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《ビエンチャン散歩2006》(1)

7月20日(木)
1.ビエンチャンへ

(1)前日
チェンライから戻って前回同様のホテルにチェックイン。時間は午後6時。夕食はYさんと7時に待ち合わせていた。ところが何とその部屋はエアコンが故障していた。直してくれるよう頼んで食事に出る。

エンポリアムで待ち合わせ。しかしパンツと靴下を洗濯する暇がないため、エンポリアムで購入。タイとしては非常に高いのだろうが、久しぶりに質の良い下着を買った気がする。しかしバンコックは暑い。パンツは極めて薄い。

Yさんには明日ビエンチャンに持って行く色鉛筆とノートを頼んでいた。これはボランティアなのだから、自分でしなければいけないのに、つい甘えてしまった。反省。30人分の物資を受領。自然野菜を食べさせる日本料理屋に入ったが、コースが日本円で1500円ぐらい。どうしてバンコックの日本料理はこんなに安いのだろうか??毎回不思議に思う。YさんのアシスタントY女史(現奥さん)にタイ語を習う。中国語、特に広東語に近いものを感じるが、やはり難しい。習うのはちょっと大変だろう。Y女史はタイ東北部イーサンの出身。明日向かうビエンチャンはイーサンとメコン川を挟んだ向かい側。ほぼ同じ文化圏、食事も似ているようだ。何だかビエンチャンが楽しみになってきた。

9時半にホテルに戻る。ところが部屋に入るとエアコン修理のための道具が置かれたまま。フロントに聞くと後30分はかかると言う。この30分は曲者である。部屋を変えるように交渉すると満室だと断られる。私は明日5時起き、しかも昨日風呂に入っていないため、どうしても入りたい。フロントに強行に交渉、更に携帯でYさんを呼び出し、フロントと交渉してもらったが、埒が開かない。この辺がタイののんびりしたところ。最後はホテルを替わる事に。歩いて2-3分、はす向かいのホテルのフロントは小ぎれい。

部屋も広く、ベットも大きい。こっちの方が良いのでは??風呂の湯の出は良くないが、辛抱強く待つことにする。しかしその間に土曜日の約束をしようと先日会ったFさんに電話すると土曜は香港に行くと言う。メーサローンのお茶を渡したいと言うと何と今から来ることに。風呂の湯を溜めたまま外出することに。

Fさんは新しいホテルの場所が分からないので、前のホテルのロビーで待ち合わせ。ところが道が工事中でFさんの到着が遅れる。フロントは不機嫌に出て行った客が舞い戻ってソファーに居座った訳であるから、緊張した様子。Fさんに旅行のあらましを話し、茶を渡す。F夫人は台湾、香港で中国茶を習っており、今回の香港旅行でお茶の先生であるIさんにこのお茶を渡すことに。何だか面白い展開になってきている。ホテルの部屋に戻ったのは12時過ぎ。それから風呂を入れ直し、ようやく寝たのは1時半。

(2)出発
翌朝は良く眠れないまま5時半に起床。荷物を整えて6時にロビーへ。奥に食堂があり、朝食が取れる。しかし電気は点いていない。まさかこんなに早く来る人はいないと思ったのだろうか。オーダーしてから荷物を預けようとフロントに話すと、何とそんなサービスはないと言われる。仕方がないので食事後、タクシーを拾う前に前のホテルのフロントに持ち込むと名前も聞かずに預かってくれる。昨夜の出来事は結構堪えているようだ。

タクシーはメーターを使う。交渉しないで済む。平日の朝は6時半でも既に少し混んでいた。と言っても空港まで30分あれば着いてしまう。前回はチェンライ行きの国内線であったが、今回は国際線。飛行時間は同じなのに空港使用料500バーツを払わなければならないし、チェックインも大分混んでいる。搭乗すると機内は空いていた。西洋人が目立つ。隣にきつい香水をつけた西洋人女性がやって来て困ったが、見ると一番前の席が空いていたので、難なく移動する。快適、快適。一番前だと空港でビザを取るのも有利だ。

僅か1時間で到着。一番先に飛行機を降りたが、途中で空港の写真を撮っていて追い抜かれる。更に何処に並ぶか迷っている内に慣れたフランス人などの後ろになってしまう。丁度前にはこれもかなり慣れた日本人がいた。彼は写真すら持たずに何故かビザを取得してしまった。申請書は機内で貰って書いておいた。10ドル札と写真1枚を提出して直ぐに発給される。

ビザを取得してから、今度はイミグレに並ぶ。日本人ビジネスマン、韓国人、西洋人観光客などでビザを持った者(タイ人はビザ不要??)が前にいたので、結局は30分以上掛かってしまった。しかし10年前に行ったカンボジアのプノンペンを思い出すとかなり効率的な対応と思われる。

2.ビエンチャン
(1)ホテル
それにしてもきれいな空港である。途上国に有り勝ちな暗い雰囲気は全くない。エスカレーターを降りるとガイドが外で待っていた。サングラスを掛けた男性、一目でお笑い芸人TIMのゴルゴ松本に似ていると思ってしまう。その後心の中ではゴルゴと呼ぶ。

今回はYさんのアレンジであるが、一人の為にガイドをつけるのは贅沢である。しかも車(トヨタのバンで新しい)まで。早々に街中へ。先ずすることは帰りの航空券のリコンファームである。昔の中国や現在のミャンマーを思い出す。現物をオフィスに持ち込む。

小川があり、並木道がある。僅か10分でホテルに到着。これがなかなか予想外に洒落たホテルである。ブティックホテル、グリーンパークはロビーもきれい。そして何より従業員の愛想が良い。『サワディー』と笑顔で言われると思わず微笑み返してしまう。

ロビーは気持ちよい吹き抜け、中庭は真ん中にプールがあり、その周りを2階建ての建物が囲う。南国風の椰子の木、所々に配置された水。このホテルの一角だけが別世界である。部屋の中は広く、新しい。そしてシック。薄暗い中に心地よいライトアップ。ベットも大きく、快適そう。更に浴槽が深い。スパをイメージしている。エアコンは自動的に調節されている。バルコニーも付いている。うーん、プーケット辺りにあるリゾートホテルのようだ。ラオスにしては意外な展開。

インターネットは別室にPCがあり、無料で使える。誰もいないので気兼ねなく使う。長閑でゆったり。フロントの従業員は英語が流暢、ラオ大学で英語を専攻したそうで、地図をくれて色々と説明してくれた。このホテル、なかなか良い。気に入った。

(2)昼
12時にゴルゴが迎えに来る。昼飯に向かう。街はあまり大きくはないらしい。バイクが多い。二人乗り、家族四人乗りが普通なのはハノイと同じ。ホンダ製は1500ドル、中国製は500ドル。公務員の月給が60-100ドルのこの国では大金である。尚民間の月給与は80-150ドル程度。

では皆どうやって買うのか??ゴルゴに寄れば、何年も預金するらしい。テレビはビエンチャンなら何処の家にもある。次はバイク、その次は車。最近韓国現代の小型車が1万ドルで発売され、人気がある。中古は5000ドル。今乗っているトヨタのバンは2万ドル以上するので手が出にくい。

昼ごはんはフレンチレストラン、ナーダオへ。ここは有名な店のようだ。凱旋門の直ぐ近く。公園の前にひっそり建っている一戸建て。室内はラオ伝統の建築。私の為に一人用のテーブルがセットされている。ガイドは連れてくるだけである。詰まらない。

 

 

ここのオーナーはラオ人。但し革命でフランスに亡命、フランスで修行を積んだ後に最近凱旋帰国してあっと言う間にビエンチャン一のフレンチ店となった。ランチのコースは6000k程度。スーツを着た西洋人が一人やって来て、やれやれと言った表情でパンを頬張る姿がこの店の力を現している。

かぼちゃのスープ、牛肉の煮込み風ステーキ、フルーツポンチ。上品な味である。そして予想通りパンが美味しい。フランスの植民地はパンが美味しいのである。飲み物は冷たいレモングラスティー。ほのかに甘い。食後のお茶は桑の葉茶、ティーパック。ポットに入ってくるのだが、うーん、味が薄い。日本語のフリーペーパーが置かれている。見てみると主なレストランの宣伝が中心。日本料理屋も何軒かあるらしい。パクセーと言う場所は世界遺産に指定されているが、この近くではお茶が採れるらしい。

(3)観光
①バトゥーサイ(凱旋門)
レストランの前から凱旋門が見える。歩き出す。日差しが強い。フランスの凱旋門を模して1958年以降建造されているが、現在まで上に登る階段が完全には完成していない。資金がないらしい??

門の上にはヒンズー風の塔が3つ。真下まで行って上を見上げると天井にもヒンズーの絵が描かれている。ラオは元々ヒンズー文化圏。12世紀にヒンズーを捨てて小乗仏教に乗り換えている。

尚真下は何故か風が吹き抜けて実に気持ちが良い。ゴルゴは言う『ここは昔から涼しい場所だ』。前に池があるからだろうか??テーブルではバイクタクシーの運転手達が王冠を使って将棋??に熱中していた。憩いの場所なのであろう。

周りには大蔵省、外務省など旧フランス時代の建物をそのまま利用した官庁が並んでいる。この辺はベトナムなどと全く同じ。尚2004年のアセアン会議に併せて周囲の公園が整備され、中国から寄付があったことが記念碑に記されている。

②ホープラケオ
ホーは博物館の意味。1563年セタティラート王により建立された。ワットプラケオ(エメラルド寺院)であったが、戦乱でエメラルド像をタイに持ち去られ、名前を変えている。尚タイ側は奪い去ったのではなく、取り戻しただけと主張している。この辺が隣国は微妙である。

現在の建物は1942年に再建、なかなかバランスが良い造り。多くの観光客が訪れている。正面階段の両脇には『ラーイ、ラーオ』と呼ばれる龍のレリーフが配されている。中国の影響かと思ったが、角が一本の龍は中国にはいない??

この博物館には全国から仏像や遺品が集められている。伽藍に置かれた仏像は殆どが目を刳り貫かれている。そこには翡翠など宝石が嵌められていたのだ。痛ましい。仏像は全体的に柔らかい。石碑も並んでいる。読めない文字が書かれている。

中は暗い。やはり全国から集められた漆喰の箪笥??(経典を入れる物)やかなり大きな金の仏像が安置されていた。しかし中が狭いためあまり整理されている感じはない(雑然と置かれている)し、説明がないと何も分からない。

庭の向こうには旧大統領官邸、現在の迎賓館が見える。フランス風の建物であるが、如何にも古い。

③ワット・シーサケート
ホープラケオの向かいにある寺院。ビエンチャン最古の寺院。1818年アヌ王により建立される。本堂を取り囲む回廊には無数の小仏像が埋め込まれている。これまでのタイとの戦乱、フランスのとの戦乱などを生き残ってきた唯一の寺院。

モナストリーがある。小坊主が顔を出し、外国人観光客と英語で会話している。しかもその建物が半分は道路にはみ出しているのが面白い。何か由来があるのだろう。しかしゴルゴがいないので分からない。

庭には大小の仏塔がある。飾りかと思っていると全てがお墓だと言う。見れば写真が埋め込まれたものもある。お金持ちが多額の寄進をすると作れたらしい。現在は場所がなくて作ることは出来ない。鐘楼もある。しかし中には鐘ではなく鼓がある。毎日この鼓が鳴らされる。

本殿の中には黄金の仏像が3体。かなりの大きさがある。輝いている。多くの人々が祈りを捧げている。ラオは小乗仏教であり、男子は一生に一度は出家する(一週間程度)。しかし日常はミャンマーのように常に祈っていると言うことはないようだ。祭りの時に行くと言うことは形骸化している。

 

④タートルアーン
少し離れた小高い丘の上、タートルアーンがある。歩いて来るのはちょっと大変な場所である。入口には土産物屋、食べ物の屋台が出ている。焼きバナナが目に付く。少女が氷で冷やした飲み物を売っている。

中は広々している。その起源は3世紀まで遡ると言われているが、セタティラート王が1566年に建造を開始したらしい。これはルアンバパーンからビエンチャンに遷都した直後のことだ。王の遺言で建物の前の広場には王の像が鎮座している。何ともユニークな感じで座っている。

現在の建物は85mあるが、元々はインドで修行した僧がブッダの骨を持ち帰り小さな建物を建てた。その後戦乱の度にタイやミャンマー軍が財宝を求めて破壊、掘り返している。骨以外はない。その度毎に更に大きな建物が建立されて現在に至る。

毎年盛大な祭りがあり、全国から僧侶が大量にやって来て、回廊に寝泊りしている。その場所取りが大変だと言う。3日間泊り込むとなると本当に大変だ。暖かいとはいえ、老僧などは大丈夫なのだろうか??現在脇に大講堂が建設中。出来上がればここに泊れるようだが、資金確保がままならず、いつ完成するか分からないようだ。(既に建設開始から5年経っている)

一般民衆は塔の周りを3回回る。夜は塔がライトアップされてきれいだそうだ。ミャンマーと違って、ここでは男女の区別なし。金箔を貼るなどの習慣もない。人々は穏やかで、タイの様にギラギラしてはいないが、一方特に信仰が深いとも思えない。ラオ人は何ともつかみ所のない人々である。

ゴルゴが突然女性に手を振る。向こうも振り返す。何と日本人。彼女らはJICAのプログラムでやって来て田舎にホームステイした看護士たち。ゴルゴも彼女らに着いていき、一昨日行動を共にした。一緒に一泊して仲良くなったらしい。

口々に『田舎はいい、人々との触れ合いが素晴らしい』と言う。田舎のこと、医者も一緒だったが、酒が出て大変だったらしい。数人は二日酔いで倒れていたとか??日本では忘れられた世界がラオの田舎にはあるらしい。次回は私も田舎に行きたい。

⑤タラート・サオ
朝市。中心部にあり、名前は朝市であるが、今は観光地化して9時から4時まで。普通のオフィスと変わらない。中は広く何でもある。携帯は凄い勢いで普及している。基本料金は10ドルだが、プリペイドなら2-3ドルから使える。機種はノキアが目に付く。中国で買った携帯と同タイプは値段が全く同じ。66ドル。

店員は北京語通じず、英語片言。冷蔵庫は中国のハイアールの他、東芝、シャープなどタイで生産されたもの。デジカメもある。そういえば、某中国系ホテルではデジカメに入っていたSDカードだけが盗まれる事件が発生したとか??

たこ焼き器やホットケーキプレートがある。美味しそうなパンケーキが出来上がる。フランスパンも売られている。ここは観光客用の市場なので野菜などは売っておらず、直ぐ食べられる物を扱っている。

服はシンという名のスカートが売られている。木彫りのカエルはミャンマーに比べて音が良い。ドリアンなどのフルーツは豊富。尚場外には薬草を売る少数民族がいた。漢方薬である。尚少数民族はいるが、現在のラオには実は制度上はラオ族(高地、中地、平地)しかいない。それはラオの歴史上悲しい出来事があったからである。

モン族の悲劇、アメリカに加担した右派モン族とパテトラオに組したモン族が同族で戦う羽目になり、最後はパテトラオに追い詰められた右派モン族が大量虐殺されてしまう。その後民族間がギクシャクしたため、政府は同一民族の共同を強調したのである。しかしこれは如何なものであろうか??

CDショップを覗く。まだDVDよりVCDである。何故CDを見たのか??実は明日ラオの歌手と会う予定が在るので、彼女のCDを買って置こうというものである。しかしなかなか見付からない。

現在は西洋人とのハーフであるアレキサンドラという女性歌手の人気が高い。彼女のCD を見てビックリ。何とスポンサーとしてトヨタの名前がある。私のお目当ての歌手のCDは何とか1枚あったのみ。明日はどうなることやら??

 

 

 

 

 

《昔の東南アジアリゾート紀行》‐2004年ハノイ

《昔の東南アジアリゾート紀行》

15.2004年1月 ハノイ
(1)何故ハノイ、そしてハノイ
2003年も12月になった頃、突然(いつもの事?)旧正月の計画が立てたくなった。よく考えてみると長男は4月から中三、流石に家族旅行は難しくなる。そうだ、当面最後の家族旅行をしようと旅行会社に電話する。
『今取れる旅行は何処ですか?』『取り敢えずプーケットもバリも満員です。』『じゃあ今フライトの取れる近場は?』『ホーチミンはダメですが、ハノイはOKです。』『じゃあハノイで。』

何時ものようにいい加減である。しかし今回は家族の反応も何故か良く、早々に決定する。しかし既にベトナム旅行に行った人からビザがいると言われて、愕然。旅行会社はビザの取得は簡単だと言っていたものの聞けば一人HK$400もかかると言う。それは高い、おまけに旧正月料金まで付加される。一瞬止めようかなと思ったが、仕事の忙しさにかまけて忘れていた。12月半ばになり、正月前のお年玉が降ってきた。何と小泉首相とベトナムの首相が会談して、日本人の短期旅行者に対してビザが突然免除(15日以内)となったのだ。これで俄然行く気になったのだから、私も現金な人間である。

ところが1月半ばに突然(突然が多すぎる??)、仕事の関係でハノイ行きが怪しくなる。一時はキャンセルかと思い、旅行会社に電話するとキャンセル料は70%程度になると言う。家族4人では結構厳しい。家族3人で行かせるにはリスクが大きい。3-4日悩んでいると仕事に何とか目処がついた。何と出発2日前である。嬉しくて旅行会社に電話しようとしたが、突然(???)腹痛と微熱に襲われる。『這ってでも行きます。』と旅行会社には代返(??)を頼んで家で半日静養。因みにこの手の病(ウイルス性腸炎)は年に1-2度掛かるのであるが、私はアグネス・チャンのお姉さんで医者のヘレン・チャンから薬を貰うことにしている。基本的に彼女の薬を飲めば一発で回復する。ヘレンは笑うとアグネスと同じ顔になる(余談)。12月から二転三転、紆余曲折の末、1月22日の旧正月元日に目出度くハノイに出発した。

(2)ハノイへ
旧正月前日は我が家の眠りが浅くなる。隣のビクトリアパークで花市が開かれており、夜通し賑わうのである。その音は唸りを上げてやって来る。結構驚く。下を見ると人で溢れかえっている。翌朝6時前に目覚めてビックリ。何時もはこの時間には店仕舞いしているはずの露天商が未だに騒がしく、売り声を上げている。どうやら今年は香港訪問キャンペーンか何かで、特別に開催しているらしい。そうなると我々は出発できるのだろうか?通行規制があるのでは?タクシーは拾えるの?兎に角全員を叩き起こして急いで下に降りる。我がフラットの入り口は人々で塞がれていた。タクシーが入れない為、路上に出る。何とかタクシーに乗れる。ああ、よかった。しかし香港駅に到着するとキャセイのカウンターは長蛇の列。我々の飛行機はベトナムエアーだが、キャセイとの共同運航なのである。

何とかチェックインし、エクスプレスに乗り、空港のイミグレに行くとここも何時に無い混雑。流石旧正月。しかも急いで出てきたので、次男がコートを着ていないことに気付き空港でコートを買う羽目に。漸くゲートに到着した時には既に搭乗が始まっていた。ベトナムエアーに乗るのは勿論初めて。飛行機は見るからに小さい、A321。スチワーデスはアオザイと呼ばれる民族服を着ている。アオは上着、ザイは長いと言う意味だそうで、上着は膝下まで届く。下はズボンを履く。アオにスリットが入りセクシーとの話であったが、寒いせいかそうも見えない。機内は満員で欧米人がかなり乗っている。先日知り合ったオーストラリア人もハノイには2回行ったと言っていた。ハノイには西洋人を引き付ける魅力があるのだろうか?

(3)ノイバイ空港
2時間弱でハノイ着。あっと言う間である。何となく相当南にあるという印象のハノイだが、実は海南島の西側なのである。気候も香港や海南島とあまり変わらないと聞いている。

空港はノイバイ空港。かなり新しい空港で、意外な感じ。聞くところに寄れば以前の空港は、これが一国の首都空港か、と驚くほど粗末なものだったらしい。今は誇れる空港になったと言えるだろう。周りには何も無い、途上国の新空港に良くある光景である。遠くに山が見える。飛行機も数機停まっているが閑散とした印象。空港内も綺麗ではあるが人気が無い。トイレに入ると次男が『日本のトイレ』と叫ぶ。見るとINAXのマーク、しかも『自動』などの表示は日本語そのまま。これもODA?

さあ、イミグレ。90年代半ばに出張した人々は口々にベトナムのイミグレと税関の遅さを強調していた。今はどうなのだろうか?イミグレにはベトナム人向けの窓口は1つしかなかった。やはり海外に出る人は少ないらしい。心配していたのは、ビザのこと。12月半ばにビザ免除が発表されて、1月1日から実施されると言うのは、本当に可能なのだろうか?社会主義国でそんなに簡単に手続きが変えられるのか?まあ、ハノイは首都だから大丈夫な気もするが?心配は全く杞憂に終わる。帰りのチケットの提示を求められた程度で直ぐに入国できた。手続きも1人、1分以内。ベトナムはかなり進化しているようだ。更に税関は書類をチラッと見ただけ。ポンポン判子を押す。以前はカメラやCDプレーヤーなどの申告が煩かったようだが、中国並みに?改善されたようだ。

外に出ると旅行会社の人間が紙を掲げて待っている。キャセイのツアーが多いようで、皆が1人の手配師の男性に群がっている。といっても手際良く捌いてくれるので、混乱も無く車に乗れる。空港の外には外国企業の看板が立ち並ぶ。富士通、キャノン、三星。トヨタのハイエースでホテルに送ってもらう。何だか、ベトナムのイメージと違う。これはやはり空港が新しいせいであろうか?

(4)ホテルへ
空港から市内への道は片道2車線、立派な高速道路だ?両側には刈入れの済んだ畑、田んぼが続く。所々工業団地のような場所があり、工場が点在する。正月のせいか道は非常に空いており、バイクが点々と走っているのみ。バイクは2人の乗りが多い。子供達は何となく北京に似ていると言う。天気がどんよりとして肌寒いからかとも思ったが、空港周辺の建物が古めかしい平屋であったからかもしれない。そもそも社会主義国の首都というのは似たような雰囲気を持っているという人もいる。ようは『硬い』のである。子供はそういう事を敏感に感じ取る。車の窓からは何となく懐かしい風景が目に入る。昔子供の頃、栃木の田舎で刈入れの終わった田んぼで遊んだことを思い出す。凧揚げすればよく上がるだろうな、と思う。日本人が90年代ベトナムに進出する際、良く口にした風景が目の前にある。

キャノンの大きな工場が見えてきた。同社は最近ベトナムに進出したと新聞で読んだ。中国の工場も大連、蘇州、珠海と分散している。SARSなど起こらなくても、分散が大切であることが分かっているのだろう。平屋の工場に何人のベトナム人が働いているのだろうか?旧正月は何日休むのだろうか?人影も車も全く見られない。途中で横道を行く。畑の横にお墓が見える。又少し行くとお墓がある。どうやら集落毎にお墓があるようだ(或いは家族毎?)。きっと昔の日本もそうであったのだろう。家々も極めて質素。土の家から煙が棚引く。

(5)ホテル
ホテルは市内より少し離れたソフィテルプラザ。流石フランス系のソフィテルはハノイに2つのホテルを持つ。我々はタイ湖の辺りに宿泊。ホテルは非常に立派で周りを圧倒する建物である。エレベーターで上に上がると、途中よりタイ湖が見える。よい眺めである。

 

部屋はコネクティングルーム。湖側ではなく、反対の紅河ビューである。この紅河がまた大きい。丁度目の前に中州が見える。ゆっくりとした流れが見える。部屋は広くは無いが、快適。バスルームが広め。電話を掛けようとしたが、掛からない。不思議に思ってオペレーターに聞いてみると、何と未だ回線を開いていなかったとのこと。久しぶりでそんな言葉を聴いた。昔の中国のようだ。電話の相手はズンさん。前回ミャンマー旅行をアレンジして下さったS氏が今回も知り合いを紹介してくれていた。初めて彼にメールを送った時には驚いた。メールが届くかどうか心配していたら、30分後には完璧な日本語で返事が来たのだ。結局今回の旅行ではズンさんに色々とお願いしてしまった。

このホテルは横がタイ湖と言う湖で周りに高い建物が無く景色が抜群。また開閉式のプールがあり、冬でも泳ぎが楽しめる。私はプールがあるので、敢えてこのホテルを選んだのに他の家族はその意図を理解せず、水着を忘れてきて結局入ることは出来なかった。何しろベトナムで水着を売っているところは多くないだろうし、ましてや真冬の正月に売っているところなど探すことは出来ない。

(6)チキン
香港とは1時間の時差がある。時計を見るともう12時近い。ホテルで昼食をとることにする。何しろベトナムも旧正月(テト)で、周りの店は1軒も空いていないのである。ホテルには中華とウエスタンの2種類のレストランがあり、我々はベトナム麺が食べられるウエスタンに行く。ベトナム麺、フォーは私の大好物である。特にチキンフォーが良い。メニューを見るとある、ある。早々注文すると『ノー』という。最近ベトナム、香港、日本等で鳥インフルエンザが問題になっている。特にベトナムでは死者が出ていた。当然と言えば当然ながら、鳥は一切出なかった。フォーはビーフとなった。子供が『チキンチャーハン』と言った瞬間、周りの欧米人が何人もこちらを振り向く。この緊張感は何だ??何とかチキン無しのチャーハンを頼む。あとは春巻き。どれも十分美味しかった。勿論香港で食べるより安かったが、もし街中で食べればこれの何分の一かであろう。

因みに翌朝ビュッフェで好物の目玉焼きを注文するとコックが首を横に降る。そして前の紙を指す。『卵はウエルダンでしか、調理しません』とある。何という徹底振りであろうか?これはフランス系のホテルだからだろうか?欧米人は極端に細菌を嫌う。昨年のSARSの時も中国人を出入り禁止にしている。昔の植民地時代の感覚が残っており、東南アジアは菌が繁殖する場所と考えているようだ。しかしベトナム正月テトでも、チキンは一番のご馳走である。香港もそうであるから、南の方は皆同じなのだろう。それがチキンを食べられない、それは新しい年の困難さを予感させる。

(7)ホーチミン廟
午後市内観光に出る。ズンさんに案内して貰う。当初は日本語学科の学生アルバイトにガイドをして貰うことを考えていたが、テトで誰も引き受け手がなかったと言う。ズンさんはかなり探してくれたようだが、最後は仕方なく自分で案内を買って出てくれた。有難い。トヨタハイエースもチャーターしてくれた。半日US$25。

 

先ずはホテルから市内へ。2kmほど離れているとのことだが、もっと離れているように感じる。何故なら車のスピードが遅い。兎に角バイクが彼方此方走るのでスピードが出ない。ホーチミン廟に到着。ここは北京で言えば天安門広場のような所だ。廟の中にはホーチミンの遺体が保存され安置されているようだ。いつもは午前中参観可能との事。まるで北京の毛沢東記念堂と同じ仕組みだ。きっと特殊保存されたホーチミン氏を停まる事も許されず一瞬チラッと見るのだろう。緊張感は北京並みに違いない。ズンさんに寄れば、毛沢東よりは保存状態がよいというが。

周りには肌色の建物が幾つかある。フランス時代からの建物で現在も政府機関として使われている。廟の対面にあるのは国会議事堂である。共産党独裁国家で国会の役割は良く分からないが?ズンさんに現在の政府をどう思うかと聞いてみたが、特に答えは無かった。やはり今でもこの手の質問はご法度だろうか?考えて見れば私は本当にベトナムについて何の知識も持たずにやって来てしまった。それはある意味では私の旅の方法ではあるが。ホーチミンは国民に慕われているのかどうかも知らないし、経済がどうなっているかも分からない。

(8)軍事博物館
次に軍事博物館に行った。どうして行ったかと言うと他の博物館が全て休みだったから。しかし結果としては、ここに行ったのは正解であった。ベトナムの歴史をおぼろげながらも掴むことが出来た。博物館に入ると行き成り戦車や飛行機が置かれている。次男は喜んで写真に納まる。(この戦車は1975年のサイゴン陥落の際2番目に突撃したもの。次男は理解しただろうか、この重みを。)

中に入ると戦争の歴史である。ベトナムの歴史とは戦争の歴史なのである。938年の最初の王朝成立以降常に中国の脅威に晒されている。1077年に宋朝、1288年に元朝、1789年には清朝の侵略を撃退したことが述べられている。勿論明代に支配されたこともある。そして近代はフランスの統治、戦後の独立、ベトナム戦争、中越戦争と続く。その間この博物館の展示が正しいとすればベトナム人は一貫して抵抗してきたのである。これは凄い忍耐力ではないか?

ズンさんは1959年生まれ。ベトナム戦争は良く覚えているといったが、それ以上は待っても語られなかった。やはり決して楽しい思い出ではないはずである。

戦車が村に入るのを阻止する為、爆弾を持って突撃する民兵、子供が3人以上戦死した為、名誉母として表彰される女性、何だか戦時中の日本のようで怖い。共産党らしく、女性党員の活躍を伝えるコーナーもある。

テトと言えば、1968年のテト攻勢が思い出される。ベトナム戦争中、正月だけは休戦すると思われていた中、突然テトに解放戦線が攻勢を掛け、フエを占拠。サイゴンの米大使館なども攻撃された事件である。当時香港駐在であった佐々淳行氏は1泊の予定でサイゴンに出張しこの事件に遭遇。半月を過ごしている。それによると解放戦線は僅か20人の決死隊が米大使館に突撃し、全滅したという。またこの騒動の最中、アオザイを着飾ったベトナム女性が解放戦線の決死隊の死体の横を平然と歩いていたとも書かれている。何とも凄まじい光景である。尚先日同氏の公演を聞いた際、『サイゴンの日本大使館には食料も無く、人もいなかった。ただ青木大使がいた。ペルーで人質になった青木大使のお父さんである。』と言っていたのが、印象的であった。(現在の日本危機管理は大丈夫なのか?)

ベトナムと言えば私も最初に思い出すのはやはりベトナム戦争である。私は実は殆ど映画を見ないが、その昔ロバート・デニーロの主演した『ディアー・ハンター』と言う映画を見たことがある。非常に恐ろしい映画でその夜は眠れなかったことを覚えている。捕虜となった米兵が収容所でロシアンルーレットをやる。銃に弾が一発入っており、自らに向けて引き金を引く。私でさえあの場面は今でも思い出す。ましてやアメリカ人、米兵にとってベトナムは印象に深い場所だろう。人生を狂わせた人間も少なくなかったはずだ。この映画を見てからベトナム人は怖いと言う印象を持ってしまった。まるで中国人が戦争中の日本兵の残虐行為を描いた映画を見て日本人を怖いと思うように。

見学して行くと小さな劇場のような場所に出た。何やら何処かの地形の模型のようである。ズンさんが係りの女性に話しかけると彼女は立ち上がった。ディエンビエンフーの戦いを模型で説明すると言う。突然明かりがつき、日本語のテープが流れた。高校の歴史の授業で名前だけは知っているが、この戦いの内容を聞くのは初めてである。1945年の日本降伏と同時に独立したベトナムが再び統治に来たフランスと9年間戦い、最後にディエンビエンフーで勝利し、フランス軍を撃退したというもの。この戦いの細かい様子(街道を押さえ、地下の抜け穴を掘り)を伝えている。

今年はこの戦いの勝利から丁度50周年。5月7日の記念日には盛大な催しが行われる。ベトナム人の誇りである。しかしこの説明を日本語で受けているのは何となく決まりが悪い。周りにベトナム人や他の外国人が一緒に見始めたが、何だか分からないだろう。

建物の裏手には今は無きハノイ宮殿の旗の台が移設されている。高さ180m。1812年にできたと言うから約200年前のものである。子供達は登っていったが、眺めはどうだろうか?
また大きな木の周りに金属の残骸が置かれている。ベトナム戦争時にB52を打ち落とした残骸、合計34機を打ち落としたそうだ。

因みにこの博物館の道の対面にはレーニン像が建っている。現在の共産党政権は1950年にソ連と中国が承認して国際的に認められた経緯がある。国旗は赤字に星1つで中国的。共産党の旗は赤字に碇のマークで昔のソ連の国旗を思わせる。

そう言えば、ここハノイには中国系住民は殆ど居ないという。中越戦争の際、中国系は難を恐れて中国に戻ったのだ。但しホーチミン市の近くにはチャイナタウンがある。それにしてはこの博物館には中国語が多いと思ったら、よく見ると簡体字である。最近中国からの団体観光客が急増しているそうだ。ベトナムは85%がキン族で、残りは53の少数民族である。

(9)文廟
次に文廟へ。ここは孔子を祀るため1070年に建立された。ベトナム最初の大学が開設された場所で、学問の神様。グエン王朝時代に李朝以降の科挙の合格者82人の石碑が置かれた。石碑は様々な顔の亀の上に乗っていて何ともユーモラスである。地元の若者がその亀の頭を撫ぜて行く。ご利益があるに違いない。我が子供達にもやらせる。

 

ここの敷地はかなり広い。更に奥に行くと独特の形をした瓦屋根の見事な建物がある。孔子やその他の神々の像が安置され、大勢の人々が参拝している。祈り方は中国的に膝を着くのではなく、手に賽銭を挟み、拝んでいる。これは合理的かなと思う。拝んでから賽銭を捧げる。何故かここで長男は『忍』次男は『心』と書かれた掛け軸を買う。25,000ドン。何と両替を全くしておらず、ズンさんに両替して貰う。US$1=15,000ドンぐらい。ズンさんは新札の5万ドンを沢山持っていた。ベトナムでもお年玉があるという。ハノイのような都会では2-5万、田舎では5千―1万ドン程度が相場だと言う。尚5万ドンは本当に新規発行の札で2箇所が透明で穴が開いているように見える。偽札防止であろうか?

因みにベトナムでは米ドルが流通している。米ドルで買い物をすることも可能ではある。しかし米ドルは必ず損をする。ベトナム人はドンから米ドルへの両替に制限があるという。必要な人は闇で両替するのだと。それにしては、街中で堂々と米ドルを受け取るから不思議だ。中国ならもっと管理が厳しい。ベトナムが今ひとつ経済発展できないのは、その辺に原因があるのかもしれない?

ズンさんが買い物でもしましょう、と言う。元旦から開いている店があるのか?車は如何にも土産物ショップという建物に到着。入り口にはアオザイを着た店員が待ち構え、『いらっしゃいませ』と日本語で言う。店には客が無く、皆我々の方に来るが何となく寂しそう。ベトナムのお茶を見る。緑茶、蓮茶、苦茶の3種類を買う。果たして美味しいのか?未だに試していない。ズンさんも日常は緑茶を飲むと言う。中国国境の山岳地帯で少数民族が青茶あたりを作っているはず、と言うのが私の印象だが、次回是非見てみたいものだ。長男は出されたバナナチップを気に入り、せっせと食べる。結局食べ物と飲み物を買う。

帰ろうと外へ出ると、日本人の団体がバスで乗り付けてきた。アオザイ店員も元気になる。先頭で旗を持っている人がズンさんに挨拶する。日本人だ。旅行社の支店長だという。テトでベトナム人社員が皆休みを取り、やむなく本人がアテンドしているようだ。何となく面白い光景であった。

(10)水上人形
夕方になり、ズンさんを早く解放しなければと思っていると、『水上人形のチケットは昨日は無かったが、今はあるかもしれない。』と言われる。ズンさんは本当に色々と気を使ってくれる。水上人形とはベトナムの伝統芸能で、人形劇。特徴は人形劇を池の水面で行うこと。世界でもこの劇団だけだそうだ。

 

取り敢えず劇場に向かう。到着すると既に西洋人が並んでいた。その脇から韓国人の団体がガイドに連れられて入場する。西洋人の旅は本当の旅だなと思う。手数料を払うのではなく、自ら時間を掛けて席を取る。それに引き換え、日本人を初め団体観光客は本当の楽しみを知らない。水上人形は日に3回、最初の5時15分の席が取れた。1等席4万ドン、2等席2万ドン。我々は1等席。おまけに扇子と劇で使用する音楽の入ったテープをくれる。我が家にはテープが4つになってしまった。

劇場は意外と広く、劇をやるプール(池?)が結構小さいので2等席だとかなり見づらい。後ろの方で大声で文句を言っている人がいる。北京語であるので、台湾人と思われる。『1ヶ月も前から予約して何でこんな席なんだ。』と怒っている。きっと旅行社がケチったのだろう。因みに劇が始まってから日本人の団体がどやどやと我々の前に入ってきた。目一杯観光して遅れたのだろうが、こういうのは本当に頂けない。

劇はなかなか面白かった。最初に脇に控えた楽器奏者の演奏、歌。何だか人形浄瑠璃を見るよう。人形は人間、亀、魚など。それほど精巧なものではないと思うが、辻村寿三郎の八犬伝、三国志を思い出す。それを簾の後ろから操る。人形は水の上を踊っている。結構動きが巧みで、人間がクロールで泳いだり、魚が大きな泳ぎをしたりして、笑いを誘う。正月と言うことか、爆竹が華々しく使われる。

劇の内容は田植え、カエル取り、アヒル農法などと地域に密着した話が多い。非常に素朴なものだ。西洋人は興味深く見ている。日本人はおしゃべりに余念が無い。我が家の子供は、残念ながら半分以上熟睡していた。最後に人形遣いが後ろから登場。どっぷり水に浸かり約1時間、かなりの重労働だ。しかもあと2回今日の公演がある。この劇は世界各地で公演し、高い評価を得ているとの事。ズンさんに寄れば、ハノイで必ず見るべきものはこれだけだと言う。

夜はホテルでビュッフェ。ハノイはフランス時代のよき技術を踏襲しているようで兎に角パンは美味かった。特にフランスパンは美味い。これだけでも腹が一杯に成る程食べた。朝食のビュッフェでもパンばかり食べた。

(11)路上の食事
2日目。午前中はホテルでゆっくり。子供達は勉強のはずであったが、ゆっくり。ホテルの脇にある湖を散歩。しかしバイクが多い。しかも2人乗りは当たり前、お父さんが運転、上の子がお母さんとの間に挟まり、下の子はお母さんに背負われる、家族4人乗りは普通である。この光景何処かで見た。そうだ、80年代の台湾だ。その後台湾は自動車社会になり、現在では大分減ったが。昨日ズンさんに聞くと、ベトナムの自動車化はかなり進んでおり、2002年の交通事故の死亡者は1万人を越えたようだ。因みに日本は8千人を下回ったので、人口が3分の2のこの国では交通事故は多い。

人が集まり賑わっている場所がある。鎮国寺。正月の初詣。ベトナム最古の寺。500年代に建てられたというからかなり古い。勿論現在の建物は17世紀以降のもの。湖の中に小さな島があり道がついている。中には仏塔があり仏塔には小さな仏像が沢山安置されている。ミャンマーのパゴダにもあったものだ。

 

初詣に来ている人を見ると、年配の男性は昭和20-30年代の日本のお父さんの格好をしている。洒落ていない外套を着、ハットを被る。若い女性にアオザイ姿は稀で、ジーンズにスニーカーが多い。年配女性は紫や黒のアオザイ。良くベトナムのアオザイは世界で一番セクシーな民族衣装と言われているが、私が見る所冬はそれ程セクシーな様子はない。学校が休みで高校生の制服姿も無く、白い鮮やかなアオザイ姿も無いからか?ベトナムの女性は見ていると実に素朴に見える。日本や香港の女性は化粧のし過ぎなのか?笑顔がなかなか良い。社会主義の笑顔ではない。ベトナムも着実に資本主義社会になってきている。

昼食に路上でベトナム麺に挑戦。最初は尻込みしていた子供達も一口食べてからは美味しそうに食べている。日本で言えば風呂場のプラスチック椅子に座り、低いテーブルで食う。周りは地元の人々がちょっとした昼飯と言った感じで掻き込み、直ぐにバイクに乗って去る。日本のラーメン屋だ。値段は良く分からなかったし、言葉も通じないが、食べたいものを指せばよいから簡単だ。但し料金は少しボラれていたようだ。麺3杯とコーラ1つで4万ドンはちょっと高い。まあ300円だから喧嘩しても始まらない。正月料金もあるかもしれない。

麺屋の直ぐ近くに写真屋(家内に寄れば薬屋?)があり、そこの店先にお茶道具が出ていた。思わず寄って行って写真を撮った。急須の中は緑茶であった。ベトナムも緑茶の発音はほぼ同じで通じた。お茶菓子が入ったお盆が出されて食べろと言う。家内はその中の1つが気に入っていた。こういう交流が嬉しい。

(12)バチャン
午後昨日の車に来てももらい、郊外のバチャンという村に行く。市内から南東に10km、車で30分。紅河に沿ってゲストハウスが続く通りを10分も行くと田舎の風景だ。各村にはお寺があるようで、初詣の人が歩いている。

バチャンは陶芸の村。600年前からこの村では陶磁器が作られていると言う。16世紀には日本に輸出が始まり、茶道の道具などにも使われた。近年輸出量も多くなっており、観光客も多く訪れている。しかし我々が到着した時、この村は正月であった。殆ど何処の店も開いていない。運転手は困ってしまったようだ。ズンさんから言われた店は開いていない、言葉も通じないのだから。

我々は勝手に近所を歩き回る。1軒だけ店が開いており、入ると日本人の団体がいた。暫く見ていると運転手が行くべき店が開いたと伝えに来た。行ってみるとその店は6階建てで4階から上が工房になっている。下には大型バスで乗りつけた日本人が大勢いてさっきまで静寂は完全に破られている。店が開いたのは彼らが着いたからで感謝しなければならない。

工房に行く階段を上がる。ろくろあり、窯あり、正に工房である。完成前の作品を多数置いている。工房からの眺めが又良い。河が一望出来る。流石に本日はお休みだが、普段はここで観光客も作品を作ることができると言う。一度やってみたかった。この工房に上がってきたのは外国人ばかり。日本人団体はひたすら買い物だ。家内も日本人になりたいようだったので、残りの3人は外へ出た。村は狭い。直ぐに畑に出た。学校もあった。田舎の長閑な風景だ。但し道端にゴミが大量に捨てられている。成長期には環境に配慮する事は難しいものだ。

子供達が無邪気に遊んでいる。正月だもの、彼らも嬉しいに違いない。羽根突きの羽のようなものを足で蹴りあっている。蹴鞠の羽版のようだ。そういえばベトナムも人口が増えている。出産制限もあるという。中国ほど厳しくないが原則子供は2人までという。但しこれを守らないで困るのはハノイなど都市部の役人などだけだとズンさんは言っていた。彼も3人の子持ちだ。この村でも沢山子供がいる。出産制限のある国とは思われない。

店に戻ると家内は未だ一生懸命陶器を選んでいる。我々は疲れたので椅子に座っていると如何にも大阪のおばちゃんといった感じの女性が不思議そうに近づいてきて、『お嬢ちゃん、どッから来たの?何で来たの?』と次男に聞く。次男は何の事だか分からずに黙っていたが、内心女の子と間違われて痛く傷ついていた(次男は髪の毛が少し長い)。ただおばちゃんの疑問は最もだった。日本では今日も学校があるのだ。
しかし大阪のおばちゃんは何で一目で『大阪のおばちゃん』と分かるのだろう?そして何でお節介なのだろう?

家内の買い物が終了し、支払いとなる。蓋碗、小皿セットなどを一絡げにして持って行くと日本語でUS$10です、という。確かに安い。更におまけに好きな皿を1つくれた。ここの原価は殆どただなのだろうか?因みにある皿をひっくり返すとなんと西友780円という表示が見えた。恐らく輸出品を間違えて店頭に出したのだろう。ここで買えばこの皿は数十円である。日本のスーパーで売っている陶器の多くはここで作られているのでは?

バチャンの帰りにハノイ大教会による。これは予定に無かったので、運転手に思い切ってガイドブックにあるベトナム語で言ってみた。何と通じた。OKと言うのだ。嬉しくなったのもつかの間、到着してみるとどうも様子が違う。見てみるとそこは市劇場であった。フランス統治時代にパリのオペラ座を模して建てられた立派なオペラハウスである。やはりそんな簡単に通じるはずが無い。でもちょっと得した気分にはなった。

ハノイ大教会はこれまた立派な建物であった。1900年頃にゴシック様式として建築された。かなりの規模である。西洋人が脇から中に入って行く。礼拝でもするのだろうか?この教会の前の道がなかなかおしゃれだ。フランスのカフェのような場所があったり、土産物屋もかなりセンスが良く、これまでのハノイとは明らかに違っていた。

(13)夕食
ホテルで夕食を取る。兎に角ホテルが市内から離れている、正月で店が閉まっている、等等から食事はホテルとなる。今回は中華レストランに行く。メニューを見ると典型的な中華である。まるで日本でコースを頼むような料理である。あまりにも面白くないと思っているとベトナム料理もあるという。出てきた最初の2品はなかなか食べ難かった。干しパパイヤのサラダと生春巻き。殆ど食べられない。漸く3品目でポークチョップが出て、何とかなった。そしてメインの鍋。ちょっと漢方薬風の匂いがするスープに蝦、イカ、魚などの海鮮を入れる。これにトマト、ブロッコリー、カリフラワー、春菊などを次々にぶち込む。おい、おい大丈夫か?

その心配は杞憂に終わる。先ずは海鮮を取り出し、食べる。美味しい。続いてスープと一緒に野菜を食べる。これがめちゃウマ。健康的だ。子供達もモリモリ食べる。普段ならこの漢方薬風の匂いは厳しい所だろうが、このトマトを含んだスープは食える。最後に麺を入れて〆る。完全に食べ過ぎてしまい、苦しくなった。久しぶりの満腹感である。この鍋の名前は良く分からない。

(14)3日目の観光
3日目も午前中は湖の散歩。家族4人で1時間掛けて1周した。何の変哲も無い街並みではあるが、そこここにフランス風の建物が残り、中には西洋人が住んでいたりする。かと思うと細い道を昭和30年代製といった感じのボンネットが盛り上がったバスが人とバイクを擦り抜けて走って行く。時間はゆっくり流れて行く。

ホテルをチェックアウトして市街地へ。今日は買い物だ。といっても家内のお目当ての店は殆ど閉まっており、仕方なくホアンキエム湖の近く、ハンガイ通りからハンチョン通りを歩く。この辺り町並みも古く、各家は間口が狭い。しかし奥行きはかなりあるようで奥が迷路のようになっているのが見える。また外国人向けと思われるこじんまりしたホテルも多い。フランス風家屋を改造したようだ。一度は泊まって見たい雰囲気がある。

昼飯は昨日行ったハノイ大教会の前のカフェで取ることに。このカフェ、実に雰囲気が良い。2階+αがあり、かなりおしゃれな作り。西洋人とベトナムのお金持ちが集う所らしい。サンドイッチやパスタを食べて、飲み物を飲んでいるとベトナムにいることを忘れる。但しウエーターが新米でオーダーを間違えたりして、なかなか食べられなかったのはご愛嬌か?値段はそれでもソフィテルホテルで食べるよりは安かった。ということはホテルの食事が如何に高いかを物語っている。次回はテト以外に来て大いに街中を楽しもうと思う。

食後庶民の市場且つ外国人も良く行くというハンザ市場へ行ってみる。しかし残念ながら中の店は全て閉まっており、市場の周りで野菜や魚を売る露天商だけが細々とやっていた。ここでビックリしたのは、牛の肝臓だけを売るおばあさんがいたこと。他の店は肉もその他の部位も一緒に売っているのに、このおばあさんだけは何故か肝臓だけである。子供達は気味悪がっていたが、もし言葉が通じれば何故?と聞いてみたかった。またお客は常連だけなのだろうか?

最後にホアンキエム湖に浮かぶ玉山祠に行く。この湖は500年生きている亀が生息していると言う伝説がある。橋を渡って正殿に進むと入場料がいるという。横の中国人観光客が盛んに騒いでいる。良く分からないので、入り口まで行くと横で切符を売っていた。但し幾らか分からない。5万ドン札を出すと困った顔をする。足りないのかなと思うと、そうではなく、4人で4千ドンしかしない為、お釣りに困っていた。そうだよ、庶民が来る場所がそんなに高いはずが無い。言ってみれば日本のキオスクで50円の飴を買うのに1万円札出す外国人のようなものである。

ベトナムの給与水準はズンさんに聞いた所、ハノイの民間企業で月US$100-200。業績の悪い国有企業ではUS$60ぐらいだと言う。この水準は中国の大都市と比べてかなり低い。国有企業の民営化は進んできたようだが、まだまだ貧しい。株式市場も2000年に創設されたが、その後発展していないという。因みにバイクは日本製がUS$1,000ぐらい、タイ製などはUS$400ぐらいと言う。ここも人で溢れていた。皆一生懸命拝んでいる。明日の幸福を願っているのだろうか?大きな亀の像が大事そうにケースに入っていた。残ったドンで子供2人はまた賽銭を上げ、何やら祈っている。何を祈っているのだろうか?

その後ホテルに戻り空港への送迎を受ける。2日前に来た道を又引き返す。しかし2日前と印象はあまり変わらない。ということは今回私はこの街に深く踏み込まなかったと言うことか?真新しい空港に入り、残りのドンをチョコレートに換え、夕飯の代わりにする。ハノイは何とも不思議な所。掴み所が無い。今度は正月以外に来て真のハノイを掴みたい。

ところで次回はどこの旅に行こうか思案している。帰りの飛行機の中で次はホーチミンかな?などと思っていたら、荷物のケースが壊れてしまった。これは当面この国には来るなとの神のお告げか?更に帰国後東京で次回の旅の候補として、スリランカ、ネパール、中国東北(北朝鮮国境)のガイドブックを買った所、東京駅のトイレに忘れてしまい、気が付いて戻った時には既に誰かに持ち去られていた。これらの場所も当面行けないという事だろうか?兎に角次回を考える毎日である。

 

 

《ラオス散歩2013》(11)ルアンプラバーン 日中合弁ゲストハウスに出会う

日中合弁ゲストハウスに出会う

そしてまたメコン川へ出た。河沿いをぶらぶら歩く。気持ち良い風が吹くがかなり暑い。あてもなく歩いて行くと、河沿いに駐車している車が目に入る。何と中国雲南ナンバーだった。こんなところにまで、中国人は車でやってくるのか、と写真を撮っていると、後ろから中国語で『中国人か?』と声を掛けられる。慌てて『日本人だ』と中国語で答えると、相手が『え、日本人なのか?』と日本語で返してくる。

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何とも奇妙な出会いだった。彼は何と北京出身で日本にも留学経験のある中国人だった。中国生活に飽き、環境の良い、ここルアンプラバーンに移住したのだという。そして彼が『私は日本人と一緒にそこでゲストハウスをやっている』というのを聞いて、興味を覚える。

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ゲストハウスは本当に河沿いのすぐそこにあった。日本人もいた。そこへ長老がやってきた。聞けば、華人で中国語が話せるとのことで、早々に話を聞く。おじいさんのお父さんは広東人。『親父は広東から船でハノイへ行き、そこから陸路、カンボジアへ。そしてまた船でメコン川を遡り、ここへ着いたんだ。俺も大学はベトナムのホーチミンへ行ったよ。ベトナムは兄貴分だからな。ずいぶん昔の話だが』。ルアンプラバーンには華人は多くはない。その中でこの老人は華人のまとめ役らしい。

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一日1回は立ち寄るという老人が去り、日本語を話す中国人もどこかへ消えていた。日本人Sさんと話し始めた。驚いたことに90年代香港に駐在し、2000年代は上海や青島にもいたサラリーマンが縁あって、ここまでやってきたという。私と似通った部分もあり、話が弾む。

 

そしてここへ来る前に雲南省のシーサンバンナで仕事をしていたとの話から、先日バンコックのお茶屋で会ったシーサンバンナの不動産屋さんが彼の勤め先であると知り、あまりのご縁に双方驚いた。そんなことがあるのだろうか。彼は今でも時々シーサンバンナへバスで行き、プーアール茶を持ってベトナムへも行くという。まさに昔の物流ルートを行っている。実に興味深い。

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昼飯も食わずに3時間も話しただろうか。話は尽きなかったが、時間が尽きた。空港へ向かう時間となり、次回の再会を期待して別れた。

 

それから急いでホテルへ取って返し、荷物を受け取り、トゥクトゥクを探すが見つからない。暑いから皆昼寝中のようだ。1台のソンテウが停まっており、聞くと6ドルで行くというので乗り込む。空港までは20分ぐらいで着く。

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ルアンプラバーンの興味深い旅も終わった。ラオセントラルで一端ビエンチャンへ戻り、国内線から国際線のターミナルへ移動し、再度チェックイン。乗り継ぎ時間は1時間しかなかったが、そこはローカル空港。何事もなく、バンコックへ戻った。

《ラオス散歩2013》(10)ルアンプラバーン 托鉢に思う

9月29日(日)

托鉢に思う

翌朝も早く起きた。外が明るくなっていたので、ホテルの前に出ていくと、各家の前に女性たちが出て、托鉢のお坊さんを待っていた。この光景はミャンマーで見て以来。何となく、好ましく思い、お坊さんの一団について歩く。

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相当数のお坊さんが歩いてくるので、ツボの中にご飯やお菓子を入れるのも忙しい。ここでは毎日こんなに大々的に托鉢をしているのだろうか、などと考えていると、向かいのおばさんが手招きする。こっちにきて、お前もやれ、という仕草だ。

 

おばさん3人ぐらいがやってきて、次々に渡す物を置いて行き、お坊さんにあげる仕方を教えてくれる。本当にスピードが速い。お坊さんの歩くスピードに追い付かず、四苦八苦。お坊さんの中には小坊主もかなりいる。こんなに托鉢を受けてどうするんだというほど、抱えている子もいた。

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ようやく一団が通り過ぎ、辺りが平穏になると、おばさんが手を出してきた。確かにお坊さんにあげる品々を貰ったのだから、おれをしなくて行けないと、5ドルを取り出すと『20ドルだ』といきなり英語でいう。これには参った。いつもなら『そんな話はしていない。そんな高いはずはない』などと口論になるところだが。

 

その時、ちょっと怒っている自分に向き合う自分がいた。『確かにこのおばさん達はいいことはしていない。この托鉢自体が一種の観光イベントであり、宗教的には疑問もある。だが私自身の気持ちはどうなんだ?』そしておばさんに黙って20ドルを渡し、合掌して去る。おばさん達は一瞬きょとんとしていた。

 

そしてホテルで気持ち良い朝食を取り、少し横になる。庭でPCをいじり、時間を過ごしたが、今日の午後にはバンコックに戻る身であり、再度街をぶらつくことにする。先ほどの托鉢の終点は、ワットシェントーン。実に立派なお寺だった。拝観料を払う必要があったが、時間が早すぎ、誰もいなかったので、外から写真に収めて去る。

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《ラオス散歩2013》(9)ルアンプラバーン プ―シー山の夕陽

プ―シー山の夕陽

そしていよいよハイライト?博物館前の道を上る。小高い丘、プ―シー山から夕陽を眺めるためだ。観光客と思われる欧米人、中国人、韓国人、インド人などが続々と登っていく。階段はかなりあり、途中に入場料を支払う場所がある。そこまでたどり着くと、一休みせざるを得ない。体力の低下が懸念される。

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既に陽はかなり傾いていたが、それでもある程度の高さを保っていた。頂上まで登りきると、そこには堂があり、タイ人が熱心に祈りを捧げていた。それが本当だろうが、我々一般観光客は夕陽にしか関心がない。

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陽が落ちる様子を見るに適した場所は既に人で埋められえていた。皆がカメラを構えている。私も構えているのだが、何だか滑稽に思えてくる。せっかくきれいな夕陽が落ちていくのに、この目で見ないでファインダーを通して見る、脳裏に焼き付けないでカメラに焼き付ける、何で?

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そして夕陽はスルスルと落ちて行った。シャッターは何度も切ったが、これはという写真は遂に撮れなかった。まあ、そうだろう。皆が山を下りる前にそそくさと下山した。混雑は余韻を妨げる。

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観客の少ない民族舞踊

勢いよく下りてくると、目の前に昼間行った博物館がある。そうだ、あそこで民族舞踊があったなと思い出し、そのまま行ってみることに。建物には人が殆どおらず、チケットを買うと、おじさんが『エンジョイ!』と言ってくれたが、2階の会場には誰一人観客がいなかった。ちょっと緊張。

 

その中で民族楽器を奏でる人々が何事もなかったように演奏している。そして開演の少し前にフランス人の老夫婦が入ってきて、ほっとする。それからドイツ人が入ってきたところで、さっきのおじさんが司会者として登壇。流暢なフランス語、英語で話し始める。そこへ中国人団体客が10名ほど、ガヤガヤやってくる。

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舞台では民族舞踊があり、ラーマーヤナの一節が軽快に演じられるなど、本格的であった。これはラオスのトップクラスのスタッフの舞台なのだろう。だがあまりにお客が少なすぎる。モチベーションを維持するのも大変なのではないか。

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中華な夕食

舞台が終わり、既に8時を回っていた。夕飯はどうするか、ガイドブックに中国料理屋が載っていたので、そこへ行ってみる。が、暗いこともあり、なかなか見つからない。段々面倒になり、適当な店へ入り、炒飯を注文した。

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お客は殆どおらず、イングランドプレミアリーグのサッカー中継を見ながら、食べた。味は本格的な中華だった。よく見ると店員も中国系の顔をしている。実は探していた店はここだったのではないか、と思いながら、言葉が通じないこともあり、早々に退散した。

《ラオス散歩2013》(8)ルアンプラバーン お寺巡り

カオソイ

それから街をうろつく。天気が良く、日差しは強いが、さわやかな感じが何とも心地よい。ルアンプラバーンは基本的にメコン川とお寺の街。歩けばどこでもお寺のぶつかり、川にぶつかる。川から吹く風が心地よい、ということだろう。

 

フラフラしていると、両替所があり、ここのレートが良いので両替する。観光地と言いながら、意外と米ドルを受け取らない所もある。人民元の両替レートが特によいように感じられる。歩いても中国人が多いようには見えないのだが。因みに両替所の女性は英語が苦手のようで、小学生ぐらいの彼女の子供が応対してくれるのが面白い。

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小さな市場に紛れ込む。この辺にカオソイ屋があると聞いてきたのだが、既に店じまいしていた。朝早く来ないとダメ、明日来て、と言われる。市場では野菜などを売っていたが、バイクで来たおばさんが『わさび』と日本語で言ったのには驚いた。そして店の人も日本のわさびを取り出していた。

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カオソイがないと言われると急に食べたくなるものだ。ホテルの近くまで戻り、ローカルなお店に入る。一応英語が書いてあり、何とか意思は通じた。まるで時間が止まったようなテーブル、そしてそこで食べている人々、不思議な空間であった。出てきたカオソイも上の空で、その空間に浸ってしまった。

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街歩き ワットルアン

ホテルで一休みして、また歩き出した。今度は博物館へ向かう。街の真ん中の立派な建物だった。往時の繁栄を偲ぶ品々が展示されていた。そうここは古都なのだ。昔は王様がいたのだ。だが今は誰もいないような静けさ。博物館の横には何やら立派な建物が。こちらは劇場のようで、夜にはショーがあるらしい。暇があったら来てみようと思うが、チケットは買わないで様子見。

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それから地図も見ずに歩く。歩けばお寺があるので、フラフラ入り、またフラフラ出る。面白いほどにお寺に行きあたる。そして街外れの外れまで来ると、ワットルアンという寺にやってきた。

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このお寺、なかなか雰囲気が良い。かなりの古さもさることながら、仏塔にしがみ付く?仏像など、ユーモラスな仏が見られる。新しい本堂と古い仏塔のコントラスト、何だかルアンプラバーンを象徴しているようだ。しばし休息して眺めると、陽が少しずつ西へ傾く。

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更に街中に戻りがてら、いくつかのお寺を見学。仏塔や本堂の形に変化がみられ、面白い。さすがに暑い中、3時間も歩くと疲れ果て、メコン川沿いのカフェで休息。カフェと言っても、河沿いにテーブルといすを置き、川を眺めるだけ。でもそれが良い。疲れた体が糖分を欲しがり、思わずコーラを注文。何と料金は100円、この景色を眺めるには安い。

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《ラオス散歩2013》(7)ルアンプラバーン メコン川を独り占め

9月28日(土)

リラックスできる朝食

翌朝は実にさわやかに起きた。理由は不明だが気分がいい。前日の軽い食事、あまりPCを見ない生活、そしてこの地の豊かな自然、静かな環境、どれをとってもリラックスできる要素だった。

 

鳥のさえずりに誘われて、朝食は庭で取る。美味しいパンに、新鮮なフルーツ、アツアツのオムレツ。爽やかな朝にピッタリだった。このような爽やかな、そしてリラックスできる朝を迎えることに感謝した。

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食後日差しが強くなり、暑さが予感されたので、先ずはゆっくりコーヒーを飲みながら、PCに向かって旅行記を書く。そのままずっと座っていたいほど居心地が良かった。いきなりドイツ人、いやオランダ人かなと思われる女性が『気分はどう?』と聞いてきた。『抜群』と答えると笑顔で他のテーブルへ。彼女はこのホテルのマネージャーだった。お客もヨーロッパ系が多く、彼女にこの仕事はぴったりだと思われた。

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ボートトリップ

ホテルの中庭にも飽きてきた頃、メコン川でも眺めようと出掛ける。何をするでもない、あてもなく散歩した。突然河沿いで『ボートに乗らないか』と声を掛けられた。いつもならやり過ごすのだが、あまりに暇だったので、そのニーちゃんの話に付き合ってみた。

 

『お客がいないんだよ、今は。だから8ドルでメコン川クルーズに連れて行くよ』と言われ、それなら時間潰しにいいかと、着いて行く。彼は川に下りる。20人ぐらい乗れそうなボートが目の前にあった。これを貸し切りで使った。まさにオフシーズン。

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メコン川に出ると青い空、広い河、眺めがよかった。雲の形と山の形が妙に調和していた。行き交う船も少なく、本当に広々していた。先ずは対岸の寺へ向かう。石段を登るのに一苦労したが、小高い丘の上には古い寺があった。更に案内の子供について歩いて行くと、洞窟があった。彼らは懐中電灯で中を照らした。何か神々しい感じがした。

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それからまたボートに乗り、川面から景色を眺める。向こうの丘に雲が低く垂れこめ、独特の情景を作り出す。若いお坊さんが川に入り、泳いでいた。魚を取る漁師もいた。ボートはあてもなく、ゆっくり、ゆっくりと流れていく。こんな時間は永遠であっても誰も文句は言わないだろう。

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1時間の約束が過ぎた頃、ボートは岸に戻った。これで8ドルは安いと思ったが、その金額を渡すと、ニーちゃんはにこりとして受け取り、足早に去って行った。いい小遣い稼ぎだったのだろうか。彼はお客のいない川を離れ、またバイクタクシーの客引きに戻っていた。

《ラオス散歩2013》(6)ルアンプラバーン 静かな街で気分転換を

2. ルアンプラバーン

ローカル空港

そしてランチもご一緒し、F夫人に空港まで送ってもらい、ルアンプラバーンへ。実は最近愛用していたパソコンが突然壊れ、かなりのショックを受けていた。このような時には気分転換が必要と言われ、今回2日間の空き時間を利用して、『癒しの空間』と言われるルアンプラバーンを訪ねることにしたのだ。

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ビエンチャン‐ルアンプラバーン間にもラオセントラル航空が飛んでおり、それを選んだ。ただ料金は直前の予約だったせいか、バンコック‐ビエンチャン便より高かった。ラオスで国内線に乗るのは初めて。ターミナルも国際線の横の簡素な建物、搭乗時間の30分前にならないと、セキュリティチェックへ進めないようなローカル空港だ。搭乗は歩いてタラップへ。昔の中国を思い出す。飛行時間わずか30分、あっという間にルアンプラバーンに到着した。

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空港から市内へ行くバスなどないかと探したが、全くなかった。仕方なく、空港タクシーで行く。7ドル、高いのか安いのかよくわからない。河を越えて、街に入る。河沿いにホテルなどが見えたが、私が適当に予約したロータスビラは河沿いではなかった。

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ロータスビラ

ロータスビラはシンプルな造りのブティックホテル。清潔感があり、フロントの対応も悪くなかった。部屋は中庭に面していたが、一人なら十分の広さ。ゆったりとしたベッドがあり、寛げた。WIFIも完備されており、もしこれで机があれば完璧だった。欧米人客が多く、彼らは庭にあるテーブルでPCをいじっていた。

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これからか2日間、私には何の予定もない。ここに来た目的も気分転換のみであり、何かを見るつもりもなかった。ただ静かな街なので、先ずは様子を見に外へ出た。メインストリートは直ぐに分かり、観光客向けのカフェや土産物屋が並んでいたが、客は少なかった。オフシーズンらしい。

 

土産物を売る露店のマーケットが店開きをしようと準備していたが、そんなにお客があると思えない。夜にもう一度歩いて見たが、本当に寂しい状況だった。それでも店を開けていく必要があるのだろう。子供たちが元気に遊んでいるだけだった。

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夕飯を食べる気力もなく、バンミーを買って食べた。これはベトナムで食べるのより美味しいような気がした。部屋に戻り、シャワーを浴びてちょっとネットを見ていると眠くなり、すぐ寝入る。そんな静かな夜だった。

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《ラオス散歩2013》(5)ビエンチャン ラオス経済危機の兆し

メコン河レストランから焼肉へ

夜は4人でメコン川沿いのお洒落なレストランへ行った。観光客向けで、とても雰囲気が良く、欧米人も多くいた。メニューを見て、注文を終わると、ノイの携帯が鳴る。何と、昨日のメンバーが今日も一緒に食事をしようと、別のレストランで既に待っていたのだ。

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このおしゃれなレストランでも是非食べてみたかったが、こうなるとそちらへ行くしかない。ノイは慌てて注文を取り消し、我々は街中の焼肉屋へ向かう。そこでは面白い形の鍋に肉を入れ、低くなった鍋のふちにたまった汁で野菜を煮て食べていた。これも面白い。

 

皆陽気に食べている。1つのプロジェクトチームの結束を高めるにはよい。Kさんはお得意の『ナイトイングリッシュ』を披露して場を盛り上げる。これからどんな進化が得られるのだろうか。

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一端ホテルに戻り、Kさん、Mさんと一杯飲みに出かける。私の旅では稀なことであるが、ビエンチャンの夜を見るのもよい。1軒のバーに入ると、そこはライブハウスにもなっていて、欧米人が歌を歌っていた。雰囲気は悪くない。ジントニックを飲みながら聞く。

 

ふと見ると向こうのテーブルにビエンチャン在住のM氏が楽しそうにお酒を飲んでいた。彼とは前回ビエンチャン茶会開催で合意していたが、今回はこちらの都合でキャンセルしてしまっていた。何となくバツが悪い。どうらやビエンチャンは狭い世界のようである。このメインストリートの一角以外は暗く静かな街がある。

 

9月27日(金)

ラオス経済 危機の兆し

翌日はお茶会開催を待っていてくださったFさんご夫妻と会う。F夫人によればビエンチャンの日本人の間では婦人会のようなものがあり、定期的な集まりがあるそうだ。次回はこちらを基盤にお茶会をしようということに。

 

ご主人はラオスへの観光を促すお仕事をしている。日本人がラオスを訪れる割合はカンボジアなどと比べるとまだまだ少ない。ラオスには豊富な観光資源があるが、知られていないと嘆く。

 

F夫人の言った一言が気になった。『最近現地通貨キップから米ドルなど外貨への両替が出来なくなった』と。これはラオスの経済にとって危険な兆候ではないか。中国経済に依存しているラオス、その中国が減速し、かつ隣国タイの経済も思わしくない。小国ラオスは苦しんでいるかもしれない。

 

⇒ラオス関連コラム http://www.chatabi.net/colum/67.html

 

《ラオス散歩2013》(4)ビエンチャン 私の心には希望の虹がある

私の心には希望の虹がある

その後ノイは我々を政府機関に連れて行った。古びたビルの4階まで足で登る。教育省だった。若い担当者が相手をしてくれた。今回のプロジェクトの1つは学校を作ることであったが、『コミュニティに還元できるような学校であれば計画書を持ってきてくれればすぐにでも認可する』といわれ、唖然とする。

 

ラオスで学校を作ることは非常に厳しく制限されていると聞いていた。社会主義国家であれば特にそうであろう。それがなぜそんなことに?『ラオスでは今新しい試みが必要だ』と担当は言う。だが聞いた誰もが『実際に申請した時に、すぐに認可してくれるとは思えない』と口々に言う。そんなところだろうか。それにしても、ラオスも少しずつ動いてきているのかもしれない。

 

それから我々は盲学校を訪ねた。病院に付設されており、広い庭があり、そこでは目の見えない子供たちが共同生活を送っていた。ノイはここで歌の指導をしているという。単に自分の学校を開くだけでなく、縁があるところへはどこへでも行って、自分のできることをしている、ノイの活動には感心させられることが多い。

 

沢山の子供たちが集まってきて、ノイに触れようとしている。彼ら、彼女らは目は見えないが、ノイが感じられる。手と手が触れ合うこと、それが如何に大切であるか、抱きしめてあげることが如何に大切であるか、を教えられる。

 

一人の少女が進み出て歌を歌うという。彼女には眼球がない。この子はこれまで一体どんな人生を歩んできたのだろうと思っていると、信じられないほど澄んだ声で、堂々と歌い始めた。

 

『私の目には見えないが、私の心には虹が見える。私は虹が七色であることを知っている。私の心には希望の虹がある』

 

ノイは大粒の涙を流しながら、ラオス語で歌われた歌詞を訳してくれた。私は心臓が止まるかと思うほど、心が震えた。恐らくはそこに居た全員がそうだったのでないだろうか。この子はこれからどんな人生を送ることになるかは分からないが、ノイと出会ったことは彼女の宝となるだろう。後で聞くとあの子は昨年のノイのサプライズコンサートできれいなドレスを着て舞台に立っていた。それがどんなことなのか、彼女の歌が教えてくれた。

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教育省が学校建設を推進するのは歓迎だが、本当に必要な学校は心の学校だと、つくづく思う。これは日本にも言えることである。