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中国鉄道縦断の旅2015(1)雪の昆明で混迷?

【中国鉄道縦断の旅2015】 20151215-28

 

7月に練習のつもりで参加したミャンマー縦断鉄道の旅。そのすごさ、しんどさ、半端なかった。最後はリタイアの憂き目にあい、数日は立つことも出来なかった。そんな経験をバネに本番、『万里茶路』のルートに挑む。今回は中国の雲南省から内モンゴルまで。南国から極寒の地まで、しかもやはり鉄道縛りだ。

 

既に異変は出発前から起こっていた。予約していた羽田北京線。朝便はなぜか欠航になり、午後に。しかもエアチャイナのWEBチェックインはどこかおかしく、結局できない。何かが起こっていた。しかしサイは投げられてしまった。もう後戻りはできない。思い出したくもない地獄の旅の始まりだった。

 

1215日(火)
1. 北京経由で昆明へ
昆明まで

まずはこの旅の掟である前回終了地点からスタート、に沿って、前回の最後、ミャンマーと中国の国境へ向かう。もうこれだけでも普通の人にとっては大変な旅だと思うが、中国側の国境瑞麗まで行くのは、本番ではなく、ただの移動なのだ。そのためにエアチャイナで昆明を目指す。

 

爆買いの中国人がいた。北京行午後便、我々が乗り込んだ頃は空席がかなりあったが、後から後から中国人観光客が大きな袋やバッグを抱えて入って来た。それを収納場所へ押し込むのだが、どう見ても無理だと分かるほどすごかった。CAさんも普段はサービスと言う概念を知らないのかと思っていたが、この時ばかりは総出で場所を探し、荷物を収納していく。これもまた呆気にとられるサービス対応だった。

 

だがそれも限界がくる。私の横に乗客が来た時、全てのスペースは埋まっていた。すると彼女、ブランド品の袋を足の下へ押し込んでいく。そしてついに、私の足の下にまで突っ込んできた。さすがに拒否した。恐ろしいまでの執念が感じられた。爆買いは日本を潤しているのだろうか、中国が黙っている訳はないと感じた。

 

飛行機が何とか飛び立つと、数人が通路に荷物を投げ出す。そうか、足の下は一時的な対応だったか。トイレに行くにも荷物が邪魔で動けない。機内サービスが来るとまたひっこめる。対応は機敏だった。食欲もないほど圧倒された。横の女性は寝ていたのだが、起き上がって機内食の蕎麦だけもらっている。中国人も慣れたものだ。私も真似してしまう。

 

 

何とかほぼ定刻に北京空港に到着。入国して荷物を受け取り、トランスファーカウンターを通る。だが国内線の荷物検査は長蛇の列。どうして国際線からのトランスファー組を別の通路にしてくれないのと思ってみても仕方がない。結構消耗する。北京空港は人が多過ぎる。

 

北京昆明間は順調だったが、それでも到着は夜中の1時。昆明空港はきれいになっていたが、広くなりすぎて、いくら歩いても到着ロビーに着かない。驚く。南国雲南省に来たつもりだったが、なんと東京を出る時に着ていたダウンジャケットがそのまま必要だった。寒いのだ。

 

この時間は空港バスもないので、タクシーに乗る。以前なら白タクしかいなかったのに、今や夜中でも、ちゃんとメータータクシーが走っている。素晴らしい。ところで行先は?S氏は到着地のホテルを決めない主義だ。それが例えば夜中到着であってもだ。どこへ行くんだ。

 

取り敢えず鉄道駅まで、と告げる。夜中2時前、駅に着いたが、何と駅は閉まっていて入れない。夜行便すら終わっている。どうするんだ、この寒い中。『宿でも探すか』となったが、駅前ホテルの2軒に断られる。パスポートでは泊まれないというのだ。満員だと言ったところもある。そしてついに立派そうなホテルで、3人部屋、320元の広い部屋を確保して入ったのは、3時前。何はともあれ、ベッドに潜り込んだ。それにしても夜中は本当に寒かった。暖房もなく、何と窓が開いているのに気が付かなかった。

 

1216日(水)
2. 瑞麗へ
瑞麗行きのバスに乗るも

8時、起きてたまげた。何と雪がパラパラと降っている。えー、12月とは言え南だろう、と言っても始まらない。ホテルの朝食も何となく冷えている。すでに心が萎えている。こんな日はどうするんだろうか。それでも外に出た。そしてどうやったら瑞麗に行けるのかの調査が始まった。普通はそれを調べて上で来ると思うのだが、この旅にはそんなものはない。全てが現地対応だ。

 

駅前を歩いていると、バスターミナルのようなものがあった。チケット売り場があるのかと覗き込むと、カメラマンのNさんが『ここから瑞麗まで直行バスがあるようだ』と言い、一人の切符売りと話し始める。9時には出るから、乗るならすぐ来い、と言われ、ホテルに戻って荷物をまとめ、慌てて取って返した。

 

そこは商店の前だった。男達がたき火をしている。それほどに寒い。そこで待っていると、ミニバスがやってきて、乗客が乗り込む。ぎゅうぎゅう詰めだ。中国人のおばさんは『これはバスターミナルへ行くのか』と叫び、納得できずに降りて行った。そう、今や中国人でも騙される危険があり、誰を信じてよいか分らない。だが我々にとってはこんな旅が欲しいので、そのまま揺られていく。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(9)漢口のロシア人茶工場

そして更に行くと、ちょっとおしゃれな建物が見えた。中を覗くと普通に人が住んでいる。ここがあの順豊茶廠を作ったリビノフの屋敷跡だというのだ。建造年は1902年、リビノフが巨万の富を築いた晩年に当たるのだろうか。説明によれば、1917年のロシア革命までここに住み、その後一家はアメリカに亡命したらしい。リビノフの孫が1990年代に武漢を訪れ、昔の住まいを探したのだという。この建物も知らなければ通り過ぎてしまうもの。

 

この辺は租界が入り組んでいるのか、その横にはフランス人の屋敷跡もあった。そしてY字路に建っている建物が残っていた。ここが巴公房子と呼ばれたバノフハウスであった。バノフはロシア皇帝の親戚とも言われ、ロシア領事館の領事をしていたこともあるという有力者。その建物は独特だが、中の傷みは激しかった。

 

 

ついにロシア人が建てた茶工場、順豊茶廠の跡にまで辿り着いた。改修中で外からではプレートすら見えない。ほぼ間違いなく地元の人、専門に研究している人しか分らない場所だ。昔は大工場だったが、現在はその後方部のごく一部が残っているのみ。ここで茶を作り、そのまま前の道を渡って港へ運び込んでいたらしい。羊楼洞だけでなく、漢口にも茶工場を作ったリビノフ、どんな人物だったのだろうか。

 

ロシア租界には往時5つの茶工場があったというが、新泰茶廠の建物もあった。だがよく見てみると比較的新しい。1920年代に建て直されたもので、新泰大楼と書かれていたが、茶工場の跡ではなく、オフィスにしか見えない。それを話すと劉先生が『新泰の茶工場もあるよ』というではないか。その横の建物、一部の壁が非常に古い。そして道の反対側から建物に入ると、そこは地下道のように暗い。茶葉が運ばれた通路だった。

 

その奥にも小部屋のようなところが見える。その横から光が漏れていた。何と建物の中央部に出ると急に眩しい。現代的なショップ、レストランがそこに並んでいた。この建物は若者により、観光資源として活用されていたのだ。その一角に新泰についての説明がされており、古いブロックが置かれていた。『今や中国ではこういう形でしか、歴史的建造物を残す手段はないんだ』と劉先生は残念そうに話す。よく中国人が『日本の素晴らしいところは歴史的な建物も、産物をきちんと残しているところだ』というが、確かにそういう面はあるかもしれない。

 

東方教会の建物もあった。ロシア租界だから当たり前だが、今は中露の文化交流館として使われている。この辺にも武漢とロシアの交流が意外とあることを窺わせる。それほど広いとは思われなかったロシア租界、こうやって案内してもらうと、実に様々な歴史が見えてくる。やはり専門家の説明は有り難い。

 

今回のこの散歩には劉先生、万さん、Mさんだけでなく、数人の地元人が一緒だった。有名なカメラマン、物理学者、歴史好きなど、劉先生のお仲間だ。私のために皆さん雨の中出てきてくれたのかと思ったが、実は万さんがこれから『中国長征の旅』に出発するので、その壮行会を兼ねていた。1か月、中国共産党が行った長征、江西省から山西省までを車で訪ね歩くらしい。最近はこのようなテーマのある旅をする中国人が増えてはいるが、ここまで徹底するのは珍しい。万里茶路以上の大変さだろう。

 

626日(日)
9. 上海
上海へ

 

翌日は武漢を離れる。飛行機で上海へ出ようと考えたが、上海のS先輩より『出来れば高速鉄道で来い』と指示がある。飛行機はいつ飛ぶか分らないが、高鉄は時間通りだという。それほど大気汚染はひどい。30年前の留学中調べた時、武漢上海の列車は50時間かかっていた。だが現在は僅か6時間で行ける。漢口駅から乗り込むと、後は寝ている間に上海だ。まさに夢のよう。途中、南京あたりから、更に早い列車に抜かれているから、一番早ければ5時間で行けそうだった。

 

上海でどこに泊まるか。色々とアドバイスをもらい、検索もしたが、結局懐かしい静安賓館にしてみた。ここは30年前の留学時、よく来た場所だった。実はここにはパン屋があり、当時は貴重だった食パンが手に入ったからだ。パンを見つけると一斤ではなく、ワンケース買い込み、寮で知り合いに配ったものだ。お金があっても物のない時代、今とどちらがよいのだろうか。安い部屋を予約したら、味もそっけもない別館に案内された。

 

その後、お知り合いのOさんと会って、なぜかケンタッキーへ。何だかおしゃれな場所だったが、Wi-Fiがあるのに、地下で繋がらず。淮海中路付近は相変わらず、租界的な建物が散見されたが、漢口に比べるとやけにきれいに見えた。更に歩いて夕飯の場所へ。S先輩をはじめ、上海在住者が集まってくれ、楽しく過ごした。そして上海料理はどんどん深化していることもよく分かった。日曜日の夜の上海は賑わっていた。景気が悪いという話はどこからも聞かれなかった。

 

翌日の午後、浦東空港から東京へ行った。時間はかかるが、浦西から空港まで地下鉄に乗れば、7元で行ける。景気は良くても安いものは安い。次回はもうちょっとゆっくり上海の街も歩いて見よう。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(8)宜紅を見に行ったが

7. 宜都
宜紅茶業

 

バスターミナルには迎えが来てくれたので、スムーズに目的地に行けた。まずは予約しておいてくれたホテルに入る。これでもう今日もホテルの心配をしなくてよい。今後も相手には大変申し訳ないが、出来るだけ現地の人にホテルを手配してもらうようにしようと思う。それが現時点では一番安全だと分かる。またそれをお願いできる関係があった方が、茶旅自体もよい方向に行くと信じている。

 

今回訪ねたのは宜紅茶業という、この地域の元国営工場であり、今世紀に入り民営化された紅茶工場。副社長の章さんに会いに行く。女性ながら長年茶作りをしてきたベテランだ。元々は殆どが輸出用だったが、最近紅茶ブームが来ているので、宜紅のブランド力を強めて、国内販売に力を入れて行きたいという。宜紅はきれいな茶葉だったが、少し渋みが感じられる。ブレンドに適していたのかもしれない。

 

 

因みに国営工場時代、章さんは副工場長だったという。今の社長が工場長。そのままそっくり引き継いだ感じだ。1990年代には松下先生が2度ここへ来たよ、と言われてびっくり。先生の持論の一つである『茶は武陵山系から』というのはこの辺のことだったのか。確かに少数民族の茶作りもあるようだ。ヤオ族はいるのだろうか。このあたりは土家族が多いらしいが。

 

現在のオフィスのある場所は昔製茶工場だった。横には長江が流れ、屋上から先の方を見ると、もう一つの河と交差していた。100年以上前なら、この川の合流地点は製茶にとって絶好の場所だったであろう。やはり輸送という観点は重要だ。現在工場は新しい場所に移されているという。午後は茶畑を見に行きたいとお願いした。

 

ただ主要産地はあまりにも山の中で遠いので、近くにある試験場を見に行った。非常にきれいな、管理された茶畑が広がっていた。今は製茶の時期ではないが、芽が吹き始めている。夏茶が近いのかもしれない。本当は五峰山にある茶畑を見るべきだったのだが、天気も悪く、滞在時間が短すぎたのは反省だ。これからは最低2泊する予定で行かないと、見るべきものは見られないと悟る。

 

夜は章副社長に誘われて、食事会に参加した。社長も来ており、更に突っ込んだ話を聞こうとしたが、恩施から来たという提携業者?と事業に関して激しい議論が展開されており、全く話に入る余地がなかった。ただご飯を食べただけに終わる。レストランは泊まっているホテル内だったので、送ってもらう必要もなく、記念写真だけ撮って、お先に失礼する。雨音がしたが、疲れていたので、すぐに寝てしまった。

 

625日(土)

 

翌朝も雨だった。何だか気持ちも暗くなってしまう。昨晩の業者間の話、方言が強くてよくは聞き取れなかったが、雰囲気としては『どうやってもっと売っていくのか』ということではなかったかと思う。茶業界は厳しい時代を迎えている。宜紅の生産範囲には、相当離れた恩施で作られた物まで入ることを知る。宜都から恩施まで、同じ地域とは思えないが、次回は恩施にも行って、実感してみたい。

 

工場を案内してくれるというので、スタッフに連れられて、街から結構離れた場所を訪問した。ただ雨で工場は全く稼働しておらず、写真撮影も禁止ということで、お茶を飲んだだけで何も見ずに立ち去った。ちょっと不完全燃焼のまま、宜都を立ち去る。工場は宜都と宜昌の間にあるというので、車で宜昌東駅まで送ってもらった。雨なので助かった。切符は買ってあったので、列車にすぐに乗れた。2時間で漢口に戻り、また同じホテルに入る。

 

8. 武漢3
漢口のロシア租界を歩く

 

一度昼食を食べて外へ出たが、すぐに戻る。少し待つと劉先生と万さんがわざわざ来てくれた。今日の午後は漢口の万里茶路関連の場所を案内してくれるという。これは得難い機会なので、お言葉に甘えた。外は残念ながら小雨。車で漢口の川沿いまで来て下りる。Mさんも暇だというので合流した。100年以上前に埠頭があった場所が近いというので見学する。『東方茶港』と書かれた石碑があるが、ここにさえ自分で来ることはできなかったかもしれない。公園になっており、なぜか蒸気機関車が展示されている。

 

埠頭自体は今も使っており、観光船が発着しているようだが、今日は雨で乗客はいない。それほど広い場所でもなく、写真で見る限り、往時はここに茶葉が運び込まれ、荷物が積み込まれていたが、今はその面影な全くない。その繁栄を語られても、正直ピンとは来ない。ここはロシア租界から近かったらしく、製茶された茶葉がそのまま運び込まれたとの話も聞いた。やはり現場に来ないと実感はわかない。

 

それから川沿いの通りを歩く。フランス租界のインドスエズ銀行ビルが何とも美しい。近くにはアメリカ領事館跡も見える。道を少し入るとロシア領事館跡があったが、何と取り壊しが始まっていた。我々が中を見ようとすると、守衛さんに止められた。歴史的建造物の表示があるにもかかわらず、壊してしまうのか。それが今の中国だろう。ロシア政府は何も言わないのだろうか。金の力が優先するのか。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(7)劉先生と出会う

あまりに暑いので、川に出たくなった。聞いてみると、漢口から武昌に渡るフェリーがあるという。江関楼からほど近いところに乗り場があり、頻繁にフェリーが出ていた。1.5元、まあ香港で言うスターフェリーのようなものだが、バイク乗りが乗り込むなど、観光用というより地元民の足だ。車は橋があるのでそちらを通るが、バイクや徒歩はこちらの方が速いのかもしれない。乗船時間も15分ぐらいだろうか。いい風が吹いてきた。かなり広々とした空間に、ビルが点在している。

 

武昌側で降りたが、付近に地下鉄がない。仕方なくタクシーを拾い、また漢口へ戻る。今日は昼にWさんとの待ち合わせがあったので、急いでそちらへ向かう。そこはシンガポール系のデベロッパーが開発したショッピングモール。昔は上海あたりで沢山の開発を行っていたこの業者、今や武漢あたりが主戦場だろうか。中国の広がりを感じる。そのモールの中にあるレストランに入る。

 

Wさんは彼女が学生の時、寺子屋に参加してくれた優秀なメンバーでその後大手企業に就職、1年限定で、武漢での事業立ち上げに来ていた。中国語の問題はないので、スムーズに業務しているかと思ったが、『中国の仕事の仕方があまりにも非効率。それを若い子にどうやって伝え、やらせるかが難しい』らしい。

 

実は今中国で業務している日系企業の大きな問題の1つは、現地に派遣した駐在員が現地社員をうまく使えない、など。それはある意味で当然。日本のような会社組織で、管理職経験もない人が海外に送られ、部下を持つというのはなかなか厳しい。そんな中ではWさんは問題点を的確にとらえられ、改善策を示し、向上に努めているので、かなりの適応力があると言える。

 

劉先生と会う

一旦ホテルに戻り、午後は昨日紹介された劉先生に会いに行く。どこへ行けばよいのかと聞けば『ホテルの前からバスに乗り、終点まで来て』と言われる。その番号のバスに乗ると、大きな道をかなり走り、更には橋を渡って武昌へ。そして1時間近くかかって、ついに終点まで来た。

 

バスを降りると、そこで犬を連れた人がいた。劉先生だった。もう一人、万さんという男性が車を運転してくれ、先生の家に行った。先生の家は、研究者らしく、沢山の本で溢れていた。その中には当然ながら武漢や湖北省の歴史関連の物が多く見られ、そして万里茶路関連の本も目に付いた。ここで時間をもらって読んでみたいと思うものがいくつもあった。中でも2014年に武漢からロシアまで万里茶路を旅した記録が、写真入りで詳細に書かれた本があり、ぜひ欲しかった。後で万さんが自分の分をわざわざくれたのは有り難かった。万さんはこの旅のメンバーだったのだ。

 

また劉先生は呼和浩特の鄧先生とも仲良しだった。やはり地道な研究者という共通項があるからだろう。そして万里茶路関係の本を2冊出しており、それを頂戴した。更には、漢口の関連施設を案内してあげようという、夢のような提案まで頂いた。確かに自分だけで歩いてはとても探せない、専門家のみが知る場所があるという。後日是非にとお願いした。

 

その内に武漢大学の劉教授がやって来た。万里茶路の重要性を語ったうえで、『日本と何か連携できないか』と言ってきた。8月に万里茶路サミットを宜昌で開くので参加しないかとも誘われた。劉教授はまだ50歳ぐらいで血気盛ん。まずは実績作り、政府の政策を履行することが学内での評価につながるという感じ。一方劉先生は市井の研究者で、60代。私は劉先生に色々と教わることにした。

 

夕飯を食べに行こうということになる。そこへお知り合いのMさんから連絡があったので、彼も誘った。ただ彼は携帯シムを持っていないので、移動中は連絡ができない。電話もつながらない。何とか、地下鉄駅を伝え、そこで待っていると、ちゃんとやって来たのには驚いた。これもご縁というものだろう。

 

ご飯の前に家の近くで明日の切符を買った。これにより駅で並ばなくて済むのは有り難い。先生の家の近所はまだ古き良き武昌が残っている。食事はMさんも入り、劉教授の教え子も参加して、楽しく行われた。これも素晴らしいご縁、感謝だ。帰りは万さんが車で途中まで送ってくれ、昼間のフェリーを逆に乗って帰った。夜はナイトクルーズで5元。夜景は予想以上に素晴らしく、Mさんも驚いていた。もう少し武漢の漢口を見直すべきだろう。

 

624日(金)
宜都へ

 

本日は湖北省の紅茶の産地、宜都を訪ねることになっていた。福州の魏さんに紹介され、現地に連絡を取ると、『宜昌まで動車で来て、そこからバスに乗り換えて』と指示が出た。昨日動車の切符は買ってあったので、まずは地下鉄で漢口駅まで行く。初めてなので早めに出て、早目に着く。漢口駅は古い外観でなかなか良い。大勢の人が列車を待っており、大混雑。昨日切符を買ったのは大正解だった。

 

動車はスムーズに発車し、満員の乗客を乗せて、重慶方面に向かった。今や中国では高速鉄道網が張り巡らされ、どこへでも行けるような気になっている。1980年代の松下先生の旅を読んでみると、武漢から宜都までバスで8時間以上かかっているらしい。現在は宜昌まで2時間、そこから隣のバスターミナルへ行き、頻繁に出ているバスに乗り1時間で宜都に着いてしまう。何とも有り難いことだが、雨が降っているのが悲しい。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(6)歴史的茶産地 咸寧

5.
忙しい茶業者

 

咸寧北駅に着くと、迎えが待っていた。その車は少し離れた辺鄙なところへ行く。工業団地のようにも見えたが、その中にかなりの規模で建設中の工場があった。そこが今回訪問する生牲川茶業の新工場であり、その中で陣頭指揮を執っていたのが、鄧先生に紹介された董事長の何春雷氏であった。まだ若い経営者だが、12代目の伝承者ということだった。万里茶路の歴史の中に出てくる自らの祖先の茶業を研究して発表しているという。

 

だが当日の彼は実に忙しいそうで、ゆっくり話を聞くような雰囲気ではなかった。こちらもちょっと話を聞いて、古い工場を見学させてもらえばそれで帰るつもりだったのだが、次に連れていかれたところは、自然環境の中にあるレストラン。そこで彼らの生産している黒茶を飲む。野生紅茶と書かれた袋も見えた。だが、彼はずっとバタバタしており、ここでも話にならない。

 

店を見まわしていると、1冊の本が目に入る。万里茶路関連だと分かって手に取って見ていると、『ああ、その研究者が数日前に来てその本を置いて行ったよ。もし本が欲しいなら武漢に戻って彼に会うとよい』と言い、すぐに電話をしてくれた。その著者、劉さんも私の訪問を歓迎するというので、明日行ってみることになる。この辺は如何にも茶旅であり、茶縁である。

 

そこへ偉そうな人を中心に数人がどかどかと入って来た。何と湖北省の農業局長だというではないか。周囲を囲んでいるのは、この街の政府関係者らしい。そうか、この重要な接待を待っていて、イライラしていたのか。すぐに食事が始まる。何故か私も末席に連なる。局長は凄い勢いで食べながら、これまたすごい勢いで話し、指示を出す。何人かが陳情すると、即座に判断して回答する。これぞ電光石火。ちょっと田舎のおじさんという風貌だが、農業のことはよくわかっている。

 

そしてあっと言う間に食べ終わり、周囲の人間を排除して秘書と二人で車に乗り、どこかへ行ってしまった。昨今の腐敗汚職関連か、不要な接触を避けているようにも見えた。皆取り残され、脱力した。これで私の相手をしてくれるかと思ったが、そうはいかなかった。『今日はここに泊まっていけ』と言われたが、古い工場さえ見せてくれれば帰るというと、弟のところへ行け、と言われる。

 

街中にある販売オフィスに連れていかれる。そこには古い茶餅や川の字の磚茶が展示されていた。ここの茶は400年の歴史があると書かれているが、磚茶はどれほど古いのだろうか。ここが1861年漢口の開港以降、一大茶産地になったことは別の資料で読んではいる。明治8年、日本紅茶の祖とも言われる多田元吉が最初に訪ねたのはインドではなく中国だった。しかも行った場所は福建などではなく、湖北省。咸寧が視察先に入ってい事を見ても、その勢いは分る。

 

ただ1900年代に入るとずっと低迷していた、生産が止まってしまっていたのかと思っていたが、国営工場としてはあったようだ。文革中も生産していたらしいが、その産量はどれほどだっただろうか。改革開放後は競争力がなく、難しい時代が続いたはずだが、そのような歴史はどこにも書かれない。

 

何さんの弟が出先から帰ってきたが、なぜかひどく酔っぱらっていた。知り合いの結婚式に出席し、昼から大量のアルコールを飲んだらしい。それでも私を案内してくれようとはしたが、古い工場まではここから30㎞以上の山道ということで、今日は無理だと分かる。『今日はここに泊まって明日行こう』と言われたが、明日まで待つのも大変なので、ここまでにして、武漢に帰ることにし、駅まで送ってもらい、また高鉄に乗った。

 

6. 武漢2

漢口に帰ってホテルで休む。今日の訪問は一体何だったんだろうか、と考えたが、まあそういう日もあるよね、ということで済ませる。夜はKさんに店に行く。Kさんが日本料理屋をやっていることは何となくFBで見ていたが、意外なほど立派な店なので驚いた。まあちゃんとしたホテルの1階にあるのだから当たり前か。料理も何品か頂いたが、味も良い。お客さんの多くは中国人だ。武漢には日本食のニーズもかなりありそうだ。

 

もう何年会っていなかったのだろうか。奥さんが子供を連れてやってきた。確か深圳で最後に会った時は奥さんのお腹が大きかったから、3年ぐらい会っていなかったのだろう。他人の子供というのは、実に早く育つものだ。そして実に可愛い。ただ中国の教育には不安があるので、いずれかの時点で日本へ移って教育を受けさせるという。中国と日本、どちらの環境がよいのかとは思ってしまうが、現時点でみれば、中国の教育に不安を覚えるのも無理はないと思う。

 

623日(木)
漢口租界巡り

 

翌日はゆっくり起きて朝食を食べてから、漢口の街を歩くことにした。Kさんに教えてもらった道を歩いて行く。なぜか私はこの街に関しては方向感覚がまるで逆になっており、戸惑う。江漢路を歩いて行くと、1920-30年代の建物がいくつも出てくる。当時の漢口の繁栄の様子が見て取れる。

 

漢口の代表的な建物と言えば、江関楼だろうか。今も税関が使っているようだ。その脇には博物館があり、そこで涼む。6月の漢口は当然ながら滅茶苦茶暑い。冷房の効いている館内で、茶葉貿易の歴史を勉強でき、更には入場料無料だから、ここは入るしかない。特にロシア商人の進出と交易の様子などが展示されており、興味深い。漢口とロシア、一見関係などないようだが、その繋がりは相当に深い。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(5)武漢のホテル

前回も訪ねているので、市内から離れているが、タクシーで何とかたどり着いた。店に入るとすぐに劉さんが目に留まり、あちらもびっくりした顔をしている。事の経緯を話してお礼を言うと『今政府のイベントを抱えており、おまけに今度ここから引っ越すことになって忙しい』というので、早々に退散しようとしたが、なおも引き留められ、店の人がお茶を淹れてくれた。この店、お茶室も充実しており、とてもよいのに、引っ越すとは残念だ。

 

結局彼女は打ち合わせなどで忙しく、殆ど話はできなかった。代わりに店の女性2人が前回も行った羊鍋の店に案内してくれ、またまたご馳走になってしまう。ここの羊は実にうまい。モンゴルでは新鮮な羊は外せない。それにしても劉さんは忙しすぎる。体調を壊さないとよいのだけれど。

 

621日(火)

モンゴル族の憩いの場

 

翌朝はかなりゆっくりと起きて、体を休める。荷物をまとめると、外に出た。携帯が繋がらなくなることを恐れて、聯通に入金に出掛ける。今や普通の中国人は微信で入金できるので、わざわざ店に行って現金を払う客は珍しい。店員もどこから来たんだ、という顔をしながら、ネットで入金してくれた。手数料は1元だった。

 

昼はNさんと食事した。いつもは学内のモンゴル食堂だが、今回はキャンパスの裏を出たところにある食堂へ行く。そこは完全にモンゴル族しか行かない店だと一目でわかる。全てがモンゴル語でやり取りされており、漢族の学生や教師が来ることはないだろう。何だかモンゴル族の憩いの場、という雰囲気が漂う。

 

宿に帰って荷物を持ってタクシーに乗って空港へ向かう。呼和浩特空港は久しぶりだ。前回は空港でタクシーを捕まえるのが一苦労だったことを思い出す。今回はこれまた久しぶりの首都航空で武漢へ行く。この飛行機は10数年前、出張で北京から包頭へ通って時にいつも乗っていたが、ボロボロの印象があった。だが機体は新しく、個人用画面まであり、ちょっと驚く。

 

フライトはよくあることだが、ディレーした。特にこの頃、上海あたりでは高鉄で行ける所は、飛行機に乗るな、と言われるほど、遅れはひどかった。気象条件の変化、大気汚染の悪化、など、どれも中国の現状をよく表しているように思う。2時間ぐらい遅れて、飛び立つ。2時間弱で武漢の空港に着いた。

 

4. 武漢
ホテルまで

とにかくホテルに泊まれなくて探すのが嫌だった。呼和浩特ではNさんに世話になったが、武漢にも誰かいないだろうかと懸命に考えていると、一人の人物が浮かんだ。後輩のKさんだった。彼は以前深圳にいたのだが、故あって武漢に移ったと、FBで見た記憶がある。自分の古い携帯を引っ張り出し、番号を探すとまだ残っていたが、果たして使っているだろうか。

 

電話してみるとなんと繋がり、懐かしい声が聞こえてきた。彼は今漢口で日本料理屋をやっているという。そしてその場所はホテルの1階であり、そのホテルには安く泊まれるというので予約をお願いした。空港からそのホテルまでは空港バスが出ており、その終点だから乗り過ごすこともないと言われ、安心していた。

 

フライトが遅れたのでバスはもうないかと思いながら行ってみるとちゃんとあった。安心して乗り込む。30分も行くと市内に入り、2か所で停まった。さあ、次だなと思っているとここが終点だから降りろ、というではないか。街の真ん中だが、ここは一体どこなんだろうか。まあいいや、タクシーで行こうと思い、停まっていた運転手に声を掛けた。だが彼はそんなホテルは知らないという。

 

近所の人にも聞いてみたが、皆が首を振る。住所はどこだと聞かれ、知らないことを再認識。仕方なくKさんに電話すると、運転手に代われというので、携帯を渡すと彼は『なんーだ』という顔をして走り出した。そして10分ぐらいで立派なホテルの前に停まる。そこはホリデーインだった。今は経営が変わっているが、街の人は皆旧名の天安で覚えているのである。

 

確かに1階に日本料理屋もあった。部屋も昔の作りで広くて快適そうだった。Kさんにもう一度電話するとすでにお客さんと一緒に外へ出たから、明日会いましょうということになる。そうなると腹が減っていることに気が付く。外へ出るとなぜか腰花麺の店を見つけ、食べる。私の大好物だ。これなら辛くもないし、ちょうどよい。

 

宿に戻り、シャワーを浴びた頃、Kさんから電話があった。実は今晩のお客さんは香港の有名人Iさんだという。私も知らない仲ではないので、今から一緒に飲まないかとの誘いだったが、余りに遅かったので断ってしまった。それにしてもここまで来て、知り合いと遭遇するとは何とも奇遇だ。

 

622日(水)

朝起きるとホテルの朝食に行く。何とも懐かしい最上階の回転式レストラン。これは80年代、改革開放の一つの象徴とも思われる作りだった。当時は新しくできた外国人が泊まるホテルの多くが回転した。食事も満足のいく内容で、昔は高かったがこれなら宿代も相当安く感じられる。久しぶりにパンを食べ、フルーツも沢山食べた。

 

今日は鄧先生に紹介された咸寧の茶業者を訪問することになっていた。咸寧がどこにあるのかも知らなかったが、電話すると『とにかく高鉄に乗れ、駅まで迎えに行くから』というので、地下鉄で武漢駅まで移動して、そこから列車に乗った。なんと乗車時間は24分、近い。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(4)鄧九剛先生と再会する

3. 呼和浩特
内モンゴル大学へ

 

呼和浩特駅には昨年12月にも来て近くの宿に泊まったので、多分泊まれるとは思うのだが、張家口のトラウマが頭をもたげてきたので、当地の知り合いNさんに頼んで、Nさんが勤務する大学内のホテルを手配してもらっていた。タクシーで以前にも行った大学へ向かう。慣れた感じでチェックインが出来たのは実に有り難い。

 

夕飯は学内の食堂で食べた。地三鮮定食。量が多過ぎるのは学生向けだからだろう。食べ過ぎて腹がかなり重い。まだ明るかったので学内を散歩した。爽やかな風が吹き、大勢の学生や教師が散歩に出ていた。のどかの光景だった。それにしても、妙な疲れがあった。思った通りに進まないときに感じる、あれだ。中国でも以前は常に感じていたが、最近は感じなくなっていたのだが。

 

619日(日)

 

翌日はゆっくり起きる。妙な疲れのせいで午前中はダラダラして過ごす。昨日の定食が重く腹に残っており、昼ご飯は牛肉麺にした。それから学内をゆっくり散歩する。中国の大学はどこも敷地が広い。以前もここに泊まったが、全てを歩いたわけではない。内モンゴルだから、モンゴル研究所があったり、モンゴル語が書かれていたりと、特色がある。

 

鄧先生と再会する

 

午後3時に茶葉の道展示館へ行った。ここも訪れるのは3回目になるので、もう迷うことはない。今回も又鄧九剛先生を訪ねる。万里茶路は鄧先生の本により、ここまでの盛り上がりを見せたといえる。商人ではなく研究者だから、真実に追及には先生の話が一番良い。館内には数人の人がおり、談笑していた。そこへ入っていくと、鄧先生が『よく来たな』と笑顔で迎えてくれた。先生とは昨年の暮れに北京で会って以来半年ぶり後は茶葉の道協会の幹部や茶芸師など、お茶関係の人々だった。

 

ここで、更に出てきた万里茶路に関する疑問を幾つか質問していると、先生が『漢口は見たのか』と聞いてきたので、これから行ってみる所だと告げる。漢口は重要拠点だ、と念押しされたうえで、『漢口の近くに茶産地があるから行ってみるとよい』とそこの人々を紹介された。そして新しく出版された万里茶路関連の本を頂く。

 

2時間ぐらい話していると、食事に行こうということになり、副会長という人がやっている店へ行った。そこは西貝という内モンゴル発祥で今や中国全土に展開しているチェーンレストランであった。中は非常にきれいで完全なオープンキッチン、客席も相当な数があり、しかもほとんどが埋まっている状態で驚くほど繁盛していた。

 

驚くのはそれだけではなく、料理を注文してから25分以内に出て来なかったらお代は要りません、と言った宣言をウエーターが行い、時計まで置かれる。そして次々にあっという間に料理が運ばれてくる。相当量のお客にこれだけの対応をするというのが売りのようだ。実に面白いサービス方法だ。料理自体も内モンゴルの羊料理をはじめ、豊富なメニューが揃っており、美味しい。すぐに満腹になった。先生とは名残惜しいが、そこで別れた。

 

620日(
茶商巡り

今朝は小雨模様。4月に雲南に行った時、鄧先生が紹介してくれた茶商を訪ねることにした。今は何とも便利な世の中で、内モンゴルにいても、西南の果てまで連絡が来て、色々と助けてくれた。プーアル茶を商っているという。内モンゴルの人も飲むのだろうか。まあ、黒茶を飲むのだから、抵抗は少ないかもしれない。

 

その郭さんの店は大学から南へ数キロ行ったところにあった。そこは新興商業地区、呼和浩特は発展が遅れているとの話もある中、着実に広がっていることを感じる。店はきれいで、雰囲気も良い。郭さんは80后でかなり若いが、結構手広く商売をしているようで、店にはプーアル茶の他、紅茶、白茶なども置かれている。包頭では別の商売もしており、色々と行き来が激しいらしい。

 

昼にモンゴル料理を食べようといって連れて行かれたところは、まるでパブのような雰囲気だった。そこでミルクティが出てきて、包子を食べた。いまどきの若者はこんなおしゃれないところが好きだという。食べ物の嗜好も変わり、行く店の雰囲気も変わる。茶業もこのようなトレンドを捉えていく必要がありそうだ。郭さんのような若い世代にその役目が担われている。

 

午後は万潤茶文化名城という茶市場へ行った。そこは1つのビルになっている茶葉卸市場だが、お茶屋は埋まっておらず、小雨のせいか、お客も殆どいなかった。閑散とした中を歩く。何と郭さんはここにも店を出していた。『正直若者は店に来ないで、ネットで注文する』のだが、何となく店があった方がよいかなということで、出しているという。家賃もばかにならないから、経営は大変かもしれない。

 

それから劉さんのところへ行った。彼女とは、昨年12月、鄧先生の紹介で知り合った。その時は下川さんたちと一緒で、ロシアへの手掛かりを探していたところ、『キャフタの博物館の研究員を知っている』というので、紹介してもらったことがあった。そのお礼を言おうと連絡していたのだが、ついに連絡はつかず、ダメもとで直接行ってみることにしたのだ。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(3)張家口の大境門

辿り着いたのが、旧市内からちょっと離れた高級そうなホテル。フロントへ行くと勿論外国人は泊まれるが『1400元』と言われ、愕然とする。駅前の宿が150元しなかったのだから、実に3倍近いコストアップである。思わずそれを愚痴ると、フロントの女性が『あー、そういえば今日は週末だから特別プランで50元引きね』と憐れんでくれた。

 

もう疲れたので、ここに泊まることにした。たまにはちょっと良い部屋で寝るのも悪くないと割り切る。ところが部屋のカードキーが作動せず、部屋に入れない。張家口と言えば、2022年に北京と共同開催で冬のオリンピックを開く街だろう。それがこんな状況でよいのだろうか、と一人嘆く。部屋は広くてきれい。北京で泊まれば料金は2倍になるだろうと思いながらも、何となく駅前ホテルを思い出してしまうのは、貧乏旅行に慣れ過ぎたせいだろうか。

 

大境門へ

まだ日もあるので、今回の目的地である大境門へ行く。バスは面倒だからタクシーで行けとフロントがいうので従う。車はすぐに郊外に出る。さほど離れていないところに、万里の長城の北への出口があった。この付近の長城は明代に修復され、1644年、清朝が始まった頃にこの門が出来たという。モンゴルのウランバートルまでの道の起点になっていた。その後も物資輸送の重要拠点となっている。勿論茶葉もラクダの背に乗り、ここを通って出て行ったはずであるが、今やそれを偲ぶものは何もない。

 

 

門を潜ると、どこでもあるような観光スポットに出くわす。残念。その横から上に登ると、長城の一部を歩くことができた。結構急な坂、若者は良いが年寄りにはきつい。石が積みあがった、荒削りの長城がそこにあった。近年修復したのだろうか。周囲が一望できる、という以外何もない。

 

降りてきて歩き始める。すぐにバス停があり、街の中心に行けることが分かったので乗ってみた。途中に蒙古営という名前のバス停があったので思わず降りてみたが、特に何も発見できなかった。それから少し歩くと、イスラム料理店など、回族関連と思われる場所がいくつかあった。万里茶路とは直接関係しないが、茶葉の輸送などは各地で回族が行っており、ここでもそのネットワークが発揮されていたに違いない。

 

街の中心付近に細い路地があり、靴屋などがひしめいていた。これが貿易の街、張家口の名残だろうか。川が流れており、大きな毛沢東の像があった。そこで初めて冬のオリンピック開催のポスターを見かける。まだ6年も先ということか盛り上がりは全く見られない。帰りのバスを探しているとバス停の名に、茶坊楼というのがあったので、行ってみたが、ここでもお茶に関するものは何も出て来ない。張家口は歴史を消し去ろうとしているのだろうか。

 

今度こそ帰ろうと思って戻ると、向こうに古い街並みが見えた。堡子里と書かれたそのエリアは確かに古かった。清の時代の役所や、満州中央銀行の出先だった建物が残っている。そしてついに茶商の店跡が見てくる。票号(昔の銀行)の店も出てくる。こうなると、少し万里茶路の拠点らしくなってくる。ここ張家口は、往時商業で栄えたが、当然様々な物資を扱っており、かなり賑わっていたはずだ。ようやくその音が微かに聞こえてくるような気がした。

 

腹が減ったので麺と包子を食べた。張家口に名物があるかどうかさえ、知らなかった。6月の北の境は日が長かった。ホテルまでバスでも戻ってもまだ明るさが残っている。このホテルも最近改名したようで旧名の方が通りがよい。オリンピックを当て込んで誰か投資したのだろうか。それにしても往時の張家口の賑わが今は嘘のようだ。

 

618日(土)
呼和浩特へ

今朝はゆっくりと起きて、朝食を沢山食べる。今日は午前中部屋で休むことにした。昼の12時に昨日下りた駅の前から呼和浩特行のバスが出るのを見ていたので、それに間に合うようにタクシーで向かった。100元でチケットを買ったが乗客は殆どいなかった。そのまま高速道路に乗れば呼和浩特までそれほど時間はかからないと思っていた。

 

ところがバスは旧市街の方へ向かってしまう。そして昨日も見かけたバスターミナルに入り、そこで客を拾った。そればかりか、その後も街中を走り、その都度客を集め、最後は高速入り口でも客を乗せた。高速に乗ったのは実に乗車から2時間も経っていた。これには唖然とするしかない。もし列車に乗っていればもうすぐ呼和浩特だったはずだ。

 

 

更には高速道路を走り始めても、なぜか道路脇に乗客が待っていて、乗り込んでくる。これでは高速の意味もない。ただ考えてみれば、これは張家口の街から離れたところに住む人間にとっては何とも便利である。鉄道なら絶対に停まることはないが、バスはどこでも停まれるのである。これは如何にも中国的発想だ。日本なら決められた場所以外で停まることはない。

 

4時頃一度休憩があり、いつになったら着くのかと不安になる。天気は良いが草原の風は強い。こんな中を駱駝が茶葉を積んで歩いて行ったのだろうか。特に冬が近い秋口にこの辺を通ったとも考えられるが、爽やかな風は厳しい寒さに変わったことだろう。5時半近くになって、何とか呼和浩特駅に着いた。列車なら2時間ちょっとのところを、実に5時間半もかかったことになる。今後バスに乗る時は気を付ける必要がある。だがどうやって気を付ければよいのか、情報は実に重要である。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(2)外国人に不便なった中国

616日(木)
北京の街を歩く

 

翌朝はゆっくり起きる。まずは北京から張家口までの列車の切符を買うことにする。昨今中国人は基本的にネットで予約をして、身分証を使って機械で切符を取り出せるのだが、外国人は例え予約はできても、駅の窓口でパスポートを提示して受け取らなければならないため、長蛇の列の後ろに着くことになる。そうなるといつ列車に乗れるかも読めず、実に不便である。

 

そこで街の切符売り場で購入するのが早い。だがネット予約が増えた現在、街からのこの切符売り場がどんどん消えている。今回も何とか探して、買うことができた。僅か5元の手数料で、切符が手に入るのだから、駅で並ぶより、相当にマシだ。外国人にとって中国旅行はどんどん不便になっている。それは以前のように、外貨獲得のため、外国人に配慮する必要がなくなったからだろうか。

 

地下鉄10号線から5号線に乗り換えて、東単まで出てきた。今日は旧知のTさんとSさんとランチをすることになっていた。東方広場、1999年の建国50周年を前に香港の長江グループに開発が任された物件である。何しろ東単から北京飯店の横、王府井まで繋がっているのだから、それはそれは広い敷地。今回指定されたレストランを探すのも一苦労だ。

 

Tさんとのお付き合いはもう30年近くになる。Sさんとは前回の北京駐在時に一緒になり、お世話になった。共に今は別の会社の駐在員になって活躍している。北京もどんどん人が変わり、知る人も減ってきた。私が最後の駐在から戻ってもう6年が過ぎていた。時は流れている。

 

午後は東単からフラフラ散歩した。晴れているがそれほど暑くもない。建国門は懐かしい場所。だが昔よく行った火鍋屋は取り壊され、友誼商店も閉じられている。日本大使館も移転し、日本人も減っている感じがする。更に行くと携帯ショップがあったので、聞いてみた。すると『毎月5元で携帯番号が維持できる』という聯通のカードを紹介された。

 

ただカードを購入するのに150元ほどかかるが、これなら1年間お金を払わなくても、60元で済むから、今回のように電話が通じないという事態は避けられそうだ。本当は中国移動の方がより電波が強くてよいのだが、便利なものほど高いのだ。昨日30元を入れた移動のカードをあっさり外して、今日から聯通になった。

 

北京郊外、北東の方角へ向かう。これも不思議なご縁だが、3月末に北海道の室蘭に行った時に紹介されたAさんと会うためだった。Aさんは大手企業の駐在員として、1980年頃から北京に在住し、奥さんも中国人。中国の永住権を持つ稀な日本人だった。北京の地下鉄も各方向に延び、今やどれがどれやら分らない。14号線、15号線などを乗り継いでいく。

 

Aさんは北京の自宅のほか、お母様の介護で故郷の室蘭にいることも多いらしい。以前に北京でも顔を合わせているのかもしれないが、まさか室蘭でお会いするとはまさにご縁だ。私が明日張家口に行くというと、『実はそこに別荘がある』ともいう。驚くばかりのご縁である。今は孫の世話が大変だ、と笑う。

 

夕方、市内に戻る。東直門の駅からすぐのところにできたレストランへ行く。いつものように後輩のKさんのアレンジだ。何だかレトロな雰囲気が売りのこのお店、結構流行っているのは、やはり美味しいからだろう。今や北京も見た目と味、の両方が揃わないと生き残れない。今回も懐かしいメンバーが集まり、昔話と今の北京の現状が語られる。空気も悪いし、物価も高いし、色々と締め付けもあるしと、いい話はあまりない。

 

 

617日(金)
北京西駅

朝起きて荷物をまとめ、地下鉄中関村駅まで荷物を引いていく。ここまで来ると後は4号線で西駅まで行ける。西駅から列車に乗るのは初めてだったので、少し早めに出たが、相当に早く着いてしまう。仕方なく、駅にある吉野家で朝ご飯を食べる。牛と鶏が両方あるバージョンだが、何となく塩辛い気がした。これで30元以上するのだから、物価は決して安くない。

 

列車には相変わらず大勢の人が乗り込んでいた。どこまで行くのだろうか。3月にすでにこの路線に乗り、ウランバートルまで行ったので、道中の風景にはあまり興味が沸かない。硬臥にも慣れた。隣のおばさんが吉野家で弁当をテイクアウトしてきた方が気になってしまう。今回も万里の長城は見えなかった。

 

2. 張家口
宿に泊まれない

 

張家口南駅に着いたのは、午後2時過ぎだった。僅か4時間にも満たない旅では疲れもない。これまでの数十時間単位の移動からするとほんの一瞬のように感じられる。張家口も天気が良い。爽やかな風が吹いている。まずは駅前で今日の宿を探した。ちょうどきれいそうなところがあり、部屋も確認して、さてチェックインしようとパスポートを出すと、それまで愛想のよかったおばさんの顔が急に曇る。

 

 

『パスポートはダメなのよ。身分証がないと』と言われる。じゃあ、この辺で泊まれるところはないかと聞くと、数分先のホテルはOKだと思う、というのでそこまで行ってみたが、ここも全く同じだった。既に4月に福州でも似たような状況に陥っており、何となく事情は分かったが、泊まれないのは困ると、一生懸命交渉した。だがオーナーが出てきて『とにかく勘弁してくれ。今はうるさいんだよ』と逆に懇願される。

 

そして外国人が正規に泊まれるホテルは張家口には4つしかないと言い、この付近にはないから、タクシーで行けという。確かに南駅は比較的新しいので、市内に行かないとないのだろう。タクシーの運転手にそれを告げると彼も『それはおかしい』と言って、途中のホテルで聞いてみてくれたが、やはり答えはノーだった。

万里茶路を行く~北京から武漢まで(1)万里茶路協会の会長に会う

【万里茶路中国北部編2016】 2016615-27

 

201512月の中国鉄道縦断、3月の北京からロシアの果てまでと、下川さんの旅に同行して、万里茶路のルートを辿ってみた。だが下川さんの旅はあくまで彼の旅であり、私が本当に見たい物、知りたいことが満足されたかというと、かなり疑問があった。4月には福建省の武夷山へ行き、茶貿易の起点を眺めてみた。今回は北京から武漢まで、自分の旅で万里茶路を歩いて行こうと思う。

 

615日(水)
1. 北京
宿泊先まで

今回はマイレージ消化のため、ANAで北京へ向かう。朝羽田空港から出発するのは成田より明らかに楽だ。そして前年まで見られた爆買い中国人観光客の姿もまばらとなり、ゆったりと搭乗できた。機内食も美味しく頂き、映画を見て過ごすと、あっという間に北京まで着いてしまう。北京に天気も快晴で幸先は良い。

 

今回は北京の友人に誘われていたので、彼の家へ向かう。中関村方面の空港バスに乗り、終点で降りればよいからと言われ、安心して乗る。乗ったら電話して、と言われたが、何と電話が繋がらない。前回4月に実名制の影響を受けて、元の携帯カードが急に失効してしまい、慌てて武夷山で新しいカードを買ったのだが、どうやら月額料金を2回落とされ、お金が尽きていたらしい。

 

これは困った。今や携帯がなければ何もできない。彼の住所も聞いていない。その時思い出したのが、2年ぐらい前にその場所を一度訪れたことがあるという微かな記憶。仕方ない、何とか直接辿り着こうと決心する。だが、今度はバスが北京の大渋滞にはまり、一向に動かない。先方は待っているだろうか。

 

1時間半以上掛けて、ようやく終点でバスを降りた。意外と記憶が蘇り、その場所はすぐに分かった。安心したのもつかの間、何度ドアを叩いても不在だった。こうなると電話で連絡する以外方法がない。外へ出ると、社区の小売部が見えたので、行ってみる。そのおばさんに事情を話すと快く彼女の携帯を貸してくれ、電話を掛けることができた。更には『携帯ないと大変でしょう』と言って、彼女のスマホから、携帯カードへ入金までしてくれた。今や入金はスマホからだ。

 

何と親切なのだろうか。北京の人は冷たい、という印象があったのだが、このような民間人が住む社区にはまだまだ人情が残っている。この話をやって来た王さんにすると『いや、最近は北京でも珍しいよ。あなたが外国人だったからかな』と首を傾げながら、そのおばさんに礼を言ってくれた。

 

万里茶路協会へ

今回北京へ来た目的は、万里茶路協会の会長と会うためだった。紹介してくれたのは5月初めに訪れた江西省河口の女性茶業者、王社長。王さんもわざわざ江西から出てくるというのだから、大ごとになってしまった。その待ち合わせ場所として指定されたのは、何と龍潭公園。中関村からは地下鉄で1時間以上乗り、更にタクシーを探したが雨が降り出して見つからず、何とかバスで辿り着く。

 

こんな公園に事務所があるのだろうか。メッセージに示された場所を探したが、どうしても見付からず、電話を掛けると、迎えに来てくれた。そこは何と、公園内に残された清朝時代の建物と庭園。一般人は入れない場所だったのだ。特にその庭園には池があり、良い感じで木々が植わり、雰囲気がとても良い。普通は絶対に入れない、使えない場所だと思うのだが、会長の郭さんは中国文化協会の副会長でもあり、自由にここを使っているようだ。

 

この中には貴重なお茶も沢山保存されており、郭会長が自ら淹れてくれた30年物白茶などは、これまで飲んだことがない旨さだった。いい風も吹いてくる。やはり中国は広い。そして北京には様々なものが残されているのだと強く感じる。郭さんは元々国有企業の幹部だったそうで、現在は趣味が高じて、文化方面の活動が多いらしい。習近平主席がモスクワを訪問した時、『万里茶路』の復活を進言し、実現させた政治力も持っているらしい。

 

王社長は江西省から余先生を連れてきていた。余先生は90年代にすでに万里茶路の存在を本に書くなど、中国茶の歴史に実に詳しい、その道の専門家だ。郭会長からは万里茶路の大型地図をもらい、余先生からはご自身の本をもらった。こちらも下川さんがちょうど出版した本を差し上げ、私の活動を紹介した。ただ郭会長にとって万里茶路はある意味で政治であり、私のような旅人には興味を示さなかった。むしろ余先生の方と話が弾んだ。

 

日が暮れるまで庭を眺めて茶を飲み、その後夕飯をご馳走になった。この場では王社長が目下の江西省における万里茶路政策の推進状況について説明し、かなり強い口調で陳情していた。まあ今回の訪問、私はあくまで話のネタであり、彼女の目的はこの陳情にあったようだ。お茶が政治化し、そして商業化していく姿を垣間見た。

 

食後、彼らはスマホでタクシーを呼び、かえっていく。私は余先生の車に乗せてもらい、地下鉄駅まで連れて行ってもらった。今やタクシーは手を挙げて止めるものではなく、スマホで呼ぶもの。地方から出てきても使えるので便利である。私はまたとぼとぼと1時間以上かけて、地下鉄で帰った。