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《北京歴史散歩2007》(5)東交民巷と南池子

【東交民巷と南池子】2007年12月9日

昨日に引き続いて風がない。最高気温が5度だと言うが、もう少し暖かい感じ。2日続けて散歩に出ることに。今回は軽い散歩にしようと思ったが、以前より気になっていた東交民巷に行って見たくなり、実行した。

1. 東交民巷
(1)新僑飯店 

地下鉄で崇文門へ行く。地上に上がると立派なホテルがある。見ると『ノボテル新僑飯店』とある。思い出すことがある。私が始めて北京に来た1986年10月、上海に帰る直前に新僑飯店に立ち寄った。目的はラーメンを食べることである。

当時新僑飯店には日本人駐在員が多く住んでいた。今では考えられないことだが、上海には日本料理屋がなかったので、態々北京まで汽車で17時間をかけて食べに来た、その締め括りが北京駅近くの新僑飯店のラーメン。味は良く覚えていないので美味しくはなかったかもしれないが、物はあるかないか、が大事であり、あることに満足する物である。

そこで思いがけず大学の同級生A君に遭遇したことも忘れ難い。彼も私も共に中国語を捨てて別の道を歩んだはずであった。その彼が北京にいた。人生とは何と皮肉なことか??自分で嫌がった人ほど、そちらに引き寄せられる、とも言われている。そのA君とは先日場所も同じ北京で21年ぶりに再会を果たした。北京は約束の地??である。

そしてもう一つ思い出すのが、ドイツベーカリー。A君が『ここのパンは食えるよ』と教えてくれたので行って見ると、何とクリームパンやジャムパンが並んでいる。上海では考えられなかった。上海で食べられるパンを見付けたときにはケース毎買うのが鉄則。それに習い、クリームパンとジャムパンをケース毎買い、汽車の中で食べ、上海の日本人へのお土産にした。

今日ホテルの横にはパン屋があった。人で賑わっている。思わず中へ入る。勿論20年前とは比べられない綺麗さがあった。2つほど買って食べて見た。今の北京では標準的な味。これが20年間の味かどうか分からないが、とても懐かしい気分になり、道を歩きながら立ち食いした。

(2)東交民巷

ホテルの裏手に同仁医院がある。そこからが東交民巷である。元代には『江米巷』と呼ばれた米の集散地である。永楽帝時代に、外国から朝貢に訪れる人々をもてなす場所となり、様々な民族衣装に人々が行き交う場所と言う意味で東交民巷と呼ばれるようになる。

明清代には五部六府の官庁街になり、また王府も多く存在したが、義和団事件後の1901年から各国大使館専用地として実質租界への道を歩む。当時は清朝崩壊等もあり、周囲は騒然としており、武器を持った兵隊が守る場所であった。

今歩いてみても特に何ということはない斜めの道であるが、所々に洋館が残っている。本当に短い道。あっと言う間に大きな通りに出た。

(3)天主堂と外国大使館街 
その角に突然教会が見えた。かなりがっしりした天主堂。『東交民巷天主堂』とあるが、別名を『聖米厄弥天主堂』とある。聖ミゲル教会??中はシンプル。1901年に出来たとあるようだ。辛中条約の成立後に建てられた大使館員用の教会だったのだろうか??2棟の塔が突き出したゴシック式建築。こちらも中国語、英語などでミサが行われる。

 

教会の向かいに洋館が見える。紫山賓館との表示があったので中へ入ろうとすると警備員に止められる。ここは特定の人専用のホテルらしい。確かに上海辺りにある洋館ホテルの雰囲気がある。仕方なく外から写真だけ撮る。

道の横から見ると中はかなり広い。いくつもの建物が見える。崇文門西大街まで出るとその理由が分かる。ベルギー大使館跡との表示がある入り口に武装警察が立っている。そうか、ここは大使館だったのか??但し現在は改修中、いや建て直し中。

1900年の義和団事件でこの辺り一体は焼け野原になった。義和団は山東省より『殺せ!殺せ!』と叫びながら入城してきたとあるから、恐ろしい。英国大使館に皆逃げ込んだらしい。何とか持ち応えている間に8カ国連合軍が救援に来て、結局義和団は崩壊、西太后も西安に逃げ出した。

そこから連合軍の略奪が始まる。いつの時代も被害者は庶民である。義和団が来ようと連合軍が来ようといいことは無い。

 

 

 

2.正義路
(1)旧横浜正金銀行
正義路に入る。角にはかなり昔風のホテル華風賓館がある。建物は共産政権後のような無機質の面白みのない物であるが、横にある飾り窓に租界地風の味がある。因みにこの正義路は以前川が流れていたが、今は暗渠となっており、風景はかなり異なっている。

北に歩いて行くとかなり重厚な建物が。金融集団の宣伝が出ている。近づいてみるとビックリ。横浜正金銀行跡、そうか、ここは植民地には必ずある日本の国策銀行があった場所なのである。ちょっとロシア風の三角形で上に丸い塔がある。それを見てこの付近が本当の植民地、租界地であると実感した。

1901年以降ここ大使館街は外国人居留地、実質的な租界。1910年に日本人建築家妻木頼黄の設計により地上2階、地下1階の建造。南の端の天辺は半球形となっており、少しロシア風。そこから北へ細長い建物となっている。尚中に入ることは出来なかった。

(2)旧日本大使館 
その北側に特徴のある門が見えてきた。あれは何だ??正面に立つとそこには北京市人民政府とある。国旗もはためく。ポケットに手を入れた瞬間、前に立つ武装警察が手を前に突き出し、駄目のマーク。写真を撮ることを想定してのこと。その動きの素早さに背筋が寒くなるが、笑顔で見返すと先方も『分かったか』と言う感じで笑顔になる。やれやれ。

 

旧日本大使館の大門である。中薗英助著『北京飯店旧館にて』には『ロココ風の彫刻のある門の中央上部、かつての菊の紋章のあった場所には赤い生地に五星をあしらった中国の国章が打ち付けてあった。』とある。また『侵略の出先機関が首都の行政機関とは大変な優遇振り』とある。その通りかもしれない。

結局人民政府の壁づたいに歩いて行くが壁が高く、殆ど何も見えない。この中に旧日本大使館の建物があるはずだが。清末に当時の著名建築家、真水英夫の設計。西洋バロック様式を主体とした堂々とした造りと聞くが見られずに残念。

この大使館の中で1915年袁世凱大統領が対華21か条の要求に対して署名した。中国では売国奴と言われる所以となっている。1919年の五四運動では学生達が最初に目指した場所はここであったわけだ。

頼みの綱の人民政府来訪接待室も日曜日で扉が閉まっており、中を窺う事は適わなかった。次回再チャレンジしよう!

3.南池子
(1) 皇城壁

長安街に出る。以前より気になっている南池子に行って見よう。道を渡ると綺麗に刈り取られた植木があり、その奥には落ち葉がこれも綺麗に集められている。細いアカシアの並木が赤い壁と色をなしている。

皇城とは何か??明清代の北京は内城と外城に分けられる。内城の中心は紫禁城、この外側に工房や倉庫などの朝廷の生活を支援する部分、中南海のようなリゾート施設が構成され、これを囲む壁が皇城である。現在はその殆どが取り壊されて見る事は出来ない。

『南池子』と書かれたアーチを潜ると菖蒲河として整備された堀が流れ、柳がしな垂れる。その風景は実に鮮やか。思わず写真に手が伸びる。その横には旧家を改造した『天地一家』というレストランがある。ここはなかなか格式が高い。

100年前のこの辺りの写真を見ると木々は殆ど見えず、かなりスッキリと空が見える。アーチがやけに大きく感じられる。満州八旗の子孫という方はここで生まれ、育った。当然周りは貴族ばかりが住んでいた。今はその面影も無い。

(2)皇史?

南池子大街を北上すると直ぐに朱色の壁が目に付く。中に重厚な建築物である皇史?がある。明の永楽帝が作成した膨大な永楽大典の副本(1562年作成)が保管された場所。本編は明末に焼失、この複製が清代に残ったが、義和団事件の際に散逸。柴五郎はその際永楽大典を目にしたと記している。あまりに分厚さに、大砲車を通すために道に敷いたとの話もあるとか??

現在の建物は南北6m、東西3mの巨大な切り石を積み上げており、木材が全く使われていないことは完璧な防火、防虫を目指してのことであろう。室内には永楽大典の他、清朝皇帝の記録などが収められていると言うが勿論見ることはできない。正面に5箇所アーチ型の入り口があるが、どれも硬く閉ざされている。

周りにはギャラリーがあり、絵画展などが行われている。この場所は静けさが漂い、喧騒を忘れさせてくれるが、何となく物足りない。何となく??

 

 

 

 

《北京歴史散歩2007》(4)東単付近

【東単付近】2007年12月8日

12月に入り、天気が良い。天気予報では最低気温は零下2-3度であるが、日中は暖かい日差しがあり、風も吹かない日が多い。体調管理のためにも散歩に出る必要がある。

『北京ひまつぶし』というブログを持っているS氏。そのブログでご自分の通勤経路を紹介していた。それに何故か非常に興味を引かれ、歩いて見ることにした。

1.北極閣三条
(1)洋館 
家の前から長安街を天安門方面へ歩き、国際飯店の角を北へ。婦女連合中心の裏手は建設ラッシュとなっており、胡同は破壊されつつあった。そんな中でひっそりと残っていたのが、北極閣三条。かなり分かりに難い場所にある。

冬枯れた葉の無い木が良い風情で立っている。よく見るとその家の前には落ち葉を集めて瓦で重石をした壷がいくつも置かれていたりする。実に何ともいえない佇まいである。

その反対側には結構立派な古めかしい門があり、その木戸を潜ると、朽ち果てた洋館があったりする。もしやすると昔は劇場だったのだろうか??ガラスも割れて手入れもされていないが、そんな気がする天井の高い平屋がある。

実は帰ってブログを見ると『清の時代に縁慶禅林という寺があったそうで、 道光17年(1837年)に修築された後、 中華民国の時代には、協和医院の所有となっていました。』とある。そうか、お寺か。なるほど。

その向こうには2階建ての洋館が。2階にはちゃんと洗濯物が干されており、現役として住まわれていた。中を覗き込もうとするとおじいさんが怪訝そうにこちらを見たので、曖昧に笑みを浮かべて立ち去った。

(2)協和医院住宅 

更に行くとワンブロック全てが洋館。協和医院の職員住宅のようだ。現在も職員が住んでいるのかどうかは分からないが、中には綺麗に整えられた庭が見え、子供が遊んでいる。日差しを浴びてちょっと優雅な気分になる。

協和医院とは、1921年にアメリカロックフェラー財団により設立された北京屈指の病院であり、党幹部も多く治療を受けるという大病院である。この医院で思い出すのは、やはり北京原人の骨。元々ここに保管されていたが、日本軍の真珠湾攻撃で保管場所を移すことになり、その後忽然と消えて現在に至る20世紀のミステリーの舞台でもある。

また最近ではSARSの際、外国人患者を収容したことでも名前が出てきていた。今でも一流病院として東単北街に立派な建物が聳え立っている。今目の前にあるのは恐らくはアメリカから派遣されてきた医師やその家族、看護師などが住んでいた場所であろう。いや現在も住んでいるのであろう。

(3)四合院ホテル 

更に行くと胡同の中に突然綺麗なレストランが登場。かなり小さな四合院を活用したもので、ガラス張りで店内が丸見え。かなりお洒落な印象を受ける。『竹魚坊』という名で他の場所にも店があるらしい。結構予約で込んでいるとか。次回機会があればトライしよう。

その隣にこれまた小さな四合院が。中に入ると可愛い庭があり、女性が出てきた。『泊まるの?』と聞かれて、ここがホテルであることが分かる。部屋は全部僅か3つ。一番大きな部屋でもベットとソファーがあるだけ。それでも清潔そうであり、欧米人が喜びそうな造りであった。

客はやはりフランス人やイタリア人が多いとか。部屋にバストイレが無い部屋は、庭を通って別の部屋に行く必要がある。冬は寒いのでは??案の定今はオフシーズンでホテル代も半額とか??

 

 

2.新開路

『”新”と言っても相対的に新しいだけで、清の時代からの胡同。』とブログに書かれていたが、その通り。特に目新しい物はない、と思っていたら、洋館が一軒。なかなかお洒落な建物であったが、門は硬く閉ざされていた。

写真を撮っていると、門の脇に金ぴかのプレートがある。見ると『高級会員制クラブ』とあるではないか??どうやら誰からがここでレストランやバーを経営しているらしい。最近お金持ちが増えた北京のこと、こういう隠れ家的な場所が出現しているに違いない。

そう考えると新開路という名前が俄かに新鮮味を帯びてくる。不思議な物である。

 

3.西総部胡同
(1)李鴻章の家祠
更に北に進む。要するに私は胡同を東西、西東と横へ進み、そこが終わると北に上がり、また一つの胡同を横に進むと言う活動を繰り返している。

西総部胡同は全体的にお洒落な雰囲気があった。何故ならば壁に福の字が入った飾り窓のような物がどこにでも付いていたから。その飾りが一際目立つ建物があった。何気なく近づくと端にプレートが嵌っている。『李鴻章の家祠』と書かれている。そうか、ここは李鴻章が亡くなった後に作られた祠があった場所だったのか??

李鴻章と言えば、安徽省の出身で科挙に合格した文人であったが、太平天国の乱に際して、故郷が危機に晒されたことから義勇軍である淮軍を組織。その頃から外国人との交渉に慣れていた。日清戦争では暴漢に襲われながらも下関条約に調印。外国と対等以上に交渉できる唯一の人物として『東洋のビスマルク』とも呼ばれた。李鴻章に関しては、現在でも様々なことが言われている。英雄、売国奴、策士。これだけ色々な顔を持つ男とは一体??今は辛うじて壁だけが残る祠。彼はどんなことを考えているだろうか??

(2)宝善堂薬局跡 

その李鴻章の家祠の斜め前ぐらいに、かなりがっしりした建物がある。お茶屋の看板があり、興味を持って覗き込むと、どうやら将棋、マージャン部屋らしい。しかし横にプレートが。『宝善堂薬局跡』。

1938年に開設されたこの薬局は、どうやら一世を風靡したらしい。打ち身や風邪に効く薬を販売し、ロシアにも輸出していたとある。

2階の壁の部分に『張氏追風丸 万霊筋骨膏』と言う文字が目立つように書かれているのが、何とも微笑ましい。しかしこの店も共産党時代になり、1954年には政府機関傘下の企業に衣替えしたようだ。

民国時代の臨時総統も勤めた軍人李宗仁が1965年に北京に戻った後の住居もこの胡同にあった。立派な門構え。李は抗日戦争で大きな戦果を上げ(台児荘戦役)、戦後蒋介石とも袂を分かった大物。周恩来の招きで帰国。

翌年夫人をがんで亡くすと、意気消沈。その面倒を見たのが、復興病院の看護士、胡友松。彼女の献身的な対応は話題になったようだ。彼女の母親は30-40年代のスター、胡蝶。

4.外交部街
(1) 迎賓館

明朝時代は石大人胡同と言う名前であった。武将である石亨はモンゴル討伐に失敗して捕虜となった英宗の復活を遂げる。この胡同の4分の1の面積の家を造ったことから、この胡同を石大人胡同という。その後皇帝が接収、貨幣鋳造の宝泉局となっていたが、1905年に焼失。

外交部街という名前を見ただけでここがその後どうなったかが分かる。700mほどの道の中間辺りに迎賓館がある。説明書きによれば『1908年建造。袁世凱がここで政治を行い、孫文もここに滞在した』とある。しかし何故迎賓館??ドイツの皇太子が来訪した際、アメリカ人の設計を依頼し、当時の北京で最も豪華な建物を建てたのである。

清国滅亡後、袁世凱の臨時内閣がここにあった。1912年8月に孫文が北京にやってきた時、ここに宿泊し、袁世凱と13回も会談したと言う。1912年から1928年まで北洋政府の外交部であり、胡同の名称も変更となった。1949年に中華人民共和国建国時も外交部はここ。初代は総理兼務の周恩来、その後陳毅が外相を勤め、ここで執務した。1966年に現在の朝陽門外に移転、今は立派な門だけが残っており、後ろはマンション群。歴史を感じさせる。

(2)協和医院住居群

先程も同じものがあったが、ここは1918年にロックフェラーが協和医院に投資した際、造られた職員宿舎(完成は1921年)。医院の目の前にあることもあり、こちらの方が規模は大きい。東単北街に面して赤いレンガ造りの建物がいくつも見える。

20世紀20年代のアメリカの農村別荘型住宅とのことで、各戸に煙突が付いているのが、如何にも時代を感じさせる。また入り口から中には入れてもらえないが、丸いドームを潜ると中国から離れる感覚がある。

東単北大街の向かい側、医院の並びには中華径経会旧址とある建物が。今は北京市キリスト教務委員会が使っている。どうみてもアメリカがやってきた時に、宗教もやってきたのだろう。病院と宗教は一体のはずである。

5.東堂子胡同
(1) 京師同文館跡

もう一つ北の胡同へ入る。ここは結構落ち着いた雰囲気。東堂子胡同、ここは少し狭いが木々もあり、胡同らしい。

京師同文館跡があるという。京師同文館は1860年のアロー号事件で英仏が北京を侵略した後、外国語を学ぶ必要性が生じ、洋務派グループの恭親王が提案。1862年に先ずは英語科が開かれ、翌年にはロシア語とフランス語を追加。学生は当初満州八旗の師弟のみであった。

卒業生は皇帝の外国語教師の他、外交官、通訳等の業務についたという。語学以外も教えられ、1902年に北京大学の前身である京師大学堂に編入された。尚日本語は1899年にようやく設置されたと言う。日本の国力と中国の日本に対する見方が良く分かる。

尚京師大学堂は1898年に変法運動の産物として設立。西洋式の教育の必要性が求められていた。1905年には最終的に科挙制度が停止となり、大学堂の重要性が増し、北京大学へと流れて行く。

場所は総理衛門の隣にあったということだが、今やどこにあったのかは分からない。一体は住宅、アパートになっている。

 

(2)総理衛門
総理衛門とは、外国事務を扱う役所。この場所は外交部街の北に位置していることから、その実際の事務が行われていたらしい。

この周りは取り分け古い建物が多く、瓦屋根に落ち葉が載っていて雰囲気が良い。冬の日にくる場所であるような気がする。またこの道には洋館がまだ残されており、現在も使われている。往時を偲ばせる何ともいえない味わいがある。

 

6.王府井
東堂子胡同の北には紅星胡同があると地図にはあったが、実際には殆どが開発中でほぼこの胡同は壊滅している。この北側が金宝街という大通りであり、ホテルやオフィスビルが立ち並んでおり、その影響が大きい。

西に向かうと金魚胡同。何だか風情のある名前で屋台でも出ていそうだが、ここもペニンシュラーホテルなどが立ち並び、風情を味わいながら歩く環境にはない。

王府井に到着。角には大きなイベント会場が設置されている。オリンピックバレーチームの写真を頂いたゲートを潜る。この道の至る所にオリンピック関連の広告宣伝がある。横には新東安市場、しかし市場とは名ばかりの巨大ビルが改修中である。前には香港企業が設置した巨大クリスマスツリーもあり、子供たちが楽しそうに周りを走り回る。中国にクリスマスの習慣などあっただろうか??

ガイドブックによるとこのビルの前の道に『王府の井戸』がある。龍の蓋が被せられており、一般公開されているとある。しかしいくら探しても見つからない。何らかの理由で撤去されたのでは??1998年の区画整理の際に発見されたとあるが、現在もオリンピックを前にして改修が繰り返されており、その犠牲??になっただろうか??それともその井戸は間違いだったとして撤収されたのだろうか??

 

王府井の名前の由来は明代の永楽帝に遡る。親族から帝位を奪って北京に遷都した永楽帝は兄弟をこの辺りに住まわせた。王府とは皇帝の親族の住まいである。清代には八旗の練兵場となり、清末には大使館街(東交民巷)に近いことから、高級品を売る市が立ち、また同時に東安市場等庶民の市も立ったことから、北京の市場として栄えることになった。

井戸では甘水を売っていたそうだ。1954年まで売っていた記録があるからそう遠くない。それがどうして井戸が埋もれたのか??理由は分からない。

それにしても以前の王府井は人が多過ぎて歩くのが大変であった。それが現在ではおのぼりさんが来るところとなり、人数もそれ程ではない。熱気もあまり感じられない。庶民の味方であった東安市場もただのデパートとなり、北京人が来るところではなくなっている。

 

 

《北京歴史散歩2007》(3)国子監付近

【国子監付近】2007年5月27日

昨日の北京は37度、とうとう夏がやってきた。北京の夏は40度を越える猛暑。日中に散歩するなどはもっての外。朝起きると同時に家を出た。8時前で既に陽が燦々と降り注いでいた。地下鉄2号線で安定門下車。

 

1.京師図書館跡

安定門を二環路の内側へ歩く。日差しは強いが木々の陰を行くと爽やかな風が吹く。北京の乾いた夏の朝である。この雰囲気は嫌いでない。直ぐに永康胡同という名前に反応する。家内の大好きな香港歌手の名前である。早速写真を撮り、帰宅後直ぐにメールで送っておいた。

更に歩いて行くと『国子監』と書かれた石碑が壁に嵌っている。その道には大きな門が出来ていて『成賢街』となっている。牌楼と呼ばれるこの門は北京で唯一残されている。ここが天下の秀才が歩いた国の最高学府。

その南方家胡同に京師図書館があったはずだ。清の時代には蔵書楼の1つとしてここに南学があった。四庫全書など貴重な本が納められていた。清朝崩壊後、北洋軍閥が貴重な蔵書を引き継いだが、当時の蔵書楼、広化寺は湿気がひどく利用者が少なかったと言う。

そこで移転先として国子監南学が選ばれた。1917年の事である。その際移転計画に奔走したのがあの魯迅であったのは興味深い。しかしその後1931年までに全てが再移転され、その役割は終了した。

方家胡同は今もあり、地図では図書館のあった場所には小学校があるはずである。ところが胡同を歩いてみても、小学校の入り口が無い。どうやら廃校になったらしい。再度国子監街を歩いていると方家胡同小学と言う学校があった。恐らくはここに吸収されたのであろう。

 

因みに方家胡同には1918年毛沢東、蔡和森などが組織したフランス派遣留学生の連絡事務所があったとされているが、今は確認のしようも無い。毛沢東と魯迅が同じ道ですれ違った場面があったのでは??

2.国子監と孔子廟

国子監街は両側を木々に囲まれ、閑静な住宅街を思わせる。しかしこの辺りにも開発の波は容赦なく押し寄せており、通りの何軒かは改修中であった。以前の胡同、四合院などが次々と綺麗な建物に変わっていく。それは時の流れではあるが、少し物悲しい。

国子監の前に来ると何とここも改修中で、正門から入ることは出来なかった。仕方なく隣の孔子廟へ。入り口でおばさんが『全部改修中、何にも見れなけど入るかい??』と聞いてくる。10元払って中へ。

いきなり正面に孔子の像。その前に女子高校生ぐらいの3人組がなにやら真剣に祈りを捧げている。もう直ぐ受験シーズン。やはり合格祈願か?かなり長い時間頭を垂れたままである。

その両側には石碑の林が。科挙で都に上り、進士に合格した人々の碑である。元、明、清と揃っている。歴史上有名な人の碑の横には説明書の小さな碑が添えられている。私には知っている人はいなかったが、中国人は熱心にその説明を読んでいる。科挙の難度を考えると、ここに碑が残されている人々は如何にすごい人たちであるか。

孔子廟は元の時代、1302年の創建(完工は1306年)。1916年に現在の規模(2万㎡)・様式(三進式)となる。奥に入ると各地の孔子廟の写真が展示されている。中国だけではなく、ベトナム等にも広がる。そういえば、ハノイ旅行に行った時に旧正月の混雑の中を歩いた記憶が蘇る。子供達に亀の像の頭を撫でさせたのだが、ご利益はあったのだろうか??

硯水湖、と書かれた井戸がある。かつての文人たちがここの水で墨を磨ったと言われている。水を飲むと頭が良くなると言われており、多くの受験生が訪れるようになった。どれほどの御利益があるかは不明だが、孔廟文物管理所では硯水湖の水は生水なので飲まないように呼びかけているそうだ。

 

改修中なので早々に国子監へ。国子監も『集賢門』と呼ばれる正門が改修中。横から入るとすぐに鮮やかな瑠璃色の楼牌がある。その裏が主堂、周の天子の学舎を真似た建築。周りは円形の池『月の河』である。

更に奥には大学図書館であるい倫堂。歴史的には魯迅が歴史博物館の展示場とする準備を進めたことがあるが実現しなかった場所である。

国子監は1306年にモンゴル族の子弟に漢語を、漢族の子弟にモンゴル語を教える目的で建てられた。中国最古の大学。その後朝鮮、ベトナム、ビルマ、タイからも留学生がやってきてここで学んだ。この敷地内には琉球の留学生が学んだ記録もある。ここは国際色豊かな、賢者の集会場であったのだ。

3.留賢館

孔子廟の向かい側に古びた建物がある。茶芸館、留賢館。中に入ると実に緩やかな時間が流れている。ゆったりとして空間、落ち着いた家具。さすが孔子廟の前にあるだけはある??

名前の通り賢者を留める館である。一番奥の窓際に座り、鉄観音を頼む。50元程度で十分飲める。ここではお姐さんが茶芸を披露してくれる。一人で来ても話し相手がいてよい。香港時代の知り合いYさんにこのお店出身で最近お茶屋を始めた女性を紹介された。それが我が家のお茶会の先生となる張さんだ。

ここではお茶を飲むだけでなく、茶芸を教えてくれる。それも日本語で??張さんなき後日本語での講座は中止されているらしい。こんな環境でお茶を習うのは気持ちがよさそうだが。簡単な食事も出来る。日がな一日、ボーっとここに座っているのも良いかもしれない。窓から孔子廟が見える。

4.擁和宮

擁和宮は北京最大のラマ教寺院。この地は明代宦官の住居、清代は5代雍正帝が親王時代の住居であった。雍正帝は綱紀粛正に極めて熱心で帝位に付いた後、この地に秘密警察を設置、厳しく取り締まった。雍正帝が死去した際、葬儀の後、1年余りここに遺体が安置されたと言う。

 

1744年乾隆帝の代に雍正帝時代の弾圧に対する宥和政策及びチベット、モンゴル族の不満解消のために寺院が建造された。現在寺院周りには仏具や線香を売る店が立ち並び、北京の中でも独特な雰囲気を持っている。

瑠璃牌門を潜ると参道の両側に木々が生い茂り、良い風が吹いてくる。天王殿、雍和宮、万福閣共に黄色い屋根瓦、皇帝の色である。本殿の当たる雍和宮には過去・現世・未来を現す3体の仏像が安置されている。万福閣には高さ26m、チベットから運ばれたと言う白檀の一本木による弥勒仏が安置されている。聳え立つこの仏像を見ていると、ラマ教の厳しさを感じる。

中野江漢に連れられてここを芥川龍之介が訪れている。彼はラマ教等には何の興味も無く、寧ろ嫌いであるが、北京の名所で紀行文を書く必要上、已む無く出かけたと書いている。行って見ると歓喜仏が4体あり、金を渡して見ている。なかなか凄い物だったようだが、共産中国以降このような快楽に関係する物は公にされていない。芥川によれば、それは決してエロチックではなかったというが。

思い出すのは20年前、チベットのラサに行った時の事。ポタラ宮に登ると、建物の壁画に何故か一部紙が貼ってある。そしてその紙は捲って見ることが出来るようになっていた。まさに密画と呼ばれた男女混合図などであった。首都北京では公開不可であろう。

 

またダライラマは1954年北京にやってきてここに滞在した。『ダライラマ自伝』によれば毛沢東や周恩来とも親しく交流し、教えも受けたという。しかしその後のチベット暴動、インドへの亡命となる。

そもそもラマ教とは何だろうか??ラマと言う言葉はチベット語で優者を表し、仏の上に位置する。7世紀にインドから伝わった仏教とチベット在来宗教が混在したものらしい。14世紀には宗教革命があり、戒律の厳しい現在の黄教が主となる。ダライラマの属する派である。

 

1987年留学中に訪れたチベットのラサは衝撃だった。これ以上ない青い空、青い水、それに引き換え黙々と五体投地を続ける信者、その横で貧しい姿で物売りをするその妻と物乞いする子供。宗教とは何か、考えさせられた。そんなことを思い出していると、若いラマ僧がスーッと横を通り過ぎた。まるで何事も無かったように。

 

《北京歴史散歩2007》(2)寛街

【寛街付近】2007年11月3日

11月初旬、最低気温は氷点下に下がり、既に季節は冬。今年の歴史散歩も時期が過ぎたと諦めかけていたが、何と今日は一日時間が取れ、しかも日中暖かい絶好のお散歩日和。この日を置いてはない。北京で一番のお気に入り、寛街を目指した。

 

寛街は行き難い場所。いつもはタクシーで行くのだが、今回は地下鉄で。建国門から一駅歩き、東単に。10月にオープンした地下鉄5号線の駅がある。何と入り口も新しくなっている。新地下鉄はこれまでの4線と異なり、ホームに二重ドアが設置されている。転落防止だが、シンガポールやバンコックで見た物と同じだと思う。この5号線により朝晩の交通渋滞が多少緩和されたらしい。

(1)北洋軍閥政府

地下鉄の新駅、張自忠駅で下りる。地上に出てくると正面に北洋軍閥政府の国務院があった洋館が見える。かなり古ぼけているが、現在も使っているのだろうか??

北洋軍閥とは元々袁世凱が清朝末期に北洋大臣に任命され、その後軍を纏めて清朝を倒し、最後は中華民国総統を目指すまでになる。しかし1916年袁世凱が亡くなると分裂を繰り返す。孫文が北京にやって来た時期は丁度段祺瑞が臨時執政として政権を担当していた頃だ。

 この重厚な建物は当時異彩を放っていたことだろう。特に清朝滅亡後も溥儀は紫禁城に留まっており、古い体制を打破する建物であっただろう。

 

 

この建物には孫文も来訪したらしい。孫文はそこで何を見ていたのか??『革命未だならず』の有名な言葉を残して北京で亡くなったのだが、その胸の内はどうだったであろうか??若い妻宋慶齢の事が心配だったか??(この夫婦は英語で会話していたらしい??)

 

孫文の遺体は当時の中央公園に安置された。今の中山公園は孫文の名前から取られ、改名されたものである。

現在この建物は国務院が使用しており、参観できない。残念。そしてその門の脇には小さな石碑が。『3・18事件』、1926年この地で軍閥政府に対して反日の抗議に立ち上がった学生、市民など47名が殺され、160名が負傷する惨事が発生。魯迅は『民国以来最も暗黒の日』と呼んだ事件である。その後1928年に張作霖が奉天で爆殺され、北洋軍閥は終わりを告げた。

(2)欧陽予倩故居

旧顧維釣邸から西へすぐ、低いがお洒落な建物(お店)が連なっている。その中心に『欧陽予倩故居』と書かれている。欧陽予倩とは誰であろうか??恥ずかしい話だが初めて聞く。本によれば『南欧北梅』とある。北の梅とは京劇の名優梅蘭芳のこと、すると南の??

彼は湖南省の出身、1949年に北京にやって来て中央戯劇学院の校長となった。彼は京劇の名優であったと同時に京劇、話劇の指導者であり、この分野の貢献は梅蘭芳をしのぐと言う事である。

15歳で日本に留学。日本時代に春柳社という話劇の団体に参加、これは中国人で最も早く話劇に参加したことになる。帰国後も上海で話劇『新劇同士会』を結成。この家には1949年から亡くなった1962年まで滞在。郭沫若、田漢、老舎など著名人が集ったという。日本の松山バレー団もやって来たらしい。

 立派な門構えの下の扉が開いていた。つい中に入る。瀟洒な洋館が目に入る。その前で数人が談笑していた。玄関前に洗濯物が干してある。ここは一般人の住居である。入ってきては行けなかった。しかし彼らは私を一瞥したが、誰も咎めなかった。本によればここは戯劇学院の職員の宿舎らしい。

練炭が積まれている。かなりこじんまりしたこの空間は結構安らげる。特別な保存はしていないらしいが、そこがまた良い。

(3)和敬公主府

更にその隣に和敬公主府と書かれた入り口があったが、きつく閉じられていた。入れないのかな、と思ったが、隣に和敬府賓館と書かれた入り口が。中に入ると何故か『中信証券』の看板が??中信証券は中国有数の証券会社だが、何故ここにあるの??結局本日は休日でオフィスすら分からなかったが、どうやらここで投資信託を売っているらしい。和敬公主は清朝乾隆帝の第3皇女、その由緒ある王府の中でちょっと不謹慎では??

 中は三進式の四合院造り。真ん中は清末の建築でその風格を残している。また至る所に獅子や龍の像が置かれている。一番後ろは和敬府賓館というホテルになっている。このホテルへの道が銀杏並木、丁度葉が色付いており、紅葉を見ることが出来た。

 

(4)文天祥祠

張自忠路を西に歩き、北に折れることが出来る道で曲がる。そこは昔の中国の路地。胡同には曲がって伸びた木が道を塞ぎ、少し歩けば道の両脇で野菜や果物を売っている。以前夜ここを歩いたことがあるが、あの暗さはまるで80年代の中国を再現したセットのような雰囲気があった。

 

 府学胡同、府学とは順天府学のこと。元々元代には寺があったそうだが、明代に学校へ。現在も府学胡同小学校と書かれており、学校である(現在入ることは出来ない。横には南宋民衆の英雄、文天祥の祠(記念館)がある。

 

中に入るとこじんまりした庭が。壁には有名な『正気の歌』が彫られており、正面には碑が。丁度の庭の柿木の柿が色付いている。1つ貰いたいような、美味しそうな柿であった。門の裏には『浩然の気』と書かれた額もある。孟子の言葉だそうだ。

 

 文天祥は優れた官僚だったが、元との戦いに参戦。囚われの身となり拷問も受けるが、彼の才を惜しむクビライハンの誘いを断り、最後まで帰順せず、柴市で処刑された人物。その気概は凄まじいものがあったようで、大石内蔵助が愛唱したとも言われている。

奥の庭には、文天祥自らが植えたとされる棗の木が枝を大きく広げて伸びている。ここは文天祥幽閉の地とされている。この木は文天祥の代わりに今も生きていることになる。

尚芥川龍之介は『北京日記抄』の中で文天祥祠を訪れたと書いており、『英雄の死も一度は可なり。二度目の死は気の毒過ぎて到底詩興などは起こらぬもと知るべし』としている。

(5)都江園

交道口という道がある。ここにはトロリーバスも走っており、木々もかなり枝を伸ばして、80年代の北京の風景を演出している。このあたり寛街は胡同も昔のまま保存されており、私の好きな場所の一つである。

本日このあたりを歩くと至る所で地面が掘り返されている。オリンピックに備えて補修工事をしているのだろうか??この辺りは西洋人観光客が多い場所であるからありえるかもしれない。

都江園は私が北京に来てから最も多く通ったレストランである。半年で20回以上??このレストランは四合院造りを改造しており、胡同の中にあること、及びメニューがコースのみで注文する手間が省ける上、何よりも料理が美味いことから、北京を知る上で是非とも連れて来たい場所である。

都江園は四川省の世界遺産である水利施設『都江堰』(成都の西北60キロの都江堰市の西に位置)より名を取った。都江堰が作られる前、岷江はしばしば氾濫して災難を引き起こしていたが、今から約2250年前の秦の昭王の時代に、李氷とその息子が先人の治水の経験を生かし、地元住民を率いて水利工事に着手。その主要な工程は、「魚嘴」という堤防を川の真中に建造し、川の流れを真中で分けたことで、激しく沸き立つ岷江を外江と内江に仕切り、外江で余分な水を排し、内江で水を引いて灌漑に利用した。これらの水利施設以来、成都平原の肥沃で広大な平野は、豊かな土地となり、四川省の経済、文化の発展に大きな貢献を果たしたといわれている。

という訳でここは四川料理屋であるが、夜のライトアップが美しく、また閑静な場所にあることから西洋人の利用客が多く、頼めば辛くない四川料理が出て来る。しかもこれが美味しい。更には極めつけのタンタン麺はスープ麺で、肉味噌とピーナッツで味付けしたスープにソーメンのような柔らかい麺が絶妙。

昼間もオープンしているがお客は殆どいないので、顔馴染みの店員に建物の由来を聞くと『100年以上前の建築。清末の将軍が住んでいた。その将軍はモンゴルと戦ったと聞いている。』とのこと。アンティークな家具が配置され、何ともいえない優雅な雰囲気の中で今日は特別にタンタン麺だけを作って貰った。その美味さに思わずスープも飲み干し、後で痛い目にあってしまったが??

(6)南鑼鼓巷

都江園から西に歩くと直ぐに四合院ホテルとして有名な侶松園賓館がある。ここは僧王府と言われたモンゴル親王、僧格林泌の邸宅の一部を改造したもの。ここのお客さんは殆どが欧米人。日本人はあまり見たことはないが、ガイドブックには必ず載っている。中庭に実に気持ちよい空間が存在し、夏の夜などはキャンドルライトでビール等を飲む姿がチラホラ。欧米人は旅の楽しみを知っていると思う瞬間である。

更に西に行くと流行のスポット南鑼鼓巷。ここには欧米人が好きそうなバーが立ち並び、それに釣られてちょっと粋を自称する中国人の若者が集まる。しかしこの週末の昼下がり、開いている店も少なく、人影もまばら。

先日出張者を案内して夜あるバーに入ると『2階へどうぞ』と言われる。あれ、2階なんかあったけ??と思って階段を登ると何とそこは屋上。薄暗い中に数々の家具が雑然と置かれ、ソファーに腰を落ち着けたが、何とも落ち着かない。月明かりもなく、暗闇バーとなっていたが、東京から来た人間には新鮮だった様だ。

南鑼鼓巷を北に上る。東西の道はどこもかしこも道路工事中。若干興ざめするものの、歩く。そういえば南鑼鼓巷は別名をムカデ街と呼ぶそうな。理由はこの道を中心に両側に沢山の胡同が展開されているから。そして最後に目指す後円恩寺胡同へ。小さな入り口に『茅盾故居』とある。

(7)茅盾故居

茅盾、この革命作家については良く知らない。恥ずかしい話だが、作品を読んだこともない。『子午』『蝕』『林家鋪子』など有名な作品がいくつもあるのに、一度も手を出さなかった。何故だろうか??

茅盾の故郷は浙江省桐郷県烏鎮。太湖の南岸に位置する水の豊かな田舎町。その風情が展示室に写真で飾られており、興味を引く。共産党結党と共に入党したが、その後日本にも亡命。文革の嵐の後、息を引き取る直前に共産党党員資格を回復する等数奇な運命を辿っている。

 故居には晩年孫と遊んだ小さな庭があり、胸像が配されている。奥には住居があり、入ることは適わないが、書斎、客間、居間が全て生前のまま保存されている様子が見える。戸外には奥さんが買ってきたと言う旧式の冷蔵庫が大切に??放置されている。

 

心地よい午後の日差しを浴びて、この殆ど人影のない庭で欠伸をすると、北京も満更ではないな、と思えてくるか不思議である。

(8)友好賓館
茅盾故居の横に立派な洋館が建っていた。その名を見てビックリ。友好賓館、しかもその看板には日本料理割烹白雲の字が。

白雲と言えば、1986年初めて北京に来た際、寿司をご馳走になった場所。上海に日本料理屋が無かった時代、北京まで食べに来たのだ。創価学会系ということで特別に認められ、大連から新鮮な魚を輸入しているとのことで、その夜は大満足だったことを記憶している。

1984年に北京には既に3つの日本料理屋があったと知人が言う。北京飯店の五人百姓、建国飯店の中鉢とこの白雲。私はこの全てを1986年に体験していたが、場所が分からなかったのは、この白雲だけ。

その薄暗い胡同はどこにあったのか??前回の駐在の際も思い出してみるものの結局探さなかったその場所に居間偶然辿りつたのだ。歴史散歩の面白いところである。80年代に北京に住んでいた日本人なら誰でも知っていたレストランであるが、時代は流れた。

本日中に入ろうとしても門は硬く閉ざされていて入れない。既にレストランだけでなく、ホテル自体が閉鎖された物と思われる。門から中を覗くと柳がしな垂れ、その後ろに洋館が見える。しかしプレートには四合院の文字がある。西側が見事な四合院だそうで、東側には円明園から運んできた築山もあると言う。見られないのが残念である。

因みにここは1875年にイタリア人により設計され、乾隆帝のひ孫が住んだらしい。ところがこのお坊ちゃんは博打好きで借金のカタに屋敷を手放し、その後持ち主が転々、蒋介石が別邸として使っていたことでも有名。歴史的な場所がまた一つ役割を終えた。

 

《北京歴史散歩2007》(1)貢院と智化寺

【貢院と智化寺】2007年4月28日

北京に住み始めて1ヶ月。6年前まで2年住んでいた北京についても、やはり何も知らなかった。慣れてくると同じ場所を行き来するのみで、新たな発見も無かったし、北京の歴史を調べる心の余裕も無かった。

そして何よりも北京は散歩をする雰囲気の無い町であった。夏は40度を越え、冬は零下10度にもなる。春は短く、しかも黄砂と柳の綿、突風に吹かれると、歩くことも出来なくなる。僅か短い秋だけが何とか外へ出る気分となるといった具合だ。

ところが今回3月に来て以降、黄砂は殆ど無く、連日良い天気が続いている。爽やかな風が吹けば、空のスモッグも吹き飛び、快晴となる。思わず外に出て歩き回る。無闇に歩いても勉強にならないので、今回は約20年前に書かれた『北京歴史散歩』(竹中憲一著 竹内書店新社)を参考に歩いてみることにした。

1.貢院
(1)貢院

私が居を構えた建国門外の地下鉄の出口の一つに社会科学院という建物がある。社会科学院とは現在中国における社会科学分野、経済は勿論哲学や文学を含む最高のシンクタンクであり、3000人以上の人材を抱える中国の頭脳と言える。10階を越える立派な建物が広がる。

社会科学院に所属する研究者に何人か知人がいるが、その全てが明らかに優秀な人々であり、日本語の出来る人材も豊富である。『日本のバブル経済とその幻影』などと題した過熱する中国経済への警鐘を鳴らしている人もいる。多才である。

その建物の両側の道が貢院東街と西街とある。貢院、それは隋の時代から1905年まで続いた中国の公務員登用制度である科挙の都での試験場なのであった。社会科学院はその歴史を受け継ぐべく跡地に建てられたと言うわけなのである。

科挙は先ず地方で『県試』『府試』『院試』の3段階の試験を潜り抜け、そして役人の末席である生員となる。その後3年に一度各省の省府で行われる『郷試』に合格して初めて首都北京に上り、『順天会試』をここ貢院で受験するのである。気の遠くなる道のりであり、またここにやってきた人々が如何に秀才であったかは想像を絶するものがある。

科挙は王朝が変わっても継続された独特の制度である。どうしても王朝、支配者一族の専横が起こりがちな中国で、閨閥に縛られず優秀な人材を登用し、国を治めていくという実務的な、そして合理的な制度と言える。

 今はこの貢院の通りにその名残は見つからない。僅かに胡同が点在し、老人たちが中国将棋に興じている姿が見られるのみ。南京にも貢院があるようだが、どのようになっているのやら??

 

 

(2)四川省政府北京事務所
貢院の北を少し歩くと貢院頭条という道がある。その真ん中に『四川省人民政府駐北京弁事処』と書かれた立派な建物が見える。北京には地方政府の北京事務所が大体ある。やはり北京が国の首都だと感じるのはこういう場所を見た時である。

上海は経済の中心であるが、政治の中心は北京なのである。各省は何かあると北京の中央と連絡を取り合う必要があり、また全国人民代表大会の代表をはじめ地元要人の北京訪問も多い。事務所が必要なのである。私の立場と変わりは無い。

しかし普通の人が何気なく入っていく。子供も入って行く。ここは招待所でもあり、泊まることも出来るのであろう。興味本位で中に踏み込むと、奥にレストランがあった。はたと思い出す、そうだここが会社のスタッフが言っていた安くて美味い四川料理屋なのである。

 

中に入ると普通のレストランである。しかし客でごった返していた。ぷんぷんと山椒の匂いが漂ってくる。本場の四川料理は北京人にも人気のようだ。値段も数十元で食べられる。飲み物は頼むとコーラでも水でも大きなペットボトルで運ばれてくる。辛さに耐えられない人のためにそうしているのだろうか??今度皆に紹介したい場所である。尚もし土日に行くのであるなら、5時前に行かないと席がない。これは本当の話である。2階の個室は個室料を払えば予約可能なので人数を集めて予約しよう。

2.智化寺

更に北に歩いていき、小牌坊胡同に至る。ここを北に上がっていくと一角に人が屯していた。何だろうと見ると観光バスまで停まっている。胡同巡りツアーか??と見てみるとそこに寺があった。智化寺と書かれていた。

 

北京歴史散歩によれば、この寺は80年代当時一般公開されておらず、筆者は僅かに開いていた門から中に入れてもらったようだが、今や入場料を取る立派な観光地に変身している。10元支払って入場券を買い中へ。

 

 中は中国の地方から来た団体観光客ばかりで、皆ガイド付きであるが、ガイドが『私の言っている言葉が分かるか??』などと聞いているのには笑ってしまった。しかしよく見てみると仏像に触るな、などと書いてあっても無視してしまうおじさんもおり、ガイドは完全に地方出身者を馬鹿に仕切っていた。ここにも中央と地方の格差??軋轢??が見えた。また北京人のプライドの高さが鼻につく。

寺に入ると左に鼓楼がある。明代建築の名残がある。右には鐘楼、この佛鐘は1444年に造られた銅製の鐘で、高さ1.6m、仏語が彫られている。真ん中には智化門という建物があり、その裏には庭がある。

庭の左側には蔵殿がある。中を覗くと薄暗い中に大きな柱のようなものが。その柱の中に無数の小さな仏様が安置されている。この場所にしかない明代の転輪蔵という蔵らしい。観光客がガイドに促されてその周りをグルグル回る。恐らくご利益があるのだろう。

智化殿には釈迦、薬師、阿弥陀の3像が安置されている。この殿のあった物の一部は1930年代のアメリカに持ち去られたとある。どうやって持ち去ったのだろうか??更に奥に行くと如来殿がある。2階建て、上に上ると横の胡同が良く見える。像もどっしりとしていて良い。

 

智化寺は音楽で有名な寺である。500年余り前の明代に始まり、口頭での伝承が行われ、27代目が現在に伝えているとか??寺では定期的に音楽の演奏も行われているようだが、当日は聞く機会には恵まれなかった。

 

 

 

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》揚州ーバスごと長江を船で渡り揚州炒飯へ

〈12回目の旅−1987年6月揚州〉 —炒飯を求めてリベンジ

杭州が留学最後の旅だと思い込んでいたが、どうやらそれは違っていた。それまでのチベット、満州里、シサンバンナなどの旅が強烈過ぎて、記憶が薄れていたのだ。そう、前年12月に南京に行った折、バスが故障して行けなかった場所、揚州。そこに行ったはずだ。

1. 揚州まで

揚州までは3度目の上海‐南京線。いや、この列車は南京より先に行く長距離列車だったかもしれない。ただ揚州には鉄道駅はなかった。南京に行く途中の鎮江で降り、そこからはバスで向かう。

鎮江駅に着いたのは午後1時を少し回っていた。駅前で昼ご飯を食べようと思ったが、すでに遅し。どこの食堂もランチタイムが終わり、後片付けの最中だった。何でもいいから作ってくれと頼んだが、無駄だった。この当時、いまだ国営気質が十分に残っており、お客さんのことなどは誰も考えない。自分の仕事時間が終われば、終わりだった。本当にピタッと1時でどこの食堂も停止した。

仕方なくすきっ腹を抱えながら、バスを探して揚州へ。そのバスは途中まで進むと大きな河を目の前にした。長江である。橋などはない。何と渡し舟にバスごと乗り込んで進んだ。今もこんな光景、あるのだろうか。船はかなりゆっくり進み、そして向こう岸に着く。何となくハラハラして記憶がある。何故だろうか、波が高いとも思えない。

結局揚州には2時間近くかかって着いた。ホテルは直ぐに見つかり、チェックインできた。この頃になると、ホテルの部屋の取り方もプロになってきていた。古いが大きな部屋だった。これも国営体質のホテル。当然食堂も午後5時からしか開かない。

2. 揚州
大明寺

腹が減って仕方がなかったが、本当に仕方はないのだ。今なら近所に行けばいつでも開いている食堂があるだろう。だがあの頃はそうではなかった。時間になると開け、時間になると閉まる、当たり前のことだった。

空腹を紛らわせるために、観光に出た。揚州では大明寺にだけは行ってみたかった。大明寺と言えば鑑真和尚。ここの住職だった時に、乞われて日本への渡航を決意、幾多の苦難を乗り越えて日本に渡り、大きな影響をもたらした人物。

揚州は唐の時代、隋の煬帝の切り開いた大運河により、大発展を遂げ、経済の中心となっていた。明代以降は塩の集積地として活発な交易がおこなわれ、富が集まったと言われている。現在の揚州は鉄道からも見放され、長江の北側という地理的にも不利な場所とみられている。江沢民の出身地、ということで、近年は高速道路が通るなど、少しは発展してきているようだが。

大明寺についての印象は薄い。特に他の寺と変わったところはなかったということだろう。鑑真記念堂、という建物があった気はするが、どんなものが展示されていたのか、記憶はない。あの時代、文革後10年、いまだその影響は大きく、仏教もお寺も立ち直ってはいなかったのではなかろうか。日本人は鑑真の名声に釣られて訪れていたが、文革後の中国人にどれほどの信心があっただろうか。

揚州炒飯

4時半過ぎにホテルに戻る。今は6月で1年でも一番日が長い時期。だがその日はどんより曇っていた。私の腹も早く暗くなってほしいと言っている。5時前に食堂に行くとまだ開いていなかった。それでも私は食堂の扉の前に立って、待っていた。それほどに腹が減っていた。

5時ちょうどに扉がいた。すぐに中に入り、席に座る。だが服務員はそんなにスピーディではない。ゆっくりとした足取りでメニューを放り投げるように寄越す。私はメニューなど見ずに『揚州炒飯』と大声で注文をした。すると服務員は一瞬『えっ』という顔をしたが、何も言わずに出て行った。

あの頃、上海で炒飯と言えば揚州炒飯が基本だった。一度は本場の揚州で炒飯を食べてみよう、たったそれだけの理由の旅だった。おまけに昼飯抜き、これは期待せざるを得ない。随分長い時間待たされたような気がするが、実はそれほど待ってはいなかったのかもしれない。

出てきた揚州炒飯は美味そうだった。何も考えずバクバク食べた。腹が減っていたからだろうか、本当に美味かった。他に何のおかずもいらなかった。ただひたすら食べた。あの頃は、無心に食べる、ことがよくあった。若かったからだろうか、それとも食に飢えていたのからだろうか。

揚州炒飯は肉と野菜を適当に混ぜて炒める、日本的に言えば五目炒飯である。あの頃はかなり油っぽかったように思う。服務員に聞いたが『特にこの炒飯が揚州の名物』という雰囲気はなかった。揚州料理と言えば、山東料理(魯菜)、四川料理(川菜)、広東料理(粤菜)と並んで、昔の中国4大料理にも数えられている。他にも美味しいものはいくらでもあったのだろう。私の頭にはそんなことは全く入っていなかった。満腹になると夜もやることはなくすぐに寝てしまった。

翌朝はスッキリ目覚めた。朝ごはんもまんとうを食べた。気分よく散歩に出た。湖があったと思う。その湖畔を巡りながら、留学中に出来事を思い返した。正直かなり痩せた。精神的にもきつかった。でも『生きる』ということを考える絶好に機会が遭遇したことには間違いがない。

帰りも来た道を戻る。船に乗り、鎮江へ出た。鎮江に泊まらなかったということは、その日の上海行の切符が手に入ったことを意味する。今や中国でもネットの時代。行ってみたいと分からない旅、そんなものは遠い昔になった。でもそんな旅が今な何ともなつかく感じられるのも、事実である。

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》杭州—留学最後の旅、あれは幻だったのか

〈11回目の旅−1987年5月杭州〉 
—留学最後の旅

留学中最長の一人旅、東北・山東一人旅を終えると、いよいよ留学終了が近づいてきた。あれ程嫌だと思っていた中国であるが、最後にどこへ行こうかと迷うほど慣れてきている自分にびっくり。

元々は最後の旅は新彊ウイグル、シルクロードの旅と決めていたのであるが、その夢を打ち砕いたのが勤め先の事務所設立。7月の帰国時には設立パーティーが開かれるとあっては、手伝わないわけにはいかない。とてもシルクロードを回る時間は無い。

元同室のAさんに聞いてみると『そりゃ杭州だろう』と言う。中国人も『死ぬ前に一度は杭州を見たい』らしい。『上有天堂、下有蘇杭』と呼ばれるほどに蘇州と杭州はよい所である。一度はお出でである。

毎度のことになったが、国際旅行社で杭州行き列車のチケットを取る。流石に観光地のせいか、外国人向け軟座はすぐに取れた。幸先がよい。また今回は昨年末の南京に習ってホテルの予約を電話で試みる。これも何故か簡単に成功。180元でツインの部屋を確保。

杭州まで列車で約4時間。もう少し早く着きそうなものだが、そこは中国。実はこの年私の帰国後高知の高校生が修学旅行に来て、この線で事故に遭い、多数の死者を出した。私に不思議だったのは、何故上海を通らずに蘇州と杭州を行き来できたのか??それは私が乗った時は出来ていなかった迂回線が出来ていたのだ。不慣れな運転手が事故を招いたと思われる。途上国では経済発展に人々が付いていけない。それにしても痛ましい。

駅に到着すると荷物持ちを仕事とするおじさんが寄ってきたが、これを無視して切符売り場へ。帰りのチケットも難なく買える。2泊3日に決定。バスに乗る。今回は宿が決まっているので、安心して進める。

宿は駅から程近い友好飯店。このホテルは今年出来たばかりの新築。岐阜県と中方の合弁とのことで安心して予約したのだ。しかし、ここは中国。そんな簡単に行く分けが無い。上海滞在も10ヶ月になれば自ずと身に付いている。

確かに建物は新しいそうだ。当時中国は新築といっても壁がボロボロだったりしたので新鮮。フロントへ行くと確かに予約があると言う。オー凄い。そしてパスポートを出すと『日本人か、ならば半額』と驚くことを言う。

更に上海での職業を聞かれて『留学生』と答えると『それも半額』と言うではないか??一体いくらなんだ??何と180元で予約した部屋が45元になってしまった。これまで日本人だということで不当に高い料金を取られていたので、これはうれしかった。(お金が惜しいと言うより、そう言ってくれる事だけで嬉しいのだ)これだから中国は分からない。

部屋はきれいなツイン。久しぶりに優雅な気分になる。やはり中国生活が長くなったことを実感。外に出ると柳が下がっており、風景もよさそう。早々に西湖へ向かう。西湖は何の変哲も無い湖であった。中国人は何でここがよいのだろう。

湖岸を歩いて行くとやがて杭州飯店に着く。この付近では一際立派なホテルである。シャングリラが経営しているが、まだサービス、設備両面でシャングリラの名称を使用できないらしい。それでも上海と比べて十分満足できる綺麗さを持っていた。

清潔さ、当時中国で最も我々が欲していたものかもしれない。綺麗な場所に来るとホッとするし、その場所を動きたくなくなる。天下の西湖を横目に見ながら、ホテルのロビーにうっとりする、それがあの頃の中国の現実だったかもしれない。

夕飯もこのホテルで食べた。値段はかなり高かったが、満足した。帰りに湖岸を歩くと、真っ暗であった。観光地と言っても当時はこんなものだった。

2日目の朝、ホテルで粥を食べて、再度西湖へ。昨日と反対に南側から回る。南の端まであるいていくのに3kmも掛かる。何と大きな湖だ。南の端から蘇堤が北に伸びる。ここは宋代の詩人、蘇東坡が杭州知事だった時、20万人を動員して築いた堤防である。もう夏に近い日差しが照り付け、何も遮る物の無い堤の上はかなりの暑さだ。観光客も沢山いるが、皆只管写真のポーズを決めている。

お気に入りの杭州飯店の前まで来て、疲れ果てる。また中で休む。午後外へ出ると天外天という名前のレストランが目に入る。人が行列していた。聞けば有名な店らしい。中国人がブランドに弱いことはこの時知った。何しろ全国は広い。名前が知れている店は強い。

その後どうしたんだろう??ここで見事に記憶が途切れている。既に20年もの歳月が過ぎている。言い訳であるが、当然忘れてしまうこともある。しかしこの杭州行きは私の上海留学の最後を飾る旅。忘れるはずが無いものを忘れる。やはり中国は私の夢の中であったのだろうか??

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》東北三省、山東—長い長い一人旅の果てに

〈11回目の旅−1987年5月東北3省、山東省〉
—長い一人旅

1.ハルピン
留学終了まで3ヶ月を切ってきた。前回のチベット、三峡下りですっかり自信をつけた私は遂に長期一人旅を決意した。これまでは何やかんや言っても誰かと一緒である。しかし本当の旅は一人旅。場所は東北を選んだ。5月初めであるからそう寒くないだろうという理由である。(私は旧正月後の後期授業を語学班から文学班に変更した。文学班は授業より論文重視であったので、時間的な余裕が出来今回の旅行も実現した。尚恐らく銀行派遣生で文学班に入ったのは、後にも先にも私だけではないだろうか?とても貴重な経験であった。)

取り敢えず何処へ行こうかと地図を眺めるとソ連の国境が目に入る。ここだ、と思い突然ハルピン行きの飛行機を予約する。チケットを得てから、先日昆明で再開した大学の同級生のKさんを思い出し、連絡を取る。また瀋陽に留学中の同級生KMさんにも手紙を出す。やはり一人旅は不安なものである。

第1日目。ハルピンまでは飛行機で4時間近く掛かる。当時上海—成田で3時間であるから、もっと遠い。結構長く感じられたのは、旅への不安であろうか?このまま着かないで欲しい、と思うのも、当時の中国の旅の特徴である。

ハルピン空港に降りると暑い。5月初めなのに何と24度もある。目一杯着込んでいた私はロビーで殆ど脱いでしまった程。空港からバスでハルピン駅に直行した。先ずはソ連国境、満州里までの汽車の切符を買わなければならない。これは一苦労だろうと覚悟して行くと、案に相違して、軟臥は簡単に買えた。しかも今夜の列車をである。ハルピンは帰りに見れば良いと思い、夜9時発の列車に乗ることにした。

2-3時間駅近くで時間を潰し、かなり早いが駅に行くと、何と軟臥の客のためにVIPルームがある。人民の雑踏と完全に切り離された静かな空間が駅の一角にあった。その部屋が又実にレトロであり、高い天井に大型扇風機がゆっくり回っている。恐らく戦前日本の満鉄が作ったものをそのまま利用しているのだろう。歴史が感じられるが、日本人としてどうして良いか少し戸惑う。

8時半頃駅員が列車へ案内する。駅構内はかなり暗く、一人で歩くとかなり恐ろしい。数年後ラストエンペラーという映画を見たが、その冒頭のシーンで溥儀が瀋陽駅で連行されていく場面があったと思うが、その時の映像とそっくりの情景が目の前にある。正に戦後40年、変わっていないのである。

2.ハイラルへ
列車に乗り込むと中国人が2人乗ってきて相部屋になる。当時は荷物を取られることも無かったが、一人旅だと何となく心配になる。動き出して1時間ほどで消灯になり、直ぐに寝込む。寝たときは結構暑かったので、Tシャツ1枚。

2日目。朝起きてビックリ。途轍もなく寒いのである。外を見ると川が凍っている。冬景色なのである。車掌が入ってきたので、聞くとマイナス10度だと言う。信じられない。昨日のハルピンの昼間が24度で、今が氷点下10度。中国は本当に恐ろしい国である。ベットを見ると毛布が2枚もある。車掌が夜中に私の為に掛けてくれたそうだ。感謝、感謝。

車掌が朝ご飯は何が良いかと聞く。こんなことは初めてである。部屋まで運んでくると言う。何でこんなに親切なの?暖かいおかゆを頂く。昨日乗り込んできた中国人も朝には居なくなり、4人部屋は私一人の利用となっていた。それで車掌が気を使ってくれている模様。食後も車掌が話し相手になる為、部屋に来る。不思議な気分だ。普段中国人に親切にされることが少ない私は、当初何か裏があるのではなどと考えてしまっていたが、その内本当の親切だと分かると心から感動した。

車掌曰く、この近くに大興安嶺という山脈があり、1ヶ月も前から大規模な山火事だと。1ヶ月消えない山火事。そのスケールの大きさに悪事であるにも拘らず、感心する。しかしここは寒くて仕方が無いのに一方では暑くて仕方が無い。何か不思議だ。昼も一人で部屋で食べる。しかし列車の食事にしては、結構いける。その頃から腰が痛くなる。何しろ既に乗車してから10数時間経過している。満州里までは未だ10時間近く掛かる。車掌がノートを前に差し出す。乗車した外国人にはサインを貰っているという。ノートを広げると多くの日本人の名前がある。よくよく見ると老人と思われる名前が多い。戦前の満州開拓団の人々が慰霊に訪れるという。

日本に居る時は満州開拓団など全く理解していなかったが、丁度留学中に残留孤児問題で孤児の多くが開拓団の子供であることを知ったばかり。後で知ったことは、その頃日本に戻った親が必死に子供を捜しており、その人々もこの列車に乗っていたことである。車掌は多くの日本人はハイラルで降りるという。お尻も痛いことだし、私も突然ハイラルで降りた。切符は3日間有効で明日満州里に行けば問題ない。ここまで20時間掛かった。

(3)ハイラル
ハイラルの駅前で地図を買おうとしたが、ここにはそんなものは無いと言われる。突然降りてしまったので、どうして良いか分からない。駅でホテルを聞くと国際旅行社へ行けという。国際旅行社の場所はバスで賓館前だという。何だか変である。ホテル前というバス停があればホテルもあるのである。兎に角バスに乗ると直ぐに到着した。やはりホテルの1階にあった。取り敢えずホテルの部屋を確保。何と外国人であるというとスイートルームに通される。しかしこのスイートルーム、窓ガラスは割れているは、お湯は出そうに無いはで散々である。既に夕日が西に傾いており、1泊は我慢することにした。15元。

国際旅行社に行くと、流暢な日本語を話す人が出てきた。聞けば吉林大学で日本語を専攻したという。吉林大学日本語学科といえば、中国一レベルの高い日本語学科である。しかしその頃は『分配』の時代。彼は卒業後故郷に戻らざるを得ず、その日本語力で開拓団の人々のガイドなどをして過ごしていると言う。実に勿体無い気がした。彼ほどの日本語力があれば活躍の場は幾らでもあるのに。分かったことはハイラルには特に見るべきところはないということ。夜はかなり冷えており、割れた窓ガラスが恨めしい。風邪を引かないように苦労して寝た。

3日目。昨日降りた時間に駅に行き、満州里行きに乗りなおす。駅で待っている時、中国人ではない人を見かける。先方も私を見ている。きっと華僑だろうと思い、思い切って中国語で声を掛ける。すると相手は『日本人ですよ。』という。驚いた。こんなところで同年代の日本人に会うとは。しかも彼もこれから満州里へ行くという。結局2人で行くことにする。

(4)満州里
4時間で満州里に到着。夜8時であるが5月で未だ外は明るい。同行の日本人Kさんの情報で近くのホテルに宿泊。2人で1部屋。夕食は食堂で。中国人は食券を買っていたが、我々は行き成り食事が提供される。これが美味いので勢い込んで食べる。2人で6元。その後も何が出ても同一料金であった。

4日目。愈々国境に行こうと思い、Kさんと一緒に国際旅行社に出向く。実はKさんは政府関連の機関から派遣された留学生であることが分かり、無用のトラブルを避ける為にもし聞かれた場合は私の同僚とすることにした。今でもそうだが、他国ではこちらが予期せぬ疑いを掛けられるもの。単なる旅行でも注意が必要である。旅行社では明日ジープを出してくれるという。確か200元はしたのでは?この辺りでは相当に高額であるが、ここまで来て国境を見ないわけには行かない。

満州里は国境であり、かなりの緊張感があるものと思っていたが、実際着てみると普通の街とあまり変わらない。特にロシア系の人々が目立つわけでもない。ホテルに商人風の男が多く出入りしていることぐらいか?国境貿易に従事しているのだろうか?

駅に行く。ここからソ連側は所謂シベリア鉄道である。モスクワまでは7日間掛かるという。この駅で面白い光景がある。何と中国とソ連では線路の幅が異なる為、この駅で列車の車輪を取り替えるのだ。2時間ほど見ていたが、遂に車両交換の場面を見ることは出来ず、どの様にして交換するのかは分からなかったが、確かに立橋の上から見ると駅の先で線路の幅が異なることは良く見えた。しかしどうして幅が違うのだろう?戦前の日ソ関係の影響であろうか?

5日目。とうとう国境へ。ジープは大草原、というよりも本当に何も無い原野を走り続ける。どうやってこの方向が正しいと分かるのだろうか?道も無いのである。このまま何処にも着かなかったら?かなりの恐怖を感じる。私はこれまでの人生でこんなところを走ったことが無い。

1時間ぐらい経っただろうか?ここが国境だと言われる。しかし何も無い。私が漠然と抱いていた国境とは柵があったり、兵が居たり、はっきりとした何かがある場所、境であるはずであった。ところが現実には向こうに微かに何かが見えるだけである。運転手は『あれがソ連の村だ』という。双眼鏡を貸してくれる。覗くと確かに家があり、煙が棚引いている。人の動く気配もある。よくよく見るとどう見ても中国人にしか見えない。運転手は『当たり前だ。ここは殆ど中国なのだから。』とことも無げに言う。その通りだ。私たちは見世物を見ているわけではない。中国領とソ連領の境である。中国系の人が多くてもなんら不思議は無い。突然オリンピックの体操選手でネリー・キムという美人選手がいたのを思い出す。あのころは何故韓国人がソ連選手をやっているのかと思ったものだが、皆地続きである。

ジープの停車した場所からもう少し先に行こうとした。突然運転手がそれ以上動いてはいけないという。教えられた国境線(微かな黒い線)までも未だ相当距離がある。何故と思ったが、素直に従った。周りに木も無く、隠れるところはまるでないのだが、もし中国の規則に違反した場合、最悪撃たれる可能性も考えなければならない。あの頃は妙な緊張感、危機感はあったのである。結局20-30分で引き返す。国境の感慨は何も無いが、何故か強く印象には残った。

昼ご飯を食べる為、草原の中の湖の湖畔に行く。正に一軒家である。そのレストラン以外に見渡す限り建物は無い。どんな料理を食べたかは、全く記憶がないが、強烈な記憶がトイレである。ウエートレスにトイレの場所を聞くと外だという。ところが外には何も無い。建物はこのレストラン1つだけである。もう一度尋ねると入り口を出て彼女は外を指す。指された辺りに行ってビックリ。そこには穴が2つあった。中国のトイレは扉が無いとか、何とか文句を言っていたが、究極のトイレが目の前にあった。

用を足せば丸見えである。更に使用後は穴に土を掛け、隣に新たな穴を掘るのだという。私は『小』だったので、大地に向かって思いっきり、気持ちよく放尿したが、これが『大』だった場合、果たしてことを成すことが出来たであろうか?当日は雲1つ無い快晴であったが、雨の日はどうするのだろうか?疑問は幾らでも出てきたが、とても聞ける雰囲気ではなかった。今もあのレストランはあるのだろうか?

6日目。国境の街、満州里を離れる。又24時間を汽車で戻るのである。今度は2人旅であったので、時間は直ぐに過ぎたような気がする。

(5)ハルピン
7日目。昼頃ハルピンに戻る。ハルピンに最初に着いた日がかなり遠い過去のような気がする。やはり列車で1日の旅を往復するとかなり疲れる。
ハルピン駅と言えば、伊藤博文だろう。1908年この駅で暗殺された。安重根は戦後韓国の英雄となっている。伊藤はどの様な思いで、異国の地で命を落としたのだろうか?
ハルピンは日清戦争後に東清鉄道が起工された時、本当に何も無い漁村だったと言う。その後鉄道開通と共に、東のパリ・モスクワと言われるほどの繁栄を極めた。鉄道の威力は恐ろしいものである。

Kさんと一緒にホテルを探す。確か駅からそう遠くない、華僑飯店に部屋を取ったと思う。2人で1部屋であり、まあまあ清潔でかなり安かった。

駅では明後日の長春行きの軟座が取れた。ハルピンでの行動は2日と決まる。
早々ハルピンで日本語教師をしているK女史に電話する。彼女とはこの前昆明で思いがけず再会し、その際東北旅行の際に寄る事を伝えておいた。明日の夜会うことにする。

初めてハルピンの街を歩く。他の中国の都市とは明らかに違う。道が何となく綺麗である。ロシア正教(?)のモスクが見える。坂道が洒落て感じられる。5月の東北は気持ちが良い。松花江は大河である。向こう岸が辛うじて見える。中州のようなところがあり、近くは感じるが川幅はかなりある。冬はこの大河が凍り、スケートが出来るという。中国とは本当に広いところである。

8日目。K女史と会うため、彼女の勤務先のハルピン師範(?)を訪ねる。建物は結構古かったが、上海の我が大学よりは歴史があり、洒落ているように感じる。ロシア建築なのか?彼女はここで一人で日本語を教えているのだという。私にはとても出来ない。冬はどうして過ごすのだろうか?

彼女がレストランに案内してくれる。ロシア料理屋だという。ビーフストロガノフやピロシキを食べた。何よりも驚いたのは、筋子であろう。どんぶりに山盛りの筋子が2つ運ばれてきた。1つ5元だという。そのまま食べられるというので、思い切って口に入れる。美味い、イクラのプチプチした感じがとても良い。食べている間に涙が出そうになる。私は決してイクラが好きだと思ったことは無いが、この北の果てで口に出来ることは感動物である。

夜街を歩くと、ロシア系の白人や中央アジア系の彫りの深い顔立ちの人が歩いていることに気付く。国境ではお目に掛かれなかった人々は実はここに居たのだ。出入りの厳しかったこの時代でも、北の外れでは国境貿易が盛んに行われ、人の往来はあったのである。K女史には『頑張って』と一言言って分かれた。しかしあれから一度も会っていない。

2.長春
9日目。佳木斯・牡丹江方面に行くというKさんと別れ、昼前の列車で長春へ。Kさんとはその後全くコンタクトを取っていなかったが、人生とは面白いもの。12年後に北京に赴任した際、長男同士が日本人学校の同級生となり、奇跡的に再開を果たすことになる。尚Kさんは私と最初に会った場所を満州里だと思っていたが、私は自分の記憶が正しいと今でも信じている。

軟座で快適に過ごす。ハルピンを出て少しすると、もう一面北の大地である。所謂地平線が見える。山も無い、建物も無い。その風景は延延と続く。戦前一旗揚げようと内地から来た青年の気分である。

午後長春着。ここが旧満州帝国の首都であった新京である。駅前から人民大街が真っ直ぐに伸びている。風が強い。かなり強い。砂が舞う。黄砂である。砂が目に入って痛い。見ると自転車に乗る女性がスカーフを顔に掛けている。驚くのはおじさんが何と、パンストを被って顔を覆っている。駅で瀋陽行きの切符を買おうとするが、何といっても無いという。途中駅から軟座を買うことは不可能だそうだ。硬座も難しい。初めて『無座』という切符を買う。自由席とでも言おうか?

ホテルは確か長春飯店ではなかったか?受付に行くと『1元だ。会社の紹介書を出せ。』とぶっきらぼうに言われる。紹介書などは無いと言うと『お前は華僑か?なら25元だ。』という。同じ部屋が何故そう違うのか?更に華僑でないというと『外国人は50元。』だと。驚く。そんなに違うのか?最後に学生証を出すと『じゃあ、華僑料金だ。』と25元を取られる。

街を歩いて行くと直ぐに新民大街に行き着く。ここら辺りは東京駅のような建物があり、旧満州国時代の建物だと分かる。今でもこのような建物が残っていること自体が意外な感じがする。しかもその建物を病院や役所として現在も使用している。中で働いている人々はどんな気持ちなのだろうか?既に戦後40年、特に感慨も無いのだろうか?

よく見てみると一人の老人が感慨深げに佇んでいる。この風の中で立ち止まっている人は珍しい。近づくと今にも涙を流しそうな顔をして、遥か遠くを見つめている。服装から日本人と判断される。きっと若かった時代に何らかの関わりがあったのだろう。このような老人は上海のバンドでも見かけた。一度などは本当に泣いていたので、物取りにでもあったかと思い、声を掛けると『50年前とちっとも変わっちゃいない。』とポツリと呟き、又一人の世界に埋没していった。

1987年の丁度この頃、上海ではスピルバーグが『太陽の帝国』という映画を撮っていた。バンドの裏道では看板の字を書き換えれば、そのまま撮影出来たそうである。そう言えばエキストラとして留学生が多数出演した。但し日本人は必要ないということで、専ら西洋人とインド人、アフリカ人が採用された。

ラストエンペラー、この映画は大分後に見た。長春に行った頃はあまり知識が無かったと思う。溥儀の人生は本当に時代の波に翻弄されたと言えるが、同時に旧満州に集まった幾多の日本人も時代の波に翻弄されたと言えるのではないか?最近はそう思うようになった。大杉栄を殺害したとされる甘粕大尉を坂本龍一が好演していたが、満州の映画水準は高かったようだ。李香蘭などを輩出した背景はもう少し勉強してみたい(日経新聞に本人が私の履歴書を掲載。非常に参考になる)。又満鉄も興味のある対象であろう。確かに日本は悪いことをした。しかしその時代に行われたことは今に繋がっているのではないだろうか?建物だけが残っている長春でそう思う。

余談だが、満州で活躍した民間人に小沢開作という歯医者がいた。その息子は陸軍大将板垣征四郎と関東軍参謀石原莞爾の一字ずつを取り、征爾という名前がつけられた。世界的な指揮者、小沢征爾である。戦争犯罪人(?)の名前を付けた指揮者を中国は受け入れるのだろうか?不思議な気分である。

夜今日が自分の誕生日であることに気付く。25歳になる。どうも毎年誕生日は寂しく過ごしていた気がするが、特にこの日は寂しかった。ホテルのレストランで夕食を取っていると日本人の女性が一人で食事をしており、向こうから声を掛けてきた。何時もであれば存分に話したであろうが、この日だけは何故か全く話す気になれず、直ぐ失礼してしまった。やはり新京の夜だったからであろうが?

10日目。午前中に長春を出発。無座の切符は本当に席が無かった。少し行けば席が空くだろうと思っていたが、案に相違して人は増えてくる。仕方なく、車両の連結部分で荷物の上に座る。ところが途中で掃除のおばさんが来る。おばさんは容赦なく、モップを使う。荷物があろうが人がいようがお構いが無い。おまけにバケツの水を思いっきりつけるので、床は水浸しで、座ることも出来なくなる。長春—瀋陽間の4時間は本当に長く感じられた。

3.瀋陽
瀋陽到着。旧満州の奉天である。駅前の遼寧賓館に向かう。旧大和ホテル。1927年創建と言われる。先日武漢で旧大和ホテルに宿泊し、その歴史的な建物に感動した。ハルピン、長春では既に無くなっていたのか見つからなかったが、ここ瀋陽では健在であった。簡単に泊まれないと覚悟していったが、意外や直ぐにシングルの部屋が出てきた。こじんまりしたその部屋はかなりレトロな雰囲気で気に入った。ロビーは昼間にも係わらず薄暗かったが、天井も高く非常に雰囲気が出ていた。

午後瀋陽故宮を訪ねる。清朝の前身、ヌルハチ、ホンタイジにより建立された宮殿である。その後北京に遷都されたため、かなりこじんまりしている。歴史好きの私はあの強大な清朝を築いた満州族のことを考えた。少数民族が中国を支配する、これは想像を絶する苦労があったはずであるが、我々はそのようなことを学んだ記憶が無い。

関東軍によって張作霖が爆殺されたのも、1931年に柳条湖で満州事変が勃発したのも、この瀋陽近郊である。本当に歴史がある街である。現在では9・18事変陳列館や張学良旧居陳列館などが整備されており、歴史を見ることが出来るが、当時は博物館があった程度か?あまり記憶が無い。

夜Kさんに教えられた朝鮮族の開いている焼肉屋に行く。ある道に所狭しと屋台がある。場所柄か朝鮮族はかなりいるようだ。キムチを食べると美味い。久しく味わうことが無かった味だ。焼肉も久しぶり。美味い。

11日目。遼寧大学を訪ねる。満州里で会ったKさんは未だ帰っていなかったが、大学の後輩Oさんが面倒を見てくれる。彼女は以前上海の我が大学に来て、1年後輩のKS君の部屋にもう1人の女性と泊まっていったことがあり、面識がある。当時上海では宿を確保することが難しく、市の中心から1時間も掛かる我が大学に宿を求めてやってくる人が結構いた。彼女は更に節約する為、KSくんの部屋に寝ることにしたようだ。確か余った布団を運んだ記憶がある。実はここには私の大学の同級生KMさんが留学しているが、今回は他に旅行に行っていて会えなかった。私は日本で大学に殆ど行かなかったが、同窓生たちは皆中国で活躍しており頼ることになる。不思議である。

※後輩OさんによるとKSくんの部屋に泊まった事情は違っていたようだ。以下説明。

『どうでもいいことですが、復大のKS先輩の部屋に泊まらせてもらったのは「更に節約する為」ではなく、前日はちゃんと宿泊料を払って復大に泊まりましたが、その日は便利な音楽学院に宿を移そうと復大をチェックアウトしてしまったところ、音楽学院へ向かう途中で連れの同学がバスから転落して腰を痛めて動けなくなった上、やっとたどり着いた音楽学院は満室で断られ、途方にくれてKS先輩に迎えに来てもらい復大に舞い戻ったものの、急だったので专家楼の高級部屋しか空いていなかったためです』

遼寧大学は北陵公園の近くにある。北陵はホンタイジの墓陵である。かなり広い敷地であるが、風が強く早々に引き上げる。留学生宿舎に行くと大騒ぎである。何と各国の留学生が散らし寿司を作っている。皆楽しそうである。我が復旦大学とは雰囲気が大分違う。やはり規模が小さいこの大学では各人の距離が近いようである。

Oさんの勧めもあり、夕飯をご馳走になる。散らし寿司と巻き寿司である。しかし当時の留学生としては凄いご馳走である。ワイワイ食べるのも良い。驚いたことにその輪の中に、ドイツ人の留学生が2人いた。何処かで見たことがあると思ったら、何と雲南省のシーサンバンナで夜一緒に歌って踊った人達であった(彼女らはドイツ民謡を歌い、我々は炭坑節を披露。)。日本人留学生の中には可愛らしい彼女らと文通しようと試みた人もいたので、思い出した。

留学生の話では、この宿舎は真冬で氷点下20度になっても、夜10時にスチームが切れる。その寒さと言ったらない。またシャワーの湯も一日3-4時間しか出ない。我が復旦大学はスチームもシャワーも何時でも使える。文句ばかり言っているが、如何に恵まれているかが分かる。

4.大連
12日目。大連へ。遼寧大学の日本人留学生も1人一緒に行くというので、2人旅となる。また驚いたことに例のドイツ人留学生も別途大連に行くというので、後日の合流を約す。前回の無座に懲り、今回は何とか軟座を抑える。軟座は6人掛けと4人掛けが左右にある。今回は6人掛けの真ん中に座る。風景を見、本を読んで過ごそうと思ったが、他の乗客が色々と質問してくる。この辺りの人々の日本に対する関心の高さが伺われる。6時間の旅があっと言う間に過ぎる。大連駅着。この駅は大きく感じられる。立派な作りである。遠めに見ると駅が高台にあるように見える。2階が出発、1階が到着だった気がする。空港みたいだ。

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大連には大学時代の知り合いの方がいた。実は昨年12月にその方を訪ねるべく、上海から飛行機に乗ろうとしたことがある。ところがどうしたことか、1日目は飛ばなかった。仕方なく、華東師範の宿舎に泊めて貰った。ここには同じ会社から派遣された留学生が居たのだ。何しろ復旦大学に戻るには時間が掛かるし、何よりも翌日又来ることは不可能に近い。一般の中国人は民航がアレンジする宿に泊まるらしいが、外国人が泊まるのは結構厳しい環境のようだ。

翌日も朝7時に集合したのに何のアナウンスも無く、飛ばない。昼に飛ぶのではと言う話があり、1時まで待ったが飛ばない。昼飯を食っていない。見ると日本人の出張者らしい人が揉めている。流石に1日以上待たされて何の情報も無いことに耐えられなかったらしい。私ももし仕事であったら到底耐えられないだろう。結局その騒動に巻き込まれる。通訳をしてくれと言う。しかしその罵るような日本語を訳すのは難しい、と言うより訳しても意味が無い。状況は民航側も良く分かっており、皆が関わらないように努力している。

最後は昼の時間が終わってしまった国内線の食堂ではなく、国際線のロビーに入れてもらい昼食を取った。中国で仕事するのは大変である。その後大連ではなく、ハルピンに行く飛行機が手配され、その出張者は去っていった。私も乗ることが出来たが、ハルピンー大連間は汽車で十数時間掛かる。ましてや12月、ハルピンは零下20度以下である。結局諦めてチケットを払い戻す。飛行機の飛ばなかった理由は大連の天候が悪いと言うことであったが、大連に電話すると快晴だと言う。後日我々の乗ろうとしていた飛行機が上海に着く前に墜落していたことが分かる。これにはかなりビビる。

それは兎も角、大連では知り合いのIさんにホテルの手配をして頂いた。場所は南山賓館、Iさんは南山賓館別館の戸建に住んでいた。ここは戦前日本人が住んでいた場所である。部屋は古いが清潔であった。

大連に着いて直ぐ、中山広場の近くに新しいホテルが出来ているのを発見した。例のドイツ人留学生も合流したので、洋食でも食べようということになり、その中のレストランに入ったが、そこは留学生には場違いなほど立派な洋食で貧乏留学生の我々はパンとスープとサラダを食べて早々に退散した。

その頃は確か港への道はスターリン街といっていたと思う。その道を行くと突き当たりに立派な港が見えた。大連港である。荷物を持ち上げるクレーンなども見え、規模はかなり大きかった。この港から40年前命からがら逃げたようとした日本人が居たかもしれないことなど全く感じられない。大連の街並みは極めて日本的である。低い日本家屋が彼方此方に残り、アカシアの木がいたるところにある。

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特に宿泊先の南山賓館付近はその面影を色濃く残しており、ここは日本かと思ってしまうほど。5月は季節的にも最高で爽やかな風が心地よい。最も相応しい時に来たものだ。昨日までは何で黄砂のシーズンに東北旅行に来たのかと思っていただけに喜びもひとしおである。

夜はIさん宅で夕食をご馳走になる。もう何ヶ月も味わったことの無い、日本の家庭の雰囲気である。奥さんが丁寧にお皿をテーブルに置くだけで感激してしまう。日本食である。これが私の求めていた日本の家庭料理である。この時私には分かった。我々は日本飯が食べたい、食べたいと何度も言っていたが、それはてんぷらや寿司ではない。テーブルに載っている醤油をちょっとかけたお浸しであり、サラダにかけるマヨネーズが日本飯なのであると。

大連の駐在は退屈だというIさんは毎晩テレビゲームで野球をやっている。物凄く上手い。その晩他の駐在員もやって来て試合をしていたが、一体どれだけ練習したのかと言うほど熟達している。私などは全く出来ないので観戦していた。しかし駐在員と留学生では待遇がこうも違うのかと思うほどIさん夫妻の生活は恵まれているように見えた。

13日目。街をうろついたが、よく覚えていない。昼に『清水』という日本飯屋に行く。昨日は日本飯の本来の姿を見つけた気がしたが、さりとて刺身が食える店があると聞いては行かざるを得ない。その店は純日本風であった。12時に行くと客は誰も居ない。メニューを見ると刺身定食が20元もする。当時の20元は上海でも相当使い出がある。かなり高い店だと思いながら、やはり刺身定食を注文。その定食が来てビックリ。何と刺身の船盛といった様相で、刺身が物凄い量載っている。これはとても食べきれないと思いながら、一口食べるとこれがこの世の物とも思われないほど美味い。この感激は今でも思い出すことがある。結局一人で全部平らげた。

午後ぶらついてホテルに戻るとIさんから電話で、『明日は海が荒れるので船が出ない可能性がある。今晩の船で行け。』と言われる。このあと私は山東半島に渡るつもりにしており、その切符をIさんにお願いしていたのだ。少し心残りであったが、今晩離れることにする。

実は私は大連でどうしようか迷っていることがあった。それは旅順に行くことだった。当時軍港である旅順は外国人未開放地区。しかしあの日露戦争の203高地・旅順監獄などは是非見たいと思っていた。Iさんには『中国人に成りすましてツアーに入ればお前なら大丈夫』と太鼓判を押されていた。ただ問題は昼飯の時に『糧票』という米配給券を持っていないと怪しまれる可能性があるとのことで、結局断念して船に乗ることにした。あの時旅順に行っていたらどうなっていただろうか?何かを見ることが出来たのだろうか?数年前に外国人に解放された後も結局未だに旅順に行っていない私なのである。

南山賓館をチェックアウトしようとすると問題が起こった。国際電話代を払えと言う。私は昨夜確かに日本に電話を試みた。しかし繋がったと思うと切れてしまい、話が出来ないで終わっていた。ところがホテルの記録では通話したことになっている。フロントに何度説明しても払え、の一点張り。支配人を呼んでもらい更に説明したところ、何と『支払わないなら、公安に連絡する。全国のホテルにもお前のような人間を泊めない様触れ歩く。』と脅しを掛けてきた。

日本人が良く利用するホテルでこのような扱いを受けるとは心外だ。しかし船の時間が迫っていた。Iさんに迷惑を掛けるわけにも行かず、しぶしぶ支払う。これまで最高の印象であった大連に汚点が残った。

5.煙台
煙台行きの船は夜8時に出航した。Iさんのお陰で1等船室に乗る。1等は2人部屋である。相方は山東地方の幹部のようだ。彼は最初二言三言話しかけてきたが、私にはそれがとても標準語には聞こえなかった。分からないで居ると先方も諦めて早々に寝入ってしまった。私は夜景などを眺めようとするが漆黒の闇である。何も見えず仕方なく、まどろむ。

どのくらい時間が経ったのか?船が停止する気配である。時計は午前3時。そういえば何時に到着するか聞いていなかったが、こんなに早いとは。船を下りると乗客は迎えのものや宿屋の者に伴われて何処かへ行ってしまう。下手に宿屋に着いて行くと危険だと考えた私は気が付くと完全に取り残されてしまった。全くの夜中である。全く知らない街である。これには途方に暮れた。しかも一人である。初めて一人旅の孤独をもろに味わった。

とうとう港の明かりも消えて、少しでも明かりのあるほうに歩き出す。しかし中国の田舎町の夜中は暗い。それでも不思議なのはたまに人が自転車に乗っていたりする。それが救いであった。それと外国人は絶対に襲われない、という観念である。これが無かったらとても歩くことは出来ない。フラフラ歩いていると明かりが見えてきた。今地図で見ると1kmもない所に煙台駅がある。そこに辿り着くのに物凄い時間が掛かったように思われたのは孤独のせいか?兎に角駅で腰を降ろす。6時に切符の売出しがあると言うので、2時間待つ。それ程寒くなかったのも救いである。

6時に青島行きの軟座を取る。本日12時発である。それまで煙台の観光をしようと思ったが、疲れで眠たい。小山の上の公園のベンチで寝ることにした。ところが太極拳が始まり、直ぐに起こされてしまう。他に寝る所も見つからない。仕方なく、郊外行きのバスに乗り、その中で寝ようとした。しかし中国のバスである。物凄い揺れである。道もでこぼこである。何回もしこたま頭を窓ガラスに打ち付けて寝られない。観念して駅で寝て待つことに。しかし不幸は続くもの。12時発の青島行きは何時になっても列車が来ない。相当遅れるようだ。食べ物も無い、寝ていない、極限状態に陥る。あの大連の幸せな生活は何だったのか?奈落の底に突き落とされるとはこのことだ。

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結局列車は夕方6時に煙台を離れた。私は既にグッタリしていた。隣の中国人が心配してくれた。ありがたいものだ。青島の泊まりはどうする、そうだこれが喫緊の課題。何と青島着は夜中の12時である。昨夜の二の舞だけは避けないと。中国人が言う。『駅前に華僑飯店がある。あそこなら外国人も泊まれるし、何しろ便利だ。』

6.青島
列車は12時に青島に到着した。今回は余裕があった。何しろ駅前のホテルに行けばふかふかの布団に寝られるのだから。しかし中国はそんなに甘くは無かった。一瞬でも甘い夢を見たものは地獄に落ちることがある。あの時の私が正にそうだった。駅前は暗かった。そしてきょろきょろしたが、ホテルらしい建物は無かった。ガイドブックで見ると確かに駅前にあるはずだ。その場所を探り当てると何だか工事現場のように見える。通り掛った若いカップルを捕まえて『華僑飯店はどこ?』と聞いて驚いた。なんとここだと言う。と言うことはつまり、・・・建て替え工事中だったのだ。目の前が真っ暗になり倒れそうになった。

それを見ていたカップルは心配そうに『ホテルを探しているのなら、一緒に探そう。』と言ってくれた。地獄に仏である。当時中国でこのような親切な言葉を聞くことは極めて稀であったから、涙が出るほど嬉しかった。しかし駅付近に明かりは乏しかった。彼らも当てがあるわけではなさそうで、つい言ってしまって後悔していたかもしれない。

3人で5分ぐらい歩くと明かりのある建物があり、3人の人が丁度中に入ろうとしていた。カップルの男性がそこに行き、そこの人と何やら話している。きっと説明してくれているのだろう。5分ぐらい問答があって、彼が戻ってきてOKを出した。泣きたいぐらい嬉しかった。お礼もそこそこに中に入った。中に居た男は無表情であった。確かにこんな夜中に突然客が来ては迷惑なのだろうと解釈した。登記は?と聞くと要らないという。宿賃は?と聞くと1元と答える。何だか妙だが、兎に角眠たい。部屋に案内されると既に数人が寝ていた。ベットが1つ空いており、そこを指されたので、直ぐに寝入った。本当に倒れ込むように。

翌朝朝日が目に入った。既に同室の何人かが起き出していた。6時である。未だ早いと寝ていると7時前に一斉に何かの音がした。目を開けて驚いた。同室の5人が皆同じ服を着て、ベッドの布団を片付けて居たのだ。それでも未だ夢現で、やけに礼儀正しい中国人だな、と思った程度であった。しかしベッドの中で何か引っかかるものがあり、再度目をあけてよく見ると恐るべき事態が認識できてしまった。彼らの服は紛れも無い人民解放軍の制服なのである。それが全員同じ服ということは・・・??

慌ててジャージのまま外へ飛び出す。建物の入り口の看板はやはり見ていけないものであった。『山東人民解放軍宿舎』それは今でも同じだと思うが、どう見ても外国人が立ち入れる場所ではなかった。昨夜のおじさんを探したが、居ない。と言うことはここで誰かに身元を尋ねられた場合、最悪のケースで逮捕連行されることもあり得る。咄嗟にそう判断し、急いで着替えて一目散に外へ飛び出した。

当時は今と異なり、中国人女性と街を歩いているだけでも公安の尾行がつくと言われた時代。知らなかったと言えば済むのかどうか?まあ冷静に考えれば、説明すれば何とかなったではないかと思うが、その時の異常な恐怖は今も鮮明に思い出せる。それが中国の怖いところなのである。まあその後日本人で人民解放軍宿舎に泊まったことのある人にお目に掛かった事はない。かなり異例、特異な体験であった事は間違いない。

何とか駅に向かった。先ずはこの地を離れなければ。駅で並んでいる間も誰かが追いかけてこないか心配であった。私の順番になったが、上海行きは3日先だという。一番早い列車は西安行きの硬座が今日あると言う。一瞬考えたが、その体力は無さそうなので、バスに乗り、中国民航のオフィスに直行した。

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オフィスに着くと人を掻き分けて係りの人に『今日の上海行き』と怒鳴る。当然の如く『没有(ない)』との答え。必死の私は『今日乗せないで俺が死んだら全てお前のせいだ。』と怒鳴る。先方もその剣幕に尋常でないものを感じたのか奥に引っ込んで5分ほど出てこなかった。逃げを打たれたかと思っていると、何故か『有(ある)』と言って切符をくれた。それは午後の上海行きだった。

何だかホッとしてしまい、力が抜ける。と腹が減る。よく見ると海岸が見える。そうここは風光明媚な青島である。昨夜の駅前は悪夢である。そう言っている様だ。王朝大飯店と言う立派なホテルがある。そこで飯を食う。美味い。景色も良い。このホテルには日系企業の事務所もあるようである。何だ、このホテルまで来れば何の問題も無かったのだ。しかし昨日の状態ではここまでとても来られなかった。兎に角早く脱出しよう。

青島の海は有名なようで中国銀行だの、何とか企業だのの保養施設が目に付く。中国では一生海を見ないで死ぬ人も多いと聞く。海辺では一生に一度海に入る人のために??海パンをレンタルしている。しかし人の履いた海パンを履く気分はどんなものであろうか?

昼民航バスで空港へ。道が悪く1時間半ほど掛かる。しかしこの頃にはかなり安堵しており、逃げ果せたという感じで夜上海で何を食うかなどと考え始める。ところがチェックインが始まり切符を渡すと横で待てと言う。どういうことかと食い下がると、係員は親切に『お前の切符はダブルブックだ。ほれ、ここに井桁のマークがあるだろう。これが証拠だ。もし満員でなければ乗れる。』と言われる。

また奈落の底である。どう見ても乗客は沢山いる。私が乗れない確率は高い。オフィスの人間は私の剣幕に恐れ、取り敢えず切符を渡したのである。しかしここはどうしても乗らなければならない。また青島の街に戻ることなど考えられない。係りを捕まえて『外国人は料金を3倍払っている。当然優先されるべきである。』と必死で訴える。とうとう係りは根負けして切符を出す。私はタラップに向かって走る。ドアが閉まる。漸く長い戦いが終わる。2時間後上海上空に来た時、あんなに嫌っていた上海が妙にいとおしく感じられた。

今回の旅は前半が快適、後半は中国の恐ろしさを嫌というほど味わった、特に青島では。1987年の中国とはこのような所なのである。今にして思えば、困っていた私を親切にも泊めてくれた解放軍のおじさんがいた、無理やり切符を出してくれた中国民航の人がいた、とも思えるのだが、その当時はやはりかなり社会が緊張していたのだ。杓子定規な社会主義国家であったのだ。自分も常にその緊張の中にいたということだ。

その後中国ビジネスに携わった時も今回の教訓は大いに参考となった。また余談を言えばその2ヵ月後会社の仕事で通訳をする機会があったが、相手は山東人。訛りが酷く言っている事は殆ど分からなかったが、この山東旅行のお陰で最低限の会話を成立させる事が出来、何とか面目を保った。

百聞は一見に如かず、とはやはり中国の諺である。

 

 

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》四川、ラサ、武漢—天国に一番近い国と大河を旅する

〈9回目の旅−1987年4月チベット、三峡下り〉
—天国に一番近い国と大河を旅する

1.高級アル中
あまり書きたくないのだが、私は留学の途中から、ブランデーを飲むようになった。きっかけはこうだ。ある日和平飯店の売店に行くと、洋酒が目に留まった。誰かが、『あれは日本で買えば3万円はする。ここでは8千円だ。安い。』と言ったの聞いて、ヘネシーXOなるブランデーを1本買ってみた。夜数人で飲んでみるとこれが美味い。何しろここには氷が無い、と言うより水が無い。普通の水は硬水で飲めないし、ミネラルウオーターなど簡単に手に入らない。ストレートで飲んで美味しい飲み物がベストなのだ。

次に町に行った時も違うブランドを買った。その後1週間に1本ぐらいのペースで買い続けた。最初は数人で飲んでいたのが、その内一人で夜中に飲むようになる。3ヶ月で10本以上飲んでしまった。その頃には朝起きると頭がジーンと痛くなり、無意識にコップを掴むようになっていた。これはいけないと思い、隣で中医を勉強している人に、この症状は何かと聞くと、ずばり『アル中の初期症状だ』と言う。どうすれば治るかと聞くと『チベットに修行に行け。酒の飲めない同行者を1名選べ。』とのアドバイス。

勿論冗談だと思ったが、いっその事この際チベットに行ってみようかとの思いを抱いた。早々お酒の飲めない留学生Kさんに声を掛けた。二つ返事で決まった。但しKさんは好奇心は旺盛だが、体が弱い。因みに高いブランデーばかり飲んでいたので、その後暫く安い酒が飲めなくなった。これを称して『高級アルコール中毒』と呼ぶ??

2.成都
上海より空路成都へ行く。このルートは旧正月の折に逆ルートで帰っているので、既に経験済み。空港から何とか車を捕まえて、前回泊まった錦江飯店に向かったが、前回は簡単にチェックインできたホテルが、今回は何と言おうが泊めてくれない。時刻は既に夕方となり、どうしようかと思っているとホテルの従業員から『近くに外国人も泊まるドミトリーがある。今日はそこへ行ってくれ。明日は朝来れば部屋があるだろう。』と言われる。そう言われてしまえば、諦めるしかない。と同時に未だに中国のドミトリーに泊まったことが無かったことを思い出し、良い経験と思い直す。

そのドミトリーは古ぼけた大きな建物だった。沢山の中国人が泊まっているのが見える。受付で外国人である旨を告げると、別棟に案内される。別棟は多少きれいである。部屋にはベットが6つ、既に先客が4人居た。確か部屋代(ベット代)は5元。外国人料金だろう。4人の先客には驚いた。何しろ2人が女性だったから。フランス人のカップル、ドイツ人の女性、シンガポール人の男性と分かる。皆中国中を貧乏旅行している若者だ。我々は暫しの間、どうすればよいか分からず呆然としていた。シンガポール人が親切に仕来りを教えてくれる。

夕飯に出るとき荷物をどうするか迷ったが、持って出るわけにもいかず貴重品だけ纏めた。シャワーを浴びるときも貴重品をビニールに入れて持って行く。こんな基本的なことが分からない。何しろ初めてだから。消灯は10時だったか?女性はトイレで着替えをしたようだ。皆一斉に寝た。何だか変な気分だった。朝上海を出て疲れているはずなのに、眠れない。そのうち隣のベッドがごそごそ動く。フランス語らしい囁きが聞こえる。キスの音が響く。全く驚きだ、始めてしまったのである。皆一緒に寝ているのに、彼らは恥かしくないのだろうか?こちらが恥かしくなる。漸く寝静まった頃、時計を見ると午前2時になっていた。そうだ、今日から夏時間だ。午前2時が自動的に午前3時になる。またまた変な気分だ。明日は朝早く起きて、ラサ行きのチケットを買わなければ。

2日目。朝8時に民航オフィスへ。何とか明日朝のチケットを手に入れた。その足で錦江飯店に行き、部屋も確保。ドミトリー生活は一日で終了。既に前回成都の観光も終わっており、今回どうやって過ごしたか記憶が無い。

3日目。朝7時のフライトでラサへ。搭乗した人々(中国人が多いが、外国人も居る)は、皆一様に緊張していた。やはり海抜3,700mへの旅には興奮を覚えるのか?スチワーデスが『ラサは酸素が薄くなりますので・・・』と言ったところ、いきなり数人の中国人が自席の酸素マスクを落とす。そう言えば、飛行機に初めて乗る人はライトでもスチワーデスコールでもボタンを押し捲るので、当時中国ではスチワーデスは呼んでも来ないものであった。ただこの時は流石に数人が走り出し、大声で客を罵りながら体勢を立て直していた。

2時間後、ラサ空港に到着。皆空気が薄いと聞いているので、恐々歩く。まるで月面着陸のアームストロング船長のよう。その内慣れてくると普通に歩けることが分かる。バックパッカーなどは青海省よりゴルムト経由でラサに入るが、これだと最高5,000m以上の高さを越えて来るので、ラサ到着時に問題は無いが、飛行機で来るとやはり空気の薄さは実感できる。いきなり富士山の頂上に下りたのだから、無理も無い。空港の周りには何も無い。空港を作る為の平地がここにあっただけと言った感じ。しかし風景は素晴らしい。空は本当に青い。山々もくっきり見える。生まれてこの方、こんな原色の景色を見たことは無い。

さて、これからどうするかと考えていると1台のバスが来た。『ホリデーイン』と書かれたホテルのバスのようだった。民航バスならラサ市内まで4時間半掛かると言われて、このバスに乗る。バスの旅も素晴らしい。兎に角全てが原色。『空が青い、水が青い』というのはこういう色なのか、と思わず唸ってしまう。途中河が流れており、筏のような乗り物で人々が渡っていたり、湖の湖面が太陽の光で、キラキラと輝いていたり、目を奪われることが多かった。

ラサ市内まで2時間ほど掛かった(約100km)。こんなに遠いとは思っていなかった。バスから降りるとそこはホリデーイン、簡単にチェックインできる。そこでカウンターの女性が皆を集めて一言、『スリに財布を取られても絶対に走らないように。』。これで状況が分かった。やはり空気が薄く、走れないことと治安はあまり良くないことを。

バスの運転手が料金を集めに来た。FEC20元。ところがカウンターの女性がそれを聞いて、凄い勢いでバス運転手を罵り、逃げ出した彼を追いかけ、金を握り締めて戻ってくる。どうやらホテルの規定では10元だったようで、我々は10元の返還を受ける。彼女は信頼の置ける人のようだ。

直ぐに昼食の時間となり、ホテルの食堂に行くと普通の中華を食わせる。想像では食事が不味いと思っていたので、大いに食べる。おまけにビールも頼んで、1本飲んでしまった。食後部屋に戻ろうと思い、2階まで階段で行こうとしたが、5段ほどで息が上がってしまう。ビールのせいもあり降りることも出来ず暫し休憩し、何とか1階に戻る。エレベーターが必須なのも当然だ。

部屋で休んでいるとそれまで元気だったKさんの様子がおかしい。気分が悪いと言ってトイレから出てこない。どうやら高山病に罹った様だ。フロントに電話すると薬を持って行くがベットに酸素マスクがあるので、使うようにと言われた。Kさんをベットに寝かせてマスクを口に押し当て、スイッチを入れるとその内バタバタしだした。何と空気が出ていなかった。危うく人殺しだ??結局薬も飲んだが、Kさんは回復しない。

4日目。一人で外に出てみる。ホテルの前から、大きな通りを真っ直ぐ行くと左手にポタラ宮が見える。チベットのシンボル。市内から約100m上がる為、最終日に上ることになっている。もう少し行くとチベット最大の寺院、チベット仏教の聖地、大昭寺(ジョカン)に着く。寺院前に広場があるが、遠くから見ると何だかごみの山が見える。近づいて見ると、何とそれは女性であった。朝から蹲っている。チベットは太陽に一番近い国、一生の中に数回しか風呂に入らないと聞く。体中ボロボロに見える。その近くでは、多くの男性が所謂『五体投地礼』を行っている。ただひたすら水泳の飛び込みのようなことをやっている。

その横を通ると、子供が何人もやってきて、『お金を頂戴』と言う。皆ボロボロの服を着ている。可哀想に思い、一人にあげようとしたが、あっという間に数十人の子供に囲まれる。逃げるのが精一杯、寺の中に駆け込む。しかし・・・?チベット仏教では、男子は聖地に来て祈るのが本懐。家族を帯同するが、収入も無い。結果妻は路上に蹲り、子供は物乞いをする。宗教とは一体なんだろう?我々の常識は家族のために働くことである。彼らにはそのような概念は無い。家族も十分に理解しているはずである。全てが違う世界。違う世界がここにある。

大昭寺の中は四角形で、伽藍には触れて回すだけで功徳が積めるという円形の物体が無数にある。歩きながらそれに触れて一周する。外で五体投地している人間を見た後だけに、そんなお手軽なものはある筈が無いと思いながらも、一周回る。

外に出ると今度はおばさんが土産物を売りに来る。欲しい物は無く、断ったがどうしてもと言う。20元と言われたが、必要ないので1元なら買うと言ったところ、それで良いと言う。1元でそのペンダントを貰う。本当に後悔した。彼らは現金が必要なのだ。例え損しようが現金なのだ。そのような人間に対しては、安易に値切ってはいけない。その後旅をする場合は相手を見て値切ることを強く誓った。

午後帰りのチケットを買いに行く。民航のオフィスには午後1時半よりと書いており、多くの旅行者が既に待っている。しかし待てど暮らせど担当者は来ない。漸く3時になり、当然のような顔をして、担当者が業務を開始する。数人が抗議の声を上げたが、それに対して『ここはチベットだ。午後1時半とは中央の北京時間であり、我々の時間は正確だ。』との答え。確かに朝は9時に明るくなり、夜は10時に暮れる場所だ。アメリカのように国内にも時差を設けるべきである。但し担当者の発言は時差の問題ではないと感じられる。やはりここにはチベット問題が存在する。今年は入境制限が無かったが、前年も翌年も制限されたと聞く。漢民族が町にかなり見られたことから、中央も常に意識している場所なのだ。

5日目。Kさんは漸く起き上がれるようになりリハビリを開始。私はホテルで自転車を借り、ノルブリンカへ。ゆっくり自転車を漕ぐ。ノルブリンカはダライラマの夏の避暑地。確かに涼しげな林に囲まれている。実に爽やかな居場所である。建物が中国風でなく、西洋風であるのが目を引く。高原ホテルのようでもある。

午後南にある川を見に行く。比較的大きな川で小船が向こう岸に渡っている。もう少し上流に行くと橋が架かっていた。橋と川と向こうの青空は素晴らしい写真ポイントである。思わず数枚写真を撮る。すると後ろから背中を押す物が在る。振り返ってビックリ。何と人が立っている。この制服は人民解放軍だ。更に驚くには私の背中を押しているものは、銃剣なのである。声もでなかった。何が起こったか分からない。時間が止まる。

『何をしているのか?』北京語で兵士が尋ねて来た。思いの他柔らかい口調である。咄嗟に何と答えてよいか分からない。『空を撮っているのではないのか?』何故そんなことを言うのだろうか?えっ、えっ・・・?分かった。橋は解放軍の軍事機密。勿論私がスパイとも思えないので、彼は空を撮っていると言わせたいのだ。

『空を撮っている。チベットの空は素晴らしい。』と答えると、彼は大きく頷き、『そうだろう。』と言うと向こうへ行ってしまった。私はこの乾燥したラサで背中に大いに汗を掻いてしまった。連行でもされればどんな嫌疑がかかるか分からない。兎に角自転車をゆっくり?全速で?漕いで逃げた。

6日目。当ても無く道を歩く。Kさんも同行する。明日のポタラ宮見学に備える。ラサには路線バスは無い。遠くへ行くにはジープをヒッチハイクすると言う。我々も少しやってみる。比較的簡単に乗せてくれる。必要な人がいれば助け合うのは普通のことのようだ。小さな寺に入ろうとすると、ミルクの強烈な臭いがしてくる。おばあさんは腰に缶を下げており、お参りする時はその中からヤギの乳を出し、仏像などに掛けている。私はこの臭いが苦手である。結局お寺には入れない。そう言えば町全体が乳臭い感じはある。

7日目。愈々メインイベント、ポタラ宮へ上る。チベット仏教の統治のシンボル。階段ではなく、緩やかなスロープになっている。黙々と上る。Kさんは這うようにして、上る。3,700mから100m上がるのがこれほど大変とは思わなかった。上るとそこには無数の部屋があるようだ。我々に開放されているのは極一部。部屋に入ると何処も荘厳な感じはする。しかし所々の壁に曼荼羅が描かれており、一部に紙を張り見えなくしている。何気なく触ると捲ることが出来る。何とそこには男女の秘め事が描かれており、現在の中国政府の方針には合わないため、隠しているようだ。何となくお茶目な感じ。チベット仏教は特に男女の問題を隠したりしておらず、寧ろオープンにしている。確か日本でも後醍醐天皇の頃、立川流という密教が流行ったが、怪しい感じの流派であった。

ポタラ宮は100m高いだけあって、見晴らしは良い。ここから眺めていると天国に来た気分になる。下界には高い建物も無く、全てを見渡せる。遠くまで何もない、更に遠くに山が見える。あの山まではどのくらい掛かるのだろうか?ダライラマ14世が亡命するまで歴代ダライラマによって使用されていたのも頷ける。

河口慧海という日本の僧侶が100年前に鎖国状態のチベットに潜入した記録、『チベット旅行記』を読むと、ポタラは観音の浄土(スリランカ島を指す)と言う意味だそうで、100年前も見る人を引き込み感動させる、光り輝く場所と記させている。因みにこの旅行記は実に面白い。100年前に日本人が中国人に成りすましてチベットに潜入。様々な体験を経て、日本に無事帰国するのである。今書いている旅行記など恥ずかしくなってしまうほど、凄い内容の本である。機会があれば触りだけでも読むことをお薦めする。(流石に私は彼の足跡を辿る旅だけは出来ないだろうと思っている。)

8日目。本日成都へ戻る。真っ暗な中を先日来た道を戻る。空港に着くまで明るくならない。漸く明るくなった頃、出発。困ったことに私とKさんの間(3人掛けの真ん中)にチベットのおばさんが座る。これは地獄であった。決しておばさんが悪いわけではない。しかし乳臭いのだ。満席で席を替われず2時間耐え続けた。

成都到着後、また錦江飯店へ。すんなりチェックインして、明日の重慶行き軟座の切符も手配できる。体力の回復したKさんと相談し、重慶より三峡下りをすることにしたのだ。その後Kさんの為に以前も行った陳麻婆豆腐店へ。今回は全て上手く行き、美味しく食べる。

しかし翌日(9日目)成都駅より重慶行きに乗ったところ、Kさんが腹痛を訴える。どうやら昨日の麻婆豆腐が利いた様で、かなり腹に負担が来たようだ。ちょっとトイレに行くといったきり、何時までも帰ってこない。結局この汽車の旅は11時間ぐらいあったと思うが、その半分は1人で窓から外を眺めていた気がする。

その夜重慶着。取り敢えずバスに乗り市内中心の重慶飯店へ。重慶はアップダウンが多い。バスはかなり重い足取りで坂を上がる。自転車は少ない。暗い重慶の街をのっそり動くバス、それが第一印象。重慶飯店には簡単にチェックイン。Kさんはかなり疲れた様子でへたり込む。とても三峡下りなど出来る状態ではない。

10日目。Kさんの状態も省みず、朝から三峡下りのチケットを買いに行く。流石に混んでいて、1等船室(2人部屋)は何と2日後しか取れない。しかしKさんの為には良い休養だ。その後市内を見て回ったはずだが、全く記憶が無い。きっと印象に残る場所が無かったのだろう。

午後ホテルの中にある大手商社の事務所を訪ねる。旧正月に成都で訪ねた際、K先輩は既に重慶に異動になったと聞いていたので。商社の駐在員とはどんなものか非常に興味があった。何しろ2年の間に北京、成都、重慶と3場所目なのだから驚く。

事務所のある部屋の前に行くと確かに看板はあった。ホテルの2部屋を改造した事務所。しかし中からはけたたましい北京語の話し声が聞こえる。中国人スタッフが客と口論していると思い、暫し待つが止まない。終にノックして部屋に入る。正面にK先輩はいた。彼は台湾育ち、言葉の問題は無く激しい口論の主役であった。この激しいやり取りに押されて早々退散した。K先輩はかなり驚いた様子であったが、取り込み中で構う暇がなかったはずだ。その後10年以上経過した2000年に北京のゴルフ場で偶然再会したが、その時は広州駐在だった。一体どれだけの中国を経験したのだろう。私など足元にも及ばない。

夜はホテルで食べる。成都で体調を崩したKさんの為に出来るだけ辛くない中華を食べさせようとホテルのフロントで相談したところ、このホテルのレストランは大丈夫と言われる。そう言われても信用できないといった面持ちだった彼だが、本当にここの料理は辛くなかった。食事は毎日ここになってしまった。

11日目。体調の戻ったKさんは折角だから観光に行こうという。郊外に見るところはないかと調べると大足という地名がある。仏像が物凄い数安置されていると言う。成都に行きながら、樂山の大仏も見ていなかった私は行く気になる。大足までは168km、車をチャーターしたが、道が悪く、何と片道4時間以上掛かった。着いてみるとそこはかなりの田舎であったが、観光地でもあるらしく、人はそこそこいた。確か宝頂山と北山の石刻群を見たはずであるが、記憶が薄い。思い出すのはひらすら壁に仏像が並んでいる風景と、かなり大きな涅槃物があったことぐらい。しかし800年も前に良くもこんな所に仏像群を作ったものだと感心した。

又覚えている事はホテルの人が大足のレストランは衛生面に問題があるので、必ず箸を持っていくようにと言っていた事。当時レストランが不衛生なのは当たり前でそんな事を言う中国人は少なかったが、彼女はホテルの食堂から箸を二セット持って来てくれた。昼食のレストランは確かに奇麗とはいえなかったが、何故か中国人観光客も皆箸や食器をお湯で洗っていた。きっと何か謂れがあるのだろうが、とうとう分からなかった。

12日目。三峡下りに出発した。船着場に行くと既に大勢の人が来ており、ごった返していた。午後に出発となったが、乗船する人も多く、なかなか出発しなかった。後になって考えればその時の遅れなど大したことはないのだが。船は大きかった。1等から5等まであったのではないか?我々は贅沢にも1等船室で、2人部屋である。一般船室とも仕切られていて、まるで貴族のような待遇であった。一生に一回ぐらいはいいか?船室は広くはなかったが、快適。それに服務員のお姐さんがほぼ専属でついていた。船が動き出すと彼女はお茶を運び、夕飯の注文を取る。なかなかきびきびした愛らしい女性であった。

夕食は部屋に運ばれてきた。中国でこのようなサービスを受けることは先ず無い。素直に大感激。Kさんも元気にパクついている。夕食後船内を見学に。5等は船底といった感じで、行商の人が大きな荷物を置いて乗っている。きっと途中で降りるのだろう。2−3等には西洋人や日本人なども乗っており、4−6人部屋で外人向き。船内は暗い。デッキに出てみると外はもっと暗い。漆黒の闇が目の前にあった。部屋でもすることが無く、早々に床に就く。

13日目。朝5時頃突然部屋のドアが叩かれ、外ではお姐さんが『三峡に着いた。』と叫び声をあげている。そう、三峡下りとは3つの峡を見るのがメインのである。最初の『瞿塘峡』に着いたのだ。瞿塘峡には有名な白帝城がある。三国時代に蜀の劉備が死んだ場所で、現在は劉備を祭る白帝廟が建つ。李白にも白帝城を詠んだ有名な詩がある。

実際に外に出てみると白帝城は既に通り過ぎており、断崖絶壁が見えるが何処が何処かは良く分からない。但し歴史的な名所に到着し、早く見ないとどんどん流れて行ってしまうという観念から皆異常に興奮している。Kさんも写真を取り捲る。僅か20-30分だったと思うが通り過ぎた後は虚脱感があった。部屋に帰り寝直す。9時頃又お姐さんが騒ぐ。2番目の『巫峡』に到着。巫山などの山並みが美しい。前回より三峡に来た感じがする。長さも大分長い。ゆったりと鑑賞した。

ふと気が付くとKさんが居ない。部屋に戻ると寝ている。声を掛けると熱があると言う。先程の瞿塘峡で写真を撮った際、かなり水飛沫を浴び、寒気がしたとのこと。あんなに元気だったのに。お姐さんも心配して見に来てくれる。お粥が運ばれてくる。三峡どころではなくなってきた。しかし船旅とは退屈なものである。似たような景色をずっと見ているしかない。ましてやKさんのように寝込んでしまった場合、兎に角一刻も早く陸地に上がりたいだろう。

昼過ぎに3番目の『西陵峡』に着いたが、その頃にはもう他の客も含め、あまり関心を示す者は居なかった。この西陵峡は中国四大美女の1人、王昭君と戦後時代の詩人屈原の故郷であるが、船の上からでは思い描くものもない。その後宜昌と言う所で珍しいものを見る。河が堰き止められており、河に段差がついている。上手い具合に船は段差を渡って行く。水が上から下へ。不思議である。その夜はKさんの疲れが心配であったが、明日の朝には武漢に上陸できるので、問題は無いと思っていた。

14日目。朝武漢の近くに来ているのが分かる。船のスピードが落ちている。さあ、もう直ぐ上陸だ、と思っていたが、昼になっても到着しない。昼飯が出るがもう食べる気がしない。Kさんは寝ているのもウンザリといった表情である。結局上陸できたのは夕方。ほぼ1日武漢近くで待たされていた。フェリーターミナルが塞がっていたとの理由であったが、本当のことは分からない。上陸すると体が揺れている感じで歩くのも上手くいかない。ましてやKさんは体を支えてあげないと歩けない感じ。兎に角手近なホテルを探す。旧大和ホテルにチェックインできる。ホッとした。

このホテル、非常にレトロな雰囲気があり、天井が高い。実はこの日武漢は相当の暑さで4月だと言うのに日中は30度を越えていた。この気温も我々の体力を奪う原因になっていたがその高い天井に大きな扇風機がゆっくり回っているのが印象的であった。部屋も広めで窓も洒落ていた。勿論相当古くなっていたが。

武漢三鎮、武漢は3つの街から成っている。漢口、武昌、漢陽。我々は今漢陽に居る。夕飯を食べる為にレストランを探している。長江の辺を歩く。爽やかな風が吹いているがそれでも汗が噴出す。所々にヨーロッパ風の建物がある。

夜部屋に戻ったが、暑い。また船から上がったばかりで未だ揺れている感じが残り、寝付かれない。それでも何とか眠っていたが、朝5時には辺りが明るくなる。ふとトイレに起きてビックリ。窓も部屋のドアも全て開いている。おまけにKさんが居ない。泥棒が入ったのか?天井の扇風機だけがゆっくり回っている。慌てて部屋の外へ出ると、何と廊下にKさんがへたり込んでいる。愈々事件が起こったのかと焦ったが、実はKさんが暑さのあまりどうしても寝付かれず、あらゆる手段を取った結果だったのである。と言うことは私は結構暢気に寝ていたことになる。

15日目。Kさんの衰弱は激しい。これは上海に戻ったほうが良いと言う判断になり、朝民航オフィスへ行く。しかし案の定チケットは無いと言う。どうしても帰る必要があったので、思わず『この人の様子を見ろ。外国人を見捨てると問題だぞ。』というとあっさり明日の上海行きを2枚出してくれた。

チケットを手に入れると安心したのかKさんは急に元気になった。折角武漢に来たのだから観光しようと言う。午後車をチャーターして、黄鶴楼に行く。やはり武漢と言えば黄鶴楼であろう。三国時代に建てられ、南昌の騰王閣、岳陽の岳陽楼と並ぶ中国3大名楼の1つ。李白の有名な『孟浩然を送る』の詩が印象的。現在の楼は1981年に再建されたもので新しい感じであった。階段がかなり多かったのを覚えている。

武昌地区では東湖に行った。大きな湖である。博物館があったと思う。武漢と言えばもう1つ、辛亥革命であろう。1911年10月10日の武昌蜂起から始まった。聖地とも言える。但し日本を含めた列強の侵略を受けた都市と言う面もある。交通の要所であった武漢は歴史的には様々なことが起こった場所である。

尚武漢と言えば中国3大竈の1つでもある。昨日も4月だと言うのに30度を越えており、上海などからは考えられない暑さである。何故こんなに暑いのか?残りの2つは重慶と南京であり、何れも揚子江沿いの場所である。内陸部である以外にも何か理由がありそうである。そう言えばその後重慶を訪れた際、工場は40度を越えると自動的に休業となると聞いたことがある。その為、平日はどんなに暑くても39度以下でしか気温が発表されない。本当はもっと暑いらしい。

16日目。半月続いた旅が終わろうとしている。今回は結構色々とあった。飛行機は12時発。当時国内線は一般的に1-2時間は遅れる。空港も近いと言うことで、30分前に到着するように車に乗る。

空港に到着するとやはりカウンターに上海行きの案内が無い。また遅れているな、と思ったが、念の為係員を探して上海行きが何時に出そうか確認した。係りの女性は我々のチケットをチラッと見て、ビクッとしたように『急げ、走れ。』と叫ぶ。何が起こったのか?

滑走路の近くを見ると飛行機が一台停まっていた。『あれだ。』後ろから声が掛かる。荷物を持ってKさんと走り出す。当時地方空港で搭乗する時は普通歩いて飛行機の所へ行く。我々は走る。近づくとスチワーデスが扉を手で閉めようとしている。大声で待て、と叫ぶ。何とか間に合った。我々が乗り込むとそのまま飛行機は滑走路に向かい、即座に飛び立ってしまった。まるで映画のようだった。

飛び立ってから急に不安になる。本当にこれは上海行きだろうか?スチワーデスに確認すると間違いないという。何故定刻前に飛び立ったのか?スチワーデスの話だと政府要人が来ることになり急に空港を空けなければならなくなり、出発したのだと言う。ここでも中国の恐ろしさを感じた。国のトップクラスが来ること自体が重要機密なのである。もしかすれば鄧小平が来たのかもしれないが?

横でKさんが又グッタリしていた。チベットと三峡下りを一度にこなすのはかなりしんどいものであったが、本当に貴重な体験の連続であった。上海が妙に懐かしい旅となった。

 

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》桂林、広州、福建—いきなり桂林、ようやく福建

〈8回目の旅−1987年3月桂林、広州、福建省〉
—いきなり桂林、漸く福建

1.上海空港
旧正月のシンガポール、香港旅行の余韻は大きかった。その後半月は日々ボーっとしていた。生活にあまりにギャップがある場合、所謂腑抜けになってしまうことがあるのをこのとき知った。どうにも仕様が無くて、また香港でのアドバイスに従って、何処かへ旅行に行くことにした。留学生仲間からアモイがよいと言われたので、福建省に行くことにした。特に目的は無かったが、何となく行って見たくなる場所だった。台湾に近いからか?

いつものようにチケットを入手し、当日意気揚々と空港へ。ところが着いてみると直ぐにアモイ行きの欠航が決まってしまった。明日朝飛ぶからと言うことだったが、信用できない。人民と一緒に民航が安配する宿に泊まる気にはとてもなれない。調べてみるとこの後何便かが、他の都市に行くことが分かった。同行のCさんと相談して、桂林行きに乗ることにした。

しかし当時チケットの行き先を変えることは容易ではない。意を決して弁公室へ行く。普通のトランスファーカウンターなど無い時代だ。だが案の定誰も相手をしない。相手をすれば自分の仕事が増える上、外国人だから下手な応対も出来ないからだ。なおもこちらが粘っていると一人が面倒くさそうにチケットを見て『ダメ,ダメ、満員』と手を振る。そのやる気の無い素振りに闘志が沸く。私も既に中国流に慣れてきている。『主任(責任者)を出せ』と迫っていると何と偶々その主任が出てきた。私の要請を聞くと『OK』と一言。サッとサインするとさっきまでやる気の無かった係員もサッと動く。これが中国だ。

1時間後搭乗してみるとガラガラ。流石桂林は外国人の行く観光地だけあって機体もかなり綺麗だ。2時間のフライトで桂林に着いてしまった。上海で大学に戻るのと大差ない時間だ。しかし空港に降りた途端、驚いた。あたり一面あの山水画の桂林だ。山、山。少し霞んだ夕暮れの景色。暫し見とれてしまう。

2.桂林
空港を出るとはたと困る。何しろ桂林に来る予定は全く無く何の情報も入手していないのだ。何処に泊まればよいのだろうか?ところが出たところに沢山の客引きが待っている。皆ホテルの従業員のようだ。日本で言えば、温泉町に来たような感じだ。皆口々にうちに泊まれと言う。今ではこの手合いに係わるととんでもないことになるかもしれないが、当時このような風景を見ることも無かったため、そのうちの一人に付いていくことにした。

離江飯店というまあまあのホテルに簡単にチェックインした。これまでの旅がいつも自ら自力でホテルに辿り着き、交渉を重ねてチェックインしたことを思えば、極楽旅行だ。流石観光都市桂林だ。ホテルの部屋からも山並みが見える。養毛剤のコマーシャルで『不老林』というのがあったが、正にあの景色だ。感激。

夕食をホテルのレストランで取る。味もまあまあ。その後散歩に出る。小さな湖の横を歩いていると土産物を売っている店がある。中国の都市は当時夜は暗くて店も早く閉まるのが普通。露店を見るのも久しぶりで、何となく浮き立つ。歩いている我々の横を男が走り去ったのは一瞬だった。どうやら泥棒のようだ。今ではよくある光景だが、その時は驚いた。泥棒を初めて見た。既に桂林は資本主義社会に入りかけていたということか?

2日目。昨日ホテルに2つのことを頼んだ。1つは本日の河下りのアレンジ。もう1つは明日の広州行きの航空券。ホテルにこんな手配を頼めるのも桂林ならでは。灕江下り、桂林観光のメインイベント。これは今も変わらない。あの山水画の風景が堪能できる旅だ。ところが3月は水量が少なく、全行程は出来ないという。ガッカリしてバスで途中まで行く。1時間ほど行ったところから乗船した。一緒に乗っているのは華僑と思われる観光客が大半だ。シンガポール人などもいた。船が動くと皆上に上がり、写真を取り捲る。歓声が上がる。大騒ぎだ。ところが30分もすると皆下に降り、席に座る。飽きてしまうのだ。いくら凄い景色でもずーっと同じものを見ているのは流石に飽きる。船内で食事も出てきたが、不味くて食えない。河では洗濯している人や野菜を洗っている人が見え、その方が興味をそそられた。

2時間後陽朔に着く。皆ホッとしている。してみると水量の多い夏場にこの船に乗った人々は6時間の辛さを味わうわけだ。3月でよかった。陽朔は船下りの終点であり、土産物屋が待ち構えている場所である。おばちゃんが煩く言ってくる。今では閉口してしまうが、当時は声をかけられることも珍しく、色々と話したりした。でも売っているものはとても買える様な代物ではなかった。帰りは80kmのバスの旅だが、殆ど寝ていた。

3日目。広州行きの航空券は簡単に手配され、夕方出発。その前に桂林市内を観光した。鍾乳洞と動物園のある七星公園、桂林で一番高い独秀峰など。何となく覚えているがあまり印象には残っていない。桂林では何といっても社会主義でない旅行のアレンジが一番の感激であった。

3.広州
夕方桂林空港に行ったが、雷雨となっていた。飛べば僅か1時間のフライトであったが、4時間は遅れた。広州白雲空港に到着したのは夜10時頃だったと思う。当時この時間に見知らぬ空港に着くのは恐怖であった。何故なら空港は町の郊外にあり、市内へのバスなどがあるかどうかも不明であったからだ。更に市内に入っても宿泊できるかどうかは分からない。

広州に関してはこのような不安は全て杞憂に終わった。空港から出ると多くのタクシーが整列して待っていた。直ぐ乗り込んで市内のホテルを頼むと東方賓館に連れて行ってくれた。僅か10分ぐらいだった。何とタクシーにはメーターが付いており、メーターが示す料金が請求された。当たり前のことではあるが、中国では当たり前のことが無かっただけに非常に驚いた。ホテルも直ぐにチェックインできた。他の都市とは全く違っていた。

4日目。先ずは民航オフィスへ。上海に帰るチケットを押さえなければならない。ところが、オフィスは人でごった返していた。上海も酷いが広州は何倍も人が居る。30分ぐらい待ってやっと窓口に辿り着いたが、何と上海行きは半月先しかないと言う。何と言っても梃子でも動かないし、後ろには大勢の人が待っている。思わず『上海付近』と言った。すると明後日のチケットがあると言う。てっきり杭州か南京だと思っていたが、何とこのチケットは『福州行き』だったのだ。

後ろの人が急かすのでとうとうそのチケットを買ってしまった。しかし上海付近が福州とは?上海−福州間は列車で何と22時間もかかっていた。これを付近と言うのだから中国も大きい。我々は元々福建省に行こうとしていたことを思い出し、大いに妥協することにした。(恐らくは付近と言う単語と福建と言う単語を聞き間違えたのではないだろうか?)

それから広州市内を観光した。中山記念堂、越秀公園、広州動物園などを見て回ったが、あまり印象に無い。それより街中でメーターを付けたタクシーを簡単に捕まえられることに有頂天になり、何度も乗ったのを覚えている。広州の友誼商店では、ゼブラの黒のボールペンを買った。当時中国では青のボールペンを使っており、黒は無かった。無いとなると欲しくなるのが人間というもの。探し回っていたが、とうとう見つかった。2ダース買ってお土産にした。

夜は白天鵝賓館に行く。ここに平田と言うに日本料理屋がある。味も良く、嬉しくなって食べる。このホテルは非常に素晴らしいホテルでロビーから吹き抜けで大きな壁画がある。場所も珠江に面しており、ロケーションも良い。(因みにこのホテルもこのレストランも現在も健在)

夕食後、ブラブラしていると清平街という市場に出る。ここは正に『食在広州』と言われる場所で、何でも売っている。牛、豚、鳥は勿論、アルマジロ、狸、大蛇、犬、猫なんでもござれ。とても我々が食べられると思えないものが並ぶ。ペットショップと勘違いしそうだ。また人が多い。薄暗い中皆熱心に買い物の品定めをしている。食にかける情熱が伝わる。因みにこの市場は2003年のSARS騒ぎの時、に急に廃止されたと聞く。やはりSARSの原因はゲテモノ食いにあるようだ。

5日目。前日と同じように町をぶらつく。兎に角広州という町は当時中国で最も進んでいたのではないかと思う。今行ってみると北京、上海と比べて、発展の度合いが少ない。ある時発展が止まってしまったのか?憧れの街広州、今では考えられないかもしれないが。

4.福州
6日目。愈々福州へ。今度は飛行機も遅れることなく、出発。2時間ほどで到着。福州の空港は閑散としており、田舎。空港内でCさんが上海行きの切符を求めたところ、今日でも明日でもあると言う。広州ではあれほど手に入らなかったのに、何故なのだろう?

結局Cさんも1泊することになり、市内へ。福州は小さな町であるが、何となく古都の趣がある。取り敢えず華僑大廈にチェックイン。華僑の出身地である福建、広東などで困ったときはこの華僑大廈(ホテル)が便利。安くて確実と聞いてがその通り。ここの料金は中国人、台湾香港同胞、外国人の3種類であるが、我々留学生は同胞料金で泊まれる。確か1泊30元ぐらいだったと思う。町の中心に白塔がある。車は少なく、歩いて散歩しながら見学。広州に比べて肌寒く、特に夜は涼しかったのを覚えている。

7日目。開元寺に行く。ここは空海が訪れた寺で『空海入唐の地』という石碑があった。こんなところに来て、日本を感じられるなんて、やはり日中は深く歴史で結ばれていると感じた。その後上海に帰るCさんと別れて、華僑大廈にもう1泊。これが中国で1人で泊まった初めての晩となる。何となく寂しい感じがして寝付けない。

5.泉州
8日目。折角ここまで来たのだからと、アモイを目指す。バスで約8時間と聞いていたので、かなり緊張する。以前南京から揚州に行くバスに乗り1時間で故障した事実もあり、もし一人で取り残されたらどうしようと不安になる。

案の定外国人は1人だけ。但しバスは古いが豪華バスといった感じで、テレビが付いており、台湾映画を上映していた。やはりここは台湾に近く、かなり影響を受けている気がした。道中の景色も以前行った台湾を思わせる木々があり、長閑で良い雰囲気だった。5時間ぐらい行った所で、バスが停まり昼食となった。何とこのバスは昼食付きなのだ。まあ中国人は食べることを一番重んじる民族であるから、当然かもしれない。但し飯は不味かった。

再び乗車したが、何だかバスに飽きてしまった。どうしても降りたくなった頃に数人が下車しようとしたので、地名を聞いたところ泉州という。これは聞いたことがある地名だと思い、一緒に降りることにした。ところが降りてビックリ。市内ではなく、郊外で下ろされたらしく、周りに何も無い。下車した人々はどんどん何処かへ行ってしまう。また取り残された。車も全く見えない。そこへ自転車の後ろにリヤカーを付けて引いているおじさんがやって来た。町まで乗れという。何だか騙されそうな気がしたが、他に交通手段はないという。

乗って正解だった。確かに市内まで結構離れていたし、何より車が一台も走っていない。市内に行くバスも全く無い。取り敢えず福州と同じ華僑大廈があると言うことで、そこにチェックイン。福州よりみすぼらしい建物だった。確か20元ぐらいでは?町は本当に小さかった。福州と同じ開元寺という名の寺に行った。ここはその当時は孫悟空のモデルになった壁画があると言うことだったが、全く見つからなかった。今のガイドブックにも書いていないのでガセネタだったか?

夕方華僑大廈に戻ると中国旅行社の看板があった。何気なく入って聞いてみたら、何とアモイ−上海のチケットが買えると言う。嘘みたいな話だが、当時は広州でもそうだったように現地ですら買えないことが多かった。ましてや違う都市の切符の手配など出来るはずも無かったから、驚いた。騙されるつもりで買ったのを覚えている。

夜はホテルの食堂で食う。一人だから、仕方なくチャーハンを頼む。出てきたチャーハンを見てビックリ。日本のチャーハンとそっくりで、お椀をひっくり返して狐色に焼かれていた。一皿1元。旨い。思わずお替りした。日本のチャーハンのルーツはここにあったと確信した。

6.アモイ
9日目。苦節9日、とうとうアモイに着いた。泉州よりバスで2時間。前日の6時間があるからあっという間に着いた感じ。アモイは泉州に比べて大都会であった。取り敢えずまた華僑大廈を探しチェックイン。本当に便利だ。ホテルを探す手間もないし、何時でもチェックインできる。

ホテルを出て海の方へ歩き出す。フェリーターミナルまで行くと、人が大勢居てごった返している。海を眺めているとなんとも良い風が吹いてくる。極楽、極楽。私が求めていたアモイはこれだよ、といった感じ。そのまま1時間ほど海を眺める。向かい側に大きな島が見える。明日はあそこへ行こう。

時々近づいてくる人が私に向かって、『香港ドル、米ドル、日本円』などと言って来る。どうやら闇両替も盛んなようだ。確かにここは港町。台湾にも近く、外貨は入り易い。両替レートも良いようだ。おじさんが押し付けがましくなく、『家に来ないか?』と言う。普通なら警戒して行かないのだが、興味をそそられ付いて行く。

その家は港に程近く、小さな家が並ぶ長屋風の一軒だった。入り口を入ると薄暗い中にテーブルがあり、奥さんがお茶を出してくれた。それが鉄観音であったかどうかは分からない。中国人民の家に入る機会はあまりないので、中を眺め回すとテレビも冷蔵庫もある。聞くとアモイでは外貨さえあれば、直ぐに手に入ると言う。上海では外貨を持っていても日本製テレビなどは先ず手に入らない。どうやらここは密輸地域であるらしい。おじさんが『洗濯機を買うから両替してくれ』と言う。お茶のお礼に両替するとFECの1.5倍の人民元をくれる。何だか不思議な気分だった。

夜はまたホテルでチャーハンだ。現在香港では福建チャーハンと言えば、海鮮あんかけチャーハンを指すが、アモイでチャーハンと言えば、泉州と同じ日本スタイルのあれだ。シンガポールにシンガポールスリングやシンガポールビーフンと言う名の食べ物が無いように、福建にも福建チャーハンは無いのである。

10日目。対岸のコロンス島(鼓浪嶼)に渡る。フェリーターミナルに行くと大きなフェリーに人が吸い込まれていく。誰もお金を払っている様子がない。行きはただで帰りに払うことを知る。10分ほどで島に到着。島には車も無く、ゆったりとした時間が流れている。

アモイは1842年の南京条約(アヘン戦争)で、開港された5港の内の1つ。その後外国人が洋館を建て始め、コロンス島も洋館が多い。コロニアル風の建物が多くあり、異国情緒が漂う。3月の風は心地よく、今までの色々な出来事を全て忘れさせてくれた。鄭成功、彼の記念館がある。1600年代に台湾を一時占拠し、清朝に盾突いた人物。彼は漢民族にとって英雄なのだ。現在は夜ライトアップがきれいで、対岸から見る景色は名所の1つであるが、当時そのような趣向も無く、夜は暗かったと記憶している。バナナを買って食べる。旨い。バナナはやはり心地よい風に吹かれながら、食べるのが良い。台湾と同じ味がして懐かしかった。

午後南普陀寺に行く。唐代に建造された古いお寺。ここを出て歩いているとアモイ大学の敷地に出た。かなり大きな大学だが、午後人影が無い。非常にゆったりした雰囲気で、一瞬こんなところでのんびり勉強してみたいと思う。

11日目。上海へ。泉州で買ったチケットも無事使える。今回の旅は全く予期せぬ目的地に行く面白さを味わった。