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《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》バンコック、香港ー中国との違いを知る

4.バンコック

5日目。バンコックに向かう。何せ行く予定に無かった場所に急に行くのだから、戸惑ってしまう。飛行時間は僅か1時間。シンガポール航空を堪能する間も無く、到着。チャンギ空港と違って、バンコックの空港はごちゃごちゃしていた。かなり蒸し暑い空港と言う印象がある。何とかホテルカウンターに辿り着き、車を手配して貰う。でもなかなか来ない。どうも余り合理的ではない国のようだ。

漸く乗り込むと数人の客の相乗り。道に出るとシンガポールとは大違い。シンガポールは道もしっかり舗装され、綺麗な風景だが、バンコックは寧ろ中国に近い感じがした。田園、バラック小屋、のそのそ牛が歩く。1時間近くして市内に入ったが、各ホテルを回る為、何時になっても着かない。その内運転手が市内ツアーのパンフレットを出して、しきりに勧める。どうやらツアーに入らない旅行客と見て、商売を始めた様子。こういう手合いに係わらないようにするのが鉄則と思い、断り続けるが、その分ホテルに到着しない。最終的に2時間後に漸く開放された。暑いし疲れた。

その夜、ホテルのツアーカウンターで明日の予約をする。可愛らしい女性が丁寧に応対する。さっきとは大違いだ。気分が良くなり、勧められるままに予約したところ、4つのツアーを1日でこなすことになってしまった。

6日目。朝の水上マーケットツアーに参加する為、5時半にロビーへ。誰もいない。どうしようと思っていると昨夜の女性がにこやかにやって来る。車は普通の乗用車。説明では、4つ回るには団体と一緒では無理、と言うことらしい。兎に角可愛いガイドさんといっしょなので即座にOK。

水上マーケットはバンコックの中心を流れるチャオプラヤ川を遡り、支流に入ったところに市場があり、また川に無数の小船が出て、船の上で物を買ったりするところ。バナナを買ったり、帽子を買ったり。中国並みの安さだったが、きっとこの国の水準からすれば高いものを買ったに違いない。朝の気持ちの良い風に吹かれて、情緒はたっぷり。観光市場なのだ。でも、川は綺麗とは言えない。

その後休む間も無く、王宮、ワット・プラケオ(エメラルド寺院)、ワット・ポー(涅槃寺)を訪れる。ワット・プラケオは王宮の一角にあり、高く洒落た建物だ。中には大きくはないが翡翠で出来た本尊がある。タイの人々も信仰心が厚く、熱心にお祈りしている。その脇で観光客、特に日本人が大声で話をしているのは恥かしい限りだ。私は時折日本人でない振りをすることがある。中国ではこれが通じるが、タイでは一発で見抜かれる。

ワット・ポーはその名の通り、涅槃仏がある。かなり大きい。奈良の大仏が横になったようなものだ。タイ語は難しくて全く読めないが、寺では時折漢字が目に入る。寺は全て靴を脱いで上がる。中国の寺には無い習慣であり、新鮮な気持ちになる。

実は本当に行って見たい寺は、ワット・アルン(暁の寺)であった。残念ながら、コースに入っていないと言う。ワット・ポーの対岸にあるので、川沿いに眺めたが、よく見えなかった。『暁の寺』は中学時代に読んだ三島由紀夫の名作。最後の作品4部作の3番目だ。三島は輪廻転生を信じていたようで、4部作でも主人公が転生していき、3人目がタイの王室の人間と言う設定だったと思う。三島はどんな気持ちで、暁の寺を書いたのか、バンコックの暑さの中で微かに思った。

昼はチャオプラヤ川沿いの水上レストランで食事。多分日本人向けに辛く無いものを注文してくれたのだろう。美味しく食べた。川を眺めながらの食事は暑さを忘れさせた。食事を終えて外へ出ると、時間が止まったように暑い。運転手が車のバンパーを叩く。何をしているかと見ていると、下からのそのそと猫が出てくる。暑さのため日除けをしていたのだ。長閑な光景。

午後はローズガーデン、スネークファームなどを見学。ローズガーデンでタイ舞踊、タイ式キックボクシング、闘鶏を見学。確か生きたトラと記念写真を撮った。観光用と分かっていても怖かったが、トラのほうは平然としている。途中で象のサッカーを見せるところへも行った。象が人々の中に生きている感じはあったが、なんだか可哀想にも思えた。

ローズガーデンはバンコックから30kmは離れているので、往復すれば半日が過ぎる。帰りはぐっすり寝込んだ。夜ホテルの近くのビアガーデンでビールを飲んだ。夜風が気持ちよかった。

バンコックには子供の物乞いが多かった。皆路面に座り込んでいる。当時中国は『乞食と娼婦はいない』と言われる社会主義国。実際には多少はいたが、何故タイはこんなに慈悲深い(深そうな)国家なのに、このように貧しいのか?我々は彼らに何か出来ることがあるのか?中国は社会主義と何度もいっているが、本当の社会主義国家は日本ではないのか?その頃そう思い始めていた。平等、の名の下に個人の富は制限される。中国は貧しい社会主義、日本は豊かな社会主義。(実際には中国は幹部、軍の汚職に相当蝕まれ、日本も政府、政治家、役人などに蝕まれていたのだが)

5.香港、マカオ
7日目。香港に移動。バンコックは初めからおまけであったので、あまり期待していなかったが、中華世界と違う場所を経験できたことは良かった。香港カイタック空港へ降りた。聞いてはいたが、凄まじい光景だった。ビルを掠めて飛行機が降りるなど想像できない。雲南のプロペラ機も怖かったが、こちらは文明社会だ。国際空港なのにタラップを降りる。汚水の臭いがする。とても文明的ではない。

同行しているYさんの同僚が香港におり、出迎えてくれた。空港内はやはりごちゃごちゃしていた。迎えが無ければバンコック同様迷ったことだろう。ここは中国なのだろうか?私はその後香港支店に行き、大学の先輩Tさんに会う。香港島に入ると高くて立派な建物が増えた。金ぴかのビルに東京銀行の文字も見える。これぞ香港だ。支店のあるビルもとても立派に見えた。階下にはブランドショップが並んでいた。何しろ上海から来たのだ。何を見ても立派に見える。

その夜Tさん宅に泊まる。家族はまだ赴任していなかったので、遠慮なく泊まる。Tさん宅はブレーマーヒル、まさか4年後に私がここに住むことになるとは思ってもいなかった。

8日目。朝起きると香港とは思えない鳥のさえずり。ここブレーマーヒルは香港島の高台にあり、広い敷地内に大きな公園もあり、後ろは山。静かな場所であった。Yさんと合流し、マカオへ。同僚の人がマカオ1泊旅行をアレンジしてくれていた。香港島からフェリーに乗り、1時間。フェリーはあまり揺れることも無く、到着。呆気なく英国領香港からポルトガル領マカオへ。日本では考えら得ない移動だ。

降りるとタクシーが待っているが、言葉が通じない。マカオは陸続きで広東省と繋がっているので、北京語は可能だろうし、観光地だから英語でもいけそう、と思っていたが、意外にもここは香港の出先に過ぎず、広東語圏。ショック。ポルトガル人も殆ど見当たらない。おまけにタクシー乗り場の物乞い(タクシーのドアを引くだけ)にチップをせがまれ、パタカ(マカオの通貨)の小銭を出すと、指で弾いて返して寄越す。通貨まで香港ドルなのか。両替など全く不要。寧ろパタカを持つと自動的に価値が下がってしまう。

運転手と何とか交渉し、3時間の観光を行う。セドナ広場、モンテの壁、砲台、教会などを見て回る。何処も古い建物で、歴史的な意味はあると思うが、観光として如何なものか?と言った感じ。

ホテルは第一ホテルのスイートルーム。なかなか良いホテルを格安で押さえてくれていた。感激。夜はポルトガル料理(マカオ料理)を食べに行ったが、さして美味しいとは思われない。やはりポルトガルは貧しい国なのか?

食後リスボアホテルのカジノへ。観光名所なので見学に行ったが、その活気には驚いた。平日だと言うのに多くの人がカジノにいた。香港から来たと思われる広東語を話す人も多い。彼らは平常何をしている人なのだろう?

取り敢えず何をしてよいか分からず、スロットマシンへ。これは香港ドルのコインをそのまま使えるので挑戦。何回目かでかなりのコインが出てきたが、何が当たったのかも分からない。夢中で全部使ってしまった。内側の会場ではブラックジャック、ルーレットなどが行われていたが、何よりも見慣れない『大小』と言う遊びが大人気。ようはサイコロを3つ転がして、10以下なら小、11以上なら大。簡単な遊びだが、これがなかなか奥が深く、連続して勝てない。

最初は恐る恐るやっていたが、その内面倒になり、千香港ドル札を大に賭けたら、大当たり。2千ドルになった(お姐さんが100ドルをチップとして取り上げて返してきた。)ので、もう一度2千ドルを賭けたら、また大当たり。4千ドルになり、そこでやめた。当時の4千香港ドルは中国で半年は暮らせる金額。気が付いて時計を見ると既に午前2時。実にカジノとは恐ろしいところ、時間を忘れさせる。ホテルの外に出るとこんな時間に人がウロウロしている。たいした金額を稼いだわけではないが、何だか襲われるような気分になり、直ぐ近くの第一ホテルまでタクシーで帰った。

9日目。香港に戻る。香港ではピーク、レパルスベイなどに行ったが、印象に残っていない。印象に残っているのは、『大丸』だけだ。兎に角大丸には感激。何でもある。本もあれば日本の食料品もあり、居るだけで楽しい。今で言えば、大陸に住んでいる日本人がユニーに行って感激するようなもの。因みに後に我が家も北京より旅行で来てユニーで棒立ちになったのはつい最近のこと。

でも当時日本関係のものが何も無い上海から出てきた人間にとっての大丸は正に衝撃。確か毎日3時間は大丸の中を歩き回っていたような気がする。

10日目。支店に挨拶に行く。私は社会人生活の経験が1年しかなく、日本のことはよく分からないが、この支店は広くて恵まれているなと思った。また香港人スタッフの中にはTシャツ、ジーンズといったラフな服装の人も居て、自由な雰囲気があった。

支店の中国担当のAさんは上海華東師範大学の留学経験があり、重要なアドバイスをしてくれた。『中国は広い。北京語といえども訛りも強くて、地域によって大いに差がある。更に行ったことがあるかないかは、業務上決定的な差となる。是非とも上海に篭らず、中国各地を旅行することを勧める。』というもの。この話は後に大変参考になり、また実際大いに役に立ったのだが、その時は『上海を抜け出す絶好の口実』として、喜んで聞き入れたものだ。

11日目。愈々上海に帰る日が来た。空港に向かう前に大丸でどら焼きを30個買う。皆へのお土産だ。荷物は上海を出てきたときの数倍になっている。大きなバックが2つ。小さなバックが2つ。どら焼きを入れた袋を何とか持つ。

空港で超過料金を取られた記憶は無い。空港での唯一の記憶は、バスで飛行機に向かう場面。当時カイタック空港はタラップを使って搭乗するパターンが一般的で、タラップまではバス。このバスに乗った瞬間、なんとも言えぬ気分になる。『刑務所に護送される囚人はこんな気分なのかなあ』と思う。私の資本主義生活は終わる。

上海空港に着くとこの気分は更に悪くなり、唯の抜け殻となる。我々は何と資本主義、物質主義に毒されていたのだろう、などとは決して思わない。ただただ『あの素晴らしい日々をもう一度』と願うのみであった。

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》シンガポールー資本主義世界への逃避

〈6回目の旅-1987年2月シンガポール、バンコック、香港〉
―資本主義世界への逃避

1.留学生ビザ

中国に留学した当初、私たちがどの様なビザで入国したかについては、あまり関心を持たなかった。兎に角早く留学期間を終えて、日本に戻りたかった。指折り数えて待つ状態だったのだ。ところが旧正月休みの前になると皆そわそわし出した。何とかしてこの社会主義中国から一時的にも脱出する道を探り出したのだ。今では笑ってしまう話だが、本当に真剣だった。私は寿司が食いたくて、香港に行く道を選んだ。香港には支店に1年先輩が居て、面倒を見て貰えると考えていた。(日本に帰ることは会社から原則許されていなかった。)

ある日とうとう先輩に電話した。そして愕然。『香港は今コレラが流行っているので、なま物は食べられない』という答え。途方に暮れていると『そんなに寿司が食いたければシンガポールにでも行け』とのお言葉。考えもしなかったシンガポール行きとなった。

ところでビザであるが、留学生のビザは一次ビザ。つまり一度出ると入れないので、今後留学出来なくなる。そこで公安に行き、リエントリーのビザを取ることになるが、当時は出入国が厳しく、噂では業務出張の命令書を持参しないと取得出来ないと言われていた。後で考えると可笑しな話(一般の学生はどうするのだ?)であるが、一部の企業派遣生は本当に出張命令を自ら作成して持ち込んだようだ。但し結局は説明書のようなものがあれば、1-2日で取得できたと思う。

2.準備

航空チケットを買いにシンガポール航空のオフィスへ行く。国外に出るのだから、中国民航に乗る必要が無い。シンガポールへ行くのだから、シンガポール航空、この程度の発想。チケットは上海―シンガポールー香港―上海というラウンドトリップ。当時中国にはディスカウントチケットなど全く無いので、何も考えずノーマルエコノミー。贅沢な話だ。これが後で色々と役立つから旅は面白い。

カウンターのお姐さんが、『ホテルは?』と聞く。中国の旅でホテルを予約する習慣が無くなっていたので、この質問は新鮮。予約出来るならとお願いすると予算を聞かれる。全く考えていなかったので、取り敢えずUS$100と答える。『そんな部屋は無い』、えっ、そんな安い部屋は無いのかと思いきや、『そんな高い部屋は無い』とのこと。やはり上海だ、中国人で高い部屋に泊まる人がいないのだ。そう思った。『US$80でシャングリラというのがありますが?』『それでいいや』とんでもない部屋なら現地で代えるつもりで予約した。恥かしい話だが、その時シャングリラホテルがどんなホテルかを知らなかった。

3.シンガポールへ

2月上旬。心ウキウキ。上海に来て最高に高揚した気分。監獄から釈放される囚人の心境(経験が無いので本当は分からないが)。前日予約したタクシーで空港へ。カウンターを探すのが楽しみ。シンガポール航空のカウンターでチケットを出すとお姐さんがニッコリとして『US$40プラスするとビジネスクラスに乗れますよ』とセールス。そんなものに乗る気は無いが、中国でセールスをされたのが初めてだったので、思わずOKしてしまう。ビジネスっていったいどんなクラス?

座席は恐ろしく広かった。機体は恐ろしく?綺麗だった。そうだよ、これが普通の飛行機さ。離陸する時気が付いた。我々以外に2人しか乗っていない、ビジネスクラスに。 スチワーデスのお姐さんがやってきた。前スリットの例の衣装。ああ感激。しかもこのクラスには4人のスチワーデスがおり、客も4人。しかも我々2人を北京語が話せる日本人(珍しいという意味)として、歓待してくれ、常に2-3人が座席の横でお話してくれる。正にハーレム状態。嬉しかったなあ。食事も美味しかった。

夕方6時間のフライトを経てシンガポールに到着。素晴らしい空港。成田より立派。驚き。入国審査もあっという間。何とシステマティックな国。出口でまごまごしているとさっきのスチワーデスが出てきて、タクシー乗り場に案内してくれる。全てに感激。タクシーに乗り込む。北京語で話しかけられる。何の問題も無い。唯一の気掛かりはホテル。上海で予約したホテルは??運転手がここだと告げる。30分ぐらい乗ったろうか?思わず外を見て『違う』といってしまう。運転手を待たせ(同行者のYさんも待たせ)、ホテル内へ。恐る恐る英語で予約の確認をすると何とある。この幸せは表現不可能。何しろ当時オーチャードロードのシャングリラはシンガポールNo.1。あまりに立派で我々が泊まるホテルとは思われない。

ところが『現在部屋は掃除中でしばらくお待ちください。』と言う。やはりここも中国系か、と思ってしまう。中国でも何回も直ぐに部屋に入れてくれなかったので。ちょっと残念な気分になる。ここまでが良過ぎたのだ。仕方が無い。カウンターのおじさんが『あちらのラウンジでドリンクでもどうぞ。』と勧める。無料らしい。そのラウンジは1Fにあった。ソファーがあり高級感抜群。チャイナドレスのお姐さんにビールを注文。また気分が盛り上がる。クーラーが利いており、ソファーにゆったり腰掛ければ、上海の生活も全て忘れる。お姐さんが膝を着いて、ビールをサーブする。この瞬間を私は一生忘れないだろう。やはり資本主義だ、意味も無く大感激。

部屋にチェックインして、また感激。中国では碌な部屋に泊まらなかったこともあるが、今まで泊まったことが無いような豪華な部屋。これまでの生活を超えた資本主義。夕飯はどこが良いか分からずホテルの日本食屋へ。立派そうなレストラン。兎に角寿司を頼んだが、お姐さんが運んでいるざる蕎麦やてんぷらやおひたし等、目に入ったものを全て追加注文してしまった。酒も飲んでしまった。もう全てが幸せで、先のことなど何も考えられなくなった。これまでの人生で味わったことの無い、快感。4人掛けのテーブルに料理が目一杯並ぶ。とても食べることは出来ないが、あるだけで幸せ。したたか酔った。会計もシンガポールドルのレートも分からず、サインする。翌日よくよく計算してみると2人で5-6万円食ったことになる。中国での数か月分の生活費を一晩で??

2日目。特にすることも無いので、観光。申し込んだツアーが英語ツアーで、マレーシアのジョホールバル行き。1日ツアーだ。バスに乗り込むと我々2人以外全て西洋人。ガイドに一番前に座らせられる。英語が分からず、迷子にでもなったら困るということか、我々を徹底マークする。後ろの席はスイス人だったが、第二次大戦では従軍しマレーシアに駐在したとの事。日本軍は強かった、などと笑っていたが、初めて戦争に触れた気分。

国境を越えるとマレーシア。僅か40分ほど。シンガポール水道を越えると道が急に悪くなる。これが国力と言うものか?色々と考えさせられる。ジョホールバルではランの花園などを見た気がするが、良く覚えていない。土産物屋に沢山いった気もする。我々はガイドの予想通り集合時間に遅れないことのみに神経を使ってしまった。

3日目。昨日に懲りてパンダツアーと言う日本語ツアーに参加。セントーサ島へ行く。我々以外は2組の新婚さん。ガイドの言うことなどまるで聞いていない。勢いガイドの注目は我々2人。日本人で上海に住んでいて、北京語が分かる。彼女が見る初めての日本人だったようで、何と途中から日本語ツアーなのに北京語でガイドする始末。何処でも我々3人が一緒。不思議なツアーとなった。シンガポール人は北京語が出来ることをこの3日で十分理解した。英語も北京語も訛りは強いが。尚セントーサの帰りはロープーウエーで戻る。かなり高くて怖かった。

午後は自分たちでチャイナタウンへ。外国のチャイナタウンは怖いというイメージがあったが、ここはお寺があったりするだけで特に中国を感じなかった。オーチャードロードの伊勢丹や、大丸で日本の本を買いまくる。上海生活で見つけたものは全てその場で買う習慣がついている。昼に食べたカツどんも旨かった。

夕方サンセットクルーズへ。未だ暑かったが、船が出ると風が心地よい。冬の上海から来ると南は良い。水は綺麗とは言えないが、気分は良い。

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クルーズが終わるとその足で会社のシンガポール事務所へ。もう直ぐ支店に昇格するという時で忙しそうであったが、Hさんが夜付き合ってくれる。実はこのHさんが私の留学を上に推薦したと言う噂があり、当時結構恨んでいた??こともあり、寿司をご馳走してくれたが、当然と言った気分があった。場所は確かシェラトンの雲海だった。勿論とても旨かった。

4日目。昨夜Hさんから『実は偉い人が明後日からシンガポールに来られる。何と君と同じホテルだ。悪いけど出て行って欲しい』と言われる。えっ、えっ、何で??そうシャングリラは当時シンガポール最高級のホテル。役員が来れば泊まるホテルに入社2年目が泊まっていては何かと都合が悪い。Sさんの提案は『バンコックにでも行って。シンガポール航空のストップオーバーを使えば無料で行ける筈だから』というもの。飛行機に乗るのにお金が掛からないということが理解できなかった。

シンガポール航空に行って見ると、簡単にバンコック行きのチケットを予約できた。魔法にかかったよう。更にバンコックのホテルも格安で予約できると言う。これは我々のチケットがノーマルエコノミーであった為、かなりの融通が利いたもの。現在普通の旅行する時は、当然ディスカウントを使うので、行き先変更などに制限が出る。昔の映画で西洋人などが急に行き先を変更してリゾート地に滞在したりしているのは、この優雅なチケットのお陰かなと思ってしまう。

ところでこの日は既にやることがなくなっており、昨日ツアーで訪れたセントーサ島でゴルフをすることになった。日本でも2度しかコースに出たことが無かったのに、昨年北京で風呂に入りたいばかりにコースに出、いままた暇だからと言う理由だけでコースに出る。日本では考えられない、いや日本の生活は何をするにも窮屈だなあ、としみじみ思ってしまう。

セントーサゴルフクラブは南国のゴルフ場の趣がふんだんにある立派なコース。特にアイランドグリーンになっているショートホールは大海原に向かって打つ景色の良いホール。また途中池にボールを入れてしまったら、池の中の鰐(いやは虫類)がむっくり起き上がってきて、驚いたりした。熱帯でゴルフをするのは非常に厳しい。確か暑さで殆ど脱水症状に陥った記憶がある。

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》雲南・四川ー3泊4日列車の旅とこの世の楽園

〈6回目の旅-1987年1-2月雲南、四川〉
―3泊4日列車の旅とこの世の楽園

1. 留学生旅行
私は大学の授業には熱心ではなかったが、大学に所属はしていた。中国の大学は9月始まりの前後期2期制であり、中間には旧正月休みが約1ヶ月ある。1月中旬には旧正月休みに入った。

これまでの数回旅は全て自費。誠にセコイ話だが、1度ぐらい社費で研修旅行が出来ないものか人事部に相談したところ、大学主催の旅行であれば、費用を出してもよいとの返事があり、この旧正月に行われる留学生旅行に参加することになった。この旅行は留学生事務室の先生が同行し、留学生のみが参加できる。今年の目的地は雲南省。費用は計日本円約2万円、全工程12泊程度の旅である。参加者は日本人の他、西洋人、ロシア人、アジア人など様々であった。

2. 雲南へ
1月18日であったと思う。恐らく参加者30人以上が宿舎をバスで出発し、上海駅へ。上海駅は既に何度か利用しており、慣れたものになっていた。夕方出発。今回の車両は硬臥、但し留学生特別の綺麗な車両であった。硬臥は1部屋にベット上中下3段が2つ。6人部屋だ。我々日本人は大人数であり、同国人同士で部屋を占領した。今思えば各国の人間と交流すべきであるが、当時どうも日本的な村社会になっていたのは極めて残念。

直ぐに夜になり、食堂車へ。旧正月前で混雑しており、飯も相変わらず不味い。寝る前には企業派遣生同士で下らない話をして過ごししたが、他の学生は我々より若い本当の学生なので修学旅行気分で大騒ぎする。確か10時頃には消灯になったと思うが、夜中までうるさかった記憶がある。

1月19日、列車の旅2日目。朝から持参のビスケットをかじる。当時の旅行の必須アイテムは、トイレットペーパー1巻とビスケット・カップヌードル。何時何が食べられるか分からない中国の旅で食料は重要。因みにビスケットはマクビティ、ヌードルは日清。トイレットペーパーはトイレの必需品。例え紙があったとしても、新聞紙のような硬いものが多く、多用すると痔を患う危険があるため、柔らかい紙を上海で買い込み乗り込むのである。

ところで窓の外の眺めであるが、前回の江南の旅とは大違いで、何も生えていない荒涼とした台地が続いている。最初は中国らしいなどと尤もらしく眺めていたが、この風景が5時間経っても,10時間経っても変わらない。中国大陸の広さを実感する。と同時に、中学の社会科で勉強した『面積は日本の26倍、但し可耕地面積は僅か5倍』を思い出す。土地があれば良いというものではない。

その内皆やることが無くなり、トランプを始める。所謂『大富豪(大貧民?)』。結局1日中、熱中する。トランプは中国人も好きである。何処からともなく、中国人の学生が紛れ込み、ルールを覚えて輪に加わってしまった。彼も上海の大学生で帰省するところだった。上海でも多くの大学生が我々留学生に近づいてきたが、多くはタバコがほしいとか、人民元を両替したいとか、外国人を利用しようとするものであまりよい印象が無かったが、彼は一生懸命トランプをしており、好感が持てた。

夕飯もカップヌードルで済ませる。夜10時頃、真っ暗な中、大きな岩山が連なっている駅に停まる。桂林だった。いつかまた来ようと思った。この頃には皆列車に飽き飽きしており、争って列車を降り写真を撮った。既に乗車後30時間が経過していた。

1月20日、列車の旅3日目。もう起きあがる気力も無い。私のベットは一番上であったが、天井までが近くて圧迫感がかなりある。仕方なしに下に降りるが、皆虚ろな状態だ。運動もしていないので食欲も無い。日本ではこんなに長い列車の旅は考えられない。よい経験をした、と後では言えるが、この時はもう2度と乗りたくないと思ったものだ。

景色も相変わらず、荒涼とした大地。かなり塞ぎ込んでいた一人が行き成り立ち上がり食堂車へ。心配で付いて行くと、何とご飯を貰いその上からカップヌードルをかけて食べている。『旨い,旨い』冗談で言っているように聞こえず、ぞっとした。

3.昆明
1月21日、4日目。愈々雲南省の昆明に到着だ。予定より3時間遅れて(はっきり言って誤差の範囲内だが、この3時間は長かった)、合計66時間、朝8時であった。ある日の夕方上海を出て、ある日の朝昆明に着いた、という表現が正しい。兎に角全員伸びをした。列車から降りても上手く歩けない感じがした。

さて、ここで2つの班に分かれた。私は先にシーサンバンナを目指すB班となった。A班は何とこれから直ぐにバスで大理を目指す。一瞬気の毒に思ったが、大理には大理石の風呂があると聞いて、そちらに行きたくなった。3日も風呂に入らないのは耐え難いものがあった。後で分かったことには行かなくて本当によかったのだが。

大学の旅行であるから、宿舎もホテルではなく、昆明の大学の招待所であった。B班は即座に招待所に入った。シャワーを探したのは言うまでも無い。だが、『湯は5時』からしか出ないとの答えであった。とてもがっかりしたが、ここは中国、仕方が無い。

頭を切り替えて昆明の町に出る。昆明飯店か雲南飯店か忘れたが、そこの小売部(売店)で冷たいビールを買おうとした。1月とはいえ、昆明は南国で暖かかった。列車の疲れを冷たいビールで癒す、実に日本的な発想。『冷たい(冰的)ビール下さい。』と言ったところ、ここのビールは全てビンで、カンは無い、と言われる。冰は北京語でビンと発音する(その後駄洒落として使用)。結局生ぬるいビールを渡される。彼女にはビールを冷たくする発想は無かったのだ。当時中国で冷えたビールを飲むことは至難の技であった。因みに日本以外ではビールを冷やさないで飲む方が多いと聞いたのは後のことであった。

午後車をチャーターして、どこかの寺に行った。風呂に入るまでの時間潰しだ。山の上にあるその寺は観光地のようであった。運転手も観光客慣れしていて、油断のならない相手であった。隙あらば、金を掠め取ろうと狙っている。普通の地方都市とは少し違う印象を受けた。

早々に招待所に戻り5時を待つ。企業派遣生には暗黙の了解で年功序列がある。5時に年上の2人が先ずシャワー室に向かう。直後悲鳴。『熱い、熱い』。何とお湯は出るが水が出なかった。4日風呂に入っていないので、行き成り浴びようとしたらしい。直ぐに文句を言いに行く。ところがそこのおばさん曰く、『5時に湯が出るとは言ったが、水が出ると言った覚えは無い。』中国人のああ言えばこう言うが始まる。参った。私は最年少、最後に入ろうとしたら、何とお湯も出なくなった。文句を言うと『今日はお仕舞い。』流石に激怒した。責任者を探したところ、うちの先生と談笑中であった。あの時は既に理性を失っていた。行き成り相手の先生に掴みかかろうとした。うちの先生が驚いて止めに入った。この件があったので、その後私は先生の間で札付きとなった。

今日風呂に入れないことはどうにも我慢が出来なかった。今でも我儘ではあるが、当時は皆さんに色々と迷惑を掛けたことだろう。先生に怒鳴り込んだ一件を聞いて、日本人の女性が部屋の風呂に溜めていた湯を使わせてくれることになった。涙が出るほど嬉しかった。この時私は砂漠では暮らせないことを確信した。旅行団に誰がいたか忘れたが、他国人にとって風呂は大きな問題では無いのだろう。誰も文句を言っている人は居なかった。

4.石林
1月22日、旅の5日目。当初の予定では本日シーサンバンナに向け出発するはずであったが、飛行機が明日になり、石林に行くことになった(と思う)。バスで3時間ほど行くと、カルスト地形の景勝地、石林に着く。

可愛らしい赤い民族衣装を着た若いガイドさん(何族かは忘れた)が、案内役として石を説明して行く。若い女性がニコニコして話してくれること自体、上海の漢民族では考えられない時代であり、それだけで嬉しかった。留学生は皆北京語力を試すと称して、盛んに話し掛けていた。少数民族とは漢民族に圧迫されてきた民族なのである。彼女たちがにこやかなのも抑圧の歴史の結果生まれたものではないか?

話に夢中になっている間に、大きな石を上り始めた。気が付いてみると数十メートル上ってしまった。しまったと思い、戻ろうとしたが、後の祭り。後ろには数十人が上ってきており、降りることは不可能。前方はほんの30センチぐらい間が開いており、向こう側に飛び移る(跨ぐ)仕掛けとなっている。

私は極端な高所恐怖症である。30センチとはいえ、下が数十メートルでは足が竦む。後ろに人が待っている。絶体絶命。その時ガイドのお姐さんがやってきて、私を抱えて向こう側に跨がせてくれた。皆は『羨ましい、俺もしてもらいたい。』などと軽口をたたいていたが、私は顔面蒼白だったと思う。あんな怖い思いは2度としたくない。たとえどんなに可愛い女性に抱きかかえられようとも。

5.シーサンバンナ
1月23日、6日目。愈々シーサンバンナ行く。現在は空港があり直接行けるようだが、当時は思茅の飛行場で降り、バスでシーサンバンナの中心景洪へ行った。昆明の飛行場へ行くと小さなプロペラ機が待っていた。何だか遊園地の遊具のようで、皆に不安がよぎる。誰かが『これはソ連製のアントノフだ。』と言った。一斉にソ連人留学生に視線が注がれる。ソ連人の一人が恐る恐る言った。『俺も図鑑でしか見たことが無い。』皆の恐怖は頂点に達した。

この事態を収拾すべき立場にあった先生は敢然として『没問題。』と言い、ソ連人留学生を機内に押し込めた。我々ももうどうにでもなれていった感じで従う。機内は椅子が全て倒れており、自分で引き上げて座る。50人程度しか乗れない小型機だ。

飛行機が動き出す。まるで死刑執行を待つ囚人のようだ。誰も何も言わない。『ブウーウ、ブウーウ』凄い音を立てて、滑走路を行く。皆自分の足を踏ん張る。さあ、上がるぞ,と思った瞬間、機体に力が無くなり、スピードが弱まる。皆がフーウ、とため息をつく。そうだ、力不足で飛ばないのだ。もう止めてくれ、降ろしてくれ、きっと皆が心で叫んだことだろう。無常にも飛行機は引き返し、再度トライする。通算4-5回目で漸く機体が上がった。皆が歓声を上げる。まるで小学校で逆上がりが出来たときのようだ。

上空に上がって一息ついたものの、窓から下を見るとはっきりと見える。ごつごつした岩場とか、水が多そうな湖とか。もし落ちたら痛いだろうな、と考えてしまう。機内はまるで外の空気が入ってきそうなほど、所々揺れている。

スチワーデス(そんな人が居るのです、こんな飛行機にも。)が紙パックジュースを投げてよこす。話には聞いていたが、初めて見た。当時サービスという単語は北京語には無かったのではないか、と思うほどサービスの概念が無かった。

1時間後、思茅の上空に来た。相変わらず、下はよく見える。山々に囲まれた中、とても空港があるとは思えない場所にそれはあった。小さいアントノフはスルスルと降下し、無事着陸した。何故アントノフなのかよく分かった。これより大きな飛行機では降りられないのだ。

タラップを降りると、暖かい日差しがある。近所の人が飛行機を眺めている。実に長閑な光景だ。ああ、よいところ来た、という予感があった。空港近くの招待所で昼食を取る。しゃぶしゃぶのような鍋が出る。美味かった。豚肉だったろうか?野菜も美味かった。疲れが吹き飛んだ。食後出発までの間、庭の庇の下で、体を伸ばした。気持ちがよかった。上海の1月は東京並みで0度前後。ここは25度程度で日差しも柔らかい。極楽、極楽。

バスはトヨタのコースター。2台に分かれて景洪を目指した。4時間の間、山の中のジャングルのようなところを上ったり降りたり。ソ連人は運転手に頼んで持ってきたテープを掛けてご機嫌。何と歌はビートルズで、ソ連で流行っているそうだ。時代が違う?途中から皆寝てしまったが、日本人が一人、運転手の横に座っていた。後で聞くとおしっこを漏らしてしまったそうな。何しろ4時間の間、運転手は一度もエンジンブレーキを使わず、フットブレーキのみで運転していた。その怖さといったら無かったようだ。中国では当時エンジンブレーキの概念は無かった気がする。故障が多いわけだ。

夕方景洪の町に入る。バンナ賓館(?)が今日の宿。2人部屋で清潔ではあったが、窓ガラスが割れていた。寒くは無いので問題なかったが、虫は入ってきたかもしれない。夕食までの間に町を散策。小さな町で直ぐ歩けた。皆一度で気に入った。先ず町の時間がゆっくり流れていた。暖かかった。人々がにこやかに笑いかけてきた。そして何よりも若い女性が綺麗だった(タイ族)。やさしそうな笑顔であった。そう我々は合計5日掛けて、この世の楽園に到着したのだ。上海には2度と戻りたくない。

夕食後、泊まっている人々と地元の人が交流した。宿舎の外国人向け企画だったのだろうが、非常に素朴でよかった。踊りが出た。歌が出た。うちの先生も歌った。我々も国毎に芸を披露する羽目になった。アメリカ人は映画の主題歌を歌い、イギリス人は民族舞踊を踊った。困ったことに日本人は突然皆で日本らしい芸をする習慣が無い。また団結する国の歌を持たない。これは問題だ、と痛感。最後はS銀行のHさんの音頭で炭坑節を歌った。踊りは殆どご愛嬌。兎に角楽しかった。
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1月24日、7日目。今日は川下り。瀾滄江(らんそうこう)はラオスとミャンマーの国境に流れている川。そのまま流れていけば国境越えになるが、その当時密出国しようとした中国人が撃たれたらしいなどという物騒な話もあった。

比較的大きな船に乗り込む。川幅が1km近くあったのでは?途中川べりで洗濯しているおばあさんや遊んでいる子供の姿を見かけた。圧巻は若い女性が水浴びしていた風景だ。船に気づくと恥ずかしそうに逃げていってしまったが、その光景は印象派の水彩画のようで、全くいやらしさが無く、感動してしまった。昨日に続いて楽園を感じる。

2時間ほど下り、ガンランバというところで下船。昼食を取る。ここはもう木々が生い茂り、農家が点在するだけの気持ちのよい田舎。小屋で飯を食べているとテーブルの下に家畜の豚が鼻をくんくんさせてくるのはご愛嬌。昨日に続き気持ちのよい食事。

景洪に戻り、近くの仏塔を見学。このあたりはタイ族が多く、タイ国のチェンマイあたりと同種。仏教への信仰も厚く、仏塔、仏寺が点在。この時タイに行ってみたいと思った。そしてこの後シンガポールに出国する予定を考え、この感動をシンガポール駐在員のH氏に伝えたく、絵葉書を出す。

1月25日、8日目。悲しいことにこの地を去る日が来た。分かれ難い、思わず涙が出そうになる。もと来た道を4時間バスに乗り、思茅の飛行場へ。飛行場でアントノフを待つと、やがて山の陰からスーッと飛行機が降りてくる。機内からA班の面々が降りてくる。声を掛けたが、皆疲れており誰も話もしない。これはどうしたことか?訳が分からず乗り込む。2回目はかなり余裕で乗れる。力も入らない。A班は揺れたのだろうか?

後で聞いた話だが、A班は悲惨だった。昆明に到着後そのままバスに乗ったが、そのバスがユーゴスラビア製のオンボロで、大理に向かった後、5時間後に故障。運転手は直らないと見るとヒッチハイクで何と昆明に引き返し、修理工を連れて戻ったが、その間1晩バスの周りで焚き火をして過ごしたそうだ。結局昆明―大理間を24時間掛けた。66時間汽車に乗り、それから24時間。気が遠くなる。

6.大理
無事昆明着。何処に泊まったか、全く記憶が無い。但し何故か例の大学の招待所ではなく、ホテルであった。お湯も出た。

1月26日、9日目。今日はもう1つのイベント、大理行きだ。大理石の風呂、朝からそれしか考えていない。バスはやはりトヨタのコースター(ユーゴスラビア製でなくて良かった。)。10時間掛かるという。途中川沿いや山沿いでは、下に転落しているトラックが何台もあり怖かった。例のフットブレーキのせいでブレーキが焼き切れたのだろうか?

本当に10時間掛かって、大理に到着。大理は古城と下関の2つの町がある。我々は古城の大理賓館に泊まる。確かにロビーも大理石で出来ているようで、大理石の風呂への期待が高まる。ところがこのホテルはあまり清潔ではなく、設備も良くない。その上、今日はお湯が出ないという。がっかり。

夕方町を散策すると古城の真ん中あたりに、喫茶店があった。勿論日本のそれとは全く違うが、お茶を飲ませてくれる。ウエートレスは白族のお姐さん。民族衣装も鮮やかで、記念写真にも応じる。一部の人々は明日も行くぞと張り切る。

1月27日、10日目。私はAさんと2人、下関へ行ってみる。他の人々は昨日の茶屋へ行く。下関は大きく、青空市場が盛大に開かれていた。民族衣装を着込んだ人々が沢山行き来していた。正月前の市であったのかもしれない。何とその中に昨日のウエートレスも居た。皆は空振りした、と可笑しかった。市で何を売っていたのか記憶が無い。

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市を外れると土で作られた家々が並んでいた。子供や若い女性が着飾って歩いていた。その様子が実に家々とマッチしている。民族衣装とはそういうものだとつくづく思った。

1月28日、11日目。10時間掛けて昆明に戻る。市内のホテルに泊まる。翠湖賓館?

7.再び昆明
1月29日、12日目。ホテルのロビーで知人と会う。その人から大学の同級生の女性がここに泊まっていると聞かされ、連絡し、昼飯を食う。大学時代ろくに授業にも行かなかった私は彼女、Kさんと話したことは無かった。彼女は卒業後日本語を教える勉強をし、今は何とハルピンで日本語教師をしているという。途轍もない人がいると思った。私のように北京語から逃げて、結局上海にいる人間もいれば、彼女のように志願して中国と係わろうとしている人もいる。確かこの時、昆明名物として、鹿の肉と過橋麺を食べた。

午後Aさんと相談して、旅行団と離れることにした。またあの長旅をして上海に戻る気にはなれなかった。駅で明日の成都行きの軟臥を買う。

Cさんが体の不調を訴える。恐らく長旅の疲れと高地である昆明の影響のようだ。急な山を登ったりしないので気が付かないが、昆明は海抜1,800mの高地なのだ。ホテルで近くの病院を紹介してもらい、頼りない通訳として付き合う。病院は当時の中国としては、割と綺麗であった(当時は本当に汚いところが多かった)。規模も大きかった。旧正月前で心配したが、かなり年配の女性が見てくれた。簡単な問診だけだったと思う。驚いたことに先生の言っていることが全く分からない。Cさんは心配そうにこちらを見ている。困った。若い女性が入ってきて、我々に分かる北京語で通訳してくれた。といっても、彼女によれば、年寄り先生の言葉も立派な北京語であるが昆明訛りが強すぎるとの事。

先生が病名を告げ、若先生が通訳したが、分からない。この時実感したのが、病名のような専門用語は知らなければ分からないという事。通訳を本業にするにはその地に住んで様々な経験をする必要があり、訛り、方言も考えれば、中国の場合は広すぎて全てに完璧な通訳は難しい。結局老先生が紙に一言、『不整脈』と書いて、決着。中国では最後は筆談である。中国では30歳以上の5人に1人は不整脈だと言っていたが、本当だろうか?

夜町中に爆竹が鳴り響いた。上海など大都市では危険だと言う理由で禁止になっている爆竹が地方都市昆明では堂々と鳴っている。正月気分は十分に出た。しかし一晩中には参った。

8.成昆鉄道
1月30日、13日目。成都へ向けて出発。何しろ66時間の経験があるから、24時間の旅と聞いても『何だ一晩か。短いな。』などと思うようになっている。この旅では、自分が成長した気分だ。

成都-昆明間の鉄道は成昆鉄道と呼ばれ、鉄道マニアの間では、有名。24時間の間に千を越えるトンネルがある。私は大学2年の時、桜木町で開かれた中国鉄道展でバイトをしたことがあり、写真集を売ったことがある。その時、来日した汽車の運転手から成昆鉄道のトンネルの多さを聞き、売り文句に使ったものだ。お客の一人に、『お前は行った事があるのか?』と聞かれて、恥ずかしい思いをしたのが今回の乗車の直接の動機になった。

夜7時に出発した。軟臥にはもう一人、三菱系企業より派遣された留学生が乗って居た。日本人で同じ境遇ということで気を使わずに助かった。特に昨日良く寝ていないので。

良くバックパッカーの旅行記などを読むと、行く先々の乗り物で市民と交流したりしているが、中国でこれをやると好奇心が人一倍強いのか、質問攻めにあったり、食べ物を無理やり食べさせられたりと、大変なことになる。私のように旅は出来るだけ静かにしたい人間にとっては、時に最悪の結果となる。

直ぐに夕食となった。食堂車に行くと香港人の団体で溢れて居た。但し彼らは麺を二口、三口口に入れると部屋に戻っていき、我々だけになってしまった。そう、この列車は成都管轄(中国では長距離列車の場合始発と終点のどちらかの管轄となる)で、食事も四川風。本日は旧正月でメニューは何と麺のみ。香港人が辛いものが食べられないことをこの時知った。我々もあまり食べられないくらい辛かったが。

部屋に戻ると腹が減った。3人で色々と旅の話をした記憶がある。窓の外は真っ暗で、ここが断崖絶壁なのかどうか全く分からない。トンネルは確かに沢山通っているようだ。Aさんが『キュウリのキュウちゃん』という漬物を持っており、皆にご馳走してくれた。こんなに旨いものを食べたのは久しぶりだった。

1月31日、14日目。朝から沢山のトンネルを通過。確かに多くの山を切り開いてトンネルを作っただけあって、山を越えるとまた山、トンネルを潜るとまたトンネル。当然途中で飽きてしまったが。

この間のことは良く覚えていないが、宮脇俊三氏の『中国火車旅行』を読んだところ、何と氏は1987年4月にこの鉄道に乗っており、克明に記録されている。以下抜粋したい。

『成都―昆明間は1,100kmの山岳路線。標高2,300mの高みに上がったかと思うと980mまで下がり、又1,900mまで上がるというように起伏も激しい。427のトンネルと653の鉄橋があり、ループ線やS字カーブの連続する区間もある。1970年の開通だが、大変な難工事だったという。』これだけの事を覚えていないとは、耄碌したのだろうか?列車酔いした記憶も無い。

『成昆鉄道は鉄道ファン云々というような生易しい鉄道ではない。辺境警備の為の軍事路線としての役割が強いのだ。鉄道局ではなく、軍の管轄下に置かれている。写真撮影は厳禁、スパイ容疑で逮捕されるという。』私はこんなことは全く知らないで乗っていた。恐らく何枚かの写真は撮ったはずである。怖い、怖い。

9.成都
夕方24時間きっちりで成都に到着。確か終点の一つ前の駅(成都南駅)で降りて、バスに乗って市内に向かう。兎に角暗かった。もし方向が間違っていたらどうしようと思うほど暗かった。これまで大勢で旅行しており、大変でも自らアレンジすることも無く来た為、心細さを強く感じた。

この町には錦江飯店しか良いホテルはないと聞いていた。迷わずそこへ行き、簡単にチェックインできた。これにはホッとした。このホテルは立派なホテルであった。上海にはこんな立派なホテルがあったろうか?ロビーの壁は大理石である。ディスコなどもあり、若者の服装も都会的であった。夕食はコーヒーショップでパンを食べた。いくら四川に来たからといって、行き成り四川料理を食べる気にはなれない。

夜ホテル内を散策していると、大手商社の成都事務所の看板を目にした。日系企業も殆ど無い時代であったが、流石に商社はある。私は一時就職活動で商社を志望し、この会社も真剣に検討したが、最後に『君は30年の商社生活のうち、15年は中国だろうね。』と言われて退散した覚えがある。その時熱心に誘ってくれた大学の1年上の先輩が成都に転勤になったと風の噂で聞いたのを突然思い出す。彼は10歳まで台湾で育った人で北京語はペラペラ。中国語を専攻する必要は全く無いと思われるが、何故か在籍していた人で、商社に入っても当然その語学力を買われ、中国で活躍していた。

思い切って事務所のドアを叩いた。偶々中に駐在員が居た。彼のことを尋ねると重慶に転勤したという。何ということだろう。これで北京、成都、重慶と3箇所目。僅か入社3年目である。本当に商社に入らず良かったと思った。

2月1日、15日目。朝も洋食。食後、杜甫草堂、武侯祠を訪ねる。両方とも歴史上有名な人物(杜甫、諸葛孔明、劉備)縁の場所。歴史に興味のある私は期待していったが、特に何も無くガッカリ。今は違うと思うが、当時成都は大都市ではあったが、地味な所という印象。強いて言えば、杜甫草堂の竹林が見事であった。

昼は有名な陳麻婆豆腐店に行く。麻婆豆腐一筋100年と言われる超有名な店。入ると早速注文。真っ赤な麻婆豆腐が出て来る。兎に角辛そう。とてもご飯無しでは食べられないと、ご飯を頼むが、これが大変。飯盛り30年といった感じのおじさんが、『糧票』を要求するのだ。これは中国人が米を買う時使う米購入券のことであるが、外国人は所持していない。代わりに外貨兌換券を使うことになっている。但し田舎ではこれが理解されない。金があっても買えない典型的な例。飯が無いと豆腐が食えないのでこちらも必死。最後はマネージャーのおじさんに泣きつき、何とか飯をゲット。無事に豆腐を食う。辛かったあ、飯があっても。

飯の縁でマネージャーに頼み、厨房に入れてもらう。鍋の中の麻婆豆腐は真っ赤。麻とは麻痺という意味。意味が良く分かる。

午後青葉山へ行く。特に行くところも無くて行ったのだと思う。道教の寺であった。寺は小山の上。かなり急な坂道で日本で言う駕篭かきがいて客を乗せている。珍しい光景だった。頂上まで上り寺に入るとかなり疲れた。寺の脇に茶を飲むところがあり、頼むと茶杯に茶を入れてくれる。成都は冬でも比較的暖かいところで、この日も15度ぐらいあった記憶がある。日本なら冷たい飲み物だろうが、中国では冷たい飲み物などは望むべくも無い。熱いお茶が旨かった。お湯を足してもらおうと小坊主(?)を呼び止める。中国ではその頃、レストランでウエートレスを呼び止めても、無視されることが多く、何か物を頼むとなると先ずいやな顔をされるのが普通。ところがこの小坊主はきびきびと動き、直ぐに薬缶を持ってきて丁寧に注ぐ。私が『謝謝』と言うと『応該的』と答えた。これには感動した。『応該的』とは、当然のことです、と言う意味。中国国内でこの言葉を聞いたのは、留学中この1回きり。実は謝謝でさえも、滅多に聞くことは無かったこの時代に本当に感動した。人間は態度と言葉で、随分違って見えると思う。社会主義の当時、サービスと言う概念は無かった。物を売る側も買う側も公務員だったから、礼を言う必要も無い、そんな時代だったのだ。金で頭を下げる時代もどうかと思うが、やはり社会主義は人間の根幹を駄目にする制度であったかもしれない。

同じ寺でも何処の寺か忘れたが、坊さんの写真を撮ってエライ目にあったこともあった。出てきた坊さんの服装が少し変わっていたので、寺の門を撮りがてら坊さんを入れてフラッシュを焚いた。いきなり数人の付き人がやって来て何やら喚いている。どうやら写真を返せと言っているようだ。私もむきになって、フィルム代を払うならあげても良いなどと押し問答をし、ふと気付くと回りは100人以上の野次馬に取り囲まれてしまった。こうなると先方も引き下がらない。面子の問題だ。30分ぐらいやりやって、何とか逃れた。勿論フィルムは渡さなかった。但し後で現像してみても、そんなに恐ろしい思いをしてまで守るような代物ではなかった。

2月2日、16日目。
飛行機の切符が取れたので、上海に戻る。流石に16日居ないと上海でさえも懐かしい。成都から2時間。初め飛行機は怖いと思っていたが、今回アントノフと言うプロペラ機に乗り、自信が付いてしまった。何しろ、成都から上海まで汽車だと50時間掛かるのだ。もう汽車には乗れない。飛行機では、スチワーデスが紙パックジュースを投げており、中国人の乗客がファーストクラスのトイレを使おうとしているのを文字通り摘み出していたが、そんなことにも慣れてしまった。

兎に角今回の旅は私を大いに成長させた。自信を付けさせた。怖いものが無くなり、今後の多くの旅行を可能にさせた。また同時に中国の広さを思い知らされ、少数民族の存在も意識させられた。極めて有意義な旅だった。

《昔の旅1987年‐激闘中国大陸編》蘇州ー寒山寺で厄払い

〈5回目の旅-1987年1月1日蘇州〉
―厄払い

1.上海のデモ
クリスマス休みがやってきた。何故か旅行の計画も立てず、ぶらぶらしていた。この時期本当に人生に迷っていたかもしれない。忘れもしない12月25日のクリスマス当日、私は何か美味しいものでも買おうと町に出ようとした。我が復旦大学からバンドと呼ばれる市内までバスで1時間ほど掛かる。距離にして10km程度だが、バスは小刻みに止まり、多くの乗り降りがあるため時間が掛かる。特に出入り口付近の人間は一度降りたら2度と乗れないといった形相で必死に手摺につかまる為、乗り降りがスムーズなわけが無かった。

その日も満員のバスの車内に立ち、何気なく外を眺めると、前の方に大勢の人が歩いている。どうやらデモのようだ。そういえば最近復旦のキャンパスにも何やら張り紙やビラがあったような気がする。横を通り過ぎると各隊が旗を持っている。復旦あり、同済あり、上海外語あり、この付近の大学が皆参加している。

多分友諠商店と和平飯店あたりで用事を足して、さて戻ろうとしたがタクシーは1台も大学方面には行かないという。デモを嫌っている。仕方なしにご愛用の55番バスを探したが、デモが収まるまで走らないらしい。とうとう歩いて帰る決心をした。歩いて帰るのは初めてだ。

外白渡橋、昔租界時代犬と中国人は通るべからず、と立て看板があった橋を渡り、四川北路から虹口公園(現魯迅公園)に向かう。このあたりは日本租界だった。魯迅を匿った内山書店(神田神保町に今もある)もこの辺りにあった。しかし12月だ。北風は冷たい。それを北に向かって歩くのはかなり難儀だ。四平路に出ると建設中の建物が多く、遮る物が少ない。愈々吹き曝しだ。

2時間ぐらい掛けて宿舎に辿り着く。もうクタクタだ。倒れ込むようにベットに横になる。この頃は既に一人部屋を確保しており、そのまま翌日まで寝てしまった。翌日熱が39度以上となる。苦しくて何も食べられない。昼間は1度下がるが夜は39度。これが何と4日も続く。この時は本当に死ぬのではないかとさえ思った。食べ物は1日1度粥を食べた程度。唯一の救いは、恥ずかしいがフィアンセ(現かみさん)が送ってくれた松田聖子と中森明菜のテープ。繰り返し繰り返し聞いた。これが日本だった。1度は遺言も書こうとした。兎に角当時医者には行けなかった。大学の医務室などに行こうものなら、どうなるか分からない。肝炎でもないのに医者に行き隔離され、本当に肝炎になった日本人もいたのだから。

4日目、H君が来る。まさか居ると思っていなかったようで酷く驚いて何くれと無く世話をしてくれた。これで何とか回復した。大晦日には蕎麦も食べた。本当に有難かった。

2.蘇州へ
蕎麦を食べながら、今回の熱は何かの祟りかと冗談を言った。そうだ、厄払いに行こう、蘇州の寒山寺の鐘を突きに行こう。初詣の気分になる。

タクシーをチャーターし、1月1日に蘇州に向かった。H君の他,家庭教師をお願いしている日本語学科の徐さんも一緒だ。彼女は日本語学科4年生で主席(成績が一番)、日本語はべらべら。赤川次郎の小説は2時間で読むし、源氏物語も読んでいる。私が受けた最初の質問が『松尾芭蕉の奥の細道の文中の古文法』であった事を見ても実力の程が分かる。正直言って質問には答えられなかった。彼女の実家が蘇州ということで里帰り同行となった。

蘇州への道は、途中から小さな橋を飛び跳ねる感じで越えて行く。周りは水郷地帯である。1時間半ぐらいで到着。徐さんを実家で降ろし、我々は寒山寺へ。

寺には何と日本人の団体がいた。やはり鐘を突くためにである。50人の団体全員が鐘堂の前で入場券をもぎるおじさんに『ニーハオ』と言う。これにはおじさんも面食らっている。止むを得ないとはいえ、日本人の柔軟性の無さを感じた。

50人の後ろについて、鐘を突いた。生まれて初めてで、且つダウンジャケットが厚手でうまく突けなかった。いや実際は病み上がりで体力が無かったのかもしれない。鐘を突く意味は分からないが、兎に角日本人らしく仕事をこなした。

蘇州の印象はかなりこじんまりした街。古都であり、色が無い街。国営工場からは煙がモクモク出ている。古い庭園がいくつかあったが、あまり深く印象に残っていない。

昼はホテルのレストランで食べた。麻婆豆腐を頼んだところ、甘い物が出てきた。あのまるみやの麻婆豆腐の味である。以前行った無錫もそうだったが、このあたり料理は比較的甘く、日本的だ。

食後徐さんを拾いに行った。ちょっと家に入れてもらった。初めて中国人の家に入った。聞いてはいたが、広くなかった。6畳2間といった感じ。家族3人(徐さんは勿論一人っ子)でどうやって寝ていたのかと思えるほど家具がある。日本なら布団を敷くわけだが、こちらはベッド。ソファーも夜はベッドになるのだろう。徐さんの母親が甘い団子の入ったスープを出してくれた。これは旨かった。

帰りは皆寝てしまった。正月早々疲れてしまったのは、なぜだろう。

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》南京ー金陵飯店とバスの故障

〈4回目の旅-1986年12月南京〉
―金陵飯店とバスの故障

1. 南京
(1)南京まで
上海も冬になり肌寒くなった12月、良いホテルに泊まり湯船にゆっくり浸かりたいという日本的な理由で南京に行くことになった。何しろ南京には金陵飯店がある。当時としてはレベルの高いホテルと聞いていたので、早速電話すると250元で予約が取れた。ホテルの予約を電話でできるとはその当時非常に稀なことであり、かなり期待できるホテルであることが分かった。

今回は同室のAさんと2人で旅。と思ったら、同窓で1年先輩のMさんと華東師範で日本語の先生の女性2人も同行することになった。彼らは南京大学の知り合いに会いに行くところだった。

以前無錫に行くとき乗った列車に乗り、今回は終点の南京まで約5時間の旅である。前回は10月で気候の良い時であったから、非常に爽やかな秋の風景であったが、今回は畑も一面刈り取られ何も無い非常に寂しい冬景色だった。

(2)南京の夜
駅に着くと直ぐに金陵飯店へ。部屋はまあきれいな方であったが、湯船はそれ程大きくなかった。それでもホテルのチェックインで何時間も交渉することを考えれば満足、満足。

それから4人で南京大学へ行き、留学生と会う。南京大学は金陵飯店の直ぐ北にあり、町の中心にあるこじんまりした大学。金融機関から派遣された留学生も何人かいたが、今回は学生で留学している人々と会う。大学の先輩、後輩もいた。かれらは月に1度は上海に来ると言う。我々にとっては物の無い上海でも、南京から見ると憧れの町であるらしい。学生らしく書籍を購入しに来る人も居る。我々が実は恵まれていることがこの時分かる。留学生宿舎も我が復旦大学の方が整っている。お湯のシャワーが24時間出る、暖房(暖気)も24時間出ているのは全国の大学でも復旦だけ。南京大学ではそんな贅沢は無いと言う。

夜は近所のレストランで食事を取る。何時も旅行中はホテルでばかり食事をしている我々にとって、地元レストランは結構新鮮。かなり薄暗い中、料理も美味しかった気がする。ちょっと塩辛かったけれど。

ホテルに戻り今回の目的である風呂に入る。今でも海外生活では湯船に湯をたっぷり張ってゆっくりと浸かりたい願望はある。ましてやこの当時、上海の宿舎では泥の混ざったような茶色いシャワーを浴びていたのである。その切実さは計り知れない。湯船に体を沈めれば、何ともいえない心地であった。

(3)南京観光
2日目。南京観光。先ずは中山陵へ。孫文の遺体が安置されている場所で革命の聖地と言った感じ。台湾旅行で行った中正記念堂の蒋介石像は南京の中山陵の方を向いていると教えられた。何時か大陸に戻るという願望の表れだ。

階段がかなり沢山あり、上るのに難儀したのを覚えている。その横を日本の高校生が修学旅行で訪れており、ぞろぞろと同じ服(学生服)を着て詰まらなそうに歩いているのが印象的だった。私は常々日本の学生にこそこの物の無い生活を体験させたいと考えていたが、見た感じとても耐えられそうに無い。日本の将来が思いやられた。

雨花台烈士陵園にも行った。紀元前に越王が城を築いたと言うから歴史はかなり古い。しかし雨花台といえば、何と言っても国民党の処刑場として使われ、多くの人間が殺された場所である。今は静かな公園になっている。

午後南京長江大橋に行く。1968年に完成された中国最大の橋。当初はソ連の技術を導入したが、中ソの仲が悪くなり最後は自力で完成させたと誇らしげな解説が見える。確かに長江は大きい、広い。河の向こう側は煙ってよく見えない。日本にはこんなに広い川幅は見ることが出来ないと思う。しかも橋は2段になっており、下は鉄道が通っている。

橋の近くに南京虐殺記念館があったと思う。今地図を見ると大橋からは少し離れているが。ここは文字通り1937年の南京大虐殺関連の資料が展示されている。一歩中に踏み込むと言い知れぬ重圧がある。先ず映像室に案内され、ビデオを見るのだが、これが虐殺シーンの連続で見ている最中後ろから切り付けられるような気分になる。ビデオを見終わって外に出ると流石に誰も日本語を話そうとしない。無言で展示物に目をやる。殺された30万人の内訳などが詳細に記入されており、日本などの『虐殺は無かった、でっち上げ。』などの意見に真っ向から反対している。

帰ろうとするとアメリカ人が英語で『日本人は虐殺をどう考えているのか?』と質問してきた。これまで事実かどうかといった話はしたことがあったが、アメリカ人に英語で話すほどの回答を持ち合わせていない。こういう時に情けないなと思う。同時に日本の歴史教育とは何かと考えさせられてしまう。さっきの高校生なら『知らない、何それ。』などと平気で答えてしまうだろう。

夜は金陵飯店で中華を食う。旨かった。久しぶりに旨い中華を食った。夜遅くロビーに下りるとコーヒーショップがまだやっている。何と24時間営業。中国で24時間営業の場所を初めて見た。別にお腹はすいていなかったが思わず入ってしまう。ここで生まれて初めて『海南チキンライス』を食べる。鳥好きの私はこの後十数年海南チキンと付き合うことになる。今でも最も好きな料理である。コーヒーも飲んで大満足。

2.揚州へ
3日目。今日は南京を離れ、揚州に行くことにした。揚州まではバスで3時間。前日バスターミナルで日本製のバスであることを確認して予約した。南京大学の人々が口を揃えてバスが良く故障するので、気を付けろと言っていたからだ。

揚州と言えば、揚州チャーハン。勿論鑑真和上の大明寺もあるが、先ずは食い気である。意気揚々とバスに乗り込み、チャーハンのことを考えていた。きっとAさんも同じだったろう。バスは日本製。問題無し。

バスは快調に1時間ほど走っていたが、その辺りから雲行きが怪しくなる。まさかと思っていたが、日本製のバスのご利益も無く、何と故障。20分ぐらい停車し運転手は懸命に修理を試みていたようだが、最後にスパナをポンと放り投げる。それが合図なのか乗客が皆降りはじめ、何と思い思いにヒッチハイクを始める。そして手際よくバスを捕まえどんどん乗り込んで行く。我々2人の日本人は呆然と見つめるだけ。あっという間に取り残された。

やむを得ず運転手のところに行き、外国人の我々を何とかしろと迫る。必死の形相が功を奏したか、運転手がヒッチハイクを始めた。ところがなかなか来ない。そして何と反対側のバスを捕まえて何か話し込む。これに乗れという。我々ももうどうでも良くなっていたので、南京に引き返すそのバスの乗ってしまう。

乗っても席が無い。当時交通機関は何処でも満員なのだ。運転手が手招きし、運転台の後ろの空間に座れと言う。色々話しかけてくるが、この地域も訛りが強い。何を言っているか良く分からない。しかし最後に分かったことには、どうやら最初のバスの運転手が『この日本人は非常に急いでおり、南京駅から汽車に乗らなければならない』と嘘をついて乗せてくれていたことだ。

まさか嘘だとも言えず、頷いていると何と運転手は路線バスにもかかわらず、いの一番に南京駅の前にバスを付けてくれた。これには驚いた。本来は感謝すべきであるが、当方には南京駅に行く理由は無かったから、キチンと挨拶もせず降りてしまった。悪いことをしたと今でも反省している。

駅に着いてしまったからには、何とか今日の上海行きの切符をゲットしたいところ。しかし中国はそんなに甘くない。係員は全く取り合わない。やる気の無い姿勢でウンでもなければスンでもない。私はもうこんな状態には慣れていたので、粘り強く交渉しようと思っていた。ところが、普段温厚なAさんが突然キレた。あれは正にキレたのだ。最初は北京語で何故売らないんだと言っていたが、途中からは日本語で捲くし立てた。こんなAさんを初めて見たので、私の方が慌ててしまった。翌日の切符を?ぎ取るとAさんを外へ連れ出した。普段大人しい人が怒ると本当に怖いとその時知った。

兎に角泊まるところが無いので、金陵飯店に戻って事情を話したところ、快くもう1泊させてくれた。しかしもう観光もしてしまったので、行くところが無い。部屋でゆっくりしたのを覚えている。

4日目。上海に戻る。結局揚州チャーハンは次回の機会を待つことになった。

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》紹興・寧波-魯迅会議と修学旅行

〈3回目の旅-1986年11月紹興、寧波〉
―魯迅会議と修学旅行

1. 紹興
ある日H君が『紹興行きません?』と私に聞いた。上海に来て2ヶ月、正直退屈していた。既に授業には飽きてしまっており、夕方来る家庭教師の学生相手に、テレビを見て語彙を増やしたりしていた。

紹興と言えば、紹興酒と魯迅。どちらも中国を代表するもの、是非行って見ようと思った。何故か紹興行きの列車は夜の出発である。夜9時上海発の寧波行きに乗る。前回の無錫行きと違い、非常に暗い印象。当然幹線である上海―南京線より落ちる車両を使っている。先が思いやられる。ただ今回は中国通のH君が付いている。特に問題は無かろうと高をくくっていた。

紹興は紀元前500年頃には既に越の都であった実に古い街である。越といえば臥薪嘗胆で有名な越王勾践がおり、古代は華やかな街であったろう。しかし私の紹興のイメージは、魯迅の『故郷』という作品に出てくるあまり明るくない街なのである。

紹興に着いたのは夜中の3時過ぎである。この時間ではホテルも探せない。11月にしては暖かかったので、町をふらふらする。町には運河が張り巡らされており、暗い中で仄かに紹興酒の香がする。実に不思議な感覚だ。まるで異次元に迷い込んだみたい。全てが幻想的。ところが少しずつ夜が明けてくるとこの幻想が現実に変わる。朝6時に幾つかのホテルを訪ねるが、何処も一杯といわれる。初めは中国に良くある『部屋があっても泊めない』社会主義的対応だと思っていた。ところが今回は事情が違った。『全国魯迅会議』。魯迅研究者が一堂に集まって会議をするらしい。紹興はそれ程大きな町ではない。本当に部屋がないかもしれない。

8時頃には諦めて、朝食を食う。粥とまん頭。これでも上海の宿舎に比べれば遥かにマシ。その後近くに居た人力車を捕まえて町を散策。清代の詩人で女性革命家秋謹の故居を見た後、今回の元凶、魯迅博物館に。横には『孔乙巳』に出てくる紹興酒を売る店があった。朝9時、何と沢山の人が朝から紹興酒を買いに来ていた。中には入れ物に事欠いて哺乳瓶に紹興酒を入れていたおじいさんもいた。何というところだ。きっと赤ん坊の頃から紹興酒を飲んでいるに違いない。我々も朝靄の中で嗅いだ香が忘れられずに、ついに人力車のおじさんと3人で店の汚い椅子に座り飲み始めた。とても旨かった。日本で飲んでいたビンに入ったものなど問題外だ。樽から直接椀に入れる。椀は綺麗とは言えないが、それまでもが時代を感じさせた。何杯か飲んでしたたかに酔った。当然だ。昨夜あまり寝ていないのだから。

何とそのまま人力車に潜り込み寝てしまった。昼近くに起き上がったが、もうこの町に居ようとは思わなかった。人力車で駅へ送ってもらい、寧波行きの切符を探した。幸い午後の切符を手に入れた。これは幸先がよい。これで今日はゆっくり寝られる・・はずだった。

2. 寧波
列車の中でも殆ど寝ていたと思う。駅に着くと這い出すように列車を降りる。駅前は閑散としていた。地球の歩き方、これが私の旅の唯一の道具だった、を見ると泊まれそうなホテルは1つしかない。駅に近い華僑飯店だ。当時中国では外国人が泊まれるホテルはかなり限られていた。ドミトリーはあるにはあるがバックパッカー用と言った感じで、上海以外で気分のよい生活をしようとする我々にとっては無用の宿であった。駅の外国人窓口で上海行きの切符を買う。ところが何度聞いても3日先しかない。これは大変なことになった。もしここで泊まれなければ今度こそ野宿だ。

ホテルのロビーに入るとき何故か緊張した。いやな予感。案の定、カウンターのお姐さんは『部屋はない』と素っ気無かった。しかし我々はここで引き下がれない。日本人で、留学生で、その上昨夜の紹興の出来事があって、などと切々と語る。それでも先方は動じない。1時間ほど経過してロビーにへたり込む。絶望的状況だった。お姐さんは仕方ないと言った感じで『部屋が無いのは本当。あなたの同胞が全て予約したのよ。嘘だと思ったら表に出てみれば。』と言う。表に出ると何と入り口のところに大きな横断幕で『歓迎 ××女子高校様』と書いているではないか?『えっ?修学旅行?何で?何でこんな所まで来るの?』その頃日本の高校では中国への修学旅行がブームになりつつあった。事実翌年にはあの高知学芸高校の列車事故が上海近郊で起こる。

ロビーに戻ると『ほらね』と言った顔でお姐さんが見る。もう動く気力がなくなっていた。本当にへたり込んだ。ロビーで寝そうな勢いだったに違いない。マネージャーらしき人が来て『どうしても泊まりたいなら、従業員宿舎に泊めてやる』と言う。もう何でもよかった。45元、確か45元取られた。部屋に窓は無かったが、予想外に清潔だった。満足した。直ぐに横になって夜まで休んだ。

夕食はホテルの食堂に行った。どうもホテルの周りで清潔に食事が出来そうなところは無かった。今では信じられないがかなりの田舎と言った印象である。食堂の席の1つに何故か日本の醤油が置かれているのが目に留まる。その席に着こうとするとここは指定席だと言う。何と寧波に駐在している専門商社の駐在員が毎日ここで食事をするのだと言う。そうこうしている内に本人がやってきたので、思わず声をかける。ここに駐在する苦労話を聞く。彼はここ寧波唯一の日本人駐在員。出張が無い限り365日、ここに泊まりそしてこのレストランで食事をする。コックにカツどんのような日本料理を自ら教えて作らせるなど何とか生活を充実させようと努力していた。テーブルの上の醤油やソースもそのようにして出来たエセ日本食を食べる為のものであった。

通算3日目、やる事も無く、郊外の観光を計画。ロビーでタクシーのチャーターを頼むが車が無いと言う。何というところだ。仕方なく、1日中寧波市内を歩く。といっても殆ど見るところもなく、港付近でぼっーとしたりするだけ。港といっても少し大きな川に小型の船が停泊しており、朝地引網を行ったと思われる網が放置されていて、小魚が引っかかっていたりする。日本で言えばかなり地方の寂しい港町になすことも無く、無為に時を送るといった風情。

寧波郊外には例えば蒋介石の故居があったり、日本で曹洞宗を起こした道元が学んだ天童寺があったりするのだが、とても歩いて行ける距離ではない。バスも不便であると言われては、成すすべが無かった。今寧波に行く人がいれば、今回の話は全く異次元の話であろう。私はその後一度も寧波を訪れていないが、聞くところに寄れば現在はかなりの発展を見せており、浙江省の中でも豊かな地域であるらしい。上海―寧波間は高速道路で僅か4時間で結ばれている。海外から進出する企業も多く、港も整備されているという。

4日目午後漸く車が手配出来、阿育王寺に行く。これだけ待って何故この寺に行ったのかは残念ながら全く記憶が無い。また折角行ったのに寺の記憶もあまり無い。一体どうしたことだろう?黄色の山門を潜り、広い境内を歩いた。282年建立の古刹であるが、何があったのかはとうとう思い出せない。兎に角毎回3食をホテルのレストランで食い、何もせず過ごした。ホテルの部屋は修学旅行生が1晩で去り、2日目からは普通の部屋となったが、かえって最初の従業員の部屋が懐かしかった。これがこの旅の収穫。

5日目の夜、寧波を後にする。また夜の列車で上海に着いたのは夜中の3時。今回はずっと暗い印象のまま終わった。最後に宿舎に戻った時、当然ながら門が閉まっており、管理人のおじさんを叩き起こしたのは申し訳なかった。しかし今思い返してみれば、この頃が心身ともに一番きつかったかもしれない。季節は暗く寂しい冬に向っていた。あのセピア色の80年代の風景が蘇る。毎日日本に戻りたいと考えていた私は遣唐使や留学僧侶と実は同じ体験をしていたのかもしれない。

 

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》-無錫旅情と口げんか

 

〈2回目の旅-1986年10月無錫〉 
―無錫旅情と口げんか

無錫と言えば、『無錫旅情』。尾形大作が既にこの歌を歌っていたと思う。北京旅行で自信を付けた私は、直ぐにも次の旅行に行きたかった。それは留学生生活がとてもつまらなかったのと上海を離れたい思いが強かったからだ。上海、今ではいいイメージも強いこの町は、この頃何も良い事がないように思えた。上海人は顔ではニコニコしているが、お金のことしか考えていない。食べるものもない。授業も北京の北京語に比べれば、これが北京語?といった上海訛りの標準語。そんな風に考えていた。

10月中旬、同室のAさん、H銀行のCさんともう一人の4人で無錫に行った。もう一人はTのIさん?何故この時無錫に行ったかは覚えていない。もし理由があるとすれば歌ぐらい?列車の切符は和平飯店?の中国国際旅行社で予約。軟座を確保。当時列車の料金は外国人が中国人の1.8倍、且つ外国人は外貨兌換券(FEC)という人民元とは異なる通貨を使っており、この兌換券をもし闇で両替すれば1.5倍になったことから実質2倍以上の料金を取られていた。但し留学生証があれば中国人料金になった。でも軟座を取るには兌換券は必要。どちらにしても日本円にすれば何百円の話であるが。

無錫までは列車で僅か2時間半。軟座は4人掛けの柔らか目の椅子席である。席に付くと車掌さん?が早速薬缶にお湯を入れて持ってくる。茶を飲むコップは例の蓋付きがテーブルに置かれている。なかなかよいサービスだ。窓からの眺めもなかなか良い。日本の田舎と同じような畑や田んぼが続く。江南の春ならぬ秋である。春は菜の花が一面に咲き乱れ見事なものであるが、秋は稲刈りが終わった感じで物悲しい。

同じ列車にはT銀行の上海所長がスーツ姿で乗っていた。南京に出張のようだ。何となく後ろめたい思いになったが、当時駐在員は我々よりずっと良い生活をしていたので、自費で旅行するのに文句があるかなどとも思っていた。(勿論この所長には何の恨みもない)

無錫に到着すると駅前はやはりごった返していた。と言っても上海ほどではない。先ずは駅で帰りの切符を手配。外国人専用窓口があり、2日後の軟座が簡単に手に入った。これで今回の旅行は2泊3日と決まった。順調だ。次はホテル。駅から少し歩いた無錫大飯店というそこそこ綺麗なホテルを見つけて宿泊交渉。左程時間も掛からず、チェックインできた。

当日は小雨が降っていたが、ホテルからまた歩き出す。大分歩くと漸く湖が見えてきた。太湖だ。小雨に煙っているが、大きい。中国で4番目に大きいという。湖畔には大きなホテルが幾つか見え、こちらの方が旅情を誘う感じがして少し残念な気がした。日本人には極めて好まれる風景ではある。散歩を少ししたが、雨で引き返した。

夕飯はホテルで無錫料理を食べた。何と言っても無錫排骨が旨い。味付けが甘めで,日本人向き。他の料理もなかなかいけており、上海の留学生食堂で食うより余程良い。

2日目はタクシーをチャーターし、宜興へ行く。宜興、現在の私なら何としても行きたい町。紫砂の茶器で有名な町であるが、当時は全く興味がなく、目も呉れなかったのは残念。あの時買い求めていれば今頃素晴らしいコレクションになっていたのに??その時は洞窟があり、小さな船で洞窟探検が出来るという事で行ってみた。確かにちょっとした観光地であったが、印象はあまり強くない。

帰りにチャーターした車が他の車と接触したことの方が印象に強い。我が運転手は敢然と車外に飛び出し、ものすごい勢いで口げんかが始まった。中国では口角泡を飛ばすといった口論が町の彼方此方で見られる。ただその時は自分達も当事者となった為、事態の推移を固唾を飲んで見守った。周りに野次馬が殺到した。他に楽しみがないのか、何処でも野次馬が多い。かなり言い合った後、とうとう我々の所に来て、証人として証言してくれと言う。当時の北京語力ではとても証言など出来るわけがない。第一実際にどちらが悪いのか見ていたわけではない。一瞬の出来事だったから。

我々が証言出来なかったことが祟ってか、運転手は捨て台詞を残して車に戻ると乱暴に発進させた。きっと彼は会社に戻り、社長に色々と言い訳をしないといけないのだろう。私は彼に悪いことをした気がしてならなかったが、どうしようもなかった。中国では口論で相手を言い負かす言語力が求められることを痛感した。但しこれはネイティブではない我々には実際は不可能なことに思えるが。

3日目は帰る前に恵山泥人形工場に行った。泥人形は無錫の特産。お土産に1セット買った。劇の役者の顔を模った物が多かった。無錫は元々錫の産地であったが、早くに掘り尽くしたという。それで錫がない無い、無錫となった。その後泥人形が出来たのかもしれない。

帰りの列車も何事もなく上海に着いた。今回の旅ほど何のハプニングも起こらなかったのも珍しい。

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》最初の旅-北京

〈最初の旅-1986年9‐10月北京〉

1. 留学
1985年私はあまり深い考えも無く、銀行に就職した。相変わらず北京語も出来ず、算数も不得手の私が今の会社を選んだ大きな理由は、『北京語を使う必要が無い』と考えたからだ。当時巷では中国ブーム。就職時、多くの企業から中国語を勉強していたと言う理由だけで誘いを受けた。はっきり言えば全く勉強しなかった私は就職の為とはいえ、『中国語が出来ます』などと言う嘘をつくことは思いもよらないことであった。私が選んだ銀行は信託銀行。どうみても国内銀行の響きであり、中国語を使うビジネスなど無いと思っていた。企業訪問ではろくに調べもせず、お金持ちの資金を預かるつもりで入社したのだ。

その考えが間違いだったことは直ぐに分かった。入社後配属された場所は国際部、当時の役員はトイレで会えば、『中国語勉強しているか?』と聞いてくる始末。これではおしっこも出なくなってしまう。そして入社1年目の3月、当時の部長から『中国留学の話がある。詳しいことは人事部で聞いて。』と言われて、人事に赴けば『来週までに健康診断して来て。』。私の意思などお構いなく、留学が決まってしまった。後に私を採用した人事の人に聞くと、中国語が出来ないと言っていたので、機会を与えたまでとの事。随分と配慮されていたようだ(笑)。

さあ、それからが大変だ。普通の留学生は中国語の学校に国内で通い、そして留学するのだが、私の場合行き成り留学。何とかお願いして、週2回夜先生に来てもらって、他の生徒と3人で勉強を開始したのが、5月。9月の留学までに何とか基礎の基礎をマスターした。ところでそのとき習った先生は、上海人の莫邦富氏。その後ジャーナリストとして、中国の社会問題を追いかけており、蛇頭、一人っ子などを題材とした多数の著書を残している。この時点ではそんな人になるとは思っても見なかったが、彼は留学当初からこのような野望を抱いていたのだろうか?

2. 上海へ
今回の留学は、全国銀行協会のアレンジで中国銀行の受け入れである。会社は事務所のある北京に留学するよう勧めたが、中国銀行からの回答は上海の復旦大学であった。当時聞いていた話では、上海は中国で一番発達した都市ということであったので、ラッキーという感じを持った。これは後で大いに間違いであったことが分かるのだが。

1986年9月6日、17年経った今でもこの日は忘れない。中国民航(今の中国国際航空)で成田を出発した銀行員留学生は21名。私は最年少であった。その後の上海生活の記述は別の機会に譲ることとする。

3. 北京
(1)北京へ
上海での生活にも漸く慣れた頃、国慶節の休みがやってきた。と言っても中国の大学は実質10月から始まるので、未だ殆ど授業もないような有様ではあったが。9月下旬我々の部屋の向かいのH君から『北京に一緒に行きませんか?』との誘いがあった。H君は関西の大学から私費で留学して1年以上経過しており、北京語も堪能で上海の事情にも通じているので、我々の貴重な情報源となっていた。私と同室のAさん,それにもう1人の4人で行くことが決まった。正直言ってこの時期中国の怖さ(?)をいやと言うほど味わっていたので、H君がいなければ決して出掛けはしなかったろう。また行き先が北京であり、北京事務所には挨拶しようと思っていたので、決心がついた。

アレンジは全てH君任せ。当日9月29日の夕方、初めて上海駅に行った。今なら虹橋空港から一っ飛びであるが、当時『国内線は落ちる』(ある人の話では年間10機以上が墜落していたが、外国人が乗っていない限り発表されることは無いとのことで、我々に実態は良く分かっていない)とよく言われており、飛行機は生命の危険が伴うと本気で考えていたので、列車の旅となった。この切符を買うのがまた大変でH君のコネを使って何とか軟臥(A寝台)を抑えてもらった。(当時汽車の切符を買うのは大変であり、特に幹線の軟臥は厳しい。更に国慶節とくればその難しさは想像を絶する。)

(2)初めての列車
当時の上海は何から何まで大変だった。大学の宿舎から駅に行くのも満員のバスなら幾つか乗り換え、タクシーは前日町まで行って予約しておく必要があった。旅行は一大イベントだ。上海駅は目立たない建物で、バスで通り過ぎてしまっても不思議は無いほどみすぼらしかった。イメージは戦後直後の映画に出てくる上野駅?人は山ほど居り、改札口に着くのも一苦労だった。駅構内も暗く、どの列車が何処へ行くかもよく分からない状態であった。その中で我々の乗車する北京―上海直行便は唯一光を放っているように見えた。この列車北京―上海間を17時間ノンストップで結ぶ最新式であり、恐らく当時中国が誇る列車であったはずだ。

中国の列車には軟臥、硬臥、軟座、硬座の4種類があり、今回は長距離であるので、軟臥に乗る。軟臥は4人一部屋でコンパートメント。左右に2段ベットが2つあり、昼間は下のベットに2人ずつ座って過ごす。更に進行方向左側は通路になっており、引っ張ると出てきて座れるシートから外を眺めることも出来る。我々は4人で1部屋を占領し、快適な旅を過ごした。

初めは兎に角物珍しさもあり、動き回ったり、外を眺めていた。上海郊外は田んぼと畑が連なっており、日本の田舎のようだった。その内夜になり暗くなると全く電灯が無いところが続き、本当に真っ暗だったのを良く覚えている。
列車内では皆がお茶を飲んでいる。お茶でなければ白湯かもしれない。車掌は頃合を見計らって薬缶に湯を入れて持ってくる。車両と車両の間にも給湯器がある。

夕食は列車に付いている食堂車へ行くのだが、これが非常に混雑していて、席に座るのも一苦労。食事も美味しいとは言えない代物だった。更に驚いたのは、我々が食べている横におじさんやおばさんが鋭い目つきでピタリと張り付いており、立ち上がる素振りでも見せれば、忽ち取って代わられる勢いであった。中国人の逞しさをここでも見た。中国人にとって食事は何よりも大切なものなのだ。この時文化大革命終了から丁度10年まだまだその意識は人々から去っていなかったのであろうか?

夕食後、部屋に戻ると通路に外国人が居た。我々以外は中国人と思っていたので、話しかけた。たどたどしい英語で聞いたところ、ハンガリーの外交官夫妻のようであった。日本ではなかなか会えない人々なので幾つか質問した気がするが忘れてしまった。この列車の軟臥に乗っている中国人は基本的に共産党幹部、軍関係者また何かのコネのある人だけと思われた。硬臥以下の喧騒は凄まじいものがあったが、ここは別世界のように静か。ただ基本的に車掌以外と言葉を交わした記憶は無い。未だ相手から見ても外国人は未知の存在であったのか?

夜中に一度ガタンといって列車が止まった。未だ到着には早いと思い、外を見ると山東省の済南駅であった。ここは交通の要所であるらしく、郵便などの荷物の積み下ろしだけが行われていたようだ。下りて見たかったが、何時出発してしまうかが心配で窓から眺めただけだった。

(3)北京事務所
翌朝北京駅に到着した。ここも今とは違い、暗くて怖い雑踏だった。但し上海駅と違い建物は立派であった。1959年の建国10周年を記念して建てられただけあり、首都の玄関口の風格はあった。H君の誘導で何とか駅を抜け、バスに乗ったと思う。左程遠くないところに予約したホテルはあった。このホテルを予約することも当時の中国では難しく、今回はH君の知り合いの先生を通じて予約してもらった。場所は天壇公園の西側、天橋飯店の近く。因みに1999年に北京駐在となった折探してみたが良く分からなかった。尚現在近くに天橋茶芸館という食事をしながら話芸や京劇の一節を楽しむ劇場があるが、ここの食事は頂けない。

ホテルはあまり大きくないが、部屋は何とスイートルームだった。ここに4人は寝れるということだ。まあ兎に角国慶節の休み(当時は30日午後と10月1-3日)期間に部屋を確保できることは当時大変なことなので、皆喜んで泊まった。恐らく部屋代は一泊一部屋200元位ではなかったか?

午後は皆と別れて北京事務所を訪問した。民族飯店にあった。当時は日系の事務所も沢山所在しており、立派なものだった。事務所といってもホテルの部屋を使用しているので、部屋番号を頼りに探す。漸く辿り着き、ノックするとドアが開き、そこに濡れた髪を拭きながら佇む美人が居た。これには驚いた。部屋を間違えたと思った途端、その後ろから『いらっしゃい』と日本語で言われた。当時の次席駐在員S氏だ。美人は事務所の秘書劉さんだった。事情を聞くと中国では風呂は各職場で入るものだそうで、彼女は国慶節休みで帰宅する前にシャワーを使っていたようだ。ホテルの部屋だから、風呂場はあるわけだ。

帰りは連休前で殆ど車の走っていない中、何とかタクシーを捕まえてホテルに戻った。運転手の北京語は全く分からなかった。兎に角早い。舌の巻き方も尋常ではない。これが老北京人の北京語だ。酔った勢いで分からないながらも会話を試みた。ホテルに着くと、運転手は親切にも中まで着いてきた。おかしいなと思って聞いてみたところ、私はお金を払っていなかったのだ。後日この話を誰かにしたら、もしその運転手がホテルで騒いだら大変なことになっていたと言われて、背筋が寒くなった。

(4)北京観光
10月1日は天安門広場、故宮博物館に行った。兎に角広かった。故宮の中は歩いて抜けるだけで、1時間半も掛かった。何を見たかは覚えていない。天安門広場では可愛い子供の写真を取ろうとして親に文句を言われた。中国では無断で子供の頭を撫でたり、写真を撮ったりしてはいけないことをこの時知った。

午後頤和園へ行った。園の中を闇雲に歩き回ったが、中身には印象がない。ただ天気が良くて気持ちがよかった。故宮より更に広かった。天壇公園にも行ったが、観光地にあまり印象がないのは、やはりこの旅の目的が観光ではなく、日本食を食べるためであったからかもしれない。ところで北京は10月のこの時期だけが素晴らしい。『北京秋天』と言われている。上海の9月は東京と同じで残暑が厳しく、更に宿舎の裏がどぶ川であることから特に臭い。それに比べてこの爽やかさ。北京の第一印象が良いのは天気の為だ。後年2年間北京に住んでみて気候の悪さは身に沁みたことから、この時のタイミングの良さを思わずにはいられない。

北京は広い。上海と違って簡単に西から東に行けない。当時はタクシーなど簡単に捕まえられず、基本的にバスに乗った。バスは2つをチューブで繋ぎ合わせたトロリーバスで、車掌の言葉も分かり易い。因みに上海は上海語で話していた気がする。上海ほど込んでいなかったのは休みの為か?

そういえば、この旅で全く印象が無いのが北京の地下鉄。先日亡くなった宮脇俊三氏の『中国火車旅行』を読むと1985年には北京に地下鉄があったとなっている。しかし全く乗った記憶も無い。やはりタクシーが乗れる喜びにタクシーばかり捜してしまったのだろうか?(1999年に駐在した時も子供を地下鉄に乗せるために、タクシーで駅に行くほど不便ではあったが。)

昼も夜も食事は日本食レストランへ行った。建国飯店の中鉢、北京飯店の五人百姓。感激した。上海が中国1の都市と言われるのは、あくまでも中国人を対象とした話だ。80年代日本人にとってよい都市は北京と広州ではなかったか?カツどんを食べて泣きたくなってしまった。誰も北京ダックを食べようとは言わなかった。(最終的には全聚徳に入ってみたが。)

10月2日、北京旅行のメインイベント、万里の長城へ行った。前日やっとタクシーをアレンジ。200元(これは当時の私の先生の月給の1.5倍)。車はシトルエン、但しフロントガラスは割れており、なかなかスリリング。街中を抜けると畑が広がる。シトルエンは休みの日に働かされたのが不満なのか、用事があるのか驚異的なスピードで飛ばしていく。160kmは出ていた。途中皆怖くて何とかスピードを落とさせようとしたが、2時間その調子であった為、到着したときはグッタリした。長城にどうやって登ったのは全く記憶がない。私は高所恐怖症のため、いやな思い出は忘れようとして忘れた可能性もある。

但し登った後の印象は強烈であった。何処までも続くレンガの壁、所々に見える物見櫓、そして雄大な景色。全てに圧倒されてしまったのであった。その時頭の中に浮かんでいたのは只1つ。『どうして日本はこんな物を作った国と戦争してしまったのだろう。天皇及び日本の内閣・軍幹部がこの風景を見ていたら、戦争の決断が出来ただろうか?百聞は一見に如かず、とは正にこの事だ。私は今この風景を確認した。今後は絶対この国と戦争をしてはいけない。』現在でも現場を知らずに新聞情報等を基に議論している人が多い。特に中国情報は政治的な要因もあり、歪められているケースが多々見受けられる。この時から私の営業スタイルも現場主義になった。

帰りもハイスピードで市内に戻る。運転手は我々の不満を余所にチップなどを要求している。働くのが好きでない北京人を印象付ける出来事であった。後に北京の合弁会社に勤務した際、この時のことを何度となく思い出した。

(5)北京のゴルフ
10月3日、昨日ホテルに戻るとS氏より電話があり、ゴルフに行かないかとの誘いがあった。私は生まれて2度しかコースに出たことがなく、面白いとも思えなかったが、何しろ『クラブハウスには日本式の風呂がある。夜は日本飯屋で寿司を食わせる。』と言われては、行かないわけには行かない。

ゴルフ場は昨日の帰りに寄った明の十三陵の傍にあった。出来たばかりのようで木は殆ど生えておらず、白杭がやけに目立つコースだった。現在は木も育ち素晴らしいコースになっているが。日本の経営で、クラブハウスでカレーが食えた。

但し夜は素晴らしかった。寿司をたらふく食べた。何もかも忘れた。感謝している。

(6)最後に
10月4日、愈々上海に戻る日が来た。正直戻りたくなかった。最後の昼は新橋飯店でラーメンを食った。若干温かったが、美味しく食べた。食べ終わると向こうから歩いてくる人が見えた。近づいてきたその人は大学の同級生ではないか?A君、確か私と同じで中国語が不得手、中国語と関係ない職場を探して、故郷の九州へ戻ったと聞いていた。『こんなところで何してるんだ?』同時に顔を見合わせた。彼は九州の優良衛生陶器メーカーに入社したが、折からの中国ホテルブームに巻き込まれ、中国で便器を売り歩くことになっていた。たった一人で入社1年目から中国でやっていると言う。私はよほど恵まれていると思い、これまで愚痴をこぼして来たことを恥じた。しかし中国語から逃げた2人が北京で再開とは。彼によれば実はもう一人、中国語がいやで九州に戻ったT君も福岡の銀行に入り、入社1年目で北京に留学し、既に帰国したとのこと。やはり運命とはそんなものかと感慨深かった。

新橋飯店の横にドイツ風ベーカリーがあった。当時中国ではパンが食べられることは貴重だった。このパン屋の中に入って圧倒された。パン屋に圧倒されたのは後にも先にもこのときだけ。ジャムパン、クリームパン、チョコレートパンがあった。夢中で買った。上海では物があったらその場で買えるだけ買うという習慣が既に身についていた。トイレットペーパーを両手一杯に抱えて満員のバスに乗ったこともある。この時およそ50個のパンを買った。列車の夕飯もパンを食べていた。翌日上海の留学生宿舎に戻り、日本人に1つづつあげた。皆最敬礼して受け取った。1個日本円で5円程度のものを『このご恩は忘れません。』などと言って貰う日本人は既に日本には存在しない。

17時間の列車の旅というと、途轍もなく長い感じがするが、寝てしまえば1晩。ましてやノンストップで人の乗り降りがない、この旅は最も楽なもので初回としてはいい旅だったと言えよう。

 

 

 

《ビエンチャン散歩2006》(3)

(3)昼食

昼にゴルゴがやってきた。本当は今日も立派なレストランでラオ料理を食べる予定であったが、昨日予定を変更してもらった。麺屋に連れて行け、と頼んだのである。彼はお安い御用と切り替えてくれた。勿論食事代は既に払っている。店がキャンセルできれば彼にはそこそこの収入があるはずだが、細かいことは言わない。私は自分の食べたい物を食べるだけでよい。

連れて行かれた店は少し外れた普通の庶民の店であった。これが良い。12時過ぎるとあっと言う間に満員になった。人気店である。何故か赤いワーゲンで乗り付けてきた若いカップルもいた。

味王と漢字で書かれたエプロンをした店員がきびきびと料理を作っている。ここは美味そうだ。オーナーはおばあさんのようでゴルゴと話し込んでいる。ラーメンに似た麺にチャーシューが載っている。スープが美味い。ゴルゴは自分で醤油を入れたりして味を調えているが、このままで十分ではないのか??

隣が頼んだチャーハンも美味そうなので追加注文。タイ米で作っているが、刻んだチャーシューが入っているところは日本風??全体的にあっさりしていて、生もやしなどを入れて更にあっさり食べる。どう見ても食べ過ぎ。ゴルゴも2つ平らげた人はいないと言う。

ラオには麺とライスを一緒に食べる習慣はないという。ゴルゴは日本流のラーメンライスにアレンジしたのだ。ラオ人はお昼に麺一杯で大丈夫なのか聞く、腹が減ったらおやつを食べるとの答え。

兎に角立派なレストランで食べるより余程よい。高級よりB級を好む自分を発見。ゴルゴのアドバイスは次回から旅行社を通さないこと。旅行社の人間はお客を庶民の店に連れてきては、全然儲からない。

(4)庶民の市場
時間調整のため、庶民の市場へ行く。昨日既に市場には行ったが、あれは観光市場。Aさんからのメールに書かれていた漬物文化も確認したい。入るとやはり先ずは野菜が山積み。キャベツ、きゅうり、なす、トマト、色が極めて原色。

かえる、皮をむかれた鶏など日本の観光客などは目を向けられない物もいくらでもある。市場は昼下がりでお客もなく、市場の女性達は何と昼からビールを飲んでいる。しかもコップを持たずにビンから直接。この光景、何だか私は好きである。

樽に魚の切り身が漬けられている。大量の小魚が漬けられている樽もある。これがAさんから貰ったパーデーク(魚の塩辛)であろう。正直かなりの臭気がある。

【Aさんから貰ったメール】
東南アジアにおける米食、魚醤と野菜の生食
1.概要
(1)東南アジアは、高温多湿であることから米と魚の発酵食品(ナレズシ、塩辛、魚醤)が発達し、麹を使った東アジアの米、大豆の発酵食品(味噌、醤油)とは異なる。
(2)味噌に比べて醤油の歴史は新しい。同様に魚醤の歴史は新しいが、そのもととなった塩辛の歴史は古い。
(3)魚醤発祥の地は、ラオスから東北タイ、あるいは雲南省から貴州にかけての地域である可能性が高い。
(4)東南アジアでは、ウルチ米の嗜好が主流だが、ラオス、東北タイ=イサーン、チェンマイを中心とする北タイでは雲南省西双版納地方と同様にモチ米が好まれ、照葉樹林説との関連性が想起される。

2.内容

(5)ラオスの塩辛の汁、ナムパーデーク
海のない国であるため、これまで見てきたような小エビの塩辛ペースト(カピの類)とベトナムのマムに当たるものは存在しない。が、それ以外は豊富である。
たとえば、パーデーク。塩辛、あるいは塩辛のペーストである。小魚の姿のままのもの、大きな魚の切り身を漬け込んだもの、そして、それらを潰してペースト状にしたものがある。ペーストの場合、頭、内臓を抜いて切り身にしたものを竹籠に入れて重石をし、水分を抜く。それに塩を加えて突き砕き、また重石をして数日置く。さらに塩と少量の米ぬかを加えて搗き、瓶にいれて熟成させる。一般的には、かつての日本の味噌造りのように、家庭で作られる。また、この塩辛作りの副産物である塩辛の汁、ナムパーデーク、そして、工場で生産される魚醤油、ナムパーがある

・・・この国の場合もパーデークやその汁の利用は古いが、ナムパーは比較的新しい、おそらくは100年と経っていないものかと思われる。・・・上記以外にも沢ガニを塩漬けにしたものなどもあり、すり潰して、先のパパイヤのサラダ、タムマックフンなどの味付け(塩味と旨み付け)に用いられたりする。 

(6)魚醤が生れた地?
このあたり(ラオス)の地域がその(水田漁業)のその起源であるという話であるが、石毛氏はその著書『魚醤とナレズシの研究』の中では、断言まではしていない。
可能性としては、こういった条件(水田漁業・自然塩・ナレズシ・塩辛類)に合致する場所ということで、ラオスから東北タイにかけてのあたりが、一番可能性が高いのではないかということである(あるいは、雲南省から貴州にかけての盆地という可能性もあるという)。

もとより、すべての魚醤、ナレズシの類が一ヶ所から生れたと言うわけではなく、ややこしい面はあるのだが、このような食のセットが生まれた地として、考えられるということである。ただし、念のためにいうと、それが、現在のラオ族であるということではない。前述のように、この地域にラオ族がいくつかの小国を形成するようになるのが10世紀の頃である。それよりずっと以前の、可能性としては、扶南国などのモン・クメールであるとされる。それ以前の少数民族のもとで形成された可能性もないではないが、クメールの可能性が高いというのが石毛説である。
(「世界の食文化4」『ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』森枝卓士 著 ) 
驚くべき文化である。東南アジアの食文化は塩辛、魚醤である。香港でも歴史博物館に行けば、魚醤の製造工程などが解説されている。なまじ文明が発達した所には残っていない貴重な文化を見る思いである。

キンマの葉も売られている。ビンロウが横にある。ここでも老人がビンロウを噛んでいるらしい。きのこやたけのこの横にさり気なく置かれたビンロウ。これも東南アジアの伝統文化である。

ドリアンなど独特のフルーツも置かれている。『梨』と書かれた紙に包まれたナシ。日本に輸出しているのだろうか??仏具を売る店が大きく張り出している。仏事用の茶器が売られている。造花が一面に花を咲かせている。

市場を出て車を走らせる。次の約束まで少し時間がある。郊外に向かう大きな道を走る。道の脇に十字架がいくつも見える。墓である。植民地時代のフランス人の墓であろうか??近づいて見ると『公教義堂』と言う漢字も見える。ゴルゴによれば、ベトナム人の墓だそうだ。

ベトナム人キリスト教徒の墓。華僑もいただろうし、西洋人もいたかもしれない。彼らは異国でも他の墓には入ろうとしないし、異教徒はこの墓地に埋葬できない。午後の陽射しの中で、十字架をつけた墓がリンと輝いていた。

 

(5)ノイワールド
1時半、約束の時間がやってきた。今回ビエンチャンを訪れた理由は1つ。バーンタオ氏の紹介でノイに会うことだった。車は指定された学校に向かう。時間に余裕があり、事前に調べていたにも拘らず、見付からない。

ゴルゴも流石に慌てるかと見えたが、やはり悠然としている。2回ほど辺りの人に聞いてようやく到着。そこは商店や民家が並ぶ一角、幼稚園と言うかプレールームと言った感じ。入口を入ると奥から女性が出てきた。それがノイ。周りには5-10歳ぐらいの女の子が数人遊んでいた。

ノイ、5歳頃から父母と共に音楽を始め才能を発揮、国の代表としてロシアに行ったことも。奨学金を得てオーストラリアに留学し、建築学を勉強。アイドル歌手としてデビュー、2002年ミスビエンチャンの才媛。29歳。現在はラオインターTVの英語ニュースキャスター、そして知的障害を持つ子供の為の学校を運営するスーパーウーマンである。

その笑顔は多くの人に愛されているであろう。奥のクーラーの効いた部屋に通される。甘いラオアイスコーヒーが出てきた。ノイは甘過ぎないかと心配したようだが、ゴルゴが昨日のことを説明する。

椅子に座るとノイが流暢な英語で話し出す。今年の6月に東京に子ども達を連れて行き、チャリティーコンサートを開いたこと、障害を持つ子供を飛行機に乗せることが非常に心配だったこと。今月は名古屋、常滑でコンサート、日本の人々には親切にされたという。常滑焼の湯飲み茶碗を見せてくれた。

彼女の話し方はハキハキ、頭のよさが見える。そして実に情熱がある。バーンタオ氏が『ノイはラオのアウンサンスーチーになるかもしれない』と言っていたことを思い出す。いきなり彼女がベトナム琴を取り出して耳掻きの長いの??を使って鳴らし始める。そして『すばる』を日本語で歌いだす。その姿はプロの歌手そのもの。驚いた。

ラオは貧しい。特に田舎は子沢山。一部屋に10人以上で生活している。障害のある子供は働くことも出来ず、邪魔者扱いとなり、生きていけない。現在そういった障害児を63名預かっている。但し政府は宿泊を認めないため、通える子しかいない。田舎は時々訪問して音楽を教えていると言う。

脳に障害のある子供は普通の勉強は難しいが、音楽や美術を習うことは脳に良い刺激を与える。実際言葉を覚え難い子供が歌や踊りは直ぐに覚える。将来政府に許されれば寄宿舎を造り、ラオ全土の障害児に歌や踊りを教えたいと言う。この年齢でこの志、日本では考えられない。

その資金作りのため、コンサートを開き、CDを売る。コンサートは先日トップアイドルであるアレキサンドラとジョイントを開いたばかり。アレキサンドラはお母さんが西洋人のハーフ。昨日見たトヨタがスポンサーをしていたCDの子。

 

ノイは日本で発売したCDを見せてくれる。驚いたのは日本ではレコード会社がOKすればCDが出せるのに、ラオでスポンサーがいないと無理なこと。ラオではCDの値段が1枚2ドル。消費水準が低く、コストをカバーできない。1枚出すのに2500ドルほどのコストが掛るようだ。これを企業に支援してもらう必要がある。

彼女の素晴らしい歌声を聞いているとスポンサーは簡単に集まるのではないだろうか??以前は大林やクボタといった日本企業が支援してくれたそうだ。子供達のためにもスポンサーを探したいとのこと。

彼女の母親がやってきた。流暢な英語を話す。昔は歌手だったようだ。現在はノイのマネージャー役であろうか??ノイは母から歌を習った。しっかりした親の元でノイの考え方が発達したのだと思う。

子供達が歌と踊りを披露してくれると言う。ノイが音楽を流し、号令を掛けると一斉に踊り出す。とても障害があるようには見えない。しかも既にコンサートなど大舞台を経験しているだけにどうに行っているカメラを向けるとカメラ目線になる子もいるほど。

モダン音楽に続いて、ラオ伝統音楽に合せて踊る。東京でも踊った曲で、可愛らしい。歌が終わり、持参した色鉛筆とノートを渡す。彼女らは『こんにちは』『ありがとう』などは日本語で言える。本当にこの教育は素晴らしい成果を出している。

ノイが後ろで一緒に踊る。その仕草は実に愛らしい。しかし彼女は真剣そのもの。踊っている子の中に2人色のついたメガネを掛けている子がいる。遊び用かと思ったが、それは障害をカバーするものであった。

踊りが終わるとノイは一人の少女を紹介した。その子は少数民族の出身、重度の障害を持っており、踊ることは難しいらしい。聞いてみると何とノイは彼女を養女にしているという。これには驚いた。ノイがこの事業を生半可な気持ちでやっていないことの証明。

 

ゴルゴも帰りに『こんなラオ人を見たことがない。素晴らしい。可愛い、ファンになった。』と言っていた。実際行く前ゴルゴは『ノイのことはよく知らない』と言っていたのであるが、ドネーションはするし、サインも貰っていた。

時間が来たので立ち上がると少女達は、アカペラで『Top of The World』を歌いだす。素晴らしい英語の発音で。そして2番はラオ語で歌う。才能が感じられる。更に皆で手を繋いで何と中島みゆきの『地上の星』を歌いだす。完璧な日本語である。感動した、素直に感動した。こんなことがあるなんて、たまには人生良いこともある。そして歌が終わると全員で声を揃えて『さようなら』。

これは大変な経験をしてしまった。涙が出そうになった。ここ前来るには物凄い努力があったのだろう。自分の才能を人に伝えるノイの姿勢には改めて脱帽した。家の前で全員が元気よく手を振ってくれた。ゴルゴも感動して手を強く振る。

ノイワールドを見てしまった。今後私は何が出来るのだろうか??

(7)夕飯 
ホテルに帰っても余韻に浸っていた。最近感動することなどなかなかない。気持ちが高ぶっている。これは一体なんだ??また風呂に浸かり、心を静める。

6時半に出発。今日こそはメコンの夕陽を見に行こう。到着すると陽は既に雲の中へ。しかし十分にメコンの夕暮れを堪能できた。雲間から輝く夕陽を微かに浴びるメコン、そしてそれを眺める子供。いい風景だ。

西洋人はそんな風景を眺めながら、ビールを美味そうに飲んでいる。何で日本人はいないのか??ゴルゴに文句を言うと『日本人観光客をこんな所に連れてきて、焼き鳥でも食べさせたら、衛生面でクレームが必ずつく』とのこと。

本当に日本人は楽しみ方を知らない。または楽しいと思わないのだろう。バックパッカーはOK。若者がバックパッカーに憧れたのは、この自由さだったはず。しかし最近は若者が冒険をせず、きれいな世界だけを求めるらしい。嘆かわしいことだ。

落ちた夕陽をいとおしく思う。川面を眺める。静かな流れがある。焼き鳥の甘い匂いが食欲を刺激する。確かこのたれは非常に甘いはずだ。昨日は暗かったので良く分からなかったが、川べりには多くの焼き鳥屋台が出ており、もも肉をぐるぐる回して焼いていた。テーブルがたくさん用意されており、注文した物をそこで食べる。贅沢だ。

夕食はまたもや一人。ゴルゴは中華料理屋に案内した。福満楼と漢字で書かれた立派な門構えの店。中に入ると何とゴルゴは店員と北京語を話し出した。驚いた。彼は一体何ヶ国語を話すのだろう。聞けば北京語よりは広東語の方が更に得意らしい。

 

北京語か通じるならば問題ないと早々にゴルゴを帰して食事を開始。調子に乗って店員に北京語で話し掛けたが、何と誰も通じない。分かるのはオーナー一家のみであった。鶏スープ、くらげの前菜、エビの揚げ物、餃子、イカ野菜炒めが次々に出てきた。その勢いで食べて行ったら、あっと言う間に食べ終わる。味はうーん??

その頃お客が着始めた。どう見ても中華系。宴会があるのか、大物と思われる老人が皆に迎えられてやってきた。ここに来る客は顔なじみが多いらしく、皆挨拶を交わしている。華僑の交流の場になっている模様。

気がつけば店は満員。その中でたった一人食事をしている私は異様に見えたであろう。早々に退散する。

7月22日(金) 
4.ビエンチャンを去る 
(1)朝の散歩 
6時に起床。身体は快調。早速散歩に出る。ホテルの前を道沿いに歩いて行くと5分ほどで市場へ。前日雨が降ったため道はグチャグチャ。パイナップルを大量に積んだトラックが何台もある。今が旬なのであろうか??

市場は掘っ立て小屋といった感じで柱を組んで布を掛けている程度。当然天井も低く、通路も狭い。足元も悪い。しかし買い物客は多い。朝ごはんを買ってこれから家で食べるのであろう。それが本来の生活なのかもしれない。

 

カオチーサイクアンという名前のフランスパンにハムときゅうりを挟んだ美味しそうなサンドイッチがある。香菜がはみ出しているのが魅力的。カオダーイという目玉焼きも売っている。ここで朝ごはんを食べたい誘惑に駆られるが、ホテルの食事を考えて我慢する。(ハエが多く、衛生面は若干心配)

 市場の隣にはバスターミナルがある。近郊向けのバスが停まっている。韓国現代製である。そしてタイとの国境を越えるインターナショナルバスも出ている。これは恐らく友好橋行き、45分ぐらい掛るらしい。

 

 

因みにこの橋、1994年にメコン川に架かる最初の橋としてオーストラリアの無償援助で作られた(事前調査は日本が行っている)。橋の前兆は1174m。バンコックから国際線でビエンチャン入りするより、国内線でウドンタニに行き、バスに乗り1時間でこの橋につく方法もあると言う。

(2)朝食
昨日と違って今日はアラカルト。年代物の扇風機が回る中、散歩後で食欲があった。しかしゆで卵を注文すると何分茹でるかと聞かれた。アジアでそんな質問をされることはないので咄嗟に答えられない。3分と言うと半熟以下で出てきた。食べて大丈夫だろうか??

 

西洋人の老夫婦が楽しそうに食事をしていた。朝から笑顔の夫婦は日本にはなかなかいない。エンジョイ、とはこういうことだろうか??今回のラオ訪問について考える。後で読んだ本『ラオス』(青山利勝著 中公新書)にラオ人の特徴が上手く表現されていた。インドシナ人の定義は『稲を植えるのがベトナム人、育つのを眺めるのがカンボジア人、育つ音を聞くのがラオ人』だそうだ。かなりの酷評であるが、一方『人柄から民族の資質まで中国、ベトナム、タイより優れている』としている。

ラオ人が日本に対してよい印象を持っているのも感じられる。ラオは昔からタイ、ビルマ、ベトナムなどと争い、フランスの植民地化、アメリカの支配を受けた国。異質な国に対する警戒心が薄い。というより異質なものを受容していかなければ生きていけなかったということだろう。そのため外国人がラオに住んでも違和感が少ないらしい。

電気なども停電することがない。水力発電があるからだと聞いたが、資源は豊富でも資金がないため開発は進んでいない。それを『ラオスは鍵のない宝の箱に腰掛けている乞食の子供のような存在』と表現しているのは分かりやすい。人々は穏やかであくせくしていない。潜在力はあるが、分相応の生活を送る。それで幸せなら一番良いのではないか??余計なことを他国民が言うのはどうだろうか??その中でノイの活動が気に掛る。

(3)ノイ再訪
実は前日夜ホテルに戻り、ノイから貰ったCDを開けて見た。プロフィールを見るためであったが、何とCDが入っていなかった。何かの手違いであったと思ったが、名刺を貰ったので思い切って携帯に電話してみた。もう一度会ってみたかったのだ、本音は。ノイは直ぐに電話に出た。事情を話すと分かってくれた。明日朝もう一度オフィスに行くことになったのだ。何だか得した気分。ゴルゴにも電話し、迎えの時間を早めてもらう。

8時30分気にいっていたホテルをチェックアウト。実に名残惜しい。フロントも笑顔で送り出してくれる。しかも初日に預けた松茸もちゃんと渡してくれる。今度来る時もこのホテルにしよう。ノイと再会。彼女は一人で待っていてくれた。昨日よりカジュアルな服装。黒いスカート姿でシックなイメージ。子供たちと接する時と、そうでない時は分けているのかもしれない。相変わらず爽やかな笑顔。しかしフライトまで時間がなかった。

CDを受け取ると直ぐに別れた。残念ではあったが、再会できただけでも良かったと思うべき。手を振る彼女を後ろにそのまま空港へ向かった。

空港には結構人がいた。フライト時間が重なっているのだろう。バンコックとハノイから便が到着するところだ。私が2日前に乗ってきた便である。この2日間も長かった。中身が濃かった。

ゴルゴとはあっさり別れた。と思ったら急いで引き返してきた。名残惜しいのかと思うとそうではなく、旅行社からアンケートを回収するように言われていたのだ。何だかユニークなキャラである。次回は直接Faxで依頼してくれ、と言って去っていった。

2階に上がると土産物屋がある。そこで私はお茶セットを買った。パクソン、バンビエン、ポンデサリーの3種類のお茶がパックになっている。パクソンはラオ緑茶、バンビエンは桑の葉茶、ポンデサリーはスモーク緑茶だそうだ。

次回はお茶見学で是非訪れたい。

《ビエンチャン散歩2006》(2)

(4)ゴルゴの話

観光中ゴルゴに色々なことを聞いた。何しろ私にはラオに関する知識は殆どない。先ず国の体制だが、ここは社会主義国ではあるが、ベトナムに依存している。ベトナムがやることはその通り行っている。中国の影響もある。ベトナムが中国と接近している中では当然出て来る。1975年にベトナムが独立、ラオも同様に独立。フランスの統治から脱却する過程で徐々にアメリカ寄りに。

 

ドイモイ政策も同じ。1975-1991年は鎖国。その後観光が解禁される。タイは日本より20年遅れており、ラオはタイより20年遅れている。ゴルゴは90年代に自費で出国。草加に住んで東京の日本語学校に通った。当初の手持ちは1000ドルしかなかったため、大変な苦労をした。ほかほか弁当でバイトして食いつないだ。結局2年で帰国した。

彼はひとり息子。ラオでは男が女の家に婿に行く習慣がある。以前は姓を女の方に変えなければならなかったが、現在は選択可能。彼の場合は一人っ子なので嫁を貰うことが許された。但し別姓。

子供は7歳と1歳半。現在は雨季休み中。ラオには日本語ガイドが全部で16人しかいない。彼も常に出張することになり、家にいなことが多い。寂しい。

ラオの人口はここ5年で350万人から550万人に増加。出生率が増加したことと難民の帰国が理由。国が安定した証拠。今後も増加することが予想されている。都市部は教育問題がなく、子供も2-3人。農村部は10人以上子供がいる家庭も多く、食べさせられない場合は寺に預ける。今後経済は在外ラオ人の投資に期待することになる。タイ人の投資も多くはない。電力は水力発電があり、停電は少ない。ガソリンは1-2割上がっているが、配給制はない。FECなどの外貨制度もなく、街ではドル、バーツ、ラオキップが同時に流通している。

ゴルゴの仕事は結構忙しいようだ。因みに英語・中国語は数百人、フランス語でも数十人はいる。彼は旅行社と契約しているフリーのガイド。しかし実際には旅行社も数人規模のため、雑用も引き受けているらしい。今日も1時間ほど留守番を頼まれているらしい。

(5)茶店
決められた観光コースを一通り消化するとゴルゴに茶店に連れて行くように頼む。彼は一瞬怪訝な顔をしたが、直ぐに『日本人でお茶が大好きな人が毎年ラオに来ます。以前北部の山奥に入ってかなり古い茶樹を見て来ました。』などという。それはもしかして松下さんのことか??

彼は行きつけの茶店があるということで行ってみる。ところが何と店は改装中。店の前の工事に合わせているのか??残念だ。なかなか良さそうな雰囲気であったので。ゴルゴはちょっと考えてまた車で別の場所へ。

今度の場所は外国人、バックパッカーなどが立ち寄りそうなカフェ。確かにお茶は売っている。ラオ茶、お土産である。雰囲気が良いカフェであり、オーナーの女性は英語もできるのでここで妥協してラオコーヒーでも飲んでいれば良いのだが、何故か拘ってしまう。

ゴルゴは嫌な顔をせずにまた考える。そして3つ目の店へ。そこは普通の建物の小さな店。軽食を食べる場所である。店の中では地元の人々が麺を食べていたり、コーヒーを飲んでいたり、思い思いの過ごし方をしている。古びてはいるが、風情がある。典型的なショップハウス。ここで彼はラオコーヒーを2つ注文した。日本と同じようにラオでもお茶はタダなのである。であるからコーヒーを頼んでお茶を貰い、併せて飲むことになる。

ラオ人は粉っぽいコーヒーにコンデンスミルクをたっぷり入れる。それは我々の想像を超えるほど、甘い。どうやって飲むのか??ゴルゴは私に『全部かき混ぜないように』と注意した。そこでお茶を併せて飲むのである。何ともはや??ゴルゴはベトナム産の香りをつけた茶を頼んだ。最近ラオではベトナム茶が流行っている。香りが良いからだそうだ。

 

私の前には伝統的なラオ茶が置かれた。緑の葉がコップを舞う。なかなか美味しい。特にあのコーヒーを飲んだせいだろうか??さっぱりする。薄いが味はしっかりしている。葉っぱも手摘み、これでタダとは??

初めからお茶だけを飲めばよいと思うのだが、こういった習慣は簡単に治らないらしい。
(日本だってちょっと前まで日本茶で金を取る店など無かった。ペットのお茶などはまさに革命的であった。)20年前上海でコーヒーを頼むと砂糖がたっぷり入っていた。砂糖は豊かさの象徴なのだ。このお茶は南部、パクセーの近く、パクソンで採れるらしい。一度行ってみたいところだ。パクセーは世界遺産にもなっており、ビエンチャンからは飛行機が毎日飛んでおり、行くのは比較的簡単らしい。

一方北の外れ、ポンデサリーから車でかなり奥まで入ったところに樹齢2000年の茶木がある。ポンデサリーまで飛行機は週2便しかなく、しかもキャンセルになることもある。それでも日本の専門家はトライしている。飛行機を使わないとすれば、ルアンパパーンから車で10時間。雲南との国境である。それでも行く価値があるとゴルゴは言う。

因みにラオにはかなり古い習慣をきちんと守っている山岳民族がいる。通い婚、末子相続。現在では車が通っている場所は全て現在化されてしまっている。歩いて1-2日入った田舎だけに見られる。もし行くとすればガイド、護衛など大掛かりな準備がいる。

 

 

(6)戦争
ホテルに戻る。早起きしたせいもあり、ちょっと疲れている。湯船に湯を溜める。浸かる。極楽気分である。深い湯船、シックな造り。満足である。疲れも吹き飛ぶ。うーん、こんな休日があっても良い。

湯から出ると備え付けのガウンだけを羽織り、裸で過ごす。これは癖になりそうなほど気持ちが良い。思えば今回はこれまで結構厳しい旅行をしてきている。最後に、しかもラオでこんな快適な気分が味わえるとは??やはり旅の醍醐味であろう。

インターネットのチェックに行く。知り合いのAさんからメールが来ていた。昨夜ラオに行くと伝えておいたら、いきなりラオの食文化についての論文を送ってくれていた。漬物文化、発酵文化には興味がある。明日市場で確認してみよう。

部屋に戻ってNHK衛星放送をつける。丁度7時のニュースを放送中。昭和天皇の側近のメモが発見されたとのこと。その内容は天皇が靖国神社にA級戦犯を合祀したことに不快感を持っていたというもの。これはなかなか凄い内容である。具体的に松岡洋右、白鳥敏夫などの名前を挙げて不快感を示しており、生々しい。今の宮司を『親の心 子知らず』となじったと言う。何故こんなメモが今頃出てきたのだろうか??小泉政権末期の波乱なのだろうか??アジア諸国はどう反応するのだろうか??

戦争についてラオ関連で思い出すことがある。あの関東軍参謀、ノモンハン事件の責任者、辻政信である。マレー作戦、シンガポール攻略などにも関与し、バンコックで終戦。その後『潜行三千里』、ラオ、ベトナムを経て重慶に至り、南京国民党政府に勤務。帰国後は何と参議院議員までなった男である。

その辻が何故か私の生まれた1961年にビエンチャンに来て、ホーチミンに会うために僧侶に変装し出発したが、そのまま消息を絶った事件を起こす。一体何のために??パテトラオに捕らえられて、ジャール高原で処刑されたと言う説が有力であるが、一方生存説もある、今でも全く謎の事件である。

 

大東亜共栄圏の夢をもう一度??と言うことだろうか??戦乱の残っているインドシナに昔を思い出したのだろうか??ホーチミンと直接交渉し名を挙げる最後のチャンスだったのだろうか??兎に角分からないこの事件がここビエンチャンを舞台に起こったことに不思議な因縁を感じる。

(7)夕食
ゴルゴが迎えに来た。夕食の場所に向かう。日の暮れた街の中、『クアラーオ』はフランス風の建物だった。中に入るとゴルゴが女性に声を掛けた。見るとさっき市場で出会った女性であった。にこやかに迎えてくれる。

時間は6時半とまだ早く、お客はいない。中には舞台があり、後で踊りが披露される。民芸品が壁際に飾られている。このレストランは外国人用である。小渕前首相、小泉首相、秋篠宮などが訪れたことが掛けられている写真で分かる。

ゴルゴがメニューを開き、きのこの写真を指す。何とそれはマツタケであった。そういえばバンコックのバーンタオ氏が『松茸があったら食べたい』と言っていたのを思い出す。バンコックに持って行けるのか聞くと、問題ないという。

どうして問題ないのかと思っていると、驚いたことに日本から松茸保存用に脇に穴の開いた小さなダンボール箱を取り寄せていたのだ。これをホテルの冷蔵庫で保管すればよいと言う。但し成田に持っていくと検疫で引っ掛かるのでバンコックまでにするように言われる。因みに値段は500gで10ドル。その大きさには期待が持てる。

お客が徐々に入ってきた。西洋人の観光客、日本人とラオ人のビジネスマン、日本人政府関係者などがいたようだ。私の席は特等席、舞台の脇である。ゴルゴは去っていった。詰まらない、いくら立派なレストランでも一人で食べるのはどうも??

料理はのりスープが出てきた。これは絶品、塩味が利いている。台湾で食べた物とほぼ同じである。ラオ伝統の挽肉のサラダ(ラープ・ディップ)は少し食べにくい。牛肉が生なのである。何故この料理がラオ料理なのか良く分からない。野菜炒めと共に、赤米が出てきた。しかもディップ・カオという小さな籠に入れられてくる。地元では手で食べるらしい。私は箸を使って食べた。餅もちして美味い。横に生野菜が置かれており、きゅうり、ミントなどを口に入れながら食事をする。

しかし一人である。料理もどんどん出てきて殆ど食べ終わった頃、ようやく音楽が鳴り出した。3人のおじさんが民族楽器を弾き出した。東南アジア特有のゆっくりした、アコースティックな音楽である。若い女性が2人出てきた。小柄で民族衣装を着込み、頭は尖がっている(髪を上げている)。

踊りはゆっくりとしており、2人は円を描いて回る。5分ぐらいで引っ込む。続いて20分経って男女が出てきてまた踊る。しかし残念ながら特に変化がない。女性は表情が乏しいが、若い男性の顔には品がある(穏やかな顔)。家元の出ではないだろうか??

また例のくわ茶を飲みながら見ていたが、突然メコンの夕陽が見たいと思い、レストランを飛び出す。何とか松茸は忘れずに。外では運転手が不思議そうな顔で急いで車を出した。メコンリバーと言うと怪訝そうな顔をしたが、言葉としては理解したようだ。川沿いに行くと既に真っ暗な中、プラスティックのテーブルと椅子が置かれ、鶏肉が焼かれている火が赤々と見える。ソーセージも焼かれており、美味しそう。大きなバーベキュー大会である。西洋人がビールを飲みながら騒いでいる。皆楽しそうだ。

一人の私は寂しくなり、携帯に手を伸ばす。タイの携帯はこの川沿いだけは繋がる。ミャンマー国境と同じである。自宅に掛けるとまた長男が出た。今メコン川にいると言うと羨ましそうな声をだす。いつか自分で来て欲しい。写真はいくら撮っても写らない。それ程に暗い。ホテルに戻り9時には寝る。

7月21日(金)
3.ビエンチャン2日目
(1)朝食
9時に寝たにも拘らず7時に起床。久しぶりにぐっすり眠れた。疲れがピークに達していたことと環境が良かったことが理由であろう。ベランダに出る。狭いが空気が新鮮で気持ちが良い。下にプールが見える。西洋人の男性が一人、泳いでいた。ゆっくりとした時間が流れている。

腹が減る。朝食は何処で取るのか??フロントに行くと笑顔の挨拶。隣の建物の2階に食堂があると言う。登って行くとレストランがあった。外にテーブルが出されていたので、座る。室内は軽くクーラーが効いているが、戸外の方が断然気持ちが良い。

眺めると川がある。よく見ると川に網を投げている人がいる。魚が取れるらしい。風景画の世界である。周りは特に何もなく、遠くに建設中の建物が見える。このホテルは本当に良い。一体誰が作ったのだろうか??今朝はビュッフェ。私はパンが好きなのでたくさん取る。クロワッサン、パストリーなどどれを取っても美味しい。さすがフランス植民地である。ベトナムでもパンが美味しかった。思わずお茶ではなく、コーヒーを頼む。コーヒーカップを持ちながら、風景を眺め、風景を眺めながら、コーヒーを飲む。植民地に着任したフランス人の気分であろうか??コーヒーはやはりコンデンスミルク入りではなく、ブラックが良い。

(2)メコン川散歩

8時にホテルを出る。一人で外に出るのは初めてであるが、大体の道はわかっているので問題はない。取り敢えずメコン川に出る。10分も歩けば到着する。道は分かりやすく、そしてきれいである。

昨夜の喧騒はなく、静かなメコンの朝であった。雲が低く、川に沿って流れている。大きな木の下に精霊が祭られている。これはミャンマーでもタイでも見られるもの。アミニズムというものであろうか??川は雨季で水嵩がある。水は決してきれいとはいえない。簡易な建物に人が住んでいる場所もあったが、基本的にきれいなレストランや整備された公園がある。散歩には非常に適している。

向こう岸までは1kmぐらいであろうか??対岸はタイ領であるが、建物はあまり見られない。農村なのであろうか??普通は見られるボーダートレードもあまり活発ではない。対岸のイーサンとビエンチャンではイーサンの方が安いらしい。面白い現象である。20-30分はメコン川をただ見つめてみる。流れは緩やか。係留している船をレストランにしている所もあった。

 

川沿いには大きな建物が1つ建っていたが、最近出来たもの。カジノホテルかと思ったが、聞けばカジノはここから70kmほど下流にあるらしい。川沿いの道にはフランス風の建物がいくつかある。タイ人がラオに観光に来る目的はこのフランス風の建物を見ることだそうで、食べ物やお土産はあまり期待しないらしい。殆ど変わらないからだろう。

川沿いをどんどん歩いて行く。寺院が見えたので中へ入る。昨日行った観光地とは違い、実に落ち着いた雰囲気があり、木々の緑が濃い。程よく古びた仏塔があり、時代を感じさせる墓がある。この寺の中は風が通って涼しい。時間が経つに連れて気温はどんどん高くなる。

その付近には洒落たギャラリーがあったりする。フランス人が歩いていたりする。そうかと思うと華僑協会の事務所があったりもする。ここラオには中華街と言われる場所はない。以前はあったらしいがその後同化してしまっている。但し街中には至る所に漢字の看板がある。中華系が経済を握っているのか、最近の中国大陸からの投資増加に合せているのか??

日本料理屋もある。オープンスペースで麺を食べている所もある。何だか喉が渇いてきた。気がつくと昨日ゴルゴに案内された茶店の近くにやって来ていた。フランス風の建物の1階にあるカフェで茶を飲むことにした。店先には鮮やかなフルーツを売るきれいな屋台がある。

中に入るとフランス人??が一人遅めの朝食を取っていた。常連という感じで新聞を読む。こちらは初めてで緊張。英語でお茶を頼むと通じた。バンビエンという昨日とは違い地名の緑茶である。葉が少し細かく、コップに茶葉が多く入っているため、少し苦い。3000k。

周りを見回すと、何故か日本の舞妓さんの絵がある。フランス人の東洋趣味をそのまま反映させたのだろうか??地球の歩き方を取り出して読んでいると、何故か『焼き物の村、バーン・チャン』が目に入る。そういえばハノイを訪れた際、陶器の村としてバッチャンを紹介されて行ったことがある。意味は同じなのだろうか??どんな意味なのだろう??

更に歩く。何だか意地になっているようだ。ラオテクスタイルと書かれたフランス風の建物があった。経営者はアメリカ人で、アメリカでも認められた質の高い織物を作っている。この店では染色から織物まで一貫して生産している。裏では実際に作業が行なわれており、自由に見学できた。

 年代物の大きな機織機が何台もあり、前には年配の女性が座っている。横には作業中の布が干されている。全てが手作業。こんな手間の掛ることはいつまで続けられるのだろうか??ビエンチャンにはこのような工房がたくさんあると言う。

 

 

 

フランス風の建物を利用したフレンチレストランもあった。その辺りにはバイクやソンテウが大量に客待ちしていた。私にも声を掛けてきたが、断ると、写真を撮って欲しいと言う。ついでに寝ている仲間も撮れと言うので撮ると、皆でデジカメを覗き込んで笑い転げる。ビエンチャンの若者はなかなか愉快である。

 

スカンジナビアンベーカリーなぞと言う名前のパン屋もあった。フランスの植民地でパンが美味いと褒めていたら、何故だかスカンジナビアが出てきた。オーナーの出身地だろうか??中ではケーキなども売られており、在住の西洋人が買いに来ている。大きなワイン樽を建物の上に載せたフレンチワインを売る店もあった。一体ここにはどれ程の外国人が暮らしているのだろう??

ホテルに戻ろうと歩いていると、かなり古びた塔がロータリーの真ん中にあった。後で調べるとタートダム(黒塔)と言う名前であった。昔タイの侵入を防いだ龍が住んでいた場所だそうだ。現在は苔が生え放題でそれがいい感じになっている。

この街には先進国では恐らくクラシックカーに属するベンツやBMWが平気で走っている。タクシーがベンツだったりもする。タートダムの周りにも無造作にそうした車が駐車されている。マニアは涎を出しそうだが、私は車のことは分からない。

結局3時間も散歩してしまった。かなり疲れてホテルに戻る。デジカメも最後は電池切れとなり、撮れなかった風景もあり残念。