べ、賑やかに批評していた。不動産で儲かる時代が過ぎてしまった今、各地方では、観光とエコを取り入れた、このような取り込みが行われている。その担い手は既に不動産で儲けた人々であり、彼らが文化を語り出している。

 

夜も9時過ぎにお開きとなり、市内へ戻る。武夷山は観光の街として栄え、道路脇には沢山の土産物屋が並び、灯りが煌々とついている。エコや大自然を見てきた今、この電気の光は何を意味しているのだろうか。これが現代中国のエコ産業であり、茶産業の現実であるともいるかもしれない。それでも前に進んでいかなければならない、日本のような停滞は意味がない、と言われているような気がした。

茶旅の原点 福建2016(8)観光地化する下梅

427日(水)
下梅へ

翌朝は宿の前にあった美味しそうな牛肉麺を食べた。内臓系が入っており、私の好みの味だ。毎日通いたくなる衝動に駆られる。朝から幸せな気分で李院長の迎えを待つ。今日は万里茶路の本命、下梅に連れて行ってくれるという。しかもその下梅の歴史を掘り越し、世に知らしめた鄒全栄氏も同行してくれるというから、まさにお茶のご縁に感謝だ。

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下梅は武夷山市内から車で30分ほど行く。道路は快適で、何となく下っていく感じ。やがて下梅の街に入り、万里茶路の起点という石碑が見えたが、通り過ぎてしまった。そこで見えた景隆号というお店、それが鄒氏の昔からも屋号だった。李院長は、反対側の川を指し、『ここ、梅渓から茶葉が積み出された。最盛期は1日に300の筏が出て行った』と説明してくれた。ちょうど電話が鳴り、鄒さんが待っている場所へ移動した。

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いい感じの小川が流れており、ちょっと観光地化されたような場所だったが、そこには媽祖を祭る廟と鄒氏の家祠が残されていた。武夷山はかなりの山奥であり、昔なら猶更だが、なぜここに海の神様である媽祖廟があるのだろうか。勿論これも茶葉の道と無関係ではない。そして家祠、往時としては非常に立派な作りであり、しかも横を見るとイスラム風の入り口まである。これはイスラム商人もここまでやってきてことを示しているようだ。

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中もかなり広い。一般にも開放しており、観光客や地元の人が訪れている。鄒氏はかなりの有名人であり、色々と声がかかる。万里茶路研究所も立ち上げており、資料は街の事務所にあるらしい。更に行くと、非常に細かい細工が施された扉があったり、裏庭は往時のあこがれ、蘇州の拙政園を模していたりと、贅が尽くされている。

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鄒氏は既に29代目だという。清代康熙帝の頃、貧困のため江西からこちらへ移ってきたらしい。そして茶葉を扱い、山西商人の常氏と組み、茶葉貿易に従事、巨万の富を築いていく。今でもその倉庫跡が残されている。川に向かって垂直に倉庫があり、片方が鄒氏、もう片方が常氏と別れて茶葉を管理していたようだ。これで利益分配も明確だったかもしれない。

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鄒全栄氏は長年教師をしており、最近定年となった。その傍ら、自身の祖先について、研究を進めてきた。その努力は相当なものがあったことだろう。成果が実り、折からの万里茶路ブームと相まって、その名声は高まり、政府も遺跡の保存に手を貸すようになる。ここが昨日行った赤石とは違うところだ。歴史は掘り出すもの、そして経済的な効果がそれを支えるもの、現代中国ではそのようになっている。それがよいかは別として、価値があると認められれば保存される、というのは、歴史的には重要なことだろう。

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ランチに

郊外の広い敷地に『万里茶道の起点』というモニュメントがあった。あまりに真新しく、何の意味もないように思えたが、ある意味で政府がこれを建てたことにより、下梅は認知されたといるかもしれない。政治と経済、文化は中国では一体なのだと実感する。

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昼時になる。李院長の部下に当たる先生からランチのお誘いがあった。鄒氏も同行して、市内へ戻る。鄒氏も現在の家は市内にあるという。その食事の場所は、広々としたところで、庭に水車などもある実に立派なレストランだった。そこにはお茶工場も経営しているという青年が待っていてくれた。彼は何と大阪に留学したことがあり、日本語も流ちょう。日本企業とも色々と商売をしているらしい。食事も豪華、そして彼の製品である割りばしが出てきてそれを使って食べる。日本にも輸出しているという。

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星村の上の桐木に工場があるという。そこは私も是非行きたい場所。なぜならそこで紅茶が作り出され、万里茶路のルートに乗ってロシアまで運ばれたからだ。食事をしながら彼にさりげなく、『茶工場を拝見したい』と言ってみたが、なぜか色よい返事はなかった。この近くに別の加工場があるよ、などというばかりだ。あとで聞くと『桐木は現在政府による規制があり、一般人の立ち入りは禁止されている。中国人の場合、受け入れ人がいれば問題なく入れるが、外国人の場合は、正式の申請が必要であり、それはとても面倒だ』ということだった。

 

この件で迷惑を掛ける訳にも行かず、また私個人は『入れない』ところに無理に入るつもりはないので、流れに任せた。ただなぜこの会食がセットされたのか、その意味は十分に分かった。しかしなぜ桐木に外国人が入れないのか、それは謎だった。生態系を保護するためだ、と説明されても、中国人は容易に入れるのだから、外国人もツアーなどに制限したうえで入れた方が観光資源的には望ましいように思う。それとも何か秘密でもあるのだろうか。