「中国」カテゴリーアーカイブ

中国鉄道縦断の旅2015(11)万里茶路から羊肉に行き着く

万里茶路から羊肉に行き着く

Nカメラマンは旅を続けながら、各地の珍しい食べ物を探していた。私が前回呼和浩特で食べた稍麦を紹介したところ、ぜひ食べたいということになり、駅前の食堂を探す。稍麦、焼麦とも書くが、これはいわゆるシューマイの原型だと考えられる。形は大きいが、中身はシューマイの具と同じ。但しここでは羊肉が使われることが多い。これが後に広東まで渡って、あの小型のシューマイになったのだろう。

 

蒸籠、26元前後。ただこの食堂はチェーン店であり、漢族が経営しているらしく、店はきれいで豚肉もあった。やはりこういう料理は、モンゴル族の店で食べた方が味もよかったはずだ。風情もなく、漢族の客で溢れかえっているので、うるさくて仕方がない。Nさんも残念そうだ。

 

食後は万里茶路研究の鄧九剛先生を訪ねるつもりだったが、北京に行っており不在だと事前に分っていた。それでも先生から展覧館には行け、と言われたので、タクシーに乗って行ってみた。だが館は閉まっており、人はいない。知らされていた番号に電話すると林さんがやってきて中に入れてくれた。最近は誰も使っていないのか、非常に館内は冷えていた。取り敢えず一通り案内してくれたが、写真の展示を見るぐらいで特に資料もなく、収穫はなかった。

 

館の裏が清代のラクダの集積地だったというので、外へ出てみた。麻花板と書かれた石碑があった。この付近は既に不動産開発が行われており、石碑は後から建てられたものだった。そういえば、この道路の反対側は確か競馬場だったはず。モンゴルの歴史的なものと何か関係はあるのだろうか。

 

林さんが『先生から劉さんを紹介するように言われています。今から劉さんのところへお送りします』というので、よくわからなかったが、道路脇に立っていた。林さんも一緒に待っているので、誰かが車で迎えに来て来るのだと思っていたら、立派な車が到着し、ネクタイをした運転手が恭しく降りて来た。この時初めて私は微信でタクシーを呼べることを知った。これなら小さな会社は車を持つ必要もなく、運転手もいらない。雨でも濡れて待つ必要すらない。何とも画期的だ。

 

しかも行先は既に入力されており、料金も微信から落ちるので、我々は払うことさえできなかった。何だか途轍もないシステムを見た思いだった。日本にこんなシステムはない。既にGDPだけでなく、ある部分で中国は完全に日本を追い越してしまった。この車だと例え荷物を忘れても出てくる確率が高い。今の中国人にとって極めて有用なサービスだった。

 

劉さんの店は意外と遠かったがいくらかかったのかもわからない。とても優美な茶馬驛駅という名前だった。入った瞬間に牛の皮にくるまれ、台車に載せられた昔の茶が目に入った。これが万里茶路を馬やラクダで運ばれた茶葉だったのだ。写真も豊富に展示されており、我々にはとても有益な場所だった。

 

更には日本、イギリス 清代 宋代 モンゴルなど6つの違った空間で茶を体験できるスペースまであった。日本の茶道も出来るようだ。こんな教室が呼和浩特にあるとは驚きだ。勿論政府の支援もあり、政府イベントなども手掛けているという。同時に茶芸教室、茶葉販売の販売も行っており、お茶に関心のある人々が出入りしていた。因みに劉さんは大学院まで出た才媛で、地元の優良企業、蒙乳で働いていたらしい。あまりの激務に会社を辞め、今の仕事を始めたという。

 

万里茶路の研究も行っているようで、中国は勿論、ロシアやモンゴルなどの研究員とも連携しているという。試しに万里茶路の詳しいロシアの研究員はいるかと聞いたところ、何と我々がこれから行く、ロシアとモンゴルの境、キャフタの博物館の研究員を知っているという。是非にと紹介を頼んだ。今回の旅でも中国は何とかなるが、ロシアはお手上げだった。この情報は実に貴重であり、その後劉さんを煩わせながらも、ついには目的に辿り着くことになる。

 

劉さんが夕飯を食べようと誘ってくれたので、モンゴル火鍋へ向かう。ここで頂いた羊肉は本当に美味かった。彼女も『モンゴルまで来て羊を食べないなんて』と言って勧めてくれた。ウマシ!白酒39度も登場し、S氏とNさんはいつもと勝手が違うといいながら、乾杯を重ねていた。2人は結構酔っていたので、タクシーで帰る。さすがに夜は極寒だったが、火鍋で体が温まっていてあまり感じなかった。だから皆、羊を食べ、火鍋を食べるんだということを体感できた。

 

1225日(金)
大盛魅へ

 

翌朝はゆっくり起きた。このホテルは朝食付きとのことだったが、隣に併設された永和というチェーン店で食べる仕組みだった。一人10元の券を渡され、好きなものを頼む。私はピータン粥と餅で合計9元だった。元々あったであろう食堂は廃止されていた。何となく味気ないが、これが今の中国の現実だと思う。ホテルも商売が難しくなっている。駅前だからと立地に頼るのは難しい。高速鉄道の駅は皆別にできているのだから。

中国鉄道縦断の旅2015(10)呼和浩特のクリスマスイブ

今日の列車は夜行で出発は夜の11時。時間はたっぷりあるので、バスで山西博物館へ行ってみた。今朝も通ったので地理は掴んでいた。黄河の支流、汾河が街の中を流れている。橋を渡りバスを降りて歩くと、その先に巨大な建物が見えた。それが博物館だった。入場は無料なのだが、チケットをもらう必要があり、大きく回っていく。

 

本当に大きな入り口を入り、見学がスタートした。我々の関心事は万里茶路で活躍した山西商人について。専門コーナーがあるのはさすが山西省だ。山西商人は清朝時代に主に、ロシア・モンゴル貿易を軸に活躍し、巨万の富を得た。商人ではあるが、ある意味では外交官でもあり、またある意味では金融業者でもあった。貿易には金が必要であり、決済できなければ成り立たない。

 

山西省、特に祈県は19世紀以降金融の中心であり、票号と呼ばれる送金為替業務を営む金融業者が中国全土に支店を持ち、その役割を担っていた。茶貿易は勿論茶葉の売買だが、それは金融でもあった。そんなことが詳しく説明された立派な展示があった。清末には日本にまで支店を出し、その貿易活動は広がっていたのだが、清朝の滅亡とともにその繁栄は消えて行った。

 

帰りは川沿いを歩いて行く。夕暮れはさほど寒さを感じない。慣れたのだろうか。ここでもマンションの建設が進んでいる。迎沢橋という名前の橋。毛沢東を迎えたのだろうか。寒くないと言っても川は凍っている。バイクに乗る人々は風除け+手袋のような布を前に、橋を走り抜けていく。

 

橋の先でバスに乗り、駅前まで戻ってみたが、寒いのでケンタッキーに入る。安くて休めると思ったのだが、ここのコーヒーは何と16元もした。最近はマックもそうだが、客単価をあげるため、付加価値のある?商品を投入している。店舗もそれなりにきれいで、Wi-Fiも繋がり、若者でにぎわっているが、おじさんの来るところではないように思う。

 

夕飯は北京火鍋となる。久しぶりに煙突から火が噴き出す火鍋に出会った。肉はちょっとで 野菜をタップリ食べた。火がすごく強くて熱い。満員の店内は暖かさに包まれる。だが外に出たとたん、その幸せは消え失せる。でも我々には行くところがない。仕方なく宿泊していたホテルのロビーで体を休める。10時には駅に向かう。

 

太原駅ではちょっとした不安があった。武漢で買った呼和浩特行の切符、駅員がパスポートナンバーではない番号を打ち込んでいた。もし番号が違うと言われた場合、果たしてこの駅で処理してもらえるのだろうか。この番号はミャンマービザの番号だったが、それを説明すれば分かってもらえるのか。もし買い直しとなった場合、切符は買えるのか、時間的に間に合うのか。

 

しかし全ては杞憂に終わる。係員は一瞥しただけで、駅に入れてしまった。これでチェックの意味があるのか、などと思うより、安堵した。外は寒いが室内は温かい。向こうの方を見ると何と給湯器の横にカップ麺専用テーブルが置かれており、夜中にもかかわらず大勢の人がカップ麺を食べている。これを宵夜というのだろうか。

 

硬臥の車両に乗り込むと3人とも下段であった。S氏は『以前中国の硬臥、特に下段の切符は買うのが大変だったが、今回は何でこんなに順調なんだろうか』とつぶやいている。今や飛行機もあり、高速鉄道もある。我々のような旅をする人は勿論少ないが、全体的に昔の列車旅が減っているのではないだろうか。

 

11:08に列車は太原駅を離れた。車内は明るかったが、すぐに消灯となる。すると大きないびきがいくつか聞こえてきた。それは眠れないほどすごかった。今回の一連の列車の旅で、中国人が太ったと感じると同時に、いびきが煩いとも感じる。これもまた経済発展の代償なのだろうか。色々と頭を巡らしているうちにいつしか自分も眠りに就く。

 

車内は暖房が効きすぎて暑いぐらいとなり、掛け布団を放り出す人、中には裸で寝る人もいる。夜が明けた頃、外を見ると雪が積もっている。呼和浩特は太原よりさらい寒いのだろう。 朝飯を10元で売りに来たが、食べる元気はなかった。ただただ外を眺めて、今回の旅の辛さを思い出す。でもまだこれで終わりではない。

 

8. 呼和浩特
1224日(木)

8:58呼和浩特東駅に着いた。ここも大きな駅だが、周囲は建物が少ない。まずは呼和浩特駅へ移動。無料バスがあるというので乗ってみたが、満員の上、市政府前までしか行かない。2番バスに乗り換えて駅前へ向かう。1元。呼和浩特には何度か来ており、土地勘はある。当たり前だが相当に寒い。小雪も舞い始める。車内も寒く、心が沈んでいく。

 

駅周辺でホテルを探す、ということはしない。まずは呼和浩特駅に入り、北京行き列車の切符を買う。いい時間の列車があっさり購入できて驚き。これで呼和浩特も1泊だけと決まる。それからホテルを探す。ホテル王府は200元の3人部屋。かなり古い感じだが、エアコンがあり、何とか寒さはしのげそうだ。ホテルでチェックインの時、プレゼントが渡される。開けてみるとリンゴが1つ入っていた。気が付けば今日はクリスマスイブ。中国でもクリスマスが定着しているのだろうか。それにしてもリンゴ1つとは面白い。

中国鉄道縦断の旅2015(9)冬至 太原で餃子を食す

9:56武漢始発の高鉄に乗る。この旅で初めて速い列車に乗った。昆明にはまだ高鉄は通っていなかったから昔の旅を楽しんだが、今や中国はどこでも高鉄の時代。武漢から北に進路を取り、河北省の信陽を通る。信陽もその昔行ったことがある。毛尖という有名な緑茶があるからだ。実は中国ではこの信陽より北では茶葉の商業生産は行われていない。北限ともいえる。本当は降りてみたかったが、無情にも列車はどんどん進んでしまう。

 

今日も天気は良くない。靄で何も見えないところが多い。そんな中でも列車は300㎞のスピードを平気で出していく。以前は350㎞だったが、最近はこれでもスピードを抑えている。Nさんは乗務員にカメラを向けるが車内撮影拒否。掃除の女性など、凄い剣幕で拒否している。

 

昼はどうするか。高鉄の弁当は45元もするので、敢えて買わずカップ麺を取り出す。超現代的な高鉄の中で3元のカップ麺を啜る。これが絵になるというのだ。確かに中国のカップ麺は偶に食べると美味しいと感じる。周囲でも皆が湯を汲みに行き、カップ麺のにおいが充満する。そんなところへさっき45元だった弁当が値下げされ、20元で販売されるが買う人などいない。

 

あっという間に列車は河北省の石家庄まで来てしまった。どうやらこの路線、まっすぐ北へ向かったのではなく、北京方向へ走っていき、ここで西へ進路を取り直すようだ。それでスイッチバックという現象が起きた。鉄道ファンなら興味のあるところかもしれない。一部乗客が降りると、残った乗客は一斉に席を立ち、座席を回転させ始める。それは運動会の競技のように全員参加だった。中国でも、見ず知らずのみんなが力を合わせる、こんな光景が見られるんだなと妙な感慨にふける。

 

30分ほど停車した後、太原に向けて出発した。周囲には雪が残っており、相当に寒いと感じられた。列車の窓から見えるのは一面の丘。夕方になり、少し太陽が出てきてホッとする。高速鉄道の旅、6時間は終わりに近づいている。それにしても高速というだけあってやはり速くてよい。

 

7. 太原
冬至の夜

列車は太原駅を通過し、16:00に太原南駅に到着した。駅自体は新しく、大きいが何もないがらんどうだった。やはり太原駅へ行こうということでバスを待つが、相当に寒い。ボロバスがやってきて市内へ1元で行った。スピードは凄く遅い。白タクが10元で行くというので、乗ればよかったと後悔しても私に選択権はない。市内はかなり広く、乗客はどんどん増えて行き、結局50分もかかってしまった。

 

太原駅前、あたりは暗くなり始めている。風も吹き寒さが堪える。早くねぐらを探さなければということで、駅横の宿に入るが、外国人はダメと断られる。ショックだ。国防賓館、鉄路賓館などという興味をそそるホテルもあったが、すべて外国人はお断りだった。仕方なく、駅前の結構立派な昔風のホテル、中城賓館に入る。シングル179元、ツインは209元。私は狭い一人部屋となる。

 

夜は本当に寒かった。部屋には暖汽があるので暖かかったが、外は零下5度以下。近所に湯気に上がっている食堂があったので真っすぐそこへ入る。気が付けば今日は冬至!餃子を食べる日だった。一人で1斤も食べている人がいる。3人で80個食べるおじさんもいた。皆餃子なんだ。暖房が効いていて暖かいが、美味しい餃子を口に入れると更に暖かく感じる。でも隙間風も吹いて、やはり寒い。

 

流石に疲れからだろうか。ちょっと風邪気味になっている。喉はゴロゴロ、何となく体はスースー。これは熱が出る兆候だと思い、スーパーでオレンジジュースとビスケットを調達して、部屋で軽く食べて、シャワーを浴びてサッサと寝入る。こういう時には暖かい部屋で十分な睡眠をとるのが一番だ。

 

1223日(水)
なぜか石炭工場へ

 

朝起きて熱いシャワーを浴びると気分はすぐに治った。でも朝飯のビュッフェには粥もなくパンもなかった。残念。散歩しようと言われて外へ出る。駅前のバス停をキョロキョロしていたS氏が当然、ここ面白うそうだ、と言い出す。ちょうどそのバスが来たので、郊外の選炭廠へ行くことになった。なんで?

 

街中を走り抜けて、約1時間、1元。ゆっくりと市内から郊外へ走りゆく。着いたところは選炭廠であり、国営時代の名残が色濃かった。ここはそれが1つの街なのだ。敷地内に多数の住宅があり、工員と家族が今も住んでいる。山西省と言えば確かに石炭が有名だ。でも最近は石炭価格が暴落し、経営は厳しいことだろう。何となく消えゆく街、という感じで見てしまった。工場には入れないので周囲を歩いていると線路が見える。引き込み線があり、石炭が運ばれているのが分かる。

 

 

30分に一本のバスのバスに走って乗り込み、駅前に引き返す。ホテルのチェックアウト時間である12時に何とか間に合った。このホテル、清掃員の愛想が実にいい。田舎のおばさんに見えるのだが、何故だろうか、天性、それとも教育?ホテルに荷物を預けてランチに出る。山西省と言えば刀削麺だ。でも汁は殆どなし、麺にはこしがあった。満足。

中国鉄道縦断の旅2015(8)武漢長江大橋を渡るも

1221日(月)
武漢へ

 

翌朝はゆっくり起きて、朝食を食べる。9:15にホテルをチェックアウト。現金をセーブするため、昨晩曲がってしまったATMカードで決済を試み、何とか払えた。これからはカードで支払いができる場所は全てこれで支払うことにする。人などいないと思っていた赤壁駅だが、意外と多い乗客がいた。

 

10時発の武昌行きに乗り込んだが、なぜか満員。後で見ると、2号車以降は空いているので、切符の売り方でそうなってしまったらしい。旅慣れたS氏などはすぐに移動するし、Nさんはカメラマンだから常に動いていて、1号車からは姿が消えていた。さすがだ、これは立派な仕事なのだ、私以外は。

 

途中でという場所を通過した。そこには茶畑があるようだった。初めて聞く地名だが、武漢に近づいても、茶畑があるというのは、この付近が100年以上前に一大茶産地だったことの証ではないだろうか。当然武漢に近い方が輸出、輸送にも便利な訳だから、あたり一面が茶畑になっていたということだろう。今回は見られなかったが、次回は必ず身に来よう。

 

5. 武漢
長江大橋を渡るも

 

11:30に列車は何事もなく武昌に着いた。もう明日のチケットは買われているので、ここでの1泊は決定しており、駅前でホテルを探す。駅横に簡易ホテルがあるのを見つけて飛び込む。2段ベッドが入った3人部屋があり、238元。部屋に入ると、何とドラえもんの絵が貼ってある。ここは若者向けの宿だった。

 

俗に武漢三鎮、武漢には大きく3つの街がある。武昌から漢口へ、地下鉄でも行けそうだったが、なぜか歩き始める。宛は何もない。何となく長江を目指しているようだ。昼時なので名物、熱干麺を食べてみるため、チェーン店に入る。ゴマダレ味で、小麦粉の味がした。11元。横で定食を食べている人のご飯の盛りがすごい。

 

更に歩いて行くと向こうの方に黄鶴楼が見えてくるではないか。道が北京並に広く、歩くのが大変。実は私が武漢に来るのは28年ぶりのこと。その時黄鶴楼には登った記憶があり、懐かしい。だが近づいて見てびっくり。入場料80元は何とも高く、断念。その横の寺を見ただけで去る。中国の観光地の入場料、何とかならないのだろうか。

 

その先には長江大橋があり、徐々に橋に差し掛かっていく。1957年完成、全長1670m、長江に最初に架かった大橋だ。靄がすごい。風も非常に強く感じられる。ロシア、当時のソ連の技術支援を受けて、上が道路、下は鉄道という二層式で作られた。少し歩いて行くとロシア風建築があったので、そこで小休止。

 

S氏はこの建物に興味を持ち、まだ橋の4分の1ぐらいの場所なのに、階段を下りて行ってしまった。下には見学室あり、建設当時の資料や写真が飾られていた。これがどれだけの難工事であったかを物語っており、武漢とソ連の結びつきの強さが感じられる場所だった。 非常にクラシックなエレベーターで下に降りる。2元。

 

川沿いに出ると人だかりがしていた。行ってみると、何とこの寒い中、寒中水泳をしている人々がいた。いずれも老人で、水泳クラブの人たちだ。昼間とはいえ、体感温度は零度以下ではないだろうか。裸の老人をダウンジャケットを着た若者が眺めて、写真を撮っている。何とも不思議な光景だ。壁を見ると、毛沢東の絵が描かれていた。毛沢東は何度も長江で水泳をしており、その名残?だろうか。いずこも老人は元気だ。

 

川から離れると古い街並みがあるかと思いきや、特に目立つものもない。疲れてしまったので漢口側へは行かずに帰ることにした。バスは見付からず小雨が降ってきたのでタクシーに乗る。初乗り10元、赤壁の4.5元はやはり異常に安い。漢口を見ないで万里茶路を語ることはできなかったが、この旅はそのような旅ではないと思い直し、部屋で休んだ。

 

夜は農家料理の店に入る。何となく隙間風が吹き寒いが、鍋の湯気があったかくてよい。いくつか料理を頼んだが、味はまずまず。でも農家料理なのに153元もした。今や中国の大都市では安く飯を食うことは至難の業だ。我々のように美味しいものを食べようという目的がない者にはちょっと辛い。夜は二段ベッドの下で安眠した。

 

1222日(火)
太原へ

 

翌朝は駅前から地下鉄4号線に乗り、高鉄武漢駅へ。武漢には3つの街の駅があり、更には最近できた高速鉄道駅もある。地下鉄で行けるからよいかと思っていたが、4元の切符がなかなか買えない。自動販売機の故障が多いのだ。ちょっとラッシュ時に当たってしまい、すごい人で溢れている。武漢の地下鉄は124号線が既に開通しているが、機能するのはこれからか。

 

武漢駅はすごく大きくて立派だった。余裕を持って着いたので、ここで朝飯を探す。中国の高鉄駅に入っている店はどこも同じチェーン店で面白くない。しかも安くはない。仕方なく、カンシーフーの店に入ってお粥を食べた。店内でトイレを探したが、外だと言われ、行ってみると、本当に外の公園の中の公共トイレであった。こんな立派な駅なのに、どうしてトイレをちゃんと作らなかったのか、こういうのが中国の謎である。

中国鉄道縦断の旅2015(7)羊楼洞散策

羊楼洞散策

この田舎の畑の真ん中で、ロシア人が建てた茶工場を発見した喜びに浸っていた私の耳に、衝撃的な言葉をS氏は発した。『ここでタクシーを返そうよ』、それは私にはありえない言葉でしかなかった。ここでタクシーに乗らないでどうやって街へ帰るんだ、と心の中で思っていると、そこを見透かしたように『人間が住んでいるところでは何とかなるものさ』と突き刺されるような言葉が飛び込んでくる。

 

この言葉をS氏が発するとその重みは格段だった。これまで幾多の試練を乗り越えてきた彼だからこそ言えることなのだ。私は救いを求めるようにNさんを見た。彼もまたちょっと困った顔をしていたので、ここは中国語のできる者同士、結託することにした。運転手に『バスが走っているところまで連れて行ってくれ』と頼み、それでS氏の了解を取ったのだ。

 

車は10分ほど走ると、羊楼洞の古道に着いた。バスはここから出ている訳ではないが、羊楼洞に来たら必ず来るところだと言われた。狭い石畳の道を歩いて見る。そこには清代の茶荘の跡など、羊楼洞の茶の歴史が凝縮された跡が残っていた。中には日本軍の爆撃で壊されたという建物もあった。こんな所まで日本軍が侵攻してきたのか、それほど重要な場所だったのかと分かる。茶葉貿易が如何に儲かる商売なのか、そしてその基本は茶葉を押さえること、そのために山西商人や広東商人、そしてロシアやイギリスなどがここでしのぎを削ったことだろう。往時のにぎわいを想像する。

 

今は観光地化してきれいになっているこの道には土産物屋も並んでいた。だが寒いので観光客は殆どいない。中を覗くと不思議なものがあった。米磚茶と呼ばれる紅茶の粉末をブロック状に固めたお茶だった。機関車のマークがついている。往時ロシアなどに輸出されたものを復刻した物らしい。その時はそれほどほしいと思わなかったが、後になって買っておけばよかったのにと後悔した。古道に住む人々は人柄が穏やかで、にこやかに炭で暖を取っている。この辺には暖房というものがなく、火鉢に当たるなどするしかない。我々にも当たっていけ、と勧めてくれるのが嬉しい。

 

タクシーにまた乗り込む。バスの走っている村へ向かう。大きな工場が見えた。あれは元国営工場、趙李橋に違いない。私はすぐに降りてそこへ行きたかったが、取り敢えずバスを確認することにした。タクシーが止まったところに確かにミニバスが数台止まっていた。運転手に礼を言うと『3人ならこの車に乗って戻っても料金はそんなに変わらないのに』といかにも残念そうだ。それでも紳士の彼は大人しく一人戻っていく。

 

ここはどこなんだろうかと周囲を見るとS氏が『これは廃止された駅じゃないか』という。確かに我々の後ろの建物は既に使われていないが、駅のように見える。近所で聞くと『もう20年以上も前になくなったよ』と寂しそうに言う。旅行作家S氏、そのネタの引きの強さにはこれまで何度も敬服してきたが、今回も又すごい。

 

ここは昨日赤壁まで乗って来た列車で通ったはずだ。1918年に開通した粤漢線の一部であろう。往時は茶葉をここから広州まで運んでいたのだろうが、最終的に道路の発達で、鉄道の意味合いはすれてしまったのかもしれない。いや茶葉の輸出量に陰りがあったのかも。ただ鉄道は今も走っており、乗客の減少で人が乗れる駅が無くなったということだろう。

 

それにしても寒い。取り敢えず昼も過ぎたので、近くの食堂に入る。店主がテーブルの下に炭を入れて、毛布で覆っており、そこへ足を突っ込んでいた。我々はその席を譲ってもらい、温まる。炭こたつだ。ランチは当然湖南料理。寒い時は辛い物を食べると体が温まって元気が出る。

 

食後、数分歩いて、趙李橋茶業へ向かう。門もデカいが、倉庫が凄く多い。今日は日曜日で誰も出勤しておらず、中に入ることもできないので、外から写真を撮るだけにする。この茶工場の名前は内モンゴルで何度も見た。モンゴル族が常に飲む青磚茶はその多くがここで作られているのだ。前身はロシア人が建てた工場だったようだが、今日は歴史的な経緯などを知ることもできない。ただ道の反対側にはやはり鉄道が敷かれており、ここから茶葉が運ばれ、貨車に載せられていた、いやいるだろうことが想像できた。次回ここに来る機会があれば、是非この工場の歴史を知りたいと思う。

 

ミニバス乗り場へ行くと赤壁行がある。満員になると出る仕組みで3元。市内まで先ほど来た道をとぼとぼ折り返す。40分ぐらいで着く。それにしてもあの畑の中でタクシーを返していたら、この旅はどうなっていたのだろうか。全く違う世界が見られたのではないか。安全地帯に入ると、人はそう思うものである。

 

赤壁の街中でバス降りる。まあそこそこの規模の街なので、少し散歩でもと思ったが、S氏がホテルへ帰ろうというので、駅へ行くバスを探す。皆が細い道を行くので付いていくと、近道でバス停へいけた。道は意外と混んでおり、乗客も多い。途中追突事故を目撃。15分位でホテルへ戻った。夕飯は早めに出て、干鍋を食す。今日はご飯もあった。夜部屋で気が付くと、何と中国のATMカードが大きく曲がっている。これではATMから現金を出せない。私はこれを頼りに中国で旅をしてきたので何とも困る。

中国鉄道縦断の旅2015(6)羊楼洞の茶工場

5. 赤壁
ようやくシャワーを浴びる

駅前には本当に何もなかった。長沙とは大違いの田舎の駅へ降りてしまった。既に暗くなっている。とにかくここで泊まり、何としてもシャワーを浴びたいと思っていた。2日前に瑞麗で温いシャワーを浴びたきりなのだ。必死で目をキョロキョロさせると、城市ホテルという文字が飛び込んできた。

 

『ここなら泊まれますよ』と私は勢い込んで言い、S氏も他に行く当てがなくて、一緒にホテルに入った。実はこのチェーンホテル、私は以前泊まったことがあり会員になっていたのだ。1179元の会員価格、出来たばかりのきれい部屋。幸せだった。3人部屋はなかったので、私は一人になった。部屋が暖かい。何とエアコン暖房が付いているではないか。早々にシャワーを浴びた。実に気持ちがよかった。体が心から温まる。

 

腹が減り、皆で外へ出た。だが飯屋はどこも閉まっていた。この駅は本当に乗客も降りないかのように何もない。ようやく明かりが点いている一軒を探し当てたが、何と『ご飯がない』という。仕方なく、おかずだけを頼み、ご飯なしで食事をした。中国でもこんな経験は初めてだったかもしれない。それでも夜はふっくらしたベッドで休むことができた。人間の幸せとは、こんなことかもしれない。

 

1220日(日)
いざ羊楼洞へ

 

翌朝、まずは恒例の駅へ行き、切符を買う。ここから武昌までは硬座で1時間半。その先の武昌太原の高速鉄道の切符まで買えてしまった。但し駅員が慣れておらず、外国人である我々の名前や番号の打ち込みが異常に遅く、他の客の迷惑になってしまった。赤壁というから外国人観光客も沢山訪れているかと思ったが、鉄道で来る人などいないのだろう。

 

何故赤壁で降りたのか。それは赤壁の古戦場へ行く為ではなかった。S氏はあれだけ世界中を歩き回っているが、基本的に観光地には行かないという。北京の万里の長城へ行ったことがないと聞いた時にはひっくり返って驚いた。興味がなければいかない、それはそれでよいと思う。

 

我々の目的地は羊楼洞だった。それは昆明長沙の列車に乗っている時、S氏が『赤壁って、こんなところにあるんだね』と言ったことに始まる。私は以前CCTVの番組で『ロシア人が150年前に建てた茶工場』というのを見ていたが、その場所が確か赤壁の近くにあったような気がする、と言ったのを彼は聞き逃さなかった。それだ、と言い、赤壁駅へ行くことを決めたのだ。

 

慌てたのは私の方だ。何の情報も持っていないのだ。どうやって行くかも、その工場がどこにあるかも全く分かっていない。S氏は駅前でいきなりタクシーを止めて、乗り込んだ。『羊楼洞へ』と私は言った。メーターで4.5元開始だった。いまどきこんな安いタクシーがあるのだろうか。少し行くと赤壁の街があった。駅はやはり街外れの辺鄙なところにあったのだ。 この街の不動産価格は3000元台/㎡、と運転手は言う。

 

『ところで羊楼洞のどこへ行くのかね?』と運転手に聞かれ、口ごもる。『実は150年前のロシア人が建てた・・』と言ってみたが、『そんなの知るわけないよね』と一蹴されてしまった。取り敢えず彼が知っている茶工場へ連れて行ってもらうことで収まったが、前途はどう見ても多難だった。

 

30分後、茶畑が見えた。かなり揃っているきれいな畑だった。羊楼洞茶業の基地と書かれていたが、休みなのか、大きな工場の門は閉まっていた。それでもここに茶畑があったことに、言い出しっぺとしてはホッとした。更には知っていくと、冬の畑が続く中に、その古びた茶工場はあった。

 

 

松峰老知青と門のところに書かれていた。それを見ただけでここが文革下放青年の農場だったと思い当たる。中の建物には古びた写真が展示されており、それを物語っていた。最近文革時代を懐かしみ、ここで労働した人々が戻ってきて飾ったのだろう。それにしてもその古びた様子が、実に絵になっている。カメラマンのNさんは『こんなところに来られて幸せだ』と喜び、盛んにシャッターを切っている。だが我々の目的地はどこにあるのだろうか。

 

人を探したが、よくわからないという。仕方なく門を出て、畑をグルッと見渡した時、ピンと来るものがあった。向こうに見えたがっしりした建物、あれは確かにCCTVに映っていたものではないのか。私は駆け出していた。近づくと確信が高まった。建物の中を覗き込むと、製茶道具がそのまま置かれているではないか。それでもこれだけで断定してよいのか。近所に聞き込みを掛けることにした。

 

近所と言ってもそんなに家があるわけではない。取り敢えず飛び込むと、おばさんは『知らない』と言いながら、老人を呼びに行く。父親だという76歳のお爺さんは『ロシア人とは会ったこともないよ』と笑いながらも、『祖父から向かい側にあるのがロシア人が建てた茶工場の跡だと聞いている』と証言した。後で思い出すと、CCTVの番組に出てきたのもこのお爺さんだったかもしれない。

 

『昔はこのあたり一面、茶畑だったこともあるよ』と懐かしそうに話す。100年前は凄かったんだろうな。それにしてもなぜこんなところで茶作りが行われたのだろうか。今でも茶畑はあるが、全て付近の大手茶工場に茶葉を供給しているそうで、ここでの茶作りは既に終わっていた。今は使っていないという工場に入ることはできなかったが、焙煎設備が見える。

中国鉄道縦断の旅2015(5)長沙の茶葉市場で

茶葉市場で

取り敢えず開いている1軒の店に入った。S氏が心配そうに『中国茶って、意外と高いよね。店に入ったら何か買わなければいけないでしょう』という。私は茶葉市場には慣れているので、そんな言葉を聞き流して、安化黒茶について、あれこれ質問を始める。それが今回のサブテーマである万里茶路に繋がるからである。

 

安化黒茶といってもその種類は多い。黒、花、茯、千両茶など多彩だ。ただ往年の安化、茶畑は多かったが、あくまでも原料の供給基地としての位置づけが強い。完成品を作り始めたのは100年にも満たない。更には長い間、辺境茶を作る場と位置付けられ、漢族が飲む高級茶はなかった。安化紅茶は100年以上前から作られていたが、今は殆ど作られていない。ロシアへ運ぶものが無くなったからだろうか。

 

先方もわざわざ日本から来たのかと言って歓待してくれた。我々の質問にも丁寧に答えてくれ、様々な茶を飲ませてくれた。これは実に有り難い。以前は安い辺境茶のイメージだった黒茶だが、今では湖南省政府の支援もあり、かなり知名度があがり、長沙でも黒茶の店が相当に増えた。そんな試飲を3軒ほど繰り返した。するともう昼になる。

 

昼飯は湖南料理を食べようということになり、店の人が推薦してくれたレストランを目指す。湖南料理は中国で一番辛い。辛くないのを注文したが、それでも十分に辛い。写真をとっても黒っぽくなり、見栄えはイマイチだが、なぜか美味い。満腹になるまで食べてしまう。そしてすぐにトイレに行きたくなる。刺激が強すぎるのだ。

 

午後はもう一つの茶葉市場を目指して歩いたが、何だか高橋服飾市場へ紛れ込んでしまう。すごく大きな市場で驚いてしまう。地方都市だと思っていた長沙だが、規模はかなりデカい。ひたすら歩いて行くと、ついに高橋茶葉市場があった。この市場でも300軒ぐらいはあるだろうか。そんな中でどこの店へ入ればよいのだろうか。

 

午前中は黒茶を攻めたので、午後は紅茶を探してみた。だが意外とない。ようやく1軒の店に雲台大葉と書かれていたので、何気なく入ってみた。紅茶はあるかと聞くと、待っていましたとばかりに喜んで、紅茶を飲ませてくれた。写真も見せてくれたのだが、その中にロシア人が写っていた。これからロシアへ向かう我々にはとても参考になる。そして何とモスクワに住む中国人茶商がいるので紹介するとまで言ってくれた。

 

更には私が3年前に安化を訪ねたことを告げる。女社長に親切にされたと話すと、何と彼女はここのおじさんの親戚だった。確かに苗字は同じ鄧だった。これには双方とも非常に驚いて、茶のご縁を感じてしまう。S氏は何が起こったんだという顔をしていたが、成り行きがよい方向なので笑顔になる。100年前に万博で金賞をとった安化紅茶を商標登録したともいう。安化紅茶と言えば、前回の訪問で持ち帰ったものが日本で大変好評だった。何ともよいご縁が感じられる。

 

赤壁へ

雨が降っている。本当は安化まで行って、茶畑を見たかったのだが、そろそろ列車の時間が迫っているのでタクシーで駅に引き返す。駅は相変わらず、人でごった返している。長沙15:46始発の列車に滑り込んだ。今回は初めての硬座。ここで硬座に乗らないと、もう乗る機会がないというので敢えて選択した。

 

硬座に乗るは15年ぶりぐらいだろうか。さすがに車両はきれいになっているように見えるが、その雰囲気は昔と変わらない。あっという間に席は埋まり、無座切符の人は立っている。我々の席もバラバラ。そんな中、向かいの若い女性は何と荷物が多過ぎてそれを座席に置き、自分は立っている。周囲を気にする様子もない。おじさんが『邪魔だから荷物を上に上げて座れ』と言ってみたが、『すぐに降りるから面倒だ』と言い放ち、友達とおしゃべりしている。

 

そうかと思うと、出発間際に乗って来た老人が、何と3人掛けの席に僅かな隙間を見付けて、割り込んで座ってしまった。割り込まれたおじさんは老人に強くは言えずに席を譲ってしまった。こんな光景、昔もあったなと懐かしい。車内の風景が違うのは、皆がスマホを持って眺めていること。まあとにかく車内は暗い。これは雨のせいばかりではあるまい。

 

1時間後に汨羅に着いた。汨羅といえば、古代屈原が身を投げた場所。粽の故郷とも言えるかもしれない。2時間後には岳陽に着く。ここではかなりの乗客が下車して、席が空く。割り込んだじいさんも、ホッとした様子でスマホを眺めている。岳陽と言えば、数年前に江南三大名楼の1つ、岳陽楼に行ったのを思い出す。

 

この普通列車、狙った訳ではないが、歴史好きが乗っていれば大喜びの地を通っていく。その30分後に臨湘着。何だか茶畑が近づいているように感じる。この先からは湖北省に入る。18:29ついに赤壁の駅に着いた。外はかなりの雨。赤壁と言えば、三国志の名場面、赤壁の戦いを思い出すが、ここはその古戦場なのだろうか。それすら知らずに下車した。

中国鉄道縦断の旅2015(4)中国の発展と貧富の差を感じる

1218日(金)
4. 昆明経由で長沙へ
極寒昆明の朝

 

午前4時の昆明駅は、本当に、本当に寒かった。当然私の旅なら昆明で1泊するのですぐにホテルを探したろうが、この旅はそんなに甘くない。既に大理で昆明長沙間の切符も買われていた。硬臥の切符が買えることがこの旅のポイントなのだ。11時台に出発するのだが、それまで7時間、昆明でどのように過ごすのだろうか。朝が早過ぎてどこかへ行くわけにもいかない。

 

取り敢えず寒いので暖かい物を食べようとお粥屋に入るも、ドアがないオープンな店で寒い。粥を食べている間は暖かいが、食べ終わるとすぐに寒くなり、座っていられない。客の回転は速い。真っ暗だが歩いている方がましではないかと外へ出る。先日も午前2時の昆明駅前を見たが、4時台の昆明駅は既に人が歩いていた。そしてまんとうなどの屋台が出ている。その湯気は何とも温かいが、それを売る人々の寒そうな姿、生活は相当に厳しそうだ。きっと田舎から出てきたのだろう。中国の貧富の格差、というのは、絶望的に大きい。それは日本で分かりえないほど深いように思われる。

 

外を歩いても寒さは柔がない。風も強い。仕方なく、今度はちゃんとドアのあるファーストフード店に入った。店内の暖かさは何とも有り難い。ミルクティもティバッグだが、温かい。朝5時台からオープンしているのが凄い。だが7時を過ぎると客がどんどん入ってきて、お茶一杯では、ここにもいられなくなる。

 

既に外は明るくなり、駅に入ることもできたので、荷物チェックを受けて中に入る。駅の待合室は暖かくはないだろうと思っていると、1階に店がある。Discoというチェーン店だが、空いている。確かにここに入れるのは乗客だけだから、一般の場所よりお客は少ない。ホットチョコレートを12元で注文。これは決して安い額ではないが、これで出発まで安泰だと思うと、眠くなる。

 

実は昆明駅のセキュリティは非常に厳しかった。夜中に駅が開いていなかったのにも理由があった。それはつい最近、この駅で乱射事件があり、死傷者が出ていたのだ。ウイグル人の犯行だったという。その現場はどこだったのだろうか。11時には2階に上がり、水や食料を買い込む。これから20時間の列車旅に出るのである。更には駅構内に設置されている充電器で充電を行う。今や充電ほど必要なものはない。

 

11:38発、北京西行きに乗り込んだ。硬臥中段は先ほどと変わらない。Nカメラマンは上段でかなり狭いようだ。S氏が『これは新型車両だから狭いんだ』と教えてくれた。そして向かいのおじさんのいびきが凄い。硬臥に乗るのは30年ぶりのような気がする。それにしても中国人が如何に豊かになったかを実感する。何しろほとんどのおじさん(おばさんも)が、寝台から肉がはみ出している。昔は皆痩せていて、そんなに太っている人は見なかったな。

 

すぐに昼の時間になり、弁当を売りに来る。30元は結構高いが、ボリュームあり。腹にずっしり収まる。しかし車内は比較的静かだ。昔は暇だったこと、外国人が珍しかったことから、すぐに誰かが話しかけてきて、煩いぐらいだったのだが、今やスマホを見て過ごす人が多く、こちらは暇になってしまう。話し掛けられて面倒だと感じられることもあるが、誰も話し掛けて来ないのもどうだろうか。S氏はしきりに次の目的地を探している。

 

ダラダラしていると夕飯の時分になるが、腹は減らない。動いていないのだから当然だろう。バスで激しく移動するのも疲れるが、何もしないのも意外と疲れる。ビスケットを食べて、昨晩の生茶を飲んで終わりにした。実は結構疲れており、中段のベッドに潜り込むと電気が点いているのに、眠りに就けた。それでも途中の駅で降りるので、ちょくちょく目が覚める。貧乏性だ。中国の鉄道の良いところは、車掌がちゃんとおこしに来てくれることなのに。まあ20時間と言っても、半分近くは寝ているので、それほど苦痛でもなかった。

 

1219日(土)
長沙散歩

7:00長沙着。既に大理昆明7時間、昆明長沙20時間の旅を送っており、今日こそはホテルに泊まるぞ、シャワーを浴びるぞ、と思っているのだが、何とS氏は切符売り場へ向かう。そして列車の中で見つけた次のターゲット、赤壁行の硬座を購入してしまう。それは私にとって地獄の宣告だった。長沙は、湖南省は万里茶路の起点であり、必ず見ておくべきところだが、そこの滞在がわずか数時間しかないのだ。しかも疲れており、おまけに雨まで降っている。

 

ここも寒い。温かいものを食べようと、駅前の李先生というチェーン店に入る。牛肉湯23元は意外とうまかった。おまけにWi-Fiが使えたので、長沙の街を検索する。数時間をどう過ごすのかを検討する。トイレもきれいでかなり気に入った場所となる。取り敢えず活動するために荷物を預ける。25元もする。これは日本のコインロッカー並だ。高過ぎるだろう、中国では。

 

とにかく傘を差して歩き出す。駅近くは昔の街並が残っている。懐かしい感じがする。大きな市場もあるが、まだ店は開いていない。ずっと歩いて行くと、ようやく神農茶都という茶葉市場へ出た。だがこの市場、全面改修中のようで、真ん中の道が掘り返されている。9時過ぎたばかりで店も閉まっているところが多い。

中国鉄道縦断の旅2015(3)観光地瑞麗と極寒の大理

1217日(木)
国境散歩

国境の街は朝8時にようやく明るくなる。フラフラと街歩きが始まる。天気は悪くない。国境まで行くと、人はまばら。やはり中国側は観光客で賑わっていただけで、普段は静かなのだと分かる。宝石店も皆閉まっている。国境のビルからずっと境界線が敷かれている。だがどう見ても、夜は潜り抜けられそうな代物だ。この線を越えてくるミャンマー人はどれぐらいいるのだろうか。逆にここから出て行く、逃げていく?中国人もどれほどいるのだろう。

 

朝飯は雲吞米線にした。熱々でウマイ、8元。それほど寒くはないが、ダウンを着たまま過ごしている。ありえない状況だ。10時前に再度国境ゲート付近へ行くと、観光客が増えていた。孫悟空の着ぐるみを着た芸人が客に笑顔を振りまき、チップを求めている。ミャンマー側へ行く客は殆どいない。

 

 

疲れたのでお茶でも飲もうと思い、ミャンマーティの店に入る。しかし何と店員と言葉が通じない。客もすべてミャンマー人、昼間もこういう世界があるんだ。横の客が通訳してくれ、ようやくミルクティにあり付く。S氏もミャンマーで飲んで以来、大好きになっている。

 

3. 大理へ
出発しないバス

昨日の運転手が11時半にホテルに迎えに来た。ここが今回スタート地点だが、残念ながら鉄道がない。まずは鉄道のスタート地点、大理まで速やかに移送するため、昨日のうちに頼んでおいたのだ。でも昼のスタートは予想外に遅い。しかも迎えには来たものの、出発しない。客が満員になっていないのだ。この運転手、毎日のように800㎞の道のりを往復している。赤字になる運行はしない。

 

瑞麗大道沿いで車を停めて『まずは昼飯を食え』という。早く走ってほしいのだが、それは無理な相談のようだ。どう考えても路線バスに乗った方が確実だった。でも今更仕方がない。飯を食い、周囲を歩き時間を潰す。更には午後1時過ぎてから郊外の物流センターに客を拾いに行く。ようやく1時半に瑞麗を離れる。この物流センター、規模が大きい。乗って来た客は何と山東省から3日以上掛けてトラックを運転してきたらしい。今から故郷へ戻るというのだ。

 

昨日のパスポートチェックポイントに着く。今回は係員がやって来た。運転手に色々と聞いている。どうやら我々の行動が特殊だったため、怪しまれたらしい。それはそうだ、観光だと言いながら、昨晩着いて、すぐに引き帰している。何か運んでいるのではないかと思われたらしく、荷物を全て検査される。我々の旅を彼らに説明してもきっと理解されないだろう。何しろ私自身が理解していないのだから。

 

何とか解放され、またバスに乗り込む。既に相当に疲れていた。他の客にも迷惑な話だったが、今日は乗っている客同士の会話もあり、Nカメラマンも加わっている。今日中に昆明に行き、明日のフライトに乗るという男性2人は、運転手の口添えもあり、1部屋に2人で泊まり、経費を浮かせる話にまでなった。さすが中国だ。

 

この瑞麗から昆明への道は、戦時中援蒋ルートと呼ばれ、重慶の蒋介石軍に米英が物資を供給した道だという。勿論日本軍もそれを阻止しようとして、爆撃などを繰り返したらしい。この道はミャンマーのティボーやラショーでも出て来たルートであり、これも1つの茶葉の道でもあったと考えられるが、今はその痕跡は見られない。

 

車に空きがあり快適に移動していたが、運転手の携帯が鳴り、保山で4人の乗客と大量の荷物を拾うことになった。もうこの時点で午後5時を過ぎていた。一体いつ大理に着くんだ、と叫びたくなる。結局夜8時に大理着。滅茶苦茶寒い。今晩はここに泊まるだろうと思って油断していた私が悪かった。大理の駅へ入り、切符を確認すると何と1時間半後の昆明行きが買えてしまい、大理は夕飯を食べるだけになってしまう。ここは実質のスタート地点だよ、そんな滞在でよいのか、と誰も聞いてくれる人などいない。

 

 

駅構内の食べる所は見当たらなかった。カップ麺でも買って食べるかと思ったが、駅の外へ出てみた。駅前には屋台だけがあった。温かさそうな湯気が出ていたので、つられてそちらへ向かう。小雪が舞う中、とにかく寒いので、米麺と包子を頼んだ。しかし待っているのは完全な外だ。風邪ひきそうで、泣きそう。

 

驚いたことに、屋台の女性はこの寒いのに赤ちゃんをかごに入れておぶっていた。これは寒いだろうが、この夫婦はこうしなければ食べていけないことを物語っていた。そこへやはり出稼ぎかと思われる若い男女が寄ってきて、一生懸命その赤ちゃんをあやし始める。これが中国の良いところだ。その光景には、本当に泣きそうになってしまった。中国の貧富の差とはなんと過酷なものなのか。そんな中でも懸命に生きる人たちがいる。

 

夜の9時半に、暗いホームから列車は大理を発った。直前に切符を買ったので、硬臥中段(2人は下段)になっていた。中段は初めてだったが、結構広い。隣の席に座っていた夫婦がお茶を飲み始めたので覗き込むと茶葉をくれた。プーアール生茶だった。どうやらお茶屋さんらしい。それを飲んでから、すぐに寝入る。5時間は寝むれた。朝4時に列車は極寒の昆明駅に入った。

中国鉄道縦断の旅2015(2)長い長い瑞麗まで道のり

1216日(水)
2. 瑞麗
瑞麗行きのバスに乗るも

8時、起きてたまげた。何と雪がパラパラと降っている。えー、12月とは言え南だろう、と言っても始まらない。ホテルの朝食も何となく冷えている。すでに心が萎えている。こんな日はどうするんだろうか。それでも外に出た。そしてどうやったら瑞麗に行けるのかの調査が始まった。普通はそれを調べた上で来ると思うのだが、この旅にはそんなものはない。全てが現地対応だ。

 

駅前を歩いていると、バスターミナルのようなものがあった。チケット売り場があるのかと覗き込むと、カメラマンのNさんが『ここから瑞麗まで直行バスがあるようだ』と言い、一人の切符売りと話し始める。9時には出るから、乗るならすぐ来い、と言われ、ホテルに戻って荷物をまとめ、慌てて取って返した。

 

そこは商店の前だった。男達がたき火をしている。それほどに寒い。そこで待っていると、ミニバスがやってきて、乗客が乗り込む。ぎゅうぎゅう詰めだ。中国人のおばさんは『これは本当にバスターミナルへ行くのか』と叫び、納得できずに降りて行った。そう、今や中国人でも騙される危険があり、誰を信じてよいか分らない。だが我々にとってはこんな旅が欲しいので、そのまま揺られていく。

 

街を少し走り、9時半ごろ、郊外のバス会社に到着した。ここで客を集め、出発するらしい。それにしても寒い。たき火しているので、そこへあたりに行く。昔は皆がこのようにして暖を取り、自然と輪ができていたと分かる。トイレは横の倉庫の中。ボロボロだ。いつになってもバスは出ない。しかしここまで来たら待つ以外方法はない。バス代もすでに払っているし、街に戻るのも大変だ。

 

10時過ぎにようやくバスが来た。ミニバスだ。ところが最後に乗り込んだ若い女性3人がチケットを買っていなかった。お金はないという。行先で待っている人が払う約束になっているというので、そちらに電話が回る。そこで、払う、払わないで押問答が凄い。他の客は、あの三人早く降りろよ、と言いたいところだが、誰一人言わない。でも本当に一人でも減れば座るのが楽になるんだが。荷物は後ろにも思いっきり積み込んでおり、後ろの三人は大変だ。

 

何と11時を過ぎた。ついに電話の相手が折れ、携帯で代金を振り込んだらしい。この辺が今の中国の凄いところだ。こちらの会社の人間が入金確認のショートメッセージを受け取り、ついに出発した。最初にバスに乗ってからもう2時間以上が経つのに、まだ昆明だ。すぐに高速に乗り、スピードが出る。でも雪だからあまり速いのも怖い。

 

午後2時頃まで猛スピードで走り、サービスエリアに入った。運転手の昼ご飯の時間だ。我々も何か食べようと見渡したが、特に何もない。寒いので麺を食べる。10元、ちょっと辛い。その後大理を通過して、保山へ向かった。4時間後に、サービスエリアに入る。もうかなり疲れていた。

 

ここで例の代金でもめた3人ともう一人男性が降りて行った。3人娘は迎えが来ており、また乗り換えだった。彼女らはどこかへ働きに行くようだ。どんな仕事なのだろうか。天気は良くなっており、南へ向かうので暖かく感じられた。景色も悪くない。もうすぐ着くよと言ってくれれば、晴れ晴れした気分になれるのに。

 

席に余裕ができたことは大きかった。でもバスは高速を降りてしまう。これはいい話ではない。前のおばさんたちの家まで行くらしい。彼らは龍陵という玉の産地で商売しているという。かなり狭い道を行く。夕闇が迫ってくる。何だか絶望的な気分になっている。おばさんたちは大量の荷物と一緒に降りて行った。

 

次は国境検問があった。場所は木康というところ。パスポートチェックが行われて、すぐに通過できた。まだ国境には相当あるはずだったが、なぜだろうか。また高速に乗る。そして夜の9時、ついに瑞麗に着いた。かなり大きな街で驚く。バスに揺られて10時間が経過していた。運転手にミャンマー国境へ行きたいと告げると、『この車は夜国境地域に入れないから、タクシーを拾え』とあっさり降ろされてしまう。仕方なくタクシーを見付けて姐告という半島の先のような場所へ移動した。

 

タクシーで着いたところは、確かにあの半年前に見た国境のゲートの反対側だった。だが今は夜で人はいない。村聯飯店というミャンマーの雰囲気の宿へ入る。フロントの女性はミャンマー人だが普通話ができる。3人で1部屋160元。かなり広いところだ。まるでミャンマーに戻った気分になる。

 

腹が減っていた。南国に夜のはずだったが、それでもダウンを着たまま出掛けた。涼しい。鍋屋の露店が出ている。よく見ると店員も客も皆がミャンマー人だった。すごい街だ。昼間は中国人が沢山いて、国境が閉まるとミャンマー人の街になる。ミャンマービルが出てくる。低い椅子に腰かけて、ミャンマー語が飛び交う。金だけは人民元だった。一体我々はどこへ来てしまったのだろうか。疲れと酔いでよくわからなくなる。