「アジア旅」カテゴリーアーカイブ

《昔の東南アジアリゾート紀行》‐1992年 セブ

4.1992年12月 セブ

(1) 妊娠
家内が妊娠した。妊娠、出産で旅行などは無理であろうと思っていたが、良く考えて見れば彼女は長男を妊娠した際にも、安定期に私が赴任していた台北に来ていた。相談すると医者も直行便で近い所ならば良いとの話であったので、検討の結果フィリピンのセブに行くことになった。セブはこの月よりキャセイ、フィリピンエアーの共同運航で直行便が開設されていた。

(2) セブへ
キャセイのパッケージツアーには、エコノミークラス使用の他、ビジネスクラス使用のパックがある。今回は贅沢だとは思いながら、妊娠中であることを考慮してビジネスにしてみた。

実際乗ってみるとその便はフィリピンエアーの機体であった。スチワーデスも全てフィリピン人。又ビジネスクラスには我々3人の他、2人ぐらいしか乗っていない。確かに2時間半ほどのフライトで観光地にビジネスクラスで行く人はそうは居ないのかも知れない。

スチワーデスは手持ち無沙汰。3人ぐらいが長男のところに集まり、何くれと無く世話してくれる。フィリピン人は特に子供好き。長男はちやほやされていつに無くご満悦であった。(彼は1歳代から既に制服フェチ=JALキチであった?)

(3) マクタン島のホテル
空港に着くとそこはマクタン島である。今回予約したリゾートホテルはこのマクタン内にあり、便利。車に乗ると僅か10分で到着。車中からは畑と痩せた牛、掘っ立て小屋が見える等、決して豊かとはいえない。

ホテルは予想を下回るシャビーなものであった。実は翌年この島にシャングリラホテルが出来たが、この時点ではマクタン島のホテルは皆かなり年季の入った老舗リゾートホテルばかりであった。設備は古く、部屋数が少ないせいかレストランも1つしかない。ビーチも狭い。

部屋はそこそこ広いが、何と電話が無い。ルームサービスも洗濯物の引取りを頼むのも、全て自分の足でフロントへ行かなければならない。又冷蔵庫には飲み物が入っていない。これも自分で買いに行かなければならない。私が思い描いていた便利なリゾートホテルとは全く異なるものであった。正直ガッカリした。

しかし今考えてみるとこのホテルは本当の伝統的な長期滞在型リゾートホテルであったのかもしれない。そこに泊まっていた多くの西洋人は半月以上滞在していた。リゾートとは、非日常が基本。特に便利に慣れた人間には、偶にこのような環境が良いのかもしれない。

(4) ビーチ
ホテルの前に猫の額ほどのビーチがある。季節が悪いのか天気も良くなく、何となく涼しい。また海は決してきれいではない。今一つビーチリゾートが盛り上がらない。それでも長男は砂遊びが好きなのだ。ひたすら砂をいじっている。

こんな狭いビーチにも物売りのおばさんがいる。彼女らは拾い集めた貝殻で細工を作り売っている。家内は熱心に物を見て買っていた。しかし値段を聞くと結構高い。思わずそんな高いものは返して来い、等と言ってしまい喧嘩になる。今思い返すと二重に後悔する。1つは物売りのおばさんも観光客が減り生活が大変だということを考え無かったこと、2つ目は家内が一生懸命選んだものをけなした事。

おばさんの子供達もボートトリップの手伝いをするなど働いている。一度ボートに乗せてもらったが、コタキナバルのような無人島も無く、ただボートに乗っているだけで、面白くなかった。海がきれいでないこともあり、何の為に乗っているのか分からない。うちの子供の面倒を見てくれる子もいる。何だか物悲しい気分になる。フィリピンは景気が良くなく、又誘拐・強盗のイメージにより観光客が減少している。彼らは今後どうして行くのだろうか?でも、フィリピーノは皆明るい。それが救いである。

(5) 両替
しかし3日も居ると飽きてしまうのは仕方が無い。セブ市内に出る。ホテルで車をチャーターして行くしかなく、伝統的リゾートは高くつく。その費用を少しでも埋めようと、両替を市内のレートの良いところでしたいと思い、運転手に話すと連れて行ってくれた。街中の普通の家の前に車が止まる。家内と長男を車に待たせて、中に入ると何と、後ろでガチャンという音がする。鉄格子の扉を閉められてしまった。ここはフィリピンだ。背中が冷やりとした。

机におばさんが座り、ぞんざいな態度で『幾ら換えるんだ?』とフィリピン訛りの強い英語で聞いてきた。益々心配になってきた。しかし今更怯んでもしょうがない。思い切ってレート交渉を始めた。最初は英語でやっていたが、最後には何と北京語で交渉し、最初より少し良いレートで換えることが出来た。勿論財布からお金を出す時は最後の心配をしたが、杞憂に終わる。

(6) 街中
お金が入ったので、早速昼食に行く。街のレストランは安くて美味かった。新鮮な海鮮料理を思う存分食べた。ホテルの1つしかない、そして値段の高いダイニングがとてもみすぼらしく思えた。リゾートホテルに泊まるのも良し悪しだなと思う。

教会へ行く。カトリックが多いフィリピンの教会は荘厳な感じがする。道端では煩いフィリピーノがここでは静かに祈りを捧げている。教会の建物自体もかなり古いもののようで、重みを増している。

教会内で祈っているフィリピーノは皆知的な顔をしている。日本や香港に比べれば経済的には恵まれていないのかもしれないが、宗教に救いがある。日本にも、いや日本人にも宗教が必要なのではないかと、ふと思ってしまった。

(7) リゾートの鉄則4
伝統的なリゾートとは、不便を楽しむものである。

《昔の東南アジアリゾート紀行》‐1991年コタキナバル

3.1991年12月 コタキナバル

(1) 香港赴任
1991年2月に台北から香港に転勤した。そして5月に家内と長男を呼び寄せ、漸く家族3人の生活が始まった。私には夢というべきものは無かったが、何となく小さい子供を連れて旅行したいという気持ちはあった。

ところが最初の夏休みは家内の母が孫と離れて寂しそうだということで、日本に帰ることにした。但しただ帰るのでは面白くないので、福岡、長崎の旅をした後、実家に行ったのだ。長男は丁度何を見ても直ぐに触りたくなる年頃。福岡のホテルは日本的(かなり狭いという意味)で、ベットの上から何でも手に触れることができる為、世話が大変であった。

長男とは1歳3ヶ月まで一緒に暮らしていなかったので、香港に来ても今一つ懐いていなかった。公園に連れて行くと『ママ、ママ』と直ぐに泣き出し、周りのアマさん達から誘拐犯と間違えられそうになったこともある。

(2) タンジュンアルビーチ・ホテル
その年のクリスマス前(旅行費用が上がる前)、マレーシアのコタキナバルに行くことにした。理由はキャセイの直行便で2時間で行けること、空港からホテルまでが近いことの2つであった。更にホテルはビーチリゾートで、浜辺がある。何となく楽しそうである。

赤ん坊は航空会社の規定で2歳まではノーマル料金の10%で飛行機に乗れる。皆旅行は2歳前に行こうとしていた。(私は当時JALのカウンターで『うちの子供は6kgしかないので預ける荷物と一緒にして料金無料でいいでしょう?』と言ったところ、『それなら荷物ですから、万が一のことがあっても責任持てません。』と切り返され、スゴスゴ引き下がったことがある)。

コタキナバルのタンジュンアルビーチ・ホテルは本当に近かった。香港から飛行機で2時間ちょっと、そして空港からホテルまでは車で10分ほどであった。2歳前の子供を連れた者にとっては非常に便利である。

このホテルはシャングリラ系列で当時この街唯一の極めて豪華なリゾートホテルであった。部屋もゆったりしており、居心地も良い。今回はキャセイのパッケージツアーであったが、シーズンオフということで、シービューの良い部屋であった。尚このパッケージは往復の航空券、ホテル代(朝食付き)、ホテルまでの送迎が付いており、その後も良く使った。

ホテルには大きなプール、庭、ビーチがあり、大いに楽しめる。翌日プールに入っていると子供が他の子供と遊び始める。良く見ると日本人の子であった。後で家内が聞いてみるとコタキナバルとは目と鼻の先にあるブルネイに駐在する一家であった。ブルネイの首都バンダルスリブガワンには何とヤオハンがある。ここのヤオハンは王室御用達と言われ、王族が買うものは一般人には売らないと聞いた。靴1つが必要でもその店の在庫全てを買って帰るとのこと。また人口僅か30万人のブルネイでは石油により収入が豊富にあり、皆豊かである。普通のOLが通信販売でグッチやエルメスのバックを買っている。世の中には不思議な国があるものだ。

(3) ビーチ
3日目はビーチへ。ホテル前のビーチで砂遊びなどをしているとホテルの従業員が『ボートで無人島に行けばよい。海ももっときれいだ。』などとアドバイスしてくれる。ボート乗り場はビーチの端にあり、直ぐに行ける。但し本当に無人島なので昼ごはんや飲み物を持参する必要がある。

我々3人はボートに乗った。ホテルのランチボックスを持って。何だか子供の時以来のピクニック気分で嬉しい。20分ほどエンジン付きボートの乗ると周りは何も見えない海。そこに無人島が見えてくる。島には木が生い茂っており、ロビンソンクルーソーを思い出す。子供の頃一番好きだった物語だ。何時かクルーソーのように誰もいない所で暮らしたいと思っていた。

到着するとボートのおじさんは午後迎えに来ると言う。本当に取り残された感じ。周りを見ると既に西洋人が3人、香港系が3人、日なたぼっこをしていた。我々も早速ビーチで砂遊び。飽きるとシートで寝転がる。楽園である。昼飯もサンドイッチとフライドチキン、ピクニックである。

午後寝転んでいると、ボートが見える。岸に乗り上げると2人の人間がライフセーバーの格好で歩いてきた。私は丁度雑誌を読んでいたが、彼らは真っ直ぐ私の前にやって来て突然、『現地の人ですか(当地人)?』と何と北京語で聞いてきた。一瞬怯んだものの直ぐに『違う(不是)』と答えると、先方はかなり驚いて、シンガポール人か?香港人?台湾人?大陸人?と続けざまに聞いてくる。全て違うと答えると、途方に暮れたように『何人だ?』と聞く。日本人だと答えるとひどくビックリして、『日本人が北京語を話すのを初めて見た。』と顔を見合わせている。

その後彼らとは30分ぐらい話した。行き成り北京語で話しかけた理由は地元の人間でも中華系の彼らは先祖の出身によって広東語、福建語など使用言語が違うこと、若者は皆華人学校で北京語を習っており、共通語として使われていることなど。マレーシアはなかなか面白いところだとその時思い、その後ずっとマレーシア贔屓である。

しかしこの無人島で、しかも観光客しかいないはずの島で、何ゆえ私に北京語で話しかけてきたのか?それはとうとう分からなかった。横で家内が不思議そうに首を振り、『よっぽど現地人に見えたのね?』と頷いているのが、何となく悔しい。

(4) 食事
ホテルでの食事は2-3日で飽きてしまうが、子供が小さいとなかなか外に食べに行けない。彼は好きな時間に寝るし、食べられない物も多い。ホテル内では、例の海南チキンライスを見つけ、愛用。それとスチームボート。2人で食べるには多過ぎるが、このスープは美味しい。魚、野菜などがふんだんに入り、消化にも良い。それから一番リゾートらしいのが、プールサイドでフライドポテトを食べながら、コーラを飲むこと。毎日これをしていると極楽気分になれる。

(5) リゾートの鉄則3
現地に馴染むことは大切である。しかしあまりに同化してしまうのは如何なものか?

《深夜特急の旅2002-マラッカ編》

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』は約30年前の旅行記(?)であるが、何時読み返しても心踊るものがある。香港に住んでいるこの機会に名作の舞台を踏んでみることにする。尚順番はバラバラ、気が向いたときに出かけるスタイルである。

今回はこの旅を始めるきっかけとなったシンガポール・マラッカ。(『深夜特急2』)

1.2002年12月 シンガポール1(P177)
今回はマイレージが残っており、年末に失効することから何処でもよいので行ける所をANAに頼んだところ、UAのシンガポール往復チケットが手に入った。尚UAは先日米国で破産を申請したばかりで、あまり人気が無かったようだ。

いつでも感心するのが、シンガポールのチャンギ空港である。あの手際の良さは何であろうか?今回も午後11時50分に飛行機が到着したが、その後僅か5分で空港の外へ出てしまい(手荷物のみ)、タクシーに乗ると市内のホテルに12時15分にチェックインしていた。これは快感である。

最近のシンガポール旅行は家族連れであったのでフリーに歩くことが無く、今回は10年振りにチャイナタウンを訪れようと思っている。沢木氏はシンガポール全体に香港のような期待を掛け、そして落胆した。『とりわけ落胆したのはチャイナタウンだった。』という。香港の廟街のような活力は30年前既にシンガポールには無かった。

今回シェントンウエーのホテルより歩いて行く。本当にきれいな街並みだ。文句の付けようも無い。だがしかし物足りない。中国人がこんな環境に我慢できる訳が無いと思ってしまうのだ。しかし現実は目の前にある。規則を作れば、罰則を強く設ければ中国人も出来るのか?

チャイナタウンは驚きの一言だ。雑踏などは全く無い。高級住宅街のように静まり返り、澄まし切って佇んでいる。これでよいのか?思わず叫びたくなる。沢木氏も恐らく似たような感情を持ったのでは?

近くにはMRTの『チャイナタウン』駅が近く開通するようだ。横浜中華街もきれいであり、大陸中国人や台湾人を連れて行くと、きっと飯が不味いに違いないと思うようである。そうだとするとシンガポールはとりわけ不味いと感じるはずだ。買い物客は疎らだが、どうもマレーシア人が多いようだ。何か良いものでも売っているのだろうか?中国茶の店も見つからず、面白くない半日を過ごしてしまった。究極の社会主義国シンガポールの真骨頂を見る思いである。

2.ジョホールバル
(1)危機一髪?
シンガポールで2泊して、陸路歩いてジョホールバルに渡る。
ジョホールで一泊しようと思い、予め調べておいた国境近くのホテルに電話すると、何と経営が変わっていた。値段も高めなのでそれならいっそ一番良いハイアットリージェンシーに泊まる事にした。1泊ネットでM$230。朝食付き。これは安い。

国境からホテルまでタクシーで10分弱と言われたが、折角だからと歩いて行くことにする。少し歩くとジョホール水道沿いの広い道に出る。午後の日差しが強くなり、歩いていることを後悔し始めたその頃、突然小型車が私の横に停まる。運転手が『ここは歩行者通行禁止だ。私は道路管理公団の者だ。直ぐにこの車に乗りここを離れるように。』と公団の身分証を見せながら英語で言う。普通であればおかしいと思うべきだが、何しろ全てが規制だらけのシンガポールから来た為、そういうこともあるかと思い、車に乗る。

『何処に行くのだ?』『ハイアット。』『ジョホールバルには見るところは無い。ホテル代が勿体無い。次の目的地は何処だ?』?私は次の目的地を決めかねていた。はじめは東海岸に行くつもりだったが、シンガポールの友人にもホテルのフロントにも12月に東海岸に行っても波が荒くてシーズンオフだ、と散々言われていた。

私の目的地は何処だ?この時公団職員に目的地が言えないと『怪しいヤツ』と思われるのが嫌で、咄嗟に『マラッカ』と答える。どうしてマラッカなんだ??自分でも分からないが、何故か心の奥底ではマラッカが引っ掛かっていた。

『そうか、マラッカなら今日の内に行ける。俺がジョホールを2,3案内してバスターミナルに送っていこう。』と公団職員が言う。どう見てもおかしいことに漸く気付く。さて、どうしようか?意外と冷静に逃げ出す方法を考える。

直ぐ近くの墓地を通る。公団職員が説明を始める。少し話していると彼が本当の公団職員であること、偶々非番となり帰りがけにアルバイトをしようと声を掛けたのではないかとの推測が出来た。仲間がいて拉致されては大変だと思ったが、その確率は低いと分かり、突然助手席のドアを開け、バイバイした。彼は何か言っていたが、諦めて車を走らせた。

解放されて流石にホッとした。ジョホールバルの治安が悪いことは聞いていたが、まさか自分が巻き込まれるとは思いも寄らなかった。凶悪犯でなくて良かった。しかし自分が何処にいるのか分からない。大きな通りまで歩いたが、方向も分からない。バスが通るが、行き先が読めない。途方に暮れかけたときタクシーが来た。言葉が通じるか不安があったが、乗り込んでみると何と片言の日本語を話した。もしや又騙されるのでは?不安が過ぎったが、聞けば日系メーカーで働いたことがあるとのこと。ハイアットは何と歩いても行ける所にあることが分かり一安心。

(2)ハイアット
ホテルは立派だった。おまけに部屋はフル・ジョホール水道ビュー。気持ちが良い一枚ガラスで見晴らしは最高。これで朝食付き6,900円は格安。先程からの騒ぎで大汗を掻いた事もあり、早々にシャワーを浴びる。実に気持ちが良い。風呂場から直接景色が見える。シャワーが終わり、さて拭こうかと思ったが、何とタオルが一枚も無い。部屋はクーラーがガンガン利いている。全く拭くものがなく、びしょびしょの場合、人はどうするのだろうか?取り敢えずハウスキーパーに電話する。直ぐに持って来るとの答え。どうしてこんなことに?初めての体験である。

タオルは結局30分経っても来なかった。2回目の催促後10分して漸く人が来て事態を把握。その5分後にタオルを貰った時には既にほぼ自然乾燥しており、風邪を引く寸前だ。流石に腹に据えかねた。マネージャーを呼んだが来ない。その時知り合いが以前ここで会議を開催した時に不手際が多く、とてもハイアットのサービスではなかったと愚痴をこぼしていたのを思い出す。思い出すのが遅すぎた。

最終的に事件が起きてから約2時間後、マネージャーの男はやってきた。事情を聞くと一言、『洗濯物を出してください。全て無料で洗濯しましょう。』と提案する。これは有難いと沢山出す。しかしこの手際の良さは何だ。余程慣れているということか?

3.バトゥパパ
翌朝タクシーで郊外にあるラーキンバスターミナルへ。何故か昨日口に出したマラッカを目指すことにする。理由は無い。それが私の旅の流儀である。しかし不思議ではある。

ターミナルに行きマラッカ行きを探していると、小さな字で『バトゥパパ』の表示がある。何故かこれにも引っ掛かる。確かこの地名は金子光晴だ。金子は昭和初期に上海を振り出しに足掛け7年のアジア・ヨーロッパ放浪の旅に出た詩人で、マレーシアの滞在については、『西ひがし』『マレー蘭印紀行』に詳しい。何故か引き寄せられるようにバトゥパパ行きの切符を買う。M$6.95。沢木氏もシンガポールで金子の詩を読んでいる場面がある。

金子の文章は非常に暗く、内容も川底に引きずり込まれるような不気味な雰囲気をかもし出している。その中で彼は多くの日々をバトゥパパという今日の日本人は全く知らない土地で過ごしている。当時多くの日本人が東南アジアに出て貿易や資源開発で一旗あげようとしていた。バトゥパパはスリメダンの鉱山開発の集散地として開けた港町として、日本人クラブなどもある日本人の拠点であった。

当時シンガポールからバスで5時間掛かったようだ。本日ジョホールバルからバスに乗る。直ぐ着くだろうとたかを括っていたが、高速道路を外れてからは道も細い一本道になり、舗装していないところもあり、なかなか着かない。長閑な南方の風景を眺めながら漸く到着したときには2時間半は掛かっていただろう。どうやらこの辺りは昔の様子を十分に残していそうだ。

しかし本当に小さな街でこれがジョホール州第2の街かと思われるほど静かで何も無いところであった。昼間のせいもあり、人影も殆どない。微かに昔の隆盛を思わせる低層の建物が、数十年経っています(建物に建築年代が記されているものが多い)といった風情で強い日差しの中に建っている。少し行くと港が見える。かなり小さな港できっと100年変わらないのだろう。当地を訪れた日本人が必ず集まった旧日本人クラブの建物はそのまま残っていたが、気を付けて見なければ行き過ぎてしまう。今は華人が使っているのであろうか?

金子はこのクラブの藁床をこよなく愛した。そこが唯一の安らぎの場であったようだ。(何だか、深夜特急の旅ではなく、金子光晴の旅になりそうだ。)時代は満州事変の頃、シンガポールでは排日運動も盛んになり、蒋介石が華僑を使って宣伝工作を行っていた頃である。
何処にも身の休まる場所の無い旅人にとって、この街は落ち着いて、包み込んでくれるのかもしれない。そう考えると何となく理解できるところもある。

100年前に日本人が多く移住し、ゴム園を開いた街、金子の時代にはその最盛期に陰りが見え(だからこそ彼を引きつけたのだろう)、そして終戦で全て廃れた街。歴史に埋もれたこのような街は無数にあるのだろうか?金子が書き記したカユ・アピアピと呼ばれる火炎樹の木を探したが見当たらなかった。夜になると沢山の蛍が集まるというこの木はバトゥパパを象徴している。

私はこのバトゥパパに長く留まることは出来なかった。バスの時間が来たからではない。どうしても物悲しい気分になり、どうしても深く暗い思いに浸ってしまうのである。例えそれが、南の国の強い太陽の刺激の下であってさえも。

4.マラッカ(P144-148)
(1)マラッカの祝日

バトゥパパにいたのは僅か2時間。マラッカに向かう(バス代M$5.9)。バスの時間もいい加減で席もあって無きが如し。乗り切れずに降ろさせている人もいる。バスは海岸線を北上する。2時間ほど田舎の風景が続き、そしてマラッカ着。

ガイドブックは持っていたものの、自分が何処に着いたのか全く分からない。市内に行くバスがどれかという表示も無い。変なおじさんが寄って来てホテルを紹介するというが断る。隣に英系スーパーTESCOが見えるので、そこから市内のホテルに電話を入れる。何と意外な事に何処も満室で断られる。こんなことはマレーシアでは初めてだ。確かに今日は土曜日だが・・・?

何とか市内に出るため、タクシーを捜す。やっと見つけた運転手は中国系で北京語が通じた。何故か分からないが今日は至るところが通行止めで市内に行くタクシーなど無い、とのこと。結局バス停に戻るとさっきのおじさんが市内行きのバスの番号を教えてくれる。満更悪い人ではなかったようだ。バスに乗ると車掌のおばさんが『何処に行くのか?』と北京語で聞いてくる。どう言って良いか分からず、『華人街』というと怪訝そうな顔をして切符をくれる。30分ぐらい乗っていたところ突然多くの人が降りる。おばさんが『降りろ』という。またまた何処にいるのか分からない。

目の前にマコタホテルという字が見える。さっき電話して断られたホテルだ。ダメもとでフロントへ。アジアでは直接行けば何とかなることが多い。しかし、ダメだった。何と言おうと部屋は無いという。本当に途方に暮れる。既に夜の7時になっている。未だ外が明るいのが救い。その時はたと思いついた。何故私はマラッカを目指したのか?そう、夕日を見る為??

マコタホテルを出ると向こうの方に立派なホテルが見える。さっき電話した中で繋がらなかった『ホテルエクアトリアル』である。思い足取りで向かう。かなり疲れており、精根尽き果てようとしていた。もし断られたらロビーに座り込むつもりであった。(昔中国でよくやった)

恐る恐るフロントへ。正に運命の一瞬、と思ったら、フロントの女性がにこやかに『お一人ですか?』と日本語で話す。この驚きは文章では表現できない。女神が目の前に立っているのである。彼女は正真正銘の日本人。今日はマラッカのスルタンのオープンハウスディで、全国から多くの人々が来ており、何処もホテルは満員であることが語られる。しかし、彼女は『幸い最後の1室がご用意できます。』という。悪運は全て振り払われる。

部屋代を聞くことも忘れて部屋を確保。観光客も来るが、日本人出張者が多いこのホテルの部屋代は若干高めのM$270。部屋はタバコ臭くて古くてお世辞にも良いとは言えないが、贅沢はいえない。部屋代に朝食代の他、M$88分の食事代が含まれていることが分かる。

殆ど外が見えない窓から外を見ると、夕日が落ちて行く。急いで外に飛び出す。しかし遅かった。既に海に消えていた。明日もここに滞在することが決まった。何しろ旅の目的が夕日を見ることだから?

(3)2日目のトライ
早朝から市内散策に出掛ける。ポルトガル風砦跡、教会、マラッカ王朝の宮殿(復元)などを見る。何となく、マカオを歩いている部分と日本を歩いている部分があるのが面白い。瓦屋根が多いせいであろうか?

沢木氏も言っている。『マラッカに立ち寄ってみるつもりになったのは、何もポルトガル人の築いた砦やザビエルの像を見たかったからではない。』私もそうなのだ。夕日を見る方法を考える。以前は海辺に出れば何処でも見られたかもしれないが、今は高架道路があったり、建物があったりして、意外と見え難い。ガイドブックを見るとマラッカ郊外にリゾートホテルがある。そこに行けば完璧だと思い、予約する。

そのホテルは西に10kmは離れていた。M$20でタクシーに乗り、海岸線を走る。ビーチは無く、建物も少ない。リビエラホテルに到着。M$258と高めだが、部屋は寝室がセパレートされたセミスイート、カウンターバー、バルコニーもあり、部屋も広く、リゾート気分。部屋からはマラッカの海が一望出来る。部屋から出ると裏側は吹き抜け、民家や畑が良く見える。これなら夕日は問題ないと思う。

日中は涼しい部屋かプールで過ごし、夕方散歩に出る。夕日を意識して西に向かう。ところが西側に岩があり、夕日を遮りそう。漸く漁師の船がある気持ちの良いビーチに着いて、そこの流木に腰を掛け、1時間ほどもボーっとしていた。至福の時間が過ぎた。何も考えない、何も耳に入らない。

とうとう夕日が沈み始めた。しかしその時信じられないことが起こる。急に雲が現れ、日を隠してしまい、そのまま夕日は海に消えてしまう。自然とは恐ろしいものだ。又香港や日本でなら、この理不尽な状況を大いに嘆くところだが、素直に明日に賭けようと思う。

ついていない時は重なるもので、ホテルに戻る時近道をしたところ、目の前に小川がある。簡単に越えられると思い、飛んでみたが両足を捻る。歳を感じると共に明日が思い遣られる。

(4) 3日目のトライ
リビエラホテルでもう一日滞在し夕日を待とうとも考えたが、このホテルも高い割にはしっくり来ない。朝日に輝くマラッカの海は最高だったが?

12時半のシャトルバスで市内へ。乗客が一人のため、チャイナタウンを指定し降ろして貰う。マラッカ川の辺にヒーレンハウスという小ぎれいでレトロなゲストハウスがある。あの2階の窓を開けて川面を見たいと思ったが、生憎2階の5部屋は一杯で断念。それならば話の種にとババハウスへ。

初めてババニョニャハウスに踏み込む。数百年前にマレーシアに移住した華人男性が『ババ』、ババと結婚したマレー系女性が『ニョニャ』でその子はプラナカンと呼ばれる。150年ほど前まではこの辺りはオランダ人の住居であったが、その後ババ・ニョニャが移り住み、現在は観光地化している。

ハウスは間口が狭く、入ると大きなホールがある。フロントもそこにある。祭壇などが置かれ華人風。次の間は吹き抜けになっており、気持ちが良い中庭。椅子が置かれ本なども読める。次にテーブル・椅子などがある、食事をする間であろうか?そしてその奥に部屋がある。入り口から裏までかなりの距離がある。京都の家が似ているようだが?風通しが良い造りだ。私は3階に上がり、一番奥の部屋に入る。部屋の前には大きなバルコニーがあり、椅子に座ると気分良く、眠たくなる。部屋はこじんまりしているが、シャワートイレ付き。エアコンもあり快適。

午後は川べりのおしゃれなレストラン『ハーパース』でアイスティーを飲む。気持ちよい風が吹くベランダに座る。ゆっくりとした時間が流れる。ところがボーっとしていると何故か地球の歩き方を片手に持った日本人の50代の夫婦が2組も入ってきた。最近は熟年個人旅行がブームなのか?

マラッカ川のボートトリップに参加。西洋人が多く乗船。M$8、小1時間。川を逆走して船は進む。川べりの民家は立派なものも結構あり、川を中心に栄えた様子が分かる。水上生活者は多くは無いようだ。川べりや橋から子供が懸命にボートを眺めている。自分の子供も昔はああだったなと思う。

ババハウスに戻ると横にマッサージ屋を見つける。横というより建物の一部に店を出している。ここのオーナーはスキンヘッドのにーちゃんでバンコックでマッサージ修行をしたという。何時戻るか分からないとのことであったが、おばさんが一人留守番している。この人が足マッサージ師であると分かるのにかなり時間を要したが、それは彼女がタイ人で5ヶ月前にここに着たばかりだったからだ。

棒を使って行う痛いマッサージを受けながら、聞くところに寄ればにーちゃんに頼まれて来たもののマラッカは小さな都市で楽しみも無く、言葉も通じず良いことは何も無いという。一生懸命揉んでいる姿を見ると、何だか『からゆきさん』を連想してしまう。戦前多くの日本人女性がここマラッカにもやってきたことだろう。おばさんにはかなりの哀愁がある。いつかこのおばさんの物語を書いてみたい気分。マッサージ代M$25。

午後7時になった。今日こそは夕日を拝まなければ。海の方に歩いて行くと埋立地があり,そこが開けていた。後で聞くとマコタパレード付近の桟橋が良く見えたようだが、この埋立地には地元の人が犬の散歩などに訪れていた。

雲が出ている。しかし私の願いが届いたかように雲が黄金に輝きだし、後光が差してきた。雲の合間からゆっくりと日が落ちるのが見えた。近くの船も皆停止し、夕日を眺めている。1つのショーがゆっくり終わった。

私は学生時代に沢木耕太郎の『深夜特急』を読んだはずである。しかしそれから20年一度も思い出すことが無かった。それが突然何の前触れも無く、記憶が蘇った。『マラッカの夕陽』はそれほどまでに魅力的だったのだろうか?いや、現在の私が最も欲しているもの、それがマラッカの夕陽であったのだ。もっと自由に生きたい、人間の本能ではないのか?

沢木氏が見た『巨大な夕陽が水平線とはるか向こうの地平線をかたちづくっている岬との間に、落下するように沈んでいった。』とは又違う夕日であった。兎に角旅の目的は達成された。

因みにマラッカの夕日については、戦前詩人金子光晴が『窓から見る他所の家と家の間の屋根越しのせせこましい落日の空は、七珍万宝が彩られ、その先に大宴会でも始まっているような華やかさを見せていた。司祭の身に纏う金襴の袈裟のようであった。』と伝えている。

5.シンガポール2

あの沢木氏でも1泊しかしなかったマラッカに3泊もしてしまった。最初のホテルの日本人女性も1日あれば十分と太鼓判を押したマラッカに3泊もした。しかし夕日を見るためだけに3泊もするような、そんな馬鹿な旅が私は好きなのだ。クアラルンプールへ行って、航空券を買い直して香港に戻ることも頭を過ぎった。そうすれば次回KLに行く口実も出来る。最終的にはそうしないで、敢てシンガポールに戻ることにした。それは沢木氏が敢てシンガポールでカルカッタ行きの切符を買わずに、バンコックまで2日間掛けて戻り、インド航空と交渉したこととは無縁である。

ババハウスの人に聞いて、長距離バスターミナルへ。何とそこはチャイナタウンから歩いていけるところにあった。マラッカに着いたあの日だけ、バスターミナルが郊外に移動していた為、分からなかったのだ。ターミナルに行くとシンガポール行きは11時の1本と言われる。30年前と同じだ。但し私は乗り合いタクシーなどの存在は知らない。タクシーは停まっていたが、シンガポールまで行きそうなものは当然無い。沢木氏は30年前M$8でシンガポールまで行ったのだが。

何処かに何かあるはずと見ると裏のほうに別のバス会社がある。30年前と違いバス会社は何社かあるのだ。バス代はM$22。1時間後の切符を購入して悠々としていると、何とその又裏には15分後出発がある。急いで払い戻しに行ったが、受け付けない。その内北京語でワーワー言ったら半分返してくれた。これまた急いでバスに乗り込む。バスはリクライニングシート、エアコン付きで快適。

途中で昼食となり、肉まんなどを頬張る。また紙コップに入れたスイートコーンは実に美味しい。軽食が良い。沢木氏は辛いマレー料理に挑戦していたが、バスの旅では体調管理が重要。

30年前タクシーで5時間掛かったマラッカーシンガポールの旅は今でもバスで5時間掛かる。国境で運転手に聞くとここで運転手が代わるので、シンガポールの何処に停まるのかは知らないという。まあいいや、なるようになれ、シンガポールは問題ないはずだ。

ところが降ろされたところは何の目印も無い、バスターミナル。周りはきれいな高層住宅が並ぶ住宅街でどうしてよいか分からない。先進国の住宅街の真ん中に取り残されることは先ず無いので、珍しいなどと思ってしまう。

バスが通っているようなので、近くのおばさんに聞くと地下鉄まで直ぐだという。ラベンダーという可愛らしい名前の駅から地下鉄に乗り、オーチャードロードへ。そういえば、ラベンダーは先日ジョホールバル行きバスに乗ったブギスの隣の駅である。何だアラブストリートかと思う。沢木氏は30年前タクシーをアラブストリートで降り、宿を取る。このストリートを日本で言えば、アメ横か浅草橋などと表現していたが、今では再開発され小ぎれい街に変身している。

オーチャードでホテルを探そうと考えていると携帯がなる。何とかみさんから『今日の紅白自分で見てね、ビデオ取れないから。』と何とも能天気な電話である。そうか今日は12月31日の大晦日。じゃあ、紅白でも見るか?それでは良いホテルに泊まらないと衛星放送が見られない。自分に言い訳しながら、良いホテルを探す。

半ドンで既に業務時間外の旅行社のおねえちゃんを捕まえ、アレンジを頼むも相手が皆休みに入っていて予約できない(勿論お金を払えば幾らでも取れるのだが、厳しい要求により相手がギブアップ)。助言により自分でシェラトンに電話すると直ぐにS$180で部屋を用意してくれた。シェラトンはやはり立派でチェックインしてこの値段が如何に安いか良く分かる。しかも歩いて直ぐにニュートンサーカスという屋台街もある。

ところがニュートンサカースで早めの夕食を取ろうと行くと、これが完全な観光屋台街。値段も高いし、何より日本語で話しかけられるのには、幻滅する。結局麺を食べて早々に退散し、暖かい布団に潜り込み紅白を見る。ビールを飲んで2002年も1年が暮れた。深い眠りが訪れた。

ヤンゴン散歩2014(9)賑わうジャパンフェスティバル

ジャパンフェスティバル

今日はJETRO主催のジャパンフェスティバルへ行く。昨日のエンタメの裏側、いやこちらが表だ。入口でいきなり、キッコーマンとエースコックが試食を行っている。良いにおいがしている。中に入ると日本企業が約200社、ブースを構えていた。飲食、家電から日用品まで、これだけの有名企業が来るというのは余程ミャンマーが期待の市場なのだろう。いや、熱がまだ冷めていないということか。

 

DSCN9616m

 DSCN9617m

DSCN9650m

会場内はミャンマー人で溢れていた。こちらも日本企業への期待が感じられる。食品や文具などは結構売れている。ヤクルトなどは早々に売り切れたらしい。ケースが空だった。『昨日の日曜日はあまりに人が多くて、休む暇もなかった。今日はかなりマシだ』とある企業関係者は言う。『ミャンマーには日本滞在経験のある人たちが予想以上に多いので、彼らが懐かしんで買っていく』との話もあったが、富裕層は以前からヤンゴンのスーパーで高い日本製品を買っていたのだ。

DSCN9634m

 

自動車以外の殆どの業種が売り込んでいた。ミャンマーは本当に市場になるのだろうか。韓国勢との競争に勝てるのだろうか?

 

レストランはお客にドネーション

TTMとランチ行く。最後の食事なので普通のミャンマー料理を選択。ビュッフェ形式でおかずを自分で取る。スープも無料だし、ラペソー(食べるお茶)も出て来る。結構うまい。外国人旅行客もガイドに連れられてきている。自分で選べるのが良いのだろう。

DSCN9656m

 

レストランでは飲み物も無料で出されるなど、何だか得した気分。だが中国などの考え方では『これはサービスを見込んで料金を設定している』と思ってしまうが、TTMによれば、『これはオーナーのドネーション。儲けばかりを追っていては、結局儲からない。常に店のオーナーはドネーションを行うのがミャンマー流』とか。

DSCN9661m

 

この考え方、今の中国と日本に欲しい!お寺に寄付する以外にも、お客に還元していく、大事なことだ。これが長く社会が回る仕組みではないだろうか。

 

お寺ライブ

そしてTさんに紹介されたお寺へ行く。既に講堂には小学生が沢山集まっていた。そこへ昨日の井上ジョーと黒宮ニイナが現れる。NHKワールドの番組収録なので、いきなり講堂には入らず、お寺の付近を歩き、住職から話を聞く。井上君は英語も流暢で、驚く。黒宮さんは勿論ミャンマー語と日本語の通訳を引き受ける。地元メディアも取材に来ており、反対に質問を受けたりしている。

DSCN9675m

 DSCN9691m

予想はしていたが、全然予定通りには始まらない。住職は自分が言いたいことをどんどん言い、黒宮さんは通訳に苦労している。そしてようやく講堂に入ると子供たちの出し物が始まった。それが延々と付き、番組ディレクターも困り果て、住職が子供たちを制した。

DSCN9709m

 

そしてTさんが指導したという日本の歌、『四季のうた』を子供たち代表が歌う。何となくちょっと違うような気もしたが、先ずは歌ってくれることが嬉しい。歌い終わると井上君が一人一人にノートとお菓子を渡す。みんな誇らしげにそれを貰う。良い光景だ。

DSCN9720m

 

とうとう井上君の演奏が始まる。音楽があれば言葉は要らない。彼は結構なパフォーマーで子供たちの頃を掴んだ。ギターを弾きながら走り回る。大喜びだ。ちょうどのその時、私の出発の時間が来た。井上君に感想を聞きたかったが、その時間は残されていなかった。

DSCN9756m

 

ネット繋がる空港

空港までは30分もあれば行く、ということだったが、かなりの渋滞に巻き込まれた。まあ、乗り遅れたら、また泊まればいいや、ぐらいな感じで焦りはなかった。出発1時間前には空港に着き、チェックイン。

 

チェックインカウンターでは、私の荷物を計り、重量オーバーで預け荷物となった。こうなることを想定して初めから20kgまでの料金を払っていたから、問題はないのだが、ドムアン空港では何の問題もなく手荷物に出来たのに、とちょっと不満。

 

ここでTTM、SSとお別れ。でもまたすぐに会えそうな気がしていたので、あっさり別れた。空港内ではネットが無料で繋がった。これはかなりの進歩だ。ミャンマーは確実に進んでいる。これからも来るたびに変わっていくのだろう。

 

日本経済研究所月報コラム「アジアほっつき歩る記」第26回「ミャンマー ヤンゴン最新事情」http://www.chatabi.net/colum/750.html

出雲一人旅1999(2)歴史の宝庫 松江

3.松江
(1)松江の宿
松江に着いた。正直疲れていた。何はともあれ今日の宿を探し、風呂に入りたい。どこに旅館があるのか分からないので、ガイドブックで適当な所に電話を入れる。1軒目は満室だと丁重に断られる。2軒目で出た男性はやはり満室だと言いながら、何となく不審な声であった。当日突然やって来た者を受け入れる雰囲気がなかった。

疲れが倍加した。ちょっと重い気分で受話器をとり3軒目へ。野津旅館は快く受け入れてくれた。しかも駅から歩いて5分ぐらい。早々行ってみるとかなりきれいな旅館である。4年前に改装したそうだ。元々は明治36年開業の老舗旅館。良いところに宿を取った。ここの4階にはきれいな大浴場があり、露天風呂も付いていた。こんな松江の街中に露天風呂とは?しかも目の前は宍道湖に流れ込む大橋川。部屋に入って5分、大の字になると疲れが吹き飛び、市内散策に出掛ける。

(2)松江城
大橋川沿いを歩く。松江大橋を渡ると両側に旅館がある。右側は先程宿泊を断られた大橋館。小泉八雲がこの場所にあった富田旅館で宍道湖の景気を眺めながら執筆活動をしたという。左側には鯛めしで有名な皆美。

その北側には土産物屋が並んでおり、更に行き堀を渡ると松江城が見えて来る。1611年出雲城主堀尾茂助が築城した。全国で天守閣を有する12の城のうちの一つ(山陰では唯一)。堀尾といえば、若い時に秀吉に見出された男。土豪の出であった彼は山内一豊などと共に秀吉の家来となり、関が原では東軍へ。戦後息子の戦功もあり、松江に封じられた。

この城は華美を一切排除して、実践重視で造られている。もう一月すると桜がきれいに咲くのであろうか?石垣の石が鮮やかである。坂を登っていくと観光客が沢山いる。天守閣に登る。地下には籠城用の貯蔵倉庫があり、石垣に近づく敵を防ぐ、石落しがある。寄木の柱は普通の柱より強さがあるという。最上階6階(約30m)から見る松江はなかなか素晴らしい。まさに一望出来る。宍道湖は輝いている。反対側は遠くに田畑が広がる。城の裏手より出る。鎮守の森が広がる。

(3)小泉八雲
『耳なし芳一』『むじな』などの作品で知られるラフカディオ・ハーンは数奇な運命を背負っている。1850年にアイルランド人の父とギリシャ人の母の間にギリシャで生まれる。6歳で両親が離婚、アイルランドの大叔母に引き取られたが、16歳で左目を失明。父も病死し、翌年大叔母が破産する。19歳でアメリカに渡り、24歳で新聞記者になり、40歳でハーパー紙の特派員として来日。

東京帝国大学のチェンバレン教授などの紹介で、松江に英語教師として赴任。住み込みの女中として世話を焼いた小泉セツと結婚。松江の風物を気に入っていたようだが、右目が寒さに耐えられず、嘉納治五郎が校長を勤めていた熊本五中に移った。

八雲が松江で書いた『忘れえぬ日本人の面影』には松江で起こった心中事件が語られている。又日本人の微笑みの意味を理解しようとし、また他の異国人に伝えようという姿勢が見える。夫が死んだのに笑っている女、黙って叩かれた後腹を切ったサムライ老人など理解出来ない日本人が登場する。

塩見縄手の最北端にある小泉八雲記念館には八雲ゆかりの品々が展示されている。武家屋敷を改造している。隣には小泉八雲旧居がある。やはり武家屋敷である。奥さんセツは武家の娘である。八雲は『庭のある侍の家に住みたい』としてここを借りた。新婚生活を送った場所である。枯山水の庭を八雲は気に入ったのだろうか?

(4)松平不昧
更に八雲旧居の隣に田部美術館は茶道をテーマにしたユニークな美術館。これが博物館でなく、美術館であることが不思議である。田部家は山陰の山林王と呼ばれ、相当の財力を武器に茶器を集めたようだ。勿論不昧公ゆかりの茶道具も並んでいる。

松平不昧は松江藩七代目藩主。1751年生まれ。17歳で藩主となり、藩政改革を行うなど業績を上げた(しかしその方法の中には農民の年貢を上げる、商人からの借入を一方的に帳消しにするなど荒っぽいものがあったとか。)。若い頃から茶の湯を習い、藩財政が豊かになるに連れて、名物茶器の収集に没頭。遂には『古今名物類聚』18巻を著す。

美術館の横の石段を上がる。結構急である。上には明々庵がある。元々有澤家に不昧好みの茶室として造られ、不昧も度々訪れたという。『明々庵』の額は不昧公直筆。その後東京の松平家などを転々とし、1971年に現在の地に移築された。

この茶室は非常に形が良い。藁葺きの屋根も落ち着きがある。遥か向こうを見ると松江城が僅かに見える。ここで抹茶を頂く。私は抹茶を飲むことは殆どないが、この茶室の横にある新しい建物に入り、畳の部屋で抹茶と和菓子を頂く。他に客もなく、落ち着いた気分になる。

(5)宍道湖
レイクラインという観光バスに乗る。これは松江市の名所を1時間でぐるっと1周する。なかなか便利な乗り物である。疲れたので宿の方角に乗る。ところが方向を間違えており、反対に宍道湖のほうへ向かう。松江温泉で降りる。松江温泉には大型のホテルが数軒軒を並べている。一瞬ここに宿を取るべきだったと後悔したが、近くに大型観光バスが数台停まっているのを見て思い直す。きっと夜は騒がしいに違いない。

宍道湖は周囲48kmで全国6番目に大きな湖。中海と繋がっているため、海水を含む淡水であり、宍道湖七珍と呼ばれるほど魚介類が豊富。湖畔に出ると心地よく散歩ができる道がある。千鳥公園があり、休む。

曇りがちの天気であったが、薄日が差してくる。まるで私が湖畔に来るのを待っていたかのように、徐々に夕日が大きくなる。大きくなりながら、日が沈んでいく。非常に幻想的な景色である。さすが神の国、と思ってしまう。ここ宍道湖は夕日が有名であるが、こんな夕日が見られるとは思っていなかったので、感激である。因みに夕日を長い間眺めた後、湖畔を歩いていくとオープンしたばかりの県立美術館が見えた。非常に立派な美術館であったが、時間が遅く入管できなかった。

宿に戻って4階の露天風呂に入る。実に気分がよい。極楽である。思えば本日は山の中あり、湖ありでよく歩いた。その疲れが吹き飛ぶほど風呂はいい。夕飯は狭い食堂で一人で食べた。なんとなく寂しい感じであったが、よほど気分がよかったのか、ビールを一本頼んで飲む。ほろ酔い気分に疲れた身体とくればすぐに寝入ってしまった。

3月10日
4.風土記の丘
(1)県立八雲立つ風土記の丘資料館
翌朝爽快に起き上がる。7時には朝ごはんを食べる。旅館の朝ごはんであり、この焼き魚が美味かった。旅館に荷物を置いたまま早々に出掛ける。目的地は八雲立つ風土記の丘。出雲神話のハイライトである。

駅前からバスに乗り20分。県立八雲立つ風土記の丘資料館に着く。広い公園である。なだらかな丘陵となっており、如何にも神話の世界を感じさせる。資料館の建物自体が前方後円墳の形をしているのがユニークである。考古学上有名な荒神谷の銅剣、邪馬台国の卑弥呼のものと言われる「景初三年」銘入りの三角縁神獣鏡など、出雲地方全土で出土された数々の土器、銅鐸、埴輪などが展示されている。

外には岡田山古墳がある。久しぶりに古墳の全景を見る。隣にもう1つある。大きい方は直径43m。小さい方は24m、全国的にも有名になった「額田部臣」という文字が入った大刀や馬具、鏡が見つかっている。近くの畑の中には岩屋後古墳もある。一体誰の墓であろうか?古代出雲にはかなりの集落が存在している。

しかしここにいると何故か落ち着く。何となく遠くの方を見ている自分に気付く。日頃は遠くを眺めることなどないのである。目の前のことに囚われ、目先のことしか見ていないことを反省する。これも神のなせる業であろうか??

(2)神魂(かもす)神社
八重垣神社に向かって歩き出す。普通はバスに乗っていくのだろうが、天気も若干寒い程度であるから、歩きたい気分になる。道はよくわからないが、何とかなるだろう。いい加減さが出た。

すぐに出雲かんべの里と書かれた看板がある。普通であれば入ってみるのであるが、何だか人工的な感じがして素通りする。ここ出雲では自然であることが望まれる。道端に小さな花が咲こうとしている方が大きな発見である。

ゆっくり歩いて10分ほどで神魂(かもす)神社に到着する。桜の並木を過ぎると本殿が見える。これはすごい。古さの中にきっぱりとした形が見える。1346年建造で、1583年に再建された現存する最古の大社造り(国宝)である。荘厳という言葉がぴったりする。

高床式で実にシンプル。周りは森閑とした木々に囲まれており、神の存在を感じさせる。名前の由来も神座所(カムマス)から来ているらしい。霊験あらたかである。規模は出雲大社の半分であるが、観光地化されていないせいか、こちらの方がよほど緊張を覚える。境内には非常に珍しい貴布禰、稲荷両神社が並ぶ二間社流造りの神社もある。国の重要文化財となっている。さり気なく建っているが、室町時代の創建。このあたりの奥の深さは相当なものがある。

(3)八重垣神社
神魂神社から八重垣神社までは直線距離では大したことはない。地図でも近そうであったので、気軽に歩き出す。何しろ神魂神社を見た後である。目を瞑って歩きたい。少なくとも車には乗りたくない。田畑の間を抜け、学校の横を通り、集落をいくつか過ぎた。早春の爽やかな散歩を十分に楽しむ。20分は歩いた頃、ようやく八重垣神社が見えてきた。ちょっと疲れる。

日本最古の和歌といわれる「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」でしられる神社。須佐之男命と稲田姫が祭神。昨日の須我神社と同じ由来(元々八重垣神社も須我神社の場所にあった)。出雲大社と比べても由緒は正しい。

須佐之男命と稲田姫が結婚(日本で初めて??)後新居とした場所であるということで八重垣神社は『縁結びの神』として有名である。本殿から小高い奥に歩いていくと木立に囲まれた所に池がある。鏡の池と呼ばれ、稲田姫が鏡の代わりに使った池といわれている。

多くの女性観光客が来ている。普通は年配者が多いのだが、ここには若い女性も結構いる。恋占いという如何にも女性に受けそうな作業がこの池で行われる。まず神社の社務所に行って100円で占い用紙を購入、この紙の中央に10円もしくは100円を乗せそっと鏡の池に浮かべると文字が現れる。次にこの紙が池の中に沈むまでの様子で良縁を占う。15分以内に沈むと早く良縁に恵まれ、30分経っても沈まない時は縁遠。また近くに沈むと近くの人と、遠くに沈むと遠くの人と縁があるらしい。

これまで古代の日本を歩いていた私であるが、突然現代に引き戻された感じである。近くの女性の話しを聞いていると夢もロマンもない。紙が沈むことにのみ囚われていて、歓声を上げているが、ここの由来などにはまったく関心がないのであろう。残念であるが仕方がない。帰りもおばさんの集団と一緒にバスに乗る。うーん、本当に古代ロマンと現実のギャップに苦しむ。折角神魂神社で得た古代神話の叫びが掻き消えていく。

出雲一人旅1999(1)須賀神社はどこ

〈出雲一人旅〉 1999年3月7-12日

一昨年(1997年)日本で初めての一人旅、みちのく一人旅を敢行した。この旅で日本にもまだまだ面白い旅が出来る余地があることを感じていた。丁度1年半経ったところで第2弾として出雲一人旅を考えた。今回の目的は出雲の須賀神社を訪れること。自らの出自と関係があるのであろうか?全国にある須賀神社の元締めを目指してみよう。

3月7日
1.出雲へ
(1)夜行列車
昔中国留学中に夜行列車に何回も乗った。勿論快適ではなかったが、夜汽車には何となく味がある。日本に戻ってからも夜行に乗ってみたいと思い、結婚して直ぐに夜行で金沢に行ってみた。中国の列車より快適な車両であるにも関わらず、何故か良く眠れないし、味わいも得られなかった。

今回10年振りに夜行列車に乗ってみることにした。知り合いから『サンライズ出雲』に乗れば、快適に出雲大社まで連れて行ってくれるといわれたので、信じることにした。確かに飛行機で一っ飛びでは、味気ないし、私の旅でもない。

夜10時東京駅から出発。狭いながらも個室である。同じ車両にシャワーもある。確かに快適である。東海道線を西へ向かう。直ぐに電気が消される。個室なので自室では何時でも起きていられる。することは何も無い。

ガイドブックを開くが、あまり興味が沸かない。今回も行き当たりばったりの旅である。どうとでもなれ、である。東京駅で1冊の本を買った。眠れない時の為に読む推理小説だ。その名も『出雲殺人事件』。木谷恭介という作家のものだ。勿論題名だけで買ったのである。2時間ほどであっと言う間に読んでしまった。ガイドブックより役に立ったかもしれない。

その後電気を消したが、やはりよく眠れない。右耳を枕につけて横になると線路を走っている音がリズミカルに響く。浜松で停車後は名古屋、米原、そして大阪を通過していく。5時半頃姫路に停車。殆どうつらうつらした状態である。やはり夜汽車は鬼門か?こうなると早く降りたい。

岡山で降りようとしたが、何となくやり過ごすと、朝の素晴らしい風景が見えてきた。眺めていると眠たくなる。気が付くと米子を過ぎており、松江まで行くことにする。しかし時刻表を見ると目指す神社は出雲市に行った方が良いことが分かる。僅か15分我慢して、ようやく10時過ぎに終点出雲市駅で下車する。12時間の列車の旅である。正直疲れた。

3月8日
(2)出雲大社
駅前からバスに乗る。出雲大社行き。ゆっくり20分ほど乗る。正門前で下車。腹が減る。列車に揺られて12時間。食欲がなくなっていたが、老舗の蕎麦屋を見て入る。出雲蕎麦、色が黒っぽく、蕎麦の香りが強い。やはり美味しい。

曇り空の参道を歩く。松並木が荘厳な感じを与える。この並木がかなり長い。向こうに鳥居が見えてくる。少し行くと拝殿がある。例の4回手を合わせる。自分に2回、相手に2回だとも、『しあわせ(四合わせ)』から来ているとも言われる。賽銭は45円(しじゅうご縁)が言いとされるのも駄洒落か??

本殿は1744年に再建されたもので高さは24m。現存する日本の神社で最も高い。大社造りとよばれ、最古の神社建築の様式である。屋根に特徴がある。桧皮葺。しかし平安時代の口ずさみによれば、本殿の高さは東大寺の大仏より高い、48mであったとしている。『雲太・和二・京三』、出雲大社が一番、大和の大仏が二番、平安京の大極殿が三番目に高いという意味である。

古代はもっと高かったという話もあるが、これは無理のようで背後の山を言ったものであろうという。古事記、日本書紀にも国譲り神話として登場。国を譲るように天照大神に迫られた大国主命は壮大な宮殿の建造を条件にして承諾。以降この宮に入って神事のみを司ったといわれている。

また高橋克彦氏の小説『竜の柩』では、大国主命は幽閉されたのだと言う。その幽閉場所として出雲大社は造られた、だからこれほど巨大な建造物になったと解く。本殿の扉が正面に付いていない、神様の位置が正面にない、などの例を挙げている。大社造りが日本で一番古い形式であると言うのにも疑問を持っているようだ。面白い。実際に出雲大社が何時造られたのかは分かっていない。659年に出雲国造に建てられたとの説があるが、これは熊野大社であると説もあり一定していない。

神楽殿にあるしめ縄もすごい。あまりの太さに圧倒される。長さ13m、太さ8m。日本一の大きさと言われている。このしめ縄にお金を投げて上手く挟めるとご利益があるそうだが、当日そんなことしている人は誰もいなかった。鬱蒼としている本殿裏に彰古館がある。大正時代の木造建築であるが、味わいがある。中には沢山の仏像が置かれている。左甚五郎や高村光雲の作品もあるという。この辺まで来ると出雲神話が現実のものとなって表れてきそうだ。

(3)日御碕
出雲大社を2時間ほど歩き回ると疲れてきた。やはり夜行列車の疲れが出ている。目的地須賀神社には明日行くことにして、早めに本日の宿を探すことにする。出発前にある人から出雲大社に行くなら、日御碕の国民宿舎に泊まるといいよ、とアドバイスを受けていたのでそうすることにした。

バスに乗って日御碕へ。約10kmの道のりである。バス停から坂を登ると三階建ての建物が見てくる。日御碕灯台の直ぐ手前である。1泊2食付で6700円。部屋はシービューである。言うことは無い。お客はあまり多くないようだ。

日御碕灯台は明治36年(1903年)に初点灯された歴史ある灯台。岬の突端に建つ。高さが43mで東洋一高いと言われている。因みに海面から63mにもなる。高所恐怖症ではあるが、登ってみる。なかなか厳しいのぼりで息が切れる。上からは全てが一望出来る。当日は曇りで小雨がちらつく生憎の天気であったが、もし快晴なら素晴らしい景色であろう。

バス停の方に戻ると日御碕神社がある。非常に立派な楼門が目に入る。この神社も出雲風土記に出て来る由緒正しい神社。出雲に着てからは、何を見ても由緒正しそうに見えて困る。

神社の近く、海岸線から海を眺めると向こうに経島という小さな島が見える。島に渡ることは出来ないが、歩いていくと鳥見台と呼ばれる場所がある。12月頃にはウミネコが飛来して卵をかえすという。現在は静かな空間になっている。3月の平日の夕方、このあたりはとても寂しい。

天気が悪いため、夕日も拝めず早々に宿へ帰る。お客さんが少ないので、食堂も閑散としている。夕食も早々に片付け、風呂で疲れを取り、就寝。翌朝も天候が優れずに遂に太陽を拝むことは出来なかった。きっと何かの罰当たりであろう。因みにこの国民宿舎を今回ネットで検索したが、出て来なかった。お客の少なさから見てリストラの対象になった模様である。残念。

3月9日
2.須我神社へ
(1)須賀神社はどこに
朝のバスで日御碕を離れ、出雲市駅に戻る。8時半の山陰本線に乗り、宍道へ。そこで木次線に乗り換え、出雲大東駅で下車。この間、実にローカル色の強い電車に乗る。特に木次線ではかなり山奥に入っていく印象があり、今後の旅の困難さが思いやられる。子供の頃に経験したセピア色の電車の旅が思い起こされる。

ここからバスに乗るようであるが、バス停も見付からない。駅の人に聞いて探し当てる。そこには古い映画のロケが出来そうなバス停、いやバスターミナルがある。大正時代の雰囲気がある。木造の待合室のだるまストーブから湯気が出ている。毛糸の帽子を被った近所のオバサンたちが皆知り合いといった感じで談笑している。

大体このあたりの地名の読み方が難しい。先程通って来た宍道は『しんじ』と読むし、木次線は『きすきせん』と読む。何と須賀神社だと思っていたのが、『須我神社』だという事実に初めて気づく。何だ??

おばさんたちの会話も分かり難い。そういえば、松本清張の『砂の器』という名作の冒頭に犯人が秋田弁を話していると思っていたら、島根の山中と秋田弁の発音が同じであったというトリックが登場する。このあたりは奥が深そうだ。などと考えているのはバスが来ないのである。1時間後に来る。ローカル線だから仕方が無いが、距離的には左程無いから時間が勿体無い。でもその時間が今の私には大切。急がない、焦らない。隣のオバサンが私に興味を持って『どこいくの?』と聞いてくる。確かにこんな所で30代の男が平日にゆっくりバスを待っていれば変に思われるだろう。

ようやくバスが来る。といってもここには何台ものバスが停車しており、おばさんに言われて気が付く。もし声を掛けてもらえなかったら、更に1時間半ここにいなければならなかった。感謝、感謝。バスは直ぐに冬枯れた田畑の道を行く。林も多い。こんな所へ来てしまったことを正直後悔するほど何も無い。直ぐに海潮温泉の看板が見える。こんな山奥に温泉がある。どうせなら温泉にでも浸かってからゆっくり歩いて神社に行こうかとも考えたが、平日の午前中のこと、果たして湯に入れてくれるかどうかも分からない。ここから神社までの距離も分からないので断念して、兎に角先に進む。

(2)須我神社
それから10分ほどして、突然左手に建物が見える。ここが『須賀』というバス停である。思い切って降りる。勿論誰も降りる人はいない。そして周囲には一人も人がいない、山ばかりに囲まれてしまった。

取り敢えずこの建物を覗いて見るが、鍵が掛かっている。どうやら神楽をやる場所のようである。如何にも出雲らしい。天照大神の天の岩戸や須佐之男命の大蛇退治、大国主命の国譲り神話などが演じられるのであろう。出雲は全ての国の源、全てはここから起こっている、何故であろうか?そういえば海潮温泉が近くにある。そこには昔から海潮神楽と呼ばれる神楽がある。

後ろに回るとそこに神社があった。これこそ今回の目的、須我神社である。実は須賀神社は全国どこに行ってもある。東京は四谷にあるし、宮崎に行った時も大きな神社があった。極めて全国的なのである。これも不思議なことである。特に謂れなど聞いたことがなかった。

神社自体は決して大きなものではなかった。石垣の上に小さな本殿があったが、それだけだった。神社の謂れが書かれていた。須佐之男命が天から降りてきて、暴れまわっていた八岐大蛇を退治。その後稲田姫を娶り、この地に日本で初めて宮を建てたというもの。つまりは須佐之男命の住居があった場所である。そうか、ここは大蛇退治の話と結びついているのか?主祭神は須佐之男命と稲田姫、夫婦円満、児授かり、出産の守護、除災、招福の守護が授かるという。

須佐之男命とは何者か?

神社はこれだけであったが、ここから2km入った山奥に奥宮があるという。ここまで来ては行くしかない。次のバスまで2時間半。十分行って来られると思い、山に向かう。ところがこれはとんでもないことであった。

(3)奥宮
歩き始めると農家が点在している。ゲートボールをやる公園がある。おばあちゃんたちがゲートボールをしている。田舎では楽しみが少ないのであろうが、農閑期に体を動かすには丁度良いのであろう。

ゴミ回収場所も頑丈なかごの中に指定されている。このあたりもカラスが多いのであろうか?または野良犬でもいるのであろうか?中国の田舎を歩くとそこらじゅうゴミだらけのところがあるが、日本の田舎は実にきれいである。

登りに掛かってくる。畑を避けるように道がカーブを描いている。ゆっくりゆっくり登る。所々に農家がある。この家はいったい何時からあるのだろうか?古代出雲の時代から綿々と受継がれた農業がここにあるのでは?各家では必ず犬を飼っている。家に近づく度に吼えられる。確かに怪しい人間がたった一人で聖地に登って行く。犬も吼えたくなるだろう。

30分歩いても到着しない。道を間違えたのか?しかし間違えようが無い、一本道なのだから?それでも不安がよぎる。道はどんどん登り、所々で素晴らしい下界の風景が見える。この山の名は八雲山。『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」と詠まれ、この八雲山一帯は和歌発祥地となっている。そんなことを思い出していると、荘厳な森の中、ようやく石段が見えてくる。

須賀神社の名の由来も須佐之男命が住居を探してこの地を訪れた際、『気分がすがすがしい』と言って、住居を構えたことから来たと言う。ここ八雲山から見る風景はまさにすがすがしいと言えるだろう。

まさに苔むすという言葉がぴったり。ひっそりとした石段、文学碑の径。和歌の聖地として数々の歌い手が詠んだ八雲山。両脇には碑が並んでいた。石段を登って行くと、何故か声が聞こえてくる気がする。心の中に飛び込んで来る。私の心の中にも何かが隠されている、そんな感じを持つ。

山の斜面に夫婦岩と呼ばれる洞窟のようなものがある。ここが奥宮である。如何にも古代出雲を感じさせる。神話の世界に紛れ込んだようだ。誰一人いないこの山奥で私は神に触れるような気持ちでいる。こんな気持ちになったことは生まれて初めである。信仰というものは、このような雰囲気の中で何かを発見していくことなのであろうか?現在の日本人には日常神を意識する、仏を意識する環境が全く無い。信仰するかどうか別として、偶にはこんな静かで、厳かな気持ちを体験することが必要だと素直に思う。

因みにここ奥宮は須賀神社奥宮と呼ばれており、須我神社とは我の字が違う。何故なのであろうか?全く分からない。きっとすごい謂れがあるのだろう。

既にここまでで1時間半以上が経過していた。予想以上に時間が掛かる。足が少し痛い。須我神社に戻ることにする。しかし下りの方が楽かといえばそうでもない。箱根駅伝の難所は箱根の山登りと言われているが、実は翌朝の山下りの方が数段負担が掛るらしい。山登りは往路のゴールがあり、ドラマが生まれ易いことからハイライトされているのだろう。

1時間掛けてゆっくり降りればバスには間に合うはずだが、せっかちな私にはそういうことは出来ない。もし間に合わないと更に1時間半待つことになる。流石にここにこれ以上滞在することは難しい。しかも本当に疲れてしまった。神の国に来てまで、このバタバタぶりは恥ずかしい。

足を引きずるように山を降りた。結局40分ぐらい掛かっただろうか?兎に角バス停に腰を下ろす。少しすると反対側にバスが停まる。小学生低学年の子供がランドセルを重そうに背負って降りてくる。そして元気に走り出す。下界に戻った瞬間である。

バスに乗って松江に向かう。実はこの神社に来るには松江からバスに乗れば僅か40分なのである。何ゆえこんな苦労をしてここに辿りついたのであろうか?それが私の道なのであろう。バスに乗っている間目を閉じていた。

みちのく一人旅1997(4)平泉から多賀城へ

5. 平泉
(1)平泉へ
昼ごはんを食べていないことに気が付いたが、バスが出るというので慌てて乗り込む。慌てなくてもよいのだが、この辺に日頃の癖が出てしまう。どんなにリラックスした、計画の無い旅をしていてもこれである。情けない気分である。バスは1時間ほどで盛岡に到着。確かに速い。冬の東北を高速道路であっと言う間に通り抜けた。電車の場合、途中の駅で停まるので、その場所の歴史や名所を探してみたりするが、バスは何にも引っかかることなく過ぎて行ってしまう。ちょっと残念。

盛岡駅からは普通電車で平泉までゆっくり行くことにする。電車の時間までに駅構内でうどんを食べる。盛岡に来たのだから、冷麺でも食べればよいのだが、私にはご当地の自慢料理を食べる習慣が無い。電車はバスと違って本当にゆっくり走った。一駅一駅丁寧に停まり、そして丁寧に出発する。ローカル線の旅はなかなかいいものである。まあ乗ってくるのも地元の高校生ぐらいなもので、乗客も少ない。ゆっくりと景色を眺める。と言っても冬枯れた平野か刈り取られた田んぼかであるが。

(2)平泉の宿
1時間20分で平泉駅に到着。日は西に傾いていた。流石に観光地だけあって案内所などが駅前にあった。が私は今日の宿を自分のガイドブックから選ぼうとしていた。それは初日にガイドブックから選んで良い宿が取れたことによる。見ると平泉にも温泉宿があるという。ところが電話しても誰も出ない。しつこく3回ほど電話してみたところ、やっと人が出た。しかし『この宿は先日倒産しました。』というもの。ちょっとビックリした。景気が悪いのであろうか?何か変な投資でもしてしまったのか?さあ、どうする??

ガイドにもう一つ国民宿舎というのがある。これは2食付で6400円程度と安い。しかし簡単に泊めてもらえるものであろうか?先日房総の方に家族旅行しようとして国民宿舎を申し込んでみたが、2カ月前にはがきで申し込むなど面倒であった。ところが電話すると問題無く泊まれるという。バスで10分ということで行って見た。尚バスは1時間に一本しか無いが、幸いにも直ぐに来た。5分ほど町並みがあり、あとは畑。到着してびっくり。何だかお城みたいなところである。こんな立派な国民宿舎があるのか?正直驚きである。規模もかなり大きい。全部で72部屋あるそうだ。棟も2つに分かれている。展望風呂がある。平泉の町が見下ろせる。これは極楽だ。夕飯も大食堂で食べる。本日の夜も泊り客はそれなりにいて、風呂も食堂も結構込み合っていた。

名前も衣川荘といい、衣川資料館もある。NHKの大河ドラマ『炎立つ』で見たとおり、ここ平泉には中尊寺を中心にした藤原文化がある。同時に安部氏の歴史もある。そして芭蕉の句でも有名である。確かに歴史的には面白い。

(3)毛越寺
既に午後3時を過ぎている。しかしこのまま宿に居るのも勿体無い。バスは来ないので歩いて散歩に出る。歩いて20分ぐらいで駅の近くに戻る。何故か毛越寺に行って見ようと思う。毛越寺は850年頃に慈覚大師が東北巡業の折、この地に小さな堂を建てたのが始まり。藤原二代基衡が造営した。往時は全山で40の堂を持ち、中尊寺を凌ぐ勢いであったが、度重なる火災で大半を焼失。現在は平成に建てられた本堂と大泉が池を中心とした浄土庭園がある。

浄土庭園は平安時代の貴族の遊び『曲水の宴』を再現。庭園の鑓水に杯を浮かべて流れに合わせて和歌を読むもので優雅な遊びである。ここに藤原氏一族が遊び、義経も遊んだかもしれない。冬の夕暮れが迫っていたが、何だかすがすがしい気分になる。そしてこの何倍もの敷地を造営した藤原氏の壮大な夢を思う。俘囚の地と朝廷から蔑まれたこの奥州に楽土を築く、その栄華は長くは続かなかったが。

毛越寺を出ると掲示板に付属寺院であった無量光院跡が示されていた。ここは三代秀衡が造営。毛越寺より一回り大きかったと言うから相当の規模である。ところが藤原氏滅亡と共にこの寺も消えてしまう。行って見るとそこは広大な田んぼ。稲刈りも終わった何も無い田んぼ。中にポツンと掲示板がある。無量光院跡の説明があるが、ここを訪れる人はいるのであろうか??奥州藤原氏は確かに800年前に滅んでいる。そう思わせる遺跡である。

11月20日
(4)中尊寺
翌朝は早く起きて宿の周りを散歩した。この宿は城のような造りになっている。散歩は城から出て城下へ行くような気分である。しかし藤原氏の時代は江戸時代のような城は無く、この辺りは柵と呼ばれる囲いがあっただけだろう。兎に角周囲は田んぼで、この宿が周囲の目印になっていることには違いが無い。

朝食後チェックアウトして、駅へ向かう。コインロッカーに荷物を入れるために。それから中尊寺へ向かう。宿と駅の間に中尊寺が存在する。何故こんな面倒なことをしたかというと、それは疲れである。そして里心が付いたというか、家に戻りたくなったのだ。

中尊寺、それは藤原文化、平泉文化の象徴である。毛越寺同様、慈覚大師が建立。その後前九年の役(朝廷と安部氏の争い)、後三年の役(清原氏と清衡の争い)を経て奥州を平定した初代清衡が再興。長年の戦で戦没した兵士の供養が目的。清衡は藤原氏に繋がる藤原経清と安倍貞任の妹との間に生まれた。前九年の役では自分の目の前で父親が鋸引きで殺され、母親と共に捕らえられる。母親は安倍氏を裏切った清原氏に嫁いだ。そして清原氏の子として育つが、弟家衡と争い、その際妻子を見殺しにしている。最後には源義家の助けを借りて弟を破り、東北を平定していく。後三年の役である。

これだけの体験をしている清衡であるから、平和を願う気持ちが伝わってくる。朝早く中尊寺に入る。実にすがすがしい。月見坂を登る。両側の木立が静けさを誘う。非常に荘厳な印象受ける。本堂過ぎて、金色堂が見える。金色堂は歴史の教科書で写真を見たことはあるが、現物を見るのは初めて。東北の中心として建てられた中尊寺の中心に相応しい佇まい。黄金が殆ど剥げ落ちてしまった外壁という感じであるが、かえって落ち着きがある。

堂内には中央の須弥壇に清衡、左の壇に基衡、右の壇には秀衡の遺体と泰衡の首級が収められている。阿弥陀如来、観音菩薩、六地蔵が鈍い金色を放っている。もしこの堂が伝わっていなければ奥州の地にこれほどの財力と文化が出現したことを誰も信じないであろう。奥の細道の中に芭蕉の句として『五月雨の降のこしてや光堂』というのがある。金色堂の脇に1746年に建立された記念碑が建っている。しかし芭蕉が訪れた頃は財宝も散逸し、堂も朽ち果てていたようである。尚平泉は本当に観光地である。中尊寺の拝観料が800円、毛越寺が500円。これまで青森・秋田が何となく安かったので、非常に物価が高くなったのを感じる。

(5)高館
中尊寺で気分が落ち着く。ゆっくり寺をあとにする。踏切を渡る。小山があり、下に湧き水がある。近所の人が水筒に水を汲んでいる。『卯の花清水』。ここで弁慶が水を飲んだらしい??花が生けられていたりする。『卯の花や兼房見ゆる白髪かな』という曽良の句碑がある。兼房とは義経夫人と若君を泣きながら刺し殺したと言われている守人である。

高館は義経の館があった所と聞いていたが、それにしてはかなり急な石段を登る。太い幹の杉木立が素晴らしい。本当にこんなところに館があったのであろうか?高館、源頼朝に追い詰めたれた義経はここで自刃する。弁慶も立ち往生の逸話を残して死ぬ。義経堂は1683年に義経を偲んで建てられた。ここからは北上川が良く見える。蛇行している様子もはっきり見える。西行が見事な桜を詠んだ束稲山もきれいに見える。衣川ではかつて前九年、後三年の役が繰り広げられた。私にとってはすごくいい風景であるが、ここで最後を向かえた義経はどんな風景を眺めたのであろうか?

もっとも義経北方伝説がある。高館では死なずに、八戸から青森を経て、十三湊に逃れた。十三湊は安倍氏の末裔が治めていた。義経を襲った泰衡が本当は逃がしていたと言うのがその根拠である。泰衡は蝦夷ではないが、蝦夷との繋がりを大切にしていた。それで十三湊である。そこからモンゴルに渡ってチンギスハンになったというのは大げさ過ぎるが、北へ逃れた可能性は大いにある。

芭蕉がここを訪れたのは義経堂が建てられて直ぐ。平泉に来て最初にここに登っている。『夏草や兵どもが夢の跡』、有名な句で教科書にも必ず登場する。金鶏山を借景とした広大な庭を有した秀衡の館跡は田んぼになっていた。確かにここ平泉は樂土の夢の跡なのかもしれない。

6.多賀城
(1)多賀城へ
高館に立っていると突然多賀城へ行って見たくなる。何故なら芭蕉が歩いた壺の碑と蝦夷を苦しめ続けた政府軍の居城跡を見たかったから。駅に行くと東北本線は1時間に1本しかない。丁度10時台の1本が来る。乗り込む。ローカル線である。一ノ関を過ぎ、小牛田駅だったか、駅の前に日本ケミコンという会社の工場がある。この会社は実業団の女子駅伝で有名なので知っている。特に高橋千恵美選手は力強い走りで目を引いていた。

と思っているとジャージ姿の女性が一人でスーと乗ってきた。見ると何と高橋千恵美さんである。これには本当に驚いた。そして動揺してしまった。周りを見渡すと、何と1車両に私と彼女の2人しか乗っていなかったのである。彼女を知っているわけでもなく、彼女はアイドルでもなく、何と話しかけてよいか分からない。しかも2人きりだから、彼女を驚かせてしまう可能性もある。ここは黙って見送ることにした。心の中で頑張って欲しいと願う。そして彼女は途中駅で静かに下りていった。

私が願ったからではないが、その後彼女はシドニーオリンピックの1万メートル代表となり、日の丸をつけて世界の舞台を走った。それをテレビで見て、感動してしまった。結果は15位だったが。98年のバンコックアジア大会の1万メートルでは3位に入っている。翌年の世界陸上でも5位。しかし同じ高橋でも尚子選手は98年日本最高記録でマラソン優勝、2000年は金メダル。千恵美選手はどうしても地味な存在ではあるが。その後腰痛で引退し、母校の教員をしているが、2005年にフルマラソンに挑戦して復活を遂げている。嬉しい。現在彼女は29歳である。まだまだこれから。私が見かけて時は21歳で最盛期であったのだが、これから更なる活躍を期待したい。

(2)多賀城
今時刻表で見ると多賀城駅というのは2つある。国府多賀城駅と多賀城駅だ。しかし国府多賀城駅は2001年に地元の要請で新たに作られている。私が行った1997年には松島で乗り換え仙石線の多賀城駅に到着した。(現在多賀城は国府多賀城駅の北側にあり歩いて直ぐ。)駅前には何もなかった。方向だけを確かめて歩き出す。曇り空で肌寒いが、既に青森・秋田で訓練を積んでおり、楽に歩ける。2kmぐらい歩くと、東北歴史資料館という建物が見えてくる。

1975年に開館したこの資料館は多賀城から発掘された文物を展示するだけでなく、古代東北の歴史を多角的に解説している。非常に貴重な資料館である。これまで脈絡無く辿って来た私の旅も、ここで一気に纏めに入る。しかし冬の平日ということか、入館する人は殆どいない。やはり東北の歴史に関心のある人は多くないのであろうか?残念な気分である。また2時から解説員が1時間を掛けて史跡を案内するとのことであったが、誰も参加者がなく行われなかった。

更に1km以上歩く。ようやく小高い場所が見えてくる。多賀城跡である。表示が無ければ通り過ぎたかもしれない。古代東北への関心がここにも表れる。但しここ多賀城はそれでも史跡が保護されている方であるという。奈良時代以前の全国の国府などの史跡は、殆ど保護されず、今は残っていない。それでも歴史の教科書では必ず習う多賀城である。坂上田村麻呂とセットであるかもしれないが。

この当時の城は全くの平城である。蝦夷を抑えるために720年前後に建造されたこの城は780年の伊治呰麻呂の乱で焼失。その後再建されるも坂上田村麻呂は鎮守府を新設した胆沢城に移した。869年には大地震があり、その後城が再建されたかどうか不明である。有名な多賀城ではあるが、実はその歴史は短く、そして謎も深い。

現在は整地されたきれいな場所となっており、ここで合戦があったことや蝦夷が苦しんでいたことを偲ぶものなどは何も無い。作家高橋克彦氏はその小説、『風の陣』の中で蝦夷と多賀城、朝廷軍との関係、民の苦しみ、物部氏の関わりなどについて、克明に書いている。三内丸山遺跡を見てきたこともあり、もっと古代東北の歴史を勉強しようと強く思う。

(3)壺の碑(多賀城碑)
ところで公園のようになっている一角を緩やかに登っていくと瓦葺四面格子の古い堂が見える。1660年頃に掘り出された『壺の碑』が中に安置されている。かつて都の歌人達に陸奥の歌枕として認められていた壺の碑と混同され、有名になった。これは多賀城碑と呼ぶべきものである。芭蕉も1689年にここを訪れている。水戸光圀が伊達家に保護するようアドバイスして、覆堂が作られた。

田辺聖子は『おくのほそ道を旅しよう』の中で、格子戸に顔を押し付けてうかがうと、碑面の字はよく見えた、としているが、当日は曇り空でかなり薄暗く、私にはよく見えなかった。

尚1950年には青森で『日本中央』と書かれた自然石が発見されて、伝説の壺の碑ではないかと話題となった。こちらが歌枕として詠まれた碑であろう。因みに高橋克彦氏はこの『日本』をヒノモトと読み、須佐之男命が降り立った出雲の肥の川のこと、肥(ヒ)のモトであるといっている。出雲を追われた一族は東北で繁栄していた。つまりは独立国家を築いており、朝廷も一目置いていたという。日本中央は『ヒノモトの中央』という意味で東北の中心に置かれてと言う説である。なかなか興味深い。

その後この多賀城碑は偽物であるとの説が流れていたが、現在では本物と認定されている。堂の中は薄暗く、文字は読み取れない。資料によれば、多賀城は神亀元(724年)年に大野東人が建造し、天平6(762年)年に藤原朝獦が改修した、とある。ということは朝獦がこの碑の製作者であろう。

藤原朝獦はあの道鏡と争った藤原仲麻呂(恵美押勝)の息子である。ということは奈良朝廷の中枢にいた人間の息子がここ陸奥にいた。何故であろうか?それは黄金の力であろう。朝獦はこの年、参議に列せられており、絶頂期であった。2年後には父親が失脚するのであるが・・??大野東人は一族が壬申の乱に敗れた側に属していた。それで陸奥へ志願したとも言われている。朝廷の陸奥経営に大きな役割を果たしたと思われる。司馬遼太郎は『人の記憶から忘れたれた東人を顕彰してくれたことがありがたい』と言っている。

奈良時代の東大寺の大仏建立に際して、聖武天皇は全国より金を集めたが、陸奥から黄金が献上される。749年のことである。この黄金を持って東大寺の大仏は完成する。日本では取れないといわれていた黄金が産出される場所として、一躍脚光を浴びる。恵美押勝は時の権力者として当然黄金を求め、息子を派遣したのであろう。そしてこの争いは結局780年の伊治呰麻呂の乱、坂上田村麻呂とアテルイの戦いに発展。陸奥に平穏が訪れることは無かった。

また碑には『多賀城から京まで1500里、蝦夷120里、靺鞨まで3000里』などと各場所との距離を示している。陸奥の中央として多賀城があったことが分かる。蝦夷とは衣川辺りからであろうか?先程私が辿ってきた道はまさに蝦夷への道であったのだ。また靺鞨とは当時のツングース系の渤海国。727年に日本に使いが着ており、朝廷としても渤海までを意識していたことが分かる。

芭蕉も奥の細道の中で『疑いなき千歳の記念』として、この碑を見たことを非常に喜んでいる。長生きしてよかったといった感じである。尚その頃は掘り出されて直ぐであり、現在のように堂に中に仕舞われてはおらず、この碑の圧迫感は相当のものがあっただろう。芭蕉にとってこの壺の碑は前半のハイライト、後で訪れた野田の玉川・沖の石、末の松山などの歌枕は多賀城碑と比べれば『こしらえもの』という感じだ、と田辺聖子は言っている。私も同じ印象を受けた。

(4)仙台
午後3時頃に仙台へ向かう。元来た道を引き返す。昼飯も抜いていた。何だか疲れが出て来た。そろそろ東京へ帰ろうという気分になる。電車は1時間に3本あり、直ぐに乗れる。僅か15分ぐらいで大都会へ出る。昨日同様駅でうどんを食べる。本来なら牛タンぐらいは食べないといけない所だが、お土産に買っておく。また本来なら仙台付近を散策すべきであるが、直ぐに新幹線に乗って帰ることにする。実は仙台にはいい思い出が無い。

18歳の時、ここに受験に来たことがある。何故か滑り止めとしていた大学まで含めて受験した全ての私立大学を落ちていた。かなり落ち込んだ状態でここにやって来た。受験の日一日だけいたのであれば、あまり印象も無いと思うが、確か3日ぐらい泊まったのである。当時高校では受験生を纏めて1つの宿に泊めて、OBが面倒を見るシステムを取っていた。

同級生は修学旅行生並みにはしゃいでいた。OBの大学生は大学の何たるかを教えるべく、色々と言ってきた。しかし私はこの大学を落ちれば大学に行く可能性はなくなる。そういう状態であった。精神的に更に追い込まれてしまい、結局受験に失敗した。希望学部は文学部、やりたかったことは史学。今30代半ばにして18歳の時を取り戻す気にはなれなかった。仙台は鬼門である。

帰りの新幹線は物凄く速かった。東京を出てきた時が嘘のように快調に走った。私のこれからの人生も快調に走るのであろうか?古代東北への思い、これは私の胸にかなり重く圧し掛かってきた。高校生以来の生涯のテーマではないかとの予感がした。

 (完)

みちのく一人旅1997(3)最後のバスでストーンサークルへ

3.十和田湖
(1)八甲田山
実は老人とバスに乗っている時、最初に聴いたことはこれからどこへ行ったら良いかということ。自分がどこへ行くかも分からない何て、と思うが、一人旅の良さを味わいたかった。風の向くまま気の向くまま。老人は一言、『十和田湖を見たらいいだろう』と言う。突然そういうことになってしまった。事前のイメージでは津軽半島か、下北半島か、であったからこれは驚きであるが、勧めに従う。

十和田湖へはバスに乗っていく。バス停で2時の切符を買う。老人が宿も予約したほうが良いというので、そのバス停で適当な宿を頼む。昼ごはんを食べていないことにやっと気が付くが、時間が無いのでコンビニで肉まんを買って食べる。

バスに乗ると誰も乗っていない。間違えたか??5分前に若い女性が2人乗ってきた。何と3人を乗せてバスは定刻に出発した。市内を少し走ると直ぐに畑が見えてくる。そして山を登り始める。八甲田山である。登っていくと何と雪が降り始めた。社内はシーンとしている。2人の女性も十和田湖に行くのであろうか??

雪の八甲田といえば、明治35年(1902年)の弘前第八師団の雪中行軍による遭難事件を思い出す。210人中199人が死亡するという前代未聞の事件である。新田次郎の『八甲田山死の彷徨』を読んだのは中学生だったろうか?吹雪の中で1つの決断が全ての生死を分ける、厳しい現実を思い知らされた。

風が出てきた。非常に綺麗な雪景色、雪が舞う。弘前第八師団の雪中行軍の時も最初はこんな穏やかな雪であったろうか?みるみる地表が雪に覆われる。バスはゆっくり登っていく。司馬遼太郎の北のまほろばでは、ロシアの南下に備えて、旧南満州を想定した演習が必要であったと言う。日露戦争の2年前、気分は切迫していただろう。

弘前第八師団は明治の日本陸軍で最強軍団と言われていた。太宰の『津軽』では、大坂夏の陣以降330年の間に約60回の凶作を経験している上で、それでも津軽不敗神話として、津軽は殴られても負けることはないとしている。そして『第八師団は国宝だって言われているじゃないか』と言わせている。この自負が雪中行軍悲劇を生んだのか?

(2)十和田へ
雪は物凄い勢いで降り始めた。これは凄い。風が雪をバスの窓に叩き付ける。のんびり雪景色を眺める雰囲気ではなくなった。しかし何で私はここにいるのであろうか??昨日の朝は全く予想していない風景が目の前にある。

1時間以上乗っただろうか。突然大きな建物が目に入る。酸ヶ湯温泉、と書かれている。ガイドブックで見ると総ヒバ造りの千人風呂で有名と言う。何だか楽しそうだ。酸ヶ湯と言う名前から分かるとおり、強い酸性の湯だそうだ。かなり寒さを感じていたので、入ってみたくなる。突然2人の女性が『お世話様』と言ってバスを降りた。彼女達はここが目的地だったのだ。私は十和田の宿も予約しているし、何よりバスの運転手のことを考えてしまった。もし私が降りてしまったら、彼はどうするのだろうか??勿論運転して十和田湖に行くだけなのだが、この雪の中彼を残していけない気分になる??

結局バスは私一人を乗せて出発してしまう。かなり寂しい。その後更に奥深く入っていく。400年の歴史を持つと言われる谷地温泉、大町桂月が晩年を過ごした蔦温泉などを通って行く。とうとう運転手が話し掛けて来る。『どこに行くの?』確かにそうだろう。こんな時期に男一人で観光もないだろう。

奥入瀬に入る。『テープ流すから』と言うと奥入瀬の解説テープが流れ始める。たった一人の乗客の為にテープが流れている。何だか可笑しくて笑ってしまいそうになる。しかし同時にこの物悲しい状況は冬の東北の寂しさを強く印象付ける。奥入瀬には本当に自然が残っていた。雪が止み川に雪が流されていく。深い木立が歴史を感じさせる。綺麗に自然が流れていく。静かである。午後4時頃であるが、薄暗いその景色が幻想的にさえ、見える。もし夏に来れば爽やかな所であろう。是非歩いて見たい。次回は夏休みの家族旅行で来たいと思ったが、その後実現していない。

(3)十和田の宿
とうとう十和田にやって来た。このバスの旅は凄く長く感じられた。3時間弱、時刻は5時、あたりは真っ暗になっていた。バスは十和田湖畔のバス停に着くはずであるが、私が予約した宿がどこにあるか全く分からない。その時運転手が『お客さん、宿どこ??』と聞いてきた。『十和田湖山荘』(湖なのに山荘とはへんであるが??)と答えるとそのまま路線を外れてその宿の前にバスを着けてくれた。そして中に向かって『お客さんだよー』と叫んでそのまま行ってしまった。あっけない別れであった。

中から奥さんが出て来た。背中に赤ちゃんを背負った若奥さんだ。何となく訝しそうに私を見て『予約した人??』と聞いた。その後愛想笑を浮かべて『寒かったでしょう』と言う。確かにこんな日に一人でやって来た私は変人にしか見えなかったかもしれない。ここは本当に地元の宿である。昨日とは雲泥の差がある。2階の6畳間に案内される。薄暗い電気が揺らめく部屋に石油ストーブが置かれている。子供の頃の自分の家を思い出す。田舎のおじいちゃんの家にでも行った気分である。

下に降りてバスのことを聞く。明日ここからどこへ行くか?これはかなり問題である。こんな寒い、雪が降る場所にウロウロすることはできない。思い出したのが『大湯のストーンサークル』。歴史好きとしては、一度は行ってみたい場所であるが、ここからどうやっていくか分からない。若奥さんに聞くが、『ストーンサークル』自体を知らない。仕方なくおばあちゃんに聞く。車でしか行ったことがなく、バスがあるかどうかも分からないと言う。何より重要なことは十和田湖から出るバスはもう無いのではないかという事。え、閉じ込められた??その時の私の心境はまさに冬の十和田湖に取り残された哀れな旅人であった。

夕飯に呼ばれる。1階の広間にはどうやらこの寒空に土木作業をしてきた人々がどんぶり飯をかき込んでいた。そうか、この宿は建設作業員などを泊める宿で観光客が来る所ではなかったのだ。それで若奥さんも訝しげだし、バスの便など誰も知らないのである。夕食は非常に家庭的でボリューム重視。本当に田舎に帰った気分になる。風呂も自分で汲んで沸かすらしい。何だか面倒になって、何もすることなく、寝てしまった。布団の中が一番暖かい、そう昔子供の頃に感じていたあの懐かしい感触がそこにあった。

11月19日
(4)十和田脱出
翌朝6時前に起きた。前日と異なり、天気が良さそうだった。普通の旅行ならちょっと寒い凛とした朝に十和田湖の周りを散歩する自分を想像するだろう。しかし事態は私にとってフェーバーではなかった。前日おばあちゃんが何とか探し出したバスの時刻表では、朝8時半のバスが1本あるのみ。

歩いて10分ほどで十和田湖畔に出る。バス停を探す。朝7時であるが、幸い出勤してきた運転手がいた。聞くと何と『よかったねえ、今日が今年最後の運行だよ。明日からはバスないからねえ。8時半にここに来て』と言われる。私の旅は何と無謀であったことか。何も調べていないでここへ来てしまった。しかし運良く最後の一日に間に合った。もし昨日酸ヶ湯温泉で下車して、今日バスでここへ来たら、誰かの車に乗せてもらう以外脱出の方法はなかったのである。

朝飯も納豆に味噌汁。決して贅沢ではないが、幸せな朝となる。おばあちゃんも『よかったねえ』と言ってくれた。天気が良くなる。気分も良くなる。早めに宿を出て、湖畔を散歩する余裕が出ていた。ここが広い十和田湖の中で休屋と呼ばれる地域であることが分かる。湖岸には立派なホテルが連なっている。歩いていくと乙女の像がある。十和田湖にシンボル、高村光太郎の作品である。坂上田村麻呂が建立したと言われる十和田神社もある。明治以降は日本武尊を祭っている。静かな朝に古びた神社、風情がある。

穏やかな湖面を眺める。気持ちが落ち着く。昨日が驚くほど変化に飛んだ一日であったことが分かる。毎日朝このように穏やかな時間を過ごせば、人生は充実したものになっているのではないだろうか??非常に短い滞在であったが、十和田湖の印象は強い。

4.大湯
(1)大湯へ
バス停に戻る。バスはまだ来ていない。切符を買う時もう一度確認する。何しろ間違えれば行き先を失う。バスの運転手は『大丈夫。送って行ってあげる』と言ってくれる??何人かの老人がバス停に現れ、バスに乗り込む。定刻になっても運転手と職員は誰か来ないか2-3度確認している。それもそうだろう、このバスが秋田方面への今年最後のバスなのだから。

バスがゆっくり動き出す。残念ながら大湯へはこのバスではいけない。25分行った所でバスを乗り換える。銚子の滝、または中滝であったろうか?運転手は私に合図を送り、更にそこに待っていた職員に私のことを告げてくれた。何と親切なことか。別のバスが直ぐにやって来た。田舎では信じられないほどの連携である。そして数十分、稲刈りの終わった田んぼの中を走っていく。丘のような山がいくつかあった気がする。一番前に座っている私に突然今度の運転手が『着きましたよ』と言う。そこは建物が1つあるだけの田んぼの真ん中。ここなのだろうか??

降りると直ぐにバス亭の時刻表を見る。次のバスは3時間後である。一体ここでどうやって過ごすのか?幸いなのはそんなに寒くないことぐらいか。見渡したが何も発見できない。ここから少し離れた場所になる可能性もある。しかし聞くことが出来る分けがない。どうする??

(2)ストーンサークル
仕方なく、道の反対側に行ってみると、そこに無造作にストーンサークルが円を描いていた。昭和7年に発見された日本でも最大級のストーンサークル(環状列石)。その神秘性が話題となっていたが、何の為に何時作られたのか分かっていない。真ん中に石柱がある。周りに幾つもの石が円形に置かれている。ただそれだけである。

本格的な発掘は昭和26年。中野堂、万座の2つが発掘された。中野堂は40m、万座は50mにも及ぶ円形の石組みであることが確認される。一般的には巨大な墳墓であるとの説が有力である。しかし何故このような大型の墳墓が存在するのか?何らかの集落があったと見るべきではないのか??住居跡も同時に発見されている。

8000年前の火山灰に覆われていたこの遺跡は、『十和田文化圏』を形成していたとも言われている。古代文明、東北は古代日本の中心であったという説は青森の三内丸山遺跡を見ても信憑性が出てきている。因みに十和田湖の東側に戸来村がある。ここにはキリストの墓があると言われている。戸来はヘブライのことだそうだ。ちょっと聞くと眉唾物であるが、様々な証拠も出てきている。

最近では縄文後期の発掘物は後世人為的に埋められたものとの説も出ている。一説では2万年前の遺跡??縄文より前の人々が暮らしていたのであろうか??作家高橋克彦はこのストーンサークルを『宇宙人の基地ではないか?』として小説に書いている。高橋氏の説にはいつも驚かされるが、決して荒唐無稽な話とも言い切れない。ストーンサークルを見ていると確かに不思議な形をしている。真ん中の石柱から宇宙への交信が行われているとも見える。宇宙からUFOがやって来る時の目印であったかもしれない??何だか考えているだけで楽しい。

しかし1時間もジッと眺めていれば流石に飽きてくる。それに天気が良いといってもそれなりに寒い。11月下旬の東北北部である。横に資料館があるので中へ入る。発掘された大湯式彩色土器や玉石などが展示されている。発掘の歴史なども書かれているが30分もあれば全部見られる。タクシーを呼ぶための電話番号も表示されているが、外へ出る。私の旅は公共交通機関の旅である。

バス停で時刻表を見る。先程も見たのだから、時間は分かっているのに見る。後1時間バスは来ない。周りは冬の田んぼである。遠くを見ると山が見える。その山の形がなかなかいい。黒又山、標高280mのこの山をピラミッドに見立てている人もいる。確かに形が三角形に見える。山頂から稜線を見てみると正確な四角推だという話もある。

日本各地にある山そのものがご神体ということであろうか。東北には十和利山、戸来岳、早池峰山など形が三角形なだけでなく、霊山として信仰の対象となっている山が幾つもある。麓付近では縄文式土器が出土するという特徴もある。遥かに山を眺める。疲れたのでバス停の横に座り込む。気持ちが良い。しかし周囲から見ればかなり可哀想な人間に見えたのではないだろうか?

(3)盛岡へ
この道は滅多に車が通らない。静かな空間がそこにある。古代にロマンを馳せる。すると小型車が一台通り過ぎた。と、何故かバックしてきた。運転していた男性が顔を出し、『乗っていきませんか?』と言う。ちょっとビックリしたが、これから1時間待つことを思えばご好意に甘えることにする。(今なら良からぬことを考えて断ってしまったかもしれない??)車に乗ると男性が『我が町の遺跡を見に来てくれて有難うございます』と言ってくれる。これにはビックリ。車に乗せてもらったのはこちらである。お礼を言われる覚えはない。

話をしてみると彼は40代、歴史に非常に興味を持っており、ストーンサークルを誇りに思っていた。これは素晴らしいことである。郷土の歴史に興味を示さない、またはその歴史は大したことがないと思い込む人々が多い。しかし実は身近な歴史が大切なのである。ましてや4000年前のストーンサークルなのである。当然だと彼も言う。話はどんどん歴史の深みに入る。盛岡に住む高橋克彦氏の名前が出る。彼は高橋氏を囲む会??に参加しているようで、高橋家の庭に小型のストーンサークルが再現されているとの話も出る。興味深い。ストーンサークルは本当に凄い遺跡なのではないか?そう思えてくる。

彼に聞いてみる。『わたしはどこへ行ったらいいですか?』と。すかさず『東北の歴史は平泉です。大河ドラマでもやったでしょう。』と言う。そうだ、平泉へ行こう??結局鹿角花輪という名の駅まで送ってもらう。『ここから盛岡までバスで行くのが速いですよ』とのこと。わざわざ近くの駅ではなく、バスが出る所まで連れて来てくれたのである。本当に感謝感激。

しかし貴重な体験をさせてもらった。日本でこのような経験が出来るとは。本当に楽しい時間を過ごした。海外では地元の人々に親切にしてもらい、非常に良い思い出を作らせて貰って来た。まだまだ日本も奥が深いのである。

みちのく一人旅1997(2)驚きの三内丸山遺跡

11月18日
2.青森 (1)三内丸山遺跡
昨夜は暖かい布団でよく眠れた。朝起きると雪も止んでいた。仲居さんが朝食を運んできてくれた。典型的な旅館の朝食で嬉しい。特に汁が美味い。結局浅虫では何もしなかった。どこにも行かず、散歩もせずに9時には旅館を出てバンで駅に送ってもらう。

ローカル線で30分、青森駅に着く。何も分からないので遺跡に行く交通手段を探す。バスがあったので乗り込むと直ぐに発車する。何の情報もなく突き進む。30分以上乗っていたであろうか?少し高くなった場所にバス停があり、遺跡があることが分かる。何故なら復元された楼閣が見えたから。

入場料もなく、いきなり遺跡内へ。広い敷地に展示館が見え、真ん中に楼閣がある。所々に遺跡らしく穴が開いていたり、修復している場所があったりする。既に寒いので今年の作業は終了しているのかもしれない。

この遺跡は実は江戸時代には既にその存在を知られていた。近年有名になった江戸の放浪家?または民族学者の草分け菅江真澄の遊覧記にも以下の記述がある。『この辺りで有名な三内のさくらを見ようと・・・。縄形、布形の古い瓦(縄文土器)、あるいはかめのこわれたような形をしたものを発掘したという。』見学してもあまり深い内容は分からない。帰宅後調べた内容は以下の通り、驚くべき遺跡であった。

ここには5500-4000年ほど前に500人ぐらいが暮らす大集落があったという。世紀の大発見である。しかも狩猟が中心といわれてきた縄文時代にヒョウタン・ゴボウ・エゴマなどの植物を栽培していたことが判明している。又新潟のヒスイ、北海道の黒曜石、秋田のアスファルト、岩手のコハクなどが出土している。かなり広い範囲との交易があったと思われる。当時この台地の北側は海であった。ここから船を使ってかなり遠くまで行っていたと思われる。

6つの柱穴の跡も発見されている。現在は三層建ての櫓が復元されており、この遺跡のシンボルとなっている。これは何に使われていたのだろうか?船のための灯台だろうか?敵の襲来に備える物見櫓であろうか?または何らかの宗教的な建物であろうか?

子供の墓が多数発見されているのも興味深い。これらの墓は集落のはずれにあり、大人の墓よりかなり人の住まいに近い。これは子供を思う親の気持ちなのだろうか?そうだとすればはるか昔の縄文人が非常に身近な存在に見えてくる。

縄文時代は氷河期の後で気温が現在よりかなり高かったといわれている。魚も豊富に取れたらしい。ここが日本の中心であってもおかしくは無い。作物・魚が取れて、交通も便利ということであれば、大集落が出来る条件は整っている。トイレがあり、ゴミ捨て場もあったらしい。農作物の栽培も行われ、漁業も盛ん、交易まで行われていれば、これは当時の最先端であろう。4000年前ここは実に快適な生活の場所であったはずだ。

ではこの集落は何時衰退してしまったのか?3500年ぐらい前ではないかとの説がある。原因は気温の低下。更には大地震が来たという可能性もあるようだ。現在は地球温暖化の時代である。大地震や日本沈没などが起こらなければ、再び東北が日本の中心になる可能性もある。勿論100年やそこらでは難しいだろうが。

見学を終わる。1時間ほどいただろうか?バス停に戻りバスを待つ。熟年女性3人がお喋りしながら待っている。この遺跡を見て、何と考えたらよいのか、何と表現したら良いのか、頭の中が混乱していた。今まで歴史の時間に習ってきたことが全て否定されてしまった気分だ。何故東北のしかも北の外れにこんな凄い文明があったのか?こんな高度な生活空間が存在したのか?

バスが来た。乗り込むと後ろの席に座った老人が話し掛けてきた。聞けば遺跡のボランティアガイドだそうだ。そんな人がいることすら知らなかった。この人に話を聞けばもっともっと判ったことがあっただろう。

(2)南部の老人
老人は『ガイドしてあげればよかった』と残念そうに言ってくれた。私が歴史好きだと分かると色々と話し始めた。しかしバスは青森駅に戻ってしまう。老人が青森県立郷土館に行こうと誘ってくれた。付いて行く。15分ほど歩いた。老人から貴重ないくつもの話を聞いた。

戦争中の青森にはあまり被害はなかったと思っていたが、そうではなかった。老人が中学生だった昭和20年7月28日、終戦の僅か20日前に大空襲が青森を襲う。市内は業火に包まれ、亡くなった人の数も不明。それは凄い空襲だったそうだ。翌朝眺めた八甲田山が目に焼きついていると言う。因みに寺山修二が母親と一緒に焼け出されたのがこの空襲であると後で知る。

老人は言う。この空襲は函館を攻撃する米軍が『行きがけの駄賃』のように仕掛けた空襲であり、必要なものではなかったと。そんなことで犠牲になった青森は本当に運が悪い。どうせ取り残されているならそのままにしていてくれればいいのに。新幹線も盛岡まで来ても青森には来ない。

木村守男知事の県政への批判も出る。新幹線が来ても県民の暮らしにはプラスは少ない。かえって税負担が重くなり、物価も上がると言われている。知事は独裁者である。何でも自分で決めてしまう。県民のことなど考えていない、と。(2003年木村知事は3選を果たすもののセクハラ疑惑で辞任した。但し長男は衆議院議員)老人は南部の出であるらしい。木村知事は津軽の人。青森という所は歴史的に非常に複雑である。明治初期新設された青森県は西半分が旧津軽、東半分が旧南部、更に下北半島の集合体。それぞれ歴史も習慣も違っている。県庁は津軽と南部のほぼ中間の青森市に置かれた。

南部は鎌倉時代に甲斐の南部三郎光行の奥州征伐に始まる。一方津軽は戦国末期、津軽為信が出て南部から分かれる。高橋克彦の『天を衝く』によれば、南部家は常に家内が割れており、纏め切れない内に秀吉の天下となる。九戸政実という稀代の武将が秀吉に楯突くが、それも一部地域の争いに終わる。小説では津軽為信は南部の生まれで、政実の知略を借りて石川城を奇襲し、津軽を打ち立てる。

明治維新から130年、戦後50年が過ぎたが、今だに一つになっていない青森の凄みを感じさせられた。そしてそれを物語として読むのではなく、老人から生の声として聞けたことは旅に出た一つの成果であっただろう。

(3)郷土館
郷土館の前に来ると老人は『元気で』と言って行ってしまった。もっと聞きたいことが沢山あったのに。残念であるが仕方がない。家族があるのであろうか?嫁さんが昼ご飯の用意をして待っていれば良いのだが??

郷土館、ここに来る予定は全くなかったので適当に見ようと思う。縄文晩期の遮光器土偶、サングラスを掛けているように見えることからこの名前が付いている。何とも不思議な形である。乳房があるので女性であろう。

作家高橋克彦氏はこの土偶を見て、古代日本には宇宙人がいた、と言っている。確かに言われて見れば、我々がイメージしている宇宙人の形に近いと言える。本当に宇宙人はいるのだろうか??いるとすれば古代栄えた青森にいたとしてもおかしくはない。

亀ヶ岡式土器も丸みを帯びてなかなか良い形をした縄文晩期の土器である。青森付近の文化の高さが分かる。どうしてこのような高度な文明を持った地域がその後中心から外れていったのか??

世界遺産に登録された白神山地の原生林も再現されている。ブナの天然林、4千年前、この付近には豊かな自然と恵みがあったのであろう。偉大なる東北文化をもう少し勉強してみよう。

(4)青森港
郷土館を出る。バスの出発まで少し時間があるので、時間を潰すために青森港を見に行く。昔は青函連絡船があったが、今はもうない。1988年3月に青函トンネルが開通し、連絡船は使命を終える。

本州と北海道の間は時間的にはかなり短くなってきている。精神的にも近くなってきているのであろうか??港を見てみると青森ベイブリッジがあり、青森のAを象ったアスパム(観光物産館)などがある。地上15階、高さ76mの正三角形のビル。近代化されているが、曇り空の寒い日の午後のこと、人通りも全くなく寂しい。

太宰治は小さい頃、弟と一緒にこの港の桟橋で遊んだようだ。この弟は幼くして亡くなったようで、その思い出を哀愁を込めて語っている。青森の港は寛永年間に外が浜に奉行が設置され、北海道をはじめ日本海岸各地と盛んに交易が行われていた。太宰が見た港も活況を呈していたようだ。今は只寂しい。

みちのく一人旅1997(1)遅れた新幹線と棟方志功

〈みちのく一人旅〉 1997年11月17-20日

1996年4月、7年ぶりに日本に戻った。これまでアジア各地を歩いてみたが、日本に戻ったからには日本を旅しようと思った。古来日本人はふらっと旅に出ることがよくあったと書かれた本を読んでいた。私もふらっと、計画のない旅に出よう。初めての旅はやはり東北であろう。何故か東北??

11月17日
1. 出発 (1)トラブル
それは突然だった。11月に入り、休みが取れそうだと分かり、直ぐに決断した。部長に言うと『皆同じ時に休もうとするので困るんだ、お前は偉い』なんて褒められた??確か誰にも言わなかった。かみさんには4-5日留守にするとだけ告げた。

それでも流石に不安がある。前日取り敢えず新幹線の切符だけは買った。7時半の盛岡行き。当時東北新幹線は盛岡止まりであった。そこから先はその場で決めていこうと思った。それでも出来れば下北半島に1泊、津軽半島に1泊、青森に1泊程度は考えていた。

当日の朝、通常の出勤とほぼ同じ時間に家を出た。私服であることが何となく恥ずかしい。東京駅までいつもと同じように来る。ところが新幹線のホームに行くと何かがおかしい。予約した列車が来ていない。どうしたんだ??駅員に聞くと『隣の列車が一番早いから乗って。座席はどこでもいいから』と言われてしまう。乗り込んで座っていたが、7時半になっても出発しない。いつもならイライラする私であるが、今回は計画がないのであるから急ぐ必要もない。しかし乗っている人も多くはない。どうなっているか??

ようやくアナウンスがある。『電気系統の故障です。全線復旧の目処は立っていません。もう直ぐ1本だけ発車させますが、いつ到着するかは分かりません。ご了承下さい』と。え、え、しかし今更旅行を止める気もない。どこか他の所へ行こうかと考え始めた時、私の乗った列車が動き出した。初めての一人旅は波乱の幕開けである。

(2)新幹線内
私が予約したのは一番早く盛岡に着くやまびこであったが、出発した列車は全くの各駅停車となっていた。大宮、小山、宇都宮あたりまでは山の手線並みのスピード。乗っていたサラリーマンは出張先に携帯電話で何度も謝りを入れている。結婚式のために仙台に行く人も到着できそうにないことを伝えている。

列車は完全に数珠繋ぎになっているようだ。那須塩原、新白河、郡山、福島あたりは何とか通り過ぎた。しかし新幹線の駅もこんなに多いのかと勉強になった。そして新幹線が通っていく風景は本当に田舎なのだと実感できる。いつもであればさっと通り過ぎてしまい、二度と見ることが出来ない光景がゆっくり目の前を通り過ぎるのは一種の快感ですらあった。

しかしいくら予定のない私でも仙台まで4時間も掛かればそうも言っていられない。大半の乗客は既に降りてしまっている。仙台あたりには空港もないのか、皆我慢して乗っていた。古川、くりこま高原と来るともう尻が痛くなってきた。そして朝から良くなかった天気も段々悪くなり、曇りが濃くなる。一関に到着した時、『30分ほど停まります』という絶望的なアナウンスが響く。乗客の溜息が聞こえる。私達は何か悪いことでもしたのであろうか??数人がホームに下りる。これまでも駅毎にホームに下りて伸びをしてきたが、今回は数人が反対側のホームまで行く。そして駅弁を買ってきた。

私はこれまでの数時間、空腹ということを忘れていた。事の成り行きに神経を集中していたとも思えないが、昼飯を食べることを全く考えなかった。しかし人が買っていると自分も買いたくなる。時刻は1時を過ぎている。駅弁の数も少なくなっていた。冷えた弁当を食べて、前途を思うと悲しくなってきた。実は私は仙台まで来たことはあったがその先は未知の空間である。江刺水沢、北上などの地名を見ると東北に来た気分になる。そして何より窓の外に雨が降り、それが雪に変わりそうな気配を見て、11月の東北に来たことを後悔し始める。

新花巻を過ぎた時、既に乗車から6時間が過ぎていた。盛岡まで3時間弱で行ける筈だったのに。そして時刻表を見て乗り継ごうかと思っていたと特急もどうなってしまったかわらない。どうしたもんだろうか??どうにでもなれ。かなり投げやりな気分になる。やはり全く初めての体験でパニクッていたのかもしれない。外が寒そうだったので、急に温泉に入りたくなる。丁度来た車掌さんに聞くと『浅虫温泉がいい』と言う。どこにあるのかと思って地図を見ると青森の近くである。しかしどこがいいか分からないから言われた通りしようと思う。盛岡に着くと特急青森行きが待っていた。

(3)浅虫温泉へ
盛岡駅で雪になる。こんな状況で宿も決めずに浅虫に行って、もし立ち往生したら死んでしまう、そんな気分になる。それ程寒い、気持ちも冷えている。ガイドブックを初めて開く。浅虫温泉の欄を見ると一番最後にひっそりと『椿館』という旅館が目に留まる。棟方志功が版画を彫った場所と書かれている。

かなり高級な旅館らしい。電話するとおかみさんと思われる女性が出る。部屋はあるという。私は一人旅であることを告げ、そして『出来るだけ安く泊まりたい』と思い切って伝える。アジア旅行では直ぐに値切る私であるが、日本国内でしかも高級旅館で値切ってよいものか全く分からなかった。おかみさんはちょっと驚いた様子であったが、『1万円で如何でしょうか??』と聞いてきた。高いのか安いのか良く分からなかったが、ガイドブックでは1万5千円からとなっていたので、了承する。

特急に乗り込む。新幹線より大分暗い感じ。そして乗客は殆どいない。そうなのだ、11月中旬の東北北部。必要のない人は出歩いたりはしない。車窓から見える景色も稲刈りもとっくに終わった丸裸の田んぼが目立つ。

しかし浅虫温泉と言う名前は変わっている。江戸の放浪家菅江真澄は1788年にここを訪れ、『温泉で麻を蒸したので麻蒸という。火を使う文字を嫌って浅虫と呼ぶ』としている。青森湾に面した海岸線は風光明媚だそうだ。

津軽出身の作家太宰治は名著『津軽』の中で、浅虫温泉に厳しいコメントを寄せている。『井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さな妙な高慢を感じて閉口』『故郷の温泉であるから思い切って悪口を言うのであるが、田舎のくせにどこかすれているような、妙な不安が感じられてならない』など。しかし太宰は故郷を愛していたと思う。かなり複雑なハニカミを表しながら。

3時間弱掛かったろうか?はっきり言ってフラフラになりながら駅に降り立つ。何だか夢敗れた青年が故郷に戻ってきた気分か??降りた乗客も殆どいない。小雪が舞い散っている。北の台地に立ったのである。小さな駅を出ると人が待っていた。昔テレビで見た温泉旅館の前掛けをして、椿館と書かれた幕を持った男性が『よくいらっしゃいました』と言って出迎えてくれた。確かに良く来たもんだ。

旅館のバンに乗る。2-3分で旅館に着いた。小さな町らしい。玄関にはねぶた祭りのねぶたのミニュチュアが飾られている。棟方志功の作品であろうか??玄関脇にも2階へ上がる階段にも版画が飾られている。迫力のある鯉が描かれている。これが棟方志功の作品??本物??あまり知識のない私は目を白黒。あまりにもさり気無く飾られている。

『もしトイレが部屋に付いていなくてもよければ7千円でいい』と言われる。この旅館が7千円。立派な畳の個室でしかも1泊2食付き。信じられない値段である。夜中のトイレが近いことと既に値切ってしまった後ろめたさから、1万円支払うことにする。

(4)椿館
椿館は浅虫最古の旅館である。しかし何時出来たのか分からない??江戸時代にはあったと思われる。浅虫温泉が発展を遂げるのは1891年に東北本線が開通してからだと言う。青森市から24km、夏泊半島の付け根。避暑に訪れる人、湯治に訪れる人、様々であった。

太宰治の母も湯治に来ていた。1924年頃中学生の太宰も受験勉強の為にこの地に滞在した。その時泊まっていた宿がこの椿館である。そしてしかし太宰の辛口コメント中では『旅館は必ずしも良いとは言えない』となっている。椿館のホームページでは『少しばかり、大人びて育った彼の目に浅虫は自分とどこか似た姿の温泉に映ったようで、だからこそ、あえて作品中では悪口めいた表現を用いておりまする』となっているのが面白い。

部屋は8畳はある和室。かなり品が良い。通常は3-4人で泊まるのであろうか??兎に角体が冷えていたので直ぐに風呂に行く。午後5時半頃であったろうか??内風呂は照明を落として落ち着いた空間となっている。外は暗くなっていたが、雪がちらついている。手足を伸ばして温泉に浸かる。徐々に暖かさを感じる。極楽である。今日一日は長かったが、最後に幸せを掴んだ。

一枚ガラスの外に露天風呂があった。ドアを開けると冷気が吹き込んできた。しかしここまで来たら外へ出るしかない。こじんまりした岩風呂である。急いで湯に浸かると暖かい。体中に沁み込む暖かさがある。雪の中で露天風呂に入るのは初めてであるが、こんなに気持ちの良いものだとは知らなかった。癖になりそうである。

ふと横を見ると『明治9年に明治天皇が東北巡行の折ここを訪れ温泉に浸かった』とある。本当に由緒ある旅館に泊まったことが分かる。しかしそこへ子供が入ってきた。どうやら地元の子供達である。知り合いか何かではないか?大人も付いている。銭湯感覚でこんな由緒ある温泉に入れることは実に羨ましい。

夕食は仲居さんが部屋に運んでくる。私だけの為。料理はよく覚えていないが、暖かい汁が付いていて美味しかった記憶がある。仲居さんは珍しそうに私を見ながら少し話していく。確かにこんな雪の日に一人でいきなりやってきた私はかなり怪しい人間である。探りを入れていたかもしれない。そんなこともお構いなく『明日どこへ行ったらいいでしょうね??』などと聴く私は益々怪しい。『青森に行って三内丸山遺跡でも見たら?』と言われたのでそうしようと思う。本当に私は明日の計画を持っていなかった。今日の新幹線騒動で頭にあった全てが飛んでしまっていた。尚新幹線の混乱はその日一日続いており、東北新幹線開業以来最悪の事態になっていると言う。電気系統の故障があると文明国家日本も形無しである。

(5)棟方志功
日本を代表する版画家、棟方志功は1903年青森市の善知鳥神社のある善知鳥村に生まれた。善知鳥は外が浜に住む伝説の鳥の名である。室町時代には既に京で能として作られていたが、志功は知らなかったようである。小さい頃から独創的な絵を描いていたが、周囲からは全く理解されなかったという。21歳で東京に出て、独学し、25歳で帝展に入選。その後柳宗義、陶芸家浜田庄司などの知遇を得る。

椿館については、そこを仕事場にしていたこともあったようで、昭和17年に書かれた『板散華』に中に次のようにある。『私のいる椿の湯宿に立派な庭がある。盛岡の庭師を引き具して、今の若い主人の蝦名氏の祖父が、精魂いれて造り上げたものだと聞いた。現在も先代の未亡人が一本一本の草を育て、そのように要らぬ雑草を摘んでいるのだ。ここの湯名になったという大椿が離れて二株ある。一株は先年の冬、暴風雪に枝を取られて形をこわしたのは残念だが、布石の至妙はこの庭に名をなさしているのだ。明治天子様の御野立ちの場所は清浄され、柵されて、洩れる床しさを、外から拝しての朝夕を、勿体なく、畏し普く、合唱している。この由緒の庭にいろいろの鳥が来て囀る。鶯も夏には来るというし、私は鳥の名は知らぬが、スッピッチョン、スッピッチョンと鳴く毎朝同じ時刻障子そばに来る鳥と馴染んで仕舞った。丁度夏で、蝉が時雨のように日中騒いでいるし、夜はまた虫の音がとりどりだ。今も鳴いている。私は椿の湯宿が好きだ。今の主人は若く、明るい人だ。椎茸の栽培に腐心しているというので、そのことの談義にはいつも顔が輝く。家前の一と山、所謂馬場山づたいの自分の持ち山には、椎茸林がどこまでもつづいている。それからもう一つこの由緒の湯宿に勝れた厚板一枚の看板がある。実に立派な字だ。書き手は不明なそうだが、厳かな内に開きを見せた正しい楷書で、実際見事に椿旅館と三字、謹厳に書いている』

また『板極道』では東急の五島慶太氏の知遇を得る過程を書いている。副社長の高橋氏が青森市長と面談した際、棟方の版画を見せられて驚き、版画を求めようとすると『浅虫温泉の椿館にあるというので直接出向き、3点の所蔵品を見たが買い取ることは出来なかった』とある。

現在椿館には棟方志功展示場が設けられているが、そこにある版画が所蔵品であったのだろうか?尚志功の墓は青森市の三内霊園にある。この霊園は造成中に遺物が出てきたと言う。司馬遼太郎は『街道をゆくー北のまほろば』の中で『棟方志功はその縄文遺跡の中で眠っている』と書いている。