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極寒の湖南湖北茶旅2016(7)磚茶工場と収蔵家

それから街外れにある永巨茶業という茶工場を見学に行く。この12月の寒空にも工場は稼働しており、茶を大量生産しているではないか。茶葉は以前摘んだものを倉庫に入れているらしい。工場から湯気が上がっている。機械化された茶の型がぐるぐる回っている。型は未だに手で作っているものもある。原料の茶葉は大量に倉庫にストックされているらしい。

 

この会社、万里茶路の湖北ルートが盛んになり始めた1865年創業、恐らくはロシア、モンゴル向けに大量の磚茶を作っていたのだろう。その後抗日戦争時には爆撃で生産停止に追い込まれ、1984年に再建されたとある。ソ連と中国が断絶したことも再建の遅れに影響しているのだろう。

 

商品の展示を見て驚いた。なんとあのモンゴル、シベリアで売っている典型的な茶のパッケージがあるではないか。私は文字が読めなかったが、以前誰かに呼んでもらった際、『湖南省臨湘市産』と書かれていると教わったことが急に蘇ってきた。あの膨大な現代の磚茶はここで作られていたのか。歴史はそのまま残っていたということだろう。突然目の前で点と点が結びつく、こんなことが茶旅の醍醐味だ。

 

それから先ほど行った映画館跡に戻る。今度は大勢の人が既に笛やラッパなど、思い思いに楽器の練習をしていた。我々は実に古めかしい映画館の椅子に座り、それを眺める。平均年齢は高そうだが、趣味でやっている人々。指揮者が大太鼓を叩くと、一斉に音を合わせて演奏が始まる。それは思ったよりはるかにダイナミックであり、まるで映画の一シーンを見るかのように音が流れた。昔はここに毎日映画がかかり、大勢の人が食い入るように見ていたことだろう。今はDVDやダウンロードに取って代わられたが、こんな演奏が流れるとは、驚きだった。

 

ここにも老街という名の古い道があった。清末の建物、100年以上は経つものが多いようだが、最近政府が資金を出して修復した形跡がある。勿論ここに住んでいる人々もいる。建物の向こうには川が流れており、往時は物資が水運で運ばれていたことも分る。大きな倉庫も見える。茶葉もここから積み出されたのだろうか。突き当りには教会まで残っており、往時は栄えた場所だったんだな、と感じさせる。

 

昨日の老人が、自らの博物館?に案内してくれた。そこはこの老街でも一番の立派な建物の中にあった。木造の製茶道具なども展示されている。昔使われた看板なども集められており、その量はかなり多い。建物内の窓の飾りなども凝っており、相当の金持ちが住んでいたことが分かる。老人が岳陽市の政府に勤めていたが、定年で故郷に帰り、地域の歴史発掘に努めている。ただ萬さんによれば『あの老人は相当に目が利く。恐らく誰もいらないものを買い集めて、保存しているが、その価値は買った時の何倍にもなっている』という。

 

実は帰りがけ、街を歩いていて、萬さんが突然立ち止まった。そこには古い看板が置かれており、そこが簡易な骨董屋だと分かった。老人に触発されたのか、その看板を買うといって、代金交渉を始めた。確かに数百元でそれが手に入った。『私が全中国を旅している理由はこういう物を買うためだ』と言われて、初めて萬さんがいわゆる収蔵家と言われる人だと分かった。文化を大切にする傍ら、骨董品を買い集める。今や中国では1つのブームだそうだ。老人と彼は同業者、ということか。

 

武漢までの道のりで

そしてこの地を離れ、一路武漢へ向かって走っている、と思っていたが、どうやらそうでもないようで、大きな池?河?湿地帯にやって来た。黄蓋という名前らしい。向こうの方まで水が広がっている。何をするのかとみていると、船で魚を取っている人がいて、その魚を買うために集まっている人々がいた。

 

それから赤壁市博物館に寄ってみた。ここにも貴重な資料があるとのことだったが、時間が遅かったのか、門は閉ざされており、中に入ることはできなかった。残念。近くの古い井戸を見学しただけで、赤壁を去る。今回も赤壁の戦い、古戦場に行くことはなかった。車は更に武漢の方に近づいていく。

 

渋滞を避けるためか、武漢の手前の街に入る。賀勝橋東駅という高鉄の駅があったが、人は殆どいない。ここに停まる列車は1時間に一本程度。武漢までは20分ぐらいらしい。まさに高鉄景気を当て込んで、駅前だけを開発してしまった例をそこに見る。建物だけは至極立派だが人の気配はなく、実際に使われているものもあまりない。

 

唯一使われていたのは、何と鶏スープ屋だから驚きだ。しかも巨大な建物の中に滅茶苦茶広いスペースを使ったレストラン。それがこの付近に3つはあった。いくら鶏スープがここの名物で、大儲けした地元民がいるとしても、これはやり過ぎだろう。我々はそこで夕食を取ったが、お客はほぼいないので、従業員も我々につきっきりで、無駄話をしながら給仕している。確かに鶏スープは美味しく、何杯も飲んでしまったが、これだけのためにここへ来る人はどれほどいるのだろうか。鶏スープはやはり街道沿いの小さな店で飲んだ方が絵になる。この投資はとても回収できないだろう。

極寒の湖南湖北茶旅2016(6)1日に2度、湖南省へ行く

ここに来た時から王さんのお知り合いの政府関係者が同行していた。やはり地方史を研究している公務員だった彼には各地に知己が多いらしい。少し早いがここで昼ご飯を食べていけ、と言われれば、彼らのメンツを立てて、ご飯を頂くことになる。ここの川でとれた魚などが出てくる。万里茶路の水運の起点、新店ではその昔茶商が魚を食べただろうか。

 

 

羊楼洞

それから車で1時間ほど乗り、羊楼洞という表示が見えた。その付近には平地に茶畑が広がっている。政府の実験茶畑のようだ。平地なので茶葉の大量生産が可能であり、それでこの場所がえらばれたのだろう。品質よりも産量が求められていた、そういう時代が長く続いたことだろう。

 

羊楼洞の街へ到着した。前回来ているので、見覚えのある場所がいくつもあったが、車は真っすぐ、趙李橋の工場の前へ行く。ただ今回も中へ入ることはなく、横の販売所で資料探し、説明を受ける。トワイニングが1981年に社創立200周年の記念に作った米せん茶が展示されていた。トワイニングの歴史の中、このブロック型紅茶があるということだろうか。

 

それから付近のお茶屋で、趙李橋のお茶を安く買っている。さすが中国的。趙李橋の茶は内モンゴルでよく飲まれているのだが、これからもずっと飲まれ続けるとは限らない。恐らく方向転換を迫られているだろう。高級路線にちょっと厳しいかな。漢族は飲むだろうか。

 

古街も歩いた。これも前回同様だったが、今回は天気が良かった。天気が良いと同じ風景も随分と違ってみえる。人間の目というのは恐ろしい。いや、恐らく1年前と比べても改修するなど、きれいにしたところが多いのではないだろうか。萬さんはここに何度も来ており、馴染みの店に入ったりする。その店の女性が、来たお客さんには無料でお茶を振る舞っているので、メディアなどにも取り上げられているらしい。

 

私一人ならすぐに歩き終わるこの古街を、皆で回ると1時間以上かかるから面白い。写真家の劉さんは勿論、じっくりカメラを構えており、研究者の王さんは、プレートなどを確認している。どこかに見落としがないか、皆念入りに仕事をしている。私のようなフラフラ旅している訳ではない。

 

古街を突きあたり、もう行くところがないから引き返そうとしたが、萬さんはその先へ進む。そこには万里茶路の起点という石碑があった。最近できたものが一応参考まで写真を撮る。その向こうは公園のように見えたが、その中にも石碑がある。1950年の朝鮮戦争時に建てられた病院があった場所だとある。そしてそこには日本の看護師が100名近くも働いていたとの記述があり驚く。どのような経緯でここまで来たのか、傷病兵も看護師もこんな所まで来るのは如何に大変だったことか。意外なものを見てしまい、胸が騒ぐ。

 

車だと色々なところへ行ける。もう一つのせん茶ブランド、洞荘の工場にも寄ってみた。案内がないと中には入れないが、ここの立派な門を潜って眺めた光景はなかなか良かった。近年の黒茶ブームで、皆息を吹き返しているのだろうか。工場もきれいに感じられた。それにしてもドンドン南下しているようだが、今日はどこに泊まるのだろうか。

 

夕暮れが迫って来た。ちょうど羊楼洞大橋を渡った。ここから先は湖南省だという。今日2度目の湖南だ。こんなことはなかなかないな。そして臨湘市の市という場所に着いた。ここに何があるのだろうか。人がいない役所のようなところで待つと、誰かがやって来た。老人がいる。王さんの古くからの知り合いらしい。研究者のようで、お互いの最近の著作などを交換して、話がはずんでいる。だが私にはその言語は良くは聞き取れなかった。さすがに方言がきつい。

 

真っ暗になった道を行く。今日の宿は道沿いのレストランの上だった。まずは食事をする。夜はかなり寒いので、温かいなべ物などが出て心身ともに温まる。食事をする部屋も狭くて、返って都合がよい。寒い時は皆で丸くなって鍋を囲む、何だか日本を感じさせる。それから上に上がり、部屋に入る。最初は21部屋と言っていたが、結局11部屋になる。お客は省外から出稼ぎに来たと思われる3人の若者のみ。

 

夜はここで持ち込んだお茶を飲みながら話をする。皆さん経験豊富だから色々な話が出るが、専門的だったり、内輪の話過ぎたりでよく分からない。今朝は早起きで疲れていたので、先に休ませてもらう。部屋にはなぜか麻雀卓があり、ここが泊まる場所というより麻雀部屋になっていることが分かる。

 

1223日(金)
茶工場へ

 

翌朝は早く起きたが寒いので部屋にいた。萬さんなどは散歩していたようだ。8時頃になり、皆で麺を食べに行く。中国は朝ご飯に麺がある(粥は無くなりつつある)のが有り難い。その後散歩していると、民族楽器の太鼓を引っ張っている人に出くわした。街の人々で楽団を結成しているという。今日はその練習日だとか。折角なので見学に行く。昔の映画館の建屋にやってきたが、団員がまだ集まっておらず、後でまた来ることに。

極寒の湖南湖北茶旅2016(5)長江への中継地 新店

今日は茶荘へ行くことにした。実は半年間に武漢に来た時、福州の魏さんから紹介されていた場所が2つあったのだが、その時は結局行くことができなかったので、この機会に訪ねてみる。ホテルの最寄り駅ではいつも地下鉄2号線のお世話になっているが、今日は1号線に乗る。どこにあるのかと探してみると、何とモノレールだった。都市の最初は地下鉄ではなく、空中というのは台北などもそうだったかな。

 

ここの切符の自販機、壊れている。行先を押しても反応しないから、代金が分からない。適当に4元を入れると、ちゃんとチップが出てきたのだが、損したのだろうか。1号線から3号線に乗り換える。私は漢口から漢陽に移動しているのだが、地下鉄では全く分からない。初めて降りた駅では、道に迷い、大回りして、茶城に何とかたどり着く。

 

知音という名の茶城、その中の敷地も広く、建物もいくつかあり、戸惑う。何とか探し当てたそこに、平さんがいた。彼は以前茶を求めて全中国を歩き回った経験があるというので、私と近いものを感じた。茶葉を売るというより、茶文化を売るという感じだろうか。物腰も柔らかく30代半ばとは思えない、落ち着いた雰囲気がある。茶壺にも力を入れており、宜興に出向き、提携を計ったりしている。

 

彼が淹れてくれたお茶を頂く。何となく慌ただしく過ぎていく日常にストップをかけるような、ふとした安らぎを感じた。こういうことは稀な私、やはり平さんの持つ雰囲気のせいだろうか。ここはお店というより、一種の空間であり、空間というのは人が作るものだ、としみじみ思う。

 

昼頃になり、ご飯を食べようと誘われる。彼は湖北省の出身だが、武漢から少し離れた場所らしい。そこの郷土料理が食べられる食堂があるというので行ってみた。正直私は湖北内での味の違いは分からなかったが、かなりのピリ辛。それが寒い日には非常にマッチしていて、ついつい食べ過ぎてしまう。湖北は、冬は寒く夏は暑い土地柄。どちらにしても辛い物を食べるのがよい。

 

午後はまた地下鉄で3号線から4号線に乗り換えて。復興路まで行く。その駅のところに陸羽茶城がある。こちらは昔からある茶市場の雰囲気があり、ちょっと狭いスペースにぎっしりお茶屋が並んでいる。その一軒、ちょっと雰囲気のあるお店が目指すところだった。茶市場とは少し違うような。

 

中に入ると、数人の女性が茶を飲んでいたが、一斉に立ち上がり帰り支度をする。日本人が来ると聞いていたのだろうか。店は一気に静かになった。ここには白茶やプーアル茶など、湖北とは関係のないお茶が並んでいた。店主の戴さんも落ち着いた感じの人で、ゆっくりとお茶を淹れてくれた。魏さんの周りには、このような茶文化を愛する人々が集ってくるらしい。これは歓迎すべきことだ。

 

戴さんたちは、4月に湖北省の恩施というところで緑茶作りをするそうだ。そこは恩施玉露という中国では珍しい蒸し製緑茶を作っていると聞いている。これは日本と同じ製法なのだろうか、そして玉露という名前はどこから来たのだろうか。興味があるので来年の春にお邪魔すると伝えて、茶城を後にした。夜は腹が一体だったのでフルーツだけ食べて寝入る。

 

1222日(木)
羊楼洞へ

 

翌朝は午前7時に王さんがホテルに迎えに来てくれた。王さんは湖北の歴史を研究している人で、著書もあり、詳しい。前回もお世話になった萬さんに依頼したところ、王さんも同行して旅をすることになったのだ。2人で武昌駅へ向かう。萬さんの車で出発する集合場所だった。だが武昌駅も広く、参加者が集まるのに時間が掛かる。最終的に5人で出発する。

 

私の今回の目的は、武漢から北の万里茶路の道を歩くことだったが、無情にも車は南に向かっていく。どこへ行くのかというと、前回も訪れた羊楼洞、あのロシア人が150年前に建てた茶工場があった場所だった。まあ、もう一度行ってみるのもよいかと、流れに任せてみる。

 

6. 羊楼洞
新店

 

車で1時間ぐらい行ったところに新店という小さな町があった。車が停まった場所には新店明清石板街、と書かれている。ここは古くから栄えた物資の中継基地で、近くを流れる川から長江に繋がり、武漢へと輸送していたようだ。石板街と言われる古街は、羊楼洞のそれより、趣がある。また今回のメンバーは歴史研究の専門家や写真家であり、地元民との交流もスムーズで、人の家の中を見学したり、その由来を実際に聴取したりと、大いに勉強になる。

 

川に出て行くと、王さんが『水位が上がるとあそこまで行く』とか、『この古い倉庫は往時の名残だ』とか説明してくれる。更に橋が架かっており、向こうへ行けば湖南省だと言われて、驚く。ここは省境だったのか。湖北側ではこの時期、豚肉などを外で干している。湖南側では豚肉を捌いている。これが湖北と湖南の違いさ、と言われても、こんなに近いのに川一本隔ててどうして違うのだろうか。島育ちの私などには見当もつかない。

極寒の湖南湖北茶旅2016(4)何とも速い長沙から武漢

4. 長沙2
夜は茶会

 

雨上がりの長沙の夜はきれいだった。やはり安化のライトアップが凄いとは言っても、都会の明るさは全く違う。夢の世界に戻ってきたようだ。今晩は一人でゆっくりするつもりが、また集団行動になった。まあそれも中国人の集団における行為を観察するにはとても良い機会なので、黙ってついていく。自分が流れに身を任せる心を持っていれば、何とも面白い世界だ。

 

まずは夕飯。先方が招待してくれる食事はいつも豪華すぎるので、自分たちだけの時は麺などの軽い物を食べるように魏さんはしている。それは実に良いことだ。食べ過ぎはどうみても良くない。また日本のおじさんのようにビールを探すこともない。今晩は近所の麺屋に飛び込む。腹ごしらえが済むと、昨晩と同じ立派な茶芸館に歩いて行く。急な予定変更にも拘らず、昨日来られなかった長沙の茶関係者が来ており、懇談が始まる。

 

正直今日は眠かった。前向きな話というよりは、一方的な押し付けのような議論が多く、そして何より『茶業界も金が全て』のような話に終始したからだ。勿論文化を支えるのは金であり、茶業を伸ばすのも経済の力なのだが、文化を謳う割には、話があけすけ過ぎて、また声の大きな者が勝つ、という時代錯誤的な雰囲気がみなぎり、出来れば早々に退散したかった。

 

12月20日(火)
武漢へ

 

翌朝、魏さんたちが先にホテルを出て行った。急いでいるなら、一緒に行ったのだが、香港から来ていた林さん夫妻の時間に合わせて、10時前にチェックアウトした。林さんはタクシーを拾おうとしたが、雨で空車がなかったので、奥さんが微信でタクシーを呼んでくれた。すぐにタクシーがやってきたので、乗り込んだのだが、発車後運転手に電話があり、我々は違う車両に乗ったことが分かった。

 

でも運転手は『もう客が乗ったから別のを呼んでくれ』と電話を一方的に切る。こういうのはどうなんだろうか、我々は早く進めて助かるのだが。それにやってきたタクシーは、いわゆるタクシーの車体だったから、間違ってしまったのだ。今やタクシーが滴滴タクシーを兼務しているからややこしい。中国はタクシーが簡単に呼べるからすごい、とばかりは言っていられない。乱立はサービス低下を招いている。

 

確か4年前にここに来た時は、タクシーが居なくて困った。困っていると白タクが声を掛けてきて、最終的に仕方なく乗車したことがある。その時運転手の話では、政府はわざとライセンスを出さず、タクシーは利権になっている、そして白タクは失業対策で黙認されている、と言っていたのを思い出す。あれから大量にライセンスが出たのだろうか。白タクと滴滴タクシー、そしてライセンスタクシー、そういう関係になっているのだろう。

 

タクシーで30元、長沙南駅に到着した。既に切符を持っていた林さんたちは深圳に向かった。私はここで切符売り場に並び、何とか席を確保したのは30分後。いつものことながら、パスポートを持つ身は辛い。それから荷物検査を潜り、すぐに乗車となった。何と1時間後には武漢駅に到着した。途中停まる駅はなかった。1年前の普通電車、合計5時間は何だったのだろうか。それにしても早過ぎる。

 

5. 武漢
何も予定のない日

 

武漢駅に到着した。駅を降りると、何と丸亀製麺が店を出していた。ついにここまで進出してきたか。余程食べてみようかとも思ったが、取り敢えず定宿へ向かう。この駅からは50分ぐらいかかるので、結構大変だ。いつもの駅で降りると、かなり雨が降っていた。出口からホテルまではすぐなので、それほど濡れずに着いた。

 

ここでは後輩のKさんが日本料理屋をやっているのだが、なぜかランチはやっていない。儲からないらしい。確かにビジネス街でもないので、お客はこのホテルの客と常連さんだから、朝と夜開いていれば採算は取れるらしい。前回泊まった時よりもさらに安くしてくれた。冬だからだろうか。長沙のホテルより安くて立派な朝食付きだから、有り難い。

 

昼ご飯の時間を過ぎたが、まずは腰花麺を食べる。もうこれも定番になっている。そして周囲を少し散歩する。この付近はなぜか花屋が多い。それからゆっくり部屋で休む。このホテルはNHKも映るので、テレビを見ながらボーっとしている。そんな時間も旅の中では必要なのだ。

 

夜、Kさんのところへ行く。『これがうまいんですよ』と言って、串焼きが出てきた。本格的な日本の味で驚いた。彼とは色々な話をした。やはり中国にいる日本人、日本企業の話になる。ずっと中国内にいる彼には、今の日本の判断の遅さ、駆け引きの下手さなど、信じられないことが多過ぎるらしい。中国で中国人と本気で戦って商売している人から見れば、何とも不思議に見えることだろう。

 

1221日(水)
武漢の茶荘巡り

 

朝はゆっくりと目覚め、最上階のビュッフェへ向かう。食べ物が凄く良い訳ではないが、80年代の香りが残る、その回転レストランにいるだけで、郷愁に浸れる。私はパンとお粥を中心に食べるので、こんな場所があると有り難い。何しろ街中では粥が姿を消しており、美味いパンにあり付くのも難しい。

極寒の湖南湖北茶旅2016(3)本当に茶馬古道はどこに

今日の夜は早く寝るぞと思ったが、やはりそうはいかなかった。魏さんはどこかへ連絡を取り、出掛けるという。ホテルから川はすぐで、そこは映画のセットのように煌びやかだった。なんでこんな田舎に、そんな輝きが必要なのだろうか。橋を渡ると向こう側はひっそりしており、明るさはなかった。傘を差して歩いて行く。

 

そこは小さなお茶屋さんだった。お客が一人、茶を飲んでいた。そこへ若い感じの男性が入って来た。安化茶業協会の会長だという。お客だと思っていたのは、顧問格の人だった。ここでも安化紅茶の歴史については型通りの答えだった。そしてやはりこれからの安化は黒茶で行く、それが政府の方針なのだと説明された。紅茶は元々輸出品であり、産量が多かったと言っても、地元の人間は飲んでいなかったという。黒茶は近年健康に良いと言われており、中国人全般が飲むお茶として志向されている。

 

1219日(月)
紅茶研究所へ

 

翌朝は雨が降っていた。今日は取り敢えず、安化の茶博物館へ行こうと思っていたが、何と月曜日で休館だという。ただここは黒茶の博物館だが、その横に紅茶研究所があり、そこは開いていたので、あさイチからお邪魔した。そこは古民家を改修した作りで、中には予想以上に多くの展示品があった。

 

湖南における紅茶の歴史が時系列に表示され、1915年の万博についても写真などを交えて、詳細に説明されていた。更には湖南から雲南へ紅茶技術が伝播したことなど、色々とためになる情報が飾られており、助かった。また雲台山の大葉種で作られた紅茶、何となく興味が沸くが、今回雲台山に行けなかったのは何とも残念だった。

 

洞市で

 

後は雨の中、観光となった。洞市という場所まで車で1時間ほど移動。かなり強い雨が降っており、山道はちょっと危険。茶馬古道の起点の一つと言われた場所を訪ねたが、そこにあったのは、後から建てられた記念碑だけだった。地元の人に聞くと『茶馬古道の1つの道として茶葉が運ばれたことは事実だが、それほど重要な場所だったとは聞いていない』という。結局は政府が茶馬古道をネタに予算を取り、こんな記念碑を建てて、後のお金はどうしたんだろうか、という話になる。最近このような光景が中国各地で見られる。

 

洞市の小さな街に戻ると、そこには古街があった。茶荘もいくつかあったようだ。ここの方がよほど歴史的には価値がありそうだったが、保存しても金にならなければ政府も手を出さないという。一部では解体工事が行われており、後にはきれいな土産物屋などができるのだろうか。一度壊したものは元には戻らないのだが。

 

雨が降り非常に寒い山の中だった。早々昼ご飯を頂く。山の幸がふんだんに出てきて堪能したのだが、驚いたことがあった。何と地元の男性3人と魏さん、そして香港から来た魏さんの友人はいつの間にか広東語で会話しているのだ。魏さんは香港籍の華僑であるので、話せるのは当然なのだが、この山の中のおじさんたちが普通に広東語を話すとはどういうことだろうか。

 

聞いてみると『俺は深圳に20年居た』とか『珠海で15年出稼ぎしていた』というので納得した。90年代、仕事のなかったこの地域では広東省への出稼ぎが一般的で、それも長期にわたって家を空けていた。向こうで生活するうちに自然に広東語を覚えたという。そして彼らは一様に『故郷へ戻ってきたのはここ数年だ』という。2010年以降の黒茶ブームで、田舎に仕事ができたので、年齢的なことも考慮して戻って来たらしい。茶業が仕事を生み出しつつあった。

 

食後、怡泰福茶荘というところへ行った。この茶荘は、150年以上前からある老舗で、茶貿易が盛んになった頃、出来たとみられる。往時を偲ぶものは古い看板ぐらいだったが、奥には囲炉裏があり、懐かしい雰囲気は満載だった。私は初めからここに来て数日泊ればよかったのだ。そうすれば茶畑を見ることも出来のだが、今日は大雨でとても行くことは叶わない。次回はぜひここを訪ねよう。

 

もう帰る時間になってしまったのだが、折角なので、この街の歴史的な遺産である永賜橋を見ていくことにする。特に期待していなかったのだが、驚くほどに形の良い木造の橋がきれいに架かっていた。きちんとした屋根が付いているので雨でも濡れなかった。往時は馬が茶葉を積んでここを渡ったという。これぞ茶馬古道だろう。絵になる風景だった。

 

安化の日程を終え、長沙に戻る。魏さんたちは今晩のフライトに福州へ戻ることになっており、私は長沙でもう1泊する予定だった。今日はずっと雨、それも時折激しい雨が降る天候で心配されたが、やはり途中、渋滞に嵌ってしまう。一度渋滞になってしまうと、何とも動かない。長沙の近くまでは来ていたが、ついにフライトに間に合わないという事態になってしまった。結局明日の高速鉄道に乗ることに変更して、魏さんたちももう1泊することになった。この辺の変更の素早さに中国人は慣れている。

極寒の湖南湖北茶旅2016(2)安化は黒茶で生きていく

ホテルから歩ける範囲にある、非常に立派な茶芸館へ行く。ここは高級で、長沙では誰もが知っている有名店だそうだ。そこで福州老板、魏さんを囲んで、茶会が開かれ、長沙の茶関係者が集まってきていた。魏さんが茶産業の今後について力説すれば、参加者からも色々な意見や疑問が飛び出し、討論会のようになっていく。気が付けば、時間は10時近くになっていた。

 

さあ帰って寝ようと思っていると、参加者の一人が、宵夜へ行こうと誘う。今や中国人が観光に来ると必ず必要なアイテムとして、宵夜があり、どこの街でも夜遅くまで食べ物屋が店を開いている一角がある。長沙でも結構きれいな夜市が出来ており、人も沢山出ていた。

 

小雨の降る中、食堂の席に着き、ここで酒が出る。食べ物も沢山出てくる。どう見ても体に悪いだろう、ということを中国人はしているように思う。まあ、日本でもバブル期はあったかもしれないが。結局雨が降る中、たらふく食べてしまい、体調の悪い中、タクシーを何とか拾ってホテルに帰ったのは、午前1時だった。まさに連夜の午前様。

 

1218日(日)
長沙散歩

 

翌朝は当然ながらゆっくり起きる。午前9時集合と言っていたが、9時に来る者などいない。私は早めに粥を食い、チェックアウトして下で待っていたが、他のメンバーは『朝食付きでなかった』と言ってやってきたので、私の例を説明してあげると再度食べに行くという始末だった。

 

予約していたコースターに乗り込む。安化へ向かうとばかり思っていたが、時間調整があり、午前中は長沙市内の見学に当てられた。この辺が超中国的アレンジ。日本では考えられない。しかもどこへ行くかも決めておらず、運転手に聞いて出掛けて行くのだからすごい。

 

岳麗山へ行く。私は数年前に来たことがあったが、その時より車が多く、停車できないほどだった。ここは自然が残っており、静かで風景的にもよい。この木々を守るために個人が寄付をして、その名前が木に付けられている。これはよいアイデアだと魏さんが言い、福建も見習うべきだという。

 

この茶旅は、魏さんがスタッフとお客さん、友達を連れてきているのだが、まるで社員旅行のようなところがあり、社長の魏さん自らが、社員の写真を撮り、微信にアップしている。これは社員サービスなのか、それとも微信を使った宣伝なのか、とにかくまめにアップしていてすごい。

 

午前中はあまり時間がなく、見学はすぐに終了した。それから長沙の高鉄駅へ向かう。魏さんの友人の到着を待つためだった。だが1年前に来た時、長沙に高鉄が走っているとは聞いていなかった。走っていても長沙駅から赤壁へ向かっただろうが、今回この後武漢へ向かう私には朗報だった。

 

バスに全員が揃い、安化に向けて出発した。ちょうど昼時だったので、適当な麵屋に入り、米粉を啜る。これが意外とうまい。その後、車は一路安化に向かった。初めは高速道路がありスイスイ、そして一般道をだらだら走って、3時間半ほどかかって安化に着いた。4年前に行った時は、道路工事中ですごく時間が掛かったが、今回はまあ順調な方か。

 

3. 安化
安化の茶工場

 

広い川沿いの道を一路走っていき、夕方5時前に茶工場に駆け込む。先方はずっと待っていてくれたことだろう。安化第一茶廠、1902年に作られたということが、建物を見るだけで分かる歴史的な工場だった。副総経理が応対してくれ、見学した。ちょうど千両茶が干されていた。最近復活して人気の黒茶だった。

 

立ち入り禁止区域内は更に古い感じだった。大きな門は創業時からあるらしい。木造の倉庫が並び、工場は50年代にソ連の設計で作られたとか。1915年の万博で金賞を受賞したという紅茶はこの付近で作られたはずだが、何となく今は黒茶しか見られない。試飲室でお茶を頂いたが、黒茶ばかりが出てきて紅茶はなかった。聞けば最近、大手国有企業の傘下に入り、この工場は黒茶専門に指定されたらしい。

 

紅茶はないのかと聞くと、歴史的なサンプル品の中にはいくつかあったが、最近の物はなかった。缶に入った物が展示されている。最近でもわずかには作っており、飲ませてもらった。『安化は黒茶で勝負する。これから紅茶は自分たちが飲む分だけに作る』という言葉が印象的だった。湖南省では2010年の上海万博で黒茶ブームを仕掛け、ある程度成功していたので、一気に黒茶シフトが起こっていた。安化紅茶は消えていく運命にあるのだろうか。結構美味しいと思ったんだが。

 

もうすっかり暗くなっており、外を歩くと寒かった。夕飯は川沿いのレストランで食べた。あたりは真っ暗で明かりもなかった。部屋は冷えていたが、暖房をつけ、温かい湯気が上がる料理が並んだ。味もそれほど辛くはなく、食べやすかったので、思いっきり食べてしまった。体が温まる。

 

食後、宿へ向かった。有名なチェーンホテルだった。予約はされていたが、私がパスポートを出すと、フロントは困った顔をした。香港人が香港IDを出しても、同じだった。このホテルはチェーン店に入ったが、外国人宿泊のライセンスを持ってはいないようだった。幸い部屋数に合うだけの中国人が居たので、最終的には問題はなかったが、本当に困ったことだ。

極寒の湖南湖北茶旅2016(1)長沙で再会するも

極寒の湖南湖北茶旅2016》  20161216日‐27

 

201512月、私はユーラシア縦断鉄道の旅で湖南省にやって来た。だが茶畑のある安化へ行くことはなく、その足掛かりだけを掴んで長沙を去った。それから1年、中国には何回か来たが、湖北には行っても、湖南省に縁がなかった。安化と言えば黒茶が有名だが、あの2012年に偶然見つけた安化紅茶、あの味が忘れられずに、再訪の機会を待った。

 

そして今回、福州のお茶屋さんの紅茶旅に便乗して、安化へ行くことができた。それにしても湖南省の冬は相変わらず寒かった。ついでにまた湖北省にも足を踏み入れ、更に寒かった。1年に3回も武漢へ行く、考えられない何かが私を呼んでいた。それは何なのか、いまだに分らない。

 

 

1216日(金)
1. 長沙まで

 

今回もまた羽田から北京までエアチャイナで飛ぶ。何しろ安いのだ。そして羽田から出る方がやはり便利でもある。先日もバンコック往復に北京経由を使ったのだが、その時スーツケースが壊れてしまい、その補償金も羽田空港で受け取ることになっていた。補償も日本の航空会社より簡単に出る。今や常連さんの域に達している。

 

少なくとも羽田北京線は機体も新しく、個人画面があるので、映画も見られるし、食事も他の路線より努力しているようで、比較的美味しいので、特に申し分はない。また一時は多かった爆買い中国人観光客も姿を消しており、機内も比較的静かだ。そういえば、空港内のショップには中国人以外の観光客も多く、会計には常に長蛇の列が出来ているのに、改善されないのは、ちょっと解せない。日本的おもてなし、本当にあるのかな。

 

フライトは順調で定刻に北京に到着した。今回は長沙までの乗り継ぎを考慮して、預け荷物なしで搭乗したのだが、エアチャイナと言っても日本、重量制限を一応言われた。でもその必要は全くなかった。むしろ長沙へ行く飛行機はやはり遅れており、長沙にランディングしたのは、午後11時半頃になっていた。取り敢えず、タクシーに乗り込み、今晩予約してもらっている宿を目指した。

 

2. 長沙

 

タクシーはどこを走っているのか分らなかったが、深夜のこと、車も少なく、比較的スムーズに到着した。地元の企業が予約してくれたので、名前の違いからちょっと手間取ったが、無事にチェックインを果たす。ホテルの部屋はかなりきれいで、おまけに茶道具までが置いてあり、夜中にも拘らず、湯を沸かして一杯飲んでから寝た。

 

1217日(土)
茶市場へ

 

翌朝、ホテルで朝食を取ろうとしたが、『お前の部屋は朝食付きではない』と言われてしまう。確かもらっていた連絡では、朝食付きだったので、その企業名を出して、何とか飯にあり付いた。折角きれいなホテルなんだから、そして企業契約の客なんだから、こういうあたりはしっかりした方がよいよ、と心の中で思うが、口には出さない。口に出すと不愉快になることを十分に知っているからだ。

 

そして銀行へ行きたくて、フロントでその銀行名を行ってみたが、『この近くには支店はない』と一言で片づけられた。ところがちょっと散歩に出ると5分も離れていない大通りの分かりやすい場所にあるではないか。この辺はもう教育、というか、何と言うか。残念だな。取り敢えず用事は済んだので良かった。

 

タクシーで昨年も行った茶市場へ向かう。実は今回、昨年12月に偶然出会った鄧さんに連絡を取っていた。できれば安化の茶工場へ連れて行ってほしいと申し込んでいたのだが、状況次第となっていた。何しろ彼の親戚の工場経営者にはその数年前に会ったことがあったし、モスクワの知り合いを紹介してもらい、実際に会いにも行っている。ご縁はかなり深い。

 

彼の店は昨年とは違うところにあった。何とか探し当てて訪ねると、何とあのモスクワの張さんもちょうど来ていたので、本当に驚いた。彼も茶商なのだから、用事があれば来るだろうが、まさかここで再会できるとは思ってもみなかった。ただ皆、色々と忙しく動き回り、スマホで連絡を取り合っており。我々だけが悠々と茶を飲んでいる。

 

色々と話したが、今回はどうもご縁がなく、安化行きの話は無くなった。私は福州組と一緒に行くことは行くので、それでも問題はなかったが、ちょっと残念だった。中国ではタイミングというのが実に重要だ。はるばる日本から来ても、行けない時は行けないのだ。だから私はどうしても行かなければならない時は保険を掛けるようにしている。

 

店で昼ご飯をご馳走になり、福州の魏さん一行の到着を待つ。それまでの間市場内を散策するも、冬の寒さで、お客は殆どいない。まあ天気は悪くないのですごく寒い訳ではない。3時過ぎにようやく本体が到着し、指定された店へ向かった。そこは茶荘でもあるが、茶芸教室などもやっているようで、雰囲気が茶荘とはかなり違って落ち着ている。そこでゆったりとお茶を出されると、何となく心が休まる。

 

そして夕飯はここのオーナーの招待で、近所の立派なレストランで豪華な食事を頂く。湖南料理は辛いのだが、福建人は辛い物が苦手ということで、私にも適度な辛さの美味い物が出てきた。食事が済んでもまだ7時だったが、実はこれからが本番だった。この茶旅、夜は長い。

中国鉄道縦断の旅2015(14)中国は順調、問題は日本か

1227日(日)
北京散歩

 

朝はゆっくり起きた。正直3人旅が一人になり、これほど自由に感じられるとは思わなかった。決して3人旅が嫌だったわけではない。ただこれまでの私の旅は基本的に一人であり、自由気ままにやってきたので、そのペースが掴めないと疲れてしまうというのは仕方がないことかもしれない。

 

10時過ぎにホテルを出発。まずは携帯への入金をしようと携帯ショップに寄ったが、そこの爺さんが実に愛想がない。これが北京の老百姓だとは重々分かってはいても、やはり気分の良いものではない。100元を入れるのに手数料1元。地下鉄に乗ると、車内で不動産広告のチラシをばら撒いている。これも不愉快だったが、何となくバブル期の日本を思い出す。

 

海淀黄庄駅で降りる。今日はWさんとランチの予定だが、指定されたレストラン名が違っており、場所がわからず困惑した。何とかたどり着く。Wさんは中国経済楽観派だった。一帯一路政策もそこそこ機能(鉄鋼などの輸出、国外基地)しているし、介護などサービス業が盛んになっていくので、バブル崩壊はないと言い切る。

 

日本企業は中国の高度成長の果実を取り損ねたから低迷したんだ、カツを入れるべきだが、中国通と呼ばれた社員はもういないので、うまくできない。アメリカ流を中国に持ち込んでも通用しない。この店は四川料理。麻婆豆腐とご飯をかき込む。ウマし。でも何となく血糖値が高くなっているような気がする。

 

ランチ後、4号線と2号線で懐かしの建国門へ行く。銀行で用事を足してから、付近を散歩した。すでに移転してしまった元日本大使館は中国の政府機関に変わっていた。今日は寒いが汚染は少なかった。国貿まで何となく歩いて行くが、特に活気は感じられない。まあ、日曜日だから、この辺は人通りがない。10号線でホテルへ戻る。

 

5時過ぎに亮馬橋へ行き、バスを探す。東直門へ行くには地下鉄は不便で仕方ない。一直線で行けるバスが早い。今晩は北京在住時代のお知り合いに集まって頂き、旺順閣で魚頭泡餅を食べることになっていた。この料理は魚の頭を豪快に煮込んで、泡餅をつけて食べるのだが、量も多いし、値段も125元(6斤)もするので、大勢で食べるのがよい。そこでは様々な話題が出た。

 

大気汚染は深刻であり、帰国者は続出しているという。日本人、特に子供と奥さんが帰国しており、総数もかなり減少している。一方中国経済は北京においては好調に見える。日本酒ブームもきており、中国人が徳利で熱燗を飲むのが流行っている。ウナギもブームになっていて、Yさんの店では、日本酒が主にも拘らず、ひつまぶしだけ食べにくる中国人が多くて困るとも言っていた。

 

日本旅行は当然大ブーム。旅行会社を経営している人によれば、『白馬を単に雪だけでなく、鄙びた村とか、温泉に浸かる雪サルなどとうまく組み合わせて伝えたところ、大勢の中国人が行くようになった』という。同時に爆買いに代わり、越境ECの時代が来るとの話が出ていた。爆買いに変化の兆しありか。

 

日本の品物を大量に買い込み、中国で販売したいとの動きがかなりあり、そのために日本で商品を抑えられるバイヤーを探しているところが何軒もある。100億円買いたい、などと平気で言う中国人がいるらしい。個人的には日本へ行って、少額でも現地の物を買ってほしい、単にモノだけの繋がりではなく、その国の良さを体感して欲しいと思っている。

 

一方日本人観光客は全く来ない。これもまた大いに問題だ。来る人と言えば、特定目的の人ばかり。例えば、鉄道オタクなど。今回の旅で、乗り鉄、撮り鉄、データ鉄など、鉄道オタクにも色々とあることを知る。また鉄道写真は、全景が入らないものは写真として認めないなど、独特のルールもあるらしい。私にはとてもついて行けない。こんなに豊富な話題が聞ける多彩なメンバーとの食事は楽しい。

 

1228日(月)
帰国

 

日本では年の暮れが近づいているが、旧正月の北京では、年の瀬などは感じられない。飛行機は夕方なので、午前中はゆっくりと起きる。本当に今回も又疲れてしまったが、前回のミャンマーのように倒れるまでには至らなかった。恐らくさすがに中国は慣れていたことと、ミャンマーほど列車の揺れがなかったことが理由ではなかろうか。しかし来年3月に予定されている北京からロシアの果てまでの旅は今考えても思いやられる。体が持つかどうか心配だ。

 

外へ出ると空はきれいだった。風が吹けば、きれいに飛ぶということか。昼ご飯を近所で早めに済ませる。歩いていると食堂の求人広告があったが、皿洗いに月3000元出すという。以前では考えられないほど、労働力は不足しているのだろうか。ホテルをチェックアウトして、疲れたので電車ではなく、タクシーを探して空港に向かう。最近はタクシーが拾いにくいので心配していたが、すぐに見つかった。運転手も、大きな荷物を持っていたから空港に行くと分かったので、急いであんたを捕まえたよ、と笑う。

 

フライトは順調で夜には羽田空港に戻って来た。既に御用納めも終わっており、電車も閑散としていた。実に久しぶりに日本で正月を過ごすことになりそうだ。ああ、2015年も暮れていく。それにしても、歳を取るにつれて激しい旅をするとは、何とも不思議な状況だ。来年は平穏な旅を、とは思うものの既にその前途は厳しい。

中国鉄道縦断の旅2015(13)通州から馬連道へ

1226日(土)
通州へ

 

翌朝は8時に出発した。10号線から1号線へ乗り継いで、四恵駅へやって来た。322のバスを探してバスターミナルへ向かう。指示された通りこのバスに乗ると、何とこれは快速バスで、一路通州を目指して高速道路を進んでいく。東関大橋というバス停で下車、30分で着いてしまった。4元。正直北京に5年も住んでいながら、通州まで足を延ばしたことはなかった。特に用事がなかったからだろう。昔は通州事件というのがあったようだし、最近も首都機能を移転する話があるようだ。

 

バスに乗っているとニュースが流れていたが、今日は大気汚染が深刻になり、黄色警報が発令されていた。確かに周囲が見えにくくなっており、これが恐ろしいPM2.5かと実感した。いつも冬場は煙っている感じの北京だったが、今は濃霧の中を走っている雰囲気となっている。身体に影響があるとのことだったが、こんな日が続けば心身とも病んでしまうかもしれない。

 

通州は意外なほど大きく、そして発展していた。日本で言えば東京都に対する千葉県か埼玉県の1つの街に相当しそうだ。このバスに乗れば一応通勤圏内にも入る。大きなショッピングモールもあり、生活にも支障はなさそうに見える。思いの他早く着いたので、ここで朝ご飯を食べた。雲吞、5元。

 

今回なぜ通州まで来たのか。それは呼和浩特で会えなかった鄧九剛先生と会うためだった。鄧先生は基本的に呼和浩特在住だが、現在は冬の間はここ通州で暮らしているという。寒さを凌ぐためだというが、私にとっては北京も十分に寒い。ただ先生のお嬢さん一家がここに住んでおり、孫の顔を見ながら過ごしているというのが正しいのかもしれない。

 

マントウ屋に入り、話をしようとしたが、ちょうど休憩時間のようで追い出されてしまった。仕方なく先生の家にお邪魔する。奥さんが迎えてくれた。岩茶を飲みながら主にS氏が質問し、私は簡単に通訳した。羊楼洞やせん茶の歴史について、また輸送部隊がモンゴル漢族混合隊だったことなど。回族も独自隊を有しており、実は西モンゴルも重要だと言われたが、今回の本線からは外れている。

 

これから行く二連には博物館があり、ウランバートルでは寺にその面影名が残るだけだと教えられた。キャフタには売買城は無くなっているが税関は残っており、博物館もある。 イルクーツクなどシベリアには殆ど万里茶路を思わせるものは残っていない。基本的に輸送隊もテント生活をしており、当時は街自体が小規模。モスクワに中国式建築の李鴻章の茶館がある程度だという。そんな話をしていると孫が帰って来た。今日は一家で何かするらしかったので、ここでお暇した。

 

久しぶりの馬連道

12:00に通州を出て、馬連道へ向かう。北京の東から西へ横断だ。さっきのバスで四恵まで戻り、1号線から9号線へ乗り継いで、六橋東に13:15に着いた。意外と速かった。腹が減ったので包子と紫米粥を食べる。相変わらず空はどんよりしており、冬の北京の印象、そのままだった。

 

古い茶城には人は殆どいなかった。ここでNさんが中国六大茶の茶葉の撮影をしたいという。私は15年ぐらい前に何度もここへ来ていたが、店はかなり変わっている。お茶を買わないで撮影させてくれるところはないかとキョロキョロしてみたが、適当な所が見付からない。すると龍井茶を売る店が目に入った。おばさんと顔が合った瞬間、あー、と思った。

 

そこは15年前何度か来ていた茶荘だった。向こうから『あんたのことはよく覚えているよ』と言って、何と当時の名刺を出してきたので驚いた。お茶の写真撮影を依頼すると、快諾してくれた。店にない物は他から借りてきてくれた。こういうご縁は何とも有り難く、また茶旅っぽい。ここの龍井茶も懐かしく、自分飲み用に少し購入した。

 

ただ黄茶だけは全く扱いがなく。ここでは撮影できなかった。任務達成のため2階に上がり、湖南の黄茶を発見した。写真を撮ってよいかと聞くと、いいよとのことだったので、撮影を始めたが、載せるお皿を同じしたいとさっきの店に借りに行ったところ、我々を客ではないと判断したようで不機嫌になってしまったが、何とか撮影を終了した。ここで今回の任務はすべて終了し、S氏とNさんとはお別れした。

 

2人と別れ、更に茶城を徘徊した。羊楼洞でみた米せん茶、あの時は欲しいと思わなかったが、出来れば持って帰りたくなりを探すがどうしても見付からない。一軒だけ湖南茶の店にあったが、それは半分以上欠けており、きれいなマークになっていないうえ、値段も非常に高く断念した。 

 

三元橋まで戻り、夜は昔一緒に働いた中国人と会う。馬連道から三元橋まで意外と時間が掛かり、遅刻する。彼によれば、北京の不動産価格は急上昇しており、彼が5万元/㎡で買おうとしてマンションに対して、友人は値上がり余地の大きい13万元の方を勧めているという。100㎡の家を買うと日本円で約5億円。そんな金を持つようになったのだろうか。15年前の彼の給料はせいぜい月10万円だったことを思うと隔世の感がある。

 

前回会った時は子供と奥さんを海外移住させることを真剣に検討していたが、今回その話は無くなっていた。国有企業幹部は会社にパスポート取り上げられ、海外旅行すら難しい状況となっていた。ただ大気汚染は今日も深刻だし、子供の教育はやはり海外がよいとは思っているようだ。富を得た代わりに失ったものも大きいのかもしれない。

中国鉄道縦断の旅2015(12)ついに終着駅北京へ

タクシーで大盛魅へ向かう。私は昨年も来ているのだが、念のため万里茶路関連ということで再訪した。相変わらずほとんどの建物が閉まっており、人はいない。昨年は入れた裏の四合院も、住人が変わり、開発されてしまうのか、門前払いを食った。山西商人の頭目、大盛魅については、一つとして知ることができないのは何とも残念だった。

 

仕方なく歩いて、古い寺に行く。更にはアラタン像を見学するに留まった。回族が多く住むあたりも歩いて見たが、特に何も見つからない。Nさんは昨日のリベンジで稍麦の取材を始めたが、付近が電気工事でいつになっても稍麦は出来なかった。我々はタクシーで内モンゴル大学へ向かい、Nさんは写真を撮り次第合流ということになった。

 

 

タクシーの運転手は我々が日本語を話しているのを聞いて、興味を持ってきた。友達に日本語ができるのがいると言って、わざわざ電話した。だが相手は殆ど日本語を話さない。何かはったりでも話でもしたのだろうか。内モンゴルの、特にモンゴル族の日本への留学は格段に多いと聞くがどうなんだろうか。

 

内モンゴル大学でN教授と食事をした。S氏の希望で内モンゴル料理を食べる。干し肉会菜や干し春雨など、その多くは保存食だった。モンゴルの草原ではこれが生活上、当たり前のことだったのだろう。蒸し・焼ボーズ、焼きうどんなども出てくる。内モンゴルにおける モンゴル族の割合はわずか17%。民族色は徐々に失われていく。

 

 

今回の旅で湖北省の羊楼洞へ行ったとN教授に話したところ、いつもは至って冷静な彼が、『趙李橋には是非一度は行ってみたい』と興奮気味に話しだしたので驚いた。趙李橋ではモンゴル族が日常的に飲んでいる青せん茶を作っている。子供の頃から常に見ていた地名に思いを馳せる、内モンゴルならではだが、一部にはお茶中毒も心配されている。

 

内モンゴルでは現在、服や食料など、モンゴル商品が人気となっているらしい。これも漢族化への無言の抵抗なのだろうか。ただお茶については、作られるところが限られるので、どうしても湖北省の茶を飲むことになる。これは一種の呪縛だろうか。若者は段々お茶を飲まなくなってきているだろうか。

 

ホテルに戻る。午後2時にチェックアウトすればよいと言われたので、ギリギリに戻ったのだが、部屋のドアは開かなかった。サービスで2時まで延長OKでも、システムは12時で締め切るので、それ以降は一度フロントへ行き、手続きを経て再度部屋を開ける仕組みだ。何とも面倒だが、日本のように融通が効かないのとは一長一短か。

 

北京へ

呼和浩特駅はホテルのすぐ横だったが、全ては早めに動くというS氏のポリシーに従う。『早く着く分には問題はないが、乗り遅れた時の代償は大きい』というのには、私も大いに賛成だから素直に従う。そうでなくても、何かが起こる中国、早くいった方がよい。すると いつもは15分ぐらい前にならないと改札しないのが今日は早めに開いた。だが日差しがあっても相当寒いホームに放り出された感はある。しかも停車位置がわからずウロウロした。

 

15:24呼和浩特発のこの列車は恐らく北京に着く一番早い列車。僅か6時間で着くので、寝る必要もないは、何とも気楽だ。食事の心配をする必要もない。今回の列車の旅、正直かなり疲れていたので、有り難い。満員の乗客を乗せて発車。雪の高原に落ちる夕日をじっと眺めて過ごす。

 

この列車の乗客はこんなこと言うとなんだが、これまでの人々より何となく上品だった。隣のおじさんは、ウルムチの農業銀行に勤めているようで、呼和浩特での仕事が終わり飛行機に乗ろうとしたが満席でこの列車に乗ったという。日本の農業に非常に関心を持っており、専門的な質問をされたが答えられない。しかも既に作家デビューしているらしい。私より3つ上の58年生まれ。新疆在住は既に30年に及び、退職後は本格的に作家の道を歩むらしい。趣味は寒中水泳というから驚く。

 

暗くなった頃、土産物売りがやって来たが、ちゃんと制服を着た職員であるらしい。ただ彼女のさわやかな弁舌、巧みな商品の出し方などは、何となく寅さんを彷彿とさせるものがある。乗客も皆暇なので、色々と合いの手を入れて楽しい。今や高速鉄道では見られない、こんな光景ももうすぐ消えていくのだろう。

 

9. 北京
北京の夜

21:39、列車は北京駅に滑り込む。既にホテルは予約されていたが、真っすぐそこには行かない。今回の列車の旅はここで一旦終了となるが、既に次回の構想が頭を過る。北京からモンゴル経由でロシアまで。取り敢えず北京からモンゴル国境の二連行き列車について質問するも要領を得ない。不安が過る。

 

3人でこの時間帯ならタクシーだろうとはならないのもこの旅。地下鉄へ向かう。以前はどこまで行っても2元だった料金が改定されており、しかも自販機もないので切符を買うのも大変だ。三元橋までは4元だった。2号線から1駅で1号線に乗り換え、また2駅で10号線に。とても面倒だった。

 

亮馬橋駅で降りて徒歩10分。以前も泊まったチェーン店、如家に落ち着く。北京では歩き回っても安いホテルは取れないというS氏の経験により私が予約した。ここなら三元橋から一本で北京空港へ行けるので便利だった。1部屋209元、2部屋を取り、私はまた一人部屋となる。