「アジア旅」カテゴリーアーカイブ

マカオ歴史散歩2004(2)大三巴とモリソン教会

【ルート2】2004年11月7日

前回のマカオ散歩で『マカオの方が香港より歴史が感じられる』ことを実感した。何とか時間を作ってマカオを再訪した。

(1) 恋愛巷

マカオフェリーを降り、バス停へ。さて、今日は何処に行こうか?バス停から出ているバスで一番簡単に行ける所はリスボアホテルか新馬路であろう。新馬路のセナド広場へ。新馬路はマカオで最も賑やかな場所であり、セナド広場はその中心。今回はセナド広場の北側、大三巴街を起点に歩くことにする。石畳の道を歩いて行くと気分はヨーロッパ。そして聖パウロ天主堂跡の真横に恋愛巷がある。

その巷は恋愛とか恋人とか言う言葉はあまり似つかわしくない、何の変哲も無い10数メートルの路地である。建物は古いが特に特徴的でもない。普通の家として使われているようだ。

しかし少し上を見上げるとそこには空を覆うように聖パウロ天主堂が迫ってくる。この迫力は何であろうか?あの薄っぺらい、ファザードだけの聖パウロ。ところが横から見るとぜんぜん違って見えるから不思議である。

恋愛巷を登って行くと丁度ビデオ撮影が行われていた。私が下から写真を撮っているのを見てカメラマンは興味を示したようだ。じっとこちらを見つめていた。やはり魅力的なのだろうか?

(2) ナーチャ廟・旧城壁

聖ポール天主堂の横をそのまま抜けると、目の前に低い城壁が見えてくる。城壁というより村を囲む壁のようなものだ。1569年に明朝からの攻撃を防ぐ為にポルトガル人によって作られたもの。その後度々破壊された。実際出入り口になっている小さな潜り門を入ると何軒かの家が見える。そして直ぐに下り坂となり、天主堂の裏に抜けている。

その潜り門の前にナーチャ廟がある。かなり小さい廟である。中には那侘王子の像が安置されている。当日も老婆が2人、中でおしゃべりしていた。孫が中を覗きこんで何か騒いでいる。和やかな風景だ。

ナーチャは母親のお腹の中に3年半いたという伝説の子供。ナーチャ廟とは子供の神を祭る。1901年に建造され、現在世界遺産に申請中と言う。

(3) 聖アントニオ教会

大三巴街に戻り石畳を歩く。両側に古い住宅が並ぶ。5分ほど歩いて少し右に曲がるとそこに厳かな教会が見える。聖アントニオ教会。ポルトガル人が入植を始めた1558年頃この場所に小さな教会が建てられたのが、マカオの教会の始まりという。

現在の建物は1930年に大改修が行われたもの。建物の左端に1875年に再建されたことを示す石刻もある(1874年に台風による落雷で焼失)。石造りの建物は非常に落ち着いた印象を与える。この教会は『花王堂』と呼ばれている。聖アントニオは婚礼を司る聖人として崇められており、花嫁が頭に花王を被ることからこの名称が付いたとも言われている。

教会内はこじんまりしているが、なかなか雰囲気がある。日曜日の礼拝には多くの信者が訪れており、歴史が感じられる。きっと結婚式を挙げるカップルも多いのではないだろうか?(勿論信者のみで、ハワイの教会で式を挙げる日本人のようなわけにはいかないだろう)

(4) カモンエス公園

聖アントニオ教会を出ると前に木々が茂っており、公園の入り口が見える。ルイス・カモンエス、ポルトガルを代表する詩人。彼の名を冠した公園で1885年より政府の管理下に入っている。

カモンエスは1524年頃にリスボンで生まれ、早くから国王の賞賛を得ていたが、宮廷内で恋愛事件が発覚し追放される。その後アフリカ戦線に従軍したが、目を負傷。1552年にリスボンで戻るが殺傷事件を起こし入獄。出獄後1553年から1569年頃までアジアに滞在していたと言われており、叙事詩『ウス・ルジアダス』をアジアで書いたことはほぼ間違いない。公園の石碑にも1556年にマカオに滞在していたとなっている。1580年没。

公園を入り、噴水・モニュメントを越えて階段を上がる。左手を行くと羅漢松という名の見事な松がある。そこを更に登ると大きな岩のぽっかり空いた空間に1866年に建てられたカモンエスの胸像が置かれている。台座には彼の叙事詩が刻まれているようだが、当日は老女が数人、音楽をかけて踊りの練習をしていた為、近づくことが出来なかった。

 胸像のある場所の反対側には大きな岩があり、そこにはカモンエスについて刻まれている。ポルトガル語で書かれているものが多く、HO太(家内)がいればなあ、と思う。

この公園には見晴台のような高台もあり、木々も多く、快適。高台から降りると子供が遊ぶ空間がある。その横の芝生に石像が見える。金大建神父。韓国人初の神父で1837-42年にマカオに滞在。その後韓国に戻り、1846年に殉教した。(聖アントニオ教会内にも像が飾られている)

今ソウルを訪れると高速道路から十字架を掲げた教会を多く見ることが出来る。韓国のキリスト教もこのような殉教の歴史の上に成り立っていたのである。

 (5) カーサ庭園

カモンエス公園の隣に『東方基金会』と門に書かれた由緒正しい建物が見える。門を潜るときれいな庭がある。門番に入ってよいかと尋ねると『勿論』と笑顔で言われる。しかし中には誰もいない。何故だろう?こんなに静かで気持ちの良い場所なのに?

カーサ庭園は18世紀後半にイギリスの東インド会社がイギリスから庭師を呼び寄せ、アジア各地の植物を植えて、イギリス風庭園を造園。同社の船荷監督委員会本部を置いた。船荷監督者が住んだ邸宅が見の前に広がる。

1600年に設立された東インド会社は中国との貿易を希望していたが、1757年乾隆帝の時代に広州に限り年2回交易が認められた。広州交易会の始まりである。カーサ庭園に東インド会社が拠点を構えたのはそういう時代である。当初は中国茶の輸入が中心であったが、その後アヘンの密輸が主となり、やがてアヘン戦争に繋がって行く。

アヘン戦争後、香港が英国領となり、貿易の中心として繁栄して行くのと比例してマカオの地位は低下して行く。東インド会社は1835年にカーサ庭園から転出、同じ年に聖パウロ天主堂が火災で焼失している。

庭園は1885年に政府の管理下に入り、マカオ文化、歴史保存の為の援助金を管理する東方基金会が事務所として使用していた。現在は現代アートなどを展示する部屋がある。

(6) モリソン教会

カーサ庭園の横にマカオ唯一のプロテスタント教会、モリソン教会がある。1814年創立。かなり小さな教会の建物の前には、丁度日曜日の礼拝を終えた信者が紅茶を飲みながら立ち話しをしている。邪魔しないようにお墓の方に行く。

 教会の横の坂を降りると、裏庭のように墓地がある。上の段は花壇が整備され、整然と並んでいる。見ると1850年頃にマカオで亡くなった西洋人たちである。1850年というとポルトガルがマカオの植民地経営色を強めた頃である。関係があるのだろうか?

一番奥にイギリス人画家、ジョージ・シナリーの墓がある。かなり大きい。下の段には芝生が敷かれ、様々な墓石が置かれている。一番右の端にロバートモリソンとその家族の墓がある。モリソンは1782年にイギリスに生まれ、ロンドン伝道会により中国に派遣された。

モリソンと言えば日本史では何といっても『モリソン号事件』に名を留める。モリソンの名を冠したアメリカ商船は1837年日本人漂流民7人を乗せて浦賀沖に現れるが、異国船打ち払い令により砲撃を受けた。このモリソン号はマカオを出帆し、そしてマカオに帰港している。(因みにモリソンは乗船していない)

モリソン号事件はその後日本で蛮社の獄を引き起こすなど歴史に大きな影響を与える。高野長英、渡辺崋山はモリソンの名前を聞き及んでいたと言う。

尚モリソン号に乗船していた日本人漂流民達は何れも船が難破して漂流した者たちで帰国を心待ちにしていただけに祖国の仕打ちに絶望感を味わったと言う。尾張の国の住人、音吉、岩吉、久吉の三吉はモリソンの弟子、ギュラッツの指導で新約聖書の日本語訳をしたといわれている。

吉村昭の『アメリカ彦蔵』という小説では、岩吉は寧波に住み清国女性と結婚したが、清国人に殺されている。音吉は上海でイギリス商館の支配人をしており、インド人の妻を娶って裕福に暮らしている。久吉も上海で清国人と結婚、役所に勤めている。モリソン教会は白を基調とした爽やかな建物。この庭に立ち、歴史を思うのは実に楽しい。

マカオ歴史散歩2004(1)モンハの丘と孫文

【ルート5】2004年10月10日

香港歴史散歩を始めて1年になるが、実際に歴史的な建物が残っているケースが非常に少ないことに不満を持っていた。ある時ネットで『マカオ歴史散歩』なる本が日本で出たことを知る。入手してみるとこちらの方が歴史を感じさせる。元々カジノなど夜のマカオというイメージに違和感を持っていた私は『朝9時集合、マカオ歴史散歩』というテーマで歩いてみることにした。

(1) 観音堂

 

美副将大馬路。マカオ3大寺院の1つ。リスボア付近の喧騒とは無縁、静かな環境。正門の前には物乞いのおばあさんが3人、何故か楽しそうにおしゃべりしている。門を潜ると目の前に3つの堂が広がる。

1672年に建設されたこの観音堂には歴史的を感じさせる大木がある。堂に入ると手前に続いて中、奥と3つの建物がある。手前の2つには仏陀が、奥の部屋には美しい衣装を纏った観音様が祭られている。本堂には中国の十八賢人の像が並んでおり、その中には『東方見聞録』のマルコポーロといわれるものもある。各場所には大きな渦巻き線香が上から吊り下げされ焚かれている。お寺の人が和やかに談笑している。

 

これだけ大きな寺であるが、観光地とは無縁。広々とした中での静寂さが実に素晴らしい。堂の屋根には陶製の人物・動物の飾りが多く置かれており、日本の寺を思い出す。

またこの観音堂の裏庭は歴史的な場所でもある。1844年アヘン戦争に敗れた清は、イギリスとの南京条約に続いてアメリカと望廈条約を結ぶ。その条約締結の場所がこの裏庭。現在も石のテーブルと椅子が残されている。望廈とはこの堂の裏のモンハの丘のことである。高校の世界史の教科書で見た記憶があるが、マカオでの調印とは意外であった。

 

(2) 観音古廟
観音堂の道を北へ向かう。道の対面にはかなり古い建物がある。マカオは香港と異なり建物が残っている。歴史が感じられる。

モンハの丘に登る坂の所に観音古廟がある。小観音廟と呼ばれており、明代中期に起源がある。廟は非常に古く、中は狭い。実に庶民的な廟である。

 

(3) モンハの丘
観音古廟の横の道を登る。少し登ると学校の入り口が見える。間違ったのかなと一瞬思うがそのまま進む。観光学校、そしてホテルを横に見て、モンハ公園へ。更に急な階段を登るとそこに砲台入り口が見える。

 

アヘン戦争後、中国との関係が悪化したポルトガルはマカオが侵略されるのを恐れ、1849年ここに砲台を設置。大砲は中国大陸(珠海)の方を向いている。難攻不落と言われた要塞であったが、その後兵士の宿舎として使われ、1975年のポルトガル軍撤退に伴い、公園となった。現在はおじいちゃんが孫の手を引いて登ってくるほのぼのとした公園である。

(4) 蓮峰廟

公園の北側を降りると蓮峰廟がある。モンハの丘は南の観音古廟と北の蓮峰廟に守られた形になっている。丘が蓮の花の形をしていた。

1592年に創建された蓮峰廟はかなり広い敷地を持つ、マカオ一美しい仏教寺院。現在の建物は1875年のもの。庭には大きな木があり、安らぎを与えてくれる。寺の入り口には精巧な彫り物もある。

清代には商人の揉め事を審議する場所として使われた他、中国の役人の宿泊先として使われており、林則徐なども宿泊している。

敷地内にはそれを記念して1989年に石像が、1997年には林則徐記念館も建設されている。

1839年9月欽差大臣となった林則徐は広州よりマカオに入る。珠海との国境は現在の場所よりやや南に位置していた。直ぐに蓮峰廟に入り、マカオ駐在ポルトガル人よりアヘンの状況について尋ねている。

 

記念館の係りの女性に聞いてみた。『アヘン戦争の時にマカオでは戦争はありましたか?』『いいえ、ありません。マカオはポルトガル領でしたから。』ところが調べてみるとマカオには早くからイギリスの東インド会社が支店を作っており、大規模なアヘン売買を行っていた。林はアヘンを扱うイギリス商人をマカオから追放、1840年6月にはマカオ、中国の国境で戦闘が行われ、アヘン戦争の火蓋が切られている。

尚アヘン戦争後、イギリス他の侵略を恐れたポルトガルは従来の中国依存の統治を改め、海軍将校のアマナルをマカオ総督に送り込む。アマナルは華人を圧迫したため、1849年蓮峰廟にて、農民に刺殺される。現在もその石碑が残されているという。

(5) 紅街市

蓮峰廟の前の道を10分ほど歩いて行くと紅街市がある。風格を備えた赤レンガの建物。例えて言えば『マカオの築地』。市場は2階建て、野菜、果物、肉、魚何でも売っている。香港同様最近は大型スーパーに押されているのか、昼下がりの時間帯のせいか、人影は疎ら。

但し市場の西側の狭い路地には小売の屋台が軒を並べておりこちらは盛況。野菜の値段など香港と比べるとかなり安い。

(6) 龍華茶楼

紅街市の横に古ぼけた3階建ての建物がある。壁に龍華茶楼の文字が見える。ここがマカオで唯一残ったといわれている伝統的な茶楼である。階段を上がると懐かしい空間が広がる。高い天井、大きな扇風機、背もたれのある4人掛けの椅子、テーブルの上には年季の入った茶器。朝は鳥籠を持った老人が大勢い訪れるのであろう。しかし今は午後2時半、席に座ったものの店員は誰もこない。よく見るとお客もいない。

 

帳場にいるおじさんに聞くと『今日はもう終わった』という。『写真撮っていってもいいよ』と顔に似合わず優しい声。きっと写真を撮りに来る人が多いのだろう。最後に日本人だと告げると、笑顔になった。茶を飲まなくても十分堪能した。
尚点心の値段は1つ数元と格安。全てが昔のままなのであろう。

 

(7) 七賢

紅街市の横、高士徳大馬路を渡り横道に入る。群隊街、そこは街市の外マーケット。野菜、肉、魚、小売をしている。街市には人がいなかったが、ここは大勢の人々で賑わっている。昔懐かしい駄菓子のような物も売っており、子供が母親にねだっている姿が非常に懐かしい。道咩卑利士街を左に曲がるところに麺屋がある。腹が減る。鶏蛋麺、いい響き。10元。美味い。店の名前は七賢。何でこんな名前なのか?それは少し歩くとわかる。

 

 

左側に古びた門が見える。壁も古い。門には七賢とある。門を潜ると竹が茂る。そうか、竹林の七賢か。奥に進むと丁度坊さんが経をあげている。かなり賑やかである。祈ってもらっている親族が頭を下げている。ここは庭園としても整備されていて、小さいながら心地よい場所となっている。

(8) 盧廉若花園

盧利老馬路を行く。数分歩くと大きな、高い塀に囲まれた公園に出る。盧廉若花園(ロウ・リム・イオック庭園)である。伝統的な蘇州様式庭園。1870年に中国の豪商盧九がこの土地を購入。長男の盧廉若が庭園を完成させた。

その後一族は衰退し、豪商何賢が購入。1973年に庭園と邸宅は政府に売却された。庭園部分は政府により修復され公園として一般開放されている。邸宅部分は道の反対側で学校として使われている。(この学校の建物がまた趣がある)

庭園は大きな蓮池を中心にして竹山や東屋がある。蘇州で見た幾つかの庭園をかなり小型にした感じ。奥には中洋折衷の建物があり、中では山水画の展示会などが行われていた。

50年まには周りに高い建物が無く、かなりの遠くの松山辺りからもこの庭園が良く見えたというが、今では建物に囲まれている。

 

(9) 国父記念館
盧廉若花園から程なく、国父記念館、または孫文記念館がある。孫文はマカオで医者とした勤務した経験があり、それを記念して後に遺族が建てた物だと言う。1930年代の建築で北アフリカのムーア式。2階のベランダが非常に広く、独特。

1階には資料が展示されており、若き孫文が香港の西医学院で天下を語る4人組を形成していた頃の写真などがあり興味深い。2階は寝室、バスルームなどが残されている。

当日は10月10日。93回目の辛亥革命の記念日(双十節)である。当記念館でも午後1時から庭で記念式典が行われていた。庭には孫文の石像があり、青天白日旗を背後に張り、参加者全員が国民党的な3礼を行っているのには歴史を感じた。

 

ヤンゴン散歩2014(2)変化するヤンゴン

3.ヤンゴン

変化するヤンゴン

空港にはSSと婚約者が迎えに来てくれた。空港の外に出ると。1年半前より遥かに広告の看板が増えている。ミャンマー企業より外国企業が目立つのはそれだけミャンマーが外から注目されていることを示しているのだろうか。

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夕方市内に向かう車は多く、渋滞が発生していた。タクシー、と書かれた車がかなり増えている印象。聞けば正規のタクシー車両が増えているのであり、従来の白タクが減っているらしい。またその車体が妙にきれいだ。『ミャンマーは車を外国から輸入しなければならない。これは相当な利権である。もし新車を入れると税金がバカ高いため、出来るだけ新車に近い中古車が好まれる』からだそうだ。

 

因みに市内の至る所に、カーディラーの展示スペースがある。車の数より遥かに多いのではないか、との冗談が出るほど、車を買う人が増え、取引する人も増えている。ヤンゴンは僅か1年半で相当に変化していた。

 

ホットポット

ヤンゴンのホテルは急激に値上がりしている。1年半前に泊まったホテルを予約してもらおうとしたが、何と50ドルが80ドルになっていた。これではもったいないと思い、安いホテルをお願いした。1泊40ドル、朝食付き。このホテルならトートーマさん(TTM)まで歩いて行ける。部屋も見た感じは悪くない。どうやらミャンマーの地方からヤンゴンに出てきた人が泊まるところらしい。外国人もいたが、殆どミャンマー人だった。これもミャンマーの流れの一つだろうか。

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先ずは結婚式に使うケーキを予約しに行く。ヤンゴンにこんな立派なケーキ屋があったのか、と思うような場所だった。所謂ウエディングケーキが並んでいた。近年ヤンゴンの結婚式もどんどん派手になっていく。

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実は明日はSSの誕生日。ここは父親代わり?の私がケーキを買ってお祝いすることに。皆で食べるので大きなケーキを注文したら、何と日本円3000円ぐらいした。これはもう値段が日本に近づいてきている。そんな値段でも周囲のミャンマー人もいくつも買っている。この国には『金持ちと貧乏人しかいない』という言葉が頭から離れない。どうやってこんなお金を稼いだのだろうか。

 

夕飯はもう定番となった火鍋、ホットポット。これは10年以上前から私がヤンゴンに来た時に必ず食べる物。なぜならSSが大の好物で他の物では承知しないのだから。火鍋屋もどんどん豪華になっていく。そしていつも超満員。

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味が落ちるとすぐに潰れるとの話もあった。確かに味は悪くない。店員のサービスもきびきびしている。昔の薄暗い、あのダラダラした雰囲気はない。勿論素晴らしいことだけれど、どこかミャンマーっぽくない。

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ホテルに戻る。WIFIもちゃんと繋がる。この変化は喜ばしい。だがこれも以前のミャンマーではないと思うとどこか寂しい。昔はネットも繋がらず、携帯もなく、逆にここに来れば全てから解放された気分があった。どんなに忙しい人でもリラックスできた。でも今は。そんなことを考えながら寝ていると虫に刺されて痒い。寝ることに集中できなくなっていた。

 

ヤンゴン散歩2014(1)バンコックでビザを取る

《ヤンゴン散歩2014》  2014年2月6日-10日

 

とても好きだけど行く機会がない国が2つある。台湾とミャンマーだ。特にミャンマーはバンコックからすぐなのに行くことがない。そう思っているとある日Facebookでスス(SS)からメッセージが入る。『2月28日に結婚式をしますので来てください』、とうとう年貢を納めたかと微笑ましく思ったが、これを受け取ったのは1月も終わり。指定されて日は横浜でお茶会の予定が入っている。さて、どうするか。

 

予定は変更できないので、『とくにか顔を見に行く』と返事すると『2月7日に入籍の式がある』という。しかもその日はSSの誕生日でもある。これは行かざるを得ない、と言うことになり、突然夜中に航空券を予約する。あまりに急だったので、何も考えずにエアアジアにしてしまった。だが後で聞くと、今やヤンゴンへは、ミャンマーのLCCすら飛んでいる。1年半の間にヤンゴンはかなり変わっているのだろう。楽しみだ。

 

1月31日(木)

1.ビザ

インドから戻ってすぐに、ミャンマービザの申請に行く。過去数回のミャンマー訪問ではビザは基本的に香港、1度だけ東京の大使館に出向いたが、バンコックで取ったことはなかった。朝は混むと聞いたので、11時頃、BTSスラサック駅近くのミャンマー大使館に行く。

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申請用紙は近くで5バーツ出して買う。それに記入して並ぶ。今日は旧正月であり、それほど混んでいないようだったが、それでも結構並び、ようやく窓口に着くと、用紙裏紙の未記入ではねられる。ちょっと汗をかきながら書き加える。窓口の係員は結構やさしい。このへんがタイなのだろうか。

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番号札を貰い、順番を待つ。20分ほどで順番が来た。申請が受理され、いつ欲しいか聞かれる。急ぎなら今日も可能だが、それには航空券など急ぎの理由を証明する必要がある。急がないなら2日後、少し急ぐなら明日、という選択肢があり、それぞれ料金が違う。結局明日取りに行くことにした。1035bかかった。翌日指定された受け理時間に行くと、これまた混んでいたが、少し待てば受領できた。何だかヤンゴンがやけに近く感じられた。

 

2月6日(木)

2.ヤンゴンまで

エアアジアに乗るため、ドムアン空港にやってきた。ここにはWIFIは無いし、食べるところも少ない。仕方なく、宿泊先の近所で食事を済ませ、BTSに乗り、チャドチャック公園からはシャトルバスを探す。このバスのお蔭で安くいこうとすると、合計80バーツで空港に着く。

 

空港に着くと、レストランの様子が少し変わっていた。時間があったので覗いてみると、なんと『とんかつのさぼてん』があるではないか。決して安くはないが、香港空港でも時々食べたので懐かしい。今日は腹が一杯で遠慮したが、次回は挑戦しよう。

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エアアジアは相変わらず、あまり楽しい飛行機ではない。特に荷物制限が厳格で、興ざめする。7kg以上は必ず預けなければならず、お金を取る。その料金も事前予約した場合の倍を取られる。中国人が良くこれでもめていた。私はもめるのが嫌で事前に20kg預けを購入している。ところが今日は全くノーチェックで全て機内に持ち込めた。損した気分だ。他のLCCは荷物制限をかなり緩めており、エアアジアの優位性は薄れつつある。

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《深夜特急の旅2003-マカオ編》

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』は約30年前の旅行記(?)であるが、何時読み返しても心踊るものがある。香港に住んでいるこの機会に名作の舞台を踏んでみることにする。尚順番はバラバラ、気が向いたときに出かけるスタイルである。

今回はマカオ編。(『深夜特急1』)

1.2003年10月 マカオへ(P127)

上環のマカオフェリー乗り場からマカオへ。今も昔もイベントでもない限り、直ぐにチケットが買える。沢木氏と同じ水中翼船(ジェットホイール)でマカオへ。チケットは今ある一番早い時間のものを売ってくれるが、更に早い時間の船に乗りたければウエーティングの列に並び、席があれば乗れる。実に合理的なやり方だ。実際時間通り乗っているのは観光客で香港市民は早いものに乗ってさっさと行ってしまう。

尚沢木氏が帰りに乗ったという『普通のフェリーのデッキ』なるものは今や存在しない。デッキとは甲板で朝4時に出て2時間半、沢木氏はかなり寒い思いをしたようだが、そんな体験はもう出来ない。

マカオまでは水中翼船で約1時間。船は殆ど揺れない。外部から見ると海の上をすべるようにして走る。船内では早くもカジノ気分でインスタントくじなどを販売している(最近廃止されたようだ)。船窓から見る景色は香港の陸地が見えており、次第に海が広がるものの、大海原を走る感じは無い。

マカオは中国の珠海と陸を接している。右手に珠海が、左手にはマカオ空港に繋がる大橋が目に入るとマカオ到着である。空港は1995年に開港、台湾と大陸を繋ぐ等一定の役割を果たしてきたが、直行便が飛ぶようになるとどうなることか?沢木氏の頃の風景はかなり違ったものであったろう。

2.マカオパレス(P139-150、171-191)

到着するとイミグレを簡単に抜ける。沢木氏はここで観光ビザ(HK$25)を取得したとあるが、現在は要らない。

今の港は最近出来たもので、以前はもう少し西側にあった。今そこにはマカオパレスと言うカジノが建っている。沢木氏はこのカジノでマカオ滞在の大半を過ごしている。

マカオパレスは以前半島の反対側にあり、当時は庶民の行くカジノであった。私も1987年に初めてマカオに行った時、タクシーの中から陸地に繋がれた船に『澳門皇宮』の看板を掲げたこのカジノを見た記憶がある。所謂船上カジノである。確かに買い物籠を下げたおばさんがカジノに入って行く姿があった。何とも不思議に思ったことを覚えている。

マカオパレスに入る。かなり綺麗な入り口があり、金属探知機もあり警備も万全。カジノは2階のようだ。階段を上がるとこじんまりした空間がある。人はまばら。スロットマシンが並んでいる。あとは大小とバカラ。

大小では沢木氏が発見した法則を確認したが、3回の音では判断できなかった。それはそうだろう、もし沢木氏の発見が正しかったとしても30年前のことである。当然直しているはずだ。又素人のお客を誘いある程度勝たせてから巻き上げるといったボーイも当然ながら居ない。兎に角熱気は無い。

しかしカジノで物を尋ねるのは意外と難しい。『ここに何時移転したのか?』とこんな簡単な質問を従業員にしても、何を聞いているのだろうといった冷たい視線が帰ってくるのみ。確かにカジノでその由来を尋ねる人など居ないのだろう。カジノは博打をする所なのだから。尚2004年5月にこのカジノの直ぐ近くに大型カジノがオープン。実に40年振りの新規出店とあって初日は大混雑であったそうだ。残念ながらマカオパレスの前途はかなり暗いと言わざるを得ない。

3.リスボア(P151-152、159-165、192-199)

沢木氏は埠頭から、黄色い大きな建物を見つけ、真っ直ぐ西に行く。それがリスボアホテルである。勿論今は埠頭からリスボアが見えるわけではない。リスボアはマカオの象徴。誰もが一度はリスボアを目指す。

リスボアはホテル部分とショッピングモール、多くのレストラン、そして広大なカジノがある巨大な建物である。最初に行って迷わない人はいないだろうと思われる。香港に遅れること2年、1999年12月マカオはポルトガルから中国に返還されたが、その返還前にはカジノの利権その他を巡る黒社会(暴力団)同士、中国系と地場系の抗争が相当あり、このホテルの周りでも銃撃戦があったと聞く。一時はあまりに物騒でマカオに行く観光客が激減した。今では無事に返還が済み、表面上は平穏である。

私が最初にマカオを訪れたのは1987年2月、沢木氏と同様何気なく、全く予定外に香港からやってきた。夜リスボアに行こうということになり、カジノに一歩足を踏み入れて驚いた。以下『昔の旅』より。

『食後リスボアホテルのカジノへ。観光名所なので見学に行ったが、その活気には驚いた。平日だと言うのに多くの人がカジノにいた。香港から来たと思われる広東語を話す人も多い。彼らは平常何をしている人なのだろう?取り敢えず何をしてよいか分からず、スロットマシンへ。これは香港ドルのコインをそのまま使えるので挑戦。何回目かでかなりのコインが出てきたが、何が当たったのかも分からない。夢中で全部使ってしまった。内側の会場ではブラックジャック、ルーレットなどが行われていたが、何よりも見慣れない『大小』と言う遊びが大人気。ようはサイコロを3つ転がして、10以下なら小、11以上なら大。簡単な遊びだが、これがなかなか奥が深く、連続して勝てない。最初は恐る恐るやっていたが、その内面倒になり、千香港ドル札を大に賭けたら、大当たり。2千ドルになった(お姐さんが100ドルをチップとして取り上げて返してきた。)ので、もう一度2千ドルを賭けたら、また大当たり。4千ドルになり、そこでやめた。当時の4千香港ドルは中国で半年は暮らせる金額。

気が付いて時計を見ると既に午前2時。実にカジノとは恐ろしいところ、時間を忘れせる。ホテルの外に出るとこんな時間に人がウロウロしている。たいした金額を稼いだわけではないが、何だか襲われるような気分になり、直ぐ近くの第一ホテルまでタクシーで帰った。』

今回カジノに足を踏み入れるとやはり熱気は変わらなかったが、客層が変わっていた。1つは観光客の多さ。但し観光客といっても今では中国系が主流。彼らは一目で分かる。もう1つは香港人の身なりがかなり良くなっており、昔の庶民のイメージが無い。

中国大陸から来た人々は凄い。私が大小の研究をしようと聞き耳を立てていると後ろから2-3人の男が割り込んできて行き成りポケットから札束を取り出す。丁度場では大が続いていた。彼らは迷わず大に向かい、札の束を叩きつける。その札が香港バンクの千ドル札である。燦然と輝くこのお札を束にしている。よく見ると横の女性が男から札を貰ってやはり大に賭けている。

その時女性ディーラーが猛然と何か言い始めた。どうやらこの台では1万香港ドル以上は賭けられないこと、又他人に依頼して分散して賭けてはいけないルールのようだ。しかし中国人は全く納得せずに喚きたてている。ディーラーは彼らの札束を数え始める。

とうとう男が怒鳴りながらディーラーに手を出そうとした。流石に周りは凍りついた。ガードマンが数人なだれ込んできて男を抑える。そこに賭けの終了を伝える鐘の音。彼らのお金は1万ドルに減らされて場に残る。

蓋を開けると『大』であった。さあ大変。中国人は怒り狂い遂に退場処分となる。しかしどうやらディーラーには今回が大であることが分かっていたようだ。もし小ならそのまま流していたかもしれない。結構恐ろしいもの見てしまった。どちらにしても何らかの法則で大小を区別することは私には出来なかった。(出来ていたら今頃大金持ち?)兎に角リスボア内では北京語が氾濫しており、今やマカオは北京語が普通に通じる街になっている。

4.ポルトガルレストラン(P153-158)

沢木氏はリスボアで賭博中に腹が減り、南湾街のレストランに入っている。ここは恐らく『ソルマー』であろう。1961年開業の老舗であり、昔私も偶に行った場所である。今は店も綺麗になっているが、当時は『しっとりとしたたたずまい』と表現されている。

ここでアフリカンチキン、いわしの焼き魚を食べれば大抵の日本人は満足する。現在でも値段はそう高くない。勿論2階もある。沢木氏はここでウエーターに日本語で話しかけられている。彼の母親は日本人だが、3歳の時に日本に帰ってしまい以後消息が分からない。

マカオには16世紀以降多くの日本人がやってきている。最初はキリシタン迫害を逃れた人々、又は商人。その後は鎖国時代の漂流民。そして戦前は所謂『からゆきさん』。私はふと、彼の母親も何らかの事情でマカオに流れ着き、戦後日本に戻ったからゆきさんではないかと思ってしまった。住所の群馬県渋川も戦前それ程豊かな場所ではなかっただろう。生糸の輸出と関係が?日本とマカオの交流は様々な形で我々の想像を遥かに超えた深いものがあると思う。今後その辺を調べてみたい。

全く余談であるが、私は小学生の時に『天正の少年遣欧使節』という本を読んだことがある。それは400年前の戦後時代にローマ教皇に謁見した4人の日本人少年の話であるが、その中の一人、原マルチノは帰国後キリシタン迫害にあい、マカオに逃れて死んでいる。恐らく私がマカオという地名を最初に認識したのはこの時であった。

更に余談を続けると400年前のヨーロッパは決して先進国ではなかった。何しろ食べ物は手で食べていたのだから。逆に当時の日本は非常に高い文化水準を持ち、茶の湯などは宣教師を大いに驚かせたようだ。その日本人がマカオにも住み着いたのであるから、文化的にも何がしかの寄与をしたと思うのだが、現在その痕跡を探すことは難しい。

5.聖パウロ教会(P137-138)

南湾街から新馬路に入るとそこはマカオ一の繁華街。沢木氏が地図を購入した本屋などは既に無く、時計屋、食品、レストランなど観光客向けの店が並んでいる。そして道の中ほどにはセナド広場がある。ここは昔の建物を保存し、コロニアル風のたたずまいを残している。クリスマスのライトアップなどは非常に綺麗で夜訪れると良いかもしれない。

この広場から登って行くと、聖パウロ(セントポール)教会が見える。リスボアと並ぶマカオの象徴である。17世紀初頭にイエズス会が建てた教会で日本を追われたキリシンタンも建造に加わったという。1835年の大火で現存する正面の壁面以外を消失してしまう。壁面にはマリア像やキリスト少年像などが残っている。

ここの階段は中国人観光客でごった返していた。写真を撮る人々が多く、1枚撮るのに時間を掛けるのでラッシュアワーのようになってしまう。確かにポルトガル風の建物は中国国内にはあまり無いが、それにしても今も昔も中国人は写真好きである。

壁の裏側に回ると確かに抜け道のようなものがある。抜けて登って行くとモンテの砦に着く。ここもイエズス会の協力で作られ、何と侵攻してきたオランダ軍を撃退したというから凄い。正に宗教が戦争であった時代である。

6.ベラビスタホテル

沢木氏はリスボアから海沿いを歩いて美しい洋館に辿り着く。そこがベラビスタホテルである。現在はどうなっているか?夕暮れの道を歩いて行くと、以前とは異なり人工湖が見える。マカオタワーという高い塔もある。湖にはライトアップがあり、噴水ショーがあったりする。マカオもお洒落になったものだ。綺麗にライトアップされた総督府を通り過ぎると並木道のベンチにカップルが座っていたりする。

山側に綺麗な建物が見える。急いで登るとかなり急な坂道である。西洋人が数人楽しそうに降りてくる。胸が高まる。あの素晴らしい建物、バルコニー、風景を持つベラビスタが近づいた感じである。

ホテルには海に面する部屋があり、バルコニーも見える。しかし、しかし何故か名前は『リッツ』である。中に入りベテランのマネージャーと思しき男性に尋ねる。彼は丁寧に『ああ、ベラビスタはうちの斜め向かいだよ。但し数年前に閉館したけど。』という。

慌てて外へ出て言われた方に行くと確かに薄暗い中にかなり古めかしい建物が見えた。一体何に使われているのだろう?微かに窓から明かりが漏れる。人が住んでいる気配はある。覗き込んでいるとガードマンが居る。どうやらこれ以上見ているのは良くないように思えたので、退散する。

後で地図を見ると何と『ポルトガル領事公邸』とある。納得する。しかし一度でいいからベラビスタに泊まって見たかった。今ここからは正面にマカオタワーが見えるに違いない。

7.ポルサダデサンチアゴ

ベラビスタを考えているとどうしてももう1つのホテル、ポルサダデサンチアゴを思い出す。ここはヨーロッパのお城(又は館)に見えるが、実は17世紀に建てられた要塞を改造してホテルにしたもの。入り口は石段のトンネルになっており、登ると直ぐ外に出られる。気持ちの良いオープンカフェがそこにある。非常にゆったりとした時間が過ごせる場所である。カジノの喧騒とここの静寂、マカオの2面性を表している。

10年以上前に未だ2歳だった長男を連れて親子3人このホテルに泊まったことがある。実はマカオは子供にとってはそれ程面白い場所ではない。ドックレースに連れて行こうとしてもギャンブル場は入場禁止だ。仕方なくホテルでゆっくりしようと思い、夜もホテルのメインダイニングで取る事にした。事前に電話で子供連れOKの確認を取っていたが、行ってみるとそこはマカオの上流階級が集まる場所といったお洒落な所で蝶ネクタイやイブニングドレスが似合うレストランであった。長男はテーブルに置かれたキャンドルの火に大興奮して即座に自主退場となった。辛うじてオーダーした料理は全てルームサービスになって運ばれてきた。

朝はバルコニーに朝食を運び実に優雅な食事が楽しめる。海が一望できた。小さなプールもあり、リゾート気分になれる。

ホテルの外壁の片隅に『1911年』と掘り込まれたプレートがある。そしてその横に『民国街』という道がある。これは何を意味するのか?1911年は辛亥革命の年。孫文はそれ以前にマカオに滞在したことはある。故郷にも近い。辛亥革命の年に何かがあったということか?民国街を上って行くと、かなり古い建物が住人も無く放置されたように建っている。更に行くと木々に囲まれた一角があるが、その道の前で大きな犬が大の字で寝ていた。近づくとむっくり起き上がり、睨んでから一声吼えた。来るなという意味に聞こえた。孫文の番犬か?ここは一体何があるのだろうか?旧国民党と関係があるのだろうか?

8.余談

沢木氏はマカオ半島以外には行っていない。というより殆どをカジノですごして去っている。しかしマカオにはタイパやコロアン島もある。私は偶々タイパ島に行く機会があった。

そこに香港人が良く行くレストランがあるという。六棉酒店、何と中華レストランである。香港人にとってマカオはポルトガルを味わう所ではない。安くて美味しい中華を食べ、香港で出来ないギャンブルを楽しむ所なのである。

その横に茶屋があった。なかなか雰囲気の良さそうな店構え。中に入ると喫茶が出来るスペースもありかなり広い。主人はマカオ人で自ら茶葉を仕入れに行くという。何人かでちょっと休むには良い場所かもしれない。

9.国境

私は今回の旅で最初にマカオを訪れた際、フェリーターミナルからバスでリスボアへ向かおうと思い、何と反対に珠海との国境に着いてしまった。大陸に引き寄せられてしまうのだろうか?

国境までは僅か10分、以前はそれ程でもなかったが、今では国境を行き来する人の数も相当数に上り、付近は人が多い。タクシーも数年前に比べ多くが客待ちしており、車体も新しい。国境の建物から吐き出される人々はタクシー、バスにどんどん乗り込み機能的に動いている。行き来に慣れている人が多いということ。

以前台湾人にここの国境を夜遅く越えるときは気を付ける様にいわれたことがある。台湾人は現金を持って往復することが多く、強盗の標的となり易い。強盗はわざと台湾語で話し掛け振り返ると襲うとも言う。中国大陸からの送金が簡単でない現実では、彼らの現金決済も続いて行くことだろう。

先日台湾の友人がマカオ・珠海を視察した。狙いは2つ。一つはマカオで貿易会社を設立し、税金の優遇を得る事。二つ目は香港・マカオ・珠海大橋の建設を今から睨んでのマンション投資。

中国に飲み込まれそうなマカオであるが、それなりに手を打って来ている。香港は生き残れるのであろうか?老後のロングスティ先にマカオも選択肢に入ってきそうだ。

香港歴史散歩2004(21)許願樹

【番外編4―許願樹】2005年2月6日

家族で初めて歴史散歩をする。歴史散歩というよりはHO太の行きたい所へ行っただけであるが、意外と面白かった。

許願樹とは60年ほど前にある水上生活者が長く病気に苦しんでいたが、この樹の前の土地伯公に祈ったところ、病気が治ったことから、この樹に霊験があると信じられている。願い事を書いてみかんにつけてこの樹に投げるのだが、果たしてどうか?

1.許願樹まで

家の前のビクトリアパークでは既に旧正月の花市が始まっていた。その横からバスに乗りホンハムへ。KCRに乗ろうとホームに向かうが、ここが始発駅でなくなっていることを忘れており、1本乗り過ごしてしまう(ホームに電車が停車していたが、直ぐ出て行くとは思っていなかったのだ。)。旧正月前で乗客は少ない。次の電車で座れる。

この車両は新型である。4人掛けであるが我々が座った所には何とシンセンの不動産のコマーシャルが下半分に張られており、景色が見えない。恐るべき商業主義。普段MTRしか乗らないのだから偶には外の景色も見たい。この広告は逆効果ではないか?

太和駅に降りるのは初めて。KCR各駅には乗客が入れるトイレがあるのが目新しい。飲み物を買って出発。駅からバスに乗る。タクシーで行けば簡単だし、4人なら経済的かもしれないが、散歩の原則は公共交通機関。なかなか来ないバスを待つのも又楽しい。元朗行き64Kに乗る。6.9㌦もする。きれいなバスではなるが。

何処で降りるのか、迷ってしまうのか?不安である。最初はマンション群が見え、直ぐに田舎の風景となる。10分ほど行くと『放馬莆(許願樹)』という表示が出る。これなら誰でも分かる。

2.許願樹

バスを降りた瞬間、3人のおばさんに追いかけられる。口々に何かいっているが、広東語で分からない。取り敢えず手を振って断るとHO太に狙いを定めてくる。かなりしつこい。これは一体なんだ。

バス停の道の反対側に『林村』という名が刻まれた門が見える。道を渡るとまた別のおばさんが声を掛けてくる。HO太が聞いてみるとどうやら許願樹に投げるみかんと紙、それにお祈りの線香をセットで売っている。しかも許願樹とはその直ぐ横にある樹のことであるという。

そのおばさんから買うことにする。テントの下に連れて行かれ、そこで願い事を書けと言われる。それも漢字で。子供達はどうするかと見ていると2人ともスラスラと漢字で書いている。特に次男は『世界平和 無病息災』と書いている。自分の息子ながら感心する。自分が子供ならこうは書けないだろう。

そして横の木の下へ。先ずは線香に火を着けてお参り。長く香港に住んでいるとお参りは様になっている。香港の子供達が沢山やってきた。引率者がみかんを投げて見せている。なかなか上手くて直ぐに枝に引っかかる。

簡単だなと思い私も投げてみると何と大きく外れてお参りしている人が差した線香を直撃。かなりひんしゅく。取り敢えず止める。この樹は意外と高い。高く投げれば投げるほどよいと言われているそうだが、子供には難しい。

次男は早々に脇の低い木に投げ一発で成功させる。大喜びである。先程の感じの願い事といい、今年は彼に運がありそうである。一方長男とHO太は苦戦。

 

 

 

 

兎も角何故か意外と盛り上がるお参りである。みかんが宙を舞う姿もなかなか良い。後で家に帰ってみかんについていた紙を見てみると各神様の絵があり、色々と解説がある。またラベルのようなものがあったり、スローガンが書かれた小さな紙が入っていたりと多彩であった。

尚この樹は毎月1日、15日と旧正月にお参りする人が多いようだ。

 

3.天后廟

林村の中に入る。ここは観光地である。道の両側に屋台が出ている。それを過ぎると村の天后廟がある。規模は結構大きい。ここには海は無い。何故ここに天后廟があるのだろうか?これまで行った廟は全て海の近くであった。

入り口は3つあり、手前に龍母殿がある。中に入ると赤ちゃんを連れた一家がベビーカーを押している。また1ヶ月のお祝いであろうか?中華風の服と帽子を被せた赤ちゃんの写真を撮っていたりする。

一番向こう側には12烈士の碑がある。清朝時代に村を守った人々が祭られている。この村の歴史は200年以上と言われている。他の天后廟にないものがここにはある。

廟の横にはトイレがあるが、このトイレが立派である。非常に大きいし、中も清潔。最近出来たばかりであろうか?水洗トイレの便器が真新しい。この村が観光に力を入れている様子が窺える。

その横にはレストランがある。そこではオームが飼われているが、数羽のオームが実にけたたましい。人を威嚇するように騒ぎ立てる。オーム同士で何か争っている。その向こうの家の犬もまた過ぎ勢いで吼える。ここの生き物はどうなっているのだろうか?いたずらでもされることがあるのだろうか?

4.お花畑

トイレの横から山々が見える。ここが香港であると言われないと分からないような風景がそこにある。下を見るときれいな花が咲いている。行って見たくなる。

どうやって降りるのか?道を探す。子供達が探検気分で先導する。途中に小川がある。この川を越えると目の前にお花畑が広がった。正直言って香港でこのような光景を見ようとは夢にも思わなかった。

桃の花を咲かせた木がある。旧正月用であることは一目で分かる。そうか、家の横の花市の花はこういうところから来ているかと合点する。しかしきれいに植えられている。更に行くと菊が黄色い花を咲かせている。これも実に鮮やか。

香港人の中には農家の人と話して花を買っている人もいる。小さな女の子が家の手伝いをして花を抱えて走る姿が微笑ましい。日頃見る香港とは全く違う世界がそこにあった。香港も捨てたものでもない、と家族全員が感じた旅であった。

 

 

香港歴史散歩2004(20)鴨利洲

【香港ルート21鴨利洲】2004年10月31日

本日も香港は快晴。少し汗ばむぐらいの絶好の散歩日和。今まで気になっていたが一度も行ったことが無い、鴨利洲を目指す。鴨利洲は香港仔の対面にある小さな島であるが、島の形が鴨の舌に似ていることから名付けられる。舌という字は縁起が悪いので、利と改める。

15世紀には漁民が住んでいたというが、北部に本格的に人が住み始めたのは19世紀になってから。近年は島の開発が行われ、橋も架けられている。現在では大型住宅の建設が進み、一大住宅地となっている。

(1) 大王宮

自宅から鴨利洲への直通バスは無く、香港仔トンネルの先でバスを乗り換える。丁度来たバスが海怡半島行き。South Horizon、ここはショッピングセンターを中心に、16棟ものマンションが建っている。そして海辺からは南丫島が遥かに眺められる。是非住んでみたい場所である。

 ここに大王像を祭った大王宮があるとのことであったが、残念ながら見つからない。半島の突端には観景台が設けられ、海の風景を眺められる。周りは高層マンションが建ち並び、実に清潔な海の道が続く。恐らくは大王宮は撤去されてしまったのであろう。確かにこの場所には不釣合いかもしれない。

(2) 水月宮

海怡半島から鴨利洲橋道の方に戻る。古いマンション群が見える。この高台のマンション群の丁度真下、香港仔湾に面した場所に水月宮がある。バスの車庫の隣にあり、細い道を歩くと突き当たりに古びた、そしてこじんまりした建物が見える。

 

入り口には大きな木がまるでこの宮を守るかのように幹をくねらせている。この木が実に味がある。建造年代は不明。廟内には光緒17年の文字が見える。真ん中に観音様、思わず頭を下げる。

実にいい雰囲気のこの宮が何故車庫の横に押し込められたのか?残念でならない。しかしかえって信者以外訪れる人も無く、ひっそりとした佇まいを残すかもしれない。

(3) 洪聖古廟

水月宮を海沿いに東に向かう。立派なマンションの前を通ると何となく残念な気分になる。その後きれいな街市がある。周りは古い店が並んでいるだけに不自然に感じられるが仕方が無い。

 その街市の横、海に面してひっそりと洪聖古廟は建っている。気を付けていないと通り過ぎてしまうかもしれない。古廟を横側から覗くと小さな仏像が置かれている祠のような場所がある。更に廟の前には幟を揚げる為の柱が2本、祭りの時には盛大にはためくのであろうか?

中は比較的広く、英語で書かれた紹介文もある。華僑等の信者が多いということか?海に向かって打たれる銅鑼もある。奥中央には洪聖像が安置され、周りに小さな仏像が置かれている。

洪聖爺は正式名を『南海洪聖広利大王』と言い、唐代に広東省で天気を予想できる官吏とも中国人に火の使い方を教えた人物とも言われている。生誕記念日は旧暦の2月13日。漁民は当日に供物を備えると1年間厚い庇護を受けると信じている。

(4) 香港仔砲台

洪聖古廟のある旧市街から利東邨へ。旧市街地は島で一番低い所にあり、利東は一番高い所にある。ガイドでもバスで行くように書かれているが、折角なので歩くことにする。後で後悔するが。

古廟から少し行くと階段があり、上の広い道へ。そこから更に結構急な道をバスを尻目に登る。かなりキツイ。そして利東邨に到着。非常に規模が大きい住宅団地である。その住宅街を更に登り、一番高い建物の裏へ。

裏は公園となっており、老人が日向ぼっこしている。なかなか良い雰囲気。そこから登り坂。玉桂山へ、という表示が出ている。私が行くべきところは143山であるが、そこしか道が無いので取り敢えず行く。

急な階段がある。ここは裸山である。木が無い。登り始めて後悔する。本当に急な階段なのである。振り返ると真下に道が見えるよう。更に向こうを見れば、素晴らしい海の景色が見える。しかし怖い。降りることも出来ない。

 仕方なく登り切る。上には東屋があるのみ。砲台後が何処にあるのか?北側には香港仔、更にはピークがきれいに見える。西側は先程行ったSouth Horizonのマンション群、そして南は一面の海。南Y島も見える。

ここはどう見ても143mより高いのではないか?間違った場所に来てしまったのか?地図ではこの場所に砲台跡があるし、香港の地図を見ると玉桂山はもっと南にあることになっている。どうなっているのか?

結局見つけられずに山を降りる。丁度韓国人の親子が登って来たので、彼らについて反対側から降りる。反対側はそれ程急ではなく、何とか降りられた。利南道からさっき歩いた鴨利洲橋へ。何となくこのまま帰る気にはなれず、さりとてもう一度利東邨に引き返す気力も無い。

下に降りて洪聖宮へ。その横からフェリーが出ているのをさっき見たので、それに乗って香港仔へ。このフェリー、結構風情があってよい。しかしオクトパスの機械が船の真ん中にあるのはご愛嬌か?船には犬も乗れるようで、まさに庶民が普通の乗るもの。僅か5分で対岸についてしまうのが、残念。水上には小船が沢山あり、未だに水上生活をしている人々も居るのか、それとも観光用か?

今回は4つの内2つの場所を発見できなかった。鴨利洲の開発が進んでいるのか?それとも探し方が悪いのか?何れもう一度訪れたい。

 

香港歴史散歩2004(19)錦田、天水圍

【番外編3―錦田、天水圍】2004年12月3日

大学時代の先輩Nさんが香港に来るという。昔から人とは違う感性を持っている女性であったが、今回はご主人Wさんの趣味と合わせて、一味違う香港旅行にしたいということでお声が掛かる。Nさんの興味はお茶、Wさんは鉄道。この日はWさんの趣味を入れてMTR、軽便鉄道、KCR西鉄に乗るため新界へ。尚Nさん、Ho太(家内)、私は大学時代同じクラブということで、珍しくHo太が同行。

(1) 三棟屋博物館

シェラトンホテルで待ち合わせ後、MTRで終点の荃湾へ。この街のイメージはベッドタウン。駅の北東には多数の大型団地があり、駅には各団地のシャトルバスが停まっている。その数には正直ビックリ。

MTRを降りる時、既に博物館の文字が見えていた。一番手前の出口を出て左に真っ直ぐ4-5分歩くと三棟屋博物館が見えてくる。ここ荃湾には200年ほど前から新界の5大客家の陳氏が移住してきており、大きな集落をなしていた。

陳氏の祖先は福建省から広東省に移住、1786年に荃湾に移り住み、開墾し農業を行った。3つの棟割長屋風の造りからその家屋は三棟屋と呼ばれている。1970年代の地下鉄開業で再開発が行われ、村は取り壊され、人々は他に移住した。1987年に伝統的な客家の家と祠堂が再現されて博物館となった。白い城壁で囲まれた中には碁盤の目のように配置された家々が整然と並ぶ。

家の1つに入ると三房両庁の間取りがきっちりされている。手前が厨房や農作業場、奥が居間、寝室、物置場といった所。2階もある。正面入り口から真っ直ぐ進めば、奥には祠堂があり、歴代当主の位牌が飾られる場所がある。

両サイドには横屋が連なっている。各横屋にはそれぞれの産業の歴史が展示されている。保険のコーナーには戦前の東京海上のポスターがあるなど、なかなか面白い。

(2) 吉慶圍

荃湾の駅に戻り、錦田行きのバスを探す。意外と分かり難い。駅舎を跨いで反対側に51番のバス停はあった。しかし周りに人は誰もいない。何時来るとも知れないバスを待つには時間が無く、丁度来たタクシーを停める。

運転手は女性であった。赤い車体の九龍タクシー。錦田の場所が分からない。ガイドブックではバスで20分となっていたので、軽く考えていたが、それは山越えの道のりであった。錦田行きのバスの番号51番をバス停ごとに確認しながら進む。W夫妻には香港にも自然があることを認識して貰う良い機会になったかもしれない。

20分ほどして漸く下りに。錦田公路という道に出る。錦田市内へ。市内といっても田舎の街である。それ程大きくはない。少し行くと軍の施設などが見える。石崗軍営である。かなりゆったりとした庭の中に建物が続く。そういえば人民解放軍が1997年に進駐してきた場所がこの辺りではなかったか?更に小さいが飛行場が目に入ってくる。こうなると本格的である。香港にもこのような場所があることを再認識する。

運転手がまだ着かないと心配した時、城壁のような場所を通り過ぎた。ここだ、と車を停める。正に城壁に囲まれた街が目の前にある。しかし意外だったのは、城壁の中の家が近代的に見えたこと。ここは観光地として保存していると思っていたが、全く普通の住宅が中にあったのである。

 

入り口はどこか?おばあさんが3人座っていた。近づくと一人が客家の帽子を被る。どうやらガイドブックに書いてあったおばあさんか?写真を撮ると10ドル取られると言う。小さな入り口を潜ろうとするとおばあさんが1ドルと言うので差し出すと何と城壁に空いている穴に入れろと言う。不思議な感じ。

 

城壁の中は家が所狭しと並んでいる。殆どの家が既に普通の家になっており、生活感が出ている。テレビのアンテナが立てられており、普通に生活している人々が家に出入りしている。門から真っ直ぐ進んだ一番奥に宋祠があるのが唯一歴史を感じさせた。正直言って何だ、という感じ。外から見ている方が良い。しかし逆に言えば昔からここに住んでいる人はどう思っているのだろうか?

(3) 樹屋

吉慶園を後にする。通りに出てさて、バスに乗って元朗に行こうかと思っているとNさんが突然『Tree Houseって面白そう』と言う。何のことかと道路脇の表示を見ると確かに樹屋(Tree House)、二帝書院などの文字が見える。しかしガイドブックにも何も無く、地図を見ても見当たらない。

特に急ぐ旅でもなし、皆で矢印の方向に歩き出す。道を渡り、北に向かい細い道に入る。古びた家屋が並ぶ。直ぐに前に何も遮るものが無くなる。広くてきれいな道が現れる。地下道を通る。何だか不思議な感じ。日本の田舎に時々ある光景ではあるが。

左を見るとKCRの高架が見える。広々としている。道の向こう側には村があった。別荘、と書かれた少し古びた戸建があったりする。その先に小さな川があり、橋があった。そのたもとに立て札が。『午後10時から翌朝7時まで村人以外入るべからず』とある??江戸時代かと思った。理由は分からない。勿論城壁があるわけではない。うーん。特にお金持ちの村と思えないが・・?

村に入るところには日本でいう同祖神が必ずある。香港では小さな囲いの中に七福神の置物だったりする。毎日誰かが線香や花を供えている。伝統的な村の姿である。村は低層の建物が続く、静かな所であった。北圍村、それが名前である。二帝書院は直ぐに見つかった。由緒正しいしっかりした建物であったが、残念ながら本日は休みで中を見ることは出来なかった。

 

周りにも歴史のありそうな建物が幾つかあり、客家の家らしい所も見える。非常に静かで香港らしからぬ所に紛れ込んだと言う印象。更に歩いて行くと家が焼け落ちており、その残った壁に木が生えていたりする。

ミニバスが走り過ぎる。元朗に行くようだ。我々もこれに乗ろうと、村外れに向かう。外れには天后廟があったが、これも閉まっており入れなかった。村の公会所があり、バスを待つことも出来るようだが、横に池がある。なかなか良い眺めと見ていると何と水牛がいるではないか

 

バスに乗ろうかと思っていると、最後の表示が。樹屋、100m。とうとう来た。その木は小さな囲いの中に。大きな安定感のある樹である。きっと香港の樹、ベストテンに入っているだろうと思われる。

近づいて更に驚く。この大きな樹には煉瓦が絡み付いているのである。いや、そうではなく元々レンガ造りの家があったのだ。その家が崩れた所に樹が生え続けている。何ということだ、それで名前が樹屋。1周回ってみると、玄関の跡や窓の跡がくっきり見えている。こんな樹は、いや廃墟は見たことが無い。素晴らしい、実に素晴らしい樹である。

その樹の横のベンチに座っていると、爽やかな風が吹き抜ける。秋の柔らかい日差しが我々を包む。香港にいることを完全に忘れてしまう。実にいい。

(4) 天水圍へ

この村には唯一ミニバスが走っている。5元で元朗へ。Wさんは今回元朗から軽便鉄道に乗るのを楽しみにしていた。バスは村を1周してKCR西鉄の駅へ。その後元朗駅へ向かう。元朗に着くと直ぐに軽便鉄道の始発駅が見える。

昼食はその辺の飲茶へ。ところが元朗には沢山の老婆餅屋があるが、ちょっとしたレストランが見つからない。漸く見つけて入る、安い。香港でもこんなに物価が違うのか、香港島の半分ぐらいか?

軽便鉄道はユニークな電車である。何しろ改札も無く、車掌もいない。東京の都電と同じだが、正直香港人が皆キチンと料金を払うのかには興味がある。駅の入り口でオクトパスをかざすだけではあるが。線が何本か分かれており、意外と分かりにくい。取り敢えず天水圍へ行きそうな電車に乗る。

この電車は日本のメーカーが車両を提供している。快適に街中を抜ける。香港にはトラムがあるが、トラムよりスピードがあり香港人向きの気がする。しかしKCR西鉄が開通して以来乗客が減っているのではと心配。今後も走り続けて欲しい。

 

天水圍が近づき、ふと見ると我々が目指している廟らしきものが見え、駅より前で下車。先日は10年に一度のお祭りで廈村を訪れたが、実は本当の天水圍は駅近くにあるらしいと聞いていた。

 

駐車場を突っ切って行くと、坑尾村。そこに観廷書室があった。丁度中学生が歴史の授業で訪れており、先に洪聖宮に行くことに。洪聖宮はかなり古く、こじんまりしていた。1767年に建造されたが、現在のものは1866年に再建。屋根との間に香を焚く天井裏があり、日が差し込む。

この辺りは客家の鄧氏の村。12世紀には早くもこの辺りに定住したという。現在は天水圍駅前から約1kmに渡り、屏山文物パスとして1993年に整備された。尚洪聖宮向かいのレストランは建物の間から木が生えており、非常に珍しい光景となっている。

先程通った観廷書室は1870年の建造。当初は一族の子弟の教育を目的として、科挙を受けさせるなど、高等教育を施していた。一族の繁栄の為の施策である。戦後は青年の図書室となっていた。最近は特に使われていないようで、当日も鍵が掛かっていた。

 

鄧氏宋祠は香港最大の祠の1つであり、既に700年の歴史を有する。典型的な三進両院式建築で奥には鄧氏先祖の位牌がある。かなりの規模である。隣には愈喬二公祠もある。これも同様な規模を誇り、鄧氏の11世と16世を特に祭っているようである。

 

 
更に北に向かって歩くと住民の住居があり、その外れに楊候古廟がある。既に100年の歴史を有しているというが、現在の建物は1991年に改修され、非常に新しく感じられる。ここは住民が日常お参りする場所と思われる。元々は宋末の忠臣、楊亮節を祭ったものである。

 

少し戻り左に曲がると古井戸がある。200年以上前から使われていたという。現在は人が落ちないように蓋がされており、言われなければ気が付かないかもしれない。

鄧氏の分家が住む上璋圍に着く。古い城壁に囲まれており、典型的な客家の集落である。中は既に一部取り壊されているが未だに住人が住んでおり、我々は中に入りにくい雰囲気。ここはほぼ駅前であり、こんな一等地を香港人が掘っておくはずがない。果たして保存できるのであろうか?それとも早晩取り壊されるのか?

 

この村の外れに社檀がある。昔は何処の村の入り口にもあったものと思われるが、村の神様を祭り、外部の侵入者から村を守る役目を担っている。ここの社檀は実に見事である。

最後に駅前まで歩いてくると衆星楼が見える。この六角形の3重の建物は落ち着きがあり、非常に好感が持てる。当初は600年前に建てられたそうだ。風水なども十分織り込まれてここに建てられている。まさに守り神的存在。

 因みにこの楼の横には奇妙なものがある。『千葉フリーマーケット』と書かれた大きな看板がある。招き猫が飾られている。一体どんな所であろうか?しかし何故千葉なのか?不可思議である。今度ここが開いている時に一度訪れてみたいもの。

香港歴史散歩2004(18)廈村

【番外編2―廈村】2004年11月20日

これまで黙々と個人で歴史散歩をしてきたが、ガイドブックとして使っている『香港市区文化の旅』という本をメルマガ読者に紹介をしたところ、購入申し込みが10冊以上来て驚いた。香港に歴史はあるのか、これをテーマに参加したい人を集めて『香港歴史散歩』の会を立ち上げて見たいと思った。

講師にはKさんしかいない、ということでお願いした所快諾を得た。そして1回目、無難に上環を選定し、皆さんに案内を出した。ところがその後Kさんより、『新界で10年に一度のお祭りがあります。どうせならそちらに行きませんか?』との誘いが入る。

人間というものは『10年に一度』などという言葉には弱い。それは私だけではなかったようで?何と最終参加者は講師を含めて28名。小学5年生から50代の方まで。男性13名、女性15名。会社員、学生、主婦、実に様々な人々が参加してくれた。感謝、感激。私からすれば空前の歴史散歩である。

(1) 天水圍へ

今回の目的地はKCR西鉄天水圍駅。この線は最近開通したばかりであり、私も乗ったことが無い。どうやって行くのか?主催者自身行き方が分からない、それが私の歴史散歩スタイルであるが、こんなことでよいのであろうか??セントラルから東涌線で南昌駅まで行き、そこで西鉄に乗り換えるのが速いと聞く。それでも1時間は掛かると言われる。

当日はセントラルに1時半集合。20名がここに集まる(残りは天水圍)。しかし時間通りに皆来るのだろうか?1名が遅れたが自力で後から来るという。19名は1時半にきちっと集合している。やはり日本人だな、と思う。幹事としては有難い。

取り敢えず天水圍までの道順を説明。その後は『人が何千人か、何万人いるか分からない為、自己責任で行動』するようお願いする。何しろ先週の新聞でもメイン会場は七千人収容とある。天水圍駅で既に人が溢れている可能性すらある。不測の事態に備えなければならない。全員の携帯番号を確認する。南昌駅で乗り換える。実に便利で直ぐに西鉄ホームへ。但しオクトパスを持っていなかった人は大回りする羽目になったが。

KCR西鉄は新しいだけあって、非常にきれいでゆったりしている。ホームにあまり人影が無い。どの駅も同じで人影が無い。相当な投資をしたはずであるが、採算があっている感じはしない。車両もきれい。車窓からは香港の田舎の景色と、マンション群が交互に出現する不思議な線である。

しかし天水圍に近づいているというのに、乗車している客は極僅か。何万人の祭り客は何処にいるのか?

そして天水圍駅。やはり人影は疎ら。講師すら来ていない。日を間違えたのか?
やがて参加者全員が集まり、記念写真などを撮る。いよいよ出発。駅を出るが人はいない。バス停にも人がパラパラ。一体どうなるのだろうか?こんなに多くの参加者に来てもらって、何にも無い祭りだったら、地元の人しかいなかったら、不安が過ぎる。

(2) 鄧氏宋祠

無料バスもあるようだったが、散歩の名の通り歩いて廈村に向かう。駅前の通りを西に向って歩き出す。歩いているのは我々だけ。通り抜けるバスを見ると満員の客が乗っている。やはり祭りはあるのだと確信。

駅前のマンション群を眺め、少し行くとトラックやコンテナ車が多く行き交うようになる。やがて川を越える。すると右側の向こうの方に巨大な建物が見えてきた。メイン会場だ。大きな看板もある。これは本当に大きなイベントであることが分かってくる。

  

更に行くと『太平清醮』と書かれ、2匹の龍をあしらった大きく派手な看板が道の横に立てられている。のぼりも見えてくる。祭りのムードが高まる。しかしその横には大きなコンテナが沢山積まれていたり、反対側には何故か屋根の上に壊れたヘリコプターの残骸があったりする。かなり分かりにくい土地柄だ。

そして遂に村に到着。ここまで徒歩15分。廈村郷と書かれた祭り会場が見える。しかしここまで来ても人は疎ら。参加者は思い思いに散策。講師に言われて、ここが廈村の鄧氏宋祠であることが分かる。中に入ってみるとかなり歴史がある建物である。

今回講師のKさんはこの散歩の為に、6ページに渡る詳細な資料を用意してくれた。その資料に寄れば、廈村鄧氏は973年に現在の錦田に移住してきた鄧氏の流れを汲み、14世紀に登場。現在も圧倒的に鄧氏姓が多い。鄧氏宋祠は1751年に完成、その後19837年と1883年に改修された。『三進両院式』の構造で、友恭堂と名付けられている。

 

青煉瓦の壁は豊かさの象徴、奥には歴代の宗家の位牌が置かれている。香港人でも外から来た人には珍しいと見えて盛んにシャッターを切る。香港人にしてもここは未知の場所であるようだ。決して観光地ではない、隠れた名所であろう。

(3) 太平清醮

太平清醮とは、複数の異性の氏族が共同で行う祭祀で、道士や僧侶が鬼神と交信する大規模な祭り。太平とは平穏無事を保つということ。10年に一度行われ、準備は1年も前から開始される。費用も最近は300万香港㌦程掛かっている。これを村人と海外に移住した華僑が賄うという。

道を進むとど派手な看板が道に並ぶ。そしてメイン会場近く、初めて多くの人々がいるのを見る。この人たちはどうやってきたのだろうか?龍舞を盛んに動かしている一団がいる。獅子舞が踊る。祭りである。

  

メイン会場に入ろうとすると、中には既に多くの人がいた。鉦や太鼓が打ち鳴らされ、龍や獅子が踊っている。漸く中に入ると大きな会場の前には各地の参加者が書かれた巨大な看板が置かれる。祭壇も置かれ、供養の食べ物も出される。饅頭もあるが、長州島の饅頭祭りほどの量ではない。

午後3時半、庭の真ん中には村民の代表として儀式を司る『縁首』と呼ばれる人々が龍に目を入れようとしている。本日のメインイベントの一つである。龍が輪の真ん中に近づく。歓声が上がる。テレビカメラが入る。非常に素朴な感じがする。祭りらしい感じがする。何故であろうか?祭りに関わる人が皆シンプルなTシャツを着ているからか?

(4)イベント会場

メインイベント会場に一足先に入る。中は非常に大きく、天井も高いが、何と竹で組まれている。中国的。この竹組みの会場をギネスブックに登録する動きがあるとか。確かにこれだけ巨大な竹で出来た施設は無いかもしれない。しかしこの会場は10年に一度の祭りの為に造られたもので、12月に粤劇が開かれるそうだが、その後保存する気があるのだろうか?それとも幻のギネス登録遺産となるのだろうか?

入り口から赤いじゅうたんが敷かれており、奥のほうに客席が、更に先にひな壇がある。ひな壇の後方には道教の神様が祭られている。本日はここでオープニングセレモニーが、そして12月にはここで粤劇が開かれる。

左後方には紙で出来た精巧な祭壇がある。各神様の名前が書かれており、中にはその神に纏わる伝承が紙人形などで再現される。先日お葬式に行った際に葬儀場で見た紙の人形、車、家などを思い出す。ここに飾られているものも最終日には全て燃やされるに違いない。

我々は式典が始まるのをじっと待っている。先程龍舞が会場に入り、勇壮な踊りを披露しながら段々と静かに一本の龍になり、その体を横たえた。その長さは数十メートル。よくもこのようなものを作ったものだ。何処に仕舞っておくのだろうか?との声が出たが、恐らくは紙人形同様最終日に燃やされるのだろう。何しろ10年に一度なのだから。

表では引き続き龍舞が行われ、獅子舞も賑やか。村の代表者も外で何かを待つ。神の到来を待つのか?残念ながら本日の主賓である民政長官の到着が遅れているとのこと。散歩メンバーからは『テレビのように早送りできないかなあ、足が痛い。』などの声が聞こえ出す。無理も無い、既に2時間以上立っている。

しかし普段せっかちなはずの私は、何故かこういう場合至極冷静、かつ時間が気にならなくなる。『日本人はいいとこ取りしようとし過ぎです。本物を見ようとする人は時間を気にしないものです。』などと自分らしくない言葉が口から出る。

4時50分、民政長官が到着。就任以来どんどん太っていると噂の人物が巨体を揺らしてくる。式典が始まる。前の方は貴賓席、しかし何故か西洋人が座っていたりする。訳が分かっていない観光客かなと思うが、この村からは大勢のオランダ移民が出ている。当然彼らはこの祭りの為に多大な寄付をしているはずである。それと何関係があるのではないか?

我々は後ろの方で立って見ている。村人が北京語で『何処から来たのか?』と話し掛けて来る。Sさんが日本人と答えると、嬉しそうに祭りのパンフレットをくれる。非常に素朴な人々である。

開会宣言、挨拶などが終わり、皆がメイン会場の反対側に設けられた祭壇に向かう。香を手向けるためだ。いよいよ本日のクライマックスが近づく。

(5)爆竹

香港では1967年の香港暴動以来、爆竹を鳴らすことが禁止されている。今回は実に37年ぶりに民間で爆竹を鳴らすことが許可されたということで注目が集まっていた。しかし爆竹は一体何処にあるのだろうか?

表に出ると左側に大きな紙人形が飾られている。その横に何故か大きな垂れ幕があり、電話番号が書かれている。花火屋さんの宣伝のようだが、どうやらその横に爆竹が仕掛けられているようだ。既に多くの人がその垂れ幕近くに集合していた。カメラマンが位置取りしている。間違いない。

『香港暴動』とは何か?『香港領事、佐々淳行』という本によれば、1967年に起こった中国の文化大革命に呼応した反英武装闘争であった。香港に戒厳令が敷かれ、爆弾騒ぎも相次いだ。その中で紛らわしい爆竹も禁止されたのだろう。

5時半を過ぎて辺りは暗くなり始める。香を手向けていた人の輪が緩む。人の輪が左側に傾く。すると突然爆竹付近の下から煙が。と思うと轟音と共に爆竹が炸裂。シャッターを切る手が震えるほど。そしてどんどん爆竹の線が上に上がり、十数秒後には音が止んだ。あっと言う間の出来事であった。写真が撮れなかったと悔やんだ人もいた。

翌日の新聞を見ると1面に『37年ぶりに爆竹、電子爆竹で』とあった。そうか、あれは危険を避ける為に電子制御された爆竹だったのか。長さ6m、200個の爆竹がセットされていた。1つ3万香港㌦。今後これを売り出し、爆竹を復活させるつもりらしい。尚本日の人出は八千人ということで、何万人ではなかったが多くの人が参加していたことがわかる。

今回の旅は昔の日本の祭りを思い出させる、実に不思議なものであった。参加者も多くが、1人では行けない場所に行けたこと、事前資料で多くのことが学べたこと、などから好評だったと思う。次回も続けられるかな??

 

香港歴史散歩2004(17)黄竹坑

《香港歴史散歩》 【香港ルート22 黄竹坑】 2004年10月22日

本日は重陽節で香港は休日。長男の中学最後の運動会ということで家族で香港仔の運動場(アバディーン スポーツグラウンド)に行く。天気は快晴、風は爽やか。多少暑くはあるが、運動会日和といえる。運動場のある場所は香港仔というよりは黄竹坑というのが相応しい。その昔は大きな河で周辺には黄金色の竹が茂っていたことから名付けられたという。黄竹坑は旧称を香港圍と言い、現在の香港という名称の起源とも言われている。19世紀初めには外国船が黄竹坑の沖に停泊。外国人が最も早く知った名前が香港圍であった為、『香港』と呼ばれるようになったとか。

1.大王爺廟

運動場の南側、香葉道を西に歩くと道の北側は古い工場ビル(フロアー毎に会社が違う香港的な工場)、南側は小さな河が流れている。直ぐに南朗山道との交差点に大王爺廟がある。20世紀初めにこの場所で一木造の神像が発見され、黄竹坑旧村に移したところ多くの人が参拝したという。第2次大戦後廟は別の場所に移されるが、1982年に元の場所に戻り1986年に廟が建てられた。

廟はかなり新しい為重みは無いが、壁には不思議なレリーフが嵌め込まれている。顔は人間のように見え、体は獅子のよう。何故ここにこんなものがあるのか?更にその横にはタイでよく見る四方に小さな仏像が入っている塔のようなものがある。どんな関係があるのか?堂内には大王爺の坐像が置かれている。大王爺とは明の太祖朱元璋の甥で後に奸臣に殺害された人物と言われている。民間信仰で神として拝められている。裏にはきれいな観音像と小さな仏像が幾つも置かれている。

 

2.黄竹坑石刻

南風道。大王爺廟から北に行き、黄竹坑道に出る。左に曲がり、先程の運動場を右に見て通り過ぎると南風道とぶつかる。南風道を登っていくと、右側に南風径が見え、旧村の看板が見える。

 

 

左側には工事中の現場があり、その脇にひっそりと階段がある。上がって行くとそこに『古代石刻』がある。大きな岩に螺旋の模様などが薄っすら描かれているが、言われないと分からない。3,000年ほど前の青銅器時代の文様に似ているそうで、その時代に先人がおり、描いたものと推定されている。香港にもこんな歴史があったのか?香港全体では8箇所ほどこういった石刻は発見されている。下には小川が流れ、小さな渓谷になっている。目の前が開発され、ビルでも建てば、折角の古代へのロマンも台無しである。

3.黄竹坑新圍跡

先程の南風径に戻り、旧村を目指す。10分ほど歩くとそこは香港仔トンネルの真横であった。古い家というよりバラック小屋程度の民家が数軒ある。多くの粗大ゴミが見られるので、どうやらここはごみ収集で生計を立てているらしい。犬が2匹よそ者の侵入に目を光らせている。しかし何で看板まで出してここに誘導しているのだろうか?

香港仔トンネル前の道を横切り、反対側へ。黄竹坑新圍がある。1890年に周一族によって建てられる。100年に渡って栄えたこの村であるが、旧村同様古い民家が数軒あるのみ。周りにはきれいな公園が作られており、既に歴史的な役割は終了した、といった印象。ガイドブックでは研究目的に2つの旧家が保存されているとのことであったが、探しても見つからない。1つの家が丁度修理中?であり、恐らくこの家が旧家であろう。家の前に門があり、中は天井が高い土間のようになっている。

香港島にもまだこんな場所があるのかと驚く。逆に言えば香港島は近年北側が急速に発展してしまい、南側の一部が取り残されていると言うことだろう。