7月20日(木)
エンポリアムで待ち合わせ。しかしパンツと靴下を洗濯する暇がないため、エンポリアムで購入。タイとしては非常に高いのだろうが、久しぶりに質の良い下着を買った気がする。しかしバンコックは暑い。パンツは極めて薄い。 Yさんには明日ビエンチャンに持って行く色鉛筆とノートを頼んでいた。これはボランティアなのだから、自分でしなければいけないのに、つい甘えてしまった。反省。30人分の物資を受領。自然野菜を食べさせる日本料理屋に入ったが、コースが日本円で1500円ぐらい。どうしてバンコックの日本料理はこんなに安いのだろうか??毎回不思議に思う。YさんのアシスタントY女史(現奥さん)にタイ語を習う。中国語、特に広東語に近いものを感じるが、やはり難しい。習うのはちょっと大変だろう。Y女史はタイ東北部イーサンの出身。明日向かうビエンチャンはイーサンとメコン川を挟んだ向かい側。ほぼ同じ文化圏、食事も似ているようだ。何だかビエンチャンが楽しみになってきた。 9時半にホテルに戻る。ところが部屋に入るとエアコン修理のための道具が置かれたまま。フロントに聞くと後30分はかかると言う。この30分は曲者である。部屋を変えるように交渉すると満室だと断られる。私は明日5時起き、しかも昨日風呂に入っていないため、どうしても入りたい。フロントに強行に交渉、更に携帯でYさんを呼び出し、フロントと交渉してもらったが、埒が開かない。この辺がタイののんびりしたところ。最後はホテルを替わる事に。歩いて2-3分、はす向かいのホテルのフロントは小ぎれい。 部屋も広く、ベットも大きい。こっちの方が良いのでは??風呂の湯の出は良くないが、辛抱強く待つことにする。しかしその間に土曜日の約束をしようと先日会ったFさんに電話すると土曜は香港に行くと言う。メーサローンのお茶を渡したいと言うと何と今から来ることに。風呂の湯を溜めたまま外出することに。 Fさんは新しいホテルの場所が分からないので、前のホテルのロビーで待ち合わせ。ところが道が工事中でFさんの到着が遅れる。フロントは不機嫌に出て行った客が舞い戻ってソファーに居座った訳であるから、緊張した様子。Fさんに旅行のあらましを話し、茶を渡す。F夫人は台湾、香港で中国茶を習っており、今回の香港旅行でお茶の先生であるIさんにこのお茶を渡すことに。何だか面白い展開になってきている。ホテルの部屋に戻ったのは12時過ぎ。それから風呂を入れ直し、ようやく寝たのは1時半。 (2)出発 タクシーはメーターを使う。交渉しないで済む。平日の朝は6時半でも既に少し混んでいた。と言っても空港まで30分あれば着いてしまう。前回はチェンライ行きの国内線であったが、今回は国際線。飛行時間は同じなのに空港使用料500バーツを払わなければならないし、チェックインも大分混んでいる。搭乗すると機内は空いていた。西洋人が目立つ。隣にきつい香水をつけた西洋人女性がやって来て困ったが、見ると一番前の席が空いていたので、難なく移動する。快適、快適。一番前だと空港でビザを取るのも有利だ。
ビザを取得してから、今度はイミグレに並ぶ。日本人ビジネスマン、韓国人、西洋人観光客などでビザを持った者(タイ人はビザ不要??)が前にいたので、結局は30分以上掛かってしまった。しかし10年前に行ったカンボジアのプノンペンを思い出すとかなり効率的な対応と思われる。 2.ビエンチャン 今回はYさんのアレンジであるが、一人の為にガイドをつけるのは贅沢である。しかも車(トヨタのバンで新しい)まで。早々に街中へ。先ずすることは帰りの航空券のリコンファームである。昔の中国や現在のミャンマーを思い出す。現物をオフィスに持ち込む。 小川があり、並木道がある。僅か10分でホテルに到着。これがなかなか予想外に洒落たホテルである。ブティックホテル、グリーンパークはロビーもきれい。そして何より従業員の愛想が良い。『サワディー』と笑顔で言われると思わず微笑み返してしまう。 ロビーは気持ちよい吹き抜け、中庭は真ん中にプールがあり、その周りを2階建ての建物が囲う。南国風の椰子の木、所々に配置された水。このホテルの一角だけが別世界である。部屋の中は広く、新しい。そしてシック。薄暗い中に心地よいライトアップ。ベットも大きく、快適そう。更に浴槽が深い。スパをイメージしている。エアコンは自動的に調節されている。バルコニーも付いている。うーん、プーケット辺りにあるリゾートホテルのようだ。ラオスにしては意外な展開。
(2)昼
昼ごはんはフレンチレストラン、ナーダオへ。ここは有名な店のようだ。凱旋門の直ぐ近く。公園の前にひっそり建っている一戸建て。室内はラオ伝統の建築。私の為に一人用のテーブルがセットされている。ガイドは連れてくるだけである。詰まらない。
ここのオーナーはラオ人。但し革命でフランスに亡命、フランスで修行を積んだ後に最近凱旋帰国してあっと言う間にビエンチャン一のフレンチ店となった。ランチのコースは6000k程度。スーツを着た西洋人が一人やって来て、やれやれと言った表情でパンを頬張る姿がこの店の力を現している。 かぼちゃのスープ、牛肉の煮込み風ステーキ、フルーツポンチ。上品な味である。そして予想通りパンが美味しい。フランスの植民地はパンが美味しいのである。飲み物は冷たいレモングラスティー。ほのかに甘い。食後のお茶は桑の葉茶、ティーパック。ポットに入ってくるのだが、うーん、味が薄い。日本語のフリーペーパーが置かれている。見てみると主なレストランの宣伝が中心。日本料理屋も何軒かあるらしい。パクセーと言う場所は世界遺産に指定されているが、この近くではお茶が採れるらしい。 (3)観光
尚真下は何故か風が吹き抜けて実に気持ちが良い。ゴルゴは言う『ここは昔から涼しい場所だ』。前に池があるからだろうか??テーブルではバイクタクシーの運転手達が王冠を使って将棋??に熱中していた。憩いの場所なのであろう。
②ホープラケオ
この博物館には全国から仏像や遺品が集められている。伽藍に置かれた仏像は殆どが目を刳り貫かれている。そこには翡翠など宝石が嵌められていたのだ。痛ましい。仏像は全体的に柔らかい。石碑も並んでいる。読めない文字が書かれている。
庭の向こうには旧大統領官邸、現在の迎賓館が見える。フランス風の建物であるが、如何にも古い。 ③ワット・シーサケート
庭には大小の仏塔がある。飾りかと思っていると全てがお墓だと言う。見れば写真が埋め込まれたものもある。お金持ちが多額の寄進をすると作れたらしい。現在は場所がなくて作ることは出来ない。鐘楼もある。しかし中には鐘ではなく鼓がある。毎日この鼓が鳴らされる。
④タートルアーン 中は広々している。その起源は3世紀まで遡ると言われているが、セタティラート王が1566年に建造を開始したらしい。これはルアンバパーンからビエンチャンに遷都した直後のことだ。王の遺言で建物の前の広場には王の像が鎮座している。何ともユニークな感じで座っている。
毎年盛大な祭りがあり、全国から僧侶が大量にやって来て、回廊に寝泊りしている。その場所取りが大変だと言う。3日間泊り込むとなると本当に大変だ。暖かいとはいえ、老僧などは大丈夫なのだろうか??現在脇に大講堂が建設中。出来上がればここに泊れるようだが、資金確保がままならず、いつ完成するか分からないようだ。(既に建設開始から5年経っている)
ゴルゴが突然女性に手を振る。向こうも振り返す。何と日本人。彼女らはJICAのプログラムでやって来て田舎にホームステイした看護士たち。ゴルゴも彼女らに着いていき、一昨日行動を共にした。一緒に一泊して仲良くなったらしい。
⑤タラート・サオ
たこ焼き器やホットケーキプレートがある。美味しそうなパンケーキが出来上がる。フランスパンも売られている。ここは観光客用の市場なので野菜などは売っておらず、直ぐ食べられる物を扱っている。
モン族の悲劇、アメリカに加担した右派モン族とパテトラオに組したモン族が同族で戦う羽目になり、最後はパテトラオに追い詰められた右派モン族が大量虐殺されてしまう。その後民族間がギクシャクしたため、政府は同一民族の共同を強調したのである。しかしこれは如何なものであろうか??
現在は西洋人とのハーフであるアレキサンドラという女性歌手の人気が高い。彼女のCD を見てビックリ。何とスポンサーとしてトヨタの名前がある。私のお目当ての歌手のCDは何とか1枚あったのみ。明日はどうなることやら??
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「アジア旅」カテゴリーアーカイブ
《昔の東南アジアリゾート紀行》‐2004年ハノイ
《ラオス散歩2013》(11)ルアンプラバーン 日中合弁ゲストハウスに出会う
日中合弁ゲストハウスに出会う
そしてまたメコン川へ出た。河沿いをぶらぶら歩く。気持ち良い風が吹くがかなり暑い。あてもなく歩いて行くと、河沿いに駐車している車が目に入る。何と中国雲南ナンバーだった。こんなところにまで、中国人は車でやってくるのか、と写真を撮っていると、後ろから中国語で『中国人か?』と声を掛けられる。慌てて『日本人だ』と中国語で答えると、相手が『え、日本人なのか?』と日本語で返してくる。
何とも奇妙な出会いだった。彼は何と北京出身で日本にも留学経験のある中国人だった。中国生活に飽き、環境の良い、ここルアンプラバーンに移住したのだという。そして彼が『私は日本人と一緒にそこでゲストハウスをやっている』というのを聞いて、興味を覚える。
ゲストハウスは本当に河沿いのすぐそこにあった。日本人もいた。そこへ長老がやってきた。聞けば、華人で中国語が話せるとのことで、早々に話を聞く。おじいさんのお父さんは広東人。『親父は広東から船でハノイへ行き、そこから陸路、カンボジアへ。そしてまた船でメコン川を遡り、ここへ着いたんだ。俺も大学はベトナムのホーチミンへ行ったよ。ベトナムは兄貴分だからな。ずいぶん昔の話だが』。ルアンプラバーンには華人は多くはない。その中でこの老人は華人のまとめ役らしい。
一日1回は立ち寄るという老人が去り、日本語を話す中国人もどこかへ消えていた。日本人Sさんと話し始めた。驚いたことに90年代香港に駐在し、2000年代は上海や青島にもいたサラリーマンが縁あって、ここまでやってきたという。私と似通った部分もあり、話が弾む。
そしてここへ来る前に雲南省のシーサンバンナで仕事をしていたとの話から、先日バンコックのお茶屋で会ったシーサンバンナの不動産屋さんが彼の勤め先であると知り、あまりのご縁に双方驚いた。そんなことがあるのだろうか。彼は今でも時々シーサンバンナへバスで行き、プーアール茶を持ってベトナムへも行くという。まさに昔の物流ルートを行っている。実に興味深い。
昼飯も食わずに3時間も話しただろうか。話は尽きなかったが、時間が尽きた。空港へ向かう時間となり、次回の再会を期待して別れた。
それから急いでホテルへ取って返し、荷物を受け取り、トゥクトゥクを探すが見つからない。暑いから皆昼寝中のようだ。1台のソンテウが停まっており、聞くと6ドルで行くというので乗り込む。空港までは20分ぐらいで着く。
ルアンプラバーンの興味深い旅も終わった。ラオセントラルで一端ビエンチャンへ戻り、国内線から国際線のターミナルへ移動し、再度チェックイン。乗り継ぎ時間は1時間しかなかったが、そこはローカル空港。何事もなく、バンコックへ戻った。
《ラオス散歩2013》(10)ルアンプラバーン 托鉢に思う
9月29日(日)
托鉢に思う
翌朝も早く起きた。外が明るくなっていたので、ホテルの前に出ていくと、各家の前に女性たちが出て、托鉢のお坊さんを待っていた。この光景はミャンマーで見て以来。何となく、好ましく思い、お坊さんの一団について歩く。
相当数のお坊さんが歩いてくるので、ツボの中にご飯やお菓子を入れるのも忙しい。ここでは毎日こんなに大々的に托鉢をしているのだろうか、などと考えていると、向かいのおばさんが手招きする。こっちにきて、お前もやれ、という仕草だ。
おばさん3人ぐらいがやってきて、次々に渡す物を置いて行き、お坊さんにあげる仕方を教えてくれる。本当にスピードが速い。お坊さんの歩くスピードに追い付かず、四苦八苦。お坊さんの中には小坊主もかなりいる。こんなに托鉢を受けてどうするんだというほど、抱えている子もいた。
ようやく一団が通り過ぎ、辺りが平穏になると、おばさんが手を出してきた。確かにお坊さんにあげる品々を貰ったのだから、おれをしなくて行けないと、5ドルを取り出すと『20ドルだ』といきなり英語でいう。これには参った。いつもなら『そんな話はしていない。そんな高いはずはない』などと口論になるところだが。
その時、ちょっと怒っている自分に向き合う自分がいた。『確かにこのおばさん達はいいことはしていない。この托鉢自体が一種の観光イベントであり、宗教的には疑問もある。だが私自身の気持ちはどうなんだ?』そしておばさんに黙って20ドルを渡し、合掌して去る。おばさん達は一瞬きょとんとしていた。
そしてホテルで気持ち良い朝食を取り、少し横になる。庭でPCをいじり、時間を過ごしたが、今日の午後にはバンコックに戻る身であり、再度街をぶらつくことにする。先ほどの托鉢の終点は、ワットシェントーン。実に立派なお寺だった。拝観料を払う必要があったが、時間が早すぎ、誰もいなかったので、外から写真に収めて去る。
《ラオス散歩2013》(9)ルアンプラバーン プ―シー山の夕陽
プ―シー山の夕陽
そしていよいよハイライト?博物館前の道を上る。小高い丘、プ―シー山から夕陽を眺めるためだ。観光客と思われる欧米人、中国人、韓国人、インド人などが続々と登っていく。階段はかなりあり、途中に入場料を支払う場所がある。そこまでたどり着くと、一休みせざるを得ない。体力の低下が懸念される。
既に陽はかなり傾いていたが、それでもある程度の高さを保っていた。頂上まで登りきると、そこには堂があり、タイ人が熱心に祈りを捧げていた。それが本当だろうが、我々一般観光客は夕陽にしか関心がない。
陽が落ちる様子を見るに適した場所は既に人で埋められえていた。皆がカメラを構えている。私も構えているのだが、何だか滑稽に思えてくる。せっかくきれいな夕陽が落ちていくのに、この目で見ないでファインダーを通して見る、脳裏に焼き付けないでカメラに焼き付ける、何で?
そして夕陽はスルスルと落ちて行った。シャッターは何度も切ったが、これはという写真は遂に撮れなかった。まあ、そうだろう。皆が山を下りる前にそそくさと下山した。混雑は余韻を妨げる。
観客の少ない民族舞踊
勢いよく下りてくると、目の前に昼間行った博物館がある。そうだ、あそこで民族舞踊があったなと思い出し、そのまま行ってみることに。建物には人が殆どおらず、チケットを買うと、おじさんが『エンジョイ!』と言ってくれたが、2階の会場には誰一人観客がいなかった。ちょっと緊張。
その中で民族楽器を奏でる人々が何事もなかったように演奏している。そして開演の少し前にフランス人の老夫婦が入ってきて、ほっとする。それからドイツ人が入ってきたところで、さっきのおじさんが司会者として登壇。流暢なフランス語、英語で話し始める。そこへ中国人団体客が10名ほど、ガヤガヤやってくる。
舞台では民族舞踊があり、ラーマーヤナの一節が軽快に演じられるなど、本格的であった。これはラオスのトップクラスのスタッフの舞台なのだろう。だがあまりにお客が少なすぎる。モチベーションを維持するのも大変なのではないか。
中華な夕食
舞台が終わり、既に8時を回っていた。夕飯はどうするか、ガイドブックに中国料理屋が載っていたので、そこへ行ってみる。が、暗いこともあり、なかなか見つからない。段々面倒になり、適当な店へ入り、炒飯を注文した。
お客は殆どおらず、イングランドプレミアリーグのサッカー中継を見ながら、食べた。味は本格的な中華だった。よく見ると店員も中国系の顔をしている。実は探していた店はここだったのではないか、と思いながら、言葉が通じないこともあり、早々に退散した。
《ラオス散歩2013》(8)ルアンプラバーン お寺巡り
カオソイ
それから街をうろつく。天気が良く、日差しは強いが、さわやかな感じが何とも心地よい。ルアンプラバーンは基本的にメコン川とお寺の街。歩けばどこでもお寺のぶつかり、川にぶつかる。川から吹く風が心地よい、ということだろう。
フラフラしていると、両替所があり、ここのレートが良いので両替する。観光地と言いながら、意外と米ドルを受け取らない所もある。人民元の両替レートが特によいように感じられる。歩いても中国人が多いようには見えないのだが。因みに両替所の女性は英語が苦手のようで、小学生ぐらいの彼女の子供が応対してくれるのが面白い。
小さな市場に紛れ込む。この辺にカオソイ屋があると聞いてきたのだが、既に店じまいしていた。朝早く来ないとダメ、明日来て、と言われる。市場では野菜などを売っていたが、バイクで来たおばさんが『わさび』と日本語で言ったのには驚いた。そして店の人も日本のわさびを取り出していた。
カオソイがないと言われると急に食べたくなるものだ。ホテルの近くまで戻り、ローカルなお店に入る。一応英語が書いてあり、何とか意思は通じた。まるで時間が止まったようなテーブル、そしてそこで食べている人々、不思議な空間であった。出てきたカオソイも上の空で、その空間に浸ってしまった。
街歩き ワットルアン
ホテルで一休みして、また歩き出した。今度は博物館へ向かう。街の真ん中の立派な建物だった。往時の繁栄を偲ぶ品々が展示されていた。そうここは古都なのだ。昔は王様がいたのだ。だが今は誰もいないような静けさ。博物館の横には何やら立派な建物が。こちらは劇場のようで、夜にはショーがあるらしい。暇があったら来てみようと思うが、チケットは買わないで様子見。
それから地図も見ずに歩く。歩けばお寺があるので、フラフラ入り、またフラフラ出る。面白いほどにお寺に行きあたる。そして街外れの外れまで来ると、ワットルアンという寺にやってきた。
このお寺、なかなか雰囲気が良い。かなりの古さもさることながら、仏塔にしがみ付く?仏像など、ユーモラスな仏が見られる。新しい本堂と古い仏塔のコントラスト、何だかルアンプラバーンを象徴しているようだ。しばし休息して眺めると、陽が少しずつ西へ傾く。
更に街中に戻りがてら、いくつかのお寺を見学。仏塔や本堂の形に変化がみられ、面白い。さすがに暑い中、3時間も歩くと疲れ果て、メコン川沿いのカフェで休息。カフェと言っても、河沿いにテーブルといすを置き、川を眺めるだけ。でもそれが良い。疲れた体が糖分を欲しがり、思わずコーラを注文。何と料金は100円、この景色を眺めるには安い。
《ラオス散歩2013》(7)ルアンプラバーン メコン川を独り占め
9月28日(土)
リラックスできる朝食
翌朝は実にさわやかに起きた。理由は不明だが気分がいい。前日の軽い食事、あまりPCを見ない生活、そしてこの地の豊かな自然、静かな環境、どれをとってもリラックスできる要素だった。
鳥のさえずりに誘われて、朝食は庭で取る。美味しいパンに、新鮮なフルーツ、アツアツのオムレツ。爽やかな朝にピッタリだった。このような爽やかな、そしてリラックスできる朝を迎えることに感謝した。
食後日差しが強くなり、暑さが予感されたので、先ずはゆっくりコーヒーを飲みながら、PCに向かって旅行記を書く。そのままずっと座っていたいほど居心地が良かった。いきなりドイツ人、いやオランダ人かなと思われる女性が『気分はどう?』と聞いてきた。『抜群』と答えると笑顔で他のテーブルへ。彼女はこのホテルのマネージャーだった。お客もヨーロッパ系が多く、彼女にこの仕事はぴったりだと思われた。
ボートトリップ
ホテルの中庭にも飽きてきた頃、メコン川でも眺めようと出掛ける。何をするでもない、あてもなく散歩した。突然河沿いで『ボートに乗らないか』と声を掛けられた。いつもならやり過ごすのだが、あまりに暇だったので、そのニーちゃんの話に付き合ってみた。
『お客がいないんだよ、今は。だから8ドルでメコン川クルーズに連れて行くよ』と言われ、それなら時間潰しにいいかと、着いて行く。彼は川に下りる。20人ぐらい乗れそうなボートが目の前にあった。これを貸し切りで使った。まさにオフシーズン。
メコン川に出ると青い空、広い河、眺めがよかった。雲の形と山の形が妙に調和していた。行き交う船も少なく、本当に広々していた。先ずは対岸の寺へ向かう。石段を登るのに一苦労したが、小高い丘の上には古い寺があった。更に案内の子供について歩いて行くと、洞窟があった。彼らは懐中電灯で中を照らした。何か神々しい感じがした。
それからまたボートに乗り、川面から景色を眺める。向こうの丘に雲が低く垂れこめ、独特の情景を作り出す。若いお坊さんが川に入り、泳いでいた。魚を取る漁師もいた。ボートはあてもなく、ゆっくり、ゆっくりと流れていく。こんな時間は永遠であっても誰も文句は言わないだろう。
1時間の約束が過ぎた頃、ボートは岸に戻った。これで8ドルは安いと思ったが、その金額を渡すと、ニーちゃんはにこりとして受け取り、足早に去って行った。いい小遣い稼ぎだったのだろうか。彼はお客のいない川を離れ、またバイクタクシーの客引きに戻っていた。
《ラオス散歩2013》(6)ルアンプラバーン 静かな街で気分転換を
2. ルアンプラバーン
ローカル空港
そしてランチもご一緒し、F夫人に空港まで送ってもらい、ルアンプラバーンへ。実は最近愛用していたパソコンが突然壊れ、かなりのショックを受けていた。このような時には気分転換が必要と言われ、今回2日間の空き時間を利用して、『癒しの空間』と言われるルアンプラバーンを訪ねることにしたのだ。
ビエンチャン‐ルアンプラバーン間にもラオセントラル航空が飛んでおり、それを選んだ。ただ料金は直前の予約だったせいか、バンコック‐ビエンチャン便より高かった。ラオスで国内線に乗るのは初めて。ターミナルも国際線の横の簡素な建物、搭乗時間の30分前にならないと、セキュリティチェックへ進めないようなローカル空港だ。搭乗は歩いてタラップへ。昔の中国を思い出す。飛行時間わずか30分、あっという間にルアンプラバーンに到着した。
空港から市内へ行くバスなどないかと探したが、全くなかった。仕方なく、空港タクシーで行く。7ドル、高いのか安いのかよくわからない。河を越えて、街に入る。河沿いにホテルなどが見えたが、私が適当に予約したロータスビラは河沿いではなかった。
ロータスビラ
ロータスビラはシンプルな造りのブティックホテル。清潔感があり、フロントの対応も悪くなかった。部屋は中庭に面していたが、一人なら十分の広さ。ゆったりとしたベッドがあり、寛げた。WIFIも完備されており、もしこれで机があれば完璧だった。欧米人客が多く、彼らは庭にあるテーブルでPCをいじっていた。
これからか2日間、私には何の予定もない。ここに来た目的も気分転換のみであり、何かを見るつもりもなかった。ただ静かな街なので、先ずは様子を見に外へ出た。メインストリートは直ぐに分かり、観光客向けのカフェや土産物屋が並んでいたが、客は少なかった。オフシーズンらしい。
土産物を売る露店のマーケットが店開きをしようと準備していたが、そんなにお客があると思えない。夜にもう一度歩いて見たが、本当に寂しい状況だった。それでも店を開けていく必要があるのだろう。子供たちが元気に遊んでいるだけだった。
夕飯を食べる気力もなく、バンミーを買って食べた。これはベトナムで食べるのより美味しいような気がした。部屋に戻り、シャワーを浴びてちょっとネットを見ていると眠くなり、すぐ寝入る。そんな静かな夜だった。
《ラオス散歩2013》(5)ビエンチャン ラオス経済危機の兆し
メコン河レストランから焼肉へ
夜は4人でメコン川沿いのお洒落なレストランへ行った。観光客向けで、とても雰囲気が良く、欧米人も多くいた。メニューを見て、注文を終わると、ノイの携帯が鳴る。何と、昨日のメンバーが今日も一緒に食事をしようと、別のレストランで既に待っていたのだ。
このおしゃれなレストランでも是非食べてみたかったが、こうなるとそちらへ行くしかない。ノイは慌てて注文を取り消し、我々は街中の焼肉屋へ向かう。そこでは面白い形の鍋に肉を入れ、低くなった鍋のふちにたまった汁で野菜を煮て食べていた。これも面白い。
皆陽気に食べている。1つのプロジェクトチームの結束を高めるにはよい。Kさんはお得意の『ナイトイングリッシュ』を披露して場を盛り上げる。これからどんな進化が得られるのだろうか。
一端ホテルに戻り、Kさん、Mさんと一杯飲みに出かける。私の旅では稀なことであるが、ビエンチャンの夜を見るのもよい。1軒のバーに入ると、そこはライブハウスにもなっていて、欧米人が歌を歌っていた。雰囲気は悪くない。ジントニックを飲みながら聞く。
ふと見ると向こうのテーブルにビエンチャン在住のM氏が楽しそうにお酒を飲んでいた。彼とは前回ビエンチャン茶会開催で合意していたが、今回はこちらの都合でキャンセルしてしまっていた。何となくバツが悪い。どうらやビエンチャンは狭い世界のようである。このメインストリートの一角以外は暗く静かな街がある。
9月27日(金)
ラオス経済 危機の兆し
翌日はお茶会開催を待っていてくださったFさんご夫妻と会う。F夫人によればビエンチャンの日本人の間では婦人会のようなものがあり、定期的な集まりがあるそうだ。次回はこちらを基盤にお茶会をしようということに。
ご主人はラオスへの観光を促すお仕事をしている。日本人がラオスを訪れる割合はカンボジアなどと比べるとまだまだ少ない。ラオスには豊富な観光資源があるが、知られていないと嘆く。
F夫人の言った一言が気になった。『最近現地通貨キップから米ドルなど外貨への両替が出来なくなった』と。これはラオスの経済にとって危険な兆候ではないか。中国経済に依存しているラオス、その中国が減速し、かつ隣国タイの経済も思わしくない。小国ラオスは苦しんでいるかもしれない。
⇒ラオス関連コラム http://www.chatabi.net/colum/67.html
《ラオス散歩2013》(4)ビエンチャン 私の心には希望の虹がある
私の心には希望の虹がある
その後ノイは我々を政府機関に連れて行った。古びたビルの4階まで足で登る。教育省だった。若い担当者が相手をしてくれた。今回のプロジェクトの1つは学校を作ることであったが、『コミュニティに還元できるような学校であれば計画書を持ってきてくれればすぐにでも認可する』といわれ、唖然とする。
ラオスで学校を作ることは非常に厳しく制限されていると聞いていた。社会主義国家であれば特にそうであろう。それがなぜそんなことに?『ラオスでは今新しい試みが必要だ』と担当は言う。だが聞いた誰もが『実際に申請した時に、すぐに認可してくれるとは思えない』と口々に言う。そんなところだろうか。それにしても、ラオスも少しずつ動いてきているのかもしれない。
それから我々は盲学校を訪ねた。病院に付設されており、広い庭があり、そこでは目の見えない子供たちが共同生活を送っていた。ノイはここで歌の指導をしているという。単に自分の学校を開くだけでなく、縁があるところへはどこへでも行って、自分のできることをしている、ノイの活動には感心させられることが多い。
沢山の子供たちが集まってきて、ノイに触れようとしている。彼ら、彼女らは目は見えないが、ノイが感じられる。手と手が触れ合うこと、それが如何に大切であるか、抱きしめてあげることが如何に大切であるか、を教えられる。
一人の少女が進み出て歌を歌うという。彼女には眼球がない。この子はこれまで一体どんな人生を歩んできたのだろうと思っていると、信じられないほど澄んだ声で、堂々と歌い始めた。
『私の目には見えないが、私の心には虹が見える。私は虹が七色であることを知っている。私の心には希望の虹がある』
ノイは大粒の涙を流しながら、ラオス語で歌われた歌詞を訳してくれた。私は心臓が止まるかと思うほど、心が震えた。恐らくはそこに居た全員がそうだったのでないだろうか。この子はこれからどんな人生を送ることになるかは分からないが、ノイと出会ったことは彼女の宝となるだろう。後で聞くとあの子は昨年のノイのサプライズコンサートできれいなドレスを着て舞台に立っていた。それがどんなことなのか、彼女の歌が教えてくれた。
教育省が学校建設を推進するのは歓迎だが、本当に必要な学校は心の学校だと、つくづく思う。これは日本にも言えることである。