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福建・広東 大茶旅2016(11)マカオから広州へ

1014日(金)
マカオ散策

翌朝も体調は回復しなかったが、Tさんに同行して、マカオ散策に出た。今回ここに来た理由、それは茶葉貿易の跡を巡るものだったので、マカオにあった東インド会社の建物を目指す。それはカモンエス公園のところにあるのを知っていたので歩いて向かう。途中に英記茶荘がある。この付近はとても雰囲気がよい。茶室があり、飲茶を食べている人々がいる。体調がよければ食べたかった。

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東方基金会、そこは東インド会社のオフィスだった場所。中に入れないのかと思ったが、今日はキャノンの展示会があると書いてある。だがまだマネージャーが来ていないというので、建物のドアには鍵が掛かっていた。きれいに整備された庭のみを見学する。建物も改修されているのか、きれいに見える。

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その横にはプロテスタント墓地がある。モリソンチャペルが見える。ロバートモリソン、プロテスタント初の宣教師としてこちらに赴き、聖書を中国語訳した人物。この墓地も彼が奥さんのために作ったと書かれている。中国への道、当時は開かれたばかりの香港ではなく、マカオが拠点だったことが窺われる。

 

その墓地を眺めていると、モリソン一家や画家のチネリーなどの墓が見られる。そしてやはりアヘン戦争で亡くなった人々が葬られていた。この辺が歴史に大きくかかわってくる。更には不思議な墓標に出くわした。東インド会社日本、と書かれている。これは一体なんだろうか。あとで教えてもらったところでは、何とここに葬られていたのはペリー艦隊の乗組員だったのだ。確かに1853年という表記がある。これはアメリカ東インド艦隊を意味しているのだろうか。この人は浦賀まで行ったのだろうか。

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マカオの重要性を確認した。もう一度東方基金会が開くのを待つというTさんとここで別れた。聖ポール天主堂跡の横を通り、セナド広場を抜けて、マカオタワーの方へ向かう。このあたり、南湾が昔の輸出港だったと聞いていたが、今やそれを示すものは何も見られない。疲れてしまったので途中でバスに乗ると、宿の近くまで連れて行ってくれたので、そのまま部屋で休む。

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12時になると、しっかりドアがノックされ、チェックアウトを促される。さすが香港・マカオの合理性だ。特に行くところもないので、ふらふら歩いて、大好きなホートン図書館の裏で休む。ここはいつもいい風が吹いており、人は少ない。ネットも出来て、水も飲める。憩いの場、とはここのことだ。

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それから宿の方に戻る途中、粥屋があったので、恐る恐る食べてみる。何ともないので、体調はかなり回復したと言えそうだ。Tさんと合流して、宿で荷物を取り、中国との境界へ向かう。実はこの宿を選んだ理由は、中国側へ渡るのに便利なフェリーが対岸まで通っているからだったのだが、昨日調べてみると、何と運休していた。これは痛い。仕方なく、バスに乗り、境界まで進む。

 

数年前まで、何度か通ったこの境。毎回延々大行列に見舞われ、優に2時間はかかっていた。それが今回はどうだろうか。人が少ない。マカオ側の出境は簡単に済み、中国側も外国人が通れるゲートが2つしかなく、列があったが、中東系の慣れたバイヤーなどがおり、スイスイ抜けていく。中国人ゲートは閑散としていた。これが今のマカオの現状だろう。景気が良い訳がない。

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珠海にあっという間、に感じられるほどの時間で出てきた。前回はここからバスに乗って広州に向かったが、今は高速鉄道が走っているという。その駅を探すとなんと境界の横にあり、便利。Tさんが切符を買いに行ってくれたが、3時間後まで席がないという。昔は境界を越える時間が読めなかったが、今は列車の予約が可能ということだろう。我々外国人は予約しても自販機では切符が取れない、窓口に並ぶ必要があるという難点があるのだが、ここにはパスポートで取れる機械が1台ある。次回ここを通る時は予約して来よう。

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1時間後、無座の切符を持って列車に乗り込んだ。車両が短いのか、席が少ない。立っていく人が沢山いた。我々は自分の荷物の上に座り、何となく時間が過ぎていく。僅か1時間で広州南駅に到着した。バスなら3時間ぐらいかかっていたから、これもまた楽になっている。

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6. 広州
宿を探す

今回広州でも知り合いに頼んでお茶関係者を紹介してもらっていた。その人が宿を予約してくれていたので、それに従って地下鉄で向かう。宿はいつもの旧市街地ではなく、何と芳村だった。ここには巨大な茶葉市場はあるので、そのためにここが予約されたのかと思った。芳村の駅を出ると真っ暗だった。地下鉄というのは地上へ出てから、どちらの方向へ行けばよいか分らない。

 

何人かに聞いて、結局タクシーに乗った。だがタクシーは1㎞ちょっと行くとUターンした。そこにITパークのようなところがある。その中へ入って欲しいといったが運転手は無視して先へ進んでしまう。結局そこに入らなければいけないと分かったがもう戻れず、荷物を引いて、戻っていく。そしてその敷地内でホテルを探す。暗い中、何とか見つけてチェックインした。

 

夕飯を食べていなかったので、横のレストランで食事をした。だが食の広州、と言われるこの地で、珍しいぐらいまずいチャーハンを食べてしまった。広州も変化しているのだろうか。体調がまた悪くなるのかと心配になる。そのレストランを抜けて外へ出ると、川沿いに出る。それほど明るくはないが夜景が見えた。後ろを振り返ると、古びた洋館のようなものがある。その向こうには倉庫のようなものも見える。この辺が茶葉製造拠点、輸出拠点だったのだろうか。にわかに興味を持つ。

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福建・広東 大茶旅2016(10)体調不良でふらふらマカオ

1013日(木)
深圳経由でマカオへ

翌朝になっても体調は良くならなかった。だが今日は深圳経由でマカオまで行くという大移動日。朝ご飯も食べずに、早々にホテルを出る。北駅に行くのは昨日のBRTが便利だが、ここからどうやってその駅まで行くのか。フロントに聞いたところ、バスで一駅乗るという。私なら歩いて行くが、Tさんはバスに乗る。

 

何とか駅を探し当て、改札を通ると荷物検査のおばさんが手作業で荷物をチェックしている。だが横には立派な検査機械があるではないか。『実は明日から使うのよ』という。ということはこのおばさんは今日で失業?いや、明日からも機械の横に立ち続けるのだろう。中国に機械化、という言葉は似合わない。

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BRTはいつも混んでいる。疲れた体に1時間はたいそう長く感じられた。列車の切符は既に昨日手配済みだったが、その1時間前に着いてしまい、手持無沙汰。Tさんは朝飯を食べると言い、マックへ入る。私は席でボーっとしていた。中国の新しい駅はほぼ例外なくチェーン店しかないので面白くない。

 

列車に乗り込むと、実に空いていた。こんなに空いている高速鉄道に乗るのは初めてかもしれない。寒さを感じるので、席を日の当たる所に移動して、じっと耐えた。太陽の光を浴びると少し元気が出る。窓の外は退屈な田舎の景色が続いている。2時間近く経ち、潮仙という駅を通った。この辺はスワトウだろうか。更に1時間ほど行くと、潮尾。この辺にはかなり古い住居が残っていて、降りてあそこで茶が飲みたい、と思ってしまう光景があった。更に昔ゴルフに行った恵州まで来ると、高層マンションが立ち並び、急速な都市化がここまで来ていると分かる。

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4時間で深圳北駅に着いた。夜行バスで10時間かかると聞いていたので、大分短縮されている。ここから地下鉄に乗り換えて、蛇口まで行く。約1時間半地下鉄に乗り、グレーター深圳の大きさを実感する。車内が寒くて難儀する。Tさんが深圳に来たのは25年も前らしい。今の深圳がどれほど発展しているのかを見せたかったが、ずっと地下に潜っており、その機会はついになかった。この25年、中国で一番発展した街、見たら驚くだろうな。

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蛇口からマカオ行のフェリーは20分後に出航予定となっていた。私は食欲がなかったが、Tさんはカップ麺を食べている。いつものように出国はいとも簡単、そして乗船すると乗客があまりにも少なく拍子抜けした。2年前に乗った時には、団体さんで満員だった船が、今や数えるほどの人数になっている。それは70分後に着いたマカオのターミナルでも同じだった。イミグレは空いていて、すぐに通過した。

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5. マカオ
フラフラで

マカオも宿は高いので、予め安めのところを予約しておいた。そこは私もあまり行かない半島の裏側。まあマカオには何度も来ており、土地勘はあるので大丈夫だとバスに乗り込む。バスはまるで観光案内のように、カジノを通り、セナド広場を抜けて、裏港へ。目指すバス停で無事に降りた。

 

だが、そこから宿が見付からない。宿のある道の名前が出て来ないのである。10分も歩いてしまい、近所の人に聞いたが、教えてもらえない。Tさんがしびれを切らして『そんなきき方じゃ、見付からないでしょう』と言って、おじさんに聞いてくれた。おじさんも親切でスマホを取り出し、位置関係を教えてくれた。我々はバス停からの歩き出しが反対だったのだ。バス停の向こうに噴水があり、その奥に宿はあった。

 

かなり疲れており、頭が働かなかったのだろうか。宿はビルの3階にあり、そこまで登るのもきつい。その宿はきれいであり、部屋もそれなりに清潔。窓から外を見ると、何と向こうの方に中国の珠海が見えた。疲れてはいたが、水を買いたいと思い、写真を撮るTさんと共に部屋を出た。

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この付近は昔のマカオのにおいが濃厚に残っており、好ましい。港へ行くと、そこは倉庫街になっており、昔のたばこ会社の名前なども見える。夕日を浴びる船を見ていると、何とも気持ちが和む。だがその背景に珠海の高層ビル群があるのは、何とも興ざめだ。このあたりから茶葉が輸出されたとは思えないが、マカオは第二次大戦前、香港以上に茶葉の輸出が行われていた場所だと聞いている。

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写真を撮りに行くというTさんと別れ、セブンイレブンに飲み物を買いに行った。香港ドルの500ドル札を出したところ、『お釣りはパタカですが、良いですか』と聞いてくる。そんなにたくさんパタカをもらっても使いようがないので断ると『なら、受け取れません』と言われ、困惑する。何故と聞くと『なぜも何もオーナーが決めたことだから仕方がないよ』というばかり。この意味は何なのだろうか。

 

部屋に帰るつもりだったが、今日全く食事をしていないので万が一食べたくなった時のために、有名なお菓子屋へボーロを買いに行く。ここにはいつも観光客が大量に押し寄せ、マカオに数十店舗もある店だったが、客は誰もいなかった。この大通り、何とあちこちで改修工事が行われており、シャッターが閉まっているところも多かった。一体どうなっているのだろうか。マカオはやはり不景気なのだろう。

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部屋に帰るとすでにフラフラであり、そのままベッドに倒れ込む。そして何と翌朝まで起き上がることはできなかった。折角マカオまで来て、夜景もカジノもなしになってしまう。何のために来たのか、と言っても何もならない。休む時はしっかり休むしかない。

福建・広東 大茶旅2016(9)厦門散策

4. 厦門2
厦門散策

1時間後には厦門北駅に着いた。高さんとはここで別れた。だが車は別の方向へ行くというので、我々もここで降りた。取り敢えず梅記の王さんに挨拶に行こうというので、BRTというモノレールに乗り、市内へ向かう。3.5元と安いが、何と1時間もかかる。北駅がどれだけ遠いかを実感した。半年前に北駅からITパークにタクシーで行った時もずいぶん時間が掛かったのを思い出す。しかも車内はめちゃ混みで疲れた。

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梅記の店に行くと、王さんが待ちかねたように出てきて、『まずは昼を食おう』という。とにかく中国というところは食事をしないと何も始まらない。今回は出前を取ってくれた。鴨麺、鴨肉がしっかりと入っている汁なし麺であった。肉をしゃぶるために、ビニールの手袋までついてくる。最近中国の衛生概念も着実に向上しているが、返って食べ難い。

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次は宿だ、ということで、王さんのところが契約しているホテルに車で連れて行ってくれた。そこは店からちょっと離れていたので、なぜだろうと思っていると、横に茶葉市場があったのだ。『実はここにも店がある』という。王さんは用事があると言って帰っていき、我々はその茶葉市場、海峡茶都へ行ってみることにした。

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雨は降っていなかったが、厦門も天気は良くない。市場もその影響か、人が殆どいない。大き目の茶道具屋に入り、話を聞く。武夷山近くの茶器を扱っており、出てきたお茶も岩茶だった。ずっと鉄観音ばかりだったので、岩茶はホッとする。それから紅茶屋などの店を回り、最近の傾向など情報収集を計ったが、お客がいなくて困っている店もあり、『茶葉を買え』と言われて逃げ出す場面もあった。

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もういいかと思い、Tさんを残して、市場を離れた。目の前にバス停があったので来たバスに乗ってみた。輪渡と呼ばれる埠頭の方へ行こうと考えていたが、途中でかなり古い建物を見つけて降りてしまった。大同路、という名前のその道は、確かに古い街だった。路地の市場には独特の雰囲気があり、地元の人が買い物をしていた。ここは決して観光用ではない。100年ぐらい前の建物もいくつかある。住居は50年ぐらい経っているのだろうか。

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そういえばTさんが『地元の人が路上で茶を飲んでいるところはないか』と聞いたのに対して王さんの答えが『いるとすれば大同路だろう』と言っていたのが、急に思い出された。期せずして、ここへ来てしまった訳だ。しかし実際には数人が茶を飲んでいるのが見られただけだった。既に路上文化は厦門にはなくなっていると言ってよい。残念だ。

 

 

2013年、13年ぶりに厦門に来た時、この付近に泊まった。その理由は1987年、初めて厦門に来た時に泊まった華僑大廈を探したからだ。今や立派なホテルに生まれ変わっているが、往時はこの辺が街の中心部だったことを窺わせる。周囲には清末の建物などが残っていた。

 

また観光客用の道に出た。脇道がちょっと古びていたので入ってみると、何と土産物屋が並んでいる。しかも置かれている商品を見てびっくり。どこも鉄観音茶が売られていた。しかもその値段が、おしなべて160元。例の緑緑した色鮮やかな奴が並んでいる。確かに観光客の目を惹くにはよいのだが。

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これが先日安渓の茶都で見た、卸価格120元の売り先の1つであることは間違いがない。車で1時間運ぶだけで3倍の値段が付く。それでもどう考えても安いと思えてしまう。新茶でなければ、更に値は半分になっている。岩茶だろうが紅茶だろうが、ある意味激安価格で売っている。こういうお茶にも一定のニーズがある、と言ってよいのだろうか。

 

帰りはふらふら歩いて行く。中山公園などの名所もあるが、あまり興味はなく、裏道へ入っていくと、懐かしい雰囲気の市場。そして庶民が食事をするような場で、また日があるうちからビールを飲み、騒がしい一団がいたりする。トイレがやけに立派なのが経済成長を感じさせる。

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40分ぐらい歩いてちょうどバスに乗った海峡茶都に戻る。このあたり、地下鉄工事が進んでおり、道路の真ん中が掘り返されていた。厦門にも地下鉄が通る。不動産も上がっているようだ。王さんから電話があった。茶都にいるから来たら、と。実は彼の店がここにあると聞いてさっき探したのだが、見付からなかったのだ。

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何と店名が違っていた。いやそれだけでなく、扱っている茶が違っていた。プーアル茶専門店だったのだ。鉄観音茶だけでは老舗の再生は難しかったらしい。2000年代前半、プーアル茶ブームに目を付け、これで儲けたという。その茶葉は香港あたりのネットワークから出てきたというから、如何にも福建らしい。店にはかなり古い茶餅が並んでいた。プーアルの老茶を飲んでいると、ちょっといい気分になる。

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Tさんは携帯電話を持っていなかったので連絡が付かなかった。夕飯の時間になり、一度ホテルに戻った。王さんがホテルのレストランで食べようというので、Tさんを探して、向かう。海鮮料理屋だった。オーナーは釣りが好きで、自分で魚を釣って来るらしい。店は広かったから、勿論オーナーに釣り好きは単なる宣伝だろうが。

 

ここで辛い海鮮鍋を食べてしまった。実に美味しく感じられ、どんどん口に入れてしまう。刺激、というのは誘惑だ。だがこれまで数日、体に優しいものだけを食べてきた胃腸にとって、これは致命的だった。部屋に帰ると体調が非常に悪くなる。辛い。

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福建・広東 大茶旅2016(8)秋茶はなしだ

1011日(火)
茶摘み

今朝は小雨が降っている。張さんは『50年以上茶作りしているが、こんな秋は初めてだ』とこの異常気象を嘆く。そして『こんな状態で茶を作ってもいい物はできない。今年は秋茶はなしだ』と言い放つ。えー、とこちらも返すと『その代わりにもし雨が止んだら少しだけ茶葉を摘み、製茶しよう。商品にはならないけどな』と笑う。

 

朝ご飯が地瓜粥になった。そして野菜も付いた。これは私が昨日余計なことを言ったからだろう。居候、ですらない、私に気を使ってくれるとは何とも有り難い。そういえば、安飛からも張さんからも『この春、お前の友達が来たから泊めてやったよ』と言われて、戸惑う。私は友達など紹介した覚えはない。高さんに聞くと、『昔の勤め先のHさんだよ』と言われて驚く。Hさんとは会社を辞めて以来、一度も交流などない。それが何で?

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『香港の店に何度か来たから、あなたの友達ということで、皆一生懸命やったんだよ』というので、申し訳ないとしか言いようがない。確かに彼は高さんの店のお客さんだったし、私の知り合いではあるが、なぜ張さんや高さんがそんなに良くしてくれるのか、を知らないのだろう。安飛など態々厦門のホテルまで彼を迎えに行ったというから、何と言えばよいのか。皆怪訝な顔をしている。

 

雨が上がった。我々は家を飛び出した。近くの茶畑は既に茶の芽がかなり伸び、葉が輝いていた。だが雨露に濡れた茶葉では良い茶はできないと何度も聞いている。それでも我々4人は黙々と茶葉を摘んだ。そしてその茶葉を製茶場に持ち込み、Tさんに製茶工程を一通り見せてくれた。最後にいつものように、茶を淹れて飲む。ここで飲むお茶が最高に美味い。それだけは実感できた。

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昼になると、ご飯の時間だ、と気の抜けたように言って家に戻る。張さんはこの秋、本当に茶作りをする気はもうないようだ。まあ、それがよいかもしれない。最近できた孫が可愛くて仕方がない様子。これからは自分が飲むためのお茶だけを作ればそれでよい。この異常気象により、一時代が終わったような気分になる。

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午後は街を散策した。宿のすぐ裏には樹齢何百年という大木があったが、雷にでも打たれたのか、その樹皮は焼け焦げていた。何だか村の呪い、のようなものが感じられ、早々退散した。夜もまた張家で食べる。今晩が最後になる。食後高さんと張さんの奥さんと夜の街を散策する。この街には取り立てて何もない。見るものもないので、我々の宿を見学するという。私が張家から宿に戻る道以外は分らないというと、『私はよくわかっている』と張さんの奥さんが言う。

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暗い夜道の中、確かに彼女は寸分の狂いもなく宿に辿り着いた。『私の実家のすぐ近くなのよ』というではないか。そして宿の門を入ると、例の西坪の王さんの親戚であるオーナーに向かい『あんたがやってんの?』というではないか。お互い、顔見知り、というか、この辺の人々は皆どこかで繋がっているのだ。香港の高さんなどは『このお兄さんには小さい頃遊んでもらった記憶がある』というのだ。確かに同じ高という苗字なのである。そして『この人は若い頃は京劇をやってたのよ』ともいう。確かにオーナー高さんの顔立ちはどこか品があり、京劇役者の面影がある。

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その夜、この宿では若者たちが集まり、酒盛りをやっていた。我々にも参加しないか、と誘ってくれたが、疲れていたので断った。この静かな宿に、しばし音楽が響き渡った。私は眠れない、というより、すでに沢山寝てしまって、疲れだけが残っていた。すっきりしない滞在となってしまった。洗濯物もスッキリ乾かなかったが、何と管理人が、簡易乾燥機を持ち込んで乾かしてくれたので、こちらはすっきりした。何というアイデア商品だ。

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1012日(水)
厦門へ

翌朝、最後の朝ご飯を食べに、張家へ行く。Tさんは少し天気が持ち直したので、朝早くから歩き回っていた。宿に戻ると見知らぬ人がいた。話してみると、何と台湾人だった。しかも彼がこの宿の仕掛人だった。この宿は、大坪の若者たちの、街のために何かやりたいという希望と、この台湾人の田舎の良さを残したい、という思いから作られたらしい。資金は台湾人、若者、大学生ら数十人が出し合ったという。台湾人が来たから、昨晩皆が集まっていたという訳だ。現時点では何とも未完成の宿だが、これから良くなっていくかもしれない。

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香港の高さんも今日帰るというので、その車に便乗して山を下りることにしていた。だが約束の9時半になっても車が来ない。我々は良いが、高さんは既に高速鉄道の予約をしているので、時間が心配になった頃、ようやく現れる。この街で商売している人が厦門へ行くので、その車、BMWに乗せて行ってもらう。大量の荷物と後ろ3人はギューギュー状態だった。実は昨年開通した路線バスは、最近の台風の影響で走っていなかったのだ。確かに途中に道路工事の場所があったが、普通の車は何とか通れ、下へ降りて行った。

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福建・広東 大茶旅2016(7)大坪の自然生活

109日(日)
張さんと再会する

翌朝も天気は良くなかった。朝ご飯は宿に付いているとのことで、8時頃に管理人の若者が持ってきてくれた。だがちょっと塩辛い麵とおかず。今日も写真を撮る環境にはない。まずは何をおいても張さんの家に行こうと考える。大坪まで来て、挨拶しないというのは何とも義理を欠く。

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街は小さいのだが、完全に道を忘れてしまっていた。前回来たのは1年半前であり、且つ基本的に張さんの家と製茶場を行き来するだけだったので、街全体を掴めていなかった。目印のホテルを見つけ、そこを頼りに行くが迷路のようになってしまった。昔はもっと覚えがよかったし、方向感覚もよかったなどと言っても始まらない。一人なら何でもよいが、Tさんも一緒だから申し訳ない。今回の旅はTさんの旅に付いていくはずだったのに、いつの間にか私が案内する羽目に陥っている。

 

3人に聞いてようやく張家に着いた。何しろこの辺の苗字は皆張なのだから始末に悪い。家に行くとすでに安飛から連絡がいっていたようで、皆が、そら来た、という顔をした。この家を訪ねるのも4回目である。中でも香港の高さんがちょうど昨日こちらに来たばかりで、嬉しい再会となる。早速お茶を飲む。張さんは『天気が悪いので、鉄観音の秋茶はない』ときっぱり。確かにこの天気では本来茶は作れない。春茶の残りを頂くが、何となく渋みを感じる。

 

それからやはり製茶場へ行こうということになり、張さんと3人で向かう。Tさんにとっては初めての場所だが、その良さは分ってもらえたのではないだろうか。しかしやはり茶を作っている方が更に良いには違いない。今は静かな山村の秋、しかも小雨が降る中で、風情はあるが、茶の香りが欲しい。

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昼時になり、家に戻ると、高さんと妹がいつものように枝取りをしていた。これまでに作った黄金桂や本山茶の枝を取って香港に持って帰る。それを売るのが高さんの仕事だが、その商品はあまりにも少なく、ちょっとと心配だ。主力商品が天候次第というのは、何とも心もとない。

 

ご飯を頂く。何しろ私はここのご飯が大好きなので、嬉しい限りだ。何と寒いから、というので、自家製の酒をご飯にかけて食べている。Tさんも美味いと言っているが、私はダメだ。『私はやはり地瓜がいい』とわがままを言う。夕飯は地瓜が用意されることになる。いつもこの時期は茶作りの真っ最中でおちおちご飯など食べていられないのだが、この雨でゆっくり食べる。張さんもすでに70歳、そろそろ引退すべきかもしれない。顔を見れば、茶作りの重圧から解放されており、雨なのに何とも晴れやかだ。

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することもないので、小雨ながら洗濯することにした。安飛の家には洗濯機があるというのでそちらへ出掛ける。彼はセメント関係の仕事で結構儲けており、副業で茶も売っているから、かなり裕福で、家も立派だ。張さんの長女が奥さんであり、雰囲気が似ている。洗濯中色々な茶を飲ませてもらいながら過ごす。

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夕方になるとまた張家へ出掛けて行き、ご飯を頂く。この辺には食堂などもあまりなく、有っても塩気が強いようなので、ずうずうしくも張家のご飯に頼ることになった。蒸かした地瓜は甘くてうまかった。Tさんは京都出身だが、蒸かしイモは食べたことがない、という。私の家では普通だったのだが、それでもここの地瓜が美味い。小雨の中、トボトボと宿に戻り、粛々と寝る。

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1010日(月)
今日も雨

翌朝も残念ながら雨だった。これでは洗濯物も乾かない。もう大坪にいても仕方がないので、早く厦門へ戻り、更には広東に転身すべきではないかと思ったが、カメラマンはそうは考えない。じっくり腰を落ち着けている。『こんなことを想定して予備日を設けています』というのだ。昨年から今年の初めに下川さんと行った旅とは大違いだ。彼なら今頃広州で歩き回っているだろう。

 

宿の朝ご飯を断り、張家に粥を食べに行く。この朝粥も楽しみに一つだ。まあ日本でいう芋粥だが、なぜかとても美味しい。甘みがあるからだろうか。だが今朝は白粥だった。そして以前はあった野菜の炒め物などもない。何故無いのかと聞くと『雨だから』と一言。農家では雨の日はおかずはなし、というが普通だというのだ。晴れたら畑で野菜を採って食べる。雨が降ったらある物だけで食べる。それは実に自然な生活だろう。

 

 

何となく街をぶらつくが特に何もない。部屋へ帰ってネットでもやるしか仕方がない。そしてまた昼飯を食いに張家へ。今度は炊き込みご飯と鶏のスープ。寒い時はこれで体を温めるという。本当に天候により、食事が変わる。これは香港で体験したことだったが、昔は中国中どこでもそうだったのだろう。そしてまたお茶を飲む。梅記からもらったお茶も飲んでみる。でもやはり茶農家は自分のお茶しか飲まないものだ。

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雨が小降りになってきた。ついに我慢しきれなくなったTさんは外へ飛び出す。小高い丘の上を目指して歩く。大坪全体を写真に収められる場所を探している。西坪と違い、茶畑が密集している大坪では、その場所は見付かったのだが、光線が足りないといい、もう一日粘ってみるという。ある意味ですごい執念だ。もっと光を、という気持ちが出ている。果たして明日は晴れるのだろうか。

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午後は少し歩きまわって腹が減った。やはり夜も地瓜だった。私はこれがあればもう十分だ。そして体が軽くなっていく感覚は、以前ここに泊まった時と何ら変わらない。この胃腸にやさしい、塩分・脂分も控えめの食べ物のみを食べていれば、病気にはならないように思う。そして夜も早く休み、朝は早く起きる。それだけで十分に健康になれる。

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福建・広東 大茶旅2016(6)南岩村の王家

107日(土)
南岩村

翌朝は何となく早く起きた。外では鳥が鳴いている。晴れてはいないが、何とも涼やかな朝だ。散歩したくなり、歩き出したが、茶工場を見ると、既に人が動いていた。昨晩萎凋した茶葉を確かめている。天気が悪いので乾燥が足りないようだ。まずは朝ご飯を食べる。やはりお粥だ。これは何とも体に良い。

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食後、近くの家へ行く。ここは王家の祖先が建てた楼で、泰山楼と名付けられ、福建省の重要文化財にも指定されている。普通は中に入れないのだが、何しろ王家の持ち物だから、鍵を開ける。鍵を預けているのは王家のおばあさんらしい。この辺は殆どが王姓で同族かと思われる。

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泰山楼に入ると非常に保存状態がよい。これならここに泊まれるのではないかと思うほどだ。とても100年を超えた建物とは思えない。製茶道具もそのまま置かれており、すぐにでも茶葉が運ばれてきそうな感じだ。そのうち、政府の許可を取り、一般開放することも考えているというから、その時は切符切りとして雇ってほしいと訴える。

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本家の横にも建物があった。こちらは親せきの誰かが使っているらしい。中には圧茶機(茶葉圧揉成型機)と呼ばれる製茶機械が置かれていた。実はこの機械、安渓政府が一時は推奨したらしいが、品質を著しく損なうとのことで、103日に使用禁止命令が出たといういわく付。この機械を使えば、面倒な作業を一気に終えることができるということで、かなりの農家が実際に使っているらしい。

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なぜ鉄観音茶があれほど緑緑しているのか、その秘密はここにあるのかもしれないが、梅記では使っていないので、その実態は分らない。台湾にいたUさんからも、安渓にいるのならぜひ調べて欲しいと連絡が来たが、調べようもない。恐らくは地元の人も口を閉ざすだけだろう。この機械自体が台湾にも流れていることがある意味で衝撃的だった。台湾ではその形状から豆腐機と言われているらしい。

 

鉄観音茶の始まりは、1736年、王家の祖先、王士譲が作り始めたとある。ベトナムやインドネシアに渡った王家の一族は次々に各地で茶荘を開いたともある。そして1876年に厦門に梅記が店を出したようだが、その経緯については触れられていない。1884年にこの地で布を使った球型の製法が開発され、のちに台湾に渡ることになる。

 

この村の外れまで歩いて行くと、大きな木がある。確かに数百年の昔、この地にすでに人がおり、茶作りをしていたことを思わせる。周囲にも立派な家屋がぽつぽつと建てられているが、その多くは後になって再建されたものだという。その間、色々な困難があったことを窺わせる。昼ご飯をまた美味しく頂く。何となく冷えてきたので、大根の入ったスープが暖かい。

 

食後すぐに、茶工場へ走る。既に殺青から揉捻の作業が始まっていた。殺青機の管理をしているのはまだ子供だった。子供の時からこのような体験をすることは実に貴重だ。将来が楽しみ。揉捻機も年代物の木製。おじさんが一生懸命力を込めて動かしている、かと思ったが、電線を繋げば自動になっていた。そして熱々の茶葉を布で来るものだが、このあたりも機械化されている。ただ5代目がやはりデモンストレーションということで、手作業を披露してくれた。実に力のいる作業で、往時の製茶の大変さがよくわかる。

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茶畑へ

車で茶畑へ向かった。明日は雨との予報であり、皆急いで摘んでいるらしい。車で村を通り抜けたが、10月初めの秋茶シーズンにも拘らず、茶葉の香りがしてこない。茶葉を干しているところも殆どない。僅かに家の屋上で茶葉を干している風景が見られたが、私がよくいく安渓大坪とはずいぶんと雰囲気が異なる。

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900mぐらいの高さまで登ると、その斜面には茶畑があった。よくよく見ると数人が手で茶葉を摘んでいる。ここも大坪とは違い、茶樹が一面に生えている訳でもなく、茶摘みもひっそりと行われていた。地元のおばさんたちに混ざって若い子も茶葉を摘んでいたが、茶袋が一杯になっても、上に持っていくことができない。相当に急な坂であり、手伝いに入った私まで転げそうになる。

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茶葉はバイクで取りに来て、どんどん運ばれていく。我々は湯を沸かし、茶畑を眺めながら、茶を飲んだ。こういう場所で飲む茶が最高に美味い。水も美味い。しばし余韻に浸っていたが、茶葉を摘む方はそんな余裕もなく、次々に茶葉を運び込んでいく。ただこの場所で茶摘みをしているのは数人だけであり、やはり西坪の茶畑減少は本当のようだった。

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帰りにこの村にある鉄観音茶発祥の地を見に行く。石碑があり、廟がある。その母樹も大きく囲われていたが、既に枯れそうな感じだった。さらに下がっていくと、建物が一塊になっているところが見えた。日塞、と聞こえ、堯陽という地名も出てきた。堯陽と言えば、香港に堯陽茶行という名の茶荘があるね、と何気なく言うと、王さんが『あそこが堯陽茶行の故郷さ』というから驚いた。

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まるで城のように囲われている。往時茶業は儲かっていたが、盗賊も出没するので、一族で固まって住んでいたようだ。もう一つ月塞という場所は、実際に入ることができたので、ちょっと見学してみたが、石垣もあり、まさに一つの村が固まっている城の感じだった。タイで茶荘を開いた一族の写真などもあり、この辺の村から華僑が沢山出た、そして茶を持って行ったことも窺われる。近所の人がお茶飲んでけ、と誘ってくれたのが、嬉しかった。

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更に本山という品種もここが発祥の地であり、その記念碑も見た。何とも色々とある村であり、それだけの深い背景がある。帰り着くと暗くなり、また美味しい夕ご飯をたらふく頂き、そして飽きるまでお茶を飲んだ。こんな幸せな生活があるなんて、と思わず涙する!

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福建・広東 大茶旅2016(5)安渓西坪は鉄観音茶発祥の地

西坪へ

それから市場の外を少し散策した。どこの茶荘も枝取り作業に大忙しで、小学生や中学生も国慶節休みにこの作業に駆り出されている。小学生に聞くと『枝取りは大嫌い』と言いながらも、手を動かしている。皆が休みでどこかへ旅行にでも言っている時期に、家の手伝いとはさぞ辛いだろう。でもそれがカメラマンにとっては、とても良い風景になるのだ。

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市場の向こうには川が流れている。結構大きい。ちょうどモーター船が音を立てて近づいてくる。往時、鉄観音茶はこの川を下り、厦門へ運ばれていたのだな、とその余韻に浸った。だが後で聞いてみると、この川は水深が浅く、茶葉の運搬には使われなかったらしい。基本は陸路だそうだ。

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王さんが茶都へ迎えに来てくれた。宿に荷物を取りに行き、ついに茶産地へ向かう。安渓西坪、と言えば、鉄観音茶の故郷。初めて足を踏み入れる喜びが沸いてくる。安渓の街から30分ほどで西坪に到着する。まずは観光用に建てられた記念碑の写真を撮る。『鉄観音茶発源地』だ。

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それから西坪の街に入る。文革時代からあまり変化していないのではないかと思われ、古き良き雰囲気が随所に残っていて好ましい。80年代まではここに茶葉市場があり、活発な茶葉取引が行われていたが、茶都が出来るなど、徐々に安渓に移ってしまったという。茶葉市場は今や野菜市場に代わっている。道には『茶葉市場』という表記があるのが、何となく名残だ。

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昔は茶葉の輸出を執り行う中茶の支店もここにあった。往時、茶葉の買付は西坪が中心だった。茶葉の多くは香港をはじめ、東南アジアや日本へも輸出されていた。近くの茶荘でちょうど子供が枝取りをしていたその台に使っていたのは、当時茶葉を輸出為に使った茶箱だったのがそれをさりげなく証明していた。

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昼ごはんはここで食べた。沙茶麺、この沙茶を現地語でサーデー、と読む。マレーシアあたりにあるサテーから来ているという。味もピーナッツ風味で、そのような味がする。マレーシアやインドネシアへ移住した華僑はここ安渓からも沢山出た。彼らが後に持ち帰った味というがどうだろうか。具は揚げ豆腐、豚もつ、肉、油条に魚のつみれなどを個別に頼むのだが、王さんが店に全部載せを注文してくれたので、碗に一杯になる。

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因みに私は一番関心を持ったのは、その美味しさではなく、茶を閩南語でデーと発音すること。勿論は発音は知っていたが、それを目で感じることができるのは幸いだ。ティーの語源はこの閩南語であり、広東語のチャと共に、世界を二分したとすれば誠に面白い。Tさんからも『ティーの語源をビジュアルに撮れるものを』と注文を受けていたので、これがピッタリな気がした。

 

西坪には、先ほどの記念碑は別として、鉄観音茶の母樹とその記念碑があるという。山の中で王さんが車を停めた。そして山の上を指して、ここを登れ、というので、Tさんと王さんのアシスタントの女性と3人で登った。だが上には廟があり、更にその上の険しい藪の中には鉄観音と彫られた岩を見つけたが、茶樹はなかった。王さんに電話すると『茶樹は下だ』というので驚く。

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まずは廟に挨拶してから入るのが礼儀のようだが、かなり疲れた。更に今度は下に向かって山道をかなり降りた。本当にこんなところに何かあるのかというところまで来て、やっと記念碑と茶樹を発見。まあ、ここまで来るのはよほどのお茶好きだけだろうな。最近はトレッキングもブームのようだから、意外とニーズはあるのかもしれない。ちょうど雨が降り出し、急いで車に戻る。

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梅記

今日の目的地、梅記の茶工場がある、南岩村へ着いた。何とも言えない田舎だが、こんなところが今や望ましい場所だ。その中にかなり大きな工場があるので目を惹く。更に家はかなり立派な4階建て。我々はここの4階に新しく作られたゲストルームに泊めてもらった。何ともきれいな部屋で驚く。

 

早々にお茶を頂く。相当に古い老鉄観音茶が沢山その辺に転がっていて、目移りする。非常に濃厚な香りと味わいがあり、私の好みである。棚にあった紙に包まれた茶、南厳鉄観音という文字を見て、思わず懐かしくなる。昔香港の茶荘には、この名称のお茶があり、その味わいが、今日飲んだ味にかなり近かった。ここにあるお茶も昔は香港に輸出するためのものだったのだろう。文字も繁体字だ。

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この家には一体何人住んでいるのだろうか。夕方、皆が集まり出し、食事の準備が始まる。何とも言えない昔風の料理。地元の野菜やキノコが使われ、自家製豆腐が登場する。外は雨が降り、ちょっと冷えるというので、体を温める料理になっているようだ。有り難く頂く。大勢で食べる食事はまた格別だ。子供はその辺を走り回り、おじさんは立ってご飯をかき込む。農家の食事。実は小学生は街の学校に行っており、週末に帰省していたのだ。僅かの間、親に甘え、自宅を満喫している様子は微笑ましくもあり、また何となく物悲しくもある。

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夜は製茶作業の見学。今日摘んだ茶葉が萎凋されていた。王さんのおじさんに当たる5代目、そしてその息子の6代目が製茶を担っている。王さんの役目は厦門での販売だった。茶葉を揺青の機械に入れて、揺らしている。5代目が『昔はこうやったんだ』と言いながら、天井から吊るされた綱に笊を結わえて、茶葉を入れて揺すって見せてくれた。今ではもうできる人もいないという、大変な作業だった。夜が更けるまでまたお茶を飲み、ぐっすり休んだ。

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福建・広東 大茶旅2016(4)安渓茶葉市場 茶都で

入口まで来たところで急に雨が止み、空が明るくなったのは日頃の行いのせいだろうか。しかし今さら引き返せない。ここから街まではバスが出ているというので、その到着を待つ。バスはミニバスで乗客は数人。その中に若い女子が4人いたが、何と彼らから日本語が飛び出してきて驚いた。福州師範大学の日本語学科の学生だという。ちょうど国慶節休みで、故郷に戻ってきたらしい。一緒についてきた友達を観光案内中とか。それにしてもまさかここで日本語とは、恐れ入る。

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彼女らは途中で降りて行き、我々は安渓のバスターミナルまで連れていかれた。見るとその近くには茶葉市場があるではないか。だがここは明日の朝、見に来ることになっているので、ちょっと覗いてすぐに歩き出す。すると向こうから葬式の行列がやってくるではないか。車が何台も連なり、広場で停車した。楽隊が列をなして音楽を奏でている。

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親族が亡骸の入った棺に向かって跪く。何とその横では数人の泣き女がマイクを通して泣いている。これは台湾では見たことがある光景だが、中国大陸では初めてだった。やがて棺は火葬場へ運ばれて行き、一連の儀式は終了。泣き女たちも三々五々帰って行った。中国でも昔の伝統的な葬儀が復活しているらしい。

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腹が減ってきたが、ちょうどよい食堂もなく、Tさんがもう一つの観光地へ行くというので、それに従う。バスで行けるということだったが、その番号のバスが来ても停まってくれない。適当だと思っていたが、ちゃんとバス停があるのかもしれない。よくわからないところへバイクのおじさんが声を掛けてきたので、何と2人で一台のバイクに乗り込む。かなり危険な感じ。

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10分ぐらい乗って行くと、そこから山道に入るらしい。ただバイクはそこまでしか行かないというので降りる。そして食堂に入りTさんの大好きな内臓系の炒め物を食べる。私も大好きなので、この点は大いに助かる。それから歩いて坂を上る。その途中で、板に文字を書いている人に出会った。彼は我々を招いてお茶を飲んでいけ、という。聞けば、ここの環境がよいので移り住んだ人だった。

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坂を登りきるとそこ廟がある。かなり立派だ。シンガポール華僑が資金を出して再建したらしい。その横を見ると、土砂崩れの跡があった。先日50年ぶりという大型台風が厦門を直撃したのだが、安渓でも被害がかなりあったということだ。更にその上に登っていくと、お目当ての大観園がある。ここには鉄観音など種類の茶樹が植わっていたが、特に見るべきものもなかった。

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この山の上から安渓の街を一望したいと思い、バイタクのおじさんと交渉して、バイクの後ろに乗る。だがやはり台風の影響か、道は途中で閉鎖されており、バイクでも通れなかった。まさにどうしようもなく、さりとてただ戻るのも何なので、街中まで乗せて行ってもらい、決めた料金の半額を払った。

 

バイクを降りたところは文廟だった。文廟自体も比較的新しいが、その背景になっているビル群を見ると、何とも現代中国を思わせる。その周囲は公園になっている。テーブルではトランプに興じている人々がおり、かなり熱が入っていた。これまた現代中国だ。バスを探してホテルへ帰る。

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Tさんと別れて行動する。私は古い携帯の電池を買いに行く。だがなかなか見つからない。今やスマホ全盛の時代に10年前のノキア携帯の電池など、この田舎町でも使う人はいないだろう。2-3店に入ったが、電池はあっても型が合わない。最終的に比較的大きな携帯ショップへ行くと、若い店員が『これならありますよ』といってどこかへ消えた。何と別の店から買ってきて、売ってくれたのだ。これぞ中国だ。ついでにシムカードにお金を追加した。これで任務完了だ。

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夕飯は麺がよいというので、サクッと麵を食べたのだが、やはりTさんには物足りなかったようで、昨晩行った王さんの親戚の食堂へ行き、チャーハンを頼んだ。これは私には多過ぎたのだが、胃袋は確実に大きくなっており、食べるのを止めることができなかった。腹が張った状態で眠る。

 

106日(金)
茶都で

翌朝は早く起きて、朝ご飯を食べ、王さんの到着を待つ。だが王さんはなかなかやって来ない。連絡してもらったところ、Tさんとの間に行き違いがあり、今朝は我々だけで行くことになる。さてどうしたものか。またバイタクのお世話になり、昨日も行った茶都市場へ向かう。

 

昨日は昼間だったが、朝は格段に動きが違った。茶葉がどんどん運び込まれてくる。そして市場内は凄い熱気であり、茶葉を入れた袋がそこかしこに置かれ、そこで激しい価格交渉が行われていた。茶農家の女性と仲買の茶商がつかみ合わんばかりに、格闘している。その横では袋に手を突っ込んだおじさんが、茶葉を掴んで走り出す。向かう先は評茶場。ここは1元払えば、湯がもらえ、そこに転がっている茶碗と茶杯で試しのみをする場だが、その光景は何とも壮観だった。

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カメラマンのTさんも躍動する。こういう迫力がある写真が撮りたかったという。といいながら、売り手の女性なども撮っている。しかし横で交渉価格を聞いてびっくり。何と1斤、500g20-25元だった。いくら卸市場とはいえ、農家直販とはいえ、これでは車代も出ないのではないかと心配してしまうが、若い子たちは売り終ると楽しそうにおしゃべりしたり、ご飯を食べたりで、全く意に介していなかった。

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1階と2階には茶商が店を構えている。そこに入ってみると、新疆や東北など中国全土から茶商が買い付けに来ている。ここに運ばれ茶葉は、真ん中の場に出ている茶葉よりは、かなり質が良い。更に質が良いものは、茶農家に直接買い付けに行くらしい。茶葉にも色々と階層がある。それにしても鉄観音茶の緑緑した様子には、正直残念な気持ちしかない。

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福建・広東 大茶旅2016(3)厦門から安渓へ

2. 厦門
空港で

厦門空港は小さな空港だった。これも分ってはいたが、今日は東京から飛んで来るTさんとここで待ち合わせ。まだ到着まで1時間以上あったので、ランチを食べようと思ったが、中国の空港はどこも非常に高い。昨日食べた蘭州ラーメンがセットとはいえ、50元もするのには驚くしかない。私は大人しくマックでネットをしながら食べた。それでも30元、日本並みだな。マックを食べる機会は、こんな時しかない。

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Tさんが出てくるのを待っていると、ちょうどKFCの横に座る所があり、助かった。Tさんは空港で所要があり、私は彼の荷物を見ている必要があったので、そこに座り、今回Tさんが紹介された梅記という老舗のお茶屋さんの王さんと待ち合わせしていた。梅記は安渓、西坪で古くから鉄観音茶を作っており、厦門に店を出したのは1875年というから確かに古い。

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その王さんは6代目でまだ30歳と若い。彼の迎えで車に乗り込み、まずは市内にある梅記の店へ行ってみる。市内中心部にあるその店はかなり立派な作りだった。早々に出された鉄観音は10年物だと言い、その間一度も火を入れていない。飲んでみると昔の風味を感じさせる作りだった。今や安渓でも鉄観音といえば軽い、青いものが主流であり、このような濃厚な風味にはなかなか出会えない。茶芸を披露するスタッフの動作もよい。

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Tさんは早速撮影を開始した。当たり前ではあるが、本格的な撮影というには自然さというものがない。ただ一番良い写真を撮るために努力するものであり、店側もよい写真が公開されることにより、良い影響を期待する。まあ、なにより、お茶の良さを消費者に伝えるためには、どうしてもきれいな写真が必要だ、人の目を惹く必要がある、ということだが、私個人としては、もっと自然な光景があってもよいかと思った。

 

Tさんは更に、『厦門の街角でお茶を飲んでいる市井の人々を写真に収めたい』という。確かに15年以上前に厦門に来た時は、街中至る所で小さなテーブルを出して、小型ガスボンベを置き、お茶を啜っていた。だがそんな光景も今やなかなか見られない。そうこういっていると、何と店の前で、短パン、サンダル姿のおじさん数人がお茶を飲んでいるではないか。まるで仕組んだように店の前だけに彼らはいた。『他の場所は断られるが、ここはテーブルを出しても文句を言わないから』という理由だった。

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当然Tさんは大喜びで飛び出していく。我々もちょっと懐かしいものを見た思いでこの光景を眺めたが、写真を撮っているとやはり違和感がある。勿論これは事実であり、何らの問題もないのだが、この写真を見た人は『厦門には今でも日常的にこんな光景がある』と思ってしまうのではないだろうか。そんな心配をする必要など何処にもないのだが、ちょっと気になっている。

 

3. 安渓

王さんの車で安渓へ向かった。私はこれまで何度か安渓を訪れてはいるが、殆どが大坪という一地域だけであり、安渓全体を全く知らない。今回はまず安渓の街に泊まり、更に西坪という場所で製茶を見る予定だから、ワクワクする。既に周囲は暗くなっていた。大体車で1時間半ほどすると、安渓の街が見えてきた。

 

車は何となく立派な敷地のホテルに入った。きっと90年頃には街一番の宿だったに違ない。外国人、主に華僑だろうが、彼らが泊まるために作られたように思える。そのホテルが今晩の宿だった。何と1部屋、178元。かなり古いが部屋は広く快適。ただし、上の方の階は殆どがカラオケルームとして使われており、我々が泊まった2階も一部はオフィスだった。既にこのようなホテルは流行らなくなっている。

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夕飯はホテルの前の食堂へ。王さんの親戚が経営しており、何でも言うとおりにやってくれる。辛い煮鴨は美味かったが、あまり食べると腹にこたえる。豆腐もいい味を出していた。こんなことを言ってはなんだが、素朴な田舎料理が一番だ。Tさんは若いので、相当量を食べている。昔は私もそうだっただろうか。食事が終わると王さんは厦門へ帰って行った。明日は我々自身で行動しなければならない。

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105日(木)
安渓観光

翌朝はホテルで朝ご飯を食べると観光に出掛けた。私は観光には興味がないのだが、Tさんの仕事についていく。白タクを拾い、山の上にある清水岩という場所に向かう。ここには清水祖師という大きな座像がある。この山の開祖らしい。そこから徐々に登っていくと、緑も濃くなり、古道の雰囲気も出てくる。

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遠くに廟が見える。意外にも多くの人が参拝に訪れていた。地元の人もいるが、シンガポールなどの華僑が里帰りしているようだった。安渓は華僑の一大出生地であり、シンガポールやマレーシアに渡った人が多いという。皆熱心に祈りを捧げている。日本ではあまり見ないほど熱が入っている。中国における仏教信仰の一端を見る。

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ちょうど間の悪いことに雨が降り出してきた。こうなると動きが取れない。廟の全景を撮りたいTさんは雨の中を反対側の上まで移動した。確かにここからは良く見えたが、彼が欲しい光がなかった。ひたすら雨が止むのを待ったが、その気配はなく、諦めて山を下りることにした。

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福建・広東 大茶旅2016(2)元泰の茶畑

103日(火)
永泰基地へ

翌朝はゆっくり起きる。10時に福州を出発して、魏さんが最近作ったという自前の茶畑を見学しに行く。だが魏さんは朝から忙しい。私は紅茶屋で紅茶を飲みながらゆっくりと待つ。中国の紅茶、こんなに種類があるとはびっくりだ。この店だけでも20種類近くを扱っている。中国は紅茶発祥の地、だが中国人はあまり紅茶に関心を払ってこなかった。

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2008年頃に始まる金駿眉ブームがそれを一変させた。今では中国各地の古い産地がこぞって紅茶の復活を計っている。昔は輸出用だったが、これからは中国人向けの紅茶、当然味も違ってくるのだろう。魏さんも紅茶を扱う中で、自らの紅茶を作りたいという希望が芽生えてきたようだ。

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魏さんと車に乗り、出発。1時間ぐらい走っただろうか。山の中で突然車が停まる。何と通行止めになっていた。先日の台風の影響か、土砂崩れの危険があるというので、先月末に通行止めになったと看板が出ている。せっかくここまで来たのに、今回はご縁がなかったのだろうか。何とも残念だが、これ以上前へは進めず、引き返す。

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仕方なく、新安という街へ行く。ここには古い街並みが残っており、観光用に改修した模様だ。国慶節休みでもあり、近隣から観光客が訪れていた。何とここに魏さんの店の支店があった。だがまさかオーナーが突然来ると思っていなかった店員は、このかき入れ時の連休にも拘らず、まだ店を開けていなかった。中国人を使うというのは中国人でも難しいものだとつくづく感じる。

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ここで昼ご飯として麺を食べたのだが、麺もスープも実に美味しかった。東北地方からやってきた夫妻もここで合流した。政府の役人とも数人すれ違った。地元民によると、別ルートを通れば、茶畑へ行けることが分かり、ホッとした。店で少しお茶を飲み、再度気を取り直して出掛けた。今度の道は順調に進んでいたが、最後に村の小さな道に入った所で、何やらやっていた。トラックが停まっていて、通行できない。今日はなんて不運な日なのだろうか。

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20分後に何とか通り抜け、いよいよ永泰の茶畑に着いた。まずは茶工場に入る。立派な工場だった。3年前に張老師がここを訪れた際の写真が大きく飾られていた。表には『張天福有機茶示範基地』とも表示されていた。ここは魏さんが作りたかったというより、実は張老師が作りたかった茶畑を実現したところのようだ。空気がよく、土壌がよく、そして以前は茶畑ではなかった場所で、一から茶樹を植えて紅茶を作る。なるほど。

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茶畑は小高い丘の上にあり、周囲の眺めはよかった。ここには沢山の品種が植えられており、まるで実験場のようになっていた。金牡丹や金観音など、あまり見たことがない品種が並んでいた。鉄観音と他種の交配により作られた新しい品種らしい。これらの茶葉を使い、新しい試みをしているようだ。それにしても眺めがよい。午後の風も心地よい。周囲を見渡す限り、民家はない。下っていくと池があり、水も豊富だった。ただヤギが大声で鳴いているのが、何とも滑稽だが。

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すでに日が傾いてきており、長居はできなかった。帰りに大きな看板が目に入る。張老師が大きく写っていた。この茶畑が、そしてここで作られたお茶が張老師の夢を叶えたものであると言ってよいかどうかはわからないが、ともかく魏さんとの師弟愛が感じられて美しい。最晩年までお茶とのかかわりを続ける、それは幸せな茶葉人生ということだろう。

 

さっき通行止めになっていた村の道、実は仏像が運び込まれていたようだ。魏さんはクリスチャンだが、このようなことには敏感であり、通行止めでもないのに車を降りて、手を合わせている。この辺がとても好感が持てる所だ。確かに得難い体験だったと言えよう。山に夕日が落ちていく。それからは順調に福州に戻った。ご利益があったのだろうか。

 

夜は魏さんと2人で蘭州ラーメンを食べる。実はこんな夕食が嬉しい。企業オーナーである魏さんだが、実に素朴で気さく。ラーメンをすする姿が微笑ましい。体調が悪いのに私に付き合ってくれて、何とも有り難い。紅茶屋に戻り、今晩もまたお茶好きが集まる中で楽しくお茶を飲んだ。

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104日(水)
厦門へ

今日は厦門へ移動する。タクシーで福州駅へ向かうが、連休中のせいか空いている。高速鉄道の切符は前日街で購入済みだった。連休といっても、昔のようなな凄い混み方はしないようだ。駅の混雑も普段より少し多い程度。列車内はさすがに満員だが、無座はないので、混んでいる感じはしない。

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2時間で厦門北駅に到着する。ここは半年前も通ったので、寝て過ごす。厦門北駅はさすがに混んでいた。市内に向かうバス乗り場はチケットを買う人で大混雑。私はそれを横目に空港バスを探す。駅と空港を結ぶシャトルバス、これも経験済みなので慌てることはない。市内に近い空港へ向かう途中、集美の街がよく見えた。