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《台湾温泉巡り2002》(1)新北投

2002年8月、台湾7泊8日温泉ツアーに出かけた。正に温泉に入るためだけに貴重な休みを使った全く贅沢な旅であった。既に1年が過ぎており内容は現在のものと違う可能性があるが、伝えたかったことは台湾には色々な温泉があるということである。後は皆さん自身で確認して頂きたい。

1.2002年8月23日(金) 新北投

(1)空港から新北投まで
今月から運行を始めたドラゴンエアーの香港―台北線に乗り、台北へ。何故か座席がアップグレード、ビジネスクラスへご案内され、気分は上々。今回の旅はツイているに違いない。空港からはバスで市内へ。現在はバス数社が乱立しており、便利。しかし一番安いNT$100のバスに乗ったところ、途中で客を拾って行くタイプで時間を食う。やはり安いにはそれなりの理由あり。

台北市内に入り民権西路で降り、MRTで新北投へ。このMRTは90年代に渋滞解消の為フランスより導入されたものではあるが、試運転時に火災が発生。無人列車の上に避難場所が無く下に飛び降りしかない代物で運転開始が大幅に遅れたいわく付き。
現在は安全に運行されている。

(2)新秀閣大飯店

新北投駅に行くには北投駅で乗換えが必要であるが、30分で到着。非常に便利。NT$30。駅前は多少賑やかではあるが、少し行くと川が流れており、静かな環境となる。新北投には日本的で綺麗、豪華な温泉(例えば1998年にオープンした春天酒店)が幾つかあるが、私は敢て『新秀閣大飯店』に投宿。ここは駅から川沿いに歩いて5分ぐらいと手ごろ。空いていそうだったので、値段交渉をするとNT$1,500が1,200になった。

このホテルは設備が古く、その上値切った為かかなり劣悪な部屋に泊まることになる。室内は昼間なのに隣の建物と接近しており薄暗く、窓から隣の家が丸見えであった。あまり部屋に居る気にはなれず、直ぐに温泉に飛び出す。勿論部屋の汚いバスにも温泉が引かれているが。

そんな環境でもこのホテルに泊まるメリットは2つ。1つ目はホテル内で『青』『白』2つの泉質が楽しめること。2つ目は直ぐ傍に『瀧の湯』があること。

 

先ずは白の大浴場へ。『白』とは弱酸性単純泉で、白濁しており、肌触りが良く、疲労回復に効果がある。勿論夕方のこの時間、誰も居ない貸切状態。ゆっくりお湯に浸かり、気分爽快。いっぺんに今日の疲れが取れた(かなり単純?)。ただ大浴場とはいっても、窓も無く景色も無く、洗い場からして数人が入浴すれば満員か?台湾では昔裸を人に見せる習慣が無く、水着を着て入ったとの話もあったが、現在は基本的に日本と同じ。
(大学の時に同じ下宿の台湾人女性留学生陳さんが日本の銭湯に行き、どうしても裸になれず水着を持って入って番台のおばさんにこっぴどく怒られた話を思い出す。)

続いて青の個室風呂へ。『青』とは微量のラジウムを含む強酸性の泉質。血液循環を高める、細胞を活性化させる、などと言われており、近年注目されている。入ると体がぽかぽかしてきて、血行が極めてよくなっているのが実感できる。但し風呂が極めて狭いこと、そして何より相当熱いことから長い時間入浴することは出来ない。落ち着いてはいるならば、やはり白の湯である。

(3)瀧の湯
『瀧の湯』とは、新北投に現存する最も古い共同浴場である。1908年ごろ建てられたといわれており、その歴史はおよそ100年。瀧の湯の壁には今でも所謂『温泉マーク』が大きく描かれている。建物は純和風で瓦屋根。今にも崩れそうに見えるところに歴史が感じられる。

中に入ると流石に番台は無いが、男湯、女湯に分かれており、おじさんが無言でNT$70の湯銭を受け取る。浴室に入ると全てレトロ。直ぐそこに脱衣場。服を脱ぐスペースがあるといった感じで、石の床は水浸し。棚に脱いだ服を突っ込む。その奥に洗い場があったが、そこまで行けずに行き成り湯船に入ろうとしたところ、地元のおじさんに『体を洗ってから入れ。』と怒られる。いやあ、久しぶりの感触。子供の頃銭湯でよく爺さんに『湯をうめるな。騒ぐな。』などと小言を言われたのを思い出す。

洗い場で体を洗い再挑戦。かなり熱いが我慢すれば何とか入れる。ここも『青』湯であり、ラジウム効果か体がぽかぽか。しかもかなり強い酸性であり、顔を洗ったりは出来ないほど。ずっと入っていればかなり疲れるだろうと思う。ここは流し湯なので、夜8時に行っても湯は綺麗であった。

回りの台湾人達は湯に疲れると石の床の上にごろ寝したり、体操を始めたりと如何にもマイペース。何ともいい感じである。彼らにとっては、我々観光客の闖入がいい感じを邪魔しているのであろうが?風呂から出ると牛乳などを売っている。子供の頃銭湯の楽しみといえば風呂上りに冷たいコーヒー牛乳を飲むことであったことが俄かに蘇る。外に出るとバイクで家に帰る人、その辺で涼んで行く人など思い思いである。

(4)新北投の歴史
新北投は台湾で最も古い温泉地帯である。温泉の開発は1895年の日本の台湾占有と無関係ではない。割譲されたといっても北部一帯では未だに台湾義勇軍との戦闘が行われていた時代。一説には平田源吾と言う人が、金の採掘のために山に入り負傷。温泉の流れ込む渓流に身を浸して治療し、その後温泉宿を開いたのが始まり。昭和天皇が皇太子時代の1923年に台湾を訪問。北投を視察したことが一大ブームのきっかけとなる。

同時に軍も兵の保養施設として開発。日露戦争では傷病兵を大量に受け入れたという。第2次大戦後はベトナム戦争で傷ついた米兵なども治療したが、台湾の公娼制度によりその最盛期を迎える。1979年に公娼制度が廃止されてからは、衰退の一途を辿る。

因みに私は台北駐在中の1990年に『星の湯』(現逸屯大飯店)を訪れたことがある。付近は非常に静かで人気も無く良い雰囲気であったが、湯船は小さく2-3人しか入れない。夕食は昔気質のおばさんがすき焼きを作ってくれるが、何となく寂しい雰囲気は免れない感じであった。近年再度温泉の効用が見直され、多数の温泉が作られた。台北から近いこともあり、日帰り温泉としての復活である。家族で、カップルで、1人で、様々な人々が温泉に集まる。

(5)茶芸館
日本では『温泉に入って後は宴会』が定番であるが、台湾は健康的。北京語では温泉に入ることを『泡湯』、お茶を入れることを『泡茶』という。この2つがセットになっているケースが多い。

私はガイドブックに従い、最も雰囲気の良い茶芸館である、北投文物館にある『陶然居』を尋ねた。ホテルの前から巡回するミニバスに乗り(NT$15)、10分で到着。ホテルのある場所より100m以上は登っただろう。ところが不運にも『陶然居』は改装中であった。仕方なく辺りを見回すと『禅園』という名前が目に入る。

ここも20年前からある雰囲気の良い茶館。高台から北投及び台北方面が見渡せる。幸い客が無く、一人悦に居る。包種茶を頼み(NT$550)、8月の夏真っ盛りの中、汗をかきかき茶を飲む。これが何とも健康的で、且つ茶が美味い。飽きれば外を眺め、2時間は居ただろうか?台湾には居心地の良い場所があるものだ。

 

尚新北投には心地よい温泉、茶園が多数存在していると思われる。今回はほんの一つの例を提示したに過ぎない。今後是非又再訪し、新規開拓を行いたい。これから訪れる多くの場所で恐らく温泉に浸かり、そしてお茶を飲むことになる。これは実に幸せな休日になる予感がある。

 

 

 

《昔の東南アジアリゾート紀行1989》台湾 墾丁ビーチ

《昔の東南アジアリゾート紀行》

1989年12月 墾丁ビーチ

(1)台北赴任

私は1989年8月に台北に赴任した。87年7月に上海留学を終えた後、どうしても中国で業務に就くのには抵抗があった。帰国後健康診断をしたところ、極度の貧血になっており、ユニットバスに入ると良く滑って転んでいた。また体重も留学前より7kgも痩せてしまい、体調は最悪であった。

そんな中、台北駐在の話があり、飛びついた。実際には89年6月に天安門事件が起こり、中国駐在員は一時全員帰国するなど、中国ビジネスは大きな打撃を受け、私のような若輩者が赴任する必要は無かったのであるが、台北赴任はその前に決まっていた。本来は6月に赴任するはずであったが、その時偶然台湾より研修生を受け入れることになり、そのお世話をする為出発が8月にずれ込んだ。

(2)お誘い

赴任して3ヶ月が過ぎたある日、その東京でお世話した台湾人研修生張さんから電話があり、『クリスマスに一緒に墾丁ビーチに行かないか?』とのお誘いを受けた。張さんは既に結婚しており、子供もいる女性であったので、このお誘いにはちょっと戸惑った。家内は妊娠中で私は単身赴任中であったのだ。

取り敢えず行くと答えたもののその後も迷っていたが、張さんからは一向に連絡が無く、やはり止めたのかと思っていた。ところが出発予定前日になって電話があり、航空券を予約したので、明日松山空港に来るようにとの連絡があった。結局行くことになってしまった。

(3)高雄

国内線専用の松山空港に行くと、張さんと10歳になる娘さんが待っていた。どうやらこの3人で旅行するらしい。旦那さんは仕事だと言っていた。何だか変な感じではあるが、既にサイは投げられた、のである。高雄までは僅か45分。空港では張さんの親戚が出迎えてくれた。そう、高雄は張さんの故郷なのである。それを知ったのも飛行機の中という不思議な旅である。

夜張さん一族の宴会に紛れ込んだ。張さんの両親はじめ沢山の人が居て、誰が誰だか分からない。皆日本人である私には好奇の眼を向けているが、尋ねる者も無い。私は国語が多少出来たが、この宴会は殆ど台湾語で行われており、何が何だか分からない。時々年配者が日本語で『食べろ、飲め、』等と言ってくれるのみ。

当時台北でも勿論台湾語は使われていたが、一応台湾では公式には国語を使うことになっており、外国人が入る宴会では国語が主流であった。ところが南部は違う、大違いである。この時初めて北部と南部の差を感じた。

泊まりは張さんの仕事の関係者が手配してくれ、ビジネスホテルに泊まった。ところが、日本人ということでそのホテルで一番良いスイートに通され、非常に気を使ってくれた。南部は情が濃い(?)ところである。

(4)東港

翌日車で墾丁ビーチに向けて出発。高雄港を過ぎ、海沿いに進むと直ぐに東港という小さな港がある。何故か車が止まる。レストランに入る。地元の人々が待っており、昼から宴会である。それも刺身が中心の恐るべき宴会である。

ここ東港はマグロの水揚げが多く、新鮮な刺身が食える所として有名であったのだ。ところが私は当時台北の台湾海鮮料理屋で刺身を食べて中った経験があり、なかなか箸が出ない。おじさんに無理に食べさせられると、これが美味い。最後にはたらふく食ってしまった。現在でも毎年5月頃になると台湾中の人がマグロを食べにくるようである。

(5)墾丁ビーチ

東港を出ると一路墾丁ビーチへ。確か2時間ほど掛かったと思う。途中に『恒春』などという南国らしい名前の街があったりする。常に春、一番良い言葉ではないだろうか?尚恒春の近くには『四重渓』温泉がある。戦前故高松宮が好んだ温泉として知られる。静かな昔ながらの温泉であるようだ。未だ訪れていないので、是非次回行ってみたい。

墾丁ビーチに到着。今晩の泊まりは当時唯一の高級ホテル、シーザーホテル。日系建設会社が出資している高級リゾートホテルである。部屋も高級感があり、非常に良い。外へ出るとリゾート用のプールがある。但し今は12月。幾ら台湾最南端とはいえ、プールに入るにはちょっと涼しい。

ビーチに行ってみても、寒々としている。やはり12月には泳げないらしい。私は一体何の為にここにやってきたのか分からなくなった。ここに連れてきてくれた張さんの仕事関係者は反対に私の存在は不思議であったようで、とうとう『張さんとはどういう関係か?』と聞いてきた。聞けば今回張さんの依頼により、このホテルを無理に取ってくれたらしい。

夕食の時間に張さんと娘、私の3人でクリスマスディナーを食べた。娘は凄く喜んでいた。ホテル内には大きなクリスマスツリーあり、サンタクロースあり、賑わっている。多くがカップルである。やはりかなり違和感がある。28歳の私と30台の張さん、10歳の娘。周りの人は家族だと思っていただろうか?

翌朝墾丁国立公園を見学。最南端オランピの岬は素晴らしく眺めが良かった。元は米軍の保養施設だったというオランピ活動中心には、広々とした高原があり、放牧でもしたらよさそうな雰囲気があった。

思い切って張さんにこの旅行の目的を聞いてみた。『娘が来たがったから。』との答え。日頃忙しい張さんは十分に娘の面倒を見ることが出来ていないと感じており、今回娘の希望を叶えたのだという。もう1つは私が日本で張さんの面倒を見たお礼だという。

私は張さんのお礼を素直に受け入れた。但し私のような外国人を連れていると皆が何かと便宜を図ってくれることを彼女が計算していたことは事実のようである。つまりは私はだしに使われたのだ。台湾人の強かさを感じた瞬間である。

(6)リゾートの鉄則2

リゾートには目的は要らない。但し相手は選んで行くべきである。

《昔の旅》麗しの島台湾編1984(2)

6.日月潭
台中駅に戻り、昨日の青年が言っていた日月潭に行く。日月潭は台中の東、バスで2時間ほど行った内陸にある観光地で、天然湖がある。雨上がりをバスに揺られていくと直ぐにバナナ畑が広がる。気持ちが良い。台湾といえばバナナ、私が子供のときの印象はこれだ。大きなバナナの葉が道にはみ出して、歓迎の手を差し伸べているようだ。

日月潭に着くと昨日の青年に言われた宿を探す。ちょっと交渉して1泊NT$200でまあまあの部屋を確保。もう午後3時なので急いで湖を回る路線バス乗り場に行く。平日なので観光客はほとんど見られない。切符売り場で切符を買おうとするとなかなか売ってくれない。不思議に思っていると要するに次回のバスが最終なので途中で降りると戻れない可能性があり、それを心配してくれていたことが分かる。兎に角バスに乗ることにする。

乗り込むと何と今まで押し問答をしていた切符売り場の若い女性も乗ってきた。『バスを降りて湖を見たいの?』突然彼女が聞いてきた。さっきはバスを降りられないと言ったのに。『私と一緒に降りれば大丈夫よ。』という。訳は分からないが途中で降りてしまう。

彼女に着いていくと又『ボートに乗りたい?』と聞く。台湾では女性が親切なのは空港で会った留学生で理解していたので、素直に乗せて貰う。湖に小型モーターボートが1隻。彼女は自ら操作して岸を離れてしまう。あっけに取られる。切符売りのおねえちゃんが行き成りボートを動かすのだから台湾は面白い。彼女は巧みにボートを操り光華島という浮島に着けてしまう。上陸して2人で話した。何の話かは覚えていないが、かなり気持ちの良い風が吹いていたことを思い出す。帰りに彼女の家が土産物屋であることが分かり、ここできれいな蝶の標本を買う。栃木の実家に今もあるのでは?

さすがバスの仕事をしているだけのことはあり、帰りはさっき乗ったバスがUターンしてくる時間を知っていて乗せてくれた。これも忘れがたい思い出である。

7.台南
5日目、昨日来た道をバスに揺られて戻った。隣に座ったおじさんが日本語で話しかけてきた。一人で旅行しているというととても嬉しそうに『そうか、そうか。何かあったらここへ連絡してくれ。』と言って名詞をくれた。台湾にはたくさんの日本人が観光に来るがほとんどが団体でかつ年配の人が多いとのことで、若輩者が一人でうろうろしているのを好ましく思ってくれたようだ。

台中駅からは鉄道で台南に向かった。車窓から見る風景も台北―台中間より南国風の景色となってきている。3時間ぐらいで台南に到着。駅はどこも同じで昔の日本の駅舎といった感じ。因みに台南は今でも当時の佇まいを保っている。

駅前で安い旅社(ホテル)を探したが、既にバックパッカーの感覚が身について妥協できず、港の方にかなり歩いたところでNT$150の部屋を見つけて落ち着いた。ここで初めて全く日本語の通じない宿に泊まったことになる。おばさんはあまり愛想が無く、今までとはかなり違った雰囲気に戸惑う。

台南は当時港周辺にたくさんの屋台が出ており、食べるものには困らない。港町だけあって海産物はどれも新鮮そう。また特に小椀に入った担仔麺は名物で、上にそぼろが乗ってなんとも美味。何杯でも食べられる。非常に活気のある町である。魯肉飯というそぼろを上に乗せたご飯もめちゃくちゃ旨い。

6日目の朝早々に宿を出て銀行に向かう。例の三和銀行のT/Cを両替するためだ。歩いていると紅毛城と呼ばれる17世紀にオランダが作った城跡があり、其処へ寄る。庭園で休んでいるとフランス人の若者と出会う。英語で拙い会話を交わす。彼はアジアに興味があり、日本にも関心が深かった。フランスで『楢山節考』という映画を見たと言うことで、彼から質問を浴びせられたが、満足に答えられず情けなかった。フランス人は映画の表面ではなく、何故姥捨てが行われ、家族はどう考え、また現代の日本人はどう考えるかといった事を盛んに聞く。表面的な答えに彼は納得しない様子であった。日本人は先ず日本の文化を勉強すべきであることを痛感させられる。

彼と別れるとき、何気なくT/Cに手をやった。『えっ?えっ?無い、無い。』T/Cだけでなく、パスポート、帰りの航空券、全てを入れた袋を首から提げていたはずだが・・?あっ、忘れた。昨夜寝る時心配で枕の下に敷いて寝たのをすっかり忘れたのだ。目の前が真っ暗になった。お金も無い。日本に帰ることも出来なくなった。きっと顔は引き攣っていただろう。あの宿のおばさんは愛想も良くなかったし、行っても無駄ではないかと思ったが、兎に角戻ってみた。

入り口を入るとおばさんが2人で、そら帰ってきた、という顔で待っていた。直ぐに袋を出してくれた。涙が出そうだったが、それから30分ぐらい北京語で猛烈に説教された。言葉は速くてよく分からないが、言いたいことは良く分かる。説教されながら感謝したことはそれまでの人生であったろうか?やはり台湾だ。戦前の日本のおばさんはきっとそうだったに違いない。怒られながら感動した。

台南駅で年代物のホームのベンチに座りさっきのことを考えた。何と幸運なんだ。でも偶然でも何でもないのだ。台湾と私は何か運命めいたもので繋がっているのだ。台南駅のホームはいつもいい風が吹く。2002年には態々この風に吹かれたくて台南駅を再訪したほどだ。ベンチは決して高級とは思えないが、今もそこで人を待っている。

8.高雄
台南―高雄は電車で30分。鈍行電車で行った。途中に岡山と言う名の駅があり、戦前付けたのかと考えたりした。台北の近くにも三重や板橋何て地名もあり、由来が知りたいような気もする。当時は小さな駅は無人で、ホームも無く、人が走り出す電車に飛び乗る姿を見た。まるで昔の映画の1場面のようだ。

台南は古都といった風情もあり、活気はあるが落ち着いた町でもあった。だが高雄はまるで違った。ごちゃごちゃした猥雑な感じのする町であった。駅から歩き出し、狭い路地を入って旅社を見つけた。NT$120、窓なし、鍵はおばさんが預かるという恐らく最低クラスの部屋であろう。部屋には汚いベットが1つあるだけ。

出かけようと思い、おばさんを呼ぼうとしたが、北京語で何と呼べばよいか分からない。思い切って日本語で『おばさん』と言ってみた。見事に振り返った。何だ日本語が分かるのかと思ったが、そうではなかった。台湾では戦前の日本語時代の名残で適当な日本語が外来語として残っている。但しこれは台湾語の範疇にあると考えるべきである。他に看板、バイクなどが今もそのまま使われている。

今は何処にあるのか分からない公園の下に大きな地下市場があったのが印象的であった。中に旨そうな餃子屋があったので、注文しようとしたが、言葉が通じない。餃子ぐらいは通じると思っていたので、ショックだった。南部は北京語の訛りが強く、聞き取りにくい。また日本では餃子と言えば1皿と決まっていたが、当地では水餃子または蒸し餃子の為、1籠とか、10個とか言わねばならないことも学んだ。授業にろくに行っていないので偉そうなことは言えないが、やはり語学は実地が一番だと痛感した。これが後に上海に留学した際、10ヶ月に45都市を旅行する複線になったと思う。台湾ほどの広さでも北と南で言葉に違いがある。ましてや大陸では通じなくて当たり前と言うことである。

尚この地下市場は防空壕を兼ねているとの話であった。台湾は当時何と1949年以来ずっと戦時体制化に置かれており、大陸の攻撃に備えていたのだ。戒厳令が解除されたのは蒋経国が亡くなる前の年、1987年であった。庶民は既に誰も大陸反抗など思っていない時でスローガンとして掲げなければならない国民党は哀れな気がした。その時は蒋経国とは単なる2代目でたいしたことは無いと思ったものだが、その後台湾の民主化を考えていたことなどを知り、見直した覚えもある。
尚当時は国民党及び蒋一族を誹謗するような発言は公には許されておらず、『特高に睨まれるぞ』などという日本の戦前のような話を本当に耳にした。

高雄には1泊したが、あまり印象が無い。高雄牛乳大王でパパイアミルクを飲んだのを覚えているぐらいだ。理科の実験用ビーカー(?)にきっちり500ml入っているのが特徴でパパイヤが南国的で良かった。
兎に角3月とは言え、南国なので暑かったが、部屋にはクーラーも無く、夜も遅くまで外で涼んでいたはずだ。

9.再び台北へ
7日目、自強号に乗り、台北に戻った。駅の北側に円環というロータリーがあり、この周りには無数の屋台が店を開いており、安い旅社も幾つもあった。台中で会った青年の情報で、NT$170の宿に泊まる。高雄よりは相当ましで、何といっても深い風呂が共同で使えた。勿論戦前からの名残であろうが、1人が入ると湯を抜いて、次に入る人は自ら湯を汲む仕組み。綺麗とは言いがたいがホッとして喜んで入った。

台湾での唯一の拠り所であった東京で同じ下宿の陳さんに電話した。実は到着した夜、夜中に電話したきり、連絡していなかったので、相当驚いていた。彼女のお姉さんが台北に住んでおり、彼女の家に会いに行った。3月は陽明山の桜が綺麗とのお姉さんの勧めで、突如花見に行った。お姉さんの運転でいったその山の桜は確かに綺麗であった。また日本的な感じがした。勿論戦前日本が植えたのだろう。
陳さんは私の旅行話を聞いて本当に驚いた様子であった。考えて見れば彼女も私も21-22歳であり、国内と言えども一人で旅行することなど無かったであろうから、北京語も満足に出来ない私が、色々と経験しながら、彼女の知らない台湾の旅をしてきたことは驚きであったろう。

その日彼女らと別れて宿に戻ると宿の主人が夕食をご馳走すると言う。屋台でステーキを食べさせて貰った。格別旨かった。ウサギの肉も食べたような気がする。コショウをふんだんにかけたもので、肉に相当の臭みがあったのだろう。宿代NT$170でステーキやウサギの肉では主人の持ち出しだろうが彼もまたこれまでの台湾人のように私の1人旅を歓迎してくれていた。50歳ぐらいの人々がお前と会えて嬉しいといってくれのは実に不思議な感じだが。

10.中壢
8日目は前日約束した通り、陳さんの実家のある中壢市へ行った。台北からバスで1時間半ぐらいだったか。台中に行く途中にある町だが鉄道は通っていないため、バスで行く。市内は思ったより大きく、デパートなどもあった。何と彼女の実家はその町一番のデパートの横にある4階建ての病院であった。はっきり言って東京で4畳半1間、月1万円で暮らしている彼女の実家とは思えない大きさだ。そこには両親が既に半引退して暮らしており、お兄さんが医者として病院を取り仕切っている。お父さんは仕切りに『君は肝が太い』などと言って私の旅行に感心していた。また台湾は本当に治安が良かったが、先日殺人事件が近くであり、物騒になったなどと言ってみたり、近くの山では今もトラが出るとの話があったり、なかなか面白かった。因みに会話は全て日本語で行われたが、家族間は客家語である。陳さんは実は客家なのである。客家は優秀であると本で読んだことがあるが、この家の人も4つ以上の言葉をいとも簡単に話していた。尚台湾には客家が200万人程度いると言われている。

病院内で家族と一緒に夕食を食べたが、白衣を着た人と一緒に食事をしたのは初めての経験であった。
夜はお兄さんが最近建てた家に泊めてもらったが、これが凄かった。病院に住んでいると夜中も急患で起こされる為引っ越したと聞いていたが、行って見ると田んぼの中に突如4階建ての豪邸が出現。1階にはリンカーンが2台駐車するスペース。2階は客間と書斎。3階はカラオケルームと寝室。4階は畳の客間となっており、その広さは相当のものであった。私は4階の畳の部屋でゆっくり寝かせてもらった。お兄さんはかなりの体格であり、風呂も3人は入れる浴槽を備えており、大満足であった。

9日目の朝起きてみると、見知らぬ女性が入ってきて、手招きする。階下に朝ごはんが支度されている。おかゆだ。女性はお兄さんのフィアンセでやはり客家。客家は原則客家同士で結婚する。彼女は日本語が出来ないことを恥じていたが、私からすればそれは当たり前のこと。但し当時の台湾では日本語が出来ないことに引け目を感じる人がいることにまた感動してしまうのである。おかゆも態々私の為、作ってくれたもので彼らは普通パンとコーヒーであるようだ。

朝食後病院に戻ると陳さんが『山へ行きましょう。』と言う。よく分からないが同行する。中壢から大渓行きのバスに乗り、そこの山に上ったと思う。今ではよく覚えていないが、結構キツイ上りだった。途中山道で顔の黒い男性2人と擦れ違った。通り過ぎてから違和感を覚えた。『あれっ。』男性の話していた言葉が日本語のように聞こえたのだ。陳さんは当然のように『日本語。かれら山の人は昔言語を持たなかったので、植民地時代に入ってきた日本語を今でも使っているのよ。』などと言う。戦後40年、言葉が出ない。日本の統治時代とは台湾に何をもたらし、何を奪い去ったのか?私などには到底理解できないと思った。

その後またバスに乗り、慈湖に行く。ここは蒋介石の別荘があったところで、現在は遺体が安置されている。湖の周りは樹木が生い茂り、何か荘厳な雰囲気が醸し出されている。建物の前に来ると、厳重な警備がなされており、パスポートの提示を求められる。ここが別荘跡で遺体のある場所であると分かると何故か非常に緊張する。
遺体の安置場所に行くと、衛兵が直立不動の姿勢でおり、突然館内に響き渡る声で『帽子を取れ。直立。礼。』と指示を出す。咄嗟の事で、思わずお辞儀。礼を3回させられて解放される。後で考えると蒋介石と何の関係も無い私が、何故頭を下げなければならないのか訳が分からなかったが、兎に角歴史に触れた感じは味わった。
尚蒋介石の墓が建てられないのは遺言で、将来大陸復帰を果たした際に、南京に建立されるためと聞いて、思わず永久に墓は建てられないなと思ってしまったのは不謹慎であろうか?

11. 台北最後の夜
中壢に戻り、陳さんに別れを告げて、台北に。いよいよ明日は日本に戻る日だ。格安チケットだから、朝は早い。例の旅社に戻り、最後の1泊とする。屋台で最後の夕食。台湾名物カキのお好み焼きをたらふく食べた。

宿の隣の部屋には出張で台北に来ていた台湾人がいて、先日も少し話をしていたが、部屋に戻るとその人がやって来て、落花生をたくさんくれた。『これお土産。日本のお父さん、お母さんにね。台湾は良い所だから是非来てと伝えてね。』彼は名残惜しそうに何時までも私の部屋で話している。日本だったら、『うるさいオヤジだなあ。俺は明日早いんだ。勘弁してくれよ。』などと思っていたはずだが、ここでは微塵もそういう感情が出てこない。ただ他愛も無いことを何時までも話している。とうとう空港行きのバス停を夜中に教えてもらった。台北は日本の地方都市の佇まいであるが、それはまた数十年前の日本そのものに思えた。建物が低いのも昔風。但しこれも国防上の観点である。

殆ど寝ないうちに宿を出発し、市内から50km離れた中正国際空港に向かう。到着したあの日からわずか10日間。その間自分が途轍もなく成長したような気がした。きっと何時かここに戻ってくるような予感を胸に帰国の途についた。

終り

追記
この旅の総費用は、航空券6万円、1泊目の宿賃5千円以外は合計で僅か3万5千円であった。総額10万円、10日間の旅。陳さんはじめ名前も忘れてしまった多くの人に親切にしてもらい、この費用となった。今では考えられないような、そして2度と味わうことの出来ない『麗しの島台湾旅行』であった。

 

《昔の旅》麗しの島台湾編1984(1)

〈最初の旅-1984年3月台湾〉

1.パスポート
大学3年も終わろうとしていた。殆どを部活とバイトに明け暮れていた私にとって、海外旅行など思いも付かないことだった。いや正直に言えば2年の時、第2外国語をスペイン語に替えたあの時、一瞬スペインへの憧れから金を貯めたことはあった。だが間抜けなことに前期試験に遅刻し単位が取れないことが分かったとき、その憧れは一片に消し飛んでしまった。

その私が何故台湾に行くことになったか?それは単に周りの多くがパスポートを持っていることに気が付いたからだ。クラスの中に3年の夏に中国に短期留学した者が結構いた。その話が楽しそうだったのだろうか?いや、何故か他人が持っているものを自分も持ちたいという願望のみで、パスポート取得を思い立ったのだ。外国に行くつもりはなかった。

確か池袋のサンシャインに出入国管理事務所(?)はあった。パスポートを取るには、戸籍謄本や写真、それに残高のある貯金通帳が必要なことも知っていた。意気揚々とオフィスに入った。申し込み用紙に記入した。[行き先]?、海外に行かない者はパスポートを取ってはいけないのだ。唖然とした。でもここまで来てしまったのだ。後戻りはできない?何故かそう思った。

中国には行きたくなかった。嫌い?だった。さてどうしよう。下宿の台湾人留学生が浮かんだ。お母さんが時々来ており、流暢な日本語で『一度台湾にいらっしゃい。』と何度も言われていた。勿論社交辞令だと思っていた。でも、台湾に丸を付けてしまった。パスポートは呆気なく取れた。(取れてしまった。)

2.準備
台湾に行かなければならない。大変なことになった。正直な気持ちだった。下宿に戻って、留学生の陳さん〔女性〕に話すと、一言『来れば。』と言ってくれた。助かった。日程は春休みに決めた。でも、旅行には何が必要なのだろう?台湾には飛行機で3時間ほどだと言う。チケットと外貨の準備を考えた。

友達が飛行機のチケットは新宿のHISというところが、格安だと言う。西口を出て甲州街道沿いの古いビルの6階にあった。こんなところで大丈夫かなと思ったが、中に入ると学生で溢れていた。アメリカのノースウエストが一番安くて往復で6万円だった。但し飛行機は夕方出発でよく遅れると言われたので、一泊分のホテルを予約した。5千円だった。まさかこの時のHISが現在のように大きくなるとは思いもよらなかったが、確かに金のないものには便利な旅行会社だった。

帰りに三和銀行新宿西口支店に入って、トラベラーズチェック(T/C)を作った。シティバンクのチェックだった。当時は一ドル250円ぐらいだったか。何故三和銀行かと言うと、単にバンクカラーがグリーンで、イメージガールが紺野美紗子だったからだ。この時もし銀行に就職できるなら三和にしようと思った。準備と言えば、後はガイドブックを一冊買ったのと、陳さんの連絡先を聞いたことぐらいだった。何も知らないまま台湾に行った。

3.台湾へ
3月3日の桃の節句の日、成田に向かった。成田エックスプレスなんかなかった。みんな箱崎からバスだ。成田空港に近づくと、検問があった。成田闘争の余波だ。パスポートを誇らしげに出して通過した。バスから降りるとまた検問があった。荷物検査だ。見送りがいた。時の彼女、現在の奥さんだ。検査官が聞いた。『どちらの方が出発ですか?』その時の格好は、古びたトレーナーに擦り切れそうなジーンズ。小さなリュック。とても海外旅行に行く人間には見えなかったのだろう。それくらい海外旅行を簡単に考えていた。因みに当時も見送りの人でも身分証明が必要だった。

度重なる検問で俄かに不安になった。私は海外に行く資格があるかどうか?拠り所はただ一つ。パスポートを持っていることだった。これを取った人間は海外に行かなければならない。

空港は綺麗だったが、分り難かった。漸くチェックインカウンターに並んだ。前に炊飯器の箱を6個も積んだ人がいた。台湾からの留学生の女性で、国に帰るところだった。大変そうだったので、チェックインを手伝った。

機内に入ると一人ぼっちの不安を味わった。リュックを床に置いていると大柄のアメリカ人スチワ―デスが飛んできて、早口の英語でまくし立てた。実践で英語を使ったのはこの時が初めてだった。全く歯が立たず、がっかりした。

案の定飛行機は遅れた。アメリカから来て成田経由で台北へ行くのだ。無理もない。中正国際空港に着いた時既に時計は12時を回っていた。入国審査は簡単だった。全て日本語だったから。外に出て、市内行きのバスを探した。見当たらない。どうしよう?周りの人にどんどん追い越される。途方にくれた。市内に行く方法は陳さんから聞いていたがバスのみだったのだ。初めての海外で何の方策も浮かばない。

その時後ろから天の声がした。『どうしたの?』成田でチェックインを手伝った女性が、相変わらず6個の炊飯器を持って立っていた。彼女は事情をすぐに飲み込み言った。『友達が迎えに来ているから、乗れば?』生まれてからこれほど嬉しかったことは少ない。因みに炊飯器の謎については、彼女の説明によれば、台湾では良い電化製品が無く、日本製が非常に好まれる。親戚も多いので、不公平にならないようにするには6個ぐらい買う必要があるとの事だった。

4.台北
彼女の友達はカップルで、車は市内に向けて走り出した。予約したホテルも知っているという。助かった。少し余裕が出ると彼らの話している言葉が気になった。台湾語だった。3年のとき、3回だけ講義に出て辞めていた。わかるわけがなかった。道も酷く暗かった。戒厳令下の夜中だ。

ホテルに着いた。降りるとき彼女が言った。『明日10時にロビーで待っているから。』それはあまりにも台北を知らない旅人を気遣って、案内してくれるというのだ。日本ではすでに考えられない申し出だった。初めて会った女性が言う言葉ではなかった。でも説得力のある言葉だった。

いよいよチェックインだ。これまで何回は繰り返した北京語を思い出した。『部屋を予約しています。』通じなかったらどうしよう、予約がなかったら?又不安がよぎる。フロントの前に立つと『Sさんですね?お疲れ様。』???日本語?部屋に案内してくれたボーイも全て日本語。おまけに部屋で彼が捻ったテレビからは何と〈大岡越前〉をやっている。『これビデオ、サービス。』??何を言っているか分からない。

後で分かったことだが、当時台湾では何と公式の場では日本語は禁止だったのだ。大岡越前のビデオはななんと、裏ビデオということになる。これがどんなに馬鹿げたことか、は後でよく分かる。台湾は日本語天国なのだから。因みに日本語が公式に台湾のメディアで解禁されたのは、私が後に台湾に駐在した1990年であった。台湾の映画祭に出席した女優の市原悦子のスピーチがそのままお茶の間に流れたのが初めだったと記憶している。

2日目、朝ホテルの周りを散歩した。ホテルはキリン大飯店といい、台北駅の近くにあった。今もあるはずである。下町の名所龍山寺にも近く,歩いていった。このあたりはかなりごみごみしており、朝飯を売る屋台がたくさんあった。豆乳、饅頭などに混じり、臭い豆腐があった。その名も【臭豆腐】。周囲は全てこの臭いに占拠される。

龍山寺は古いお寺であった。多くの老人が朝からやって来て、実に熱心にお祈りしている。祭壇の前に跪き、立ち上がり、跪きと繰り返している。豚の丸焼きなどが供えらている。日本の仏教も昔はそうだったのかな?などと思う。町は極めて日本的で日本にいるのと変わらない。人の顔も変わらない。

ロビーで待っていると彼女は本当にやってきた。半分は来ないと思っていたので、意外だった。ホテルを出て少し歩くとすぐに喫茶店に入った。これも意外な行動だ。『妹が来るの。彼女は夜間高校の英語の先生だから、何とか言葉は通じるわ。』??日本語なのに言っている意味がさっぱりわからない。

聞くとこれから彼女は、昨夜の友達と台中に遊びに行くという。でも約束したから、妹に頼んだという。驚いた。彼女がここにいるだけでも十分驚きなのに、妹に案内させて自分は遊びに行くという。何という国だ。人を疑うということがないのだろうか?

躊躇っていると妹さんが来てしまった。と同時に彼女は行ってしまった。本当に。何を食べたか覚えていないが、昼飯を食べた。妹さんが払った。え?故宮に行った。私が唯一行きたいところだったからだ。入場料ぐらいは自分で払ったが、そこまでのバス代も彼女が払った。え、え?私は彼女にとって何なんだ?お姉ちゃんの友達?お姉ちゃんはどう説明したんだ?

故宮の財宝は素晴らしかったに違いないが、あまり覚えていない。彼女は一生懸命英語で説明してくれた。でも歴史や美術を英語で習った覚えはない。わからない。覚えているは、日本人観光客を引き連れたガイドがくだらない冗談を連発していたことぐらいだ。

故宮を出たら、日が傾いていた。彼女は済まなそうに『学校へ行く』と言った。ただ、私の今日泊まるところを考えていた。彼女の案内で円山大飯店近くのユースホステルに行った。全て彼女が仕切った。1泊NT$250。彼女はもう一度済まなそうに『さよなら』と日本語で言った。何故か素直に感動した。私は捻くれているのかあまり感動するなどということ無い学生だったので自分でも驚いた。

夕飯は近くの自助餐に行った。これは入り口に何種類かのおかずとご飯、スープがあり、好きなものを取る仕組み。所謂セルフサービスだ。但しおかずを盛るのはおばさん。量の加減はおばさん次第というわけ。兎に角一人で食う人間にとってこれは便利。味もおいしい。

5.台中
3日目の朝台北駅に行った。当時の台北駅は戦前日本の植民地時代に建てられたもので、ミニ東京駅だった。(1990年代に建て替えられ、現在その面影は見られない)切符売り場で台中行きの切符を買う。一番速い自強号だ。揚々列車に乗り込むとなかなか快適そうなシートに座ったが、すぐに後から来た台湾人に追い出される。どうやら全席指定だと分かる。

時刻表は買ったものの、台中で降りられるか心配だったので、隣のサラリーマン風の人に尋ねる。北京語で次の駅だと言われる。この旅で初めて北京語で会話が成立した気分だ。それほど多くの人と日本語をしゃべっている。列車の窓から見る景色は日本の田舎を走っている感じ。田んぼあり、林あり、時折川もあった。日本の原風景?

2時間ほどで台中に到着。取り敢えず今日の宿を探す。宿探しは初めてだ。駅前の路地を入ると左程高くなさそうな大旅社があったので、入る。日本にいる間に準備した『部屋はあるか?』という北京語を試みる。相手のオヤジは怪訝そうな顔。もう一度聞くと、『金はあるのか?』と聞いてくる。そんな問答を5分ぐらいしていたが、埒が明きそうもなかったので、思わず日本語で『何だ、通じないのか?』といったところ、『何だ日本人か。』とオヤジが流暢な日本語で返す。どうやらオヤジは私を頭のおかしい台湾人と思ったらしい。尚この時のことを後に上司に話したところ、私の結婚式のスピーチで紹介された。彼は学生時代に日本人と思われない程度の北京語は出来たと・・?本当は容姿が日本人に見えなかっただけだが??

オヤジにこの旅社で一番よい部屋に通される。NT$400。日本人はいい客だと思ったのだろう。きれいとは言えないが、バス・トイレ・エアコン付。彼が言うところのスイートルームだ。

午後オヤジが来た。もう一人日本人がチェックインしたことを告げに来たのだ。名前は思い出せないが、その学生、日大芸術学部を休学し2年間世界放浪の旅をしている青年との出会いで、私の旅は変わった。彼は私の部屋に入るなり『何でこんな良い部屋に泊まっているんだ?学生には贅沢だ。旅の目的は何だ?』、とまくし立てた。正直驚いた。とてもよい部屋と言えるものではなかったし、何しろ旅の目的が・・・?

彼はヨーロッパからアジアを回り、台湾入りしたと言った。ホテルは一番安い部屋を値切り倒して探すとか、台湾は洋酒が高いから免税店で買って国内で高く売って旅費にするとか、旅の技術というものをたくさん教わったが、何より『旅はそれ自体が目的だ』という事を教わったことが大きかった。これで私もパスポートの呪縛から逃れて、旅の目的がはっきりしたからだ。

夜は彼と台中の屋台で食べた。日本のカツどんは台湾では排骨飯という。これを教わり食べた。その後困ったときは排骨飯を食べて過ごした。骨付き豚肉を揚げたものを丼飯の上に乗せるもので、日本ではその後パイコーハンといって売っていた。

4日目は一人で朝から台中の町をぶらついた。公園では老人たちが集まっていた。マイクを持った人の話は日本語だった。何と朝からオープンスペースでカラオケをやっていた。しかも日本語で。歌はフランク永井、美空ひばりなど日本の歌ばかり。司会者も玉置博のような調子でやっている。じっと見ているとその玉置博が『日本人だろう。歌ってきなさい。』と声を掛けてきた。これにはびっくり。周りの人も注目している。何とか断ろうとしていると『昼飯おごるよ。』何て声もかかる。『バイクの後ろに乗せてあげるよ。台中案内してあげる。』とおばあさんに言われてしまう。話には聞いていたものの、台湾の人の中では日本語が、そして日本の文化が生きている。既にこの時点で日本人が忘れてしまったものを。日本人が台湾にやってくる理由の1つがこのホッとする感覚を味わうためではないだろうか?

何とか歌を勘弁してもらい、一人宝覚寺に行く。高さ30mもある弥勒菩薩像がある。なかなかユニークな顔をした大仏だ。ゆっくりしたかったが、雨が降ってきた。駅まで距離があるので、歩くのを諦めタクシーに乗る。『駅まで』と何度か言うが、『駅はそこいらじゅうにある』という。ここでは駅はバス停の意味もあったのだ。

《北京歴史散歩2008》(11)西単付近

【西単付近】2008年7月6日

夏がやって来た。6月まではオリンピックの為に雨を降らせており??例年になく雨が多い、そして涼しい夏だったが、7月からはオリンピックムードを盛り上げる必要もあり??快晴、そして暑い。といっても先週出張した香港に比べれば気温が高くても湿度が低い。木陰に入れば何となく爽やかな風が吹き、何とか散歩が継続できる。これぞ、北京。

 1.西単双塔

地下鉄で西単へ。7月からは手荷物検査が導入されたと聞いていたが、建国門も西単も検査は全くなかった。心配ない場所なのだろうか??兎に角全部を検査していては大混乱必定。駅を出る。目の前に文化広場があるはず、だったが、何と全て覆いが掛けられており、前が見えない。これもオリンピック用の改装だろうか??

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実はこの広場の辺りにはかつて九層と七層の2つの塔があった。金代に元刑場だったこの場所から夜な夜なうめき声が聞こえる、との話から鎮魂のために寺を創建。元の大都築城の際はこの塔を避けて城が築かれたと言われている。

 

残念ながら解放後長安街拡張のため、2つの塔は取り壊されて、今はその面影を偲ぶものも無い。西単は元々庶民で賑わう街。特に近年は若者が多く集まり、東京で言えば原宿のような雰囲気を持つ。原宿には明治神宮があり、西単には双塔があった。何かの偶然だろうか??

 2.都城隍廟

西単を北へ向かおうとしたが、暑さボケか西に歩き出す。民族文化宮の前には『西蔵今昔』と書かれた看板が出ており、大チベット展が開かれている。4月末からとあるから、どうみても政府が自らの政策を正当化するためのものであろう。あまり見る気が起こらない。

 

民族飯店、工商銀行本店の前を過ぎ、復興門内大街から太平橋大街を北へ。直ぐに左に曲がると成方街がある。ここは人民銀行本店の裏手になり、北側は比較的古いアパートが並んでいる。都城隍廟はこの辺りにあったであろうことが想像される。城隍神とは城の堀や壁の神である。唐の時代あたりから全国の城で城隍神が祭られた。但し祭っている神は場所によりマチマチ。城内で悪いことをした人間はあの世でもこの神に裁かれると恐れられていた。

 

木々がせり出した道を歩くが城隍廟に関連しているものは全く見当たらない。その内に最近新しく形成された金融街に出る。ここは政府主導で中国系金融機関が集められている。7-8年前突然にビルが建ち始めた。そしてあっと言う間にビルが群生した。

 

その中に都城隍廟後殿を発見。しかしどう見ても最近再建されたもの。しかも建物が一つあるのみで中にも入れない。北京市の文物保護単位を表示するプレートだけが古びており、1984年に指定されたことを示していた。

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ここは1260-70年代に創建、その後数度の再建が行われたが、民国時代の邪教禁止政策で荒れ果てたようだ。元々は山門、鼓楼などがあったようだが、だいぶ前に後殿だけになっていたようだ。荒れ果てた廟を再建したのは、金融街の発展を願う政府の思惑なのだろうか??ビル群の合間には所々庭園があったりする。

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その後金融街を北上し、太平橋大街へ再度出た。立派なしっかりした建物が目に入る。古びているがどっしりしており、風格がある。見ると全国政治協商会議礼堂とある。1949年の建国後建てられたものであろう。久しぶりに社会主義的な建物と出会った。

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3.白塔寺

太平橋大街と阜成門内大街の交差点付近に白塔寺はあった。最近は建物が立ち並び交差点からでは白塔を見ることは出来ない。交差点西側に白塔寺の門がある。妙応寺と書かれている朱塗りの門。

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寺の内部には両側に四天王を従えて弥勒菩薩が安置されている天王殿。多数の精銅の小さな仏像もケースに入って飾られている。これはミャンマーなどで見る奉納された仏像だろうか??釈迦無二、阿弥陀、薬師の三像が収められた大覚宝殿や七仏宝殿などがある。

 

そしてその奥に白塔。1096年に建立された仏舎利塔。その後破壊されていたが、1271年に元のフビライがチベット式に改装させた。1279年再建。中国最古のラマ塔。この塔の作成にはネパールの有名な職工アグニが招かれている。現在白塔の前にアグニの像が立っていることからもその功績の大きさが分かる。尚像から見るとアグニはかなりスマートな好青年と言った印象。

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塔は約30メートルの高さがあるが、現在は改修中で登って見ることが出来ない。釈迦の仏舎利塔は世界に84000あるが、その中の重要なものは8基あり、白塔はその一つ。尚フビライの頃この塔は赤かったと言う。その後明の永楽帝の時代に白くなったそうだ。清代には北京一有名な廟会が開かれていたとか。また1976年の唐山大地震では塔の一部が傾き、修理中に乾隆帝直筆の箱書きが出てきたらしい。

 

白塔寺から東に少し行くと交差点の向こう側にクラシックな建物が出て来た。見ると北京大学人民医院。どんな歴史があるのだろうか??

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その少し向こうに歴代皇帝廟がある。1530年に建造され、明、清両代の皇帝が皇五帝をはじめ歴代皇帝、諸葛孔明などの名臣を祭っている。「三皇五帝」とは、神話時代の中国を治めたとされている伝説上の八人の帝王たちの総称(文献によって人物は異なる)で三皇五帝をまとめて祭っているのは中国内でここだけ。広大な敷地ではあるが歴史的な価値はあまり感じられない。1949年以降は学校として使用されていたためか。

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 4.広済寺

また東に歩くと古めかしい門が。中国仏教教会と書かれている。何だろうかと中を覗く。入場料も無いようなので中へ。丁度よい状態の木々が立ち込め、その奥に天王殿がある。更に行くと非常に静けさが漂う日本的な寺の姿があった。

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線香が立ち込め、皆木陰でお経を唱えたり、仏典を読んだりしている。これぞ寺、と言う感じである。横の伽藍には簾の掛かった庫裏が続く。ここに修行僧が宿泊しているのだろう。広済寺は金代の都中都の北の郊外に創建。元代に再建。明代の1457年に改修され、広済寺と名付けられる。清代には皇帝が立ち寄る場所として重視され、重要寺院に指定される。1934年の大火で所蔵の経典などを焼失。1935年には再建され、現在に至る。

 

鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄殿、円通殿、蔵経楼などがコンパクトな境内に並ぶ。極めて伝統的な寺院。この静けさは今の北京には重要。境内には日中韓の仏教友誼樹も植えられており、この地が北京、いや中国の仏教の中心であることがわかる。

 5.西什庫教堂

更に東に進んでいくと北海公園が近づく。その手前に西什庫教堂(北堂)がある。1703年康熙帝の寄付で西安門に創建。康熙帝がマラリアに罹り、フランス人神父フォンタネーがキニーネを献上し、治癒したことから建設が認められた。

 

但し場所が紫禁城に近いこともあり、1887年に西太后により現在の場所に移転された。1900年の義和団事件では、外国人がここ北堂に逃げ込み、義和団が包囲。今でもその銃弾の跡が残っているとか。

 

結局義和団は八カ国連合軍に撃退され、逆に連合軍が略奪の限りを尽くす。当時北堂の神父ファビエが大官僚立山の屋敷から大金を奪ったことは有名である。尚浅田次郎の『蒼穹の昴』の中に北堂とファビエ神父が登場する。小説ではファビエはベネチアンガラス細工を造り、孤児院で孤児を育てている。真実はよくわからないが、或いは単なる略奪ではなかったのかもしれない。

 

門を潜るとそこには『勅建』の文字が。これは西太后が公金を与え、建設されて事を指す。当時フランスは革命があり、中国の教会に援助することなど無くなっていた。中国で援助するものも無かったであろう。何故西太后が??

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現在の建物は1985年に改修されたもの。ゴシック建築の立派な建物。日曜日の昼時、礼拝堂に人影は無く、中に入る。静けさに包まれていた。疲れた体を休めた。目を瞑ると昔が見えるような気がした。

 6.礼親王府

ちょっと南に下ると礼親王府がある。門は硬く閉ざされ、中を窺うことは出来ない。礼親王は清朝の開祖ヌルハチの第二子代善に始まる名家。ヌルハチの長男が早くに亡くなったこともあり、実質代善が長男としてヌルハチを補佐。この代善、礼親王府の建設時には、ヌルハチの命令で各省の総督が皆資金を出したほど、一時は時期皇帝の最有力であったが、ヌルハチ最愛の女性アバガ(ゴルドンの母)と過ちを犯し、その地位を失ったという。

 

当時の満族の習慣では、皇帝が亡くなった場合、その妻は時期皇帝の妻になるので、二人は早まってしまったということか?因みにアバガは終生ヌルハチの愛を受け、ヌルハチの死に際しては、夫に従い殉死した。その後嘉慶年間に屋敷は焼失。嘉慶皇帝より資金を賜り、再建。1943年には一時満鉄の所有になったこともある。現在は国家機関と民家となっており、内部を窺うことは出来ない。

 7.万松老人塔

西四南大街に戻る。北京基督教会がある。ハングルが書かれており、チマチョゴリを着た女性が中に入って行く。ここは1922年洗礼を受けたばかりの青年、後の老舎が住んだと言う教会ではなかろうか?老舎は半年あまりこの教会の日曜学校の主任を勤め、日々磚塔胡同を散歩していた。その様子は著作『離婚』に描かれている。

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その北側に万松老人塔があるはずであった。ところが見ていくと建設現場があるのみ。よく見るとその道沿いに門だけがカバーを掛けられて頭を覗かせている。その頭にははっきりと『万松老人塔』と書かれている。

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これは塔ではないから、入り口の門と言うことか。とすれば後ろの建設現場の中に塔は埋もれてしまったのか。レンガ造りの九層の塔とあるのだが。建設者はこの門を残すことを条件に許可を得たのだろうか??

 

万松老人は金末元初の僧。仏教大師の称号を得る大物だが、北京郊外で修行を積んでいた。彼の弟子には有名な元の宰相耶律楚材もいた。僧の死後、弟子たちは郊外に塔を建てたが、明の永楽帝の遷都でこの場所が中心に近い繁華街になってしまう。これは老人にとって不幸だった。その後200年余り行方が知れなかったが、明末に僧が発見、清の乾隆帝時代の僧も、既に朽ち果てつつあったレンガが載った塔を危ぶんだ。

 

最近でもこの塔は粗末に扱われているようであったが、ついに取り壊されてしまったらしい。残念でならない。

 

《北京歴史散歩2008》(10)宣武門付近

【宣武門】2008年5月17日

朝の鍼灸を終わって外を見ると雨が降りそう。しかも肌寒い気温。うーん、偶には散歩しようと決めていたのだが。今週の四川大地震は未だに救助活動が続いている。雨が降っているようだ。私も雨の中散歩を決行することにした。

1. 楊継盛故居
地下鉄2号線、宣武門駅下車。地上に上がると斜め向かいにそごうデパートが見えた。9年前北京に赴任した際、そごうがあるというので一度来たことがある。当時の家からは相当遠かった。結果的にはそれ程の成果が無く(欲しいものがなかった)、空しく帰った記憶がある。

当時既にそごうは傾いていたはず。香港のそごうも名称だけになっていた。しかし今回仰ぎ見るとビルが2つになっており、大きくなっている。一つはそごう百貨、もう一つは庄勝広場とある。どうしてこうなったのか??

 

そのそごうの道(宣武門外大街)の反対側をふっと横に入る。達智橋胡同である。近くに近代的なビルがあるのとは対照的に昔ながらの横丁。小さな店が軒を並べていた。この中に楊継盛故居があるはずだが・・??

すっと通り過ぎてしまった古びた建物、前では野菜を売っているなんでもない建物、そこにプレートが嵌っていた。『楊椒山祠』、楊継盛は椒山と号していた。明代の英雄、楊継盛は科挙の進士に合格し、将来は宰相の器であったが、皇帝のお気に入り、厳嵩の恨みを買い獄に繋がれる。硬骨の士は三年間の苛烈な拷問の果て、祠近くの菜市口で処刑された。

それから230年、清代の1786年、御史によってこの祠は建てられた。現在は中にも人がいて、商売に使われている。この祠が歴史に登場するのが1895年、康有為ら挙人1000名以上が集まって光緒帝に奏上した『公車上書』事件の舞台となる。また裏には1848年建造と言われている諫草亭がある。但し今は入ることが出来ない。諫草亭はその名の通り、楊継盛が厳嵩に関する諫言、『十罪五賊(十の罪と五つの裏切り)』を書いた場所。

芥川龍之介は1921年にここを訪れている。『北京日記抄』の中で「故宅といえば風流だが、今は郵便局の横丁にある上、入り口に小便壺があった。椒山の碑をランプの台に使っているのも滑稽。後生まことに恐るべし。」と書いている。当時既に全く保護されず放置された様子が分かる。僅か30年前に清朝崩壊の先駆けとなったこの場所を何でこんな風にしたのだろう。

2.聶耳故居

東西に走る達智橋胡同に対して南北にクロスするのが校場頭条胡同。この通りは既に新しく改装されており、ちょっと雰囲気が違う。その無機質に近い胡同の中に旧雲南会館がある。特に表示も無く、通り過ぎてしまう。

中を覗くと昔ながらのレンガ造りの家々がある。この中にあの中華人民共和国国歌を作曲した聶耳が住んでいたのかと思うと感慨深いものがある。最も本人は自分が作った曲がよもや共産国家の国歌になるとは思っていなかっただろう(国歌『義勇軍行進曲』は映画『風雲児女』の主題歌であり、抗日の歌でもある)。

何しろ聶耳は1935年24歳の若さで鵠沼海岸で水死しているのである。私は子供の頃鵠沼海岸で育った。確かにこの中国の作曲家の名前を耳にしたことがある。慰霊碑もあるし、毎年7月には慰霊祭が今も開かれている。1912年雲南省昆明で生まれた彼が何故日本で死んだのか??それは友人の援助でソ連に音楽留学する途中に立ち寄ったと言う偶然の産物であったらしい。人の一生とは分からないものである。

雲南生まれの彼が北京の音楽学院を目指して上京した際、郷土の会館に身を寄せたのは当然であろう。但し環境は良くなかったようで、薄暗いかび臭い部屋で練習に励んでいたと言う。(彼は4歳で父を失い困窮の中、音楽を続けていた)現在の旧雲南会館は単なる胡同の1つ。数十世帯が普通に暮らしている。更に歩いて行くと大きな古木が胡同からはみ出すように歴史を刻んでいた。

3.共産党地下印刷所跡

校場頭条胡同の南の突き当りを右に折れると校場口胡同。その中心辺りに洋館風の2階建ての建物があった。現在は鍵屋のようだが、恐らく昔は由緒正しい、何かであったろう。

この付近から定居胡同辺りは極めて昔の風情を残していて心地よい。特に木々が生い茂り、少し曲がりくねっている所に誘惑される。地図を見ずに歩いてしまい道に迷うが楽しい。しかも次に向かう目的地は共産党地下印刷所跡。勿論現存しているはずは無い。80年前を髣髴とさせる路地だけが歴史を語る。

1921年創立の中国共産党は当初非合法地下活動が中心。機関紙を発行し、その主張を人づてに伝えていく。1925年に僅か半年ではあるが、機関紙『響導』を印刷した場所が広安西里という如何にも目立たない小さな胡同の中にあったという。

1925年と言えば第一次国共合作が成立していたものの、3月には孫文が亡くなるなど、極めて不安定な時期。この印刷所が果たした歴史的な役割は意外と大きかったのかもしれないが、今では誰も知る人はいない。

本日訪れてみるとその目印と言われる、槐樹の大木は胡同の中ほどに見えたが、そこには既に建物は無く、取り壊されて建替え中であった。周囲は昔ながらの人々が住み、雨が降りそうな薄暗い中、そこ彼処に立って、まるで共産党を守るように、よそ者を監視していた。

 

 

4.康有為故居
雨が降ってきた。傘を差して菜市口大街を東へ渡る。昔はその名の通り菜を売る市場があったのだろうが、今では通り沿いには近代的なビルが建っている。東南の角には大型開発が行われており、近い内に巨大ビルが出現する。

目指す米市胡同に入り込もうと道を探すが大通り沿いからは一切入れなくなっている。全てが開発対象なのである。僅かに残る昔風の建物には『取り壊し』の文字がペンキで空しく書かれている。

やむ終えず交差点に戻り驢馬市大街を東に歩き、米市胡同の入り口を探す。この胡同は幅が比較的広い。背の高い煙突が見える。しかし両側の店は殆どが閉まっている。康有為故居(旧南海会館)は一段下がった右側にさり気無くあった。しかしこの周りの建物も全て取り壊しマークが付いている。ここだけは保存するつもりかマークは無いが??

南海会館は1823年在京の南海官僚が資金を出し合い、朝廷高官の旧宅を購入。190室、13の庭を持つ地方会館の中で最大の規模を誇る。

広東省南海出身の康有為が初めて北京にやって来たのは1882年、科挙の試験を受けるためであった。その時から1888年、1895年と上京し、郷土の会館であるここ南海会館に住んだ。『康南海先生』と称される所以である。

康有為は若くして科挙の地方試験に失敗、香港で植民地の実態を体験、自国の遅れに気が付いた。北京でも清国の弱体化を知り、変法運動へと進む。1895年には先程の楊継盛故居で光緒帝に奏上した『公車(挙人)上書』事件を起こし、注目を浴びる。時は日清戦争の後、下関条約で屈辱的な講和を迫られた自国に対して、講和を拒否する内容。

1898年の変法運動は皇帝の権力を高める立憲君主制を主張したが、西大后によるクーデターより僅か100日で潰え、康有為は日本へ亡命する。その後はアメリカ、カナダ、インドを経て、辛亥革命で帰国するも、清朝復古運動に参加した程度、最後は青島で死去。

菜市口大街を挟んで反対側には譚嗣同故居がある。譚嗣同も変法運動に同調し、逮捕され、処刑された人物。尚南海会館も取り囲まれ、康有為の弟康広仁も逮捕され、譚と同じ道を辿っている。康有為、譚嗣同の活躍は浅田次郎『蒼穹の昴』に詳しい。

譚嗣同は康有為の弟子、極めて繊細な人物として描かれている。湖南省瀏陽の出身でこの故居は瀏陽会館であった。幼い頃に家族を亡くし身寄りがなく、一人生き残った彼は『復生』と称される。

変法失敗後、逃げることも出来た譚嗣同は自ら捕まり、『改革の礎になる』として処刑される。清廉潔白、高潔な人物である。

 

5.法源寺

譚嗣同故居より西に向かう。この辺りの開発は激しくビルの建設現場を通り抜ける。そして西磚胡同という昔風の胡同を南へ。しかしこの胡同、外壁は綺麗になっており、しかも道の真ん中を工事中。胡同の保存が進んでいるのはわかるが、道の真ん中に掘削車が放置されている光景は何とも醜い。

そして法源寺へ。唐代に創建されたこの寺の正門は決して広くは無い。脇の門を潜り中に入ると荘厳な雰囲気が漂う。小雨にも拘わらずお参りに来る人々がいる。線香がたちこめる。

左右に鼓楼、鐘楼が配される典型的な寺院。獅子像が並ぶ天王殿、中には綺麗な3つの観音があり、その奥の大雄宝殿には布袋様が安置されている。ここには先日の四川大震災の冥福を祈る大法会の横断幕が掲げられている。私もこのお寺に導かれて来た者として、深く手を合わせる。

法源寺は唐の太宗が高麗遠征した際の戦死者を弔うために創建されたといわれ、その時の名前は憫忠寺(境内には憫忠閣という建物もある)。唐代、安史の乱を起こして都を占拠した安禄山と史思明は節度使として北京に駐在。この寺に塔を建てたと言う。

また北宋の徽宗は金との戦いで捕虜となり、この寺に幽閉された。金代には女真族の科挙の試験も行われたようだ。1734年の大改修後に現在の名前となる。

更に奥には観音堂、そして一番奥に法堂がある。法堂には涅槃仏が横たわり、周りには古い仏像が多く安置されている。大銀杏の木が生い茂り、鬱蒼とした印象。何だか鎌倉の寺を思い出す。ここは禅宗なのである。

実はこの寺を訪れた3日後、一つの仏縁がありました。以下私のメルマガです。

縁は確実に繋がっている、そう確信する出来事がありました。昨年末あるホテルからカレンダーが届きましたが、そのホテルは北京には無く不思議に思っていると、このカレンダーをくれたのは、事務所の斜め向かいの会社にいたLさん。彼はこの会社を辞め、新しく北京に出来るそのホテルに転職。しかしトイレで偶に会い、笑みを交わすだけだった彼がなぜ??セールス??そこに本人から電話が。『実は私7年前は○○ホテルに勤めておりまして・・・』、あー、思い出した!!そうだ、彼、Lさんは7年前私が北京で開いた大学の同窓会のクリスマスパーティーをホテル側で仕切った人。道理で見たことがある。

彼の方も『トイレで会った時は思い出せなかったが、ホテル業界に復帰したら思い出した。』と。彼と出会った7年前、なぜ高級ホテルでパーティーを開いたのか??それは21年前に上海に留学した際、同時期に留学していた女性がセールスをしていたから。えー、あのOさんはどうしたんだ??彼女は当時パーティーのアレンジはしてくれましたが、その後産休となり、後を託されたのがLさん。この7年Oさんとも連絡していませんでした。

Lさんから早速アドレスを聞きバンコックのいると言うOさんにメールすると『1月にバンコックに来るなら会いましょう。但しその日北京に引っ越しますが。』と。驚いたことにOさんは何と私がバンコックにいる日に北京へ引越しするところ。何という偶然、しかもそんな忙しい時にも『午前中会いましょう、飛行機は午後ですから。』と言い、チャイナタウンを案内してもらいました(http://hkchazhuang.ciao.jp/chatotabi/thai/bangkok01.htm)。そして今では毎回北京のお茶会に7年前出産した息子と来てくれています。

そして先週末、地震災害への祈りを捧げるために、唐代からある由緒正しい法源寺に初めてお参りに行きました。その3日後、約1年ぶりにLさんと再会。法源寺の話をすると、何と何と彼は15歳からこのお寺で修行していたのです。しかも取り出したお寺の手帳を開くとそこにははっきりと『仏縁』と書かれていました。私がミャンマーに惹かれるわけが少しずつ解明されてきています。

 

法源寺を出ると横に中国仏教学院がある。ここでは20名の学生が仏教を学んでいる。どうりで法源寺の境内で若いお坊さんを見かけたわけだ。更に学院の横には何故か雑技団のオフィスもある。修行と関係あるのだろうか??

 

 

6.礼拝寺

輸入胡同という不思議な名前の道を通り(牛肉解体業者が軒を連ねている)、牛街に出る。この辺りにはイスラム式の食材を扱う『清真』のスーパーやレストランが並ぶ。大通りに『回民小学』と言う建物がある。牛街一体はイスラム色が強い。因みに牛街の名の由来はイスラム教徒が豚を食さないことから来たものではなく、この一帯に昔柳の茂る湖(柳湖)があったことから、柳(Liu)が訛って牛(Niu)となったと言う説があるようだ。

礼拝寺は996年にアラブの学者ナソルディンによって創建された北京最古のイスラム寺院。明の時代に礼拝寺と名付けられた。寺院の殆どは1442年に建造されたもの。寺院の裏には元代にこの地で亡くなった二人の伝道師、モハメド師とアリ師の墓がある。

元代には『色目人』と呼ばれたアラブ、ペルシャ商人が多く滞在していた。彼らと漢族、蒙古族が混血して回族が生まれたそうだ。回族は現在全国に700万人以上の人口を持つ。清真料理は豚肉の入らないあっさりした料理。22年前の上海留学中、外国人未開放地区などを通ると、食事は必ず清真であったことを思い出す。清潔であっさりがよかったのだろう。

入り口は小さい。中に入るとおじさんが『チケット?10元』と英語で声を掛けてきた。そして『日本人か、よーし』と何故か日本語が。カメラOKなど親切に教えてくれる。外国人慣れしている。恐らく一般の中国人は来ないのだろう。

本殿に向かう小道が素晴らしく綺麗。特に小雨が降る様子がよい。鮮やかな花壇。そこを抜けると伽藍があり、1273年創建の喚礼楼がそびえる。2階に上り四方に向かってコーランを叫ぶ場所だとか。

その前には礼拝殿がある。1000人を収容できると言われているが、残念ながら信者以外は入れないとのこと。一日5回のお祈りのときは大勢の人が集まるのだろうか??今はひっそりしている。因みにイスラムは男女の区別に厳しい。寺の後方には女礼拝堂が別途ある。

寺の入り口には物乞いの女性が二人。さも当然のように手を出してくる。イスラムは女性に厳しい社会なのであろうか??

 

 

 

《北京歴史散歩2008》(9)龍譚湖公園付近

【龍譚湖公園付近】2008年3月16日

いよいよ春到来。今日も朝から天気がよい。オリンピックのマラソンで世界記録保持者が大気汚染を理由に北京マラソン出場辞退、この衝撃か今日の北京は空も青い。散歩日和だ。

 

しかし北京歴史散歩の本も有名どころは大体歩いてしまった。さて、どうする??悩んでも仕方がない。歩いてもその後文章にする時間も無く、調べる時間もない状態。取り敢えず買い物ついでに1ヶ所行けばいいや。買い物はイトーヨーカ堂へ。一番近い東三環路の徑松橋辺りの地図を見ると西の方に龍譚湖公園の文字が。ここだ、さあ、行こう。

 

  1. 体育館路

タクシーで行けば直ぐだが、そこは散歩。基本は地下鉄。崇文門まで2号線、そこから5号線に乗り換え、天壇公園東門駅下車。西を見えれば天壇公園が見えたが、無視して??東へ。この道の名は体育館路。体育館でもあるのだろうか??歩いて行くとやたらとスポーツ用品店がある。人気のバドミントや卓球用具を売る店が多く見える。スポーツウエアーも多彩。多くの人が買いに来ている。本当に中国も余裕が出てきている。

 

そして体育館があった。入れてもらえるのかどうは不明であるが、外から見ると西洋風の建物。中はどうなっているのだろうか??その東側にも洋風クラシックな建物が並んでいる。よく見るとここは国家体育総局という役所。更には中国オリンピック委員会などという名前も見える。

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そうか、ここが中国スポーツの総本山か。今年は忙しいんだろうな。しかしこの由緒正しそうな建物は一体なんだったのか??1952-1955年の間にこの路は建設された。その際に体育館と北側に国家体育運動委員会が建てられる。その後総局は後に移転されたのだろう。

 

その先を南へ下るとそこは昔の北京。胡同が立ち並ぶ。しかもしっかりしたレンガ造り。かなりの歴史を感じさせる。名前も『幸福南里』という。幸せそうな雰囲気がある。天気がよいので老人を中心に皆外で日向ぼっこ。胡散臭そうに私を眺める。そうそうに退散。

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龍譚路に出た所には沢山の腕章を巻いた警備の人が??捕まるかと思うほど。その後も多くの警備の人々を見た。これは全人代のための警備か??昨日で終わったはずだが。それともチベット暴動への対応??遠すぎるような気もするが。

 

そこから直ぐの交差点、西側には北京遊楽園という遊園地がある。ここは昔からあるが一度も行ったことはない。日本企業が関係していると思うが、果たしてどんなところなのだろうか??天気のよい日曜日、バスが何台も入っていた。

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 2.龍譚湖公園

東側に龍譚湖公園の入り口がある。なかなか立派な門である。入場料2元。多くの人々が入っていく。龍譚湖公園は戦前墓地が点在していたという。二環路の外は城外という時代、この辺りは荒涼とした荒地であったのであろう。

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1952年市政府はこの地を開墾し、人工湖を作った。龍譚湖である。今では市民の憩いの場であり、毎年旧正月にここで盛大な廟会が開かれているという。墓地の跡、ということもあるのであろうか??

 

今日は天気もよく、人出が多い。社交ダンスをする男女、子供の遊び場では歓声が聞こえる。しかしなぜここで歴史散歩??実はこの公園の中に『袁崇煥廟』がある。袁崇煥は明末の英雄。満族ヌルハチの北京侵攻を防いでいる。この戦闘で負傷したヌルハチは後日亡くなっている。

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硬骨漢であっただろう。宦官に陥れられ、職を奪われたが、その後復職。ホンタイジ(ヌルハチの子)の北京侵攻の際も守り抜いたが、計略に遭い、猜疑心の強い明朝最後の皇帝崇禎帝により処刑された人物。その後この皇帝も李自成の乱で北京を占拠され、宦官一人を連れて故宮の裏山景山で首を吊った。その際さぞや袁崇煥を処刑したことを悔いたのではあるまいか??

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今日訪ねた公園内の廟はひっそりと、そしてこじんまりと建てられていた。殆どの人は気が付かず通り過ぎていく。廟内には袁崇煥の遺筆が飾られている。また康有為の書も数点飾られていた。康有為は恐らくはこの袁崇煥を手本の一人として、皇帝を立てながら国を守った人物を尊敬していたに違いない。

 

因みに民国初袁世凱が大統領になろうとした時、彼の出自を華麗にするため、同じ姓の袁崇煥の末裔であると名乗ろうとしたらしい。一部学者に袁崇煥を称えさせたことにより、この名前は復活した。奇妙な巡り合わせである。しかし最後は袁世凱も野望を果たせず死ぬ。

 

これだけ大きな仕事していた袁崇煥に対して、この廟は如何にも小さい。現代の中国人は彼についてどのような印象を持っているのだろうか??評価が大きいとはとても思えない。

《北京歴史散歩2008》(8)積水潭付近

【積水潭付近】2008年2月16日

旧正月が明けた。まだまだ寒いが、日中零度を超えるようになった。この頃天気が極めてよい。やはり青空は気持ちが良い。オリンピックイヤーだからだろうか??健康診断を受けた感じでは、体調管理が求められることになりそう。散歩の再開が不可欠となる。また最近中薗英助の『北京飯店旧館にて』を読み、老舎への関心も高まる。老舎の生家近く地下鉄積水潭駅へ向かう。

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1. 太平湖

老舎は1966年8月に文化大革命の犠牲となり、紅衛兵から暴力を受け、その後太平湖西岸に死体が上がった。未だに他殺か自殺か、真相は不明ながら文革の犠牲になったことは間違いない。今回読んだ中薗英助の『北京飯店旧館にて』では、老舎のような老北京人は自分から城外へ出て自殺することは考えられないとして、太平湖で死んだのであれば他殺であろうとしている。(一方『北京歴史散歩』ではこの死には抗議の意味があり、覚悟の自殺ではなかったかとしている)

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太平湖とは一体どこにあるのか??この湖は以前積水潭にあった城壁に沿った西にあったようだ。しかし老舎の死を隠すかのように1972年、地下鉄工事の影響で埋められてしまったらしい。いやよく調べてみると北京の地下鉄は何と1969年10月に2号線が開通している。資金の一部は例の日本のODAである。工事期間4年、文革中によくも工事が出来たものだと思う。それにしても40年も前に地下鉄があったことは意外である。そして何でこの2環路を回る線が2号線なのか??分からない。

今回積水潭駅で下車し、地上へ出ると、西側の護岸河は凍結していた。かなり長い河を端まで行ったが、その先は団地になっており、行き止まり。しかし近所の地図を見ると何と『太平湖』という文字が見える。そこまで足を伸ばすと『北京市地鉄運営公司』の敷地が見えてきた。中に入るとかなり古い建物もあり、ここが1972年に埋め立てられた所ではないか、と思われる。奥には線路の引込み線も見え、この辺りが湖であったのでは??何一つ往時を偲ぶ物はないが、何となくそんな気がした。

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そうか、地下鉄工事で埋め立てられたのではなく、地下鉄の会社の用地として使われたのだ。それにしても当時の北京、土地は幾らでもあったであろうに??不思議な気分はすっきりしない。長閑な休日の午前中、昔からここに住んでいると思われる人々が楽しそうに談笑していたりする。文革は今や昔の出来ことなのである。

2.西直門内大街

徳勝門西大街を渡り、高層ビルの建設現場の横を通り抜ける。道が工事によって複雑に蛇行している。その裏は昔ながらの団地、そこを抜けるといきなり西直門内大街に出た。そして目の前に教会が。

天主教西堂、北京には東西南北の名の付いた教会がある。その中では最も名前を聞かないのが西堂。4つの中で最後に出来た教会である。1723年創建。その後1811年、1900年(8カ国連合軍)に破壊され、現在の建物は1912年建造。

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土曜日のせいか、教会の門には鍵が掛けられていた。そして少し改修している様子が見える。この建物、一般の教会のようにシャープな印象は無く、どちらかと言うと公会堂のような横長。ちょっと不思議である。(てっぺんの尖塔系の鐘楼は既に取り壊されている)横の小門を潜るが何となく入ってはいけない雰囲気。教会は一般的に開放されているはずだから、きっと何かあるのであろう。

教会から東へ。明最後の皇帝、崇禎帝時代に宦官のトップ、太監に就任し、権力を欲しいままにした曹化淳が建てた曹老公観の跡があるはずであった。曹老公観とは巨万の富を築いた曹化淳自らを祭る廟である(正式名称は崇元観)。その権力が窺い知れた。曹化淳は明が滅ぶと李自成に(李自成に城門を開いたのは曹化淳)、李が倒れそうになると清朝に付くという稀代の身のこなしを見せた人物。

1769年に修復された後は衰退したが、ここの廟会は大規模なものであったらしい。民国時代には見る影も無く、1931年には国民党の陸軍大学となり、その後張学良の東北大学が瀋陽より移転してきて、その校舎として使われたという。因みに東北大学は当時の先進的な大学で男女共学、欧州留学制度など、近代化と愛国を理念とした。

 

歩いて行って見たが、通りに面した場所には何も無い。奥に入ってみるとそこには児童図書館と映画館の入ったビルがあったが、往時を偲ぶ物は何一つ無かった。やはり悪徳宦官のイメージが強いのであろうか??

3.老舎生家

新街口を南へ行く。一筋一筋丹念に道を確認していく。ない??地図にも載っていないこの胡同を探す。途中バックパッカーのためのゲストハウスなどもあり、この辺りにまで外国人が出入りしていることに驚く。

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小楊家胡同、あれっと言うほど小さい入り口にびっくり。表示が無ければ通り過ぎていただろう。鍵型に曲がるとそこにじいさんとばあさんが日向ぼっこしていた。老舎の生家を探したが、またまた通り過ぎる。住所表示がないのである。

辛うじてこの入り口に違いないと思えるところに当たる。写真を撮っていると後ろからじいさんがじっと覗く。ここに間違いない。箒がさかさまに立て掛けられている。何となく長閑な光景である。

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老舎、満州族。北京市井の作家。1899年生まれ。翌年義和団事件が起こり、父親は八カ国連合軍の攻撃から正陽門を守って戦死。母親は苦労しながら老舎を育てた。

学生時代に読んだ『茶館』は今のお茶好きの原点であろうか??日本軍政下の北京を描いた『四世同堂』、もう一度読み返そう。そんな気にさせる何気ない胡同であった。小楊家胡同は旧名を小羊圏胡同といい、昔は羊を飼っていたらしい(また入り口が小さく中が大きいことから羊の腸に似ているとの意味?)。生家の壁を越えて見える大木がその様子を見ていたのだろう。

 

4.梅蘭芳

新街口から護国寺街へ。寺はないらしい。しかし門前に小さなレストラン、商店が並ぶ。徳勝門内大街との交差点に梅蘭芳記念館と書かれた(鄧小平揮毫)立派な門を発見。門を潜ると梅蘭芳の胸像がある。

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梅蘭芳は祖父、父共に京劇役者。幼くして両親を無くしたが、胡琴の名手であった叔父に育てられ、11歳で初舞台、20台で既に名声を博し、1922年の溥儀の結婚式では清朝最後の余光を飾った。

日本も訪問している。1918年に帝国劇場で公演。歌舞伎役者との交流も展示されている。1930年代は拠点を上海に移し、愛国主義的な活動を展開。日本侵略主義に断固反対の態度をとる。チャップリンやバーナーショウなど多くの著名外国人との交流もあり、国際的な評価を得ていた。

解放後周恩来の要請もあり北京に戻り、故居に居住。自ら作品を作るなど精力的に活動した。晩年10年を過ごした四合院の旧居をそのまま展示室にしている。正面奥にはベット、机など生前使用していた家具がそのまま展示されていた。

尚徳勝門外大街の道を挟んで反対側には慶王府があった。ここは清末の愛親覚羅亦?の邸宅。現在は一般住居なのか非公開。

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1900年の義和団事件では李鴻章と共に連合軍と辛丑条約を締結。その後外務大臣、軍機大臣を経て、総理大臣も勤めた。但し彼は才能も品性も無く、賄賂を受け取っていた。東交民巷のHSBCに多額の資産を預金していたと言う。

 

 

 

《北京歴史散歩2007》(7)后海付近

【后海付近】2007年9月9日

実に久しぶりに歴史散歩に出た。元々の予定は今日から出張だったが、一日伸びた為時間が取れた。こんな日は良い事がある、と思い地下鉄で鼓楼へ。

 

(1)   竹園賓館

駅から旧鼓楼大街を南へ。右手に小石橋胡同がある。胡同の入り口に新しい牌楼があり、『竹園』と書かれている。何となく不思議。歩いて行くと通り過ぎそうな家並みの中に看板があり、竹園賓館が分かる。

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ここは四合院ホテルとして紹介されているが、それにしては大きい。かなり立派な人の屋敷だったはず。入り口正面の大木がそれを物語っている。古くは西太后お気に入りの大監(宦官の親玉)李英蓮、その後清末の大臣盛宣懐の屋敷だったと言われている。文革中はあの悪の大立者中央宣伝部長の康生が住んだと言われている。

 

服務台のある建物も少し物々しい。お姐さんは流暢な英語を話していた。日本語の解説もあるようだ。どう見ても外国人が泊まるところ。庭と庭の繋ぎは朱塗りの回廊。横には建物があり、レストランになっている。西洋人がゆっくりと粥をすすっていたりする。私も食べたくなったが、何となく場に合わない感じがして止めた??

 

回廊の奥左手に竹林がある。小道になっていて素晴らしい散歩道である。このホテルの名前がここから付いたことが分かる。更に行くが聴松楼。建物の前に松の大木があり、松の音を聞いて寝る、という風雅な名前である。

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素晴らしい庭園ホテルだが、宿泊代は780元、880元と高い。外国人料金だろうか。警備はかなりしっかりしていた。竹の林が美しい。海棠、石榴など木々に埋もれている。一度は泊まってみるか。

 

(2)   鐘楼と鼓楼

鐘楼に到着。急な階段が何とか上がり上へ。息が切れた。上には大きな釣鐘が置かれている。この鐘が朝夕北京に鳴り響き、城門の開閉を告げていたのだ。元の時代、鐘楼は大都の中心であった。万寧寺の中心閣があった場所である。

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1420年明の永楽帝の時代に創建され、1745年清の乾隆帝の時に改修された。北京の時計として日に108回鳴っていたというが、1924年に民国政府が溥儀を紫禁城より追い出し、鐘の音も聞こえなくなったという。

 

この鐘には伝説がある。永楽帝は鐘楼完成後、大きな銅の鐘の作成を命じたが、いくらやっても上手く出来ず、期限の最後の一日に親方の様子を見に来た娘が炉に飛び込むと、鋳上がったというもの。『鋳鐘娘々廟』が近くに建てられ、娘を祭っていたが、今ではその廟も見当たらない。

 

楼の下には何故か茶芸館がある。こんな所でお茶を飲む人がいるのだろうか??不思議な感じ。その南に鼓楼がある。大量の太鼓が展示されている。何故こんなに太鼓が必要だったのだろうか??外が良く見える。周辺の胡同が破壊されていく様子がよく見える。非常に残念な光景ではあるが、都市の発展とどちらが大切なのか、永遠に分からない謎なのだろう。

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1272年元代の創建。1420年鐘楼の建造と共に改修される。その後1900年の義和団事件に際しては日本軍の略奪に遭い、大太鼓が軍刀で切り裂かれたと言う。1924年に日本軍の略奪行為を展示した際には、悲憤の青年が飛び降り自殺したとのこと。当時の日本軍の侵略は北京にも大きな爪あとを残している。

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以前景山公園の頂上から見た風景を思い出す。故宮と反対側、北側を見ると故宮から真っ直ぐ北に一本の線が伸びている。その線上の中心に鼓楼と鐘楼が位置していることがよくわかる。都市計画とはこのようなものであろう。

 

(3)   広化寺

什刹海に出る。什刹海は西海、后海、前海からなる。元代は水路が繋がっており、物資がここまで運ばれてきていたため、商業の中心地であった。明代には水路が機能しなくなり、高官の邸宅が造られるようになった。名前の由来は什は十、刹は寺を指す事から、この辺りに10の寺があったらしい。

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しかし今寺はあまり見られない。后海の湖岸を歩いて行くと風は爽やか。柳も枝垂れかかり、気持ちのよい散歩となる。見ると獅子の像が2つ。寺があった。入れるのかなと覗くと入れた。こじんまりした造り。鐘楼と鼓楼あり。信者が熱心に祈っている姿が印象的。檀家以外は奥には入れない。

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広化寺は元代の創建。浄土宗。ある僧が一生かかって托鉢を行い、その喜捨で建てられたといわれる。仏教の教えを広めたと言う意味で名前が付けられた。現在は北京市仏教教会の本部になっている。

 

1908年に張之洞(洋務派官僚として重要な役割を果たし、曽国藩李鴻章左宗棠とならんで、「四大名臣」とも称された)がここに京師図書館を設立。清朝皇家蔵書、敦煌石室写経など10万冊の蔵書が集められたが、洋書は禁書となる。

 

(4)   宋慶齢故居

醇親王府がある。非公開、現在は衛生部が使用しているらしい。その庭園部分が宋慶齢故居になっている。醇親王は清末の混乱期に摂政を勤めた人物であり、あのラストエンペラー溥儀の父親である。

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溥儀はここで生まれ、皇帝となり、皇帝を退位し、故宮から退去した後、1924年一時的にここに戻ってきた。宋慶齢は1949年に建国以降、1981年に死去するまでずっと北京に住み続けた。この邸宅に住んだのは1963年から亡くなった1981年まで。慶齢は自らの住居を建てようとする共産党幹部に対して何度も断ったという。最後は1962年に周恩来が自ら場所を選定し、引越しを促した。

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厳しい門を潜ると兎に角広い。公園のようだ。庭が整備されており、綺麗。築山あり、池あり、水は后海から引いている。流石は国歌名誉主席の家に相応しい構えである。四合院造りの3棟の建物に展示物がある。宋家については言うまでも無いが、上海の財閥。3姉妹はいずれも歴史に大きな役割を果たした。特に慶齢は国父孫文の妻として、その役割は重要。好きだった鳩を沢山飼っていた彼女、平和への思いも深かっただろうか。

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展示室には彼女の歴史が表示されている。1949年の建国では天安門で毛沢東と並び、1954年にはダライラマと撮った写真もあった。しかし文革中の展示は何も無い。どうしていたんだろうか??主楼は慶齢が住むのに合わせて、あの変法維新のメンバー梁啓超の息子で著名建築家である梁思成が設計。外見は中国伝統建築、中に入れば洋風の内装。見事な折衷である。1981年5月に亡くなった時、私は大学に入学したばかり。台湾に渡った妹美齢(ニューヨーク在住)が中国の葬儀に出席するかが大きな注目を集めていた気がする。

 

(5)   高廟と李橋

后海南沿に回る前に西海に行ってみた。橋を渡ってすぐの所に高廟と呼ばれた明代の関帝廟があるはずだった。しかしいくら探しても見つからない。既に取り壊されたらしい。印刷工場になっているとの情報もあったが、見当たらない。付近は昔ながらの胡同の雰囲気が残っているのだが。

 

高廟は1860年のアロー号事件の際、イギリス人ハリー・パークスが幽閉された場所である。パークスは英仏連合軍の交渉役として北京にやってきたが、交渉が決裂。清朝軍に捕まってしまう。後に釈放されるが、英仏軍による円明園略奪などを引き起こした。

 

パークスはモリソン号事件で知られるモリソンから中国語を学び、中国侵略の尖兵となった人物。13歳で清にやってきて苦労を重ね、最後は駐日公使、駐華公使を歴任。立志伝中の人物と言える。

 

(6)   茶家傳

南沿に戻る。大好きな紹興レストラン、孔乙己の2号店(10年前に開店)がある。なかなか雰囲気のある店であるが、遠いので殆ど来ていない。后海を眺めながら、紹興酒を飲むのも乙なものか。

 

その横にお洒落な6角形の建物が見えてくる。茶家傳、有名な茶芸館である。中に入ると広々とした空間があり、九官鳥が迎えてくれる。木製のテーブル席あり、心地よさそうなソファーあり、個室も大小あって、顧客の嗜好に合わせている。ソファーに寝転んで本を読んでいる西洋人がうらやましい。お茶は種類が多く、質もそこそこよい。お茶を頼むとお茶菓子6種類が付いてくる。休日の午後、何も考えずにここで寝転がっていたい。お茶の香りに触れながら。

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尚店内には多くの骨董品が置かれている。店員に聞くと、『オーナーの趣味が骨董で、元々この店も骨董を置くための倉庫として建てた』とか。なるほど、商売でやっている雰囲気があまりないわけだ。

 

のんびりした後、裏へ歩いて行く。柳萌街、柳が風に揺れ、緑が多い。ここも気持ちがよい道であるが、何しろ人手が多い。そしてやたらに人力車もいる。何だこれは?柳萌街は1965年以前李広橋と呼ばれていた。李広とは漢代に匈奴と戦った将軍李広とは関係ない。李広とは明代孝帝の寵臣であり、太監となった人物。孝帝は幼少の頃不遇であったようで、その際李広の世話になったらしい。ところがこの人物、金の亡者であくどいことをかなりやっていた。後宮では有名であったが、皇帝は気が付かず、また気づいてもなかなか関係が改善できなかったとか。

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1498年、今の景山公園の頂上に李広の指示で亭が設けられたが、この時偶然皇帝の愛娘が亡くなり、これを李広の非として、彼は毒をあおって死んだ。死後家を調べた所、金銀財宝が山のように出て来たという。李広橋は1488年に作られたが、庶民はこの橋を渡るのに、料金を徴収されたと言う。これも悪徳李広の評判を悪くしている。

 

(7)   恭王府

中国の有名小説紅楼夢の舞台となった大観園のモデルと言われている庭園がある(紅楼夢の作者曹雪芹の死後庭園は出来たらしいが)。元は乾隆帝の寵臣として富と権力をほしいままにした和珅の邸宅。1777年建造。乾隆帝の死後(1799年)即位した嘉慶帝は即座に和珅を汚職の罪に問い、自殺。巨万の富が蓄積されていたと言う。邸宅は没収。清の道光帝の第六子恭親王、愛親覚羅亦訴に下賜され、改造されたもの。

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恭親王は清末に西太后と組んで、政治・外交に支配力を発揮した人物。この庭園も外国施設の接待用に中西混合の造りとなっている。正面の門を見ると石造りのアーチ型、ギリシャ風の円柱、唐草の装飾と言った感じ。

 

その後孫の溥偉が相続、清朝が倒れ、1921年に西什庫教堂から借金をした際、担保として差し出される。1932年にはローマ教会が買い取り、溥偉の借財を返済、カトリック教会主導の私立学校、輔仁大学の所有となった。因みにこの輔仁大学は戦後台湾に渡り、現在は台北にある。また北京時代の学校の跡は、恭王府の直ぐ南に重厚な建物が存在している。

 

入り口には中国各地からやって来た団体さんが屯している。入場券を持って列の後ろに付く。中に入ると正面を登る。独楽峰、孔の開いたぶつぶつの石が配置されている。この山を越えると池。純中国風。さすが中国最大の王府と言われるだけあり、内部は実に広い。山水がふんだんに配置され、花園もいくつもある。

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奥に福字祠と言う半地下洞があり、中には康熙帝直筆の『福』の字を刻んだ石碑がある。1962年周恩来の指示で改修した際、発見された。康熙帝の書は極めて少ない上に福の字は縁起がよいことから好まれているらしい。現在は洞の中に入り、滝のように流れる外を見ることが出来る。

 

《北京歴史散歩2007》(6)日壇公園・東嶽廟付近

【日壇公園・東嶽廟付近】2007年12月22日

いよいよ今年も終わりに近づいている。今日は冬至。中国では餃子を食べる習慣があるそうだが、旧正月も食べて冬至も食べるのか??

天気はさほど良くないが、風も無く歩き出す。ちょっと肌寒いが、気候温暖化のせいか例年の寒さはない。ただ空が暗い。自宅内の街路樹は全て枝を切られ、寒々としている。家の直ぐ近くの日壇公園を目指した。

1. 日壇公園
家の周りは大使館街。アメリカ大使館の前には自動小銃を持った警備員が。日本大使館の前も二重の柵が巡らされ、昨今の国内情勢を反映している。ゆっくり歩くこと10分、公園南門に到着。この門の並びにはいくつかレストランがある。日壇会館は立派な建物で、中庭が素晴らしい。ここで食事を取ると気分が高揚する。但し今は冬、人は誰もいない。

その隣の中国芸院は広東料理。かなり香港に近い味で広東語も飛び交う。大使館勤務の西洋人の姿も多い。飲茶が手軽。更に行くと和平茶苑。ここは中国茶を飲むスペース、食事も可能。お茶を飲みながら、公園を眺めるのも一興。家具は骨董。地下には骨董品が多数展示されており、オーナーの趣味が分かる。

公園の門の前には自転車が多数。老人が乗ってくるのだろう。日壇公園は1530年建造。明・清両時代の皇帝が春分の日の朝、太陽神を拝むために作られた。当時の名称は『朝日壇』。太陽神を拝むことで五穀豊穣を祈願したのだろう。一般庶民には無縁の場所だったのだが(当然当時は街の外で人もまばらだったのでは)。

国共内戦で公園は荒れ果てたと聞く。1950年代に改修し現在の名称になり、庶民の公園となる。70年には周恩来首相の指示によりここに日中友好の大山桜??が植えられた。どこにあるのだろうか。

中に入る(無料)と目の前に旗を揚げる台がある。真っ直ぐ進むと皇帝が参拝した様子を描いた鮮やかな壁画がある。左に曲がって進めば、池が凍っている。その上を人々が散策??している。冬の北京である。池の周りには東屋が配置され、風景を眺めながらゆっくり出来る。

公園中央に祈りを捧げる場所がある。四角く区切られた真ん中に拝台がある。しかし特に何もない。祭壇と思しき四方の台が10段ほどの階段に上げられて中央にあるだけ。ここでどのような儀式が行われたのか??思いをはせるものは何もない。やはり破壊は恐ろしい。

 

隅っこの方で数人のおばさん(中にはおじさんも)が何かを話し合っている。こんな所で会議でもあるまいし、と思ってみていると、一人が何か紙を取り出す。また一人は写真のようなものを取り出した。一体なんだ??

どうやらこれが噂の親による息子、娘の結婚相手探しらしい。結構皆真剣である。昔は皇帝の祭式で使われた神聖な場所?で相手を探す。ご利益があるのかも知れない。それにしても寒いのにご苦労さんなことだ。

東側には神庫が残っており、祭器等が収納されているのかもしれないが、今はそれを知るすべもない。北門の近くには小王府という私のお気に入りのレストランの2号店が綺麗な概観を見せている。

 

 

2.東嶽廟

公園東北の角から北京八景の1つ『金台夕照』を探すが全く分からない。著者によれば八景のうちその場所が全く分からないのは『金台夕照』だけらしい。ところが08年に入って、東三環路に新しく開通する地下鉄10号線の駅の1つに何と『金台夕照駅』が出来る。どういうことだろうか??

北に向かい朝陽門外大街に出る。小雨がぱらつく。道の南側に『永延帝祚』と書かれた楼牌が見えた。これは新しいものであろう。その南側は既に開発が進んでいるようで、広い道になっている。

その楼牌の正面に東嶽廟の正門がある。東嶽廟は1319年道士張留孫の創建と伝えられる。華北地区最大の道教廟。清の康熙帝時代に火災にあって再建。歴代皇帝が東陵に墓参に行く際、ここで昼食を取ったらしい。

中に入ると正面大斎殿には五嶽大帝が祭られている。周囲の伽藍には76の塑像が新たに作られ、収められている。とっても一つ一つ見ることは出来ないが、自分の気に入ったところで皆立ち止まり、拝んでいる。お金に関係ある神さまに人気があるらしい。一番霊験あらたかなのは南宋の岳飛を祭ったものであるらしい。

 

寿槐という樹齢800年以上の古木もある。冬枯れの木々であるが、それはそれで趣がある。乾隆帝、康熙帝などの碑もあり、なかなか面白い。また日本で言うところの絵馬がある。赤い札であるが、沢山括り付けられている。ここには学問の神様文昌帝も祭られているようで、合格祈願が中心。清代は科挙の試験場が近いこともあり、試験の時には賑わったとか。

毎月1日と15日、3月の15日から半月はご開帳があって賑わったと言う。現在もあるのであろうか??

3.日本人墓地

東嶽廟を東へ行く。東大橋路の先で道が二つに分かれている。朝陽北路を行く。核桃園という所を入る。ここに戦前日本人墓地があったらしい。現在はかなり古いアパートが立ち並び、墓地の面影など全く感じられない。

 

著者によれば、ここに中江兆民の子、中江丑吉の墓もあった。彼は30年余り北京に住み、中国古代思想史の研究に没頭稀有な人。五四運動時に焼き討ちされた旧知の曹汝霖を助けに来て、たまたま当時の駐日公使、章宗祥を助けるなど、その行動は極めてユニークであった。それにしても戦前一体どれほどの日本人が北京には住んでいたのだろう??

今では考えられないほど、日本と中国は緊密であり、人的往来も激しかった。満州浪人のような一旗挙げるための人も大勢いただろうし、駐在員も居ただろう。そしてこの地で亡くなった人も多かったはず。我々はもっと彼らのことを知る必要がある気がする。

 

アパートは一部取り壊されたのか、道に面した一角が公園になっていた。そこになにやらモニュメントがあったが、ハングル語で書かれていてよくわからない。もしかするとこれが墓と関係あるかもしれないが、これ以上墓を暴かないで、と言われているような気がして、早々に立ち去った。