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雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(6)雲南から30年ぶりの宜興へ

また4時間ほどかけて、来た時の山道を通り、祥雲で休息をとる。もう慣れたものなので、気楽に過ごす。バスの車内ではほとんど寝ていた。午後にもう一つ楚雄というサービスエリアにも停まったが、何も食べずに過ごす。そして午後5時半頃、昆明西ターミナルにバスは戻った。先日の路線バスに乗ろうと思ったが、降りたところに、ちょうど昆明駅行のバスが停まっており、お客引きが行われていた。すぐに出発して、路線バスよりはるかに早いというが、料金は10元と高い。まあ試しに乗ってみる。

 

お客をぎゅうぎゅうに詰め込んで何とか出発。確かにそのバスは近道を行き、かなり早かったが、最終的に昆明駅の裏側で降ろされてしまう。駅行には違いないのだが、ここから改修中の駅の表に回り、ホテルに歩いて行くのは結構な時間が掛かるのだ。何だかちょっと騙された気分だ。先日のホテルに戻り、また同じ値段でチェックインした。今回はスイートルームではなく、普通の部屋だった。

 

腹が減ったので外へ出る。午後7時近くても明るい昆明。土鶏米線という麺があったので食べてみた。そこにいた女性は東北から出てきた出稼ぎで、私が日本人だと聞くと『お互い、遠くから来たんだね』としみじみ言うので、ちょっとホロっと来てしまった。結構苦労しているのだろう。そういう意味では出稼ぎ者は皆苦労しているはずだ。苦労なしの私は何となく恥ずかしくなってしまう。

 

4月6日(木)
宜興へ

翌朝は宿を出て空港バス乗り場へ。9時半のバスがあると聞いていたので、9時15分に行くと『そのバスは満席でもう出てしまった』というではないか。結局9時40分に次のバスが出た。それならはじめから、満員になったら出るよ、と言ってもらわないと困る。急いでいる時にもし出なかったら、フライトに乗り遅れる危険もあるのだが、そこは中国的柔軟せいだろう。ただこのバスは空港から乗ったものとは会社が異なり、料金は半額だった。おまけに空港までは僅か30分ちょっとで着いてしまった。

 

空港内のカートは、手元に広告用の液晶が付けられていた。こんなのは初めてだ。フライトは少し遅れたが、それほど待った気もしないうちにコールが掛かる。今日はエアチャイナに乗る。北京に行くわけでもない、昆明-杭州線にエアチャイナが飛んでいるのが不思議だが、料金も手ごろだったので使ってみた。いつもの国際線より、機内食がましだったような気がする。

 

約3時間のフライトで杭州空港に着く。このまま杭州東駅に行こうと思いバスを探す。バスは見付かったが、チケットは自販機で買うようになっている。そして何とアリペイなどの電子決済になっており、おまけに身分証まで入れることになっている。私は何とか銀聯カードで決済ができたが、普通の外国人旅行者はかなり遠くにある切符売り場まで行って並ばなければならない。中国人優先で、なんとも不便。

 

バスに乗り込むと満員となり、定刻前に出発した。どうやら乗り遅れた人がいたようだがお構いなし。かなりの雨が降って来た。それから40分ぐらいで、東駅に着く。今度は高鉄の切符を買うために窓口に並ぶ。ここには珍しく外国人優先窓口があったので、それほど待たずに買えた。これは有り難い。というか、並んでいる人の数も少ない。ほとんどの人が自販機購入だ。

 

20分後の高鉄に乗ることができ、50分で今日の目的地、宜興駅に着く。宜興は30年ぶりだが、まさか高鉄が通っているとは思わなかった。世の中便利になったものだ。だが見る限り宜興の街は30年前とそれほど大きく変わっているようには見えなかった。駅からタクシーで予約されているホテルに向かった。道は広くてきれいにはなっていたが、高層ビルがあるわけでもなく、何となく田舎道を走っているようにしか見えなかった。道が間違っているのかと思ったほどだ。江蘇省の無錫からほど近い場所だから、当然発展していると思い込んでいたのだ。

 

5.宜興
古いホテルで

予約されていたホテル、かなり古い。その昔、街の郊外に建てられた立派なホテルだったのだろうが、特に改修などもされている様子がなく、寂れていた。部屋は広いが、何となくなくうすら寒い。その分部屋代はかなり安い。雨のせいだろうか。結構強く降っているので、外に出ることも出来ず、例え外に出られたとしても車でもなければ飯にあり付くことは出来ない。周囲はそんな状況だった。

 

仕方なく、ホテルのレストランに行ったが、やはり客はいない。スタッフに『簡単に食べられるものはないか』と聞くと『50元で定食を作ってやる。部屋で待っていろ』と言われたので、50元は高いなと思いながらもノーチョイス、部屋で待つ。やって来た料理を見て唖然。肉料理、卵料理とスープがいずれも大皿に盛られてきた。これは2-3人前の量である。まあ大食漢の中国人なら食べ切れるかもしれないが、半分も食べるのがやっと。味は悪くないが、残してしまう。その皿を部屋の外に出しておいたが、1日経っても誰も取りに来なかったのは、いかにもこのホテルの現状だ。何だか80年代の中国旅を思い出す。あの頃はずっと安かったが。雨音を聞きながら寝入る。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(5)滇紅展覧館で

展覧館に使われている建物もかなり古い。その前には冯绍裘の像が建っている。冯绍裘が湖南省安化茶廠の工場長であったことは昨年12月の湖南茶旅で知っていた。そして1938年に安化からはるばるこの山奥までやってきて、紅茶の製造法を伝授し、滇紅の父と讃えられている人物であることもそこに書かれていた。だがその道のりは険しく、大理までは道があったものの、そこからは山道を歩いて、または馬で半月も掛けてここに辿り着いたらしい。当時の鳳慶は完全に外からは閉ざされた秘境だったのだ。

 

展覧館に入ると想像以上に沢山の展示物があった。鳳慶には昔から茶樹はあったが、本格的には清末の順寧知事、満州族の琦璘が、孟庫から100万本の茶樹を持ち込み、植えたのが始まりと記されている。その後中茶公司より派遣された冯绍裘はその優れた土壌、抜群の環境で育った大葉種の茶葉を見付けて、紅茶作りに適していると判断し、1939年に順寧実験茶廠を作り、香港経由で輸出されたとある。

 

雲南の紅茶作りは国策で始まった。元々清代よりプーアル茶では有名であった雲南で、なぜこの時期に、政府は紅茶を作ろうとしたのか。それは1937年に日中戦争が勃発し、日本軍が武漢など内陸部へも侵攻し、貴重な外貨獲得物資である茶が危機的状況にあったためだと推察される。これまで行ったいくつかの紅茶産地とはその成り立ちが少し異なっている。

 

新中国建国後の1954年に国営工場、鳳慶茶廠となり、そこで作られた紅茶は滇紅と呼ばれるようになる。当時の友好国ソ連からも注目され、専門家が相次で視察に訪れ、1957年にはロンドン市場で高い評価を受け、国際的な銘柄と認知される。文化大革命中も生産を止めることなく、輸出されていたと聞いた。紅茶は中国人が飲むものではなく、あくまで外貨を稼ぐ手段。80年代に入り、CTC方式が採用され、その産量を増していく。

 

この国営工場も時代の波で、民営化し、近年の紅茶ブームで、中国人が好む紅茶も作られはじめ、今や中国紅茶の代表銘柄にまでなっている。茶樹発祥の地、雲南らしい、古茶樹の茶葉を使った紅茶、雲南に多い、紅茶作りに適している大葉種の茶葉、そして我々に馴染みのある小葉種をミックスした中国紅などという紅茶が好まれていると聞く。ただ輸出用の茶葉については、コスト高などで、伸び悩んでいるという話もある。

 

展覧館以外の建物も、昔の工場の跡など、歴史的な価値のある建物がいくつか残っていた。そこを一回りしてから外へ出て、また昨日の山へ向かった。実は鳳寧茶業にはお世話になったが、肝心の老板、張さんは昆明に行っており、今日の午後戻るというので挨拶に向かったのだ。ちょうど着くと昼ごはんの時間であり、また皆で料理を食べた。

 

張さんが戻るまで、空いている部屋で昼寝をさせてもらう。何とも気持ちの良い午睡となる。それも終わると、今度は付近の散策。昨日よりさらに足を延ばしてみると、山沿いにはお墓もあるし、民家もあった。茶工場は、元は小学校だったらしい。以前はこの辺の子供が通っていたが、生徒数の減少で廃校となり、張さんがそこを借り受け、茶工場に使っている。張さんの子供も教育のため、昆明で暮らしているという。自らの母校が無くなり、子供を遠くへ送らなければならない、だがそこの方がよい教育が得られる可能性がある。複雑である。

 

暇な皆さんが集まって茶を飲みながら、情報交換をしている。やはり焦点は、如何に茶を売るかにある。地域的な特性もあるが、今や茶葉はだぶついている。そんな簡単に右から左に売れることはないようだ。そんな環境の中で、ここのお茶がよいと思い、それを扱う。張さんが全国の茶業博覧会に出展し、そこで知り合い、ファンになった人々のネットワークである。

 

夕方4時ごろ、ようやく張さんが戻って来た。朝昆明を出て、6-7時間かけて車を運転してきたという。35歳、非常に若い。お客たちが一斉に彼の周りに集まってきて、様々な話が始まる。私が聞きたいことを聞く機会はなかなか訪れなかった。それほどの人気、やはりファンを作ることがビジネスの近道なのだろう。

 

そのまま夕飯を食べに行き、腹一杯になっても、張さんはお客の相手をしながら、仕事の指示を出している。かなり忙しそうだった。夕暮れも迫り、ちょうど街に行くという車があったので、それに乗って失礼することにした。次回はもっとゆっくりこの地に滞在し、張さんの活動も見てみたい。

 

車はピックアップで決して新しくない。運転しているおじさんは暗い下り道をかなりのスピードで飛ばしていく。相当に慣れた運転だ。『昔はこれでどこまで行ったよ』と笑う。ここにちゃんとした道ができるまでは、本当に大変だったともいう。あっという間に街まで降りた。バスターミナルで降ろしてもらい、後は歩いて帰った。宿までどれくらいかかるのか、確認したのだが、荷物を持って歩く距離ではなかった。夜はかなり涼しいので、ちょうどよい散歩となる。

 

4.昆明2
4月5日(水)
昆明へ戻る

今朝は早めに起きたが、特にやることもない。9時のバスチケットを買っていたので、8時半前にチェックアウトして、タクシーを呼んでもらい乗り込む。5分で着いてしまう。10元。まあ、そんなものだろう。そんなに大きくないのでバスもすぐに分かり、乗り込む。いつの間にか他の乗客も乗り込んできて、出発。何となく名残惜しい。

 

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(4)樹齢3200年の茶樹

皆今年の新茶の出来を気にして、また買付の算段のために、この山深き茶産地まで足を運んでいる。一番長い人で既に半月いるという深圳の女性がいた。『勿論自分の商品を確認するために来ているのだけれど、ここの環境があまりにも良いので長居している』と言い、もう2-3年前から毎年春はここにいるのだとか。そして『今年は例年より寒かったから、なかなか茶葉の芽が出ず、お茶が出来なくてさらに長居になっている』ともいう。確かにここは自然に囲まれた場所で、都会よりはるかに空気もよいし、静かだ。

 

この工場には来客用の宿泊所が作られており、何と3階建てで部屋数は10を超えている。現在も多くの部屋が埋まっており、私が街のホテルになったのも、実は満室だったからかもしれない。そしてお昼の時間になると皆が食堂へ行き、地元料理を頂く。これがまた美味いから、皆も飽きずに泊まっているのだろう。なんと素晴らしい環境だろうか。暇があればお茶を飲み、雨でなければ付近の茶畑を散策する。極楽生活だ。

 

昼ごはんの後は、宿舎の屋上から外を眺める。雄大な景色が広がっている。反対側を見ると斜面に茶畑が見える。案内されてその茶畑にもちょっと足を踏み入れる。結構古い茶樹が植わっている。説明によれば、1950年代に植えられた大葉種だとか。この葉を使って紅茶を作るのがよいという。土壌もしっかりしており、確かの紅茶作りに適した場所のようだ。

 

茶畑の方で激しい爆竹の音がした。今日は清明節、先祖供養のために人々が墓に集まるのだが、この茶畑の中に墓があるのだろうか。それとも茶農家だった故人を偲んで茶畑の中で供養しているのだろうか。いずれにしても、お茶と友の人生を過ごし、そしてこの地で逝った人々がいた、という事実が語られる、そんな清明節だった。

 

3200年前の老茶樹
何人かが車で出かけるというので付いていくことにした。どうやら相当古い茶樹を見に行くらしい。昨年は雲南省易武で1000年茶樹を見た。今回はどんなものが見られるのだろうか。車2台で出発。それにしても思ったよりその場所はずっと遠かった。山道を1時間ぐらい走ると、ダムが見え、そこで休憩した。この道路も十年ほど前、水力発電のためにこのダムができる時に作られたらしい。その前は道路がなく、あの茶工場も含めて、街に出るだけでも大変だったはずだ。だからこそ、いまだにあの自然環境が残っていたのだろう。

 

更に30分以上車に乗り、ようやくその場所に着く。茶畑が広がり、その間を歩いて行く。一応観光地のように整備はされている。小湾鎮茶王村と書かれている。ちょっと上って行くと、かなり背の高い木があった。表示があり、樹高8.3m、1000年以上の古茶樹となっている。但し大理茶とも書かれている。これはカメリアシネンシスではなく、タリエンシスということか。

 

その上の方に城壁のように囲われた場所がある。遠くに大きな木が見えた。『あれが3200年前の古茶樹だ』と言われたが、ちょうど管理人さんが清明節で出かけており、中に入ることは出来なかった。ただどう見ても、あの木もタリエンシスだろう。石に彫られた内容を見ると、中国をはじめ、アメリカや日本の専門家が『3200年前の世界最大の古茶樹』に認定したとある。そんなこと、簡単に認定できるのだろうか。軽い疑問は残ったが、古い木であることには違いない。一人だけ茶摘みしているおばさんがいた。

 

帰りは1時間半ぐらいで工場に戻った。実はこの会社、紅茶作りの他、プーアル茶も作っている。ここからかなり離れた茶葉の産地にもネットワークがあり、仕入れているらしい。ここに集まった茶商の中にも、紅茶よりもプーアル茶を求めてきた人たちもおり、彼らは明後日から茶葉の産地巡りに出掛けるという。私も是非ついていきたかったが、次の予定があるため、今回は断念した。

 

夕暮れ時、茶葉を担いだ近所の農民たちがやって来た。ここに茶工場があることは地元の農民にとって本当に貴重なことであり、また地元の若者に働く場を提供している。夕飯をここで食べ、車で送ってもらい、またホテルに戻った。今晩は外へ出て歩いて見た。10分ぐらい行くと、便利店があり、水などの飲み物も買えた。

 

4月4日(火)
博物館で

今朝も迎えが来てくれ、活動開始。今日は滇紅の歴史を知るべく、元国営企業である滇紅集団の博物館を訪問することになっている。滇紅集団は清明節中休み、と聞いていたが、張さんがアレンジしてくれ、街の顔役を通じて、博物館を開けてもらうことになっていた。何とも申し訳ない話だ。ただ役場に行くと、その人はまだ来ておらず、先に朝食。昨日とはまた別の麺を食べる。この麺線が何と旨い。

 

滇紅集団は元々、この街そのものと言ってもいい大企業だった。企業城下町という言葉がピッタリで、旧市街地の中心部に旧工場とオフィスがデーンと構えていた。新工場は2012年に郊外に作られており、基本的な機能は全てそちらに移っている。ここに残っているものは、今後歴史的な遺産として残されるものなのだろうか、それとも壊されていくものなのだろうか。この辺が大変微妙であり、滇紅の経済的な現状とも大いに関わってくるはずだ。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(3)滇紅の里 鳳慶へ

4月2日(日)
鳳慶へ

 

今朝は7時には起き、朝食を食べて8時にはチェックアウトした。雨が降り始めていた。急いで昨日のバス停に向かい、ちょうどやって来たバスに乗り込んだ。少し濡れただけで済んだのは幸いだったが、今日もバスは寒かった。10時発なのに9時前には西ターミナルに着いてしまう。

 

それからトイレに行き、バスの出発場所を確認する。とにかく今日は人が多い。清明節の連休が始まっていた。皆故郷に墓参りのため帰るのだ。子供連れも多い。私が乗るバスは30分前には着いており、席に座った。当然のように満員になり定刻前に出発した。すぐに高速道路に入る。このターミナルは高速に近いから便利なのだろう。

 

それから約4時間半、バスはひたすら雨の中を走り続けた。大半の乗客は眠っている。途中の休憩もない。外は山間部の風景が続く。ちらっとモスクが見えたりすると、回族がいるのかな、などと思ってしまう。祥雲という場所で高速を降りて、すぐにサービスエリアに入り、ついに休憩があった。私はトイレに駆け込む。トイレは建物の2階にあり、かなり遠くがよく見える。ここで昼食を取る人もいるが、私はバスに乗っている間は食べないことにしている。ただポテトがいい匂いがしていたので、つい買ってしまったが、辛くて食べられなかった。

 

そこからバスは一般道路を走る。今や雲南省でもほとんど高速道路が通っていると思い込んでいたが、それは間違いだった。いくつもの山を越えていく。一体どこを走っているのかも分からなくなる。所々に街があり、集落もあるが、私の目的地にはいつになっても着かない。バスには車掌がいるので聞いてみると到着少し前には声を掛けると言ってくれた。それを合図に隣の若者と会話が始まる。無錫に働きに行っている地元の若者だった。出来れば故郷に帰りたいが仕事がない、と嘆く。

 

3.鳳慶
鳳慶の街に泊まる

結局午後6時半頃、突然現れたきれいに整備された道路、マンション群に遭遇し、ついに鳳慶の街に入った。ずっと山道を走ってきたので、ちょっと驚く。そしてその街を抜けてターミナルに入った。先ほど見たのが新区だろうか。こちらは昔の街の印象だ。9時間近くバスに乗っていたのでさすがに疲れた。

 

張さんの会社の人が迎えに来てくれるとのことだったが、見当たらない。電話をかけてみると、正面にいるという。私は裏口から出てしまったらしい。正面まで歩いて行くと、若い男女がいた。もう一組、お客を待っているという。同じバスで来たらしい。そのお客も載せて車は近くのレストランへ向かう。

 

そのレストランで地元料理をご馳走になった。山菜や地鶏、腹が減っていることもあったが、実にうまい。ここまで来た甲斐があったというものだ。それから私は少し離れたホテルに連れていかれた。もう一組のお客は、若者と一緒に車で去っていった。後で分かったことだが、彼らは山の中の工場に泊まるためにここから30分かけて山へ行ったらしい。私は外国人だから、念のため、街に泊めたようだ。

 

ホテルの部屋はきれいだった。恐らく最近できた新しいホテルなのだが、周囲には何もない。飲み物を買いたくても、もう暗いので出ることができなかった。まあ、そういう場合はただただゆっくり休めばよい。幸いWi-Fiは繋がるので、問題ないと思ったが、PCに設定してあったVPNはなぜか機能しない。これは困った!

 

4月3日(月)
鳳寧茶業の茶工場へ

翌朝は早めに起きたが、このホテルには食堂もなく、朝ご飯は食べられない。フロントで聞くと15分ぐらい歩けば食べる所があるという。まあ、食べなくてもよいか。9時に若者、李さんが車で迎えに来てくれた。そしてもう一人また新たな客が登場した。彼は昨日午後のバスで昆明を出たが、バスが遅れて午前2時に着いたので、このホテルに転がり込んだらしい。

 

車は道路沿いの清真レストランに入る。牛肉麺が朝ご飯となる。これがまたいい味を出している。それから山道を走り始める。約30分道を登る。小雨が降り視界が悪い。急に道路沿いの道から上がると、そこに鳳寧茶業の茶工場があった。車を降りるとすぐに工場の見学が始まる。朝摘んだ茶葉が運び込まれ、室内で萎凋されている。揉捻機も回っていた。お茶の香りがほのかに漂ってくる。

 

入り口付近にお茶を飲むところがあり、早々に試飲が始まる。既に数人がそこにいたのだが、従業員ではなく、皆客だという。一体この工場には何人の客が来ているのだろうか。それも聞けば東北地方から武漢などの中部、北京や上海近郊まで、様々な地域の人が集っている。後で分かったことには、彼らは殆どがその地区でここのお茶を扱っている代理店のオーナーだったのだ。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(2)昆明の茶葉市場再訪

4月1日(土)
茶葉市場へ

 

昨晩は寝るのが相当遅かったにもかかわらず、6時台に起床し、出掛ける。今回の目的地、雲南紅茶、滇紅の里、鳳慶には昆明からバスで行く。そのバスは西バスターミナルから出るというので、出発時間を確定させるために、切符を買いに行く。西ターミナルと言えば、2013年に下関の茶廠に行く際、マレーシアの大金持ちの陳さんに連れられてバスに乗った記憶はある。ただその時はホテルからタクシーに乗ったので、どこにあるのか全く覚えていない。

 

取り敢えず近所の旅行社でバスチケットが買えないか聞いてみたが、やはりターミナルに行く必要があるという。そして路線バスの乗り場を教えてくれたので、それに乗る。何となく雨が降ってくる。そして今日の昆明は4月だというのに寒い。にも拘らずバスにはエアコンがついており、凍えそうになる。スマホで見たら、気温8度と出ているではないか。そんなバスに1時間近くも揺られていく。座ってはいるが結構辛い。

 

ターミナルで鳳慶行きバスを確認すると1日に数本あるのみだった。やはり確認してよかった。明日10時のチケットを買う。そして明日訪問予定の張さんに電話を入れた。実は今回の雲南行は直前に問題が発生し、大変だった。元々訪問予定の会社が何と急きょ清明節休みのため、工場を休止すると言い、訪問できなくなってしまっていた。一時は雲南以外の他の場所に変更しようかと考えたが、福州の魏さんの方で、もう一つの会社を探してくれ、直前にも拘らず、快く受け入れてもらえることになったのだ。これは何とも有り難いが、茶産地の状況は心配だった。

 

帰りも強い雨の中、何とかバスに乗り込み、元来た道を行く。バスも来た時よりかなり混んでいる。このバスは昆明の街の中心を通っているようだ。ホテルに帰ると、まだ朝ご飯が食べられるようだったので、急いで行く。少し冷めているが、結構色々な種類があり、美味しく頂く。古いホテルはホテル代も安いが、こんなところもよい。

 

部屋で少し休み、昼前にまた外へ出た。さっき食べたばかりだが、これからお茶を飲むので、昼ごはんは軽く麺とした。これが意外とうまい。その横の携帯修理屋でシムカードに入金。スマホを持っているのに、ネット入金できない変な客にも怪訝な顔をせず、手数料1元でやってくれるのは1年前と同じ。それから地下鉄に乗って茶葉市場へ向かう。

 

金星駅で降り、歩いて数分。雄達という新しい茶葉市場がある。その向かいの古い茶葉市場に入る。昨年も同じように鉈先生とここに入り、何となくふらつき、最終的に王さんの店に辿り着いた。ちょうど彼が仕入れてきた野生紅茶が非常に美味しかったので、今年はその産地に同行したいなと思って連絡はしていたのだが、結局天候不順でまだ茶が出来ておらず、次回になってしまった。

 

店に行ってみると、王さんはちょうど昼ご飯を食べていたので、一度店を出て、雄達市場を覗きに行く。きれいな店は沢山並んでいたが、ほぼお客はなく、閑散としていた。一軒の店から声が掛かったので、一応偵察する。今ある新茶は低地の茶葉で作られたものだけで、正直美味しいとも思われない。昨年の物も飲んでみたが、野生茶と言っても随分と味が違うものだ。すごすご退散する。

 

王さんの店では色々と話をして長居する。雲南農業大学の学生も遊びに来て、雲南紅茶の話題などで盛り上がる。但し歴史に興味があるのは私だけ。普通は如何にして美味しいお茶を作るかなどに焦点が当たっているのだ。農業大学だから当たり前か。とにかく今年は涼しくて、茶葉は育っていないという。新茶が入荷するまで、あと数日は市場も閑散としているだろうと残念な話が続く。

 

王さんの息子は1年前奥さんに抱っこされていたが、かなり動き回る上、自分で椀を使ってお茶まで淹れて、飲んでしまうようになっていた。子供の成長は本当に早い。そしていかにもお茶屋の息子らしい。王さんに『涼しいから夕飯は一緒に鍋を食べに行こう』と誘われたが、店にいてお茶を飲んでいるのに、何となく寒気を感じたので、申し訳ないが先に帰ることにした。

 

地下鉄に乗って戻ると、何となく気分がよくなってきた。するとなぜか腹が減るから面白い。昨年食べておいしかった、西紅柿炒蛋炒飯を食べに行く。昨年は雲南とラオスでずっと味の濃い物ばかり食べてきた後だったので、格別に美味しく感じたが、今回はまあ普通かな。それより海苔スープがやけに美味く感じる。やはり寒さのせいだろうか。

 

ホテルに戻って、フロントで『昨晩はスイートルームに泊めてもらったけど、今日は普通の部屋に移るんでしょう?』と聞くと、昨日とは別の子が『いや、面倒だからもう1日そこに泊まったら』というではないか。まあ、広い部屋を与えられては文句も言えないが、やはりこのホテル、何かがおかしい。管理というものが杜撰なようだ。

 

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(1)台湾から昆明へ行ってみる

【雲南から江蘇、湖北の茶旅2017】

 

今年の中国茶旅が始まった。『中国紅茶の旅』という月1連載の関係で、2か月に1度、紅茶の産地を2つ回る必要が出てきた。今回は雲南省の鳳慶と急須の街、江蘇省の宜興に行くことになる。その距離はかなり遠い。更には湖北省恩施の玉露を訪ねる旅まで加わってしまい、中国中を駆け回る、という雰囲気になった。かなり疲れる旅、もうしないはずだったのに。懲りない性格だ。

 

3月31日(金)
1.深圳経由で昆明まで

 

台湾桃園空港を飛び立った飛行機は深圳に向かっていた。今回の旅、台北-昆明の片道フライトで一番安かったのが、南方航空の深圳経由だったので、迷わずそれにした。台北から昆明までのフライトもあったが、高い。台湾と中国、近いようで意外と遠い。むしろ東京でチケットを買った方が余程安い。これは需給の関係か、政策の関係か。

 

機内食で出た角煮が意外とうまかった。南方航空に乗るのは久しぶりだが、国航と比べれば、サービスも機内食もこちらの方がよいと感じる。ほぼ定刻に深圳に着いた。実はここでは2つのポイントがあった。1つ目は、桃園で預けた荷物はどうなるのか、ということ。中国では普通国内線に乗り換える時はバッゲージスルーとはならず、一旦荷物をピックアップして、再度国内線カウンターで預ける必要があるのだが、桃園の南方航空カウンターの女性は『昆明まで荷物は直接行くので、ピックアップの必要はない』と説明していた。もしこれが本当なら画期的だが。

 

もう一つは国際線から国内線への乗り継ぎ専用通路があるかどうか。これまた桃園では、『専用通路を通って入国審査を行い、そのまま国内線ターミナルへ』と言われたが、よく利用する北京空港でも、国際線間の乗り継ぎはそうなるが、国内線への移動は、荷物を取った後、申し訳程度の通路があるだけだ。果たしてどうか。

 

空港に着いて、国内線専用通路を探したが、そんなものはなかった。すぐに入国審査場についてしまい、まずは入国することになる。そこで驚いたのが、指紋を取る機械が設置されており、窓口へ行く前に指紋を取れという。中国で初めて見た、こんなの。係員がいて、指紋のとり方を教えてくれたので、ついでに聞いてみると『この空港で試験的に行われているだけで全土には広がっていない』というので一安心。だが数人しかいない外国人はかなり混乱していた。今後こんなことが行われると益々不便になりそうな予感。

 

入国審査を通ると、やはりバッゲージクレームで荷物を取る。何となく通路があったので、そちらへ歩いて見たが、そこにあったのは特定国際路線から国内線への専用通路で、今は開いてもいなかった。結局ごく普通に出口を出て、国内線のチェックインカウンターを探し、荷物を預けることになる。既に昆明行きのチケットだけは発券されているので、何とも面倒な話だ。

 

カウンターで『フライトは遅れています』と言われる。ボードを見ると、軒並みフライトが遅延している。深圳でも雨が降っているが、このせいだろうか。フライトはいつ出発できるかすごく心配になる。それにしても深圳空港は明るい。華為などの企業ブースもデザインが斬新でよい。

 

2.昆明
昆明の悪評ホテル

 

結局フライトは1時間半遅れて出発し、夜の10時半過ぎに昆明空港に到着した。この空港、規模が大きすぎて、毎回出口まで歩くのに難儀する。10分以上歩いて何とか荷物を取り、ようやく出口を出ると、まだ空港バスがあったのでそれに乗り込む。バスの車内に変なおじさんが乗り込んできて、無料で道案内をすると言っている。このホテルへ行くのはどこで降りるのがよいかなど、丁寧に答えている。ようは旅行会社の人で、ホテルの決まっていない人などお客を探しているだけなのだが、このスマホの時代にこんなサービスが必要なのが中国のギャップだろうか。

 

バスは昆明駅近くまで行く。今晩はその近くのホテルを予約していたので、真っすぐそこへ向かった。ちょっと入り口が分かり難かったが、駅に近く便利で料金も高くない。私がこのホテルに決めたのは、何より予約サイトに日本人のコメントが数件あり、パスポートでも確実に泊まれると思ったからだ。夜中にホテルを捜し歩くのは正直勘弁してほしい。

 

もう一つはその日本人のコメントのほとんどが『フロントの対応が悪い、サービスの概念がない』など、ひどい内容だったことだ。なんでこんなにひどいことを書かれているのか、怖いもの見たさで行ってみたのだ。フロントへ行くと、確かに若い女性に全く愛想はなく、また予約も見つからないという。何しろ要領が悪い。そこで気が付いたのは、こちらが中国語で教えてあげれば対応できるということ。ようは日本語しかできない日本人がここに来ても『怒ってしまうだけ』なのである。

 

最終的に予約はあったが、私の予約した部屋はもう一杯だと言い、このホテルのスイートルームに通してくれた。そんな広い部屋は必要ないのだが、こんな対応があるのも旅としては面白い。勿論このレベルのホテルのサービスがよいとは言えない。だが意思疎通ができないと混乱が生じるのは、当然のことだろう。フロントの子も田舎から出てきてサービスなど知らないだけなのだ。

極寒の湖南湖北茶旅2016(11)武漢で空港行地下鉄が開通したが

夜はどこか初めてのところで食べようと思い、夜の街をふらついたが、付近にはなかなか手頃なところがなかった。行き着いたのは、香港式の店。たまには味の薄い広東系が食べたかったのでちょうどよかった。白切鶏。店の女性からどこの人かと聞かれ、日本人だと答えると、目が輝いた。今や日本を見る中国の若者の雰囲気に反日などはなく、実に好意的で、好ましい。

 

1227日(火)
武漢散策

 

明日日本へ行くのだが、今日は予備日としており、1日予定はなかった。朝ご飯は初めて回転レストランではなく、1階のKさんの店で食べてみる。ここの和食屋で朝食を出していると知ったのは最近だった。行ってみると、味噌汁や納豆、焼き魚など、和食が並んでいた。これは偶には有り難い。ここで朝ご飯を食べている人は基本的に、日本人のようだ。このホテルには仕事で長期滞在している人もおり、既に名簿が出来ていた。

 

休んでいるのでもよかったのだが、天気が良かったので、外へ出てみることにした。こういう時は博物館を目指せばよい。検索するといくつか出てきたが、取り敢えず一番大きそうな湖北省博物館へ行ってみる。ここは前回訪ねた劉先生の家の近くにあることが分かり、地下鉄で向かう。駅から歩いて10分以上はかかる。この付近は武昌の政府機関、研究機関などが集まっていた。

 

博物館は予想通り大きく立派だった。だが私が欲しかった万里茶路に繋がるような展示は殆どなかった。やはり清末の貿易については、漢口に行かなければならないのだろう。ロシアに関する特別展もあったが、これはというは展示品は見付からない。博物館の屋上から周囲を眺めると、湖が少し見えた。

 

歩いてその湖に行ってみた。東湖、たしかここには30年前に来た記憶がある。勿論今はきれいになっているのだが、その面影は確かにある。天気の良い冬の湖は絵になる。気持ちがよいので、思わずずっと歩いて行く。そしてもう一つの出口から道路に出た。少し行くとバス停があったので、ここからバスに乗る。地下鉄駅まで歩く必要もなく、漢口まで1本で帰れるので有り難い。途中、武漢大学のキャンパスや繁華街を抜け、1時間ほどかかった。

 

漢口駅でバスを降り、腹が減ったので、ショッピングモール内の食堂で食べる。量は多いが味も大味。そこから今度は漢口の博物館へ行く。何だかセキュリティーチェックが厳しい。展示品は想像通り、漢口に貿易関連や、ここから留学に行った人々などがあり、参考となる。そう、ここ武漢から日本へ留学に行った人はかなりの数にのぼったようだ。革命の原動力、ということだろう。

 

地下鉄で宿に戻ると、もうぐったりしてしまう。さすがに博物館を2つ見るとそれなりに疲れものだ。夜までベッドでゴロゴロして休み、最後の夜はいい感じで湯気が出ていた湯包と麺でしめた。昼間は日差しがあり暖かかったが、夜はやはり寒く、温かい食べ物に人気が集まっている。

 

1228日(水)
武漢で空港行地下鉄が開通したが

 

翌朝はゆっくりと起き、回転レストランで最後の朝食を取り、そしてホテルをチェックアウトして、地下鉄駅に向かう。これから空港へ向かうのだが、何と本日、空港までの地下鉄が開通するというのだ。正直、開通初日だから、何かトラブルがあるかもしれないと警戒しつつも、折角だからトライしてみようという気になっている自分がいた。

 

地下鉄は順調に動いており、表示もきちんと出ていたので安心して乗った。だが、乗った電車は空港まで行かず途中駅止まり。仕方なく、そこで降り、空港行を待つが、次が来てもその次が来ても、全てその駅止まりになっており、ホームには人が溜まるばかりで皆の不満が募って来た。どうやら空港まで行く電車は4-5本に1本の割らしい。

 

そこへようやく空港行がやってきたので、大きな荷物を持った人々がドアに殺到し、ただでさえ物騒な武漢の地下鉄が修羅場となってしまった。それでも何とか乗り込む。途中から地上を走り、一応景色も見えた。だが、空港駅に着いてもそれで終わりではなかった。長いエスカレーターに乗り、皆の後ろをついていくと、何とバスが待っていた。ここからシャトルバスで空港まで送ると言われ、えー、と思ってしまった。

 

そのバスがまた滅茶混み。重い荷物を持つ身としては辛い。すぐに発車していくが、皆が慣れていないため混乱する。それに何とか乗り込み、空港に着いた頃には、もうかなりの疲労感があった。確かに料金的には安いのだが、こんなことならタクシーかバスで来るんだった、と後悔する。まずはここで国内線に乗り、北京へ向かう。その機内で亀田のお煎餅が出てきて驚く。そこまでポピュラーになったのか。

 

 

北京に順調に着き、夕暮れの空港から東京へ向かって更に便を乗り継いでいく。今日は北京も快晴で、スモッグは感じられなかった。思えば前年末も北京にいたのだが、その時は黄色注意報が出ていたな。フライトは順調に羽田に着き、私の2016年の旅はようやく終わった。

極寒の湖南湖北茶旅2016(10)南陽市の漢画

1225日(日)
南陽市へ

 

翌朝は早く起きるが寒い。周囲を散策しながら、朝ご飯を探す。油茶と書かれていたので、食べてみる。油茶とは、『熱した鍋に茶油を注ぎ、茶葉を入れて炒め、水を注いで中火にし、数分煮だしたもの』で、トン族、ヤオ族、ミャオ族など少数民族の食べ物と書かれているが中には油条のようなものが入っていた。漢族流なのだろうか。思ったよりあっさりしていて美味しい。この地方で昔から食べられていたのだろうか。ちょっと不思議だ。

 

もう一度会館前で壁を見て、それから昔埠頭があったと言われる場所へ歩いて行ってみる。だが今や影も形もない。往時は水運も使われたが、川の規模からして、道路の発達などで廃れてしまったのだろう。僅かに石段などにその影を見るが、今やそこに住んでいる人でさえ、その歴史は知らないだろう。それから街を少し歩いて見ると、やはり古い建物が多く、歴史は感じられた。

 

 

そして社旗を離れる時が来た。車で南陽市に向かう。そこに李さんの知り合いがいるらしい。市内まではすぐだったが、そこで道に迷い、電話して確認しながら進む。音楽家の知り合いとその奥さんに美味しい地元料理をご馳走になる。羊料理の店と書かれているが、何を食べても美味しい。こんなことを言っては何だが、今や中国では大都市より地方都市、それも小さな店にうまい店が多いように思う。地元の人の案内があるからだろうか。

 

南陽市に来た目的は、漢画館に来るためだった。今から2000年ほど前の漢代に、石に掘られた絵が沢山展示されている。動物を描いたものが多い。人間が踊っている絵もある。一つ一つに意味があるのだろうとは思いながら、余りに展示品が多いので、さらっと見るだけでも2時間はかかった。

 

李さんは一生懸命写真を撮っている。それにしても、よくもこれだけの物が、2000年の時を経て、我々の前に姿を見せたものだ。ちょうど小学生の子供たちが休日に親たちに連れられて見学に来ていたが、郷土の歴史は誇らしいようだ。河南省南陽市、その歴史は恐ろしく古いと言えるが、私はその意味を知る前にこの街を離れてしまった。

 

襄陽へ戻る

李さんの車は襄陽に戻って来た。先に知り合いを下ろして、一度李さんの家に行き、奥さんを下ろした。更には私の明日の武漢行きの切符を買いに行く。手数料5元ですぐに手に入るので有り難い。次に私の宿を考える。安い宿は暖房が効いていない可能性があると言い、彼の知っている特別の宿へ案内してくれた。確かにそこの部屋は非常に暖かかった。暖汽、北京の部屋も暑かったが、何とも懐かしい。

 

外は雨が降っている。もう今晩は一人で適当に軽くご飯を食べようと思ったが、李さんは気を使ってくれ、宿まで迎えに来てくれる。今日はクリスマスだが、中国には関係ないか。奥さんも1泊旅行に一緒だったので許してくれたのだろう。それほどお腹は空いていなかったが、羊鍋を食べた。あまりにうまいので、結局かなり食べてしまい、動きが鈍くなるほどだった。

 

李さんからは、様々な資料を見せてもらった。その中には1910年代に、漢口にあった日本領事館から外務省宛に『襄陽の重要性を調査したい』との公文書も残されていた。その時代は未だ万里茶路が幕を閉じてすぐであり、茶葉貿易以外にもまだまだ物資は動いていただろう。今では想像できないことだが、当時はここの重要性が際立っており、各国も注目していたようだ。日本はここで何かをしようとしただろうか。開発計画という言葉が見えるようだが。

 

1226日(月)
漢口へ

 

翌朝はゆっくり起きて、ゆっくり漢口へ帰ろうと思っていたが、李さんから電話があり、地元の新聞記者が取材したいと言っているというので部屋で待っていた。李さんが私の旅を面白いと思い、記者に売り込んだらしい。やって来たのは女性記者で、1時間ほど万里茶路や私の茶旅について、話をした。私もこういう形で話をする機会はなかったので新鮮だった。相手の質問に答える方が、自ら話すより話しやすいのかもしれない。因みに数日後、これは記事になり、ネットで見ることができた。

 

朝から降っていた雨は殆ど止み、タクシーを拾って駅へ向かった。駅は旧市街から見ると郊外に位置しているようだった。それでも15分位で着いてしまい、時間があったので、駅前で携帯電話の入金を行う。そしてまた一昨日来た道を漢口に向かって帰っていく。もう日本は年末、そろそろ日本へ戻りたいという里心が出てきた。

 

8. 武漢3
休む

 

漢口のホテル、今回は何の問題もなくチェックイン出来た。この1週間で3回目だから流石に大丈夫だった。このホテル、古いが部屋は広く、何より落ち着ける。これでホテルサービスがきちんとしてれば、言うことはないのだが、まあ仕方ない。まずは部屋で昼寝する。それからいつもの腰花麺を食べに行き、飲み物を買い、部屋に戻ってテレビを見ながらゴロゴロする。正直相当に疲れていた。湖南から湖北へ、縦横無尽の移動、これは堪えた。

極寒の湖南湖北茶旅2016(9)圧巻の社旗 瑠璃照壁

そこからまた川沿いに出た。そこには先ほどとは違い、埠頭の跡が立ち並んでいた。全部で30近い数があったという。しっかりした門があるものもあり、名前が明示されている埠頭もある。ここから荷が運ばれたということだろうか。この付近だけが残ったということか。正直よくわかない。

 

この川沿いには高層マンションが立ち並び始めている。李さんによれば、この街の不動産はどんどん高くなっているという。私は襄陽という街がどうしてこんなに発展していくのか理解できなかったが、李さんは『だってここは東風汽車があるからさ』と一言で片づけた。そう、中国三大汽車の一つ、東風汽車の工場がここの郊外にあった。そして日本の日産やホンダとの合弁会社もここにある。意外と外国人も多く住んでいる街なのかもしれず、マンションは自動車関係者の需要に応じているようだが、どうだろうか。因みに当たり前だが街には東風の車が沢山走っている。

 

襄陽城という、城壁がほぼ完全に残っている場所には驚いた。中国各地に行ったが、ここまで城壁に囲まれているのは初めての光景だった。襄陽は三国志の舞台としても有名なところらしい。襄陽の戦いでは呉の孫権の父、孫堅が討ち死にしている。その時代からこの漢江の畔は、重要拠点だったということだろう。それにしても、後世にこの城が残っているのは何とも不思議だ。

 

城内に入ってみると、観光地として、土産物屋などが並んでいる。それはちょっとわざとらしい、中国のどこにでもある風景だが、裏に回ると、ちゃんと人が住んでいる。住人も何代にも渡ってここに住み、この街の繁栄を眺めてきたのだろうか。ここはさすがに再開発にはならいだろうが、立ち退き問題は起こりそうだ。

 

昼ご飯は牛肉麺を食べる。さっき見た回族の肉売りのことが思い出される。襄陽の名物が牛肉麺だとすれば、それはやはり回族の影響だろう。貿易の街らしい名物というものはあるものだ。それにしてもこれは濃厚なスープで美味い。麺もしっかりしている。もうこの辺は米文化ではなく、小麦文化なのだろうか。それにしても、万里茶路を訪ねてきた私としては、襄陽は書面上では重要拠点であるが、それほど保存されたものがない、そして勿論茶畑もない、という結果を見るだけだった。

 

社旗

李さんの車は郊外へ向かう。まずは李さんの奥さんが車に乗り、更に彼の知り合いの男性を乗せて、社旗へ。今日はこのメンバーで社旗に泊まる、1泊旅行に出たわけだ。突然の展開だが、私の旅としては望ましい。車は高速道路を1間ほど走り、それからはローカルな道を1時間ほど行く。ここは既に湖北省ではなく、河南省に入っていた。南陽市とある。

 

街に入ると、そこは時代劇の舞台のような雰囲気があった。街全体が観光地といった様相だ。そこに博物館がある。その横へ行ってビックリした。大型のスクリーン、と言えばよいだろうか。あでやかな壁がそこに存在していた。瑠璃照壁という、高さ15m、幅10mの、見る者を必ず引き付ける、龍や牡丹の図柄が色鮮やかに輝く、まるで黄金の壁とでもいうようなものがあった。これにはしばし声が出なかった。

 

この壁がある場所、それもまた山陝会館だというではないか。襄陽で見た物とは違って、こちらは完全にその形が残っており、今は入場料を取って観光客に見せている。李さんは各地の会館を調べる中、こちらのオーナーとも連携しており、今日もガイドさんをつけて我々を案内してくれた。

 

門を潜ると、裏側にも照壁があり、こちらの方が更にはハッキリしていた。中庭、本殿など全てが揃っており、李さんによれば『これほど完璧に当時の姿が残っている会館は珍しい』という。確かに200年にも渡って、きちんと残されているのは、ここが発展しなかったからだろうか。そしてここへ来て、万里茶路の重要拠点、茶畑の無い世界でも道は存在していたと実感できるものだった。大興奮。

 

会館の周りも、全て古い街並みが残されており、観光客向けの宿や土産物屋、食堂が並んでいる。その中には博物館として物を展示しているところもあり、見学する。特に金融関係の票号など、貿易の街には必須のアイテムはチェックした。河南省から山西省にかけては、農作物が育ちにくい場所もあり、貿易や金融で生きていくしかなかった、ということだろうか。

 

福建会館など、他の会館や商家も多くある。大きな廟もあった。ここで商売繁盛を祈願したのだろうか。これも万里茶路では重要アイテムだ。商人には商売祈願の廟が必須だ。だが、その廟の中へ入ると、本殿の背後に、大きなモスクが見ているのが何とも異様だ。だがそれは回族の活動拠点である証であり。ここでは様々な貿易戦争が起こっていたのではないかと想像できる。

 

夜は山陝会館の女性オーナーを食事した。彼女が連れて行ってくれたのは、やはり回族料理だった。この辺ではポピュラーなのかと思っていたが、何とそのオーナーも回族だった。何とも恐るべし、回族。その夜は何とクリスマスイブ、でもイスラムには関係なかった。会館のすぐ近くにある古めかしい宿屋に投宿した。李さんたちは夜の散策に出掛けたが、私は疲れたので部屋で休んだ。

極寒の湖南湖北茶旅2016(8)万里茶路の重要拠点 襄陽

暗くなってきたので、いよいよ武漢かと思っていると、最後にもう一つ行くところがあるという。何とそこは博物館だと。こんな時間に空いている博物館などないだろうと言ったところ、萬さんは『私設博物館でオーナーは知り合いだから問題ない。むしろ是非見て欲しい』というのだ。そこは高速道路を降りてほど近い、元は学校だった場所らしい。人気はない。

 

中に入って驚いた。ものすごい数の展示品がある。天目茶碗や陶器の破片から近代の蓄音機まで、相当古い歴史的な物から近代の物まで、これは私設というレベルではない。何とそこには萬さんのコレクションも一部置かれているらしい。『置くところがないので、ここに展示している』というから驚きだ。今や中国では、このよう私設博物館が1万以上もあると言われて、さらに驚く。入場料も取らないとのこと。このような収蔵品は確かに歴史を保存するという役目を担っているが、同時に現代生活に飽きた、お金持ちの趣味、とも言え、何とも複雑な思いがした。

 

その夜、漢口に戻り、いつもの宿でチェックインしようとしたが、予約がないと言い出す。昨日の朝チェックアウト時に明日の夜戻ると言ってあったのに、この始末だ。情けないとしか言いようがない。ただ今回のフロントは『次回の予約も含め、きちんと引き継ぐ』と言ってくれたので、まあいいか。疲れたので早々に寝る。

 

1224日(土)
襄陽へ

 

翌朝は5時に起きる。ホテルの食事は6時からだが、残念ながらその前にチェックアウトとなる。今日は漢口駅7時発の列車で襄陽へ向かうことになっていた。私の目的を聞いた萬さんが、特別にアレンジしてくれた。ただ彼自身は行けないので、地元の人に頼んでくれている。

 

地下鉄で漢口駅へ行こうとしたら、何と駅が開いていない。武漢の地下鉄は6時半かららしい。6時からなら、間に合うと思ったのにがっかりだ。仕方なくタクシーを拾って向かう。この駅も以前来ているので、もう慣れているが、それにしても古いのに大きな駅だ。まあ先日の武昌駅も地元の人が迷うほど大きかったが。

 

7時ちょうどの動車に乗り込む。冬の湖北は本当に寂しいところだ。北の方へ向かうというだけで、昨日までとも心持が違う。いや、同行者がいないからだろうか。荒涼とした大地、緑のない土地を列車はひたすら走っていく。途中停まる駅も殆どなく、大きな街も見受けられず、約2時間半で襄陽に到着した。まるで武漢からこの街だけのために鉄道が敷かれているような錯覚を覚えた。

 

7.
万里茶路の跡がない街

 

何故襄陽に来たのか。それは万里茶路の重要拠点だったからと、教えられたからだった。萬さんの紹介で、李さんが迎えに来てくれた。李さんは公務員の傍ら、地元の歴史を発掘し、必要があれば保存する活動をしているという。早々に車で川沿いに連れていかれる。『この辺が、昔水運の起点となった場所だ』と指さされた場所には何も見出せるものはなかった。

 

僅かな痕跡を求めて川辺へ行く。ここが長江最大の支流と言われる漢江が流れる場所、そして更に支流との合流点になっていた。漢口から来た物資はここで仕分けされ、四方に船か馬で運び出されたという。僅かに残る、積まれた古い石に、何となく港を想起させるしかない。

 

それから古い街並みが残る場所へ行く。狭い路地の両脇に家がある。100年以上前の建物もあるという。その一軒に入ると、5代目だという男性が『昔は布などを商って儲かっていたらしいよ』という。その家も含めて、その多くが再開発の対象になっており、李さんのグループはその歴史的価値を見出し、保存運動をしているようだ。周囲を見渡すと、高層マンションが建ち始めている。もう風前の灯火だろうか。この街の歴史的価値、それを見出すうえでも万里茶路の歴史は重要ということだ。

 

次に学校へ向かった。普通の学校に見えたが、その門の脇の壁が凄い。200年ぐらい前に建てられた同郷人の会館跡だという。李さんはこちらの研究で本も出しているので、実に詳しい。万里茶路に登場する山西商人と陝西商人、往時は二大勢力だった彼らが、共同で作ったのが山陝会館だった。学校の敷地内に入ると、わずかに舞台と鐘楼が残っており、その壁にはその名が記されていた。

 

商人たちは必ずここへ立ち寄り、商売上の商談や、一般情勢の情報交換などを行っていたという。確かに中国中に同郷者のための会館はあるが、これほど明確なものは少ないと思う。李さんによれば、このような会館が完全に残っているのが社旗にあり、今日はこれからそこへも行ってみるというので、心惹かれた。

 

因みに付近は回族の住民が多いようで、羊や牛の肉を捌くあの帽子を被った人々がいたのは、何かの因縁だろうか。恐らくはここの貿易に携わっていたのは、山陝会館の商人ばかりではなく、回族もいたことだろう。そして彼らは馬を使ってここから物資を西へ運んだのではないだろうか。この回族ルートも興味深い。