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ボルネオ探検記2019(1)28年ぶりのコタキナバルへ

《ボルネオ探検記2019》  2019年2月14-28日

クアラルンプールに行きたいと思った2月。だが華人の知り合いに『旧正月明けは忙しい』とあっさり断られる。それでも日本は花粉症の季節になっており、どうしても海外脱出したかった。そこで検索して出てきたのが、コタキナバル。マレーシアのボルネオ島に行ったのは、もう28年も前のこと。しかもそれは香港から行った初めての家族旅行(長男1歳)で、ビーチリゾートに滞在しただけ。ほとんど観光すらしていない。実質初めてのボルネオを探検してみようと思い立つ。

 

2月14日(木)
コタキナバルまで

早朝成田空港を目指す。8時半過ぎには空港に到着し、マレーシア航空のチェックインカウンターに進む。既に結構な列が出来ていた。だがよく見ると私のフライトはJALが運行すると書いてある。こういう場合、マレーシア航空でチェックインすると、座席などはちゃんと確認できるのだろうか。ちょっと不安になり聞いてみると、何と『JALでチェックインして』と言われ、慌ててJALに走る。JALカウンターは空いており、すぐにコタキナバルまでの2枚の航空券を得た。

 

空港第2ターミナルに来るのは久しぶりだ。搭乗口はイミグレから一番遠い場所にあった。途中まで歩いて行くと、仕切りがあり、ソファーもある、寝転がれるスペースを発見。偶々空いていたので、ここで休息しながら、充電も行う。テレビも目の前にあり、朝の番組を見て過ごす。搭乗時間が迫るとまた歩き出す。

 

ふと壁を見ると、仮面ライダー勢ぞろいのポスターが。中国人の若いカップルが楽しそうに『私はここから見ていた』などと言っている。そうか、中国人もライダー見ていたんだ、と妙に感心する。ただここにお目見えしているのは平成以降のライダーたち。私は昭和だから、話しは合わんな。

 

搭乗口に行くと大行列が出来ているが、誰がどこに並ぶのかさっぱり分からない。JALはANA以上に優先会員が多いので、あまり優先の意味はないように思える。結局最後の方からノコノコ乗っていく。JALの国際線、しかも長距離線に乗るのは何年ぶりだろうか。ご飯はANAよりは美味しいかな。

 

映画を2本見た。1本は前回も英語版で見たボヘミアン・ラプソディ。これはテンポが良くて、歌がいいので、機内で見るには良い。もう1本はなぜか佐藤健と高橋一生がモロッコを旅する『億男』という映画を見てしまう。そして何だか心に引っかかるものがあり、少し考えこむ。『人間にとって本当は何が大切なのか』という古典的命題かと思うのだが、何が引っかかるのだろうか。そんなことを考えてウトウトしている内に、何となく8時間は過ぎてしまったようで、まずはKLに到着した。

 

国内線への乗り継ぎ場所は非常に分かり難かった。なぜか表示が出ていないのだ。カウンターで聞いて、ようやくたどり着く。しかし国内線のターミナルに入ってしまうと途端に寂しい。食堂も売店も色がなくなる感じだ。しかも食堂で食べている人もいない。私は飲み物が買いたくて自販機に手を出したが、リンギは持っているのに、なかなか買えずに手間取る。カルピスが何種類もの味を出している。

 

ようやくコタキナバル行きに乗り込む。来た時は夕日が沈むところで、今は真っ暗だ。乗客は多くなく、楽ちんなシート。それでも2時間以上の旅なので、簡単な食事も出た。外国人はほぼ乗っていないようだ。機内の照明が暗くなり、ウトウトしているとそのままランディング。

 

午後11時半のコタキナバル空港。何と国内線なのにイミグレカウンターに並ばされる。ここサバ州は自治権を持っているとかで、先ほどKLでマレーシア入国手続きは済んでいるのに、もう一つスタンプが押された。荷物は預けていないのですぐに外に出られた。出口を出るとまずはシムカードの購入。15日間、40MR で25GBというそんなに使えるのかというコースを勧められ、買う。

 

既に空港から市内へのバスは時間的に終了しており、タクシーカウンターに行き先を告げ、チケットを購入してタクシーに乗る。30MRはちょっと高いが、他に方法はないし、一応深夜なので安全を期す。運転手とやり取りする必要がなく便利。街までは15分ぐらいだった。勿論28年前の記憶など全く残ってはいない。

 

今晩予約したホテルは中国系だった。宿の前には大きく中国語名も書かれている。ホテル代の他に、サバ州では1泊10MRの宿泊税を課すと書かれている。1泊ずつだから、これから毎日払うのかと思うと、ちょっと嫌な気分になる。京都に泊まる外国人も同じ気分を味わうのだろうか。

 

部屋はコンパクトだが、エアコンも効き、十分だ。当たり前だが、東京に比べればかなり暑い。残念ながらWi-Fiのパワーがなく、スピードを上げるため、仕方ないので、スマホのテザリングで対応する。シムカードの容量が大きいので安心して、使えるのがよい。1000円のシムカードが、これからボルネオ各地で大活躍することになる。

名古屋・岐阜意外な旅2018(2)初めて日本で会ったOさんと

夜は何と飛騨牛の店に連れて行ってもらった。お店の雰囲気もとても良く、前菜から魚料理、そして実に柔らかい肉を堪能した。最近『我が家のご馳走とは何か』が議論となり、結局何も出てこなかったことを思えば、やはり滅多に食べられないもの、そして是非食べたい物になるだろうと得心させるお肉だった。これだけ満足したのは久しぶりだ。岐阜駅まで送ってもらい、別れた。次はいつ会えるかな。

 

名古屋
今日の宿は午後10時までにチェックインしなければならいというので、急いで名古屋にJRで戻った。9時半には宿に辿り着く。駅前の安宿。部屋は2階で荷物を持って会談で上がる、トイレは共同、シャワーは地下という構成だが、部屋は狭いが個室で、特に支障はない。まあ駅前のこの立地で3000円だというのは魅力的かな。東南アジア系の外国人がかなり泊まっているのも頷ける。

 

9月2日(日)

朝は7時前に起きて、ゆっくりと顔を洗い、部屋を出る。チェックアウトは鍵を部屋に置いて出る方式だった。既に確認済みの駅の反対側にあるバスターミナルへ向かい、8時過ぎに指定されたバスに乗る。前回は車で迎えに来てもらったので、会場に初めて一人で向かう。日曜日ということもあり、乗客は少なく、バスの本数も少ないので、かなり早めに到着してしまったが、遅刻も出来ないので仕方ない。

 

その辺をフラフラ歩いてみたが、特に何もない住宅街のようだったので、早めに会場に入り、準備する。と言っても基本的に何でもできる主催者のTさんが全てやっているので、私はただそこで予習しているだけだった。お茶の歴史、というテーマはそれほど一般受けするものではないのに、今回も沢山の方に来て頂き、誠にありがたい。

 

今回は先日の大阪の例を踏まえて、午前午後で2つのセミナーを開催した。こちらとしても2度来る手間が省け、参加者も1日で2つ聞けると双方の利害が一致しているようだ。出来ればこういう形式で、年に2度ぐらい開催できると嬉しいが、それも参加者の意向次第だ。

 

間にお昼を挟むのだが、そこは器用なTさん。ちゃんとお店でお昼を用意しており、希望者に振る舞っていて、私も台湾風料理のお相伴に預かる。それにしてもセミナーやりながら、10数人の昼ご飯まで作るとは、何とすごい人なんだTさんは。更にこのお店は移転まじかとなっており、ここに来るのは今回が最後だという。皆さんもこのお店に名残を惜しんでいる。引っ越しと新店舗の準備まで同時並行でやっているとは、もうスーパーマンというべきだろう。新店舗がどんなところか、次回に期待しよう。

 

皆さん、午後は少し眠たかったのでは、と思うほど充実したランチを食べて、また会場へ戻る。『台湾紅茶の歴史』と『台湾包種茶の歴史』を続けて話がどうだっただろうか。基本的にマニアックなトピックスだが、来ている方もマニアックな方が多かっただろうか。質問もいくつも出て、まあ取り敢えず何とか終了した。

 

実は午後のセミナーには香港で10数年お付き合いのあるOさんが参加してくれた。ちょうど昨日実家のある名古屋に香港から帰省しており、初めて日本で会った。しかも彼女の実家はこの会場から何と歩いて5分のところにあるというから、ご縁というのは凄い、としか言いようがない。

 

セミナー終了後、彼女の家にお邪魔した。実家は戦前から長年続く、表具屋さんだった。表具というと、掛け軸などを思い出すだけで知識は全くなかったが、ふすまなど様々な仕事があるとお父さんから説明を受ける。全盛期には組合加盟者も多く、繁栄していたが、昨今はふすまのある家も減り、絵画や書画の軸を新調する人も減っているようだ。

 

数少ない優良顧客はお寺だという。だがお寺の経営も少しずつ厳しくなり、本堂の修繕や軸の修理なども経費削減に遭って、その作業は減りつつある。表具の作業はかなりの忍耐が必要であり、またその熟練の技は簡単に習得できるものではないが、このような状況下、後継者は非常に少ないのが現実。

 

むしろ外国人が表具に注目しており、その習得を希望する人が日本を訪れているともいう。彼らがもしその技術を得られれば、国に帰り仕事があるというのだ。海外の博物館、美術館には多くの日本画、書画などが所蔵されているが、その修理ができる人材は極めて限られており、その需要は大きいらしい。それなら日本人人材が海外で活躍すればよいのでは、と思うのだが、そこは高齢化もあり、難しい。若者技術者がいれば、海外でいい仕事ができると思うのだが。

 

東京に帰る前に、Oさんに連れられて、ひつまぶしを食べに行った。折角実家に帰り、家族団らんするところを誠に申し訳ないが、一人で食べるのは寂しいので、何とも有り難い。これまで何度か食べたことはあるが、今日は一段と美味しく感じられる。お店も日曜日の夜でほぼ満員だ。次回は台湾ラーメンに挑戦しよう。これからも時々名古屋に来て、色々と勉強したいと思う。

名古屋・岐阜意外な旅2018(1)30年ぶりの後輩に会って

《岐阜名古屋の旅2018》  2018年9月1日-2日

2年ぶりに名古屋で茶旅報告会を開いてもらえる機会を得た。日曜日限定という制約もあり、こちらも日本にいないことが多いので、日程がなかなか合わず、半年前にようやくこの日を決めることができた。ついでに1か月前にも行ったばかりの岐阜も再訪することになった。茶旅ではない今回の短い旅、意外と中身は濃かった。

 

9月1日(土)
岐阜へ

朝から新幹線に乗り込んだ。岐阜へ行こうと思ったのだが、バスなど安い交通手段が見付からず、結局新幹線で名古屋へ行き、そこから在来線で行くことにした。全くいつものように品川駅でシュウマイを買い、車内で食べる。どうもにおい問題が気になり始めてはいる。次回はどうするか。

 

いつものように何事もなく、静岡を走り抜けていき、12時には名古屋駅へ滑り込む。静岡へは立ち寄りたいと最近何度も思うのだが、残念ながら通過ばかりだ。新幹線ホームに降りると、数年前に食べたきしめんを思い出し、食べてみようと思う。だが下りたところにあったのは、別の名前の店だった。店の変化も激しいので代わったのかと思ったが、念のためホームを端まで歩いてみる。

 

すると前の方に行列が出来ている店があるではないか。やはり流行っている店は続いているものだ。私も後ろに並び、何とか入り込んで、きしめんを食べる。初めて食べた時ほどの感慨はないが、腹も減っているのでするすると食べてしまう。ここ数年、多くの人がFBなどで紹介したこともあり、お客は増えているようだ。

 

名古屋駅で明日の準備をする。それはバス乗り場を確認することと、今日泊まるところを確認することだった。普通のホテルなら、荷物を預ければよいが、今日のところも安宿で(便利なので駅前にしただけ)、フロントは5時からしか対応しないというので、荷物を引っ張ったまま歩いた。僅か1泊なのに、セミナーで使う茶葉と、念のためのプロジェクター(主催者は急きょネットでプロジェクターを購入してくれたが、それが今日中に届くかどうか心配なため)が入っているので意外や重い。

 

岐阜で

それが終わると、JRで岐阜へ向かう。どうやら快速と普通があるようだが、私はゆっくりと向かった。今日は何と30年ぶりに大学の後輩と会うことになっていた。7月の岐阜訪問の様子をFBに上げたところ、次回岐阜に来るなら声を掛けて、と言われたので声を掛けたのだ。私も彼女もまさか1か月ちょっとでまた来るとは思っていなかったので驚いたが、この機会を逃すと、次にいつ来るか分からないので、会うことにしたのだ。

 

岐阜駅の改札近くに立っていたHさん、20歳の頃とあまり変わっていないように見えて驚いた。すぐに分かるかな、という心配は完全な杞憂に終わる。笑い方など、あの頃とそっくり同じで、思わず学生時代に戻ったかと思う程だった。彼女の車で岐阜城に向かった。お互いの近況、いや30年の流れを一通り話すのに時間が掛かる。

 

岐阜城、時代劇ではよく見るのだが、本物を初めて見る。格好いい信長像が建っている。まさかこんなに急な山の上に築かれているとは思いもしなかった。百聞は一見に如かず、とはまさにこのことだ。ロープウエーに乗り込んで上に上がる。今日はお天気が今一つだが、7月の猛暑を考えれば涼しくて快適だ。

 

ロープウエーを降りて、更に上に歩いて向かう。岐阜城は本能寺の変で焼失したと勝手に思い込んでいたが、実は関ヶ原合戦以後に廃城とされ、1966年に天守閣が再建されたことを学ぶ。その天守閣に登り、空の上から岐阜を見渡した。一部は濃い霧がかかっていたが、風が吹くとスッと視界が開ける。何だか面白い。展示も見てみるが、歴史的にはどうなのだろうか。石垣跡などをちょっと見て下に降りる。

 

そして今度は鵜飼いで有名な長良川にやってきた。鵜飼は夜行われるため、今回は船に乗る時間が無かったが、取り敢えずその周辺を散策する。立派な宿や古民家などがあり、風情がある。既に船の準備が進んでおり、乗船待ちの人々もいた。この日は台風接近が懸念されていたが、やはり商売としては雨が降っていなければ決行するだろう。

 

最後に古い県庁を見て、その横の図書館に入る。この図書館が実に立派で驚く。非常に開放的で、多くに市民で賑わっている。ここなら学生の勉強も捗るのではないだろうか。岐阜に限らず、地方都市の箱物の充実ぶりには時々目を見張るものがある。いつもならここで郷土史などを見学するのだが、今日は疲れたので、併設のスタバで休むことになる。

 

Hさんは早くに地元で結婚、3人のお子さんにも恵まれ、子供たちはみな優秀。ご主人は大手企業に勤めており、ベトナムのハノイで一度お世話になったこともある。とても幸せそうな家族だが、結構劇的な人生を歩んできていることを初めて知る。親とは何か、について語り合う。自分も最近常に反省しているが、彼女は常に乗り越えている。

タイ中部横断の旅2018(16)バンコックの福建会館へ

8月22日(水)
福建系を探す

今回の旅もついに最終日が来た。かなり充実していたとは思うのだが、心残りがあった。それはヤワラーが攻略できなかったことだ。今日は深夜便のため、午前中は部屋で休養して、午後はヤワラーを再訪、夜になったら空港へ向かうことにした。昼ご飯はいつものようにYさんたちと食べる。

 

そして昨晩Mさんから言われた『ヤワラーは潮州系、客家系だが、福建系は他の場所にいるのでは』との問いを解決すべく、教えてもらった福建会館を訪ねることにした。そこはファランポーン駅で降りるが、ヤワラーとは反対方向に歩いていくのだ。かなり迷ったが、周囲は確かに漢字の看板ばかりだった。

 

ようやく目の前に現れたその会館は思ったよりもはるかに立派だった。福建系もちゃんといるよ、とでも言いたげだ。中に入っていくとスタッフが応対してくれた。同郷会などの会員名簿に私が探している王さんの名前はないか、と聞いたところ、今は皆タイ語だから、タイ語名を持ってこないと分からないとあっさり言われてしまう。

 

それでも彼女は親切で福建系の人が集まっている廟の場所などを書いてくれた。彼女自身も当然福建の末裔だと思い込んでいたら、何とミャンマー、それもシャン州の外れの方から働きに来ているという。『たまたまここに仕事があったから』という雲南の末裔である。やはりきちんと北京語を話せる人材は不足しているのかもしれない。

 

帰ろうと思ったが、非常に強い雨が降ってきた。これではヤワラーの方にも歩いて行けない。仕方なく、会館内を見学する。建物は最近建て替えたのかもしれないが、何とか室内はレトロな感じがする。歴代会長の写真や氏名などが掲示されているが、私が探す歴史に関わるヒントのようなものは出てこなかった。

 

30分ほど待ったが、小ぶりにもならない。傘を忘れてきたのだが、我慢の限界が来て、道に飛び出し、運良くタクシーを拾った。ヤワラーを目指し、ちょうどよいところで降りる。まだ雨は降っていたが、まっしぐらに茶荘に飛び込む。だがそこにいたのはいつものおばさんではなく、どう見ても華人ではないタイ人男性。こちらが中国語で話しかけても反応せず、何だという顔をされる。

 

そこに奥からおばさんが出てきたので助かった。今回は彼女に具体的な茶荘の住所と電話番号を見せて、今もあるか聞いてみたが、首を振る。ただこの住所(漢字名)は近くにあると言い出し、何と自ら電話番号に電話してみてくれた。残念ながら繋がらなかったが、こういう具体性が調査には重要だとようやく分かる。

 

茶荘を出て、今度は向かいの宝石屋に入る。中国人観光客が値段の駆け引きしている中、『この辺で指輪を治せるところはないか』と変な質問をしてみる。店主は『ヤワラーにはないぞ、MBKに行け』と謎の言葉を残すが、取り敢えずここでは治らない、そして何より指の回復が先決だと思い、止める。

 

雨は一向に止まないので、近くの麺屋に入る。午後4時で夕飯には早いが、ここでいつも臓物の入った麺を食べている。これは素直に美味しい。中国人観光客が大勢で押し入ってきたので外へ出ると雨は小降りになっていた。だが、暗くなりかけたヤワラーでこれ以上手掛かりを探すのは難しいと諦める。バス通りに出て、バスに乗り、ゆっくりと宿へ帰る。

 

宿では恒例のマッサージで時間を潰す。今回の旅も意外と疲れが出ており、マッサージ早々で寝落ちてしまう。気が付くと2時間近く経っており、良い気分転換となる。預けていた荷物を取り、タクシーでドムアン空港へ向かう。今回は順調すぎるほど順調で30分で着いてしまった。

 

出発まで3時間以上あった。今回スクートの深夜便は3時間前からチェックイン可能で大いに助かる。日本人乗客も詰め掛け、結構行列が出来ていたが、捌きは早く、簡単にチェックインは終了した。出国審査にもまだ早いので、久しぶりにドムアン空港内を散策する。数年前とは様変わりしている。店がかなり違っており、ターミナル1と2の間の2階に沢山出来ていた。ただ夜10時頃には店も閉まり始め、24時間体制ではない。その空いたスペースを利用して、PCなどをいじって過ごす。

 

スクートの運行は時間通りでよかった。また行きと同じで機体は新しく、座席も広くてLCCと言う感じはしなかった。ただトイレがちょっと壊れており、困ってしまったが。まあそれも何となく解決されるのがLCCか。今回の旅を振り返る暇もなく、早朝成田に着き、いつもの電車で家路に着く。

タイ中部横断の旅2018(15)指輪を切断する

8月21日(火)
病院で指輪を

翌朝はいつものように朝Yさんとコーヒーを飲んでいたのだが、実は最近不安なことがあって思い切って打ち明けた。私の左薬指には20年以上結婚指輪が嵌ったままだが、それは指の第2関節が太くなってしまい、取れないからだった。ところが最近体重の増量に伴い、指の太さまで増量している事態となり、このままではいつか指輪で指が締め付けられ最悪壊死してしまうのではないか、と思い始めたのだ。

Yさんはすぐに検索をはじめ、指輪が取れない時の対処法を探してくれたが、その答えは何と『消防署に行く』だった。なんでだろうかと、思いながらも急に心配になってしまい、『バンコックで消防署には行けないが、有名病院なら日本語デスクもあるので対処法を教えてくれるのでは』と期待して、午後病院に行くことを決めた。石けんでこすっても無理なことは分かっていた。

 

朝はかなり溜まっていた洗濯物をいつものランドリーに出したりして、忙しかった。そして昼には何とちょうど話題の高校野球『大阪桐蔭対金足農業』の決勝戦がNHKで見られるというので、昼も食べずにそれを見ていた。太田幸司の始球式、だが試合は一方的な展開となり、Yさんに誘われ、昼飯を食いに行き、最後まで試合を見ることもなく、タクシーで病院に向かった。

 

この病院には何度かお世話になっており、日本語専用デスクの存在も分っていた。受付の若い男性は完璧な日本語を話していたが、名札はタイ姓のように見えた。きっと日本育ちなのだろう。事情を話すと取り敢えず外科に繋いでくれた。同時に『保険が効くかもしれないので電話したら』とも言ってくれたので、電話してみる。

 

外科に行くと、脈拍や血圧を測られたが、ベテラン婦長が出てきて私の指をつまんで即座に『これはあっちね』という仕草をした。そして小部屋に案内されると、そこには二人のレスキュー隊員がおり、私の指を抑えて机の上に押し付ける。まるで指詰め?の儀式のようだ。ちょっと怖い。そのまま金属のへらで指の隙間を開け、ペンチを差し込み、切ってしまった。僅か5分の出来事だった。

 

もうこれで大丈夫。指輪は曲がってしまってけれど、どこかで元に戻せるのでは、とも言われる。そして『本件は医療行為ではないので、病院は一切費用を請求しません』というではないか。そして通訳の女性が小声で『よろしかったら、有難うと言って、この二人に200バーツぐらい渡しては如何でしょう』というので、喜んでお渡しした。

 

因みに奥さんには外科に来た段階で『指輪を切ってしまうかもしれないが、やむを得ない事情なので了解して欲しい』旨、ラインで送っていたが、やはり実際に切られた指輪の写真を送ると、『これはどこかで治らないのか』と言われてしまう。私としてはまずは20年締め付けられた指の回復を優先させたいと考えている。

 

日本では消防署に行くという意味もようやく分かった。消防ではなく、救急だったのか。部屋を出ると保険会社から本件請求可能との電話をもらったが、既に本件は終了したと伝えて電話を切る。こういう経験もしてみないと分からないものだ。病院からバイタクに乗り、BTSの駅へ出る。

 

プロンポーン駅から終点のサムローンという駅へ向かう。昔この路線にはよく乗ったが、当時はバンナーが終点、のちにベアリングという駅が出来たのまではしているが、サムローンはいつできたのだろうか。バンコックは1年に駅が1-2は増えているようだが、終点の名前がかわると乗る電車を間違える可能性もあり、ちょっと困っている。

 

なぜこのサムローンへ来たのか。それは以前からのお知り合いMさんが家を買って、バンコックにいる間はここに住んでいたからだ。駅に着いたが、それほど新しい、と言う感じはしない。すぐ近くにショッピングモールがあるというので、そこで待ち合わせたが、一昨日のターミナル21などとは大違いで、1階からして小さな店が沢山あり、高級感とは無縁だった。

 

聞いてみるとここはバンコック都下からほんの少しはみ出しており、バンコックではないのが大きいらしい。それで地価も安く、BTSが通って便利でもそれほどは高くないようだ。近所の市場もかなりローカルチックで広い。その昔は、日本的に言えば、バンコックを出た最初の宿場、だったのだろう。

 

ローカルチックとは言ってもちゃんとしたお店に入り、美味しいものを食べる。バンコックではないと言ってもそれほど珍しいものや名物がある訳でもないが、タイ語堪能なMさんが頼んでくれる料理は何となく美味しく感じてしまうのはなぜだろうか。またたわいもない話をして時間が過ぎる。

 

帰る時はMさんに教えてもらったバスナビを使って、バスで帰ることにしたが、何だかうまく機能せず、一本で帰れるバスを捕まえることが出来ずに、かなりの時間待った。そして結局乗り換える羽目になり、素直にBTSに乗ればよかったと反省し、やはりバスは難しいとの結論に達する。タイ語が出来なと大変だ。

タイ中部横断の旅2018(14)奇跡的に見つかった忘れ物

このホテルをチェックアウトして、昼間の暑さを避けて、トゥクトゥクで昨日見付けたホテルに移動した。もうこれまでのようにどんなところでも歩いていく、というのは止めるべきだ。郷に入れば郷に従え、タイ人のようにしよう。新しいホテルとはとても快適で、午後は外出する気力が失せてしまった。

 

このホテル、よくよく見ると、今回の旅の最初に泊まったメーソットのホテルと姉妹店だった。姉妹店と言ってもあちらは簡易なビジネス系、こちらはちょっといいホテルなので、まさか同系列とは思われなかった。タイのホテル業界も相当に変化しているのだろう、これはその一環だろうか。

 

何気なくテレビをつけると、タイ語放送だったが、ジャカルタアジア大会を中継していた。日本の放送局なら日本の注目選手の出ている競技のみを放送するのが常だが、ここでは大いに違っていて驚く。何しろ日本対モンゴルの女子バスケット予選を生中継しているのだ。恐らくは時間調整であったのだが、これを見ている人はいるのだろうか(日本人でもこの試合を見る人はほぼいないはず)、と心配になるほど点差は開き、特筆するものは何もない。日本なら前の競技の再放送とか、これからの競技の見所などを紹介するだろうに。

 

夕方になり、またフラフラ歩き出す。ホテル近くのお寺に参拝。その後腹が減ったので、屋台で炒飯を食べる。このシンプル感がよい。暗くなった頃、ホテルの道斜め向かいに建つ、ショッピングセンター、ターミナル21を見学。まさかここにバンコックと同じものがあるとは驚きだ。売っているもの、出展者もバンコックとあまり変わらず、物価水準からすれば高いかと思うが、大勢の人が来ていた。コラートも少しずつ発展の兆しがあるということか。

 

部屋に戻ると、アジア大会、サッカー男子、タイとウズベキスタンの試合を見る。この試合こそ、タイ人注目の一戦だったが、残念ながらタイは破れてしまった。U23カテゴリーでは、今やアジアはウズベクとベトナムの二強時代の様相を呈しており、サッカー界も変化が激しい。日本も相当頑張らなければならない状況だ。

 

8月20日(月)
忘れ物を探して

翌朝はゆっくり起きて、そこそこ立派な朝ご飯を食べて、ホテルをチェックアウト。すぐ近くに旧バスターミナルから出るバンコック行バスに乗り込む。新バスターミナルまで行かなくてもよいのは便利だし、バスの本数も頻繁にある。午前10時のバスに乗り込むと、乗客はそれほど多くないが定刻出発。シートも快適で、よく眠れる。

 

最近はバスも法定速度(また自社規制速度)をしっかり守っており、スピードを出して飛ばすことはない。4時間近く乗ってアユタヤを過ぎると、ちょっと渋滞に嵌り、速度が遅くなる。結局来たバスターミナルに着いたのは5時間後。意外と疲れたな、と思いながらもバスを降り、いつものようにトイレに入り、チャドチャックまで行く路線バスに乗り込んだ。

 

バスはすぐに出発したので幸先よいと思ったが、払うべき料金を取り出そうと小銭入れを探すもズボンのポケットに見当たらない。咄嗟にヤバいと思い、バスを止めて、一人下りる。バッグの中などを探しまくるも見付からず、いよいよこれはバスの中に落としてきた、とわかる。それでもこれまでカメラを落としたことは何度かあるが、小銭入れを落としたことは一度もなかったので半信半疑。

 

ところで私は何というバス会社のバスに乗って来たのかさえ、分からない。チケットはあるが全てタイ語なのだ。仕方なくまずはバスを降りたところに行ってみたが、当然ながらもうバスの姿はなかった。その付近にバス会社のオフィスもなさそうだ。その辺の人に聞いてみても言葉が通じない。どうするんだ。

 

とにかく言葉が通じる所へ、というので、チケット売り場まで歩いていき、そこのインフォメーションで聞いてみると、3階にこのバス会社のチケット売り場があるからそこで聞け、という。そこへ行くと、ここでは何もわからない、ときっぱり言われてしまう。もう方法はない。むしろホテルの部屋に忘れてきた可能性もあるので電話してみたがやはりないという答えだった。

 

もう万事休すだ。だがなぜここまで小銭入れに拘るのか。中には数十バーツしか入っていないし、入れ物もボロボロなのだ。諦めればよいはずだったが、その中にはコロコロバッグの鍵が入っており、このままだとバッグが開けられない。これは面倒だが、定宿へ行けば何とかなることは経験済みだった。問題は日本の家の鍵。こちらをもしもう一度作るとなると、2-3週間を要し、鍵代も1万円はかかる。これを機会に奥さんから鍵を取り上げられてしまうことを一番に恐れ、必死に探した。

 

ダメもとでもう一度チケット売り場へ行くと、『1階のバス乗り場に行ったらあるかも』と言われた。バス乗り場に忘れ物があるとは思えなかったが、最後の気力を振り絞り、荷物を引き摺り、下に降りた。遠くにバスが見えた。チケットをかざしながら、忘れ物、というと、そこにいた兄さんが『こっちだ』というではないか。行ってみるとそこにバスが停まっており、その運転手が運転座席から見事に私の小銭入れを取り出した。まるで魔法にかかったように動けなくなった。

 

何度もお礼を言った。日本なら、『なんでも忘れ物センターがないんだ』などとこちらが怒るような場面かもしれないが、タイではこれは奇跡に近いのではないかと思う。同時に自分の執念にも感心した。一体どれだけの時間と労力を費やしたことだろう。それからいつものように定宿に戻り、Yさんにこの話をすると、彼も『タイでは奇跡だ』と驚いていた。

タイ中部横断の旅2018(13)ピーマイ遺跡にて

ホテルを出るとちょうどバイタクにいさんと目が合う。仕方なく、それに乗ってバスターミナルへ。すごく遠い訳ではなかったが歩くにはやはり微妙な距離だった。今日は郊外のピーマイ遺跡に行ってみることにした。だがバスターミナルで簡単なはずのピーマイの発音が通じずに困る。それでも何とか探し当て、バスに乗り込む。

 

バスは空いていた。ピーマイ遺跡に行くと思われる外国人も乗っており、取り敢えず行き先に間違いはないようだ。1時間ぐらい乗っていただろうか、バスはピーマイに入り、皆が降りたので、私も降りた。すぐそこに遺跡入り口があり、入場料を払って中に入る。さすがにここ数日見てきた遺跡とは規模が違う。この遺跡を紹介する展示室も設置されており、まずはそこを眺める。ピーマイはアンコールワットのモデル、という言葉が飛び込んでくる。この付近の遺跡、アンコールワットに似ているとは思っていたが、むしろあちらより先に出来た可能性もある訳だ。いずれにしても、ここの規模から考えて、副都市的な位置づけだったのだろう。往時のクメール人の版図は凄い。20世紀に外国人によって発見されたとある。

 

外に出て遺跡を回り始める。何と目の前を日本の大学生一行が歩いていく。研修旅行だろうか。女子が多い。彼らは何を学んでいるのだろう。遺跡は確かにアンコールワットの雰囲気を漂わせ、かなりの敷地に広がっていた。多くの観光客はメインの建物付近を見て帰るが、私はむしろ、端っこの方に佇む建物の端を見ていた。細かい彫り物、細工が素晴らしい。天気は曇りでまだよかったが、それでも汗が出てくる。

 

裏門から出られたので、後ろの寺院に行ってみる。そこで突然雨が降り出し、しばし休息となる。大仏の横に犬が寝ており、私の方をチラチラ見ているが、動かない。まさににわか雨、雨の音はすぐに止む。私に休息を促したに違いない。そのお寺のお堂も雨上がりで開いたので、お参りする。

 

それから細い道を歩いていくと、辛うじて保存はされている、ピーマイ遺跡外の遺跡に出会う。普通の人が通行しているが、いつからあるのだろう、と聞きたくなってしまう。ここが裏門かな。その先は川になっている。更に歩いて博物館に入る。大きな池の向こう側まで歩いていくのは大変だ。相当に広い博物館だが、ここを見学する人は稀らしい。スタッフは私が入っていくと、そこの電気を点けてくれ、私が出ていくと消している。扇風機も同じだ。勿論豊富な展示物があるのだが、館内は意外と暑く、早々に退散してしまう。

 

そこから川を渡り、麺屋があったので休みがてら、麺を食べる。ちょうどこの交差点を右に曲がった向こうに、何かあるというので歩いて行ってみた。ところが歩くにはかなり遠い。疲れ果てた頃、その場所は突如現れた。と言ってもタイ語表記しかないので、ここかどうかも分からない。

 

中に入ると屋台が沢山あり、観光客もかなりいた。ここには100年以上前から木が沢山植わっており、その生い茂った木々が密林のように交差して、独特の自然を演出していた。ある種の芸術だ。ここなら日差しも避けられ、涼しい。しばし自然の屋根の下でお休みする。さっきの大学生もここに来ており、女子二人が何やら人生相談をしている。そんな気分になる場所かもしれない。残念ながら場所の名前はよく分からない。英語は1つもない。

 

またとぼとぼと一人、歩いて戻る。ここに歩いてくる人などおらず、さりとてバイタクすらいない。ようやく交差点まで戻り、コラート行きのバスの停留所を探すが見付からない。その辺の人に聞いてみると、流ちょうな英語で答えが返って来た。何とも有り難い。バスもやってきて無事帰還した。

 

一度ホテルで休み、夕方気になるお寺に行ってみた。そこの規模は大きかったが改修中で、ちょっと落ち着かない。更に歩いていくと、まだ明るいが夜市が始まっていた。ここで夕飯を食べようかと思ったが、また雨が降り出す。今度は小雨がしとしと。結局夜市は歩いただけで、その近くにあった日本料理屋に入ってしまう。私は日本料理がどうしても食べたいわけではなかったが、オーナーはきっと日本人だろうと思い入ってみた。そこで定食160バーツを食べて、満足した。たまにはこんなのもよい。お客はタイ人ばかりだった。この辺に日本人は住んでいるのだろうか。

 

 

8月19日(日)
ホテルを移動

翌朝もロビーで朝ご飯を食べ、その後お寺へ出掛ける。バスが通る道に中国語の書かれた寺があったので、そこへ行ってみたが、特に中国洋式ではなかった。その近くにひっそりと仏堂と書かれた中国廟があったが、鍵がかかっており、入れなかった。更にはイスラムのモスクもあるというので、歩いて探してみたが、道に迷い断念。最後に大きなタイ寺院に参拝して、大汗をかいてホテルに戻る。

タイ中部横断の旅2018(12)コラート散歩

8月17日(金)
コラートへ

翌朝は早めに起きて、早めに朝食を取り、目の前のバスターミナルへ行く。今日はコラート(ナコンラチャシマ)へ行くつもりなのだが、当然バスに乗っていく。何時にバスがあるのか確認したところ、午前9時ごろあるようなので、それに合わせてホテルをチェックアウトして、バスに乗り込む。さすがにバスターミナル横のホテルはこの辺の便利が実に良い。

 

バスは普通で、特に特徴はない。混んではいないが、一応席は決まっているので、そこに座る。1時間ぐらい乗っていると街に入った。ここがプリラムだった。プリラムと言えば、一時サッカーチームが強くて、頭にその地名が残っていたが、ガイドブックにも紹介されない場所だったので、通り過ぎることにしていた。ただ街をある程度走った感触では、ここも意外や面白そうなので、次回通ることがあれば下車してみたい。

 

4時間ぐらいかかってバスはようやくコラート市内に入った。バスターミナルは遠いので、街中の陸橋の付近で降りるのがよいと、ガイドブックに書かれていたので、そのようにしてみた。バイタクのおじさんが寄ってきたが無視して、荷物を引いて歩き出す。またこの街の地名が付くホテルを探してチェックインする。

 

このホテル、街中にあり、ちょっと窮屈な場所にあった。看板に英語がないので不安になったが、フロントで英語は通じた。ただ何となくこれまでのおっとりした雰囲気はなく、とてもビジネスライクで、対応はイマイチというべきだろう。部屋は思ったよりは狭く、クーラーもうまく作動しなかった。今朝までいたスリンのホテルが懐かしい。

 

昼ご飯を食べていないので、外へ出た。ホテルには裏口があり、駐車場からも出られた。むしろこちらを表玄関にすればよいのに、と思ってしまうのだが、何か事情があるのだろう、きっと。道沿いに麺屋があり、言葉は通じないが愛想のよい女性が麺を作ってくれた。最近お昼は麺が定着した。移動後も疲れが出るのだろう。

 

そのまま散策に出た。すぐ近くに中心部があり、その広場には古い門が見え、女性の像があった。その像に向かって実に多くの人がお参りしているのがちょっと不思議だった。この街を昔救った女性だというが、仏様でもない人が、ここまで崇められるのは珍しいように思う。

 

それからコラート博物館を探したが、なかなか見つからない。文字が読めないと、スマホ地図でもよく分からないことがあり、またそこに着いても、表示が読めずに立ち往生する。まさに入り口で『ミュージーアム』と言って見ると、何とか分かってもらえ、奥を指される。そこには小さな博物館、いや展示館があった。50バーツ取られたが、これまでに見慣れた仏像があるだけで、ほぼ見るべきものはない。

 

博物館の横にはお寺があり、こちらは立派。お堂を見て外に出ると、その周囲にはプレートが嵌っており、よく見ると故人の写真の横には漢字が書かれているものが多かった。これは華人のものだと分かり、街中でもひときわ漢字の看板が目立っていたことを思い出す。ここはバンコックとイーサン、ラオスを結ぶ交通の要所であり、往時は物流が盛んで華人が活躍したのだろうと思うが、今はそこまでの繁栄はないように感じる。

 

帰りにホテルの目の前のスーパーに寄ると、意外と品ぞろえが豊富で、欲しいものが手に入る。夕方はゆっくり飲み物を飲んで、部屋でくつろぐ。ホテルの方へは一応明日の延泊を申し入れたが、その対応もイマイチで、もう次はないな、と思った。気に入ったホテルを探すべきだったが、ちょっと疲れてしまい、気力がなかったのが敗因だ。それと1泊900バーツは高くない、というのが心のどこかにあったようだ。

 

夜は何とショッピングモールへ行き、ケンタッキーで夕飯を食べた。こんなことはあまり例がないのだが、139バーツのセットというのが食べてみたくて入ってしまった。先日マクドナルドに入って食べたら、かなり料金が高くなっていて驚いたことがあったので、ケンタはどうかと偵察した。結果このセットはかなりお得であることが分かり、マックが高級路線を考え、ケンタは中級路線を行こうとしているのではないかと思えた。こんな比較もたまには面白い。

 

8月18日(土)
ピーマイ

翌朝はホテルで朝食を食べたが、何とここの朝食場所はロビー。フロントのすぐ横に料理が並び、そしてテーブルが沢山置かれている。正直こんな朝食は初めてかもしれない。大人数のせいもあるが、料理は何となく冷めている。これは団体旅行客の扱いではなかろうか。今日は土曜日で食べている客も家族連れなどが多い。

 

新バスターミナルがどこにあるのか、歩いて行ってみることにした。途中まで行くとよさそうなホテルがあったので、明日の空きを確認し、ここに移る算段をする。正直これまでの旅で最高の宿代なので、ちょっと躊躇したが、まあここからバンコックに帰るのだ、という声が聞こえ、決断する。

タイ中部横断の旅2018(11)何もないスリンの街で

8月15日(水)
スリンのホテルで

翌日は移動日。今回は駅の近くに泊まっていたので、また電車を使いスリンまで移動した。もう電車の乗り方にも慣れたので、難なく移動できた。約2時間の三等車の旅、途中でお婆さんが大きな荷物を持って一人で乗り込んでくる。車掌を中心に周囲の乗客がサポートしている姿が微笑ましい。日本なら、『なんでこんな老人を一人で乗せるんだ』などというクレームが聞こえてきそうだが、タイでは個々の事情を問うのではなく、目の前の困っている人を助けるのがよい。

 

スリン駅を降りて、駅近くのホテルを探した。一応昔のいいホテル風の建物があったので、入ってみると、ロビーも広い。フロントで聞いてみると、何と490バーツ、朝食付きだというので、早々にチェックインした。ところがこの部屋、あまりきれいとは言えない。メンテナンスされていないことがよくわかり、さすがの私でもどうだろうか、と思ってしまう。

 

取り敢えず昼飯を食うので外へ出た。すぐ近くにバスターミナルがあるのも分り、その近くによさそうなホテルが見えていた。まずは麺を食べたが、この麺は本当に美味かった。スープも少しとろみがあり、絶品。これで40バーツは幸せだ。これで勢いをつけて宿に戻ったが、何とWi-Fiも繋がらない。聞けば、Wi-Fiの機械から一番遠い部屋だからだという。

 

ロビーは繋がるというのだが、話が違うので、ここを出ていくことにして交渉を開始。まずは英語のできるスタッフを探し、話をするもの決定権がない。最後はマネージャーが出てきて、二つ返事で料金を返金してくれた。どうしてこんなに落ちぶれてしまったんだろう、このホテル。それでもこんなホテルが生きていけるのは、スリンで有名な象祭りの時に破格の料金が取れるからだというが本当だろうか。

 

宿を脱出して、荷物を引いてまたバスターミナルを目指す。その横にあるこぎれいなホテルできいてみると1泊1200バーツだというが、応対もよくここに泊まることにした。部屋は風通しが良く、実に快適だった。Wi-Fiも繋がり、先ほどとは大違いだった。まあ料金が2倍以上なのだから当然だろうか。

 

ホテルの入り口にレンタサイクルが置かれていた。何と日本の中古自転車だった。しかも『下高井戸』などと貼られていると乗りたくなる。1日50バーツだというので早々に乗って、スリンの街を散策する。まずは近くのお寺へ。何となく立派で格式があると思ったら、皇室に関係があるらしい。ブラパラマと英語で書かれていた。これが寺の名前だろう。

 

池沿いを漕いでいくと、ロータリーに像がある。その近くには象の像がある。ここはスリンだ、象の街だというアピールだろうか。更に線路を渡り反対側にも行ってみるが、特にこれと言って見るべきものはなかった。かなりの暑さを覚え、予定より早く自転車を返して部屋で休む。

 

いつの間にか寝落ちていた。気が付くと外は雨が降っている。スコールのように強い。腹は減ったが、ここは我慢。夜7時すぎにようやく雨が止む。今晩は道路も濡れているので、バスターミナル内で食事を済ませようと探すが、なかなかいい感じの店がない。最後に行き着いたのは、チャーハン。これが一番無難だ。しかもおばさんの手つきがよく、味も予想より良かった。これで満足して寝られる。

 

8月16日(木)
またロットゥに乗り

翌朝は気持ちよい朝だった。食事は別棟のレストラン。ここには白人の客もあり、ビュッフェもまずまずだった。気にいったのでここにもう1泊することにして、今日は旅の中の休養日にすることにした。朝方は涼しいので、ちょっと散歩に出た。昨日の寺でお祈りだけして帰るつもりだったが、やはりどうしても何かしたくなってしまい、結局バスターミナルからロットゥに乗る。

 

また1つ、遺跡を探す旅。今回はまたシーサケット方面に戻るようだ。運転手には行先を伝えてあったが、結局降ろされたのは、ある電車の駅。そこからどう行くのか、その辺の人や駅の人に聞いて何とか方向を定め、歩き出す。そんなに遠くないとの話だったが、どう見ても近くはない。日差しが照り付け、大変なことになってしまった。

 

小学校を通り過ぎたので、遺跡の名前を言って聞いてみたが、通じない。仕方なく、ガイドブックの写真を見せると、皆が一斉に『あっちだー』と指をさす。礼を言って歩き出したが、彼らも外国人は珍しいらしく、付いてきて、更に教えて呉れようとする子もいた。こんな交流は楽しい。だがその先を行っても分らず、また聞いて、ついに辿り着いた時は、疲れ果ててへたり込む。

 

そこはちゃんとした遺跡だった。外国人は100バーツ支払って中に入る。プラサット・シコラプム、というようだ。これまでの現代寺院との組み合わせはなく、池に囲まれた完全な遺跡、如何にもアンコールワットの一部にいるような雰囲気があった。そして木陰で休むと気持ちがよい。一応別れた隣に寺院はある。そこの裏にお墓が多くあったのが目を惹いた。

 

帰りも黙々と歩いたが道が分かっているのでかなり楽だった。腹は減ったが、まずはロットゥに乗らなければならない。駅前で待っていたが、やって来たのはシーサケット行き。どれがどこへ行くのか分からないので面倒だ。ようやく見つけて戻る。また午後はお休みして、夜は麺を食べて寝る。

タイ中部横断の旅2018(10)シーサケットで冒険

8月14日(火)
シーサケット縦横無尽

翌朝はホテルの朝食を食べる。ロビーはとても立派なこのホテルだが、泊り客はそれほどいないことが何となく分かる。シーサケットの街には特に見るべきところもないようだ。だがなぜかこのホテルに2泊することにしたので、今日も1日、時間がある。それなら昨日の電車に続き、今日はロットゥで郊外のお寺に行ってみることにしよう。基本的に言葉が出来ないため、分かっている区間以外は、ロットゥには乗らない私だが、偶にはちょっと冒険してみようという気になる。

 

まずはバスターミナルまで歩いていく。15分ぐらいかかる。そこで行先の寺の名前を連呼してみると、誰かが反応し、ロットゥを指さす。事前に調べた番号とも一致したのだが、その終点は何と、ウトムボン・ピサイ。昨日電車で行った駅の名前だ。そうか、その途中に寺があるのか。

 

ロットゥはほぼ客がいないのに出発した。そして駅の横まで来て停まる。そうか分かっていれば、ここで待てばよかったのか。それから線路を渡ったところでも客を拾う。それである程度の人数になり、急激に郊外の道路を飛ばしていく。20分ぐらい行くと、運転手が、ここで降りろ、と指さす。その先には寺が見えた。

 

プラサット・カンペーンノイ。ここも昨日と同様、クメール時代の遺跡が保存されており、寺と一体になっている。これがこの地域の一つの保存形態なのかもしれない。昨日の寺程規模は大きくなく、返って見学しやすい。横に大きな池があり、小さな橋を渡っていくとお堂に辿り着く。ここで風に吹かれながら、仏像を拝んでいるのは何とも心地よい。

 

帰りは来た時と逆向きのロットゥを捕まえる必要があるが、一応それを待つベンチがある。ただ誰もいないのでちょっと心配になる。車はどんどんスピードを上げて走り去る。もしロットゥが来ても、文字は読めないため(英語が書いてあっても動体視力の衰えで)、とにかく来たら停めるしかないのだ。

 

10分後にやってきたロットゥは凄いスピードで飛ばしており、大きく手を振って何とか私を見つけてもらい、かなりのオーバランをしたが、停まってくれた。やはりこんなところで乗る人は殆どいなのだろう。料金も分っており、駅前で停まったところをすかさず降りた。バスターミナルまで行く必要はもうない。

 

宿に帰ってもすることがないので、駅舎に向かう。ここは線路を通行人が自由に渡っており、それに習う。もう電車もバスも乗ったので次はどうする、と考えていると、ガイドブックにあったちょっと変な中国系の寺を思い出した。そこで、駅前にいたバイタクに声を掛けて聞いてみたところ、往復200バーツだというので、すぐに断り、歩き出した。するとバイクが後ろから追いかけてきて、150バーツで行ってくれることになる。

 

その寺まではやはり8㎞ぐらいあった。最初はさっき通った道を進み、途中で別れて、ちょっと複雑な道を進んだ。少し雨の気配がある。濡れるのは嫌だ、どこにあるのかな、とキョロキョロしていると、前に巨大な寺が見えてきた。まるでテーマパークだ。いかにも現代中国ではないか。こんな所にまで中国が入ってきているのだろうか。ワット・プラタット・ルアンローンという名前らしい。

 

まあとにかく1つ1つの建物が大きく、広い。ちょっと見て回るだけでも大変だ。一番大きな建物は4階ぐらいまで登れるようになっており、上まで行くと周囲が一望できる。そしてここの広さ、大きさが更に実感できる。観光客はそこそこいて、やはり普通の寺ではない。更には横に建設中のものがあり、まあ今風に言うインスタ映えを狙ったようなものが続いており、写真好きのタイ人が喜んでいた。

 

1時間以上見学して、待っていてもらったバイクで街に戻る。意外と疲れてしまい、部屋に戻って昼寝する。タイでは日中は休んで朝晩活動するのがよい。今日は晴れてはいなかったが、それでも体力は確実に奪われる。夕方になり、腹が減ると、ノコノコ起きだして、飯を探す。

 

タイで基本的に食事に困ることはないが、さすがに何日もいると、飽きては来る。少し変わったものを食べようかと考えていると、ムーカタの店に出くわした。文字は読めないが数字は99、と書いてあるので、99バーツ食べ放題らしい。見ると学生や女性が食べている。一人で食べている人もいるので、思い切って、一人焼肉ならぬ、一人ムーカタをしてみた。

 

店のシステムはよく分からなかったが、店主は英語が出来たので、教えてもらい、沢山肉や海鮮を取り、どんどん焼いていく。相手がいない一人だと、すごいスピードで焼いて、すごいスピードで食べていくことになる。ムーカタは以前、ラオスの鍋として取り上げたことがあったが、イーサン料理なのだろう。会計してみると、160バーツだった。何と水代が60バーツ、これは一人で来ると割負けする要因だな。